公務員に労働基本権付与絶対反対-政府は巨悪と手を結ぶな

無料ブログはココログ

ニュース(豪州・韓国等)

« 市橋容疑者ファン急増 | トップページ | 下書き4 夫婦別姓は社会主義政策である(1) »

2009/11/23

下書き3

1 夫婦別姓推進論者の言う旧慣習説は誤りであることが近年明らかになっている

(1)少なくとも近世において既婚女性が生家姓(氏)を冠称したという実態はない

(要旨)

 夫婦別姓推進論者は、明治九年の太政官指令や豊田武、井戸田博史などの夫婦別姓旧慣習説を論拠として、反対論者を批判するが、近年、夫婦別姓旧慣習説を否認する有力な学説が出ている。近世については大藤修(註1)、柴桂子(註2)〔特に後者が詳細に〕徳川時代の出版物、人別書上帳・宗門人別帳、犯科帳、離縁状、訴状、女手形、門人帳、書画、短冊、書簡といった史料の他称・自称・自署を検討し、既婚女性が生家姓(氏)を冠称することはきわめて例外的事例しかなく、従来の夫婦別姓旧慣習説には資料的裏づけがないことを明らかにしている。
 つまり、現代の中国や韓国における、胡錦涛と妻の劉永清、李明博と妻の金潤玉というような既婚女性に生家姓を冠称して他称する。あるいは自称、自署するという実態は少なくとも近世に関する限りなかったのである。
 もっとも、 朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は天皇の賜与、認定による姓(古代的姓氏)と実名であるのが、幕末・維新期までの一貫した伝統であり、後宮女官などの既婚女性の女叙位における位記は所生の姓(父の姓)だったと考えられる。女官除目も同様であり、古代の内侍司牒の既婚女官の署名も父の姓であったと考えられる。
 しかしながら少なくとも平安中期以後「実名敬避」の慣習から公家女房は候名で呼称する慣習が確立され、日常生活において、本姓+実名で呼称、自称することはありえないということはよく知られていることである。
 候名は時代的変遷があり、平安中期についていえば父・夫等の官職に因んだケースが一般的だった。室町・戦国時代の禁裏女房は男官の「公卿、殿上人、地下」に対応して「上臈、中臈、下臈」の別があり、上臈には公卿の官職(大納言など)を、中臈には京官、下臈には外官を付けて呼んでいた(註3)。後宮女官の候名から、夫婦別姓を旧慣習とみなすことはできない。
 むしろ注目すべきは室町・戦国時代の公家の正妻の呼称である。今年出版された後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館であるが、摂関家の嫡妻は「婚家名+女中」、夫が関白となると「婚家名+北政所」と称され、一般公家は「婚家名+向名または女中」と称された。つまり正妻は婚家の名字を名乗っていた。
 室町・戦国時代が限嗣(嫡妻)単独相続の日本的家制度の成立期とみられる。後藤みち子によるとこの時期に公家の家妻は、家政・家業を分担の役割が明確となり、婚家の名字を名乗ることも社会的に認知され、婚家の名字は父の正妻から嫡子の正妻へ継承されるものとなったとする。我が国における夫婦同氏の基本はこの時期に確立されたという説である。
 従って、朝廷から賜る位記などの例から夫婦別姓を前近代の旧慣習とみなすのは妥当ではない。それは既婚女性一般の他称、自称、自署の実態と全く異なるのである。大藤修氏は夫婦旧慣習説を批判して次のように述べる。「近世において妻がどちらの姓を称していたかを資料的に確認するのは難しいのが実情である。第一、それについての法的規定は存在しない。そもそも近世においては、女性の役割は家の内部に限定され、社会的役割を果たしていなかったので、女性が姓を冠して対外的に自己を表示する必要はあまりなく、したがって法的に問題にすらならなかったのである。文書のうえでも女性は「某室(女房)○○」「某女○○」「某母○○」というふうな、当主たる夫や父あるいは息子との関係で表示されるのが通例である。」(註4)
 これは学者らしい慎重すぎる表現だが夫婦別姓は資料的に確認されてないので旧慣習説は否定されると言いきってよいだろう。
 のみならず、明治4年に氏が苗字に一元化されるにいたって、それまで朝廷の文書にあった令制的姓氏(古代的姓氏)は実質的意味を失ったのであるから、旧例として復活することは全く意味がない。

(詳論)

 わが国の女性が、明確に姓を冠し文書に登場するのが位階授与(位記)である。これは父の本姓+実名である。本姓とは天皇の賜与認定による令制的姓氏(源平藤橘、天皇の賜与認定による令制的姓氏(源平藤橘、菅原氏、高階氏、大江氏、紀氏、越智氏、清原氏、加茂氏など)であるが、同姓の婚姻(例えば左大臣藤原冬継と尚侍藤原三守の姉藤原美都子のケースを別として夫婦同姓はありえない。下記の奈良時代のケースについて限って云えば夫婦別姓という見方をとることにやぶさかではない。

右大臣藤原朝臣不比等の後室は命婦県犬養宿禰三千代
参議藤原朝臣宇合の妾久米連若女(悪名高い)
左大臣藤原朝臣永手の妻は尚侍兼尚蔵大野朝臣仲仟、
内大臣藤原朝臣良継の妻は尚侍兼尚蔵阿部朝臣古美奈

 時代は下って南北朝時代の『園太暦』に記される女叙位の記事はこうである。

康永三年正月廿七日女叙位〔1344〕(註5)

正五位下  藤原為子 掌侍
従五位上  藤原房子 典侍
        和氣仲子 命婦
従五位下  秦 相子 女婦
        河 氏子 采女
        藤原末子 女史
外従五位下 藤井池子 内教坊
         藤井次子 女孺
         海 浦子 水取
         藤井枝子 掌縫

 上記のどの官女が既婚であるかは不明だが女叙位、除目に関しては夫婦別姓とみてよい。

 近世において、位記の宛名の例として下記のような例がある。

元禄15年2月14日 従一位 藤原朝臣光子〔徳川綱吉母桂昌院、家光妾、本庄(藤原)宗利養女〕
文政11年1月10日 従二位 故従三位藤原輝子〔追贈-徳川家継母月光院、家宣妾 勝田(藤原)玄哲女〕(註6)

 しかしながら朝廷から賜る位記などの例をもって社会の慣習が夫婦別姓であったという根拠とはできない。これはあくまでも朝廷との君臣関係だけである。それは既婚女性一般の社会生活における他称、自称、自署の実態と全く異なるからである。
 我が国には古くから「実名敬避」の慣習があって、貴人の女性を実名で指称することは憚られることであった。清和生母藤原明子は「染殿后」陽成生母藤原高子は「二条后」と称されるのが一般的であるように。

 また平安時代中期から女房の候名が確立した。日常生活で呼称されているのは候名であって姓+実名ではない。清少納言や紫式部の実名が不詳であるのは、通常は実名で指称されることはなかったからである。角田文衛氏によると平安時代中期の女房の候名は主として父、やむをえぬ場合は、夫、兄弟、祖父の官職名に因んで賜った。候名は優雅であり「実名敬避」に役立ち、女房たちの実名に煙幕をはった。女流歌人の次のような事例である(註7)。

 和泉式部 式部は父の藤原為時が(蔵人)式部丞の任にあったため。和泉は夫の橘道貞の任和泉守に因む。

 伊勢大輔 父の大中臣輔親が伊勢の祭主で神祇官の権大副。
 上東門院中将 父藤原道雅の任左近衛中将に因む。
 馬内侍 右馬権頭源時明の娘。
 相模 相模守大江公資の妻。

 もっとも姓氏をもって指呼されている事例もある。『類聚雑例』長元九年五月十七日条に後一条天皇の御大葬に当たって素服を賜るべき人々「女房十八人」が書き出されている。

 先藤三位。藤三位。江三位。菅典侍。已上御乳母。少将内侍。兵部内侍。左兵衛内侍。左衛門命婦。左京命婦。小馬命婦。侍従命婦。中務命婦。兵衛命婦。小左門命婦。式部命婦。兵衛命婦。馬命婦。

 つまり、乳母四名は姓氏で指呼されている。しかし天皇乳母に称される例外的事例をもって夫婦別姓とはいえないだろう。しかも江三位とは近江守藤原惟憲の妻藤原美子であり大江氏の三位ではない。新田孝子氏(註8)によれば夫の官職に因んで近江の内侍と称されていたが、昇叙により『栄花物語』第十九の禎子内親王着裳の儀の記述では「近江の三位」となり、第二十八の中宮威子出産の記述では「大弐の三位」となる。これは夫惟憲が大宰大弐であったためである。つまり後一条天皇乳母藤原美子の女房名は「近江内侍」「近江三位」「大弐三位」と変遷しているが、いずれも夫の官職に因むものである。

 では赤染衛門、清少納言はどう解釈すべきか。赤染衛門は帰化系氏族の赤染時用が父または養父とされる(赤染氏は燕国王公孫淵の後裔と伝え、河内を本貫として赤染部を掌る。天平勝宝二年に赤染造広足、高麿ら24人が常世連姓を賜う。)夫は一条朝の鴻儒、従四位下式部大輔大江匡衡であるから、夫婦別姓の典型としてみることもあるが、父の氏で指呼する候名は珍しいものであって、例外的事例とみなす。衛門では女房相互の符牒になりえないからではないか。角田文衛氏(註9)は『紫式部日記』に依拠して赤染ではなく「匡衡衛門」と称されていたという。これは赤染衛門が夫の昇進のための運動、裏面工作に熱心であったためだか、いかにもあてこすった言い方であり年長者に対して非礼でもある。むしろ『紫式部日記』に丹波守北の方と称されているこちらのほうが一般的指称(当時大江匡衡は任丹波守で妻は任地に下向せず京に止まっていた)だと思う。

 清少納言は、清原元輔の娘だが実名不詳である。角田文衛によれば(註10)この候名は再婚した相手の少納言藤原信義の官名に因むとされる。清少納言は第三者から指称であり、日常生活において、女房相互の符牒としては少納言と指呼されていたことは『枕草子』の有名な香炉峯の雪のやりとりにより明白である。

 雪のいと高う降りたるを、例ならずして御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などし
て集まりさぶらふに、「少納言よ、香炉峯の雪いかならん」と仰せらるれば、御格子あげ
させて、御簾を高くあげたれば、わらはせ給ふ。
http://nihongo-sokki-steno.seesaa.net/article/78262308.html
 中宮藤原定子は「少納言よ」と呼んでいるのであって清氏とは指呼しないのである。しかも少納言が夫の官名に因むのであるから、これを夫婦別姓の論拠とはできない。

 候名は時代的変遷があり、南北朝・室町時代になると禁裏女房は男官の「公卿、殿上人、地下」に対応して「上臈、中臈、下臈」とし、上臈には公卿の官職(大納言など)を、中臈には京官の上位のもの(四等官のかみである卿、督、大夫)を付し、下臈には外官(地方官 伊予、播磨)を付けて呼んでいた(註11)。吉野芳恵によると室町時代に女房名を遺跡として相続する慣習があったとしている。大納言典侍は広橋家の女(含猶子)で相続され、匂当内侍は奥向経済を掌握し女房奉書を書き出す重要な職掌であるが、南家高倉、東坊城両家の女が補された。しかも候名の変わり方に一定の決まりがあって、南家高倉家は右衛門督局か右衛門内侍から匂当内侍、東坊城家は別当局、左衛門督局、中内侍から匂当内侍であった。下臈の伊予局は和気氏の女が相続した(註12)。相続の慣習は江戸時代に姿を消した。こうした後宮女官の呼び名から夫婦別姓の慣習を見いだすことはできない。

 次に、公家の正妻の呼称であるが、今年出版されたたもので注目すべきものとして後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館がある。
 戦国時代に公家の妻たちは夫の名字を名乗り、同じ墓地に葬られるようになったと言う。限嗣(嫡子)単独相続という日本的家制度が確立したのが室町・戦国時代である。この時期に家妻が、家政・家職の経営の役割を分担することが明確になった時期でもある。
 後藤みち子によれば、摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。
 清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。近衛尚通の『後法成寺関白記』によると久我通信正妻を「久我女中」と称し、徳大寺実淳妻は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。
 一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。姑と嫁は東-西、南-北と対になって形づけられた。『実隆公記』では中御門宣秀正妻を「中御門西向」と称し、『親長公記』では中御門宣秀の父である中御門宣胤の正妻を「中御門東向」と称している。姑が「東向」で嫁が「西向」である。
 三条西家の家妻の役割が検討されているが、使用人の給分の分配(使用人の給料を決定する)、食料の手配・管理、追善仏事の運営、連歌会。和歌会の設営があげられている。これは近現代に庶民の家の主婦の役割に通じるものがあるといえるだろう。このように公家社会において嫡子単独相続確立期に、家妻は、家政・家職の経営の役割を分担し、婚家の名字を冠して称された。
 後藤みち子によれば、女叙位の位記は所生の氏であるから夫婦別氏、夫婦同苗字と述べているが、社会的呼称は、婚家の名字+妻の社会的呼称(女中、向名)であるから実質的には夫婦同氏の感覚に近いものと認識できる。
 
 次に徳川時代のありかただが、近世女性史研究者の柴桂子氏が、夫婦別姓旧慣習説には史料的裏付けがないとして厳しく批判していることが特筆できる。 夫婦別姓推進論者の依拠する旧慣習説は明確に否定してよいと思う。
 
 以下引用もしくは要約した引用である。

 法制史研究者によって「江戸時代の妻の氏は夫婦別氏だった」と流布されているが、夫婦異姓の根拠とされる史料はごくわずかに過ぎない、女性の立場や実態把握に疑問がある。
 法制史研究者は別姓の根拠を、主として武士階級の系図や妻や妾の出自の氏に置いている。ここに疑問がある。妾や側室は雇人であり妻の範疇には入らない。給金を貰い借り腹の役目を終わると解雇され配下の者に下賜されることもある。
 より身分の高い家の養女として嫁ぐことの多い近世の女性の場合には、系図などには養家の氏が書かれ「出自重視説」も意味をなくしてしまう。
 別姓説の中に「氏の父子継承原理」が語られるが、女の道として教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていた。
 また、宗門人別帳でも夫婦同宗とされ、婚家の墓地に埋葬されるなど婚家への一体性・帰属性が強かった。
 
 実態として近世の既婚女性はどう呼ばれどう名乗っていたのか
◎他称の場合
○出版物 『近世名所歌集』嘉永四年(1851)、『平安人物誌』文政五年(1822)
姓はなく名前のみで○○妻、○○母と婚家の身分が記されている。『江戸現在広益人名録』天保一三年(1842)も同様だが、夫と異なる姓で記載されている場合もわずかある。
○人別書上帳・宗門人別帳
庶民の場合は姓も出自もなく、筆頭者との続柄・年齢が記される。
○著書・歌集・写本などの序文や奥付
武士階級でも姓も出自もなく、院号や名のみの場合が多い。
○犯科帳、離縁状、訴状、女手形
姓はなく名のみが記され○○妻、○○後家とと書かれ、名前さえ記されないものもある。
○門人帳 
別姓の例としてよく取りあげられる「平田先生門人姓名録」であるが、幕末の勤王家として名高い松尾多勢子は「信濃国伊那郡伴野村松尾左次右衛門妻 竹村多勢子 五十一歳」と登録されている。しかし、この門人帳には29名の女性の名があるが、既婚者で生家姓で登録されているのは多勢子を含め5名で、婚家の名で登録されているのは10名、名だけで登録されているのが3名である。他は○○娘とあり未婚者と考えられる。
他に心学門人帳などあるが、姓はなく名のみが記され、○○妻、○○娘と細字で傍書されている。
○墳墓、一般的には正面に戒名、側面に生家と婚家の姓が刻まれている。
◎自称・自署の場合
 
○著書 多くは姓はなく名のみを自署している。
○書画・短冊 雅号のみの場合が多い
○書簡 これも名前のみサインである。
○『古今墨跡鑑定便覧』本人の署名を集めたもので、姓はなく名前のみサインである。
例外的にフルネームの署名もあるが書画や文人の書簡であって夫婦別姓とはいいがたい。

 以上の柴桂子氏の指摘から江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、指称、自称、自署はしているわけではないと断言してさしつかえないだろう。夫婦別姓は旧慣習とはいえない。多勢子のような例外的事例をもって夫婦別姓というのは過当な一般化だろう。
 墓碑名については、明治民法施行前において、例えば明治五年、神道布教の中央機関として設置された大教院が神葬の儀礼を編纂せる近衛忠房・千家尊福『葬祭略式』を刊行し、そのなかで、「妻には姓名妻某氏霊位と記す」となし、妻の生家の氏を刻むよう奨導した例がある(江守五夫『家族の歴史人類学-東アジアと日本-』弘文堂1990 53)があるが、そもそも教派神道を別として、神道式の葬式は今日普及しておらず、墓碑名に生家姓を刻むとしても、それは妻の由緒、姻戚関係を明らかにする趣旨で、生きている人の実態において生家姓を冠称していたとする根拠にはならないと考える。

1 大藤修『近世農民と家・村・国家』第三章第三節「妻の姓の問題-夫婦別姓説をめぐって」吉川弘文館1996
2 柴桂子 「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003年]柴桂子「近世の夫婦別姓への疑問」〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめ ぐって--東アジアの歴史と現状) のコメント『総合女性史研究』(21) [2004.3]
3 桑山浩然「室町時代における公家女房の呼称 」『女性史学』(通号 6) [1996]
4 大藤修 前掲書
5 角田文衛『日本の女性名-歴史的展望』国書刊行会2006年 178頁
6 大藤修 前掲書
7 角田文衛前掲書121頁以下
8 新田孝子「栄花物語』の女官名称-乳母「近江の内侍」」関根慶子博士頌賀会編『平安文学論集』 風間書房1992
9 角田文衛前掲書119頁
10角田文衛前掲書120頁
11桑山浩然前掲論文
12吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房-匂当内侍を中心にして」『國學院大學大学院紀要文学研究科』13号1982
13 柴桂子前掲論文参照。引用は2004年のコメントから

« 市橋容疑者ファン急増 | トップページ | 下書き4 夫婦別姓は社会主義政策である(1) »

夫婦別姓等民法改正問題」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 下書き3:

» 下書き3 [葬儀葬式]
[続きを読む]

« 市橋容疑者ファン急増 | トップページ | 下書き4 夫婦別姓は社会主義政策である(1) »

最近の記事

最近のトラックバック

2021年10月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

世界旅行・建築