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2012/09/02

岡田与好による「営業の自由」論争と関連して団結禁止体制・その変質について(2)

承前

営業の自由の歴史的過程(英仏独日諸国の概観)その1
 

 岡田教授によれば、先進国における営業の自由の進展は、イギリスにおいては、17~18世紀にかけて①初期独占の廃棄、②ギルド的独占の廃棄、③団結禁止による経済的自由の保障と漸進的・段階的に達成した。フランスでは革命期に一気に展開されたのでより鮮明なものとなっている。【註1】ドイツや日本はやや違った展開をとっているので比較法的に概観する。

1 イギリスにおける初期独占の廃棄

 商品取引の独占は人類の歴史とともに古く、フェニキア人の商業活動に随伴した独占から現代的独占(労働力取引の独占-賃金カルテルである労働組合を含む)にいたるまで普遍的現象ともいわれているが、政治問題化したのが絶対王政期であった。
 「初期独占」とは16~17世紀の独占であって、経済史学で用いているもので、現代的独占と区別するための用語であり、ある個人もしくは幾人かの個人に商品の販売・製造・輸出入の独占権を国王もしくは国家的機関が特権付与するものである。
 
  イギリスでは16世紀末、女王エリザベス1世の特許状により特権的政商もしくは寵臣に特定の商品の国内での一手販売権を付与する「特許独占」が財政の悪化と寵臣への報酬のために濫発された。鉄、ガラス、石炭、鉛、塩など40品目以上に独占が及び、独占価格により商品の価格もつりあがった。特許状は元々、外国より遅れていた産業を育成するためのものだったが、特許状発行に伴う上納金を財政上の手段としたのである。これは国王大権事項のため議会の承認は不要だったのである。【註2】
  このため議会(庶民院のコモンローヤー)と王権との間で激しい紛争となった。裁判所は反独占権の法理を展開し特許状による営業独占をコモン・ロー、臣民の自由に反すると判示した。法の支配とはまさにこのことである。
 1601年の議会は独占批判で荒れ模様となり、庶民院では国王の特許状発行を制限する法案が検討された。女王は批判の高まりに衝撃を受け、「黄金演説」において、国王大権の優越を明言しつつも、親愛なる臣民の一般的善のために一定数の特許を廃止するとともに、独占付与による損害について通常の救済方法に訴えることを臣民の自由とする譲歩により収拾を図った。
 1602年ダーシー対アレン判決Darcy v.Alleinにおいて、独占権が有害であるという法廷による決定的なステートメントとなるコモン・ロー史上著名な判決が下された。
 ダーシーは、開封勅許状により毎年100マルクを支払うかわりに、英国の市場でトランプの輸入・販売・製造の独占特許を21年以上付与されていたが、ロンドンの小間物商アレンが、80グロスのトランプを製造し、さらに100グロスのトランプを輸入したため特許権侵害として訴えたものであるが、女王による独占特許を無効と判決した。

 王座裁判所全員一致の意見は「原告に対する……前記の権利付与はまったく無効である……すべての営業は……国家にとって有益であり、したがって、トランプの独占権を原告に付与したことは、コモン・ロー、および臣民の利益と自由に反する。………同じ営業を営む者に損害と侵害をあたえるばかりでなく、その他のすべての臣民に損害と侵害をあたえるというのは、それらのすべての独占は、特許被授与者の私的な利得を目的としているからである。……」などと述べた。
 絶対王権に対するコモンロー護持者として歴史的権威となったエドワード・コーク卿は後にこれをマグナ・カルタ第29条に基礎づけた。「もし誰かある人にトランプ製造なり、そのほかどんな商売を扱う物であっても独占の許可を与えるとすれば、かかる許可は……臣民の自由にそむいている。そして結果的には大憲章に違反している」と。マグナ・カルタ29条「自由人は,その同輩の合法的裁判によるか,国法によるのでなければ,逮捕,監禁され,その自由保有地,自由,もしくはその自由な習慣を奪われ,法外放置もしくは追放をうけ,またはその他いかなる方法によっても侵害されることはない」を注釈し、「自由」および「諸自由」を示すlibertates libertiesについて、これらが「王国の法」「イングランド臣民の自由」「国王から臣民に与えられた諸特権(privileges)を意味するとことを明らかにしlibertates libertiesの中に営業の自由を認める再解釈を行ったのである。
 ジェームズ1世の時代には反独占運動が激烈となり、国王は1604年の「自由貿易のための法案に関する指示」を行い、「すべての自由な臣民は、かれらの土地に対するのと同様に、かれらみずからそれに従事し、かつそれによって生活しなければならない営業(trades)に自由に精励するという〔権利を〕承継して生まれている。商業は、他のすべてのなかでも最も主要なまた最も裕福なものであり……それを少数者の手中にとどめておくことは、イギリス臣民の自然権と自由に反する」と理由を述べた。
 1624年には「独占および刑法の適用免除ならびにその没収に関する法律」が制定された、独占法は前半であらゆる特許独占を廃止し、コモンローによって裁定されるとした。しかし、後半でコーポレーション組織による独占を認める等の例外規定を設けなお独占が一掃されたわけではない。

  1625年のイプスウィッチ仕立屋判決Ipswich Tailors Case http://oll.libertyfund.org/?option=com_staticxt&staticfile=show.php%3Ftitle=911&chapter=106357&layout=html&Itemid=27は重要に思える。原告イプスウィッチテーラーズは国王の開封勅許状により設立され、イプスウィッチの町で仕立業を営む者は、原告団体の親方、管理人のもとヘ出頭するまでは、店舗や部屋をもち、徒弟やジャニーマンを雇ってはならず、少なくとも7年間徒弟として奉公したことを証明しなければならなかったため、違反者に3ポンド13シリング4ペンスを請求した金銭債務訴訟である。
 「第一に、コモン・ロー上、何人も合法的な営業に従事することを禁止されることはできない。というのは、法は怠惰、悪の根源……を嫌うからである。……したがってコモン・ローは、人が合法的な営業に従事することを禁止するすべての独占を禁止するのである。第二に、被告に制限を加えることは、法に反する。…というのは、臣民の自由に反するからである……」 【註3】
 アダム・スミス以前の経済的自由の先駆が17世紀のコモンローヤーだった。財産所有、取引および営業、利子をとること、独占および結合から免れること、自己の意思決定、政府および法令の規制を受けない経済的自由を強く支持したのである【註4】
 しかし、1625年に即位したチャールズ1世は、1624年の大独占禁止法の例外規定を巧みに利用し、多くのカンパニーに法人格が付与され、独占を確保する目的で設立された。
 1640年の長期議会は独占攻撃のるつぼとなり、まず独占企業家を議会から追い出し、諸独占を査問にかけて個々に廃止した。商業独占と、ギルド的独占はなお存続したが、産業独占の性格を有する「初期独占」は概ねこの時期に解体していった。
 1688年ウイリアムとメアリのもとで王室鉱山法が制定され、金属の鉱業権が王室から剥奪され、土地所有者に保障された。名誉革命を画期として「初期独占」は最終的に解体されるのである。

 
 2 イギリスにおけるギルド的独占の廃棄

 
 1563年エリザベス徒弟法制定(徒弟条項、移動禁止・強制就労条項、賃金条項があるが、賃金条項では治安判事にその年ごとの各職種の賃金を裁定する権限を権利を与え、裁定賃金を上回る賃金を支払った雇主と受領した労働者を投獄する権限を与えた)の意義にについて、岡田与好は、早い時期にマナーが崩壊したイギリスでは15世紀から16世紀には、ギルド規制から自由な農村地帯に毛織物工業が深く根を下ろし、この農村の自由な経済発展に対応して、都市のギルド制度を全国化し、工業的諸営業の農村地帯への拡散を防止する試みであり、農村住民の農村離脱を禁止し営業資格の厳重な制限(七年季徒弟制度)によって転職の禁止を全国化し、当該ギルド団体に営業独占を保障しようとするものであったと述べている。【註7】
 もっともギルドについては非組合員を埒外の者として排除する営業独占の組織、カルテル強制団体(ツンフト強制ともいう)であり、技術の進歩を妨げるものとしての性格を強調する見解が主流ではあるが、近年では当時の環境では効率的な経済組織だったとする見方もある。ギルドの規制には地域差があり、イギリスやネーデルランドは規制が弱い地域とされている。【註8】
 1624年の大独占禁止法以降のノリツヂにおける同職組合であるカンパニー組織についての研究によると、徒弟雇用数の制限は職業によって異なるが取り払われる傾向にあり、営業規制は品質管理が中心となり弛緩する傾向にあった。これは時代の変化に柔軟に対応していたことを示している。【註9】
 チャールズ1世は、1624年の大独占禁止法の例外規定を巧みに利用し、多くのギルドを再編し、初期独占の解体に伴う競争の増大による工賃の低下防止のための小営業主の団結運動を助長した。このため清教徒革命期には、ギルド民主化闘争があった が、ギルド的支配は存続した。したがって、ギルド団体の産業統制を拒否するレッセフェール経済の浸透の時期は、王政復古期以降のことである。【註9】 
 18世紀になるとコモン・ロー裁判所はいくつかの判例を通じて「コモン・ローの政策は企業の自由、営業の自由、労働の自由を奨励することにある」という立場を宣明した。
 1563年エリザベス1世の職人規制法の体系も法律として存在しても、実効性を伴わなくなり空文化していく。ブラックストーンは1765年に次のように述べた。「裁判所の判決は、規制を拡大したのではなく、それを一般に制限してきた」。強制的徒弟制度や治安判事の賃金裁定条項は衰退していくのである。17世紀末には既に同条項の適用を年雇労働者や農業奉公人にされていたのである。【註10】
 アダム・スミスは同業組合について次のような否定的態度を示した。
 「すべての同業組合が創立されたり大部分の同業組合法が制定されたりしたのは、自由競争を抑制し、そのために必ず引き起こされる価格や、したがってまた賃銀や利潤のこういう下落を防ぐためだった」「‥‥同業組合精神、つまり局外者に対するねたみや、徒弟をとったり職業の秘密をもらしたりすることの嫌悪が一般にかれらのあいだにゆきわたっており、そしてこの精神が、任意の連合や協約をつうじて、組合規約では禁止しえない自由競争をふせぐことをしばしばかれらに教える」「同業者というものは、うかれたり気晴らしをしたりするために会合するときでさえ、たいていのばあい社会に対する陰謀、つまり価格を引き上げるためのくふう、になってしまうものである」【註11】。
  
 このようにアダム・スミスも同職組合の特権や、徒弟制度の入職規制に強く反対していたので、彼の思想の影響もあって、1563年エリザベス1世の職人規制法は、最終的には治安判事による賃金裁定は1813年に、徒弟制は1814年に廃止されている。

(つづく) 

【註1】岡田与好「市民革命と「経済民主化」」-経済的自由の史的展開-」岡田与好編『近代革命の研究 上』東京大学出版会1973所収272頁以下
【註2】青木道彦『エリザベスⅠ世』講談社現代新書2000
【註3】堀部政男「イギリス革命と人権」東大社会科学研究所編『基本的人権2』東京大学出版会1968所収
【註4】谷原修身「コモン・ローにおける反独占思想(三)」『東洋法学』38巻1号 [1994.09](契約法史の大家アティヤの見解)
【註5】岡田与好 前掲書 277頁
【註6】堀部正男 前掲書 378頁以下
【註7】岡田与好 前掲書 275頁がある
【註8】唐澤 達之「ヨーロッパ・ギルド史研究の一動向:オーグルヴィとエプスタインの論争を中心に」 『産業研究』 45(2) 2010〔※ネット公開〕
【註9】唐澤 達之「17世紀ノリッヂにおけるカンパニー」『立教経済学研究』 50(3), 1997〔※ネット公開〕
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006487095
【註10】大沼邦博「労働者の団結と「営業の自由」--初期団結禁止法の歴史的性格に関連し近代資本主義の系譜 近代資本主義の系譜 近代資本主義の系譜 て」関西大学法学論集 38巻1号 [1988.04]
【註11】谷原 修身「コモン・ローにおける反独占思想-4-」『東洋法学』38巻2号1995

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