岡田与好による「営業の自由」論争と関連して団結禁止体制・その変質について(1)
1970年代に岡田与好教授(西洋経済史学)は、「営業の自由」は憲法二二条一項の「職業選択の自由」に含まれており人権として保障されているとする法律学の通説を批判し、学際的な「営業の自由」論争が展開された。
この論争の成果は疑問視されているが、「歴史認識と法解釈との関係をどう把握するかというスケールの大きな論争」「戦後の本格的論争の一つ」とも評価されている。
結論を先に言えば、政治経済史・法制史の裏打ちの乏しい法律学の通説への異議について、大筋において歴史認識においても岡田与好の主張が正しいと考える。というより、私は市民革命期から18~19世紀前半までが国によって違いがあるにせよ、初期独占が廃棄され、ギルド的独占が廃棄され、団結禁止による営業の自由の確立期といえるが、それは近代市民社会の成立、近代的個人主義的自由の確立、産業資本主義社会への移行と軌を一とするもので、19世紀後半以降の団体主義(コレクティビズム collectivism)の浸透により、本来の営業の自由が否定されるあり方に市民社会が変質したとはいえ、なお、その意義を失うものではないという観点で、岡田学説の意味を検討してみたいと考えるものである。
岡田教授説の鷹巣信孝による要約【註1】
①「本来の営業の自由」は「国家からの自由」ではなく、私人間における営業独占や営業制限からの自由であって、このような自由が確保されることが「公序」であり、「公共の福祉」である。
②「営業制限の法理」よりも「契約自由の法理」が優遇され、株式会社の設立や団結が解禁されるに至って「本来の営業の自由」が「営業の自由一般」・「私的経済活動の自由一般」へと転化し、現代的独占が発生する。
③資本の集中・集積による現代的独占を規制して、自由競争の維持・促進を図る独占禁止法は、「本来の営業の自由」の原理に立脚した、独占資本主義段階における自由主義的反独占法である。それは「営業の自由」の原則の現代的具体化であって、「営業の自由」の対立物ではない。
岡田教授説の矢島基美による要約【註2】(引用は何れも岡田与好「『営業の自由』と、『独占』および『団結』」東京大学社会科学研究所編『基本的人権5』東京大学出版会1969。『独占と営業の自由-ひとつの論争的研究-』木鐸社1975所収)
「『営業の自由』は、歴史的には、国家による営業・産業規制からの自由であるだけでなく、何よりも、営業の『独占』monopolies『制限』restraints of tradeからの自由であり、かかるものとして、それは誤解をおそれずにいえば、人権として追求されたものではなく、いわゆる公序public policyとして追求されたものであった」と説く‥‥要するに①「営業の自由」は、「社会関係の独自に資本制的な規制原理であっ」て、「私的独占や営業=取引の制限からの自由として把握すべき」である、それゆえ、②それは、「個人の性格や能力に適した職業を追求する自由」なる人権として「社会の全成員に平等に保障されうる」ところの「職業選択の自由」とは明らかに異なる。同時にまた③「公共の福祉」は「営業の自由」の制約原理ではなく、「経済的自由主義の本来の精神」からすれば「営業の自由」の保障こそが公共の福祉すなわち社会全体の利益である」
私が岡田教授支持というのは、憲法が本来統治構造と国家権力の制限を規定するものだとすれば、「人権」というものも私人間効力が適用されないから「営業の自由」を「人権」として把握すべきではないという見方は大筋で正しいと考えるからである。この論争が成果をあげてないのは自由とか人権とか権利というものをどう概念規定するかで噛み合わない議論になっているためだ。国家からの自由と私法上の権利、私権とでは自由の意味が異なるからである。
つまり岡田教授の言う、本来の「営業の自由」というものは「国家からの自由」に矮小化されるものでは全然ないというのが、正しい認識である。
「本来の営業の自由」とは取引制限的結合を原則として違法とするものであり、売り手であれ、買い手であれ取引を制限する団結を禁止する体制であり、その理念型に近いあり方としては、イギリスでは小ピット政権による1799-1800年一般的団結禁止法の体制である。これは労働者だけでなく雇主の団結も禁止している。理念型そのものといえるのがフランスの1791年の団結禁止法であるル・シャプリエ法(恒常的な団体の結成はもちろん、集団的な協議、集団的な請願、寄り合いまで「営業の自由」「労働の自由」を犯す虞があるものとして禁止された)1810年のナポレオン刑法典(結社を厳格に制限、労使双方が密かに協議談合し価格に何らかの影響を及ぼそうとする行為、労働者の団結、雇主の賃下げのための団結も刑罰に処するものである)の体制である。【註3】私人間の取引制限を公権力的に排除することが本来の営業の自由なのだ。
岡田教授は団結禁止について事業者の場合も、この用語を用い、その意義を次のように言う。
「事業者のカルテル的結合と、労働者の労働組合的結合とは、取引の制限=競争の制限を目的とする点において性格を同じくし‥‥(団結禁止は)取引の自由=競争の自由の促進を目的としている‥‥事業者のカルテル的結合が‥‥事業者相互間の競争の除去と、営業機会の排他的独占を目的とするものであることは明らかである。それ故、団結禁止法は、労働者に対しては、労働機会の組合的独占の否認=労働機会の一般的開放によって、労働者相互間の自由な競争を強制する機能を担うのと同様、事業者に対しては、営業機会の一般的開放によって、事業者相互の自由な競争を強制する」。【註4】
人類は、どの時代においても、生活を営むために「取引」と言う名の競争を強いられてきたが、この競争は地球上の乏しい資源をいかに効果的に配分するかという難問を解決するための優れた手段である。【註5】
従って「自由な競争の強制」は否定的なニュアンスで理解する必要はない。団結は取引を制限し競争を排除する共謀であり、それゆえコモン・ローでは共謀罪とされてきた。「各人が自己の最善の利益のために自己自身の裁量にしたがって自己の営業を遂行する権能を有する」(1871年イギリスのヒルトン対エッカースレイ事件判決)。【註6】
つまり各人は他者の共謀によって制限されることのない営業=取引の自由を有し、自己自身の意思と裁量で契約し、自らの財産(労働力も商品となるので財産とみなす)を自由に処分することできる、勤勉な労働者が仲間労働者の多数より圧迫されることなく、取引制限をたくらむいかなる共謀からも解放されている個人の自由の制度保障が団結禁止である。
言い換えれば、個人の自由な営業=取引に抑圧的な公的・私的結合ないし共謀(特許独占・同職組合・事業主のカルテル的結合・労働組合)を否認する体制が、本来の「営業の自由」ということである。
もし、「営業の自由」が憲法学の通説のように国家からの自由にすぎないとするならば、カルテルの自由、取引制限的結合の自由ということになり、それは明らかに「営業の自由」の否定なのである。
つづく
【註1】鷹巣信孝「職業選択の自由・営業の自由・財産権の自由・連関性(四・完)『佐賀大学経済論集 』32(5)2000http://ci.nii.ac.jp/naid/110000451612〔*ネット公開〕
【註2】矢島基美「「営業の自由」についての覚書」『上智法学論集』38巻3号1995〔*ネット公開〕http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/handle/123456789/33052
【註3】 大森弘喜 書評「水町勇一郎『労働社会の変容と再生―フランス労働法制の歴史と理論―』『成城・経済研究』173 2006〔*ネット公開〕
【註4】岡田与好「市民革命と「経済民主化」-経済的自由の史的展開」岡田与好編『近代革命の研究 上』東京大学出版会1973所収
【註5】谷原 修身「コモン・ローにおける反独占思想-4-」『東洋法学』38巻2号1995
【註6】岡田与好前掲論文
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