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2015年7月の12件の記事

2015/07/26

入手資料整理167

10819 飯沼賢司「女性名から見た中世の女性の社会的地位」『歴史評論』443号 1987年
10820 義江明子「古代の氏と共同体および家族」『歴史評論』428号1985年
10821 飯沼賢司「中世イエ研究の軌跡と課題」『歴史評論』424号1986年
10823 義江明子「所有~「氏」~「家」」『日本史研究』256号1983年
10824 坂田聡「中世後期~近世前期の家・価格・由緒-丹波国山国地域の事例を中心に」『歴史評論』635号2003年 
山国荘(やまぐにのしょう)は丹波国桑田郡にあった禁裏領で、光厳天皇陵がある。現在の京都市左京区。
「従来の研究では中世においては武士身分の者のみしか苗字を名のれなかったとしている。だが、少なくとも中世後期の山国荘の場合、一部の百姓は一四世紀に、大部分の者は一五世紀以降一六世紀にかけて苗字を名のりはじめ、この苗字の多くは近世はもちろんのこと、今日に至るまでえんえんと継承されてきた」
10825柳谷慶子「日本近世の「家」と妻の姓観念」『歴史評論』636号2003年
「女性は家にあって家長に従属する存在であり‥‥通常、家長である男性の姓と名前、あるいは名前とつなげて、その関係を示す妻、女房、後家、娘、母、祖母などの代名詞をもって記載されることがこととなった。」庶民の宗門人帳、武家の分限帳における奥奉公の女性たちの記名がそうであるとする。従って「娘時代は生家のメンバーであり、婚姻後は家長に従属する婚家の構成員となったのである。‥‥婚家の一員に加えられていたことは、死後は婚家の墓所に埋葬されいて先祖として祀られていることによっても明らかである」
 以下、私のコメント、この問題は法制史、歴史学者だけでなく、人類学、民俗学総合的にみていく必要がある
 婚入配偶者の婚家帰属は人類学的にも明らかなことであり、道徳・倫理的には儒教の三従四徳などの婦人道徳でも当然なことである。実は夫婦別姓とされる韓国や中国の伝統的家族でも婚家帰属は明確なことなのである。
 婚姻習俗としては、白無垢が死装束に類似していることから、生家の構成員としては死を意味するというのが有力な解釈がある(但し小笠原流は別の解釈)。 色直しは本来、嫁入り3日めの儀式であったが、明治以降では祝言の盃のが済むとすぐに色直しの儀式を行うようになり、大きな披露宴では主要な儀式となったのである。こけは婚家に再生したことの象徴である。通俗的には結婚して夫の家に染まるという意味で色打掛に着替えるとされている。
 白無垢-色直しという日本人なら誰でも知っている婚礼衣装、習俗は、まさに出嫁女が生家で死に、婚家での再生するという婚家帰属性を意味するものなのである。一時、色直しの衣装代が高くつくことについて批判があり、ジミ婚が流行したが、今日でも披露宴での主要儀式として多くの国民が受容しているのである。
10826関口裕子「律令国家における嫡妻・妾制について」『史学雑誌』81巻1号1972年
10827佐立治人「唐戸令応分条の復元条文に対する疑問 : 南宋の女子分法をめぐる議論との関連で」京都学園法学 29号 1999年
10828飯沼賢司「日本における夫婦別姓の特異性-別姓のイエ内の位置をめぐって」『歴史評論』636号
10829飯沼賢司「氏と名字と姓」『歴史評論』457号1988
10830大江 迪子「日本における婚礼衣装--江戸・明治・大正時代」『大谷女子短期大学紀要 』45号 2001年
10831坂田聡「中世村落共同体の構造とその変化について-中世後期近江国葛川の村落結合を例に (歴史科学協議会第19回大会・総会報告--歴史における家族と共同体<大会特集>)」『歴史評論』428号1985年
10832岡村幸子「女叙位に関する基礎的考察」『日本歴史 』541号 1993年
10833辻垣晃一「嫁取婚の成立時期について-武家の場合」『龍谷史壇』 117号2001年
10834松園斉「中世の女性と日記-「日記の家」の視点から-」『金沢文庫研究』285号 1990年 
10835服部早苗「古代における家族と共同体-研究史の整理と今後の課題 (歴史における家庭と共同体<特集>)」『歴史評論』424 1985年
10836熊野聡「共同体・家族・世帯・家庭および個人」『歴史評論』424 1985年

2015/07/22

夫婦別姓旧慣習説を真っ向から否定する2つの学説

(夫婦別姓反対論下書き)
 今日では徳川時代に百姓身分に苗字がなかったという説は完全に否定されている。ほとんどの農民も公称は許されなくても苗字(名字)はあった。少なくとも先進地域では14世紀後半から15世紀以降、百姓身分でも家名に相当する苗字を有していたと考えられる。

 近世女性史研究者の柴桂子氏が、夫婦別姓旧慣習説には史料的裏付けがないとして厳しく批判していることが特筆できる。 夫婦別姓推進論者の依拠する旧慣習説は明確に否定してよいと思う。「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003年]柴桂子「近世の夫婦別姓への疑問」〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめ ぐって--東アジアの歴史と現状) のコメント『総合女性史研究』(21) [2004.3]
 
 長文になるが、最高裁に係属している極めて重大な状況にあるため引用もしくは要約した引用をする。

 法制史研究者によって「江戸時代の妻の氏は夫婦別氏だった」と流布されているが、夫婦異姓の根拠とされる史料はごくわずかに過ぎない、女性の立場や実態把握に疑問がある。
 法制史研究者は別姓の根拠を、主として武士階級の系図や妻や妾の出自の氏に置いている。ここに疑問がある。妾や側室は雇人であり妻の範疇には入らない。給金を貰い借り腹の役目を終わると解雇され配下の者に下賜されることもある。
 より身分の高い家の養女として嫁ぐことの多い近世の女性の場合には、系図などには養家の氏が書かれ「出自重視説」も意味をなくしてしまう。
 別姓説の中に「氏の父子継承原理」が語られるが、女の道として教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていた。
 また、宗門人別帳でも夫婦同宗とされ、婚家の墓地に埋葬されるなど婚家への一体性・帰属性が強かった。
 
 実態として近世の既婚女性はどう呼ばれどう名乗っていたのか
◎他称の場合
○出版物 『近世名所歌集』嘉永四年(1851)、『平安人物誌』文政五年(1822)
姓はなく名前のみで○○妻、○○母と婚家の身分が記されている。『江戸現在広益人名録』天保一三年(1842)も同様だが、夫と異なる姓で記載されている場合もわずかある。
○人別書上帳・宗門人別帳
庶民の場合は姓も出自もなく、筆頭者との続柄・年齢が記される。
○著書・歌集・写本などの序文や奥付
武士階級でも姓も出自もなく、院号や名のみの場合が多い。
○犯科帳、離縁状、訴状、女手形
姓はなく名のみが記され○○妻、○○後家と書かれ、名前さえ記されないものもある。
○門人帳 
別姓の例としてよく取りあげられる「平田先生門人姓名録」であるが、幕末の勤王家として名高い松尾多勢子は「信濃国伊那郡伴野村松尾左次右衛門妻 竹村多勢子 五十一歳」と登録されている。しかし、この門人帳には29名の女性の名があるが、既婚者で生家姓で登録されているのは多勢子を含め5名で、婚家の名で登録されてい
るのは10名、名だけで登録されているのが3名である。他は○○娘とあり未婚者と考えられる。(「竹村多勢子」はウィキペディアにも夫婦別姓の論拠として挙げられているがこれは例外的事例にすぎず、一次資料に当たっている柴氏の見解ではむしろ婚家の名で登録されている方が多いのである)
他に心学門人帳などあるが、姓はなく名のみが記され、○○妻、○○娘と細字で傍書されている。
○墳墓、一般的には正面に戒名、側面に生家と婚家の姓が刻まれている。

◎自称・自署の場合
 
○著書 多くは姓はなく名のみを自署している。
○書画・短冊 雅号のみの場合が多い
○書簡 これも名前のみサインである。
○『古今墨跡鑑定便覧』本人の署名を集めたもので、姓はなく名前のみサインである。
例外的にフルネームの署名もあるが書画や文人の書簡であって夫婦別姓とはいいがたい。

 以上の柴桂子氏の指摘から江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、指称、自称、自署はしているわけではないと断言してさしつかえないだろう。夫婦別姓は旧慣習とはいえない。多勢子のような例外的事例をもって夫婦別姓というのは過当な一般化だろう。

 墓碑名については、明治民法施行前において、例えば明治五年、神道布教の中央機関として設置された大教院が神葬の儀礼を編纂せる近衛忠房・千家尊福『葬祭略式』を刊行し、そのなかで、「妻には姓名妻某氏霊位と記す」となし、妻の生家の氏を刻むよう奨導した例がある(江守五夫『家族の歴史人類学-東アジアと日本-』弘文堂1990 53)があるが、そもそも教派神道を別として、神道式の葬式は今日普及しておらず、墓碑名に生家姓を刻むとしても、それは妻の由緒、姻戚関係を明らかにする趣旨で、生きている人の実態において生家姓を冠称していたとする根拠にはならないと考える。

 後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館2009年によれば中世後期の貴族は基本的に夫婦同姓というか夫婦同じ家名で称されるのが普通であるとしている。摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。
 清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。近衛尚通(1472~1544)の『後法成寺関白記』によると久我通信正妻を「久我女中」と称し、徳大寺実淳妻は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。
 西洋でも○○家出の○○卿夫人というように、夫の家名や爵位にちなんで称されるのと同じ感覚である。
 一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。姑と嫁は東-西、南-北と対になって形づけられた。
 三条西実隆(1455~1537)『実隆公記』では中御門宣秀正妻を「中御門西向」と称し、『親長公記』では中御門宣秀の父である中御門宣胤の正妻を「中御門東向」と称している。姑が「東向」で嫁が「西向」である。
 三条西家の家妻の役割が検討されているが、使用人の給分の分配(使用人の給料を決定する)、食料の手配・管理、追善仏事の運営、連歌会。和歌会の設営があげられている。これは近現代に庶民の家の主婦の役割に通じるものがあるといえるだろう。このように公家社会において嫡子単独相続確立期に、家妻は、家政・家職の経営の役割を分担し、婚家の名字を冠して称された。
 後藤みち子氏によれば、女叙位の位記は所生の氏であるから夫婦別氏、夫婦同苗字と述べているが、社会的呼称は、婚家の名字+妻の社会的呼称(女中、向名)であるから実質的には夫婦同氏の感覚に近いものと認識できる。

 なお、これは私の見解だが、位記が所生の氏というのは源平藤橘などの古代的姓氏(本姓ともいう)であって、今日問題になっている家名としての姓(名字)ではない。律令国家ではもともと改賜姓は天皇大権だから、政治的に賜与・認定される性格のものである。結婚によって姓が変わるとい性格のものではないから当然のことである。女叙位の位記は夫婦別姓の根拠とするのは論理的ではない。

 後藤みち子氏の業績は夫婦別姓旧慣習説に真正面から否定していて貴重。1935年生まれ国学院大卒1957年より63年まで宮内庁書陵部編修課勤務という経歴、かなり高齢の方。

 たぶん歴史学者に限らず、弁護士や学者の多くは左翼で、エンゲルスのいう私有財産制度の成立とともに母権制氏族社会が転覆され「女性の世界史的敗北」したという奇説を信じている。社会主義実現のために世界史的敗北をを覆すために男女平等社会を目指すこととなる。夫婦別姓導入や戸籍廃止もその一環であり、日本的「家」制度、醇風美俗の徹底的破壊を意味するものである。
 そうしたなかで夫婦同姓護持に有利な材料を与えている論文は少数派とはいえもっと高く評価されるべきである。

2015/07/19

入手資料整理166

1-54J・Lフランドラン著森田・小林訳『フランスの家族 アンシャン・レジーム下の親族・家・性』勁草書房1993年
1-55角田文衛『日本の女性名 歴史的展望』国書刊行会2006年
 平安中期の内裏女房の地位と候名について119頁以下であるが、「女房の候名は、主として父、やむをえぬ場合は、夫、兄弟、祖父などの官職名に因んで賜った」と説明。
具体的に
和泉式部-父の大江雅致(まさむね)が式部丞の任にあったことと、夫の橘道貞が和泉守に在任。
相模-相模守大江公賢の妻。
大納言-大納言源時中の養女。
馬内侍-右馬権頭源時明の女。
紫式部-父藤原為時が式部丞に在任。元来は藤式部だったが、源氏物語で文名がとどろいたため、後世、紫の上に因んで紫式部となった。
問題は清少納言と赤染衛門である。
清少納言-清原元輔の女だが実名不詳である。角田文衛によればこの候名は再婚した相手の少納言藤原信義の官名に因むとされる。清少納言は第三者から指称であり、日常生活において、女房相互の符牒としては少納言と指呼されていたことは『枕草子』の有名な香炉峯の雪により明白である。
 雪のいと高う降りたるを、例ならずして御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などして集まりさぶらふに、「少納言よ、香炉峯の雪いかならん」と仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾を高くあげたれば、わらはせ給ふ。
 中宮藤原定子は「少納言よ」と呼んでいるのであって清氏とは指呼しないのである。しかも少納言が夫の官名に因むのであるから、これを夫婦別姓の論拠とは全くならない。
 問題は赤染衛門である。大隅守赤染時用が父または養父とされる。時用が右衛門尉を歴任したことにちなむ。赤染氏は渡来系氏族で壬申の乱で高市親王に従ったことで知られる。夫は一条朝の鴻儒、従四位下式部大輔大江匡衡であるから、夫婦別姓の典型としてみることもあるが、父の氏で指呼する候名は珍しいものであって、例外的事例とみなしてよい。衛門では女房相互の符牒になりえないからではないか。角田文衛氏は中宮や藤原道長は、赤染ではなく「匡衡衛門」と称していてこちらが普通だったいう。これは赤染衛門が夫の昇進のための運動、裏面工作に熱心であったためだか、いかにもあてこすった言い方であり年長者に対して非礼でもあるとの見解もあり、『紫式部日記』に丹波守北の方と称されているこちらのほうが一般的指称(当時大江匡衡は任丹波守で妻は任地に下向せず京に止まっていた)だと思う。従って、赤染衛門はあくまで候名でありこれを夫婦別姓の根拠とすることはできない。
角田氏以外の見解も付け加える。
次のケースで江三位とはと言う問題である。
『類聚雑例』長元九年五月十七日条に後一条天皇の御大葬に当たって素服を賜るべき人々「女房十八人」が書き出されている。
 先藤三位。藤三位。江三位。菅典侍。已上御乳母。少将内侍。兵部内侍。左兵衛内侍。左衛門命婦。左京命婦。小馬命婦。侍従命婦。中務命婦。兵衛命婦。小左門命婦。式部命婦。兵衛命婦。馬命婦。
 乳母四名は姓氏で指呼されている。しかし天皇乳母に称される例外的事例をもって夫婦別姓とはいえないだろう。しかも江三位とは近江守藤原惟憲の妻藤原美子であり大江氏の三位ではない。新田孝子氏「栄花物語』の女官名称-乳母「近江の内侍」」関根慶子博士頌賀会編『平安文学論集』 風間書房1992によれば夫の官職に因んで近江の内侍と称されていたが、昇叙により『栄花物語』第十九の禎子内親王着裳の儀の記述では「近江の三位」となり、第二十八の中宮威子出産の記述では「大弐の三位」となる。これは夫惟憲が大宰大弐であったためである。つまり後一条天皇乳母藤原美子の女房名は「近江内侍」「近江三位」「大弐三位」と変遷しているが、いずれも夫の官職に因むものである。
夫の官職にちなんでいる例は事実上の夫婦同姓に近いイメージであり、江三位というのも夫婦別姓の根拠に全くならないのである。

入手資料整理165

1-53吉田孝『律令国家と古代の社会』岩波書店1963

○古代の「家」について
 古代で「家」はどのように使われていたかと、やはり基本的には父から子に継承する原理を言っている。ウジと実質的には同じ意味でも使われるし、住まいとしての家をさすこともあったとする。
 吉田氏は公的「家」という概念についても説明しており、三位以上の位階を得た貴族だけが公的「家」を設けた。これは三位以上の位階にともなうもので、世襲されるものではないから「家」が多義的に用いられている。
 通説では家職・家業・家産を父から子に継承する日本的「家」の成立は院政期以後の展開であり、特定の氏族が特定の官職を独占的に世襲するようになってから、例えば官務家としての小槻氏、局務家の中原氏、清原氏などある。村落社会では家産を継承する永続的な家が基礎単位となるのは14世紀以降の進展とみられる。惣領制が解体して、嫡子単独相続制となって近世的ない「家」が成立する。
この点について、吉田孝はわかりやすい説明をしている。「奈良時代の藤原氏の家は、まだ平安時代後期の貴族のように家領を形成しておらず、もっとも大きな収入源は位階や官職にともなう食封など、朝廷から支給される封禄であった」180頁
 法制史的には、官職の世襲は、官位相当制を原則とする律令の官僚制を破るものであるが、平安末期から鎌倉時代初期、明法家が家業のためなら律令を破ることも許されるという説を公然と揚言するようになって既成事実化したのである。
 しかし、中世以降の「家」制度は、古代の律令国家に既にその萌芽があったとみるべきである。
 吉田氏は、「家」制度成立の前提となった古代の制度について3点を挙げている。
 1つは日本律令に特有の嫡子の制である。これは蔭位を中心とする出身法と、財産相続法に関連して規定されている。いずれも唐令とは異なり嫡子を他の子供とは異なり特別に扱おうとするものであるが、中国とは違う制度を導入した理由について、「首長位が傍系の範囲で移動する「氏」ではなくて、嫡子制による「家」に支配の基礎を置こうとしたのは、「氏」の組織が律令国家の支配集団の単位としてはあまりにも流動的であったから想定される‥‥嫡子制の導入は、家長の地位の継承を父-子のあいだに固定し、「家」を律令国家の支配機構の基本単位として意図的に設定しようとするものだった。」もっとも、奈良時代には嫡子制は定着しなかった。庶民のあいだでは戸政の納入責任者以上の意味のなかったとする(172頁)が、中国とは違う制度をとったことの意味は大きい。
 2つめは、古代には中世以降のように家領が成立せず、官職を世襲することはなかったが、「ヤケ」(地域共同体の経営の中核)とのその従属民(ヤケヒト・ヤツコ)を相継していた。「すなわち在地豪族層や有力農民層のイヘが、かつてのヤケが担っていた機能を吸収していったとき、中世的イヘが形成されてきた」(181頁)という。
 3つめは、中世以降の「家」制度の家業観念は、律令国家前にさかのぼる、始祖が天皇の祖先に仕えた職務を継承するウジの原理の再生(180頁)という意味があるとする。

 ここから私の見解であるが、したがって、家職・家業継承の日本的「家」制度の成立が院政期以降、狭義の日本的「家」制度は嫡子単独相続となった中世後期以降としても、それを形成してきた基盤が律令国家と律令国家前の制度にあった。律令の嫡子制にさかのぼって貫徹する社会構造と見なしてよいのである。約千年つづいている、まさに「家」制度は国柄といってもよいのである。

 中国には宗族、韓国には門中という宗法原理による父系出自の親族集団があるが、日本のように家業や家職を継承する経営体と結びついた「家」観念はないのである。したがって「家」制度は我が国特有の社会構造である。
 

2015/07/18

入手資料整理164

(夫婦別姓反対論の材料)
10815 柳谷慶子「大名家の奥向と正室の役割」『歴史地理教育』724号2008年
 「「奥」の主人として君臨していた大名の正室は、自身が生母となることはなくとも、側妾の生んだ子どもの養母ないし嫡母の地位に就いて世継ぎの養育に責任のある立場にあった」
10816井戸田博史「夫婦の氏を考える」『学士院会報』861号2006年
10817坂田聡「中世百姓の人名と村社会-近江国菅浦の実例を中心に」『中央大学文学部紀要』182号 2000年
 近江国菅浦とは奥琵琶湖、教科書にも出てくる惣村の典型である。現在は長浜市西浅井町というところであり、先進地域の宮座型村落と考えられる。姓(氏名うじな)と苗字(家名)の違いについて説明し、中世百姓は貴族と同じように姓と実名(じつみょう)有し、時と場合によって字を使い分けていた。
 姓とは源平藤橘などの古代的姓氏=氏名(うじな) のことである。ただし源平藤橘を名乗るとしても、それが中央の貴族と系譜的につながるわけではない。中世前期までの村落社会は、永続的な家を基礎とするものではなく、氏と呼ばれる集団(氏神を祀る単位であるとともに領主に対する公事を負担する単位でもあの、名主や番頭の同じ氏に所属する者で継承されていた)を形成していたのである。
 字について詳しく分類しているが、日常的に呼ばれる通称のことである。一郎、三郎のように排行に郎をつけたり、排行の上に孫、助、彦、新、与、又、弥をつけたもの(助三郎など)例えば、北島三郎、勝新太郎、桂太郎のほか、橋本龍太郎、小泉進次郎がこのタイプに近く現代でもポピュラーである。「姓型字」として源平藤、中原氏の中、清原氏の清に排行などをつけた例えば、平三、源太、藤四郎などである。「官途名字」とは朝廷の官職名を取り入れたもので、左衛門、右近、勘右衛門、兵衛太郎、右馬介、権介などのことであるが、もちろん朝廷が承認したものではない。村の鎮守の宮座の場で官途成という儀式を行って初めて名乗る。宮座は祭祀組織であるとともに村内の政治を議論する寄合でもあった。本来は上層農民だけが参加できたので特権的な名前であり村内身分秩序形成の原動力になったとみられる。歴代総理では山本権兵衛という人がいる。後世では「名無しの権兵衛」というようにこれもありふれた名前ということができる。
 今日の名字(氏)今日議論されている夫婦の姓とは、古代的姓氏=氏名(うじな)のことでなく、苗字(家名)のことであり、村落社会では、家固有の財産である家産を父から嫡男(一般的には長男)に継承し、永続的な家を形成したときに一般的になった。菅浦古老では14世紀後半、新興の宮座成員では15世紀からとされる。
 それは氏という族集団を基礎とするを基礎とする中世前期の村から、家を基礎とする中世後期以降の村社会への転換を意味していたと著者は考えている。
 以下、私の考えだが、西欧でも家名に相当する父系姓の成立は13~14世紀とみられており、我が国の苗字(家名)とほぼ同じ時期といえる。日本的家制度自体は院政期に成立したとするのが通説だが、貴族では嫡子単独相続は鎌倉時代後半以降の傾向で、後醍醐天皇以降、家門安堵という形で「家」総体が安堵されたのであるから、14世紀以降の日本社会は「家」を基礎とする社会となったので、古代的姓氏よりも家名のほうが社会的標識としては意味のあるものに転換していったとみられるのである。
10818 井戸田博史「江戸時代の妻の氏」『奈良法学会雑誌』12巻3/4号2000年
夫婦別氏旧慣習説の論者だが、その根拠となる資料については批判されている。
 まず、徳川綱吉母桂昌院の位記が「藤原朝臣光子 右可従一位」とあり、徳川氏の本姓源氏ではなく養父の本庄太兵衛光利の本姓藤原氏とされていること。永代常灯籠の銘文(法隆寺、元禄七年)「母儀桂昌院本庄氏」であるが、将軍実母ではあるが桂昌院は春日局の部屋子として江戸城に入り、家光に見初められ側妾となった女性で正妻ではない。たんに雇われた人にすぎなかったのであり、これをもって夫婦別姓の根拠にはならない。系図に「母は○○女」とか「妻は○○女」とあるのは妻や母の由緒を示してたにすぎず、これも別姓の根拠にならない。墓碑については洞富雄の洞家の墓には、玄祖母について「平松もと」と生家が冠されていることもたんに由緒を示したと解釈できるので別姓の根拠にはならない。

森元首相インタビュー記事の感想

 組合掲示板に声明が貼られ、安保法案=戦争法案の廃案と撤回、安倍内閣打倒を全ての仲間とともに闘い抜く云々とか書かれてましたが、私は女性活躍政策をはじめとして安倍は嫌いな政治家ですが、「戦争法案」は公明党との協議でかなり制限されたものになったことが不満であって、法改正そのものは賛成なので、唯一支持できる政策です。
 ところで、昨日の産経新聞で森元首相「新国立の経緯 すべて話そう」http://www.sankei.com/politics/news/150717/plt1507170002-n1.htmlという記事を読んだ。これし共同通信が「きっかけはラグビーW杯」という記事を配信したことに対する反撃のようだ。
 国立競技場の建て替えは、2016年のオリンピック招致に失敗した東京都とJOCが考えたものであって、一部メディアが伝えているようなラグビーW杯のためではないと言う。2016年案は当時の石原都知事と安藤忠雄氏の共同作業で全体像を描き、晴海に国立競技場を移すというものだった。しかし晴海は風が吹くため公認記録に影響するのでIOCが難色を示し、2016年の招致は失敗した。晴海は潮風等の問題でダメ出しされたので2020年の招致では今の場所に建て替えることになったという経緯を説明、国立競技場は陸上競技の公認競技場でないので陸連は世界大会を開けない。サッカーW杯を招致するにしても8万人収容が必要なので、建て替えの必要があった。
 2019年完成の工期はラグビーのためでなくプレ五輪のためである。プレ五輪ができないと笑いものになる。屋根についても、オリンピックの後、運営経費をまかなうにはコンサートなどの多目的利用が必要、騒音を出さないためにも天蓋は不可欠と論理的な説明でありそれ自体納得できる。
 森元首相はザハ・ハディドのデザインはもともと好きでないとしている。安藤さんの発言権が強いのは石原都知事が推した人だから、文科省もJOCも拒否できなかったという趣旨のことを言っているが、そうすると、安藤忠雄氏の性格からみて無難なものより挑戦的な建物になるということは予測できたので、デザイン問題は安藤氏の責任でもあるが、安藤氏を推したとされる石原元都知事の責任ということになる。
 むろん、2012年のコンペが、粗雑なものだったとプリツカー賞受賞者の槇文彦が指摘している(新国立競技場の何が問題か』平凡社2014年)。また昨日の日刊スポーツ「政界地獄耳」では、そもそもこういった国家プロジェクトでは本来は国交省の営繕部が緻密な計算をして、物価スライド、資材高騰などの実現性を担保するものだが、文科省だけでまとめようとしたことの失敗ともいわれ、結局は安倍内閣の責任ということだろう。

 白紙から見直しというが、私は槇文彦氏のように無蓋で簡素なものと言う主張もあまり好きではない。せっかく建て直すならVIPブースや社交のため施設、レストランなどのホスピタリティの部分は充実させたいだろうし、無蓋だと多目的利用が難しくなり採算がとれるのかも心配になる。
 一時噂されていた、巨人の本拠地移転はどうなったのか、巨人の本拠地になれば採算はとれるだろうが、お金をかけないというなら、更地のままにして新横浜の日産スタジアムも東京駅から新幹線で20分程度でいけるので、この際、そこも東京だということにしてしまうという手もある。

2015/07/16

巨匠記者会見の感想

 TBSテレビの録画をとっていた「反撃」記者会見を全てではないが見ました。膵臓と脾臓がないというのにけっこう元気でしたね。報道によると安藤忠雄氏は修正するとしてもザハ・ハディドという人は替えるべきでないと、こだわっていたということですが、もし安倍がザハ・ハディド案を降ろすとなれば、巨匠安藤忠雄の面目丸つぶれである。安倍は政権浮揚のため建設計画見直しをこれからやる可能性がでてきた。日本で最も有名な建築家のメンツが潰れてもかまわないという冷酷な判断に至ったのかもしれない。キールアーチを潰して、ついでに元首相のメンツも潰すと国民から受けるだろう、世論に乗ったほうが安倍にとっては得点になるという判断に傾いたのかもしれない。。

2015/07/14

同世代の一人だが全く業績を知らなかった

 組合のニュースでは7月14日と7月28日の日比谷野外音楽堂「戦争法案廃案!強行採決反対!国会請願行動」と7月26日(日)の国会周辺「戦争法案廃案!国会包囲行動」参加の呼びかけが掲載されてましたが、組合員の関心は低いようです。盛り上がってるの東京新聞とか日刊ゲンダイぐらいのように思えます。私はこの戦争法案じゃ物足りない。憲法9条2項廃止に賛成だから、さっさと強行採決やってくれてかまわないわけですが。それよりも児童ポルノ単純処罰7月15日施行のほうが問題でしょ。

   ところで数年前に『週刊朝日』で皇太子殿下に対して研鑽に努めるというおことばは遠慮しすぎ、50代ともなれば世間では部長クラス(実際になれる人は5人に1人だが)だからもっと指導力を発揮してはという趣旨の記事があって、同じ学年(つまり昭和47年に中学一年の世代、新学習指導要領で現代化を推進、数学で集合論やトポロジーを導入、詰め込み教育ともいわれた)の著名人として任天堂の岩田聡、ワタミ創業者(現参院議員)の渡邉美樹、直木賞作家の石田衣良、ノーベル化学賞の田中耕一、俳優の渡辺謙、愛知県知事の大村秀章というリストがあったのである。私もこの学年である。
 いわゆる谷間の世代ですね。団塊世代の終わりの高校紛争とかは全く知らない。暴れていたのは今64歳ぐらいの塩崎厚労大臣の世代である。政治的なことに関心が基本的にないのがふつうだった世代である。
 私は万年平社員で終わりですが、渡邉美樹氏や、岩田聡氏は同世代の出世頭みたいなものなので尊敬しています。残念なことに、岩田さんが亡くなったということですが、本当のことをいうと、どういう業績のある人か知らなかった。死亡記事で初めて知ったことが多いわけです。任天堂は花札しか買ったことがないから、ゲームセンタ-はかなり遊んだことはある。ゴルフゲームに夢中になったことはあるが、任天堂のゲームは全く知らない。

2015/07/12

入手資料整理163

(テーマ夫婦別姓反対論の材料)

10812  廣瀬隆司 「明治民法施行前における妻の法的地位」」 『愛知学院大学論叢. 法学研究 』28(1・2) [1985.03])  

明治維新より、明治民法施行までの法制史。著者は親族法と相続の専門家。

10813    廣瀬隆司 「明治民法施行前におけ妻の法的地位」」 『愛知学院大学論叢. 法学研究 』28(1・2) [1985.03])  

亡妻の妹と再婚することを順縁婚、人類学ではソロレート婚、亡兄の嫂を娶ることを逆縁婚、人類学でレヴィラート婚という。明治民法では庶民の家族慣行を重視し 順縁婚、逆縁婚とも合法としたが、民法施行前、特別許可制の時代があった。逆縁婚は士族の家族慣行では儒教倫理に反し許容できないものだったからである。しかし貞女は二夫に仕えずという儒教倫理よりも家継承が重視されるのが日本の庶民の家族慣行であり、逆縁婚を合法としたのは大英断であったと考える。というのは、戦争未亡人の多くが逆縁婚で再婚し、家を継承しているのであり、無用の混乱を回避できたのである。  順縁婚は、逆縁婚ほど問題にはならなかったが、西洋では教会法によって近親相姦として禁止され、イギリスやフランスでは死別でなく離婚後の順縁婚を禁止していた。近代化にあたって、西洋のような立法政策もありえたのであるが、やはり入夫婚姻(聟入)のケースで妻が死亡したとき、聟がそのまま亡妻の妹と再婚して家を継承することはありうることであって、家継承の観点からしても 順縁婚合法は妥当なものである。  なお、著者によると徳川時代は「国家」の倫理観が最優先され、「家」は次位に甘んじられた。明治民法以後は「国家」「家」「個人」にいためまで矛盾ない統一をつくりだし、明治民法はすばらしい法典だとする。そのような方向で研究をすすめるとしていたが、惜しいことに50歳で死亡したため、論文は少ない。

10814柴桂子「近世の夫婦別姓への疑問」 」『江戸期おんな考』(14) [2003年]

  夫婦別姓旧慣習説の井戸田博史を論破している重要な論文。井戸田氏の資料的根拠は妾として入った女性のものであるが、妾は本来給金を払って雇われた人にすぎない。正妻と同等では全くない。大名家の場合妾の子でも正妻が養育し、公的には正妻が母である。正妻が死亡した後、身上がりして、継室となり「おふくろ様」として権力をふるう例がないわけではないが、近世後期にそのような例はなくなった。実母も藩主家族の準構成員にすぎないということは別の論文で読んだ。柴氏は近世において女性が姓や苗字を名乗ることは稀であり夫婦別姓とはいいがたい明確に言っている。坂田聡の中世後期から近世にかけて夫婦同苗字が一般的だったという説も引用している。

巨匠バッシング報道の感想

 プリツカー賞、文化勲章等受賞、東大工学部教授を歴任、だみ声の関西弁で豪放磊落、気さくな人柄、知名度が高く、建築家としては突出した存在感のある巨匠がバッシングされている。
 NHKBSのドキュメンタリーも見たが「すい臓がん」を宣告されてるのにめげることなく、エネルギッシュに仕事をこなしておりすごい人だと思った。
 10日付の日刊ゲンダイによると「最近も政府に堂々と「ザハ案で押し切れ!」と掛け合っていたようだ」と報道されている。 http://nikkan-gendai.com/articles/view/news/161593/2安藤忠雄の盟友とされる難波和彦の日記6月29日によると、建築界で総じて槇文彦に賛成のようだが、自分は槇氏と確執があるので賛成できない。安藤も槇も引くに引けない状況と解説している。
 安藤氏に批判的な論評では、森山高至の「新国立競技場に執着する安藤忠雄の大罪」http://ameblo.jp/mori-arch-econo/entry-11921842694.htmlを読んだが、要するに東大教授就任を奇貨として行政のアドバイザーとしての仕事が増え、審議会に名を連ねるようになり、都市政策の発言力を増していった。間口を広げすぎた慢心というものである。
 なるほど、安藤氏は中小住宅から始まって表参道やベネチアの都市空間を彩る建築で高く評価されているが、都市政策そのものの専門家というわけではないように思える。「独学神話」で反権威的イメージだった人が、東大教授に就任したので慢心があったということなのか。
 一方で安藤氏に同情的な意見もあった。concretismというブログの「新国立競技場をめぐる巷の意見に対する当ブログ主の所感 」http://concretism.hatenablog.com/entry/2015/07/04/230101だが、「ザハ、安藤忠雄の両者をはじめとする当時のコンペ関係者は、閉塞感が漂っていた当時の日本、特に「コンクリートから人へ」を掲げた民主党政権下における建設・建築の関係者の鬱屈した気分を晴らすというその責を十分に果たしており‥‥」と述べ、業界の期待に沿ったものであり当時においては妥当な判断だったかもしれない。なるほどハコモノ公共事業批判と経済低迷で業界に閉塞感があったのは事実だろう。「コンペ開催当時1ドル=78円程度に対して現在1ドル=122円であることには留意する必要がある」とも述べている。ザハ案が決まったのは野田内閣が解散を決めた翌日のようだが、当時安倍は野党の総裁だった。12月の選挙結果で首相になることは予測できたとはいえ、ここまで円安にふれると予測した人は多くないはず。今日の経済情勢の変化、建築費の高騰を安藤氏が予測できなかったとしてもやむをえないともいえるかもしれない。

2015/07/05

新幹線焼身自殺事件の感想

 新幹線で死亡事故は聴いたことがない。ある意味衝撃的な事件でしたが、これはたんなる自殺ではなく放火事件でもあるので、容疑者に同情はしません。というより日刊ゲンダイの報道では年金月12万円は中の上であり、もっと少ない人は沢山いる。生活に困窮していたとはいいにくいとの報道ぶりでした。
 ただ、風呂なしでドアが南京錠の木造アパート、煙草は旧三級品のエコー、安酒とアイスが楽しみだったという容疑者の生活は良く言えばつつましく、客観的には「下流」の生活とはいえる。でもこの時代、エコーと安酒で満足しなければいけない時代になったのかなという率直な感想である。
 私は十二年くらい前には煙草をやめてますが、すっていたのは軽い煙草スーパーライトで、220円だったと思います。エコーは一度ためしたことはあるかもしれないが味の記憶はない。マイルドセブンライトでもきついのにエコーは私にはたぶん無理です。でも今エコーは250円でさらに値上げされるというhttp://www.sankei.com/economy/news/150519/ecn1505190074-n1.html。このデフレ時代に高いとは思うが容疑者がエコーしかすえなくなったのは、これは全く政治のせいだとはいえる。
 旧三級品の税金が安く抑えられているため国産煙草ランキングで260円の「わかば」が6位、250円「エコー」が7位と人気は上昇しているという。「わかば」は明治生まれの祖母が吸ってた銘柄で子供のとき1960年代でしたが買い物にいった記憶がある110円ぐらいだったような。50年近くたって「わかば」がこれほど売れているとは思いもよらないことです。
 安倍は女性活躍政策で実質格差拡大政策をやっている。ゲタをはかせて管理職になる女は、旦那も管理職だから、ダブルインカムでがっぽり。だいたい女性活躍政策は特定社会階層だけが利得者となる政策にすぎない。一方、生涯未婚率が上昇して結婚できない男は、さびしくエコーと発泡酒を楽しみにして老後を暮らすそういう時代になったということです。
 

2015/07/04

女性活躍とは「陰盛陽衰」という反倫理思想そのもの

  日弁連女性委員会や女性活躍政策推進者と利得者は敵ですが、女子サッカー選手は敵ではないのでいい加減負けろとはいいませんが、色気を感じないし、関心はないし、見ることもありませんが、女子サッカーが又勝って、安倍が女性活躍を喜ばしいのなどとほくそ笑むのは非常に不快である。もしそうなるなら、この際、男子サッカーは二次選を突破できず、ワールドカップ絶望になると非常に面白いことになると思います。カンボジアには勝てるかもしれないが、シリアやシンガポールは手ごわいのでは。
 アメリカにできれば勝ってもらいたいというのは、タイトル9で知られているように体育・スポーツの男女平等先進国だからある意味当然といえる。日本はそれほどじゃない。これほど女性活躍が叫ばれているわりには高校野球や箱根駅伝実質男子のみのスポーツばっかりテレビでやっていて面白くないわけである。
 女性活躍というなら、まず超マンネリの高校野球の放送をやめ開会式に文部大臣が出るのをやめ女子スポーツに切り替えるべきなのである。
 
 ところで神保町の中国専門書店で魏則能『中国儒教の貞操観』桜美林大学北東アジア総合研究所2015年という新刊書を買いましたが、中国安徽省出身の著者によると、日本は中国と違って男性が女性の嫉妬を罵る光景がみられず、男性の女性虐待も少ない。女性は絶対的に男性に服従する一方で、武士の弱者愛護の精神があり、女性は男性は女性に絶対的な保護すると書かれている。もともと女性にやさしい社会なのに、過重に保護する公共政策は必要ないというのが私の見解である。
 
 安倍も、女性活躍政策やつい最近は親交のあるアグネス・チャンからの影響か児童虐待防止にも力を入れているようですが、その基本にあるのは武士の弱者愛護のバターナリズムかもしれない。
 しかしこれは全く時代錯誤なものであるといわなければならない。
 
 『中国儒教の貞操観』で、もっともわかりやすかったのは、女性には貞節が求められるが、重要な理念の一つが「三従四徳」であり、漢代の思想だがこれが婦人道徳の基本となったということである。
 三従とは、嫁に行く前は父に従い、嫁に行ったら夫に従い、夫が死んだら子に従うというもの。四徳とは「婦徳・婦容・婦功・婦言」女性らしい道徳、女性らしい容姿、妻としてなすべき仕事(料理や裁縫の技術)、女性らしい言葉使いのことである。
 
 アジアンビューティとかいうCMがありましたが、東洋女性が魅力的なのは、「三従四徳」思想を叩き込まれているうえに妖艶だということに尽きる。
 
 我が国でも徳川時代は往来物で舅姑に従い、舅姑を親と思うように徹底的に叩き込まれたし、明治以降も良妻賢母教育で基本的には同じことである。「三従四徳」は中国由来であるが我が国の伝統的な思想になっているということは著者も言っている。しかし、今の教育では婦人道徳はほぼ完璧に排斥され、男女平等教育になっている。平等でないのは、体育と部活動の予算やグラウンドの占有で男子スポーツが勝っていることくらいになってしまった。
 夫婦別姓推進論者のように舅姑に服従するのはいや、夫に従うのも同じ墓に入るのもいや、でも婚家の財産は分捕りたいというわがままな言論がまかりとおるようになっているのである。
 日本の男性が伝統的に、女性を保護するパターナリズム的対応が顕著なのは、三従の教えにより基本的に女性は男性にしたがい、夫を立てるものであるという認識をもちその反対給付としての保護であるから、わがまま、生意気言い放題の現代においては、女でも「ざけんじゃねえ」とか男のような言葉遣いをする今日、女性を弱者として保護する意味は全くなくなったというべきである。
 
 私がパターナリズム、特にロマンチックパターナリズムを嫌うのはそういう理由である。
 
 著者は儒家の男尊女卑の思想の真相を語っている。これは尊い男性が卑しい女性を圧迫するというものではない。男権主義とも少し違う思想のようである。陰陽学説からきている。陰(女性)と陽(男性)の不平等な調和を説くものだといってよい。陽の統治的地位と主導のもとに調和を維持するのが良いという思想である。
 よくないのは「陰盛陽衰」である。陰が盛んになり陽が衰えるのがよくない理由は、陽と陰が戦争すると陰が強いので陽が負けてしまうからである。陰は従順でなければならず、強弁してはいけないというのはそのためである。
 ある意味女の恐ろしさをよく知っているリアルな思想である。そもそも女は弱者ではなかった。 
 現代の医学では男性が弱い性であることがわかっている。色覚異常や吃音は男性の割合が大きいのである。精神疾患などもそうだろうし、ストレスにも弱いのである。女性のほうが言語能力は勝っており、大学入試センター試験でも外国語は女子のほうが点数が高いはずである。
 これは私の解釈だが、男が天、女が地、男が太陽、女が月「陰盛陽衰」とは地と天がひっくりかえることであり、月が太陽より明るくなることだ。だから女性活躍は良くない、安倍の政策は駄目だ。不自然である。すくなくとも陰陽思想に反している。
 「陰盛陽衰」は不吉ではないか、まさにそれがおきるかもしれない、女子はワールドカップ優勝、男子は二次予選で脱落。
 

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