児童ポルノ法改正単純所持処罰導入に反対(下書き) その3
アメリカ判例を参考にしての検討その1
合衆国憲法修正第一条は、言論と出版の自由を奪う法律を制定できないと定め、修正一四条を通じて州法にも適用される。
修正一条は言論だけではなく表現行為についてもそこで表明されたアイデアを否定する制限を政府が加えることができないというのが大原則であり、大雑把にいってしまえば、表現内容に基づく規制は厳格司法審査で違憲が推定される。時・場所・態様による規制は、表現内容と無関係な限りにおいて許容される。
しかし連邦最高裁はある一定の内容の表現を憲法によって保護されないものとしている。猥褻 [i]、闘争的言辞(喧嘩言葉)[ii] 、名誉棄損、脅迫[iii] 、煽動(不法な行為を直ちに誘発する言論)[iv] といった特定の範疇である。さらに1982年ファーバー判決[v]によりチャイルドポルノが加えられた。1990年のオズボーン判決[vi]がチャイルドポルノの単純所持処罰を合憲としている。それらの判断が妥当なのか、その思想を我が国にもちこむことが妥当なのかを検討する。
Ⅰ はじめに 私の性的表現に関する考え方
1.ポルノ解放の流れを決定的にした1969年の大統領諮問委員会報告書とスタンリー判決を高く評価する。
猥褻は修正一条により保護されない範疇である。代表的な判例である1973年のミラー判決[vii] の猥褻性判定基準は事実上、描写されているものが州規制法の明文または解釈を通じて具体的に嫌悪感を抱かせる「ハードコア」の性的行為でない限り猥褻ではないとされている[viii] 。逆に言えば、この猥褻の範疇にない性的表現は憲法によって保護される範囲となった(1982年にチャイルドポルノが保護されない表現に加えられるまでは)。
1960年代末期をピークとするセックス・レボリュエーション(性革命)という社会現象が世界的規模でみられた。我が国もその影響を受けていることはいうまでもない。
性的表現の解放に最も影響を与えたのは、猥褻の問題を科画的にとりあげるためジョンソン大統領が1968年設置した好色出版物に関するアメリカ大統領諮問委員会の報告書(委員長ミネソタ大学法学部長ロックハート)であった。報告書は「性が人生の正常な一部分として受け入れられ、人間が性的な存在であることが認められることを目標とすべきである」「性的出版物を、それを同意している成人に売り、見せ、配ることを禁じている連邦、州、地域の法律は廃止されるべきだと委員会は勧告する」「成人が自ら欲するままに読み、買い、見るという完全に自由に対して政府が干渉し続けることは正当な根拠がない。」「性的出版物を見たり使ったりすることが、犯罪、少年非行、性的、非性的逸脱、深刻な感情といった社会的もしくは個人的害悪を引き起こす上で大きな役割を演じるとの証拠はない」「米国人は、各人がどんな本を読むべきか、どんな写真やフィルムを見るべきかを自ら決定する、という個人の権利を深く信じている。われわれの憲法は、精神上も、条文上も明らかな害毒の恐れがない限り、こうした権利を政府が侵すことはできないと定めている。青少年を守るという名分によって、正当化しても、それで、成人の権利を犠牲にすることはできない」「性的出版物を配ることが合法化されることによって米国市民の道徳が低下し、米国全体の道徳的堕落を招くと心配する人が多い。だが、そうした言い分を支持する証拠を委員会は一つも発見できなかった」[ix]とした 。
ニクソン大統領は「道徳的な破産」と報告書を批判したが、この報告書は従来のオーソドックスな性的出版物に関する価値観を転換させ、ポルノが反社会的ではないとお墨付きを与えたものとなり、世界的な影響は大きかった。私は同報告書や当時の世界的なポルノの非犯罪化の動きを歓迎したし、その意義を高く評価するものである。
むろん1969年大統領諮問委員会報告書の背景には当時の性解放を支える思想、文化的事象があったことはいうまでもない。
例えばリベラルな刑事政策理論1957年英国ウォルフェンデン委員会報告書(売春と男色行為の非犯罪化を提言)、H・L・A・ハートの私的道徳違反の法的強制への反対、1940~50年代のキンゼイ報告によって米国民の性行動の実態が把握され既に表向きの性道徳は形骸化していることが明らかになった。1953年にPLAYBOYが創刊、1960年の経口避妊薬が開発されたこと、西ドイツにおける1969年刑法改正、国家がこの世の道徳について刑事政策や刑法で世話をやくことは国家の使命ではないという思想の台頭、性欲を人間性の重要な一部分とみなす精神医学の進展、フロイト左派の性解放の主張などである。
私は、性革命と称する社会現象がヴィクトリア朝的偽善的な性道徳を清算したという意味でも、女性の社会進出が進み服装が解放的になった性的刺激の強い社会であるにもかかわらず、長期の性的禁欲を強要されている現代人の人間性のゆがみを是正したという意味で好意的な考えであるが、すべてには賛同しない。そこにはフェミニズムなどの主張や文明規範を揺るがすものも含まれているからであるが、しかし性的表現の解放や売春の非犯罪化等については明確に賛同するものである。とくに売春はもともと犯罪ではなかった。フロイト左派は極論なので支持できないが、道徳に対する罪、被害者なき犯罪の非犯罪化といったリベラルな刑事政策理論には基本的に賛成である。
性的表現については1960年代のアメリカ連邦最高裁の判例理論の進展も性的表現の解放に大きく寄与していると考えるものである。
とくに1969年のスタンリー判決[x] は、猥褻物件(フィルム)の単純所持処罰を憲法上許容しないとした。マーシャル判事による法廷意見は「猥せつな表現は、憲法上保護される言論または出版の範囲に入るものではないが、このことは、わいせつな素材の単なる私的所持を制定法によって処罰し得ることを意味するものではない。憲法は情報や思想をその社会的価値如何に拘らず、受け入れる権利を保障しており、州は自宅で独り坐している市民にどんな書籍を読んでよいか、どんなフィルムを見てもよいかを伝える任務を帯びていない。わが憲法全体を貫く伝統は、政府に人間の心を統制する権限を与えるという考え方とは完全に背馳する。州は猥褻な素材の単なる取締りをそれが反社会的行為に導くおそれがあるという理由で禁止することは出来ず、修正第一条及び修正第十四条は猥褻の素材の単なる私的な所持を犯罪とすることを禁止している。猥せつを規制する州の権限は、個人が自己の住居内で私的に所持しているにすぎない場合まで拡張されるものではない」 [xi]と判示しており、家庭内でのプライバシーにおける思想、精神の自由の金字塔的判例のように思える。
しかしバーガーコートの1970年代にスタンリー判決は適用範囲を限定するかたちで修正されていく。1971年のライデル判決[xii] において猥褻物を譲渡しようと者に適用不可とし同年の三七枚写真判決[xiii] において海外から補移設物件を輸入する者には適用しないとされた。さらに1973年のパリスアダルトシアター判決[xiv] において連邦最高裁は観ることに同意した成人のために上映したと言う理由で猥褻規制は除外されないとし、スタンリー判決は家庭内のプライバシーという狭い範囲に限定されることとなった。
とはいえ1960年代のウォーレンコートは総じて性的表現に好意的だったといえるのであり、性革命を実質後押ししたものと考える。少数意見にとどまったといえ、ブラック判事とダグラス判事は、猥褻規制を憲法修正一条違反とする持論であったのであり、この思想は我が国にも大島渚の裁判闘争など大きな影響を与えていると推定する。また、スチュアート判事は「そのものズバリ」でなければ猥褻でないとした。同判事は第二次世界大戦中、カサブランカでハードコアのブルーフィルムを楽しんだ経験があった[xv]。つまりポルノに好意的な裁判官が比較的多かったといえるのではないか。
2.四文字語を用いた表現を憲法上擁護した1971年コーエン判決を高く評価する
また1970年代の判例では不快な表現を保護する判例があらわれたことも重要である。性的表現ではないが四文字語を用いた政治的表現を憲法上保護にした1971年のコーエン判決[xvi] である。これは、裁判所の回廊で「徴兵なんかくそくらえ」"Fuck the Draft".と書いたジャケットを着て歩き、不快な活動によって平穏を乱すことを禁止した州法の下で起訴された事例であった。最高裁は、本件処罰がもっぱら言論を処罰するものだと認め、本件表現は猥褻的表現にも喧嘩的言葉にも該当せず、単に不快だと思う人がいても表現制約は正当化されず、もっと特定的でやむをえないような理由がない限り制約は許されないと判断した [xvii]。
Fuckという語は我が国ではピンク映画の「ファックシーン」など普通に用いられるが、米国ではfour letter wordsと称し口にするのも憚られる卑猥語とされるのである。
しかしハーラン判事による法廷意見は言葉による表現は、「認識させる力」と同じくらい「感情に訴える力」を持ち、コーエンの選んだ言葉は、他の言葉では伝達できない感情の深さを伝えていたのである。「われわれは、思想を抑圧するという実質的な危険を冒すことなく、特定の言葉を禁止することができるという安易な想定に満足することはできない」 [xviii]とした。名判決だと思う。
反対意見を記したブラックマン判事は奇矯で爆発的な表現だとした。four letter wordsは容認しないというのは世間体的には常識的な見解かもしれない。しかしハーラン判事はアイゼンハワー任命の保守派だが、理論的にみて興味深い事件として、喜んで法廷意見執筆を引き受けた。同判事は地味な人物であったにもかからず"Fuck the Draft".".という言葉を憲法上保護したことで永久に記憶に残ることになった。同姓同名のヘイズ任命のハーラン判事は祖父にあたり1896年プレッシー対ファーガソン判決の反対意見で名裁判官とされているが、それに劣らぬ価値があると私は考える。
3 .性的表現を低価値表現とする見解に反対
しかしながら、先例とはならない相対多数意見にとどまるが、連邦最高裁には性的表現、下品な表現を、過渡の広汎性および漠然性ゆえに無効の理論の適用が制限されると共に、その内容ゆえ他の表現とし異なった規制が認められる二流の表現ととらえる考え方があった[xix] 。
1976年のヤング対アメリカンミニシアター判決[xx] のスティーブンス相対多数意見がそうである。この事件は成人映画館の立地規制に関するものだが。何らかの芸術的価値を有していると主張されるエロティックな「表現を保護することの利益は‥自由な政治的論争に対する利益と比べて全く異なった、より小さな重要性しかもたないことは明白である‥‥『特定の性的行為』が自分たちの選ぶ映画館で上映されるのを見る市民の権利を守るために、息子や娘たちを遠く戦場に送る人はほとんどいないだろう‥‥」[xxi] と述べた。
これに対してスチュアート判事(ブレナン、マーシャル、ブラックマン各判事同調)の激しい調子の反対意見は、修正一条の保障が、少なからぬ人々がそれを擁護するために武器をとるであろうような表現のみに与えられるのであれば、自由な表現の権利は現在の世論によって定義され制限されることになるだろう。しかし、権利章典の保障は個人の自由に対するまさにそのような多数者による制限に対して保護を与えることを企図されていたのであった。司法による監視が最も厳重でなければならないのは、保護される言論が最も不愉快に感受性を逆撫する場合であるという。非常に立派な反対意見だと思う。
パウエル判事の結果的同意意見は、相対多数意見を批判し、どの言論に価値があり、どの言論に価値がないかという判断を裁判官が各人に押しつけることはできないと、成人向け映画と選挙演説とどちらに価値があるかということは裁判所が決定することではないのとする。傾聴に値するものである。パウエル判事は最高裁判事になるまでポルノ映画が町で上映しているのも知らなかったという、保守的な南部紳士だが、リベラル派の言い分も良く聞き慎重な司法判断をとっている。
私はスチュアート判事の反対意見に当然のことながら賛同するものであるが、独自の見解も述べたい。
第一に性的表現が低価値表現とはみなさないためである。性欲も人間性の重要な一部分をみなす人間観から、それを抑圧することは人間性を歪めることになるのである。性衝動は抑制不可能であり、今日のように性的禁欲が強要されていながら、性的刺激にあふれている社会においては、代償充足は絶対必要なものであるからである。
性的表現物は性欲の代償充足となり性犯罪を抑制要因となるということは多くの実証的研究で明らかなことである。
日本の状況がわかりやすいと思う。世界規模の性革命のピークである1969年、ミニスカートが流行し、テレビでは丸善石油CM<Oh! モーレツ>、「裏番組をぶっとばせ」の野球拳、「ハレンチ学園」が放映された。70年代以降ヌード写真が一般的週刊誌にも掲載されるようになるなど、70年代以降の性表現の解放的傾向については周知の事柄と考えるが、藤本由香里氏が指摘しているように、1960年代半ばばがピークだった強姦被害者数は、まるで性表現の解放に反比例するかのように激減しているのである。特に幼女強姦被害者数は、最多だった1960年代の10分の1に激減している[xxii]。
つまり性的表現物は、性欲の禁欲、抑圧に対する代償充足機能を有し、性犯罪、暴力的犯罪を抑止し減少させる社会的に有用な価値を有する。
第二に、そもそも低価値表現を政府が規制するということを否定するのが今日の憲法理論の到達点だということである
私は、上述の理由により性的表現が低価値とは思わないが、それでも性的表現は政治的表現より低価値であると言いつのる人は少なくないだろう。しかし表現の自由の到達点として評価されている1992年のR.V.A判決 [xxiii]のスカリア法廷意見では、社会的に嫌悪される見解をその嫌悪感を理由に禁止することを禁じることが修正一条の根本原理という従来の連邦最高裁の見解をふまえ、人種等の憎悪に基づく表現領域を規制すること自体が違憲である[xxiv]とし、憎悪表現規制市条例を粉砕し、さらに暴力的ビデオ・ゲームを未成年に販売することを禁止した州法を違憲とした2011年の EMA判決 [xxv]のスカリア法廷意見は、保護されない言論とされる新たなカテゴリーをバランシングによって創設することを求める政府側の主張を斥け、長い禁止の伝統を欠くような保護されない言論を新設することはできないとした[xxvi]。
この法廷意見が覆されない限り、合衆国では、立法府が低価値であるとする、あるいは政治的な理由で保護されない表現領域が増加することはない。
今日の最高裁をリードするスカリア判事の理論とは、一口でいえば低価値言論を憲法の保護範囲の中に置いた[xxvii]のである。
したがって、今日の表現権理論の水準からいっても、性的表現の規制には全面的に反対するのが私の立場である。
そこで問題はチャイルドポルノである。合衆国判例では、1992年のオズボーン判決がチャイルドポルノの単純所持処罰を合憲としている内容を分析し我が国にもちこむことが妥当性を検討したい。
Ⅱ ファーヴァー判決(1982) の検討 NEW YORK v. FERBER, 458 U.S. 747(1982) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=458&invol=747
問題となったニューヨーク州法263.15条は、猥褻物に該当するか否かを問わず、故意に、16歳未満の子どもの性的行為を含むパフォーマンスを制作、演出またはプロモートした場合には、罪に問われる。性的行為とは以下の6つである。
(1) 実際もしくは模擬的な性交
(2) マスターベーション
(3) 異常性交
(4) 獣姦
(5) SM的虐待
(6) 性器の猥褻な露出
パフォーマンスとは、「演劇、映画、写真、ダンス、その他客の前で視覚的に上演されるもの」を意味する [xxviii]。
ファーヴァー氏はマンハッタンでポルノシップを経営していたが少年のマスターベーションを写したフィルムをおとり捜査の私服捜査官に販売しようとしたことにより起訴され、陪審から有罪の評決を受け、控訴審も有罪を支持した。しかし、ニューヨーク州上訴裁判所は問題の州法が猥褻性を構成要件としていないため、社会的または芸術的な価値を有する写真まで規制の対象になりかねず、過度に広汎すぎると判断した。また、子供の保護を目的としながら危険な行為の中でも性的行為のみを差別的に論っている点が過小包摂的であると指摘し、修正一条違反により無効としたため、州検察が連邦最高裁に上告したものである。
連邦最高裁は全員一致で原判決を破棄して有罪判決を支持した。ただし判決理由は分かれた[xxix]。
ホワイト判事による法廷意見(バーガー主席判事、パウエル、レーンキスト、オコーナー各判事同調)は未成年者が、肉体的・精神的に健全に発育するという州の利益はやむにやまれぬものである。 未成年者の性行為を描写した写真や映画の譲渡は、子どもに対する性的虐待とわかちがたく結びついていること、チャイルド・ポルノグラフィの広告・販売は、その政策に経済的動機を提供するものであり、チャイルド・ポルノグラフィを生み出す必須の部分となっていること、未成年者に性行為をおこなわせたり、その性行為を映像化するのを許容する積極的意義は非常に小さいこと、チャイルドポルノグラフィを第一修正の保障外とすることは先例と矛盾しない。そして、修正一条の保護を受けないチャイルド・ポルノグラフィの判断基準に関しては、特定の年齢未満の子どもの性的行為を視覚で訴える方法で描写したものであることは必要だが、好色的趣味に訴えること、嫌悪感を抱かせるものであること全体で評価することも不要と判示した[xxx]。 オコーナー判事の補足意見がある。ブラックマン判事は意見なしで結論に同意している。
ブレナン判事の結果的同意意見(マーシャル判事同調)は、法廷意見のほとんどに賛成だが、未成年者に対する害悪が存在しない場合、州は性的志向を有する素材を禁止する権限を有しない。真剣な文学的価値が認められる作品に州法を適用させることは違憲の疑いがあるとした[xxxi]。このほかスティーブンス判事の結果的同意意見がある。
(本判決の評価-ワースト判決)
事案は全編二人の少年のマスターベーションを写したフィルムをポルノショップで内偵中の警官に販売したというものである。被上告人は、本件ニューヨーク州法過小包摂または広義ゆえに無効とする主張であったが、法廷意見は実質的に過渡に広範ではないと判断している。
ホワイト判事は同年のバウアーズ対ハードウィック事件判決でジョージア州の男色行為行為処罰立法について合憲の法廷意見を執筆しているが、被上告人の主張は笑止千万お笑い草と述べ、同性愛者への軽蔑感情丸出しの判決を記した。本判決ではそういうことはないようだが、製造者だけでなくチャイルド・ポルノの販売・広告その他助長する行為に対して厳しい刑罰を科すことにより市場を枯渇させる立法政策に強い賛意を示していることから、チャイルド・ポルノに対する敵意を感じる。
ホワイト判事は子供をチャイルド・ポルノに出演することを許す価値はとるに足りないとし、子供の性的行為又は性器の猥褻な露出を視覚的に描いているものは、文学的、科学的、教育的作品の重要で本質的な部分を構成しないとするが、チャイルド・ポルノが無価値という断定は裁判官の好みを押し付けるものである。この点、私はブレナンの結論同意意見に不満であるが賛同してもよい。
全員一致の有罪支持はある程度理解できるというのは、問題の州法が16歳未満の児童を対象とし、規制対象が、児童を被写体としたハード・コア・ポルノグラフィに限られており、保護されない表現は、児童に対して虐待的かつ搾取的なものに限られるからである。我が国ならたとえ成人を被写体としても猥褻とされそうなそのものズバリのハードコアに限定されているからである。しかしホワイト法廷意見は、当該ニューヨーク州法より広い範囲でもチャイルド・ポルノ規制を是認している点で疑問をもつ。
日本の児童ポルノ法は対象が18歳未満であるうえ、性的行為を描写していないノ「三号ポルノ」(衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの)規制対象とし、ハードコアポルノだけでなく、姿態をとらせるといったエロティックではあるがソフトなものも網にかかる内容となっている点、本件のニューヨーク州法より規制範囲がはるかに大きく、定義むも厳格でない明らかに過渡に広範な規制を行っているのである。
ただホワイト法廷意見は、猥褻事件のロス判決や、ミラー判決のようにチャイルドポルノを積極的な意味で定義しておらず、これは1990年のオズボーン判決でも同じことだが厳密に定義していないので、チャイルドポルノは不確定概念なのである。
それに乗じて我が国の児童ポルノ法のように単に乳首を露出させたものもポルノだと拡張してしまう口実をつくってしまったため、やはりこの判決はワースト判決といえるだろう。
(つづく)
[i] Miller v. California, 413 U.S. 15 ( 1973)
[ii] Chaplinsky v. N.H., 315 U.S. 568 ( 1942)
[iii] Watts v. United States, 394 U.S. 705 ( 1969)
[iv] Brandenburg v. Ohio, 395 U.S. 444 ( 1969)
[v] NEW YORK v. FERBER, 458 U.S. 747 (1982)1982)
[vi] Osborne v. Ohio, 495 U.S. 103 (1990)
[vii] Miller v. California, 413 U.S. 15 ( 1973)
[viii] 三島聡『性表現の刑事規制』有斐閣2008年209頁
[ix] 馬屋原成男「ポルノ解放と猥せつ罪のレーゾンテーダー(二)」『法学論集』9 1972年
[x] Stanley v. Georgia 394 U.S. 557(1969)
[xi] 馬屋原成男前掲論文
[xii] United States v. Reidel, 402 U.S. 351 (1971)
[xiii] United States v. Thirty-seven Photographs, 402 U.S. 363, (1971)
[xiv] Paris Adult Theatre I v. Slaton, 413 U.S. 49 (1973)
[xv] ボブ・ウッドワード・, スコット・アームストロング 中村保男訳『ブレザレン―アメリカ最高裁の男たち』テイビーエス・ブリタニカ出版1981年
[xvi] Cohen v. California, 403 U.S. 15 (1971)
[xvii]松井茂記『アメリカ憲法入門[第2版]』有斐閣(初版1989、第2版1992) 160-161頁 ブログ 小熊座「相手を不快にする権利」、一応の結論」 http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101225/p1の孫引き
[xviii]リチャード・H・ファロン・Jr『アメリカ憲法への招待』平地秀哉ほか訳 三省堂2010年43-44頁 ブログ 前掲小熊座「相手を不快にする権利」、一応の結論」の孫引き
[xix]市川正人『表現の自由の法理』有斐閣2003年103頁以下
[xx] Young v. American Mini Theatres, Inc. - 427 U.S. 50 (1976)
[xxi]市川正人前掲書
[xxii]藤本由香里「有害情報規制をめぐる問題について--都条例改正案「非実在青少年」規制を中心に (特集 ネットワーク社会における青少年保護 第35回法とコンピュータ学会研究会報告)」『法とコンピュータ』29 2011年 34頁の図1、図2参照。元のデータ「少年犯罪統計データ」警察庁犯罪統計書による。
[xxiii] R.A.V. v. City of St. Paul, Minnesota (1992)
[xxiv]小谷順子「 連邦最高裁における法廷意見の形成過程 -憎悪表現規制に関するR.A.V. v. City of St. Paul事件判決」小谷順子ほか編『現代アメリカの司法と憲法』尚学社2013年所収
[xxv] Brown v. Entertainment Merchants Association (formerly titled as Schwarzenegger v. Entertainment Merchants Association) 564 U.S. 08-1448 (2011)
[xxvi] 藤井樹也「暴力的ビデオ・ゲームの規制と表現の自由 : その後のアメリカ連邦最高裁判所」『成蹊法学』 75 2011年
[xxvii]駒村圭吾「Mode of Speech -R.A.V. v. City of St. Paul 事件判決におけるスカリア法廷意見の可能性」小谷順子ほか編『現代アメリカの司法と憲法』尚学社2013年所収
[xxviii] 藤田浩「New York v.Ferber,458 U.S.747,102 S.Ct.3348(1982)--チャイルド・ポルノの規制は第1修正に違反しない」『アメリカ法』1983-2
[xxix]辻雄一郎「児童ポルノとわいせつ規制に関する若干の憲法学的考察」『駿河台法学』23巻2号2010年(ネット公開)、ウィキペディア日本語版ニューヨーク州対ファーバー事件
[xxx]三島聡『性表現の刑事規制-アメリカ合衆国における規制の歴史的考察』有斐閣2008年236頁
[xxxi]辻雄一郎 前掲論文
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