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2009年11月の28件の記事

2009/11/29

小林よしのり 天皇論追撃篇批判3

1 易姓革命の認識について

 小林よしのり『天皇論』小学館2009年の歴史認識でひとつ疑問に思ったのは、281頁(小林から引用-赤)

「皇帝が自ら徳を失ったことを悟り、位を譲ることを「禅譲」というが、事実上その事例は伝説の時代しか存在しない。 新たな徳を備え、天命を受けたとする一族が、徳を失った現在の皇帝を武力で追放し、新たな王朝を建てるというのがほとんどであり、これを「放伐」といった。 シナ史はこれを繰り返していく。」 小林から引用-赤)という中国史の説明である。

 「禅譲」が伝説の堯から舜へ、舜から禹への例に限られるわけではない。現実にも禅譲形式をとる易姓革命の例は多いので、小林よしのりの歴史認識は偏っている。
 『世界歴史体系中国史2-三国~唐-』山川出版社1996年窪添慶文「補説2禅譲」19頁によると「禅譲」は前漢末の王莽を嚆矢として、五代後周の恭帝と宋の太祖趙匡胤の例まで14の実例(ただし王莽の場合は前皇帝からの禅譲ではなく、高祖の神霊からの伝授であり、禅譲を受けてまもなく敗死した桓玄を含めると15例)があるという。
 前漢から新、後漢から魏、魏から西晋、東晋から宋、宋から斉、斉から梁、梁から陳、西魏から北周、北周から隋、隋から唐、唐から梁といった例であるが、基本的モデルは周到な手順を踏んで実現した漢の献帝から魏の曹丕への禅譲で、これが「魏武輔漢の故事」という先例となり、以後、これを手順として王朝交替を正当化した。

動画人形劇-曹丕に帝位を禅譲すhttp://www.youtube.com/watch?v=wxCKXOegnPM動画東アジア歴史地図http://www.youtube.com/watch?v=xwYq_27E5Gs

 実際には力による政権の奪取であっても、無私の君主の自発的意志による政権委譲という形式をととのえて禅譲されるのである。漢魏革命においても準備段階では抵抗勢力を排除するなどしたが、禅譲の段階では流血はなく献帝は余命をまっとうした。しかし晋の恭帝などは譲位後殺されており、南北朝時代は流血の例も少なくない。
 とはいえ禅譲形式が15例もある以上、王朝交替の基本的な在り方は、「魏武輔漢の故事」にもとづく禅譲であって、無道な暴君や暗君を討伐する放伐を主流とするとする見方「皇帝を武力で追放し、新たな王朝を建てるというのがほとんど」 と言う小林の見解は誇張していると思う。

2 小堀桂一郎批判について
 
 『正論』12月号の小堀桂一郎が「共感と違和感と」も私も読んだが小林よしのり『天皇論』批評は概ね適切と考える。「女系天皇の出現が即ち無血革命の仮面をつけた易姓革命を意味する」と述べたのは基本的に正しい。「女系天皇」というがそれは簒奪王朝であるから天皇という君主号を称するに値しないとも考える。

 小林よしのりは、次のように小堀桂一郎を批判する。
「わしは田中卓と新田均氏の議論も読んだし、小堀氏が紹介している論文はもちろん、皇族に関する本はすべて入手した」と豪語したうえで
「全部読んで見当〔検討?〕してみたところ、有識者会議を経て出された改正案「直系長子優先」で問題ない、という結論に達した‥‥‥‥小堀氏に言っておかなければならない。将来、女性天皇が結婚することとなれば、男(皇婿)は戸籍が消滅し「姓」がなくなるのだから、「易姓革命」など起こるわけがないではないか! 誰が誰を放伐すると言うのか? そもそも「苗字」は姓ではないし小堀氏は「易姓革命」の意味すら全然わかっていないのではないか。」と一読して理解しがたいことを言っている。

(中国における「姓」概念)

 小林よしのりが皇婿の「姓」はなくなるから易姓にはならないという見解が奇妙である。そこで中国における「姓」の定義を検討してみる。官文娜(国際日本文化研究センター共同研究員・武漢大学客員教授)が比較的厳密な説明を行っている。
「中国において宗族は父系単系出自集団であり、宗姓は父系単系から伝承していく‥‥ゆえに姓は父系単系出自集団のしるしである。本来、血統そのものは内在的であって、外部からは観察できないが、宗姓はあたかもそれを外在化させて、血縁関係を観察・識別させるようにさせた」(註1)
 「中国の「姓」は中国宗族構造に応ずるものであり、父子・男性一系の宗族集団の標識である。「姓」とは、もともと内在的で観察できない血縁関係を外在化し、ある父系宗族集団とほかの父系宗族集団を区別するものである」(註2)
「姓」とは父系単系出自の標識と認識できる。
 文化人類学的には「出自とは集団の構成員資格に対する系譜的基準であり‥‥系譜の辿り方は単系でなければならず、出自集団の構成員資格に単系的な系譜基準のみが出自を構成するものである」(註3)
 とすれば本来の「姓」概念はその人の社会的地位の異動で変化する性質のものではないことがわかる。なぜならば「姓」とは生理学的血縁関係の識別の記号であるから。むろん宗族には同宗から養子を迎え入れることがあるわけだが、父祖が同一なので社会的地位の異動で姓は変化しない。そしてそれは、特定の身位に上昇することで消えるという性格のものではない。
 宗法制において宗族がなぜ父系単系出自集団であり異姓不養になるかというと、春秋左氏伝に「神不歆非類、民不祀非族」とあるごとく、中国古代における祭祀なるものが、祖先以来「父系単系」の血を受ける子孫によって捧げられるのでなければ祖霊はこれを享受しないからである(註4)。儒教的祭祀が普及しなかった我が国ではこの意味がなかなかわかりにくいのである。宗法制度の理念型は異姓不養、正確にいうと異宗不養なのであるから、社会学的父と生物学的父が異なる場合においても父系出自で祖先は共通することになる。

(我が国における姓氏)

 もちろんわが国における「姓氏」の成り立ちは中国とは異なる面が多分にある。大化改新以前の「姓」は、ほとんど天皇から各ウジの居住地と古い部の職名に基づいて賜ったものであるが、職掌や地位を継承した一族の代表のみに継承されたので、血縁集団としての姓氏制度ではなかった。
 中国的な父系継承の「姓」が導入されたのは大化元年の男女の法「良民の男女に生まれた子は父に配ける」である。
 良民の姓の父系継承という原則に基づいて天智天皇九年に全国的に戸籍が作成され、豪族はウジ名、カバネを姓とし、庶民は○○部、○○族という呼び名を姓として、すべての子に継承され、戸籍に記録された。天武天皇十三年ニ「八色姓」制定され旧来の臣・連の中から。皇室と関係の深いものを、真人・朝臣・宿禰として上位におき、その他を下位にとどめ、身分秩序の再編成を行った。また律令で「嫡子制」「養子法」を中国から継受し父系出自集団としての親族に再編する努力は行った。
 改賜姓は天皇大権であり、功績に応じたり、天皇との関係の親疎によってとくに九世紀ごろまで多くの事例がみられる。例えば応神裔坂田朝臣は永河が弘仁14年に南淵朝臣を改賜姓される。菅原氏の場合は、土師連-土師宿禰-菅原宿禰-菅原朝臣と改賜姓された。続日本後紀の編纂者で貞観期に従三位参議式部大輔であった春澄善縄の父は従八位下周防国大目猪名部造豊雄であるが、善縄は文章博士都宿禰腹赤に能力を認められ天長5年文章得業生のころ春澄宿禰、さらに春澄朝臣に改賜姓された。このように天皇の改賜姓権能によって姓が政権との関係から政治的、随意的に変えられる性格を有しているといえる。しかし十世紀以降天皇の改賜姓権能は有名無実化していく。

 十世紀以降においては姓氏は血族概念ではなくなったといわれている。(註5)
  例えば局務家の清原真人は延暦十七年(798)にはじまる舎人親王裔系王氏の清原真人と系譜的につながるものではなく、その前身は海宿禰で、寛弘元年(1004)十二月、直講、外記等を歴任した海宿禰広澄が清原真人姓に改姓したものである。同様の例は多い。また十一世紀には諸道博士家で養子形式の門弟が違法に姓を継承したことが指摘されている。史や外記などの実務官人の姓は、十一世紀中葉を境とした時期に三善・中原・清原などの姓が増加する。これらは、それらの一族が血縁者を飛躍的に拡大させた結果ではなく官司請負制のもとで請負の主体となった博士家の姓を名のった官人が増加した現象だった。その実態は十一世紀中葉までと同じく地方豪族出身の有能な官人だったが違法であったが実務官人の能力を維持するために黙認された(註6)。

 また中世以降、中小氏族が門閥の厚い壁ゆえ、系譜を仮冒して大族に結びつかんとしたために、姓氏は必ずしも父系出自集団を意味しない。官位を天皇から賜わるには朝臣として由緒のある特定の尊貴な姓氏を持っていることが前提条件であるが、武家領主たちは、自らの系譜を由緒づけ、京都の権門勢家に画策して官位を得んと努めた。

 例えば家康は、三河の一土豪にすぎない松平氏を由緒づけるために、清和源氏の嫡流である上野国新田氏の支族得川氏の系図を借り受け、「徳川」に改姓し、それを前提にして、誓願寺の慶岳、吉田兼右、近衛前久らの仲介により「従五位下三河守源家康」宣下を得た(註7)。従って徳川氏が生理学的血縁関係で清和源氏に繋がるとはいえないというのが歴史家の常識である。

  また家名・爵位はヨーロッパの貴族においても、女子相続人による継承、婿養子型の継承があるので、姓のように父系血族を意味しない。鎌倉時代以降の武家の家名(名字)は女系継承や非血縁継承があるので父系出自を意味しない。例えば室町幕府管領の畠山氏は、元々桓武平氏の秩父氏を祖としているが、畠山重忠が敗死すると、未亡人の北条時政女が足利義純と再婚して、義純の子が畠山の所領と名跡を継承したことから、畠山氏の血筋は平氏から源氏に切り替わっている(註8)。
  また日本的家制度は室町・戦国時代に公家が嫡子単独相続となって成立したものと考えるが、婿養子や非血縁養子などがあるので、単系出自の同族ではありえない。
  また我が国は江戸時代以前は、天皇の賜与認定による古代的姓氏と、院政期ごろから自然発生した名字(苗字)の姓氏の二元システムになっていた特徴もある。朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は本姓+実名、例えば常陸土浦藩主の場合「源寅直」、将軍の領知主印状の宛名は苗字+官職「土屋能登守」但し官職が侍従であったときのみ居城+官職「土浦侍従」になる。要するに天皇との君臣関係は公式的には王朝風の古代的姓氏(本姓)。将軍との君臣関係は名字(苗字)であった(註9)。
  近世についていえば古代的姓氏、名字(家名)いずれも単系出自ではない。
  ただし、我が国で一貫して単系出自の(同族)集団といえるのがが皇親である。

                                         *   *



  わが国の姓氏が単系出自でないことを述べてきた。しかしながら、ここでは易姓革命の姓の意味を論じているのであるから、中国の宗法制における父系出自を区別する標識としての姓の概念、純粋な理念型で議論すればよいわけである。
  つまり姓とは、家名・爵位・身分・地位・組織への帰属あるいは小林よしのりの言う戸籍といった外部から観察できるものに付随した称号ではなく、内在的な血縁関係を外在化したものを本来意味する。血縁関係の標識が姓である。今日民主党議員の一部が戸籍制度廃止を唱えている。私は強く反対だが、人為的制度である戸籍制度とて絶対のものではない。

 戸籍が消滅するから姓が消えるというものではなく、人為的制度いかんにかかわらず、姓とはその人の自然血統の父系出自を区別する意味になる。従って小林よしのりの戸籍云々の議論は正しくない。

  我が国においては大宝令に規定される「皇親」が天皇の親族の定称であった。中国の宗法制と日本の皇親の制は厳密にはかなり違う面がある。例えば継嗣令王娶親王条で皇親女子の内婚制が規定されているが、中国は外婚制である。
  しかしながら、皇親の制における構成員資格(親王号、王号を称すると資格といってもよい)は平安時代以降親王宣下の制度により皇親の制度が変質した後においても父系単系出自(自然血統)であることは一貫している。后妃や親王妃は、出生の時点で「皇親」でなければ、婚姻によって新たに「皇親」身分を取得することはできない。
  明治22年の皇室典範で、臣下出身の后妃も含めて「皇族」とされ、内親王、女王は臣下に嫁すと身位を失うため近現代においる「皇族」という語が令制の「皇親」のように父系単系出自集団を意味しなくなった。しかしそれは、三后、親王妃という身位ゆえ、たぶん嫡妻として婚姻家族的な意味での成員性により皇族とされているのであって、臣下出身の后妃は当然のことながら皇位継承資格を有さないことは、令制と同じである。
  天皇、皇親に姓はないが、九世紀から数世紀にわたって王氏爵という巡爵の慣行があった。「王氏」は歴史家が例えば在原氏のような皇別賜姓氏族を指して用いることもあるが、この場合の対象者は親王を除いた諸王である。十世紀において推薦者は氏長者に相当する任式部卿など筆頭格親王であった。このケースでは、皇親も源平藤橘と同列の親族集団と把握されていることがわかる。よって姓がなくても姓の概念に近いのである。
  そもそも、律令制は中国から導入したわけだが、天皇の制度も中国の皇帝制に倣ったシステムを構築したものである。ただ天皇は中国の皇帝ほど強く自らの意思に基づいて権力を行使し国家を統治することが比較的なかった。太政官との二極体制であるが、少なくとも単系出自で一貫して帝位が継承されている点においては、宗法を鉄則とする一姓の業としての中国の王朝と大きな差異はないように思える。    
 

 また近年、近世の天皇が強い皇統意識を有していう説が発表されている。例えば、後陽成は「自神武天皇百余代末孫周仁(かたひと)」「従神武天皇百数余代孫太上天皇」等の署名を多く残している。霊元は「従神武天皇百十三代孫識仁(さとひと)」、桜町は「人皇百十六代昭仁(てるひと)」、光格は「神武百二十世(花押)」「神武百二十世兼仁(ともひと)合掌三礼」「百二十統兼仁三礼」等の署名を残している(註10)。
 こうした署名について 山口和夫(東京大学史料編纂所准教授 )は「嫡出男子による一系相続はなかったが、一貫して神武天皇の皇孫を自称した。易姓革命を拒否する自意識・主張を共有・相伝した」と解釈している(註11)。神武天皇の皇孫とは父系単系であることは皇統譜により明白なことである。
 中世から近世の移行期は王権の危機だった。信長の神格化構想、秀吉の東アジア征服指向にみられる天皇を超える権力構想、天海の天皇より東照大権現を優越させる仏教思想などである。光格が傍系から即位したため皇統意識が強いのはよくわかるが、後陽成の皇統意識の強さは危機感の現れと解釈できる。そして現代も女系容認論により危機である。
 

 小林よしのりが明確に支持を表明した直系長子優先を受け容れ、たとえば、これはひとつの喩え、仮定にすぎませんが、仮に直系長子内親王の皇位継承予定者の皇婿を李王家から迎えるとする。 その場合、皇婿を父とするプリンスは、単系的な系譜基準に基づいていた皇孫にはあたらず、もはや神武天皇の皇孫とはいえないのだ。
  皇婿が事実上、新王朝の太祖という立場になる。李氏の皇婿を父とするプリンスが即位することにより事実上、全州李氏の無血簒奪王朝となるのである。
一姓の業としての王朝は終焉するから、日本国の終焉である。イングランドは地名であるが日本は王朝名であるから、事実上の易姓革命により国号も改めなければならない。
  そうした女系プリンスが神武天皇第百二十八代を称して問題なしとするのが女系容認論者だが、ではそのようなことを、後陽成や光格のように神武天皇皇孫を自署した天皇が認めるだろうかと問いたい。
  例えばこれも仮定の話だが小泉進次郎とか妻夫木聡などのイケメンタレントを皇婿に迎える。あるいは女系宮家に入った場合はどうか。大衆は歓迎し皇室や女系宮家の人気は高まるだろう。しかしその場合、女帝もしくは女系宮家の女性当主を母とするプリンスは、神武天皇の皇孫とはいえない。主観的には悪意や簒奪する意思がないとしても、客観的には簒奪になる。
 
  つづく
 
 

1 官文娜『日中親族構造の比較研究』思文閣出版2005年 119頁
2 官文娜 前掲書128頁
3 渡邊欣雄「出自」「出自集団」『文化人類学事典』弘文堂1987年 358頁
4  官文娜 前掲書 364頁
5 宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99 関連して宇根俊範「律令制下における賜姓についてー朝臣賜姓ー」『史学研究』(広島大)147 1980
6 曽根良成「官司請負下の実務官人と家業の継承」『古代文化』37-12、1985
7 大藤修『近世農民と家・村・国家-生活史・社会史の視点から-』吉川弘文館1996 169頁以下
8 明石一紀「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下
9 大藤修 前掲書 172頁
10 藤田覚 「近世王権論と天皇」、山口和夫「近世の朝廷・幕府体制と天皇・院・摂家」大津透編『王権を考える-前近代日本の天皇と権力』山川出版社2006年
11 山口和夫 前掲論文

2009/11/26

本日も頭上報告

  9時10分頃より10分間の全水道東水労の書記長会議報告があった。闘争課題について説明があり、12月2日~14日に勤務時間内、第二庁舎前、各支所における決起集会3回の予定を述べ、以前の職場のように全員が必ず一回出るようにとは言わなかったが、積極的に参加するように促す発言があったので、違法行為、争議行為をあおる内容である。12月18日に2時間ストを構え、4日間の三六協定拒否闘争も行うことを通告した。
さらに、八ッ場ダム建設中止請願の署名をやる回覧するので署名せよとの演説があった。無駄な公共事業であり、鎌倉時代からの由緒のある温泉が消えるなどと言い、署名活動の意図は民主党政権をサポートする趣旨を述べていた。
八ッ場ダムについては地元の「八ツ場ダム推進吾妻住民協議会」が5万4千の署名により中止撤回を求めたことが報道されている。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091126-00000198-jij-pol、つまり地元推進派住民に対抗する趣旨のようにも思えるが、よく知られるように石原都知事が中止撤回を求めているとの報道がある。http://sankei.jp.msn.com/politics/local/091019/lcl0910191454002-n1.htmダムの早期完成を望んでいることは、東京都のホームページにもある。http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2009/11/20jbd301.htm、従って全水道東水労は都知事の方針に反旗を翻したことを意味する。

 
  すでに述べているように、組合の無許可集会など東京都水道局では管理職が監視したり解散命令を出すことはなく、勝手にやらせているし、東京都の庁内管理規則は無許可集会・演説等や示威行為、無許可で集合して集団で庁舎にはいる行為を明文で禁止していない。また無許可で旗・のぼり・プラカード・たすき・ゼッケン・はちまき拡声器等を所持又は着用したままの立ち入りを明文で禁止していない。無許可で車輌を構内に入れる事を明文で禁止していない。このことは実質的に都労連傘下の職員団体、労働組合に決起集会、争議行為、示威行為等の便宜を図ることを認めている事を示すものであると私は考えるし、実際にそうである。規則では「寄附金の募集、物品の販売、保険の勧誘その他これらに類する行為をすること」を禁止しているが、署名活動の明文規定はない。実際には組合のカンパや、友好労働団体の国労支援などと称して物品販売も本庁を含めて(当然無許可だろうが管理職は組合を監視したがらないので行われている)。署名や、カンパ、動員通知などは勤務時間に回状で回されているのが実態である。
  事務所内勤務時間内のオルグ、アジ演説、職場離脱無許可集会、庁舎内の拡声器持ち込み、旗、幟等持ち込みですら監視しないのだから、署名などは当然監視対象にないということだろう。


 上司にきいたところ、やはり監視・干渉しないとはっきり言った。勤務時間内に回状で回っている実態を言っても、休憩時間、勤務時間外にやるんでしょと、ただ職務専念義務があるから、そつなく、時間内に署名を勧誘していたら注意することもありうるとは言ったが、実際は何もやらない ということである。

 私は署名活動の内容いかんを問わず規制すべきだと思う。大日本エリオ事件 1989年4月13日大阪地裁判決(労働判例538号6頁/労経速報1362号3頁)は組合委員長が、休憩時間中、労基法改悪反対の署名活動をしたことにつき会社構内での政治活動を禁止する就業規則に反するとして譴責処分を受けたことに対し右懲戒処分無効確認を求めた事例であるが、 判決は「これらの行為が会社施設を利用して或いは会社構内で行われたならば、労働者の労働義務の履行を妨げ、従業員間に不必要な緊張や反目を生じさせ、ときには従業員間の融和の崩壊や勤労意欲の減退を招き、ひいては会社の秩序維持や生産性の向上にまで支障をきたすおそれがあることに鑑みれば、会社が自己の有する施設管理権及び秩序維持権に基づきこれらの行為を禁止することは合理的理由による制約と解することができる‥‥会社の施設内においては会社の施設管理権、秩序維持権に服することが是認されねばならず、さらに右認定事実によれば、本件署名活動はその趣旨説明、説得を伴っていたことが認められる。そして、休憩時間中においては他の労働者が休憩時間を自由に利用する権利を有していることが尊重されなければならないから、これを妨げる行為を当然にはなしえないと解すべきである。そうすると、本件署名活動が上部団体の指令に基づきなされた組合活動であったとしても、右署名活動は、被告の施設内において、しかもその趣旨説明、説得を伴っていたことから、被告の施設管理権、秩序維持権を侵害したうえ、休憩中の他の従業員の自由に休憩する権利をも相当程度妨げたと推認され、これをもって正当な組合活動であったということは到底できない」http://www.zenkiren.com/jinji/hannrei/shoshi/04742.html
 と述べ、施設管理権、秩序維持権から署名活動の規制を肯定している

 またILOに提訴のケースで国立療養所西別府病院において厚生労働省は--「病院内における署名活動についても「国有財産の目的外使用の禁止」並びに「庁舎管理規程」の定めにより当局は庁舎管理を行っているところであり、当局としては、庁舎内での自由な署名活動といったことは、支部の組合活動に限らず原則禁止しているところである。
 しかし、勤務時間外において一職員が個人的に個々の用紙に署名をすることまで制限しているものではない。--と述べており、署名活動は原則禁止としいう方針であることがわかる。http://www.google.com/search?hl=ja&rlz=1D3GGLD_jaJP326&q=%E7%BD%B2%E5%90%8D%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%80%80%E5%8B%A4%E5%8B%99%E6%99%82%E9%96%93%E3%80%80%E7%B5%84%E5%90%88&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=&aq=f&oq=

 政治活動、署名活動何でもありという東京都水道局の現状は問題がある。とくに八ッ場ダムについては国の事業であっても当局が建設を推進してきた立場であるから、請願署名のような政治活動は職員間に反目や軋轢をもたらすことも考えられる。組合は統制権圧力で大量の署名を集め、東京都知事を足下からすくいたいのだろうが、組合員とて民主党支持の人ばかりでないだろう。こうした特定政党支持に偏った請願署名を、本来規制できるはずなのに、水道局当局が事実上容認することは、ダム建設中止に反対の立場をとっている東京都知事への背信行為ともいえるので、この問題については早急に、東京都水道局長に、署名活動の規制を要望する。

2009/11/25

小林よしのり 天皇論追撃篇批判

『サピオ』2009年12月16日号(21巻21号)を早速買いましたが、今回の「ゴー宣」もひどい内容だった。

 今回も単純な事実の誤記がある。

 70頁 引用-赤

 「だが、旧宮家は全て、今から600年も前の、北朝第3代崇光天皇の子、栄仁親王までさかのぼらないと、今上陛下とつながらないのだ!」

 これは正しくない。今上陛下と旧宮家(伏見宮系)の共通の祖先は血縁関係では後崇光院貞成親王である。

 600年云々はたいしたことではない。後花園天皇は後小松天皇の猶子として皇位を継承したとはいえ、実父は伏見殿と称され、後小松上皇の遺詔では太上天皇尊号を許さないとされていたが、実際には文安四年に太上天皇の尊号を贈られた(翌年辞退)貞成親王だから、今の皇室の祖系は伏見宮家ともいえるのである。伏見宮家には『椿葉記』の由緒によリ持明院正嫡としての正統性があリ、後小松天皇の柳原流は正平七年の南軍の京都一時占領に伴う混乱により、武家や北朝の公家によって事実上擁立された緊急避難的な皇統にすぎないという見方もできるのであって、しかも、康正二年十月に後花園天皇の仰せにより皇弟貞常親王(伏見宮家の継承者)に、後崇光院の紋を使用すること。「御所」の号を永代にわたり許された(伏見宮系譜「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申」『皇室制度史料 皇族四』の64頁)。これは『伏見宮系譜』に引用される『貞常親王御記』が原資料で、小川剛生氏は学者らしく、他に裏付けがないのでこの説に慎重だが、これをもって世襲親王家の存在を公式に認めたということになると肯定的に論じている(小川剛生「伏見宮家の成立」松岡心平編『看聞日記と中世文化』森話社2009)。その後の伏見殿の遇され方でも明らかなように、貞常親王の子孫に同等の身位、天皇の猶子として歴代親王宣下を受けて皇族の崇班を継承される世襲親王(定親王)家としての地位を明確にされたとみてよいだろう。要するに貞常親王の子孫である伏見宮系の男系男子が皇位継承者たりうる由緒は明確なのだ。
 フランスでは、アンリ3世の末弟アランソン公が亡くなると,王には子どもがなくヴァロア系の男子が枯渇したため傍系で遠縁だが、サリカ法(男系主義の王位継承ルール)により筆頭親王家ともいえるブルボン家のアンリが王位継承人となった。アンリ3世と4世は22親等の遠縁になります(もっとも女系では近縁だが王位継承のルールとは無関係)。いかに遠縁でも男系継承のフランス王権の王位継承はそのようになっていたわけです。

2009/11/24

下書き4 夫婦別姓は社会主義政策である(1)

 伝統的な中国や近世朝鮮・韓国においては、同姓不婚と異姓不養の原則がある。家族制度の本義として、祖先の祭祀はその血統の子孫が営むべきであって、異姓からの養子を嗣子とすると、その宗族を乱すと考えられたため、同一血族の同族の男子(厳密には昭穆制により同世代の)を養子とする。異姓は養子に迎え入れない。(なお、中華人民共和国では宗法を封建制度として否定したので、韓国のように同姓同本不婚のような法規定はない)
 
 この漢民族の法文化はわが国には受容されていない。なぜならば高麗のように元を宗主国としたわけではないし、満洲族のようにシナを支配するために積極的に宗法制度に同化することもなかった。高麗末期のような儒者による廃仏運動はなかったし、李氏朝鮮のように朱子家礼による祖先祭祀が広まることもなかったからである。
 
 したがって、中国や韓国のように夫婦別姓を導入する余地はないと考えていたが、法務省入国管理局職員(1972年当時)の島村修治の著書(『外国人の姓名』ぎょうせい1971年24頁以下)を読んだところ、清朝の姓名記載慣習は夫婦別姓ではないことがわかった。

 著名な人物として例えば、孫文-宋慶齢、蒋介石-宋美齢、毛沢東-江青、劉少奇-王光美、周恩来-鄧穎超と姓名記載するように昔から夫婦別姓だという固定観念を持っていたがそうではないことがわかった。とすると、宗法制度=夫婦別姓とみなす必要はない。

 島村氏によると清朝の姓名記載慣習は、女は結婚すれば夫と一心同体のものとして無姓無名の存在となり、一般の人々は〈何々家の奥さん〉、〈誰某の妻〉、〈誰某の嫁〉、〈誰某の母〉と呼びかたをしていた。(この在り方は近世日本の庶民の在り方と同様である)

しいて名のる必要がある時は、

 王竜妻張氏、あるいは 王張氏(王家に嫁入した張氏の娘との意味)というふうに書いたという。

 中華民国の婚姻法(民法第1000条)でも夫婦は原則として同じ姓を称することになっていた。しかし実態としては1930年代以降、婚前の姓に字を添え、婚家の姓をかぶせ在り方が増加した。孫文-宋慶齢、蒋介石-宋美齢は原則に反するが、夫婦間の特約により婚前の旧姓を保持することも認められていたためだという。

 中華人民共和国では1950年5月1日公布の新婚姻法では、男女は平等であり互に独立した人格者であるとして、姓名についても「夫婦それぞれ自分の姓名を使用する権利をもつ」と定め、別姓であれ同姓であれいずれの姓を選ぶかは当事者の任意とした。
 この法律のモデルはいうまでもくソ連である。

 島村氏によると(前掲書148頁以下)

 ア 帝政時代は妻は当然に夫の姓を称した

 イ 1919年の法典では、夫婦同一姓の原則により共通の姓を称するが、男の姓か、双方の姓を連結した姓を称するかは、両当事者の自由とした。

 ウ 1924年11月の法令で夫婦異姓の可能性が認められ、同一の姓を称する義務がなくなった。

 なお、1926年に連結姓と第3の姓の選択は否定されたとも書かれている。

 ソ連は1926年に事実婚主義を採用し、1936年の登録婚制度法定まで事実婚の時代といわれている。夫婦別姓はスターリン時代の事実婚社会にふさわしかったのである。

 以上のことから夫婦別姓というのはレーニンが死去した1924年のソ連の法令に由来するものであり、それが1950年の共産中国の婚姻法に継受されたとみることができる。そして民主党政権千葉景子法相の手によってついに、我が国にもソ連・共産中国モデルの民法改正がなされようとしているのである。

 

 

2009/11/23

下書き3

1 夫婦別姓推進論者の言う旧慣習説は誤りであることが近年明らかになっている

(1)少なくとも近世において既婚女性が生家姓(氏)を冠称したという実態はない

(要旨)

 夫婦別姓推進論者は、明治九年の太政官指令や豊田武、井戸田博史などの夫婦別姓旧慣習説を論拠として、反対論者を批判するが、近年、夫婦別姓旧慣習説を否認する有力な学説が出ている。近世については大藤修(註1)、柴桂子(註2)〔特に後者が詳細に〕徳川時代の出版物、人別書上帳・宗門人別帳、犯科帳、離縁状、訴状、女手形、門人帳、書画、短冊、書簡といった史料の他称・自称・自署を検討し、既婚女性が生家姓(氏)を冠称することはきわめて例外的事例しかなく、従来の夫婦別姓旧慣習説には資料的裏づけがないことを明らかにしている。
 つまり、現代の中国や韓国における、胡錦涛と妻の劉永清、李明博と妻の金潤玉というような既婚女性に生家姓を冠称して他称する。あるいは自称、自署するという実態は少なくとも近世に関する限りなかったのである。
 もっとも、 朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は天皇の賜与、認定による姓(古代的姓氏)と実名であるのが、幕末・維新期までの一貫した伝統であり、後宮女官などの既婚女性の女叙位における位記は所生の姓(父の姓)だったと考えられる。女官除目も同様であり、古代の内侍司牒の既婚女官の署名も父の姓であったと考えられる。
 しかしながら少なくとも平安中期以後「実名敬避」の慣習から公家女房は候名で呼称する慣習が確立され、日常生活において、本姓+実名で呼称、自称することはありえないということはよく知られていることである。
 候名は時代的変遷があり、平安中期についていえば父・夫等の官職に因んだケースが一般的だった。室町・戦国時代の禁裏女房は男官の「公卿、殿上人、地下」に対応して「上臈、中臈、下臈」の別があり、上臈には公卿の官職(大納言など)を、中臈には京官、下臈には外官を付けて呼んでいた(註3)。後宮女官の候名から、夫婦別姓を旧慣習とみなすことはできない。
 むしろ注目すべきは室町・戦国時代の公家の正妻の呼称である。今年出版された後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館であるが、摂関家の嫡妻は「婚家名+女中」、夫が関白となると「婚家名+北政所」と称され、一般公家は「婚家名+向名または女中」と称された。つまり正妻は婚家の名字を名乗っていた。
 室町・戦国時代が限嗣(嫡妻)単独相続の日本的家制度の成立期とみられる。後藤みち子によるとこの時期に公家の家妻は、家政・家業を分担の役割が明確となり、婚家の名字を名乗ることも社会的に認知され、婚家の名字は父の正妻から嫡子の正妻へ継承されるものとなったとする。我が国における夫婦同氏の基本はこの時期に確立されたという説である。
 従って、朝廷から賜る位記などの例から夫婦別姓を前近代の旧慣習とみなすのは妥当ではない。それは既婚女性一般の他称、自称、自署の実態と全く異なるのである。大藤修氏は夫婦旧慣習説を批判して次のように述べる。「近世において妻がどちらの姓を称していたかを資料的に確認するのは難しいのが実情である。第一、それについての法的規定は存在しない。そもそも近世においては、女性の役割は家の内部に限定され、社会的役割を果たしていなかったので、女性が姓を冠して対外的に自己を表示する必要はあまりなく、したがって法的に問題にすらならなかったのである。文書のうえでも女性は「某室(女房)○○」「某女○○」「某母○○」というふうな、当主たる夫や父あるいは息子との関係で表示されるのが通例である。」(註4)
 これは学者らしい慎重すぎる表現だが夫婦別姓は資料的に確認されてないので旧慣習説は否定されると言いきってよいだろう。
 のみならず、明治4年に氏が苗字に一元化されるにいたって、それまで朝廷の文書にあった令制的姓氏(古代的姓氏)は実質的意味を失ったのであるから、旧例として復活することは全く意味がない。

(詳論)

 わが国の女性が、明確に姓を冠し文書に登場するのが位階授与(位記)である。これは父の本姓+実名である。本姓とは天皇の賜与認定による令制的姓氏(源平藤橘、天皇の賜与認定による令制的姓氏(源平藤橘、菅原氏、高階氏、大江氏、紀氏、越智氏、清原氏、加茂氏など)であるが、同姓の婚姻(例えば左大臣藤原冬継と尚侍藤原三守の姉藤原美都子のケースを別として夫婦同姓はありえない。下記の奈良時代のケースについて限って云えば夫婦別姓という見方をとることにやぶさかではない。

右大臣藤原朝臣不比等の後室は命婦県犬養宿禰三千代
参議藤原朝臣宇合の妾久米連若女(悪名高い)
左大臣藤原朝臣永手の妻は尚侍兼尚蔵大野朝臣仲仟、
内大臣藤原朝臣良継の妻は尚侍兼尚蔵阿部朝臣古美奈

 時代は下って南北朝時代の『園太暦』に記される女叙位の記事はこうである。

康永三年正月廿七日女叙位〔1344〕(註5)

正五位下  藤原為子 掌侍
従五位上  藤原房子 典侍
        和氣仲子 命婦
従五位下  秦 相子 女婦
        河 氏子 采女
        藤原末子 女史
外従五位下 藤井池子 内教坊
         藤井次子 女孺
         海 浦子 水取
         藤井枝子 掌縫

 上記のどの官女が既婚であるかは不明だが女叙位、除目に関しては夫婦別姓とみてよい。

 近世において、位記の宛名の例として下記のような例がある。

元禄15年2月14日 従一位 藤原朝臣光子〔徳川綱吉母桂昌院、家光妾、本庄(藤原)宗利養女〕
文政11年1月10日 従二位 故従三位藤原輝子〔追贈-徳川家継母月光院、家宣妾 勝田(藤原)玄哲女〕(註6)

 しかしながら朝廷から賜る位記などの例をもって社会の慣習が夫婦別姓であったという根拠とはできない。これはあくまでも朝廷との君臣関係だけである。それは既婚女性一般の社会生活における他称、自称、自署の実態と全く異なるからである。
 我が国には古くから「実名敬避」の慣習があって、貴人の女性を実名で指称することは憚られることであった。清和生母藤原明子は「染殿后」陽成生母藤原高子は「二条后」と称されるのが一般的であるように。

 また平安時代中期から女房の候名が確立した。日常生活で呼称されているのは候名であって姓+実名ではない。清少納言や紫式部の実名が不詳であるのは、通常は実名で指称されることはなかったからである。角田文衛氏によると平安時代中期の女房の候名は主として父、やむをえぬ場合は、夫、兄弟、祖父の官職名に因んで賜った。候名は優雅であり「実名敬避」に役立ち、女房たちの実名に煙幕をはった。女流歌人の次のような事例である(註7)。

 和泉式部 式部は父の藤原為時が(蔵人)式部丞の任にあったため。和泉は夫の橘道貞の任和泉守に因む。

 伊勢大輔 父の大中臣輔親が伊勢の祭主で神祇官の権大副。
 上東門院中将 父藤原道雅の任左近衛中将に因む。
 馬内侍 右馬権頭源時明の娘。
 相模 相模守大江公資の妻。

 もっとも姓氏をもって指呼されている事例もある。『類聚雑例』長元九年五月十七日条に後一条天皇の御大葬に当たって素服を賜るべき人々「女房十八人」が書き出されている。

 先藤三位。藤三位。江三位。菅典侍。已上御乳母。少将内侍。兵部内侍。左兵衛内侍。左衛門命婦。左京命婦。小馬命婦。侍従命婦。中務命婦。兵衛命婦。小左門命婦。式部命婦。兵衛命婦。馬命婦。

 つまり、乳母四名は姓氏で指呼されている。しかし天皇乳母に称される例外的事例をもって夫婦別姓とはいえないだろう。しかも江三位とは近江守藤原惟憲の妻藤原美子であり大江氏の三位ではない。新田孝子氏(註8)によれば夫の官職に因んで近江の内侍と称されていたが、昇叙により『栄花物語』第十九の禎子内親王着裳の儀の記述では「近江の三位」となり、第二十八の中宮威子出産の記述では「大弐の三位」となる。これは夫惟憲が大宰大弐であったためである。つまり後一条天皇乳母藤原美子の女房名は「近江内侍」「近江三位」「大弐三位」と変遷しているが、いずれも夫の官職に因むものである。

 では赤染衛門、清少納言はどう解釈すべきか。赤染衛門は帰化系氏族の赤染時用が父または養父とされる(赤染氏は燕国王公孫淵の後裔と伝え、河内を本貫として赤染部を掌る。天平勝宝二年に赤染造広足、高麿ら24人が常世連姓を賜う。)夫は一条朝の鴻儒、従四位下式部大輔大江匡衡であるから、夫婦別姓の典型としてみることもあるが、父の氏で指呼する候名は珍しいものであって、例外的事例とみなす。衛門では女房相互の符牒になりえないからではないか。角田文衛氏(註9)は『紫式部日記』に依拠して赤染ではなく「匡衡衛門」と称されていたという。これは赤染衛門が夫の昇進のための運動、裏面工作に熱心であったためだか、いかにもあてこすった言い方であり年長者に対して非礼でもある。むしろ『紫式部日記』に丹波守北の方と称されているこちらのほうが一般的指称(当時大江匡衡は任丹波守で妻は任地に下向せず京に止まっていた)だと思う。

 清少納言は、清原元輔の娘だが実名不詳である。角田文衛によれば(註10)この候名は再婚した相手の少納言藤原信義の官名に因むとされる。清少納言は第三者から指称であり、日常生活において、女房相互の符牒としては少納言と指呼されていたことは『枕草子』の有名な香炉峯の雪のやりとりにより明白である。

 雪のいと高う降りたるを、例ならずして御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などし
て集まりさぶらふに、「少納言よ、香炉峯の雪いかならん」と仰せらるれば、御格子あげ
させて、御簾を高くあげたれば、わらはせ給ふ。
http://nihongo-sokki-steno.seesaa.net/article/78262308.html
 中宮藤原定子は「少納言よ」と呼んでいるのであって清氏とは指呼しないのである。しかも少納言が夫の官名に因むのであるから、これを夫婦別姓の論拠とはできない。

 候名は時代的変遷があり、南北朝・室町時代になると禁裏女房は男官の「公卿、殿上人、地下」に対応して「上臈、中臈、下臈」とし、上臈には公卿の官職(大納言など)を、中臈には京官の上位のもの(四等官のかみである卿、督、大夫)を付し、下臈には外官(地方官 伊予、播磨)を付けて呼んでいた(註11)。吉野芳恵によると室町時代に女房名を遺跡として相続する慣習があったとしている。大納言典侍は広橋家の女(含猶子)で相続され、匂当内侍は奥向経済を掌握し女房奉書を書き出す重要な職掌であるが、南家高倉、東坊城両家の女が補された。しかも候名の変わり方に一定の決まりがあって、南家高倉家は右衛門督局か右衛門内侍から匂当内侍、東坊城家は別当局、左衛門督局、中内侍から匂当内侍であった。下臈の伊予局は和気氏の女が相続した(註12)。相続の慣習は江戸時代に姿を消した。こうした後宮女官の呼び名から夫婦別姓の慣習を見いだすことはできない。

 次に、公家の正妻の呼称であるが、今年出版されたたもので注目すべきものとして後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館がある。
 戦国時代に公家の妻たちは夫の名字を名乗り、同じ墓地に葬られるようになったと言う。限嗣(嫡子)単独相続という日本的家制度が確立したのが室町・戦国時代である。この時期に家妻が、家政・家職の経営の役割を分担することが明確になった時期でもある。
 後藤みち子によれば、摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。
 清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。近衛尚通の『後法成寺関白記』によると久我通信正妻を「久我女中」と称し、徳大寺実淳妻は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。
 一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。姑と嫁は東-西、南-北と対になって形づけられた。『実隆公記』では中御門宣秀正妻を「中御門西向」と称し、『親長公記』では中御門宣秀の父である中御門宣胤の正妻を「中御門東向」と称している。姑が「東向」で嫁が「西向」である。
 三条西家の家妻の役割が検討されているが、使用人の給分の分配(使用人の給料を決定する)、食料の手配・管理、追善仏事の運営、連歌会。和歌会の設営があげられている。これは近現代に庶民の家の主婦の役割に通じるものがあるといえるだろう。このように公家社会において嫡子単独相続確立期に、家妻は、家政・家職の経営の役割を分担し、婚家の名字を冠して称された。
 後藤みち子によれば、女叙位の位記は所生の氏であるから夫婦別氏、夫婦同苗字と述べているが、社会的呼称は、婚家の名字+妻の社会的呼称(女中、向名)であるから実質的には夫婦同氏の感覚に近いものと認識できる。
 
 次に徳川時代のありかただが、近世女性史研究者の柴桂子氏が、夫婦別姓旧慣習説には史料的裏付けがないとして厳しく批判していることが特筆できる。 夫婦別姓推進論者の依拠する旧慣習説は明確に否定してよいと思う。
 
 以下引用もしくは要約した引用である。

 法制史研究者によって「江戸時代の妻の氏は夫婦別氏だった」と流布されているが、夫婦異姓の根拠とされる史料はごくわずかに過ぎない、女性の立場や実態把握に疑問がある。
 法制史研究者は別姓の根拠を、主として武士階級の系図や妻や妾の出自の氏に置いている。ここに疑問がある。妾や側室は雇人であり妻の範疇には入らない。給金を貰い借り腹の役目を終わると解雇され配下の者に下賜されることもある。
 より身分の高い家の養女として嫁ぐことの多い近世の女性の場合には、系図などには養家の氏が書かれ「出自重視説」も意味をなくしてしまう。
 別姓説の中に「氏の父子継承原理」が語られるが、女の道として教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていた。
 また、宗門人別帳でも夫婦同宗とされ、婚家の墓地に埋葬されるなど婚家への一体性・帰属性が強かった。
 
 実態として近世の既婚女性はどう呼ばれどう名乗っていたのか
◎他称の場合
○出版物 『近世名所歌集』嘉永四年(1851)、『平安人物誌』文政五年(1822)
姓はなく名前のみで○○妻、○○母と婚家の身分が記されている。『江戸現在広益人名録』天保一三年(1842)も同様だが、夫と異なる姓で記載されている場合もわずかある。
○人別書上帳・宗門人別帳
庶民の場合は姓も出自もなく、筆頭者との続柄・年齢が記される。
○著書・歌集・写本などの序文や奥付
武士階級でも姓も出自もなく、院号や名のみの場合が多い。
○犯科帳、離縁状、訴状、女手形
姓はなく名のみが記され○○妻、○○後家とと書かれ、名前さえ記されないものもある。
○門人帳 
別姓の例としてよく取りあげられる「平田先生門人姓名録」であるが、幕末の勤王家として名高い松尾多勢子は「信濃国伊那郡伴野村松尾左次右衛門妻 竹村多勢子 五十一歳」と登録されている。しかし、この門人帳には29名の女性の名があるが、既婚者で生家姓で登録されているのは多勢子を含め5名で、婚家の名で登録されているのは10名、名だけで登録されているのが3名である。他は○○娘とあり未婚者と考えられる。
他に心学門人帳などあるが、姓はなく名のみが記され、○○妻、○○娘と細字で傍書されている。
○墳墓、一般的には正面に戒名、側面に生家と婚家の姓が刻まれている。
◎自称・自署の場合
 
○著書 多くは姓はなく名のみを自署している。
○書画・短冊 雅号のみの場合が多い
○書簡 これも名前のみサインである。
○『古今墨跡鑑定便覧』本人の署名を集めたもので、姓はなく名前のみサインである。
例外的にフルネームの署名もあるが書画や文人の書簡であって夫婦別姓とはいいがたい。

 以上の柴桂子氏の指摘から江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、指称、自称、自署はしているわけではないと断言してさしつかえないだろう。夫婦別姓は旧慣習とはいえない。多勢子のような例外的事例をもって夫婦別姓というのは過当な一般化だろう。
 墓碑名については、明治民法施行前において、例えば明治五年、神道布教の中央機関として設置された大教院が神葬の儀礼を編纂せる近衛忠房・千家尊福『葬祭略式』を刊行し、そのなかで、「妻には姓名妻某氏霊位と記す」となし、妻の生家の氏を刻むよう奨導した例がある(江守五夫『家族の歴史人類学-東アジアと日本-』弘文堂1990 53)があるが、そもそも教派神道を別として、神道式の葬式は今日普及しておらず、墓碑名に生家姓を刻むとしても、それは妻の由緒、姻戚関係を明らかにする趣旨で、生きている人の実態において生家姓を冠称していたとする根拠にはならないと考える。

1 大藤修『近世農民と家・村・国家』第三章第三節「妻の姓の問題-夫婦別姓説をめぐって」吉川弘文館1996
2 柴桂子 「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003年]柴桂子「近世の夫婦別姓への疑問」〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめ ぐって--東アジアの歴史と現状) のコメント『総合女性史研究』(21) [2004.3]
3 桑山浩然「室町時代における公家女房の呼称 」『女性史学』(通号 6) [1996]
4 大藤修 前掲書
5 角田文衛『日本の女性名-歴史的展望』国書刊行会2006年 178頁
6 大藤修 前掲書
7 角田文衛前掲書121頁以下
8 新田孝子「栄花物語』の女官名称-乳母「近江の内侍」」関根慶子博士頌賀会編『平安文学論集』 風間書房1992
9 角田文衛前掲書119頁
10角田文衛前掲書120頁
11桑山浩然前掲論文
12吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房-匂当内侍を中心にして」『國學院大學大学院紀要文学研究科』13号1982
13 柴桂子前掲論文参照。引用は2004年のコメントから

2009/11/20

市橋容疑者ファン急増

 市橋達也容疑者に女性ファンが多いというのは何ともうらやましい。http://news.livedoor.com/article/detail/4458578/自分は都立園芸高校園芸科卒ですから、千葉大園芸学部の市橋容疑者は親近感があるし社会人として格上ですね。警察に反撃もできる人なのでたのもしいhttp://npn.co.jp/article/detail/17036053/

自民党・公明党児童ポルノ禁止法改正案を提出

  毎日新聞が伝えてます。
http://www.excite.co.jp/News/politics/20091120/20091121M10.061.html
 家のなかで一人で本を読む自由、写真集や映像や画像を見る自由は基本的に重要な価値。官憲によって侵されてはならない領域である。私的自由の中でも最も重要であり、ひとりで放ってっておいて貰う権利は現代人の人権として尊重されるべきだ。、のりぴー事件でも明らかなようなに被害者もないのに微量の所持だけで、あれだけ袋叩きにされる社会は怖い。
 今日は疲れたので寝ますが、明日がんばって反対意見書を書き、国会議員にメールを出します。

2009/11/19

怒り心頭ピケライン尊重の指図

昨日、上司と意見交換する機会があったが平行線で終わった。先方は服務の示達に従い反ストライキで就労したい職員の出勤を差止め、ピケラインを尊重するよう指示する権限が上司にあると言う趣旨のことをはっきり言った。事実上、当局が組合と共謀してストライキの脱落者を防止している心証を強く持った。組合役員がパトローリングで面罵したり威嚇する攻撃してきた場合も傍観だといった。17日のストは中止され職場大会に切り替えになったが、ストとなればピケを張り、赤旗や立て看、横断幕、幟などが構内に持ち込まれ、ハチマキ、ゼッケン、赤腕章した組合員が駐車場や玄関前などを占拠するかたちで、拡声器を使用して無許可集会が行われるのが通例である。しかし上司は、具体的にこれこれの態様については庁内管理規則違反などで監視するとか規制するとかの上局の指示はいっさいないし、組合への申し入れは本局だけでやっているだけとはっきり言った。就労者の通行を認めず、ストを成功させるのが管理職のお勤めだというのと同じ。これでは東京都水道局当局と全水道東水労の共謀体制と言われてもしかたがない。
  すでに述べたように、全運輸近畿支部(出勤簿整理時間にくい込む職場大会)事件・最高二小判昭60・11・8『最高裁判所民事判例集』39巻7号1375頁によると運輸省では職場集会に対して事前に一人一人に警告書を渡し、当日も就業命令、解散命令を口頭、プラカード等に再三行われているわけだが、東京都はそういうことをいっさいやらないのみならず、庁内管理規則で無許可集会・演説等や、無許可で集合して集団で庁舎にはいる行為を明文で禁止していない。無許可で旗・のぼり・プラカード・たすき・ゼッケン・はちまき拡声器等を所持又は着用したままの立ち入りを明文で禁止していない。無許可で車輌を構内に入れる事を明文で禁止していない。このことは実質的に都労連傘下の職員団体、労働組合に決起集会、争議行為、示威行為等の便宜を図ることを認めている事を示すものであると私は考えるし、実際にそうであるということである。
 当局が組合に申し入れるのはつまり以下の、全く形式的な文章だけである。ここには、違法行為を行った場合には、関係法令に基づいて適切な措置をとるともなにも言ってない。このような馴れ合いと、ピケライン尊重の押し付けによる、非組合員、ストライキ反対者への就労妨害は完全ななれあい。東京都当局と組合の共謀とみる。。
 
これは21水職労第343号平成21年11月5日付の全水道東水労中央執行委員長宛の局長名の文書は次のとおり。

 違法行為中止の申し入れについて

貴組合は、下記の行動を計画している模様である。このような行動は当局の正常な運営を阻害するとともに、都民に多大な影響を与え、地方公営企業等の労働関係に関する法律に違反するものである。
また、庁内において、庁舎管理者の許可なくこのような集会を行うことは、東京都庁内管理規則、東京都水道局庁内管理規程に違反するものである。よって、当局は、貴組合が都及び当局を取り巻く厳しい状況を認識し、良識ある判断にたって、これらの行動を中止するよう強く申し入れる。

11月9日(月)16時30分~ 第二本庁舎前 東京地公労 秋闘勝利決起集会(各支部3割)

11月16日(月)14時~ 第二本庁舎前 秋季年末闘争勝利09賃金確定(略)決起集会(各支部3割)
11月17日(火)8時30分 第二本庁舎前 1時間ストライキ(全組合員)

昭和44年全運輸近畿支部事件のケースでは
一○月二三日総理府総務長官は、国公共闘議長に対し警告を発するとともにともに談話を発表して公務員の自覚と反省を促し、違法な行動のないよう自重をもとめた。
 一一月八日から一〇日にかけて被告局長、総務部長及び各陸運事務所長は、近畿支部長及び各分会長に対し、文書による警告を発し、違法な職場集会を行うことのないよう自重を求めた(内容は「伝えるところによれば、貴組合においては来たる11月13日勤務時間内職場大会を計画している模様であるが、いうまでもなく国家公務員は、かかる争議行為は法令によって禁止されているところであります。当局は貴組合がもし伝えられているような違法行為を行った場合には、関係法令に基づいて適切な措置をとらざるを得ないので、貴組合の自重を強く要望します。」と記載)。又、同月八日から一一日にかけて各職員に対し、六日付運輸政務次官名による警告書(「職員のみなさんへ」と題する)を交付し、違法な職場大会に参加することとのないよう自重を求めるとともに警告した。

どう違うかというと、「違法行為を行った場合には、関係法令に基づいて適切な措置をとらざるを得ない」という警告がないこと。委員長だけでなく、支部長、分会長、各職員への警告書交付もないこと。東京都水道局の場合服務の示達という庁内放送とビラの貼りだしがあるが、違法行為とは言わない。

仙石由人公務員制度改革担当大臣は、公務員の争議権付与ら積極的とみられるので、そうなると、協約改定期の長期ストや山猫ストを想定しなければならず、何も規制しないと庁内管理規則がこんなに緩い状況ではあまりにも危機管理意識が乏しいということになりかねないと私は思う。


児童ポルノ単純所持禁止へ!?  http://news.cocolog-nifty.com/cs/article/detail/domestic-200911181612/1.htmという記事がありますが、3連休中に夫婦別姓反対等民法改正反対と児童ポルノ単純所持禁止反対を国会議員にメールを出す。千葉景子がみんなやりたいのだろうが、徹底抗戦する。それ以外に庁内管理規則改正の要望という東京都水道局長あての意見書も書く。ほかに小林よしのり天皇論追撃篇批判もあるので忙しい。

2009/11/18

これなら1年生議員でもよかった

池田信夫ブログにリンクがあった記事「事業仕分けで極秘マニュアル=財務省の視点を指南-政治主導に逆行・行政刷新会議」http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2009111700618各担当省庁の主張に対する反論方法まで具体的に指南するアンチョコが配られていたという。脚本があるんじゃ映画出演した小沢ガールズでも十分仕切れたと思う。

事業仕分け 科学技術予算斬りに批判続出

  次世代スーパーコンピューター開発は「世界一でなくていい」と民主党議員が言い放ったため事実上凍結になるのだという。http://mainichi.jp/select/biz/news/20091114k0000m020079000c.htmlこのまま科学技術予算を潰して母子加算とか高速道路無料にする愚、科学技術は票にならないから斬るのかと批判が続出している。子供手当てという遊ぶ金>>>>>日本の技術  こ れ が 民 意 で すという書き込みが笑える。http://hamusoku.com/archives/768639.htmlスパコンを誘致した神戸市、播磨科学公園都市のスプリング8の「予算削減」には地元が反発している。秋山喜久・関西広域機構会長は「スパコンは(気候変動を予測する)地球シミュレーションに欠かせず、日本の地球環境問題への姿勢が問われる」と疑問を呈したという。 http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002514916.shtml国家戦略もなにもない事業仕分けのように思える。http://blog.livedoor.jp/booq/archives/1004181.html

2009/11/17

15年前と全然変わってない管理職の体質

 本日は職場大会で10時5分からと途中中断して16分演説があり、全水道東水労の演説者は能力主義は職場を分断し疲弊させるので断乎反対していくなどとか言ってましたが、約15年前に業務手当でストライキをやったときの管理職の対応とほとんど同じなんですよ。
 話を持っていったら組合と調整するとか言う。管理職が組合にお伺いをたてる体質は全く同じ。
 ストライキの時は出入り口は入れないと管理職がはっきり言った。庁舎管理規則で正常な通行を妨げることは禁止されているから、取り締まれといっても、基準はない。来客に危害がなければ取り締まるようなことはないとはっきり言った。つまりピケラインを尊重せよという意味と解釈できる。
 全員でストライキに参加してもらうとも言った。まるで沼田稲次郎の階級的集合人格として労働者は、スト指令に従うのが階級的義務というのと同じような発想である。
 服務の示達で、都民全体奉仕者云々、信頼を損なう云々、公務員の本分云々という服務の示達の掲示と放送を形式的であれやっているわけです。本来なら職務命令書を全員に手渡すべきだが、東京都はやっていない。服務の示達なんだから、登庁、就労し職務専念義務があると筈なのに、それは表向きで、本音はストライキを成功させる為に、就労したい職員のほうがを叩こうこととする。
 また非組合員が団体行動に参加しない権利があるし就労は義務だし、公務員だからロックアウトで締め出される理由はないし、スト反対の就労したい人は組合員、非組合員をとわず歓迎すればよいのに、就労すると云うとけしからん、入っても坐っているだけで、仕事はさせないというの15年前の管理職の対応とまったくおなじ、組合を刺激するから仕事せずにじっとしていろというわけです。それでも電話がかかるし窓口対応もあるから当然管理職と口論しながら仕事をしましたが。つまり管理職はストライキ示威行動する役員と親しく、まじめに服務している職員を叩くから信頼感が全くもてないわけです。
 組合指令に従えというのは団体行動せよというのはタフト・ハートレー法では不当労働行為になる。団体行動に参加しない権利の否定であります。
 私は非常に不愉快なので、ストライキを構えたときの職務命令書の発出と、警告・監視・解散命令の発出と庁舎管理規則の改正により、具体的な禁止規定を盛り込むことなどを提案すると共に、消極的自由がなければ、社会は全体主義化するのでタフト・ハートレー法なみの消極的権利の確立の為に、具体的な提言行い、腐りきっている東京都の文化を変えることを提言します。

2009/11/16

11.14 日本解体阻止!!守るぞ日本!国民大行動に二千人

これは行きませんでしたが、草莽全国地方議員の会と日本文化チャンネル桜ニ千人委員会有志の会等の主催による街宣とデモに2千人集まったそうです。
遂に絶叫状態になった三輪和雄の演説です。
http://www.youtube.com/watch?v=3qBuoObn-3A

質問の返答

管理職の返答

 本日「上司へ」を手渡し意見交換したが、上司は庁舎管理規則の何が通行妨害か訊いたところ、基準なんてない。ピケを監視、取り締まることはありえないとした。来客に危険が及ぶ場合などではないかとの返答。非組合員の就労義務・権利と団体行動拒否権は認めない、締め出してストに参加させたい意向をにじませる。こうはっきり言った。全員で脱落者なくストに参加させることになっていると。かりに入庁しても座席で座ってるだ:けと。また 課長補佐の対応、8時半まで入庁できないとした。
 ストライキについては庁内放送で自重を求める示達がなされているが、たった1回にすぎない(今回は13日)、しかもこれが違法行為であるとは明確に言わないのである。運輸省の場合は事務次官名の文書が各職員に交付されるのであり、組合役員には再三にわたって警告をしている。水道局では警告文書が交付されることはないし、職場集会の監視や解散命令はないので明らかに明らかにぬるいものになっている。全運輸近畿支部事件(昭和60・11・8 最高二小 昭和57(行ツ)77 大阪陸運局職員戒告件 民集39巻7号1375頁)では、奈良陸運事務所の職場大会につき原告側の主張によると、牟礼輸送課長が入ってきて、ほんの一、二秒「川上君この集会は違法だからやめて下さい」と一言述べてにこっとと笑って出ていったとされ、前日の分会との交渉で上局より職場大会中、三、四回位警告せよと言われているものを、一回だけにとどめたのは分会との話し合いどおりのものだった。しかし、他の管内陸運事務所では、口頭もしくは大声、プラカードの掲出、解散命令書の交付といったかたちで、再三、解散命令、中止命令を発しており、概ね上局の指示どおり管理職は任務を遂行している。
 東京都水道局は解散命令書の交付はしない、監視もなにもしないどころか、就労したい職員も締め出してストに参加させるようにしむける対応で、私は怒り心頭なのである。
 

 

上司への質問書

 21.11.16

上司ヘ

ストライキにともなうピケッティング、パトローリングについて質問

                             川西正彦


公式の要望書を書く予定があったが、今回間に合わなかったので、簡単にメモにて質問を行う。いずれ公式に質問・意見書を出す。いずれにしても17日にストライキが予定されているの事前に当局の見解を訊きたい。


1 庁内管理規則に第五条 何人も庁内においては、次の各号の一に該当する行為をしてはならない。
一 庁内において、拡声器の使用等によりけん騒な状態を作り出すこと。
二 集団により正常な通行を妨げるような状態で練り歩くこと。
三 前号に定めるもののほか、正常な通行を妨げること。
とあるが、威圧や威嚇による通行・就労妨害を伴う、ピケッティングやパトローリングはどの範囲で許容しているのか。

私は過去に組合よりピケラインを尊重せよと威嚇されたことがあるが、それに従う必要はないと考えているし、多少すれあうことがあっても全て就労している。事務所内に入ってもつきまいや威嚇がありパトローリングにより6~7名の集団に罵声を浴びせられ殴り合いになる状態もあったが、管理職はいっさい傍観していた。何を通行妨害とし庁舎管理規則違反とするか、また違反にどう対処するか、あるいは通行妨害を傍観するか。殴り合いになった場合の対応は。

プロレーバー学説ではピケについてスクラムや最大限の威圧を容認するだけでなく、実力行使も容認する見解がある一方、ストライキは単なる罷業を意味し、マスピケッティング等により非組合員の就労を妨害する行為まで争議権としては含まないとする見解もあるが、当局はどの範囲までピケを容認しているのか。

米国では1920年代は出入り口に一人のみ、脅迫・つきまといは違法とされていたが、1943年の最高裁判決で平穏なピケッティングを容認している。しかし、タフト・ハートレー法により被用者に労働組合の団体行動に参加しない権利を明文化し、被用者の消極的権利の阻害について労働組合にも不当労働行為を定めている。
また、イギリスでは、80年代にマスビケッティングを違法とし、ピケを6人以下に制限している。炭坑ストや印刷工ストでは警官が出動し、ストに反対する被用者の通行を保護した。メジャー政権の雇用関係法で、労働者にストライキに参加しない個人の権利を明文化している。

私はタフト・ハートレー法や英国保守党政権による労働組合規制立法を評価しているし、そもそもコモンローでは契約違反誘致は不法行為であるから、ビケライン尊重という考えはあくまでも労働組合主義者の見解と考える。ところが水道局の方針はビケライン尊重、全員ストに参加させることが望ましいという一貫した姿勢がみられる。この点について当局の見解は。

2 せっかくビケを破って就労しているにも関わらず、過去にはスト時間中は仕事をしないように管理職が指示したり(それがしきたりだと管理職が言った)、新人で組合に加入していない試用期間の職員に対して、戸外で待機を要求し、事実上出勤停止を強要するなど管理職のスト協力行動が目立つが、当局はそのような権限を認めているのか。

2009/11/15

小林よしのり「ゴー宣」天皇論追撃篇の感想その1

 発売中の『サピオ』2009年11月25日号(21巻20号)で小林よしのりが男系尊重派を罵倒しているという情報を得て買いましたが、疑問点を挙げます。

まず単純な事実の誤記がある。58頁(引用-赤)

そして男系絶対主義者の言う
「女系」とは「天皇の母親が天皇」
ということだが、
今のところ一例も存在しない。
日本の皇位はこれまで全て「男系」で継承されている

しかし天皇生母が女帝のケースは三例あります。

天智天皇・天武天皇(舒明皇子、生母斉明女帝)

元正女帝(父草壁皇子、生母元明女帝)

なお文武天皇も生母は元明女帝だが、文武崩御の後に生母皇太妃阿閇皇女が即位した。 

 生母が女帝だが、父系で天皇に繋がらない(母方のみ皇室と直接繋がっている)ケースは一例もないというなら、ナンセンスな文章とはいえ一応意味は通じるが、そうは書かれていないので事実に反し意味不明な記述になっている。
 
 飛鳥・奈良時代の先帝皇后等が即位するケースの女帝は、皇親内婚を大前提としており父母ともに皇親であるから、男系継承に変わりないのであって、男系継承という観点で女帝の子が即位するのは問題はなかった。むしろたんに后腹という一点だけで有力な皇位継承候補者だったといえるのではないか。
 もっとも敏達皇子で推古女帝所生である竹田皇子については、早世により皇位継承者とならなかった。崇峻天皇即位時、推古天皇即位時には竹田皇子が未だ成年に達していなかった為即位が見送られた等諸説ある。
 天智天皇がなかなか即位しなかった問題もある。これについては瀧浪貞子(『女性天皇』集英社新書/2004年)の竹田皇子が皇位継承しなかったことと関連して女帝の子皇位継承忌避説がある。なるほど皇極女帝の次は女帝の同母弟の孝徳天皇が即位し、直系の中大兄皇子ではなかったのである。瀧浪説は面白いし、なぜ中大兄皇子がなかなか即位できなかったかの説明にはなるが、通説ではそういう見方はしない。いずれにせよ中大兄皇子をはじめ男系継承という観点ではなんら問題はない。天武皇子で持統女帝所生の草壁皇子は皇位継承予定者だった。岡宮御宇天皇という称号が追贈されている。早世により即位できなかっただけである。
 敏達-推古は異母兄妹婚、舒明-斉明は伯父-姪、天武-持統も伯父-姪、草壁皇子-元明(阿閇皇女)のケースは従兄妹でもあり甥-叔母でもあるといういずれも近親婚である。内親王・女王(二世~四世)つまり皇親女子の皇親内婚(配偶者は親王・王(二世~四世)に限る)は継嗣令王娶親王条で定められている。継嗣令王娶親王条は女帝即位でも男系継承を維持する安全弁として機能していたともいえる。
 なお皇極・斉明女帝は、舒明天皇とは再婚であり、前婚の高向王は用明天皇の孫で、高向王とのあいだに漢皇子(三世王)をもうけている。
 このほか女帝の子としては元明女帝所生である吉備内親王(左大臣長屋王妃)のケースもありますが、すべて皇親であり、男系で天皇と繋がっている。

 母方のみ前王朝と繋がっているケースはイギリスでよくあります。イギリスの場合男系が途絶すると女系をたどって後継者を見つけてきた。例えばヘンリー七世の父方祖父オウエン・チューダーは王太后付納戸係秘書官にすぎなかったが、父であるリッチモッド伯エドマンド・チューダーがエドワード三世の王子だったジョンの曾孫で、サマーセット公の娘マーガレットと結婚し、ヘンリー・チューダーが生まれ、ヘンリー六世と皇太子エドワードが殺害された事によリ即位している。エリザベス一世の後はヘンリー七世の娘マーガレットの曾孫に当たるジャームス一世が即位し、名誉革命でジェームス二世が追放された後は、娘のメアリーと夫君でオランダ人のウィリアム三世の共同統治としたといった具合である。イギリスの場合でも男系が途絶すれば姓が変わるから、プランタジネット朝、チューダー朝、スチュアート朝というように王朝名が変わる訳です。我が国は英国王室とは原理原則が異なることは言うまでもないことであります。

 女系を論じるなら当ブログで再三述べているように、右大臣藤原師輔への醍醐皇女の三方、勤子内親王・雅子内親王(以上母は更衣源周子)・康子内親王(母は太皇太后藤原穏子)降嫁の例を取りあげるのがわかりやすい。
 継嗣令王娶親王条による皇親女子の皇親内婚規則は『日本紀略』延暦十二年(793年)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」により大きく変質することになる(註1)。
 任大臣及び良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて有力貴族との結婚が可能となった。 藤原氏への二世女王降嫁の初例は承和期に式部大輔、蔵人頭、大宰大弐を歴任した藤原衛への恒世親王女の降嫁である。次の事例が藤原基経への人康親王女の降嫁である。嵯峨一世源氏潔姫の藤原良房への降嫁は違法すれすれ。同様の例として、藤原忠平が宇多皇女源順子を娶り実頼を儲け、文徳孫の源能有女を娶り、師輔、師氏を儲けている。
 しかしながら、藤原師輔への勤子内親王・雅子内親王・康子内親王降嫁は明確に違法である。にもかかわらず村上天皇の勅許により許された。
 師輔は天慶二年に皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同三年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(村上)の室に入れ(安子は皇后となり冷泉・円融生母である)権勢の基礎を築き(註2)、同七年四月成明親王が皇太弟に立てられ、師輔は東宮大夫に転じるが、策士的政治家師輔の裏面工作があったとみてよいだろう。要するに師輔の殊遇は村上にとって立皇太弟の功労者であり、外戚でもあったという事情が背景にある。
 康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかったというのは有名である。そのため内親王は「御前のきたなさに〔前が汚れている〕」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『大鏡』『中外抄』)(註3)などと伝えられており公然周知の醜聞だった。このほか平安時代では藤原師氏、源清平、源清蔭、藤原兼家、顕光、教通などが内親王を妻としたため継嗣令王娶親王条は実質守られなくなってしまっている(註4)。もしこれが奈良時代なら違法婚が政権を不安定化させる要因になると思われるが、九世紀末から十世紀に源・藤二氏を頂点とする門閥体制のヒエラルキー的秩序が確立したし、十世紀に季禄の崩壊、位禄の変質があって、多くの皇親を支える財政的基盤がなくなったことも、そうした風潮を促したと考えられる。

 雅子内親王の御子が一条朝の太政大臣藤原為光、康子内親王の御子が閑院流藤原氏の祖である太政大臣藤原公季である。為光や公季が太政大臣にまで昇進したのは、母が醍醐皇女しかも内親王であるという尊貴性によるところが大きいと思うが、いかに女系で皇室の近親であっても、父が藤原氏だから、「王」名号を得られないし、皇親となることはありえない。皇親が女系を排除した親族概念で、「親王」「王」名号も女系を排除していることしは自明の事柄であり常識である。
 私は別に小林よしのりが言うように、「男系絶対主義」が「ファナティック」(狂信者との意味か)であるとは考えない。それは常識を守るというだけで、それ自体が中道穏健な思想であるにすぎない。
 女系容認論というのは、母が内親王である藤原為光や、藤原公季のようなケースでも皇位継承権を与えるものであるが、それは全く常識に反するものである。安易に常識を覆し規範的秩序を失った社会は怖い。私は一過性の女子差別撤廃やフェミニズムに迎合して常識的な規範をくずしてしまうのは全く馬鹿げているという認識にもとづいて女系に反対しているだけのことであり、狂信者ではない。

 小林よしのりがこのように馬鹿げた意味不明の見解を述べているのは、同氏の女系容認の見解は神道学者の高森明勅の女系容認説が下敷きになっているためだと考えられる。(『天皇論』の「あとがき」にチェックを高森明勅がお願いしたと書かれており、小林よしのりが高森明勅の紹介で女系容認説の大御所田中卓博士と面会していることなどから、監修者とは言えないとしても両者が協力関係にあることは間違いない)
  つまり高森明勅は『養老令』は双系主義を採用していたとという馬鹿げた主張を保守系論壇誌で発表しているのだ。「女帝の所出が親王としての皇族の地位を認められてゐたのであれば、おのづと女系による皇位継承の可能性もあったことにならう。ならば『養老令』は男系だけでなく、場合によっては女系も機能しうる余地を制度上、公認してゐたことになる。」(「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号)というものであるが、それは継嗣令皇兄弟条「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」(註5)の本註〔女帝子亦同。〕「凡そ皇の兄弟、皇子をば、皆親王と為よ〈女帝の子も亦同じ〉」の全く勝手に解釈した新奇な説だが、最大の難点は律令の公定注釈である『令義解』の注釈をから全く逸脱していることである。
  義解は「謂。拠嫁四世以上所生。何者。案下条。為五世王不得娶親王故也。」つまり女帝子」とは四世王以上との婚姻の結果、生んだ子である。その根拠は下条、継嗣令王娶親王条「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」である。この意味は諸王は(内)親王を娶ることができる。臣下は五世(女)王を娶ることを許すが、ただ五世女王のみ。五世王は二世(女)王を娶ることができるが、(内)親王を娶ることはあってはならないという皇親女子の皇親内婚規定であり、よって内親王、女王(二世~四世)は臣下への降嫁は違法とするものである。なお、継嗣令皇兄弟条は五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れないとしているのだが、慶雲三年の格制で皇親の範囲を五世まで拡大し、五世王の嫡子は王を称しうるとし、さらに天平元年には五世王の嫡子が孫女王を娶って生んだ男女は皇親の中に入れることとしたが、延暦十七年に令制に復帰している。
 慶雲三年の格制をとりあげると議論が錯綜するので、ここでは無視すると、そもそも皇親の範囲にない五世女王の即位は想定不可能である。よって令制が緊急避難的に女帝の即位を想定しているとしても、女帝として即位を想定できるのは「内親王」「女王」(二世~四世)名号の皇親女子であり、その配偶者は「親王」「王」(二世~四世)名号の皇親男子しか許されないから、女帝の子は「皇統に属する男系男子」から逸脱するものでは全くない。よって高森明勅の言う「女系も機能しうる余地を制度上、公認してゐた」という説には無理があるし、継嗣令が双系主義などというのは虚構の奇説である。
 実際、奈良時代は王娶親王条の令意がよく守られていた。 今江広道(「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収 吉川弘文館1983)によると奈良時代に明確に令条に反し皇親女子が臣下に嫁した例としては、藤原仲麻呂の息男久須麻呂と舎人親王系の三世女王加須良女王の結婚だけである。天下の政柄を握った仲麻呂にとっては問題ではなかったのだろうが、違法婚といっても三世女王である。もっとも斉明女帝は宝皇女と申すが令制概念で三世女王にあたる。したがって前例がある以上、令制においては三世女王の即位もありうることになる。しかし斉明女帝は母方も皇親で純血種皇親であること。聖徳太子の世代が即位しなかったため、舒明天皇も二世王であることから三世女王である皇極即位は違和感がない。しかしながら、三世女王でも藤原氏に降嫁した加須良女王の即位は想定できるものでは全くないのである。

  これは私の考えですが、皇位継承の規則性は、徹底した父系規則であり、傍系親も含めた単系(父系)出自系譜、しかもその血縁関係は「皇胤一統」というように生理学的に貫徹し、双系親や姻族をイデオロギー的に擬制することは徹底的に排除されている点が特徴と思いますが、女系を排除した親族概念を宗という。教育勅語の皇祖皇宗の皇宗は単系(父系)出自系譜であることは自明の事柄であると私は思う。ローマ法のアグナチオに類比さるべき概念であり、ただし中国の宗法制度のような外婚制や昭穆制をともなわない。
  実際我が国では、「親王」「王」名号は称しうるのは皇親のみである。 皇親概念は単系(父系)出自の自然血統主義の親族概念なので男系と言っても良い(百済王氏は別)。漢王朝においては帝室一族のみに「王」号を称しうるが、「王」は帝室一族のみならず、外夷の君長にも王号が与えられた。そうしたことで、中国では「王」は皇帝によってあたえられる最高の爵位となり、我が国とは意味が違っている。吉田孝『歴史のなかの天皇』 岩波新書(新赤版987)2006年が唐制との違いに言及している(60頁)。唐制では「王・公・侯・伯・子・男」の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の「王」(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの「王」名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて「王」名号を称するのである。但し、「王」族の急増をもたらした。その結果、「賜姓」による臣籍降下が日常化し、「王」も「姓」の一種とみなされるようになる。」と吉田孝は説明している。いかに高森明勅が継嗣令が双系主義と強弁しても、男系で天皇に繋がらない皇親女子の子が「王」名号を称した例はない。

続く

註1)安田政彦「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』吉川弘文館1998、米田雄介「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』塙書房2004
(註2)角田文衛「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』法蔵館1985、25頁 初出1966
(註3)保立道久『平安王朝』岩波新書469 1996 81頁
(註4)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936「皇親の御婚嫁」名著普及会1982復刊
(註5)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991 209頁、但し初出は1970によると、その意味は天皇(女帝を含む)の皇兄弟(皇姉妹をふくむ)および天皇から数えて四世(皇子・皇孫・皇曾孫・皇玄孫)までの男女を皇親とし、そのうち皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とし、それ以外を諸王(王・女王)とし、五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れない。

2009/11/13

NHKが“夫婦別姓”求める団体 院内集会を報道。通常国会提出を後押し。

 NHKが夫婦別姓推進の院内集会を報道しました。「この集会は「選択的夫婦別姓制度」の導入を求める団体が開いたもので、会場には160人が集まりました。集会では推進する弁護士が「働く女性の中には旧姓を通称として使用している人もいるが戸籍との使い分けで不便を強いられている。夫婦の同姓が民法で規定されていることには国連から法改正の勧告も出されていて早期に対応すべきだ」と訴えました。」と報道してます。
 http://www.nhk.or.jp/news/t10013728111000.html

 深刻な事態となってますが、これは全力で反対します。

2009/11/12

池田信夫が事業仕分けを「人民裁判」茶番劇と酷評

 池田信夫が12日のブログで事業仕分けを「本当に不要な事業を俎上に乗せたのではなく、民間企業の「派遣切り」と同じく、切りやすいものを切っているだけ」「官僚を「抵抗勢力」として血祭りに上げる儀式」を見せて、仕事をしているアピールするための茶番劇と酷評してますね。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51310943.html
 なるほど、新聞よりわかりやすいコラムを書いてます。
 私が政権なら、労働行政を抜本的に見直す。本当に不要な仕事例えば労働基準監督署を潰したい。
 

国旗掲出なし

 本日は御即位20年で式典があったのに私の職場である東京都水道局の出先は、国旗掲出なし。よそは知らないが少なくとも自分の職場はなかった。私は下っ端だからに直接かかわったことはないが、水道局施設には国際水フォーラムのの関係で皇太子殿下の行啓など近年もしばしばあるように、ゆかりもあるのに、尊崇の念なんて全くないわけですよ。
 九年前の香淳皇后斂葬の儀の日(平成12年7月25日)も弔旗掲出なし、それどころか労働組合役員が仕切って勤務時間内に天皇制反対と、黙祷もさせない方針を演説、その間、管理職は職場を離脱し、要するにしめしあわせて、管理職はアジ演説をみないことにして責任を逃れようとする、非常に汚い身の処し方である。
 
 

椿葉記の趣旨を重んじることが肝要ではないか

 本日は御即位20周年ということですので、あらためて申し上げますと、中川八洋氏の著書『悠仁[天皇]と皇室典範』清流出版2007年4~5頁で述べられているように、男系男子の皇胤が危機的に細くなっているということはない。これは現存されておられる旧皇族が復籍されれば簡単に解決する事柄であるから。問題はそういう常識的な結論に反対する、皇統が不動に安泰する、旧皇族の復籍を阻止する勢力の暗躍が、皇統の未来に暗い影を投げかけていることである。

 後崇光院貞成親王の著書『椿葉記』に「崇光院・後光厳院は御一腹の御兄弟にてましませ共、御位のあらそひゆへに御中悪く成て、御子孫まて不和になり侍れは、前車の覆いかてか慎さるへき。いまは御あらそひあるへきふしもあるまし。若宮をは始終君の御猶子になし奉へけれは、相構て水魚のことくにおほしめして、御はこくみあるへきなり。」(『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』261頁)とあります。

 意味は崇光院と後光厳院は同腹の兄弟でありながら、皇子の栄仁親王と緒仁親王(後円融)とで皇位継承を争って、仲が悪くなって、崇光院流と後光厳院流(伏見・柳原両流)の子孫まで不和となった。そういうようなことがないように。前人の過を見て後人の戒とすべきだとされております。そこで貞成親王はひとつの提案を行っています。後花園天皇が皇弟で伏見宮の継承者となる貞常親王をゆくゆくは御猶子になし奉るべきである。それによって崇光院御一統の間が親睦にして、皇室と伏見宮が水と魚のように親密に将来永く疎隔なきように相構えて心懸けてほしいということを言っているわけであります。

 要するに後花園天皇の皇室と、伏見殿を継承する貞常親王は親密にして将来永く疎隔無きよう心構えてほしいとのことですが、現在の皇室と伏見宮系は崇光院流皇統の双璧であるわけで、今日でも菊栄親睦会があるわけだが、本来は社交儀礼にとどまるべきでなく、水と魚のように親密であるべきことが『椿葉記』の趣旨であると理解できる。水と魚のように親密であるべきということは旧皇族の復籍以外にない。『椿葉記』の由緒は決定的なのである。

 実際、康正二年(1456)十月に後花園天皇の仰せにより皇弟貞常親王に、後崇光院の紋を使用すること。「御所」の号を永代にわたり許された(伏見宮系譜「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申」『皇室制度史料 皇族四』の64頁)。これは『伏見宮系譜』に引用される『貞常親王御記』が原資料で、小川剛生氏は学者らしく、他に裏付けがないのでこの説に慎重だが、これをもって世襲親王家の存在を公式に認めたということになると肯定的に論じている(小川剛生「伏見宮家の成立」松岡心平編『看聞日記と中世文化』森話社2009)。その後の伏見殿の遇され方でも明らかなように、貞常親王の子孫に同等の身位、天皇の猶子として歴代親王宣下を受けて皇族の崇班を継承される世襲親王(定親王)家としての地位を明確にされたとみてよいだろう。要するに貞常親王の子孫である伏見宮系が皇位継承者たりうる由緒は明確なのだ。
 元禄・享保頃に成立した『有職柚中抄』に「定親王トハ伏見殿ノ如キ永代不易ノ親王也、是ハ帝二御子ナキ時ハ位二ソナヘ玉ハン義也」(武部敏夫「世襲親王家の継統について伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』12号1960)とあるように伏見宮家の皇位継承候補の控えとしての性格は明確なのである。

 

2009/11/11

のぞみ58号 市橋容疑者移送のバカ騒ぎ

 あいりん地区で働いたり、ここまで苦労して逃げてたのに、時効まであと3か月で逮捕は惜しいなあと容疑者に同情します。新幹線で移送なんて初めて見た。警察は混乱するのがわかってて、逃走へのみせしめとしてやっているのか。東スポによると東京駅には400人の報道陣に500人の見物人が集まった。通路のドアの鍵が壊れたという。映像を見る限りパニックのようになっている。http://www.nicovideo.jp/watch/sm8772079行徳署には報道陣150人に野次馬300人が集結、野次馬が車に飛びかかり「おらあ!市橋」「出てこいや!」の罵声と「地獄」「整形失敗」コールが浴びせられたというがやりすぎだ。

2009/11/09

下書き2

 イギリスでは1906年労働争議法によりストライキの刑事免責が確立していたがアメリカでは全く異なる状況にあった。団体交渉権の実体的権利の付与は鉄道労働を別として1930年代のニューディールまでなかった。1919年鉄鋼ストの敗北により労働組合は凋落し働組合の組織率は、1920年に17.5%であったものが、1930年に9.3%にまで低下した水町勇一郎『集団の再生-アメリカ労働法制の歴史と理論』有斐閣2005 53頁。実際、1892年には、ペンシルベニア州ホームステッドのカーネギー製鋼所で、合同 鉄鋼労働組合よる強力なストを中止させるためにピンカートン社の警備員300人が、スト参加者と激しい銃撃戦を行い、非組合員の労働者を守るために州兵が派遣され、ストは鎮圧されたが、このストの敗北で組合不在工場となった。同製鋼所では、1937年まで、再び組合が許可されることはなかった。http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-ushist9.html中西部鉄鋼業は組合不在の時代がかなり長期にあったのである。1920年代の労務管理の潮流は単純にいえば全米製造業者協会などのオープンショップ運動やレーバーインジャンクションの多用にみられる労働組合敵対主義とより洗練されたあり方としてはウェルフェアキャピタリズムと呼ばれる従業員に友好的で温情主義的な経営手法などにより労働組合の組織化の挫折がはかられた時代なのである。鉄鋼業にみられるように、クラフトユニオンへの内部請負制が不要に成った以上、労働組合は不要だったし、組合を否認することは自由であった。デトロイトの自動車産業が組織化されるのはニューディール以降のことであり、20年代は組織化されずにすんでいた。
 アメリカで30年代産業別組合が台頭するのは大恐慌により都市に失業者が溢れた社会不安とと、ノリスラガーディア法以降の労働立法で労働組合を保護し団体交渉を促進する政策に転換してからある。
 今日、アメリカではEmployee Free Choice Actをめぐる労働組合の主張として、労働組合が中流階層をつくったと宣伝したが、それは大きな間違いである。組合の権利が認められていない20年代に中流の社会階層は増大したのである。よって私はエプステインと同様に判例法により労使関係が規律された時代が望ましいと考える。

生理休暇年間23日取得はたいしたことない

  生理休暇偽り夫と旅行、停職1か月…大阪市交通局http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091109-OYT1T00738.htm?from=rankingという記事があり、年間23日取得とか書かれてますが、東京都水道局も1980年代まではとりたい放題で月3日の生理休暇が認められていた。つまり有給休暇20日に生休36日、夏休みが5日ぐらいと職免の特典もあったので図々しい女子職員なら実質有給休暇年間60日ぐらい休めた。あまりに目に余るということで、たしか続訓弘副知事の時代に、月経疾患である事の証明をもって生休をとらせることになって、それから女子職員が目立って生理休暇をとることはなくなっている。
 未だに恨みに思っている。女子職員は勝手に休みたいときにポカッとずる休みをするんでしわよせがくるから。不満を言うとこの野郎と組合や管理職が女性の権利侵害として叩いて悪者にされましたから。労働省の見解でも月経疾患であることが対象者としていたはず。

東京都水道局 本日はスト権投票

    これから毎年恒例だが労働組合の闘争シーズンになる、本日は全水道東水労のスト権一票投票が私の職場では行われていた。スト批准投票ないし、ストライキの賛否を問う投票といってもよいが、朝登庁すると、入り口を入ったところで組合役員が待ちかまえていて、休憩室のような部屋で投票させる。組合役員の面前で書くわけだから、全く不公正な投票といわなければならない。毎回95%とかきわめて高い数字で批准されたと発表されるが、投票のやり方にも問題があるだけでなく、公正な第三者の監査がない以上、信用できるものではない。投票結果に作為がないとはとても信じられない。スト批准投票ははじめから結果ありきの行事にすぎない。我が国では組合員個人の権利、自決権は尊重されてない。無投票当選の役員の意向に従うだけの組合員であるところが大きな問題である。
イギリスでは80年代に公認ストライキ制度を採用した。集会での挙手で決めてしまうストや、幹部の指令だけのスト、山猫ストを防止するために、ストライキの賛否を問う投票は無記名郵便投票とし、第三者の監査を入れるもののとした。そうでないストライキは違法ストとされる。これは組合民主主義のためである。仙石は争議権付与に積極的とみられるので、もし争議権付与なら、イギリス並みにスト権投票は郵便秘密投票とし第三者の監査を導入すべきである。

2009/11/08

下書き1

1 コモンローへの回帰を主張するリチャード・A・エプステインを支持する。

  私は、古典的自由主義者ないしリバタリアンとして著名なリチャード・A・エプステイン(シカゴ大学ロースクール教授)のの言う「何人も自分自身を所有し、自らの労働を自らの望む条件で自由に利用する権原を有する」という見解。アダムスミス『国富論』「各人が自らの労働のうちに有する財産は、他のすべての財産の根源であり、それ故にもっとも神聖であり侵すべからずものである。貧者の親譲りの財産は、彼自身の手の力と才覚に存するのであり、彼がこの力と才覚とを彼が適当と思う方法で隣人に害を与えることなく用いることを妨げるのは、この神聖な財産に対する明らかな侵害である」(田中英夫『デュー プロセス 』東京大学出版 1987)要するに個人の労働力取引の自由に基本的に賛同する。
   後者の国富論は同職組合、徒弟制度の労働市場規制を批判する趣旨のものであるが、前者のエプステインは、1930年代のノリス・ラガーディア法、ワグナー法、公正労働基準法は廃止し、労使関係は伝統的コモンローの不法行為法と契約法の賢明な制度に代わられるべきと主張している(Richards A Epstein "A Common Law for Labor Relations 1983 水町勇一郎『集団の再生-アメリカ労働法制の歴史と理論』有斐閣2005 9)。 不法行為法は暴力、脅迫、契約違反の誘致から個人保護するものであり、コモンローは人々が財産を自由に取引する私的自治のサポートするシステムである。
つまり我が国で言えば労働三法を廃止するという主張になる。では実質的に1920年代への回帰を主張するエプステインの主張は具体的に何を意味するか。
   ウィルソン大統領の時代1914年制定クレイトン法は反トラスト法のいかなる規定も‥‥労働団体の存在、活動を禁止し、または労働団体の構成員が当該団体の正当な目的を合法的に遂行することを禁止・制限するものと解釈するべきでなないとし、1916年連邦労働者災害補償法が制定され、同年のアダムソン法では、鉄道労働者の1日8時間労働が定められたといった革新主義な立法例がみられる。又1918年全国戦時労働理事会(NWLB)の設置により戦時協力のためストを禁止する見返りとして1150件に及ぶ仲裁を行った結果、AFLの組合員数は戦中に100万人も増加、戦時協力体制で雇用主が嫌悪する団体交渉が促進されたのである。
  しかしながら「正常への復帰」をスローガンとするハーディング大統領により、革新主義政策が否定され、クレイトン法の労働組合適用除外規定は1921年のデュプレックス印刷機製造会社判決、アメリカ鉄鋼会社判決、ツルアックス対コリガン判決で実質無効化されることになる。
 1920年代労働組合活動は判例法により厳しく規制されていた。最高裁は1880年代から事業の持続的運営の干渉等を財産権の侵害として多用されていたレイバーインジャンクション(労働争議差止命令)を支持した。1880~1930に4300件出され、1920年代は、ストライキの25%に出された(竹田有「アメリカ例外論と反組合主義」古矢旬・山田史郎編『シリーズ・アメリカ研究の越境第2巻権力と暴力』ミネルヴァ書房(京都)2007年)。又、契約の自由を論拠として黄犬契約を支持した。ピケッティングについても1921年のアメリカン・スチール・ファンダリーズ対三都市労働評議会判決AMERICAN STEEL FOUNDRIES v. TRI-CITY CENTRAL TRADES COUNCIL, 257 U.S. 184 (1921) が出入口に2人以上のピケを違法とし、1人だけでも悪口・脅迫・つきまといは違法とした。 有泉亨「物語労働法13第11話レイバー・インジャクション2」  『法学セミナー』188号1971年9月)

2009/11/07

予算委員会の感想

 1989年、韓国の民主化運動で逮捕された在日韓国人の政治犯29名について、韓国当局に対して釈放を求めるという嘆願書に千葉景子法相と菅直人副総理が署名しており、政治犯29名のなかに拉致実行犯で北朝鮮工作員の辛光洙が含まれていたことはよく知られていますが、これについて5日稲田朋美議員が予算委員会で千葉景子法相に質問し、嘆願書に署名したときに辛光洙が拉致実行犯であることは知っていたかという問に対し、大臣の答弁は「‥‥‥そのような辛光洙が含まれていることについては‥‥‥認識はございませんでした」であった。
 これに対し稲田議員は、牢獄から出すための嘆願書に誰を出すかを知らないというのはおかしい。さらに千葉景子法相は参院予算委員会の委員で出席していた昭和63年3月26日に辛光洙が拉致実行犯との答弁聞いていたにもかかわらず平成元年の釈放要望書に署名しており、そのことは十分承知しているはずだったと稲田朋美議員が指摘した。http://www.youtube.com/watch?v=7LGGgYpPoYQ&feature=youtube_gdatahttp://www.shugiintv.go.jp/jp/index.phpそれは共産党の橋本敦議員の質問で下記議事録の引用のとおりである。
 一般に辛光洙は当時広く知られていなかったと思うが、千葉景子法相は予算委員会の委員で出席しているので知らないというのはおかしいという趣旨である。
 インターネットで検索すると、しんぶん赤旗が2003年2月20日 「拉致実行容疑者の辛光洙釈放要望“知らなかった”ではすまない署名の1年前に橋本議員追及」という記事で公明党議員の攻撃材料として同じような事を書いており、ネットでは以前から知られていたようだ(共産党のサイトなので見たくない人は見ないでください)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-02-20/03_02.html

 この質問は鋭いと思った。また夫婦別姓について、鳩山総理から「無理矢理に押し通すことがいかがなものか」という言質をとったのは、千葉・福島両大臣を牽制するのに一応意味はあった。しかし私は、夫婦別姓を後回しにして、国連の女子差別撤廃委員会が文句を言っている再婚禁止期間や婚姻年齢の改正をやることを警戒している。又、議員立法だと過半数は容易なので、早急に主な国会議員に民法改正反対のメールを送る予定である。

昭和六十三年三月二十六日(土曜日)
   午前九時開会(抜粋)
    ─────────────
    出席者は左のとおり。
    委員長        原 文兵衛君
    理 事
                伊江 朝雄君
               大河原太一郎君
                小島 静馬君
                林  ゆう君
                吉川 芳男君
                久保  亘君
                矢原 秀男君
                吉川 春子君
                三治 重信君
    委 員
                石井 道子君
                岩上 二郎君
                小野 清子君
                梶木 又三君
                金丸 三郎君
                工藤万砂美君
                坂元 親男君
                志村 哲良君
                下稲葉耕吉君
                鈴木 貞敏君
                中曽根弘文君
                中西 一郎君
                永田 良雄君
                永野 茂門君
                野沢 太三君
                増岡 康治君
                松岡滿壽男君
                稲村 稔夫君
                小川 仁一君
                大木 正吾君
                千葉 景子君
                野田  哲君
                安恒 良一君
                猪熊 重二君
                及川 順郎君
                和田 教美君
                神谷信之助君
                橋本  敦君
                勝木 健司君
                秋山  肇君
                青島 幸男君
                青木  茂君

○橋本敦君 ところで話は変わりますが、大阪でコックをしていた原さんという人が突然誘拐されたらしくて所在不明になった。ところが、この原氏と名のる、成り済ました人物が逮捕されてこのことがはっきりしてきたという事件があるようですが、警察庁、説明してください。
○政府委員(城内康光君) お答えします。
 ただいま御質問にありました事件は、いわゆる辛光洙事件というものでございます。これは韓国におきまして一九八五年に摘発した事件でございます。その事件の捜査を韓国側でやったわけでございますが、私どもはICPOルートを通じてそういったことを掌握しておるわけでございまして、それによりますと、一九八〇年に、大阪の当時四十三歳、独身の中華料理店のコックさんが宮崎の青島海岸付近から船に乗せられて拉致されたというような状況がわかっております。
○橋本敦君 辛光洙とはどういう人物ですか。
○政府委員(城内康光君) お答えいたします。
 本件につきましては、私どもの方で捜査をしたわけではございませんので十分知り得ませんが、私どもとしては恐らく不法に侵入した北朝鮮の工作員であろうというふうに考えております。

2009/11/06

本日は9日のスト権一票投票のオルグで全水道東水労本部役員が20分演説

 私の職場では本日10時30分ころ全水道東水労本部の役員がつかつかと事務室に入ってきて、33分から53分まで20分組合本部から秋季闘争の課題について演説がありり、最後に分会長が11月9日のスト権一票投票の呼びかけと、闘争への協力を呼びかけた。
 郵便局とか40年以上前から認めていませんよ。そこに勤務していないよ外部の人間がアジ演説を勤務時間、事務室内で行うそれは東京都ではあたりまえのことかもしれないが、こんなものは解散命令を発出して従わなければ処分すべきです。
 ただ無許可で認めてませんとは管理職が通告してましたが、これは初めてみました。しかし内容が会議の報告ではなく、ストの呼びかけで争議行為をあおっているわけですから、解散命令出すべきだと思いますので、無視されるか逆に叩かれるかはわかっているが局長に苦情を出す予定です。
 内容は、人事委員会勧告は不当、賃上げすべきだ云々。都税収入1兆2千億減と本日の朝日新聞にありますが、それでも賃上げを主張。公務員バッシングは間違いだ。日本は外国より人口比率での公務員の割合が少なく効率的だなどと説得力のない主張を述べ、退職手当支給資格の改正も国なみにしなくてよいと主張。年次有給休暇についても労働基準法の解釈をねじまげていると批判、勤務時間の1日15分の短縮は妥結したのに自民党の横やりで勤務時間が短くなるだけ実質賃上げになるという宣伝で宙に浮いた事を批判。

 スト権投票の日、11月9日第二本庁舎前で東京地公労が秋季闘争勝利決起集会、3割動員、10日にもスト権投票を受けての2割動員、16日には14時から全水道東水労が総決起集会、17日には1時間ストライキが予定されてますが、当局は形式的・なれ合い的な中止の申し入れをするだけで、これらの無許可集会の監視や解散命令はやらないで実質容認という在り方は、改めるべきだと考えますので、これも局長に意見を出します。

2009/11/05

別府信哉容疑者事件に思う

 新聞をとってないので、週刊文春を読んで知ったのですが、先月小田急線で痴漢をしたうえ、終点の新宿駅ホームで高校1年の女子生徒(15)の腹を殴り、「ちょっと来い」と腕をつかんで200-300メートル離れた地下駐車場内の公衆トイレに連れ込み、強姦したという事件があり、コンピューター会社社員が逮捕されたそうです。http://news.livedoor.com/article/detail/4426325/
 痴漢はありうることですが、強姦までやったところが凄い。粗暴な人でなく普通のサラリーマンであるところが衝撃的です。私の感想はやはり児童買春禁止法がよくない。援助交際に目くじらをたいたのが大きな間違いだったと思う。

2009/11/01

WILL12月号小林よしのり「廃太子論」反論は不愉快だし非論理的

 結局日本解体法案阻止請願書は6通のみとなった。というのは外国人参政権とか国立追悼施設等も反対だが、深く研究したことがないので、もっとも危機に思っているのが民法改正に積極的な千葉景子法相の姿勢であり今回は夫婦別姓等民法改正、女子差別撤廃条約選択議定書、人権救済擁護機関の設置だけの請願書になった。

 小林よしのり「西尾・橋本氏への御忠言『廃太子論』はレベルが低すぎる」を読みましたが、不愉快で非論理的な内容でした。

1  皇室に「徳」は関係ないなんてそんなバカな

 まず疑問に思うのが小林よしのりが断定的に言う特徴的見解「皇室は「皇道」であり万世一系の血統によるもので「徳」は関係ありません。この点で「徳」を基準とするシナの「王道」とは全く違う」としている点。

 劉権敏は古くから我が国に受容されていた受命(天命)思想が、万世一系の非革命哲学と共存できるようになった過程について次のように説く(「日本古代における天命思想の受容-祥瑞思想の和風化」『哲学・思想論叢』筑波大学24号 2006年)。

 継体・欽明期に五経博士が渡来しており『書経』により中国の天命(受命)思想は受容され、積極的に利用された。『日本書紀』は武烈を悪帝、継体を聖帝として扱っているのがその現れである。天命思想は、為政者が善政を行えば、天はそれを嘉して祥瑞をくだすという祥瑞思想を随伴しているが、『日本書紀』では推古紀以下の諸巻に集中的に祥瑞の記事がみられる。祥瑞は聖王が天下を治める際に天が顕したもので、祥瑞思想が飛鳥・白鳳時代に鼓吹されたことは当時の政界に天命思想が深く浸透していたことを示す。
 むろん天命思想は、支配権を下す主体が「天」であるため、貴族や平民でも「天命」により支配者になる可能性から、天皇の統治形態を脅かす思想にもなりうるが、天武・持統朝に天孫降臨神話を基盤とする万世一系の思想やアキツカミ思想が宣伝され、支配権を下す主体が天つ神であると同時に、天皇は天つ神の御子であるという絶対的な血脈関係により権威付けられ、非革命の哲学を構築した。さらに和銅以後、祥瑞の主体が中国思想の「天」ではなく、日本の天つ神国つ神と皇祖神に置き換えられる変容(祥瑞思想の「和風化」)によって天命思想が万世一系の思想と共存できるようになったという。

 劉権敏が武烈・継体を王朝交替とみなしている点につき疑問をもつが、祥瑞思想の「和風化」によって受命思想が先鋭化することがなかったとついてはく理解できる。

 天譴思想も古代から受容されている。儒教的徳治主義はわが律令国家の統治理念である。 とくに八~九世紀の律令国家では天譴思想や徳治思想は常套句であり、天皇は天変災異があれば自らの徳の無さを責める詔勅が出され、君主に政治責任が求められた。
 十一世紀においても長暦四年(1040年)七月二十六日大風のため伊勢外宮の正殿や東西の宝殿等が顚倒する事件が起きた。『春記』によると祭主大中臣永輔の解状を八月初めに奉覧した後朱雀天皇は大いに驚きこう述べたという。

 非常之甚、古今無此事。以徴眇身莅之尊位之徴也。不徳之故也。

 同様の発言は八月九日にもある。

不徳之故、天下凶災不絶、遠近不粛。是以非拠登尊位之咎也

長暦四年には大風が吹いて田畠の被害もあった。後朱雀は自身の不徳、天下を治めるという責務を果たしていないゆえに、大風や伊勢神宮顛倒が生じたと考えている。

明らかに自らの不徳が災異を招くという天譴思想を認識している。

この為に八月十五日から二十七日に伊勢神宮遙拝を行っている(註1)。

 また統治者である天皇が徳をもって人民を教化して仁政を施すことの社会政策上の必要性は一貫として認められるところである。

 嘉祥三年正月、仁明天皇の冷泉院(太皇太后橘嘉智子の御所)朝観行幸では天皇が北面して跪いたことが記されている。これはありえないことであり、中国でもそういう事例をきかない。しかし、孝子・順孫という儒教的家族倫理を普及されるために、あえて君主が父母を敬う姿勢を示したということである。
 律令国家の統治理念である儒教道徳による民衆教化はさまざまな形で行われていた。 儀制令春時祭田条の〈郷飲酒礼〉、戸令国守巡行条の〈五教教喩〉や、賦役令の孝子・順孫・義夫・節婦の表旌などによる家族道徳の形成により、村落社会の秩序確立と維持が行われた(註2)。
 従って私は、天皇をたんに祭祀王と定義したり、昔から象徴だったという説に反対ですす。律令国家は天皇と太政官の二極構造になってますが、幼帝ともかく統治者たる君主であるから当然有徳である事を前提としているわけです。

 王朝が一姓の業であることは、我が国も基本的には同じことであって、王朝創始者は別としても中国の王朝でも血統原理で帝位を継承するから、中国でも受命思想と血統原理のダブルスタンダードである。我が国がシナと異なるのはシナのように「民をもって国を簒い、臣をもって君を弑す」伝統がないとされていること。わが国の国柄が「天地人民有りてより以来、君臣上下、一定して渝らず、子孫、承襲ね、万世絶えず、天命永固、民意君を知り、淳化惇風、久しくもって俗となる。維城盤石、揺がず、動かず(註3)」といったことだろう。むしろシナよりも儒教的徳治主義が成功した国家といえる。

 中国であれ日本であれ君主に「徳」が求められるのは当然の事であって、「徳」は関係ないと断言する見解にはかなり違和感がある。

 花園上皇の『誡太子書』は帝王学として皇太子殿下も学ばれていることだが、要旨は日本においては外国のように禅譲放伐の例はなく、異姓簒奪はないという観念(それは諂諛の愚人にしても常識的な観念であるが)に安住することなく君徳涵養の必要を当時の東宮量仁親王(のち光厳天皇)に説いたものだが、それが基本ではないか

 故に孟軻、帝辛を以て一夫となし、武発の誅を待たず。薄徳を以て神器を保たんと欲ふ(ねがふ)とも、あにその理の当たる所ならんや・・・たとへ吾が異姓の窺ゆなしといふとも、宝祚の修短多く以てこれによれり、しかのみならず、中古以来兵革連綿、皇威遂に衰ふることあに悲しまざらんや。太子宜しくつらつら前代の荒廃する所以を観察せよ

 (訳)だから孟子は暴虐な商の帝辛(殷の紂王)は帝ではなくて只の一夫となったので、周の武王は只の男を攻め滅ぼしたに過ぎない(だから王を倒しても罪ではない)と説いた。人徳を修めないで、神器を保ったとしても(皇位を嗣ぐ)、暴虐をなせばたとえ我が国であっても殷周革命のようなことが起きないとは言い切れない・・・たとえ我が国に於いては皇位を異性が狙うことがなかったとしても、天子の位を順調に勤め上げられたかどうか(途中で引きずり下ろされたりしなかったかどうか)は、天子が徳の修養に努めたかどうかにかかっている。それどころか、ここ二百年ほど戦争が続き、王家の威光が衰えているのはなんと悲しいことであろうか。皇太子は何故朝廷の威光を衰えさせてしまったのか、その理由をよく観察しなさい
 引用(一部略)http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_0c47.html

 後水尾上皇宸筆教訓書は後光明天皇宛とみられているが。「慎み」を要求し、「帝位」にある者として驕ることなく、短慮な行動をいましめ、普段は柔和な表情で人と接し、「敬神」と「和国の風儀」に努める。「私」を抑えることが正しい「政道」につながるととし(註4)、徳の修養が求められていることは基本的に同じことである。

 
 
 又、西尾幹二氏について皇室に敵意を持っているなどとしてののしっているがそんなバカなことはないでしょう。私は一度だけ間近に西尾氏を見たことがある。平成17年1月の通常国会前の皇室典範改正反対のデモで日比谷公園から、外堀通り-常盤橋公園までデモでしたが、けっこう雨が降っていて大変だったんですが解散場所の常磐橋公園に西尾氏がいて車内からマイクで「皆様雨の中大変ご苦労様でした」と声をかけてくれましたよ。だから、皇室を守るために必死にやっておられたと思います。
 さらに『天皇論』を読めだの厚かましい態度はなんなんだ。

2 廃太子の前例でも皇太子の資質が問われたことはある

 歴史上の廃太子とみなされる例8例、この他に、寛仁元年(一〇一七)八月九日摂関家の圧力によって皇太子を辞退した敦明親王(三条皇子)の例、弘仁十四年(823年)四月十八日父淳和天皇から皇太子に指名されたが上表して固辞した恒世親王の例、又、廃太子未遂に終わったが文徳天皇が惟仁親王(のち清和天皇)の皇太子辞譲、惟喬親王立太子を企てたが、左大臣源朝臣信に諫止されたとされる説がある。
 歴史上の廃太子は奈良時代から平安時代の初期と、南北朝時代にみられます。八~九世紀の皇太子は後見となる天皇、上皇、有力貴族を失うと脆かった。皇太子の資質それ自体が問われたケースは、奈良時代の道祖王で、孝謙女帝の侍童との密通等の喪中に相応しくない行状があったケースですが、又、他戸親王廃太子のケースについては、皇太子の資質が問われたわけではないが、異母兄の山部親王(のち桓武天皇)が外戚が渡来系という弱点にもかかわらず、漢学の素養があり武勇にも優れた資質を有力貴族が評価したうえでの擁立とみる事もできるわけです。 

廃太子の前例[括弧内はその背景]

1 道祖王(天武孫、父新田部親王) 天平勝寶九歳(757年)三月二十九日廢[聖武上皇の遺詔により立太子、11か月後に、喪中に相応しくない行状(孝謙女帝の侍童と密通など)があり孝謙女帝が大納言藤原豊成以下に諮問したうえで廃位、のちに橘奈良麻呂の乱に連座し拷問により杖死]

2 他戸親王 (光仁皇子)寶龜三年(772年)五月二十七日廢[皇后井上内親王厭魅呪詛事件により母后の廃后とともに廃位、庶人に貶められる。藤原百川の計略である蓋然性が高いとされる事件。左大臣藤原永手薨去で後見者を失ったことが大きい。幽閉され宝され寶龜六年母と共に急死]

3 早良親王 (光仁皇子)延暦四年(七八五)九月二十八日以降十月八日以前廢[藤原種継暗殺事件に連座して廃位、淡路国配流の途中、無実を訴え絶食し憤死。延暦一九年追尊 崇道天皇。光仁天皇崩御で後見者を失っていた。]

4 高岳親王 (平城皇子)大同五年(810)九月十三日廢[嵯峨天皇の東宮だったが薬子の変で平城上皇の敗北により廃位]

5 恒貞親王 (淳和皇子)承和九年(842年)七月二十三日廢[仁明天皇の正嗣とし皇太子に立てられたのは、仁明が淳和天皇の皇太子であった経緯にもよる。恒貞親王生母皇太后正子内親王が仁明の妹であるから嵯峨の孫、仁明の甥にあたる。恒貞親王伝によると親王と嵯峨上皇・仁明天皇は親交があり対立関係はなかった。嵯峨上皇崩御とほぼ同時に東宮坊帯刀舎人伴健岑の謀反が発覚(承和の変)、当初天皇はひとり伴健岑の凶逆として優答を与え皇太子辞退を許さなかったが、結果的には太皇太后の意向もあって廃位とされた。廃太子詔によると「其事乎波皇太子不知毛在女止‥‥」とされ皇太子が謀反に関わっていないことを明らかにしている。淳和上皇近臣の大納言民部卿藤原愛発、中納言藤原吉野、参議東宮大夫文屋秋津ら60余人の官人が左遷されているが、東宮坊官は右大臣東宮傅源常を除き全員が左遷されており、恒貞親王を支える勢力は一掃された。]

6 康仁親王(後二条孫、父東宮邦良親王) 元弘三年(1333年)六月五日/七日[[元弘の変により、光厳天皇が即位し後伏見院政となったが、東宮は両統迭立の方針で大覚寺統の康仁親王が立てられたが、鎌倉幕府滅亡、後醍醐復辟により廃位]

7 成良親王 (後醍醐皇子)建武三年(1336年)十二月二十三日以降、廢[足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、建武三年に京都に入ると光明天皇が即位し光厳院政がしかれたが、東宮は両統迭立の方針での皇太子として大覚寺統から成良親王が立てられた。しかし後醍醐天皇が吉野に逃れたため廃され、持明院統から興仁親王(のち崇光天皇)が皇太子に立てられた]

8 直仁親王(花園皇子-実は光厳胤子)正平七年(1352年)閏二月二十日事実上廃位[北朝崇光天皇の皇太弟であった。足利尊氏が南朝に降伏したため、観応二年/正平六年十一月七日崇光天皇廃位、光厳院政は停止、神器は接収され、二条良基の関白も停止となった(正平一統)。京都では洞院公賢が左大臣に指名され政務が行われたがこの時点では直仁親王は廃位とされていない。翌正平七年(1352年)閏二月二十日北畠顕能率いる南軍が京都に突入、警戒を怠っていた足利義詮が七条大宮の市街戦で大敗し、三上皇皇太子(光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王)を置き去りにしたまま、近江に敗走したため、南軍が一時京都を占領した。この時点で春宮坊の職員が停止されている(註5)。この後、親王は南軍により光厳・光明・崇光上皇とともに大和賀名生に連れてこられるが、正平七年閏二月二十日の時点が事実上の廃位とみてよいだろう]

 
(註1)有富純也『日本古代国家の支配理念』東京大学出版2009 210頁以下

(註2)増尾伸一郎「孝子〈衣縫造金継女〉伝承考」『史聚』24号1989-12
 関連して戸令二十八の七出・三不去の制も婦人道徳にかかわるものだが、凡そ妻棄てむことは七出の状有るべしとされるのである。子無き。間夫したる妻。舅姑に事へず。心強き妻。ものねたみする妻。盗みする妻。悪疾。であるけれども子無きはさしたる咎にあらずともされている。
 このなかで最も重視したいのが「舅姑に事へず」である。この趣旨からいって現代のフェミニストは伝統的道徳に反逆するものである。夫にも服従しない対等を要求。のみならず舅姑に仕えるのはまっぴらごめん。舅姑と同じ墓に入りたくない。それでいて夫婦別姓導入で法定相続で夫家の家産は分捕りたい。このような我が儘を許すべきではない。
 近世の女子教訓書の代表作『女大学宝箱』(享保元年)には「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁いりを゛帰る″という。わが家にかえるという事なり」とあり、また「女は、我が親の家をば継がず、舅・姑の跡を継ぐゆえに、わが親より舅・姑穂大切に重い、孝行を為すべし」と説かれていた。それが婦人道徳の根幹であるとすれば、夫婦別姓論者の主張は、律令国家以来の1300年の伝統的規範を否定するもので許し難いわけである。
(註3)保立道久『黄金国家』青木書店 2004 94頁~100頁
(註4)野村玄『日本近世国家の確立と天皇』清文堂出版(大阪)2006 57頁以下

(註5)小川剛生『二条良基研究』笠間書院2005 39頁

 
参考 阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ東宮表http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/touguu/touguu1.html#boutou

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