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2010/06/27

感想 野田裕久編『保守主義とは何か』

 入手資料整理37 
 9719野田裕久編『保守主義とは何か』ナカニシヤ出版(京都)2010年

内容 
 まえがき
第1章:未来としての過去
   ― 古代ギリシャの保守と進歩の主旋律 ―
 渡邉雅弘〔愛知教育大学教育学部教授〕
第2章:ヒューム/バークの保守主義倫理
   ― 共同体主義を手がかりに ―
 松川俊夫〔東北文教大学短期大学部准教授〕
第3章:イギリス保守主義の二大源流
   ― ベンジャミン・ディズレーリとロバート・ピール ―
 戸澤健次〔愛媛大学法文学部教授〕
第4章:トクヴィルと『アメリカにおける民主主義』
 野田裕久〔愛媛大学法文学部教授〕
第5章:ボードレールと反=進歩の美学
 森誠一郎〔慶應義塾高等学校非常勤講師〕
第6章:果たして「保守革命」だったのか
   ― ドイツ憲法改革論議の諸問題 ―
 山崎充彦〔龍谷大学社会学部講師〕
第7章:民族・国家・帝国
   ― 大戦間期オーストリアの保守思想と国民国家 ―
 梶原克彦〔愛媛大学法文学部専任講師〕
第8章:ロシアの政治文化と保守主義
 河原祐馬〔岡山大学法学部教授〕
第9章:ハードウィック・ローンズリィとナショナル・トラスト
   ― 十九世紀末イギリスにおける保守主義の一断面 ―
 佐野亘〔京都府立大学公共政策学部准教授〕
第10章:日蓮主義的国体論の成立と展開
     ― 里見岸雄を中心に ―
 金子宗徳〔里見日本文化学研究所主任研究員〕
第11章:モンテーニュとオークショット
     ― 懐疑主義的保守主義の系譜 ―
 中金聡〔国士舘大学政経学部教授〕

 新刊書。野田裕久(愛媛大学教授)まえがきによると政治思想としての保守主義は多義的である。現代イギリスにおいては保守主義には「ワン・ネーション型」と「ニューライト型」があり、前者は混合経済、権利としての福祉、多元主義を是とし労働組合に協調的、道徳的にはリベラル、ヨーロッパ統合と主権の共有に前向き、後者は制限された国家、自由市場経済、セーフティーネットとしての福祉、個人主義的な市民な社会、労働組合に対抗的、道徳的には保守、欧州からの自立と主権の堅持を求める。
 私自身は後者に好意的だが、つまり名称は保守主義でも内実は正反対の思想なのである。そうすると保守主義の標榜は相当用心しなければならない。対立軸にある保守主義も批判しなければならないということである。ここでは、2つの論文について感想を述べる。

 
○ 戸澤健次「イギリス保守主義の二大源流― ベンジャミン・ディズレーリとロバート・ピール 」
 

ベンジャミン・ディズレーリはビクトリア朝時代の保守党の首相だが、こいつさえいなければという嫌悪すべき政治家の一人である。その理由は第一に世界で初めて労働組合を法認した1871年「労働組合法」制定当時の首相であること、第二は、1867年の第二次選挙法改正で都市の労働者に選挙権を拡大したことにより労働者階級に迎合することが政治の基調になってしまった大罪である。〔私はコレクティビズムと民主主義は悪という認識である。〕
この論文にあるように、そもそもディズレーリは「土地貴族の家系ではなく、イートン校もオークスフォード大学も卒業していない。それどころかイギリス国教会の信者でもなく〔下院議員になるため国教会に改宗〕、人種的にもやユダヤ人だった。」つまり偽物のイギリス人である。「ピールを徹底的に批判し‥‥貴族と‥‥労働者階級との同盟によってブルジョア思想を牽制し、国民が階層的秩序の中で、一つの国民にまとまることを夢想した」労働者階級の利益のための政治をやろうとした。「議会演説の巧みさ、迫力で他の議員を圧倒し、いわば議会対策的技量で保守党の指導者になった」ということである。要するに政治力があり雄弁であるためイタリア系ユダヤ人であるにもかかわらず指導者にのし上がったが、政治思想それ自体がかなり問題なのである。
 チャーチズム運動は1848年に抑え込まれて下火になったが、1870年代に選挙権拡大運動が再燃、1866年には選挙権拡大運動が暴徒化した。ディズレーリはこれに迎合して、選挙権拡大保守党政府案を提出した。それは都市では年6ポンド、地方では年20ポンドの税金・借地料を納め、二年間居住している全ての戸主というものだが、ピール蔵相ら有力三閣僚が拒否反応から辞任しているように、反対論も多かったのである。ディズレーリが貴族と労働者階級の同盟という馬鹿げたことを考えていなければ、世界に普通選挙は拡大せず、今日のような民主主義の拡大はなかったかもしれないし、何よりも労働組合の法認や争議権への拡大も防げたかもしれないという意味でディズレーリは悪の元凶との認識を持った。
 しかしディズレーリの政治も階層的国家を守るという観点で保守主義なのであり、ディズレーリの政敵であるピールも保守主義とされている。この論文ではイギリスではひとくちに保守主義といっても2つの潮流があり、サッチャリズムは自助と競争を基本とするピールの伝統の復活であるとしている。一方、現在のキャメロンは医療改革や社会問題の対処で成果を上げたいとしているので、ディズレーリの伝統への復帰という評価である。
 
 
○松川俊夫「ヒューム/バークの保守主義倫理― 共同体主義を手がかりに ―」

 コミュニタリアリズム(共同体主義)はマイケル・サンデルやアラスデア・マッキンタイアといったアメリカの哲学者によって展開されてきたが、著者は、ヒュームやバークもコミュニタリアリズム(共同体主義)であると主張している。
 ここではバークについて取り上げる。キーワードは「相続」と「偏見」である。
 「相続」については政治的な「財産」(マグナ・カルタや権利宣言)を先行する世代から「相続」する、それは政治体制だけでなく、「ヨーロッパ世界」が「騎士の世界」と「宗教の精神」の相続というように、政治的文化的遺産を相続してきたことによって成立し、歴史的生成物であることが強調される共同体にわれわれは属しているという自覚が明確にあるため、バークを「近代の古典的共同体主義者」とする。
 では、次のような私の主張はコミュニタリアリズムなのだろうか「夫婦別姓の意味する所は、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐという女性の日常道徳の基本の否定、つまり婚入配偶者の婚家帰属性の否定であります。これによって社会秩序の根幹となる道徳価値が否定されることになり、
 具体的には伝統的には『女大学』で示されてきてた、舅・姑の跡を継ぐゆえに、わが親より舅・姑を大切に思い、孝行を為すべしとする婦人道徳の否定である。「戸令」二十八の七出・三不去の制に「舅姑に事へず、心強き妻。ものねたみする妻」があるがまさに夫婦別姓を推進する女どもがこれに該当する。夫婦別姓論の女こそ、1300年以上の公定イデオロギーに叛逆する者として叩き出すべきなのである。」「 我が国の家族道徳の基本は孝子・順孫・義夫・節婦(総じて「孝義」賦役令の孝子・順孫・義夫・節婦の表旌)という儒教道徳である。‥‥律令国家の統治理念は儒教道徳による民衆教化なのである。それで日本は安定した社会の基盤を形成してきたはずだ。」

 これは、律令成立期以来の儒教的家族道徳の伝統の価値をいってますが、そういう政治的・文化的遺産を「相続」すべき義務があるとの認識を示した訳であるから、コミュニタリアリズムに接近した見解かもしれない。
 
 「相続」も重要だが、しかしバークの真骨頂は「偏見」「先入見」を肯定的に評価する所にあるように思える。
 例えば『フランス革命の省察』岩波文庫の次のような見解が引用されている。

 「偏見は人間の徳を人間の習慣へと仕上げ、決して一連の断片的行為のままに残さない。人間の本姓の一部になる。」(161頁)
 
 共同体の根ざした感情を離れ、理性を乱用することに反対し、むしろ父祖より引き継いだ感情、共同体の伝統を背負い込んだ「偏見」にこそ人間の徳を仕上げるといった趣旨と理解する。
 ところで、私は次のような見解をブログで述べてきた。
 
 反女性・女性敵視主義宣言(1)
 
ミルトンの『失楽園』(4・297-301)
男は思索と勇気のために造られていた
女は柔和さと美しく優雅な魅力のために。
男はただ神のために、女は男の内なる神のために。
男の美しく広い額と清らかな目は、絶対的支配を語っていた。(
註1)
 
 近代個人主義的友愛結婚の提唱者とされるミルトンですが、これは基本的に、西洋文明、ユダヤ・キリスト教の伝統に沿った性差別思想であり、男性の優越性の含意が看取できますから大筋で支持できます。ミルトンの性差別意識については批評者によって議論のあるところだが、フェミニストは上記の文脈をファロセントリスムの表明とみなしてますが、上記の見解は17世紀ならたぶん常識的なものでしょ。
 しかし、自分は古典カノン法の理念を尊重するし、ミルトンが離婚論で批判する教皇アレクサンドル三世は法律と行政の天才、規範提示者と思ってますからミルトンとは思想的立場が違うので、次のような独身の中世の神学者の見解のほうを好む。
 全科博士・熟練博士と尊称され、ギリシャ・イスラムの学問を同化吸収し、同時代人から「あらゆる学問の道に神的な人であるので、現代の驚異と呼ぶにふさわしい」「非常に明るくて普遍的な全キリスト教世界のあらゆる哲学者の太陽」と称賛され、その知識の広さと活動の多様性において、世界史のなかでも最も偉大な人物の一人であるアルベルトゥス・マグヌス(1206-80、列聖1931)は『動物論』で次のように主張する。
女性は男性よりも道徳には向いていない‥‥女性は気まぐれで好奇心が強い。女が一人の男と交わっているとき、彼女はできれば別の男と寝たいと思っている。女というのは誠を知らない。私の言うことを信じなさい。もしあなたが彼女を信用すると、あなたは失望するだろう。経験豊かな師の言葉を信じなさい。賢明な男ならば自分の計画や行動を妻にはわずかにさえ知らせないものだ。女性とは出来損ないの男性であり、男性に比べると欠点だらけの性質を持っている。だから内面は信用できない。自分で手の届かないものは、ごまかしや悪魔のような嘘で手に入れようとする。つまり短く言えば、毒蛇か角の生えた悪魔に用心するように、あなたはあらゆる女性に気をつけなければならない。もし私が女性について知っていることを言ってもよければ、世界中が驚くだろう‥‥女性は男性よりも賢明なのではなくずるがしこい(抜け目がない)のだ‥‥だから、悪い、自然に反した行動においては女性は男性より賢い、つまりずるがしこいのだ。彼女らの感情はあらゆる悪へ駆り立てる。それは理性が男性をあらゆる善に促すのと同じである。」(註2)
 さすがに全科博士は女の本質を見抜いていた。女を見たら毒蛇か角の生えた悪魔と思え。女はあらゆる悪を指向する傾向性がある。だから信用してはいけない。私はこの教えに忠実でありたいと思います。
 というよりも明確な性差別意識が正しいんです。『創世記』ヤハウェ資料において、女は男の補助者として創られたが、彼の誘惑者となり彼を破滅に導いた。神は女に次のように宣告した。「私はあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなおあなたの欲望はあなたの夫に向かい、彼はあなたを支配するであろう」〔『創世記』3・16〕。神自らが、妻に対する夫の権威を高めた。男性支配による社会的、法的、経済機構は神の認可にもとづく決定的な秩序なのであります。
 それがこの世の秩序、この文明の秩序なのであります。従って男性が女性の支配を抛棄するとは、神を蔑ろにするものであるから、フェミニズムへの敵意は当然であり、有害思想、女性尊重フェミニズムを駆逐すべく行動しなければならないと考える。
 この観点から古代教父の教えも当然引用したいです。まずスコットランド宗教改革戦争の理論的指導者で、カルヴァン派のスコットランド長老教会を誕生させたジョン・ノックス(1505-72)がジュネーブで1558年に匿名で刊行した『女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り』という著作ですが(註3)、これはイングランド女王メアリー・チューダーと、スコットランド摂政ギーズのメアリの統治に反対し、転覆する反乱のアジテーションという政治目的の文書ですが、宗教倫理的な事柄は古代教父を多く引用し、反フェミという観点でも優れた著作と思うので一部を引用したい。
 ラテン教父テルトゥリアヌスは女の服装に関する著作で女に対し「あなたは、あなた自身がエバであることを知らないのか。神の宣告は生きており、この種属に対して効力を持つ。この世にあって、あの罰もまた生きているのはしごく当然である。あなたは悪魔の港であり門である。あなたは神の律法の最初の違反者である‥‥」と語っている。
 東方教会最大の説教師で、コンスタンティノープル司教でもあったヨアンネス・クリュソストモス(聖人)は女に優先権を与えた男を叱って「男に悪しき助言を与える女をはねつけるのが男の役割である。男に有害な助言を与えた女の耳には、四六時中、エバに与えられた罪を聞かせてやらなければならない」又、神の宣告を引き合いに出し「‥‥あなたは神の許を離れ、あの悪しき動物と喜んで親しみ、その助言を受け入れようとしたゆえに、わたしはあなたを男に服させるのであり、あなたが男の支配を認めるようにと、わたしは明確に男をあなたの主に任じる。あなたは支配することはできないから。支配されることを学べ」又「たとえ男は堕落しているにせよ、男の上に立つ権威を女が奪い取ることは許されない」さらに「女性というものは短気で無鉄砲で、その貪欲さは地獄の底なし沼のよう、つまり飽くことを知らない」と教えております。
 
 アウグスティヌスは、「女はキリストに服するように男に服さなければならない。というのは、女は服すべき権威を体と肉から引き出せないので、肉が霊に服すように女は男に服さなければならない。現世の弱さと滅びのうちにある肉は霊にさからって欲望を燃やし求めるからであり、従って聖霊は女に対し肉が権威となりうるようなものを与えようとしない」と述べている。
 四大教父の一人、聖アンブロシウスは『六日間天地創造説』で「アダムはエバにだまされたのであり、エバがアダムにだまされたのではない。従って女が女らしい手軽さのために再び足をすべらせて堕落しないように、女が罪に誘い込んだ男を支配者として受け入れ認めるのが正しいことである。」又、「エペソ人への手紙」に触れ「女は主に向かうように夫に服従せよ。なぜなら男は女のかしら、キリストは教会のかしらで体の救い主であるからである。ところで教会はキリストに服しているのであるから、そのように女はあらゆることで夫に服さなければならない」さらに続けて「女は自然法により、男に服するように命じられている。なぜならば、男は女の作成者で創始者であるから。すなわちキリストが教会のかしらであるように、男は女のかしらである。教会はキリストに始原を持つのだから、教会はキリストに服する。同じように女は男に始源を持つのだから女は服従すべきである」と教えている。
 私はこうした古代教父の教えに忠実でありたいと考えます。ゆえにフェミニズムへの敵意は当然のことです。
 
 なお「女は男に始源を持つ」というのは現代科学の成果と一見、矛盾するようだが結論は同じことである。私は発生生物学は全く素人だが、たぶんこうだろう。つまり胎児はテストステロンの分泌によってはじめて男性になる。原型が女で、その特殊型・進化型が男です。祖型類人猿が原型で、その特殊型・進化型がヒトである。生物学では後から出てきたものが高等なのです。時系列的問題は本質的なものではなく、後から出てきた男が原型の女より高等なのであって、後から出てきたヒトがサルを支配するべきなのであり、サルがヒトを支配したり平等を主張することは容認できないから、結局生物学の成果は、聖書や教父の見解を補強するものと理解できる。
 
 そんな私の解釈は全くくだらないものであるが、四世紀に教皇によって編まれたものとされる『使徒教憲』は決定的な意義を有するもので、これは12世紀にグラティアヌスの教令集の中に広く受け入れられ、現代に至るまで重要な意味を持つ。
 「われわれは、女性が教会で教えるという仕事をなすことを許さない。彼女らは祈り教師の教えを聞くのみでなければならない。なぜならわれわれの師である主イエスは、民衆と異教徒に教えるため、われわれに十二人の男性のみを遣わされたのであり、決して女性をお遣わしにならなかった。女性がいなかったというわけではないのに。というのも、主の母とその姉妹、マグダラのマリアやヤコブの母マリア、ラザロの姉のマルタとマリア、サロメ、その他がいたのだから、であるから、もし女性にふさわしい事がらであるなら、彼自身が女性をお呼びになったであろう。しかし男が女の頭であるなら、体の他の部分が頭を支配するのは適当ではない」第三巻、六(註4)
 これが正統的な教会の規範である。ところが1994年に英国国教会のジョージ・ケアリー・カンタベリー大主教は女性司祭の叙任を容認した。このため不満を持つ信徒がカトリックに改宗したということが報道されていましたが、非常に不愉快であるとともに女性司祭容認のリベラルな教派には幻滅しました。こうしたリベラルな教会はもはやグノーシス派やカタリ派のような異端に接近してしまったといわざるをえません。現代はフェミニストの攪乱によって混乱に陥っています。
(註1)滝沢正彦「『失楽園』の夫婦像-「人間」への成長としての原罪-」辻裕子,佐野弘子編 『神、男、そして女 : ミルトンの『失楽園』を読む 』 英宝社 1997 28頁
(註2)ウタ・ランケ-ハイネマン著 高木昌史他訳 『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 238~239頁     
(註3)ジョン・ノックス著 飯島啓二訳「女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り」『宗教改革著作集第十巻カルヴァンとその周辺Ⅱ』教文館 1993
(註4)ウタ・ランケ-ハイネマン著 高木昌史他訳 『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 178頁 

 このブログにはコメントがついてませんが、フェミニストからは偏見だとの非難を予想しますが、私は次のように反論します。ここで引用したアルベルトゥス・マグヌスといった神学者、ヨアンネス・クリュソストモス、アウグスティヌス、アンブロジウスといった古代教父というのは、いずれも聖人で西洋を代表する重要人物である。この世界の規範提示者であり圧倒的な権威なのであり、西洋文明の遺産を「相続」し継承するという立場でも正しいし、ここで引用しているのはテルトゥリアヌスが晩年異端に走ったとされるが、それ以外は正統的な神学者であるし、引用しているのは正統的な思想である。 フェミニズム的なグノーシスこそ異端であって、「偏見」というものでは全くない。
 「女性は男性よりも道徳には向いていない‥‥女性は気まぐれで好奇心が強い。女が一人の男と交わっているとき、彼女はできれば別の男と寝たいと思っている」女とはそういうものなのだ。しかしそれでもフェミニストは「偏見」と言いつのるだろうが、仮に百歩譲って「偏見」とするとしても、バークの引用により、そのような「偏見」にこそ叡智があると反論できるのである。
 
 私が「偏見」の価値を認めるバークの思想に興奮したのはポリティカル・コレクトネスはまさにバーク主義故に、反対と主張できると思ったから。
 
 
 私は勿論、集団的誹謗表現の規制に反対であり、ポリティカルコレクトネスや法務省が進めている人権侵害救済機関の設置も反対でありますが、例えば、外国人に賃貸住宅を提供しなかったり、家賃滞納の猶予をしない大家を差別主義だとしたりするのは勿論、契約自由、財産権の侵害として強く反対します。望む人と取引をすることを認めないというのは重大に私権の侵害である。
 外国人を店子にしたくないのは偏見だと人権派は攻撃するだろうが、保守主義の立場からは仮に「偏見」であるとしても、「偏見」にも価値があり、それ故に契約自由という市民法秩序の侵害を正当化する理由にはならないと考えるものであります。

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