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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

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2012/04/30

平清盛の感想第17回4/29放映分

 ドラマは、平清盛が棟梁となり、源義朝の任下野守、源義賢が義朝勢力と対抗するため東国に下向した仁平3年(1153)の設定だったが、源為義が、次男の義賢(木曽義仲の父)を嫡男として、長男の義朝を廃嫡したというシーンがあった。
 しかし元木泰雄の『河内源氏』中公新書2011年を読むと、これより12年前の義朝が板東に下向した永治元年(1141)以前に義賢が東宮体仁親王(のちの近衛)の親衛隊長である帯刀先生という栄職にあったことから、もうこの時点で、弟の義賢が嫡男とされ、義朝は廃嫡されていたと述べている。ウィキペディアでもそう書かれている。jまた、義賢が東国に下向したのは、保延六年(1140)に殺人犯を匿って地位を失い不遇となっていたためで、仁平3年には嫡男は四男の頼賢に譲られていたと元木氏は書いている。
 永治元年の義朝の東国下向は、平氏と対抗するために東国武士との結びつきを再建、強化するという大役を背負ったものという通説を否定し、たんに坂東に追放されたのだと説明している。
 にもかかわらず、義朝が下野守という河内源氏としては50年ぶりの受領に就任したのは、美福門院近臣を通じて、荘園の立荘に関与したためと推察されている。
 源義経の母常磐御前は中宮藤原呈子(関白忠通養女のちの九条院)の雑仕女であったが、呈子は実は二条朝に太政大臣となる藤原伊通の女で、皇后藤原得子が白川御所に迎えて養女としていたのである。入内させるために忠通の養女になった。
 したがって、任下野守も義朝が常磐と結ばれたのも、美福門院に荘園寄進によって接近し認められた結果なのであって、元木氏が言うには常磐は義朝が美福門院・関白忠通派であることの象徴である。つまり常磐が義朝を美福門院・忠通に接近させるきっかけとなったというのではなく逆である。
 一方、源為義は藤原忠実に臣従し奉仕に精励していたことはドラマでも再三強調されていることだが、東三条殿やそれに付随する御倉町の接収のための警護などで働き、摂関家内部の警察力となった。次男の義賢は、摂関家領の荘官の地位も与えられていたが年貢未納で解任されてたりしたが、頼長の男色行為の相手でもあり、肉体的にも結ばれていたし、為義とその一族は、忠通・頼長を裏切ることなく緊密な関係にあり、それは保元の乱まで継続したのである。
 兄弟の権力抗争、摂関家であれ武家であれしょっちゅうあることだが、河内源氏が保元の乱で父子相剋の悲劇となったのはそうした事情を掘り下げないとなかなかわかりにくい。
 
 
 
 

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