公務員に労働基本権付与絶対反対-政府は巨悪と手を結ぶな

無料ブログはココログ

ニュース(豪州・韓国等)

意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

Reference Sites

« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

2011年1月の11件の記事

2011/01/30

団体交渉コレクティビズムから個別雇傭契約自由放任主義へパラダイム変換(下書き3)

第1回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-ab5d.html

第2回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-c8e7.html

承前
 
アメリカ合衆国-非組合企業隆盛の理由(3)

.アメリカの経営者の反労働組合主義と憲法革命以前の保守的な司法

●鉄鋼業の反労働組合政策 約40年間の組合不在時代-Non-unionEra
 

(1)流血戦-1892年ホームステッド・ストライキHomestead Strike組合敗北の意義

  アメリカ企業の反労働組合主義(組合否認、組合排除政策)における組合勢力との闘い特徴として、19世紀末期から20世紀の初期にかけて次のような政策が挙げられている。
 会社警護団、武装したスト破り、私設兵器庫の設置、ピンカートン探偵社Pinkerton National Detective Agencyに代表される反組合的探偵社員や組合煽動家スパイの活用、ブラック・リストの作成、黄犬契約、団体協約締結工場の閉鎖、新聞報道の規制、会社町など公的機関の支配の排除、低賃金労働に耐えられる「新移民」の積極的雇用、企業内福祉の充実など慈恵的政策などの展開である。
 ストライキの鎮圧に当たっては、武装ガードマン、警察、州兵、連邦軍との銃撃戦、流血事件も少なくない。
 重要な抗争においては州兵あるいは連邦正規軍が投入され鎮圧にあたった。1877年大鉄道ストライキ、1892年のホームステッド・ストライキ、1894年プルマン・ストライキ、1919年の鉄鋼ストライキなどである。

 なかでも1892年の流血事件となったピッツバーグ近郊カーネギー・フィップス社のホームステッド鉄鋼所ストライキとアイダホ州コーダレーン銀山における鉱山労働者のストライキ(いずれも組合敗退)は特筆すべき事柄だと言わなければならない。

 アメリカでは鉄鋼業が1890年代から1937年まで組合を締め出していた時代があった。組合不在の時代Non-unionEraと言うのである。その決定づけたのがホームステッド労働争議の合同鉄鋼錫労組の組合敗退だった。 
 もともと1860年代以降の中西部鉄鋼業はクラフトユニオン(職種別組合-銑鉄工組合、1876年以降は合同鉄鋼錫労働組合)の内部請負制(親方請負的労働関係)による間接的労務管理体制として企業内労使関係を編成していた。間接労務管理とは、労働組合は組合員に義務づけた標準的な技能水準、標準的な労働力の支出量、標準日賃金率を規制する。労働力の質・銘柄は賃金率に体現される。作業の段取り、人の配置、技能の習得、作業量の決定は職種内部の自律的機能だった【*1】。
 このように組合の規制力が及ぶ内部請負制のもとでは工場内装置の大型化と生産技術の改良によってのみ労働能率向上をはかることは困難だった。
 このためA.カーネギーは、内部請負親方が持っていた労務管理機能を近代的賃労働者としての現場末端管理者に吸収していく方策をとったのである。
1889年カーネギー・フィップス社はペンシルベニア州アレゲーニー郡にあるホームステッド鉄鋼所の組合に25%賃下げ、スライディングスケール賃金(棒鉄の市場価格の変動に伴い賃金も2ヶ月ごと変動する制度)の新制度、団体交渉拒否、個別的賃金決定などを提示したが、組合が拒否してストライキらに突入、この時はスト破り125人を退散させたため組合が勝利し、おおむね現状維持の協約(1892年まで)を締結した。
この事態に対し、カーネギーは東部資本との競争に勝ち抜く目的で、同工場を自動圧延台、水圧式起重機、溶鉱炉用起重機等の導入による労働力節約型工場として生産性を向上させるとともに、労務コストを削減するため合同鉄鋼労組との団体交渉の廃止を方針として決め、組合不在工場化宣言を行った。組合不在工場は、ピッツバーグ近郊でエドガー・トムソン製鋼所、デューケン製鉄所という2工場の実績があったのである。
1892年6月23日、合同鉄鋼労働組合はスライディングスケールの最低賃率保障賃金25ドルという要求を会社側が拒否したため、6月30日ストライキ突入、会社側は7月1日に工場閉鎖を宣言したが、組合とそれに呼応した労働者が総勢4000人による3当直による8時間ごとのピケット態勢をとった【*2】。
  会社代表のH・フリックは労働者を排除するために7月5日ピンカートン探偵社の私兵300人をモノンガヘイラ川から送り込んだ。どちらが最初に発砲したかは諸説あって不明である。罷業労働者も武器で応戦したため、13時間に及ぶ断続的な銃撃戦となり双方で10人が死亡、多くの重傷者を出した。罷業労働者は油を川に流してで艀を燃やす戦術をとったり、ダイナマイトも投げられた。モノンガヘイラ川を艀で退却しようとしたピンカートンは油責め攻撃にあって降伏せざるをえなかった。組合の占拠が数日続いた。
  しかし7月12日からペンシルベニア知事が州兵を延べ8000人を派遣し、罷業労働者を排除、州兵の保護のもとでスト破りの非組合員労働者を新たに雇った。8月12日には1700人の代替労働者により操業が行われた。この間、H・フリックの暗殺未遂事件も起きたが、最終的には11月20日に組合はストを中止した。ストに参加した大半の労働者は解雇、争議の首謀者たちは騒乱罪・殺人罪で裁判にかけられ【*3】、永久にブラックリストに載ることとなった。
  この結果、職能別組合は放逐され、団体協約を廃止し個別的賃金決定制度に移行させた組合不在工場となった。
   争議敗退で合同鉄鋼錫労組は衰退の一途をたどることとなり、ホームステッド工場だけでなく、ビッツバーグ全域の鉄鋼業で組合不在化をもたらした。
  この事件は凄惨な流血戦となったためアメリカ労働史上最悪の事件ともいわれるが不当な評価であって、私はNon-unionEraをもたらした積極的な意義を認めたい。
 
  このストライキの結果、中西部鉄鋼業は労働組合の内部請負による作業工程の支配、生産調整を排除して、本当の意味での経営権を確立し、一日12時間週7日労働制という鉄鋼ならではの長時間労働(1910年代に週6日とに緩和されるが1日12時間労働は1923年まで続く)を普及させ、直接雇用-技能養成-内部昇進-差別的賃金という近代的労務管理に編成されるにいたったのである。ホームステッド鉄鋼所は、カーネギー社の3大工場に数えられ、工場レイアウトはもっとも近代的に整備されたものとして高く評価されている。 
  また、このストライキ以後、ストが起きた時は、ピンカートン探偵社の護衛によって東南欧の新移民をスト破り代替労働者を導入一般化し、合同鉄鋼錫労働組合のストはことごとく粉砕されることとなった【*4】。

(2)1901年USスチールにおける組合承認要求ストライキの敗北

  1897から1903年を「トラスト熱狂の時代」という。最大の企業結合は1901年4月モルガン商会によって設立された全米最大規模の巨大企業USスチール(持株会社)である。
  カーネギー社、フェデラル製鋼、ナショナル鋼管、アメリカ製鋼線材、ナショナル製鋼、アメリカ錫引鋼板、アメリカ鉄橋材、シェルビィ鋼管、スペリオル湖合同鉄鉱山など11社を統合した完全な一貫生産のできる事業体で640の工場群を有し【*5】。鉄銑の43.2%、鋼塊の65.7%、鋼管の57.2%、鉄板の64.6%を支配した【*6】。
  USスチール傘下の子会社のうち軽薄鋼材系のアメリカ・シート、アメリカ鋼帯、アメリカ・ブリキの3つに組合のある工場があった。それは全体のなかで少数だったが、1901年に合同鉄鋼錫労組は巨大企業USスティールに挑戦して、全工場の組織化・組合化(組合承認)を要求するストライキに突入した。これは職能別組合の死命を賭けた挑戦であったが、USスティール経営委員会の基本方針は「われわれは労働組合の如何なる拡張に対しても永久不変に反対する」(6月17日の表明)であった。
 
  1901年7月19日合同鉄鋼錫労組の指令により3つの子会社4万6千人に加えて、非組合工場の一部が呼応して総勢6万2千人を巻き込んでストライキとなったが、組合はモルガンが提示した妥協案(全工場で2年以内に協約を締結するが非組合工場での組織化には反対する-つまりオーブン・ショップは堅持する)を拒否して、全工場のゼネストを宣言するにいたった。
  しかし、AFLのゴンパースが好戦的な姿勢を嫌ってゼネスト協力を拒否したため、孤立した闘争を余儀なくされ、スト破り代替労働者の導入に太刀打ちできず、結果的に組合のあった14工場で、組合不在工場となるなど、組合に不利に展開して、8月にはほぼストが集結した。最終的に組合は3年間の協約を締結したものの、以下の会社の方針を呑まされたのでこのストは敗北した。
 
  ①会社は平穏に仕事に就いている労働者を妨害や虐待によって、あるいは強制的に妨げる者に対して、労働組織とはかかわりなく解雇する権利を有すること。
  ②組合は非組合工場において組合を組織しようとしたり、組合員証を授与したりしてはならない。
  ③前年において組合工場だったところは状態を保たれるが、スト中に非組合化された工場はそのかぎりでない【*7】。
 
 
  1903~4年には組合は殆ど抵抗なく、非組合工場が拡大し、制限的慣行も放棄された。非組合工場だけで需要をまかなえる態勢となったUSスチールは組合を実質的に放逐し、内部請負制は全面的に崩壊するにいたる。
  アメリカの鉄鋼業に組合不在時代をもたらした別の要因として熟練工と不熟練工が協調しにくい事情も指摘されている。熟練工はアングロサクソンが殆どでアメリカ生まれが多かったが、不熟練工は東南欧生まれが多く3分の1が英語を話せなかった。【*8】

(3)20世紀初期におけるUSスチールの反労働組合政策

   USスチールは1901年労働争議を契機とオープンショップ政策の具体化していった。それは労働組合組織を工場・職場から徹底的に排除するものだった。労働スパイやブラックリストに寄る組合活動家の解雇はもちろんのこと、黄犬契約も行った。業界では1882年から行われていたことでironclad契約というのである。それは次のような誓約をなすものである。

   「私は、合同鉄鋼錫労働組合の成員にもならないし、また同じ目的と性格のいかなる秘密組織にも加わらない。そして、私自身それらの組織の規約や命令を無視して作業することに同意し、そのことを誓約します。‥‥」【*9】

   「契約の自由」を憲法によって保障すると解釈されていたロックナー時代において黄犬契約は法的にも正当なものだった。
   雇用条件として労働組合に加入しないことを要求するいわゆる黄犬契約を禁止する法律を違憲と判断した連邦最高裁判例としてアデア判決ADAIR v. U S, 208 U.S. 161 (1908) http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=us&vol=208&invol=161 がある。
 ハーラン判事による法廷意見は「労働者が適当と考える条件で労働の買手が買う条件を定める権利と異ならない。雇用者と被用者は平等な権利を有しており、この平等性を妨害する立法は、契約の自由に関する専断的な干渉になる」【*10】と述べ、修正5条のデュープロセス条項違反として違憲判断が下されている。
1917年のヒッチマン判決Hitchman Coal & Coke Co. v. Mitchell, 245 U.S. 229http://supreme.justia.com/us/245/229/case.htmlのピットニー判事による法廷意見は、黄犬契約を結んでいた非組合員の炭坑夫を組織化しようとした統一炭坑労働組合の活動について労働組合が労働者に組合加入を働きかけることは契約違反の誘致にあたり、組合の勧誘行為の差止命令を認め、オルグ活動は労働者の「非組合員的地位」に対して有する経営者の財産権(炭坑を非組合員によって操業する権利)を侵害し、非組合員労働者の契約上の権利を侵害するとの判断も下した【*11】。

組合を排除する黄犬契約を憲法革命以前の保守的な連邦最高裁は支持していたのである。

また、組合排除政策の一貫としては、企業内福利厚生施設による福祉政策も挙げられている。それは教会、学校、図書館、クラブ、食堂、運動場、プール、競技場、テニスコート、演奏舞台、巡回看護、生活実習センター、庭園、年金、衛生、災害防止、災害救済、従業員持株制、年金支払いなどである。1903年には26399人の従業員が自社株47551株を取得したのである【*12】。これは熟練労働者を離職防止の意味もあった。こうした政策は1920年代にさかんになったウェルフェアキャピタリズムの先駆ともいえる。

 
(4)1919年-30万人参加鉄鋼ストの敗北

ウッドロー・ウィルソン大統領(在任1913~21)の革新主義政治は労働組合寄りだった。労働省の設置、1914年クレイトン法は反トラスト法のいかなる規定も‥‥労働団体の存在、活動を禁止し、または労働団体の構成員が当該団体の正当な目的を合法的に遂行することを禁止・制限するものと解釈するべきでなないとし、1916年連邦労働者災害補償法が制定され、同年のアダムソン法では、鉄道労働者の1日8時間労働が定められるといった立法例がみられる。また 第一次世界大戦参戦は「アメリカ史上まれにみる労働組合の勢力拡大期」となった。その理由は1918年全国戦時労働理事会(NWLB)の設置である。NWLBはリベラル派が推進した産業民主主義路線で、戦時協力のためストを禁止したものの団体交渉と賃金・作業の標準化を厳しく貫き1150件に及ぶ仲裁を行った結果、AFLの組合員数は戦中に100万人も増加したのである。戦時協力が口実になって雇用主が嫌悪する団体交渉が促進されたのである。
 しかし戦後になると雇用主の多くは、組合活動を敵視する戦前の態度に戻った。戦中の賃金上昇は戦後の急激なインフレで意味を失った。政府は平時経済への転換や復員兵の労働市場復帰の対策は行わなかった。
 そうした状況で1919年に400万人以上の労働者がストライキに入ったとされるが、鉄鋼ストが最大規模だった。
 既に述べてきたように、アメリカの鉄鋼業は労働組合を放逐していたが、1918年の秋からAFLの決議に従って全国組織委員会が組織化をすすめ、団体交渉権の承認、8時間労働制度、週休1日制度(1990年代から鉄鋼業は一日12時間労働が一般的だった。これは1923年まで続いた)、24時間交代制の廃止、8時間以上の超過勤務手当、日曜休日労働の2倍賃金、組合費のチェックオフなどを要求し、9月22日からストに入り、29日には鉄鋼労働者の9割に当たる36万5600人がストに参加したが、軍隊の動員、全国産業会議での決裂、合同組合の度重なる離反で勢いが弱まり、1920年1月8日になお10万人の労働者が職場を離脱していたにもかかわらず、組合はなんの譲歩も引き出せずに、ストは終結した【*13】。
 このストライキの敗北の要因は雇主が南部の黒人からなるスト破り代替労働者約3万人導入し操業を再開したことが、スト参加者に自分達の仕事が誰にでもできことを知らせ、仕事を失う恐れからたストから脱落して、職場に復帰する労働者が続出したことであった【*14】
「正常への復帰」をスローガンとするハーディング大統領と続くクーリッジ大統領により、革新主義政策が否定され、経済自由放任政策がとられたこと、1921年のデュプレックス印刷機製造会社判決、アメリカ鉄鋼会社判決、ツルアックス対コリガン判決で、クレイトン法6条と20条による労働組合の反トラスト法の適用と平和的な組合活動に対する差止命令の違法と読める条文を実質的に無効とする保守的な判決を下したことから、20年代に労働組合は退潮の一途をたどった。
1924年合同鉄鋼錫労組は鉄鋼業におけるクラフトユニオニズムの廃止を申し入れ、1933年には組合員僅かに4800人組織率2%に凋落し、鉄鋼業では労働組合は壊滅したかに思えた。【*15】。

(5)ニューディ-ル期の産業別組合の承認

 ところが赤い30年代、1932年反インジャンクション法ノリス・ラガーディア法が成立、ニューディ-ール政策は産業別組合の結成を促すこととなった。1933全国産業復興法 NIRAの成立で労働運動の波が高くなると、会社は外からの組織化構成を警戒して、会社組合をつくった。1934年末に鉄鋼業の会社組合は93組合となり、鉄鋼労働者の90%がせ会社組合の組合員となっていた。鉄鋼業は組合を壊滅状態にしておきながら、会社組合とはいえ90%の組織率となったこと激変である。
 1935年の全国労使関係法(ワグナー法)は会社の支援する組合を違法化したことから、御用組合は生き残れなくなった。
 1936年6月CIOの下に産業別組合の母体となる鉄鋼労働者組織委員会が結成され、企業を超えた産業別組合運動が展開された。組織委員会は会社組合を支援し独立性の促進を図った。会社組合は会社に忠誠をつくす者と、鉄鋼労働者組織委員会に近づく者に分かれた。若干の会社組合がそのまま鉄鋼労働者組織委員会に参加した。
 鉄鋼労働者組織委員会は成長し、1936年11月に組合員8万2千人となり、ついに1937年3月2日USスチールのカーネギー・イリノイ・スチール社で交渉権を獲得さらに、1941年には組合員が50%を超える会社が続々と排他的交渉権補を獲得、1942年にはUSスチールの全子会社で全国労働関係局の選挙判定をうけ投票の90%を獲得して排他的交渉代表権を獲得、1942年に44万7千人の組合員による統一鉄鋼労組となり【*16】、この鉄鋼業はニューディ-ル型団体交渉の行われる典型的な業界に変質したのである。
 しかし、経営者がすすんで組合を承認したわけではない。大恐慌と産業別組合の台頭があり、1930年代の労働法制定が組合に有利な政策であっためにすぎない。つまりやむをえず承認したにすぎない。
 大恐慌では1929~1932年の間に世界貿易は70.8%も減り、失業者は3000~5000万人に達し、国民所得は40%以上減少。米国では株価は80%以上下落し、1929年~1932年に工業生産は平均で1/3以上低落し、1200万人に達する失業者を生み出した。これは全労働者の4分の1に当たる(失業率25%)。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月には全銀行が業務を停止した。 http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/great_depression.html
 この時期に、労組に力を与える左傾化した政策がなされた。ストライキを打てば
失業者や家賃の払えない浮浪者にあふれていた都市では、ストに付和雷同し騒ぎになり、こうした状況では、組合は組織化しやすく、組合承認の圧力がかかるものである。そういう特殊な事情によるものと理解すべきだ。
 大恐慌さえなければ、左傾化した労働法さえ制定されなければ、アメリカはもともと反労働組合政策の経営者が主流であったから、20年代の反労働組合政策のままに推移していた可能性が高い。

 

【*1】平尾武久「内部請負制の展開と労務者管理の歴史的性格--産業資本確立期のアメリカ鉄鋼業を中心として」 『経済と経営』12巻3号1981
【*2】平尾武久「ホームステッド労働争議と反労働組合主義の抬頭 : アメリカ労務管理形成史の一齣」経済と経営 13巻3号1982
【*3】有賀貞・大下尚一・志邨晃佑・平野孝編『世界歴史大系アメリカ史2 1877~1992年』山川出版社1993年 82頁
【*4】平尾武久「近代的労務管理体制の成立とその構造的特質 U. S. Steelの労務政策と企業内労資関係の展開」『経済と経営 』13(1・2), 95-161, 198http://ci.nii.ac.jp/naid/110004033807

【*5】三浦隆之「USスチール設立時の創業者利得 : ヴェブレンとヒルファディングの違い(中) : 企業所有の価値と機能(4)」『福岡大学商学論叢 』49(1) 2004-06 PDF
http://www.adm.fukuoka-u.ac.jp/fu844/home2/Ronso/Shogaku/C49-1/C4901_0023.pdf
【*6】大山信義「》Human Relations Approach《 の展開と思想史的意義」『北海道大学人文科学論集』11 1974http://hdl.handle.net/2115/34312
【*7】黒川博『U.S.スティール経営史』ミネルヴァ書房1993 57頁以下
【*8】赤岡功「企業と労働市場」『経済論叢』103巻6号 1969
http://hdl.handle.net/2433/133345
【*9】平尾武久「近代的労務管理体制の成立とその構造的特質 U. S. Steelの労務政策と企業内労資関係の展開」前掲論文
【*10】石田尚『実体的適法手続』信山社出版 1988
【*11】水町勇一郎『集団の再生―アメリカ労働法制の歴史と理論』有斐閣2005 69竹田有「アメリカ例外論と反組合主義」古矢旬・山田史郎編『シリーズ・アメリカ研究の越境第2巻権力と暴力』ミネルヴァ書房2007年170頁)
【*12】平尾武久「近代的労務管理体制の成立とその構造的特質 U. S. Steelの労務政策と企業内労資関係の展開」前掲論文

【*13】黒川博 前掲書 132頁以下
【*14】赤岡功 前掲論文
【*15】赤岡功 前掲論文
【*16】赤岡功 前掲論文

入手資料整理52

9399 黒川勝利「1902年アメリカ無煙炭ストライキとその周辺」『岡山大学経済学会雑誌 』 17巻3-4号1986http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/metadata/42069

 9400黒川勝利「アメリカ革新主義時代の理解と労使関係研究―ニュー・レフト史学的理解およびニュー・レイバー史学的理解を手掛りに― 」 Industrial Relations in the Progressive Era of the United States 『岡山大学経済学会雑誌 』 19巻1号1987http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/Detail.e?id=4197520110120172822

9401黒川勝利「20世紀初頭アメリカ機械製造業労資関係についての予備的考察―いわゆるマレイ・ヒル協定の前後を中心に―」
Machinists and the National Metal Trades Association, 1900-1901 『岡山大学経済学会雑誌 』 18巻1号1986http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/Detail.e?id=4201420110121092205

9402大山信義「》Human Relations Approach《 の展開と思想史的意義」『北海道大学人文科学論集』11 1974http://hdl.handle.net/2115/34312
(この人は社会学者 アメリカ資本主義の展開-使える論文だ)

9403赤岡功「雛形交渉と産業別組合」『経済論叢』102巻2号 1968 http://hdl.handle.net/2433/133292 
9305赤岡功「企業と労働市場」『経済論叢』103巻6号 1969 http://hdl.handle.net/2433/133345
(1919年鉄鋼ストの敗北は、南部の黒人を3万人スト破りとして就労させたことだと言っている)

9306三浦隆之「USスチール設立時の創業利得 : ヴェブレンとヒルファディングの違い(中) : 企業所有の価値と機能(4)
『福岡大学商学論叢』 49(1)2004 http://ci.nii.ac.jp/naid/110000327419

2011/01/29

入手資料整理51

 ひとくちに経済的自由主義といっても「営業の自由」と「契約の自由」とは由来も性格も違う。「営業の自由」は買占による価格釣り上げのような市場犯罪(中世の古い慣習法)に遡ることができ、とりわけ17世紀初期の国制論争以降のコモンローの進展に由来する。「市民革命期」の思想と言ってもよい。独占(営業の排他的権利)と営業制限の結合(価格カルテルや労働者の団結といった共謀)、同職組合の営業独占、徒弟法の入職規制を嫌う思想である。1890年のシャーマン反トラスト法もこの系統の制定法である。「契約の自由」は大陸法の私的自治、とりわけサヴィニーの大陸法的意思理論に由来し、自由放任主義哲学やベンサム主義的功利主義思想により19世紀に一般的になったもので本来性格の異なる思想である。経済的自由主義を論じる場合に両者を混同すると混乱した記述になるので注意したい。
 契約法史の大家アティヤ(P.S.ATIYAH)は契約の自由は1770年以降の展開としている。(9385)

9385山口 康夫「アティヤ(P.S.ATIYAH)の「契約自由論」について--1--2--3-- 」『札幌商科大学論集. 商経編 』  (通号 34) [1983.07]  、 (通号 35) [1983.12] 『札幌学院商経論集』   1(1) [1984.07]

9386矢崎 光圀 監修  大阪大学法文化研究会 「イギリス契約法史の一潮流--アティアの近著に依拠して」-1--2--3--4-『阪大法学』通号125 1982、
通号126 1983、通号127 1983、通号128 1983

9387 大森弘喜「19世紀フランスにおける労使の団体形成と労使関係」『経済系 : 関東学院大学経済学会研究論集』227集http://opac.kanto-gakuin.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_detail.cgi?U_CHARSET=EUC-JP&CGILANG=japanese&SUNO=&HTMLFILE=sr_sform.html&SRC_BODY=1&ID=NI10000781&PID=NI10000781

9388 高村学人「フランス革命期における反結社法の社会像 : ル・シャプリエによる諸立法を中心に」『早稲田法学会誌』48号1998 http://hdl.handle.net/2065/6520 

9389中村紘一『ル・シャプリエ法研究試論』『早稲田法学会誌』20号1968http://hdl.handle.net/2065/6281

9390鷹巣信孝「職業選択の自由・営業の自由・財産権の自由の区別・連関性(一)(二)(四・完)- いわゆる「営業の自由論争」を参考にして『佐賀大学経済論集』32(2) 1999-07  32(4) 1999-11 32(5), 55-80, 2000-01  http://ci.nii.ac.jp/naid/110000451598 http://ci.nii.ac.jp/naid/110000451609 http://ci.nii.ac.jp/naid/110000451612

9391池田 恒男「国労札幌ビラ貼り事件」最高裁判決の「画期的」意義--現代日本法の一断面」『社會科學研究』33(5) 1981.12
 
9392山口 浩一郎   「使用者の施設管理権と組合活動の自由--最高裁「国労札幌地本事件」判決を素材として 」『労働法学研究会報 』 31(3) [1980.01.25 ]

9393谷原修身「アメリカ合衆国における連邦主義と反トラスト法」『一橋論叢』95巻2号 1986http://hdl.handle.net/10086/12810 

9394長沼秀世「シャーマン反トラスト法」『一橋研究』10 1963  http://hdl.handle.net/10086/6737 

9395長沼秀世「ニューディール期におけるアメリカ労働運動-CIO成立史」『一橋研究』8号 1962 http://hdl.handle.net/10086/6756 

9396 長沼秀世「オペレーション・ディクシ---CIOの南部組織活動」『国際関係学研究』通号20 1993

9397 長沼秀世「その後の「オペレーション・ディクシー」--CIOの南部組織活動の変遷」『国際関係学研究』通号25 1998

9398長沼秀世「オペレーション・ディクシー」の終了、CIOの終焉遷」『国際関係学研究』通号29 2003

1月28日東京都水道局2時間スト中止について

 11月からこれで四回目だが、ストライキが予定されている時は、鞄を持たず通勤することになっている。手ぶらでないと包囲されたときに敵と戦えない。管理職が私の就労権を認めず組合の権力に好意的で、ピケット尊重の方針だから何が起きるかわからないからだ。

ストライキの組合員をロックアウトするんでなくて逆、就労したい非組合員をロックアウトして組合に従わせようとしするから、管理職が事実上ピケットの役割を果たしているのである。
 庁舎内に入ると、ビラが廊下に30枚ほど、事務室内に30ほど壁、扉、什器、机の脇、キャビネットなどに貼ってあった。超過勤務拒否闘争で一般職員は締め出されるのに組合役員は残っていて、ビラ貼りをやっていたわけである。ビラの内容は営業所の監理団体業務委託反対、営業所統合反対、蒲田分室廃止提案撤回、台東・文京営業所統合反対とっいった事柄、今回、所長は2枚ほど写真を撮っていた。ただし、事務室内何枚、廊下何枚報告しなければいけないのに、全体の枚数しか数えてないから。廊下は20枚ぐらいだろとか言っていたが、私が数えたところでは32枚だった。だからいいかげんなのだ。もちろん札幌国労事件みたいに、貼った人を特定するわけでもないし、戒告処分にするわけでもない。
 中央委員が頭上報告をしたいと所長に申し出ていた。組合の指令で職場大会はやらないことになっているが分会の判断で8時37分から11分間やっていた。
 スト中止と三六協定締結は朝6時の中央委員会で決定したと言っていた。仕事のため別室に行く用事があったので出だしの主要な部分は聴かなかったが、板橋営業所の監理団体(株)PUCの業務委託については時期を延期させたと言っていた。また労務課長とこれこれの確認書を交わしたとか言っていた。また来年1月の台東営業所と文京営業所の統合に伴う定員5名減は4名減に、蒲田分室廃止統合に伴う、大田営業所の定員も5名減から4名減に押し戻したのが闘争の成果だと言っていた。労務課長とレイアウトその他の事項について誠心誠意協議する云々との確認書を交わしたなどと言っていた

2011/01/27

一般職員は締め出すのに

 東京都水道局では28日の2時間ストを構えて、超過勤務拒否闘争を3日間(26~28日)やっていて、定時退庁時間で退庁させたりしてるが、一般職員は締め出すのに組合役員は連絡待機なのか交渉要員なのか知らないが、残ることが許されていて不公平だ。

 今私の勤務している職場はビラ貼りは枚数も少ないほうで、うっとうしいほどではないが、ひどい職場もあるのであるのである。だいたいビラをべたべた貼って闘争するのは、つぶれかかったタクシー会社とか三流企業のやることでイメージが悪い。25日の所長退庁後に7枚ほど蒲田分室廃止提案撤回だの、台東・文京営業所統合反対だの支部名義のビラが廊下に7枚ほど貼られたが、管理職が写真を撮って枚数を報告することになってるが、写真を撮ったところを見てないし、報告しているかも疑わしい。
 かつて品川営業所に勤務していたとき、2階で勤務時間中職場集会をやっていて、1階で離席して集会のために2階に上がった人などの人数を報告した所長が、慣行で離席者報告はしないことになっているのにけしからんと組合から糾弾されていたように、組合活動の実態も正しく把握しているかも疑問がある。
 いずれにせよ、施設管理権の問題は、国労札幌地本ビラ貼り事件判決(最高裁第三小法廷昭和54・10・30『労働判例』329)の線で企業秩序権を定立すべきだが、とっくに否定された、プロレーバー学説の受忍義務説を私に説いた管理職がいたように、東京都の管理職は総じて労働組合寄りである。知事選もあり、いい機会なので、東京都の労務管理の甘いいところを積極的に訴えていく予定である。

2011/01/23

団体交渉コレクティビズムから個別雇傭契約自由放任主義へパラダイム変換(下書き2)

アメリカ合衆国-非組合企業隆盛の理由(2)
   

 2011年1月21日プレスリリースのアメリカ合衆国労働省統計によると、2010年の労働組合の組織率は前年より低下して11.9%となった。民間部門は6.9%、公共部門が36.2%と発表されている。http://www.bls.gov/news.release/union2.nr0.htm
 州別のデータはhttp://www.bls.gov/news.release/union2.t05.htm次のとおりであるが、2009年から2010年にかけて目立って低下した州としてミシガン州18.8%から16.5%に、イリノイ州17.5%から15.5%に、マサチューセッツ州16.6%から14.5%といずれも2%以上の低下を示した。

労働組合の組織率の低い州(括弧内は2008年大統領選挙結果)

1位 ノースカロライナ3.2% 労働権州(オバマ)
2位 ジョージア4.0% 労働権州(マケイン)
2位 アーカンソー4.0% 労働権州(マケイン)
4位 ルイジアナ4.3% 労働権州(マケイン)
5位 ミシシッピ4.5% 労働権州(マケイン)
6位 ヴァージニア4.6% 労働権州(オバマ)
6位 サウスカロライナ4.6% 労働権州(マケイン) 
7位 テネシー4.7% 労働権州(マケイン)
8位 テキサス5.4% 労働権州(マケイン)
9位 オクラホマ5.5% 労働権州(マケイン)
10位 フロリダ5.6% 労働権州(オバマ)
10位 サウスダコタ5.6% 労働権州(マケイン) 

労働組合の組織率の高い州

1位 ニューヨーク24.2% (オバマ)
2位 アラスカ22.9% (マケイン)
3位 ハワイ21.8% (オバマ)
4位 ワシントン19.4% (オバマ)
5位 カリフォルニア17.5% (オバマ)
6位 ニュージャージー17.1% (オバマ)
7位 コネチカット16.7% (オバマ) 
8位 ミシガン16.5%(オバマ)
9位 ロードアイランド16.4%(オバマ)
10位 オレゴン16.2% (オバマ)

(註)一般に南部は組織率が低い。労働権法(Right to Work law)とは組合に加入せず、あるいは組合費を徴収されないで勤労する被用者の権利を定めたもので、州憲法か州法で規定しているのは南部など23州とグァム準州である。
 ノースカロライナ州の組織率の突出して低い要因は、たぶん州法で州公務員は任意の団体交渉も禁止されており労働組合が否認されてため。但し州従業員協会という職員及び退職者の団体があり、議会への陳情などの活動を行っているが労働組合員にカウントされないためと思われる。
 

 争議行為が合法化されていなかった1930年に9.3%の組織率であったことからすると、2010年の民間企業の6.9%(710万)、公共部門(760万)を含めても11.9%(1470万人)という数値はやはり低いといわなければならない。現実には労働組合に政治的影響力があることはオバマが当選したことでも明らかだが、もはや団体交渉によるニューディール型労資関係は少数派にすぎないものとなったといわなければならない。
 なお、アメリカでもっとも組織率が高かったのは第二次大戦中の40%である。労働組合員は1933年の300万人未満から1945年には1500万人に急増し、戦後の組合員の増加は緩慢になったが、1960年が1800万人を超える水準に達した。しかし組織率は1940年代後半から50年代は33~38%の範囲で推移し、1960年代以降民間セクターはとめどのない下降を示している。【*3】
 平成21年6月末の日本の民間企業の労働組合員数は832万8千人http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/roushi/kiso/09/kekka.htmlと発表されているから、米国は710万なので日本より民間企業の組合員数は120万も少ないことになる。
 これだけ組織率が低下した理由は、さしあたり、以下の要因を指摘できる。

1.アメリカの経営者の反労働組合主義
2.労働法制の要因
 (1)タフト・ハートレー法における使用者の対抗言論の容認
 (2)全国労働局(NLRB)の保守化
 (3)南部など23州の労働権法
3.産業別組合の制限的組合就業規則が技術革新に対応できなかったこと
4.非組合(ノンユニオン)企業の企業文化の高い評価
 以下、それぞれの論点について概説する。
 
1.アメリカの経営者の反労働組合主義と憲法革命以前の保守的な司法

●アメリカと欧州の違い

 20世紀の最初の30年間、アメリカと欧州は対照的な歩み方だった。
 欧州大陸では社会主義と労働組合運動の高揚に対応して企業横断的な雇主協会を結成し、この協会が、財産権と経営権を組合が支持するという約束と引き換えに、組合を容認し産業レベルの団体交渉に応じることになる。これは組合を既存の秩序に組み込んで、これ以上過激にならないようにするためでもあったが、しかしこのことは、労働組合が政府に対して社会保障プログラムを充実させることに圧力をかける要因となり【*4】、過度に保護された労働規制立法を結果した。欧州大陸モデルの典型がドイツであるが、使用者団体の高い組織率と産業別労組による集権的な構造の団体交渉・協約自治システムと強い労働協約の拘束力を特徴としている。労働協約法により企業協定より産業別労組との労働協約が優位する。
 イギリスではコモンローにおいては、争議行為を営業制限の法理により犯罪とされ、あるいは民事共謀、契約違反の誘致行為、契約の履行不能をもたらす行為、強迫、共謀、営業妨害等不法行為とされてきたが、自由党のバナマン内閣が当時少数政党だった労働党提案を丸呑みした1906年労働争議法により争議行為を不法行為として起訴されないとする免責規定によって組合を市民法の枠外に特別に扱うこととして、組合の力を強くした。ただイギリスの場合はドイツとは違って、そもそも団体協約が法的には営業制限そのものでであり経営権の侵害そのものであるから、団体協約はあくまでも法外的なものとして処理された。

 これに対して、アメリカは組織労働者の抑制において成功した工業国だった。裁判所が労働者の集団行動に敵対的だっただけでなく、雇用者団体の主流はオープンショップ運動がその典型だが、反労働組合政策、労働組合排除で一貫していた。20世紀初頭、2010年代末期、大恐慌の後の1930~40年代が20世紀における労働運動の高揚期であるが、NAM(全米製造業者協会)などの雇用者団体は組合の組織化の抑止に全力を挙げて取り組んだのである。ウィルソン政権で労働組合に有利な立法政策があったが、1930年まではコモンローの時代であり、労働問題も最終的には司法により制御され無体財産に拡大された財産権が擁護された。裁判官は労働者の集団的行動よりの個人の自由を重視した。1920年代は組織率が低下したように、大企業の多くは1930年代の大恐慌と産業別労働組合の台頭までは組織化の浸透を阻止してきた。

●オープンショップ運動とレイバー・インジャンクション
 
 全米製造業者協会(NAM)など雇用者団体が20世紀初頭から展開したオープンショップ運動が反労働組合主義の典型である。これは組合員である否かを問わず労働者を雇用し、第三者である組合に掣肘されることとない非組合員の雇傭契約の自由を神聖なものとして、雇傭条件の決定から組合を排除しようとするものである。
 1920年代においてはクローズドショップによる労働市場の独占はアメリカ的でない慣行として「アメリカン・プラン」をスローガンとして全米でこの運動が展開されたのである。オープンショップ運動の理念を継承しているのが現代の非組合(ノン・ユニオン)企業といえるだろう。

 オープンショップ運動は裁判所の労働者の団体行動に厳しい姿勢によって支えられていた。もっとも争議行為抑止に効果があったのは営業権(自らの資本や労働を用いる権利)は財産権であリ、取引を妨害する団結は公的不法妨害  public nuisanceという判断【*5】にもとづき、争議行為の事前予防的手段となったレイバー・インジャンクション(労働争議差止命令labor injunction))である。
 これは、1868年のイギリスの判例を継受したもので、イギリスでは先例に従わなくなったが、アメリカにおいて1880年以降使用者が差止命令を強く求めるようになり【*6】、アメリカでは1880~1930年に少なくとも4300件のレイバー・インジャンクションが発せられた。とりわけ1920年代にはストライキの25%に差止命令が発せられていた【*7】。争議行為を潰す効果は大きかった。  
 共謀法理によるコモン・ロー上の救済(損害賠償救済)が事後的であるのに対して、衡平法上の救済である差止命令は、事前的、保全的に発給が可能である。長期化する公判をもつ必要がなく、陪審員は排され、裁判官単独で迅速に救済を発しえる。損害が拡大する前に判事は自ら不適切と判断したあらゆる行動(ストライキの呼びかけ、ピケッティング、「スト破り」と叫んだり、話しかけ説得すること)を一方的に禁止することができた【*8】。差止命令違反は法廷侮辱罪となり、これは起訴にもよらず、侮辱を受けた裁判官が審理し罰金刑を課すことができる。

財産権の拡張解釈

 争議行為はコモンローにおいては営業制限の法理や共謀法理により犯罪とされ、あるいは契約違反の誘致等の不法行為とされてきたが、アメリカ合衆国では裁判所が「財産権」の概念を持続的に事業を運営する権利等に拡大することによって争議行為を抑圧したところに大きな特徴がある。
 実体のある物のみを「財産」としてしまうと組合の平穏な、脅迫も暴力もない圧力によってもたらされた損害は財産権の侵害に当たらないため差止命令が使えない。そこで「財産」は、有体財産(physical property)だけではなく、無体財産(intangibleroperty)権をも意味するものとの拡張解釈がなされた。この拡張解釈によると、営業行為、使用者・被用者関係、商人・顧客関係、商品の流通も「財産権」である。
 連邦最高裁はDebs v. United States, 158 U.S. 564 (1895)においてそのような解釈により1894年のプルマンストライキ【*9】において、郵便車輌運行の妨害が行われたが、連邦政府の営業(郵便)は財産であること、これを保護するに普通法上の救済では不十分であること、州際通商を妨害するストライキは公的不法妨害(public nuisance)であることを確認し、又、州際通商妨害抑止のため、法務総裁の申し立てに基づく差止命令の利用を認めたシャーマン法(1890年)の労働争議への適用を支持した。これによって労働争議は衡平法管轄権にとりいれられ、レイバー・インジャンクションの著名な歴史がはじまった【*10】。

【*3】S・M・ジャコービィ/内田・中本・鈴木・平尾・森訳『会社荘園制-アメリカ型ウェルフェアキャピタリズムの軌跡』北海道大学図書刊行会1999 67頁
【*4】前掲書 3頁
【*5】山内久史「アメリカ連邦労働政策の変化とレイバーインジャンクションの機能 : ノリス・ラガーディア法の成立とタフト・ハートレー法以後の展開」『早稲田法学会誌』36(1986)191頁http://hdl.handle.net/2065/6448
【*6】谷口陽一「労働差止命令-ニューディール以前におけるアメリカ労働法の形成過程」『創価大学大学院紀要 』31, 85-98, 2009 http://daigakuin.soka.ac.jp/bulletin-law.html
【*7】竹田有『アメリカ労働民衆の世界-労働史と都市史』ミネルヴァ書房2010 157頁
【*8】前掲書155頁
【*9】  1894年プルマンストライキにおける差止命令の概要は以下のとおり。

 シカゴのプルマン寝台車会社は寝台車や展望車を製造し、シカゴに集まるすべての鉄道会社と契約して、会社の車輌を旅客列車に連結して料金を徴収し営業を行い、寝台車の客室サービスもプルマン寝台車会社の直営だった。
 1894年5月、20%賃下げの提案をめぐって労働争議となり、労使交渉は進捗せずストライキが続いていたが、6月26日からデブスを組合長とする産業別組合のアメリカ鉄道従業員組合が、プルマン車の連結した列車の取り扱いを拒否する、一種のボイコットを行った。このためプルマン車と契約関係にあるすべての鉄道会社が紛争に巻き込まれ、当時はまだ自動車輸送が発達していなかったので、州際取引商品の輸送が止まり、郵便も止まった。
 6月30日にシカゴ駐在の連邦司法検事は首都の法務総裁に次のように報告した。「29日夜ストライキ参加者によって郵便車が止められ、機関車が切り離されて動かなくなった。情勢は次第に切迫し、あらゆる列車がとまるおそれがある。執行吏に、列車に乗り込んで郵便を守り、妨害者を逮捕し、執行代行者を雇い入れる権限を与えることが望ましい」。 法務総裁はこの提案を認め、時のクリーブランド大統領はインジャンクションを裁判所に申請した。
 その根拠は第一に憲法及び普通法の下において郵便および州際取引は連邦政府の専管に属するものであり、その保護には連邦裁判所が差止命令によって干渉する権能を有する。第二に1890年7月2日に成立したシャーマン法が州際間の営業または取引を制限する共謀は違法であると宣言され、連邦巡回裁判所にこの種の共謀を防止し差止める権限が付与されていることであった。
 全般的差止命令は7月3日に送達された。
 内容は大略して被告デブス、ハワード…ならびにかれらと団結し共謀するすべてのものに下記の行為を禁止するものあった。
 州際の旅客並びに貨物の運送人としての業務、郵便車、州際取引に従事する列車、機関車、車輌、鉄道会社の財産につき業務を妨げ、阻止しまたは停止する行為。鉄道の構内に上記の目的で立ち入る行為、信号機に対する同様の行為、鉄道会社の従業員の何人に対してでも、従業員としての義務の履行を拒みまたは怠るよう、威嚇、脅迫、説得または暴力を用いて強要しまたは勧誘し、あるいはそれを企てる行為、従業員になろうとする者を同様の手段で妨げる行為、州際輸送を妨害するための共謀、団結の一環をなすすべての行為、上掲のいずれかの行為を行うよう命令、指令。幇助、助成する行為。
 しかし7月3日の状況は、ロック・アイランドの連絡駅で、2千から3千人の暴徒の群れが占拠していて、郵便車を転覆させ、すべての車輌の通過を妨害した。解散命令には応じず、嘲笑と怒声になった。さらに暴徒は数台の手荷物車を横倒しにしたため、軍隊の出動が要請された。夜9時には陸軍司令官の出動命令を出され、軍隊が到着したが、鉄道施設の破壊や焼打ちが行われ、連邦裁判所の差止命令に公然たる挑戦がなされた。
 しかし6日に逮捕が進行し、8日に大統領より市民は暴徒に近づかないよう告示が出された。10日にはデブスら労働組合幹部が逮捕され、20日には軍隊が去りストライキは終息した。 ( 有泉亨「物語労働法12第11話レイバー・インジャンクション」『法学セミナー』1971年8月号)
【*10】】山内久史「アメリカ連邦労働政策の変化とレイバーインジャンクションの機能 : ノリス・ラガーディア法の成立とタフト・ハートレー法以後の展開」『早稲田法学会誌』36(1986)191頁http://hdl.handle.net/2065/6448

2011/01/22

東京都水道局-全水道東水労の一月闘争について

 今後の争議行為の日程は、24日(月)都庁第二庁舎前半地下広場で15時30分より3割動員職場離脱総決起集会。26~28日超過勤務拒否闘争、28日2時間ストライキである。
 超過勤務拒否闘争は保安要員以外の時間外労働を拒否する労働基準法の三六協定拒否闘争であるが、当局は合法的として争議行為ではないとしているが、実際、顧客対応の仕事だから、17時過ぎに、苦情対応や緊急性のある仕事がまいこむこともあるし、定時にスパっと退庁するわけにはいかないのに、組合役員が号令をかけ、管理職も退庁させるから、顧客サービス無視のやり方だ。今回は3日間だけだか、過去に1週間とかかなり長期間をやっていたことあり、かなり仕事に影響が出てくる。
 イギリスでは時間外拒否も争議行為の範疇として扱っているわけだし、三六協定のありかたは見直すべきであると考える。
 18日の昼休みに職場の分会で署名要請行動をやっていた。それを所長が本局に伝達するためにわざわざ出張するパターンは昔から同じ。21日には17時15分以降に6人が集まって所長席でやっていた。
 ながら条例改正以前は時間内に組合役員が号令をかけて職員を自席から離脱させ10~15人が所長を取り囲んで団交するやり方で、怒号が飛び交い、途中で必ず所長を怒鳴りつけ、所長周囲の什器や机にビラはりつけてやっていた。勤務時間内が時間外になっただけでスタイルは基本的に同じスタイルを続けているわけである。
 業務委託とかよその営業所の統合とか職場単位の事柄とは関係ないことを要請したり
しているが、職場での交渉は議題を限定して人数も限定してやるべきだが徹底していない。
 20日所長が帰った後に、営業所統合反対、台東・文京営業所統合反対、蒲田分室廃止反対などと書かれていた、A4サイズのコピーしたビラが支部名義で、廊下等にはられた。これは私の経験では少ないほうである。平成13~15年頃の千代田営業所は争議期間中、もしくはスト権投票前にもビラ貼りがあり、エレベータホールの壁面、階段の壁面など壁びっしり、赤旗も含めて連日ビラ貼り。一闘争で数百枚単位で貼られていた。支所の総決起集会があるときは、立て看も容認、勤務時間内にビラ貼りも完全容認だったことからすると少ないが、これらは管理職が写真でとり枚数を本局に報告することになっており、それを実際にやっているところもあるが、管理職は組合となあなあでやりたいというタイプが多く徹底されているかは疑問である。実際、今、水道局幹部になっているある人は、私が直属の部下だったとき、ビラは朝にはがさず午前中ははらせていおいて組合のメンツを立てるのが筋と発言していた。そういう人が幹部になるのだから、対応がぬるいように思える。
 21日に組合は旗開き(新年会)を就業時間後に所内でやっていた。所内で飲食を伴う集会は私の経験ではどこの職場でもやっていることで、管理職も参加することも多い。それ自体は非難しないが、今回はストライキを構えて闘争をやっている争議行為中である。から施設貸与を認めなくてもよいと思う。郵便局では、ストを構えたり、闘争を組合がやっているときは、時間外であれ組合活動のため施設貸与はしていない。争議行為は違法であるから、こうした会合に手を貸すことは争議行為を促進することとなり、施設管理権の観点から認める必要はなく、甘い対応なのである。
 21日には服務の示達があったが、「服務の厳守の確保を命じます」と意味不明なことばをのべるだけ。同盟罷業は違法行為とは口が腐ってもいわないのである。

2011/01/20

団体交渉コレクティビズムから個別雇傭契約自由放任主義へパラダイム変換(下書き1)

アメリカ合衆国-非組合企業隆盛の理由(1)

 国家公務員の団体協約権付与は、ILOからの外圧を脅しとして官公労のペースですすめられてきたもので、官公労の権力を拡大しかねない筋の悪い立法政策である。しかしこれは自民党の福田政権で民主党との合意で進めてきたものであるから成立する公算が高い。この問題は10年前からすすめられてきたことでありこうした悪い政策を覆し対案を示すことができなかったことに忸怩たる思いがあり、不甲斐ないというか非常に責任を感じている。本来なら切腹ものであるが、しかし私は過去10年間狭心症と心筋梗塞があり、手術と内科的治療を繰り返した。その間に職場の二度にわたる不当な制裁があり望んでもいない畑違いの職場に配転されるなど悪いことが続いたこともあり、言いわけとする。
 しかし、この期に及んでも敗北主義に陥る必要はない。ようやく階段を上っても息切れしないところまで健康が回復したので、人生の本番はこれからだ。地道に表題の方向で研究を重ねて、新モデルを提示していきたい。理想を追い求めてやむことはない。
 例えば斬新なプランとしてはハワード政権のオーストラリア職場協定(AWAs)のような制度である。原則は個別雇傭契約自由放任、但し休日と週労働時間の最低基準をつくって、プラス時間外労働の賃率その他の労働条件は個別契約の労働条件として、組合などの集団的労働力取引を廃する制度である。公務員制度としては、ブッシュ政権で進められた合衆国の国防総省や国土安全保障省のモデルも参考になるだろう。モデルは米英豪新の新自由主義とこれまで述べてきたとおりである。
 我が国には、団結と団体交渉による集団的取引こそ民主主義国にふさわしいものであるとう時代遅れのばかげたコレクティビズムに固執する「社会通念」が覆っている。それは1960年代まで知識人の主流だった考え方だが、50年古いのである。

 まず長期的戦略に立って意識改革が必要だ。トレンドを見誤らないようにしたい。労働組合の権限拡大ではなく、集団的取引を排して個別雇傭契約主義ヘのパラダイム変換である。

 アメリカ合衆国では組合不在企業が主流になっている。それは2009年の民間企業の労働組合組織率7.2% http://www.bls.gov/news.release/union2.nr0.htm.2という数字でも明らなことである。
 なぜアメリカの民間企業の労働組合組織率はこれほどまでに低下した理由については、竹田有【註1】が網羅的に説明しており優れた分析があるので参照いただければすむことだが、重要な論点としてニクソン政権で1971年に全国労働局NLRBの保守派委員が多数をしめたこと、特にレーガン政権の80年代NLRBの右傾化の影響により交渉代表選挙で組合の勝率が落ち、組合が結成されても協約締結に至らないケースが増えたことが語られている。
 そもそも NLRBは団体交渉を促進するための独立規制委員会だったのが、換骨奪胎されて、組織化しにくくするための機関になっていたということである。
 史上最大のロビイング合戦となったEmployee Free Choice Act (【註2】通称Card Check Billカードチェック法案と呼ばれるAFL-CIOなどが推進している組合結成と協約締結を容易にする全国労使関係法改正案。2010年9月13日に同法案に賛同しているオバマ大統領が上院通過は困難と発言し、中間選挙の結果、共和党の議席増から今の議会での成立の見通しはない)が提案されたのも、現行の全国労働局NLRBの制度では組合の組織化が進まないという事情による。その議論で浮き彫りになったのは、現行の全国労使関係法は必ずしも労働組合に有利に制度ではなかったということである。
 竹田有がアメリカにおいて「団結権と団体交渉権は確固たる国法でなかった」と述べたのは驚く人がいるかも知れないが正しい表現である。それは全国労使関係局NLRBの右傾化により事実上達成されていた。竹田有は比較的中立的な観点で論じているが、私は明確に非組合企業を絶賛し、アメリカにおける「ニューディール型労資関係」の終焉に積極的な意義を見いだす立場で論述するものである。
 重要なことは、アメリカの全国労使関係法では、会社の支援する御用組合や、従業員代表制度は違法とされている。実際には組合不在企業で従業員の親睦団体として類似する制度があったとしても、公式には会社組合は存在しないのである。従って、今日アメリカで主流となった組合不在企業は個別雇傭契約なのである。団体主義から個別主義へのパラダイム変換は明確のように思える。

【*1】竹田有『アメリカ労働民衆の世界-労働史と都市史』ミネルヴァ書房2010
の第六章 ニューディール労資関係の終焉が詳しい>
【*2】カードチェック法案を概説したものとして
奥智之「米国労組法改定を巡って白熱する意見」三菱東京UFJ銀行Washington D.C. Political and Economic Report http://www3.keizaireport.com/report.php/RID/88317/
「従業員自由選択法案、審議が本格化 」『海外労働情報』2009年6月 2009年6月
http://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2009_6/america_01.htm

2011/01/17

本日の頭上報告


8時54分頃から7~8分の書記長会議報告をやっていた。人事考課の定期評定開示請求をまとめて一斉に出してもらう。結果はすべて組合に報告せよとの述べ、人事考課という個人情報の提出を組合の統制により強要することになっている。これは昇給に差をつけないように組合が監視するためと言っていた。

2011/01/15

名曲といえば結局これだ

おあずけシスターズの「東京カンカン娘84」。「‥‥恋の季節はじまったばかり」というフレーズから印象に残っている。http://www.youtube.com/watch?v=gCePxwDJ-h0&feature

2011/01/13

取次たくないが取次いだ

 今日、私の職場に11時23分ごろ地域の社民党2人がやってきて、組合(全水道東水労)の役員と会いたいというんで、別に組合の便宜を図るのが職務でないから、取次ぎたくなかったが、一応来客ということで取次いでやった。10分ほど分会書記長と面会して立ち去った。組合の掲示板に全労協のニュースが貼ってあったから、社民党との関係は深いということだ。組合のビラにみよると1月28日に時限ストを構えて越年闘争をやるとのこと。

« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

最近のトラックバック

2025年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28