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2011/04/03

団体交渉コレクティビズムから個別雇傭契約自由放任主義へパラダイム変換(下書き9)

前回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/cat20258955/index.html

合衆国-非組合企業隆盛の理由(9)

1.アメリカの経営者の反労働組合主義と憲法革命以前の保守的な司法

承前

● Lochner era(ロックナー時代)の経験(1)

(1)ロックナー判決

 19世紀末期末期から1937年まで若干の波はあったものの、レッセフェールアクティビストとよばれる経済保守派の裁判官が優勢だった。レッセフェールアクティビストは実体的デュープロセス【*1】あるいは州際通商条項【*2】、課税条項の解釈によって、すべてではないが州政府又は連邦政府による多くの社会立法=労働者保護立法、経済的自由規制立法を違憲無効とした(これは1937年の憲法革命とよばれる判例変更により終了した)。事実上司法部が立法府による自由競争=市場原理の干渉を抑制することになり、自由放任主義経済を支える役割を果たした。
 赤い1930年代のニューディ-ル政策とそれを容認した1937年憲法革命により国体変更に近いアメリカ社会の左傾化が顕著となるが、1936年まで経済規制立法の違憲判断が主流であったことが、アメリカ社会左傾化の防波堤となっていたことの歴史的意義は大きかったと考える。現代においても合衆国国民の過半数が医療保険制度改革を批判しているように社会主義的政策に安易になだれこまない健全さを示しているのは、自由放任経済時代の経験と歴史的経緯によるものであると考える。
 もっとも著名な判決はロックナー対ニューヨーク判決LOCHNER v. PEOPLE OF STATE OF NEW YORK, 198 U.S. 45 (1905) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=us&vol=198&invol=45であり、この時代をLochner eraというのである。
 ロックナー判決とは、1897年ニューヨーク州法で定める労働時間規制を合衆国憲法修正14憲条に反し無効としたものである。同州法は、パン、ビスケット、ケーキ等の製造作業場の清潔さおよび健康的な作業環境を維持するため、排水設備等を規制すると同時に、被用者の労働時間を週60時間、一日10時間を上限に規制した。上告人ロックナーは州法に反し被用者を1週間60時間を超えて就労させたため、郡裁判所において軽罪で有罪となり、州地裁、州最高裁もこれを維持したが、合衆国最高裁は当該州法の労働時間規制が「自己のビジネスに関し契約する一般的権利は、合衆国憲法修正第14条によって個々人に保護されている自由の一部である」【*3】という実体的デュープロセス【*2】により「契約の自由」の違憲的な侵害であるとして5対4の僅差で無効とした判決(「極保守派」の ペッカム判事が法廷意見を記し、フラー主席判事、ブリューア、ブラウン、マッケナ各判事が同調した。ハーラン判事が反対意見を記し、E.ホワイト、デイ各判事が加わった。ホームズ判事が単独で反対意見を記した。(1917年に黙示的判例変更バンティング対オレゴン判決、1937年判例変更ウェストコーストホテル対パリッシュ判決)であるが、その評判の悪さ(それは財産権と契約の自由の強固な保障によるレッセフェール体制に対する左翼の攻撃である)にもかかわらず、雇傭契約の自由、個人主義的自由を擁護した称賛すべき判例であると確信する。
 ロックナー判決は州政府による労働時間規制を無効としたもので、直接的には反労働組合判決ではないが、個別雇傭契約を前提として、労働者黄犬契約規制立法と最低賃金規制などの違憲判断を引き出したことで、反労働組合主義に繋がる性格を有するものと評価してよい。

(2)ロックナー判決の理論的分析
 
 ロックナー判決の理論的分析については中里見博の論文【*4】が詳しい。
 同判決の「契約の自由」法理は、使用者と労働者を、労働契約を結び労働条件を取り決める対等な当事者と捉えて「公共の健康、安全、福祉」の保護、促進を目的とした州の正統なポリス・パワーの行使と認められる場合を除いては、州はその過程に介入してはならないとするものである。
 従ってロックナー判決はあらゆる雇用契約の規制を違憲とする趣旨ではない。具体的な審査基準としては、「目的の正統性」及び「目的-手段の実質的関連性」の審査である。
 この基準は現代では中間審査基準と言われるものだが、後述するようにぺッカム法廷意見をよく読むと中間審査基準より厳格のようにも思える。
 労働時間規制事案の先例としてはユタ州の地下坑並びに製錬工及び鉱石精錬労働の雇用時間を原則として8時間に規制した州法を合憲とした1898年Holden v Hardy169 U.S. 366 ホールデン対ハーディ判決がある。ホールデン判決は立法府判断、権限を尊重し、司法部の介入の抑制を強調していたにもかかわらず、ロックナー判決がこの先例を覆してはいない。中里見博の次の指摘が重要である。
 ホールデン判決は科学的・実証的事実なしに、「新鮮な空気と日光を奪われ、悪臭と高熱‥‥」に晒される地下坑内労働が労働者の健康にとって有害であることを認め、鉱工業業者と労働者とは経済的に不平等な立場にある事実を立法府が認めたことを受入れ、労働者の健康を保護するために、労働時間規制を認めたものであった。ホールデン判決における立法府判断の尊重とは、坑内労働における健康保護と労働時間規制の合理的関連性について、科学的・実証的な事実に基づいて判断を下したことを尊重するという意味ではなかったのである。
 それは州政府が鉱工業を特別に危険な職業と見倣して立法府規制を行ってきた伝統である。加えて「これらの法律の幾つかの州で、繰り返し裁判所により執行されてきた」コモンローの存在が決め手になっている。(v.167335頁)坑内労働が立法府規制の伝統のある領域であったことから、すんなり合憲判断となった。(ただしブリューア・ペッカムの2判事は反対)
 中里見博は、ロックナー判決の意義について第一に、「目的-手段」の合理的関連性の挙証責任の転換と言っている。つまり、「目的-手段」は著しい不合理がなければ合理性を推定するというのではなく、立法を支持する側が、積極的に「目的-手段」の関連性を立証しなければならない。それ自体は中間審査基準といわれるものだろうが、しかし次の点でロックナー判決は厳格司法審査に近いともいえる。
 ペッカム法廷意見の「労働時間が制限されなければ、公共の健康ないし労働者の健康に重大な危険が生じるといえる、公平で合理的な根拠がない限り」という文言は一見して、科学的実証的根拠を求めているように読めるが、証拠の列挙だけでは立法を支持されるものではないことが、次の文言で分かる。「自由を侵害する法律を支持するには、健康への幾らかの有害性がある可能性についての事実が単に存在する以上のものが必要である」。v.167343頁
 「事実以上のもの」とは著者によると「共通の認識」である。「当該規則(労働時間規制)は共通の認識knowlegeからして、製パン工場及び製菓工場における労働が健康に有害であると言うことができなければ、支持され得ない」「共通の理解からして、製パン業が労働者の健康を害する職業であるとは決して考えられてこなかった」としている。v.167342頁
 従って、中里見博は、ロックナー判決は、科学的・実証的立法事実に基づいた審査ではなく、伝統に基づく審査と述べている。ハーラン判事が証拠の列挙と外国立法の例を挙げて反対意見を記しているが、http://straylight.law.cornell.edu/supct/html/historics/USSC_CR_0198_0045_ZD.htmlそれだけでは駄目なのである。外国立法については論外に思える。
 つまり、社会通念から見て、製パン工場及び製菓工場が、鉱山の坑内労働のように特別に危険で有害な仕事とは認識されていないから、このような一般的職業では、労働時間規制を支持できないと言うことだろう。
 この司法審査は堅実に思える。というのは中間審査基準の「目的-手段」の実質的関連性には問題点がある。証拠やデータ、公衆衛生について裁判官が主観的に解釈しがちになるので不安定になりやすいことを防止しているのである。伝統に基づいた審査によって、安易に契約の自由が侵害されることとしている。それは伝統的な法秩序を安易にくずさないということであり、コモンローによって自由が保障されるという考え方に通じる。
 パン焼きは古代メソポタミアから始まっている。ポンペイ遺跡ではパン屋が発掘されている。製パンは古代から職業として存在しているが、鉱山坑内労働のような危険な職業と認識されたことはなかった。なるほど、ニューヨークの製パン工場はアパートの地下にあって不衛生であったかもしれない。しかし、作業環境を規制して衛生的にする州法を裁判所は否定していない。
 常識的に考えてもロックナー判決は妥当な判断である。週60時間労働は格別長時間労働とはいえない。例えば中西部鉄鋼業の場合、当時は一日12時間週7日労働制が一般的であるから、週84時間労働だった。
 現代においてホワイトカラー、知識労働者や専門職は週60~70時間はあたりまえだろう。例えば先例の下調べに十分な時間をかけ慎重な司法判断をとるこででよく知られているロー対ウエード判決で著名なブラックマン判事は最高裁就任当時の評判として、判事は、平日10時間、土曜7時間、日曜4時間きっちり仕事に就くという。週61時間である。
 あえて、ロックナー判決の法理に異論をはさむとすれば、イギリスのコモンローの「営業制限の法理」との整合性に言及していない点である。

(3)ロックナー判決はもはやアンチカノンではない

 1937年のウェストコーストホテル対パリッシュ判決で、明示的にロックナー判決が判例変更されて以来、合衆国最高裁は経済的自由の規制については立法府の判断を尊重して合憲判決を下しており、ロックナー判決は、ニューディール主義の福祉国家を是認する憲法学によって長い間、アンチカノンと評価されてきた。
 アンチカノンとは主要な判決であるが、憲法修正や判例変更で規範性が否定された悪名高いワースト判決のことであり合衆国議会は連邦の領土内で奴隷制を禁じる権限がないとした1857年ドレッド・スコット対むサンフォード判決、旅客列車車輌の黒人と白人の分離を合憲とした1896年プレッシー対ファーガソン判決などと並んで、司法部の過ちとして扱われ、憲法学者の主流はそういう見解だった。
 つまり従来はロックナー判決で反対意見(特定の経済理論、スペンサーの社会進化論を公定するようなものと批判した)を記したホームズ判事が圧倒的に支持され、適者生存の社会進化論に基づく形成する(私は適者生存で良いと思ってる)ものだと批判されてた。
 ロックナーをアンチカノンとしたのは、法実証主義、ニューディール・リベラル派の陣営のみならず、保守派においてもウォーレンコート以後の司法積極主義を批判する趣旨から実体的デュープロセスを批判する論調が主流であった。
 しかし、近年のロックナー再評価はホームズ判事による中傷を支持する考え方が古くさい見解になりつつあるということだ。法学者の議論ではロックナー判決をアンチカノンとするのは過去のドグマになりつつあるのだ。
 その嚆矢は1980年以降、保守派の論客サンディエゴ大学ロースクールのB・H・シーガン Bernard H. Siegan教授(故人)がロックナー判決は憲法の正当な解釈で復活すべきだと主張したことである。シーガンの業績が大きいのだが、その影響によりロックナー判決擁護者・好意的な学者は増えている。Randy Barnett, Richard Epstein, Ellen Frankel Paul, Roger Pilonといった、リバータリアン系の学者に限らず、思想的立場の異なる広範な法学者がロックナー判決を再評価しているhttp://volokh.com/posts/1144178362.shtml#searchsite
 リベラル派においても評価されている。ロックナー判決は自らのビジネス、雇用契約の自己統治を、政府からの干渉から守った判決なのであるが、それがあったからこそ、子どもの教育に関する自己統治を守った1923年マイヤー判決や、1925年ピアース判決があり、夫婦生活の自己統治を守ったグリズウォルド判決があったとみるならば、ガンサー教授が言うように実体的デュープロセスによりパン焼き労働者の雇用契約の自由を守ったロックナー判決も、避妊具を販売し使用する自由を守ったグリズウォルド判決も同類と認識してよいのだ。ロックナー判決は立法府のつまらないパターナリズムからビジネス、雇用契約の自由、私的自治・自己統治を守った趣旨としてとらえることも可能なのである。

(4)ロックナーは再評価されるべき。私的自治が否定され、根拠に乏しい雇傭契約への干渉が常態化している現代社会の方が不健全。

 「契約の自由」は私的自治、とりわけサヴィニーの大陸法的意思理論に由来し、自由放任主義哲学やベンサム主義的功利主義思想により19世紀には一般的な思想であった。
 しかし、契約の意思理論は今日では客観主義に移行している以上古いという評価もある PDF http://www.f.waseda.jp/ksuga/waseda02.pdf。しかし、意思理論は近代市民社会成立の大前提ではないだろうか。われわれが今生活ををしている社会は、私的自治がなければ近代社会ではない。当事者が合意していることに他者や政府がとやかく言うべきことではないという思想。個人の自律性の強調。 自分が義務を負うのは自分が同意している場合という個人主義思想が大前提なのである。
 実際、労働力以外の私有財産の処分、購買行動や私生活上の諸契約について他者や政府に干渉されることはまずない。児童ポルノや覚醒剤でも買わない限りそう簡単に官憲に干渉されないし自由なのである。私が洗剤をスーパーで買うとき、P&Gを買おうが、花王を買おうが、ライオンを買おうが自由であってあつかましくも政府・他者に干渉される筋合いはない。
 
 雇用主との労働時間についてどう合意するかについて、政府・労働組合が労働者保護法や団体協約で干渉していることは雇傭契約の自由、労働力処分の自由の侵害なのである。 これまで反対意見を記したホームズ判事のリアリズム法学や法実証主義が勝利したと専門家は説明してきたが懐疑的にならざるをえないのはホームズの評価は下がっているからである。自己自身が所有する能力と身体こそもっとも重要なプロバディだからである。ゆえに、意思理論による雇用契約の自由は回復されるべきである。
 なぜなら時間給労働者というのは社会的威信の低い職業であり、有能な人なら避けたいと考えるはずである。ホワイトカラーなら時間規制に関係なく、会社のコストにもならずに働けるのがベストである。年俸制度の専門職、知識労働者は時間で働くことはしないし、1日15時間・16時間でも働くしプライドをもっている。例えばウォルマートを世界一の企業にした2代目のCEOでデビッド・グラスは1日16時間仕事に就く。グーグルの女副社長は、9時から夜中の0時までオフィスにいて、3時に寝るのである 
 また大量生産の工業社会において工場の生産ラインのように細分化・標準化され、マニュアル化され割り当てられただけ仕事をする、働く人間に求められたのは均一性であった。しかし、脱工業化社会のポストモダニズム・マネジメントでは人間のもつ知恵や創造性、個性を尊重し、楽しさややりがいといった感情に基づくモチベーションを推進力とし、顧客に対して今までにない献身的な人的サービスをつくりだしている。こうした時代には時間規制になじまない職種が増えているのである。

 今日、古典的自由主義の立場から、契約の自由を主張する著名な論者としてシカゴ大学ロースクールのエプステインRichard Epstein教授が挙げられる。同教授は「何人も自分自身を所有し、自らの労働を自らの望む条件で自由に利用する権原を有する」という見解述べているがロックナー判決の理論をより純化した思想といえるだろう。同教授の見解は徹底していて1930年代のノリス・ラガーディア法、ワグナー法(全国労使関係法)、公正労働基準法は廃止するのみならず、1964年公民権法タイトル7などあらゆる雇傭契約に干渉する制定法を廃止すべきとし、労使関係は伝統的コモンローの不法行為法と契約法の賢明な制度に代わられるべきと主張している【*5】。

  エプステインの基本的な考え方は、労働法など様々な規制による複雑な法システムを構築することによって社会正義を確立するという考え方を排除する。社会介入の道具・手段としての制定法が増大・複雑化するにつれ、法の機能不全が生じ本来個人の福祉や自由を擁護すべき法が逆にそれらを侵害するという現象、非効率な法的ルールによって拘束され個人の自由が侵害されていることを批判する。
   このためには、個人の自律や私有財産権などの単純なルールによって、法に干渉されずに個人が自由に活動出来る私的領域を確保し、インフォーマルな規範が正確に機能するための領域を確保するというものである。これはハイエクの自生的秩序論と類似した考え方であるが、次の七つの単純なルールを提唱する。
 1.自己所有権または自律
 2.無主物先占
 3.自発的交換=契約の自由
 4.侵害に対する保護=不法行為法
 5.緊急状態における限定された特権
 6.正当な補償に基づく公共目的のための財産の公的収用
 7.比例課税による再分配プログラム【*6】


 私は大筋で同意するが、独占禁止法を批判するリバータリアンとは意見を異にする。17世紀以来の営業制限の法理が王道と思っているので独占放任自由主義には強く反対で反独占自由主義を支持する。カルテルの自由を容認したことから、ドイツは全体主義になだれこんだ教訓に学ぶべきである。独占禁止法は労働組合をも適用するかたちで必要であると考える。またレイバー・インジャンクションは絶対必要だという立場でピケッティングの規制はエプステイン以上に厳しい考えをとりたい。したがって、エプステインほど単純なルールは主張しない。しかし、エプステインの見解は人を引きつけるものあり、特に我が国の行政主導の制定法によるパターナリスティックな介入のもたらす危険性に無頓着な我が国の現状に於いて示唆的である【*6】。

自己所有権 


エプステインの自己所有権または自律が法制度の根幹であるべきという主張は基本的に同意する。我が国の民法典においては、財産とは「物」であって「人」は含まれないということはこの際、重要な問題ではない。
 労働力は商品であることを否定したのは労働組合の主張だった。つまりアメリカではAFLのサミュエル・ゴンパースが、シャーマン法の労働組合への適用に反対する方便として主張したに過ぎないのである。共謀により労働力取引の自由を制限するのが労働組合の本質であるから、それが取引制限であり営業の自由の侵害という非難をかわすためである。しかし、労働力が商品であることを否定したら、それは身分制社会か奴隷制社会に逆戻りするしかない。労働力が商品である以上、その取引の処分権は財産というほかない。 イチローは東北大震災で一億円の義援金を出すいう。シアトルの郊外に豪邸もあるから相当な物的財産を有しているだろう。しかしもっとも重要な財産はイチロー選手自身の身体能力であったはずである。それがなければ同選手は業績や財産を残すことができなかった。
もっとも大リーグは保留条項があるので本当の意味での契約の自由はない、それ自体は問題であるが、財産を獲得するための労働する能力が自己自身によって所有され、雇傭契約により労働力を処分する個人の自由ほど重要なものはないという認識に立つ。
現代は身分制社会でも共産主義社会でもないのである。自己自身の身体と頭脳を自らを所有し、自らの運命を自らがコントロールできなければ、社会で成功することも、貢献することもできないからである。宗教的・倫理的に言えば内なる良心にしたがって生きることはたとえ仮に客観的には失敗してとしても悔いることはない。むろん人間が神に対して傲慢であってはならないが、他者に卑屈になるのも誤りである。良き人は自らの霊性の向上(真理や摂理に適う行動を自然にできる能力の向上)に不断の努力を行っている。私はケンブリッジ・プラトニストの哲学に好意的な立場であるから。他者や政府のパターナリズムは実は合理的判断でないことが圧倒的に多い。自己自身の事柄について最善の判断をとれるのは常に自己自身の内なる良心であり霊性の判断であるから。
 しかしながら、私は、リバタリアンの主張する自己所有権テーゼを是認することについては慎重な考え方である。狭義の自己所有権つまり身体所有権は是認する。しかし広義の自己所有権である労働所有権というのが理解しがたいのである。
 従って、ここでは容認している自己所有権とは自己自身の労働力処分の自己決定権、人格的自律のことである
また、宗教的・哲学的には自由意思を認めない立場であることを申し添える。つまり自由意思の否定が正統思想である。人間の自由意思は思い上がった思想だということ。人間はそもそも倫理的に致命的に腐敗しているという西洋文明1500年の確信である。「望む善を行わず、望まない悪を行っている(ロマ7:18~ 19)」良心的な人は常に悩んでいいる、何故善を尽くせないかと。パウロも悩んだ、アウグスティヌスも悩んだ、そしてルターも悩んだことである。神の恩寵なくして善を為すことは出来ないという結論である。
そのように人間の自由意思を否定するが、善を為すために倫理的に腐敗した他者に妨害される理由はないという意味で、自己所有と自己決定を尊重しなければならないという趣旨である。
 エプステインは自己所有権の正当化と難しい問題について反対のルール、共同所有の運営上のコストと弊害から正当化する。共同所有が生産活動を妨げる劣悪な誘因となるとしている【*6】。
 雇傭契約に干渉する第三者、政府(労働者保護法など)。労働組合(団体協約)は実質的に私の労働力取引処分の共同所有者になっているが、望まない拘束的ルールを強要することになって、能率を妨げ、ひいては私自身の内部労働市場で評価を下げ、不利益をもたらすのである。

 自発的交換のルール

 エプステインの自発的交換(契約の自由)のルールには全面的に同意する。自発的交換でなくして相互利益はあり得ない。雇傭契約も同じことである。ところが今日の規制社会においては団体協約や労働者保護法によって雇傭契約における自発的交換のルールが否定され、第三者が干渉する非効率な拘束的ルールが支配する。典型的には日本の労働基準法の三六協定のような規制である。
 一つの例を挙げると、過半数労働組合との所定時間外労働の協定で、一日5時間以上の超過勤務、週休日変更、土日出勤は労働組合との事前協議とされるが1週間前に出さなければならないみたいなインフォーマルなルールにより事実上、事前協議にもちこまないで拒否されることがわかっているから、申請もしないし、しかし、仕事しなければ業務が回っていかないので、それをやっていたら、協約違反で上司から土日出勤の禁止と平日5時間以上の残業の停止を指図され酷くしかられたことがある。事実上の出勤停止処分にひとしい。
このために業務が著しく遅滞する著しくストレスを抱え込むことになった。さらに、どうしても家族の都合で平日に休みをとらなければならないことがあって、しかし、1日休むと業務が遅滞するので週休日変更を申し出でもそれもだめだと。そもそも職務分析も職務記述書も何もなく上司も仕事量も内容も把握せず、事実上の間接管理で管理職は他の職員がさぼろうが、何していようが口を出せない場で、多くの仕事を抱え込んで、土日出勤を含め週70時間働いてなんとか、業務が回っていたのであるから、平日出勤だけでは、デッドラインを切れることがじばしばあって、上級部署との信用を失った。それまで困難な仕事を短期間でよくやってくれたとおほめのことばもいただいたいたのに、内部労働市場での評価と実績を失うこととなったわけである。私にとっては大きな不利益になった。
 労働組合は、制限された仕事、業務量と労働時間でできるだけ高い報酬を得ることしを基本としているが、内部労働市場での競争主義を否定している。しかし、現実問題として、ホワイトカラー的業務は実績と内部労働市場での評価がすべてである。上司は1年ほど部下だとしても、それで終わりであり、実務の指揮もしていないから基本的に関係なく、実際は上級部署の担当者との信頼関係が重要であって労働時間を制限されて仕事が期限内におさまらなくなって信用を失う打撃は大きいのである。これまで築いてきたものを失わうとともに、ドラッカーのいう達成感を与えられない疎外された労働を強いられたことになる。
 ホワイトカラー的、運営的業務は長時間労働は苦にならない。むしろ集中して仕事のできる日曜に出勤してサザエさんの時刻に働くほうが爽快感がある。日本電産の永守社長のように元旦以外毎日出勤で元気にやっている意味がわかったくらいだから。時間給労働者とは性質の違う仕事は、本来労働協約の労働時間の拘束的ルールになじまないにもかかわらず、非効率な拘束的ルールの支配で、やる気を失わせ深刻な不利益を受けるのである。
 7月の海の日の絡む3連休で予算編成業務でしかも新規事業がたくさんあって、平日は経常業務もとぎれることなくあるのだから出てきてあたりまえ、だめだ、だめだと無理をいうから非常に不愉快な思いをした。時間給労働者扱いで見下されるとともに、仕事をやめろだの出勤停止だのといわれるのは、実質業務遂行の妨害であり、目標管理制度で成果を上げることも妨害されていたわけである。粉骨砕身仕事に励んでも協約の拘束ルールにあわせないから協調性がないの一言で低い評価とされ、同僚からの信用も失うから踏んだりけったりである。

 労働条件の拘束的ルールからオプトアウトできる個人の権利があればよいがそれがない(イギリスではEC指令りの週48時間から適用除外できる制度がある)。こちらは裁量労働制もしくは時間外労働の手当適用除外のほうがずっと働きやすいので、自発的な個別労働者との合意による雇傭契約ができるならそれをしたいが、個別契約が禁止されている状況では労働者保護法や労働協約のために大きな実害をこうむっている現状といってよいだろう。のみならず、90年代以降の失われた10年の主たる要因の一つが労働時間規制政策にあることは林=プレスコット説(「時短」により,週当たりの雇用者平均労働時間が,バブル期前後で44時間から40時間に低下したこと,もう一つは,生産の効率性を図るTFP(total factor productivity)の成長率が,90年代の中ごろから低下したこと)により指摘されていることである。労働基準法の改訂による時短が経済低迷の要因であることは有力な学説である。また日本がシャパンアズナンバーワンといわれた時代、残業代不払い訴訟など問題にならなかったのに、2003年に武富士に労働局の強制捜査が入って以来、企業は残業規制が流行し、ますます労働時間の規制が実質的効果をもたらすようになった。さらに性懲りもなく、政府が少子化対策・ワークライフバランス、男女共同参画、男性の家庭責任の分担強化に口実を変えた時短推進政策がとられているのは全くばかげたことである。 

 エプステインは契約の自由を否定する理屈をすべて否定する。搾取、経済的強迫、労働の商品化、雇用者との交渉力の格差などの主張である。労働者に割り当てる利益の取り分が少ないことを理由にして公的機関が介入する取りことは運営上のコストを高めるだけではなく、介入しなければ生じていた利益のある取引を排除し、劣悪な誘因をもたらすものとして批判するのである【*6】。
 アメリカの公正労働基準法は1938年、恐慌による失業率増大に伴い、ワークシェアリングを目的とするものだっさが、大恐慌時代とは状況が異なる以上廃止されるべきであり、日本の労働基準法もまさしく、エプステインが述べるように、高い運営上のコストを課し、劣悪な誘因をもたらし、失われた20年の誘因として廃止されるべきである。

 以上述べたような現代の思潮から、ロックナー判決とロックナー時代は再評価されるべきとそれている。「契約の自由」の侵害として意見ロックナー判決の系統のいくつか判例を取り上げる。(つづく) 

【*1】憲法革命以前の実体的デュープロセス
 合衆国憲法修正14条の 「いかなる州も、適正な(正当な)法の手続きによらないで、何人からも生命、自由または財産を奪われることはない」を適正手続条項、デュープロセス条項という。また修正5条にも「また正当な法の手続きによらないで、生命、自由または財産を奪われることはない」との規定もある。
 修正14条デュープロセス条項の判例理論は1870年代末から20世紀に変わるまでに定式化する。それは先ず手続き的利益の保障であった。それも告知・弁護の機会という最小限の手続きだっが、次第に実体的デュープロセスの理論も進展する。デュー・プロセス・オブ・ロ-、適正な法の過程とは法執行の手続きだけ関する概念ではなく、法の内容にも適正さを要求する概念と主張された。つまり生命・自由・財産を「適正な手続きによらずして」だけでなく「適正な法によらずして」剥奪してはならないとするのである。
 この理論により、個人から生命・自由・財産を奪うことになる実体法の内容の審査、政府の実体的行為が司法審査の対象とされ、裁判所が成文憲法中の特定の明文に依拠せずとも裁判所が基本的性質を有するとする価値を憲法中に織り込み憲法規範として宣言し、それを侵害する制定法は無効された。
 それによると「契約の自由」は基本的かつ不可侵とされ、立法府の干渉は制限されるべきものとされた。 

 最も著名な判決は1905年のロックナー判決だが、その先例ともいうべき「契約の自由」という実体的デュープロセスを根拠に州法を無効にした最初の判例は アルゲイヤー対ルイジアナ判決ALLGEYER v. STATE OF LOUISIANA, 165 U.S. 578 (1897)   http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=us&vol=165&invol=578であった。ルイジアナ州法は、州法に従って州内で事業を許可されていない海上保険会社との保険契約を禁じていた。ぺッカム判事による法廷意見は、州はその管轄内での州政策に反する契約や業務を禁止できても管轄外で締結・実施されるような本件のような契約を禁止できないとした。
  その際「修正第14条にいう自由とはただ‥‥単なる身体の物理的拘束から自由であることを意味するだけでなく、市民が彼のすべての能力の享受において自由である権利をも含むのである。すなわち、彼の才能をすべての合法的方法によって自由に使用すること、彼の欲する所に居住し、勤労すること、合法的である限りどんな職業によってでも彼の生計を立てうること、およびどんな生活でもできまたどんな職業にでも従事することができ、そのために適当、必要かつ不可欠なすべての契約をなすこと、を含むのである」と述べている。
 つまり契約の自由は独立宣言に示される不可譲の権利(自然権)個人の幸福追求の権利の一つだと言っている。自らの労働のうちに有する財産という考え方はジョン・ロックも言ってますが、財産という概念に自身が所有する身体を使って雇用される能力も含む概念になっていることに注意したい。
 
  これは_マグナ・カルタ29条の自由に、営業の自由を読み込んだコーク卿とのアナロジーとして理解出来るだろう。
  更に遡っていくと、「契約の自由」の法理は1873年の屠殺場事件判決における、フィールド判事とブラッドレイ判事の反対意見と、その10年後に判決が下された、食肉業組合対クレセント市商業組合事件における、フィールド判事とブラッドレイ判事の補足意見にその考え方が示されている。
  
BUTCHERS' UNION CO. v. CRESCENT CITY CO., 111 U.S. 746 (1884) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=111&invol=746次のフィールド判事の補足意見は重要である。フィールド判事は闘争的で教条的とも評されるが傑出した名裁判官であり、明晰な文章と不屈の意志で正しいと考える法原則をたゆまず宣言した。
「かの偉大なる文書[独立宣言]において宣言されたこれらの不可譲の権利のうちには、人間がその幸福を追求する権利がある。そしてそれは‥‥平等な他人の権利と矛盾しない方法でなら、いかなる合法的な業務または職業にも従事しうる権利を意味するのである‥‥同じ年齢、性、条件のすべての人々に適用されるものを除き、いかなる障害もなしに職業に従事する権利は、合衆国の市民の顕著な特権であり、彼等が生得の権利と主張する自由の本質的な一要素である。[アダム・スミスは国富論において]『各人が自らの労働のうちに有する財産は、他のすべての財産の根源であり、それ故にもっとも神聖であり侵すべからずものである。貧者の親譲りの財産は、彼自身の手の力と才覚に存するのであり、彼がこの力と才覚とを彼が適当と思う方法で隣人に害を与えることなく用いることを妨げるのは、この神聖な財産に対する明らかな侵害である。それは、労働者と、彼を使用しようとする者双方の正しき自由に対する明白な干渉である。[そのような干渉]は、労働者が彼が適当と思うところに従って働くことを妨げるものである』と述べているが、それはまことにもっともなことである」
 このアダム・スミスの引用は、本来同職組合の営業独占や徒弟制度の入職規制を批判する脈絡であるが、雇用契約・労働力取引の自由は独立宣言に示される不可譲の権利(自然権)個人の幸福追求の権利の一つだと言っている。フィールド判事反対意見から発展したのが、「契約の自由」法理であった。

 ブラッドレイ判事の補足意見も同様であって「人生において通常の職業に就く権利は、不可譲の権利である。それは独立宣言における『幸福追求』の句の下で形成されたものである」とする。

 フィールド判事とブラッドレイ判事の補足意見は少数意見だったが、批判されることはなかったのである。

 実定的デュープロセスは非経済的自由の領域にも拡大する。

 1923年のマイヤー対ネブラスカ判決Meyer v. Nebraska, 262 U.S. 390
http://straylight.law.cornell.edu/supct/html/historics/USSC_CR_0262_0390_ZO.htm
では、私立学校のドイツ語教師が州政府によって職業を奪われない権利から進展して、親が子どもの教育をコントロールする権利、監護教育権も実体的デュープロセスとして憲法上の権利とした。この判決はウィルソン任命でありながら、保守派の陣営に与したことから「最も反動的な裁判官」と称されるマックレイノルズ判事が法廷意見を記し、実体的デュープロセスを認めないホームズ判事が反対意見に回って、教師マイヤーの切実な訴えを認めない非情な人間であるたこと示したことからも注目してよい判例から懐の深い先例と評価される。傍論部分で、結婚し家族を構成する自由、信教の自由に言及していることもあり、憲法革命後の一連の人権判例の基礎となった。あらゆる人権体系を包含する懐の深さを示している。それは保守派裁判官によって起草されたマイヤー判決なのである。
 事案は1919年にネブラスカ州が公私立いずれの学校でも8年生までは近代外国語教育を許さないという州法を制定したが、福音主義ルター派教会の教派学校の教師でドイツ語で聖書物語を教えていた、ロバート・マイヤーが州法に違反しドイツ語でを教えたため起訴され、同州法の違法性を訴えた事件である。マイヤーは口頭弁論で、子どもたちが教会の礼拝に出席するためにはドイツ語教育が必要があり、それを禁止するのは信教の自由をも奪うものであることを訴えた。この州法制定は第一次大戦参戦によるナショナリズム高揚が背景にあり、敵国だったドイツ系移民の多い中西部では感情的な迫害がみられた。不当にもドイツ語コミュニティが不穏とみなされたことである。
 マックレイノルズ判事による法廷意見は、ドイツ語教育自体の有害性はなく、同質な人民の育成を目的とする本件州法は州の権限を逸脱する。同州法は憲法修正第14条デュー・プロセス条項に反し、外国語教師の職業、生徒が知識を獲得しようとする機会、および自己の子どもの教育をコントロールする親の監護教育権を実質的に侵害すると判示したのである。職業を不当に奪われない権利、親の監護教育権の重要な先例として人権判例で多く引用される。また傍論で、幸福追求に関わるコモンローが長い間認めてきた特権を享受する個人の権利を裁判所は擁護することを宣言した。
 すなわち修正第14条の自由とは「疑いなく、身体的拘束からの自由のみならず、契約の自由、生計を営むための職業に従事し、有益な知識の習得し、結婚し家庭を築き、子供の育てること、自らの良心の従った神への礼拝、自由人による秩序正しい幸福追求の権利にとって不可欠なものとしてコモンローが長い間認めたきたこれらの特権を享受する個人の権利」を含むことを明らかにした。
Without doubt, it denotes not merely freedom from bodily restraint, but also the right of the individual to contract, to engage in any of the common occupations of life, to acquire useful knowledge, to marry, establish a home and bring up children, to worship God according to the dictates of his own conscience, and generally to enjoy those privileges long recognized at common law as essential to the orderly pursuit of happiness by free men.
 
 1925年のピアース対修道女会判決 PIERCE V. SOCIETY OF SISTERS, 268 U. S. 510 (1925) http://supreme.justia.com/us/268/510/case.htmlにおいては、オレゴン州法における全ての児童は公立学校に通学させなければならないという要件を無効として、都立学校で教育させる親の権利を憲法上保障した。
 事案は、1922年オレゴン州のは8歳から16歳の子どもを必ず公立学校に通わせなければならないという義務教育では、公立校に通わなければ軽犯罪とみなし、罰金や投獄の処罰を受けることになった。それに対し、1ソサイエティー・オブ・シスターズ (Society of Sisters of the Holy Names of Jesus and Mary)はキリスト教主義学校などで子どもを学ばせる権利の侵害のため、当時のオレゴン州知事ウォルター・ピアスを訴えた。最高裁は「1922年の法案は保護者が子どもの教育方針と育児環境を決定する自由を侵害するものである」とした。マックレイノルズ法廷意見は、同州法は、「自己の監督下にある子どもたちの養育と教育を管理する親および後見人の自由を不当に侵害する」、および「子どもは州の単なる被造物ではない。子どもを養育し、その運命を決定する者は、子ども自身が将来担うべき義務を認識させ、その準備をさせる高度の義務を伴う権利を有している」と述べた。
 ここに至って、憲法修正14条の自由は、契約の自由、不当に職業を禁止されない権利のみならず、私立学校で子供を教育させる親の監護教育権も自由に包含された。
 この二つの判例は、教師という職業に就く個人の権利を擁護したことで、経済的自由に関連していてロックナー判決に繋がる系統の判例であるが、経済的自由から、子どもをキリスト教系私立学校に通わせ教育させる親の監護教育権の保障を引き出し、間接的に信教の自由の保障する意義も認められる。さらに公立校独占の画一的な教育を司法部が否定したのである。
アメリカが全体主義体制になだれこまない歯止めにもなった意義を認めてもよいだろう。

引用-参考

石田尚『実体的適法手続』信山社出版 1988
田中英夫『デュー プロセス 』東京大学出版 1987
町井和朗『権利章典とデュープロセス』学陽書房1995
ウイリアム・H・レーンクィスト著 根本猛訳 『アメリカ合衆国裁判所 過去と現在』心交社1992
スティーブン・フェルドマン著猪股弘貴訳『アメリカ法思想史』信山社出版2005
ラッセル・ギャロウェイ著佐藤・尹・須藤共訳『アメリカ最高裁判所200年の軌跡 法と経済の交錯』
八千代出版1994
宮下紘「プライヴァシーという憲法上の権利の論理」『一橋法学』4巻3号 2005-3http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/8665
山口亮子「親の権利についてアメリカにおける家族のプライバシー議論からの一考察」http://law-web.cc.sophia.ac.jp/LawReview/contents/4803_04/4803_04yamaguchi.htm
ウィキペディアの「インディペンデントスクール」

【*2】州際通商条項
 合衆国憲法第1条8節3項は外国との通商及び州際間の通商、及びインディアン部族との通商を規制すること。を定めている、合衆国憲法の構成原理によれば、連邦議会制定法は連邦議会の権限の行使であるという憲法上の基礎を欠けば効力はなく、権能はその分、州または合衆国の人民に留保されている。
 問題は州際通商の解釈である。Gibbons v. Ogden, 22 U.S. (9 Wheat.) 1 (1824)によれば「通商」Commerce という言葉の意味は traffic(交易―売買、商取引)や buying and selling(売買)や interchange of commodities(商品交換)に限定されるのではない。一般的にいうと,連邦議会は,commerce clause に基づいて、と州とのあいだの通商の手段である交通機関・通信手段についても規制することができる。
「州際(among the several States)」 という言葉は,複数の州が関係する通商という意味に限定するのが適切である。州内の通商については,他州に影響を及ぼすことのない、完全に当該州内の通商は含まれない。
 PDF http://www2.kobe-u.ac.jp/~emaruyam/law/faculty/2009/090629memo.pdf
 州際通商規制権限を狭く解釈した判例として著名なのは United States v. E. C. Knight Co., 156 U.S. 1 (1895) シャーマン反トラスト法とアメリカン製糖会社の株式取得(合衆国内の製糖事業の98%に及ぶ)をめぐる事件。極保守派のフラー首席判事の法廷意見は製造(manufactures),農業(agriculture),鉱業(mining)における規制は州の内部事項管理権限であるとして,シャーマン法に基づく合衆国による株式取得差止めを認めなかった。Hammer v. Dagenhart, 247 U.S. 251 (1918)は重要判例なので本文で取り上げる。
【*3】別冊ジュリスト№139 32巻4号『英米判例百選』第三版 平成8年LOCHNER v.  NEW YORK
【*4】「合衆国最高裁判所における女性労働『保護』法理の成立(2)完 : 最高裁判所のジェンダー分析に向けて」名古屋大學法政論集. v.167, 1997http://hdl.handle.net/2237/5741 「合衆国最高裁判所における女性労働『保護』法理の展開 : 女性最低賃金法違憲判決のジェンダー分析名古屋大學法政論集. v.171, 1997,http://hdl.handle.net/2237/5781
【*5】Richards A Epstein "A Common Law for Labor Relations 1983 水町勇一郎『集団の再生-アメリカ労働法制の歴史と理論』有斐閣2005
【*6】橋本祐子『リバタリアニズムと最小福祉国家―制度的ミニマリズムをめざして』勁草書房2008年 第三章第1節

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