第1回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/lochner-era-194.html
第2回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/lochner-era2-89.html
第3回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/lochner-era-48d.html
ロックナー立憲主義(自由放任立憲主義)の形成-実体的デュープロセス法理形成の法制史(1)
(1)クーリーのclass legislation(クラス立法)はデュープロセスに反するという法理論
実体的デュープロセス法理形成の法制史については、田中英夫の先駆的研究【*1】があるが、北大教授の常本照樹【*2】が19世紀の法理の展開を比較的詳しく論じており、ネットでも公開されているので参照されたい。私が思ったことは実体的デュープロセス法理もつきつめれば、英国国制論争、コーク卿のマグナカルタの解釈までその由来を遡ることができると言うことである。
「契約の自由」を取り込んだ実体的デュープロセス法理形成の立役者は、クーリーThomas M Cooley と連邦最高裁判事フィールドStephen Johnson Field であるといわれる。
最低賃金立法違憲判決である1923年アドキンズ対児童病院判決で「自分の事柄について契約する権利は、修正第5条によって保護された個人の自由の一部である。絶対的な契約の自由のようなものは存在しないが、自由が原則で制限が例外である。」【*3】と述べた4騎士の代表格である連邦最高裁判事サザーランドGeorge Sutherland に興味がもたれるのも彼がミシガン大学でクーリーの薫陶を受けていたためである。
クーリーもフィールドも民主党に属し、連邦派の特権階級の利益擁護を非難したアンドリュー・ジャクソンの支持者とされている。従って、 実体的デュープロセス法理は資本家のために考案されたものではないし、むしろ反対であり、階級・階層を問わず、新しい独占権や排他的特権の付与を嫌悪する思想に立っていると理解すべきである。
もっと単純に言ってしまえばクーリーのclass legislation(クラス立法)はデュープロセスに反するという法理論が重要な意味をもっていた。
1868年クーリーの著作A Treatise on the Constitutional Limitations Which Rest upon the Legislative Power of the States of the American Union は州裁判所(後に連邦最高裁判
所)への影響は甚大だった。
それは具体的個人やグループのみならず、抽象的な社会的クラスも含め、それらのみを害する立法は原則として立法権の正当な行使とはいえないとするものである。
その核心部分は 「市民のあるクラスのために作られ、その性格が全く恣意的であり、そして市民の権利、特権または法的能力を、それまでに法的に採用されたことのないやり方で制約する立法が、かりに(適用上の)一般性を有しているとしても、有効といいうるか否かについての疑問が生じうるかもしれない。これらの点における区別は、それはやむをえないこととする何らかの理由に基づいていなければならない。‥‥(例えば)未成年者、精神異常者などの法的資格の欠格のように、そして、もし議会が、何らかの合法的な営業を行っているか雇用を受けている人々に対し、契約を締結したり、不動産の譲渡を受けたり、もしくは他の人々に許されているような家を建てたり、あるいは、何であれ他の人々には許されているように自分の財産を用いたりすることを禁ずるような場合には、そのような立法は、かりに憲法の明示的規定には反していなくても、立法権の適正な範囲を逸脱していることはほとんど疑う余地はない。当該コミュニティ全体が許されているやり方での財産の取得、享受を禁じられた人もしくはクラスは、彼もしくは彼らの『幸福追求』にとって特に重要な自由を奪われたことになるのである。」【*4】というものである。
これは独創的理論ではない。それ以前の州判例を渉猟しそれらを基礎に書かれた堅実な理論であった。伝統的なSpecial legislation(特殊利益立法)の禁止の観念を継承したものである。
Speecial legislation否定の伝統の源流について常本照樹は「政府の権限は一部特定の利益ではなく公共全体の利益のために行使されなければならないという観念は、19世紀初めまでのアメリカには強く根づいていたといいうるが、その源は17世紀頃のイギリスに求めることができると思われる。その源流の一つは、当時のイギリス国王が一部の商人や「ギルド」に独占的営業権を与えていたことに対し、特権を得られなかった人々が、独占権付与はその他の人々の就業の権利の侵害であるとしてコモン・ロー裁判所で争った伝統である。そして、これと関連するものとして更に「コモンウェルズ」の観念の発達が挙げられる。この観念の要諦は、政府による規制は、特定の少数者や王一人の利益ではなく、公共善、即ち国民全体の利益の増進のためになされなければならないとすることである‥‥これは「真正ホイッグ」の主要な観念であり、アメリカの革命指導者たちに受け継がれたのであった」【*4】。
と述べているが、特定のグループの利益のための規制や特権を嫌うことは英米に限ったことではなく、フランスにおいても1791年ル.シャブリエ法が同職組合を禁止して、同職組合の入職規制や特権を徹底的に排除したことからもあきらかなように、絶対王政から近代市民社会への移行期に共通して見られる価値観ともいえるだろう。
クラス立法とは具体的に何であるか。ここではまず、ロックナー期の著名な3つの判例を取り上げておきたい。
○1921年ツルアックス判決の意義(反インジャンクション立法をクラス立法として違憲とした名判決)
連邦最高裁でいえば、クラス立法を否定した典型的判例が◎ツルアックス対コーリガン判決TRUAX V. CORRIGAN, 257 U. S. 312 (1921) http://supreme.justia.com/us/257/312/case.htmlである。(二次的ボイコットを禁止するレイバージャンクションを認めない争議行為を保護するアリゾナ州法が、合衆国憲法修正第14条のデュープロセス条項に反し違憲とした)
事案は1913年成立のアリゾナ州法が、労働者が雇用者に対して平和的に争議を構える場合、雇用者がレイバー・インジャンクション(労働争議差止命令)を要求しても裁判所はそれを認めないものと定めた。訴訟に持ち込まれた事件は、1916年4月アリゾナ州ビスビーにあるレストラン経営者に対して争議を起こした従業員組合が、レストラン前でピケットを張るほか、レストランの利用を避けるように周辺住民に訴えかけるボイコット戦術をとった行為だった。レストラン経営者は即時争議停止命令の発布を申請したインジャンクション申請に正当性がないことを理由に要請を退けた。
レストラン側はこれを不満とし、アリゾナ州法を違憲性を主張して連邦最高裁に提訴したのものである。
最高裁は5対4の僅差だったが、タフト主席判事による法廷意見は次の二つの判断(財産権の保障と法の下の平等)でアリゾナ州法を違憲とした。(反対ホームズ、ピットニー、ブランダイス、クラーク)
第一に「営業行為は、財産を獲得する行為として憲法が保障する財産権に含まれる実質的な財産権そのものであり、労働者の争議がこの営業行為の妨げとなる場合、雇用者が争議の停止を求めることは憲法的権利である。本事件の場合、レストランのボイコットを第3者に対して呼びかけた行為は営業を妨害した行為である。アリゾナ州法はその種のボイコットを停止させるインジャンクションまでも禁止している点で違憲である」
第二に「憲法起草者または修正第14条は、法の下の平等を謳うことで、特定階級の利益を保護する「階級的立法」を、合衆国憲法の許容する原理から排除している‥‥(1884年のフィールド判事の「階級的立法(クラス立法は禁止される」を引用したうえで)法の平等保護原理は、すべての人々に法の保護が平等であることを求めるばかりか、「類似した状況にあるすべての人に」に対しても法の保護が平等が行き渡ることを求める。財産および財産権の保護は、その権利を受けるという点で同一の状況にあるすべての社会成員に、同様に適用されるべきである。けだし労働争議に限りまた労働者の行動のみに限定して、財産権侵害行為停止を目的とするインジャンクションを禁止することは、特定階級を特別に保護することであり、修正14条がいう平等保護にもとる」【*6】。
このように、タフト首席判事は、クレイトン法20条の立法趣旨を反故にして、1880年代から労働争議抑圧の利器となってきたレイバー・インジャンクションを財産権擁護のために支持することを改めて宣言している。さらに特定の階級を保護するためのクラス立法を断じて容認しないことも述べたのである。
修正14条平等保護条項から、法の下の平等=クラス立法の否定と解釈しているのが特色といえるだろう。
私が思うに、労働・経済立法で、クラス立法だらけになっている現代国家はクラス立法駆逐により浄化されなければならないと私は考える。それゆえツルアックス判決は論理は理想的なものであり、この趣旨に沿って憲法改正構想においては明確にクラス立法否定を盛り込む必要があるだろう【*7】。
クラス立法否定と類似した考え方として昨今では、経済学の公共選択論の概念で、あるグループから他のグループヘ富を移転する法律は社会的な富を全体的に増大させるよりもレント・シーキング Rent seekingと呼ばれ、望ましくないものとみなす考え方がある【*8】。レント・シーキングに類する経済立法を潰すと言うだけでも広範な支持は得る余地は多分にあると考えるのである。
○ 黄犬契約禁止立法も実質クラス立法であり違憲とされた
アメリカでは1932年ノリス・ラガーディア法において黄犬契約を禁止し、我が国では労働組合法の不当労働行為として禁止されているが、黄犬契約は1932年アメリカにおいて1920年代まで、レイバー・インジャンクション(労働争議差止命令命令)と共に労働組合を抑圧する手段のひとつだった。それは契約の自由を取り込んだ実体的デュープロセスとして連邦最高裁が保障したのである。アデア判決とコッページ判決である。そもそもコモンローの随意契約の原則からば雇用主がどのような人物をどのような条件で採用するかは自由であり、雇用主が考える好ましい人を雇用すればよいのであって、第三者の政府や労働組合に干渉されるものではない。むろん当時においては、労働組合が存在しても承認して交渉相手とするか否かは企業の自由であり、労働組合員が嫌いなら採用しないだけである。ところが、政府が労働組合を保護するために、労働組合非加入を雇用条件とすることを強要する立法は、契約の自由に対する専断的干渉であるのみならず、政府が労働組合という特定のグルーブの利益のために特権を付与することになり、クラス立法ともいえるのである。特にコッページ判決は名判決であり、クラス立法として否定されたものではないが、実質的にクラス立法の性格から黄犬契約契約禁止を無効としている。
◎アデア対合衆国判決ADAIR v. U S, 208 U.S. 161 (1908) http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=us&vol=208&invol=161
1908年アデア判決は、1915年コッページ判決と並んで、「契約の自由」というという明文規定はないが実体的デュープロセスとしての憲法上の権利を根拠に、団結団体行動に対する経営支配を排除する立法を違憲と判決したベスト判決と考える。
1898年制定のエルドマン法Eldman Act(連邦法-鉄道法)10条は州際の運搬業労働者を労働組合員であるという理由だけで、あるいは労働組合に加入しない協定にサインすることを拒絶したという理由だけで解雇することを犯罪とし、さらに、争議に参加した労働者をブラックリストにのせて回覧することを違法とした【*9】。
事案はルイビル・ナッシュビル鉄道会社の支配人であるウィリアム・アデアが、O・B・コッページという機関車の火夫を解雇した【*10】。コッページは解雇の理由は黄犬契約の署名を拒否したからだとしてエルドマン法違反として提訴したというものである。
ハーラン判事による法廷意見は州際の鉄道会社の黄犬契約を禁止するエルドマン法は憲法違反と断定した。「コッペイジを、彼が労働組合の一員であることを理由に解雇することは、被告人アデアの権利であった。被告人が労働組合員でないものを雇ったことを理由として、従来従事していたしていた業務から去ることがコッペイジの法律上の権利であったのと同様である。このようなすべての点において、雇傭者と被雇傭者とは権利における平等を有するものであり、この平等を害するいかなる立法も、契約の自由に対する専恣な干渉であり、自由な国においては、いかなる政府も合法的には理由づけえない」【*11】と述べ、修正5条のデュープロセス条項違反として違憲判断が下されている。
ということは、今日において黄犬契約を禁止するアメリカも日本も自由な国家とはいえないのである。ハーラン法廷意見は、解雇する権利と、離職する権利を対比させているので一見わかりにくいがアメリカのコモンローの随意雇用の原則では、雇用主が勝手に解雇する自由がある代わりに被用者が勝手に離職する自由(かつてのイギリスの主従法のように、テイラーは洋服を完成させないで仕事を放棄することによって懲治監に入れられるとかそういうことはない)があることで対等なのである。そのうえで労働の売手が適当と考える条件と買手が買う条件を定める権利は異ならない。労働の買手にとって不利な条件を一方的に呑ます立法は、契約の自由に対する専断的な干渉とするものである。一方で、黄犬契約を望む労働者が使用者と契約する自由を与えなければならないということである。労働組合の本質とは、労働者と使用者との関係、もしくは労働者相互の関係、または使用者相互の関係を規制し、あるいは職業もしくは事業の遂行に制限的条件を課すことを目的としてい。したがってそのような労働組合支配のもとでのジョブコントロール、競争の排除、昇進の可能性の否認を望まない労働者にとっては黄犬契約は望むところだといえるからである。
黄犬契約の自由を述べたアデア判決は今日主張されている団結権・団体行動権なるものを否定するものとして大きな意義を持つ。黒人解放の先駆、偉大な少数意見裁判官として知られロックナー判決で反対意見に回ったハーランが法廷意見を記し、反労働組合判決の起草者であることでも有意義な判決である。反対-マッケナ、ホームズ。
なお、この判例は1926年鉄道労働法を合憲とした×Texas & New Orleans R. Co. v. Brotherhood of Ry. Clerks, 281 U.S. 548 (1930) http://supreme.justia.com/us/281/548/case.htmlにより黙示的に判例変更されるまで20年以上効力を有した【*12】。
◎コッページ対カンザス判決COPPAGE v. STATE OF KANSAS, 236 U.S. 1 (1915)
http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=us&vol=236&invol=1
カンザス州は、使用者が、雇用の条件として黄犬契約の締結を労働者に求めることを禁じる州法を制定した。事案は、カンザス州フォートスコットにあるフリスコ鉄道の管理人であるT・B・コッページは、ヘッジイスという転轍手に転轍手組合から脱退するか、職場から去るよう求めた。ヘッジイスはこれを拒否したため、コッページは鉄道会社を代理して彼を解雇した【*13】。
ピットニー判事による法廷意見は、アデア判決に依拠して、問題のカンザス州法を合衆国憲法修正14条のデュープロセス条項に反し違憲と判決し、労働者側は経済上の弱者であって労働の売買は対等な立場で行われていないゆえ、黄犬契約禁止を認める州裁判所の見解を排除する優れた理論を示している。要するにに団結権思想に道理など認めないきっぱりした姿勢を示したことで最良の判決といえる。
「個人の自由の権利および私的財産の権利に含まれているものは、‥‥財産取得のための契約をなす権利である。かかる契約の中で主要なものは、労働その他の報仕が金銭あるいはその他のかたちの財産に変わる所の、個人の雇用契約である。もしもこの権利が破壊あるいは専断的に干渉されるならば、長い間確立されていきた憲法的意味における自由の実質的侵害である。この権利は、資本家に対してと同様に、労働者に対しても重要である。‥‥現在考察しているように、この自由に対する非常に重大な干渉および平等な権利に対する非常な侵害は、それは州のポリスパワーの合理的行使として支持されうるのではない限り、専断的であると考えなければならない。‥‥われわれは、当該法律は、‥‥ポリスパワーの正当な行使として支持できるとは考えない‥‥ポリスパワーは広範であり、それを定義することは容易ではない。しかし本件で主張されているように、それに広い範囲を与えるならば、結果として、憲法上の保障をゼロにしてしまう。‥‥ポリスパワーは、本質的に、公衆の健康・安全・道徳あるいは公共の福祉を保護するために行使されうるものであり、かかるポリスパワーによる規制は、合理的に契約を結ぶ権利を含む個人の自由の享受を制限することができる。‥‥〔しかし〕単なる自由権あるいは財産権の規制は、そのままでは『公共の福祉』と称されないし、ポリスパワーの正当な目的として扱われない。何故ならば、かかる規制は修正〔14条〕によって禁止されている所のものだからである」【*14】
つまりここでは、ポリスパワーとは人や物を規制する州の権限であるが、契約の自由はポリスパワーに正当な目的があり、その手段の合理性が実質的に関連していないかが厳しく問われたうえで規制できるが、単に契約の自由を否定することは修正14条によって禁止されるという原則論を述べているわけである。
次に労働者側は経済上の弱者であるから、財産を有する者の権利を制限することによって労働の売買の対等性を確保するために黄犬契約契約禁止が必要だとする立法目的を審査し、ピットニー法廷意見は次のように言う。
「実際、少し考えれば、私的所有の権利と自由な契約の権利が共に共存するところでは、当事者は契約をする時、他方より多く財産を持っているか、少ないか、または全く持っていないという問題によって影響を受けることは避けられない。‥‥全ての物が共有されない限り、ある人々が他の人々よりも多くの財産をもつことは自明であるので、契約の自由と私的所有を認めるならば、同時に、これらの権利の行使の必然的結果である財産の不平等を正当と認めなくては道理上うまくいかない。‥‥修正第14条は『リバーティ』と『プロパーティ』を共存する人権と認めており‥‥」と述べ立法目的の審査で難点を示している【*15】。
そして問題のカンザス州法は「財産をもつ者からその一部を奪うことによって富の質を平等化するという想像可能な望ましさを越えたものであり、(州の権限である)健康、安全、道徳または福祉には関係ない」【*16】と述べた。反対-ホームズ、デイ、ヒューズ。
要するに労働組合を保護することは、人や物を規制する州の権限であるポリスパワーの正当な行使ではないとされた。私が思うにこの見解に立てば、団結権も団体行動権も契約の自由を侵すもので合法化はありえないことになる。
私有財産権の存するところには富の不均衡はつきものであり、あらゆる契約で当事者双方が平等な立場に置かれるとは限らない。契約や私有財産権の自由を守りながら、これらの権利の行使に必然的に伴うことになる富の不均衡の合法性を認めないということは、事理に反するとしたのである。契約当事者の交渉力の対等性などありえない。元請けと下請けの関係、大企業の押し込み営業、あらゆる契約に交渉力の格差はつきもので、それを否定すれば社会主義となってしまう。現代においては古典的自由主義者シカゴ大学ロースクールのエプステイン教授がピットニー判事と同様の趣旨を述べている。
私は上記2判決の法理論に全面的に賛成であり労働組合法の黄犬契約契約禁止は、契約の自由の否定によってなりたっているもので不当である。のみならず、それは組織労働者という特定のクラスを保護するクラス立法として不当なものであると考える。
我が国で憲法の私人間効力を否定した著名な判決に、昭和48年三菱樹脂採用拒否事件最高裁判決( 民集27巻11号1536頁 )がある。事案は昭和38年に原告・高野達男が三菱樹脂株式会社に、将来の管理職候補として、3ヶ月の試用期間の後に雇用契約を解除することができる権利を留保するという条件の下で採用されたが、大学在学中に学生運動に参加したかどうかを採用試験の際に尋ねられこれを否定したものの、その後の三菱樹脂側の調査で、原告が60年安保闘争に参加していた、という事実が発覚し、「本件雇用契約は詐欺によるもの」として、試用期間満了に際し、原告の本採用を拒否した。これに対し、原告が雇用契約上の地位を保全する仮処分決定を得た上で、「本採用の拒否は被用者の思想・信条の自由を侵害するもの」として、雇用契約上の地位を確認する訴えを起こしたものである。
最高裁多数意見の要所を引用すると「(憲法)22条、22条等において、財産権の行使、営業その他広く経済活動の自由をも基本的人権として保障している。それゆえ、企業者は、かような経済活動の一環としてする契約締結の自由を有し、自己の営業のために労働者を雇傭するにあたり、いかなる者を雇い入れるか、いかなる条件でこれを雇うかについて、法律その他による特別の制限がない限り、原則として自由にこれを決定することができるのであって、企業者が特定の思想、信条を有する者をそのゆえをもって雇い入れることを拒んでも、それを当然に違法とすることはできないのである。憲法14条の規定が私人のこのような行為を直接禁止するものでないことは前記のとおりであり、また、労働基準法3条は労働者の信条によって賃金その他の労働条件につき差別することを禁じているが、これは、雇入れ後における労働条件についての制限であって、雇入れそのものを制約する規定ではない。また、思想、信条を理由とする雇入れの拒否を直ちに民法上の不法行為とすることができないことは明らかであり、その他これを公序良俗違反と解すべき根拠も見出すことはできない。」である。
もし、本件のような事例で私人間効力を是認してしまうと、私的自治と経済的自由の近代市民社会の大原則が崩壊してしまうのであるから妥当な判決である。
「自己の営業のために労働者を雇傭するにあたり、いかなる者を雇い入れるか、いかなる条件でこれを雇うかについて‥‥原則として自由にこれを決定することができる」から学生運動をやってたことが気に入らないから本採用を拒否するのも雇用主の自由裁量であり、民法上の不法行為でもないということは、本質的には労働組合は気に入らないから黄犬契約契約するのも本来自由であることを示唆するものとして理解できる。それが本来の自由企業体制というものではないだろうか。
【*1】田中英夫「私有財産権の保障規定としてのDue Process Clauseの成立-1--2--3--4--5--6--7-」『國家學會雑誌』69巻1.2号 1955、70巻3.4号 1956、70巻11・12号 1957 、71巻6号 1957、72巻3号 1958、72巻8号 1958、72巻7号1958
【*2】常本照樹「経済・社会立法」と司法審査(1) -アメリカにおける「合理性の基準」に関する一考察-」『北大法学論集』35巻1.2号1984http://hdl.handle.net/2115/16451
【*3】中谷実 『アメリカにおける司法積極主義と消極主義』 法律文化社1987 24~25頁
【*4】【*5】常本照樹 前掲論文
【*6】紀平英作『ニューディール政治秩序の形成運営の研究』京都大学学術出版会1993 83~85頁
【*7】 ところで法の下の平等といえば平等保護条項に類似したものとして日本国憲法14条がある。ウィキペディアはつぎのように解説する。
「14条1項は、「すべて国民は、法の下に平等」を前段、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」を後段とし、後段に列挙されている「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」という差別の具体例を後段列挙事由と言う。後段列挙事由の解釈をめぐって学説が分かれている。 「すべて国民は」の部分が無視され、法の下の平等の後文だけが、使われる事が多い。
限定列挙説
差別は絶対的に禁止されるが、後段列挙事由のみが禁止される差別とされる。
特別意味説
差別は原則的に禁止されるが、後段列挙事由は、このうち特に重要なものが記されているとして、より厳格な基準で審査する。
例示説(判例)
後段列挙事由は、法の下の平等を、単に例示しただけのものであって、他の差別と同様に原則禁止されると解する。」
問題はクラス立法を肯定するニューディール主義者が作った憲法によってクラス立法の否定する解釈の余地があるのだろうかということである。
例えば労働基準法の刑事罰規定は契約の自由を侵害するだけでなく、特定のクラス(使用者、経営者)を標的としたものであるし、労働組合の刑事免責・民事免責も特定の集団を特別な利益を与えるクラス立法である。労働基準法の所定外労働時間の割増賃金規定も、間接的な労働時間抑制政策で、同じ賃金でもっと多くの労働を得られたはずの使用者の権利と、自らの勤労意欲を十分発揮できなかった勤勉な労働者の権利を侵すもので、特定の集団の利益のためのクラス立法である。
そうしたクラス立法を現行憲法規定では排撃できないとするならば、タフト主席判事の平等保護条項の会社にみられる法の下の平等にはクラス立法の否定が含まれるということを明文で規定する、憲法改正の構想が必要だろう。
【*8】大島佳代子「プラグマティズム法学とアメリカ合衆国憲法」『同志社政策研究』第3号 http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/catdbl.do
【*9】松岡三郎「アメリカ憲法とワグナー法」『法律論叢』31巻6号1958
【*10】ウィリアム・H・レーンクィスト著根本猛訳『アメリカ合衆国最高裁』心交社 1992 247頁
【*11】田中英夫「私有財産権の保障規定としてのDue Process Clauseの成立-6-」『國家學會雑誌』72巻8号 1958
【*11】高原賢治「アメリカにおける「警察権能」の理論の展開-公共の福祉についての一考察-2-」 『國家學會雑誌』74巻1.2号 1962
【*12】松岡三郎 前掲論文
【*13】ウィリアム・H・レーンクィスト 前掲書 248頁
【*14】】高原賢治「アメリカにおける「警察権能」の理論の展開-公共の福祉についての一考察-2-」 『國家學會雑誌』74巻1.2号 1962(なお原著で警察機能と訳しているところはポリスパワーとした)
【*15】中谷実 『アメリカにおける司法積極主義と消極主義』 法律文化社1987 22~23頁
【*16】ウィリアム・H・レーンクィスト 前掲書 248頁
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