1799年-1800年 団結禁止法 the1799and1800 Combination Actとその意義
18世紀においては請願のあった特定業種、特定地域ごとに「団結禁止法」が制定されていたが、1799年に宰相小ピットの提案により、全般的に適用される団結禁止法が制定された。1794年の製紙業の団結禁止法を基本的モデルとしているが14世紀以来の団結禁止法の集大成ともいえるものである。(The Combination Act of 1800 のフルテキストはマルクス主義者のサイトであまりお勧めできないがこれです) http://www.marxists.org/history/england/combination-laws/combination-laws-1800.htm
1800年団結禁止法の武内達子の要約(*13)は以下のとおり。
Ⅰ.これまでに、職人、製造業者、あるいは他の人々の間で、賃金の引きあげを獲得し、通常の労働時間を変更し、労働量を減少するために結ばれたあらゆる契約は無効である。
Ⅱ.この法律の通過後は職人・労働者あるいはその他の者は、前項に非合法とされているどんな契約を成文と不文とにかかわらず作成、または締結してはならない。または作成、締結に関与してはならない。上述の違反のいずれかを犯し三ヶ月以内に有罪の宣告を受けた者は、その管轄区域内で、三ヶ月を越えない期間監禁される。あるいは、同じ管轄区域内の感化院に入れられ二ヶ月をこえない期間、重労働を課せられる。
Ⅲ.賃金の引きあげ、労働時間の減少、変更、労働量の軽減、または、法律に反する目的のため団結すること。金銭の供与、説得・強制・その他の手段で故意に、かつ悪意をもって失業者が雇用されることを妨害すること。賃金を引きあげ、またはこの法律の規定に反する目的で、故意に、悪意をもって、雇用されている者に、その労働をやめるか、放棄するように説き伏せること。雇用者が適当と考える労働者を雇用することを妨害すること。これに違反したときは上述Ⅱのこれに違反した場合は、上述のⅡの刑に処される。
Ⅳ.労働者の賃金の減少、労働時間の変更、労働量増大のための雇用者、あるいは、他の者のあらゆる契約は無効でなければならない。これに違反して有罪宣告を受けた者は、20ポンドの罰金を課される。その二分の一は王室の収入となり、残りの二分の一は告発者と当該教区の貧民に与えられる。
この法律では裁判に関する条項もを修正した。イギリスの裁判は複雑で、雇用者自身この手続を嫌って、実際に団結禁止法が適用されることが少なかった。従って陪審手続による裁判ではなく迅速な治安判事による即決(略式)裁判に変えた。また1800年法では、1799年法では「直接および間接」という曖昧な字句だったが「故意に、悪意をもって」という文言に代えている。Ⅳは使用者の団結も禁止するものである。従って雇用契約は雇主と労働者の一対一の個別契約でなければ不法であるということ、一対一ではない結合は使用者側も労働者も犯罪であることを明文化したのが本法の重要な意義である。
高橋保(*1)、片岡曻(*10 74頁)もほぼ同じだが次のように要約している。
(a) 工業労働者もしくはその他の者の間のの自己もしくは他人のためにする賃上げ、または労働量減少を目的とする契約を締結すること。(一条前段)
(b) 他人が適当と考える者を雇用することを阻止し、もしくは如害するための契約を締結すること。(一条後段)
(c) 賃上げまたは労働時間の短縮、変更もしくは本法に違反することを目的として団結すること。(三条)
(d) 金銭の供与、強制、脅迫その他の方法によって雇用を求めている者の雇用を如害すること。
(e)賃上げないし本法に違反する目的のために他の労働者を離職させるよう勧誘すること。(三条)
(f)使用者が適当と考える者を雇用することを妨害すること。(三条)
(g」正当もしくは合理的な理由がなくして雇用中の他の労働者と労働することを拒否すること(三条)
(h)団結の結成または維持の目的で開かれる会合に出席し、またはその会合に出席するよう他人を説得すること、もしくはその目的のために金銭を集めること。
(i)本法に違反した者が必要とする費用を支払うために醵金すること、もしくは他人を勧誘して労働を拒否せしめるために金銭の供与その他の方法によってその他人を支持し扶助すること。
(j)罰則、(a)から(h)に違反した者は、三ヶ月以下の軽禁錮または二ヶ月以下の重禁錮、(i)の違反者については、醵金者は一〇ボンド以下、集金者および受領者は五ポンド以下の罰金。
(a)~(c)は賃上げ、労働時間の短縮もしくは使用者の営業の自由者のすべての団結を違憲無効として禁止したものである。
(d)(e)(f)(g)(h)は、ストライキ・ピケッティングに関するすべての行為を禁止するものである。(h)は労働組合の財政基盤である組合費の徴収を禁止、(i)は本法に違反して処罰される者のも生活上、訴訟上の援助を禁止するものである。 要するに労働組合の結成、集会、契約違反誘致、二次的争議行為も含めたあらゆる活動、組合費の徴収のすべてを禁止するものである。
○制定の経緯
1799年4月5日ロンドンおよび周辺の機械製造業の雇主たちから、下記のような請願が下院に提出された。
「機械製造職人の間には危険な団結が存在しており‥‥その企図は、賃金の一般的引き上げ、彼らの共謀に加わらない職人の雇用阻止‥‥その他の不法なる行為である‥‥職人たちはこの団結を支持する目的をもって、募金活動を行っており‥‥要求が拒否された場合は、職場は全ての労働者によって放棄される。‥‥このような怠慢者たちを罰する唯一の方法は、現行法の下では、犯罪行為のなされた後に四季裁判、または巡回裁判に告訴することであるが、その時にいたるまで、犯罪者たちはしばしば他の地方に逃げ出してしまい、そのため居所が知れたとしても、彼らを裁判に付するには長い時間がかかり、そのうえ、人身保護令によるならば、彼らを逮捕し、犯罪が行われた場所に連れもどすための費用は、職場放棄によって業務が停止させられている雇主たちに課せられた重荷となり、職人たちは大胆に、しかも無難に団結を保持しているのである。」‥‥」(*13)
請願は受理されアンダーソン卿委員長に付託され、4月9日に報告がなされ機械組立工の不法な団結を阻止し、賃金の規制を治安判事に与える法案の作成が提案され6月に下院を通過したが、7月11日上院においてはより包括的な法案が上程されるとの理由で否決された。
つまり6月11日に宰相小ピットWilliam Pitt (the Younger)は労働者の間では不法な団結が一般化しているためこれを阻止しなければ著しい弊害が生じる恐れがあるとして、自ら労働者の不法な団結を阻止する法案の提出を求めて許可された。これは特定産業のものではなく、全般的な団結禁止法であり、法案の準備はピット首相、法務大臣、大蔵次官ローズおよびバラックにより準備された。6月18日に大蔵次官より新法案が下院に提出、ピットの動議により法案は6月26日全院委員会に付託され、ホブハウスとバーデッド卿が反対したが、7月1日には下院の全ての審議を終了して、上院に回付、7月9日に上院を通過、7月11日国王ジョージ3世の裁可により1799年団結禁止法が制定された。
1799年団結禁止法は大前真の要約によるとのようなものだった。(*14)
①賃金の増額、労働時間の短縮、労働量の削減、雇用に対する妨害、経営に干渉することを目的とする労働者相互の契約は破棄しなければならない。
①②項のような契約に参画した労働者は、本人、または1名以上の証人の証言によって有罪となされる。
③①のような目的を有する集会および基金の募集を禁止する。
④被告に対する金銭援助、また、離業(ストライキ)に対する保証のための基金募集を禁止する。
⑤④項の目的ののための基金は、発見された場合、半額は国家が没収し、残りは通告者に与えられる。
⑥基金の存在が認められた場合、告訴された者は、自己に不利になるといえども、証言を拒否することはできない。
⑦基金の金額を裁判所に提出したものは無罪とする。
⑧上記目的のための団結について証言をなした者は無罪とする。
⑨治安判事は告訴がなされた場合、被告を法廷に召喚することができ、被告が応じない場合、逮捕することができる。また、必要と認める場合は、即刻、被告を逮捕して、裁判を行うことができる。
⑩治安判事は証人を強制招喚できる。
⑪上級裁判所への被告の上告は、2名の保証人と20ポンドの保証金を必要とする。
⑫この制定法による即決裁判は、治安判事によってなされる。
⑬罰則は、①②について、懲役2か月、または、禁固3か月、④については、基金の提出者に対して20ポンド以下、基金の募集者について5ポンド以下の罰金とする。
同法に対してロンドン市長をはじめ各地から同法に対する多数の抗議と請願があり、1800年6月30日に宰相小ピットの政敵であったホイッグ党リチャード・ブリンズリー・シェリダンRichard Brinsley Sheridanの努力によって、請願が下院により検討されることとなった。これに対してピット首相は1799年団結禁止法の原則は正当なものでは若干の字句の修正は必要だとしても効力を弱めるに反対した。
法案の修正結果は、第一に、治安判事の即決(略式)裁判における判事を「一人ないし一人以上」から「二人ないし二人以上」に代える。第二に治安判事は関係産業の雇主ではならないとし、第三に処罰の対象となる仕事を放棄するよう説得する試み等に対して「直接および間接」の語を「故意ないし悪意」の語に代えて曖昧さをなくす。第四に仲裁事項を設けた。この仲裁事項は、賃金ないし労働時間の紛争に際して当事者は仲裁者を指名でき、その裁定に従えない場合は治安判事に委ねて最終的な裁定を受けるというものであるが、検事総長が強く反対した。これをやると賃金が固定化する傾向を持ち、雇主が労働者の指名した不適当な人物と会うことを余儀なくされてるという意見であり、ピット首相もも検事総長を支持したものの、結局盛り込まれることとなったのである。(*13)
仲裁事項を設けたことは、経済的自由主義の観点では問題があったが、法案の原則は維持されたと考えられる。
○1799年-1800年 団結禁止法の意義と評価
全般的団結禁止法を提案した小ピットはトーリー党の政治家で1783年24歳で首相に就任し18年間政権にあった。軍事指導力を疑問視されているが清廉潔白な人柄で行政・立法・外交能力は評価され名宰相と称される一人である。
小ピットが深く関わった団結禁止法をどう評価すればよいだろうか。
(神崎和雄説 社会不安の予防、革命の防止を目的としていた(*13))
イギリスの産業革命は18世紀末期に急速に進展した。1788年頃には143のアークライト型水力紡績工場が存在し、80年代のワットによる蒸気機関の改良によって大工場工業の萌芽がみられ、1800年には全イギリスで321台の蒸気機関が稼働していた。
神崎和雄は、当時40~50の業種別、地域別の団結禁止法が存在し、コモンロー上の共謀罪もあった。加えて「通信協会禁止法」などの政治的結社や集会に対処する制定法もあり、全般的団結禁止法を制定しなければならない必然性はなかったという。従って全般的団結禁止法の立法目的は18世紀末期の急速な産業革命の進展、「囲い込み」、ナポレオン戦争が重なった結果として生じた社会不安の予防策、革命の防止策であるという。なるほど当時、イギリスには組織的で有効な警察力はなく(ロンドン警視庁の創設は1829年である)、労働者が引き起こす騒擾への対処は軍隊に依存していた。小ピットは1792年に軍隊を民家に分宿させる古い習慣を廃止し、兵舎建設計画により港湾や主要な工業地帯に軍隊を駐屯させただけでなく、フランスの侵略に対処するという名目で民兵を廃止し、「義勇兵連隊」や「騎馬警察隊」を創設したが、これはフランスの侵入に備えるというよりも国内の治安維持が目的だったといわれる。(*13)
社会不安の予防策も立法目的として認めてよいと思うが、それは一側面にすぎないのとのではないだろうか。
(ダイシー説 Old Torismの保護主義である*10 71頁)
団結禁止法を成立せしめてた世論の構成要素として(イ)団結に対する恐怖、(ロ)トーリー主義における保護政治の伝統、を指摘する。労働者は慣習的賃金で労働する義務を有し、失業労働者に対して扶助を与えることは国家の義務である、というOld Torismの保護主義が生んだ。当時の慈恵的政策の典形たるスピーチナムランド法を生んだ同一の政策表現とするものであるが、これは第14条(XIV. [Act not to abridge powers now given by law to justices touching combinations of manufacturers, &c.])において産業ないし賃金を規制する法律を廃止しない旨の明文の規定をおいたことより、進歩的な政策ではないとの見解をとっているが、片岡曻はこの点について、すでに無用となった治安判事による賃金規制方式をみ容認しとたにすぎず、それにともなう労働者の団結禁止に重点がおかれたものであり、徒弟条項の徒弟事項にについて同法が大打撃を与えたことと併せて考えるならば、同法の性格は近代的労働関係を支配する自由の原理である(*10 78頁)。とする批判がある。ダイシーも一面的な見解と云うべきだろう。
(片岡曻説 「労働の自由」の原則の貫徹である*10)
プロレーバー労働法学者片岡曻は勿論敵対視しているが、団結禁止法を「労働の自由」という原理的基礎のうえに把握されるべきものであり、近代的労働関係を支配する自由の原理にもとづくとみなした点は、この制定法が治安判事による賃金裁定という規制を容認いる点を除いて大筋で妥当なものであると私は考える。
それまでの労働立法がマスターとサーバントの身分関係を律する前資本主義的な性格を有していた対し、1799年-1800年 団結禁止法は労働者の団結のみならず使用者の団結も禁止していることから片岡は「ほかならぬ労働の自由そのものを確立しつつあった産業革命のただなかに姿を現した労働者の団結に対し「労働の自由」の原理を強要し、これを「労働の自由」の原理的埒内に名のもとに労働組合を禁止したとする意義が最も重要であると考える。」(*10 70頁)としている。
つまり団結は個々の労働者の自由意思を歪めるものとして禁圧し、「労働の自由」(経済的にはそれを通じての絶対的剰余価値の無制限な生産)の原則の貫徹のために新しい制定法を必要としたというのである。
もっとも、片岡曻は立法経過から経済的自由主義を原理としているとは述べていない。団結禁止法が「労働の自由」原理的基礎としている論拠は徒弟に関する前期的立法廃止目前の1811年の議会の特別委員会の報告書の次の見解なのである。
「取引の自由ないし、各人が自己の利益に最適であると判断するが如き方法及び条件で自己の時間ならびに労働を処分する完全な自由に対して立法がなす干渉は、いかなるものも必ず、社会の繁栄と幸福にとり第一義的重要性をもつ一般的諸原則を侵犯し、最も有害な先例を作り、或いは極めて短期間の後に一般的苦痛の圧力を増大することになるだろう。」
これはまさしく完全な経済自由主義的見解である。しかし11年のタイムラグがあり因果関係は明らかでない。しかし各人の取引の自由にとって、使用者の団結も労働者の団結も敵対するものであるから、団結禁止法もそうした18世紀末期から19世紀初期の自由主義的経済思想を背景として立法化されたという理解は大筋で誤ってはいないと判断する。
実際、現代において最も自由主義的な労働立法はニュージーランド国民党政権1991年雇用契約法(Employment Contracts Act)であり、「労働組合」も「団体交渉」も消し去り、労働関係を個別雇用契約によって処理した。この場合、労働組合は個人の雇用契約の代理人たる立場に権限が縮小された。
使用者の団結も労働者の団結も違法として、個別契約による労働の自由を確保した団結禁止法の思想に通じるものがあることは云うまでもない。そのような意味で現代的にはより先進的な労働政策が団結禁止なのであり、そのような意味で団結禁止法も再評価されるべきである。
従って、この世の敵ともいえるがこの制定法の性格の分析に限って上記の片岡曻の見解に従いたい。
なぜイギリスが逸早く18世紀後半に産業革命に到達したのか。私はウェーバーテーゼを否認しないが、一つの要因として、名誉革命期までに、いわゆる「初期独占」が完全に崩壊し、少数の私人に「独占」されていた諸産業部門を社会全体に解放していった営業の自由の確立があり、コモンロー裁判所が1563年職人規制法に当初から敵対的態度をとり、徒弟の入職規制を骨抜きにして労働の自由が進展した先進性を挙げてよいと思う。「労働の自由」の原理はコモンロー上の営業制限の法理の進展の成果でもあるが、私が思うに本件は制定法であるが団結禁止は イギリス憲法の基本原理を構成する法の支配の帰結という側面もあると云っても好いのではないかと考える。イギリスでは憲法の一般的諸原理は裁判所に持ち込まれた特別な事件において私人の権利を決定する諸判決の結果なのである。イギリスでは,私法(privatelaw)の諸原理が、裁判所と国会の活動によって、国法および国の従僕の地位を決定するまでに拡大されてきた。(*15)
岡田与好が云うように本来の営業の自由は、国家からの自由ではなく、私人間に於ける
営業独占や営業制限からの自由であって、このような自由が確保されることが「公序」パプリックポリシーつまり公共の福祉と表明してきたのがコモンローである。(*16)は 既に述べてきたように、1783エックレス事件でマンスフィールド卿は、使用者の団結(カルテル)も、労働者の団結も共謀罪であると断言し、1799年のハモンド事件でケンヨン卿は労働者団体を「一般的共謀」と断言したように、営業制限の法理とコンスピラシーの法理によって、団結がコモンローに敵対する者であることは明白だったと考えるからである。つまり団結禁止法はコモンローのパブリックポリシーとは対立しない制定法といえる。
もっとも片岡曻の見解はプロレーバー労働法学者なので敵対視しなければならないことを申し添えておく。
あくまでも私は片岡の見解について「労働の自由と」と「団結」が本質的に共存不可能で相容れないという認識を示している点については留保つきで同意する。留保というのは、「団結」を個人の「労働の自由」の総和という共存可能とみなす1825年法的団結放任論を私は否定しないからである。「団結」が個別的自由の総和ということは、個人主義的私法観を前提としており、他者の労働の自由の侵害は許容されない。
私は、団結禁止が最善だが、個人主義的私法観を前提としての団結放任は次善の選択として認めるからである。
しかしプロレーバー労働学者は、団結とは構成員の個別的意思に対する外的規制=強制であり、個人の自己決定を全面的に否定するものとして捉える。個人の権利の一部譲渡という性格でもありえない。労働組合に権力を付与する立場であるから、団結を放任しつつも、ピケッティングを厳格に規制し、他者の権利侵害を違法とし。非組合員の権利の侵害を否定する在り方にとなる団結=個人の労働取引の総和論に反対するのである。
片岡曻は次のように団結を定義している。(*10 8ページ)
「「労働の自由」の理論構造のうえでみるならば、労働者の団結は、明らかにこれと対立的な性格の存在である。‥‥一見、それは労働の「自由」の当然の帰結であるかのようにに見える。しかしながら、団結構成員の自由な意思を通して現れる結果は、また自由の否定を意味する。労働者の団結は、個々の労働者の自由な取引の部分的譲渡によって成立するものではなく、個々の労働者の意思を超えた、従ってかような個別的自由の単なる総和でもなければ、それに解体することもできないところの、一個の独自な存在である。団結は、各個の労働者がその自由をいわば包括的に団結に対して委ねることによってのみ成立する。それは、団体の構成員である個々の労働者の自由意思に対する外的規制=強制の成立を意味するであろう。構成員の個別的自由意思に即時的に根ざすものではなく、個人の自由意思をモメントとして構成される「労働の自由」のうちには、当然に包摂されえない異質的存在というほかない。‥‥団結が単にその構成員の自由意思を規制=強制して統一的意思に基く組織的活動を打出すということのほかに、かかる規制=統制を、直接間接に団結外の第三者、殊に未組織ないし非組合員たる他の労働者及び使用者に対しても及ぼすことを意味する。‥‥「団結は、その存在そのものによってその構成員の自由を制限し、または局外者の自由をたえず制限する」(Dicey,p153)
この団結の定義は労働組合寄りのものであるから勿論鵜呑みにしてはならない。団結権とは端に団結によって処罰されない権利程度のものとする見方があるからである。
つまり団結権のプロレーバー的解釈が、個々の労働者の労働力処分の自由を侵害して強制力をもつという見解なのである。
プロレーバーつまり敵方は労働者は個別取引が否定され団結において労働力取引を強制することこそ階級的利益でりそれが労働者階級の義務と考えている。しかし私は取引の自由ないし、各人が自己の利益に最適であると判断するが如き方法及び条件で自己の時間ならびに労働を処分する完全な自由こそ社会の繁栄と幸福にとり第一義的重要性を有するという思想に同意するから、この点については天地がひっくり返っても妥協することはありえないのである。
*1高橋保 「イギリス労働法における共謀法理(コンスピラシー)の形成と展開」 『創価法学』7(4)〔ネット公開論文〕http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN0013392X/ISS0000435233_ja.html
*10片岡曻『英国労働法理論史』有斐閣1952
*12武内 達子「団結禁止法撤廃について」『愛知県立大学外国語学部紀要. 地域研究・関連諸科学編』(通号 3) [1968.12.00]
*13神崎和雄「イギリス団結禁止法(1799-1800)に関する試論」『関東学園大学紀要』10集
*14大前真「イギリス団結禁止法の研究--1799・1800年法と労働運動 」『人文学報』京都大 (通号 40) [1975.12]9
*15猪俣弘貴「ダイシ-と行政法についての覚書」『商学討究』(1989), 40(2): 55-79〔ネット公開論文〕 PDF http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/1625/1/ER_40(2)_55-79.pdf
*16鷹巣信孝「 職業選択の自由・営業の自由・財産権の自由の区別・連関性(四・完)- いわゆる「営業の自由論争」を参考にして」『佐賀大学経済論集』32(5) 〔ネット公開論文〕http://ci.nii.ac.jp/naid/110000451612/
最近のコメント