サッチャー政権の炭坑ストを迎え撃つ周到な準備
20世紀最長のイギリス炭坑ストUK miners' strike (1984.3.12–1985.3.5)における全国炭坑夫労組National Union of Mineworkers敗北の歴史的意義を明らかにしたいと思うが、今回はその前提として、70年代における炭坑ストの組合勝利と、仇敵となった炭坑労組スト対策として、保守党やサッチャー政権が周到な準備を行ったことを取り上げることとし、本論は次回以降とする。
1 全国炭抗夫労組ストに屈服したヒース保守党政権
1926年ゼネスト以来の全国規模の炭鉱ストライキが3回ある。1972年、1974年、1984-85年である。72年、74年は組合が勝利し、74年ストはヒース政権を倒壊させた。
1972年全国炭坑夫組合ストは、全国ストライキ投票58.8%の賛成率により1月9日から2月28日まで50日間の全国ストが行われた。地上労働者、週8ポンド、坑内9ポンド、切羽5ポンドの賃上げ1を要求し、結果的に27%賃上げを勝ち取り2、さらにヒース政権は炭鉱労働者に残業手当、有給休暇、年金で組合の要求に屈した。
組合大勝利の要因は当時ヨークシャー、ウーリィ支部代議員だったアーサー・スカーギル3の指令によって駆使されたフライングピケットflying pick方式だった。これはスト破りを防止するために、操業中の炭坑地域へ各地の炭坑から大衆的なピケ隊を動員するもので、物理的圧力で非公認ストを拡大させたり、同情ストを引き出す戦術でもあった。就労の阻止だけでなく、石炭・コークス輸送の阻止で効果があった。石炭・コークス供給貯蔵庫への運搬、搬出の妨害により発電所の燃料の供給を止めたのである。特に2月のソルトリーゲイトSaltly Gate貯炭場の封鎖は警察を攪乱して退散させ、警察の無能をさらけだし法と秩序の敗北と評価されている。政府は驚愕し、非常事態宣言によりエネルギー保全のため産業の操業を3日間としたが4、当時イギリスは電力の半分を石炭に依存しており電力供給危機によって政府は組合要求に屈したのである。
1974年ストは平均30%の大幅賃上げを要求し1973年11月23日要求で全国炭坑夫組合27万人が、時間外労働拒否闘争に入ることにより始まった。政府は非常事態宣言を発しエネルギー消費、食品の規制措置をとった。12月に国鉄機関士組合もストに突入したため緊急対策を発表、クリスマスから一週間全国の工場を全面休業とし、主要工場は週3日だけ操業を認め、各家庭の暖房は1軒で1室のみとされたため、1974年イギリス国民は暗くて寒い新年を迎えることとなった。
1974年2月、暖冬に助けられて予測より貯炭量が減らなかったためエネルギー相のピーター・キャリントン卿は、工場の操業を週3日から4日に延ばす決定を行ったことが全国炭坑夫組合を刺激し5すかさず80.99%という高率のスト賛成投票により1984年2月10日より全国270鉱山で無期限ストに突入した。運輸一般労組、国鉄労働組合、機関士労働組合も全面協力した。電力不足は深刻化し、ロンドンでは馬車が復活、蝋燭をともす光景も見られた6。
ヒース首相は「国を統治しているのは労働組合か政府か」を問うとして、解散総選挙に出た。国民は労働組合の横暴に怒っており保守党に有利とみていたのである。しかし2月28日の選挙結果は、労働党301議席、保守党297議席という4議席の差で敗北し、ハングパーラメントで比較第一党の労働党のウィルソンが首相となった。この選挙結果は国民に耐乏生活を強いながら、ストを収拾できなかったヒースを見放したと解釈できるが結果的に全国炭鉱ストは保守党政権を打倒したことになる。
ウィルソン政権が誕生するとストは解除され、満額回答に近い29%賃上げを勝ち取る組合の大勝利であった。
2 リッドレー報告書 The Ridley Plan (also known as the Ridley Report)
サッチャーは1975年保守党党首、79年の総選挙勝利で首相となるが、保守党内部ではヒース政権の失敗の轍を踏まぬよう注意深く周到なストライキ対策が立案されていた。1978年5月28日『エコノミスト』がリークした秘密文書「リッドレー報告書」(1977年7月8日)がその一つである。これはヒース政府の閣僚だったピーター・キャリントン卿を代表とする政策グループによって、保守党急進的右派議員N・リッドレーが中心となって国有産業政策をまとめた報告書であるが、これは経済政策というより労働組合と対峙する政府側の戦術を記したものだった。それによると、次期保守党政権成立後の1、2年以内に労働者からの挑戦が行われるだろう。主要な戦場は炭鉱、電力、ドックのいずれかの攻撃されやすい産業となるが、保守党政府は勝利が確実視されうる自己の土俵において勝負すべきであって、そのほかの産業分野では労働者の抱き込みに徹するべきとした。
炭坑ストに対する防衛措置の提案は以下のとおり。
●貯炭、特に発電所において最大限の備蓄を行うこと。
●非常時の石炭輸入計画を立てること。
●必要な場所への石炭輸送のため、前もって非組合員のローリー・ドライバーのリクルートを手配すること。
●全ての発電所に、できるだけ早く、石炭・石油両用の燃焼設備を導入すること。また電力・ガス産業の労組を敵に回すことを避け、これらの産業での平均を上回る賃金交渉に応じうる準備をすること。
●ストライキ参加者の生活保護費を断つこと。違法なストライキに対して刑事制裁で対抗するよりも組合資金を枯渇させることが有効であり、そのような法的手段の検討がなされるべきこと。
●ソルトレイゲイトにおける失態を繰り返さないためフライングピケット対策に準備がなされるべきこと。法を守るために装備し訓練され、機動性のある大規模な警察隊を持つことが、暴力的なピケを打ち負かす唯一の方法であること。
また、輸送会社が、警察の保護によってピケットラインを突破する「良好な非組合員のドライバー達」をリクルートするのが賢明な予防措置であること。
違法かつ暴力的な争議行為を阻止し法の砦を守る警察の強化が果たされなければならない等々。7
報告書の趣旨は着実に実行された。まず、貯炭である。労組との衝突を予想したサッチャーはヒース政権の3倍にあたる5700万トンの石炭を備蓄し、1984年3月ストライキ開始から9ヶ月たった12月の段階でも「まだ、十分な備蓄があります」といえる状態だった。8。炭坑労組は大量の石炭需要が発生する冬まで持ちこたえれば、政府の備蓄が底をつき、停電が続発して勝利すると踏んでいたがそうはいかなかった。11月末の時点で組合員総数18万6千人のうちスト参加者12万3千人に対して就労中の組合員が6万3千人9、このうち5万には当初からストに反対の組合員でスト脱落者は1万5千人ほどであるが、マクレガー石炭公社総裁はさらにスト参加者切り崩しの攻勢に出て、ストに参加している各組合員に対してクリスマスまでに職場に復帰すれば£1400のボーナスを年内に支給すると約束し、85年1月まで41%の脱落者が出た10勝負となる厳寒期に脱落者が続出したことで、ストの帰趨は決したのである。
次に、スト参加中の生活保護支給問題であるが、イギリスの制度では炭坑労働者の妻が無収入の場合週£21.45、11歳以下の子供がいると週£9.15加算、12-16歳の子供がいと£16.50加算するという公的扶助制度の受給資格があるが、1982年以降、ストの場合の社会保障給付は削除というサッチャー政府の方針で総額から£15差し引かれることとなっていた。なお、1984-85ストではNUMからのスト手当は無支給だった。ピケット参加手当の相場は1日£2~3に過ぎず少額である。このほか労働党が支配している地域では困窮救済措置があり、TUC加盟組合からの支援金があったが11スト参加者は経済的に苦しい状況に追い込まれたものと思われる。
次に、ストに対応する治安警察の訓練である。警察は1972年炭坑ストでスカーギルが指導したバーミンガムシャー・ソールトリーゲイト貯炭場のフライング・ピケットの対応不備を法と秩序の敗北と深刻に認識しており、危機に直面した政府は、警察機構の再編成に着手した。それは大量動員ピケッティングや二次的ピケッティングを監視する全国報告センター(NRC)と、暴動抑止のための警察援助隊(PSU)の設置によって具体化した。12
1984-85年ストで大量に動員されたのもPSUであり、スト開始後の数日間で8千人のPSUが動員された。一説によると、ブリテンの12万の警察官のうち2万人が暴動鎮圧訓練を受けていて、各地区警察はその10%の警察官をNRCを通じて相互援助することが義務づけられており、内務大臣は1964年警察法によってそれを行う権限が与えられている。最精鋭はロンドン警察で1983年に5千人が4日間の暴動鎮圧訓練をも受けており、相互援助で炭坑地帯に出動し、地元の警察にできない鎮圧を行った。131984年3月14日から1985年2月9日まで炭坑ストに投入された警察官の総労働日は21万3千労働日である。ただ1984-85年ストでは盾だけでなく警棒、騎馬隊、ガス弾やプラスチック弾の使用も検討されていた。しかし、暴力的な衝突は展開されたが、警官は通常の制服をまとい、群衆に警棒をふりかざすことはなかったとされている。騎馬隊も全面には出されなかったとされている。14
3 労働法改革-1980年雇用法におけるピケッティングの規制等
しかしも肝心要のスト対策とは労働法の改正であり、1980年雇用法により二次的ピケッティング、二次的争議行為等を違法化したことや、1982年雇用法で不法行為免責の対象となる争議行為の概念を狭くしたことが挙げられる。アーサー・スカーギルが得意としたフライングピケットと同情ストは免責を受けない行為となる。使用者が裁判所に差止命令を申請できるのであり、差止命令に応じなければ法廷侮辱罪が成立し逮捕、投獄されることとなる。
1980年雇用法16条において、1974年労働組合労働関係法第15条の平和的説得による合法的ピケッティングの権利を次のように変更した。
第15条(一)労働争議の企画または遂行のため、ある者が平和的に情報を得またはつたえること、あるいは他人に就労するようにまたはしないように平和的に説得することを唯一の目的として、次の場所に臨場することは適法である。
(a)彼自身の職場またはその近辺。
(b)彼が労働組合の役員である場合には、彼が随伴し、かつ代表しているその組合の組合員の職場またはその近辺。(以下略)15
ピケは労働者自身または組合員の就労の場所またはその近くで行われる場合にのみ適法とされ、さらに行為規範(code of practice-施行規則)において具体的な態様の規制が定められた。
暴力的、脅迫的、妨害的行為を伴うピケッティングは違法である。ピケッティング参加者はできるだけ説得的に自己の行為について説明しなければなせない。他の者を説明を聞くようにおしとどめ、強制し、自分達が求めている通り行動するよう要求してはなない。人がどうしてもピケットラインを越えようとする場合には、それを認めなければならない。
何者かに脅威を与えもしくは威嚇し、または何者かが職場に入ることを妨げるピケッティングは刑事罰の対象になる。規則に従わないピケッティングによって、その利益が損なわれる使用者または労働者は、民事上の法的救済を受けることができる。彼はこの行為に責任を有する者を相手どって損害賠償を求めることができるし、裁判所に違法はピケッティングの差止め命令を求めることもできる。
またマスピケッティング(大量動員ピケ)は平和的説得の試みという合法的なピケッティングではなく集団的示威であり、平和の侵害を惹起することになるだろうとしてピケ人数を六人以下に限定している。
さらに行為規範(施行規則)では「他人に干渉されることなく、合理的日常の事業を行う権利の保護。全ての者にピケットラインを越える権利を有するとしている」スト反対者の就労の権利を明確に示しているのである。16
なおピケ規制は、ピケッティングの法的定義のみでなく法を強制する方法、法の執行面が強化されなければならないが、行為規範(施行規則)では過度の人数に対するピケに対して、逮捕・訴追の可能性を警告し、その人数(6人に)広範な裁量を警察に認める規定を置いた。17
また1980年雇用法では二次的争議行為も違法とした。二次的争議行為とは、例えば雇用契約違反を勧誘または履行を妨害する相手が、その雇用契約上の使用者が、その労働争議の当事者ではない場合。たとえばストライキ中の工場に物品を納入するまたはサービスを供給する業者の通行・輸送を妨害する行為などだが、同情ストもこの範疇である。炭坑ストの有効性は、輸送部門(鉄道・船舶・港湾・トラック)や鉄鋼、電力関係の労組の支援、連帯なしには効果が半減してしまうのである。
そして1982年法において1982年法では労働組合および使用者団体に対する不法行為免責を規定する1906年労働争議法1974年の労働組合労働関係法14条を廃止、これにより1980年法により違法とされた二次的争議行為や二次的ピケッティングは労働組合により承認されたと認定されれば労働組合は免責を失い、自己の名において差止を課せられ、組合基金から損害賠償を求償されることがより明確となった。
実際の1984-85年炭鉱ストにおける他産業の労組の対応をみていくと、鉄鋼労組連盟はは1980年の13週間のスト敗北で組織が弱体化しており、NUMを支援する余裕などなく、製鉄所に輸される石炭運搬列車を阻止しようとしたNUMのピケットを妨害し、対立姿勢をとった。海員、港湾、トラック、鉄道の運輸一般労組は、NUM支援のために石炭・コークス輸送をボイコットしたが、一般組合員の反応は執行部と異なり全面的支持というわけではなかった。小規模の貨物運搬業者や未組織のドライバーはストに非協力であった。
またナショナルセンターのイギリス労働組合会議(TUC)は1983年に右派・中間派が主導権を握ったこともあり、表向きNUMを全面的に支援しピケットラインを越えた石炭・コークス・石油の運搬禁止、使用禁止、炭鉱地区の困窮を緩和する財政支援などを確約しものの、執行部右派や鉄鋼労組連盟の反対で、ほとんど効果がなかった。18
これは、二次的争議行為(二次的ボイコット)、二次的ピケッティングを違法化したため、同情ストやボイコットが明らかにリスクを伴う行為となっていたことが大きいと思う。結果的にNAMは最強の労組ともいわれるが、法改正で70年代のような同情ストで連帯していくことができず、孤立した闘いを強いることとなった。
4 アーサー・スカーギルArthur Scargillの委員長就任と、イアン・マクレガーIan MacGregorの石炭公社総裁任命
国営化企業である石炭産業の合理化、不採算炭坑の閉山はサッチャー政権の課題であり、ヒース政権を倒壊させた全国炭坑夫組合は仇敵でもあったが、対決ムードが高まるなかで1981年全国炭坑夫組合はイギリスにおける左翼最大のリーダーともいえる労働組合革命家アーサー・スカーギルを70%の得票を経て委員長に選出し1982年4月に就任した。
アーサー・スカーギルは炭坑夫の倅、若年から好戦的な男で、青年共産主義同盟の執行委員を務めた、1962年青年会議出席中でモスクワでフルシチョフと会っているが、1962年共産党と関係を絶つ。1969年以降ヨークシャー、ウーリィの非公認ストの活動家となる。この辺は「ヨークシャー・ソビエト」という好戦的な地域でもあった。1972年ヨークシャー、ソールトレイ・ゲイトの非公認ストライキにおける戦闘的なスト指導で一躍有名となり、1973年35歳の若さで全国炭坑夫組合ヨークシャー地区の委員長となった。19
対して、サッチャー首相は1983年9月石炭公社庁総裁にイアン・マクレガーを任命した。スコットランド出身、グラスゴー大学冶金工学科を出て、第二次大戦で戦車の鋼板の専門家として渡米、1996年鉱石・金属を扱うアマックの社長となり全米3位の露天掘りの会社に成長させた。石炭業にも力を入れ炭鉱労働組合つぶしで辣腕をふるった。イギリスに戻ってブリティッシュレイランド国営自動車会社や政権で英国鉄鋼公社の合理化と冗員整理で活躍し「人切りマクレガー」と恐れられた。20そのタフで反労働組合的手腕は、この炭鉱ストの対応でもいかんなく発揮された。交渉での非妥協性、組合の頭越しに直接組合員に行うスト離脱の何回もの呼びかけ。職場復帰者へのボーナス、何回にも及ぶ全国紙への意見広告である。
引用・参考文献
1 山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年 165頁
2 戒能通厚 『土地法のパラドックス-イギリス法研究、歴史と展開』日本評論社2010年「現代イギリス社会と法--炭鉱ストライキを中心として
3 早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010 73頁
4 ピーター・クラーク著西沢保他訳『イギリス現代史1900-2000』名古屋大学出版会2004 323頁
5小川晃一『サッチャー主義』木鐸社2005年 34頁
6山崎勇治 前掲書 170~171頁
7戒能通厚 前掲書385~386頁、田口典男『イギリス労使関係のパラダイム転換と労働政策』ミネルヴァ書房2007年第7章「労使関係のパラダイム転換の契機となった1984-895年炭坑ストの再評価」、山崎勇治 前掲書181頁、 早川征一郎 前掲書 7頁以下参照。 リッドレー報告書全文はマーガレット・サッチャー財団のホームページ参照http://www.margaretthatcher.org/document/110795
8梅川・阪野・力久編著『イギリス現代政治史』小堀眞裕 第7章「戦後コンセンサスの破壊 サッチャー政権 一九七九~九年-」ミネルヴァ書房2010年
9内藤則邦「イギリスの炭鉱ストライキ」『日本労働協会雑誌 』27(2) 1985.02
10 山崎勇治 前掲書 190頁
11田口典男 前掲書 204頁 内藤則邦 前掲論文
12古川陽二「イギリス炭鉱ストの一断面(外国労働法研究)」『日本労働法学会誌』(通号 69) 1987.05
13松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1
14家田愛子「ワッピング争議と法的諸問題の検討(2)完 : 一九八六年タイムズ新聞社争議にもたらした,イギリス八〇年代改正労使関係法の効果の一考察」名古屋大學法政論集. v.169, 1997, p163・165 【ネット公開】http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/dspace/handle/2237/5761
15 小宮文人「イギリスにおける一九八○年雇用法(The Employment Act 1980)の翻訳と若干の解説 」『法学研究』17(3)1982 北海学園大
16 小宮文人 前掲論文
17古川陽二 前掲論文
18田口典男 前掲書196~199頁
19山崎勇治 前掲書185~186頁 内藤則邦 前掲論文
20山崎勇治 前掲書 182~184頁、戒能通厚 前掲書
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