「平清盛」の感想(2)
第4回まで見て、よく言われるように、平忠盛が「富巨万を累ね、奴僕国に満つ」と評されたほど富裕なのに、なんで清盛がみすぼらしい衣服を着ているのかわからない。それに「王家の犬になりたくない」とか過激なことをほざいている馬鹿のようにみえるし、鳥羽院の側近である忠盛でさえそんなことを言ってるのは理解できない。
橋本義彦「保元の乱前史考」『平安貴族社会の研究』所収によると、平忠盛・清盛父子は「鳥羽上皇の側近にあって、院近臣グループと共に上皇の政治権力を構成していた」「院政権力の有力分子」と記されている。
近衛朝の久安3年に日吉・祇園両社神人が忠盛・清盛父子の流罪を強訴した祇園社頭乱闘事件があり、ドラマでもやると思うが、鳥羽院の裁定により、頼長の「春秋左氏伝」を引いて糾弾する忠盛有罪論は斥けられた。それは忠盛が院の側近なので断固庇護されたということである。
久安5年から平忠盛は内蔵頭に任ぜられているが、もともと内蔵頭は金銀・珠玉・宝器・錦綾や天皇・皇后の御服等を掌るので、天皇と親昵の上流貴族が補されていた官職だが、院政期には院に近侍する富裕な受領が任用されるようになった。しかし院への忠誠心がなければ任用されない官職といえる。
第5回に藤原得子(松雪泰子)が登場した。崇徳天皇が激怒するという場面は見せ場だと思っていたが今回はその場面はなかった。得子は後にキサキとなったとナレーションがあったが、そう簡単にキサキになれたわけではない。
上皇であっても正式に上皇の宮に入侍していない女性に手を出したために政治問題となったのである。
長承三年頃藤原得子は鳥羽上皇の殊寵を蒙り、懐妊にまでいたり、翌年保延元年に皇女を出産するが、藤原得子の母が左大臣源俊房女とはいえ、善勝寺流藤原氏は中級貴族で、女御として立てられるような家格ではない。女御に立てられるのは上流貴族に限定されるのであって、今回の場面の六年後の保延五年に得子所生の体仁親王が誕生し、崇徳后藤原聖子の猶子とされることにより関白忠通が体仁親王(のちの近衛)の後見となって皇太子に立てられたことによって、皇太子の実母が女御でもないのはまずいという口実で、正式に上皇のキサキとしての地位を得たのである。
后位にのぼせられたのも中級貴族としては異例のことで、近衛の即位と同時に皇后に立てられたのである。藤原頼長は得子が国母にして后位にあるにもかかわらず拝礼したくないと『台記』に記している。。中級貴族に頭を下げたくないからであった。この点では、本来は、崇徳后藤原聖子の実父であるから、崇徳帝を外戚として支える立場にあった関白忠通が藤原得子に宮廷での求心力があると見てすり寄って権力を維持した処世術が長けていたといえる。
角田文衛『待賢門院藤原璋子の生涯』朝日選書1985 208頁以下によると、上皇による得子の溺愛、痴態に関する情報は逐一天皇に報されていたらしい。長承三年16歳と若く純粋な崇徳天皇は、上皇をかえりみることもなく、母后(待賢門院)の名誉を傷つけるものとして激怒され、得子の親族や、鳥羽上皇近臣に厳しい勅処分を下したのであるといったことが書かれているが、これが天皇と上皇との対立が表面化した事件であるから、ドラマとして描くとおもしろいと思ったが、政治的背景が複雑なためか、このドラマではこの場面はやらないのかもしれない。
ネットで上皇を演じる三上博史の演技は評判になっているが、体仁親王誕生時は狂喜するのだろう。しかし、中高年になってから寵愛したキサキ所生の皇子を皇位継承者とすることはしばしばあることでそれ自体は異例なこととはいえない。例えば亀山法皇が末子である西園寺実兼女娘昭訓門院瑛子所生の恒明親王を愛され、すでに直系の孫にあたる後二条天皇が即位しているにもかかわらず、後宇多上皇の子孫の皇位継承をあきらめさせ、遺詔により皇位継承者に指名した例などがある。
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