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2014/04/27

児童ポルノ法改正単純所持処罰導入に反対(下書き) その1

 通常国会の終盤に向けて非常に心配しているのは、児童ポルノ法改定案が連休明けにも審議入りの動きである。 http://topics.jp.msn.com/entertainment/general/article.aspx?articleid=4169019

 私は児童ポルノ禁止法それ自体反対だが、単純所持処罰導入はなおさら反対であり、ここでは、技術的な議論ではなく大局的な見地から反対である基本的理由というか私の基本的哲学を述べる

 ○単純所持処罰に反対なのは1969年に猥褻フイルム単純所持処罰を合衆国憲法修正一条及び一四条に反し違憲との判決を下したスタンリー判決の思想が基本的に正しいと考えるため

 

 Stanley v. Georgia 394 U.S. 5571969 http://www.law.cornell.edu/supremecourt/text/394/557は猥褻物件(フイルム)の単純所持処罰を憲法上許容しないとした重要な意義のある判決と考える。左派のサーグッド・マーシャル判事による法廷意見(ウォーレン主席判事、ダグラス、ハーラン、フォータス各判事同調)は、私人がひとりで自宅でどのような本や映画をみようが自由であり、政府にどのような本や映画といった表現物を見るべきか指図する権限はない、表現物を見ることも修正一条(言論の自由・表現権)のコロラリーに含まれる、また政府は家庭内のプライバシーを侵害できないと判示し、未成年者の保護については言及していないが一般論としては正しい判断と考えられる。1969年の連邦最高裁は人権派(左派)過半数を超えており最もリベラルな陣容といえる。マーシャル判事は最左派といえる裁判官だが、アイゼンハワー任命の保守派ハーラン判事、左派ではあるが猥褻物件に必ずしも好意的でないウォーレン長官が法廷意見に加わっていることから安定感のある司法判断との印象を受けるのである。

 事案は、賭博開帳の嫌疑により被告人の家宅捜査をしていた捜査官がたまたま猥褻物件とされるフィルムを差し押さえた。猥褻フィルムの所持がジョージア州法違反として起訴され有罪とされたというものである。連邦最高裁は、全員一致で原判決破棄としたが判決理由は分かれ、ブラック判事とスチュアート判事(プレナン、ホワイト各判事同調)の結果的同意意見がある。

 法廷意見の要旨は大略次のとおり(三島聡『性表現の刑事規制』有斐閣173ページ以下を要約)。

●当裁判所の先例であるロス判決等が、規制することに重要な利益があると認めたのは、猥褻な物件の商業的流通であって、猥褻物件の個人的所持を禁ずる法律の憲法的意味合いを別途検討することを排除しない。

●情報や思想を受領する権利が修正一条によって保障されることは、今日では広く認められている。この権利は、当該表現の社会的価値の如何にかかわらず、われわれの自由な社会の基礎をなすものである。さらに単純所持を訴追した本事案では右の権利に加え、政府から個人のプライヴァシーを制約する場合まで及ばない。

●猥褻表現物規制法の単純所持以外の規定を支える根拠は、個人のプライヴァシーを制約する場合まで及ばない。修正一条に照らして。家にひとりでいる私人に対し、この本は読んでよろしい、この映画は見てよろしいと指図する権限は州にはない。

●修正一条の精神からみて、個人の思想の道徳的内容を州がコントロールする権限があると解することはできない。また、猥褻表現一般に思想的内容が欠いているとしても、所持の許容には影響しない。思想の伝達と単なる娯楽を区別することは非常に困難である。

●猥褻表現が性的逸脱や性的犯罪招く可能性に関しては、実証的根拠は乏しい。一般大衆への販売は、猥褻表現が子どもの手にわたる危険性や一般大衆の感受性・プライヴァシーほ侵害する危険性を常に孕んであるが、これらの危険性は本件(単純所持)には存在しない。

●われわれは、猥褻表現のたんなる個人的所持を犯罪とすることを修正一条、修正十四条が禁じていると解する。

 私人がひとりで自宅で本を読んだり、映画やテレビをみたりしてくつろいだり、あるいはネットを、あるいは写真やその他の映像を見て楽しむことは自由であって、政府がこの領域に干渉すること許されるべきではない。ひとりでほっておいてもらう権利いわゆるプライヴァシーの権利は、現代人にとってまさにブランダイス判事が述べたとおり人権(人格的自律)の核心にあるものといえるのである。

 そして近代個人主義的自由の核心といえる価値、フランス人権宣言第四条「第四条自由は、他人を妨げない限りにおいて すべてのことができる」という原理原則に立てば、たんに本や映像、写真を見て楽しむことはそれ自体、それが商業的流通を法律で禁止されている物件であれ。他者の権利を侵害するものでない以上自由であるというべきである。そのような思想から私はスタンリー判決を全面的に支持するものであり、多くのリベラルな人士も同意見と考える。

 他者の権利を侵害していないということでは賭博や麻薬所持、売春は同一の問題ともいえる。むろん私は、「被害者なき犯罪の非犯罪化」というリベラルな刑事政策に基本的に賛成であるが、性表現物の規制に特に強く反対する理由は次のような意味である。

 

 ○性欲(淫欲)は人間性の重要な一部分であり、ポルノを敵視すること自体反対である

 

 性欲(淫欲)を敵視する思想の由来は、古代ヘレニズムの思想である。ストア派などの禁欲主義に由来するものと考える。正統的なキリスト教は急進的禁欲主義を主張したグノーシス派を異端として排斥し、正当にも真正パウロ書簡であるコリント後書を根拠として、ふしだらな行為を避けるための(同毒療法としての)結婚を正当化し、家庭訓ジャンルを含む偽(第二)パウロ書簡を聖書正典として加えたことにより、結婚、家庭の価値を消極的ながらも肯定したことから、たんに禁欲的なセクトから脱皮し世界宗教へ発展したのである。

 むろんヒエロニムスなどの古代教父はストア派などの禁欲思想の影響を強く受けており、快楽追求敵視思想は流入している。大グレゴリウスは「喜びは罪である」とした。性的喜びは罪であるという思想や、ジャンセニストのような禁欲主義一派も存在するのである。

 しかしながら、キリスト教的性道徳をストア主義、ヒエロニムス的、ジャンセニズム的に解釈するのは過ちである。結婚の意義を子供をつくることに求めるのはストア派など異教的思想であってキリスト教本来のものではない。よりキリスト教的な思想とは例えば、13世紀初期のパリ大学教授であるオーベルニュのギヨームが同毒療法(コリント前書に由来)としての結婚の意義を強調したことである。「若くて美しい女と結婚することは望ましい。なぜならば美人を見ても氷のようでいられるから」。さらに12世紀は結婚を秘蹟とする神学が進展したことにより、夫婦の義務として結婚相手の性的欲求に応じることも夫婦倫理とされた。12世紀の神学者で中世最大の教師ぺトルス・ロンバルトゥスの合意主義的婚姻理論を教皇アレクサンデル三世が採用して、古典カノン法が成立した。合意主義というのは、親が反対しようが、挙式なくとも当事者の合意と二人の証人さえいれば婚姻は成立するというものであって、男女の自己決定が全てなのである。これは事実上の恋愛結婚推奨であった。近代友愛結婚は中世のカノン法に由来する。恋愛結婚の事実上の推奨は、エロスの解放の淵源が、古典カノン法と中世神学にあることいえるのである。

中世の神学者が毒(淫欲)をもって毒(淫欲)を制するための結婚の意義を強調し、相手の求めに応じる夫婦生活の義務を強調することは人間の性欲(淫欲)は抑制しがたいものであるから、風穴を開けておいたといえるというのが私の解釈だ。

 この考え方は15世紀以降の神学において埋め合わせのある価値があるならば性的快楽追求も是認するという見解になっていく。

 奇しくも、合衆国連邦最高裁は猥褻性の判断基準を整理したメモアール判決Memoirs v. Massachusetts, 383 U.S. 413 (1966)において、カトリック教徒であるブレナン判事による法廷意見は猥褻表現の定義三要件のひとつとして「埋め合わせする社会的価値のまったくないこと」を挙げたのは、まさにキリスト教的伝統に由来する価値観だったのである。

 結論としていえば、なるほど大グレゴリウスは快楽追究を罪とした。しかし埋め合わせのある価値があれば、それも免責されるというものなのである。

 以上の私の見解に対して、キリスト教は処女性を重視するのではとの疑問がぶつけられるかも知れないが。処女性を重視するのは地中海世界の地域的文化にすぎない。アルプス以北、北西ヨーロッパにおいては、若者や娘が家を出て奉公人として働くライフサイクルサーヴァントの慣習があり、日本の「ヨバイ」のような婚前交渉の土俗文化が存在し、結婚に際して処女性は重視されない。キリスト教文化圏のかなり広範な領域が婚前交渉許容の基層文化のうえに成り立っている。

 ポルノに嫌悪感を持つ人々の感受性それ自体は批判しない。しかし、古代ローマ帝国の主要都市に神殿売春あり、中世まで欧州のあらゆる都市で娼婦が多数存在した。たいへん安価に買春が可能だったにもかかわらず、都市では集団強姦が多発した。中世の学者は性欲は抑制し難いと正しく認識していた。淫欲がアダムの罪により人間の経験に入った以上そこから逃れることはできないのであるから、それは人間性の重要な一部分と認識すべきである。アウグスティヌスが「意思せずとも勃起する」と悩んだようにそれは本来コントロール不可能なものである。近代社会は、中世に比べればはるかに人々に性的禁欲を強要する社会となっている。とりわけ現代日本である。晩婚化が進み、生涯未婚率が上昇し、有史以来これほど性的禁欲が強要される時代はないのである。とくに日本の場合、伝統的に性的快楽追究を害悪とする文化はないにもかかわらず、ポルノ規制に躍起になるという理由はないはずだ。

 

○性的表現物は性欲の代償充足として機能し社会的に有用である

 これだけ性的禁欲が強要されている時代、なにかによって代償充足されなければならない。そのひとつがポルノを含む性的表現物である。脳はリアルで実体験できなくても、想像で有る程度満足できるものとなっている。性的表現物は性犯罪などの抑止に役立っているということは多くの実証的研究で明らかなことである。ポルノがなければ多くの社会的に有為な人材が、痴漢やセクハラで捕まってしまい、それは社会的にも損失となるのである。

 ポルノがなければ、われわれの社会はより暴力的で、若い女性が夜道を安全に歩くこともできなくなる。ポルノは敵視するのでなく社会的安定のために有用なもの。百歩ゆずるとしても必要悪と認識すべきである。

 1920年代まで女性の正装はマキシといわれるくるぶしが隠れるロングスカートであった。戦間期にスカートがひざ下丈のフラッパーが流行したが、それは不良娘が着用するものと白眼視されていた。しかし今日ではそれは標準となり、ミニスカートなど、より解放的、性的魅力をそそるファッションがあたりまえとなっている。女性の服装は約8090年間で急激に解放的もしくはユニセックスなものとなり、男性中心だった職場にも女性が参入し、日常的に性的刺戟の強い環境になっているにもかかわらず、男性だけは性的禁欲を強要されるというのは不公平である。そのような意味でもポルノの代償充足としての存在意義が認められる。

 

1990年オズボーン判決をどう評価すべきか

以上の私のポルノ擁護論に対し、当然児童ポルノ禁止法改正推進者からは次のような反論があると思う。

なるほど、1969年スタンリー判決は猥褻物件の単純所持を憲法上擁護した判例である。しかし、連邦最高裁は1990年オズボーン判決Osborne v. Ohio, 495 U.S. 103 (1990),http://www.law.cornell.edu/supremecourt/text/495/103において、チャイルドポルノの単純処罰所持を合憲としている。猥褻物件と児童ポルノは別問題のはずと指摘されるであろう。

したがってオズボーン判決の解釈と評価が児童ポルノ問題を検討する鍵となる重要な事柄なので、これは次回に論述することとする

 

 (つづく)

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