安倍左翼政権による女性活躍法案成立きわめて不快な気分だ。フェミニズムやジェンダー理論に追随することが経済成長戦略だなどというのはちゃんちゃらおかしい。このあとも男女共同参画基本計画、マタハラ規制義務化、夫婦別姓と次々と女性政策の出てくるが、いいかげん止めないと大変なことになる、いずれも神の像としてつくられた男性の尊厳を毀損するものである。
ところで金曜日、組合役員が古参組合員に戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会10万人・全国100万人大行動の参加を誘っていた、終わった後、銀座で呑むからどうと言っていたが、行かないとのつれない答えだった。
今回も夫婦別姓反対論の材料あつめ
10865森田 悌 「王臣家考」『金沢大学教育学部紀要. 人文科学・社会科学編 』27/1979
日本的家制度について、非血縁による家業の継承のある11世紀以降、狭義の家制度が嫡子単独相続となった南北朝以降だとしても、奈良時代や平安前記にも家はもちろんあった。公的家のことだが、9~10世紀は王臣家という語があらわれる。平安中期になると王臣家とはいわず、たんに諸家、権勢家というのである。
さしあたり基本的知識だけで十分である。
著者によれば「王臣家」の資料上の初出は天応二年(782)官符で奈良時代末期と古い。
王臣家は牒の書式で国に通報できる。家政機関が諸司諸衛なみの官衙とみなされていた。
三位以上は家牒、五位以上は宅牒。それは家司、宅司が作成する。
広義には五位以上を王臣家といってもよいが、家牒を発給する三位以上つまり通貴を王臣家と称するのが普通だということである。なお有品親王もこの範疇だろう。
いうまでもなく王臣家は特権を有していた。
通常の官人が預かる季禄のほかに、位封・位禄を賜り、位田を支給される経済的優遇措置があった。
大同三年(810)に食封支給を令制どおりに行うこととした。
食封条による位封・位禄
太政大臣3000戸
左右大臣2000戸
大納言800戸
正一位300戸
従一位260戸
正二位200戸
従二位170戸
正三位130戸
従三位100号
正四位絁(あしぎぬ)10疋、綿10屯、布50端、庸布360丈
従四位絁(あしぎぬ)8疋、綿8屯、布43端、庸布300丈
正五位絁(あしぎぬ)6疋、綿6屯、布36端、庸布240丈
従四位絁(あしぎぬ)4疋、綿4屯、布29端、庸布180丈
この論文には書かれてない事だが、
封戸とは特定の戸を封戸として定め、その戸からの出租の半分と、庸調の総て、および仕丁の労役を使用することができる。
位禄は庸・調の未進によって現地の年料別納租穀(租として納められた穀米)を現地で支給する方針に変更され、10世紀に入るとその支給も困難となり、位禄を支給する人員とその支給元の国を定める位禄定(いろくさだめ)が行われ、支給範囲を限定(政権中枢の官職や後宮女官等)した禄となった。11世紀末に受領監察制度が機能しなくなって崩壊する。)
位田
正一位80町
従一位74町
正二位60町
従二位54町
正三位40町
従三位34町
正四位24町
従四位20町
正五位12町
従五位8町
政治的特権は蔭位規定(高位者の子孫を父の位階に応じて一定以上の位階に叙位する制度)による官人再生産。
著者によれば犯罪捜査でも五位以上は特権があり、在外ないし死罪を犯した場合を除き天皇へ上奏した上でないと五位以上貴族を逮捕できなかった。
国家的給付としての食封ないし位禄・位田のほか王臣家はたえず開墾活動を行い、不輸が認められれば立券荘号して荘田になる。本来あってはならないことだが、実力や不当な売買契約、出挙により農民の土地を囲い込み荘田の拡大を図っていた。
著者によれば大臣・大納言の職分田が不輸租だったのにならい墾田不輸の特権が与えられるようになったとする。
王臣家は家領を相続する中世的「家」とは違うが経営体であることは同じであり、そのような意味で、狭義の家制度がを嫡子単独相続となった南北朝以降、非血縁養子による家業継承か出てくる11世紀以降としても、広い意味で家制度は我が国の歴史を貫徹しているといってよいというのが私の考えである。
1-57川端新『荘園制成立史の研究』第一章摂関家領荘園群の形成と伝領
義江彰夫氏の論文を発展させたもの。
文治争論について
文治二年(1186)の文治争論とは、源頼朝が後援する兼実が 基通に代わって摂政に就任したため、頼朝は、基通のもつ摂関家領のうち高陽院領以外の家領、つまり最重要所領群である京極殿領を兼実に移すことを計画するが、後白河院は拒絶、争論の結果後白河院の庇護のもと基通の主張が通り、この結果、氏長者の領と家の領の線引きが流動的だったあり方に終止符を打ち、近衛家と九条家の家領の区分が確定する。兼実は皇嘉門院(崇徳中宮藤原聖子)の猶子であったためこれは相続したが、九条家の基幹所領は皇嘉門院領だけとなる。
「家」制度の歴史からすれば、近衛家領と九条家領と殿下渡領の線引きが確定した12世紀末期をひとつの画期とみなしてもよいだろう。
高倉一宮領について
頼通-隆姫-祐子内親王-忠実というルートで伝領された所領は、邸宅の高倉殿に附属して、隆姫の養女祐子内親王に伝えられたため高倉一宮領というのである。忠実は「宇治殿所分旨」を根拠に宣旨により認定されこの所領を入手した。もともと頼通が妻に処分したものだからである。この所領は高陽院領(鳥羽妻后藤原泰子)となり、基実が高陽院の猶子とされたため、基実につたえられ、文治のちに京極殿領とともに高陽院領は近衛家の家領として確定する。
京極殿領について
摂関家の年中行事の財源となる中核的所領群であり、政治の変動期(治承寿永期の)を例外として嫡流男子に相伝され、女子に分与されることはない。文治争論で近衛家の家領に確定する。
政治変動期というのは「平氏の摂関家横領事件」以降の展開である。
女院領の意味
忠実による家領の女院領化が高陽院領であり、結局九条家の家領となった。忠通の集積した所領は皇嘉門院領として女院領化して、結局近衛家の家領となる。
忠実以降、摂関の職が院の恣意によって左右され、本来藤氏内の問題である氏長者も宣旨によることになり、摂関家の政治的地位が不安定となったことから、政局に左右されず、荘園を集積できる女院という身位を利用して、家領の保全を図ったと著者は説明している。
1-58元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂(大阪)2005年
岡野友彦「源師房-摂関家出身の源氏長者」
実父が村上皇子具平親王である従一位右大臣源師房は頼通の養子であったが藤原姓ではないのは摂関の継承で争いの種にならないようにするためであったとする。
具平親王の長男である源頼成 は藤原伊祐の養子となり、藤原姓を名乗っている。異姓養子は家制度の特徴なので11世紀を画期とみなす理由となる。
佐藤健治「藤原師実・師通-両殿下制の挫折」
関白師通は白河院の受領重任人事の指図を拒否した。受領功過定を経ていない者を重任させることはできないというのは正論である。
1-59元木康雄『保元・平治の乱と平氏の栄華』 清文堂(大阪』2014年
樋口健太郎「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」
日本的家制度の成立において、平氏摂関家領横領事件以降の展開は重要であると認識したので、ポスト忠通の権力継承の分析を読んだ。
保元の乱で勝利した関白忠通の実子基実は、保元元年権大納言、保元二年に15歳で右大臣と急速に昇進し、保元三年には関白・氏長者職が譲られる。ただし16歳と若いため父忠通が大殿として摂関家の家長としての権限を掌握する体制である。
問題は基実の異母弟も摂関家嫡子に特有なルートで急速に昇進したこと。異母弟は基房(母は源国子)、兼実、兼房、道円、慈円(母は藤原仲光女) だが、基房は保元元年に13年で元服、五位中将、保元二年に参議を越して権中納言、兼実も保元三年に10歳で元服、五位中将、永暦元年権中納言。
このため、西谷正浩などは忠通は摂関家を分立される意図があったとしているが、著者は分立の意図はありえないとする。この時期の摂関家は、「摂関としての儀式や故実を行うために必要な父祖の日記や文書、そして年中行事の財源となる所領が重要であり、これらは後継者と認められた者のみに継承された。」これらはそう簡単に分割できないとする。
(これは私の考えだが当時は分割相続とはいえ、分割できない日記・文書・中核所領があるのであり、そのことは家職の継承に嫡子単独相続ではなくなった現代でも同じことである)
そのうえで、忠通の本命の後継者は基房であったとする。その根拠として、忠通から基房に日記に譲られたこと。基房の妻が藤原公教女(閑院流)と摂関家にふさわしいこと等があるという。
基実は平治の乱の直前に藤原忠隆女を妻としているが、大国受領系院近臣家で、摂関家と釣り合う家格ではない。しかも妻の兄の信頼は平治の乱で処刑されておりメリットがない。
忠通薨後、基実は平清盛女盛子と再婚する。著者は、姻戚関係で軍事警察権を掌握した清盛を後見人とすることにより摂関家内の自身の立場を強化し、嫡流としての地位を守るためだったという。
川合康 「平清盛-「おごれる」権力者の実像」
永万二年(1166) 摂政基実 は赤痢のため24歳で薨去、妻の平清盛女盛子が「摂関家領をはじめとする家産を基実の嫡男基通が成長するまで管理する役割を果たしていた」として、著者は平氏の摂関家領横領とはいってない。
准后白川殿盛子は治承三年(1179)6月17日に24歳の若さで亡くなる。これはウィキからの引用だが、家領横領というのは兼実が「(世間の噂では)異姓の身で藤原氏の所領を押領したので春日大明神の神罰が下った」と日記に記している(『玉葉』治承3年6月18日条)世間の噂を根拠としているのだろうが、兼実は白川殿盛子とは良好な関係であり、そのような見方を否定している。
この時清盛は安芸厳島神社に参詣していた。関白松殿基房は後白河院の支援により、盛子が管理していた摂関家領の奪取に動く。摂関家の家産は高倉天皇のの管理下に置かれたが、実際に管理する白川殿倉預は後白河院近習の藤原兼盛が補任される。さらに10月9日の除目で基房の嫡子師家が8歳で権中納言に任ぜられ非参議二位中将基通をこえ、松殿師家が嫡流であることを誇示することになる。
怒った清盛は同年11月14日数千騎を率いて上洛し、15日清盛の奏請により基房の関白と師家の権中納言が停止され、、基通が関白・内大臣・氏長者に任ぜられた。
18日 に前関白基房を九州に配流することを決定、20日には後白河院を鳥羽殿に幽閉し、これを治承三年の政変(クーデター)という。
この後、木曽義仲と結託した松殿基房が一時復権するが、最終的には京極殿領を中核とする摂関家領は基房(松殿家)にも兼実(九条家にも奪われることなく、基実(近衛家)の子孫の家領として継承されている。なるほど盛子が管理していた時期に平氏の家司が摂関家領にかかわったことは事実だが、妻に処分した家産は異姓に流出したわけではないし、それが法でもあり慣習でもあったということである。
1-60佐藤健治『中世権門の成立と家政』吉川弘文館2000年
序章が家制度成立に関する先行研究のまとめ
「藤原四家の特質と展開-南家を中心として」
藤原氏では弘仁十七年(821)に冬嗣が、勧学院を設立し、大学院南曹とする。勧学院は氏院として氏寺。氏社の訴訟・賦課・祭祀を管轄し、施薬院とともに食封千戸を寄せる。
これは北家のものではなく藤原氏全体であり、平安初期藤原氏は形式上北家、式家、南家、京家の四家によって構成され、例えば南家の場合は位階上臈が南家長者となり、氏爵の申請を氏長者に取次ぐ役目があった。しかし京家は早く没落し、式家、南家は漸次勢力がふるわなくなる。式家・南家は生き残りをかけて家業を創設する以外になかった。それが博士家である。
著者は・平安貴族社会の門流から家成立の過程について次のようにまとめている「「中世的な家格。家業は、鳥羽院政期に骨格が完成」し、そこでは家風が重んじられ、高い位に上るだけでは門流の長者になれない場合があった。さらに摂関家における朱器・台盤のように、家門はこれを象徴的に示す器物が相伝され、家記と呼ばれる日記の相伝が家)成立の一要素ともいわれる。‥‥博士家ではさらに官職と密接に関わるものが相伝されていた。それは加点の施された書籍である。加点本は、博士家にはなくてはらならない相承物である。
例えば北家内麿流の日野家は広業から始まる儒家だが、広業の孫の正家(万寿3年(1026年)~- 天永2年10月12日(1111年11月14日)の白氏文集は現在宮内庁書陵部にあるが、博士家の相承物とみられる。
南家貞嗣流では実範(11世紀中庸に活躍)が紀伝道の権威となりこの門流が博士家として知られる。永範(文章博士,東宮学士などをへて正三位宮内卿。後白河,二条,高倉天皇の3代の侍読をつとめた1102/06-1180)が南家博士家の読みを統一し、加点をほどこされた本は「秘本」となり、読み合わせにより「秘説」が伝授され「家説」となった。
博士家成立の時期を日本的家制度成立の時期とみなしてよいと思う。つまり11~12世紀である。
「摂関家における「公的家」の基本構成」
家領職員令により位階に応じて設置される家政機関を公的家というが、家務所の組織は平安中期に変質し令制の枠を外れたかたちで政所が設置され、家令職員令による家がそのまま平安中後期に至ったのではない、平安後期にいたり永続的経営体としての家が上流貴族で成立する。
所、作物所、文殿、地子所 、贄殿、納殿であった。
藤原道長時代の摂関家の家政機関とは 政所、北政所、侍所、蔵人所、厨、随身所、膳
家政職員は、子息、娘、妻にもそれぞれ設置され、。忠通のケースでは、元服により正五位に叙爵した時点で侍所が設置され、家政職員として、家司三人、職事二人、知家事、案主、雑色長、侍所司、雑色女が補任された。近衛大将になると随身所とと御厨を設置、内大臣に就任して膳所と納殿が設置されるのである。内覧宣旨または摂関詔を蒙ると、文殿、蔵人所が設置されるのである。
妻の家政機関については、頼長の台記によると、夫の大臣に任じられて家司が補任され、執政の後に政所を設置するのである。妻が准三后となると家司が増員され、職事が補任されるとする。著者によれば院政期になると国家的身位に応じた家政機関務設置は従三后だけだとする。
家政機関の補任権は子息と同様、夫が持ち、職員構成上も夫家と兼帯するので、妻個人の独立した家政機関というよりも「家」の傘下にあるものである。
これは私の考えだがこのような公的家の再生産、それは基本的には個人単位のものであるが、門流で連続して再生産されるので実質的に永続的な家とかわりなくなっていく、国家的給付である、封戸制が禄制が崩壊して、貴族の収入源が、荘園や知行国に移行すると家領だ経営体となり中世的「家」が成立するという筋書きだろう。
つまり令制の個人単位の公的家は蔭位制による公的家の再生産がなされ、9世紀末期に、源藤二氏を頂点とするヒエラルキーが形成され門閥貴族化するに従い、公的家の再生産の連続が次第に永続的家となり、11世紀末の封戸、位禄の崩壊によって国家的給付が不能になると家領の経営体とし中世的家が成立すると概略してよいだろう。
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