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2010年9月の23件の記事

2010/09/30

大竹文雄の育児休業批判

プロジェクト15(育児休業等女性政策廃止の提案)
 
育児休業に批判的な論者として大竹文雄(労働経済学ー阪大教授)がいます。
「視点 雇用政策に経済学的発想を」(『労働統計調査月報』1999年2月号)
PDFhttp://www.iser.osaka-u.ac.jp/~ohtake/paper/siten.pdfがインターネットで読めます。
「企業にとってみれば、育児休業中の企業負担社会保険料の分だけ、男性労働者より
質が高い女性労働者でないとそのコストに見合わない。結果的には、企業は女性労働者の採用数を減らすか、質の高い人だけを取ることになる。その結果、女性全体の雇用量は低下してしまうかもしれない。これは、少子化対策や女性の社会参加の向上という公的目的達成のために、企業という私的な部分に負担を偏在させたことが原因である。‥‥解雇抑制も育児休業法も、現在雇用されている労働者や女性には、プラスの制度として機能するが、まだ雇用されていない人々については、雇用機会を狭める働きをもつ可能性がある。」
 育児休暇など次世代支援育成対策の充実した企業に務めている女性は生涯所得は増加するとみられている。受益者は特定の社会階層の女性にすぎないということである。
 私が思うに高卒で就職を希望する女性、自営業、無職、出産のため離職し、子育て終了後に雇用機会を求める女性にとっては、企業が育児休業のコストを女子の新規雇用を抑制することによって転嫁するから、雇用機会を狭める働きによって実質不利益となると考えるが、そういう労働市場での競合関係など経済学的視点を全く無視した政策なのである。

 

2010/09/29

村木厚子復帰のほうがよっぽど悪であり有害-育児休業・次世代育成支援廃止論-その1

プロジェクト15(育児休業等女性政策廃止の提案)

 村木厚子は世間をこれだけお騒がせしたのだから辞めるべきなのに図々しくも内閣府共生政策担当政策統括官に起用され、ワークライフバランスや次世代支援育成など少子化対策等の、個人の自由と国家の経済成長にとってきわめて有害な政策の推進をやるということだが、全く不愉快である。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100927-00000037-mai-soci前田主任検事が叩かれてますが、「調書の作りは昔から」(『フラッシュ』10.12号102頁)あったことだからフロッピーなんてたいしたことじゃない。苦労人の説教じゃないがこの世の中、人をはめたりもっと汚いことはたくさんありますよ。ちっちゃなことじゃないですか。大目にみよう。検察に女性エリートたたきを期待していたのに村木無罪の結末がよっぽど不愉快だ。本当の悪はどちらですか、村木のほうが百万倍悪でしょう。なぜならば前田主任検事は私に悪いことはなにもしてない。私は村木のかかわってきた女性政策のため甚大な被害を受けている。

1 村木厚子がかかわった育児休業制度は極悪法である

(1) 育児休業制度は女性雇用に負の効果をもたらす

 育児休業制度や次世代育成支援政策は大多数の企業にとってインセンティブがないのに、労務コスト増を義務的に課しており、女性の新規採用の抑制に影響し、他の労働者の賃金や労働強化に転嫁されているのが実態であると考える。村木が主導した改正育児介護休業法では厚労相の勧告に従わない企業名の公表というペナルティを課すというが、ますます女性の新規雇用の抑制要因になると考える。
 
いくつかの実証的研究がある。
 
 脇坂明(「仕事と家庭両立支援制度の分析」猪木・大竹編『雇用政策の経済分析』東京大学出版会2001年)によると、従業員30人未満の企業で女性の採用を抑制する効果があると分析している  森田陽子「育児休業法の規制的側面-労働需要への影響に関する試論」『日本労働研究雑誌』536号 2005年2.3月合併号http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2005/02-03/においても、常用労働者30人未満の小規模企業において、新規雇用が年齢にかかわらず抑制されており、35~44歳女性の新規雇用、特に転職者の雇用が抑制された可能性が指摘されている。つまり出産時に退職し育児が一段落した後に労働市場に再参入しようとする従来の就業パターンをとる女性は、若い女性よりも社会保障費負担も含め労務コストが高いために、雇用が抑制され、不利になっている可能性を指摘している。
 また一橋大学2006年コンサルティング・プロジェクト渡邉祐紀「育児休業制度が女性労働者雇用に与える影響の分析」PDFhttp://www.hit-u.ac.jp/IPP/PEP/CPj/2006/watanabe.pdfによると一部の産業を除いて育児休業規制が女性雇用にネガティブな影響を与えているとし、企業は女性正規労働者の雇用量を減らし、賃金を下げることでコストを転嫁する可能性を指摘している。また、育児休業を取得し育児休業給付制度の受益者となっている女性のほうが、所得稼得能力が高いことが指摘され、自営業や無業者、育児休業を取得せずに子育てをする人(例えば水商売の女性のシングルマザーは育児休業や育児休業手当金はもらっているのだろうか)には援助がない点で垂直的公平性が保たれてないことを問題視している。育児休業制度や次世代支援育成が充実すればするほど、受益できる女性とそうでない女性の社会保障格差が拡大するという指摘である。
 つまり全ての女性が、長期雇用を前提とした企業で働いている訳でもないし、継続雇用を希望しているわけでもないのに、完全継続雇用を前提とした制度なので、はじめから特定の階層の女性だけに特典を付与する不公平な制度なのである。
 だいたい、戦後の電産型賃金体系(「本人給」と抱えている家族の数に応じて支給される「家族給」とを合わせた「生活保証給」)は女性の継続雇用を前提としたものではない、女性もダブルインカムで長期雇用を保障していけば、企業の労務コストはふくらむだけである。
 実証的研究をみるかぎり、育児休業制度は女性の雇用に負の効果をもたらす。若い女性もしくは、いったん離職して子育て終了後に就業しようとする女性の新規雇用抑制効果があるとみてよい。あるいは女性を正規雇用から非正規雇用に置き換えることでコストを転嫁していると考えられる。従って次世代育成支援は女性全体の利益にはなっていない。したがって村木厚子は全女性の敵である。前田主任検事より百万倍悪である。

(2)育児休業制度は労務コストを他人に転嫁する

 村木がかかわってきた次世代支援育成法、育児介護休業法等の女性政策のために私は甚大な被害を被ってます。つまりこうした政策の受益者となる女性に対して労務コストを他人に転嫁する特権を付与しているのが厚生労働省や内閣府の女性政策なんですよ。もちろんまじめですから業務を遅滞することないよう労務コストを転嫁されても必死に働きますが、しかし、私が怒っているのは 育児休業で休むためのカバーは業務を遅滞させないために、あるいは顧客第一主義のために、あるいは自分自身の内部労働市場に置ける価値(仕事のパートナーとの信頼感とか)を下げないために働くことに労苦を惜しまないのは当然としても、しかし受益者である女性は赤の他人に私事にすぎない出産や育児のためのコストのたを転嫁させて当然だという認識で休暇をとる。特権階級をつくっている制度に心頭なんです。
 つまりこういうことです。ワーキング・マザー・メディアのキャロス・エバンスCEOによると、仕事を持つ母親は、米国では平均で出産後11週で職場に復帰するという。 (ロイター通信の記事を見てくださいhttp://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-33601120080904アメリカでは連邦レベルで1993年に制定された家族医療休暇制度があるがマルチ・パーパス無給12週であること関連しているだろう。(適用対象者は50人以上の被用者を雇用する企業で、2000年のレポートでは私企業部門の82.2%が適用を免れている。但し、被用者全体の割合では58.3%が適用対象となっている)http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-f129.html、もちろん無給12週は法定最低限なので、個別企業によっては従業員福祉のためこれ以上厚遇している会社もあるだろうが、基準は12週だけ。我が国の次世代育成政策や育児休業制度ほど手厚いものでないことはいうまでもない。
 ところが、我が国の公務員はドイツ並みに3歳まで休業できるというのは明らかに厚遇しすぎである。(東京都水道局の次世代育成支援のための制度は註1のとおり)
 
 そもそも有給休暇はコダックが最初の例ともいわけめが、これは組合を組織させないための政策だった。アメリカは法定有給休暇がないので、我が国みたいに年間20日も与えている企業はそんなにないはず。従業員にやさしい業績の良い企業でもクリスマスシーズンと9日ぐらい。東京都水道局では16週の有給の妊娠出産休暇がありますから、単にそれだけでも、アメリカの無給12週(自分自身の疾病・けがで労働不能となった場合、家族の看護  、出産、育児をひっくるめて)しか法定してないこととは雲泥の差があります。
 しかも女性職員の休暇の取り方が非常にえげつないんですよ。育児休業と有給の妊娠出産休暇の前に、年次有給休暇20日、夏休み職免面もひっくるめて取れるものは全部取ります。これでもかというように休みまくりますから、ドイツなみに3歳まで育児休業がとれて育児休業手当金の所得保障もあるから休みまくりますよ。私の経験では最初の年が6月の半ばごろから休みに入って2年後の3月まで休んだケースですが、最初の年は代替職員がいないから、ほぼ一人分カバー、2年目は嘱託員で65歳でじいさんで、ばりばり働ける人じゃない。それでいてその女は、おまえは残業するなとと指図するわけで、労働組合なみに統制しようとするわけです。コストを転嫁しておいて、仕事するなじゃ、手抜きしろと言っているのも同然でこれほど反倫理的なことはない。
 私は夏休みは過去6年間全く取ってない。親が死んだ時も通夜の日の午前中は仕事をし、告別式の金曜日は休んだが、日曜に出勤してその分を取り返したので実質半日しか休んでない。忌引きで1週間休めるところを有給休暇半日ですましたわけです。業務繁忙期に最長で休日17日を含む59日連続出勤したことがあるが、その間、超勤手当を請求したのはつきあいで休日出勤のごく一部30時間だけ。育児休暇で代替職員のないときも定時で帰ることはほとんどなくて、相当残業してますが、超勤手当は請求してないので、コスト軽減に貢献していると思いますが。前回のエントリーでも述べたように、契約の自由を侵害する労働法は悪、ロックナー判決が正しい、反コレクティビズムと言っている訳ですから、労働法からオプト・アウトする。適用除外とする個別的自由を欲している訳です。労働は全て市民法的に考えますから、育児休業で一人いなくなれば一人分をカバーするため、業務を遅滞することなく遂行し事業のため、顧客のために黙示的誠実労働義務と文句もいわずに働きます。これは当然のことなんですね。残業代1円も請求せずにやります。実際、事実上の裁量労働手当もない裁量労働制的に働いてきた訳です。
   私が怒っているのはコストが転嫁されたことではないです。転嫁されようがどうだろうがマジメに仕事をします。そうでなくて我々は職業上の業績達成に重い価値をおく社会に生きているのに「仕事に打ち込む」権利を否定する、そういう価値観を持つ者を叩く政策だからです。育児休業の代替が嘱託員の65歳のじいさんで、悪い人ではなかったが、そんなにヤル気がないし、代替にはならない訳で事実上、私がカバーする。4月から毎日残業でやってたきて、夏休みもいっさい取らずに一日も定時で帰ったことはないのに残業しないと仕事が回っていかない状態なのに、8月にノー超勤ウィークと言う管理職主導のる超勤拒否闘争の指令があり、ノー超勤の理由が男性の家事参加、育児参加を促すためと言うことですが、これほど腹立つことはない。育児休業の労務コストを転嫁されてるうえに多くの仕事を抱えていたから、ノー超勤どころじゃないに、非常に官僚主義的に業務遂行を妨害して特定女性の利益を優先する。
 特定の女性の利益のために労務コストを転嫁されるうえに、個人の労働力処分の自由を完全に否定されることに憤怒怨念と言うことです。
 
 客観的にみて、長期の育児休業等のコストの転嫁、本来他人に守備範囲だったジョブも転嫁されて仕事するのは生産的でないです。長時間働いても、他人がほっぽり投げた仕事の尻ぬぐいとか、働いてない分をカバーしているだけなので生産性は向上しない。業績目標達成も雑務にとらわれることが多いがらマイナスに作用するということです。
 しかしアメリカ並みに出産後11週のブランクだけというなら、他人の私事の犠牲になって働く分がそれだけ減りますから、生産性は向上する。業績達成もしやすくなるわけです。
 村木のかかわった次世代支援育成や育児休業によりコストが転嫁され業績目標達成を阻害された。そのために内部労働市場に折れる自分の価値を高めることの阻害要因になってしまってますから、明らかに被害を受けてます。村木厚子が敵というのはそういう理由であります。

註1)    私の職場である東京都水道局の次世代育成支援の女性や子持ちの男女に与えられている特典として次のようなものがある。
 
女性職員対象

1 妊娠症状対応休暇
○つわりや軽い妊娠高血圧症候群等により勤務が困難な場合
○1回の妊娠について2回まで、日を単位として合計10日以内で必要と認められる時間

2 母子保健検診休暇【有給】
○医師等の健康診査などを受ける場合
○妊娠中に9回以内及び出産後に1回、あるいは妊娠中に10回以内で必要と認められる時間

3 妊娠通勤時間【有給】
○通勤時の交通機関の混雑が著しい場合
○正規の勤務時間のはじめと終わり、またはどちらか一方、60分以内

4 妊娠・出産休暇【有給】
○妊娠中及び出産後を通じて16週間(多胎妊娠の場合は24週間)

男性職員対象

5 出産支援休暇【有給】
○妻の出産時に子の養育その他家事等を行う場合
○出産直前又は出産の日の翌日から2週間の範囲で2日以内(日・時間単位)

6 育児参加休暇【有給】
○妻の産前産後の期間に育児に参加する場合
○出産の日の翌日から出産後8週間を経過する日までの期間で5日以内(日・時間単位)第二子の場合は第一子が小学校就学前なら産前8週間(多胎妊娠では16週間)の期間でも取得可。

男女とも取得可

7 育児時間【有給】
○生後1歳3ヶ月未満の子どもを育てる
○1日2回それぞれ45分、合計90分以内
○夫婦それぞれ1日1回ずつ、2人の合計時間が90分以内で取得も可

8 育児休業【無給だが育児休業手当金の支給あり】
○3歳未満の子どもを養育する場合
○原則として同一の子について取得は1回のみ。ただし夫婦で取得する場合は「育児休業等計画書」の提出により交互に2回取得可
[共済組合の育児休業手当金]
 給付日額の上限額 9,306円
(内訳)平成22年3月31日以前に育児休業を開始した職員
 ・休業中支給分 5,583円
 ・受給期間終了6か月後支給分3,723円
 給料月額が327,470円以上の場合は、給付上限額を(給料月額は調整額を含む)
 給料日額=給料日額×50/100×1.25(円未満切棄て)(一般職)
 (給料日額=給料月額×1/22(10円未満四捨五入))

9 育児短時間勤務
○小学校就学前の子どもを養育する場合
○勤務形態は4パターン
(1)1日3時間55分×5日
(2)1日4時間55分×5日
(3)1日7時間45分×3日
(4)1日7時間45分×2日+3時間55分×1日
○給与月額は勤務時間数に応じた額

10部分休業【無給】
○小学校就学前の子どもを養育する場合
○正規の勤務時間の始めと終わり、又はどちらか一方、2時間以内(30分単位)

11子どもの看護休暇【有給】
○小学校3年生までの子どもを看護する場合
○職員1人につき暦年で5日(子どもが二人以上いる場合は10日以内)日・時間単位
夫婦とも職員の場合は子どもが二人以上いると、それぞれが10日休暇を取れる。
○小学校就学前の子ども予防接種又は健康診断の場合でも取れる。

 これ以外も共済組合から支給される特典もあるが省略する。

2010/09/27

武富士に同情する

消費者金融大手武富士の会社更生法申請のニュースを見て思ったことを述べる。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100927-00000141-jij-bus_all
 20世紀末全盛時代の武富士のレオタードCMは好評だったことを思い出します。6月の改正貸金業法の施行がとどめになって業績回復の見通しが立たず、自力再建を断念したと伝えられている。総量規制で金が回らなくなって困っている人はたくさんいると思う。これは悪法ですね。政府と弁護士が消費者金融たたきをやったのは間違いだと思います。
 私がもっとも気の毒な思ったのは2003年残業代不払い事件で5000人の従業員及び退職者に35億円を支払わされたことである。この当時の労働法律旬報がいま手元にないので、正確に引用できないが、年収700万でしたか、そういう高給をもらっている人がさらに残業代よこせとやっているわけです。700万ももらっている人は文句いうべきではないですよ。河村学のサイトhttp://homepage2.nifty.com/karousirenrakukai/15-109=takefujizangyodaihubaraijiken-kawamura.htmによると残業代は月25時間までは払っていた書かれているてます。それ以上は、超勤打ち切りということですが全然悪くないじゃないですか。労働基準法が異常に労働者を保護して、契約自由を侵害していることが問題なのであって、三六協定なんてよそのく国にない。労働基準法こそオーバーホールすべきです。ホワイトカラーは裁量労働制か適用除外とすべきです。この時、プロビジネスの立場で武富士を擁護する声があってもよかったのではないですか。月100時間の残業が状態と書かれてますが、ホワイトカラーならそのくらい熱中してやったほうがいいですよ。この事件で大阪府労働局が強制捜査を行ったことで、時間外労働が企業にとってリスクと認識されるようになったということです。ビジネスの世界に非常に悪い影響を与えました。実際、9月25日の日経では、トヨタでは事務・経理の残業を原則禁止していたが、若手・中堅の人材育成のためやはり残業が必要と認識され解禁となったと言う記事がありますが、管理者のほうが残業を倦厭するようになったことによって、そうとう勤労意欲を萎縮させてます。管理者くるみで超勤拒否闘争ごっこをやる馬鹿な国になったから中国にら負けても仕方ないですね。何度も言ってますが林・プレスコット説で明らかなように、失われた十年といわれる90年代以降の我が国の経済低迷の要因は一つは時短です。さらに時間外労働訴訟でリスクを抱えるようになったことでしょう。
 私は一ヶ月土日全日ほぼフルタイム出て、平日は九時、十時は当たり前で、120時間以上残業しても、日経連の全ホワイトカラー裁量労働制に賛成だと言ってましたし、反コレクティビズム、ロックナー判決支持ですから、残業は黙示的誠実労働義務という市民法原理でやるという趣旨で1円も請求してませんよ。妊娠出産・育児休業等で休暇で女子職員が7月から2年後3月まで休んだケースで1年目が代替職員なし、2年目に嘱託員で65歳のじいさんが配属されたわけでずか、実質、私が一人分近くカバーして、平なのに係長級相当の業務もやった。その間定時で帰ることはほとんどなく、相当残業をやってますが、2年間で休日出勤の40時間ぐらいしか請求してない、育児休業による労務コストをほとんど吸収してしまってますから。仕事をしない職員の分も全部カバーして、それでも黙示的労働義務としてひとことも文句はいってない。次世代育成支援との名目で女子職員は王様扱いで労務コストを他人に転嫁する特権が与えられているためですが。

2010/09/26

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(5)

前回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-84c6.html

7 Battle of Orgreave
 
 ストライキは泥沼化し、多くの炭坑夫が当初のような熱意を失い、発電所の持久力はたいしたことはないと言うスカーギルの予想に疑問を抱くようになった。そこでNUMの指導者はピケ手当を増額するとともに非炭鉱労働者までかき集めて、目標を定め、大量のピケ隊をそこに集中してあっといわせる作戦を展開することととなった。〔註1〕
 1984年5月29日南ヨークシャー、シェフィールド郊外にあるオーグリーヴ・コークス工場の貯蔵所から、スカンソープの鉄鋼工場へのロ-リーによるコークス輸送を阻止するピケ隊7000人が集結し、National Reporting Centreにより全国10のカウンティから集められた警官隊8000人と激突、煉瓦や石、投げ矢をはじめ、ありとあらゆる物が警官に向かって投げられ、逮捕者82名、負傷者69名(うち警官41名)。5月30日にも衝突は続いてスカーギル委員長を含む35名が逮捕された。力の激突では装備され訓練されていた警官隊が優位となり、ピケ隊を排除した。〔註2〕

当時の映像
Orgreave-29th May 1984
http://www.youtube.com/watch?v=ZsRmDLD089M
Barton's Britain: Orgreave
http://www.youtube.com/watch?v=AvoDGnSHizs
ECE-5: The Battle of Orgreave: On Re-enactment and Protest
http://www.youtube.com/watch?v=3gRgaXib0Sc:

Miners and police clash at Orgreave
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/may/29/newsid_2494000/2494793.stm

 5月30日サッチャー首相はバンバリーで演説を行った。「昨夜の事件は皆さんもテレビでご覧になったでしょう。いま行われているのは、法の支配に代えて、暴徒による支配を持ち込む行為です。これは絶対に成功させてはなりません。自分の意思に従わない相手を、暴力と脅迫で強要する一派がいますが、彼らは二つの理由で失敗するでしょう。第一には、優秀な警察が控えているからです。警察はよく訓練され、勇敢かつ公平に任務を遂行しています。第二は国民の圧倒的多数は、立派な人格を備え法律を遵守する、尊敬すべき人々であるからです。こうした人々は、法律の順守を望み、威嚇には屈しません。ピケラインを突破して戦場に赴く人々の勇気には、心からの賛辞を贈ります。‥‥法による支配は暴力による支配に、必ず打ち勝ちます」これは、ピケを破って就労する労働者に賛辞を贈ったことで、名演説だと思う。〔註3〕
 6月8日8000名の炭坑夫がロンドンでデモ中、警官隊と衝突100名を逮捕。
 6月15日西ヨークシャーのフェリーブリッジ発電所で、ピケ隊の一人がローリーの車輌に巻き込まれて死亡。
 6月15-16日炭鉱街モールトビーでの2晩の衝突により45名逮捕。うち炭坑夫20名
 6月18日再び、7000~8000人のピケ隊がオーグリーヴにはられて、警官隊と衝突、投石と3台の車が放火され、逮捕者93名、負傷者80名(うち警官28名)。スカーギルも負傷し一晩入院した。警察指揮官が「ひとりの死者も出なかったは奇跡である」と語った。〔註4〕
 5月末から6月のオーグリーヴ攻防戦がピケ隊と警官隊の激突のヤマ場になった。新聞・テレビは3月から連日のようにストの行方を報道していた。警官はよく訓練され勇敢だった。スカーギルのフライングピケットを繰り出す戦術も今回は成功しなかった。

The Battle of Orgreave, June 18 1984 http://www.historicalfilmservices.com/orgreave_account.htm
[PDF] A PHOTO-ESSAY BY JOHN HARRIS臨場感のある写真
http://www.coldtype.net/Assets.07/Essays/0507.MinersFinal.pdf
The iconic Orgreave photograph
http://news.bbc.co.uk/local/sheffield/hi/people_and_places/history/newsid_8217000/8217946.stm

〔註1〕山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月) http://www.kitakyu-u.ac.jp/gkj/2007_sr42_2-4.html
〔註2〕松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1991 山崎勇治 前掲論文 早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 93~94頁
〔註3〕山崎勇治 前掲論文
〔註4〕松村高夫 前掲論文

原子力空母ジョージ・ワシントン抗議集会に2700人

 私の職場(東京都水道局)の組合掲示板(全水道東水労)に横須賀ヴェルニー公園における9月25日のジョージ・ワシントン母港化撤回のための集会参加のよびかけが掲示されてましたが、ヤフーニュースによると主催者発表で2700人参加したそうです。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100925-00000031-kana-l14当然、東京都水道局職員も行ってるでしょうが、一方で、尖閣の漁船衝突事件との関連で青山繁治氏が先週のアンカー(ぼやきくくっくりで発言が読める)http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid886.htmlと本日のサンデースクランブルで発言していることですが、米海軍と海上自衛隊との間で原子力空母ジョージ・ワシントンのさりげない派遣が検討されているとか。
 私が思うに原子力空母GWが脅威じゃなくて、中国の空母建造のほうがよっぽど問題じゃないか。あまり軽口を叩きたくないでずが、思いやり予算を減額しないで、ジョージ・ワシントンを派遣してもらった方が良いのではないか。なんてことは職場では死んでも口に出せないのでブログで感想を書きました。

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(4)

前回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-0f35.html

5 鉄鋼労組同情スト拒否、発電所組合同情ストせず

 『ジ・エコノミスト』1984年12月8日号は、もし電力労働者と輸送労働者が固く団結してNUMを支援していれば勝っていただろうと言う〔註1〕。1972年1974年の炭坑ストは関連産業労組の同情ストによって、石炭供給を止め、深刻な電力供給危機をもたらし、大幅な賃上げを勝ち取ったのであり、74年はヒース保守党政権を打倒とした。しかし1984-85ストでは同情ストが広がらなかった。その要因のひとつは1980年雇用法や1982年雇用法で二次的争議行為を免責から排除したことである。従って同情ストはリスクのある行為となっていたことである。
 同情ストは1926年ゼネストの翌年のボールドウィン保守党政権の労働争議労働組合法で違法とされたが、1946年アトリー労働党政権で廃止された。1971年ヒース保守党政権は1971年労使関係法において二次的争議行為を不公正労働行為と規定したがね実効性に乏しく1974年ウィルソン労働党政権によって廃止された。
 しかしサッチャー保守党政権において、1980雇用法によって合法的ピケッティングの権利は労働者自身または組合員の就労の場所またはその近くで行われる場合に限定され、二次的ピケッティングを禁止し、争議当事者たる使用者と取引関係にある使用者に向けられる二次的争議行為に対する不法の免責を排除した。1982年雇用法においては免責の対象となる「労働争議」を「労働者とその使用者」等と規定して、「企業内争議」に限定して免責の範囲の規定したほか、1974年の労働組合労働関係法14条を廃止して1980年法により違法とされた二次的争議行為や二次的ピケッティングは、労働組合により承認されたと認定されれば労働組合は免責を失い、自己の名において差止を課せられ、組合基金から損害賠償を求償されることを明確にした。
 1984年3月29日運輸関係の海員、港湾、トラック、鉄道など6つの労働組合は、炭坑ストを支持し石炭・コークスの輸送をボイコットすることとした。しかしランクアンドファイル、つまり一般組合員の反応は執行部と異なり、必ずしも全面的支持というわけではなかった。〔註2〕とくにトラック運転手組合は、港湾労働者その他による威嚇、妨害を断固としてはねつけた。〔註3〕鉄鋼労組は1980年13週間のストで敗北し、鉄鋼公社は5万人の人員削減が実施され組織は弱体化していたこともあり、コークスが供給されなければ操業不能となり職場を失う危険のある同情ストを拒否、製鉄所に輸送される石炭運搬列車を阻止しようとしたNUMのピケットを妨害し対立姿勢を明確にした。〔註4〕
 鍵を握っていたのが発電所の労働者である。政府は石炭の備蓄を強化していただけでなく、石油への転換も進めていた。原子力発電も14%をしめており、炭坑ストで電力危機に陥った1974年とは状況は異なっていた。
 電力公社は1984年3月末にオランダ、ロッテルダムの重油買いつけで5千万ポンドを使って事態に備えていていることを発表している。
 発電所の労働者に炭坑ストを支援する意思はなく、組合指導者も同情ストに賛成しなかった。
 このように、鉄道や港湾労働者に炭坑スト連帯の動きがあったが、同情ストは拡大しなかった。NUMは9月にナショナルセンターTUCの全面的支持決議支援を取りつけることに成功しているが、その実効性は従来と異なり余りなかったとされている。その理由はTUCや大労組幹部が指示してもランク・アンド・ファイルにはそれだけの指示がとおらなくなった労働運動の現実があった〔註5〕。このことは、もはやイギリスの労働者階級が階級闘争で一枚岩になるような社会ではなくなったし、保守党政権が、組合の集団的権利よりもランク・アンド・ファイルの個別的権利と組合民主主義を強調した労働政策の成果ともいえるだろう。

6 マスメディア報道は政府・石炭公社に好意的

 3月末までにノッティンガムシャーへのフライングピケットは警察の介入に抑えられつつあり、ピケッティングの重点は石炭生産のできる限りの阻止とともに発電所や鉄鋼工場への石炭輸送の阻止に移っていった。サッチャー首相は4月9日議会において、仕事に就くことを希望する炭坑夫を守ることにおいて、警官隊は多大の成果を上げたと述ベた。保守党と大多数のマスコミは、警察介入よりピケッティングバイオレンスを非難した。〔註6〕ピケットラインの暴力行為は報道価値があったし、過去の事例、1974年炭坑スト、1977年グランウィック写真処理工事用ストのピケットから投げられた瓶で警官が負傷した事件、1980年鉄鋼ストに置けるピケットと非組合員の対立なども報道された。マスメディアの多数が政府・石炭公社寄りの報道だったことが1984-85ストの特徴といわれている。〔註7〕また、スカーギル委員長が、炭坑ストが階級闘争であり、資本主義国家を打倒するため法律を超えた行動も容認されると発言したことは、一部の炭坑夫を鼓舞しても、世論は支持していなかった。NUMに同情的なメディアとしては『ガーディアン』が挙げられるが、労働組合寄りの『ガーディアン』ですら、スト突入の3月12日に、勝てるストライキと思えないとして全国投票なしのスト突入に批判的だったのである。〔註8〕

 4月17日セント・ジェームズ広場にあるリビア大使館から発泡がありデモ行進の警備にあたっていた婦人警官が殺された。NUM幹部はストライキの資金援助のためカダフィ大佐と会見までしていたのだ。5月23日石炭公社とNUMの幹部はスト突入以来初めての会合をもったが、石炭公社の説明に対し、スカーギルは埋蔵石炭の枯渇という理由以外の閉山は討議する必要はない。採算性の観点など論外だとまくしたて、閉山計画の全面的撤回以外話し合いには応じないとして決裂した。〔註9〕

〔註1〕中村靖志『現代のイギリス経済』九州大学出版会1999 208頁
〔註2〕田口典男『イギリス労使関係のパラダイム転換と労働政策』ミネルヴァ書房2007年198頁
〔註3〕山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月) http://www.kitakyu-u.ac.jp/gkj/2007_sr42_2-4.htm
〔註4〕田口典男 前掲書 199頁
〔註5〕元山 健「サッチャー主義--社会民主主義的コーポラティズムの終焉--覚え書き」『奈良教育大学紀要. 人文・社会科学』34(1) 1985.11
〔註6〕早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 93頁
〔註7〕田口典男 前掲書 213頁
〔註8〕早川征一郎 前掲書 90頁
〔註9〕山崎勇治 前掲論文
   

サッチャー政権のエネルギー相・財務相ナイジェル・ローソン卿は温暖化通説を批判

 たまたま、1984-85炭坑スト当時のエネルギー相で石炭備蓄の責任者だったナイジェル・ローソン卿を調べていたら、ローソン卿が厳しいIPCC批判、温暖化通説批判http://premium.nikkeibp.co.jp/em/column/yamaguchi/35/index.shtmlをやっていて「EU(欧州連合)が、世界に(CO2削減の)例を示すことで自らの経済に大きな損害を与えてしまうこと。‥‥気候変動の議論が、再生可能エネルギーなど高コストのエネルギー源を選択することによってコストを押し上げ、欧州経済の活力を奪うこと、さらには、世界経済を支える自由貿易体制にも干渉しかねないことを危険な行為である」http://blogs.dion.ne.jp/spiraldragon/archives/8050069.htmlと警告していることがわかった。
 この意見に同感である。大局的にみてEUの政策には問題点が多い。

2010/09/25

菅直人も漢字が読めない

麻生元首相は漢字が読めないことでさんざん叩かれたが、菅直人も23日(日本時間)国連での演説で「疾病(しっぺい)」を「しつびょう」と読み違えたことが報道されてる。http://www.j-cast.com/2010/09/24076666.html
http://www.youtube.com/watch?v=Dw_efrR0WYA

2010/09/23

中華民国駐長崎領事が大正九年に尖閣諸島を日本帝国領と認めていた感謝状

頑張れ日本全国行動委員会幹事長の水島総が本日のチャンネル桜の番組で、中国の強硬姿勢に対抗するため、米軍と自衛隊の共同利用のレーダーサイトを尖閣に建設することを提案したいと言ってます。それなら軍艦を出さずに摩擦がなくすむかもしれない。台湾防衛のためにも必要だとのことです。賛成します。http://www.youtube.com/watch?v=MyDcYGuJuIg&feature=youtube_gdata 尖閣諸島が我が国固有の領土であり、中華民国もそれを認めていた証拠がいくつかあるから、インターネットでもっと流すべきだとかテレビで言ってました。ちょっとあおられましたので、その一つをアクセス数の少ないブログですが流します。

 産経記者の阿比留瑠比プログhttp://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1806841/大正8年、中国・福建省の漁民31人が尖閣諸島魚釣島で遭難救助された際、中華民国駐長崎領事から玉代勢孫伴氏らに送られた感謝状(仲間均著「危機迫る尖閣諸島の現状」より引用された写真)
花うさぎのブログhttp://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1805079/が琉球新報の2005年6月15日「尖閣は日本の領土」遭難救助の中国政府感謝状に明記という記事を紹介してます。
 1920年、当時の支那共和国(中華民国)駐長崎総領事の感謝状には、遭難救助の場所を日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島と書かれてますので、当然のことながら尖閣諸島は日本帝国領だと認めていた証拠である。

2010/09/22

「25日は原子力空母ジョージワシントン横須賀母港化2周年抗議集会に行こう」と掲示板に

職場(東京都水道局)の全水道東水労の掲示板にシルバーウイークのイベントが掲載してあって「9月25日(土)は横須賀ヴェルニー公園で11時から開催される原子力空母ジョージワシントン横須賀母港化2周年抗議集会に行こう」とか書かれてました。

 2年前の横須賀入港阻止全国集会では4800人を動員し。民主党の那谷屋正義参院議員、社民党の福島みずほ参院議員も参加した。4800人の動員力と言っても侮れない勢力だと思う。 今年1月30日(土)14時~日比谷野外音楽堂で開催された「普天間基地はいらない 新基地建設を許さない 1・30全国集会」(市民団体「フォーラム平和・人権・環境」などでつくる実行委員会の主催)は自治労や日教組などの労組、市民団体などから約6千人(主催者発表)が集まり、銀座をデモ行進した。   http://www.labornetjp.org/news/2010/0130shasin 反戦・反基地集会だと 民主党系・社民党系だけで東京なら5千人は動員力があるということである。
 我が国の場合、組合保障協定、ユニオンショップが認められ、組合に圧倒的に有利な制度で、官公労の組合はユニオンショップはなくても職場を支配力があるし、内部運営規制が殆どなくて、団体自治が強調されすぎて、組合員の統制力も強い。組合の政治活動に巻き込まれていきやすい状況が多分にある。国民全体は保守的でも、左翼勢力を温存するようなしくみがあるわけです。
 アメリカのタフトハートレー法のような団体行動をしない消極的権利や、労働組合員たることを要求できない制度、ランドラム・グリフィン法のような労働組合の内部運営規制立法をこれまでやってこなかった、つけが回っていると私は考えます。
 誰もやらないから私がやります。タフト・ハートレー法型の消極的権利の保障は悲願なので、是非やりたいと思っている。ミスター共和党のロバート・タフト上院議員がもっとも尊敬している人物の一人だから。
 頑張れ日本全国行動委員会が10月2日(土)に中国の尖閣諸島侵略糾弾!全国国民統一行動をやるということですが、これまでの実績だと少なくとも2千人ぐらい集まるだろうが、私もたぶんいかないし、左翼のように東京だけで5千人も動員力はたぶんない。
 だからデモ隊の数だけでいけば、尖閣侵略反対より、普天間撤去、ジョージワシントン母港化反対のほうがずっと重要だ。そちらが多数派ということである。

2010/09/20

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(3)

前回 http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-6d81.html

2 ナショナル・リポーティング・センターの役割

 3月13日にロンドン警視庁のナショナル・リポーティング・センター(NRC)の 機能が再開された。*1NRCは全国の二次的ピケッティング、大量動員ピケッティング(1980年雇用法で違法)を監視する。内務大臣には1964年警察法によって各管区警察の相互援助を行う権限が与えられ、各管区の警察はその10%の警察官をNRCを通じて相互援助することが義務づけられており、*2管区間の協力活動を調整し、フライング・ピケットに対抗する警官隊の派遣・移動を指示する指令本部がNRCである。内務省と密接な連絡をとりながら独自の判断で警官隊を派遣する組織である。
 警察は1981年 に起きた都市暴動を教訓に、必要な準備と訓練が行われていただけでなく、すでに1983年11月のメッセンジャー争議において、出社を望む従業員を数の力で阻止するようなことはさせないという、断固とした態度を示し、ピケ隊が目的地につく前に押し戻し混乱を防いだ実績もあり、*3炭坑ストを迎え撃つ態勢は整っていた。

3 ノッティンガムシャーにおける攻防戦

 反ストライキ派の中心がノッティンガムシャーである。マクレガー石炭公社総裁自身「ストライキ全体の鍵を握るのはノッティンガムシャーとそこの3万1千人の炭坑夫である」 *4と述べたように、ノッティンガムシャーの25の炭抗の石炭産出量は全国の4分の1にあたり、この地域で就業を望む労働者の威嚇を目指す大規模ピケ隊に対し、警察隊を介入ささせ、ここの就労を確保する必要があった。
 事実上の全国ストに突入した3月12日に早くも、既に9日からストに突入しているヨークシャーから、ノッティンガムシャーの反ストライキ派労働者を威嚇し就労を妨害するためのフライングピケット300人が送り込まれ、3月中旬から下旬はノッティンガムシャーにおいてピケット隊と警察隊の衝突が繰り返された。
 3月14日にピケ隊と警察の最初の衝突がノッティンガムシャーのオラートン炭坑で起こった。200名の炭坑夫のうち10名が逮捕され、3人の警官隊が負傷を負った。*5
 ノッティンガムシャーとダービーシャーでストライキ賛否投票がなされる予定となっていた。 *6規約の55%以上に達することは困難であり、否決されれば、NUM主流派にとって不利になるため、ピケッティングは投票の妨害も目的となっていた。投票に向かう労働者がピケ隊によって阻止される恐れがあり、サッチャー首相は働く意思のある労働者を助けること、暴力による脅迫を阻止することを強く訴えた。*7
 3月15日はピケ隊223人を逮捕。ノッティンガムシャーのオラートン炭坑でピケ隊の26歳の労働者が死亡した。死因ははっきりしないが、ピケ隊と警察の衝突のなかで発生した死亡事故だったとの説*8 のほか、就労派を5000人のストライキ派がの取り囲み押し合いになっている時に死亡との説*9がある。まさに死闘である。
 サッチャー側近のレオン・ブリタン内務大臣はピケ隊の人数が限度を超えた場合に押し戻し解散させる権限を含めて必要な権限があること。政府は暴徒に屈する意思はなく、働く権利は守られなれればならないことを国民に訴えたが、*10内務大臣が警察に指示する権限は制約があるため、マイケル・ヘイヴァーズ法務総裁より1980年雇用法行為規範(施行規則)に基づき大量動員ピケを規制し、どのような抗口でも6人を越えてはならないと指示が出された。 *11また、警察の実力行使の権限には判例法(コモン・ロー)に基づき乱闘が十分予想される場合は現場に向かうピケ隊を阻止する権限も含まれることも示された。 *12
 3月16日にノッティンガムシャーの組合員はスト賛否投票を決行した(投票の時だけピケを解除したという説もある) *13反対票が73%であった。17日には中部、北西部、北東部の炭鉱地帯でも投票が行われ、スト反対が圧倒的多数をしめ、投票者総数七万人のうち五万人がスト反対で操業を求めた。 *14
 このことは労-労対立の構図がいっそうクリアになったことを意味する、ノッティンガムシャーなどイングランドミッドランドの炭鉱地帯、ランカシャーでは民主的な手続きを経てストを否決しているにもかかわらず、スト投票も行わずストに突入し、反対派の地域に押しかけ暴力・威嚇・脅迫によって就業を阻もうとするNUM主流派という構図である。
 3月18日に警官隊の大量動員が開始され、3000人の警官隊が、ヨークシャーからのフライングピケットを防ぐためにノッティンガムシャーに派遣された。またケント州の炭坑夫が16台の車でノッティンガムシャーに向かう途中、ダートフォードトンネルで警察にブロックされた。 *1519日までに8000人の警官がノッティンガムシャーの就労保護の警備を行った。ピケ隊1に対し警官3の割合であるので警官隊がピケを抑えるのは時間の問題となった。 *16 
 この時期の労-労抗争について山崎勇治のインタビュー記事によると、4000~5000人のピケ隊が事務所を取り囲み占領したが、1万2000人のスト反対派組合員がピケをはね除けて入坑したという。 *17装備で実力が上回っている警官隊の投入は効果があった。ピケも強化されたが、高速道路等の検問も行われて、ノッティンガムシャーの炭田地帯州内に進入してくるピケ隊を乗せた車輌をブロックし、抵抗いる組合員を逮捕した。
 3月22日にはノッティンガムシャーなどミッドランド(イングランド中央部)の42の炭坑で生産が維持された。 *18
 3月23日警察はノッティンガム全州を包囲し、フライングピケットの同州の出入りは不可能となる。 *19 なおノッティンガムシャーは大阪府より少し大きい面積である。外部から侵入するピケ隊から就労派組合員を守るための警備であった。
 全国197の炭坑のうち3月末の時点で大半の炭坑はスカーギル率いるNUM主流派が掌握していたが、警官隊の大規模介入もあって、ノッティンガムシャーなど重要な炭田地帯の操業を維持することができた。これはスカーギルにとって誤算だったといわれている。

4 ノッティンガムシャーに車で移動中のピケ隊の通行阻止、抵抗した組合員を逮捕する警察権限について
 
 
  英米法学者の戒能通厚は道路遮断、検問によって現場に向かうピケ隊を乗せた車を阻止する警察の権限を批判している *20。ウィキペディアによると戒能通厚は元民主主義科学者協会法律部会理事長ということだが、私はそのように労働組合に好意的な立場には反対なので一言批判しておきたい。
   1984年11月にNUM弁護団は、ピケラインから1.5マイル以上も離れた制止地点で「平和の破壊」breach of the peaceが切迫した状況にあるという理由で、車の進行を阻止し、抵抗した組合員を逮捕した事件で、ノッティンガムシャー警察長官を違法な警備活動として訴えた。Moss V. Mclachlan[1985]IRLR76争点は「切迫したimmitent平和の破壊」が存在したか否かであったが、判決は「暴行が発生する実質的危険」があり、当該場所に「一団の者たちが出現していたというだけで、警官の採った阻止行動は十分に正当化されると判示し、NUM側の「警官には他の場所での経験、またはテレビや新聞で見聞きしたことを考慮する権限はない」という主張を退けた。 *21
    実際には20マイル離れたところでピケ隊を乗せたトラックを阻止した例があり、戒能通厚は平和の破壊がさし迫っているとはいえない状況での道路遮断と非難しているが、私は裁判所の判断で良いと思う。
  ピケラインが暴力的な状況でピケ隊の方に死者も出ていること。山崎勇治氏が当時のノッティンガムシャー組合員ロイ・リンク氏のインタビューを行っているがそれによると、「働きたかった人々に対する暴力が非常にあった。家は攻撃され、家族も攻撃され、人々は入院を余儀なくされた。子供は殴られ、家族も攻撃され、妻は攻撃された。」としている。凄惨なリンチがあった。リンク氏自身、岩が投げ込まれて事務所の机を直撃し壁に穴をあけた。岩に当たっていたら即死だったろうと言っている。 *22
  スト突入まもない時期なので、フライングピケットも「スト破り」憎しで感情も高ぶっているだろうし、殺気だった状況において、彼らが現地に向えば、乱闘が起こす実質的に危険があったとする裁判所の判断で正しいと考える。
  歴史的にみれば労-労抗争で悲惨な出来事は枚挙にいとまない。1825年の国会の特別調査委員会によると、1824年 団結禁止法撤廃のおかげで「多数のストライキがおこり、そしてそれらのストライキには暴力と抑圧が伴った」調査によるとダブリンでは2名が殺された。スターリングシャーのある鉱夫は殴られてほとんど殺されかかった。アイルランドで70~80人が負傷し、そのうち30~40人が頭蓋骨を打ち砕かれた。硫酸をあびせることは、スコットランドでは少なくとも1820年頃からはじまり、多くの人が火傷をうけて、生涯の盲となった。またスコットランドのある炭坑夫組合では組合に五ポンド払うまでは、炭坑夫として働くことを許されないなかった。海員組合の一つも、乗組員がすべて組合員でないと航海しないことを宣言したという *23   ことが報告されている。
   1866年のシェフィールド事件は組合を脱退した労働者が、ストライキされている使用者のところで働いたために、眠っている部屋を火薬で爆破された事件で、警察は1100ポンドの懸賞金をかけて情報を求めたが、この事件は研磨工組合の書記ウィリアム・ブロードヘッドが計画し、実行犯は、組合の基金から200ポンドを支払ったことが明らかになった。   *24。この事件をきっかけとして、世論は労働組合を激しく非難した。
   歴史は繰り返しており、今回ももし、このようなフライングピケットに対する警備がなされないなら、ピケラインの暴力化と迫害でもっと悲惨なことになっていたと考えられるのである。  従って、道路遮断、ピケ隊移動の検問を批判する戒能通厚の見解はスト指令に従わない者は威嚇され脅迫されるのは当然だという労働組合主義思想を前提とするものではないかと私は疑問に思ったのである。
     
   
  私のピケットに対する基本的な考え方は19世紀の尊敬すべきアール卿やプラムウェル判事といった良識的な裁判官の見解の認識と同じであり、つまり労働組合主義は個人の自由に反し、ピケッティング(監視)は恐喝の一形式という認識である。 *25 よって、平和的説得、ピースフルピケッティングであってもそれ自体脅迫であり、あるいは他者の権利を侵害する共謀(コンスピラシー)として違法とすべきであると考える。ピースフルピケッティングであっても本来は共謀法理により犯罪とすべきなのである。
   アール卿は「労働者が団結し他の労働者をその労務から去らしめる場合は、たとえ平和的説得もしくは金銭の供与によってなされたとしても、そして何ら契約違反を生じせしめないとしても、使用者に対する害意をもってなされる限り犯罪である」 *26  と述べている。つまりピケッティングの外形的行為いかんにかかわらず相手方の取引行為や労働力処分を妨害するという害意に基づく共謀でなされている以上犯罪とされるべきなのである。共謀法理が適用されないのは政治家が労働組合に迎合した制定法によるものであって、私は判例法が正しいという考え方である。
  従って私は、1980年雇用法(Employment Act 1980)を優れた立法政策と評価するものの6人以下でのピースフルピケッティングを是認していること自体、最善のものとは考えてない。http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/right-to-work-l.html
  しかし、にもかかわらずEmployment Act 1980の意義を賞賛するのは次の理由である。同法はピケット自身の就労場所またはその付近にピケッティングの対象を制限し、その行為規範(施行規則Code of Practice)において、ピケッティングの区域は、ピケット自身の通常使用出入り口付近に限定し、それ以外の出入り口でのピケッティングや事業所施設の無許可立入は禁止され、民事責任を負うと定め、さらに脅迫的侮辱的言動、暴力的行動、脅迫行為、交通妨害、凶器所持を伴うピケッティングは、刑事上の犯罪とされ、警察官はピケットの人数を制限できるとした。 *27またピケットの人数については6人以下と明記し、制限されるものとしたが、決定的には、交通妨害を犯罪としたことである。我が国の労働組合法では暴力の行使を違法としているが、脅迫・妨害については言及がない。そこに大きな欠陥があるが、イギリスの1980年法の行為準則は、脅迫と妨害を違法とし、大量動員ピケッティング警察で排除できる内容である点で、これで満足はしないが、就労したい労働者にと最低限の権利性が示されたこということである。
  我が国のプロレイバー学者には、スクラムを組んで立ちふさがることを容認する学説もあるわけだか、それに比較すれば交通妨害を犯罪とし、行為規範(施行規則Code of Practice)において他人の干渉されることなく、合理的日常の事業を行う権利の保護。全ての者にピケットラインを越える権利を有すると記されていることで、個人の就労の権利を擁護する方針が明確に示したからである。 *28
   実際、法の趣旨に沿ってサッチャー首相は1984年5月30日にバンバリ-において次のような演説を行った。
    「‥‥自分の意思に従わない相手を、暴力と脅迫で強要する一派がいますが、彼らは二つの理由で失敗するでしょう。第一には、優秀な警察が控えているからです。警察はよく訓練され、勇敢かつ公平に任務を遂行しています。第二は国民の圧倒的多数は、立派な人格を備え法律を遵守する、尊敬すべき人々であるからです。こうした人々は、法律の順守を望み、威嚇には屈しません。ピケラインを突破して戦場に赴く人々の勇気には、心からの賛辞を贈ります。千‥‥法による支配は暴力による支配に、必ず打ち勝ちます」 *29
   サッチャー政権は組合民主主義を推進する立場であるが、ここでは組合民主主義に反するスト指令も当然非難されるべきことだが、端的にスト破りを賞賛したことで価値のある発言である。つまり。労働組合主義者からは「スト破り」と悪罵が投げつけられる、就労派組合員であるが、サッチャー首相は最大級の賛辞を贈ったのである。
   このサッチャー演説はコレクティビズムの終焉と、個人の自由と権利が尊重される時代への転換を意味したことで、私はベルリンの壁崩壊以上の意義をもつ演説として高く評価する。
    要するにパラダイム転換である。サッチャーは規範提示者とになった。スト指令に従わない者は、裏切り者として、暴力や脅迫、迫害におよぶのは当然という、それは労働組合主義の価値観にすぎないのであって、市民法的には、他人に干渉されることなく合理的日常の事業を行う権利があり、当然就労の権利がある、それな正常なあり方であり、その権利を擁護したのがサッチャーの労働法改革であった。
  我が国においても、プロレイバー労働法学者には労働者は労働者階級という集合的人格に吸収されるのであって、個人の自己決定の自由は否定されるべきものだ。スト指令に従うのが労働者階級の倫理であると高説を述べる人がいる。要するに労働者個人の労働力処分の自由を完全に否定して組合の指示に拘束されなければならないという思想、つまりコレクティビズムであるが、それは19世紀~20世紀に流行した一つの特定の思想に価値相対化されるべきであって、この思想は個人の選択の自由、財産権、個人主義と相容れない。またアダム・スミスが、国富論において『各人が自らの労働のうちに有する財産は、他のすべての財産の根源であり、それ故にもっとも神聖であり侵すべからずものである。貧者の親譲りの財産は、彼自身の手の力と才覚に存するのであり、彼がこの力と才覚とを彼が適当と思う方法で隣人に害を与えることなく用いることを妨げるのは、この神聖な財産に対する明らかな侵害である。それは、労働者と、彼を使用しようとする者双方の正しき自由に対する明白な干渉である。[そのような干渉]は、労働者が彼が適当と思うところに従って働くことを妨げるものである』という契約自由の思想と明確に対立するものである。
   私が思うに、利他主義としての集団主義や同胞の結びつきや連帯を、利己主義より美しいという考えからコレクティビズムを正当化するのは過ちである。宗教的、倫理学的な隣人愛とは、私とは全く面識も利害関係もない無関係の他者にする無償の愛、つまりカリタスであって、仲間内での結びつきのことではない。
     サッチャー主義はコレクティビズムを葬り去る、労働法改革(実はメージャー政権でもっと徹底された) を行ったこととしいうことが大きな業績なのである。

*1 早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 91頁
*2松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1991
*3山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)
http://www.kitakyu-u.ac.jp/gkj/2007_sr42_2-4.html*4小川晃一『サッチャー主義』木鐸社2005年 118頁
*5 松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1991
*6山崎勇治 前掲論文

*7 前掲論文
*8 早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 91頁
*9山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年 
*10 山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)
*11元山 健「サッチャー主義--社会民主主義的コーポラティズムの終焉--覚え書き」『奈良教育大学紀要. 人文・社会科学』34(1) 1985.11

*12山崎勇治 前掲論文
*13山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年 241頁
*14山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)
*15松村高夫 前掲論文
*16松村高夫 前掲論文
*17 山崎 勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年 243頁

*18早川征一郎 前掲書 92頁
*19松村高夫 前掲論文
*20戒能通厚 『土地法のパラドックス-イギリス法研究、歴史と展開』日本評論社2010年「現代イギリス社会と法--炭鉱ストライキを中心として395~396頁
*21古川陽二「イギリス炭鉱ストの一断面(外国労働法研究)」『日本労働法学会誌』(通号 69) 1987.05
*22山崎勇治 前掲書  239頁、241頁。
*23佐藤昭夫『ピケット権の研究』勁草書房1961 135頁
*24浜林正夫『イギリス労働運動史』学習の友社2009年 137頁
*25A.V.ダイシー 清水金二郎訳『法律と世論』法律文化社1972年」 210頁

*26片岡曻『英国労働法理論史』有斐閣1952 198頁 

*27家田愛子「ワッピング争議と法的諸問題の検討(1) 一九八六年タイムズ新聞社争議にもたらした,イギリス八〇年代改正労使関係法の効果の一考察」『名古屋大學法政論集』. v.168, 1997,  141頁   http://hdl.handle.net/2237/5752
 
*28小島弘信「海外労働事情 イギリス 雇用法の成立とその周辺-二つの行為準則と労働界の反応を中心として」『日本労働協会雑誌』22巻11号 1980.11

*29山崎勇治 「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)73~74頁

2010/09/18

ネットではやはり岡崎トミ子国家公安委員長起用が非難されている

 岡崎トミ子は民主党結党時の副代表なので、序列からいえば入閣は当然かもしれないが、2003年ソウルの日本大使館前で行われた韓国の慰安婦問題支援団体が主催する日本政府糾弾の反日デモに参加したことは、ばっちり写真もあるので無難な人事とはいえない。

 花うさぎのブログ「公安警察にマークされるべき人間が 日本の「警察を管理」する立場って?」
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1801940/

 依存症のひとりごと「 国家公安委員長が岡崎トミ子だと(怒)」http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2010/09/post-4f74.html

菅改造内閣は人権侵害救済法案推進者が多いのが特徴との指摘もある。http://otakurevolution.blog17.fc2.com/blog-entry-1157.html

2010/09/17

旧社会党から5人、やはり左翼政権だ

 組閣で驚いたのがhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100917-00000553-san-pol蓮舫に公務員制度改革担当のような重いポストが任されたこと。玄葉は逃げたのか。いずれにせよ10月いっぱいをめどにして、蓮舫またはその周辺に提案書を出したいと考えている。
 社会党出身が5人、細川、大畠、松本、仙石、岡崎、旧民社系の2人柳田、高木も含めると労組出身大臣が4人ぐらいになる。
 国家公安委員長・消費者・少子化・男女共同参画担当大臣の岡崎トミ子については既に夕刊フジが2003年韓国の反日デモとの関わりについて野党から攻められそうと報道されている。ポジティブアクションやクオータ制の推進については菅直人が代表戦中に女性議員を取り込むためリップサービスしており警戒を要する。
 松本龍環境大臣は部落解放同盟副委員長で人権擁護法案推進派とされている。
 
 保守派の論客には、小沢側近には川上義博とか外国人地方参政権推進の急先鋒がいて、菅のほうが幾分ましという見解を言う人もいたが、この顔ぶれを見ると管政権も相当危ないと考える。

2010/09/16

かえって悪い顔ぶれになりそうな組閣

報道を総合すると、外務大臣が党務への転出で空席になるほか、閣僚が交代する可能性があるポストとして総務、法務、農水、厚生労働、環境、国家戦略、経済財政政策、消費者及び食品安全あたりが取りざたされ、男女共同参画も女性が起用される可能性があると思うが、本日発売の日刊ゲンダイでは、菅直人を支持してきた小宮山洋子、岡崎トミ子、鉢呂吉雄、田中慶秋は入閣する気でいると伝えている。この顔ぶれではかえって悪くなりそうだ。
 小宮山洋子、岡崎トミ子の入閣を警戒している。夫婦別姓推進の中心になっている小宮山あたりが法務大臣になったりしたら、せっかく千葉景子を落としたのに意味がなくなる。かえって脱小沢で左傾化する懸念が多分にある。

2010/09/13

選択的夫婦別姓反対論の核心は出嫁女の婚家帰属性と婦人道徳を保守すること

 本日のテレビ朝日TVタックルで選択の自由があってよいのではないかという意見が前面に出たので反論しておく。
 民法の夫婦同氏は明治民法の起草者梅謙次郎が当時の欧州諸国の法制に倣って、西欧的なファミリーネームの慣習を継受したという側面は多分にあるが、「兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ」と述べているように出嫁女の婚家帰属性(婚入配偶者は婚家の成員である)という日本的家制度の家族慣行を前提としている。我が国には足入れ婚などの慣習もあるし、婚家の成員となるタイミングには個人差があっても、出嫁女の婚家帰属性(婚入配偶者たる嫁と婿は婚家の成員であること)は学問的にも明確なのである。杓子渡し、主婦の座を譲られることによって完全に女性は婚家の成員となる。常に家は家長と主婦のペアで継承されていくものである。
 夫婦別姓はこの社会構造、日本的家制度を破壊する。なぜならば家は離在単位として成立しているのであって、個人が複数帰属することはありえないからである。それが社会秩序の根幹であるから、重婚を認めれば単婚制が崩壊するのと同じように、出嫁女の婚家帰属を否定する夫婦別姓によって社会構造(家制度)が崩壊する。単婚制を社会秩序の根幹とする(キリスト教的価値観)社会では重婚する自由が認められない(アメリカ合衆国が典型)のと同じように、日本的家制度を社会秩序の根幹とする我が国では夫婦別姓の選択的自由を認める必要はないと論理的に説明できる。
 しかし、私はもっと深い理由を付け加えたい。それは東洋の婦人道徳の核心を崩壊させるから反対なのである。
  近世の女子教訓書の代表作『女大学宝箱』(享保元年)には「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁いりを゛帰る″という。わが家にかえるという事なり」とあり、また「女は、我が親の家をば継がず、舅・姑の跡を継ぐゆえに、わが親より舅・姑を大切に思い、孝行を為すべし」と説かれ(柴桂子 「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003年])、出嫁女の婚家帰属性を明確に述べている。女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐのが女性の日常道徳の基本である。
 つまり、女性は夫の家こそ我が家と思い、生家の父母ではなく、婚家の舅・姑に孝行することが定められているという家族倫理の根本を破壊するのが夫婦別姓であるからである。
 女大学は教えられなくなった。女子教育や家庭科の良妻賢母教育も否定されているが、民法730条「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない」という家族倫理を支えているのはこの婦人道徳であった。
 夫婦別姓推進論者は、舅・姑に仕えたくないし墓にも一緒に入りたくない、それでいて法定相続で婚家の財産は分捕りたいという非常に反倫理的な価値観である。それは民法730条に反している。実は別姓論者は本音はこれも廃止したいのである。家族破壊の意図はないということを隠すためにそれをやらないだけだ。

デューク大学その1

ノースカロライナ州ダーラムにある一流大学、建築とインテリアはさすがにたいしたものだ。
Duke University Wikipedia travel guide video.
http://www.youtube.com/watch?v=NiGxX8ECw5o
Virtual Tour: Perkins Library, Duke University
http://www.youtube.com/watch?v=IbECkTKY5-s
This is Duke
http://www.youtube.com/watch?v=WPOYTIuQvK4&feature

法学関係の刊行物
http://www.law.duke.edu/scholarship/journals

2010/09/12

シュワルツェネッガーは中国の高速列車の前でポーズをとる

 AP通信の記事http://abcnews.go.com/Technology/wireStory?id=11614577によると、ヨーロッパ、アジア各国で大接戦と言われる、高速鉄道受注問題ですが、、カリフォルニアの輸出促進のため訪中している知事が上海で中国の高速列車の前でポーズをとって写真撮影があり「できるだけ安く造ることができるように」と言ったそうです。ということはカリフォルニア新幹線も中国にもっていかれそうな感じです。

新しい「逆の性賃金格差」

 マークJ.ペリー教授のブログが『タイム』の記事を引用して、アメリカの大都市ではフルタイムで働いている若い女性の賃金が同輩の男性よりも高くなっていることを紹介してます。Evidence of a New "Reverse Gender Wage Gap"http://mjperry.blogspot.com/2010/09/reverse-gender-wage-gap.html
 若い女性の方が稼いでいて、むしろ若い男性は低賃金ということでしょうか。ただし男性より優位なのは未婚で子供のいない女性ということです。性差別の証拠はないと書かれてます。
 わが国においても女性の高学歴化が顕著になっている以上類似したことはいえるのではないでしょうか。ポジティブアクションとか男女共同参画もううんざりだし、必要ないです。

加州リバーサイドの連邦地裁、米軍の同性愛公言禁止政策に違憲判断

 9月9日、南カリフォルニア、リバーサイドの連邦地裁は同性愛者であることを公言して軍務に就くことを禁じた米軍規定について、違憲であり言論の自由を侵害しているの判断を下した。と報道されてます。
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2754329/6163804
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20100912/Mainichi_20100912k0000e030010000c.html
http://www.latimes.com/news/local/la-me-0910-gays-military-20100910,0,3185943.story

 ロサンゼルスタイムズによるとこの政策によって、これまで1万3千人の軍人が性的指向ゆえに解雇されたと報じてますが、この司法判断にはもちろん反対です。
 一般論でいえば、これは軍の規律にかかわる事柄であるから軍事の専門家でもない司法部は踏み込んだ判断を自制すべきである。議会の判断を尊重する謙抑的な姿勢をとるべきであると考えますが、そもそも西洋文明2千年の道徳的教訓を棄て去るべきではない。この世界は独身主義者(聖職者・神学者)と異性愛者は尊重されても同性愛者は差別されることで道徳的倫理的、社会秩序が維持されてきた以上(ユダヤ=キリスト教2500年の伝統といってもよい)、この文明の秩序を維持するためにも彼や彼女らにかまうこと自体が間違いです。

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(2)

1 ストライキ開始の経過と労-労対立

 今回は1984-85炭坑ストライキの発端と労-労対立の要因について取り上げる。

(1)引き金はヨークシャー、コートンウッド坑の閉山問題

 NUM(全国炭坑夫労組)は全国ストライキに突入する前に、1983年10月31日に無期限残業拒否闘争を展開していた。これは5.2%の賃上げ回答を不満としたものだった。サッチャーはNUMの賃上げ要求を排除し、他の国有企業労組の要求を大筋で認める分断政策をとったのである。*1
 1984年1月に北ウェールズとヨークシャーで、炭坑閉鎖の懸念からローカルな非公認ストライキがあった。1984年3月1日石炭公社南ヨークシャー担当責任者より、従業員800人のコートンウッド坑を不採算と埋蔵量の乏しさから閉鎖が提案されたことが全国スト突入の発端になった。
 3月5日から非公認ストが始まりヨークシャーエリアの全支部による会議があって、ヨークシャーの執行部はスト権投票を行わず、2年前の地区投票に基づいて3月9日からヨークシャー全域をストライキ宣言した。
 内藤則邦によるとコートンウッド坑をまず閉山対象としたのは、マクレガー石炭公社総裁がスカーギルに戦いを仕掛けたという見方である。つまり、ここはNUM本部のあるシェフィールドと、スカーギル委員長の出身地「ヨークシャー・ソビエト」と呼ばれる戦闘的な組織のあるバーンズリーの中間地点の炭坑で、スカーギルのお膝元であった。もっとも好戦的なヨークシャーに楔を打ち込んで閉山計画の突破口とするものとしている。*2
 しかし山崎勇治によると、コートンウッド炭坑の件は全国ストの引き金になったが原因ではないとする。スカーギルは埋蔵量がゼロにならない限り閉山させないが持論だった。ストライキの原因はNUM執行部が不採算を理由とした閉山はいっさい認めないと決意したことであり、どう転んでもストライキは不可避だったと述べている。*3
 
 
 (2)全国スト投票をやらずにスト指令

 3月6日に石炭公社は石炭産業協議会の席上1984年内に全国174ピットのうち20ピットを不採算を理由に閉山、二万人削減(退職奨励金付)の合理化を提示した。NUMの反応は素速く、スコットランド支部はその日のうちに3月12日からのストを宣言した。3月8日にはNUM全国執行委員会が開かれた。
 
 組合規約第43条*4によれば全国投票(National Ballot)で55%の支持、全国ストの開始要件であるが、組合執行部は全国投票を実施してもスト権確立の自信がなかったため、*5別の手段、組合規約第41条による地域ストと位置づけ、地域ストの支援ストとしてし全国規模のストライキ闘争を展開する手法をとった。
 つまり全国執行委員会は、3月9日からヨークシャー全域、12日からスコットランドで行われるストライキの支持とそれを支援する他の地方組織の実力行使を承認することを全国執行委員の21対3で決定した。これはヨークシャーとスコットランドの地域ストをオフィッシャルなものとしたばかりでなく、(事前に)これを支援する他の地域で行われるストライキも承認または是認して、事実上の全国ストライキ闘争宣言を行ったのである。*6
 組合規約第41条によると、中央執行部は地方支部が宣したストに正式の認可を与えることができるとしていた。各支部にストに入るよう圧力をかければ、ドミノ式に波及し全国ストと同じ効果を得られる。しかも全国投票を行う必要はない。渋る地区があれば、ストに入っている地区からピケ隊を送り込んで脅す*7という戦略であった。
 しかし投票による多数の支持を得ていないスト突入は、スト反対派の組合員によって規約違反・権限踰越として地域ストも全国ストも不法と評価され訴訟となった。*8またこの戦術は1980年雇用法で違法とされているフライングピケット(二次的ピケッティング)で、スト反対派を脅すものであるから初めから合法性に疑念のあるものだった。なお1984年労働組合法では労働組合の法的免責の要件として、ストライキ事前投票を4週間前までに参加予定のすべての組合員による秘密投票(郵便投票または職場投票等)によって行われ、多数の賛成を得ることを定めているが同年9月施行のため、この時点では直接制定法違反ということではない。
 
 3月9日(金)にヨークシャー全域53ピットの全てがストライキに入り、12日(月)にはスコットランドの全ピットでピケッティングが行われ(但し、1ピット稼働)南ウェールズ(但し32ピットのうち3ピット稼働)、ケント、ダーラムの各地方に急速に拡大する、これらの左派の地方組織はいずれもスト権投票なしに執行部の指令だけでストに突入したものである。*9 以後2週間、粗暴な活動家が炭鉱地帯に押しかけ、理性も品性もかけらもない状態となった。
 3月12日(月)稼働していたピットが83カ所、ストで操業できないピットが81カ所、このうち10カ所は積極的にストに参加したわけでなくピケが厳重で操業できなかったものである。警察や内務省は働く意思のある労働者を援護しようと頑張ったが、事態は悪化していく一方だった。*10 3月13日(火)に全国174ピットのうち99ピット、NUM組合員18万6千人のうち、9万6千人がストに入った。*11大規模ピケッティングにより3月14日(水)には通常どおりの操業を続けているピットは29カ所になってしまった。*12
 
(3)ストに反対するノッティンガムシャーの就労保護のため3000人の警察隊招集

 このストライキの特徴は当初からストライキ反対派の存在があり、ストライキ反対のオルガナイザー“Silver Birch”(白樺派)などの公然たる分派活動がみられたことである。13日には57%の炭坑で石炭の生産がストップしたが、イングランド中央部のノッティンガムシャー、ダービーシャー、レスターシャーおよびランカシャーは、ストライキに消極的な組合員が多数を占めており、こうした地域ではストに突入した好戦的な地域から送り込まれたフライングピケットの悪罵や暴行に直面しながらあえて仕事を続けた。*13
 
 反主流派はNUMが元々民主的な組合であるのに、スカーギル執行部は、規約に反し全国投票という正式な手続きをせずストに突入したことを民主的でないと批判し、それがストを正当化せず参加しない理由にもなったし、規約違反・権限踰越としてスト指令差止めの訴訟も起こしたのである。根底にはスカーギル委員長のリーダーシップに対する不信感がある。スカーギルはイギリス社会を混乱に陥れて政府を転覆させ、自己の政治的野望のためストを指導する人物とみなされていた。*14スカーギルは、前のリーダーとちがって自分の強さを過信し組合員の意見を尊重せず、反対者を抑圧した。組合を独裁的な手段でコントロールしようとしていたことに対する反感である。*15
 
 また、NUM〔全国炭坑夫労働組合〕が一枚岩にならならなかった理由について次のような指摘もある。
●炭鉱閉鎖計画(全国174ピットのうち20ピットの閉山)に対する反応には優良炭坑の炭坑夫と閉山対象の不採算ピットの炭坑夫では当然温度差があった。ノッティンガムシャーやランカシャーの優良炭坑では最新機械やコンピュータを導入して傾斜的に生産を集中させていた。*16
●1966年以降全国一律の賃率が適用されていたが、1979年に出来高払い、ボーナスシステムが導入され優良坑とそうでないものとの間、従業員の間に競争のたねをまき、不団結の芽ともなった。労働党議員アシュトンによれば「各炭坑は実は競争的」であり、「あるピットの閉鎖は他のピットでは“たすかった”という嘆息となることがあるのだ」という実情を吐露した。*17
●かつて炭坑夫は小さな公営住宅の借家人が大半だったが、組合員のなかには石炭公社の賃金政策もありセミ・デタッチドハウス(中流階級向の住宅)に住む者も少なくない。組合員の生活と意識も多様化していた。*18
●ノッティンガムシャーの炭坑地帯は昔から穏健だった。1926年ゼネストでも離反している。

 スカーギルの戦略は、ストに消極的な炭坑地帯にはフライングピケットを送り込んで、威嚇、脅迫し石炭生産をストップさせることだった。フライングピケットはスカーギルの騎兵隊であり戦車であった。早速、3月12日にストに加わらないノッティンガムシャーで就労を妨害するため、隣接するヨークシャーから300人のピケ隊が送り込まれたが、石炭公社、政府、裁判所の対応も素速かった。
 石炭公社は、裁判所に差止命令を出すよう提訴し、3月14日裁判所はヨークシャーの労働者に対し二次的ピケッティングの差止命令を出した。
 レオン・ブリタン内務大臣はピケ隊の人数が限度を超えた場合に押し戻し解散させる権限を含めて必要な権限があること。政府は暴徒に屈する意思はなく、働く権利は守られなれればならないことを国民に訴えたが、内務大臣が警察に指示する権限は制約があるため、マイケル・ヘイバース法務総裁より1980年雇用法行為規範(施行規則)により大量動員ピケを規制し、どのような抗口でも6人を越えてはならないと指示が出された。*19既にスト開始に先立つ、1984年2月9日内務省・検事総長・警察が会合し、炭坑スト対策が検討され3月13日よりロンドン警視庁ナショナル・リポーティング・センター(NRC)の機能再開が決定されていた。*20NRCは内務省と連携し大量動員ピケッティングや二次的ピケッティングを監視する。各地区警察はその10%の警察官をNRC通じて相互援助することが義務づけられており、内務大臣は1964年警察法によって各地区警察の相互援助を行う権限が与えられている。*21フライングピケットに対し警察隊の全国動員体制で対応する態勢は整えられた。 
 
 ランカシャー、ノッティンガムシャー、ダービーシャーはNUM主流派の方針に反し、ストライキ賛否投票を実施して民主的意思を表そうとしていた。しかし暴力に脅しがきいてランカシャーは投票を延期、ノッティンガムシャーとダービーシャーは3月15日に投票を実施する予定であった
 これらの地域ではスト賛成が少数派で、多数によった否決することが確実であったので、フライングピケットは就労妨害というだけでなく投票妨害という目的も有していた。
 ノッティンガムシャーには働くことを望む労働者の保護のため全国17管区から3000人の警察隊が招集された。*22
 マクレガー石炭公社総裁自身「ストライキ全体の鍵を握るのはノッティンガムシャーとそこの3万1千人の炭坑夫である」*23と述べたが、この州の25の炭抗の石炭産出量は全国の4分の1にあたり、ここで生産が継続ができるか否かにストの帰趨を決する重要な意味があったのである。

引用文献

*1山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年  187頁
*2内藤則邦「イギリスの炭鉱ストライキ」『日本労働協会雑誌 』27(2) 1985.02
*3山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)【ネット公開】
http://www.kitakyu-u.ac.jp/gkj/2007_sr42_2-4.html
*4「‥‥全国ストライキは、大会決議の実行のために実施される組合員の投票の結果でのみ入るものとし、ストライキはそのストライキ投票数の55%に達しなければ宣言されない。もし、ストライキの進行中に投票が実施される場合には、投票数のうち賛成55%が、そのストライキの継続のために必要である。‥‥」内藤則邦 前掲論文
*5田口典夫『イギリス労使関係のパラダイム転換と労働政策』ミネルヴァ書房2007年 152頁 古川陽二「イギリス炭鉱ストの一断面(外国労働法研究)」『日本労働法学会誌』(通号 69) 1987.05 1982年賃上げ闘争は53%、1983年は40%の支持しかおられずスト権を確立できなかった経緯がある。
*6内藤則邦 前掲論文
 早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 85頁以下 全国執行委員の右派役員から全国投票を行うべきという意見もあった。24人の全国執行委員のうち3人であるが退けられた。
*7山崎勇治 前掲論文
*8古川陽二「イギリス炭鉱ストの一断面(外国労働法研究)」『日本労働法学会誌』(通号 69) 1987.05
*9内藤則邦 前掲論文
 早川征一郎 前掲書90頁
*10山崎勇治 前掲論文
*11内藤則邦 前掲論文
*13田口則夫 前掲書 200頁
 小川晃一『サッチャー主義』木鐸社2005年 118頁
*14 山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年  165頁
*15山崎勇治 前掲書 223頁
*16田口則夫 前掲書 200頁
*17元山 健「サッチャー主義--社会民主主義的コーポラティズムの終焉--覚え書き」『奈良教育大学紀要. 人文・社会科学』34(1) 1985.11
田口則夫 前掲書 200頁
*18元山健 前掲論文
*19前掲論文 
山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)
*20早川征一郎 前掲書 91頁 
*21 松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1991
*22山崎勇治 前掲論文
*23 小川晃一 前掲書 118頁

2010/09/07

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(1)

  20世紀最長のイギリス炭坑ストUK miners' strike (1984.3.12–1985.3.5)における全国炭坑夫労組National Union of Mineworkers(以下NUMと略す)敗北の歴史的意義を明らかにしたい。
 炭坑ストには違法ピケッティングへの大規模な警察介入があったが、炭坑ストよりも厳しい警察介入のあった1986年ワッピング争議も含めて検討する。
 
 私が1984-85炭坑ストに関心をもった理由は、組合対組合員個人、労-労対立・労-労抗争である。当初から足並みの乱れがあり、人身攻撃から身を守るための反ストライキ派のオルガナイザー“Silver Birch”(白樺派)などの公然たる分派活動があった。*1ストライキ反対派組合員の大量の「スト破り」がみられた。石炭公社総従業員19万1500人、NUM組合員18万6000人*2であるが、スト突入から9ヶ月近く経過した時点でスト参加者12万3000人に対して、就労組合員が6万3000人いた。このうち5万人近くは当初からストに反対の組合員である。*3ピケットラインの暴力のほか、就労派組合員の自宅の破壊、ピケラインではなく自宅に襲撃されて暴力もふるわれた。就労派組合員の自動車の破壊、就労派組合員家族への脅迫、暴力などさまざまな事件が起きている。
 我が国の1960年三井三池炭坑争議でも、ピケラインで第一組合と第二組合(就労派)の抗争があり死者1人、負傷者多数を出したことが知られている。奇しくも同じようなことがイギリスでも起きた。要するに、このストライキの評価はピケ隊対警察隊の衝突だけでなく、ストライキ主流派対就労反主流派の暴力抗争、訴訟問題などの両面を見ていかなければならない。

                 ***
 なおイギリスの1984-85炭坑ストにおいては、死者は3人である。
  最初の死者
 3月15日にノッティンガムシャーでのオラートン炭坑でフライングピケットの西ヨークシャー在住の24歳が死亡した。死因不明だが警察隊との衝突の中で起きたとされている。*4(ノッテインガムシャーはスト反対派(反主流派)の拠点であり、ヨークシャーから移動したフライングピケットにする就労妨害から就労を望む労働者を保護するために3000人の警察隊がノッテインガムシャー地方に派遣されていたのである)
 第二の死者
 6月15日に西ヨークシャーのフェリーブリッジ発電所で、ピケ中にローリーの車輌に巻き込まれ死亡。*5
 第三の死者
 11月30日南ウェールズで発生した。高速道路に架かっている橋の上から働きに行く炭坑夫を乗せたタクシーめがけて、コンクリートの柱が落とされ、運転手が死亡した。*6
スト中の炭坑夫が殺人で起訴された。

 負傷者は約1000人といわれる。*7なおピケ隊と警察隊のもっとも激しい衝突は5月29日と6月18日、ヨークシャーのオーグリーブ・コークス工場におけるコークス輸送阻止闘争だった。6月18日には6000~7000人のピケ隊と警察隊が衝突、投石、3台の車に放火がなされ、逮捕者93人、負傷者80人(うち警官28人)を出したが、警察指揮官が「ひとりの死者も出なかったは奇跡である」と語った。この時ピケ隊を召集したアーサー・スカーギル委員長も負傷した。1984-85年スト約1年間の逮捕者は、イングランド・ウェールズで9808人、うち起訴された者7917人、スコットランドでは起訴1483人だった。*8


*1内藤則邦「イギリスの炭鉱ストライキ」『日本労働協会雑誌 』27(2) 1985.02
*2風間 竜「358日間のイギリス炭鉱ストライキについて 」『経済系』(通号 144) 1985.07
*3内藤則邦 前掲論文
*4早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 91頁
*5 松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1991
*6山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)【ネット公開】  http://www.kitakyu-u.ac.jp/gkj/2007_sr42_2-4.html
*7風間竜 前掲論文
*8松村高夫 前掲論文

2010/09/05

団結否認権の確立Right to Work lawが必要だ 下書き1-(41)

サッチャー政権の炭坑ストを迎え撃つ周到な準備

 20世紀最長のイギリス炭坑ストUK miners' strike (1984.3.12–1985.3.5)における全国炭坑夫労組National Union of Mineworkers敗北の歴史的意義を明らかにしたいと思うが、今回はその前提として、70年代における炭坑ストの組合勝利と、仇敵となった炭坑労組スト対策として、保守党やサッチャー政権が周到な準備を行ったことを取り上げることとし、本論は次回以降とする。

1 全国炭抗夫労組ストに屈服したヒース保守党政権

 1926年ゼネスト以来の全国規模の炭鉱ストライキが3回ある。1972年、1974年、1984-85年である。72年、74年は組合が勝利し、74年ストはヒース政権を倒壊させた。 
 1972年全国炭坑夫組合ストは、全国ストライキ投票58.8%の賛成率により1月9日から2月28日まで50日間の全国ストが行われた。地上労働者、週8ポンド、坑内9ポンド、切羽5ポンドの賃上げ1を要求し、結果的に27%賃上げを勝ち取り2、さらにヒース政権は炭鉱労働者に残業手当、有給休暇、年金で組合の要求に屈した。
 組合大勝利の要因は当時ヨークシャー、ウーリィ支部代議員だったアーサー・スカーギル3の指令によって駆使されたフライングピケットflying pick方式だった。これはスト破りを防止するために、操業中の炭坑地域へ各地の炭坑から大衆的なピケ隊を動員するもので、物理的圧力で非公認ストを拡大させたり、同情ストを引き出す戦術でもあった。就労の阻止だけでなく、石炭・コークス輸送の阻止で効果があった。石炭・コークス供給貯蔵庫への運搬、搬出の妨害により発電所の燃料の供給を止めたのである。特に2月のソルトリーゲイトSaltly Gate貯炭場の封鎖は警察を攪乱して退散させ、警察の無能をさらけだし法と秩序の敗北と評価されている。政府は驚愕し、非常事態宣言によりエネルギー保全のため産業の操業を3日間としたが4、当時イギリスは電力の半分を石炭に依存しており電力供給危機によって政府は組合要求に屈したのである。
 1974年ストは平均30%の大幅賃上げを要求し1973年11月23日要求で全国炭坑夫組合27万人が、時間外労働拒否闘争に入ることにより始まった。政府は非常事態宣言を発しエネルギー消費、食品の規制措置をとった。12月に国鉄機関士組合もストに突入したため緊急対策を発表、クリスマスから一週間全国の工場を全面休業とし、主要工場は週3日だけ操業を認め、各家庭の暖房は1軒で1室のみとされたため、1974年イギリス国民は暗くて寒い新年を迎えることとなった。
 1974年2月、暖冬に助けられて予測より貯炭量が減らなかったためエネルギー相のピーター・キャリントン卿は、工場の操業を週3日から4日に延ばす決定を行ったことが全国炭坑夫組合を刺激し5すかさず80.99%という高率のスト賛成投票により1984年2月10日より全国270鉱山で無期限ストに突入した。運輸一般労組、国鉄労働組合、機関士労働組合も全面協力した。電力不足は深刻化し、ロンドンでは馬車が復活、蝋燭をともす光景も見られた6
 ヒース首相は「国を統治しているのは労働組合か政府か」を問うとして、解散総選挙に出た。国民は労働組合の横暴に怒っており保守党に有利とみていたのである。しかし2月28日の選挙結果は、労働党301議席、保守党297議席という4議席の差で敗北し、ハングパーラメントで比較第一党の労働党のウィルソンが首相となった。この選挙結果は国民に耐乏生活を強いながら、ストを収拾できなかったヒースを見放したと解釈できるが結果的に全国炭鉱ストは保守党政権を打倒したことになる。
 ウィルソン政権が誕生するとストは解除され、満額回答に近い29%賃上げを勝ち取る組合の大勝利であった。

2 リッドレー報告書  The Ridley Plan (also known as the Ridley Report)

 サッチャーは1975年保守党党首、79年の総選挙勝利で首相となるが、保守党内部ではヒース政権の失敗の轍を踏まぬよう注意深く周到なストライキ対策が立案されていた。1978年5月28日『エコノミスト』がリークした秘密文書「リッドレー報告書」(1977年7月8日)がその一つである。これはヒース政府の閣僚だったピーター・キャリントン卿を代表とする政策グループによって、保守党急進的右派議員N・リッドレーが中心となって国有産業政策をまとめた報告書であるが、これは経済政策というより労働組合と対峙する政府側の戦術を記したものだった。それによると、次期保守党政権成立後の1、2年以内に労働者からの挑戦が行われるだろう。主要な戦場は炭鉱、電力、ドックのいずれかの攻撃されやすい産業となるが、保守党政府は勝利が確実視されうる自己の土俵において勝負すべきであって、そのほかの産業分野では労働者の抱き込みに徹するべきとした。
炭坑ストに対する防衛措置の提案は以下のとおり。

●貯炭、特に発電所において最大限の備蓄を行うこと。
●非常時の石炭輸入計画を立てること。
●必要な場所への石炭輸送のため、前もって非組合員のローリー・ドライバーのリクルートを手配すること。
●全ての発電所に、できるだけ早く、石炭・石油両用の燃焼設備を導入すること。また電力・ガス産業の労組を敵に回すことを避け、これらの産業での平均を上回る賃金交渉に応じうる準備をすること。
●ストライキ参加者の生活保護費を断つこと。違法なストライキに対して刑事制裁で対抗するよりも組合資金を枯渇させることが有効であり、そのような法的手段の検討がなされるべきこと。
●ソルトレイゲイトにおける失態を繰り返さないためフライングピケット対策に準備がなされるべきこと。法を守るために装備し訓練され、機動性のある大規模な警察隊を持つことが、暴力的なピケを打ち負かす唯一の方法であること。
 また、輸送会社が、警察の保護によってピケットラインを突破する「良好な非組合員のドライバー達」をリクルートするのが賢明な予防措置であること。
 違法かつ暴力的な争議行為を阻止し法の砦を守る警察の強化が果たされなければならない等々。7

 
 報告書の趣旨は着実に実行された。まず、貯炭である。労組との衝突を予想したサッチャーはヒース政権の3倍にあたる5700万トンの石炭を備蓄し、1984年3月ストライキ開始から9ヶ月たった12月の段階でも「まだ、十分な備蓄があります」といえる状態だった。8。炭坑労組は大量の石炭需要が発生する冬まで持ちこたえれば、政府の備蓄が底をつき、停電が続発して勝利すると踏んでいたがそうはいかなかった。11月末の時点で組合員総数18万6千人のうちスト参加者12万3千人に対して就労中の組合員が6万3千人9、このうち5万には当初からストに反対の組合員でスト脱落者は1万5千人ほどであるが、マクレガー石炭公社総裁はさらにスト参加者切り崩しの攻勢に出て、ストに参加している各組合員に対してクリスマスまでに職場に復帰すれば£1400のボーナスを年内に支給すると約束し、85年1月まで41%の脱落者が出た10勝負となる厳寒期に脱落者が続出したことで、ストの帰趨は決したのである。
 次に、スト参加中の生活保護支給問題であるが、イギリスの制度では炭坑労働者の妻が無収入の場合週£21.45、11歳以下の子供がいると週£9.15加算、12-16歳の子供がいと£16.50加算するという公的扶助制度の受給資格があるが、1982年以降、ストの場合の社会保障給付は削除というサッチャー政府の方針で総額から£15差し引かれることとなっていた。なお、1984-85ストではNUMからのスト手当は無支給だった。ピケット参加手当の相場は1日£2~3に過ぎず少額である。このほか労働党が支配している地域では困窮救済措置があり、TUC加盟組合からの支援金があったが11スト参加者は経済的に苦しい状況に追い込まれたものと思われる。
 次に、ストに対応する治安警察の訓練である。警察は1972年炭坑ストでスカーギルが指導したバーミンガムシャー・ソールトリーゲイト貯炭場のフライング・ピケットの対応不備を法と秩序の敗北と深刻に認識しており、危機に直面した政府は、警察機構の再編成に着手した。それは大量動員ピケッティングや二次的ピケッティングを監視する全国報告センター(NRC)と、暴動抑止のための警察援助隊(PSU)の設置によって具体化した。12
 1984-85年ストで大量に動員されたのもPSUであり、スト開始後の数日間で8千人のPSUが動員された。一説によると、ブリテンの12万の警察官のうち2万人が暴動鎮圧訓練を受けていて、各地区警察はその10%の警察官をNRCを通じて相互援助することが義務づけられており、内務大臣は1964年警察法によってそれを行う権限が与えられている。最精鋭はロンドン警察で1983年に5千人が4日間の暴動鎮圧訓練をも受けており、相互援助で炭坑地帯に出動し、地元の警察にできない鎮圧を行った。131984年3月14日から1985年2月9日まで炭坑ストに投入された警察官の総労働日は21万3千労働日である。ただ1984-85年ストでは盾だけでなく警棒、騎馬隊、ガス弾やプラスチック弾の使用も検討されていた。しかし、暴力的な衝突は展開されたが、警官は通常の制服をまとい、群衆に警棒をふりかざすことはなかったとされている。騎馬隊も全面には出されなかったとされている。14

3 労働法改革-1980年雇用法におけるピケッティングの規制等

 
 しかしも肝心要のスト対策とは労働法の改正であり、1980年雇用法により二次的ピケッティング、二次的争議行為等を違法化したことや、1982年雇用法で不法行為免責の対象となる争議行為の概念を狭くしたことが挙げられる。アーサー・スカーギルが得意としたフライングピケットと同情ストは免責を受けない行為となる。使用者が裁判所に差止命令を申請できるのであり、差止命令に応じなければ法廷侮辱罪が成立し逮捕、投獄されることとなる。

 1980年雇用法16条において、1974年労働組合労働関係法第15条の平和的説得による合法的ピケッティングの権利を次のように変更した。

 第15条(一)労働争議の企画または遂行のため、ある者が平和的に情報を得またはつたえること、あるいは他人に就労するようにまたはしないように平和的に説得することを唯一の目的として、次の場所に臨場することは適法である。
(a)彼自身の職場またはその近辺。
(b)彼が労働組合の役員である場合には、彼が随伴し、かつ代表しているその組合の組合員の職場またはその近辺。(以下略)15
 
 ピケは労働者自身または組合員の就労の場所またはその近くで行われる場合にのみ適法とされ、さらに行為規範(code of  practice-施行規則)において具体的な態様の規制が定められた。
 暴力的、脅迫的、妨害的行為を伴うピケッティングは違法である。ピケッティング参加者はできるだけ説得的に自己の行為について説明しなければなせない。他の者を説明を聞くようにおしとどめ、強制し、自分達が求めている通り行動するよう要求してはなない。人がどうしてもピケットラインを越えようとする場合には、それを認めなければならない。
 何者かに脅威を与えもしくは威嚇し、または何者かが職場に入ることを妨げるピケッティングは刑事罰の対象になる。規則に従わないピケッティングによって、その利益が損なわれる使用者または労働者は、民事上の法的救済を受けることができる。彼はこの行為に責任を有する者を相手どって損害賠償を求めることができるし、裁判所に違法はピケッティングの差止め命令を求めることもできる。
 またマスピケッティング(大量動員ピケ)は平和的説得の試みという合法的なピケッティングではなく集団的示威であり、平和の侵害を惹起することになるだろうとしてピケ人数を六人以下に限定している。
 さらに行為規範(施行規則)では「他人に干渉されることなく、合理的日常の事業を行う権利の保護。全ての者にピケットラインを越える権利を有するとしている」スト反対者の就労の権利を明確に示しているのである。16

 なおピケ規制は、ピケッティングの法的定義のみでなく法を強制する方法、法の執行面が強化されなければならないが、行為規範(施行規則)では過度の人数に対するピケに対して、逮捕・訴追の可能性を警告し、その人数(6人に)広範な裁量を警察に認める規定を置いた。17
 また1980年雇用法では二次的争議行為も違法とした。二次的争議行為とは、例えば雇用契約違反を勧誘または履行を妨害する相手が、その雇用契約上の使用者が、その労働争議の当事者ではない場合。たとえばストライキ中の工場に物品を納入するまたはサービスを供給する業者の通行・輸送を妨害する行為などだが、同情ストもこの範疇である。炭坑ストの有効性は、輸送部門(鉄道・船舶・港湾・トラック)や鉄鋼、電力関係の労組の支援、連帯なしには効果が半減してしまうのである。
 そして1982年法において1982年法では労働組合および使用者団体に対する不法行為免責を規定する1906年労働争議法1974年の労働組合労働関係法14条を廃止、これにより1980年法により違法とされた二次的争議行為や二次的ピケッティングは労働組合により承認されたと認定されれば労働組合は免責を失い、自己の名において差止を課せられ、組合基金から損害賠償を求償されることがより明確となった。

  実際の1984-85年炭鉱ストにおける他産業の労組の対応をみていくと、鉄鋼労組連盟はは1980年の13週間のスト敗北で組織が弱体化しており、NUMを支援する余裕などなく、製鉄所に輸される石炭運搬列車を阻止しようとしたNUMのピケットを妨害し、対立姿勢をとった。海員、港湾、トラック、鉄道の運輸一般労組は、NUM支援のために石炭・コークス輸送をボイコットしたが、一般組合員の反応は執行部と異なり全面的支持というわけではなかった。小規模の貨物運搬業者や未組織のドライバーはストに非協力であった。
 またナショナルセンターのイギリス労働組合会議(TUC)は1983年に右派・中間派が主導権を握ったこともあり、表向きNUMを全面的に支援しピケットラインを越えた石炭・コークス・石油の運搬禁止、使用禁止、炭鉱地区の困窮を緩和する財政支援などを確約しものの、執行部右派や鉄鋼労組連盟の反対で、ほとんど効果がなかった。18
 これは、二次的争議行為(二次的ボイコット)、二次的ピケッティングを違法化したため、同情ストやボイコットが明らかにリスクを伴う行為となっていたことが大きいと思う。結果的にNAMは最強の労組ともいわれるが、法改正で70年代のような同情ストで連帯していくことができず、孤立した闘いを強いることとなった。

4 アーサー・スカーギルArthur Scargillの委員長就任と、イアン・マクレガーIan MacGregorの石炭公社総裁任命

 国営化企業である石炭産業の合理化、不採算炭坑の閉山はサッチャー政権の課題であり、ヒース政権を倒壊させた全国炭坑夫組合は仇敵でもあったが、対決ムードが高まるなかで1981年全国炭坑夫組合はイギリスにおける左翼最大のリーダーともいえる労働組合革命家アーサー・スカーギルを70%の得票を経て委員長に選出し1982年4月に就任した。
 アーサー・スカーギルは炭坑夫の倅、若年から好戦的な男で、青年共産主義同盟の執行委員を務めた、1962年青年会議出席中でモスクワでフルシチョフと会っているが、1962年共産党と関係を絶つ。1969年以降ヨークシャー、ウーリィの非公認ストの活動家となる。この辺は「ヨークシャー・ソビエト」という好戦的な地域でもあった。1972年ヨークシャー、ソールトレイ・ゲイトの非公認ストライキにおける戦闘的なスト指導で一躍有名となり、1973年35歳の若さで全国炭坑夫組合ヨークシャー地区の委員長となった。19

 対して、サッチャー首相は1983年9月石炭公社庁総裁にイアン・マクレガーを任命した。スコットランド出身、グラスゴー大学冶金工学科を出て、第二次大戦で戦車の鋼板の専門家として渡米、1996年鉱石・金属を扱うアマックの社長となり全米3位の露天掘りの会社に成長させた。石炭業にも力を入れ炭鉱労働組合つぶしで辣腕をふるった。イギリスに戻ってブリティッシュレイランド国営自動車会社や政権で英国鉄鋼公社の合理化と冗員整理で活躍し「人切りマクレガー」と恐れられた。20そのタフで反労働組合的手腕は、この炭鉱ストの対応でもいかんなく発揮された。交渉での非妥協性、組合の頭越しに直接組合員に行うスト離脱の何回もの呼びかけ。職場復帰者へのボーナス、何回にも及ぶ全国紙への意見広告である。

引用・参考文献

1 山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年  165頁

2 戒能通厚 『土地法のパラドックス-イギリス法研究、歴史と展開』日本評論社2010年「現代イギリス社会と法--炭鉱ストライキを中心として
3 早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010 73頁
4 ピーター・クラーク著西沢保他訳『イギリス現代史1900-2000』名古屋大学出版会2004  323頁
5小川晃一『サッチャー主義』木鐸社2005年 34頁
6山崎勇治 前掲書 170~171頁
7戒能通厚 前掲書385~386頁、田口典男『イギリス労使関係のパラダイム転換と労働政策』ミネルヴァ書房2007年第7章「労使関係のパラダイム転換の契機となった1984-895年炭坑ストの再評価」、山崎勇治 前掲書181頁、 早川征一郎 前掲書 7頁以下参照。 リッドレー報告書全文はマーガレット・サッチャー財団のホームページ参照http://www.margaretthatcher.org/document/110795
8梅川・阪野・力久編著『イギリス現代政治史』小堀眞裕 第7章「戦後コンセンサスの破壊 サッチャー政権 一九七九~九年-」ミネルヴァ書房2010年
9内藤則邦「イギリスの炭鉱ストライキ」『日本労働協会雑誌 』27(2) 1985.02
10 山崎勇治 前掲書 190頁
11田口典男 前掲書 204頁    内藤則邦 前掲論文

12古川陽二「イギリス炭鉱ストの一断面(外国労働法研究)」『日本労働法学会誌』(通号 69) 1987.05
13松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1
14家田愛子「ワッピング争議と法的諸問題の検討(2)完 : 一九八六年タイムズ新聞社争議にもたらした,イギリス八〇年代改正労使関係法の効果の一考察」名古屋大學法政論集. v.169, 1997, p163・165 【ネット公開】http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/dspace/handle/2237/5761
15 小宮文人「イギリスにおける一九八○年雇用法(The Employment Act 1980)の翻訳と若干の解説 」『法学研究』17(3)1982 北海学園大
16 小宮文人 前掲論文

17古川陽二 前掲論文
18田口典男 前掲書196~199頁
19山崎勇治 前掲書185~186頁 内藤則邦 前掲論文

20山崎勇治 前掲書 182~184頁、戒能通厚 前掲書

2010/09/01

本日も頭上報告

九時四二分から12分書記長会議報告、昨日午後四時三七分ごろまいたビラの説明、検針委託の一部地域が競争入札により新規参入会社に決まったことについての組合の見解、外圧により云々とか言っていた。また人事院勧告の批判を述べる。

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