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2013年10月の8件の記事

2013/10/30

成人年齢引き下げ反対だ

 非嫡出子問題は未完成で投げ出すこととした。というのは就業規則改正案をまとめるとぶちあげているのでこれをすぐやることに決めたからである。費用対効果の問題で、国政も重要だが、まず職場改革の方が成功率が高いという判断である。

 しかし、国政でも心配していることは少なくない。まず今国会では成立しそうにないといわれている国民投票法改正案。「成年18歳「3年内に」 国民投票法改正案 自民が修正検討」という産経の記事だがhttp://sankei.jp.msn.com/politics/news/131030/plc13103008560006-n1.htm そもそも、成人年齢引き下げは民主党の公約であつて、この法律をねじれ国会で通すときに当時の中川政調会長が民主党と妥協したため、宿題になってしまったのである。ところが、自民党議員が民主党化してしまったのか、民主党の選挙公約のように成人年齢もと言っているのは理解し難い。

 選挙権と成人年齢と飲酒年齢は違ってもいいと思う。アメリカでは飲酒は21歳以上の州が多いんでしょ。最善なのは何も変えないことである。

そもそも、アメリカではコモンローの成人年齢が21歳なのに選挙権を18歳に引き下げたのは、ベトナム戦争で若者が命懸けで出征するのだから、参政権が与えられるべきだという世論のためであって、徴兵制が前提なのである。徴兵登録の前提として参政権を与えよという理屈だ。

 しかし我が国では外国とちがって徴兵制ではないから、18歳に引き下げなければならない必然性はないはずだ。

政治的取引で、制度がいじくられるのは一番良くないと考えるからである。

 

 

2013/10/17

本日の頭上報告

 ビラを配られたあと15時36分から14分ほどの頭上報告が分会書記長からあった。内容は都の人事委員会の勧告の内容が、今年もマイナスである意味と、それを批判、分限処分による降格制度の導入案にも反対だなどといい、都労連闘争の課題に簡単にふれ、2回の2割3割の勤務時間内職場集会動員の日程と、11月6日のスト権批准投票の呼びかけ、監理団体委託問題の交渉経過を簡単に説明し反対であること、今後の展望などを述べ、最後に都労連闘争と局内闘争の協力よびかけで締めくくった。
 頭上報告について意味のある警告・中止命令(懲戒処分となりうる)ができないのは、施設管理権が確立していないこと。無許可集会を違反行為とする協約、就業規則がないこと。判例変更されたはずの二重の絞り理論がいまだにまかりとおっていることにあると考える。
 非嫡出子相続分違憲決定はこだわりたい問題なので時間をかけたが一応仕上げたあと早くきりあげて、労働問題に戻ることとする。

2013/10/16

無条件降伏じゃ面白くない

 10月10日付夕刊フジで日高直樹「政府債務限度額引き上げ拒否で「まさかの」米政府倒産考えられる」という記事によると、このままオバマ主導で処理されてしまうと、来年の中間選挙で共和党が敗北し壊滅の危機となるから、債務限度額引き上げ拒否し、オバマの指導力の欠如を追及する戦術をとると考えられるとしている。日高氏はロムニーが勝つと云ったのに当たらなかったし、半信半疑だったが、ティーパーティーはデフォルトの脅威に動じないということであるから、「まさか」もありうるのか。
 それは迷惑だと言われるかもしれないが ここまできたら、オバマにデフォルトの責任を負わせてメンツを潰すことができるなら、そっちの方がよいのかもしれない。
 大統領権限を拡大しようとするルーズベルト型大統領と、与えられた権限の範囲内で仕事をするタフト型大統領とどちらが良いかというば、後者だ。一番よいのは連邦予算を縮小したクーリッジ大統領というのがリバタリアンだが、折り合うべきなのは大統領であって、大統領のいうことをきかない下院がけしからんなどというのは筋違い。

2013/10/14

平成25年9月4日最高裁大法廷遺産分割審判抗告棄却決定批判 下書3

(承前)

 

 

一 先例の合憲性判断基準を変更していないのに結論が違憲となるのは納得できない

 

(要旨)今回の大法廷決定の憲法141項の適合性判断基準は、平成七年大法廷決定(合憲)と同じく立法府に与えられた裁量判断を尊重する合理性の基準を変更していない。手段審査を加えた平成五年東京高裁違憲決定のような厳重な合理性テスト(中間審査基準)を採用していないにもかかわらず、裁判官の主観的判断で合理的根拠を失ったとしたのは全く不可解である。

  

⒋ 憲法適合性判断基準を変えてないのに、裁判官の主観によって合理的根拠を失ったとするのは論理性に乏しい

 

 

 94大法廷決定は、憲法14条1項の適合性の判断基準について、昭和39年5月27日大法廷判決等の判断基準を変更していない。法の下の平等とは、事柄の性質に応じて合理的な根拠に基づくもので限り、法的な差別取扱いを禁止するというものである。合理的な根拠が認められれば、差別的取扱いを正当化できる、立法府の判断を尊重し合憲する緩やかな合理性審査である。

 「相続制度は,家族というものをどのように考えるかということと密接に関係しているのであって,その国における婚姻ないし親子関係に対する規律,国民の意識等を離れてこれを定めることはできない。これらを総合的に考慮した上で,相続制度をどのように定めるかは,立法府の合理的な裁量判断に委ねられているものというべきである。・・・・立法府に与えられた上記のような裁量権を考慮しても,そのような区別をすることに合理的な根拠が認められない場合には,当該区別は,憲法14条1項に違反するものと解するのが相当である。」と述べているとおりである。

 今回と基本的に同じような枠組で違憲判断を下した尊属殺重罰規定違憲判決(大判昭和4844日刑集27巻3号265頁)では、刑法200条の立法目的を「被害者が尊属である」を「量刑上重視」する事と認定し、刑を加重しても「かかる差別的取り扱いをもって直ちに合理的根拠を欠くものと断ずることはではない」としたうえで、加重が正当な範囲におさまっているかを検討し「尊属殺の法定刑は、それが死刑または無期懲役刑に限られている点(現行、刑法上、これは外観誘致罪を除いて最も重いものである)において、あまりにも厳しいものというべく‥‥尊属に対する敬愛や報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理の尊重の観点のみをもってしては、これにつき十分納得すべき説明がつきかねる」として合理的根拠を欠くとしたのであって、刑法が尊属殺人と普通殺人と量刑の差異をつけていること自体を憲法違反としているわけでは全くない。つまり普通殺人なら執行猶予を得ることができるが、尊属殺人でも事件によっては執行猶予を認めた方が良い事例(このケースでは娘が実父から継続的に性的虐待を受け、親娘の間で5人の子(うち2人が夭折、他にも6人を妊娠中絶)を産む夫婦同様の生活を強いられていた)、執行猶予を認める規定が存在しないのがあまりにも厳しすぎるので違憲という判決なのである[i]。歴代の最高裁長官のなかでも保守派とみられる石田和外コートの判例であり、今回の違憲決定のように、社会変革を促すとしいう趣旨の司法積極主義とはいえない。

 むろん殺人の量刑と、相続の問題を同列には扱えないが、民法900条4号但書は比較法的にみれば、非嫡出子は尊重されており、「あまりに厳しい差別」とは全くいえないのである。

 近代民法の基本的モデルである1804年ナポレオン民法は、認知した自然子(単純私生子・婚前交渉子)の相続権を認めたが、姦生子、乱倫子の相続権を否定し、それが認められたのは1972年と比較的最近なのである。単純私生子、姦生子、乱倫子というのはローマ法の区分であるが、我が国では、旧法から姦生子か否か、未成熟か否かを問わず非嫡出子に相続権を認めてきた。これは最近まで姦生子の相続を否定してきた欧州の婚外子法と大きくちがうところである。[ii]実父母の扶養の権利も認めず、非嫡出子は誰の子供でもないとするコモン・ローはさらに厳しく、20世紀にいたり英米法圏では制定法により母子関係を認めるなど原則が緩和されてきたてきたとはいえ非嫡出子に厳しいものといえる。

 しかし、我が国では庶子を家に入れ跡継ぎとする、伝統的な庶子優遇の思想があるため、欧米の事情とは全く違うのである。

 我が国でも戦後民法改正時の論議においても欧米のように非嫡出子の法定相続を否定する提案があった。1940年代後半で、非嫡出子全般にわたって父親から相続権を認める国はほとんどなかったから道理である。第二委員会の村岡委員(女性)の次の発言である。「婚姻外で生まれた子供には相続の権利は与えなくて、その代わり扶養のための費用と、教育費というものを十分に取って、将来の自立のための責任は父親がとるべきと考える‥‥」[iii]と述べたが、そうはならなかった。明治15年に妻妾制が廃止されたとはいえ、我が国は重婚的内縁関係に許容的であり、憲法24条のいうような欧米的なモノガミー、両性の合意による婚姻の奨励・保護という立場なら、非嫡出子の相続権否定もありえた選択であったにもかかわらずそうならなかったということは、庶子優遇の伝統的家族観が支持された結果にほかならない。我が国に厳しい差別などないし、なかったのである。

我が国の最高裁が、司法の謙抑的姿勢を示し、立法府の判断を尊重してきたこと。先例において民法9004号但書が「法律婚の尊重と非嫡出子の保護の調整を図ったもの」として合理的根拠があると判断を下している以上、合憲性判断基準を変更しない限り、違憲という結論にいたるのは全く不自然だといえる。

 法律婚制度の保護という大義は軽んぜられるべきものではない。法律婚制度がよく定着していることにより、我が国は外国のようにシングルマザー等の問題が深刻でない。このことは社会に安定性をもたらしている。家族が道徳や社会規範、生活様式、マナー、文化、あるいは家業の継承において技術・技能を次世代に伝える基本的な単位であり、法律婚制度を保護することは、政府にとって重要な利益である。加えて今回の大法廷決定でも言及している「家督相続は廃止されたものの,相続財産は嫡出の子孫に承継させたいとする気風」それは日本的家族慣行であり、大多数の国民の嫡出家族保護の価値観も合理的根拠に加えてもよいくらいだ。

 ところが94大法廷決定は、結論的部分で、「昭和22年民法改正時から現在に至るまでの間の社会の動向,我が国における家族形態の多様化やこれに伴う国民の意識の変化,諸外国の立法のすう勢及び我が国が批准した条約の内容とこれに基づき設置された委員会からの指摘,嫡出子と嫡出でない子の区別に関わる法制等の変化,更にはこれまでの当審判例における度重なる問題の指摘等を総合的に考察すれば,家族という共同体の中における個人の尊重がより明確に認識されてきたことは明らかであるといえる。そして,法律婚という制度自体は我が国に定着しているとしても,上記のような認識の変化に伴い,上記制度の下で父母が婚姻関係になかったという,子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず,子を個人として尊重し,その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきているものということができる。

 以上を総合すれば,遅くともAの相続が開始した平成13年7月当時においては,立法府の裁量権を考慮しても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的な根拠は失われていたというべきである。」という非常にわかりにくい理由で合理的根拠を失ったとする。

 合理的根拠を失ったとする理由のひとつとして「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず,子を個人として尊重し,その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきている」という認識の変化、それは国民の認識なのか、内外の情勢を含めた集合意識的なものなのか不明であるが、そういう決まり文句を唐突にも挙げている。

 

しかし、これは奇妙である。金森担当大臣の政府解釈でも適切な根拠、最高裁の先例でも合理的根拠により差別は正当化されるのであり、憲法141項とは、自ら選択の余地の出生によって生じる差異による区別を憲法上疑わしいく区分とするものではない。今回の大法廷決定もそういう判断基準をあらたに設定したわけでもない。

 出生によって決定されたいっさいのものについてはより厳しい司法審査の対象とすべきなどとは、ひとことも大法廷決定はいっていないのに、この部分がクローズアップされて報道され、判旨の核心であるかのように印象操作されている。

 

 そもそも出生によって変えられない差異による差別を否定することが、国民の認識だと言っているのだとすれば、裁判官の独善的な主観にすぎない。実際、内閣府世論調査でも昭和24年に非嫡出子相続分格差を変えないほうがよい35.6%、格差をなくしたほうがよい25.8%で、消極的支持も含めて、多数の国民が民法900条4号但書をよくないとは思っていない。嫡出家族の保護。「本妻」保護の意識から「本妻」の子と「妾」の子の相続分を平等とすることに抵抗感のある人は、戦後民法改正時から一貫して少なくないはずである。

内外の情勢の変化についていえば、外国の立法例については重要な問題があるので、後段で検討するが、国連の「市民的及び政治的権利に関する国際規約」いわゆる国連のB規約にもとづく、国連の人権委員会での報告事項、提案、勧告における婚外子法制に対する懸念の指摘などがあることを引いているけれども、これらの勧告は拘束力や制裁はとくに定められていない。児童の権利条約にしても、具体的に何が条文に反するかは、締約国の解釈によるものなのではないか。これらの規約や条約を我が国の憲法判断の法源とすることは不適切であると考える。それは公務員の労働基本権に関する判断でILO勧告やドライヤー報告に拘束されないし、法源にもならないことと同じことだと思う。

また平成5623日東京高裁遺産分割抗告違憲決定の論評で違憲論者でもある君塚正臣ですら、「出生によって決定された一切のものが厳しい審査の対象なのかは、なお慎重に検討する余地があるように思われる」と消極的な見解を述べているのである。

 いわく「世の中に全く同じ遺伝子はまずない以上、出生によって生じる差異は、われわれの総てだともいえなくもない。才能、体質、遺伝的欠陥、血液型、双子か否か、また親や身内が誰で、どの世代としてどの地域でいかなる民族の一員として誕生したか」。[iv]

 それらについて憲法上疑わしい差別となりうるかについては、学説上もほとんどないし、はなはだ疑問なのである。

したがって憲法14条が求めていない「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず」を決まり文句のような偽装のもとに使用している、いんちきな心証を与えるものである。

大法廷決定は、合理的根拠によって差別は正当化されるという判断基準を変えていないのに、客観的根拠もなく唐突にも判断基準をこえる厳格な価値観を持ち出し「自ら選択ないし修正する余地のない事柄」による差別を否定する風潮になっているから、合理的根拠を失ったという矛盾した論法で、きわめてわかりにくく独善的、主観的、強引な説明で違憲判断を行っている。まるで憲法の条文や先例よりも、世の風潮、空気を読むことを重視しているような憲法判断であり、論理性にはなはだ乏しいものといわなければならない。

 

 

 

5.平成5623日東京高裁違憲決定との論理構成の違い

 

 東京地裁の違憲判決はこれだけでないが、違憲説の中間審査基準を採用したことにより注目された平成5623東京高裁違憲抗告事件決定(判タ№823)との論理構成の違いを検討してみる。

 

 

 平成5年東京高裁決定は、まず憲法141項後段列挙事由に意味をもたせようとしたところが、先例と異なる。後段列挙事由のひとつである「社会的身分」とは出生によって決定される社会的地位、身分と解釈され、非嫡出性も「社会的身分」とするのである。

 先例は、非嫡出性が「社会的身分」に当たるとし言ってないし、金森国務大臣の政府解釈も非嫡出性が「社会的身分」には当たらないと明確に述べているので、新奇な解釈ともいえる。

 そのうえで、「社会的身分を理由とする差別的取扱いは、個人の意思や努力によってはいかんともしがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格の価値の平等の原理を至上のものとした憲法の精神にかんがみると、当該規定の合理性の有無の審査にあたっては、立法の目的が重要なものであること、およびその目的と規制手段との間に実質的関連があることの二点が論証されなければならない」とする。

 個人の意思や努力によってはいかんともしがたい性質の差別取扱いは中間審査基準を憲法適合性判断基準とすべきだというものであり、学説上の違憲説のテクニックを採用したものである。

 立法目的については「適法な婚姻に基づく家族関係を保護する」ことが重要な目的であることを認めたが、「他方で非嫡出子の個人の尊厳も等しく保護されなければならない」としその双方が両立する解決方法をとるべきだとする。

 そのうえで目的と規制手段の実質的関連性について、「妻の子の利益を妾の子のそれよりも重視することに より、結果的に法律婚家族の利益が一定限度で保護されていること自体は、否定しがたい。その意味では、右の規制と立法目的との間には、一応の相関関係があるといえる。」とし、手段審査はパスのような言い回しもするが、「しかしながら、右の規制があるからといって、婚外子の出現を抑止することはほとんど期待できない上、非嫡出子から見れば、父母が適法な婚姻関係にあるかどうかはまったく偶然なことに過ぎず、自己の意思や努力によってはいかんともしがた 事由により不利益な取扱いを受ける結果となることが留意されるべきである。こ れは、たとえていえば、正に「親の因果が子に報い」式の仕打ちであり、人は自己の非行のみによって罰又は不利益を受けるという近代法の基本原則にも背反していることが見逃されてはならない。次に、民法九〇〇条四号但書前段の規制は、一律に非嫡出子の相続分を嫡出子の それの二分の一としているから、たとえば、母が法律婚による嫡出子を儲けて離婚した後、再婚し、子を儲けた場合に、再婚が事実上の婚姻にすぎなかったときは、 母の相続に関しても、嫡出子と非嫡出子とが差別される結果となり、同号但書前段 が本来意図している法律婚家族の保護(その実質がいわゆる妾の子よりも妻の子を保護することにあることは前叙のとおりである)を越えてしまう結果を招来すること、このような場合には、いいかえれば、規制の範囲が立法の目的に対して広きにすぎることが指摘されなければならない。以上のとおり、民法九〇〇条四号但書前段の規制は、目的に対して広すぎるという意味で正確性に欠けるだけではなく、婚外子の出現を抑止することに関しほとんど無力であるという意味で、適法な婚姻に基づく家族関係の保護という立法目的を 達成するうえで事実上の実質的関連性を有するといえるかどうかも、はなはだ疑わしいといわざるを得ない」などと述べ、立法目的との相関関係を一応認めつつも、規制手段が目的に対して広すぎ、実質的関連性を有するとはいえないとして、違憲との結論を導き出している。

 しかし9.4大法廷決定は、従来どおりの合理性審査で、個人の意思や努力によってはいかんともしがたい性質の差別取扱いだから、それより厳重な目的と規制手段に実質的な関連があるかという審査をするというものではない。また非嫡出性が後段列挙事由の「社会的身分」に当たるとも言ってないのだ。

従来どおりの合理性審査ということなら、目的との相関関係が認められることでパスでよいはずである。

平成5年東京高裁決定は、非嫡出子差別が「自己意思や努力によってはいかんともしがた 事由により不利益な取扱いを受ける」「まさに『親の因果が子に報い』式の仕打ちであり、人は自己の非行のみによって罰又は不利益を受けるという近代法の基本原則にも背反している」という評価それ自体が立法目的の重要性と規制手段との相関性による合憲性の推定を相殺するというようなコンテキストで、違憲判断の決め手のように用いられている。中間審査基準が妥当かという問題を抜きにすれば、全体の脈絡としてはわかりやすい違憲決定になっている。

しかし、9.4大法廷決定は、「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず」という理屈じたいから違憲判断を導くのではなく、そういう認識が確立されたという意味不明なことがらが「合理的根拠」をうしなったとする一例として挙げているので、非常にわかりにくいのである。

認識が確立されたというが日弁連やあなたがた法曹はそういう認識かもしれないが、私は一国民だが、内外の情勢を綜合してもそういう認識をもってない他の多くの人もそうだろう。だから認識の確立とはなにか意味不明なのである。

この点でいえば昭和48年の尊属殺違憲判決のほうがはるかにわかりやすかった。普通殺人なら懲役三年で執行猶予がつくことがある。しかし、親殺しでは最低でも無期懲役で執行猶予はつかない。実父から継続的に性的虐待を受け、近親姦で5人の子(うち2人が夭折、他にも6人を妊娠中絶)を産む生活を強いられていた。監禁もされた。結婚も認められなかった。実父を殺したとしても同情すべき点が多々ある。執行猶予でもよいのではという大岡裁き的人情判決だったのである。

しかし今回の大法廷決定に何の人間味も感じない。違憲判断の本心は何か。一つには、非嫡出子相続問題を含む、平成八年二月二十六日法制審議会総会決定「民法の一部を改正する法律案要綱」は夫婦別姓の導入や女子婚姻年齢の引き上げ、再婚禁止期間の短縮などを内容とするものだが、夫婦別姓について日本会議などの保守勢力が強く反発したことなどから、17年たっても実現していない。これらを推進した日弁連女性委員会のメンツはつぶされているし不満も募っている。その中の一つである民法900号但書ぐらいは、叩き潰してやって、日弁連のメンツもたててやろうみたいな、身内の法曹界の特殊な事情があるのではないか。そればかりか、国民の意識が変化したのではないのに、日弁連女性委員会の考えるように国民の婚姻制度に対する意識を変えさせようという、社会改革の意図をもっているのではないか。だとすればそれは傲慢な司法による政策形成である。悪しき司法積極主義といわなければならない。

  


[i]ブログ酔っ払いのうわごと最高裁は尊属殺人を違憲とは言っていないhttp://d.hatena.ne.jp/oguogu/20100221/1266741050

[ii] 佐藤隆雄「非嫡出子と相続問題-東京高裁判決の視点より」『法律のひろば』4691993

[iii] 我妻栄編『戦後における民法改正の経過』288

[iv] 君塚正臣「非嫡出子の憲法学」『阪大法学』442.31994

2013/10/13

平成25年9月4日最高裁大法廷遺産分割審判抗告棄却決定批判 下書2

(承前)

一 先例の合憲性判断基準を変更していないのに結論が違憲となるのは納得できない

 

(要旨)今回の大法廷決定の憲法14条1項の適合性判断基準は、平成七年大法廷決定(合憲)と同じく立法府に与えられた裁量判断を尊重する合理性の基準を変更していない。手段審査を加えた平成五年東京高裁違憲決定のような厳重な合理性テスト(中間審査基準)を採用していないにもかかわらず、裁判官の主観的判断で合理的根拠を失ったとしたのは全く不可解である。

 

3  婚内子・婚外子の区別は憲法の原意において14条1項に違反しない

 

日本国憲法14条1項は「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と定める。しかし「法の下の平等」とはあらゆる人間を同一に取り扱うことではない。「平等」であるか否かは区別が適切な根拠に基づくものであるか否かによって決定されるというのが、帝国議会の審議過程における金森憲法担当国務大臣の答弁であった。[i]

また憲法の原意において、14条1項に反するものでないことは帝国議会の審議過程から明白な事柄でもある。

 すなわち、貴族院委員会審議において大谷正男議員は、婚内子・婚外子と「社会的身分」による差別禁止規定の関係を問いただした。

 金森国務大臣の答弁は「‥‥相続関係に於て、その他に於て区別することしがありましょうが、それは実質的の問題として果たしてそれに適するかどうか、例えば相続の範囲より考えて見ますと‥‥そう云う庶子、嫡出子と云うものが、どう云う正しき筋において関係があるかと云う問題で判断して、若干の区別を生ずることになろうかと思います。」[ii]

つまり適切な根拠(「正しき筋」)に応じ区別がなされているから、違憲ではないとうことを述べている。

さらに、金森国務大臣は、婚内子・婚外子という立場は、後段列挙事由「社会的身分」にも含まれない立場であり、この区別について後段は適用されないとも述べている。婚内子・婚外子という立場は列挙自由の「社会的身分」の範疇には含まれないし、この概念は「相当に狭い」というのが金森が示した見解だった。

 

 

 ところで、今回の大法廷決定は「法律婚主義の下においても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分をどのように定めるかということについては‥‥時代と共に変遷するものでもあるから,その定めの合理性については,個人の尊厳と法の下の平等を定める憲法に照らして不断に検討され,吟味されなければならない。」と言う。

法定相続分を改正するか否かは、国会議員の仕事であるはずだ。それが裁判所の仕事にすりかわっているのは大変僭越な言い回しだと非難しなければならないが、かりに、憲法解釈は時代の変遷によって変わってよいものであるという趣旨に理解するとしても、憲法解釈論として当然異論のあってよい事柄である。

アメリカ合衆国の憲法解釈論には、解釈主義-非解釈主義、原意主義-非原意主義という対立がある。非解釈主義司法審査の典型は1960年代のウォーレンコートの司法積極主義である。生きた憲法論もそうだが、裁判官自身の社会改革への熱意によって時代状況に応じた憲法解釈により司法による憲法政策を実行するものである。今回の大法廷決定もそれに類するものと私は思うが、ウォーレンコートの憲法解釈が裁量を逸脱して不当に憲法上の権利を拡大したことへの強い反発から、ニクソン任命のレーンクィスト(William H. Rehnquist)判事が上院公聴会で憲法制定者の意図を無視しないことを約束した時期から、原意主義が台頭してきた。[iii]理論家としてはボーク(Robert H. Bork)が著名である。 ボークによれば「憲法制定の際になされた価値選択に明白に矛盾しないかぎり、裁判所は立法府のあらゆる価値選択を受け容れねばならない」。[iv] とする。R・バーガー(Raoul Berger)によれば、裁判所が憲法判断を行う場合には条文を基に解釈し、曖昧な場合には制定者意図に従わなければならないとする。[v]原意主義には賛同できない人でも、情勢の変化を理由とするような非解釈主義的な司法審査には警戒感をもたなければならない。我が国の最高裁は、諸外国の憲法裁判所と違って違憲判決が少ないということで、国民に安心感を与えてきた。選挙で選ばれてない司法による勝手な政策形成を国民は望んでいないはずだ。時代の変遷や状況しだいで憲法判断を替えてしまってよいという主張には容易に同意できるものではない。

すでに述べているように、原則論としては法律婚制度、相続のような重要な事柄は立法府の判断を尊重すべきであり、国会が平成八年二月二十六日法制審議会総会決定「民法の一部を改正する法律案要綱」における民法900条改正について慎重な姿勢をとり今日まで法改正を実施しなかったことは、この要綱が、フェミニストや日弁連女性委員会などの偏った思想を背景としていることから警戒感をもたれたためだろうが、実際非嫡出子相続分改正は世論調査でも少数派であった。一般国民の意識と乖離している法改正案を阻止すること、特定の社会階層や、利益団体の主張に偏向しているもの、たとえ法制審議会の改正案とて、筋の悪い提案は受け容れない、余計な法律をつくらないというのも立派な国会議員の仕事であるのだ。ノイジーマイノリティが騒ぐからといって法改正を進めるということは拙速なものである。

最高裁は法制審議会や日弁連のいうことをきかない国会議員はけしからんとでも思っているのか。法曹、専門家の判断が常に正しいという主張はきわめて傲慢なものであって、法律家の方が世間一般の意識と乖離していることはしばしばありうるからである。

帝国議会の審議過程で明らかなように、婚内子・婚外子の区別は、14条1項に違反しないとするのをオリジナルの意味とするならば、立法府の判断の尊重、司法の自己抑制という立場で原意主義的な反対意見があってもよかったと思うものである。

 

私が今回の大法廷多数意見で最もひっかかったところは、合理的根拠を失ったとする理由のひとつとして「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず,子を個人として尊重し,その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきている」という決まり文句で、現代人の意識がそのように変わった(それは裁判所の主観的判断であって、非嫡出子に対してそのような意識が一般化したとは思えない)ことを挙げていることである。

しかし、憲法14条1項の「平等」とは「自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由とした」区別を禁止するという趣旨ではない。オリジナルの憲法の意図も、先例の合憲性判断基準も意図しないものである。「平等」とは区別が適切な根拠に基づくものであるか否かによって決定されるというのが原意であるから、「自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由とした」区別を憲法的に疑わしいものとして、ただちに違憲とされるべきものではないのである。

百歩譲って、仮に国民にそのような認識が広まっていることが事実だとしても、憲法の要請する平等以上の平等の価値観を基準として憲法判断を下すのは論理矛盾だといわなければならない。

今回大法廷多数意見が述べた「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず,子を個人として尊重し,その権利を保障すべきであるという考え」というフレーズの原型は、合衆国最高裁判例ウェーバー判決Willie Mae WEBER, Petitioner, v. AETNA CASUALTY & SURETY COMPANY et al.406 U.S. 164(1972) http://www.law.cornell.edu/supremecourt/text/406/164#writing-type-1-POWELLにおける「非嫡出子に不利益を課することは、法的負担は、個人の責任または非行になんらかの関連性をもつべきであるという我々の制度の根本概念に反する」[vi]というパウエル判事の決まり文句にあると考える。

このフレーズは言い換えられて、東京高裁平成五年六月二三日違憲決定 判タ823号でも「たとえていえば、正に『親の因果が子に報い』式の仕打ちであり、人は自己の非行のみによって罰または不利益を受けるという近代法の基本原則に反している」と引用されている。

しかしながら1972年ウェーバー判決は、父子関係で初めて非嫡出子の権利を認めた画期的な違憲判決ではあるが、勤務中の父親の事故死に対する遺児の労災補償請求権に関して、父と同居し扶養を受けていた未認知の非嫡出子が争ったものである。問題のルイジアナ州法は労災補償気給付を受けられる子供を「嫡出子、継子、父の死後出生した子供、並びに民法203~205条の下で認知された非嫡出子」と定義し、認知されてない非嫡出子は、「その他の扶養家族」という範疇とされ、他の遺児たちによって受け取られた補償金が許容最高額に達しない場合にのみ求償が許される。[vii]

したがって、この事件は父に扶養され同居している子供の中で「嫡出子・継子・養子・認知された非嫡出子」グループと、未認知の非嫡出子との区別の問題であって、全く労災の求償ができないケースもあるという事例である。

相続の事件ではない。しかも二分の一の相続分と違って、まったく求償できない場合があるというケースである。労災補償や社会保障給付の非嫡出子差別と相続は別の問題と考えることもできるのであって、ウェーバー判決でそういっているからといって、我が国の遺産分割問題と同列に扱ってよいという事柄ではないのである。

 


[i] 木村草太『平等なき平等条項論』東京大学出版会200825

[ii] 清水伸『逐条日本国憲法審議録』有斐閣1962300

[iii] 大林啓吾「時をかける憲法― 憲法解釈論から憲法構築論の地平へ―」『帝京法学』281https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/tos4-1.html#28-1

[iv]君島東彦「現代アメリカの保守主義憲法理論-ボーク判事指名問題を契機に考える」『早稲田法学会誌』41 1991http://hdl.handle.net/2065/6476

[v] 大林啓吾 前掲論文

[vi] 根本猛「非嫡出子差別と憲法-アメリカ合衆国の判例を中心に」『一橋論叢』118 1997handle.net/10086/10739

[vii] 釜田泰介「嫡出・非嫡出による区分と法の平等保護(): アメリカにおける憲法訴訟を中心として(一九六八〜八〇)Discrimination Against Illegitimates and Equal Protection of the Laws (2) : The American Supreme Court 1968-1980『同志社法學 』第1653251981(ネット公開)

2013/10/08

京都朝鮮初級学校-在特会事件京都地裁判決報道の率直な感想

 10月7日在特会が京都朝鮮学校による公園不法占拠事件への抗議活動と称する示威行動の差し止め命令との高額の損害賠償を認め、示威行動のネット公開も不法行為とする京都地裁の判決が新聞で大きく報道されている。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131008-00000116-san-soci
 在特会に非常に厳しい判決に思えるが、新聞記事ではことさら、ヘイトスピーチが目的の街宣のような印象を与えているけれども、この抗議活動の映像は私が見たかぎりでは、公園を不法に学校の運動場として占有し、サッカーのゴールポストや、朝礼台等が置かれ、あたかも、学校所有地のようにしていることを問題視し、行政の対応がぬるく、事実上の便宜供与となっている現状に怒り抗議行動に出たという趣旨というものだったように思う。しかし判決は、「違法な占有状態を解消する目的を装っているが、それが表面的なのは映像から容易にうかがえる」と一蹴している(読売記事)。公園の使われ方は公的問題であり、メディアが全くとりあげない問題提議を行ったことそれ自体は、社会的価値が認められる表現活動のように思え、この点公平な見方なのか疑問に思った。
 判決は人種差別撤廃条約を引用し、「人種差別が具体的損害を生んだ場合に初めて賠償を命じられる」との判断枠組みを示し(毎日)「単に人種差別行為がなされたというだけで賠償を命じることは、新しい立法なしにはできない」としている。
 そこで問題となる人種差別の扇動等を犯罪と認めることを求める人種差別撤廃条約第4条であるが、アメリカ合衆国は「言論の自由を妨げない範囲」という留保を設け、日本も第4条の規定の適応に当たり、『同条に「世界人権宣言に具現された原則、及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って」と規定してあることに留意し、日本国憲法の下における「集会、結社及び表現の自由その他の権利」の保障と抵触しない限度において、これらの規定による義務を履行する。』という留保を宣言している。
 
 学説では細かくみていないが、たぶん集団誹謗表現に着目した規制は表現の自由に抵触するというのがふつうだと思う。朝日が内野正幸中大教授の「差別的表現とはいえ不特定多数に向けられたものなら表現の自由を優先むせざるをえない」とのコメントをのせている。>
 
 アメリカ合衆国最高裁の判例理論では表現内容に向けられた制約についてはとくに重大な表現の自由の問題を提議し、原則的に憲法上疑わしいものとされる。1992年のR.A.V判決(R.A.V. v. City of St. Paul, Minnesota, 505 U.S. 377は、火のついた十字架を中流以上の黒人の住居の敷地にたてたとことが、 「人種・肌の色、心情、宗教、ジェンダー」にもとづく怒りや恐怖をもたらすことを知りながら、火のついた十字架や鉤十字などの物体を設置した者を軽罪として処罰するセントポール市条例に違反するとして起訴された事件であるが、同条例を文面上違憲とした。法廷意見は好ましくない主題に関する見解だけを禁止することを許さないとする。
 しかしVirginia v. Black, 538 U.S. 343 (2003)は、威嚇目的で他人の土地や公共の場所で十字架を焼くことを禁止する州法を合憲とし、威嚇目的で十字架に火をつける行為は処罰できるとしたが、それ以外のヘイトスピーチの規制はアメリカでは困難だといわれる。(松田茂紀〚アメリカ憲法入門』七版 260頁以下、藤井樹也「ヘイト・スピーチの規制と表現の自由」〚国際公共政策研究』9巻2合2005年〈ネット公開〉) 

 ということで、私は、アメリカ判例や、日本政府の人種差別撤廃条約4条の留保もふまえ、ヘイトスピーチ規制立法は、絶対反対である。今回の判決についてもこの枠組みが妥当であるか、行き過ぎた表現活動規制にならないか精査が必要であると考える。
 東京新聞では作家中沢けいのコメントをのせ、「ヘイトスピーチデモの集合場所として公的施設を使おうとする団体に対し、行政機関が断る根拠として使うなど、活動の歯止めになってほしい」と言うが、判決が街宣を禁止したのは学校の周辺に限られているはずであり、公会堂など公的施設の利用について表現内容に着目した規制については、判決理由はともかく多くの判例が違法としていることからそのような見解には強く反対である。

2013/10/06

平成25年9月4日最高裁大法廷遺産分割審判抗告棄却決定批判 下書1

一 合憲性を推定する合憲性判断基準を変更していないのに結論が違憲となるのは納得できない

(要旨)今回の大法廷決定の憲法14条1項の合憲性判断基準は、平成七年大法廷決定(合憲)と同じく立法府に与えられた裁量判断を尊重する合理性の基準(緩やかな合理性テスト)であり、変更されてない。手段審査を加えた平成五年東京高裁違憲決定のような厳重な合理性テスト(中間審査基準)を採用していないにもかかわらず、強引な裁判官の主観的判断で合理的根拠を失ったとして違憲という結論になっているのは全く不可解である。

 1 先例の概要とその評価

 まず平成25年の大法廷決定批判の前提として、民法900条4号但書前段の憲法判断の先例である平成七年七月五日大法廷決定10人の裁判官(草場長官、大熊、園部、可部、大西、小野、三好、千種、根岸、河合)の多数意見(合憲)の要旨その評価、民法900条4号但書の比較法的評価について述べる。
 平成七年大法廷決定は、過去の大法廷判決を参照して、法の下の平等を定めた憲法14条1項は合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであって、各人に存する経済的、社会的その他事実関係上の差異を理由として区別を設けることはその区別が合理性を有する限り右規定に違反するものではないとする。そして、嫡出子と非嫡出子の法定相続分の区別の憲法的適合性判断基準について相続制度の形態には歴史的、社会的にみて種々のものがあること及び相続制度を定めるに当たってはその国の伝統、社会事情、国民感情などの事情並びにその国における婚姻ないし親子関係における規律等を考慮しなければならないことを指摘したうえで、相続制度をどのように定めるかは立法府の合理的な裁量判断に委ねられていることや、本件規定が遺言などによる相続分の指定のない場合などにおいて補充的に機能する規定であることから、本件規定の「立法理由に合理的な根拠があり、かつ、その区別が右立法理由との関連で著しく不合理なものでなく、いまだ立法府に与えられた裁量判断の限界を超えてないと認められる限り、合理的のない差別とはいえず、これを憲法一四条一項に反するものということはできない」とする。
 さらに「本件規定の立法理由は、法律上の配偶者との間に出生した嫡出子の立場を尊重するとともに、他方相続人の子でもある非嫡出子の立場にも配慮して、非嫡出子に嫡出子の二分の一の法定相続分を認めることにより、非嫡出子を保護しようとしたものであり、法律婚の尊重と非嫡出子の保護の調整を図ったものと解される。」とする。その上で「現行民法が法律婚主義を採用したものであるから、右のような本件規定の立法理由にも合理的根拠があるというべきであり、本件規定が‥‥右立法理由との関連で著しく不合理であり、立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えたものということはできない。」 としたのである。
 上記の立法理由についての平成七年最高裁の把握の仕方は妥当なものである。実際、戦後の民法改正における立法趣旨について奥野健一司法省民事局長は「嫡出であるものと嫡出でないものに於いて区別を設けているのでありますが、この点は民法それ自体が適法なる婚姻を尊重するというということに非常に重きをおきます関係上、勿論子供には罪がないことになりますが、婚姻の正当性ということが憲法に重きをおかれている関係から致しまして、必ずしも本質的平等に反するということにはならない‥‥」(臨時法制調査会総会議事速記録)また我妻委員は立法裁量論の立場から「第一に妻の取り分と子供の取り分に差がある。或いは子供の中にも嫡出の子と然らざる子の差があるということは、憲法の本質的平等に反するものではないかというお話ですが、之は私は反しないのであります。何故ならば‥‥妻を入れるか、或いは婚姻外の子供を入れるかどうかということが第一問題なんでありまして、‥‥妻と子供を同一順位にするか、直系尊属は第一、二の順位にするか、兄弟姉妹は第三順位にするか、つまり相続の範囲をどこまで決めるかということは、ある程度まで自由に決めてよい‥‥例えば立法例に依りましては婚姻外の子供は一切相続権がない‥‥それを取り込んで二分の一を与えろということは平等の原則に反するとはいえない。‥‥村岡さんのお話に依りますと、扶養の請求権を認めて然るべきなんだが、相続権はたとい半分でも認めない方がよいじゃないかと趣旨と思います。いかにも御尤も‥‥ただ原案の考えでは、子供の成長するまで父親が生存中に世話をしなくちゃならぬというのは当然で、併しその父親が死んでしまってその後の扶養ということが望みがなくなるという時に、そこで子供に二分の一だけの相続をさせてやることが、父親が生存中に扶養していたということと、最後の締括りにもなろうかという意味も加わりまして二分の一の相続権を認めておいた‥‥」(同288から289ページ以下所収)[ 野山宏「民法900条4号ただし書前段と憲法14条1項(最高裁決定平成7.7.5)」最判解民事篇平成七年633頁『法曹時報 』49(11), 3035-3093, 1997-11が立法趣旨の分析について詳しい。]と述べているとおりである。
 要約すれば民法それ自体が適法な婚姻を尊重し奨励する体系である。憲法でも婚姻を重んじているのであるから無遺言法定相続の格差には合理的根拠がある。外国の立法例を参考にすれば非嫡出子に無遺言相続権を否定する立法もありえたが、非嫡出子の世話をしていた父親が死亡し扶養の望みがなくなるようなことを避けるために二分の一の相続権を認めた。また立法裁量論からすれば妻と子で法定相続分に差異がある。直系尊属と卑属で差異を設けているが、この立法裁量権が法の下の平等に反しないとすれば、同様に嫡庶間の法定相続分の差異も憲法に反するものではないということだ。
 実はアメリカ判例のレイバイン判決 Labine v. Vincent - 401 U.S. 532 (1971). http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=US&vol=401&invol=532 も同じような立法裁量論を展開している。事案は非嫡出子に遺産相続権を認めないルイジアナ州法(例外的に、非相続人に親族がなく、遺産が州に帰属する場合には相続しうる)の合憲性を、5対4の僅差で支持した。このケースは娘が約6年間、父が死ぬまで同居していた。しかしこの事例では父親は非嫡出子に遺産を相続させる遺思を示すか、認知して嫡出子にする希望を示すことが可能であったので平等保護条項に反しないとしている[ 君塚正臣「非嫡出子諸差別の合憲性」『性差別司法審査基準』補章 1996年313頁]。また法廷意見は、遺産処理を規制する権限は、連邦憲法及びルイジアナ州民によって、ルイジアナ州議会に託されているとする。可能な法律のなかからひとつを選ぶのは、州議会であって、最高裁判所裁判官ではないとも述べている。非嫡出子と嫡出子との区別は、家族法における、傍系と直系、尊属と卑属、妻と妾の区別と選ぶところはないと理由づけている[ 根本猛「非嫡出子差別と憲法 アメリカ合衆国の判例を中心に」『一橋論叢』118(1)1997年]。(なお遺産処理規制権限は週の専権事項とするこの判決は1977年の合衆国最高裁はトリンブル判決Trimble v. Gordon 430 U.S. 762  http://www.law.cornell.edu/supct/html/historics/USSC_CR_0430_0762_ZS.htmlは、によって判例変更されているが、アメリカ判例の評価は後段で述べることとする)
 要するに、相続法においては傍系と直系、尊属と卑属、妻と妾は区別されて当然であるが、嫡出子と非嫡出子の区別もそれと同列の次元で論じてよいというものである。
 また西村真理子は2012年の論文[ 西村真理子<論説> 非嫡出子(婚外子)の相続とその前提となる親子関係成立の問題について: アメリカ法を中心として」『学習院大学大学院法学研究科法学論集』19, 59-106, 2012 http://hdl.handle.net/10959/2268 ]でアメリカでは学説でも非嫡出子の全面的平等を認めてないと言う。Browne Lewis, Children Of Men’Balancing The Inheritance Rights Of Marital、And Non-Marital Children,39 U. ToL L. REv.L 18(2007).という学説を紹介し、非嫡出子(婚外子)に対し、「相続に関する厳格なる平等ではなく平等の機会を与えることを主張する。そして、非嫡出子(婚外子)の相続権を扱う制定法を起草する際には、極端な結論一非嫡出子の全面的排除と全面的包含一を回避しなければならないとする。‥‥ほとんどの州の制定法は,非嫡出子(婚外子)がpaternityを立証するについて必要な段階を経るのであれば,非嫡出子(婚外子)に対し,その父親から相続する機会を与えている」。
 つまり多くの州では母親からの相続権を認めるものの、父親からの相続権は範囲が限定的だが、父親から相続する機会を与えているから問題ないということのようだ。
 アメリカでは実は無遺言相続(法定相続)同権論は弱いということである。西村の論文の結論は「アメリカ法においては,無遺言相続(法定相続)は遺言相続の補完的存在であるため,遺言の自由の要請が強く,非嫡出子(婚外子)の相続についてもできる限り遺言で対応することが望ましいとされている」ということである。
 アメリカと我が国では遺言による相続慣行にかなり違いがあるにせよ、民法900条4号但書が遺言などによる相続分の指定のない場合などにおいて補充的に機能する規定である以上、非嫡出子に対して法廷相続分以上の相続を受ける機会を与えているのであるから、その趣旨から平等原則に反しないということもいえるだろう。
 
 いずれにせよ、先例である平成七年大法廷決定は合憲性判断基準を変更しないかぎり、合憲判断は鉄壁に思える。民法が法律婚主義をとっていることは、平成七年の状況と全く変わらない。むしろ国民の家族慣行でも法律婚は定着し、支持されており、世界のなかでも成功例といえるのである。それは平成七年より増加したとはいえ、婚外子の割合が2.2%にすぎないということからも明らかなことで、2.2%という数値は統計学でいえば誤差の範囲内でゼロと言ってもよいほど稀少な数値だといわなければならない。それは我が国の法律婚制度が届出主義により容易、政府は挙式を要求しないし、ライセンスも発行しない。性病などの診断もなく、待婚期間その他の煩わしさがなく、離婚も協議離婚によって容易であるという特質もあるが、我が国の家族慣行にマッチした政府の干渉のほとんどない制度をとっていたからともいえるのである。我が国は明治に妻妾制度は廃止されたものの、明治大正時代を通じて重婚的内縁関係は少なくなかった。また昭和30年代であれば、子ができない嫁を里に返したり、家風に馴染むかを見極めるまで入籍させない「足入れ婚の悲劇」とよばれる経過的内縁関係が地方の婚姻慣行で広く残っていた。むしろ、そうした古風な慣行がすたれたことにより、現代的な意味で法律婚が定着したのである。これは法律婚が倦厭されて事実婚が増大している欧州などの状況と異なる。
 立法目的の婚姻制度、法律婚の奨励尊重という大義(合理的根拠)は失われていないのであるから、手段審差をへることのない「合理性の基準」を最高裁が踏襲する以上、合憲論を崩すことは不可能と評価することができる。にもかかわらず違憲と結論にいたたった今回の大法廷決定は暴論だらけといえる。

2 民法900条4号但所前段の比較法的評価
 

 
 (1) 婚外子の保護、子の同権政策の先進国はソ連であり、婚外子差別撤廃も元をたどればレーニン主義である

 ヨーロッパで、もっとも早く非嫡出子に父方からの相続権を認めたのは1915年のノルウェーであるが、しかし父子関係確定訴訟で多数関係者に抗弁が認められていたので1959年の法改正まで、非嫡出子は相続すべき父を持たなかったといわれている。主要国でいえば、英独で父からの相続権が認められたのは1969年、フランスは1804年ナポレオン民法において認知した自然子(単純私生子・婚前交渉子)の相続権を認めていたが、姦生子、乱倫子の相続権が認められたのは1972年と比較的最近なのである。スウェーデンにしても1958年にようやく自然子の相続権が認められただけである[ 泉久雄「非嫡出子の相続権に関する一つの覚え書」『家庭裁判月報』29(6), p1-23, 1977]。
 非嫡出子差別撤廃の先進国はやはりソ連であった。ソビエト政権は、その成立後のわずか2ヶ月たらずの1917年暮の布告で、婚外子と結婚により生まれたこの完全な同権を宣言し、母に婚外子の父を捜索する権利を与えた。レーニンはこの布告の意義を「下劣で偽善的な不平等を、子にかんする不平等をなくした」(「国際婦人デー」全集第四版第32巻139頁)ものとして強調してやまなかった。この原則は1918年の家族法典をへて、スターリン時代事実婚主義をとったことで知られる1926年家族法典で次のように具体化された。すなわち「児童の利益を保護するために」登記簿によらない子の母は妊娠中および出産後、身分行為登記期間に子の父を指名できる。指名された者は一ヶ月以内に異議を申し立てないと、子の父として出世簿に記録される。1933年の法改正では、母の指示があればただちに出生簿に記載されることとなった。このようにして政府は婚外子の父から扶養料を取り立ていることとなったが、現実に取立ては困難であり、30年代に訴訟の増加によりこの政策は行き詰ることとなる[ 稲子恒夫「ソビエト法における事実婚と婚外子の保護」『名古屋大学法政論集 』14 1960年]。
 1944年7月8日のソ連最高ソビエト幹部会令は、方針を一転して、父の捜索が禁止され、嫡出子のみが父の相続人となった。非嫡出子の監護は国家が引き受け、扶養料は国家が母に支給することで、非嫡出子の保護を図る政策に転換したのである。この状態が変更されたのは1968年10月10日「結婚に家族に関するソ連と連邦厚生共和国の基本法」であり、非嫡出子の相続権の規制を撤廃した[ 泉久雄 前掲論文]。
 そのような紆余曲折があったとはいえ、非嫡出子差別撤廃の先駆者はレーニンであり、このために東欧共産圏諸国が西欧諸国にさきがけ父親からの相続権を認め非嫡出子の相続差別を撤廃している。ハンガリー1947年、ポーランド1950年、チェコスロバキア1964年、東ドイツ1966年である[ 泉久雄 前掲論文]。
 
 (2)1940年代において嫡出子と非嫡出子が同権とした立法例はハンガリーくらいしかない。特に西欧諸国で父親からの相続権が認められるようになったのは、1969年のイギリスと西ドイツを先駆とする。

 
 
 西欧主要国についていえば、フランスは単純私生子に父の捜索を認めたのは1912年。姦生子と乱倫子に扶養料請求の訴が認められたのは1955年である。
 1972年に1804年ナポレオン民法以来の改革がなされ、非嫡出子における自然子(単純私生子)と姦生子・乱倫子の差別をなくし、認知によって嫡出子と同一の地位に立つこととなり、姦生子・乱倫子の父の捜索も許された。ただし嫡出子と競合する場合は、嫡出子の相続分の二分の一をうけるものとされた[ 泉久雄 前掲論文]。ほぼ日本の現行民法と同じ水準になったとみてよいだろう。
 そして2001年「生存配偶者及び姦生子の権利並びに相続法の諸規定の現代化による法律」により非嫡出子の相続に関する差別は撤廃されたとされる。
 ドイツでは1794 年プロイセン一般ラント法が結婚の約束をして生まれた子は、たとえ親が結婚しなくとも嫡出子とみなされた。それ以外の非嫡出子は嫡出子がいないことを条件に遺産の六分の一の相続権を得た[ 宮井忠夫 「西ドイツにおける非嫡出子の法的地位(一)」『同志社法学 』14(4), 51-78, 1962年 ]。また、懐胎期に母が複数の男性と性的関係をもっており、父が特定できない場合には、子の後見人は彼らに対し、子が14 歳になるまでの扶養料を請求できると定めた[  橋本伸也ほか「「子ども」の保護・養育と遺棄をめぐる学際的比較史研究: ディスカッション・ペーパーWEB版・第2号」関西学院大学2011年(ネット公開)]。しかし、ドイツにおいても非嫡出子は長い間、父親から相続権を否定されていた。1896年民法典は、母方及び母方血族からの相続権だけを認めたが、フランスのように姦生子、乱倫子を冷遇することはなかった[ 宮井忠夫 前掲論文]。また非嫡出子の生存を確保するために父に対する扶養請求の訴を認めていた。西ドイツにおいては1969年に画期的な改革がなされ「非嫡出子の法的地位に関する法律」によりそれまでの非嫡出子と父との間の血族関係を否定する条項が削られ、遺言で排除されない限り、原則として父からも嫡出の血族と同等の相続権を有する同一の相続分を保障されるにいたった[ 山口純夫「西ドイツ非嫡出子相続法」『甲南法学』14巻3・4号 1972]。とされる。さらに1998年に「非嫡出子の相続法上の平等化に関する法律」により非嫡出子と嫡出子の差別は撤廃されたという。
 
 
 一方コモン・ローは終始一貫して非嫡出子をfilius Nullis「誰の子どもでもない子」と簡明に述べた。またfilius populi 「人民の子」ともいわれる。つまり非嫡出子はコモンロー上、実の父母との親子関係を一切拒絶された存在として扱われたのである。非嫡出子に対して厳しかった。このことから、非嫡出子は父母のいずれの姓をも称することを拒否され、何人からも財産を相続することを否定されていた。またこれは、父母のいずれも子供の扶養、保護、監督の権利義務を有すさないことを意味し、子供は父母に対しこれらを請求できないことを意味した。このように、父母とのあらゆる関係を認めないというのがコモン・ローである[ 釜田泰介「Lalli v.Lalli,439 U.S.259,99 S.Ct.518(1978)--非嫡出子が無遺言相続により,父親から相続する場合には,父子関係の存在を証明する特定の証明書の提出を求めるが,嫡出子に対してはこれを求めていないニューヨーク州法は第14修正の法の平等保護を侵害するものではないとされた事例」『アメリカ法』1981-1]。したがって非嫡出子は法律以前の親子間の情愛やキリスト教の慈善の問題として扱われ、救貧法の時代には貧民救済の一部と扱われた[ 柳田裕「イングランド法と救貧法による非嫡出子の取り扱い」『八代学院大学紀要』28・29号1985年]。
 母方との血族との関係を認めていたローマ法よりも一見冷厳に思えるが、柳田裕は、大陸やローマ法圏より英国のほうが非嫡出子に寛容であった側面も強調している。つまり、非嫡出子は相続権を有さないが、世俗法に関する限り他のいかなる自由人・適法人と等しく権利能力を有した。この点、13世紀のフランスやドイツの慣習のように全く権利非力が認められなかったのとは違う[ 柳田裕 前掲論文]。なるほど、非嫡出子は聖職と名誉から排除され、そもそも生まれてきてはならない存在だった。しかし歴史的に過酷な扱いを受けたかとうかは慎重な検討が必要である。
 英国でコモン・ロー原則が緩和されるようになるのは、1926年で非嫡出子について、母に嫡出の卑属がない場合に限って母に対する相続権を認めた。これを大幅に改革し、父と母を区別することなく、無遺言で死亡する親の遺産について、非嫡出子に嫡出子と同じ相続権を与えることとしたのは労働党ウィルソン政権の1969年の家族法改正[ 泉久雄 前掲論文]であり、1970年に施行された。コモン・ロー原則との決別である。
 
 アメリカ合衆国において婚姻や相続の立法権は州にある。各州はコモン・ローを継受したが、州法はコモンロー原則の緩和政策をとった。これは母子関係の承認(母の氏、母による扶養、母からの相続)と非嫡出子の嫡出子化(養子縁組、両親の結婚による)という形をとって行われてきたが父子関係については強い抵抗を示してきた[ 釜田泰介 前掲論文]。
 泉久雄が1966年までの資料で分類したのが以下のとおりである。大多数の州が母からの相続権を認めるが、父からの相続権を認める州は少ない。
嫡出子と同様の相続権を認める州 3州
 アリゾナ、カンザス、オレゴン、プエルトリコ
母に対する相続権だけ認める州 20州
 アラバマ、アラスカ、コロラド、ジョージア、メリーランド、ミシガン、ミズーリ、ニュージャージー、オハイオ、ペンシルべニア、ロードアイランド、サウスカロライナ、テネシー、バーモント、バージニア、ウエストバージニア、ワイオミング、アラスカ、ハワイ、コロンビア特別区
母とその血族に対する相続権を認める州 8州
コネチカット、イリノイ、ケンタッキー、マサチューセッツ(母と母親尊属に対して)ミシシッピ、ニューハンプシャー、ノースカロライナ、テキサス
母と認知した父に対する相続権を認める州 19州
カリフォルニア(母の血族に対しても)デラウェア、フロリダ、アイダホ、インディアナ(父性について裁判上の確定を要する。母の血族および父の血族に対しても)アイオワ、ルイジアナ(母に嫡出卑属がいる場合、また父に嫡出の卑属、尊属、傍系親族、あるいは配偶者がある場合には、非嫡出子はアリモニーを請求できるに止まる)メイン(父母の血族に対しても)ミネソタ、モンタナ、ネブラスカ、ネバタ、ニューメキシコ、ニューヨーク、ノースダコタ、サウスダコタ(母親の血族に対しても)ユタ、ワシントン、ウィスコンシン[ 泉久雄 前掲論文]

 イギリスや西ドイツの改革に刺激を受けたのか、アメリカ法律協会及びアメリカ法曹協会が組織する統一州法に関する全国委員会が相続権に関して非嫡出子を実質的に平等に扱う統一遺言検認法を1969年に採択し、1973年に嫡出子であれ非嫡出子であれ父母との法的関係において完全に平等とする統一親子関係法をと承認している。しかしこれは専門家が提案する法改正案モデルにすぎないのであって、もちろん州議会に法改正を強要するものではない。1973年オリジナルの統一親子関係法を採択したのは、アラスカ、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、コネチカット、ハワイ、カンザス、ミシガン、ミネソタ、モンタナ、ネバダ、ニュージャージー、ニューメキシコ、ノースダコタ、ロードアイランド、サウスダコタ、ワシントン、ユタの各州の18州と、コロンビア特別区である[ 西村真理子 前掲論文]。
 
 以上、ざっくりと主要国の立法例を引用したが、世界的に非嫡出子差別撤廃の先駆はソ連であり、レーニンの政策であったといえるのである。1940年代において嫡出子と非嫡出子が同権とした立法例はハンガリーくらいしかない。その後東欧共産圏で差別をなくす立法化が進んだが、西欧諸国で父親からの相続権が認められるようになったのは、1969年のイギリスと西ドイツを先駆とする。ちなみに1969年のイギリスは労働党ウィルソン政権、西ドイツは大連立政権から社民党首班政権に移行し、首相のブラントは私生子でもあった。従って、非嫡出子の相続差別の撤廃というのは、基本的に子の同権という共産主義思想に由来し、西欧においても社会民主主義政策のひとつとして受け入れられるようになったものと理解できる。
 歴史的な事情において非嫡出子の法的地位が欧米と日本で全然違うことは民法学者により指摘されていることだ。
 水野紀子東北大教授は、「西欧法における非嫡出子は、キリスト教文明における価値観からも、社会階層的な実態においても、歴史的に非常な劣悪な地位にあった。‥‥日本法においては、家制度の要請から非嫡出子の法的地位は伝統的に西欧法と比べるとはるかに高いものであった」(「比較婚外子法」『講座・現代家族法3巻』127頁)。
 ヨーロッパにおいては、キリスト教のモノガミーの鉄則があり、ラテン的キリスト教世界では婚姻はサクラメントとして神聖なものであったから、非嫡出子の立場は我が国とはかなり異なるのである。
 我が国においては妻妾制の伝統があり、明治に廃止されたが重婚的内縁関係も許容的だった。欧米と比較するなら伝統的に妾や庶子の法的地位は高いということだろう。
 戦後民法改正時に非嫡出子に父親からの相続権を認める欧米諸国はほとんどなかったといってよい。子の同権を掲げるソ連ですら政策が行き詰って、非嫡出子の扶養の費用は国家が引き受けることなったため、相続権が1944年に否定されたのである。
 したがって、二分の一の無遺言法定相続を定めた、我が国の民法における非嫡出子の法的地位は比較法的にみて高いし厚遇しているといえるのである。民法が基本的には民事法として私人間の諸利益を調整する技術の体系であるという認識が十分に前提とされないまま、短絡的にスローガン的に平等原則の適用の議論が行われることは好ましくない[ 水野紀子「子どもの平等権-非嫡出子問題を中心に」『家族<社会と法>』№10 1994]。嫡出家族の保護も、法律婚主義をとっている以上当然のことであるから、二分の一というのは決して悪いものではないとみるべきである。(つづく)
 

2013/10/03

安倍ウィメノミクスを持ち上げる東京新聞

 うちは新聞をとってないが、保立道久東京大学史料編纂所名誉教授のブログをみていたら、昨年八月のエントリーで、朝日新聞から東京新聞に変えてよかった、500円浮いた分で『世界』を買えるなどと書いているのを見て思わず笑っちゃいますが、大学教授でも商業紙は一紙しかとってないんだな。http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-1651.html世間では東京新聞や共同通信は朝日新聞より左とみなされている。たぶん朝日じゃものたりなくなって東京に変えたということだと思う。
 その東京新聞が本日の「こちら特捜部」で安倍の女性が出産後も仕事を続けられる政策や女性の昇進の後押し、「なでしこ銘柄」といった女性の待遇の良い企業へのお墨付きといった政策を持ち上げて、この際ノルウェーのパパ・クォータ制みたいに、育児分担法制化すべしとぶちあけている。安倍は東京新聞に褒められるんじゃ左翼といわれてもしかたがないと思う。
 政府が民間企業の労務管理、従業員福祉政策に干渉しようとするのがそもそも社会主義的、出産女性の継続雇用を強化すればするほど、女性の新規採用は減らさなければらならない。雇用の抑制効果をもたらす。結局しわよせは他の社会階層の女性にいくことになる。

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