「平清盛」第18話5/6放映分感想(続)
五月六日放映の『平清盛』が近衛崩後の皇位継承問題を扱っていたが、それ自体重要な事柄なので私の考えも述べておく。
保元の乱の朝廷方の盟主となり、大きな政治的な影響力をふるった美福門院藤原得子について、保立道久がゴッドマザーと言っているが、それは近衛実母というだけでなく、崇徳皇子重仁親王(実母は兵衛佐局)の養母であり、後白河の践祚の後、皇太子に立てられた守仁親王(のちの二条、実母は贈皇太后藤原懿子)の養母であり、東宮妃よし子内親王(のち中宮、女院宣下高松院)の実母であったということである。
保元の乱の後も王家の女性尊長として、皇太子と東宮妃双方の母后として宮廷で求心力を維持したためである。
『古事談』『山塊記』『愚管抄』などで近衛崩後(久寿七年1155)の皇位継承候補に浮上したとされているのは、4名。
孫王 (雅仁親王の息童・仁和寺の信法法親王の附弟)
雅仁親王
重仁親王
暲子内親王(鳥羽皇女・実母美福門院)
もっとも早く皇位継承候補に浮上したのは孫王(雅仁親王の息童、後白河践祚後に親王宣下、守仁と命名)である。この王子は生母藤原懿子が生後間もなく薨ぜられたため、鳥羽法皇が引き取り、美福門院が養育した。九歳で仁和寺に入寺させられていたが、仏典を読みこなし聡明だった。仁平三年(1153)、関白忠通が、近衛が病気のため孫王への譲位を鳥羽法皇に奏請したのである。しかし法皇はこれを却下した。この時はまだ病気が重篤であると認識していなかったか、謀略とみなしたためとされている。
しかし『山塊記』によれば法皇は美福門院の意を汲んで孫王を皇位に即けたいと思ったが、現存の父を差し置いて子が即位するという例がなかったため、まず雅仁親王を践祚させ、相次いで孫王を皇位に即けることにしたとされている。これがたぶん真相に近いものと一般的には考えられている。というのは、久寿二年近衛崩後の八月に法皇の本所というべき鳥羽南殿・北殿を含む所領を美福門院に譲与し、孫王の立太子も美福門院が掌ったことから、女院は重い地位にあった。また王者議定で法皇の御前に召され相談に預かったのは側近の元右大臣源雅定と権大納言藤原公教であり、いずれも美福門院の近臣である(関白忠通とは消息を遣わして意見を聴取)、源雅定(前年に出家、ドラマでは関白の向かい側にいた僧体の人物)は、永治元年に藤原得子の皇后宮大夫に任ぜられている。また藤原公教は鳥羽院執事別当で、美福門院の別当職も兼ねていた。両者とも女院の意向に反する意見を持っていたとは考えにくいのである。実際、保元三年(1158)八月に突然、美福門院と信西入道の談合で後白河譲位の議が決定されたので、後白河はあくまでも守仁親王(二条)への中継ぎという位置づけである。
『愚管抄』によれば法皇は雅仁親王が遊芸にばかり熱を入れ「即位ノ器量ニハアラズ」と評価していた。つまり望まれて即位したわけではない。
帝王の器量にあらずという評価は基本的に当たっている。今日では、後白河の偏った性格(抜群の記憶力の良さ、特定の分野への強いこだわり、蒐集癖、冷酷な一面)からみてアスペルガー症候群という説があり(遠藤基郎『後白河上皇―中世を招いた奇妙な「暗主」』 (日本史リブレット人) 山川)、君主としての評価が難しい。
にもかかわらず後白河が即位したのは、一般的には鳥羽院近臣になっていた信西入道の政治力とされることが多いが、『玉葉』『愚管抄』『古事談』によると、関白忠通による法皇の皇位継承についての諮問の奉答が雅仁親王であったと伝えている。つまり関白忠通は、孫王から雅仁親王に皇位継承の推薦者を変えたことになる。これについては、後白河即位の恩を摂関家の進言にしようとする作為とみなす橋本義彦の見解もあるが、私は『古事談』の雅仁親王は「后腹」なので即位を進言したという記事を重くみたい。
もちろん白河や鳥羽の生母が女御であったように、生母が皇后であることは皇位継承の絶対条件ではない。しかしわが国では皇后は天子の嫡妻という本来の性格より、立后が皇太子を引き出す政治行為としての性格が強かった。少なくとも平安時代においては、母后が政治的に敗者となったケース(たとえば正子内親王や藤原定子所生の皇子)を別として、后腹の皇子が有力な皇位継承候補と認識されていたはずである。
要するに法皇は後白河即位に消極的だったが、皇位継承の暗黙のルールを無視できなかったのでそういう結果になったと考える。
重仁親王の即位が嫡々相承の正理から有力な候補だったとする説もあるが、后腹ではない。もっとも皇后藤原得子が養母であったから、三品に叙され后腹に准じた厚遇であったわけだが、肝心の養母である美福門院がノーといえば、それまでの存在であったいえるのではないか。
暲子内親王(鳥羽皇女・実母美福門院)が候補に浮上したというのは、重仁親王への皇位継承を阻止して崇徳を復権させない、あくまでも天下の政柄は鳥羽法皇、美福門院で握るためのプランだろうが、非婚女帝では問題の先送りになるだけだし、おっとりした性格であったことから、崇徳上皇が挙兵するような危機に立ち向かえるか不安もあったので、このプランは消えたものと勝手に推測する。
参考 橋本義彦『平安の宮廷と貴族』「美福門院藤原得子」吉川弘文館1996 河内祥輔『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館2002
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