入手資料整理167
10819 飯沼賢司「女性名から見た中世の女性の社会的地位」『歴史評論』443号 1987年
10820 義江明子「古代の氏と共同体および家族」『歴史評論』428号1985年
10821 飯沼賢司「中世イエ研究の軌跡と課題」『歴史評論』424号1986年
10823 義江明子「所有~「氏」~「家」」『日本史研究』256号1983年
10824 坂田聡「中世後期~近世前期の家・価格・由緒-丹波国山国地域の事例を中心に」『歴史評論』635号2003年
山国荘(やまぐにのしょう)は丹波国桑田郡にあった禁裏領で、光厳天皇陵がある。現在の京都市左京区。
「従来の研究では中世においては武士身分の者のみしか苗字を名のれなかったとしている。だが、少なくとも中世後期の山国荘の場合、一部の百姓は一四世紀に、大部分の者は一五世紀以降一六世紀にかけて苗字を名のりはじめ、この苗字の多くは近世はもちろんのこと、今日に至るまでえんえんと継承されてきた」
10825柳谷慶子「日本近世の「家」と妻の姓観念」『歴史評論』636号2003年
「女性は家にあって家長に従属する存在であり‥‥通常、家長である男性の姓と名前、あるいは名前とつなげて、その関係を示す妻、女房、後家、娘、母、祖母などの代名詞をもって記載されることがこととなった。」庶民の宗門人帳、武家の分限帳における奥奉公の女性たちの記名がそうであるとする。従って「娘時代は生家のメンバーであり、婚姻後は家長に従属する婚家の構成員となったのである。‥‥婚家の一員に加えられていたことは、死後は婚家の墓所に埋葬されいて先祖として祀られていることによっても明らかである」
以下、私のコメント、この問題は法制史、歴史学者だけでなく、人類学、民俗学総合的にみていく必要がある
婚入配偶者の婚家帰属は人類学的にも明らかなことであり、道徳・倫理的には儒教の三従四徳などの婦人道徳でも当然なことである。実は夫婦別姓とされる韓国や中国の伝統的家族でも婚家帰属は明確なことなのである。
婚姻習俗としては、白無垢が死装束に類似していることから、生家の構成員としては死を意味するというのが有力な解釈がある(但し小笠原流は別の解釈)。 色直しは本来、嫁入り3日めの儀式であったが、明治以降では祝言の盃のが済むとすぐに色直しの儀式を行うようになり、大きな披露宴では主要な儀式となったのである。こけは婚家に再生したことの象徴である。通俗的には結婚して夫の家に染まるという意味で色打掛に着替えるとされている。
白無垢-色直しという日本人なら誰でも知っている婚礼衣装、習俗は、まさに出嫁女が生家で死に、婚家での再生するという婚家帰属性を意味するものなのである。一時、色直しの衣装代が高くつくことについて批判があり、ジミ婚が流行したが、今日でも披露宴での主要儀式として多くの国民が受容しているのである。
10826関口裕子「律令国家における嫡妻・妾制について」『史学雑誌』81巻1号1972年
10827佐立治人「唐戸令応分条の復元条文に対する疑問 : 南宋の女子分法をめぐる議論との関連で」京都学園法学 29号 1999年
10828飯沼賢司「日本における夫婦別姓の特異性-別姓のイエ内の位置をめぐって」『歴史評論』636号
10829飯沼賢司「氏と名字と姓」『歴史評論』457号1988
10830大江 迪子「日本における婚礼衣装--江戸・明治・大正時代」『大谷女子短期大学紀要 』45号 2001年
10831坂田聡「中世村落共同体の構造とその変化について-中世後期近江国葛川の村落結合を例に (歴史科学協議会第19回大会・総会報告--歴史における家族と共同体<大会特集>)」『歴史評論』428号1985年
10832岡村幸子「女叙位に関する基礎的考察」『日本歴史 』541号 1993年
10833辻垣晃一「嫁取婚の成立時期について-武家の場合」『龍谷史壇』 117号2001年
10834松園斉「中世の女性と日記-「日記の家」の視点から-」『金沢文庫研究』285号 1990年
10835服部早苗「古代における家族と共同体-研究史の整理と今後の課題 (歴史における家庭と共同体<特集>)」『歴史評論』424 1985年
10836熊野聡「共同体・家族・世帯・家庭および個人」『歴史評論』424 1985年
最近のコメント