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2010/09/12

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(2)

1 ストライキ開始の経過と労-労対立

 今回は1984-85炭坑ストライキの発端と労-労対立の要因について取り上げる。

(1)引き金はヨークシャー、コートンウッド坑の閉山問題

 NUM(全国炭坑夫労組)は全国ストライキに突入する前に、1983年10月31日に無期限残業拒否闘争を展開していた。これは5.2%の賃上げ回答を不満としたものだった。サッチャーはNUMの賃上げ要求を排除し、他の国有企業労組の要求を大筋で認める分断政策をとったのである。*1
 1984年1月に北ウェールズとヨークシャーで、炭坑閉鎖の懸念からローカルな非公認ストライキがあった。1984年3月1日石炭公社南ヨークシャー担当責任者より、従業員800人のコートンウッド坑を不採算と埋蔵量の乏しさから閉鎖が提案されたことが全国スト突入の発端になった。
 3月5日から非公認ストが始まりヨークシャーエリアの全支部による会議があって、ヨークシャーの執行部はスト権投票を行わず、2年前の地区投票に基づいて3月9日からヨークシャー全域をストライキ宣言した。
 内藤則邦によるとコートンウッド坑をまず閉山対象としたのは、マクレガー石炭公社総裁がスカーギルに戦いを仕掛けたという見方である。つまり、ここはNUM本部のあるシェフィールドと、スカーギル委員長の出身地「ヨークシャー・ソビエト」と呼ばれる戦闘的な組織のあるバーンズリーの中間地点の炭坑で、スカーギルのお膝元であった。もっとも好戦的なヨークシャーに楔を打ち込んで閉山計画の突破口とするものとしている。*2
 しかし山崎勇治によると、コートンウッド炭坑の件は全国ストの引き金になったが原因ではないとする。スカーギルは埋蔵量がゼロにならない限り閉山させないが持論だった。ストライキの原因はNUM執行部が不採算を理由とした閉山はいっさい認めないと決意したことであり、どう転んでもストライキは不可避だったと述べている。*3
 
 
 (2)全国スト投票をやらずにスト指令

 3月6日に石炭公社は石炭産業協議会の席上1984年内に全国174ピットのうち20ピットを不採算を理由に閉山、二万人削減(退職奨励金付)の合理化を提示した。NUMの反応は素速く、スコットランド支部はその日のうちに3月12日からのストを宣言した。3月8日にはNUM全国執行委員会が開かれた。
 
 組合規約第43条*4によれば全国投票(National Ballot)で55%の支持、全国ストの開始要件であるが、組合執行部は全国投票を実施してもスト権確立の自信がなかったため、*5別の手段、組合規約第41条による地域ストと位置づけ、地域ストの支援ストとしてし全国規模のストライキ闘争を展開する手法をとった。
 つまり全国執行委員会は、3月9日からヨークシャー全域、12日からスコットランドで行われるストライキの支持とそれを支援する他の地方組織の実力行使を承認することを全国執行委員の21対3で決定した。これはヨークシャーとスコットランドの地域ストをオフィッシャルなものとしたばかりでなく、(事前に)これを支援する他の地域で行われるストライキも承認または是認して、事実上の全国ストライキ闘争宣言を行ったのである。*6
 組合規約第41条によると、中央執行部は地方支部が宣したストに正式の認可を与えることができるとしていた。各支部にストに入るよう圧力をかければ、ドミノ式に波及し全国ストと同じ効果を得られる。しかも全国投票を行う必要はない。渋る地区があれば、ストに入っている地区からピケ隊を送り込んで脅す*7という戦略であった。
 しかし投票による多数の支持を得ていないスト突入は、スト反対派の組合員によって規約違反・権限踰越として地域ストも全国ストも不法と評価され訴訟となった。*8またこの戦術は1980年雇用法で違法とされているフライングピケット(二次的ピケッティング)で、スト反対派を脅すものであるから初めから合法性に疑念のあるものだった。なお1984年労働組合法では労働組合の法的免責の要件として、ストライキ事前投票を4週間前までに参加予定のすべての組合員による秘密投票(郵便投票または職場投票等)によって行われ、多数の賛成を得ることを定めているが同年9月施行のため、この時点では直接制定法違反ということではない。
 
 3月9日(金)にヨークシャー全域53ピットの全てがストライキに入り、12日(月)にはスコットランドの全ピットでピケッティングが行われ(但し、1ピット稼働)南ウェールズ(但し32ピットのうち3ピット稼働)、ケント、ダーラムの各地方に急速に拡大する、これらの左派の地方組織はいずれもスト権投票なしに執行部の指令だけでストに突入したものである。*9 以後2週間、粗暴な活動家が炭鉱地帯に押しかけ、理性も品性もかけらもない状態となった。
 3月12日(月)稼働していたピットが83カ所、ストで操業できないピットが81カ所、このうち10カ所は積極的にストに参加したわけでなくピケが厳重で操業できなかったものである。警察や内務省は働く意思のある労働者を援護しようと頑張ったが、事態は悪化していく一方だった。*10 3月13日(火)に全国174ピットのうち99ピット、NUM組合員18万6千人のうち、9万6千人がストに入った。*11大規模ピケッティングにより3月14日(水)には通常どおりの操業を続けているピットは29カ所になってしまった。*12
 
(3)ストに反対するノッティンガムシャーの就労保護のため3000人の警察隊招集

 このストライキの特徴は当初からストライキ反対派の存在があり、ストライキ反対のオルガナイザー“Silver Birch”(白樺派)などの公然たる分派活動がみられたことである。13日には57%の炭坑で石炭の生産がストップしたが、イングランド中央部のノッティンガムシャー、ダービーシャー、レスターシャーおよびランカシャーは、ストライキに消極的な組合員が多数を占めており、こうした地域ではストに突入した好戦的な地域から送り込まれたフライングピケットの悪罵や暴行に直面しながらあえて仕事を続けた。*13
 
 反主流派はNUMが元々民主的な組合であるのに、スカーギル執行部は、規約に反し全国投票という正式な手続きをせずストに突入したことを民主的でないと批判し、それがストを正当化せず参加しない理由にもなったし、規約違反・権限踰越としてスト指令差止めの訴訟も起こしたのである。根底にはスカーギル委員長のリーダーシップに対する不信感がある。スカーギルはイギリス社会を混乱に陥れて政府を転覆させ、自己の政治的野望のためストを指導する人物とみなされていた。*14スカーギルは、前のリーダーとちがって自分の強さを過信し組合員の意見を尊重せず、反対者を抑圧した。組合を独裁的な手段でコントロールしようとしていたことに対する反感である。*15
 
 また、NUM〔全国炭坑夫労働組合〕が一枚岩にならならなかった理由について次のような指摘もある。
●炭鉱閉鎖計画(全国174ピットのうち20ピットの閉山)に対する反応には優良炭坑の炭坑夫と閉山対象の不採算ピットの炭坑夫では当然温度差があった。ノッティンガムシャーやランカシャーの優良炭坑では最新機械やコンピュータを導入して傾斜的に生産を集中させていた。*16
●1966年以降全国一律の賃率が適用されていたが、1979年に出来高払い、ボーナスシステムが導入され優良坑とそうでないものとの間、従業員の間に競争のたねをまき、不団結の芽ともなった。労働党議員アシュトンによれば「各炭坑は実は競争的」であり、「あるピットの閉鎖は他のピットでは“たすかった”という嘆息となることがあるのだ」という実情を吐露した。*17
●かつて炭坑夫は小さな公営住宅の借家人が大半だったが、組合員のなかには石炭公社の賃金政策もありセミ・デタッチドハウス(中流階級向の住宅)に住む者も少なくない。組合員の生活と意識も多様化していた。*18
●ノッティンガムシャーの炭坑地帯は昔から穏健だった。1926年ゼネストでも離反している。

 スカーギルの戦略は、ストに消極的な炭坑地帯にはフライングピケットを送り込んで、威嚇、脅迫し石炭生産をストップさせることだった。フライングピケットはスカーギルの騎兵隊であり戦車であった。早速、3月12日にストに加わらないノッティンガムシャーで就労を妨害するため、隣接するヨークシャーから300人のピケ隊が送り込まれたが、石炭公社、政府、裁判所の対応も素速かった。
 石炭公社は、裁判所に差止命令を出すよう提訴し、3月14日裁判所はヨークシャーの労働者に対し二次的ピケッティングの差止命令を出した。
 レオン・ブリタン内務大臣はピケ隊の人数が限度を超えた場合に押し戻し解散させる権限を含めて必要な権限があること。政府は暴徒に屈する意思はなく、働く権利は守られなれればならないことを国民に訴えたが、内務大臣が警察に指示する権限は制約があるため、マイケル・ヘイバース法務総裁より1980年雇用法行為規範(施行規則)により大量動員ピケを規制し、どのような抗口でも6人を越えてはならないと指示が出された。*19既にスト開始に先立つ、1984年2月9日内務省・検事総長・警察が会合し、炭坑スト対策が検討され3月13日よりロンドン警視庁ナショナル・リポーティング・センター(NRC)の機能再開が決定されていた。*20NRCは内務省と連携し大量動員ピケッティングや二次的ピケッティングを監視する。各地区警察はその10%の警察官をNRC通じて相互援助することが義務づけられており、内務大臣は1964年警察法によって各地区警察の相互援助を行う権限が与えられている。*21フライングピケットに対し警察隊の全国動員体制で対応する態勢は整えられた。 
 
 ランカシャー、ノッティンガムシャー、ダービーシャーはNUM主流派の方針に反し、ストライキ賛否投票を実施して民主的意思を表そうとしていた。しかし暴力に脅しがきいてランカシャーは投票を延期、ノッティンガムシャーとダービーシャーは3月15日に投票を実施する予定であった
 これらの地域ではスト賛成が少数派で、多数によった否決することが確実であったので、フライングピケットは就労妨害というだけでなく投票妨害という目的も有していた。
 ノッティンガムシャーには働くことを望む労働者の保護のため全国17管区から3000人の警察隊が招集された。*22
 マクレガー石炭公社総裁自身「ストライキ全体の鍵を握るのはノッティンガムシャーとそこの3万1千人の炭坑夫である」*23と述べたが、この州の25の炭抗の石炭産出量は全国の4分の1にあたり、ここで生産が継続ができるか否かにストの帰趨を決する重要な意味があったのである。

引用文献

*1山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年  187頁
*2内藤則邦「イギリスの炭鉱ストライキ」『日本労働協会雑誌 』27(2) 1985.02
*3山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)【ネット公開】
http://www.kitakyu-u.ac.jp/gkj/2007_sr42_2-4.html
*4「‥‥全国ストライキは、大会決議の実行のために実施される組合員の投票の結果でのみ入るものとし、ストライキはそのストライキ投票数の55%に達しなければ宣言されない。もし、ストライキの進行中に投票が実施される場合には、投票数のうち賛成55%が、そのストライキの継続のために必要である。‥‥」内藤則邦 前掲論文
*5田口典夫『イギリス労使関係のパラダイム転換と労働政策』ミネルヴァ書房2007年 152頁 古川陽二「イギリス炭鉱ストの一断面(外国労働法研究)」『日本労働法学会誌』(通号 69) 1987.05 1982年賃上げ闘争は53%、1983年は40%の支持しかおられずスト権を確立できなかった経緯がある。
*6内藤則邦 前掲論文
 早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 85頁以下 全国執行委員の右派役員から全国投票を行うべきという意見もあった。24人の全国執行委員のうち3人であるが退けられた。
*7山崎勇治 前掲論文
*8古川陽二「イギリス炭鉱ストの一断面(外国労働法研究)」『日本労働法学会誌』(通号 69) 1987.05
*9内藤則邦 前掲論文
 早川征一郎 前掲書90頁
*10山崎勇治 前掲論文
*11内藤則邦 前掲論文
*13田口則夫 前掲書 200頁
 小川晃一『サッチャー主義』木鐸社2005年 118頁
*14 山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年  165頁
*15山崎勇治 前掲書 223頁
*16田口則夫 前掲書 200頁
*17元山 健「サッチャー主義--社会民主主義的コーポラティズムの終焉--覚え書き」『奈良教育大学紀要. 人文・社会科学』34(1) 1985.11
田口則夫 前掲書 200頁
*18元山健 前掲論文
*19前掲論文 
山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)
*20早川征一郎 前掲書 91頁 
*21 松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1991
*22山崎勇治 前掲論文
*23 小川晃一 前掲書 118頁

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