児童ポルノ法改正単純所持処罰導入に反対(下書き) その2
児童ポルノ法を単純所持処罰導入の方向で改正する法案の審議入りが取沙汰されているが、私は反対である。
1.単純所持処罰のための家宅捜索は重大なプライバシー侵害になる
個人がひとりで自宅で本や写真や映像を見て楽しむことに官憲が干渉することほど不快なことはない。現代人として必須のひとりでほっておいてもらう権利の重大な侵害にあたる。覚醒剤や麻薬所持など家宅捜索と本や写真、映像は個人の精神の自由に関する領域なので別問題であると考えるのである。私は世界的なポルノ解放の契機となった1970年の好色出版物に関するアメリカ大統領諮問委員会の報告書(委員長ミネソタ大学法学部長ロックハート)の意義を高く評価するものだが、「米国人は、各人がどんな本を読むべきか、どんな写真やフィルムを見るべきかを自ら決定する、という個人の権利を深く信じている。われわれの憲法は、精神上も、条文上も明らかな害毒の恐れがない限り、こうした権利を政府が侵すことはできないと定めている。青少年を守るという名分によって、正当化しても、それで、成人の権利を犠牲にすることはできない」(注)と述べている。
連邦最高裁判例でも1969年のスタンリー判決Stanley v. Georgia 394 U.S. 557(1969) http://www.law.cornell.edu/supremecourt/text/394/557は猥褻物件(フイルム)の単純所持処罰を憲法上許容しないとした。マーシャル判事による法廷意見は「猥せつな表現は、憲法上保護される言論または出版の範囲に入るものではないが、このことは、わいせつな素材の単なる私的所持を制定法によって処罰し得ることを意味するものではない。憲法は情報や思想をその社会的価値如何に拘らず、受け入れる権利を保障しており、州は自宅で独り坐している市民にどんな書籍を読んでよいか、どんなフィルムを見てもよいかを伝える任務を帯びていない。わが憲法全体を貫く伝統は、政府に人間の心を統制する権限を与えるという考え方とは完全に背馳する。州は猥褻な素材の単なる取締りをそれが反社会的行為に導くおそれがあるという理由で禁止することは出来ず、修正第一条及び修正第十四条は猥褻の素材の単なる私的な所持を犯罪とすることを禁止している。猥せつを規制する州の権限は、個人が自己の住居内で私的に所持しているにすぎない場合まで拡張されるものではない」(注)と判示した。 上記の判断は少なくともプライバシーと精神的自由の観点から一般論としては妥当な考え方であると思う。このポルノ擁護論に対し、当然児童ポルノ禁止法改正推進者からは次のような反論があると思う。1969年スタンリー判決は猥褻物件の単純所持を憲法上擁護した。しかし、連邦最高裁は1990年オズボーン判決Osborne v. Ohio, 495 U.S. 103 (1990),http://www.law.cornell.edu/supremecourt/text/495/103において、チャイルドポルノの単純処罰所持を合憲としている。猥褻物件と児童ポルノは別問題のはずと指摘されるであろう。この点については後段(今回はとりあげない)で反論することとする。
2.道徳を取り締まる警察への変質への危惧
第二は、児童を性的虐待、性的搾取から守るという表向きの立法趣旨は名目で、事実上、未成年者を性的対象とすることを助長する行為を有害な行為とみなす特定の価値観を国民に押しつけようとする、あるいは児童ポルノ撲滅の国際世論に従う国民をしようというパターナリズムを看取するからである。というのは東京高裁平成22年3月23日判決が「たとえ描写される児童が当該児童ポルノの製造につき同意していたとしても,その製造により当該児童の尊厳が害されることは否定できず,さらに,もともと同法は,児童の保護のみならず,児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止し,ひいては,児童一般を保護することをも目的とするものであることからすると,児童ポルノの製造につき描写される児童が同意していたとしても,特段の事情のない限り,その行為の違法性が阻却されるものではない」と判示し、立法趣旨には児童の保護だけでなく「児童の保護のみならず,児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止」するバターリズムが含まれていることを明らかにしているからである。
私は近代資本主義を支持するので性の商品化を否定しないし、原則として未成年であれ、モデルや芸能界志望の女子が、ビデオや写真撮影で自らの肉体を用いて営業することも自由である(労働の自由)もしくは親の身上統制権・監護教育権の範疇であるから、親がそれを認めている以上他人が干渉すべきでないないと考えるから、「児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止」するという立法趣旨には反対である。
J・Sミルを引用するまでもなく、警察は市民の生命と財産を保護する任務を本旨とすべきだ。道徳や特定の価値観を強制するための警察となれば国民の警察への信頼も薄れていく。市民にとって道徳を強制する警察ほど不快なものはない。私は、英国のウォンフェンデン卿やH・L・A・ハートの「道徳に対する罪の非犯罪化」の刑事政策の理論に共鳴するのでそのような趣旨でも反対である。
3.「三号ポルノ」の単純所持処罰は警察の恣意的運用の恐れだけでなく、写真や映画など芸術や表現の自由に強い萎縮効果をもたらす
年少者を被写体とするハードコアポルノはモザイクがかかるものでも容認できないとする人は多いと思うが、やはり「三号ポルノ」(衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの)過渡に広範な規制であると考える。三号ポルノの規制により警察の恣意的運用が懸念され芸術や表現の自由に対する強い萎縮効果をもたらす と、しばしば指摘されているとおりである。
例えば篠山紀信の『神話少女 栗山千明』(新潮社1997年)という11歳の美少女を被写体としたて上半身のヌードを含む写真集が出版されているが、その後、たぶん児童ポルノ法制定との関連で出版社が自主回収し、絶版となり、たぶん現在では古本としても流通していない。私は宮沢りえの写真集の評判も良かったが、私はこちらの写真集のほうを好むし芸術的にも価値があると思う。
栗山千明(1984年生)は5歳のころからファションモデルであったが、特に有名になったのは日産ステージアのCМ(1996年)で美少女と評判となったことである。中森明夫というアイドル評論家が「チャイドル」という言葉を流行らせ、美少女中の美少女としてべたぼめしていたように記憶している。深作欣二監督の「バトルロワイヤル」(2000年)が女優としての出世作で、ハリウッドに進出、『キル・ビル Vol.1』(2003年)に準主役に抜擢され『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』で「Great Performers 2003」の1人として紹介され女優として成功しているだけでなく、多くの優良企業のCМに出演、NHK・BS海外ロケ教養番組のリポーターとしてもよく見るのでタレントとしても幅広く活躍している。
栗山千明の女優・モデル・タレントとしての成功が、写真集にあったかどうかは、評論家でないからなんともいえないが、妖艶で「クールビューティ」という彼女の容姿の優れていることを注目させた意義を認めてよいと思う。11~12歳という年齢は決して幼いものではない。寛政三美人の一人笠森稲荷鍵屋のおせんが評判美人になったのみも数の12くらいである。
栗山千明にかぎらず、有名なタレントで子供時代にヌード写真のあるケース(例えばО・N)は決して少なくない。
モデルや芸能界で活躍していくためには、未成年であれ、写真集などで評判をとることは必要なステップだろう。
人生で成功することのステップとして写真集があればそれを選択するのは当然のことだ。幸福追求権を否定できないのであるから、こうした写真集に目くじらをたてるのは間違いであり、過剰なパターナリスティックな干渉である。むろん写真集の撮影は虐待ではなかったし有害と認定はできないのである。むしろ有名な写真家によってヌードになったからより注目され、成功したともいえるのであった彼女にとっても有益であったのではないか。
もし単純所持処罰となれば、三号ポルノの恣意的解釈により「神話少女」を所持していることによって家宅捜索されるおそれがないとはいえない。非常におそろしいことだ。
(注)引用-馬屋原成男「ポルノ解放と猥せつ罪のレーゾンテーダー(二)」『法学論集』9 1972年(ネット公開)
« 入手資料整理137 | トップページ | 入手資料整理138 »
「性・精神医学」カテゴリの記事
- 手術要件の撤廃に反対します (2023.09.24)
- LGBT理解増進法提出反対(最後まであきらめない)(2023.05.13)
- LGBT理解増進法は日本の国柄を変える懸念があり強く反対する(2023.05.11)
- LGBT理解増進法の根本的な疑問点-憲法14条の認識(2023.05.06)
- LGBT法案絶対反対その3(2023.05.06)
コメント