私の次のブログの「できそこない」「おかま」が差別表現だとの指弾を受けたが次のように反論する。・
問題のブログのタイトルは
伝統的役割分担夫婦のほうがセックスの回数が1.6倍というロイター記事の感想
「教育再生会議とか例によって安倍がくだらないことをやっておりますが、教育再生というからには、中学校・高校男子の家庭分野・家庭科履修の強制と、中学校の男も女も武道とダンスの必修をやめさせるのが先決である。男に家庭科やダンスをやらせるのは侮辱だ。時間の無駄である。
「神の似姿」としてこの世に生を享けたのに、なんで「できそこない」である女のまねをやらされなければならないのか。おかまになれと言っているのと同じである。
しかし、実態としては性的役割分担定型概念の排除にはいたっていない。内閣府が昨年12月15日に発表した「男女共同参画社会に関する世論調査」(産経2012・12・16記事)によると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」に賛成する人が、51・6%となり、平成21年の前回調査より10・3ポイント上昇した。
行政や学校教育がフェミニズムに誘導しているにもかかわらず、民衆の基層の意識はまだ健全だとの心証をもった。
1/31付ロイター記事「夫婦の性生活、「伝統的」家事の分担と関連=米研究」http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPTYE90U01U20130131によると「アメリカン・ソシオロジカル・レビュー」に掲載された論文によると。『男性が炊事洗濯や買い物、男性が庭仕事や車のメンテナンスといった、いわゆる伝統的な家事の分担をしている夫婦は、男性が炊事洗濯などを担当している夫婦に比べて、1カ月のセックスの回数が1.6倍に上る』
フェミニストのいいなりになっていると中性化されて性行動の意欲すらなくなってしまいかねないということだろう。
ところで、女子柔道の選手が団結して監督の指導方法について文句をいったということですが、女が団結したから監督が辞めさせられるというのは、よろしくない。女性でありながらあえて、接触スポーツで本来男性向きのスポーツに挑戦したのであるから、ジェンダーフリーの方針で良いはずだ。鉄拳制裁やしかり方も男と同じやり方で悪くないと思う。女性だからといって特別の方針をとるのは差別になる」。
ブログは以上である。
これは、男子に家庭科やダンス履修を強制する教育政策批判である。「できそこない」というのは、西洋文明における伝統的な規範的価値観、男性が「神の似姿」として創造され、女性が男性の肋骨から生まれたという創造論に基づく考えをさしているものでカギ括弧をしているので、含意している意味はわかる人にはわかる。直接的にはアルベルドゥス・マグヌス『動物論』からの引用である。「女性とは出来損ないの男性であり、男性に比べると欠点だらけの性質を持っている。だから内面は信用できない」ウタ・ランケ-ハイネマン著 高木昌史他訳 『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 238~239からの引用である。同時代人より「あらゆる学問の道に神的な人であるので、現代の驚異と呼ぶにふさわしい」「非常に明るくて普遍的な全キリスト教世界のあらゆる哲学者の太陽」と称賛され、その知識の広さと活動の多様性において、世界史のなかでも最も偉大な人物の一人がアルベルトゥス・マグヌス(1206-80、列1931)、カトリックの聖人であり、全科的博士として尊称されている人物の引用であるから、これを引用するなというのは、神学の否定であり、良心の自由の否定である。よって応じられない。あらゆる思想は引用なのである。私は13世紀の神学者を尊敬するし大好きなのである。聖人でもあるのだ。その表明ができないということはありえない。
思想の核心部分なので、変えられない。また「おかま」については、男性を女性化させるという意味を端的にわかりやすく、「できそこない」とついになって直截的表現で印象に残るようよう、表現したものと考えられ、他意はない。同性愛者では意味をなさないので、文脈から言って自然である。
ダンスは女子のみの必修だったのになんで男にやらせるのか。男性を女性化させる、中性的に扱う教育こそ問題だという問題提議。家庭科については中等教育で男女に必修としている国家は少ないのである。男女とも選択ならまだよいが、家庭科を選択にすると、履修者が減って家政系の大学・短大の経営が成り立たなくなる既得権益保護という側面もある。ということである。
「おかま」は上品でないかもしれないが、下品な表現も表現権のうちである。ブログだから、行政文書のような堅苦しいものをかけるわけない。ブログだから文学的表現もありうるので公文書とはちがう。
もっといえば、女性も男性並に扱う機会均等には賛成だが、そのような意味での平等処遇はよいとしても、男性を女性のように処遇するというのはまさに「神の似姿」としての男子のこ券にかかわる問題だということを言っており。読む人が読めばわかることだ。
さらに補足する。
つまり、ミルトンの『失楽園』(4・297-301)
男は思索と勇気のために造られていた、
女は柔和さと美しく優雅な魅力のために。
男はただ神のために、女は男の内なる神のために。
男の美しく広い額と清らかな目は、絶対的支配を語っていた。(註1)
という男権主義は伝統的に流布されてきた思想で、それを否定する必要はないということだ。
近代個人主義的友愛結婚の提唱者とされるミルトンですが、これは基本的に、西洋文明、ユダヤ・キリスト教の伝統に沿った性差別思想であり、男性の優越性の含意が看取できますから大筋で支持できます。ミルトンの性差別意識については批評者によって議論のあるところだが、フェミニストは上記の文脈をファロセントリスムの表明とみなしてますが、上記の見解は17世紀ならたぶん常識的なものです。
しかし、自分は古典カノン法の理念を尊重するし、ミルトンが離婚論で批判する教皇アレクサンドル三世は法律と行政の天才、規範提示者と思ってますからミルトンとは思想的立場が違うので、次のような独身の中世の神学者の見解のほうを好む。
全科博士・熟練博士と尊称され、ギリシャ・イスラムの学問を同化吸収し、同時代人から「あらゆる学問の道に神的な人であるので、現代の驚異と呼ぶにふさわしい」「非常に明るくて普遍的な全キリスト教世界のあらゆる哲学者の太陽」と称賛され、その知識の広さと活動の多様性において、世界史のなかでも最も偉大な人物の一人であるアルベルトゥス・マグヌス(1206-80、列聖1931)は『動物論』で次のように主張する。
「女性は男性よりも道徳には向いていない‥‥女性は気まぐれで好奇心が強い。女が一人の男と交わっているとき、彼女はできれば別の男と寝たいと思っている。女というのは誠を知らない。私の言うことを信じなさい。もしあなたが彼女を信用すると、あなたは失望するだろう。経験豊かな師の言葉を信じなさい。賢明な男ならば自分の計画や行動を妻にはわずかにさえ知らせないものだ。女性とは出来損ないの男性であり、男性に比べると欠点だらけの性質を持っている。だから内面は信用できない。自分で手の届かないものは、ごまかしや悪魔のような嘘で手に入れようとする。つまり短く言えば、毒蛇か角の生えた悪魔に用心するように、あなたはあらゆる女性に気をつけなければならない。もし私が女性について知っていることを言ってもよければ、世界中が驚くだろう‥‥女性は男性よりも賢明なのではなくずるがしこい(抜け目がない)のだ‥‥だから、悪い、自然に反した行動においては女性は男性より賢い、つまりずるがしこいのだ。彼女らの感情はあらゆる悪へ駆り立てる。それは理性が男性をあらゆる善に促すのと同じである。」(註2)
さすがに全科博士は女の本質を見抜いていた。女を見たら毒蛇か角の生えた悪魔と思え。女はあらゆる悪を指向する傾向性がある。だから信用してはいけない。私はこの教えに忠実でありたいと思います。
『創世記』ヤハウェ資料において、女は男の補助者として創られたが、彼の誘惑者となり彼を破滅に導いた。神は女に次のように宣告した。「私はあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなおあなたの欲望はあなたの夫に向かい、彼はあなたを支配するであろう」〔『創世記』3・16〕。神自らが、妻に対する夫の権威を高めた。男性支配による社会的、法的、経済機構は神の認可にもとづく決定的な秩序という教えなのである。フェミニズムへの敵意は当然であり、有害思想、と考える。
この観点から古代教父の教えも当然引用したいです。まずスコットランド宗教改革戦争の理論的指導者で、カルヴァン派のスコットランド長老教会を誕生させたジョン・ノックス(1505-72)がジュネーブで1558年に匿名で刊行した『女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り』という著作ですが(註3)、これはイングランド女王メアリー・チューダーと、スコットランド摂政ギーズのメアリの統治に反対し、転覆する反乱のアジテーションという政治目的の文書ですが、宗教倫理的な事柄は古代教父を多く引用し、反フェミという観点でも優れた著作と思うので一部を引用したい。
ラテン教父テルトゥリアヌスは女の服装に関する著作で女に対し「あなたは、あなた自身がエバであることを知らないのか。神の宣告は生きており、この種属に対して効力を持つ。この世にあって、あの罰もまた生きているのはしごく当然である。あなたは悪魔の港であり門である。あなたは神の律法の最初の違反者である‥‥」と語っている。
東方教会最大の説教師で、コンスタンティノープル司教でもあったヨアンネス・クリュソストモス(聖人)は女に優先権を与えた男を叱って「男に悪しき助言を与える女をはねつけるのが男の役割である。男に有害な助言を与えた女の耳には、四六時中、エバに与えられた罪を聞かせてやらなければならない」又、神の宣告を引き合いに出し「‥‥あなたは神の許を離れ、あの悪しき動物と喜んで親しみ、その助言を受け入れようとしたゆえに、わたしはあなたを男に服させるのであり、あなたが男の支配を認めるようにと、わたしは明確に男をあなたの主に任じる。あなたは支配することはできないから。支配されることを学べ」又「たとえ男は堕落しているにせよ、男の上に立つ権威を女が奪い取ることは許されない」さらに「女性というものは短気で無鉄砲で、その貪欲さは地獄の底なし沼のよう、つまり飽くことを知らない」と教えております。
アウグスティヌスは、「女はキリストに服するように男に服さなければならない。というのは、女は服すべき権威を体と肉から引き出せないので、肉が霊に服すように女は男に服さなければならない。現世の弱さと滅びのうちにある肉は霊にさからって欲望を燃やし求めるからであり、従って聖霊は女に対し肉が権威となりうるようなものを与えようとしない」と述べている。
四大教父の一人、聖アンブロシウスは『六日間天地創造説』で「アダムはエバにだまされたのであり、エバがアダムにだまされたのではない。従って女が女らしい手軽さのために再び足をすべらせて堕落しないように、女が罪に誘い込んだ男を支配者として受け入れ認めるのが正しいことである。」又、「エペソ人への手紙」に触れ「女は主に向かうように夫に服従せよ。なぜなら男は女のかしら、キリストは教会のかしらで体の救い主であるからである。ところで教会はキリストに服しているのであるから、そのように女はあらゆることで夫に服さなければならない」
さらに続けて「女は自然法により、男に服するように命じられている。なぜならば、男は女の作成者で創始者であるから。すなわちキリストが教会のかしらであるように、男は女のかしらである。教会はキリストに始原を持つのだから、教会はキリストに服する。同じように女は男に始源を持つのだから女は服従すべきである」と教えている。
私はこうした古代教父の教えに忠実でありたいと考えます。ゆえにフェミニズムへの敵意は当然のことです。
なお「女は男に始源を持つ」というのは現代科学の成果と一見、矛盾するようだが結論は同じことである。私は発生生物学は全く素人だが、たぶんこうだろう。つまり胎児はテストステロンの分泌によってはじめて男性になる。原型が女で、その特殊型・進化型が男です。祖型類人猿が原型で、その特殊型・進化型がヒトである。生物学では後から出てきたものが高等なのです。時系列的問題は本質的なものではなく、後から出てきた男が原型の女より高等なのであって、後から出てきたヒトがサルを支配するべきなのであり、サルがヒトを支配したり平等を主張することは容認できないから、結局生物学の成果は、聖書や教父の見解を補強するものと理解できる。
そんな私の解釈は全くくだらないものであるが、四世紀に教皇によって編まれたものとされる『使徒教憲』は決定的な意義を有するもので、これは12世紀にグラティアヌスの教令集の中に広く受け入れられ、現代に至るまで重要な意味を持つ。
「われわれは、女性が教会で教えるという仕事をなすことを許さない。彼女らは祈り教師の教えを聞くのみでなければならない。なぜならわれわれの師である主イエスは、民衆と異教徒に教えるため、われわれに十二人の男性のみを遣わされたのであり、決して女性をお遣わしにならなかった。女性がいなかったというわけではないのに。というのも、主の母とその姉妹、マグダラのマリアやヤコブの母マリア、ラザロの姉のマルタとマリア、サロメ、その他がいたのだから、であるから、もし女性にふさわしい事がらであるなら、彼自身が女性をお呼びになったであろう。しかし男が女の頭であるなら、体の他の部分が頭を支配するのは適当ではない」第三巻、六(註4)
これが正統的な教会の規範である。ところが1994年に英国国教会のジョージ・ケアリー・カンタベリー大主教は女性司祭の叙任を容認した。このため不満を持つ信徒がカトリックに改宗したということが報道されていましたが、非常に不愉快であるとともに女性司祭容認のリベラルな教派には幻滅しました。こうしたリベラルな教会はもはやグノーシス派やカタリ派のような異端に接近してしまったといわざるをえません。現代はフェミニストの攪乱によって混乱に陥っています。
(註1)滝沢正彦「『失楽園』の夫婦像-「人間」への成長としての原罪-」辻裕子,佐野弘子編 『神、男、そして女 : ミルトンの『失楽園』を読む 』 英宝社 1997 28頁
(註2)ウタ・ランケ-ハイネマン著 高木昌史他訳 『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 238~239頁
(註3)ジョン・ノックス著 飯島啓二訳「女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り」『宗教改革著作集第十巻カルヴァンとその周辺Ⅱ』教文館 1993
(註4)ウタ・ランケ-ハイネマン著 高木昌史他訳 『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 178頁
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