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2010/07/07

団結否認権の確立Right to Work lawが必要だ 下書き1-(35)

前回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/right-to-work-l.html

われわれが目指すべきは新自由主義-反労働組合改革立法である。モデルとしては、オーストラリアの1975~83年自由党フレーザー政権、1996~2007年ハワード政権、1979~1997年英国保守党サッチャー・メージャー政権、1990年ニュージーランド国民党ボルジャー政権の改革立法があるわけで、これらの離れ業的反労働組合立法はよく研究して応用していきたいと考える。
 池田信夫がスウェーデンを目指すという神野直彦の言う「強い社会保障、強い財政、強い経済」を批判してますがhttp://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51450517.html 私は、スウェーデンのようなコーポラティズム型の国家が大嫌いで目指す方向は逆である。
 メージャー政権時代のイギリスは年少者以外労働時間規制がなく、最低賃金も廃止した。非公認ストライキを違法とし、組合承認も経営者の任意とされ、政府は団体交渉を促す方針ではなく、個別契約主義を打ち出した。1990年代のニュージーランドの政策はもっと徹底的な新自由主義です。
 成長戦略というなら、労働者保護立法をすべてご破算にして、雇用契約の自由を促進し、企業のかかえるさまざまな労働法リスク(残業代未払い訴訟など)をなくして、よりビジネスしやすい環境を整える。集団的労働関係に拘束せず、個人がオプト・アウトを選択できる社会を目指すべきでしょう。以上は前置きでした。
 

1980年雇用法(労働組合改革の第一段階)

 70年代イギリスは経済的停滞とスタグフレーションの危機だった。しかも労働組合が個人の自由や国家をコントロールするまで大きな勢力となり、アナルコサンディカリズムの跳梁を許すトンデモ状況にあったと考えられる。
 カーン・フロイントのいうコレクティブ・レッセフェール体制とは、集団的労使関係への国家による法的介入の排除、裁判所による介入の回避、労使関係当事者による自治と労働条件決定、紛争解決を特徴する。この体制はドノヴァン報告において、非公認ストライキや組合承認のない職場のスト、協約違反ストの多さが指摘されたため、70年代に入って労使関係のフォーマル化を進める立法がなされ、例えば労働党による1975年雇用保護法ではフォーマルな団体交渉を促進する意味での組合承認制度が効果的に運用された。しかしその路線の結末が1978-9年の「不満の冬」だったといえるのである。1979年1月22日水道労働者,救急車の運転手,下水労働者,ゴミ収集人たちは皆仕事をやめたhttp://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/january/22/newsid_2506000/2506715.stm。リバプールでは,墓掘り人が死体埋葬を拒否したので死体が積み重ねられたままにおかれ,大きな非難を巻き起こした。ロンドンではゴミは山のようになって積まれたままで収集されずに散乱、それは市民が忘れることのできないひどさだった。
 ユーチューブの映像Dustmens Dispute-February 1979 http://www.youtube.com/watch?v=Je65Vw7ndro
 しかも労組は要求が通るまでストを続けると宣言。厳しい冬で生活を痛撃された市民に深刻な社会不安を惹起させ、ピケによる暴力沙汰は市民を憤激させたのである。
 コレクティブレッセフェール体制を制定法による規制と組合自治への介入の方向に転換したのがサッチャーであった。サッチャー・メ-ジャーと続いた保守党政権によって労働組合は社会的規制力の基盤を堀崩されることにより弱体化していったのである。これは世界史上、特筆すべき成果であると考える。その第一歩が1980年法である。

 イギリスにとって大陸欧州のコーポラティズム諸国と比較して、救いようがあった理由は、そもそも団体協約が私権(自分の財産を所有する権利)保護の絶対的なコモンローの基盤においては、営業制限の法理と経営権に反するものであるため(又、個人の労働力処分の自由に制限するものである)法的拘束力が否定され、争議行為が契約違反誘致等不法行為とされていた基盤のうえに、従って争議行為は制定法によって不法行為を免責し起訴できない特別な地位において(1906年労働争議法)、つまり集団的労使関係を法外的に処理されるべきものとしてコレクティブ・レッセフェール体制が成立していたということである。法外的に処理されていたものを市民法原理に引き戻せば正常化するのであって、この点、労働協約に法的拘束力をもたせ、労働者保護法の強固な外国と比較すると逆に新自由主義政策への転換も容易だったといえる。この点で80年代・90年代の保守党政権の改革はわれわれにとっても参考事例として詳しく見ていきたい事柄なのである。
 
 もっとも保守党は1971年のヒース政権でアメリカのタフトハートレー法をモデルとした労働改革を企てたが失敗したのみならず、1974年の全国炭坑労働組合(NUM)争議では石炭輸送妨害もあって電力供給不足が深刻化し、ヒース首相は労組の横暴に有効な対策が打てず、非常事態宣言で国民に耐乏を強いストを収拾することなく選挙に打って出て敗北する惨めな失敗を経験していた、サッチャーはこの轍を踏まぬよう10年以上をかけた漸進的な労働組合改革に着手していった。

 1979年5月の総選挙で大勝した保守党のマニフェストは、労働党政権の三悪を指摘し、その1つに労働組合に責任をもとめずに特権を与えて少数の極端な組合リーダーに手を貸し、それが個人の自由と国家の成功の機会を奪ってきたとしている。言い換えれば労働党政権は個人の自由と国家をもコントロールしてきたのは労働組合であるとして、自由競争経済を再活性化させるためにの労働組合の力を削ぎ落とさなければならいないとし、「労働組合改革」選挙公約の第一に掲げ、改革の柱として次の3点を示した。

①ピケッティングの改革
(平和的説得に限り、その対象を労働者の自己の職場に限り、あちこちの職場に移動して行う、フライング・ピケfrying picketing の禁止。

②クローズドショップの制限
(組合から排除された者の法的救済、クローズドショップ協定に対する多数の組合員の支持を得るための秘密投票の導入)

③組合運営への組合員の関与
(組合の決定形成に多数の組合員を関与させるための公的費用による秘密投票の導入)【*51】

これは1980年雇用法によって実現された。

クローズドショップの制限

○適用除外の拡大
 これまで労働者の「宗教的信念」を理由に非組合員でいる者にはクローズドショップ協定は及ばないとされていたが(1978年法58条3)、「良心その他深く保持された個人的信念」を理由に非組合員でいる者、およびクローズドショップ協定が効力を有する時に非組合員であった者にも同協定は及ばないとされた。

○投票制度の導入
 クローズドショップ協定(入職前・後)を適用するためには関係労働者の秘密投票によって80%以上の賛成を得て承認を得なければならないとして、クローズドショップ協定の投票承認制度を導入

争議行為の制限

○二次的ピケッティングの違法化
平和的説得による合法的ピケッティングの権利(1974年法15条)は労働者自身または組合員の就労の場所またはその近くで行われる場合に限定され、行為規範(code of  practice)でピケ人数を六人以下に限定。

○二次的争議行為の違法化

 争議当事者たる使用者と取引関係にある使用者に向けられる二次的争議行為に対する不法の免責を排除した。(二次的ボイコットともいう)

○クローズドショップを求める争議行為の違法化
労働者が組合員であることを強制するための争議行為の不法行為免責の排除(これも二次的争議行為という場合がある)。

団体交渉支援政策の廃止

○労働組合承認制度の廃止
 労働党政権による1975雇用保護法は助言・調停・仲裁委員会(ACAS)による労働組合承認(union registration )制度を設けていたが、廃止した。
 
○雇用条件の拡張適用制度の廃止
 1975年雇用保護法は、使用者団体または労働組合による申請があったときは、中央仲裁委員会は、当該労働協約所定の「承認された雇用条件」または、それが存しないときは当該地域において類似の環境にある使用者に「一般的な雇用条件」を順守するよう求める裁定を出すことができ、かかる裁定の内容が当該当該労使の雇用条件の内容になるとされていたが、これを廃止。
 
○労働組合スト投票等の秘密投票に対する公費の支出
 労働組合のスト投票、組合規約所定の選挙、組合員を代表する選挙、規約の変更、組合の合同に関する秘密投票につき、経費を国から公費で支出する制度を導入。
 【*51 *49】

 1980年法の意義
 
1 クローズドショップの制限
 
 イギリスでは被用者の雇い入れ前後を問わず組合員たることを要求するクローズド・ショップ協定という。
 米国では1947のタフト・ハートレー法によりクローズドショップ(入職前)を違法化し、ユニオンショップの在り方にも制限を加え、あらゆる組合保障協定を否定すること州立法を容認したが、イギリスでは、保守党ヒース政権の1971年法において団結の自由の実現として、被用者に対し、どの労働組合に加入するかの組合選択の権利および組合に加入しない権利を規定したが、労働党政権の1974年法により廃止されたが、1980年法から制限を課すようになり、 イギリスでは最終的に1992年法によりクローズドショップを違法としている【*38 249頁】が、1980年法は最初のステップとしてクローズドショップ協定の締結に当たっては秘密投票によって80%以上の賛成という要件等を課したものである。
 クローズドショップはクラフトユニオンに始まる慣行だが、労働市場の独占、組合組織力の源泉であった。、サッチャー政権の労働政策の基本になっている1979年ワーキングパーパーでは個人の権利を前面に出して、労働者の希望とは関係なく、特定の労働組合に加入することを強制するものとして批判していた。

2 ピケッティングの規制

 第一にフライングピケットを違法化したことである。これは全国炭坑組合NUMが1974年2月10日から全国270の炭坑で無期限ストライキに突入したが、このとき副委員長だったスカーギルが指導し、空前の混乱をもたらした遊撃ピケ隊のことである。 
 ハエのように移動して集まって石炭輸送を妨害した。鉄道労働者やトラック労働者も支援し、貯炭準備が乏しい状況で、石炭の発電所への輸送をピケ隊が妨害した。ために、電力供給不足は深刻化し、国民は暗くて寒い冬を経験し、ロンドンでは馬車が復活、オフィスではローソクをともす事態となった。
 NUMは30%の賃上げ要求に対し、ヒース政権は16.5%の増額を提示したが組合は拒否、ヒース国民に「イギリスを統治するのは政府か労働組合か」を問うて選挙に打って出たが敗北、結局労働党政権となって29%賃上げで妥結。全国炭坑組合の大勝利となったのだが、フライングピケットを許すと、個人の就労の自由を妨害する脅威となるだけでなく、物流をストップして空前の混乱をもたらした。これは当然規制されなければならないものだった。ピケは労働者自身または組合員の就労の場所またはその近くで行われる場合に限定され、その職場の被用者でない者が組合の動員でピケを張ることは違法とされたのである。
 第二に行為規範によりピケは平和的説得のみで6人以下とされ、大量動員ピケを禁止した。

 
3 秘密投票への公費補助

 これは組合民主化を進め、組合執行部の独断的行為の防止のためである。イギリスではストライキ批准投票をやらなかったり、投票では集会にて挙手など周囲の圧力でストライキに賛成するような傾向が多くみられたことから、ストライキ開始や役員選挙などで郵便投票にによる秘密投票を実施するため、公費支出を行うものであるが、既にオーストラリアでは、1973年に労働党政権で組合選挙の公費支出がなされ、1978年に自由党政権で組合選挙の郵便投票における強制しているが、この政策はオーストラリア法が先行モデルとしてあったのである。【*53 第1章】 

4 労働組合承認制度の廃止

 ピケッティングやクローズドショップの二次的争議行為の規制も勿論重要であるが、労働組合承認制度の廃止の意味も非常に大きいと考える。イギリスでは使用者が組合に団体交渉の席を認めることを組合承認(registration)というのである。
 もっとも、1960年代までのイギリスのコレクティブレッセフェール(労使のボランタリズム原則)体制では組合承認制度というものはなかった。それは経営者の任意なのである。従って、元々イギリスにはアメリカの全国労使関係法にある交渉単位制も交渉代表制、団交拒否に関する法規定しなく、我が国の労働組合法による団交拒否を不当労働行為とする規定はない。従ってコレクティブレッセフェールは本来、国家は労使関係に不介入、法外的に処理されるものであって、法的に団体交渉を促進するというものではなかったのである。
 ところがドノヴァン報告において非公認ストライキや組合承認のない職場のストライキ、協約違反ストの多さが指摘され、団体交渉のフォーマル化の推進が提言されたことから、1971年ヒース政権において労使関係法、労働党政権に代わってウィルソン政権において1975年雇用保護法において、労使間における組合承認紛争解決のための行政機関を設定し、特に1975年雇用保護法の組合承認制度は実効性を有していた。(なおブレア政権の1999年法において新しい組合承認手続きの制度ができたがここでは触れない)
 これは「助言・調停・および仲裁部」ACASという機関が組合承認手続を扱った。この機関は団体交渉の拡大が目的であり、行為準則を制定する役割があった。組合から組合承認の付託によってこの機関は動いて、調査の終了により使用者に組合の承認を勧告したりする。使用者が勧告不遵守の場合は、組合はこの機関に不服申し立てができ、調停が失敗したときは、この機関に組合が救済を求めることができ、労働諸条件について裁定を行うというものである【*54】
 このような機関の労使関係の介入はもはやイギリスがボランタリズム原則を放棄したものといってもよいが、短期間ではあったが実効性のある政策だった。
 これをサッチャーは1980年法により廃止したのである。 
 要するに、経営者側が組合を承認するか否かは自由となった。団体交渉は組合承認が前提である。80年代以降は経営者が組合否認をしやすくなったのである。
 1990年代の組合否認について【*52】132頁以下に具体例がありますが、例えば、ユニパート社http://www.unipartlogistics.co.uk/はシングルステータス、チームワーキング、業績給を提案するとともに組合を否認。これはアメリカの非組合セクターの企業文化を模倣したといってもよいだろう。
 1990年に組合承認率は低下し、組合員がいない職場が1984年に27%だったものが、1998年に47%に増加している。機械業や金属業で1990年に組合承認のある職場37%が、1998年に18%に減っている。
 もっとも1998年においても団体交渉適用率は34.5%あったわけだが、組合否認による団体交渉構造の崩壊、ショップスチュワードによる職場秩序の侵食、間接管理から、直接管理への移行、ヒューマン・リソース・マネージメントなどの非組合セクター型企業文化、業績給などの導入により、企業の生産性は向上、イギリス病といわれた停滞時代を脱することとなったのである。
 1990年代に組合否認が進んだことがその後16年の景気拡大といわれるイギリスが好調だった要因と考えるが、国営企業の民営化の過程でも組合が否認された。強制的入札制度も、組合セクターは入札で勝てるはずがないから、結局組合潰し政策なのなのである。民営化の狙いは組合否認による、労働組合潰しでもあった。

 
 
*38小宮文人『イギリス労働法』2001信山社 
*49家田愛子「ワッピング争議と法的諸問題の検討(1) 一九八六年タイムズ新聞社争議にもたらした,イギリス八〇年代改正労使関係法の効果の一考察」『名古屋大學法政論集』. v.168, 1997, p.105-150
*51林和彦「イギリス保守党政権下の労働市場の規制緩和(一)」」『日本法学』72巻3号 2006
*52田口典夫『イギリス労使関係のパラダイム転換と労働政策』ミネルヴァ書房(京都)現代経済長渕満男『オーストラリア労働法の基軸と展開』信山社1996
学叢書2007年12月
*53長渕満男『オーストラリア労働法の基軸と展開』信山社1996
*54山下幸男「イギリスにおける組合承認手続の廃止をめぐって (高千穂学園創立八十周年記念論文集)」高千穂論叢 57(2), p287-308, 1982

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