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2015/08/27

入手資料整理172

組合掲示板に『戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会10万人・全国100万人大行動』の参加を呼びかけるちらしが2枚貼られていたむが、組合員はさほど関心はなさそうだ。
 家事雑用に時間をとられてまだ夫婦別姓反対論で引用する材料集めの段階だが、こんな調子でもまにあわせる。男女共同参画にも反対しなきゃいかないし、忙しいが徹夜してでも全てやるつもり。
家令職員令に規定される公的「家」や王臣家は8世紀・9世紀よりあるものだがこれは封戸制の家政機関としての家である。社会構造としての日本的「家」制度の形成については公家起源説と武家起源説があるが、非血縁養子による家業・家職継承という観点から官職請負制がはじまる少し前の11世紀の諸道博士家起源説が妥当であると私は考える。その観点から公家や諸堂博士家関係の論文を収集した。

10860菅原正子「七五三の源流」日本歴史630号2000年
 今日のような11月15日となったのは江戸時代、史料上は天保年間。七~八月花火見物で浴衣姿の若い娘を地下鉄などでみかけることが多かったが、浴衣がブームとなり外出着となったのは天保の改革以降であるから。江戸時代末期の習俗は今日でもほとんど消えずに残っているといえる。

10861菅原正子「室町時代における公家の所領経営と機構--15世紀山科家の場合」
『日本歴史』443 1985年

家司の業務や所領経営の実態について解明しているが、さしあたり基本的な知識だけで十分である。
要点-非血縁継承12世紀の例
   山科の称号は14世紀中葉から、内蔵頭独占世襲の時期と一致

 山科家は四条流の支流で、藤原北家といっても傍流の魚名流であり累代四位・五位どまりであったが、白河院政期の顕季以来、院近臣として活躍、山科家の祖である、正二位権中納言教成(1177 ~1239)は後白河近臣相模守平業房と高階栄子との間の子で、藤原(冷泉)実教の猶子となった。母の従二位高階栄子は丹後局と称され、夫の平業房が清盛により処刑された後、後白河上皇に近侍して寵愛を得、政治にも介入した女性として有名である。
 父が伊勢平氏であるから、非血縁継承である。
 丹後局は後白河上皇の御起請符(承認)により実子の教成に山科御所のほか遠江、美濃、信濃、備前国等の所領を譲り渡しており家領を形成した。
 山科を正式の称号としたのは貞和二年(1346)であり、これにより教行-教言の系統を嫡流とした。西欧で父姓継承が定着したのが14世紀ごろと考えられるからほぼ同じといってよいと思う。
 貞和二年に教言が内蔵頭に補任されて以来山科家が独占世襲し、山科家の所領は家領と内蔵寮領となる。

10862湯川敏治『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会2005年 
元関西大学非常勤講師。公家の家政、後宮女官に関する業績があるが、著者
は明言してないが、公家日記での夫婦同氏の呼称について解説しており参考になる。

公家日記で自己の室、他人の室に対してどのように称しているか

三条西実隆の『実隆公記』

自分の室を指して 室家(しっか)、青女 「今日室家、小女等向勧修寺亭」
「青女向勧修寺亭」
他人の室に対しては
「滋野井室家今日帰宅」「今夜勧修寺中納言新嫁云々」「入夜鷹司亜相殿北方来臨」「九条北政所来臨」
 亜相殿とは大納言のこと。
婚家名で称しており今日の夫婦同氏と同じ感覚である。西洋でも社会生活では夫の家名(姓)+夫人と指称するのと同じ。例えばクリフォード・チャタレイ准男爵の妻をチャタレー夫人というように。

甘露寺親長の『親長卿記』

 中御門宣胤に嫁した女を指して「東向予息女、中御門室家今日帰大津」

甘露寺元長の『元長卿記』

 中御門宣胤に嫁した姉を指して「中御門大納言室、予姉也、東向入来」

自己自身の娘であっても、婚家名で称していることから、夫婦同氏のならわしと理解してよいと考える。 以上18頁

次に摂関の正妻を北政所と称するが、呼称勅許か必要である。

三条西実隆の女保子は九条尚経に嫁いでおり、実隆が内々に北政所勅許を朝廷に働きかけていたが、嫁いで8年後に治定された。それまでは「九条姫御料人」「九条御料人」と記されている。

三条西実隆の女であっても自ら「九条御料人」と記しているのだから、これも夫婦同氏のならわしと理解できるのである。64頁


近衛尚通の正妻(北政所と称される)、徳大寺実淳女維子の里帰りについて

 維子が近衛家に嫁いだのは17歳の時、明応6年(1496)である。7人の子どもの母である。
 定期的な里帰りは正月と七月である。

 正月四日に実家の徳大寺家から酒、鏡餅等が贈られてくる。里帰りは五日で、近衛家から実家へ両種二荷が贈られるならわしだった。これが明応7年から永正4年(1507)まで
永正5年以降は正月四日に里帰りし、日帰りで酒。鏡餅等を持ち帰る。
日帰りなのでほとんど義理のつきあいになっているように思える。

 七月は盆前の七月十一日の生見玉行事である。

定期的な里帰りは永正17年までそれ以降はないがその理由はわからない。

不定期の里帰りで理由のわかっているものは、弟の元服、徳大寺家の花見、父の病気見舞い、父の葬礼であるが、さほど交流は多くなく、正妻は明らかに婚家の成員なのであり、両属的なものでは決してない。

他家との社交生活は、公家よりも武家と親しかった。細川氏一族とくに細川高国が頻繁に近衛家を訪れ、家族ぐるみの交際があり、高国から猿楽見物の招待もされている。また将軍家とも交際があった。

近衛家では家計管理は当主が握っていた。

北政所の遊興・寺社参詣記事は多く、近衛家は開放的な家風で堅苦しくない。

10863勝山清次 「便補保の成立について--「納官済物」納入制度の変遷」『史林』5第59巻 第6号(1976)
10864星野公克 「太政官厨家料国と便補保」『史學研究』 182,, 1989
 私は日本的「家」制度の成立期を11世紀と考えているが、官司請負制の成立は、中央政府諸官衙の公事用途調達方式の変化と関連している事柄である。
 11世紀40年代に「料国制」が成立し、官衙ごとに納物負担国と所済定数が制定されるが11世紀末に受領監察制度が機能しなくなり、12世紀後半以降内挺関係や諸公事にかかわる官衙の済物の弁済状況が悪化する。このため納物徴収の責任者である小槻氏は、在地l領主からの寄進や功力を入れて開発などした便補保を積極的に建立し、鎌倉時代の建久~承久年間に諸司領として確立(子孫相伝の宣旨)。鎌倉中期以降は便補保以外納物は確保されなくなった。
 太政官厨家領は官務小槻氏が管領することとなり、官務を世襲することになるといった筋書き。

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