団結否認権の確立Right to Work lawが必要だ 下書き1-(31)
前回
http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/right-to-work-1.html
14世紀における共同謀議者令、労働者勅令からはじまってやっとこさ1906年まできた。といっても主従法系の法制史に全く言及していないが、ここでは法制史が目的ではなくて、非組合員の権利、争議行為、ピケットに関する法制について中心に見てきたわけである。
1906年労働争議法からヒース政権の1971年まではカーン・フロイントの云う、コレクティブ・レッセフェールの時代である。これはほぼ1906年労働争議法体制と云ってもよいが、この間はもう時間的余裕がないので大幅に省略することする。但し、実質的にコレクティブレッセフェール体制が大きく変化し、1906労働争議法の「免責特権」を縮小し「1901年のタフベール判決を部分的に復活させた」というほどの効果と評価されているのが1982年雇用法であり、こののちは80年代以降を中心に取りあげたい。
脈絡からいくと、既にブログに書いた「反労働基本権-実質的に団結権を否定し労働組合の免責特権を縮小した1980~90年代イギリス保守党政権の労働政策を賞賛する(1)」http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-2ac3.htmlと連結できるが、内容を書き換えてて「団結否認権の確立Right to Work lawが必要だ」ー下書きを続行する。
1901年のタフベール判決は、タフベール鉄道会社が、カーディフ駅でピケッティングにより、スト破りの労働者を雇用できなかった損害賠償として組合に2万5千ポンドを支払うよう命じた判決だが、労働組合は裁判所に対抗するために国会議員を出して、民事免責制定法を勝ち取る政治活動を行った結果、1906年の労働争議法で、労働組合に関する不法行為の訴訟は受理されないとした、いわゆる「民事免責」がなされ、事実上、労働組合活動の「法認」というかたちになった。つまり労働組合は「免責特権」を得たのであった。雇用契約違反の誘導、営業・仕事・雇用の妨害、個人の労働力処分の自由の侵害といったコモンロー上の不法行為であっても議会制定法で免責する在り方となった。組合員、役員をコモンローによって生ずる責任を負わずにすむようにした。これによって労働組合は強大化した。
ところで1906年の労働争議法から1960年代のイギリスの労使関係を「コレクティブレッセフェール」と呼ばれる。労働組合を法のコントロールから解放(個人の平等の概念に支えられた判例法の介入を阻止)して集団主義による労使関係の自由放任体制という意味ですが、オットー・カーン・フロイントが労使関係の議会制定法による介入抑制的姿勢をイギリス労働法の特徴として定義したことに始まる。
別の言い方では「免責特権」によりコモンローによる起訴から免れ、議会制定法による労使関係の介入が抑制されているなかで、労働組合が法的にしばられないで、自律性を有する体制であるが、国家は労使関係について中立的不干渉であり、経営者に組合を承認したり団体交渉応諾義務を課すこともないし、任意であるから我が国の「労働三権」のように積極的に政府が法律で労働組合や団体交渉を保護するという体制ではない。しかし実質的に、判例法から解放され、労使関係について制定法の干渉が抑制されることにより、労働組合が職場支配を強め、労働過程と労働供給を支配して、経営権より事実上の力関係で優位にたつことができる体制なのである。労使は敵対的であり事前のコンセンサスによる協調関係がないため、しばしば、利害調整不能な大規模な争議行為を引き起こした。
またコレクティブレッセフェール体制は、「ボランティアリズム」とも呼ばれる。小宮文人は「労使自治と任意的団体交渉の徹底的信頼と述べ、カーン・フロイントを引用して説明する。
「イギリスの労使関係は、主に、労使自治の形の形をとって発展してきた。この自治の概念は、基本的なものであり、立法および行政の実践に反映されてきた。それは、労使が自分たちで行為準則を形成し、その範囲内で準則を実施する仕組みを作り、文書による約束も合意も権利も義務も、一般的なにに言えば法的な性格を存しないのである。」(*44)
労働協約は法的性格を存しないというのは、判例法のコントロールを免除された法外的な領域での合意であり、そもそも法は容認しないということだろう。コモンローは(今もそうであるが)団結・団体主義に敵対的なのである。コモンローは本質的に個人の権利を守るのであって、労働者個人と雇用主の労働力取引・雇用契約について第三者の干渉、規制も悪しき「営業の制限」なのである。営業制限の法理や経営権に抵触するためだと考えられる。
私は明確にコレクティブ・レッセフェール=1906年労働争議法体制を悪と断定する。
既に前回、ダイシーやサー・フレデリック・ポロックという著名な法制史家が1906年労働争議法を激しく非難していることをダイシーの『法律と世論』という名著の第二版序文から引用したが、もう一人重要な人物が、1906年労働争議法を激しく非難している著書をたまたま発見した。法制史の泰斗、オックスフォード大学ヴァイナー講座教授ホウルズワースの西山敏夫訳『英米法の歴史家たち』創文社2009年(原著は1928年刊行)の142頁である
「民主国家は、かつての法律家や旧体制の政府と同じように、その国において法への尊敬を作り出すような立法をすることに成功するであろうか?.その答えは決して明白ではない.国王や貴族制は多かれ少なかれ、ある程度彼らが世論を懐柔する必要があるという事実を意識していた.民主国家における多数派は.たとえ小差であって.それが多数であるので常に彼が世論を反映していると考え.それ以上の反省なしにその気まぐれを満たすことができる.性急で計画性のない立法の結果は.法自身への軽蔑を招きがちである.イングランドでの目に余る事例は.労働組合を法のコントロールから開放した労働争議法(Trade Disputes Act)である。我々が最近になってその影響を被った経験は、伝統的なイングランドの法への尊敬をぶち壊すまでに至った手段を変更する必要性を強調した‥‥このタイプの立法における実権は、国民の法への尊敬を作り出すより.ぶち壊す方がずせっと簡単であることをみ証明している」
この著作は、1927年米国コロンビア大ロースクールの講演の記録であるので「最近になってその影響を被った経験」とはたぶん1926年のゼネラル・ストライキをさすものと思われる。1926年の労働損失日数は1億6200万日に及んだのである。ボールドウィン保守党政府は1927年労働争議・労働組合法はゼネストを非合法化し同情ストを違法としたが、同法は1946年のアトリー労働党政府に廃止された。(*45 15頁)
ホウルズワースは大著『イングランド法の歴史』16巻(1924年)を著した碩学であるが、ホウルズワースを引用している著書で私が知っているのは中川八洋氏の『正統の憲法 バークの哲学』中央公論新社2001年である。中川氏はホウルズワースの大業績たる1924年の大著が日本で翻訳されてないのは不可解だとしているだけでなく、17~18世紀のコーク、ヘイル、ブラックストーンという法の支配派ベスト・スリーを英国の正統憲法学とし20世紀に中継したのが、メイトランドとホウルズワースとしているように高く評価されるべき正統の法制史家である。(51~52頁)
中川八洋氏は保守主義がなんたるかを一般書で示したことで尊敬している。中川氏の立場は明確でありベンサム主義を激しく非難し、ダイシーの「国民主権」説を謬説として退け、隠れベンサム主義者であると喝破されている。
私も基本的に同調しダイシーを偽装保守主義者と見ているが、しかしホウルズワースはダイシーの『法律と世論』について天才の著作であると同時に法制史家のモデルとなるものだと云う評価を下しており(*46 83頁)、それはヴァイナー講座の先任教授であるため世辞かも知れないが、いずれにせよ、ダイシー、サー・フレデリック・ポロック、ホウルズワースと云う、イギリス法の何たるかをわかっている超一流の学者が、揃いも揃って1906年労働争議法を激しく非難している事実を重く受け止める必要がある。
*44 小宮文人 「イギリス ボランティアリズムの変容」『海外労働情報』2002年6月№325
*45小宮文人『現代イギリス雇用法』信山社2006年
*46ホウルズワース 西山敏夫訳『英米法の歴史家たち』創文社2009年(原著1928年)
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