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2010/11/29

本郷和人にはがっかりした

 日本中世政治史研究者で、権門体制論、龍粛の西園寺家中心史観、網野史学、皇国史観などを斬りまくっている本郷和人が、また新書判の本を出した。『天皇はなぜ万世一系なのか』文春新書である。
 196頁以下で保守論客の女系天皇反対論批判をやっていて、「結果としての男系天皇にすぎない」と言う。その理由の一つとして高群逸枝説の古代における招婿婚の盛行を取り上げて、「天皇の相承は男系で、という強烈な意識があったのは想定しがたく」などと書いている。こういう言い方は暗に女系論者を応援しているかのごとくである。藤原氏が外戚として権力を握ったのは招婿婚ゆえであるというのも理解しがたい見解である。たとえば清和天皇は母藤原明子の里第である染殿もしくは、良房邸で育てられていたかもしれないがも東宮雅院という大内裏の内の敷地を居所としていた可能性もある。その場合も母と同居していたのだろうが、いずれにせよ外戚の庇護のもと育てられるという問題と皇位継承のルールとは直接関係ない。
 東大史料編纂所准教授だから影響力はある。それが小林よしのりと似たような理屈を書いていて不愉快だし、ばかげている。
 前にも書いたことだが、天皇の親族であるところの皇親の制における構成員資格(親王号、王号を称する範疇といってもよい)は平安時代以降親王宣下の制度により皇親の制度が変質した後においても父系単系出自(自然血統)であることは一貫しており、男系を意識しないなどということは論理的にありえない。平安時代になると藤原基経の妻に人康親王女とか、藤原師輔に康子内親王や雅子内親王が降嫁した事例があるので、男系を意識しないと論理的に皇親と王氏(皇別氏族)とその他の氏との区別ができないからである。
 再三言うが、違法であるが村上天皇の勅許により、康子内親王(醍醐皇女、母は皇后藤原穏子)が藤原師輔に降嫁し、産褥のため薨ぜられたが、遺児が太政大臣藤原公季(閑院流藤原氏の祖)である。一品、准三后康子内親王は后腹で村上の同母姉であったこと、皇后藤原安子が師輔長女であることから公季はミウチ同然として宮中で育てられ皇子に等しい扱いをされたが、いかに天皇の甥という近親であれ、父方が藤氏なので皇親ではないし、皇位継承資格はない。もちろん当時においては多くの皇親を支える財政状況になかったので、男系の二世王あるいは賜姓源氏より藤原氏のほうが有益だったかもしれない、実際公季は右大臣から太政大臣まで昇進したが、皇親が男系であることは自明である。

 また、中世政治史・古文書学が専門で家族史が専門外であるとはいえ本郷和人が高群逸枝説ないし高群の影響を受けた女性史学を無批判に受容しているかのごとき記述は軽率に思える。妻問婚、婿取婚から嫁取婚へという図式は通説ともいわれるが、反対説や厳しい批判も少なくないからである。
 例えば鷲見等曜、歴史人類学の江守五夫の嫁取婚古代起源説、近年では栗原弘が、高群逸枝は『招婿婚の研究』で史料を改竄していると厳しく批判し、実際には高群が主張するほど平安時代に婿取婚が一般的ではなかったことを示している。
 私はより広い視野で歴史人類学の立場から高群系女性史学批判をやっている江守五夫の嫁入婚古代起源説を基本的に支持する。(なお私は1980年頃都立大学の事務局に勤務したことがあって、民青が自治会を支配していた大学で、学生が校門の近くで江守の『愛の復権』という道徳の教科書みたいな著作を宣伝したのを知っている。同氏は共産党に近い立場だったのだろう。同氏は『母権と父権』で「婚姻を真に夫婦相互の人格的愛情の上に築きあげ……対等な地位と権利を実際に享受せしめるためには……私有財産制を止揚する以外に」http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/915.htmlと論じているから共産主義者のように思える。しかし、私はその人の政治的イデオロギーがどうあろうと純粋に学問的業績は業績として評価する考え方である。)
 都立大といえば図書館で中山太郎の『日本婚姻史』を読んだ記憶があるので、基本的に土俗研究や人類学は好きなほうである。日本民族文化の生成に関する問題を体系化したのが戦後都立大の教授だった岡正雄である。岡は日本の基層文化は次の五つの文化複合であるとした。。
1 母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化 (アジア沿岸南方地域より渡来)
2 母系的・陸稲栽培=狩猟民文化(縄文末期 南方より渡来)
3 父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化(弥生時代初期、満州・朝鮮より渡来 ツングース系の種族)
4 男性的・年齢階梯制的・水稲栽培=漁労民文化゛(弥生中期紀元前4・5世紀、揚子江河口より南の沿岸地域、呉と越の滅亡に伴う民族移動の余波として渡来)
5 父権的・「ウジ」氏族的・支配者文化(3・4世紀頃、満州南部アルタイ系騎馬遊牧民が朝鮮半島を南下して、南部にとどまり、3・4世紀頃、列島渡来)
 この業績は戦前のものである。この説から進展した騎馬民族制征服説は今日ではあまり評価されていないのもで疑問点もあるが、単一民族といっても、わが国の基層文化は複合的、重層的なものであり、単一の文化に還元すべきではないという点では正しい説である。婚姻に関しても、江守が言うように古くから南方系の一時的訪問婚と北方系の嫁入婚の融合と併存した文化と理解すべきである。(江守五夫『家族の歴史民俗学』弘文社 1990 25頁)
 江守はこのうちの1と2の「母系的」親族組織は現代の学問水準では「双系的」と改めるべきであり、1と2は本来同じものだったかもしれず、4との関連が問題と述べている(前掲書序説 )。
 もっと単純化すれば、戦前の民俗学者中山太郎の言うように、わが国の基層文化は南方系と北方系から成り立っている。
 南方系基層文化(江南より南部、東南アジア方面に由来)としては、年齢階梯制、若者宿、一時的訪妻婚、歌垣である。中国南部から東南アジア方面から耕作文化とともに伝播したと考えられている。現代においても中国雲南省の少数民族に歌垣などわが国の基層文化と類似した土俗を見いだすことができる。(つまり妻問い婚とかヨバヒ、歌垣に見られる若者と娘の集団見合というのは南方系基層文化であり、現代においても集団見合型の合コンがこの文化の進展と私は思う、歌の掛け合いが王様ゲームに変わっただけ)。
 一方、北方系基層文化(東北アジアから内陸アジアに由来)は嫁入婚を基本(ただし婿養子型招婿婚もあり父系的親族体系と入婿は共存する文化である、共存しないと考えるのは中国の宗法制度を基準とする固定観念である)としているが、江守五夫の東北アジア民族の嫁入婚と日本の嫁入婚習俗との類似点を明らかにしている(前掲書)。
 レヴィレート婚(亡夫の弟が寡婦となった嫂を娶る-わが国の戦争未亡人の多くの再婚がそうである)寡婦相続婚、姉妹型一夫多妻婚や婚姻儀礼にまつわる呪術的習俗である。特に日本海沿岸地帯に見られる「年季婿」(妻家での一定期間の労役を条件とする婚姻)と東北アジアに見られる「労役婚」との類似性を指摘している(前掲書)。
 これは放送大学の講演で聴いたことだが、東日本にみられる見かけ上の初生子相続、「姉家督(民俗用語)」も長男が成長するまでの「労役婚」のバリエーションとしてとらえむしろ姉夫婦が分家独立することから、「姉家督(民俗用語)」は母系的親族関係を意味せず、むしろ父系的親族関係に由来するみなしたことなど優れた着眼点に思える。
 また江守五夫は柳田国男が「結納」について、贈物が些細で初婿入りの酒肴にすぎないとしているのを批判し、これは酒食の提供ではなく花嫁代償的な財貨の提供としての性格を看取できるとしている。
 現代では一般に100万、70万、50万といわれる「結納」相場とされるが、どうだろうか。私は結論を出せないが、もし花嫁代償なら嫁入婚の慣習だと言わなければならない。「結納」に類似した慣習が蒙古族や南ブリヤート族にもみられる。『日本霊異記』中巻33話にに鏡作造の美貌の娘の求婚のために美しく染めた絹布車三台分を送る男が現れたという話がある。江守は絹布車三台分は虚構であるとしても、このエピソードは相当の婚資を贈る慣習(嫁入婚)が前提となっていると解説する。
 さらに重要なことは江守は古代における嫁入婚の例証を「天皇家」に見いだしていることである。(前掲書22頁以下)
『日本書紀』巻三神武天皇即位前己未年九月二四日条   
 「媛蹈鞴五十鈴媛命を納れて、正妃としたまふ」
『日本書紀』安康天皇元年二月条
 「爰に大草香皇子の妻中蒂姫を取りて、宮中に納れたまふ」
納れて(めしいれて)、宮中に納れたまふとは、呼び入れることで妻問いではない。
ただし、すでに述べたように、《一時的妻訪婚》文化と《嫁入婚》文化の特殊な融合と併存が実態であったという。
 「嫁迎えではなく、求婚としての「よばひ」を一、二回行ったあと、ただちに妻を夫家に移させたり(神武天皇と伊須気余理比売の婚姻伝承)‥‥‥《一時的妻訪婚》の習俗にもとづいて婚約のしるしとして“つまどいのもの”を相手の女に与える場合(雄略天皇と若日下部王との婚姻)‥‥「納采」(あとうること)と称する花嫁代償の授受が行われたりした(履中天皇が皇太子時代に黒媛を妃にしようとして贈る)」
  「天皇家に関しては《嫁入婚》が婚姻の基本形態をなしていた」「平安時代中期でも。『宇津保物語』に描かれているかぎりでは、天皇家の婚姻形態は《嫁入婚》であった」としている。
 さらに江守は考古学者の白石太一郎説を引き『古事記』・『日本書記』・『新撰姓氏録』』などに記載された「古代豪族の厖大な同祖・同族系譜」の形成が古墳時代-とくに五世紀後半から六世紀前半-にまで遡るとしていることを根拠として、五世紀後半から六世紀前半に既に父系出自集団が成立していたことは社会考古学上動かしえぬ事実と断言し、父系出自集団たるウジを国家の社会機構に組み入れた制度こそが氏姓制度であるとする(前掲書30頁)。
 もちろんウジの性格については議論のある問題だが、厳しく批判されている高群系女性史学を過大に評価して、わが国はもともと双系ないし無系社会で、シナの制度の移入により父系親族制度に再編されたなどと単純な見方は誤りである。わが国では古くから父系的、ないし準父系、双系的な親族関係の複合的ないし併存した基層文化があったとみるのが真実に近いものと考える

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