小林よしのり 天皇論追撃篇批判3
1 易姓革命の認識について
小林よしのり『天皇論』小学館2009年の歴史認識でひとつ疑問に思ったのは、281頁(小林から引用-赤)
「皇帝が自ら徳を失ったことを悟り、位を譲ることを「禅譲」というが、事実上その事例は伝説の時代しか存在しない。 新たな徳を備え、天命を受けたとする一族が、徳を失った現在の皇帝を武力で追放し、新たな王朝を建てるというのがほとんどであり、これを「放伐」といった。 シナ史はこれを繰り返していく。」 (小林から引用-赤)という中国史の説明である。
「禅譲」が伝説の堯から舜へ、舜から禹への例に限られるわけではない。現実にも禅譲形式をとる易姓革命の例は多いので、小林よしのりの歴史認識は偏っている。
『世界歴史体系中国史2-三国~唐-』山川出版社1996年窪添慶文「補説2禅譲」19頁によると「禅譲」は前漢末の王莽を嚆矢として、五代後周の恭帝と宋の太祖趙匡胤の例まで14の実例(ただし王莽の場合は前皇帝からの禅譲ではなく、高祖の神霊からの伝授であり、禅譲を受けてまもなく敗死した桓玄を含めると15例)があるという。
前漢から新、後漢から魏、魏から西晋、東晋から宋、宋から斉、斉から梁、梁から陳、西魏から北周、北周から隋、隋から唐、唐から梁といった例であるが、基本的モデルは周到な手順を踏んで実現した漢の献帝から魏の曹丕への禅譲で、これが「魏武輔漢の故事」という先例となり、以後、これを手順として王朝交替を正当化した。
動画人形劇-曹丕に帝位を禅譲すhttp://www.youtube.com/watch?v=wxCKXOegnPM動画東アジア歴史地図http://www.youtube.com/watch?v=xwYq_27E5Gs
実際には力による政権の奪取であっても、無私の君主の自発的意志による政権委譲という形式をととのえて禅譲されるのである。漢魏革命においても準備段階では抵抗勢力を排除するなどしたが、禅譲の段階では流血はなく献帝は余命をまっとうした。しかし晋の恭帝などは譲位後殺されており、南北朝時代は流血の例も少なくない。
とはいえ禅譲形式が15例もある以上、王朝交替の基本的な在り方は、「魏武輔漢の故事」にもとづく禅譲であって、無道な暴君や暗君を討伐する放伐を主流とするとする見方「皇帝を武力で追放し、新たな王朝を建てるというのがほとんど」 と言う小林の見解は誇張していると思う。
2 小堀桂一郎批判について
『正論』12月号の小堀桂一郎が「共感と違和感と」も私も読んだが小林よしのり『天皇論』批評は概ね適切と考える。「女系天皇の出現が即ち無血革命の仮面をつけた易姓革命を意味する」と述べたのは基本的に正しい。「女系天皇」というがそれは簒奪王朝であるから天皇という君主号を称するに値しないとも考える。
小林よしのりは、次のように小堀桂一郎を批判する。
「わしは田中卓と新田均氏の議論も読んだし、小堀氏が紹介している論文はもちろん、皇族に関する本はすべて入手した」と豪語したうえで
「全部読んで見当〔検討?〕してみたところ、有識者会議を経て出された改正案「直系長子優先」で問題ない、という結論に達した‥‥‥‥小堀氏に言っておかなければならない。将来、女性天皇が結婚することとなれば、男(皇婿)は戸籍が消滅し「姓」がなくなるのだから、「易姓革命」など起こるわけがないではないか! 誰が誰を放伐すると言うのか? そもそも「苗字」は姓ではないし小堀氏は「易姓革命」の意味すら全然わかっていないのではないか。」と一読して理解しがたいことを言っている。
(中国における「姓」概念)
小林よしのりが皇婿の「姓」はなくなるから易姓にはならないという見解が奇妙である。そこで中国における「姓」の定義を検討してみる。官文娜(国際日本文化研究センター共同研究員・武漢大学客員教授)が比較的厳密な説明を行っている。
「中国において宗族は父系単系出自集団であり、宗姓は父系単系から伝承していく‥‥ゆえに姓は父系単系出自集団のしるしである。本来、血統そのものは内在的であって、外部からは観察できないが、宗姓はあたかもそれを外在化させて、血縁関係を観察・識別させるようにさせた」(註1)
「中国の「姓」は中国宗族構造に応ずるものであり、父子・男性一系の宗族集団の標識である。「姓」とは、もともと内在的で観察できない血縁関係を外在化し、ある父系宗族集団とほかの父系宗族集団を区別するものである」(註2)
「姓」とは父系単系出自の標識と認識できる。
文化人類学的には「出自とは集団の構成員資格に対する系譜的基準であり‥‥系譜の辿り方は単系でなければならず、出自集団の構成員資格に単系的な系譜基準のみが出自を構成するものである」(註3)
とすれば本来の「姓」概念はその人の社会的地位の異動で変化する性質のものではないことがわかる。なぜならば「姓」とは生理学的血縁関係の識別の記号であるから。むろん宗族には同宗から養子を迎え入れることがあるわけだが、父祖が同一なので社会的地位の異動で姓は変化しない。そしてそれは、特定の身位に上昇することで消えるという性格のものではない。
宗法制において宗族がなぜ父系単系出自集団であり異姓不養になるかというと、春秋左氏伝に「神不歆非類、民不祀非族」とあるごとく、中国古代における祭祀なるものが、祖先以来「父系単系」の血を受ける子孫によって捧げられるのでなければ祖霊はこれを享受しないからである(註4)。儒教的祭祀が普及しなかった我が国ではこの意味がなかなかわかりにくいのである。宗法制度の理念型は異姓不養、正確にいうと異宗不養なのであるから、社会学的父と生物学的父が異なる場合においても父系出自で祖先は共通することになる。
(我が国における姓氏)
もちろんわが国における「姓氏」の成り立ちは中国とは異なる面が多分にある。大化改新以前の「姓」は、ほとんど天皇から各ウジの居住地と古い部の職名に基づいて賜ったものであるが、職掌や地位を継承した一族の代表のみに継承されたので、血縁集団としての姓氏制度ではなかった。
中国的な父系継承の「姓」が導入されたのは大化元年の男女の法「良民の男女に生まれた子は父に配ける」である。
良民の姓の父系継承という原則に基づいて天智天皇九年に全国的に戸籍が作成され、豪族はウジ名、カバネを姓とし、庶民は○○部、○○族という呼び名を姓として、すべての子に継承され、戸籍に記録された。天武天皇十三年ニ「八色姓」制定され旧来の臣・連の中から。皇室と関係の深いものを、真人・朝臣・宿禰として上位におき、その他を下位にとどめ、身分秩序の再編成を行った。また律令で「嫡子制」「養子法」を中国から継受し父系出自集団としての親族に再編する努力は行った。
改賜姓は天皇大権であり、功績に応じたり、天皇との関係の親疎によってとくに九世紀ごろまで多くの事例がみられる。例えば応神裔坂田朝臣は永河が弘仁14年に南淵朝臣を改賜姓される。菅原氏の場合は、土師連-土師宿禰-菅原宿禰-菅原朝臣と改賜姓された。続日本後紀の編纂者で貞観期に従三位参議式部大輔であった春澄善縄の父は従八位下周防国大目猪名部造豊雄であるが、善縄は文章博士都宿禰腹赤に能力を認められ天長5年文章得業生のころ春澄宿禰、さらに春澄朝臣に改賜姓された。このように天皇の改賜姓権能によって姓が政権との関係から政治的、随意的に変えられる性格を有しているといえる。しかし十世紀以降天皇の改賜姓権能は有名無実化していく。
十世紀以降においては姓氏は血族概念ではなくなったといわれている。(註5)
例えば局務家の清原真人は延暦十七年(798)にはじまる舎人親王裔系王氏の清原真人と系譜的につながるものではなく、その前身は海宿禰で、寛弘元年(1004)十二月、直講、外記等を歴任した海宿禰広澄が清原真人姓に改姓したものである。同様の例は多い。また十一世紀には諸道博士家で養子形式の門弟が違法に姓を継承したことが指摘されている。史や外記などの実務官人の姓は、十一世紀中葉を境とした時期に三善・中原・清原などの姓が増加する。これらは、それらの一族が血縁者を飛躍的に拡大させた結果ではなく官司請負制のもとで請負の主体となった博士家の姓を名のった官人が増加した現象だった。その実態は十一世紀中葉までと同じく地方豪族出身の有能な官人だったが違法であったが実務官人の能力を維持するために黙認された(註6)。
また中世以降、中小氏族が門閥の厚い壁ゆえ、系譜を仮冒して大族に結びつかんとしたために、姓氏は必ずしも父系出自集団を意味しない。官位を天皇から賜わるには朝臣として由緒のある特定の尊貴な姓氏を持っていることが前提条件であるが、武家領主たちは、自らの系譜を由緒づけ、京都の権門勢家に画策して官位を得んと努めた。
例えば家康は、三河の一土豪にすぎない松平氏を由緒づけるために、清和源氏の嫡流である上野国新田氏の支族得川氏の系図を借り受け、「徳川」に改姓し、それを前提にして、誓願寺の慶岳、吉田兼右、近衛前久らの仲介により「従五位下三河守源家康」宣下を得た(註7)。従って徳川氏が生理学的血縁関係で清和源氏に繋がるとはいえないというのが歴史家の常識である。
また家名・爵位はヨーロッパの貴族においても、女子相続人による継承、婿養子型の継承があるので、姓のように父系血族を意味しない。鎌倉時代以降の武家の家名(名字)は女系継承や非血縁継承があるので父系出自を意味しない。例えば室町幕府管領の畠山氏は、元々桓武平氏の秩父氏を祖としているが、畠山重忠が敗死すると、未亡人の北条時政女が足利義純と再婚して、義純の子が畠山の所領と名跡を継承したことから、畠山氏の血筋は平氏から源氏に切り替わっている(註8)。
また日本的家制度は室町・戦国時代に公家が嫡子単独相続となって成立したものと考えるが、婿養子や非血縁養子などがあるので、単系出自の同族ではありえない。
また我が国は江戸時代以前は、天皇の賜与認定による古代的姓氏と、院政期ごろから自然発生した名字(苗字)の姓氏の二元システムになっていた特徴もある。朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は本姓+実名、例えば常陸土浦藩主の場合「源寅直」、将軍の領知主印状の宛名は苗字+官職「土屋能登守」但し官職が侍従であったときのみ居城+官職「土浦侍従」になる。要するに天皇との君臣関係は公式的には王朝風の古代的姓氏(本姓)。将軍との君臣関係は名字(苗字)であった(註9)。
近世についていえば古代的姓氏、名字(家名)いずれも単系出自ではない。
ただし、我が国で一貫して単系出自の(同族)集団といえるのがが皇親である。
* *
わが国の姓氏が単系出自でないことを述べてきた。しかしながら、ここでは易姓革命の姓の意味を論じているのであるから、中国の宗法制における父系出自を区別する標識としての姓の概念、純粋な理念型で議論すればよいわけである。
つまり姓とは、家名・爵位・身分・地位・組織への帰属あるいは小林よしのりの言う戸籍といった外部から観察できるものに付随した称号ではなく、内在的な血縁関係を外在化したものを本来意味する。血縁関係の標識が姓である。今日民主党議員の一部が戸籍制度廃止を唱えている。私は強く反対だが、人為的制度である戸籍制度とて絶対のものではない。
戸籍が消滅するから姓が消えるというものではなく、人為的制度いかんにかかわらず、姓とはその人の自然血統の父系出自を区別する意味になる。従って小林よしのりの戸籍云々の議論は正しくない。
我が国においては大宝令に規定される「皇親」が天皇の親族の定称であった。中国の宗法制と日本の皇親の制は厳密にはかなり違う面がある。例えば継嗣令王娶親王条で皇親女子の内婚制が規定されているが、中国は外婚制である。
しかしながら、皇親の制における構成員資格(親王号、王号を称すると資格といってもよい)は平安時代以降親王宣下の制度により皇親の制度が変質した後においても父系単系出自(自然血統)であることは一貫している。后妃や親王妃は、出生の時点で「皇親」でなければ、婚姻によって新たに「皇親」身分を取得することはできない。
明治22年の皇室典範で、臣下出身の后妃も含めて「皇族」とされ、内親王、女王は臣下に嫁すと身位を失うため近現代においる「皇族」という語が令制の「皇親」のように父系単系出自集団を意味しなくなった。しかしそれは、三后、親王妃という身位ゆえ、たぶん嫡妻として婚姻家族的な意味での成員性により皇族とされているのであって、臣下出身の后妃は当然のことながら皇位継承資格を有さないことは、令制と同じである。
天皇、皇親に姓はないが、九世紀から数世紀にわたって王氏爵という巡爵の慣行があった。「王氏」は歴史家が例えば在原氏のような皇別賜姓氏族を指して用いることもあるが、この場合の対象者は親王を除いた諸王である。十世紀において推薦者は氏長者に相当する任式部卿など筆頭格親王であった。このケースでは、皇親も源平藤橘と同列の親族集団と把握されていることがわかる。よって姓がなくても姓の概念に近いのである。
そもそも、律令制は中国から導入したわけだが、天皇の制度も中国の皇帝制に倣ったシステムを構築したものである。ただ天皇は中国の皇帝ほど強く自らの意思に基づいて権力を行使し国家を統治することが比較的なかった。太政官との二極体制であるが、少なくとも単系出自で一貫して帝位が継承されている点においては、宗法を鉄則とする一姓の業としての中国の王朝と大きな差異はないように思える。
また近年、近世の天皇が強い皇統意識を有していう説が発表されている。例えば、後陽成は「自神武天皇百余代末孫周仁(かたひと)」「従神武天皇百数余代孫太上天皇」等の署名を多く残している。霊元は「従神武天皇百十三代孫識仁(さとひと)」、桜町は「人皇百十六代昭仁(てるひと)」、光格は「神武百二十世(花押)」「神武百二十世兼仁(ともひと)合掌三礼」「百二十統兼仁三礼」等の署名を残している(註10)。
こうした署名について 山口和夫(東京大学史料編纂所准教授 )は「嫡出男子による一系相続はなかったが、一貫して神武天皇の皇孫を自称した。易姓革命を拒否する自意識・主張を共有・相伝した」と解釈している(註11)。神武天皇の皇孫とは父系単系であることは皇統譜により明白なことである。
中世から近世の移行期は王権の危機だった。信長の神格化構想、秀吉の東アジア征服指向にみられる天皇を超える権力構想、天海の天皇より東照大権現を優越させる仏教思想などである。光格が傍系から即位したため皇統意識が強いのはよくわかるが、後陽成の皇統意識の強さは危機感の現れと解釈できる。そして現代も女系容認論により危機である。
小林よしのりが明確に支持を表明した直系長子優先を受け容れ、たとえば、これはひとつの喩え、仮定にすぎませんが、仮に直系長子内親王の皇位継承予定者の皇婿を李王家から迎えるとする。 その場合、皇婿を父とするプリンスは、単系的な系譜基準に基づいていた皇孫にはあたらず、もはや神武天皇の皇孫とはいえないのだ。
皇婿が事実上、新王朝の太祖という立場になる。李氏の皇婿を父とするプリンスが即位することにより事実上、全州李氏の無血簒奪王朝となるのである。
一姓の業としての王朝は終焉するから、日本国の終焉である。イングランドは地名であるが日本は王朝名であるから、事実上の易姓革命により国号も改めなければならない。
そうした女系プリンスが神武天皇第百二十八代を称して問題なしとするのが女系容認論者だが、ではそのようなことを、後陽成や光格のように神武天皇皇孫を自署した天皇が認めるだろうかと問いたい。
例えばこれも仮定の話だが小泉進次郎とか妻夫木聡などのイケメンタレントを皇婿に迎える。あるいは女系宮家に入った場合はどうか。大衆は歓迎し皇室や女系宮家の人気は高まるだろう。しかしその場合、女帝もしくは女系宮家の女性当主を母とするプリンスは、神武天皇の皇孫とはいえない。主観的には悪意や簒奪する意思がないとしても、客観的には簒奪になる。
つづく
註
1 官文娜『日中親族構造の比較研究』思文閣出版2005年 119頁
2 官文娜 前掲書128頁
3 渡邊欣雄「出自」「出自集団」『文化人類学事典』弘文堂1987年 358頁
4 官文娜 前掲書 364頁
5 宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99 関連して宇根俊範「律令制下における賜姓についてー朝臣賜姓ー」『史学研究』(広島大)147 1980
6 曽根良成「官司請負下の実務官人と家業の継承」『古代文化』37-12、1985
7 大藤修『近世農民と家・村・国家-生活史・社会史の視点から-』吉川弘文館1996 169頁以下
8 明石一紀「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下
9 大藤修 前掲書 172頁
10 藤田覚 「近世王権論と天皇」、山口和夫「近世の朝廷・幕府体制と天皇・院・摂家」大津透編『王権を考える-前近代日本の天皇と権力』山川出版社2006年
11 山口和夫 前掲論文
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