(承前)
一 先例の合憲性判断基準を変更していないのに結論が違憲となるのは納得できない
(要旨)今回の大法廷決定の憲法14条1項の適合性判断基準は、平成七年大法廷決定(合憲)と同じく立法府に与えられた裁量判断を尊重する合理性の基準を変更していない。手段審査を加えた平成五年東京高裁違憲決定のような厳重な合理性テスト(中間審査基準)を採用していないにもかかわらず、裁判官の主観的判断で合理的根拠を失ったとしたのは全く不可解である。
⒋ 憲法適合性判断基準を変えてないのに、裁判官の主観によって合理的根拠を失ったとするのは論理性に乏しい
9・4大法廷決定は、憲法14条1項の適合性の判断基準について、昭和39年5月27日大法廷判決等の判断基準を変更していない。法の下の平等とは、事柄の性質に応じて合理的な根拠に基づくもので限り、法的な差別取扱いを禁止するというものである。合理的な根拠が認められれば、差別的取扱いを正当化できる、立法府の判断を尊重し合憲する緩やかな合理性審査である。
「相続制度は,家族というものをどのように考えるかということと密接に関係しているのであって,その国における婚姻ないし親子関係に対する規律,国民の意識等を離れてこれを定めることはできない。これらを総合的に考慮した上で,相続制度をどのように定めるかは,立法府の合理的な裁量判断に委ねられているものというべきである。・・・・立法府に与えられた上記のような裁量権を考慮しても,そのような区別をすることに合理的な根拠が認められない場合には,当該区別は,憲法14条1項に違反するものと解するのが相当である。」と述べているとおりである。
今回と基本的に同じような枠組で違憲判断を下した尊属殺重罰規定違憲判決(大判昭和48年4月4日刑集27巻3号265頁)では、刑法200条の立法目的を「被害者が尊属である」を「量刑上重視」する事と認定し、刑を加重しても「かかる差別的取り扱いをもって直ちに合理的根拠を欠くものと断ずることはではない」としたうえで、加重が正当な範囲におさまっているかを検討し「尊属殺の法定刑は、それが死刑または無期懲役刑に限られている点(現行、刑法上、これは外観誘致罪を除いて最も重いものである)において、あまりにも厳しいものというべく‥‥尊属に対する敬愛や報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理の尊重の観点のみをもってしては、これにつき十分納得すべき説明がつきかねる」として合理的根拠を欠くとしたのであって、刑法が尊属殺人と普通殺人と量刑の差異をつけていること自体を憲法違反としているわけでは全くない。つまり普通殺人なら執行猶予を得ることができるが、尊属殺人でも事件によっては執行猶予を認めた方が良い事例(このケースでは娘が実父から継続的に性的虐待を受け、親娘の間で5人の子(うち2人が夭折、他にも6人を妊娠中絶)を産む夫婦同様の生活を強いられていた)、執行猶予を認める規定が存在しないのがあまりにも厳しすぎるので違憲という判決なのである[i]。歴代の最高裁長官のなかでも保守派とみられる石田和外コートの判例であり、今回の違憲決定のように、社会変革を促すとしいう趣旨の司法積極主義とはいえない。
むろん殺人の量刑と、相続の問題を同列には扱えないが、民法900条4号但書は比較法的にみれば、非嫡出子は尊重されており、「あまりに厳しい差別」とは全くいえないのである。
近代民法の基本的モデルである1804年ナポレオン民法は、認知した自然子(単純私生子・婚前交渉子)の相続権を認めたが、姦生子、乱倫子の相続権を否定し、それが認められたのは1972年と比較的最近なのである。単純私生子、姦生子、乱倫子というのはローマ法の区分であるが、我が国では、旧法から姦生子か否か、未成熟か否かを問わず非嫡出子に相続権を認めてきた。これは最近まで姦生子の相続を否定してきた欧州の婚外子法と大きくちがうところである。[ii]実父母の扶養の権利も認めず、非嫡出子は誰の子供でもないとするコモン・ローはさらに厳しく、20世紀にいたり英米法圏では制定法により母子関係を認めるなど原則が緩和されてきたてきたとはいえ非嫡出子に厳しいものといえる。
しかし、我が国では庶子を家に入れ跡継ぎとする、伝統的な庶子優遇の思想があるため、欧米の事情とは全く違うのである。
我が国でも戦後民法改正時の論議においても欧米のように非嫡出子の法定相続を否定する提案があった。1940年代後半で、非嫡出子全般にわたって父親から相続権を認める国はほとんどなかったから道理である。第二委員会の村岡委員(女性)の次の発言である。「婚姻外で生まれた子供には相続の権利は与えなくて、その代わり扶養のための費用と、教育費というものを十分に取って、将来の自立のための責任は父親がとるべきと考える‥‥」[iii]と述べたが、そうはならなかった。明治15年に妻妾制が廃止されたとはいえ、我が国は重婚的内縁関係に許容的であり、憲法24条のいうような欧米的なモノガミー、両性の合意による婚姻の奨励・保護という立場なら、非嫡出子の相続権否定もありえた選択であったにもかかわらずそうならなかったということは、庶子優遇の伝統的家族観が支持された結果にほかならない。我が国に厳しい差別などないし、なかったのである。
我が国の最高裁が、司法の謙抑的姿勢を示し、立法府の判断を尊重してきたこと。先例において民法900条4号但書が「法律婚の尊重と非嫡出子の保護の調整を図ったもの」として合理的根拠があると判断を下している以上、合憲性判断基準を変更しない限り、違憲という結論にいたるのは全く不自然だといえる。
法律婚制度の保護という大義は軽んぜられるべきものではない。法律婚制度がよく定着していることにより、我が国は外国のようにシングルマザー等の問題が深刻でない。このことは社会に安定性をもたらしている。家族が道徳や社会規範、生活様式、マナー、文化、あるいは家業の継承において技術・技能を次世代に伝える基本的な単位であり、法律婚制度を保護することは、政府にとって重要な利益である。加えて今回の大法廷決定でも言及している「家督相続は廃止されたものの,相続財産は嫡出の子孫に承継させたいとする気風」それは日本的家族慣行であり、大多数の国民の嫡出家族保護の価値観も合理的根拠に加えてもよいくらいだ。
ところが9・4大法廷決定は、結論的部分で、「昭和22年民法改正時から現在に至るまでの間の社会の動向,我が国における家族形態の多様化やこれに伴う国民の意識の変化,諸外国の立法のすう勢及び我が国が批准した条約の内容とこれに基づき設置された委員会からの指摘,嫡出子と嫡出でない子の区別に関わる法制等の変化,更にはこれまでの当審判例における度重なる問題の指摘等を総合的に考察すれば,家族という共同体の中における個人の尊重がより明確に認識されてきたことは明らかであるといえる。そして,法律婚という制度自体は我が国に定着しているとしても,上記のような認識の変化に伴い,上記制度の下で父母が婚姻関係になかったという,子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず,子を個人として尊重し,その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきているものということができる。
以上を総合すれば,遅くともAの相続が開始した平成13年7月当時においては,立法府の裁量権を考慮しても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的な根拠は失われていたというべきである。」という非常にわかりにくい理由で合理的根拠を失ったとする。
合理的根拠を失ったとする理由のひとつとして「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず,子を個人として尊重し,その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきている」という認識の変化、それは国民の認識なのか、内外の情勢を含めた集合意識的なものなのか不明であるが、そういう決まり文句を唐突にも挙げている。
しかし、これは奇妙である。金森担当大臣の政府解釈でも適切な根拠、最高裁の先例でも合理的根拠により差別は正当化されるのであり、憲法14条1項とは、自ら選択の余地の出生によって生じる差異による区別を憲法上疑わしいく区分とするものではない。今回の大法廷決定もそういう判断基準をあらたに設定したわけでもない。
出生によって決定されたいっさいのものについてはより厳しい司法審査の対象とすべきなどとは、ひとことも大法廷決定はいっていないのに、この部分がクローズアップされて報道され、判旨の核心であるかのように印象操作されている。
そもそも出生によって変えられない差異による差別を否定することが、国民の認識だと言っているのだとすれば、裁判官の独善的な主観にすぎない。実際、内閣府世論調査でも昭和24年に非嫡出子相続分格差を変えないほうがよい35.6%、格差をなくしたほうがよい25.8%で、消極的支持も含めて、多数の国民が民法900条4号但書をよくないとは思っていない。嫡出家族の保護。「本妻」保護の意識から「本妻」の子と「妾」の子の相続分を平等とすることに抵抗感のある人は、戦後民法改正時から一貫して少なくないはずである。
内外の情勢の変化についていえば、外国の立法例については重要な問題があるので、後段で検討するが、国連の「市民的及び政治的権利に関する国際規約」いわゆる国連のB規約にもとづく、国連の人権委員会での報告事項、提案、勧告における婚外子法制に対する懸念の指摘などがあることを引いているけれども、これらの勧告は拘束力や制裁はとくに定められていない。児童の権利条約にしても、具体的に何が条文に反するかは、締約国の解釈によるものなのではないか。これらの規約や条約を我が国の憲法判断の法源とすることは不適切であると考える。それは公務員の労働基本権に関する判断でILO勧告やドライヤー報告に拘束されないし、法源にもならないことと同じことだと思う。
また平成5年6月23日東京高裁遺産分割抗告違憲決定の論評で違憲論者でもある君塚正臣ですら、「出生によって決定された一切のものが厳しい審査の対象なのかは、なお慎重に検討する余地があるように思われる」と消極的な見解を述べているのである。
いわく「世の中に全く同じ遺伝子はまずない以上、出生によって生じる差異は、われわれの総てだともいえなくもない。才能、体質、遺伝的欠陥、血液型、双子か否か、また親や身内が誰で、どの世代としてどの地域でいかなる民族の一員として誕生したか」。[iv]
それらについて憲法上疑わしい差別となりうるかについては、学説上もほとんどないし、はなはだ疑問なのである。
したがって憲法14条が求めていない「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず」を決まり文句のような偽装のもとに使用している、いんちきな心証を与えるものである。
大法廷決定は、合理的根拠によって差別は正当化されるという判断基準を変えていないのに、客観的根拠もなく唐突にも判断基準をこえる厳格な価値観を持ち出し「自ら選択ないし修正する余地のない事柄」による差別を否定する風潮になっているから、合理的根拠を失ったという矛盾した論法で、きわめてわかりにくく独善的、主観的、強引な説明で違憲判断を行っている。まるで憲法の条文や先例よりも、世の風潮、空気を読むことを重視しているような憲法判断であり、論理性にはなはだ乏しいものといわなければならない。
5.平成5年6月23日東京高裁違憲決定との論理構成の違い
東京地裁の違憲判決はこれだけでないが、違憲説の中間審査基準を採用したことにより注目された平成5年6月23東京高裁違憲抗告事件決定(判タ№823)との論理構成の違いを検討してみる。
平成5年東京高裁決定は、まず憲法14条1項後段列挙事由に意味をもたせようとしたところが、先例と異なる。後段列挙事由のひとつである「社会的身分」とは出生によって決定される社会的地位、身分と解釈され、非嫡出性も「社会的身分」とするのである。
先例は、非嫡出性が「社会的身分」に当たるとし言ってないし、金森国務大臣の政府解釈も非嫡出性が「社会的身分」には当たらないと明確に述べているので、新奇な解釈ともいえる。
そのうえで、「社会的身分を理由とする差別的取扱いは、個人の意思や努力によってはいかんともしがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格の価値の平等の原理を至上のものとした憲法の精神にかんがみると、当該規定の合理性の有無の審査にあたっては、立法の目的が重要なものであること、およびその目的と規制手段との間に実質的関連があることの二点が論証されなければならない」とする。
個人の意思や努力によってはいかんともしがたい性質の差別取扱いは中間審査基準を憲法適合性判断基準とすべきだというものであり、学説上の違憲説のテクニックを採用したものである。
立法目的については「適法な婚姻に基づく家族関係を保護する」ことが重要な目的であることを認めたが、「他方で非嫡出子の個人の尊厳も等しく保護されなければならない」としその双方が両立する解決方法をとるべきだとする。
そのうえで目的と規制手段の実質的関連性について、「妻の子の利益を妾の子のそれよりも重視することに
より、結果的に法律婚家族の利益が一定限度で保護されていること自体は、否定しがたい。その意味では、右の規制と立法目的との間には、一応の相関関係があるといえる。」とし、手段審査はパスのような言い回しもするが、「しかしながら、右の規制があるからといって、婚外子の出現を抑止することはほとんど期待できない上、非嫡出子から見れば、父母が適法な婚姻関係にあるかどうかはまったく偶然なことに過ぎず、自己の意思や努力によってはいかんともしがた
事由により不利益な取扱いを受ける結果となることが留意されるべきである。こ れは、たとえていえば、正に「親の因果が子に報い」式の仕打ちであり、人は自己の非行のみによって罰又は不利益を受けるという近代法の基本原則にも背反していることが見逃されてはならない。次に、民法九〇〇条四号但書前段の規制は、一律に非嫡出子の相続分を嫡出子の
それの二分の一としているから、たとえば、母が法律婚による嫡出子を儲けて離婚した後、再婚し、子を儲けた場合に、再婚が事実上の婚姻にすぎなかったときは、 母の相続に関しても、嫡出子と非嫡出子とが差別される結果となり、同号但書前段
が本来意図している法律婚家族の保護(その実質がいわゆる妾の子よりも妻の子を保護することにあることは前叙のとおりである)を越えてしまう結果を招来すること、このような場合には、いいかえれば、規制の範囲が立法の目的に対して広きにすぎることが指摘されなければならない。以上のとおり、民法九〇〇条四号但書前段の規制は、目的に対して広すぎるという意味で正確性に欠けるだけではなく、婚外子の出現を抑止することに関しほとんど無力であるという意味で、適法な婚姻に基づく家族関係の保護という立法目的を
達成するうえで事実上の実質的関連性を有するといえるかどうかも、はなはだ疑わしいといわざるを得ない」などと述べ、立法目的との相関関係を一応認めつつも、規制手段が目的に対して広すぎ、実質的関連性を有するとはいえないとして、違憲との結論を導き出している。
しかし9.4大法廷決定は、従来どおりの合理性審査で、個人の意思や努力によってはいかんともしがたい性質の差別取扱いだから、それより厳重な目的と規制手段に実質的な関連があるかという審査をするというものではない。また非嫡出性が後段列挙事由の「社会的身分」に当たるとも言ってないのだ。
従来どおりの合理性審査ということなら、目的との相関関係が認められることでパスでよいはずである。
平成5年東京高裁決定は、非嫡出子差別が「自己意思や努力によってはいかんともしがた
事由により不利益な取扱いを受ける」「まさに『親の因果が子に報い』式の仕打ちであり、人は自己の非行のみによって罰又は不利益を受けるという近代法の基本原則にも背反している」という評価それ自体が立法目的の重要性と規制手段との相関性による合憲性の推定を相殺するというようなコンテキストで、違憲判断の決め手のように用いられている。中間審査基準が妥当かという問題を抜きにすれば、全体の脈絡としてはわかりやすい違憲決定になっている。
しかし、9.4大法廷決定は、「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず」という理屈じたいから違憲判断を導くのではなく、そういう認識が確立されたという意味不明なことがらが「合理的根拠」をうしなったとする一例として挙げているので、非常にわかりにくいのである。
認識が確立されたというが日弁連やあなたがた法曹はそういう認識かもしれないが、私は一国民だが、内外の情勢を綜合してもそういう認識をもってない他の多くの人もそうだろう。だから認識の確立とはなにか意味不明なのである。
この点でいえば昭和48年の尊属殺違憲判決のほうがはるかにわかりやすかった。普通殺人なら懲役三年で執行猶予がつくことがある。しかし、親殺しでは最低でも無期懲役で執行猶予はつかない。実父から継続的に性的虐待を受け、近親姦で5人の子(うち2人が夭折、他にも6人を妊娠中絶)を産む生活を強いられていた。監禁もされた。結婚も認められなかった。実父を殺したとしても同情すべき点が多々ある。執行猶予でもよいのではという大岡裁き的人情判決だったのである。
しかし今回の大法廷決定に何の人間味も感じない。違憲判断の本心は何か。一つには、非嫡出子相続問題を含む、平成八年二月二十六日法制審議会総会決定「民法の一部を改正する法律案要綱」は夫婦別姓の導入や女子婚姻年齢の引き上げ、再婚禁止期間の短縮などを内容とするものだが、夫婦別姓について日本会議などの保守勢力が強く反発したことなどから、17年たっても実現していない。これらを推進した日弁連女性委員会のメンツはつぶされているし不満も募っている。その中の一つである民法900号但書ぐらいは、叩き潰してやって、日弁連のメンツもたててやろうみたいな、身内の法曹界の特殊な事情があるのではないか。そればかりか、国民の意識が変化したのではないのに、日弁連女性委員会の考えるように国民の婚姻制度に対する意識を変えさせようという、社会改革の意図をもっているのではないか。だとすればそれは傲慢な司法による政策形成である。悪しき司法積極主義といわなければならない。
[i]ブログ酔っ払いのうわごと最高裁は尊属殺人を違憲とは言っていないhttp://d.hatena.ne.jp/oguogu/20100221/1266741050
[ii] 佐藤隆雄「非嫡出子と相続問題-東京高裁判決の視点より」『法律のひろば』46巻9号1993年
[iii] 我妻栄編『戦後における民法改正の経過』288頁
[iv] 君塚正臣「非嫡出子の憲法学」『阪大法学』44巻2.3号1994年
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