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2011年4月の22件の記事

2011/04/30

下書き-Lochner era(広義)の主要判例(1)

順不同でピックアップし、あとで連結してまとめる

◎良い判決
×悪い判決

◎合衆国対バトラー判決United States v. Butler, 297 U.S. 1 (1936) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=297&invol=1(争点-課税権条項 要旨-人為的な農産物価格つり上げを目的とする生産制限プログラムに従う農民への補償金の財源を、農産物加工業者の課税でまかなう1933年農業調整法(AAA法)は、修正10条に反し違憲無効である。国内の農業の生産調整は州に留保された権限で、連邦政府による規制の対象領域を超えており州権の侵害である。)

1.農業加工税による価格支持政策

1929年に勃発した世界恐慌のアメリカ農業への打撃は甚大だった。アメリカ農業は植民地時代以来、代表的な輸出産業であり1929年においても輸出依存率は綿花47%、小麦17%、豚13%、全農産物平均で17%であったが、欧州諸国による極端な農産物輸入制限措置などにより、アメリカの農作物輸出市場は決定的に失われ、1929-32年に輸出額は小麦26.6%、綿花44.8%、とうもろこし9.1%、食肉24.1%に激減、過剰生産の結果、農産物価格は暴落し1929-31年に農産物卸売物価は45.9%の水準へ、内訳では小麦36.7%、とうもろこし39.8%、綿花38.8%、豚37.7%に激落した[*1]。1929-1932年純農業所得は64%低下する壊滅的打撃をこうむった[*2]。それと同時に大量の農場抵当流れ、農家破産が生じ、1930-32年に農村部銀行の3448行が倒産した[*1]。
 1933年大統領に就任したFDRは、農業救済を失業救済、労働組合保護などともに最緊急課題として特別立法を議会に要請し、同年5月に政府主導によりニューディール政策の根幹となる 農業調整法Agricultural Adjustment Act が制定された。
 同法の基本的なねらいは、連邦補助金の支払いにより農産物の減反・減産による供給削減を促すことにより、人為的に価格をつり上げ、農村の窮状を救済し、農民による工業製品の購買力を向上させることにより不況を克服しようというものである。
         
 政策目標として、農業黄金時代の戦前(1909~14年)水準まで農産物価格をつり上げる(但しタバコのみ1919~29年水準とする)「パリティ価格」水準を設定し、目標を達成させる機関として農業調整局が創設された。
 対象農産物は、基本的農産物として小麦・綿花・とうもろこし・豚・米・タバコ・ミルク及び乳製品の7種を指定していたが、35年までに16種に拡大された。
 農業調整局の地方委員会は、これら農産物の生産者との間に減反もしくは減産の協定を精力的に結び、その生産統制に対して補助金の支払いをなした。なお協定は農民との任意協定で強制的なものではない。
 例えば綿花は1933年に豊作が予想されたうえ、通常の3倍の800万梱の在庫を抱え、このままでは価格暴落が必至だったため、各農民に作付面積の25~50%の綿花を廃棄するように求めた結果、103万2千人との協定がなされ、削減された耕作地は35.1%に及んだ。収穫直前の綿花をすき倒したのである。豚は600万頭の子豚と20万頭の雌豚が屠殺され、一部は失業者救済のために使われたが、九割を廃棄処分とするなど過激な供給制限が行われた[*3]。 
 農業調整法は連邦補助金の支払いの財源として、農務長官には加工税を賦課する権限を与えた。
加工税は、生産統制が適用される当該農産物の国内における第一次加工に課せられる一種の売上税で、またこの税は競合商品にシフトすることを抑えるための補償税によって補完され、加工生産物の輸入にも課せられる[*2]。同一加工税-補償金方式という[*1]
加工税は、農務長官の定める公正な交換価格(パリティ価格)と現行市場価格との差額相当分を賦課される[*1」。従って農産物の価格が上昇すれば、加工税の負担は軽くなり、価格が安いと加工税が重くなるように変動する。
この政策は「奨励金(補助金)をインセンティブとする生産制限」であり[*4]。補助金の財源を一般歳入とせず目的税でまかなうのが特徴である。
  つまり変動する売上げ税である「加工税」(価格上昇分も同じことだが)の担税者は農産物加工業者であるが、結局は消費者にコストが転嫁される。農産物生産者を救済するための生産者-消費者の間における事実上の所得移転であり、同法の価格支持政策とは所得再分配とみることができる。

                               
2. ホーザック・ミルズ事件判決

 農業調整法は小麦生産者では6対1、とうもろこし・豚生産者では8対1、タバコ・、綿花生産者では9対1の割合で支持されていた[*5]。一方、加工業者や卸売業者は反対し、全米で1700件の訴訟が提起された[*6]。このうち、ホーザック・ミルズ会社の管財人による加工税を徴収しようとする方針について合憲性を問う訴訟が最高裁に係属しUnited States v. Butler、1935年12月から審理を開始、農業調整法に反対するペッパー弁護士は、同法の承認は自由の終了に等しいという激しい調子の意見を述べた。
「おそれながら申し上げますが、はっきりいえば、私は私が今日ここに私の愛するアメリかの大義を訴えるために立っているものと信じております。私は全知全能の神に、私の時代において『自由な者の土地』に替わる『統制された者』の土地をお受けにならないことを祈ります。」[*7]
 1936年1月6日に早々と判決が下されたが、連邦最高裁は6対3の票決で、農業調整法(AAA)を違憲と判示した。
 ロバーツ判事が法廷意見を記し、ヒューズ主席判事、ヴァン・デヴァンター、マックレイノルズ、サザーランド、バトラー各判事が同調、ストーン判事が反対意見を記し、ブランダイス、カードーゾ各判事が加わった。 
                                                                  
ロバーツ判事による法廷意見は、以下の理由で農業調整法を無効と判断した。連邦政府は合衆国憲法1条8節1項の課税権条項に基づいて一般的福祉のために租税を賦課・徴収することを認められているが、租税とは政府の経済的生存を支える資料であり、農業調整法の加工税はそれにあたらない。農業調整法の加工税は租税ではなく農業生産を規制する一般的仕組みの一部であるが、その規制は修正10条により州の権限として留保されてている。連邦は憲法で明示された以外の権能をもち得ず、農業生産の規制は連邦の権限として挙示されていないためそれは禁止されている。連邦が禁止されている目的を付与されている権限の行使と偽って達成しようとすることは州のポリスパワーの簒奪である。[*8]
 
  争点となった合衆国憲法1条8節1項の課税条項とは「連邦議会は次の権限を有する。合衆国の国債を支払い、共同の防衛及び一般の福祉に備えるために、租税、関税、付加金、消費税を賦課徴収すること。ただし、すべての関税、付加金、消費税は、合衆国全土で同一でなければならない。」である。また修正10条は「本憲法によって連邦政府に委譲されず、また州に対して禁止されなかった権限は、それぞれの州又は人民に留保される」と定めている。
  政府側の主張は課税条項の「一般の福祉」規定は国家の福祉に関するすべてのことを含むように広く解釈されるべきで、連邦政府の権限は州に留保された権限に付加されていると論じた。
  これに対し、ロバーツ法廷意見は農業調整法が許されれば、「一般の福祉」規定は各州に留保されている権限を徹底的に破壊する道具になり、各州の主権は抹殺される。連邦政府は各州に対して無制限の警察権を行使する中央と警告を発したのである。[*9]後に最高裁判事となるジャクソン訴務長官は「行政府にとって決定的な失望」であると述べた[*10]。
  私が思うに、最高裁は南北戦争以後州権を重んじる、判断を下しており、ハマー対ダーゲンハート判決Hammer v. Dagenhart, 247 U.S. 251 (1918)などの先例からみて違憲判決は妥当な判断である。
 
  ストーン判事の反対意見は、国家目的と一致する条件下に連邦から与えられている補助金は明らかに連邦支出権限に含まれると述べた[*11]。さらに司法の自制理論を展開する。「裁判所の制定法を違憲と宣言する権能は、二つの判断形成上の指導原則に服するのであって、司法部はゆめゆめそのことの自覚を失うべきではない。一つは、裁判所は唯、制定法を制定する権能を問題とするのであって、その賢愚を問題にすべきではないことである。二つは、政府の執行部門・立法部門の権能の違憲的行使は、司法的抑制に服するのに対して、われわれ自身の権力行使に対する唯一の抑制は、われわけ自身の自己抑制意識以外にはないということである。愚かな法を法規集から除去するについては、訴えは裁判所に対してではなくて、投票所および民主制の政治過程に対して向けられるべきものである」[*12]
  ストーン判事は母校がクーリッジ大統領と同じアマースト・カレッジであったため、最高裁に任命された。共和党員であるがニューディ-ルに好意的だったため後に首席判事となる。しかし、上記の見解は、有名な1938年キャロリーン・プロタクツ判決の脚注4、キャロリーンドクトリンにおける宗教上人種的少数者の市民的自由を制約する立法に就いては司法積極主義を躊躇しないとする見解と、若干違和感を感じるものである。

  [*1]小松聰「ニューディール農業政策の成立  農業調整政策(一)」『筑波大学経済学論集』22号 1989年9月http://hdl.handle.net/2241/90879
[*2]小松 幸雄  柏 博「ニューディールの農業政策」『同志社大學經濟學論叢』15(2) 1965年8月(ネット公開 )
[*3]河内信幸『ニューディール体制論-大恐慌下のアメリカ社会』学術出版会2005年 207頁以下
[*4]村上和光「ニューディール政策の展開と景気変動過程(上)」『社会環境研究』10 2005年3月http://hdl.handle.net/2297/17183
[*5]楠井俊朗『アメリカ資本主義とニューディール』日本経済新聞社 108頁
[*6]河内信幸 前掲書  382頁
[*7]ラッセル・ギャロウェイ著佐藤・尹・須藤共訳『アメリカ最高裁判所200年の軌跡 法と経済の交錯』八千代出版1994 126頁
[*8]河内信幸 前掲書 377頁
[*9]前掲書 382頁
[*10]ラッセル・ギャロウェイ前掲書 125頁
[*11]河内信幸 前掲書 382頁
[*12]酒井文夫『国家と法の比較研究-違憲審査制と基本的人権の考察』聖学院大学出版会1994 141頁 

人事院勧告を廃止しなくても給与大幅引き下げはできる


本日の日経1面記事が国家公務員給与1割削減の方針とある。本日の官房長官の会見でも引き下げ幅未定としながら検討していると報道されている。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110430-00000525-san-pol日経記事にもあるように人事院勧告は法的拘束力はない。昭和29年から昭和34年まで人事院のベースアップ勧告は留保され、報告のみがなされていた。給与を決定すべき諸条件に幾多の不確定な要因を含んでいる現段階において単なる民間給与との較差をもって俸給表の改正を行うことは当を得た措置ではないとしていたのである。ところが昭和35年に春闘相場を上回る12.4%の給与改定を勧告した。これは調査時点を3月から春闘相場が反映する4月に変更したことと、ラスパイレス方式を採用したことによる。以後の人事院勧告は高率ベア勧告になるが、政策上の理由で昭和45年まで完全実施は見送られていた。従って政策的に勧告を受け容れないで政治判断で給与を引き下げてもよいのである。とくに財政難のときはなおさらである。政治判断で引き下げがあってもよい。
また人事院勧告が代償措置だというのも、昭和29年ごろから、人事院の組織防衛のために国会の審議の過程で出てきた議論にすぎないのであって公式的なものではない。浅井清初代人事院総裁が国家公務員法に関する著作を多く書いているが、代償措置だということはどこにも書かれていない。そもそもアメリカで公務員の団体協約を最初に認めたのが1959年のウィスコンシン州が最初で、ヴァージニアやノースカロライナは今日でも団体交渉を禁止しているように勤務条件法定墨守の州も少なくない。そもそも民間企業の労働基本権を認めたルーズベルト大統領は公務員は団体交渉に強く反対していた。科学的人事行政推進のために人事院の制度を、とくに、フーバー公務員課長の強い指導力で作ったという経緯なのであって、労働基本権とからめる必要はなかったのである。
ただ昭和40年のドライヤー報告で、ILOがそのような意味で人事院勧告に承認したことから、組織防衛の論理となっていた。また社会党議員が、人事院勧告完全実施を迫る口実として、国会で追究してきた経緯と、昭和39年池田・太田会談で史上空前「陸海空統一スト」の脅しに屈した池田首相がストを回避させるため、公企体と民間賃金格差を是正に努力することで合意し、公企体等の春の賃上げについては、まず公労委の調停の中で、民間の春闘の賃上げを反映すべく努力がなされ、その上に立って仲裁裁定が出されることになった。いわゆる民間賃金準拠原則が確立したため、公企体では民間準拠ルールをが確立しているのに、非現業の一般公務員は、勧告を完全実施せず、民間との格差があるのはおかしいではないかという理屈で、人事院勧告を従来よりも重視するようになったということだろう。
いずれにせよ、人事院勧告を廃止するために、団体交渉権を付与する必要はなかったし、財政的にもっともね健全なのは、人事院勧告を廃止し、団体交渉権も付与しないありかたであり、その方向で政策を推進すべきであった

2011/04/25

羽柴秀吉氏当選確実じゃなかったの

  日刊ゲンダイで、羽柴秀吉氏当選濃厚、NHKの調査でも羽柴が優勢と報道していたのにhttp://news.nifty.com/cs/headline/detail/gendai-000142012/1.htm、変な選挙結果になっている。現職が出馬せず次点バネで期待していたのに。元都庁職員の若造を蹴散らしてくれるかと思っていたのに。都庁職員なんてつまらない人間が多いという私の実感で、都庁で夕張メロンを押し売りしても俺は死んでも買わないぞ。
 

2011/04/24

団体交渉コレクティビズムから個別雇傭契約自由放任主義へパラダイム変換(下書き10-11)書き換え

前回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-c017.html

合衆国-非組合企業隆盛の理由(10-11書き換え)

1.アメリカの経営者の反労働組合主義と憲法革命以前の保守的な司法

承前

● Lochner era(ロックナー時代)の経験(2)

(4) Lochner eraの汚点-労働時間規制を合憲とした1917年バンティング判決(最悪の判決)と1908年女性の契約の自由を否定したミュラー判決をどう評価すべきか 

①ロックナー判決は正しいが、その影響力を過大に評価出来ない理由

  1890年から1937年まで主としてデュープロセス条項によって55の連邦法と228の州法が違憲とされている【*1】とはいえ、ロックナー時代を過大評価をしてはいない。ロックナー-アデア-コッページ-アドキンス-モアヘッドといった雇用契約の自由判決を高く評価するが、しかしながら裁判所は20世紀の革新主義的政策のすべてに立ち向かったわけではないし、革新主義的政策の侵入を明らかに許しているからだ。明示的にロックナー判決が判例変更されたのが1937年ということであるが、  例えば1917バンティング判決やミュラ-判決が挙げられる。つまり1917バンティング判決は、労働時間規制を違憲とする1905年ロックナー判決を引用せずに、判例変更し、1930年Texas & New Orleans R. Co. v. Brotherhood of Ry. Clerksはエルドマン法の黄犬契約を違憲とした1908年アデア判決を引用することなく事実上判例変更した。つまりその時の気分で安易に事実上先例を覆した例があるからである。 
  そうしたことからアメリカ社会の左傾化の防波堤となったのは、実体的デュープロセスだけではなく、むしろ1914年クレイトン法6条、20条を実質骨抜きにしてレイバー・インジャンクションを断固支持したの裁判所の判断が大きいと私は考える。
  また、1935~36年ニューディール立法違憲8判決【*2】についていえばデュープロセス条項を理由に違憲とした判決は、それほど多くわけではない。
  鉄道会社に退職者の年金の負担を強いることがデュープロセス条項に反するとした鉄道退職者対アルトン鉄道会社事件Railroad Retirement Board v. Alton Railroad Co., 295 U.S. 330 (1935)http://supreme.justia.com/us/295/330/case.html、農地の抵当流れを防いで農民負債者を救済するフレジャー・レムケ農地抵当法が、債権者の権利の簒奪としてデュープロセス条項に反するとしたルイヴィル共同株式保有銀行対ラザフォードLouisville Joint Stock Land Bank v. Radford, 295 U.S. 555 (1935)http://supreme.justia.com/us/295/555/case.html、女子・未成年者の最低賃金を定めたニューヨーク州法をデュープロセス条項に反し違憲としたモアヘッド対ニューヨーク州関係ティパルド判決Morehead v. New York ex rel. Tipaldo, 298 U.S. 587 (1936)http://supreme.justia.com/us/295/555/case.htmlなどである。
  連邦の社会経済立法については、実体的デュープロセスでなく州際通商条項、課税条項、州権の保留条項による違憲判断がけっこう多い。とりわけ、州際通商条項(合衆国憲法1条8節3項外国、諸州、およびインディアンとの部族と間の、通商を規制する権限)による違憲判決が多かったが、これは憲法解釈のテクニックであって、本質的には経済的自由の審査ではなく、州権か連邦かという立法の効力の問題である。
 合衆国憲法は1条8節で連邦議会に与えられた権限を列挙しているが、連邦議会制定法は連邦議会の権限の行使であるという憲法上の基礎を欠けば効力はなく、権能はその分、州または合衆国の人民に留保されている。
 初期の判例は州際通商を広く解釈していた。1824年のギデンズ対オグデン判決は「通商とは売買を意味するのみならず、運輸やコミュニケーションなどのあらゆる商取引を包含する」【*3】と定義している。しかし連邦最高裁は南北戦争後、州権を優先し、連邦の権限を抑制するようになり、その考え方は二重主権と呼ばれた【*4】。
 その典型的な判例がハマー対ダーゲンハート判決Hammer v. Dagenhart, 247 U.S. 251 (1918)http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=US&vol=247&invol=251(1938年に判例変更)の製造、通商二分論である。
 これは連邦の児童就労を伴って生産された物品の、州間発送を禁止する児童労働法を違憲とするものである。
 デイ判事による法廷意見は製造業や鉱業は通商ではないとして、州外に出荷することを意図して製造しても連邦政府の州際通商規制権限の対象とならない。工場や鉱山の年少者労働の規制は、州の内部事項であり、州の内部事項を規制することは憲法修正10条に反する述べた。
 連邦議会の州際通商権限と州の内部管理事項権限はそれぞれ排他的であるという考えを方である【*5】。従ってこの解釈に従えば連邦議会には州際通商そのものである鉄道や運輸業の労働の規制権限が認められても、産業一般の労働の規制は州の内部管理事項への干渉として認められないことになる。
 州際通商規制権限は憲法革命以後、連邦政府の権限を拡張しているが、最近でも、2011年1月31日フロリダ州のペンサコラ連邦地裁判決が18歳以上の国民に医療保険への加入を義務付ける2010年医療保険制度改革法の条項について、憲法の州際通商条項に基づく連邦議会の権限を越えるとしている(連邦政府は控訴)http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920008&sid=a5vYWFYeLHH8ように今日でも議論のある問題たが、経済的自由そのものに踏み込んだ憲法判断でなく、連邦政府の権限という入り口の議論である。
 だから、「契約の自由」だけで、ばっさばっさと違憲判決を下していた訳ではないのである。

②これこそワースト判決1917バンティング対オレゴン

 ロックナー判決は1917年のバンティング対オレゴン判決BUNTING v. STATE OF OREGON , 243 U.S. 426 (1917) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=us&vol=243&invol=426で黙示的判例変更がなされた。これは工場労働において原則として一日10時間を上限する労働時間を定め、13時間まではは例外的に割増し賃金の支払いにより働かせてもよいとするオレゴン州法について、ロックナー判決に言及せず、5対3で合憲判断とした判決だった(法廷意見は何とロックナー判決で多数意見に与したマッケナ判事。これにホームズ、クラーク、デイ、ピットニー各判事が同調、反対-E.ホワイト主席判事、ヴァン・デヴァンター、マクレイノルズ各判事。なおブランダイス判事はこの訴訟に係わっていたことから審理不参加)。
 マッケナ法廷意見は、欧州など外国における平均労働時間に関する統計に依拠してこの州法を支持した。
 オーストラリア8時間
 イギリス9時間
 アメリカ合衆国9時間45分
 デンマーク9時間45分
 ノルウェー10時間
 スウェーデン、フランス、スイス10時間30分
 ドイツ10時間15分
 ベルギー、イタリア、オーストリア11時間
 ロシア12時間

 この統計はハーバートロースクールのフランクファーター教授(後にFDRのスピーチライターから、連邦最高裁判事)が書いた上告趣意書で用意された【*6】。フランクファーターは、レイバー・インジャンクションを裁判所による統治として激しく批判し、イギリスの1906年労働争議法をモデルとした争議行為合法化を目指し、反インジャンクション法である1932年のノリス・ラガーディア法の制定に深く関わった。FDRのブレインとして、イギリス支援のために第二次大戦参戦を促し、シオニズム運動にも関わった)左翼急進主義者であるフランクファーターの上告趣意書を鵜呑みにしたその1点だけでもワースト判決である。

 アメリカ合衆国における平均労働時間は1865年に11時間、1884年に11時間半だった【*7】また当時鉄鋼業が1日12時間労働週休なしも少なくなかったことから、所定労働時間の10時間が長時間労働とは思えない。
 もっともこの州法の労働時間制限は13時間であるが、標準労働日の超過労働時間を割増し賃金とするのは労働組合が主張してきたものである。
 浜林正夫によるとイギリスで割増し賃金の残業手当が一般化するのは19世紀後半と述べている【*8】。これは労働組合が労働時間短縮と込みで残業手当を要求したためである。事実上労働組合の要求を法定化したものと理解することができるが、労働時間規制プラス賃金規制でるから、雇傭契約の自由の侵害である。
 労働時間規制の先例であるロックナー判決Lochner v. New Yorkでは州の権限として公衆の安全、健康、道徳の保護のために私的財産、私権を規制するポリスパワーの行使を認めるが、この種のポリスパワーの立法については、ポリスパワーの公正で、合理的で適切な行使であるか、自由に対する個人の権利への不合理で不必要で恣意的な干渉であるか【9】審査されなければならない。裁判所がポリスパワーの行使によって契約の自由が干渉されていると認めると、干渉をもたらす規定が達成するという目的を特定し、その規定から目的が実際に達成されると認めなければ、手段を採用する規定の効力は否定される【*10】という審査基準をとっているが、バンティング判決ではロックナー判決も引用せず、その審査基準で十分な検討もなされていない。とりわけ割増賃金の公益性については立証不可能である。違憲反対の3判事も意見を述べておらず、司法審査としてはぬるいものとなっている。工場労働に限定されているとはいえ、契約の自由をないがしろにしていることでワースト判決である。つまり、ロックナーは明示的に判例変更されなかったものの、労働時間規制が違憲とされたのは12年間と短かったのである。
 ここで、労働時間に伝統社会と産業革命以後当時の労働時間について浜林正夫【*11】から引用すると、H.J。ヴォート『イギリスにおける時間と労働 1750~1830』2000年はエンゲルス以来の産業革命期に労働時間が大幅にみ増加したという定説を批判し、1760年、1800年、1830年の3つの時点で一日の平均労働時間は11時間とあまり変化していないことを明らかにした。これは2800件の裁判の尋問記録から採ったもので、工事労働の調査ではない。しかし、この実証研究から明らかなことは18世紀後半から19世紀前半のイギリス人は平均11時間働いていた、つまり常識としてふつう1日11時間は働くものだということである。1日の労働時間は大きな変化はなかったが、労働日数は増加した。ロンドンで208日から306日に増加は、年間労働時間数は、2288時間から、3366時間に増加した。 したがって、10時間労働を上限とする原則は、過去100年から150年の平均的な労働時間より短く、不当に雇傭契約の自由を侵害しているといえる。
 さらに浜林は伝統社会における労働日Working dayという概念についても説明している。 Working day とは働く日という意味ではなく、一日の労働時間帯を指すつまり   Working hour per dayという意味であると説明している。中世のギルドでは夜業を禁止しており、労働時間とは夜明けから夜になるまでを指していたという。しかし近代社会 は同職組合の入職規制や営業規制を打破して始まるものだから、この概念にこだわることはないだろう。過当競争防止の夜業禁止は契約の自由に反するものである。いずれにせよ、冬は12時間、夏は15~16時間という定めもあったから、13時間労働制限も正当化できないと私は考える。

③1908ミュラー判決-ロマンチックパターナリズム

  オレゴン州における洗濯業および工場における女性について1日10時間を超えて働かせてはいけないという州法を合憲とした1908年のミュラー対オレゴン判決MULLER V. OREGON, 208 U. S. 412 (1908) http://www.larrydewitt.net/SSinGAPE/muller.htmはロックナー判決の枠組みを変更するものではないが、現代においてはワースト判決と評価してよい。1954年公民権法タイトル7により雇用上の性差別される事例だろう。女性を従属的な性とみて、庇護され保護されるべきというロマンチックパターナリズムそのものであり、現代の性差別撤廃の趣旨では排撃されるべき立法である。
  ただし当時は、女性は合衆国憲法修正14条「いかなる州も、人から法のデュー・プロセスによらずして生命、自由もしくは財産を剥奪してはならない。またいかなる州も、その管轄権の中で何人にも法の平等な保護を否定してはならない。」の「人」に女性は含まれないものとされていた。「人」に女性を含むとされたのは1971年のリード対リード判決以降なのである。要するに女性は契約の自由をみ享受する権利の主体とはされなかったから合憲判断なのである。なお合衆国において女性に選挙権が付与されたのは1920年の修正第19条からである。
 法廷意見は極保守派でロックナー判決でも多数意見に与したブリューア判事が執筆し、多くのことを語っているが、要点は女性は「契約の自由」を享受する市民とはみなされなかったことにある。「女性は常に男性に男性に従属してきたことは歴史が明らかにしている‥‥未成年者と同様‥‥女性は、裁判所において、権利が保護されるよう特別な配慮が必要な存在と見倣されたきた‥‥女性には、それらの権利を完全に主張することを妨げる気質と生活習慣が存在している‥‥政治上、人身上、契約上の権利の制限がすべて取り除かれても、女性の性質からして女性は男性に従属し保護を求めるだろう‥‥これらの事によって男性から区別されるため、女性は女性だけのクラスに位置付けられるのが相当であり、女性保護を目的とした法律は、例え男性には支持され得ないものでも、支持される」【*12】と女性についてステレオタイプに理由付け結論している。
 私は「人」に女性を含む必要はないという趣旨で1971年のリード判決に反対であり、ブリューア判事にに敬意を表し原則論としてはミュラー判決を支持してもよい。しかし、女性の保護・後見者である男性の判断を尊重していないという点で問題のある判決だといえる。裏返して言うと、契約の自由を侵害する規制立法が容認されている現代は、男性が女・子ども並みに扱われているということを物語るものである。

 ● Lochner era(ロックナー時代)の経験(3)

最良の判決 アデア-コッペ-ジ-ダーゲンハート

Lochner eraにおける「契約の自由」の侵害としての違憲判決、及び州際通商条項違憲判決の主要な判例を取り上げる。今回は3判決だが、憲法革命まで主要判決を全て取り上げる

1.黄犬契約を禁止するエルドマン法(鉄道労働法)を「契約の自由」の侵害として違憲と判断したアデア対合衆国判決ADAIR v. U S, 208 U.S. 161 (1908) http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=us&vol=208&invol=161

 1908年アデア判決は、1915年コッページ判決と並んで、「契約の自由」というという明文規定はないが実体的デュープロセスとしての憲法上の権利を根拠に、団結団体行動に対する経営支配を排除する立法を違憲と判決したベスト判決と考える。
 1898年制定のエルドマン法Eldman Act(連邦法-鉄道法)10条は州際の運搬業労働者を組合員であるという理由だけで、組合に加入しない協定にサインすることを拒絶したという理由だけで解雇することを犯罪とし、さらに、争議に参加した労働者をブラックリストにのせて回覧することを違法とした【*13】。
 事案はルイビル・ナッシュビル鉄道会社の支配人であるウィリアム・アデアが、O・B・コッページという機関車の火夫を解雇した。コッページは解雇の理由は黄犬契約の署名を拒否したからだとしてエルドマン法違反として提訴したというものである。
 ハーラン判事による法廷意見は州際の鉄道会社の黄犬契約を禁止するエルドマン法は憲法違反と断定した。「労働者が適当と考える条件と、労働の買手が買う条件を定める権利とは異ならない。雇用者と被用者は平等な権利を有しており、この平等性を妨害する立法は、契約の自由に関する専断的な干渉になる」【*14】と述べ、修正5条のデュープロセス条項違反として違憲判断が下されている。
 黄犬契約の自由を述べたアデア判決は団結団体行動を否定するものとして大きな意義を持つ。黒人解放の先駆、偉大な少数意見裁判官として知られロックナー判決で反対意見に回ったハーランが法廷意見が反労働組合判決の起草者であることでも有意義な判決である。反対-マッケナ、ホームズ。
 なお、この判例は1926年鉄道労働法を合憲としたTexas & New Orleans R. Co. v. Brotherhood of Ry. Clerks, 281 U.S. 548 (1930) http://supreme.justia.com/us/281/548/case.htmlにより黙示的に判例変更されるまで20年以上効力を有した【*15】。
 
2.黄犬契約禁止の州立法を違憲としたコッページ対カンザス判決COPPAGE v. STATE OF KANSAS, 236 U.S. 1 (1915)
 
http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=us&vol=236&invol=1
 
 カンザス州は、使用者が、雇用の条件として黄犬契約の締結を労働者に求めることを禁じる州法を制定した。事案は、カンザス州フォートスコットにあるフリスコ鉄道の管理人
であるT・B・コッページはヘッジイスという転轍手に転轍手組合から脱退するか、職場から去るよう求めた。ヘッジイスはこれを拒否したため、コッページは鉄道会社を代理して彼を解雇した【*16】。
 ピットニー判事の法廷意見は、アデア判決に依拠して、問題のカンザス州法を合衆国憲法修正14条のデュープロセス条項に反し違憲と判決し、労働者側は経済上の弱者であって労働の売買は対等な立場で行われていないゆえ、黄犬契約禁止を認める州裁判所の見解を排除する優れた理論を示している。要するにに団結権思想に道理など認めないきっぱりした姿勢を示したことで最良の判決のいえる。
 「実際、少し考えれば、私的所有の権利と自由な契約の権利が共に共存するところでは、当事者は契約をする時、他方より多く財産を持っているか、少ないか、または全く持っていないという問題によって影響を受けることは避けられない。‥‥全ての物が共有されない限り、ある人々が他の人々よりも多くの財産をもつことは自明であるので、契約の自由と私的所有を認めるならば、同時に、これらの権利の行使の必然的結果である財産の不平等を正当と認めなくては道理上うまくいかない。‥‥修正第14条は『リバーティ』と『プロパーティ』を共存する人権と認めており‥‥」目的の審査でパスするとしても次に、手段の合理性が、すなわち問題となっている法律は達成される目的にむとって「合理的」「実質的」な関連をもっているかが厳しく問われる【*17】。
 カンザス州法は「財産をもつ者からその一部を奪うことによって富の質を平等化するという想像可能な望ましさを越えたものであり、(州の権限である)健康、安全、道徳または福祉には関係ない」【*18】と述べた。反対-ホームズ、デイ、ヒューズ。
 私が思うにこの見解に立てば、団結権も団体行動権も契約の自由を侵すもので合法化はありえないことになる。

 私有財産権の存するところには富の不均衡はつきものであり、あらゆる契約で当事者双方が平等な立場に置かれるとは限らない。契約や私有財産権の自由を守りながら、これらの権利の行使に必然的に伴うことになる富の不均衡の合法性を認めないということは、事理に反するとしたのである。契約当事者の交渉力の対等性などありえない。元請けと下請けの関係、大企業の押し込み営業、あらゆる契約に交渉力の格差はつきもので、それを否定すれば社会主義となってしまう。現代においては古典的自由主義者シカゴ大学ロースクールのエプステイン教授がピットニー判事と同様の趣旨を述べている。

3.児童労働法を違憲としたハマー対ダーゲンハート判決Hammer v. Dagenhart, 247 U.S. 251 (1918) http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=US&vol=247&invol=251

 合衆国議会は1916年に、工場から出荷させる前30日以内に、その工場で14歳未満の者を使用したり、14歳以上16歳未満の者を1日8時間以上、、もしくは週48時間を超えてまたは午前む6時以前と午後7時以降に就労させた場合、その工場で製造された商品を州際通商で輸送することを禁止する【*19】 Child Labor Act が制定された。ノースカロライナ州のダーゲンハートは16歳未満の子供を2人を綿糸工場で働かせていた父親であるが、この法律の違憲性を理由に法律の執行の差止を連邦地裁に求め、最高裁に係属したのがこの事件である。
 連邦最高裁は5対4の僅差であった。デイ判事が法廷意見を記し、E・ホワイト主席判事、ヴァン・デヴァンター、ピットニー、マックレイノルズ各判事が賛同した。

 デイ判事による法廷意見は、児童労働法が合衆国議会に附与された州際通商を規制する権限の範囲内にないとして違憲判決を下した。つまり商品の製造や石炭の採掘は通商ではなく,これらのものが後に州際通商で輸送されたり使用されるものであったとしても、それによってこれらの生産が通商になるわけではないとして、法律を違憲とした。PDFhttp://www2.kobe-u.ac.jp/~emaruyam/law/faculty/2009/090629memo.pdf 反対-ホームズ、マッケナ、ブランダイス、クラーク。
 このように、最高裁は通商と製造の二分論によって州際通商規制権限を狭く解釈し、州の内部事項管理権限とそれぞれ排他的という考えを用いて、児童労働規制を叩きつぶしたのである。
 

【*1】中谷実『アメリカにおける司法積極主義と消極主義』法律文化社1987 27頁註1
【*2】河内信幸『ニューディール体制論-大恐慌下のアメリカ社会-』学術出版会2005年 374頁以下
前掲書 16頁 註2
【*3】阿部竹松『アメリカ憲法』成文堂2008 214頁
【*4】ジェイ・M. ファインマン著 尾崎 哲夫訳『アメリカ市民の法律入門』自由国民2000 45頁
【*5】木南敦史『通商条項の合衆国憲法』東京大学出版会
【*6】ウィリアム・H・レーンクィスト著根本猛訳『アメリカ合衆国最高裁』心交社1992年 242頁
【*7】中谷実 前掲書16頁註12
【*8】浜林正夫『パブと労働組合』新日本出版社2002 194頁
【*9】M.L. ベネディクト著常本照樹訳『アメリカ憲法史』北海道大学図書刊行会1994年
【*10】記録学術創成セミナー木南敦「市場をめぐる法と政策―市場秩序法としての独禁法―」 http://kaken.law.kyoto-u.ac.jp/gakuso/j/activity/record_workshop.html
【*11】浜林正夫『パブと労働組合』新日本出版社2002 183頁以下
【*12】「合衆国最高裁判所における女性労働『保護』法理の成立(2)完 : 最高裁判所のジェンダー分析に向けて」名古屋大學法政論集. v.167, 1997http://hdl.handle.net/2237/5741
【*13】松岡三郎「アメリカ憲法とワグナー法」『法律論叢』31巻6号1958
【*14】石田尚『実体的適法手続』信山社出版1988
【*15】松岡三郎 前掲論文
【*16】ウィリアム・H・レーンクィスト著根本猛訳『アメリカ合衆国最高裁』心交社1992年 247頁
【*17】中谷実『アメリカにおける司法積極主義と消極主義』法律文化社1987 22頁
【*18】レーンクィスト前掲書248頁
【*19】木南敦『通商条項と合衆国憲法』東京大学出版会1995 175頁

入手資料整理54

1-36秋元英一・菅英輝『アメリカ20世紀史』東京大学出版会2003
1-37ウィリアム・H・レーンクィスト著根本猛訳『アメリカ合衆国最高裁』心交社1992年 242頁
1-38浜林正夫『パブと労働組合』新日本出版社2002
1-39M.L. ベネディクト著常本照樹訳『アメリカ憲法史』北海道大学図書刊行会1994年
1-40ジェイ・M. ファインマン著 尾崎 哲夫訳『アメリカ市民の法律入門』自由国民2000
1-41阿部竹松『アメリカ憲法』成文堂2008
1-42田島裕『アメリカ憲法-合衆国憲法の構造と公法原理』田島裕著作集Ⅰ 信山社出版2004
1-43松井茂記『二重の基準論』有斐閣1994
1-44ロジャーI. エイブラム著 大坪 正則監訳 中尾 ゆかり訳『実録 メジャーリーグの法律とビジネス 』大修館書店2006

2011/04/20

5500万キロワット供給見通しなら、いいかげん節電を煽るのはやめろ

発売中の『週刊ポスト』4/29号に、「資源エネルギー庁極秘資料入手「原発完全停止」でも「停電なし」」という記事があって、発売中なので詳しくは引用しないが、要するに、東京電力は原発が完全に停止しても、火力その他で真夏のピーク時の需要をまかなえるだけの供給能力があり、今夏の7月末に5700万キロワット供給できるという記事である。
  実際、平成15年頃にも電力危機があって(2003年東電の原発17基が全部停止-検を含む)さかんに冷房は28度設定というコマーシャルが流れていた。当時外回りの仕事をしていたので6月頃から暑かったのをなんとなく覚えているが、こたえたのは冷房の低さだった。実際には私の職場東京都水道局では23.5度で最強の風が流れていて、そのうえに扇風機も回っていた。外気との気温差が大きくこたえるので、せめて25度してくれといっても、暑がりの人にあわせないおまえが悪い。勤務時間中にほとんど毎日許可なくシャワーに入っている職員を指弾したところ、シャワーを勤時間務中に浴びないで汗臭く働いているおまえこそお客に対して不快な思いをさせているなどという無茶苦茶な理由でおまえが悪いということになって昇給停止、不良職員にさせられ強制転勤、その翌年の平成16年の中越地震直後に狭心症と心筋梗塞で冠動脈3本のバイパス手術をしたことは、再三書いたことなので繰り返さないが、関東電気保安協会のポスターが28度設定というのが職場に貼られているのに、実際は28度なんていうのは全然守られていないわけです。それでも停電にはならなかった。
  こちらは、省エネ、環境計画や経済産業省の方針に協力すべく、もっと冷房の設定を上げくれと言ってるのに、逆にこの野郎と叩かれたのです。28度設定なんて杓子定規なことは絶対できないし、25度さえしないのです。その時のことを覚えているし、それでも電力不足にならなかった。
  今年3月に電力不足になったのは、史上最大級のプレート境界型地震で火力発電7カ所が全機停止したためで、原発のためではない。今夏は福島県の広野火力発電所は一部復旧としても、常陸那珂や鹿島が復旧すればどうにかなりそうと素人でも予想はつく。

  実際、最新のニュースでは東電は7月末に5500万キロワットへの供給力回復を急ぐと報道されている。http://www.47news.jp/CN/201104/CN2011042001000921.html
 東電の発表は5200万はいける。さらに上積みして5500万を目標としているということだ。週刊ポストを読む限りでは5500万以上いけそうである。今夏の最大ピーク予想が5500万キロワットである。発売中『週刊ダイヤモンド』 4/23号の22頁に過去三年の折れ線グラフがあるが、一昨年の2009年は最大電力需要が5500万キロワット に達してない。つまり、一昨年なみの暑さなら、節電しなくても供給できるのだ。
  金融庁が金融機関に今夏30度設定を指示したという記事を夕刊紙で読みましたが、5500万キロワット供給なら過剰な節電キャンペーンは控えるべきだ。自販機の冷却機能を停止させろとか事実上の営業妨害や、パチンコ自粛など全く必要ないと思う。
  ただし高校野球の日程は調整してもよいのではないか。ハンカチ王子が出てきたり、あんな暑苦しい見せ物は健全なスポーツとは思えない。1回戦・2回戦は複数の野球場を使ってさっさと終わらせるべきだし、準決勝は午前7時半、午後6時半プレイボール。11時半すぎには延長戦を打切り、決勝もナイター。需要ピーク時の1時から3時ごろを避けるのが賢明だ。
  文部科学大臣は、あれだけセリーグに文句言って開幕日程を遅らせたんだ。ナベツネのメンツを潰しておいて、朝日新聞に何も言わないのは不公平。

2011/04/17

団体交渉コレクティビズムから個別雇傭契約自由放任主義へパラダイム変換(下書き11)

前回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-13ba.html

合衆国-非組合企業隆盛の理由(11)

1.アメリカの経営者の反労働組合主義と憲法革命以前の保守的な司法

承前

● Lochner era(ロックナー時代)の経験(3)

今日でも、アメリカの雇傭関係の基本はコモンローの随意的雇用原則である。つまり期間の定めのない雇用契約は、当事者が明示的に反対の旨を表示しない限り随意的なものと推定され、正当な理由があろうとなかろうと、いかなる理由でも解雇・離職自由を原則としており、個別交渉・個別契約が基本なのであるhttp://www.jil.go.jp/institute/reports/2005/documents/019_7.pdf。欧州などの労働者保護に厚く解雇規制のある硬直的な労働法制の諸国と比較して柔軟なシステムを維持している。この原則が崩れない限りアメリカは活力のある社会であり続けると私は考える。
 これに対して、コモンローの随意的雇用原則や被用者の忠実義務法理は、被用者にとってある種の過酷な結果をもたらし、労働者が個別交渉によっては自らのニーズを満たせないという主張により、団結団体行動保護立法が革新主義時代からなされた。それは大恐慌時代に1932年のノリス・ラガーディア法、1935年ワグナー法(全国労使関係法)で結実することとなる。
 しかし、仮に、それが大恐慌時代において求められたものだとも、今日のアメリカにおいて民間企業の組織率が7%である。しかも、全国労使関係法がいわゆる会社組合や従業員代表制度を禁止しているために、組合のない企業は原則として個別契約なのである。
 ウォルマート、インテル、マイクロソフト、シスコシステムズ、IBM、プロクター&ギャンブル、我々がよく知っているアメリカの代表的企業が組合不在である。石油化学、化学のように組合の組織化が進まなかった産業があるほか、金融・保険などホワイトカラーはほとんど組織化されていない。これらの労働者が過酷な状況にあるのか。そのようなことはないのである。
 組合セクターでは大きな交渉力を得たのは、消費者に労働コストの上昇を転嫁でき、管理価格を設定できる寡占部門(自動車・鉄鋼など)であった。たとえ組合が強力でも競争の激しい産業(衣服や繊維)では労働組合は高いレベルの賃金と付加給付を保証できなかった。【*1】。
 アメリカでは1970年代より生活水準より生産性向上が国民的目標となり、労働組合は生産コスト上昇の元凶として、世界市場での敗退の責任を負うものとして非難され、組合に敵対し排除する動きが加速化した【*2】。ニクソン政権、特にレーガン政権における全国労使関係局の保守化により組合の組織化は容易なものではなくなった。高いレベルの所得保障を勝ち取っていた寡占部門の組合セクターでも外国資本の組合不在企業と競争で自動車産業の巨大企業が危機を迎えたことは周知の事柄だろう。ひるがえって、我が国の団体主義を基本とする労働三法も根本的な見直し、オーバーホールが必要である。労働協約と解雇規制等で保護された正社員=労働組合員と非正規労働者の格差問題が喧伝されるが、格差解消というなら、このさいコレクティビズムと決別し個別契約を基本として賃金は市場経済原理でならしてしまったほうが格差は解消するという逆説すら成り立つと私は考える。
 アーチェリーの山本博のACのコマーシャルがいうほど私は日本を信じてない。90年代以降の我が国の経済低迷の要因については林=プレスコット説(労働基準法改定等による「時短」政策により、週当たりの雇用者平均労働時間が、バブル期前後で44時間から40時間に低下したこと,もう一つは,生産の効率性を図るTFPtotal factor productivityの成長率が,90年代の中ごろから低下したこと)が明快である。従って失われた20年から回復するためには生産性の向上と第二次勤勉革命を国民目標とすべきであるのにそのような政策目標を掲げる政党はない。。それとは反対の生活第一、ワークライフバランスや男女共同参画などの社会民主的政策を推進したことが事態をよけいに悪化させるだけである。地震と原発事故で外資や観光客が逃げたともいわれる。取り戻すためには、団体交渉コレクティビズムから個別雇傭契約自由放任主義へパラダイム変換によりプロビジネスな社会に体質を変換していかなければならない。そのような脈絡からLochner era(ロックナー時代)を再評価すべきであるというのが私の考えである。

Lochner eraにおける「契約の自由」の侵害としての違憲判決、及び州際通商条項違憲判決の主要な判例を取り上げる。

.黄犬契約を禁止するエルドマン法(鉄道労働法)を「契約の自由」の侵害として違憲と判断したアデア対合衆国判決ADAIR v. U S, 208 U.S. 161 (1908) http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=us&vol=208&invol=161

 1908年アデア判決は、1915年コッページ判決と並んで、「契約の自由」というという明文規定はないが実体的デュープロセスとしての憲法上の権利を根拠に、団結団体行動に対する経営支配を排除する立法を違憲と判決したベスト判決と考える。
 1898年制定のエルドマン法Eldman Act(連邦法)10条は運搬業者労働者を組合員であるという理由だけで、組合に加入しない協定にサインすることを拒絶したという理由だけで解雇することを犯罪とし、さらに、争議に参加した労働者をブラックリストにのせて回覧することを違法とした【*3】。
 ハーラン判事による法廷意見は「労働者が適当と考える条件と、労働の買手が買う条件を定める権利とは異ならない。雇用者と被用者は平等な権利を有しており、この平等性を妨害する立法は、契約の自由に関する専断的な干渉になる」【*4】と述べ、修正5条のデュープロセス条項違反として違憲判断が下されている。黒人解放の先駆、偉大な少数意見裁判官として知られロックナー判決で反対意見に回ったハーランが法廷意見が反労働組合判決の起草者であることでも有意義な判決である。
 なお、この判例は1926年鉄道労働法を合憲としたTexas & New Orleans R. Co. v. Brotherhood of Ry. Clerks, 281 U.S. 548 (1930) http://supreme.justia.com/us/281/548/case.htmlにより黙示的に判例変更されるまで20年以上効力を有した【*5】。
 

2.黄犬契約禁止の州立法を違憲としたコッページ対カンサス判決COPPAGE v. STATE OF KANSAS, 236 U.S. 1 (1915)
 http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=us&vol=236&invol=1

 ピットニー判事の法廷意見は労働者側は経済上の弱者であって労働の売買は対等な立場で行われていないゆえ、黄犬契約禁止を認める州裁判所の見解を排した優れた理論を示している。
 「実際、少し考えれば、私的所有の権利と自由な契約の権利が共に共存するところでは、当事者は契約をする時、他方より多く財産を持っているか、少ないか、または全く持っていないという問題によって影響を受けることは避けられない。‥‥全ての物が共有されない限り、ある人々が他の人々よりも多くの財産をもつことは自明であるので、契約の自由と私的所有を認めるならば、同時に、これらの権利の行使の必然的結果である財産の不平等を正当と認めなくては道理上あまくいかない。‥‥修正第14条は『リバーティ』と『プロパーティ』を共存する人権かと認めており‥‥」目的の審査でパスするとしても次ぎに、手段の合理性が、すなわち問題となっている法律は達成される目的にむとって「合理的」「実質的」な関連をもっているかが厳しく問われると述べた【*6】。
 私有財産権の存するところには富の不均衡はつきものであり、あらゆる契約で当事者双方が平等な立場に置かれるとは限らない。契約や私有財産権の自由を守りながら、これらの権利の行使に必然的に伴うことになる富の不均衡の合法性を認めないということは、事理に反するとしたのである。契約当事者の交渉力の対等性などありえない。元請けと下請けの関係、大企業の押し込み営業、あらゆる契約に交渉力の格差はつきもので、それを否定すれば社会主義となってしまう。現代においては古典的自由主義者シカゴ大学ロースクールのエプステイン教授がピットニー判事と同様の趣旨を述べている。

.児童労働法を違憲としたハマー対デイゲンハート判決Hammer v. Dagenhart, 247 U.S. 251 (1918)http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=US&vol=247&invol=251
 合衆国議会は1916年に、工場から出荷させる前30日以内に、その工場で14歳未満の者を使用したり、14歳以上16歳未満の者を1日8時間以上、、もしくは週48時間を超えてまたは午前む6時以前と午後7時以降に就労させた場合、その工場で製造された商品を州際通商で輸送することを禁止する【*7】 Child Labor Act が制定された。16歳未満の子供を2人綿糸工場で働かせていた父親がこの法律の違憲性を理由に法律の執行の差止を求めた。
 連邦最高裁は5対4の僅差であった。デイ判事による法廷意見は、合衆国議会に附与された州際通商をみ規制する権限の範囲内にないとした。つまり商品の製造や石炭の採掘は通商ではなく,これらのものが後に州際通商で輸送されたり使用されるものであったとしても、それによってこれらの生産が通商になるわけではないとして、法律を違憲とした。PDFhttp://www2.kobe-u.ac.jp/~emaruyam/law/faculty/2009/090629memo.pdf
 このように、最高裁は通商と製造の二分論によって州際通商規制権限を狭く解釈し、州の内部事項管理権限とそれぞれ排他的という考えを用いて、児童労働規制を叩きつぶしたのである。
 

【*1】竹田有『アメリカ労働民衆の世界-労働史と都市史』ミネルヴァ書房2010 219頁以下
【*2】前掲書 221ページ以下
【*3】松岡三郎「アメリカ憲法とワグナー法」『法律論叢』31巻6号1958
【*4】石田尚『実体的適法手続』信山社出版1988
【*5】松岡三郎 前掲論文
【*6】中谷実『アメリカにおける司法積極主義と消極主義』法律文化社1987 22頁
【*7】木南敦『通商条項と合衆国憲法』東京大学出版会1995 175頁

入手資料53

9407松岡三郎「アメリカ憲法とワグナー法」『法律論叢』31巻6号1958
1-30山崎憲『デトロイトウェイの破綻-日米自動車産業の明暗』旬報社2010
  (米国自動車産業の労資関係論)
1-31 関西アメリカ史研究会『アメリカの歴史-統合を求めて-』下 柳原書店(京都)1982
1-32C・ウェザース著/前田尚作訳『アメリカの労働組合運動』(シリーズアメリカモデル経済社会7)昭和堂(京都)2010
1-33リチャード・H・フィロン・Jr著/平地秀哉・福嶋敏明・宮下・中川訳『アメリカ憲法への招待』三省堂2010(2004年の非専門家向けの概説書の翻訳-2003年グラッツ対ボリンジャーを解説)
1-34藤倉皓一郎・小杉丈夫編『衆議のかたち-アメリカ連邦最高裁判所判例研究1993~2005)』東京大学出版会2007年(2002年のアッシュクロフト対フリースピーチコアリション、2003年のローレンス対テキサス、1998年のセクハラ判例ファラガー対ボカラトンなどを収録)
1-35志田陽子『文化戦争と憲法理論-アイデンティティの相剋と模索』法律文化社2006(ヘイトスピーチや同性愛などの憲法問題)

2011/04/16

健康的で印象に残るCM

1980年のキリンレモン。中島はるみの長い脚とヒモパンでない適度な大きさのビキニが健康的で良い。http://www.youtube.com/watch?v=slOxRKeDhC8&feature

『週刊現代』の指摘のためか、東京都が放射性物質測定方式を変更

 4月11日発売の『週刊現代』4/23号に「スクープ・都の水質検査には放射性物質『不検出』のからくりがあった」という記事(36頁)があった。それによると都は東京都立産業技術研究センターに東京都水道局の3カ所の浄水場(現在は4カ所金町・朝霞・小作・東村山)の水質検査を依頼しているが、水1キログラムあたり、20ベクレル以下の場合には放射性物質が検出されても「不検出」と報告されている。理由は都民を動揺させないためというものである。仕事柄、チェックしているが実際「不検出」が続いているのだが、全くゼロというのは疑問に思っていた。
数値の判断が出来ない一般都民への配慮のためということだが、パターナリズムであまり感心しない。この記事の成果と思われるが、測定方式と数値の出し方を変えさせた。都水道局のホームページには「水道水の放射能測定値の公表については、これまで速報性を重視してきましたが、放射能濃度が低い状態が続いていること及びお客さまからより詳細なデータを知りたいとの要望が多数寄せられたことを受け、4月15日からは速報性を損なわない範囲で測定時間を延長(従来の約1.5倍)して、より低い濃度まで測定することとしました。これに伴い、これまで一律に「不検出≦20Bq/kg」と表記してきた方式を、「検出限界値」を用いた新たな方式に変更しました」と書かれている。
  一方、東京都健康安全センターでは新宿区百人町の水道水のデータを出しているがヨウ素131 は下記のとおりであり、かなり細かく出している。
2011-04-14 0.41  Bq/kg
2011-04-13 0.40 
2011-04-12 0.56 
2011-04-11 0.60 
2011-04-10 0.70 
2011-04-09 1.00 
2011-04-08 0.89
2011-04-07 1.40 
2011-04-06 1.63
2011-04-05 2.59 
2011-04-04 3.82 
2011-04-03 2.93 
2011-04-02 1.96
2011-04-01 2.06 
2011-03-31 3.39 
2011-03-30 5.09 
2011-03-29 5.63 
2011-03-28 9.82 
2011-03-27 19.7 
2011-03-26 37.2 
2011-03-25 31.8 
2011-03-24 25.6
2011-03-23 25.8
2011-03-22 18.7 
2011-03-21 5.25
2011-03-20 2.93 
2011-03-19 2.85 
2011-03-18 1.47
 乳児への摂取制限が3/23で解除が3/24である。しかし、蛇口に到達している段階で実際に最も数値が高かったのは、このデータをみる限り3/26だった。なお、原子力安全委員会の摂取制限 の指標は放射性ヨウ素131が300Bq/kg以上。

昨日のビラ配りと統一自治体選挙全水道組織内候補の顔写真等の掲示について 

 ブログは些細な出来事も記録として書く。小さなことでも私は常にいらいらしている。結果、冠動脈が3本詰まって手術をし、さらに代替血管も詰まった。昨日は10時から10時3分ごろにかけて、全水道分会書記長により数枚のビラが所長在席の前で組合員の各机に配られていた。小さいことだが業務集中阻害要因である。
 

 事務室内でのビラ配りについてはリーディングケースとしては、倉田学園事件・最三小判平6・12・20『労働判例』669号13頁というのがあり、始業時前のビラ配布を次の理由で容認している。
 
表現内容-団体交渉の議題、経過や賃金妥結額等労働組合としての日ごろの活動状況の報告であって、違法・不当な行為をあおり又はそそのかすなどの内容を含むものではない。
 
配布時間-始業時刻の15分前

態様-ビラは二つ折りにされ片面印刷のものは印刷面を内側に置かれ、業務に支障を来したことを窺わせる事情はない。
 
 これに対して、現状の東京都水道局で行われている職場規律を乱している態様のビラ配りは次の点で問題がある。
 
表現内容-合法的な組合活動報告だけでなく、「ストライキで闘うぞ」等の闘争的言辞、ストライキ実施批准投票や勤務時間内職場離脱集会の呼びかけのような、違法・不当な行為をあおり又はそそのかすなどの内容を含む。
 
配布時間-勤務時間内に執務中の職員に対して配布される。

態様 -二つ折りにされることなくバサッと表の記事を出して迷惑も顧みず置かれる。業務を直接妨害しないとしても、気を散らし職務専念を阻害する。また、頭上報告や勤務時間内事務室内でなされる業務を阻害する職場集会の前に資料として渡される事もある。

 上記の態様は規制すべきであるが、黙認されているので、他の問題とまとめて当局の見解を糺す予定。私の考えは許容できるのは倉田学園事件の基準に合致するあり方に限定されるべきである。

(倉田学園事件・最三小判平6・12・20『労働判例』669号13頁抜粋)
本件ビラ配布は、許可を得ないで被上告人の(学校)内で行われたものであるから形式的には就業規則(略)の禁止事項に該当する。しかしながら、右規定は非上告人の学校内の職場規律の維持及び生徒に対する教育的配慮を目的としたものと解されるから、ビラの配布が形式的にはこれに違反するように見える場合でも、ビラの内容、ビラの配布の態様に照らして、その配布が学校内の職場規律を乱すおそれがなく、また、生徒に対する教育的配慮に欠けることとなるおそれのない特別の事情が認められるときは、実質的には右規程の違反になるとはいえず、したがって、これを理由として就業規則所定の懲戒処分をすることは許されないというべきである(最高裁昭和四七年(オ)第七七七号同五二年一二月一三日第三小法廷判決・民集三一巻七号九七四頁参照)。
 右の見地に立って本件ビラ配布について検討すると、本件ビラはいずれも職場ニュースと題する上告参加人の機関紙であるところ、本件各ビラの内容は、香川県下の私立高校における労使間の賃金交渉の妥結額(五月八日配布のもの)、被上告人との間で予定されていた団体交渉の議題(同月九日配布のもの)、右団体交渉の結果(同月一六日配布のもの)など、上告参加人との労働組合としての日ごろの活動状況の報告及びこれに関連する事項であって、違法・不当な行為をあおり又はそそのかすなどの内容を含むものではない。また本件ビラ配布は、丸亀校の職員室内で行われたものであるが、いずれも就業時間前に、ビラを二つ折にして(特に五月八日及び一六日配布の片面印刷のものは、印刷面を内側にして)教員の机の上に置くという方法でなされたものであって、本件ビラ配布によって業務に支障を来したことを窺わせる事情はない。また、生徒に対する教育的配慮という観点からすれば(中略)始業時刻より十五分以上も前の、通常生徒が職員室に入室する頻度の少ない時間帯に行われたものであって、前記の教育的に欠けることのおそれのない特別の事情が認められるものということができ、本件懲戒処分は、懲戒事由を定める就業規則上の根拠を欠く違法な懲戒処分というべきである。

 
 次に組合掲示板に貼り出されている、全水道の機関紙の内容であるが、統一自治体
選挙勝利などと称して、全国の苫小牧市議選から長崎県議選までの全水道の組織内候補者の名前と顔写真が掲載されている。民主党7名、社民党5名、無所属6名の計18名である。
 東京近辺では調布市議選候補の広瀬みち子(民主)、千葉県議選の小宮清子(社民)〔4/10選挙流山選挙区当選〕、横浜市議選(戸塚)の小野和宏(民主)〔4/11選挙落選〕、横須賀市議選の角田基(無所属)の顔写真等が掲載されている。
 4月15日の退庁時にも貼られていたから、18日の統一自治体選挙後半戦の告示日にも貼られ、職員の目につくことになる。私の職場では、調布、横須賀居住の職員はいないように思うが、いずれにせよ、すでに終わっている県議選と政令指定都市市議選は、選挙期間中に貼りだされていたし、後半も告示日以降に貼られている問題はある。
 
 この問題については、すでに、平成21年8月の総選挙時に「野党協力で政権交代!」という大きなポスターで保坂のぶと(社民)、菅直人(民主)、亀井久興(国民新)の顔と名前が大きく書いてあるものが貼られていた件について問題視し、以下のように平成21年9月15日水道局長あてに質問および意見書を出しているがhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-a7ac.htmまったく無視されている。
 
 私がこれまで書いたものを抜粋する。
 
  実態として排他的占有的にノーチェックで掲示物が貼られ、室内環境の整理などでも、組合掲示板がきれいに貼ってなくてもそれを問題視できない雰囲気があるという問題があります。最近では8月上旬から告示日後も2~3日野党協力で政権交代!という大きなポスターが全水道東水労の組合掲示板に貼ってあった。保坂のぶと(社民)、管直人(民主、亀井久興(国民新)の顔と名前が大きく書いてあったものだが、郵政省は内規で政治目的の掲示物は許可しないことになっているが、水道局では貼られている。

 
  『郵政省庁舎管理規程』では「庁舎等における秩序維持等、犯罪の防止、業務の正常な遂行、清潔の保持及び災害の防止を図る」(一条)という目的のために必要な事項を定めた。
 「庁舎管理者は、庁舎等における秩序維持等に支障がないと認める場合に限り、庁舎等の一部をその目的外に使用することができる」(四条)
 具体的には
「庁舎管理者は、法令等に定めのある場合のほか、庁舎等における、広告物又はビラ、ポスター、旗、幕、その他これに類するもの‥‥の掲示、掲揚又は掲出をさせてはならない。ただし庁舎における秩序維持等に支障がないと認めた場合に限り、場所を指定してこれを許可することができる。」(六条)とする。
 つまり、広告物又はビラ、ポスター、旗、幕、その他これに類するものは原則禁止。例外的に秩序維持等に支障がないと認めた場合に限り、庁舎管理の許可がありうるとしている。
 その内容・基準を具体化したのが、『運用通達』六条の二項で掲示物が「内容が法令違反にわたるもの、政治的目的を有するもの、郵便事業もしくは官職の信用を傷つけるようなもの、または人身攻撃にわたるものは庁舎等における秩序維持に支障のあるものとして許可しないこと」こととされ、三項では「組合等恒例的に掲示しようとするとする者があるときは、掲示申立ごとの許可にかえて、掲示許可願を‥‥提出させ、あらかじめ一括的に許可してさしつかえない」としている。
 参考
http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/--57107-f8d8.html又、
 
 官公労組による「掲示板」利用関係の法的性質に関する先例として全逓昭和郵便局事件判決(最高裁判所第一小法廷昭57・10・7労働判例394号)がありますが、事実上組合の専用を許可していた「掲示板」(行政財産)の当局による一方的な撤去をめぐって全逓と国の間で争われた訴訟について、当局による「掲示板」を利用した組合掲示物の許可処分は、組合に対し「掲示板」に関するなんらかの公法上または私法上の使用権を設定、付与するものではないとして当局の幅広い裁量権が存在すると判示している。だから組合が掲示板iにどんな物であれ勝手に貼ってよいというわけではない。
 郵便局長に掲示板を含め庁舎等の一部を〔郵政事業等の〕目的外に使用する権限を与える一方で『運用通達』において『庁舎等の一部をその目的外に使用することを許可する』とは国有財産法第一八条および郵政事業特別会計規程第11編固定資産第33条の2に定める使用許可ではなく
「申出によってその権限のわく内で、事実上使用することを許可するものであって権利を設定する行為ではない」としている。
 これに対し、水道局の実情は、慣行上、なんでも掲示を許しており、庁舎管理としては非常に甘いように思え、是正が求められるが、局長以下の見解は。

2011/04/13

管理職の「世間話」発言聴いたぞ

本日、10時47分、私の上司が、Tと電話で話していたのに世間話だけして肝心のそのことを言うのを忘れた云々とお気に入りの部下に言っていた。なるほどふんぞりかえってゲラゲラと笑い、電話で長話していたのをきいたが、はっきり「世間話」だと言った。この繁忙期に経常業務のない管理職は世間話をして率先定時退庁というお気楽さである。転勤で本庁栄転になった人にえらそうに本庁勤務の心得なるものをわたしていたが、本庁経験者と私のような出先だけ回っている人間では、明らかに人に接する態度が異なる。

2011/04/11

本日はビラ配り

5時頃、地震が起きる少し前に、組合ビラと都労連の震災義捐金要請ビラが配られていた。所長の前で。こんなのは偽善だと思うよ。組合費を収奪しているうえに募金をさせるのは。

発売中の「週刊東洋経済」4月16日号で野口悠紀雄が、「復興投資は経済を拡大させない」と言ってる。こんなにでかい津波は千年に一度ということなら、この地域の防災に金をつぎこむのは意味がないようにも思える。

2011/04/10

団体交渉コレクティビズムから個別雇傭契約自由放任主義へパラダイム変換(下書き10)

前回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-c017.html

合衆国-非組合企業隆盛の理由(10)

1.アメリカの経営者の反労働組合主義と憲法革命以前の保守的な司法

承前

● Lochner era(ロックナー時代)の経験(2)

(4)労働時間規制を合憲としたバンティング判決とミュラー判決をどう評価すべきか 

  1890年から1937年まで主としてデュープロセス条項によって55の連邦法と228の州法が違憲とされている【*1】とはいえ、ロックナー時代を過大評価をしてはいない。アメリカ社会の左傾化の防波堤となったのは、実体的デュープロセスだけではなく、むしろレイバー・インジャンクションの裁判所の支持が大きいと私は考える。また裁判所は20世紀の革新主義的政策のすべてに立ち向かったわけではないし、革新主義的政策の侵入を許しているからだ。例えばバンティング判決やミュラー判決が挙げられる。
 ロックナー判決は1917年のバンティング対オレゴン判決BUNTING v. STATE OF OREGON , 243 U.S. 426 (1917) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=us&vol=243&invol=426で黙示的判例変更がなされた。これはオレゴン州で工場労働で一般的に一日10時間労働を定め、所定時間外の割増し賃金を定める州法について、ロックナー判決に言及せず、合憲判断とした判決だった(法廷意見は何とロックナー判決で多数意見に与したマッケナ判事。これにホームズ、クラーク、デイ、ピットニー各判事が同調、反対-E.ホワイト主席判事、ヴァン・デヴァンター、マクレイノルズ各判事。なおブランダイス判事はこの訴訟に係わっていたことから審理不参加)。
 アメリカ合衆国における平均労働時間は1865年に11時間、1884年に11時間半だった【*2】ことから、10時間が長時間労働とは思えない。工場労働に限定されているとはいえ、契約の自由をないがしろにしていることでワースト判決である。つまり、ロックナーは明示的に判例変更されなかったものの、労働時間規制が違憲とされたのは12年間と短かったのである。この時期の最高裁の陣容をみると、一貫した保守派はヴァン・デヴァンターとマクレイノルズだけであり、保守派が薄い時期の判決でもあった。労働判例ではタフト任命のピットニー判事が就任期間が短かったもののキーパーソンであったことがわかる。
  オレゴン州における洗濯業における女性について1日10時間以上の労働時間を規制する州法を合憲とした1908年のミュラー対オレゴン判決MULLER V. OREGON, 208 U. S. 412 (1908) http://www.larrydewitt.net/SSinGAPE/muller.htmはロックナー判決の枠組みを変更するものではないが、現代においてはワースト判決と評価してよい。1954年公民権法タイトル7により雇用上の性差別される事例だろう。女性を従属的な性とみて、庇護され保護されるべきというロマンチックパターナリズムそのものであり、現代の性差別撤廃の趣旨では排撃されるべき立法である。ただし当時は、女性は合衆国憲法修正14条「いかなる州も、人から法のデュー・プロセスによらずして生命、自由もしくは財産を剥奪してはならない。またいかなる州も、その管轄権の中で何人にも法の平等な保護を否定してはならない。」の「人」に女性は含まれないものとされていた。「人」に女性を含むとされたのは1971年のリード対リード判決以降なのである。要するに女性は契約の自由をみ享受する権利の主体とはされなかったから合憲判断なのである。なお合衆国において女性に選挙権が付与されたのは1920年の修正第19条からである。
 法廷意見は極保守派でロックナー判決でも多数意見に与したブリューア判事が執筆し、多くのことを語っているが、要点は女性は「契約の自由」を享受する市民とはみなされなかったことにある。「女性は常に男性に男性に従属してきたことは歴史が明らかにしている‥‥未成年者と同様‥‥女性は、裁判所において、権利が保護されるよう特別な配慮が必要な存在と見倣されたきた‥‥女性には、それらの権利を完全に主張することを妨げる気質と生活習慣が存在している‥‥政治上、人身上、契約上の権利の制限がすべて取り除かれても、女性の性質からして女性は男性に従属し保護を求めるだろう‥‥これらの事によって男性から区別されるため、女性は女性だけのクラスに位置付けられるのが相当であり、女性保護を目的とした法律は、例え男性には支持され得ないものでも、支持される」と女性についてステレオタイプに理由付け結論している。
 私は「人」に女性を含む必要はないという趣旨で1971年のリード判決に反対であり、ブリューア判事にに敬意を表し原則論としてはミュラー判決を支持してもよい。しかし、女性の保護者である男性の判断を尊重していないという点で問題のある判決だといえる。裏返して言うと、契約の自由を侵害する規制立法が容認されている現代は、男性が女・子ども並みに扱われているということを物語るものである。

【*1】中谷実『アメリカにおける司法積極主義と消極主義』法律文化社1987 27頁註1
【*2】前掲書 16頁 註2
【*3】「合衆国最高裁判所における女性労働『保護』法理の成立(2)完 : 最高裁判所のジェンダー分析に向けて」名古屋大學法政論集. v.167, 1997http://hdl.handle.net/2237/5741

2011/04/09

津波迫力映像を見る

ユーチューブでアップされている映像をピックアップ。4/23南三陸(志津川)、4/24気仙沼を追加
CBSニュース http://www.youtube.com/watch?v=1ikus_TEaGI
釜石。屋上にいた人はどうなったのだろう。人が映ったため印象が強い。
http://www.youtube.com/watch?v=5-zfCBCq-8I
宮古。黒い津波が堤防をのりこえるANN映像。 http://www.youtube.com/watch?v=9vuJLUkXAXY&NR=1多賀城イオン http://www.youtube.com/watch?v=qx0aQeqXdgU&NR=1東松島市 http://www.youtube.com/watch?v=GJLT0tm-jWw大槌町 http://www.youtube.com/watch?v=SVLUOxUDS-8&feature多賀城市「終わった、だめだ゜こりゃ」が印象的 http://www.youtube.com/watch?v=YCIHFLNXWJk&feature 多賀城コジマhttp://www.youtube.com/watch?v=amg5S_bODzo&feature 塩釜マックスバリューhttp://www.youtube.com/watch?v=8vZR0Rq1Rfw南三陸町志津川 「うそー」といったとたんに津波が迫るビデオ 500万近いアクセス。http://www.youtube.com/watch?v=5CXLUMWJN78&feature=aso気仙沼

奥尻島、スマトラ沖は被害をみても対岸の火事でさほど関心はなかったが、これだけの迫力映像は記録映画でもそうみたことはない。

1560万キロワット需要差(32%減)の不思議

   
3月17日(木)東京の平均気温が摂氏4.6度と低かったために、海江田経済産業大臣が「大停電の恐れがある」との発表したため、節電要請による工場操業停止や鉄道の間引き運転、帰宅を急ぐ人たちのラッシュで大混乱となったとされている。
なお、その日の東京都水道局はストの前日で三六協定拒否闘争(超過勤務拒否闘争)が予定されていた。しかし、ストは15日に組合が局の震災対応に協力するという名目で中止され、また停電による突発対応待機のためオフィスは閉めなかったので、私は職場に8時半頃までいたため、帰りの電車はとてもすいていたから当日の混乱を知らない。
 発売中の『週刊ダイヤモンド』4月9日号ニュース&アナリシス10~14頁によると、当日の東電の供給能力3350万キロワットに対し最大需要3330万キロワットだたという。東京の平均気温が4.4度とほぼ同じだった3月3日の最大需要4890万キロワットだったから、震災後に1560万キロワットの需要差が出ている。
32%も需要が縮減した理由は何か。ダイヤモンドの記事は必ずしも明解ではなかった。家庭でこまめに電気を消す節電効果は最大430万キロワットだという。大口顧客の需要調整契約の発動もわずか110万キロワットの削減であることから、震災被害による工場の操業の停止が大きいのではないかという分析である。なるほど上場企業の7割でなんらかの被害があり497社で営業・操業停止があったというのは大きいが1560キロワット縮減の明解な回答とはいえないのである。

私が思うに素人なので当たっていないかもしれないが、節電要請によるオフィスなど暖房の温度調整が急激に進んだ効果あったのではないか。
というのは、いうことである。内閣府の省エネ通達で暖房は民間は20度、官庁は19度とされていた。また水道局では環境計画もあるから、電気の使用量も減らすことになっているが、私は出先しか回ってないから、本庁は知らないが、省エネ通達が守られた例を知らない。
実際には、暖房は24~26度以上で設定され、24~25度だったのである。管理職や監督職員が組合などから文句がでるのを恐れ統制できなかったのである。
実際、省エネ通達にしたがって下着を2枚着るなどウォームビズしているのに、オフィス内が25度になるのは暑すぎると苦情を言っても、19度とか20度というのは、机の上ではかるものかどこで何時に20度とか19度としているか基準はないから、あなたが温度計をもって25度といっても、通達違反でないと強弁するたけである。
とくにひどかったのが、私が狭心症・心筋梗塞で冠動脈3本のバイパス手術をやった前の年である。8年ほど前だが、当時、関東電気保安協会の冷房28度設定のポスターがあり、コマーシャルでも28度設定を盛んに流していた。が私の職場は23.5度でしかもファンコイルから強風が吹き付けていた。その上に扇風機まで持ち込まれていた。当時外回の仕事むだったから外気との気温差が15度以上あり心臓にこたえていたが、強風にしている人間が組合分会役員なので、管理職は措置虎の味方をして、私の苦情は逆に周りの人にあわせない協調的でないとして、この男に怒鳴りつけたことを理由としてわたしが不良職員とされ、強制配置転換、昇給停止処分になった。
 その男は勤務時間中冷房にあたってふんぞりかえってねほとんど毎日勤務時間中、シャワーをたっぷり浴びて、帰るという極楽勤務をやっていた。勤務時間中のシャワーは内規では、汚れた場合に上司の許可があって入れることになっているのに内規にも違反する職務専念義務違反なのに、それは当然だとされ、管理職は逆に私が勤務時間中シャワーも浴びず汗臭く仕事しているのが客に不快感をあたえていると逆に非難されたわけである。23.5度は涼しすぎるからせめて25度にしてくれといってもだめ。良好な職場環境を維持するために一番暑がりの人野間わがままにまかせるということであった。水道局は節水を指導しているのに、外回りもせず冷房にあたっている職員の勤務時間中のシャワーは無駄遣いでないかといってもだめ。勤務時間中のシャワーは当然だと言っていた。
このように、表向きは冷房28度設定だが、実は23.5度が実態だった。節電に協力しているスーパーよりずっと涼しいという状況だったのである。

ところが、震災後の節電要請により、3月15日から、これまで19度という内閣府通達を守ってない責任を棚に上げて、支所の指示で空調担当者に20度設定する命令が出され、その後、11時過ぎの暖房を止めたり、普段は労働衛生だなんだかんだとうるさいのに、有無をいわさず、オフィス内の蛍光灯を間引いたりしている。これは全くご都合主義である。計画停電の実施で、顧客や住民の目が厳しくなったため、普段からやっているはずだった暖房設定を突然やりだしたのである。
九都県市(南関東1都3県と5政令指定都市)では内閣府と違い20度設定という通達だが、これも勿論守られておらず、実際は24~27度の設定がなされていたと考えられる。というのは暖房シーズン前に空調担当の委託業者から、通達では20度設定とされているといっても、通常26度設定で24度にするのが普通という説明でそうしていた。もっと高い(27度~)ところもあるすごいんだからと言っていたのを聴いている。空調担当者は20度設定にすると寒いと後で文句をいわれるからいやがるのである。
むろんインフルエンザ対策としては暖房が低いのも問題はあるかもしれないが、コンプライアンスに反しているのである。
私はエコにも過剰コンプライアンスにも反対の立場であるから、官僚主義的な通達遵守とかこうるさいことをあまりいいたくない。
ただ、これまでも通達で20度設定をくどくいわれているのに実施してなかった責任が棚に上げられているのが不愉快である。
水道局だけでなく他の官庁もおなじようなものと想定すると、震災後に暖房が4度ぐらい下がっているのではないかと考えられる。 需要が32%減となった原因の一端がここにあると私は考えるが、真相は不明である

昨日の頭上報告

9時半ごろ5分くらいの書記長会議報告。国家公務員の団体協約締結権附与は閣議決定されたが、震災の影響で関連法案の改正案がまとまるのは連休あけと報道されていることを指すと思えるが、震災対応を理由として労働者の権利の進捗の遅れは許せないみたいなことを言っていた。
5月1日の日比谷メーデー3割動員、駅伝大会の中止、狭山事件第三次再審闘争署名のよびかけ。石川さんは無罪だと言っていた。昨日、勤務時間中に回されていたのはこの署名だろう。勤務時間中に回される署名は、組合や同輩からの圧力と監視のなかで行われるので自発的なものとはいえないのでかなり問題がある。
また、被災地自治体支援の派遣については組合と協議がなく行われていると当局を非難した。    

2011/04/07

本日は新聞の配布と回状

 9時30分に分会書記長が全水道という教宣部発行の新聞を配り、9時45分には回状が回された。所長はいた。カンパか署名だと思うが、労働組合が勤務時間中にカンパや署名は、組合や同輩からの圧力があるので、多分ほとんどの人が応じることになる。
 新聞は掲示板にも張り出され、内容無は統一自治体選挙組織内候補者勝利云々というもの。民主党7名、社民党5名、無所属6名の組織内候補者の名前と顔写真があった。

2011/04/06

団体交渉コレクティビズムから個別雇傭契約自由放任主義へパラダイム変換(下書き9)補遺

前回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-c017.html

近代私法の三大原則を、私的自治の原則(意思自治の原則)、私的所有権絶対の原則、権利能力平等の原則というのである。
 フランスでは、ナントとジュネーブを結ぶ蛇行したラインで北が慣習法地域、南は成文法地域が分かれるが契約については統一的で16世紀以降は、自然権思想やルネサンスの影響もあり、契約当事者の自由意思を尊重する任意法の領域と、財物や土地に関する強行法規が区別された【*1】。
私的自治=意思自治あってこそ近代市民社会が成立したのである。しかし現代の福祉国家では労働法や労働協約が、雇傭契約の自由に干渉に拘束的ルールをおしつけるため、意思自治が機能していないむ。それは近代市民社会の本来のあり方から逸脱しているのである。 少なくとも退廃したあり方と言える。
1791年ル・シャプリエ法 loi Le Chapelier はフランスの団結禁止法であるが、同職組合の入職規制と権益を否定するものだった。営業の自由のための同職組合の解体はアンシャンレジーム期から構想されておリ、イギリスでは18世紀に産業別の団結禁止法と、1799-1800年の団結禁止法があるように、本来、近代市民社会は個人主義的自由を貫徹する性格を有していたはずだ。
そのような趣旨からみても自らの生計に関わる契約の自由を保障するロックナー判決は近代市民社会の基本原則を述べただけであり、これを適者生存の社会進化論を公定するものだなどというホームズの批判はあたらない。当時のバン焼きは、工場というより家内労働に近いものであるとするならば、一日10時間労働は長時間とはとても言えないだろう。住み込みなら14時間の自由時間があるのである。
 リバタリアンのいう自己所有権はわかりにくいが、所有権とは排他的独占的処分権のことである。私は宮城県に親戚がいるので見舞金を出したが義捐金は一円も出さない。発売中の『週刊ポスト』が「日本ユニセフ協会「被災者に渡らない募金」が暴かれた」と言う見出しの記事が書かれているが、何に使われるかはっきりしないからだ。
 テレビで義捐金を出せ出せと言っても、私の持っている現金は私が所有するから排他的独占的処分権を有するから、私の一存でに出さないと決めてよいのである。だから文句を言われる筋合いはない。しかし、労働力処分は自由がない。
 雇傭の領域においては、厚かましくも労働法だの労働協約だの拘束的ルールが押しつけられるのである。原則所定時間外労働は週45時間以内、月間30時間以上は組合との事前協議とかいうような時間外労働協定などがそうである。組合の職務統制で労働の能率も制限される。
 使用者にとっては、被用者が仕事のため時間を使ってくれることは望ましいことである。一方被用者にとっても達成感のある仕事をするためには時間規制はじゃまである。しかしオプトアウトは許さないという硬直したあり方である。
 つまり、自己自身を所有していないことの不便であり、競争を否定されるから、ますます内部労働市場での価値も下がっていくのである。
 勝間和代が翻訳した本で1万時間の法則というのがある。1万時間トレーニングがその道で成功する条件ということである。なにごとも物事に熱中しないとものにならないのである。
 他人の2倍・3倍努力すれば、競争社会で生き残れないのに、時間規制で競争から排除されるので、人生にも夢のもてない閉塞感のある社会となっている。
 管理職と平社員とを分けて考えるのは時流に反している。、組織のフラット化と顧客第一主義で、現場で機敏に対応していくために権限移譲のすすんでいる時代である。平社員も経営者感覚で働くのであるから、管理職なみに時間規制のない働き方を望む時代になっているからこそ、ロックナー判決は再評価されるべきだと考える。
 
【*1】松井志菜子「人権法の歴史と展開」『長岡技術科学大学言語・人文科学論集』 18, 53-80, 2004-10-20  http://ci.nii.ac.jp/naid/110004675047

2011/04/03

公立学校教員の給与は私立学校より34%給与が高い


公立学校教員の団体協約を終了もしくは制限する法案が共和党政権の州で進められているが、実際にアメリカでは私立学校より給与は高いというデータをマーク・ペリー教授が紹介している。
http://mjperry.blogspot.com/2011/03/public-sector-premium-for-school.html、特に医療保険で優遇されており団体交渉制度の見直しは妥当なものといえる

団体交渉コレクティビズムから個別雇傭契約自由放任主義へパラダイム変換(下書き9)

前回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/cat20258955/index.html

合衆国-非組合企業隆盛の理由(9)

1.アメリカの経営者の反労働組合主義と憲法革命以前の保守的な司法

承前

● Lochner era(ロックナー時代)の経験(1)

(1)ロックナー判決

 19世紀末期末期から1937年まで若干の波はあったものの、レッセフェールアクティビストとよばれる経済保守派の裁判官が優勢だった。レッセフェールアクティビストは実体的デュープロセス【*1】あるいは州際通商条項【*2】、課税条項の解釈によって、すべてではないが州政府又は連邦政府による多くの社会立法=労働者保護立法、経済的自由規制立法を違憲無効とした(これは1937年の憲法革命とよばれる判例変更により終了した)。事実上司法部が立法府による自由競争=市場原理の干渉を抑制することになり、自由放任主義経済を支える役割を果たした。
 赤い1930年代のニューディ-ル政策とそれを容認した1937年憲法革命により国体変更に近いアメリカ社会の左傾化が顕著となるが、1936年まで経済規制立法の違憲判断が主流であったことが、アメリカ社会左傾化の防波堤となっていたことの歴史的意義は大きかったと考える。現代においても合衆国国民の過半数が医療保険制度改革を批判しているように社会主義的政策に安易になだれこまない健全さを示しているのは、自由放任経済時代の経験と歴史的経緯によるものであると考える。
 もっとも著名な判決はロックナー対ニューヨーク判決LOCHNER v. PEOPLE OF STATE OF NEW YORK, 198 U.S. 45 (1905) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=us&vol=198&invol=45であり、この時代をLochner eraというのである。
 ロックナー判決とは、1897年ニューヨーク州法で定める労働時間規制を合衆国憲法修正14憲条に反し無効としたものである。同州法は、パン、ビスケット、ケーキ等の製造作業場の清潔さおよび健康的な作業環境を維持するため、排水設備等を規制すると同時に、被用者の労働時間を週60時間、一日10時間を上限に規制した。上告人ロックナーは州法に反し被用者を1週間60時間を超えて就労させたため、郡裁判所において軽罪で有罪となり、州地裁、州最高裁もこれを維持したが、合衆国最高裁は当該州法の労働時間規制が「自己のビジネスに関し契約する一般的権利は、合衆国憲法修正第14条によって個々人に保護されている自由の一部である」【*3】という実体的デュープロセス【*2】により「契約の自由」の違憲的な侵害であるとして5対4の僅差で無効とした判決(「極保守派」の ペッカム判事が法廷意見を記し、フラー主席判事、ブリューア、ブラウン、マッケナ各判事が同調した。ハーラン判事が反対意見を記し、E.ホワイト、デイ各判事が加わった。ホームズ判事が単独で反対意見を記した。(1917年に黙示的判例変更バンティング対オレゴン判決、1937年判例変更ウェストコーストホテル対パリッシュ判決)であるが、その評判の悪さ(それは財産権と契約の自由の強固な保障によるレッセフェール体制に対する左翼の攻撃である)にもかかわらず、雇傭契約の自由、個人主義的自由を擁護した称賛すべき判例であると確信する。
 ロックナー判決は州政府による労働時間規制を無効としたもので、直接的には反労働組合判決ではないが、個別雇傭契約を前提として、労働者黄犬契約規制立法と最低賃金規制などの違憲判断を引き出したことで、反労働組合主義に繋がる性格を有するものと評価してよい。

(2)ロックナー判決の理論的分析
 
 ロックナー判決の理論的分析については中里見博の論文【*4】が詳しい。
 同判決の「契約の自由」法理は、使用者と労働者を、労働契約を結び労働条件を取り決める対等な当事者と捉えて「公共の健康、安全、福祉」の保護、促進を目的とした州の正統なポリス・パワーの行使と認められる場合を除いては、州はその過程に介入してはならないとするものである。
 従ってロックナー判決はあらゆる雇用契約の規制を違憲とする趣旨ではない。具体的な審査基準としては、「目的の正統性」及び「目的-手段の実質的関連性」の審査である。
 この基準は現代では中間審査基準と言われるものだが、後述するようにぺッカム法廷意見をよく読むと中間審査基準より厳格のようにも思える。
 労働時間規制事案の先例としてはユタ州の地下坑並びに製錬工及び鉱石精錬労働の雇用時間を原則として8時間に規制した州法を合憲とした1898年Holden v Hardy169 U.S. 366 ホールデン対ハーディ判決がある。ホールデン判決は立法府判断、権限を尊重し、司法部の介入の抑制を強調していたにもかかわらず、ロックナー判決がこの先例を覆してはいない。中里見博の次の指摘が重要である。
 ホールデン判決は科学的・実証的事実なしに、「新鮮な空気と日光を奪われ、悪臭と高熱‥‥」に晒される地下坑内労働が労働者の健康にとって有害であることを認め、鉱工業業者と労働者とは経済的に不平等な立場にある事実を立法府が認めたことを受入れ、労働者の健康を保護するために、労働時間規制を認めたものであった。ホールデン判決における立法府判断の尊重とは、坑内労働における健康保護と労働時間規制の合理的関連性について、科学的・実証的な事実に基づいて判断を下したことを尊重するという意味ではなかったのである。
 それは州政府が鉱工業を特別に危険な職業と見倣して立法府規制を行ってきた伝統である。加えて「これらの法律の幾つかの州で、繰り返し裁判所により執行されてきた」コモンローの存在が決め手になっている。(v.167335頁)坑内労働が立法府規制の伝統のある領域であったことから、すんなり合憲判断となった。(ただしブリューア・ペッカムの2判事は反対)
 中里見博は、ロックナー判決の意義について第一に、「目的-手段」の合理的関連性の挙証責任の転換と言っている。つまり、「目的-手段」は著しい不合理がなければ合理性を推定するというのではなく、立法を支持する側が、積極的に「目的-手段」の関連性を立証しなければならない。それ自体は中間審査基準といわれるものだろうが、しかし次の点でロックナー判決は厳格司法審査に近いともいえる。
 ペッカム法廷意見の「労働時間が制限されなければ、公共の健康ないし労働者の健康に重大な危険が生じるといえる、公平で合理的な根拠がない限り」という文言は一見して、科学的実証的根拠を求めているように読めるが、証拠の列挙だけでは立法を支持されるものではないことが、次の文言で分かる。「自由を侵害する法律を支持するには、健康への幾らかの有害性がある可能性についての事実が単に存在する以上のものが必要である」。v.167343頁
 「事実以上のもの」とは著者によると「共通の認識」である。「当該規則(労働時間規制)は共通の認識knowlegeからして、製パン工場及び製菓工場における労働が健康に有害であると言うことができなければ、支持され得ない」「共通の理解からして、製パン業が労働者の健康を害する職業であるとは決して考えられてこなかった」としている。v.167342頁
 従って、中里見博は、ロックナー判決は、科学的・実証的立法事実に基づいた審査ではなく、伝統に基づく審査と述べている。ハーラン判事が証拠の列挙と外国立法の例を挙げて反対意見を記しているが、http://straylight.law.cornell.edu/supct/html/historics/USSC_CR_0198_0045_ZD.htmlそれだけでは駄目なのである。外国立法については論外に思える。
 つまり、社会通念から見て、製パン工場及び製菓工場が、鉱山の坑内労働のように特別に危険で有害な仕事とは認識されていないから、このような一般的職業では、労働時間規制を支持できないと言うことだろう。
 この司法審査は堅実に思える。というのは中間審査基準の「目的-手段」の実質的関連性には問題点がある。証拠やデータ、公衆衛生について裁判官が主観的に解釈しがちになるので不安定になりやすいことを防止しているのである。伝統に基づいた審査によって、安易に契約の自由が侵害されることとしている。それは伝統的な法秩序を安易にくずさないということであり、コモンローによって自由が保障されるという考え方に通じる。
 パン焼きは古代メソポタミアから始まっている。ポンペイ遺跡ではパン屋が発掘されている。製パンは古代から職業として存在しているが、鉱山坑内労働のような危険な職業と認識されたことはなかった。なるほど、ニューヨークの製パン工場はアパートの地下にあって不衛生であったかもしれない。しかし、作業環境を規制して衛生的にする州法を裁判所は否定していない。
 常識的に考えてもロックナー判決は妥当な判断である。週60時間労働は格別長時間労働とはいえない。例えば中西部鉄鋼業の場合、当時は一日12時間週7日労働制が一般的であるから、週84時間労働だった。
 現代においてホワイトカラー、知識労働者や専門職は週60~70時間はあたりまえだろう。例えば先例の下調べに十分な時間をかけ慎重な司法判断をとるこででよく知られているロー対ウエード判決で著名なブラックマン判事は最高裁就任当時の評判として、判事は、平日10時間、土曜7時間、日曜4時間きっちり仕事に就くという。週61時間である。
 あえて、ロックナー判決の法理に異論をはさむとすれば、イギリスのコモンローの「営業制限の法理」との整合性に言及していない点である。

(3)ロックナー判決はもはやアンチカノンではない

 1937年のウェストコーストホテル対パリッシュ判決で、明示的にロックナー判決が判例変更されて以来、合衆国最高裁は経済的自由の規制については立法府の判断を尊重して合憲判決を下しており、ロックナー判決は、ニューディール主義の福祉国家を是認する憲法学によって長い間、アンチカノンと評価されてきた。
 アンチカノンとは主要な判決であるが、憲法修正や判例変更で規範性が否定された悪名高いワースト判決のことであり合衆国議会は連邦の領土内で奴隷制を禁じる権限がないとした1857年ドレッド・スコット対むサンフォード判決、旅客列車車輌の黒人と白人の分離を合憲とした1896年プレッシー対ファーガソン判決などと並んで、司法部の過ちとして扱われ、憲法学者の主流はそういう見解だった。
 つまり従来はロックナー判決で反対意見(特定の経済理論、スペンサーの社会進化論を公定するようなものと批判した)を記したホームズ判事が圧倒的に支持され、適者生存の社会進化論に基づく形成する(私は適者生存で良いと思ってる)ものだと批判されてた。
 ロックナーをアンチカノンとしたのは、法実証主義、ニューディール・リベラル派の陣営のみならず、保守派においてもウォーレンコート以後の司法積極主義を批判する趣旨から実体的デュープロセスを批判する論調が主流であった。
 しかし、近年のロックナー再評価はホームズ判事による中傷を支持する考え方が古くさい見解になりつつあるということだ。法学者の議論ではロックナー判決をアンチカノンとするのは過去のドグマになりつつあるのだ。
 その嚆矢は1980年以降、保守派の論客サンディエゴ大学ロースクールのB・H・シーガン Bernard H. Siegan教授(故人)がロックナー判決は憲法の正当な解釈で復活すべきだと主張したことである。シーガンの業績が大きいのだが、その影響によりロックナー判決擁護者・好意的な学者は増えている。Randy Barnett, Richard Epstein, Ellen Frankel Paul, Roger Pilonといった、リバータリアン系の学者に限らず、思想的立場の異なる広範な法学者がロックナー判決を再評価しているhttp://volokh.com/posts/1144178362.shtml#searchsite
 リベラル派においても評価されている。ロックナー判決は自らのビジネス、雇用契約の自己統治を、政府からの干渉から守った判決なのであるが、それがあったからこそ、子どもの教育に関する自己統治を守った1923年マイヤー判決や、1925年ピアース判決があり、夫婦生活の自己統治を守ったグリズウォルド判決があったとみるならば、ガンサー教授が言うように実体的デュープロセスによりパン焼き労働者の雇用契約の自由を守ったロックナー判決も、避妊具を販売し使用する自由を守ったグリズウォルド判決も同類と認識してよいのだ。ロックナー判決は立法府のつまらないパターナリズムからビジネス、雇用契約の自由、私的自治・自己統治を守った趣旨としてとらえることも可能なのである。

(4)ロックナーは再評価されるべき。私的自治が否定され、根拠に乏しい雇傭契約への干渉が常態化している現代社会の方が不健全。

 「契約の自由」は私的自治、とりわけサヴィニーの大陸法的意思理論に由来し、自由放任主義哲学やベンサム主義的功利主義思想により19世紀には一般的な思想であった。
 しかし、契約の意思理論は今日では客観主義に移行している以上古いという評価もある PDF http://www.f.waseda.jp/ksuga/waseda02.pdf。しかし、意思理論は近代市民社会成立の大前提ではないだろうか。われわれが今生活ををしている社会は、私的自治がなければ近代社会ではない。当事者が合意していることに他者や政府がとやかく言うべきことではないという思想。個人の自律性の強調。 自分が義務を負うのは自分が同意している場合という個人主義思想が大前提なのである。
 実際、労働力以外の私有財産の処分、購買行動や私生活上の諸契約について他者や政府に干渉されることはまずない。児童ポルノや覚醒剤でも買わない限りそう簡単に官憲に干渉されないし自由なのである。私が洗剤をスーパーで買うとき、P&Gを買おうが、花王を買おうが、ライオンを買おうが自由であってあつかましくも政府・他者に干渉される筋合いはない。
 
 雇用主との労働時間についてどう合意するかについて、政府・労働組合が労働者保護法や団体協約で干渉していることは雇傭契約の自由、労働力処分の自由の侵害なのである。 これまで反対意見を記したホームズ判事のリアリズム法学や法実証主義が勝利したと専門家は説明してきたが懐疑的にならざるをえないのはホームズの評価は下がっているからである。自己自身が所有する能力と身体こそもっとも重要なプロバディだからである。ゆえに、意思理論による雇用契約の自由は回復されるべきである。
 なぜなら時間給労働者というのは社会的威信の低い職業であり、有能な人なら避けたいと考えるはずである。ホワイトカラーなら時間規制に関係なく、会社のコストにもならずに働けるのがベストである。年俸制度の専門職、知識労働者は時間で働くことはしないし、1日15時間・16時間でも働くしプライドをもっている。例えばウォルマートを世界一の企業にした2代目のCEOでデビッド・グラスは1日16時間仕事に就く。グーグルの女副社長は、9時から夜中の0時までオフィスにいて、3時に寝るのである 
 また大量生産の工業社会において工場の生産ラインのように細分化・標準化され、マニュアル化され割り当てられただけ仕事をする、働く人間に求められたのは均一性であった。しかし、脱工業化社会のポストモダニズム・マネジメントでは人間のもつ知恵や創造性、個性を尊重し、楽しさややりがいといった感情に基づくモチベーションを推進力とし、顧客に対して今までにない献身的な人的サービスをつくりだしている。こうした時代には時間規制になじまない職種が増えているのである。

 今日、古典的自由主義の立場から、契約の自由を主張する著名な論者としてシカゴ大学ロースクールのエプステインRichard Epstein教授が挙げられる。同教授は「何人も自分自身を所有し、自らの労働を自らの望む条件で自由に利用する権原を有する」という見解述べているがロックナー判決の理論をより純化した思想といえるだろう。同教授の見解は徹底していて1930年代のノリス・ラガーディア法、ワグナー法(全国労使関係法)、公正労働基準法は廃止するのみならず、1964年公民権法タイトル7などあらゆる雇傭契約に干渉する制定法を廃止すべきとし、労使関係は伝統的コモンローの不法行為法と契約法の賢明な制度に代わられるべきと主張している【*5】。

  エプステインの基本的な考え方は、労働法など様々な規制による複雑な法システムを構築することによって社会正義を確立するという考え方を排除する。社会介入の道具・手段としての制定法が増大・複雑化するにつれ、法の機能不全が生じ本来個人の福祉や自由を擁護すべき法が逆にそれらを侵害するという現象、非効率な法的ルールによって拘束され個人の自由が侵害されていることを批判する。
   このためには、個人の自律や私有財産権などの単純なルールによって、法に干渉されずに個人が自由に活動出来る私的領域を確保し、インフォーマルな規範が正確に機能するための領域を確保するというものである。これはハイエクの自生的秩序論と類似した考え方であるが、次の七つの単純なルールを提唱する。
 1.自己所有権または自律
 2.無主物先占
 3.自発的交換=契約の自由
 4.侵害に対する保護=不法行為法
 5.緊急状態における限定された特権
 6.正当な補償に基づく公共目的のための財産の公的収用
 7.比例課税による再分配プログラム【*6】


 私は大筋で同意するが、独占禁止法を批判するリバータリアンとは意見を異にする。17世紀以来の営業制限の法理が王道と思っているので独占放任自由主義には強く反対で反独占自由主義を支持する。カルテルの自由を容認したことから、ドイツは全体主義になだれこんだ教訓に学ぶべきである。独占禁止法は労働組合をも適用するかたちで必要であると考える。またレイバー・インジャンクションは絶対必要だという立場でピケッティングの規制はエプステイン以上に厳しい考えをとりたい。したがって、エプステインほど単純なルールは主張しない。しかし、エプステインの見解は人を引きつけるものあり、特に我が国の行政主導の制定法によるパターナリスティックな介入のもたらす危険性に無頓着な我が国の現状に於いて示唆的である【*6】。

自己所有権 


エプステインの自己所有権または自律が法制度の根幹であるべきという主張は基本的に同意する。我が国の民法典においては、財産とは「物」であって「人」は含まれないということはこの際、重要な問題ではない。
 労働力は商品であることを否定したのは労働組合の主張だった。つまりアメリカではAFLのサミュエル・ゴンパースが、シャーマン法の労働組合への適用に反対する方便として主張したに過ぎないのである。共謀により労働力取引の自由を制限するのが労働組合の本質であるから、それが取引制限であり営業の自由の侵害という非難をかわすためである。しかし、労働力が商品であることを否定したら、それは身分制社会か奴隷制社会に逆戻りするしかない。労働力が商品である以上、その取引の処分権は財産というほかない。 イチローは東北大震災で一億円の義援金を出すいう。シアトルの郊外に豪邸もあるから相当な物的財産を有しているだろう。しかしもっとも重要な財産はイチロー選手自身の身体能力であったはずである。それがなければ同選手は業績や財産を残すことができなかった。
もっとも大リーグは保留条項があるので本当の意味での契約の自由はない、それ自体は問題であるが、財産を獲得するための労働する能力が自己自身によって所有され、雇傭契約により労働力を処分する個人の自由ほど重要なものはないという認識に立つ。
現代は身分制社会でも共産主義社会でもないのである。自己自身の身体と頭脳を自らを所有し、自らの運命を自らがコントロールできなければ、社会で成功することも、貢献することもできないからである。宗教的・倫理的に言えば内なる良心にしたがって生きることはたとえ仮に客観的には失敗してとしても悔いることはない。むろん人間が神に対して傲慢であってはならないが、他者に卑屈になるのも誤りである。良き人は自らの霊性の向上(真理や摂理に適う行動を自然にできる能力の向上)に不断の努力を行っている。私はケンブリッジ・プラトニストの哲学に好意的な立場であるから。他者や政府のパターナリズムは実は合理的判断でないことが圧倒的に多い。自己自身の事柄について最善の判断をとれるのは常に自己自身の内なる良心であり霊性の判断であるから。
 しかしながら、私は、リバタリアンの主張する自己所有権テーゼを是認することについては慎重な考え方である。狭義の自己所有権つまり身体所有権は是認する。しかし広義の自己所有権である労働所有権というのが理解しがたいのである。
 従って、ここでは容認している自己所有権とは自己自身の労働力処分の自己決定権、人格的自律のことである
また、宗教的・哲学的には自由意思を認めない立場であることを申し添える。つまり自由意思の否定が正統思想である。人間の自由意思は思い上がった思想だということ。人間はそもそも倫理的に致命的に腐敗しているという西洋文明1500年の確信である。「望む善を行わず、望まない悪を行っている(ロマ7:18~ 19)」良心的な人は常に悩んでいいる、何故善を尽くせないかと。パウロも悩んだ、アウグスティヌスも悩んだ、そしてルターも悩んだことである。神の恩寵なくして善を為すことは出来ないという結論である。
そのように人間の自由意思を否定するが、善を為すために倫理的に腐敗した他者に妨害される理由はないという意味で、自己所有と自己決定を尊重しなければならないという趣旨である。
 エプステインは自己所有権の正当化と難しい問題について反対のルール、共同所有の運営上のコストと弊害から正当化する。共同所有が生産活動を妨げる劣悪な誘因となるとしている【*6】。
 雇傭契約に干渉する第三者、政府(労働者保護法など)。労働組合(団体協約)は実質的に私の労働力取引処分の共同所有者になっているが、望まない拘束的ルールを強要することになって、能率を妨げ、ひいては私自身の内部労働市場で評価を下げ、不利益をもたらすのである。

 自発的交換のルール

 エプステインの自発的交換(契約の自由)のルールには全面的に同意する。自発的交換でなくして相互利益はあり得ない。雇傭契約も同じことである。ところが今日の規制社会においては団体協約や労働者保護法によって雇傭契約における自発的交換のルールが否定され、第三者が干渉する非効率な拘束的ルールが支配する。典型的には日本の労働基準法の三六協定のような規制である。
 一つの例を挙げると、過半数労働組合との所定時間外労働の協定で、一日5時間以上の超過勤務、週休日変更、土日出勤は労働組合との事前協議とされるが1週間前に出さなければならないみたいなインフォーマルなルールにより事実上、事前協議にもちこまないで拒否されることがわかっているから、申請もしないし、しかし、仕事しなければ業務が回っていかないので、それをやっていたら、協約違反で上司から土日出勤の禁止と平日5時間以上の残業の停止を指図され酷くしかられたことがある。事実上の出勤停止処分にひとしい。
このために業務が著しく遅滞する著しくストレスを抱え込むことになった。さらに、どうしても家族の都合で平日に休みをとらなければならないことがあって、しかし、1日休むと業務が遅滞するので週休日変更を申し出でもそれもだめだと。そもそも職務分析も職務記述書も何もなく上司も仕事量も内容も把握せず、事実上の間接管理で管理職は他の職員がさぼろうが、何していようが口を出せない場で、多くの仕事を抱え込んで、土日出勤を含め週70時間働いてなんとか、業務が回っていたのであるから、平日出勤だけでは、デッドラインを切れることがじばしばあって、上級部署との信用を失った。それまで困難な仕事を短期間でよくやってくれたとおほめのことばもいただいたいたのに、内部労働市場での評価と実績を失うこととなったわけである。私にとっては大きな不利益になった。
 労働組合は、制限された仕事、業務量と労働時間でできるだけ高い報酬を得ることしを基本としているが、内部労働市場での競争主義を否定している。しかし、現実問題として、ホワイトカラー的業務は実績と内部労働市場での評価がすべてである。上司は1年ほど部下だとしても、それで終わりであり、実務の指揮もしていないから基本的に関係なく、実際は上級部署の担当者との信頼関係が重要であって労働時間を制限されて仕事が期限内におさまらなくなって信用を失う打撃は大きいのである。これまで築いてきたものを失わうとともに、ドラッカーのいう達成感を与えられない疎外された労働を強いられたことになる。
 ホワイトカラー的、運営的業務は長時間労働は苦にならない。むしろ集中して仕事のできる日曜に出勤してサザエさんの時刻に働くほうが爽快感がある。日本電産の永守社長のように元旦以外毎日出勤で元気にやっている意味がわかったくらいだから。時間給労働者とは性質の違う仕事は、本来労働協約の労働時間の拘束的ルールになじまないにもかかわらず、非効率な拘束的ルールの支配で、やる気を失わせ深刻な不利益を受けるのである。
 7月の海の日の絡む3連休で予算編成業務でしかも新規事業がたくさんあって、平日は経常業務もとぎれることなくあるのだから出てきてあたりまえ、だめだ、だめだと無理をいうから非常に不愉快な思いをした。時間給労働者扱いで見下されるとともに、仕事をやめろだの出勤停止だのといわれるのは、実質業務遂行の妨害であり、目標管理制度で成果を上げることも妨害されていたわけである。粉骨砕身仕事に励んでも協約の拘束ルールにあわせないから協調性がないの一言で低い評価とされ、同僚からの信用も失うから踏んだりけったりである。

 労働条件の拘束的ルールからオプトアウトできる個人の権利があればよいがそれがない(イギリスではEC指令りの週48時間から適用除外できる制度がある)。こちらは裁量労働制もしくは時間外労働の手当適用除外のほうがずっと働きやすいので、自発的な個別労働者との合意による雇傭契約ができるならそれをしたいが、個別契約が禁止されている状況では労働者保護法や労働協約のために大きな実害をこうむっている現状といってよいだろう。のみならず、90年代以降の失われた10年の主たる要因の一つが労働時間規制政策にあることは林=プレスコット説(「時短」により,週当たりの雇用者平均労働時間が,バブル期前後で44時間から40時間に低下したこと,もう一つは,生産の効率性を図るTFP(total factor productivity)の成長率が,90年代の中ごろから低下したこと)により指摘されていることである。労働基準法の改訂による時短が経済低迷の要因であることは有力な学説である。また日本がシャパンアズナンバーワンといわれた時代、残業代不払い訴訟など問題にならなかったのに、2003年に武富士に労働局の強制捜査が入って以来、企業は残業規制が流行し、ますます労働時間の規制が実質的効果をもたらすようになった。さらに性懲りもなく、政府が少子化対策・ワークライフバランス、男女共同参画、男性の家庭責任の分担強化に口実を変えた時短推進政策がとられているのは全くばかげたことである。 

 エプステインは契約の自由を否定する理屈をすべて否定する。搾取、経済的強迫、労働の商品化、雇用者との交渉力の格差などの主張である。労働者に割り当てる利益の取り分が少ないことを理由にして公的機関が介入する取りことは運営上のコストを高めるだけではなく、介入しなければ生じていた利益のある取引を排除し、劣悪な誘因をもたらすものとして批判するのである【*6】。
 アメリカの公正労働基準法は1938年、恐慌による失業率増大に伴い、ワークシェアリングを目的とするものだっさが、大恐慌時代とは状況が異なる以上廃止されるべきであり、日本の労働基準法もまさしく、エプステインが述べるように、高い運営上のコストを課し、劣悪な誘因をもたらし、失われた20年の誘因として廃止されるべきである。

 以上述べたような現代の思潮から、ロックナー判決とロックナー時代は再評価されるべきとそれている。「契約の自由」の侵害として意見ロックナー判決の系統のいくつか判例を取り上げる。(つづく) 

【*1】憲法革命以前の実体的デュープロセス
 合衆国憲法修正14条の 「いかなる州も、適正な(正当な)法の手続きによらないで、何人からも生命、自由または財産を奪われることはない」を適正手続条項、デュープロセス条項という。また修正5条にも「また正当な法の手続きによらないで、生命、自由または財産を奪われることはない」との規定もある。
 修正14条デュープロセス条項の判例理論は1870年代末から20世紀に変わるまでに定式化する。それは先ず手続き的利益の保障であった。それも告知・弁護の機会という最小限の手続きだっが、次第に実体的デュープロセスの理論も進展する。デュー・プロセス・オブ・ロ-、適正な法の過程とは法執行の手続きだけ関する概念ではなく、法の内容にも適正さを要求する概念と主張された。つまり生命・自由・財産を「適正な手続きによらずして」だけでなく「適正な法によらずして」剥奪してはならないとするのである。
 この理論により、個人から生命・自由・財産を奪うことになる実体法の内容の審査、政府の実体的行為が司法審査の対象とされ、裁判所が成文憲法中の特定の明文に依拠せずとも裁判所が基本的性質を有するとする価値を憲法中に織り込み憲法規範として宣言し、それを侵害する制定法は無効された。
 それによると「契約の自由」は基本的かつ不可侵とされ、立法府の干渉は制限されるべきものとされた。 

 最も著名な判決は1905年のロックナー判決だが、その先例ともいうべき「契約の自由」という実体的デュープロセスを根拠に州法を無効にした最初の判例は アルゲイヤー対ルイジアナ判決ALLGEYER v. STATE OF LOUISIANA, 165 U.S. 578 (1897)   http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=us&vol=165&invol=578であった。ルイジアナ州法は、州法に従って州内で事業を許可されていない海上保険会社との保険契約を禁じていた。ぺッカム判事による法廷意見は、州はその管轄内での州政策に反する契約や業務を禁止できても管轄外で締結・実施されるような本件のような契約を禁止できないとした。
  その際「修正第14条にいう自由とはただ‥‥単なる身体の物理的拘束から自由であることを意味するだけでなく、市民が彼のすべての能力の享受において自由である権利をも含むのである。すなわち、彼の才能をすべての合法的方法によって自由に使用すること、彼の欲する所に居住し、勤労すること、合法的である限りどんな職業によってでも彼の生計を立てうること、およびどんな生活でもできまたどんな職業にでも従事することができ、そのために適当、必要かつ不可欠なすべての契約をなすこと、を含むのである」と述べている。
 つまり契約の自由は独立宣言に示される不可譲の権利(自然権)個人の幸福追求の権利の一つだと言っている。自らの労働のうちに有する財産という考え方はジョン・ロックも言ってますが、財産という概念に自身が所有する身体を使って雇用される能力も含む概念になっていることに注意したい。
 
  これは_マグナ・カルタ29条の自由に、営業の自由を読み込んだコーク卿とのアナロジーとして理解出来るだろう。
  更に遡っていくと、「契約の自由」の法理は1873年の屠殺場事件判決における、フィールド判事とブラッドレイ判事の反対意見と、その10年後に判決が下された、食肉業組合対クレセント市商業組合事件における、フィールド判事とブラッドレイ判事の補足意見にその考え方が示されている。
  
BUTCHERS' UNION CO. v. CRESCENT CITY CO., 111 U.S. 746 (1884) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=111&invol=746次のフィールド判事の補足意見は重要である。フィールド判事は闘争的で教条的とも評されるが傑出した名裁判官であり、明晰な文章と不屈の意志で正しいと考える法原則をたゆまず宣言した。
「かの偉大なる文書[独立宣言]において宣言されたこれらの不可譲の権利のうちには、人間がその幸福を追求する権利がある。そしてそれは‥‥平等な他人の権利と矛盾しない方法でなら、いかなる合法的な業務または職業にも従事しうる権利を意味するのである‥‥同じ年齢、性、条件のすべての人々に適用されるものを除き、いかなる障害もなしに職業に従事する権利は、合衆国の市民の顕著な特権であり、彼等が生得の権利と主張する自由の本質的な一要素である。[アダム・スミスは国富論において]『各人が自らの労働のうちに有する財産は、他のすべての財産の根源であり、それ故にもっとも神聖であり侵すべからずものである。貧者の親譲りの財産は、彼自身の手の力と才覚に存するのであり、彼がこの力と才覚とを彼が適当と思う方法で隣人に害を与えることなく用いることを妨げるのは、この神聖な財産に対する明らかな侵害である。それは、労働者と、彼を使用しようとする者双方の正しき自由に対する明白な干渉である。[そのような干渉]は、労働者が彼が適当と思うところに従って働くことを妨げるものである』と述べているが、それはまことにもっともなことである」
 このアダム・スミスの引用は、本来同職組合の営業独占や徒弟制度の入職規制を批判する脈絡であるが、雇用契約・労働力取引の自由は独立宣言に示される不可譲の権利(自然権)個人の幸福追求の権利の一つだと言っている。フィールド判事反対意見から発展したのが、「契約の自由」法理であった。

 ブラッドレイ判事の補足意見も同様であって「人生において通常の職業に就く権利は、不可譲の権利である。それは独立宣言における『幸福追求』の句の下で形成されたものである」とする。

 フィールド判事とブラッドレイ判事の補足意見は少数意見だったが、批判されることはなかったのである。

 実定的デュープロセスは非経済的自由の領域にも拡大する。

 1923年のマイヤー対ネブラスカ判決Meyer v. Nebraska, 262 U.S. 390
http://straylight.law.cornell.edu/supct/html/historics/USSC_CR_0262_0390_ZO.htm
では、私立学校のドイツ語教師が州政府によって職業を奪われない権利から進展して、親が子どもの教育をコントロールする権利、監護教育権も実体的デュープロセスとして憲法上の権利とした。この判決はウィルソン任命でありながら、保守派の陣営に与したことから「最も反動的な裁判官」と称されるマックレイノルズ判事が法廷意見を記し、実体的デュープロセスを認めないホームズ判事が反対意見に回って、教師マイヤーの切実な訴えを認めない非情な人間であるたこと示したことからも注目してよい判例から懐の深い先例と評価される。傍論部分で、結婚し家族を構成する自由、信教の自由に言及していることもあり、憲法革命後の一連の人権判例の基礎となった。あらゆる人権体系を包含する懐の深さを示している。それは保守派裁判官によって起草されたマイヤー判決なのである。
 事案は1919年にネブラスカ州が公私立いずれの学校でも8年生までは近代外国語教育を許さないという州法を制定したが、福音主義ルター派教会の教派学校の教師でドイツ語で聖書物語を教えていた、ロバート・マイヤーが州法に違反しドイツ語でを教えたため起訴され、同州法の違法性を訴えた事件である。マイヤーは口頭弁論で、子どもたちが教会の礼拝に出席するためにはドイツ語教育が必要があり、それを禁止するのは信教の自由をも奪うものであることを訴えた。この州法制定は第一次大戦参戦によるナショナリズム高揚が背景にあり、敵国だったドイツ系移民の多い中西部では感情的な迫害がみられた。不当にもドイツ語コミュニティが不穏とみなされたことである。
 マックレイノルズ判事による法廷意見は、ドイツ語教育自体の有害性はなく、同質な人民の育成を目的とする本件州法は州の権限を逸脱する。同州法は憲法修正第14条デュー・プロセス条項に反し、外国語教師の職業、生徒が知識を獲得しようとする機会、および自己の子どもの教育をコントロールする親の監護教育権を実質的に侵害すると判示したのである。職業を不当に奪われない権利、親の監護教育権の重要な先例として人権判例で多く引用される。また傍論で、幸福追求に関わるコモンローが長い間認めてきた特権を享受する個人の権利を裁判所は擁護することを宣言した。
 すなわち修正第14条の自由とは「疑いなく、身体的拘束からの自由のみならず、契約の自由、生計を営むための職業に従事し、有益な知識の習得し、結婚し家庭を築き、子供の育てること、自らの良心の従った神への礼拝、自由人による秩序正しい幸福追求の権利にとって不可欠なものとしてコモンローが長い間認めたきたこれらの特権を享受する個人の権利」を含むことを明らかにした。
Without doubt, it denotes not merely freedom from bodily restraint, but also the right of the individual to contract, to engage in any of the common occupations of life, to acquire useful knowledge, to marry, establish a home and bring up children, to worship God according to the dictates of his own conscience, and generally to enjoy those privileges long recognized at common law as essential to the orderly pursuit of happiness by free men.
 
 1925年のピアース対修道女会判決 PIERCE V. SOCIETY OF SISTERS, 268 U. S. 510 (1925) http://supreme.justia.com/us/268/510/case.htmlにおいては、オレゴン州法における全ての児童は公立学校に通学させなければならないという要件を無効として、都立学校で教育させる親の権利を憲法上保障した。
 事案は、1922年オレゴン州のは8歳から16歳の子どもを必ず公立学校に通わせなければならないという義務教育では、公立校に通わなければ軽犯罪とみなし、罰金や投獄の処罰を受けることになった。それに対し、1ソサイエティー・オブ・シスターズ (Society of Sisters of the Holy Names of Jesus and Mary)はキリスト教主義学校などで子どもを学ばせる権利の侵害のため、当時のオレゴン州知事ウォルター・ピアスを訴えた。最高裁は「1922年の法案は保護者が子どもの教育方針と育児環境を決定する自由を侵害するものである」とした。マックレイノルズ法廷意見は、同州法は、「自己の監督下にある子どもたちの養育と教育を管理する親および後見人の自由を不当に侵害する」、および「子どもは州の単なる被造物ではない。子どもを養育し、その運命を決定する者は、子ども自身が将来担うべき義務を認識させ、その準備をさせる高度の義務を伴う権利を有している」と述べた。
 ここに至って、憲法修正14条の自由は、契約の自由、不当に職業を禁止されない権利のみならず、私立学校で子供を教育させる親の監護教育権も自由に包含された。
 この二つの判例は、教師という職業に就く個人の権利を擁護したことで、経済的自由に関連していてロックナー判決に繋がる系統の判例であるが、経済的自由から、子どもをキリスト教系私立学校に通わせ教育させる親の監護教育権の保障を引き出し、間接的に信教の自由の保障する意義も認められる。さらに公立校独占の画一的な教育を司法部が否定したのである。
アメリカが全体主義体制になだれこまない歯止めにもなった意義を認めてもよいだろう。

引用-参考

石田尚『実体的適法手続』信山社出版 1988
田中英夫『デュー プロセス 』東京大学出版 1987
町井和朗『権利章典とデュープロセス』学陽書房1995
ウイリアム・H・レーンクィスト著 根本猛訳 『アメリカ合衆国裁判所 過去と現在』心交社1992
スティーブン・フェルドマン著猪股弘貴訳『アメリカ法思想史』信山社出版2005
ラッセル・ギャロウェイ著佐藤・尹・須藤共訳『アメリカ最高裁判所200年の軌跡 法と経済の交錯』
八千代出版1994
宮下紘「プライヴァシーという憲法上の権利の論理」『一橋法学』4巻3号 2005-3http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/8665
山口亮子「親の権利についてアメリカにおける家族のプライバシー議論からの一考察」http://law-web.cc.sophia.ac.jp/LawReview/contents/4803_04/4803_04yamaguchi.htm
ウィキペディアの「インディペンデントスクール」

【*2】州際通商条項
 合衆国憲法第1条8節3項は外国との通商及び州際間の通商、及びインディアン部族との通商を規制すること。を定めている、合衆国憲法の構成原理によれば、連邦議会制定法は連邦議会の権限の行使であるという憲法上の基礎を欠けば効力はなく、権能はその分、州または合衆国の人民に留保されている。
 問題は州際通商の解釈である。Gibbons v. Ogden, 22 U.S. (9 Wheat.) 1 (1824)によれば「通商」Commerce という言葉の意味は traffic(交易―売買、商取引)や buying and selling(売買)や interchange of commodities(商品交換)に限定されるのではない。一般的にいうと,連邦議会は,commerce clause に基づいて、と州とのあいだの通商の手段である交通機関・通信手段についても規制することができる。
「州際(among the several States)」 という言葉は,複数の州が関係する通商という意味に限定するのが適切である。州内の通商については,他州に影響を及ぼすことのない、完全に当該州内の通商は含まれない。
 PDF http://www2.kobe-u.ac.jp/~emaruyam/law/faculty/2009/090629memo.pdf
 州際通商規制権限を狭く解釈した判例として著名なのは United States v. E. C. Knight Co., 156 U.S. 1 (1895) シャーマン反トラスト法とアメリカン製糖会社の株式取得(合衆国内の製糖事業の98%に及ぶ)をめぐる事件。極保守派のフラー首席判事の法廷意見は製造(manufactures),農業(agriculture),鉱業(mining)における規制は州の内部事項管理権限であるとして,シャーマン法に基づく合衆国による株式取得差止めを認めなかった。Hammer v. Dagenhart, 247 U.S. 251 (1918)は重要判例なので本文で取り上げる。
【*3】別冊ジュリスト№139 32巻4号『英米判例百選』第三版 平成8年LOCHNER v.  NEW YORK
【*4】「合衆国最高裁判所における女性労働『保護』法理の成立(2)完 : 最高裁判所のジェンダー分析に向けて」名古屋大學法政論集. v.167, 1997http://hdl.handle.net/2237/5741 「合衆国最高裁判所における女性労働『保護』法理の展開 : 女性最低賃金法違憲判決のジェンダー分析名古屋大學法政論集. v.171, 1997,http://hdl.handle.net/2237/5781
【*5】Richards A Epstein "A Common Law for Labor Relations 1983 水町勇一郎『集団の再生-アメリカ労働法制の歴史と理論』有斐閣2005
【*6】橋本祐子『リバタリアニズムと最小福祉国家―制度的ミニマリズムをめざして』勁草書房2008年 第三章第1節

2011/04/02

オハイオ州の公務員労働協約制限法大詰め

 過剰な公共部門む労働組合の力が、カリフォルニア州やイリノイ州を財政危機に陥れたことから、労働協約の制限法案が共和党政権の各州で進められているが、オハイオ州ではジョン・ケーシック知事(共和党)が27年継続していた公共部門労働協約法をオーバーホールする方針で進めてきた。http://www.politifact.com/ohio/promises/kasich-o-meter/promise/823/revamp-states-collective-bargaining-law-public-emp/州下院民主党が公共部門の労働協約を制限する法案を承認した。3/29の記事http://www.cleveland.com/open/index.ssf/2011/03/ohio.html
  共和党と民主党でもめていたのは、組合費のオプトアウトの問題。共和党が労働協約でカバーされる場合強制的に組合費を払わせる制度をやめて、組合費を払わない権利を与えることに民主党が反発している。http://www.dispatchpolitics.com/live/content/local_news/stories/2011/03/29/sb5-committee-action.html?adsec=politics&sid=101
 3/30にケーシック知事は共和党の法案に署名したとコロンバス・ディスパッチは
伝えている。拘束力のある仲裁を排除し、当局がデットロックの交渉を終了させる運営を可能とする。ストライキは解雇。警察・消防も含めて健康保険と年金に関する団体交渉を禁止する。年功自動昇給システムから能力主義の賃金に移行する。公務員は健康保険料のうちの少なくとも15%を支払うといった内容のようだ。
 オハイオ州は人口1153万の大州で州・自治体の公務員も36万と規模が大きい。ヘイズ、マッキンリー、タフトといった歴代共和党大統領の地元であり、元々政治的影響力の大きな州だった。団体交渉権を附与した州のなかではオハイオは1980年代と最も遅かった。この州の健全化はアメリカにとって希望がもてる。
ケーシック知事の支持率は40%と低い。バラマキに反対しているから不人気は仕方ない。しかし政治家は実績が第一だ。http://news.cincinnati.com/article/20110318/NEWS01/103190339/Kasich-state-plans-pull-streetcar-funding

ケーシックは逸早くオバマの高速鉄道計画に反対し、シンシナティ-コロンバス-クリーブランド線の2500万ドルの連邦政府による助成を拒否した知事。ステートラインではシンシナティの路面電車建設費3分の1の助成金もブロックする方針と伝えている。http://www.stateline.org/live/details/story?contentId=563879
シンシナティは、日用品のプロクター&ギャンブル、スーパーチェーンのクローガー、デパートのメイシーズ、農産物商社のチキータなどの本社のあるビジネスシティhttp://members.jcom.home.ne.jp/wind45140/1c/c1info02cp.htmlだが、過去10年で人口が1割減っている。オレゴン州ポートランドが路面電車の導入で活性化したことにならい建設計画があるが頓挫しそうだ。

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