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2014年5月の7件の記事

2014/05/25

児童ポルノ法改正単純所持処罰導入に反対(下書き) その4

承前

 

 

 

アメリカ判例を参考にしての検討2

 

 

 

Ⅱ ファーヴァー判決(1982) の検討 NEW YORK v. FERBER, 458 U.S. 747(1982) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=458&invol=747

 

(続き)

 

 

 

 三島聡の解説によるとチャイルド・ポルノグラフィを修正一条の枠の外に置いた点では、猥褻表現と同じだが、猥褻は州にとってやむにやまれぬ利益が存在することを要求されておらず、明白かつ現在の危険の法理を排除として道徳にもとづく規制を正当化しているのだが、チャイルドポルノ規制が合憲であるためには、その嫌いにやむにやまれぬ利益が存在すること、さらには、規制している行為と未成年者の福祉という州の規制利益に密接な関連が存することを挙げている[i]

 

 

 

 

 

 

 

1.根本的な疑問 パレンス・パトリエ思想の現代的拡大

 

そもそも、未成年保護を口実に国が干渉してくる法思想は、英米法ではパレンス・パトリエ思想から始まっている。

これはもともと法定相続人が未成年者ゆえ封建的義務が履行できない場合、代わって国王が土地を管理し、彼や彼女の教育に配慮することで、国王の代理である大法官が、未成年者の資産を不当な後見人から守るために未成年者の監護にまで干渉するようになったことから始まる。

 

 1660年以降大法官が国王に代わってパレンス・パトリエとして未成年者、精神病者などの監護について行使するようになった。18世紀になると「国親思想としての国王は全ての未成年者の守護者であり監督官である」という文言が訴訟にみられ、裁判所は親のいない子供にとどまらず自衛能力のない者の擁護のために介入する一般的権利を国父としての国王から委託されているとされたため、親が存命でも子ともの保護に干渉した[ii]

 

 そうしたことから少年法など子供を特別に保護する法律はパレンス・パトリエが由来とされるのである。

 

 孤児や弱者の保護は国が干渉するとしても、親を持っている子供に対し過剰なパターナリズムは、私的自治と近代社会の原則からみて疑問がある。とくに日本のようにもともと家族制度がしっかりしている国では、子供の福祉に責任は基本的には親であり、家族である。親の監護教育権で、こどもを有害な環境から守るのが基本である。

 

 むろん青少年保護育成条例は合憲であるから、国は未成年者の保護に干渉する権限を認めているとはいえ、それだから、なんでも干渉してよいというものではない。

 

 

 

 

 2.ファーバー判決の論理で日本の児童ポルノ法は正当化できない。

 

 

 

 

 (2)日本の児童ポルノ法は被写体が性的行為であることに限定していない、性的虐待の防止とていう規制目的に密接な関連のないものまで網にかけている

 

 

 

 ホワイト判事の法廷意見は問題であるとしても、全員一致の合憲判断というのは、本件が少年の自慰行為を撮影したフィルムの販売であったからである。マスターベ―ションの撮影は未成年者の福祉という州の規制利益に密接な関連が存するといえそうだからである。

 

 チャイルドポルノ規制が合憲であるためには州の規制利益に密接な関連がなければなせないということを法廷意見は言っている。

 

 この観点からすると日本の児童ポルノ法には「三号ポルノ」(衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの)も規制するため、未成年の福祉と密接な関連が疑われるものまで幅広く規制していることが問題である。

 

アメリカの判例理論で「過度に広汎性ゆえに無効の法理」がある。表現の自由の規制は、規制目的を達成するのに必要最小限度において認められるとする技術的な議論だが、日本の児童ポルノ法はその傾向が強い。

 

 

 

 

 ●例えば『神話少女 栗山千明』

 

 

 

例えば篠山紀信の『神話少女 栗山千明』(新潮社1997年)という11歳の美少女を被写体とした上半身ヌードを含む写真集が出版されているが、その後、たぶん児童ポルノ法制定との関連で出版社が自主回収し、絶版となり、たぶん現在では古本としても流通していない。

 

 栗山千明(1984年生)は5歳のころからファションモデルであったが、日産ステージアのCМ(1996年)で美少女と評判となり、「チャイドル」ブームを巻き起こした。深作欣二監督の「バトルロワイヤル」(2000年)が女優としての出世作で、ハリウッドに進出、『キル・ビル Vol.1』(2003年)で準主役に抜擢されるなど、女優、モデル、タレントとして成功している。

 

 篠山紀信は芸術的と評されるのが嫌いな写真家で、ヌード写真とは美しく、見ていて気持ちよく想像力を刺激するものを追求しているとされる[iii]。オーソドックスな手法で見る人に喜ばれるものを提供してくれる写真家であるが、クールビューティと称される栗山千明を魅力的に撮っている。これはたんに美しい写真で、3号ポルノにあたらないという解釈もありうるが、3号ポルノとされる可能性ももちろんある。

 

 篠山紀信は『少女館』というヌードのないチャイドルの集合写真集も出版しているが、モデルの中で最も魅力的なのが栗山千明であった。むろん親の身上統制権による承認のもとで撮影されたものであろうし、この撮影が少女に生理的、感情的、精神的な面での悪影響があったとは到底思えない。こうした芸能活動を規制することが未成年者の福祉と密接に関連するものとはいえないのである。むしろ栗山千明が女優・タレントとして成功するステップとなっている。児童ポルノ法はこうした芸能活動を規制し、表現活動を委縮させる効果をもたらしているが、それは子供の虐待防止と無関係だ。

 

仮に、私が『神話少女 栗山千明』を所持していたとする。法改正にもかかわらず廃棄せず、そのために捜索を受け、発見されたとする。それによって私は栗山千明の性的虐待にかかわった者として刑罰に処されるのは全く不合理である。

 

 

 ●例えばセクスティング

 

セクスティング(sexting)とは、近年、アメリカの青少年の間で流行している性的行動であり、携帯電話などで自分のヌード写真や動画を恋人や友人などに送信する行為である。アメリカの非営利団体であるInternet & American Life Projectが行った調査ではアメリカのティーンエージャーの15%はセクスティングの経験があると報告されている。

 

我が国ではセクスティングは、現行児童ポルノ法でも単純製造罪とされている[iv]

  

東京高裁平成22.8.2判決の事案は大略次の通りである。被告人は、A子(当時13歳)にメールや電話を通じて、グラビアのモデルの仕事であるなどと甘言を弄して、A子にその乳首を露出させる姿態をとらせ、これをA子の携帯電話機付属のカメラにより静止画として撮影させた上、画像を電子メール添付ファイルとして送信させ、その画像データを被告人の携蒂電話機により受信して同機に挿入されたマイクロSDカード内に記録・蔵置させたというものであり、一審静岡地裁平成21.12.25判決は、児童ポルノ法7条3項の単純製造委罪の成立を認め罰金100万円に処した。

 

東京高裁平成22.8.2判決は控訴棄却。判旨は「法73項が設けられた趣旨は、「他人に提供する目的を伴わない児童ポルノ製造であっても、被害児童に法23項各号に掲げる児童ポルノに該当する姿態をとらせ、これを写真撮影等して児童ポルノを製造する行為は、強制によるものでなくても、被害児童の心身に有害な影響を与える性的搾取行為にほかならず、かつ、流通の危険性を創出する点でも非難に値し、可罰性があると解されたところにあるといえる。」

 

「本件では、被害児童の行為が被告人によって利用された部分があるとしても、それは、『姿態をとらせ』といった構成要件に沿うものである。また、前記原判示の罪となるべき事実中、被告人が被害児金童の姿態を電磁的記録媒体に描写する過程で被害児童による撮影や送信という行為が介在しているのも、犯罪構成要件である『描写』の手段方法を原判決がより具体的に説示したことによるものであると解され、しかも、被害児童がそのような行為をしたのは、(略)児童ポルノの製造という真意を秘した被告人が、甘言を弄して判断能力の未熟な被害児童を錯誤に陥れたためであるから、被告人が本罪の単独正犯であることに疑問が生じることにはならない。」[v]

 

この事件は交際していた男女の例でないようであり、被写体も13歳と比較的年少者といえるが、しかし性的にも成熟し、大人っぽく判断能力も備わっている女子高校生の場合はどうか。女子高生なら大抵携帯を所持しているし、交際している男性に対し、自らを被写体とした写真は当然のこととして、場合によってはヌードや思わせぶりな画像等を携帯電話等で送信しているケースは、公式の調査はないとしても相当広範に行われていると考えられる。勝手にポーズをとったのか、勝手に露骨な写真を送ってきたのかにかかわりなく、性的虐待とは思えない単なる「お遊び」、無邪気なヌード写真であるにもかかわらず、所持したことにより、犯罪者としてのレッテルと貼られたうえ刑罰に処すのは行き過ぎであると考える。

 

国会議員の大多数はセクスティングなんか処罰してしまえと考えているのもしれないが、私はそれが、それが愚かなことであるとか不純異性交遊とか、非行であるときめつけるのは正しくない。それはむしろ親密さの証しと考える。

 

親しい人間関係を築き、結婚し家庭を持つことは幸福追求権にかかわる基本的権利である。セクスティングの交際が合法な婚姻関係に進展することもありうることを考慮しなければならない。英米法とくに表現権を専門とする紙谷雅子学習院大学法学部教授は児童ポルノ法でのセクスティング訴追は疑問[vi]としており、私もそう思う。被害者なき犯罪の拡大と非難されるべきである。

 

法改正が審議入りするとなれば、営利目的のそれと親しい人間関係のなかで無邪気に撮影されたものとどう区別するのかしないのか、恋人どうしのセクスティングも単純所持適用不可避と国会議員と考えているのか当然議論されるとは思うが、私は、既に死語となった「不純異性交遊」「桃色遊戯」という言葉が復権し、警察が男女交際をとりしまる社会を望んでいないがゆえに、法改正に反対なのである。

 

 

 2.児童ポルノ法はパターナリズムが立法趣旨に含まれていることが大問題

 

 

 

そのような範疇まで規制の網がかかる日本の児童ポルノ法は過渡に広範な規制であり、その理由は、立法趣旨には児童の保護のみならず,児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止するバターリズムが含まれているからである。

 

ファーバー判決ニューヨーク州法263.15条法は16歳未満の性的虐待の防止のための法律で、児童を性的対象とする風潮の助長の防止といったような広く網をかける立法趣旨は含まれておらず。罪となるのは実際もしくは模擬的な性交、マスターベーション、異常性交、獣姦、SM的虐待、性器の猥褻な露出に限定しているので、明らかに違う。

 

我が国の児童ポルノ法の立法趣旨には児童の保護だけでなく「児童の保護のみならず,児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止」するパターリズムが含まれている。児童を性的対象とする風潮が助長されることが悪いという国会議員の価値観(特定の思想を公定イデオロギーとして)を国民におしつけているのが問題だ。

 

仮に私が『神話少女 栗山千明』をたまたま持っていていたとして、法改正後も廃棄しなければ、逮捕される可能性はある。私が規制目的である性的虐待とは全く関係ないと主張しても、性的虐待と密接な関係がなくても、児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止することも立法趣旨であるのであなたがそれを閲覧するため所持している自体許されないということになるのである。特定の思想の強要であり、全体主義的思想統制立法であり重大なプライバシー侵害といえるだろう。

 

 

 

Ⅲ 1990年オズボーン判決Osborne v. Ohio, 495 U.S. 103 (1990)の検討 http://www.law.cornell.edu/supremecourt/text/495/103 

 

 

 

 

 

問題となったオハイオ州法は、医療、教育、芸術等適切な理由のある場合や、自分の子又は被後見人でない未成年者のヌード写真または演技の所持または閲覧することを禁じていた。

 

Clyde Osborneは警察の令状にもとづく自宅の捜索により、撮影当時14歳とされる少年の性的意味合いをもつポーズをとったヌード写真が発見されたので起訴され、一審で6ヶ月の刑が科され、州最高裁も原審を支持したため、連邦最高裁に裁量上訴の申立を行ない受理された。

 

争点は先例の1969スタンリー判決Stanley v. Georgia 394 U.S. 5571969) http://www.law.cornell.edu/supremecourt/text/394/557 が猥褻物件(8ミリフィルム)の単純所持処罰について、「猥せつを規制する州の権限は、個人が自己の住居内で私的に所持しているにすぎない場合まで拡張されるものではない」と違憲判断を下しており、チャイルドポルノにスタンリー判決の射程が及ぶか否かという重要なものである。

 

 

 

連邦最高裁は、63で本件オハイオ州法は修正一条に違反せず合憲とした。ただし、有罪破棄差し戻しは全員一致である。法廷意見は、見る人に対する道徳的倫理的観点からの猥褻規制ではなく, 未成年の身体的精神的健全性を保護し,子どもに対する搾取と虐待を処罰するというチャイルド.ポルノグラフィ規制であるので,所持の規制も含めて 合憲と判断した。ただしClyde Osborne自身の有罪については犯罪要素の立証 について陪審への指示がなかったとしてオハイオ州法2907.323(A)(3)の各要件を満たすものか確認するため再審理を求めた。反対意見は、オハイオ州法が過度に広範ゆえに無効であり、かりに広範でないとしてもStanley判決の趣旨に反しているとするものである。

 

ホワイト判事による法廷意見(レーンキスト主席判事、ブラックマン、オコーナー、スカリア、ケネディ各判事同調、ただしブラックマン判事はデュープロセスに関する議論のみブレナン反対意見に同調する補足意見を記す)

 

「本件の争点はオハイオ州が合憲的に児童ポルノの所持および閲覧を禁止することができるかどうか、オズボーン氏が主張するように、我々の先例たるStanley判決が異なる結果 を要請しているかどうかである」と述べStanley判決を広くとらえすぎてはならない」とする。その上で、わいせつが問題となったStanley判決における政府利益と本件のような児童ポルノ規制における政府利益とは大きな違いがあり、区別して考えなければならないとした。  

 

Stanley判決における政府の利益は、わいせつ作品がそれを見る者に とって有害であるがゆえに規制する必要性があるというパ夕一ナリスティックなものであった。そうした規制は思想の自由の制約として合憲 とはいえないとされた。しかし、本件における政府の利益は、児童ポルノの被害者を保護するために所持処罰行うというものである。そし て、その目指すところは子供の搾取をたくらむ市場の根絶である。Ferber判決によれば、児童ポルノは子供の心理、感情、精神に害をなすも のであり、それを規制するための立法府の判断は修正1条の壁を乗り越えやすい。Ferber判決は、児童ポルノの広告や販売を規制することは 児童ポルノの製造を減らすことにつながるとした。本件でも、児童ポル ノの所持を規制することによって、児童ポルノが少なくなると想定する ことは合理的である。児童ポルノ市場は地下に潜って暗躍するように なつており、それにストップをかけるためにも、所持規制を行うことが 必要になってきている。実際、19の州が児童ポルノの所持規制を行っている。また児童ポルノ作品は永続的に記録として残ってしまうことから被 害者の虐待になるという点や小児性愛病者が児童ポルノを利用して他の 子供をかどわかすことを防ぐという利益も含んでいる。つまり、本件では、児童ポルノの被害者である子供を保護するというやむをえない利益のために規制がなされているのである。[vii]

 

これに対し、被告人はたとえ政府が児童ポルノの所持を禁止すること ができるとしても、当該規制は過度に広範であって無効であると主張する。これを判断するにあたり、先例は、過度広範性の判断につき、法律 の広範性の問題が現実的かつ実質的でなければならないとしてきた。本件規制をみてみると、オハイオ州法は文面上、未成年者のヌード写真の所持を禁止している。ヌード自体は保護された表現であるが、本法は医療や教育などの適切な目的のために所持する場合には免責しているので、広範性が実質的であるとはいえない。また、オハイオ州最高裁が判示したように、適用対象がみだらなヌードに限定されるとすることで広範性の問題が回避できるとした。本件もそうした合憲限定解釈が可能であり、本法は修正1条に反するとはいえない

 

ブレナン判事の反対意見(マーシャル、スティーブンス判事同調)

 

本法が所持を禁止している対象は子供の裸であるが、 ここでいう「裸」(nudity)とは、性器や臀部、女性の胸などを描写した ものとされている。しかし、裸がただちに修正1条の保護から除外されるわけではなく、適用対象をみだらな裸に限定したとしても、過度広範性を治癒するには至っていない。

 

また、過度広範でないとしても、単純所持を違憲としたStanley判決との整合性が問われることになる。本件で問題となった写真は、販売されたという証拠がなく、何年問も私的に所持されてきたというものである。Stanley判決は、規制される対象が猥褻物かどうか、あるいは 憲法上保護されているかどうかに関係なく、思想の自由の観点から自宅で好きなものを閲読する自由を認めた。法廷意見はFerber判決に依拠 しながら児童ポルノが修正1条から除外されているとしているが、しかしそのことは単純所持にまで延長できるものではない。また、Ferber 判決は、児童ポルノの製造や頒布が規制されることを示したにすぎない のであって、所持までをも対象としていたわけではない。

 

たしかに、子供の搾取は問題であるが、それを規制するのであれば、 他の方法がありうる。オハイオ州は他の方法よりも単純所持規制が必要であることを示していない。しかも、児童ポルノの所持禁止が児童ポルノの製造の減少につながることも証明していない。

 

「言論が感銘的でかつその思想が高尚なことを表している場合、それらに対する規制を無効にすることはたやすい。しかし修正1条の保障が そうした内容のディスコースに限定されるとなると、我々の自由は事実上不毛なものにされてしまう。オズボーン氏の写真は好ましくないものであるが、憲法はそれらを私的に所持する権利と過度広範な法により刑罰を避ける権利を保障しているのである」[viii]

 

判決の評価)

 

私は、ブレナン判事の反対意見に大筋で賛同する。

 

我が国の児童ポルノ法の「三号ポルノ」(衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの)は本件オハイオ州法と比較しても過渡に広範な規制であると考える。つまり乳首を露出した写真それ自体は保護されるべき表現物だが、法改正により被写体が17歳以下となることによって法改正によりそれを所持することが犯罪とされる可能性が高いのである。仮にそれが過度に広汎な規制でないという見解をとるとしても、立法趣旨には児童の性的虐待防止だけではないのである。「児童の保護のみならず,児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止」するパターナリズムが含まれている。つまり児童を性的対象とする風潮を悪とする国会議員の思想によって国民が統制されなければならないというのである。

 

ホワイト法廷意見は、スタンリー判決が違憲と判断したジョージア州法の猥褻単純処罰は、それを見る者に とって有害であるがゆえに規制する必要性があるというパ夕一ナリスティックなものであった。そうした規制は思想の自由の制約として合憲 とはいえないとされた。しかし、本件における政府の利益は、児童ポルノの被害者を保護するために所持処罰行うというものであると違いを明らかにしていた。

 

パ夕一ナリスティックな立法趣旨はがないから合憲という趣旨なのである。この点、我が国の児童ポルノ法はパ夕一ナリスティックな立法趣旨が色濃く、そのような場合の単純所持処罰は思想の自由の制約を課すものとみなさなければならず、オズボーン判決の論理を、我が国の児童ポルノ法の単純所持処罰合憲論に適用できない。

 

 

 


 

[i] 三島聡『性表現の刑事規制-アメリカ合衆国における規制の歴史的考察』有斐閣2008236

 
 
 

[ii] 吉中信人「パレンス・パトリエ思想の淵源」『広島法学』 30(1), 2006

 
 
 

[iii] 「写真家篠山紀信の世界」『週刊現代』561420144/26

 
 
 

[iv]園田寿「いわゆるセクステイングと児童ポルノ単純製造罪東京高裁平成2282日判決(公刊物未登載)」『甲南法務研究』7 2011年大林啓吾「所持規制をめぐる憲法問題-児童ポルノの単純所持規制を素材として-」『千葉大学法学論集』283号 2014

 
 
 

[v]園田前掲論文

 
 
 

[vi] ]紙谷雅子「セクスティングとチャイルド・ポルノグラフィ」『学習院大学法学会雑誌』46巻1号2010年

 
 
 

[vii] 大林啓吾「所持規制をめぐる憲法問題-児童ポルノの単純所持規制を素材として-」『千葉大学法学論集』283号 2014

 
 
 

[viii] 大林前掲論文

 
 

 

2014/05/24

児童ポルノ法改正5党大筋合意のニュースは非常に遺憾だが土壇場で反対意見出します。

 衆院法務委員会で審議入りはまだしてないが、今国会で成立の可能性が高いことが報道されてます。http://news.nifty.com/cs/domestic/governmentdetail/kyodo-2014052301002422/1.htmこの問題の取り組みが遅れたこと非常に反省してますが、土日で缶詰になって私の見解をまとめ、各党に意見を出します。漫画やCGを調査対象としないことで出版業界や漫画家に配慮すればよいというものではないです。争点は表現権だけでない。プライバシー権、精神の自由、性的自由、ひとりでほってもらう権利、国親思想の肥大化、パターナリズム、被害者なき犯罪の拡大、非常に筋の悪い法案です。

 私は実は漫画には興味がほとんどない。実物の写真か映像しか関心はないです。だから漫画は網にかけることはしないといっても、それは実際の子どもの虐待ではないからあたりまえのことで、それでいいというわけでは全くないです。

 

 単に乳首が露出したエロティックな写真は児童の健全育成や虐待とはに無関係だし、セクスティング処罰により恋愛も困難になる。本当に好きな人には裸を送信してゲットすることもできなくなる。女性側にとっても不利益です。そもそも、児童を性的対象とする風潮や、性的興味それ自体の敵視が問題。過剰なパターナリズムとして糾弾しなければならないと思います。

2014/05/18

児童ポルノ法改正単純所持処罰導入に反対(下書き) その3

アメリカ判例を参考にしての検討その1

 

 合衆国憲法修正第一条は、言論と出版の自由を奪う法律を制定できないと定め、修正一四条を通じて州法にも適用される。

 

 修正一条は言論だけではなく表現行為についてもそこで表明されたアイデアを否定する制限を政府が加えることができないというのが大原則であり、大雑把にいってしまえば、表現内容に基づく規制は厳格司法審査で違憲が推定される。時・場所・態様による規制は、表現内容と無関係な限りにおいて許容される。

 

 しかし連邦最高裁はある一定の内容の表現を憲法によって保護されないものとしている。猥褻 [i]、闘争的言辞(喧嘩言葉)[ii] 、名誉棄損、脅迫[iii] 、煽動(不法な行為を直ちに誘発する言論)[iv] といった特定の範疇である。さらに1982年ファーバー判決[v]によりチャイルドポルノが加えられた。1990年のオズボーン判決[vi]がチャイルドポルノの単純所持処罰を合憲としている。それらの判断が妥当なのか、その思想を我が国にもちこむことが妥当なのかを検討する。

 

 

 

 

 

 

Ⅰ はじめに 私の性的表現に関する考え方

 

 

 

 

 

1.ポルノ解放の流れを決定的にした1969年の大統領諮問委員会報告書とスタンリー判決を高く評価する。

 

 

 

 猥褻は修正一条により保護されない範疇である。代表的な判例である1973年のミラー判決[vii] の猥褻性判定基準は事実上、描写されているものが州規制法の明文または解釈を通じて具体的に嫌悪感を抱かせる「ハードコア」の性的行為でない限り猥褻ではないとされている[viii] 。逆に言えば、この猥褻の範疇にない性的表現は憲法によって保護される範囲となった(1982年にチャイルドポルノが保護されない表現に加えられるまでは)。

 

 1960年代末期をピークとするセックス・レボリュエーション(性革命)という社会現象が世界的規模でみられた。我が国もその影響を受けていることはいうまでもない。

 

性的表現の解放に最も影響を与えたのは、猥褻の問題を科画的にとりあげるためジョンソン大統領が1968年設置した好色出版物に関するアメリカ大統領諮問委員会の報告書(委員長ミネソタ大学法学部長ロックハート)であった。報告書は「性が人生の正常な一部分として受け入れられ、人間が性的な存在であることが認められることを目標とすべきである」「性的出版物を、それを同意している成人に売り、見せ、配ることを禁じている連邦、州、地域の法律は廃止されるべきだと委員会は勧告する」「成人が自ら欲するままに読み、買い、見るという完全に自由に対して政府が干渉し続けることは正当な根拠がない。」「性的出版物を見たり使ったりすることが、犯罪、少年非行、性的、非性的逸脱、深刻な感情といった社会的もしくは個人的害悪を引き起こす上で大きな役割を演じるとの証拠はない」「米国人は、各人がどんな本を読むべきか、どんな写真やフィルムを見るべきかを自ら決定する、という個人の権利を深く信じている。われわれの憲法は、精神上も、条文上も明らかな害毒の恐れがない限り、こうした権利を政府が侵すことはできないと定めている。青少年を守るという名分によって、正当化しても、それで、成人の権利を犠牲にすることはできない」「性的出版物を配ることが合法化されることによって米国市民の道徳が低下し、米国全体の道徳的堕落を招くと心配する人が多い。だが、そうした言い分を支持する証拠を委員会は一つも発見できなかった」[ix]とした 

 

 ニクソン大統領は「道徳的な破産」と報告書を批判したが、この報告書は従来のオーソドックスな性的出版物に関する価値観を転換させ、ポルノが反社会的ではないとお墨付きを与えたものとなり、世界的な影響は大きかった。私は同報告書や当時の世界的なポルノの非犯罪化の動きを歓迎したし、その意義を高く評価するものである。

 

 むろん1969年大統領諮問委員会報告書の背景には当時の性解放を支える思想、文化的事象があったことはいうまでもない。

 

例えばリベラルな刑事政策理論1957年英国ウォルフェンデン委員会報告書(売春と男色行為の非犯罪化を提言)、HLA・ハートの私的道徳違反の法的強制への反対、194050年代のキンゼイ報告によって米国民の性行動の実態が把握され既に表向きの性道徳は形骸化していることが明らかになった。1953年にPLAYBOYが創刊、1960年の経口避妊薬が開発されたこと、西ドイツにおける1969年刑法改正、国家がこの世の道徳について刑事政策や刑法で世話をやくことは国家の使命ではないという思想の台頭、性欲を人間性の重要な一部分とみなす精神医学の進展、フロイト左派の性解放の主張などである。

 

私は、性革命と称する社会現象がヴィクトリア朝的偽善的な性道徳を清算したという意味でも、女性の社会進出が進み服装が解放的になった性的刺激の強い社会であるにもかかわらず、長期の性的禁欲を強要されている現代人の人間性のゆがみを是正したという意味で好意的な考えであるが、すべてには賛同しない。そこにはフェミニズムなどの主張や文明規範を揺るがすものも含まれているからであるが、しかし性的表現の解放や売春の非犯罪化等については明確に賛同するものである。とくに売春はもともと犯罪ではなかった。フロイト左派は極論なので支持できないが、道徳に対する罪、被害者なき犯罪の非犯罪化といったリベラルな刑事政策理論には基本的に賛成である。

 

性的表現については1960年代のアメリカ連邦最高裁の判例理論の進展も性的表現の解放に大きく寄与していると考えるものである。

 

とくに1969年のスタンリー判決[x] は、猥褻物件(フィルム)の単純所持処罰を憲法上許容しないとした。マーシャル判事による法廷意見は「猥せつな表現は、憲法上保護される言論または出版の範囲に入るものではないが、このことは、わいせつな素材の単なる私的所持を制定法によって処罰し得ることを意味するものではない。憲法は情報や思想をその社会的価値如何に拘らず、受け入れる権利を保障しており、州は自宅で独り坐している市民にどんな書籍を読んでよいか、どんなフィルムを見てもよいかを伝える任務を帯びていない。わが憲法全体を貫く伝統は、政府に人間の心を統制する権限を与えるという考え方とは完全に背馳する。州は猥褻な素材の単なる取締りをそれが反社会的行為に導くおそれがあるという理由で禁止することは出来ず、修正第一条及び修正第十四条は猥褻の素材の単なる私的な所持を犯罪とすることを禁止している。猥せつを規制する州の権限は、個人が自己の住居内で私的に所持しているにすぎない場合まで拡張されるものではない」 [xi]と判示しており、家庭内でのプライバシーにおける思想、精神の自由の金字塔的判例のように思える。

 

しかしバーガーコートの1970年代にスタンリー判決は適用範囲を限定するかたちで修正されていく。1971年のライデル判決[xii] において猥褻物を譲渡しようと者に適用不可とし同年の三七枚写真判決[xiii] において海外から補移設物件を輸入する者には適用しないとされた。さらに1973年のパリスアダルトシアター判決[xiv] において連邦最高裁は観ることに同意した成人のために上映したと言う理由で猥褻規制は除外されないとし、スタンリー判決は家庭内のプライバシーという狭い範囲に限定されることとなった。

 

とはいえ1960年代のウォーレンコートは総じて性的表現に好意的だったといえるのであり、性革命を実質後押ししたものと考える。少数意見にとどまったといえ、ブラック判事とダグラス判事は、猥褻規制を憲法修正一条違反とする持論であったのであり、この思想は我が国にも大島渚の裁判闘争など大きな影響を与えていると推定する。また、スチュアート判事は「そのものズバリ」でなければ猥褻でないとした。同判事は第二次世界大戦中、カサブランカでハードコアのブルーフィルムを楽しんだ経験があった[xv]。つまりポルノに好意的な裁判官が比較的多かったといえるのではないか。

 

 

 

 

 

2.四文字語を用いた表現を憲法上擁護した1971年コーエン判決を高く評価する

 

 

 

また1970年代の判例では不快な表現を保護する判例があらわれたことも重要である。性的表現ではないが四文字語を用いた政治的表現を憲法上保護にした1971年のコーエン判決[xvi] である。これは、裁判所の回廊で「徴兵なんかくそくらえ」"Fuck the Draft".と書いたジャケットを着て歩き、不快な活動によって平穏を乱すことを禁止した州法の下で起訴された事例であった。最高裁は、本件処罰がもっぱら言論を処罰するものだと認め、本件表現は猥褻的表現にも喧嘩的言葉にも該当せず、単に不快だと思う人がいても表現制約は正当化されず、もっと特定的でやむをえないような理由がない限り制約は許されないと判断した [xvii]

 

Fuckという語は我が国ではピンク映画の「ファックシーン」など普通に用いられるが、米国ではfour letter wordsと称し口にするのも憚られる卑猥語とされるのである。

 

しかしハーラン判事による法廷意見は言葉による表現は、「認識させる力」と同じくらい「感情に訴える力」を持ち、コーエンの選んだ言葉は、他の言葉では伝達できない感情の深さを伝えていたのである。「われわれは、思想を抑圧するという実質的な危険を冒すことなく、特定の言葉を禁止することができるという安易な想定に満足することはできない」 [xviii]とした。名判決だと思う。

 

反対意見を記したブラックマン判事は奇矯で爆発的な表現だとした。four letter wordsは容認しないというのは世間体的には常識的な見解かもしれない。しかしハーラン判事はアイゼンハワー任命の保守派だが、理論的にみて興味深い事件として、喜んで法廷意見執筆を引き受けた。同判事は地味な人物であったにもかからず"Fuck the Draft".".という言葉を憲法上保護したことで永久に記憶に残ることになった。同姓同名のヘイズ任命のハーラン判事は祖父にあたり1896年プレッシー対ファーガソン判決の反対意見で名裁判官とされているが、それに劣らぬ価値があると私は考える。

 

 

 

 

3 .性的表現を低価値表現とする見解に反対

 

 

 

しかしながら、先例とはならない相対多数意見にとどまるが、連邦最高裁には性的表現、下品な表現を、過渡の広汎性および漠然性ゆえに無効の理論の適用が制限されると共に、その内容ゆえ他の表現とし異なった規制が認められる二流の表現ととらえる考え方があった[xix] 

 

1976年のヤング対アメリカンミニシアター判決[xx] のスティーブンス相対多数意見がそうである。この事件は成人映画館の立地規制に関するものだが。何らかの芸術的価値を有していると主張されるエロティックな「表現を保護することの利益は‥自由な政治的論争に対する利益と比べて全く異なった、より小さな重要性しかもたないことは明白である‥‥『特定の性的行為』が自分たちの選ぶ映画館で上映されるのを見る市民の権利を守るために、息子や娘たちを遠く戦場に送る人はほとんどいないだろう‥‥」[xxi] と述べた。

 

これに対してスチュアート判事(ブレナン、マーシャル、ブラックマン各判事同調)の激しい調子の反対意見は、修正一条の保障が、少なからぬ人々がそれを擁護するために武器をとるであろうような表現のみに与えられるのであれば、自由な表現の権利は現在の世論によって定義され制限されることになるだろう。しかし、権利章典の保障は個人の自由に対するまさにそのような多数者による制限に対して保護を与えることを企図されていたのであった。司法による監視が最も厳重でなければならないのは、保護される言論が最も不愉快に感受性を逆撫する場合であるという。非常に立派な反対意見だと思う。

 

 パウエル判事の結果的同意意見は、相対多数意見を批判し、どの言論に価値があり、どの言論に価値がないかという判断を裁判官が各人に押しつけることはできないと、成人向け映画と選挙演説とどちらに価値があるかということは裁判所が決定することではないのとする。傾聴に値するものである。パウエル判事は最高裁判事になるまでポルノ映画が町で上映しているのも知らなかったという、保守的な南部紳士だが、リベラル派の言い分も良く聞き慎重な司法判断をとっている。

 

 私はスチュアート判事の反対意見に当然のことながら賛同するものであるが、独自の見解も述べたい。

 

第一に性的表現が低価値表現とはみなさないためである。性欲も人間性の重要な一部分をみなす人間観から、それを抑圧することは人間性を歪めることになるのである。性衝動は抑制不可能であり、今日のように性的禁欲が強要されていながら、性的刺激にあふれている社会においては、代償充足は絶対必要なものであるからである。

 

性的表現物は性欲の代償充足となり性犯罪を抑制要因となるということは多くの実証的研究で明らかなことである。

 

日本の状況がわかりやすいと思う。世界規模の性革命のピークである1969年、ミニスカートが流行し、テレビでは丸善石油CM<Oh! モーレツ>、「裏番組をぶっとばせ」の野球拳、「ハレンチ学園」が放映された。70年代以降ヌード写真が一般的週刊誌にも掲載されるようになるなど、70年代以降の性表現の解放的傾向については周知の事柄と考えるが、藤本由香里氏が指摘しているように、1960年代半ばばがピークだった強姦被害者数は、まるで性表現の解放に反比例するかのように激減しているのである。特に幼女強姦被害者数は、最多だった1960年代の10分の1に激減している[xxii] 

 

 

 

 

 

つまり性的表現物は、性欲の禁欲、抑圧に対する代償充足機能を有し、性犯罪、暴力的犯罪を抑止し減少させる社会的に有用な価値を有する。

 

 

 

第二に、そもそも低価値表現を政府が規制するということを否定するのが今日の憲法理論の到達点だということである

 

私は、上述の理由により性的表現が低価値とは思わないが、それでも性的表現は政治的表現より低価値であると言いつのる人は少なくないだろう。しかし表現の自由の到達点として評価されている1992年のR..A判決 [xxiii]のスカリア法廷意見では、社会的に嫌悪される見解をその嫌悪感を理由に禁止することを禁じることが修正一条の根本原理という従来の連邦最高裁の見解をふまえ、人種等の憎悪に基づく表現領域を規制すること自体が違憲である[xxiv]とし、憎悪表現規制市条例を粉砕し、さらに暴力的ビデオ・ゲームを未成年に販売することを禁止した州法を違憲とした2011年の EMA判決 [xxv]のスカリア法廷意見は、保護されない言論とされる新たなカテゴリーをバランシングによって創設することを求める政府側の主張を斥け、長い禁止の伝統を欠くような保護されない言論を新設することはできないとした[xxvi] 

 

この法廷意見が覆されない限り、合衆国では、立法府が低価値であるとする、あるいは政治的な理由で保護されない表現領域が増加することはない。

 

今日の最高裁をリードするスカリア判事の理論とは、一口でいえば低価値言論を憲法の保護範囲の中に置いた[xxvii]のである。

 

したがって、今日の表現権理論の水準からいっても、性的表現の規制には全面的に反対するのが私の立場である。

 

 

 

 

 

 

 

 そこで問題はチャイルドポルノである。合衆国判例では、1992年のオズボーン判決がチャイルドポルノの単純所持処罰を合憲としている内容を分析し我が国にもちこむことが妥当性を検討したい。

 

 

 

Ⅱ ファーヴァー判決(1982) の検討 NEW YORK v. FERBER, 458 U.S. 747(1982) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=458&invol=747

 

 

 

  問題となったニューヨーク州法263.15条は、猥褻物に該当するか否かを問わず、故意に、16歳未満の子どもの性的行為を含むパフォーマンスを制作、演出またはプロモートした場合には、罪に問われる。性的行為とは以下の6つである。

 

(1) 実際もしくは模擬的な性交

 

(2) マスターベーション

 

(3) 異常性交

 

(4) 獣姦

 

(5) SM的虐待

 

(6) 性器の猥褻な露出

 

 パフォーマンスとは、「演劇、映画、写真、ダンス、その他客の前で視覚的に上演されるもの」を意味する [xxviii]

 

ファーヴァー氏はマンハッタンでポルノシップを経営していたが少年のマスターベーションを写したフィルムをおとり捜査の私服捜査官に販売しようとしたことにより起訴され、陪審から有罪の評決を受け、控訴審も有罪を支持した。しかし、ニューヨーク州上訴裁判所は問題の州法が猥褻性を構成要件としていないため、社会的または芸術的な価値を有する写真まで規制の対象になりかねず、過度に広汎すぎると判断した。また、子供の保護を目的としながら危険な行為の中でも性的行為のみを差別的に論っている点が過小包摂的であると指摘し、修正一条違反により無効としたため、州検察が連邦最高裁に上告したものである。

 

連邦最高裁は全員一致で原判決を破棄して有罪判決を支持した。ただし判決理由は分かれた[xxix]

 

 

 

 ホワイト判事による法廷意見(バーガー主席判事、パウエル、レーンキスト、オコーナー各判事同調)は未成年者が、肉体的・精神的に健全に発育するという州の利益はやむにやまれぬものである。 未成年者の性行為を描写した写真や映画の譲渡は、子どもに対する性的虐待とわかちがたく結びついていること、チャイルド・ポルノグラフィの広告・販売は、その政策に経済的動機を提供するものであり、チャイルド・ポルノグラフィを生み出す必須の部分となっていること、未成年者に性行為をおこなわせたり、その性行為を映像化するのを許容する積極的意義は非常に小さいこと、チャイルドポルノグラフィを第一修正の保障外とすることは先例と矛盾しない。そして、修正一条の保護を受けないチャイルド・ポルノグラフィの判断基準に関しては、特定の年齢未満の子どもの性的行為を視覚で訴える方法で描写したものであることは必要だが、好色的趣味に訴えること、嫌悪感を抱かせるものであること全体で評価することも不要と判示した[xxx] オコーナー判事の補足意見がある。ブラックマン判事は意見なしで結論に同意している。

 

 ブレナン判事の結果的同意意見(マーシャル判事同調)は、法廷意見のほとんどに賛成だが、未成年者に対する害悪が存在しない場合、州は性的志向を有する素材を禁止する権限を有しない。真剣な文学的価値が認められる作品に州法を適用させることは違憲の疑いがあるとした[xxxi]。このほかスティーブンス判事の結果的同意意見がある。

 

 

 

(本判決の評価-ワースト判決)

 

事案は全編二人の少年のマスターベーションを写したフィルムをポルノショップで内偵中の警官に販売したというものである。被上告人は、本件ニューヨーク州法過小包摂または広義ゆえに無効とする主張であったが、法廷意見は実質的に過渡に広範ではないと判断している。 

 

ホワイト判事は同年のバウアーズ対ハードウィック事件判決でジョージア州の男色行為行為処罰立法について合憲の法廷意見を執筆しているが、被上告人の主張は笑止千万お笑い草と述べ、同性愛者への軽蔑感情丸出しの判決を記した。本判決ではそういうことはないようだが、製造者だけでなくチャイルド・ポルノの販売・広告その他助長する行為に対して厳しい刑罰を科すことにより市場を枯渇させる立法政策に強い賛意を示していることから、チャイルド・ポルノに対する敵意を感じる。

 

 ホワイト判事は子供をチャイルド・ポルノに出演することを許す価値はとるに足りないとし、子供の性的行為又は性器の猥褻な露出を視覚的に描いているものは、文学的、科学的、教育的作品の重要で本質的な部分を構成しないとするが、チャイルド・ポルノが無価値という断定は裁判官の好みを押し付けるものである。この点、私はブレナンの結論同意意見に不満であるが賛同してもよい。

 

 

 

全員一致の有罪支持はある程度理解できるというのは、問題の州法が16歳未満の児童を対象とし、規制対象が、児童を被写体としたハード・コア・ポルノグラフィに限られており、保護されない表現は、児童に対して虐待的かつ搾取的なものに限られるからである。我が国ならたとえ成人を被写体としても猥褻とされそうなそのものズバリのハードコアに限定されているからである。しかしホワイト法廷意見は、当該ニューヨーク州法より広い範囲でもチャイルド・ポルノ規制を是認している点で疑問をもつ。

 

 日本の児童ポルノ法は対象が18歳未満であるうえ、性的行為を描写していないノ「三号ポルノ」(衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの)規制対象とし、ハードコアポルノだけでなく、姿態をとらせるといったエロティックではあるがソフトなものも網にかかる内容となっている点、本件のニューヨーク州法より規制範囲がはるかに大きく、定義むも厳格でない明らかに過渡に広範な規制を行っているのである。

 

 ただホワイト法廷意見は、猥褻事件のロス判決や、ミラー判決のようにチャイルドポルノを積極的な意味で定義しておらず、これは1990年のオズボーン判決でも同じことだが厳密に定義していないので、チャイルドポルノは不確定概念なのである。

 

 それに乗じて我が国の児童ポルノ法のように単に乳首を露出させたものもポルノだと拡張してしまう口実をつくってしまったため、やはりこの判決はワースト判決といえるだろう。

 

 

 

 (つづく)

 

 

 


[i]  Miller v. California, 413 U.S. 15 ( 1973)

 

[ii] Chaplinsky v. N.H., 315 U.S. 568 ( 1942)

[iii]  Watts v. United States, 394 U.S. 705 ( 1969)

[iv]  Brandenburg v. Ohio, 395 U.S. 444 ( 1969)

[v] NEW YORK v. FERBER, 458 U.S. 747 1982)1982)

[vi]  Osborne v. Ohio, 495 U.S. 103 (1990)

[vii]  Miller v. California, 413 U.S. 15 ( 1973)

[viii] 三島聡『性表現の刑事規制』有斐閣2008年209頁

[ix] 馬屋原成男「ポルノ解放と猥せつ罪のレーゾンテーダー(二)」『法学論集』9 1972

[x] Stanley v. Georgia 394 U.S. 5571969

[xi] 馬屋原成男前掲論文

[xii] United States v. Reidel, 402 U.S. 351 (1971)

[xiii] United States v. Thirty-seven Photographs, 402 U.S. 363, (1971)

[xiv] Paris Adult Theatre I v. Slaton, 413 U.S. 49 (1973)

[xv] ボブ・ウッドワード・, スコット・アームストロング 中村保男訳『ブレザレン―アメリカ最高裁の男たち』テイビーエス・ブリタニカ出版1981

[xvi] Cohen v. California, 403 U.S. 15 (1971)

[xvii]松井茂記『アメリカ憲法入門[第2版]』有斐閣(初版1989、第2版1992) 160-161頁 ブログ 小熊座「相手を不快にする権利」、一応の結論」 http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101225/p1の孫引き

[xviii]リチャード・H・ファロン・Jr『アメリカ憲法への招待』平地秀哉ほか訳 三省堂2010年43-44頁 ブログ 前掲小熊座「相手を不快にする権利」、一応の結論」の孫引き

[xix]市川正人『表現の自由の法理』有斐閣2003年103頁以下

[xx] Young v. American Mini Theatres, Inc. - 427 U.S. 50 (1976)

[xxi]市川正人前掲書

[xxii]藤本由香里「有害情報規制をめぐる問題について--都条例改正案「非実在青少年」規制を中心に (特集 ネットワーク社会における青少年保護 35回法とコンピュータ学会研究会報告)」『法とコンピュータ』29 2011年 34頁の図1、図2参照。元のデータ「少年犯罪統計データ」警察庁犯罪統計書による。

[xxiii] R.A.V. v. City of St. Paul, Minnesota (1992)

[xxiv]小谷順子「 連邦最高裁における法廷意見の形成過程 -憎悪表現規制に関するR.A.V. v. City of St. Paul事件判決」小谷順子ほか編『現代アメリカの司法と憲法』尚学社2013年所収

[xxv] Brown v. Entertainment Merchants Association (formerly titled as Schwarzenegger v. Entertainment Merchants Association) 564 U.S. 08-1448 (2011)

[xxvi] 藤井樹也「暴力的ビデオ・ゲームの規制と表現の自由 : その後のアメリカ連邦最高裁判所」『成蹊法学』 75  2011

 

[xxvii]駒村圭吾「Mode of Speech R.A.V. v. City of St. Paul 事件判決におけるスカリア法廷意見の可能性」小谷順子ほか編『現代アメリカの司法と憲法』尚学社2013年所収

[xxviii] 藤田浩「New York v.Ferber,458 U.S.747,102 S.Ct.3348(1982)--チャイルド・ポルノの規制は第1修正に違反しない」『アメリカ法』1983-2

[xxix]辻雄一郎「児童ポルノとわいせつ規制に関する若干の憲法学的考察」『駿河台法学』2322010年(ネット公開)、ウィキペディア日本語版ニューヨーク州対ファーバー事件

[xxx]三島聡『性表現の刑事規制-アメリカ合衆国における規制の歴史的考察』有斐閣2008236

[xxxi]辻雄一郎 前掲論文

 

2014/05/11

入手資料整理138

10513横山潔「イギリスにおける性犯罪処罰規定について-児童の商業的性的搾取に反対する世界会議を契機として」47(5) 1997
10514斉藤豊治「アメリカにおける性刑法の改革」『大阪商業大学論集』5(1)2009年
10515上村貞美「人権としての性的自由と強姦罪 -欧米における強姦罪の改正をめぐって」香川法学 7(3/4), 1988
10516園田寿「いわゆるセクステイングと児童ポルノ単純製造罪
東京高裁平成22年8月2日判決(公刊物未登載)」『甲南法務研究』7 2011

(引用及びコメント)
「セクスティング(sexting)とは、近年、アメリカの青少年の間で「流行しいる性的行動であり、携帯電話などで自分のヌード写真や動画を恋人や友人などに送信する行為である。アメリカの非営利団体であるInternet & American Life Projectが行った調査ではアメリカのティーンエージャーの15%はセクスティングの経験があると報告されている」 我が国はアメリカほど異性の友人を持っている若者は少ないが当然行われていることと考える。昨年、高校生のセクスティングに相当する写真ないし動画等(着衣の普通の画像も含む)が意図的に流出され、そのなかには隠語でいう「くぱぁ画像」があったため「これはもしかして児ポルではないか」とネットの世界で騒然となった事件があった。
 この事件が悲惨な結末となったのは、男性側の思い込みが強く別れようとしなかったためであるが、それは性教育の問題であって、セクスティング自体の問題ではない。アメリカの性教育ではミドルティーンなどの年少者に「情緒的に巻き込まれるな」と指導するのである。つまり、トライアウト感覚、お互いがセックスを試しにやってみたとか、セックスを楽しんだ程度の軽い感覚で異性とつきあったほうが後腐れなく別れられるし怪我はない。愛だの恋だのと情緒的に相手を巻き込んでいく方向でエスカレートしないほうがよいということである。
 したがって、たまたまこういう事件が起きたから、セクスティングに目くじらをたてることに私は反対である。
 しかし現行児童ポルノ法において、恋人どうしではないが、「セクスティング」とされる行為が、単純製造罪とされる事件が起きている。
 事案は大略次の通りである。被告人は、A子(当時13歳)にメールや電話を通じて、グラビアのモデルの仕事であるなどと甘言を弄して、A子にその乳首を露出させる姿態をとらせ、これをA子の携帯電話機付属のカメラにより静止画として撮影させた上、画像を電子メール添付ファイルとして送信させ、その画像データを被告人の携蒂電話機により受信して同機に挿入されたマイクロSDカード内に記録・蔵置させたというものであり、一審静岡地裁平成21.12.25判決は、児童ポルノ法7条3項の単純製造委罪の成立を認め罰金100万円に処した。
 東京高裁平成22.8.2判決は控訴棄却。判旨は「法7条3項が設けられた趣旨は、「他人に提供する目的を伴わない児童ポルノ製造であっても、被害児童に法2条3項各号に掲げる児童ポルノに該当する姿態をとらせ、これを写真撮影等して児童ポルノを製造する行為は、強制によるものでなくても、被害児童の心身に有害な影響を与える性的搾取行為にほかならず、かつ、流通の危険性を創出する点でも非難に値し、可罰性があると解されたところにあるといえる。」
「本件では、被害児童の行為が被告人によって利用された部分があるとしても、それは、『姿態をとらせ』といった構成要件に沿うものである。また、前記原判示の罪となるべき事実中、被告人が被害児金童の姿態を電磁的記録媒体に描写する過程で被害児童による撮影や送信という行為が介在しているのも、犯罪構成要件である『描写』の手段?方法を原判決がより具体的に説示したことによるものであると解され、しかも、被害児童がそのような行為をしたのは、(略)児童ポルノの製造という真意を秘した被告人が、甘言を弄して判断能力の未熟な被害児童を錯誤に陥れたためであるから、被告人が本罪の単独正犯であることに疑問が生じることにはならない。」

 ここから私の意見であるが、児童ポルノ法の根本的な疑問は刑法176条・177条により、性的行為性交同意年齢が13歳とされており、都道府県の青少年保護育成条例でたぶん大多数の自治体がみだらな性行為を禁止しているとしても、国の法律は13歳未満でなければ成女とみなされ、これは我が国の民俗的慣行と一致させたものであろうが、13歳以上の女子は法的に慣習としても性的行為を受容して性交に同意する能力があり性的自己決定権があるものと解釈されるのである。
 13歳との同意性交は刑法で犯罪でもないし性的搾取とも認定されないのに、身体に触ってもいない同意セクスティングが犯罪となり性的搾取と認定されるのは不合理である。
 映像が永久に残ることから保護する必要があるというが、過剰なパターナリズム、お節介である。中学生ならば写真撮影のメリットとリスクは判断できるし、仮に流出したとしても社会的汚名が着せられることはまずない。少女時代のヌードがあってもモデルやタレントの仕事が干上がったと聞いたことがない。週刊宝石の企画で逆立ちしてパンチラをみせたOLが社会的に非難されるということではないのと基本的には同じことである。
 同意があっても強姦とみなす年齢を外国法ではStatutory Rape Laws(法定強姦罪)といい、外国では19世紀以降18歳未満等比較的年齢を高く設定している立法例が少なくない。
 例えば、マイケルM判決Michael M. v. Superior Court of Sonoma County, 450 U.S. 464 (1981)で問題になったカリフォルニア州法は1850年に10歳未満の法定強姦罪を制定し、1889年に14歳となり、1897年に16歳、1913年に18歳に引き上げられた。(中村秀次「アメリカにおける Statutory Rape Laws をめぐる平等保護論争とフェミニスト法学」『 熊本法学』 57 1988 157頁) もともとコモンローである10歳であるのに近現代で法定強姦罪が引き上げられた(州によっては21歳まで)のは、パターナリズムと、特定の社会階層(良家)の女子の貞操を守るというものであった。か弱い女性というステレオタイプから良家の娘の身体的・感情的被害を受けやすいので保護としようとするものであるが、こうした立法趣旨を受け入れることはできない。
 しかしながら近年ではアメリカも法定強姦罪が見直されており、1974年のミシガン州法改正が強姦罪見直しのモデルとされているが、第一級性行為罪(他人に対する性的挿入)は13歳未満とされている。ただし13歳以上16歳未満については、親族や被害者の通学する学校の教師が性行為を行った場合市は第一級性行為罪とされるのである.(斉藤豊治「アメリカにおける性刑法の改革」『大阪商業大学論集』5(1)2009年)
 イギリスでは13世紀の制定法で、12歳未満であったが、16世紀に10歳に引き下げられ、その後13歳に引き上げられ、1885年に16歳となったとされるが(前掲中村秀次論文)、1996年の性犯罪法は13歳未満の女子との不法の性交、13歳以上16歳未満の不法な性交、14歳未満の児童との品位を欠く行為を犯罪とするのである。(横山潔「イギリスにおける性犯罪処罰規定について-児童の商業的性的搾取に反対する世界会議を契機として」47(5) 1997)
 実は12世紀に成立した古典カノン法の婚姻法も最も忠実に守ったのがイギリスであった。古典カノン法は合意主義婚姻理論である。当事者の合意と二人の証人だけで、挙式不要で婚姻が成立し、性交により完成するというものである。婚姻年齢はローマ法を継受し男子14歳、女子12歳、生来の婚姻約束は7歳であるが教会法学者がさらに婚姻適齢要件婚姻適齢要件をゆるめた。女子は12歳未満でも成熟に達していれば婚姻適齢とした。成熟とは初潮のことではなく、性交に耐えられる心理的成熟(大人っぽさ)である。重要なことは教会法が婚姻にさいして親や領主等の同意を一切不要としたことである。(なお今日の教会法は20世紀になって男子16歳女子14歳としている)
 したがって婚姻の自由、自己決定をもっとも重視していたのは教会法ということになる。(結婚に関する決定の自由は裏返して言えば結婚しない自由であり、修道院に優秀な人材を供給する要因ともなった)
 英国は宗教改革のため教会挙式を婚姻の要件としたトレント公会議を受け入れなかったため、古典カノン法がそのままコモンローマリッジとして生ける法だった。18世紀中葉のハードウィック卿法によって初めて婚姻に関して世俗立法が成立したのである。
 以上の経緯からコモンローの法定強姦罪が10歳であるといっても驚くことはない。ところで我が国の養老令は婚姻年齢に関して「凡そ年十五、女年十三以上、聴婚嫁」と規定され、大宝令も同様だったとされている。これは唐永徽令を継受したものであるが。数え年であるから、実質法定婚姻適齢はローマ法・古典カノン法と同じ事であり、洋の東西を問わず14歳・12歳が文明世界の婚姻適齢基準である。
 とすると、我が国の刑法176条・177条は文明規範に沿ったものでありむしろ、青少年保護育成条例や児童福祉法が過剰なバターナリズムといわなければならないし、立法趣旨に児童を性的対象とする風潮の防止を掲げる児童ポルノ法も過剰なパターナリズムである。
 アメリカで最も先進的な性犯罪法のモデルとなっている1974年ミシガン州の法定強姦罪に相当する第一級性行為罪を13歳未満としていることからすれば、我が刑法177条とほぼ同じことであり、我が刑法は先進立法と合致し、現代にも通用するのである。

 百歩譲って、本件は13歳の事案であるが、より性的に成熟した年齢ならさら問題だといわなければならない。
 実際問題、外国の立法例でもイギリスの1978年児童保護法では16歳未満の品位を欠く写真の撮影、配布、展示、配布・展示目的の所持等を処罰するものとなっている。イギリスでは男女とも16歳が婚姻適齢であり(これはアメリカの多くの州も同じだが)、1956年性犯罪法は16歳未満の女子は、法律上、品位を欠く暴行に同意する能力を有しないとする。逆にいえば16歳以上は性的には大人扱いであり、SMプレイも可能と解釈できる。
 我が国の3号ポルノの規定に反対であることは既に述べたが、百歩譲っても適用年齢を下げるべきだろう。
 さらに単純所持処罰の法改正により男女交際中のセクスティングにあみがかかると問題はより深刻になるといえる。もはや不純異性交遊は桃色遊戯は死語となったが、セクスティング処罰で警察による不純異性交遊狩りが公認されることはとてもおそろしいと感じる。これは性的自己決定権の侵害、親密な人間関係を築き、幸福を追求する権利の侵害と考えるものである。

10517藤田浩「New York v.Ferber,458 U.S.747,102 S.Ct.3348(1982)--チャイルド・ポルノの規制は第1修正に違反しない」『アメリカ法』1983-2

2014/05/06

児童ポルノ法改正単純所持処罰導入に反対(下書き) その2

  児童ポルノ法を単純所持処罰導入の方向で改正する法案の審議入りが取沙汰されているが、私は反対である。

 1.単純所持処罰のための家宅捜索は重大なプライバシー侵害になる

 個人がひとりで自宅で本や写真や映像を見て楽しむことに官憲が干渉することほど不快なことはない。現代人として必須のひとりでほっておいてもらう権利の重大な侵害にあたる。覚醒剤や麻薬所持など家宅捜索と本や写真、映像は個人の精神の自由に関する領域なので別問題であると考えるのである。私は世界的なポルノ解放の契機となった1970年の好色出版物に関するアメリカ大統領諮問委員会の報告書(委員長ミネソタ大学法学部長ロックハート)の意義を高く評価するものだが、「米国人は、各人がどんな本を読むべきか、どんな写真やフィルムを見るべきかを自ら決定する、という個人の権利を深く信じている。われわれの憲法は、精神上も、条文上も明らかな害毒の恐れがない限り、こうした権利を政府が侵すことはできないと定めている。青少年を守るという名分によって、正当化しても、それで、成人の権利を犠牲にすることはできない」(注)と述べている。
 連邦最高裁判例でも1969年のスタンリー判決Stanley v. Georgia 394 U.S. 557(1969) http://www.law.cornell.edu/supremecourt/text/394/557は猥褻物件(フイルム)の単純所持処罰を憲法上許容しないとした。マーシャル判事による法廷意見は「猥せつな表現は、憲法上保護される言論または出版の範囲に入るものではないが、このことは、わいせつな素材の単なる私的所持を制定法によって処罰し得ることを意味するものではない。憲法は情報や思想をその社会的価値如何に拘らず、受け入れる権利を保障しており、州は自宅で独り坐している市民にどんな書籍を読んでよいか、どんなフィルムを見てもよいかを伝える任務を帯びていない。わが憲法全体を貫く伝統は、政府に人間の心を統制する権限を与えるという考え方とは完全に背馳する。州は猥褻な素材の単なる取締りをそれが反社会的行為に導くおそれがあるという理由で禁止することは出来ず、修正第一条及び修正第十四条は猥褻の素材の単なる私的な所持を犯罪とすることを禁止している。猥せつを規制する州の権限は、個人が自己の住居内で私的に所持しているにすぎない場合まで拡張されるものではない」(注)と判示した。 上記の判断は少なくともプライバシーと精神的自由の観点から一般論としては妥当な考え方であると思う。このポルノ擁護論に対し、当然児童ポルノ禁止法改正推進者からは次のような反論があると思う。1969年スタンリー判決は猥褻物件の単純所持を憲法上擁護した。しかし、連邦最高裁は1990年オズボーン判決Osborne v. Ohio, 495 U.S. 103 (1990),http://www.law.cornell.edu/supremecourt/text/495/103において、チャイルドポルノの単純処罰所持を合憲としている。猥褻物件と児童ポルノは別問題のはずと指摘されるであろう。この点については後段(今回はとりあげない)で反論することとする。

 2.道徳を取り締まる警察への変質への危惧

 第二は、児童を性的虐待、性的搾取から守るという表向きの立法趣旨は名目で、事実上、未成年者を性的対象とすることを助長する行為を有害な行為とみなす特定の価値観を国民に押しつけようとする、あるいは児童ポルノ撲滅の国際世論に従う国民をしようというパターナリズムを看取するからである。というのは東京高裁平成22年3月23日判決が「たとえ描写される児童が当該児童ポルノの製造につき同意していたとしても,その製造により当該児童の尊厳が害されることは否定できず,さらに,もともと同法は,児童の保護のみならず,児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止し,ひいては,児童一般を保護することをも目的とするものであることからすると,児童ポルノの製造につき描写される児童が同意していたとしても,特段の事情のない限り,その行為の違法性が阻却されるものではない」と判示し、立法趣旨には児童の保護だけでなく「児童の保護のみならず,児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止」するバターリズムが含まれていることを明らかにしているからである。
 私は近代資本主義を支持するので性の商品化を否定しないし、原則として未成年であれ、モデルや芸能界志望の女子が、ビデオや写真撮影で自らの肉体を用いて営業することも自由である(労働の自由)もしくは親の身上統制権・監護教育権の範疇であるから、親がそれを認めている以上他人が干渉すべきでないないと考えるから、「児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止」するという立法趣旨には反対である。
 J・Sミルを引用するまでもなく、警察は市民の生命と財産を保護する任務を本旨とすべきだ。道徳や特定の価値観を強制するための警察となれば国民の警察への信頼も薄れていく。市民にとって道徳を強制する警察ほど不快なものはない。私は、英国のウォンフェンデン卿やH・L・A・ハートの「道徳に対する罪の非犯罪化」の刑事政策の理論に共鳴するのでそのような趣旨でも反対である。

3.「三号ポルノ」の単純所持処罰は警察の恣意的運用の恐れだけでなく、写真や映画など芸術や表現の自由に強い萎縮効果をもたらす

 年少者を被写体とするハードコアポルノはモザイクがかかるものでも容認できないとする人は多いと思うが、やはり「三号ポルノ」(衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの)過渡に広範な規制であると考える。三号ポルノの規制により警察の恣意的運用が懸念され芸術や表現の自由に対する強い萎縮効果をもたらす と、しばしば指摘されているとおりである。

 例えば篠山紀信の『神話少女 栗山千明』(新潮社1997年)という11歳の美少女を被写体としたて上半身のヌードを含む写真集が出版されているが、その後、たぶん児童ポルノ法制定との関連で出版社が自主回収し、絶版となり、たぶん現在では古本としても流通していない。私は宮沢りえの写真集の評判も良かったが、私はこちらの写真集のほうを好むし芸術的にも価値があると思う。
 栗山千明(1984年生)は5歳のころからファションモデルであったが、特に有名になったのは日産ステージアのCМ(1996年)で美少女と評判となったことである。中森明夫というアイドル評論家が「チャイドル」という言葉を流行らせ、美少女中の美少女としてべたぼめしていたように記憶している。深作欣二監督の「バトルロワイヤル」(2000年)が女優としての出世作で、ハリウッドに進出、『キル・ビル Vol.1』(2003年)に準主役に抜擢され『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』で「Great Performers 2003」の1人として紹介され女優として成功しているだけでなく、多くの優良企業のCМに出演、NHK・BS海外ロケ教養番組のリポーターとしてもよく見るのでタレントとしても幅広く活躍している。
 栗山千明の女優・モデル・タレントとしての成功が、写真集にあったかどうかは、評論家でないからなんともいえないが、妖艶で「クールビューティ」という彼女の容姿の優れていることを注目させた意義を認めてよいと思う。11~12歳という年齢は決して幼いものではない。寛政三美人の一人笠森稲荷鍵屋のおせんが評判美人になったのみも数の12くらいである。
 栗山千明にかぎらず、有名なタレントで子供時代にヌード写真のあるケース(例えばО・N)は決して少なくない。
 モデルや芸能界で活躍していくためには、未成年であれ、写真集などで評判をとることは必要なステップだろう。
 人生で成功することのステップとして写真集があればそれを選択するのは当然のことだ。幸福追求権を否定できないのであるから、こうした写真集に目くじらをたてるのは間違いであり、過剰なパターナリスティックな干渉である。むろん写真集の撮影は虐待ではなかったし有害と認定はできないのである。むしろ有名な写真家によってヌードになったからより注目され、成功したともいえるのであった彼女にとっても有益であったのではないか。
 もし単純所持処罰となれば、三号ポルノの恣意的解釈により「神話少女」を所持していることによって家宅捜索されるおそれがないとはいえない。非常におそろしいことだ。
 
(注)引用-馬屋原成男「ポルノ解放と猥せつ罪のレーゾンテーダー(二)」『法学論集』9 1972年(ネット公開) 

2014/05/04

入手資料整理137

10497宮木康博「児童の保護インターネット上のおとり捜査」『名古屋大學法政論集』247pp.348 - 324 , 2012(ネット公開)
10498和田肇「人事院勧告なしに制定された給与関係法の合憲性」『名古屋大學法政論集』253, 2014(ネット公開)
10499米国議会調査局ヘンリー・コーエン「「猥褻」、「児童ポルノ」、および「下品な表現」をめぐる論議:最近の展開と懸案事項」Order Code 98-670 2008 年5月 20 日更新(ネット公開)
10500よたよたあひる’S HOME PAGE「ファーバー判例」とアメリカ合衆国の「児童ポルノ規制」(ブログ)2009.06.04(ネット公開)
10501間柴泰治「日米英における児童ポルノの定義規定」『調査と情報』681 2010(ネット公開)
10502古澤美映「表現の自由と動物への残虐さの描写をめぐって-合衆国対スティーブンス-」『千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書』 185, 2010(ネット公開)008
10503市川正人「文面審査と適用審査・再考」『立命館法學』 2008年(5・6), 2008 (ネット公開)
10504青山武憲「変化する司法審査の基準」『日本法學』 78(3), 2013(ネット公開)
10505★青山武憲「Lochner判決の亡霊とその最近の評価断片」Departed Soul of the Lochner Judgment and Fragments of Its Evaluation『政経研究』 49(3), 2013(ネット公開)
10506原田伸一朗「表現規制とヴァーチャリティ : 「描かれた児童虐待」をめぐる法と倫理『静岡大学情報学研究』17 2012(ネット公開)
10507間柴泰治「諸外国における実在しない児童を描写した漫画等のポルノに対する法規制の例」Legal system of control of the "imaginary" ("virtual") child pornography in some foreign countries 『レファレンス』 58(11), 2008(ネット公開)
10508小倉一志「サイバースペースと表現の自由(一) : 表現内容規制をめぐるアメリカ憲法理論の検討を中心に」Content-Based Restriction on Cyberspace's Speech in the U.S. and Japan『北大法学論集』55(1)2004
同じく(二)55(2)2004
同じく(三)55(3)2004
同じく(四)55(4)2004
同じく(五)55(5)2005
同じく(六)55(6)2005
10509 同じく(七)56(1)2005
同じく(八・完) 56(2)2005
10510飯島明子「アメリカのパレンス・パトリエ訴訟に関する一考察--環境法の視点から (特集 アジアと日本の法)」『企業と法創造』 7(2), 2010(ネット公開)
10511世取山 洋介「米国における Children's Rights Movements の動向 : 大統領諮問委員会報告書と YSB (Youth Service Bureau) 構想の場合」東京大学教育学部教育行政学研究室紀要 8, 1988 (ネット公開)
10512吉中信人「パレンス・パトリエ思想の淵源」『広島法学』 30(1),  2006 (ネット公開)

2014/05/03

入手資料整理136

今日も資料集めで終わりという体たらく

10485山本和毅「我が国における児童ポルノ排除対策の推進状況について(上)(下)」『警察学論集』66巻9号(上)、66巻10号(下)、2013年
10486東山太郎「刑事判例研究(449)児童ポルノのURLをホームページ上に明らかにした行為は、児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律第7条第4項の「公然と陳列した」には当たらないとする反対意見が付された事例[最高裁第三小法廷平成24.7.9決定]」『警察学論集』66巻12号 2013
10487中田弘之「インターネット利用児童ポルノ事犯の態様の変化に応じた取締り等の強化」『捜査研究』№728 2012
10488須賀正行「元検察官のキャンバスノート№50-児童ポルノ-」『捜査研究』№750 2013
10489紙屋雅子「セクスティングとチャイルド・ポルノグラフィ」Sexting and Child Pornography『学習院大学法学会雑誌』 46(1) 2010
10490紙屋雅子「チャイルド・ポルノグラフィと表現の自由」Child Pornography and Freedom of Expression『法律時報』70(11)1998
10491昼間たかし「児童ポルノ法改「悪」を止めることはできるか」『出版ニュース』2313 2013
10492長岡義幸「ブック・ストリート 流通 再び児童ポルノ禁止法の改訂強化の動き」『出版ニュース』2315 2013
10493奥村徹「ネット上の児童ポルノに関する擬律の混乱(sexting・ファイル共有・リンク) (特集 ネットワーク社会における青少年保護 第35回法とコンピュータ学会研究会報告)How to apply juvenile protection laws to sexting, filesharing, and hyperlinks?
『法とコンピュータ』29 2011
10494 パネルディスカッション 奥村徹・紙屋雅子・岸原孝昌・藤本由香里・丸橋徹
1(特集 ネットワーク社会における青少年保護 第35回法とコンピュータ学会研究会報告)『法とコンピュータ』29 2011
10495★藤本由香里「有害情報規制をめぐる問題について--都条例改正案「非実在青少年」規制を中心に (特集 ネットワーク社会における青少年保護 第35回法とコンピュータ学会研究会報告)」Censorship of Manga regarding "fictitious juveniles" in the municipal ordinance of Tokyo『法とコンピュータ』29 2011
強姦被害者数が性表現が解放的になった1970年代以降劇的に減少しているグラフは使える。
10496園田寿「児童ポルノ禁止法の問題点-児童ポルノとは何か-」安倍哲夫「なぜ児童ポルノは規制されるのか?-児童の性的虐待・偏執的趣味からの保護-」後藤弘子「児童ポルノ規制をどう考えるか」『法学セミナー』671 2010

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