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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

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2015年8月の8件の記事

2015/08/31

入手資料整理174


松井玲奈の卒業だとか、楽天の監督後任人事とか私にとってはどうでもよいことですよ。オーナーの現場介入といえば1960年の日本シリーズで大毎の永田オーナーが消極的な西本監督の采配を批判したが正論だった。西本は近鉄でもスクイズにこだわって失敗している。

1-61金宅圭『日本民俗文化比較論』九州大学出版会2006年

韓国における女性の地位
韓国では2005年3月2日の民法改正案の国会通過で、戸主制が廃止され、さらに2008年1月11日には日本統治時代の戸籍制度もなくなり、新しい身分登録制となった。大きな変革だが、ここでは伝統社会の門中における女性の地位について述べている。259頁
韓国では夫婦別姓であっも。明確に嫁は、夫族の族成員となるのである。
著者は男子成員とその配偶者は族成員であるとする。。
 つまり韓国では「出嫁外人」という。裏返して言うと「入嫁族人」である。
まり女性の地位は、嫁→母→主婦→祖母→女性先祖と展開するが夫族の成員であるめことはいうまでもない。
別の書物だが、伝統的な韓国農村で女性の幸せとは、夫と一対の位牌になって末代まで祖先祭祀されることである。女性活躍などとんでもない、位牌になって祀られることが幸せである。儒教倫理が貫徹するから、日本より姑の嫁いじめはもっときついのである。
 嫁の地位が確かになるのは長男を産み成長する見込みがつく頃である。
これは日本でもおなじことで足入れ婚の悲劇もあったし、東アジア共通の文化である。なぜならば「七去之悪」という儒教倫理があり日本では律令国家で離婚の理由としてあげにられているものだが、子を産まない嫁や舅姑に従わない嫁は離婚してよいことになっているから。 

「七去之悪」をウィキから引用する。

1.舅に従わない(義父母に従わない、家訓に背く)
2.無子(子供ができない。ただし、妾に子供がある場合はその限りでない。また子がなくても良妻であり義父母に気に入られ、良く仕えているならその限りではないともされている)
3.淫乱(浮気、姦通など)
4.嫉妬(家族を恨み、怒る場合)
5.悪疾(家族に伝染するような疾患に罹患した場合。病気がちなのは理由とはならない)
6.多言(男のようによく喋り、家の方針についてあれこれ口を挟む)
1.窃盗(家の財産の使い込み、勝手な金銭の使用や持ち出し)


これは律令国家日本の公定イデオロギーであるが、韓国でも伝統的には同じ事である。

10866宇根俊範「「賜姓」に関する考察」『史学研究』(239), 2003
ここでは引用しないが古代的姓氏を論ずるにあたって宇根俊範論文は必須。坂
本賞三門下。

10867宇根俊範「律令制下における改賜姓について--朝臣賜姓を中心として」『史学研究』 (147), 1980

10868宇根俊範「氏のごとき個人名」『史學研究』 1851, 1989

10869利光三津夫 「法家坂上家の研究」『法学研究』54 1981

明法博士は、正七位下相当の官職だが、たんに法律学を伝授するのではなく、杖議の前提になる擬律の書、明法勘文作成という重事を職掌としていたので、重役とされるのである。法家坂上氏であるが、坂上定成は82歳の寛治元年(1087)の除目で従五位下河内守だが、明法博士だった。ところがその実子の範政は法家坂上家の家学の基礎を築いたとされるが、中原姓である。著者は中原氏の養子になったとの解釈である。ところがその息子の明兼は白河・鳥羽院政期に活躍した人物だが坂上姓であり、また坂上明基は承安三年(1173年)に坂上から中原に改姓している。
 公卿の多くにとって地下人の明基が坂上だろうが中原だろうがどちらでもよかったとのことである。

2015/08/30

入手資料整理173

 安倍左翼政権による女性活躍法案成立きわめて不快な気分だ。フェミニズムやジェンダー理論に追随することが経済成長戦略だなどというのはちゃんちゃらおかしい。このあとも男女共同参画基本計画、マタハラ規制義務化、夫婦別姓と次々と女性政策の出てくるが、いいかげん止めないと大変なことになる、いずれも神の像としてつくられた男性の尊厳を毀損するものである。
 ところで金曜日、組合役員が古参組合員に戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会10万人・全国100万人大行動の参加を誘っていた、終わった後、銀座で呑むからどうと言っていたが、行かないとのつれない答えだった。

今回も夫婦別姓反対論の材料あつめ
10865森田 悌 「王臣家考」『金沢大学教育学部紀要. 人文科学・社会科学編 』27/1979

 日本的家制度について、非血縁による家業の継承のある11世紀以降、狭義の家制度が嫡子単独相続となった南北朝以降だとしても、奈良時代や平安前記にも家はもちろんあった。公的家のことだが、9~10世紀は王臣家という語があらわれる。平安中期になると王臣家とはいわず、たんに諸家、権勢家というのである。

さしあたり基本的知識だけで十分である。
著者によれば「王臣家」の資料上の初出は天応二年(782)官符で奈良時代末期と古い。
王臣家は牒の書式で国に通報できる。家政機関が諸司諸衛なみの官衙とみなされていた。
三位以上は家牒、五位以上は宅牒。それは家司、宅司が作成する。
広義には五位以上を王臣家といってもよいが、家牒を発給する三位以上つまり通貴を王臣家と称するのが普通だということである。なお有品親王もこの範疇だろう。
いうまでもなく王臣家は特権を有していた。
通常の官人が預かる季禄のほかに、位封・位禄を賜り、位田を支給される経済的優遇措置があった。
大同三年(810)に食封支給を令制どおりに行うこととした。

食封条による位封・位禄

太政大臣3000戸
左右大臣2000戸
大納言800戸
正一位300戸
従一位260戸
正二位200戸
従二位170戸
正三位130戸
従三位100号
正四位絁(あしぎぬ)10疋、綿10屯、布50端、庸布360丈
従四位絁(あしぎぬ)8疋、綿8屯、布43端、庸布300丈
正五位絁(あしぎぬ)6疋、綿6屯、布36端、庸布240丈
従四位絁(あしぎぬ)4疋、綿4屯、布29端、庸布180丈
この論文には書かれてない事だが、
封戸とは特定の戸を封戸として定め、その戸からの出租の半分と、庸調の総て、および仕丁の労役を使用することができる。
位禄は庸・調の未進によって現地の年料別納租穀(租として納められた穀米)を現地で支給する方針に変更され、10世紀に入るとその支給も困難となり、位禄を支給する人員とその支給元の国を定める位禄定(いろくさだめ)が行われ、支給範囲を限定(政権中枢の官職や後宮女官等)した禄となった。11世紀末に受領監察制度が機能しなくなって崩壊する。)

位田
正一位80町
従一位74町
正二位60町
従二位54町
正三位40町
従三位34町
正四位24町
従四位20町
正五位12町
従五位8町

政治的特権は蔭位規定(高位者の子孫を父の位階に応じて一定以上の位階に叙位する制度)による官人再生産。

著者によれば犯罪捜査でも五位以上は特権があり、在外ないし死罪を犯した場合を除き天皇へ上奏した上でないと五位以上貴族を逮捕できなかった。

国家的給付としての食封ないし位禄・位田のほか王臣家はたえず開墾活動を行い、不輸が認められれば立券荘号して荘田になる。本来あってはならないことだが、実力や不当な売買契約、出挙により農民の土地を囲い込み荘田の拡大を図っていた。

著者によれば大臣・大納言の職分田が不輸租だったのにならい墾田不輸の特権が与えられるようになったとする。

王臣家は家領を相続する中世的「家」とは違うが経営体であることは同じであり、そのような意味で、狭義の家制度がを嫡子単独相続となった南北朝以降、非血縁養子による家業継承か出てくる11世紀以降としても、広い意味で家制度は我が国の歴史を貫徹しているといってよいというのが私の考えである。

1-57川端新『荘園制成立史の研究』第一章摂関家領荘園群の形成と伝領
 義江彰夫氏の論文を発展させたもの。

文治争論について

 文治二年(1186)の文治争論とは、源頼朝が後援する兼実が 基通に代わって摂政に就任したため、頼朝は、基通のもつ摂関家領のうち高陽院領以外の家領、つまり最重要所領群である京極殿領を兼実に移すことを計画するが、後白河院は拒絶、争論の結果後白河院の庇護のもと基通の主張が通り、この結果、氏長者の領と家の領の線引きが流動的だったあり方に終止符を打ち、近衛家と九条家の家領の区分が確定する。兼実は皇嘉門院(崇徳中宮藤原聖子)の猶子であったためこれは相続したが、九条家の基幹所領は皇嘉門院領だけとなる。

「家」制度の歴史からすれば、近衛家領と九条家領と殿下渡領の線引きが確定した12世紀末期をひとつの画期とみなしてもよいだろう。

高倉一宮領について

 頼通-隆姫-祐子内親王-忠実というルートで伝領された所領は、邸宅の高倉殿に附属して、隆姫の養女祐子内親王に伝えられたため高倉一宮領というのである。忠実は「宇治殿所分旨」を根拠に宣旨により認定されこの所領を入手した。もともと頼通が妻に処分したものだからである。この所領は高陽院領(鳥羽妻后藤原泰子)となり、基実が高陽院の猶子とされたため、基実につたえられ、文治のちに京極殿領とともに高陽院領は近衛家の家領として確定する。
 
京極殿領について

 摂関家の年中行事の財源となる中核的所領群であり、政治の変動期(治承寿永期の)を例外として嫡流男子に相伝され、女子に分与されることはない。文治争論で近衛家の家領に確定する。
 政治変動期というのは「平氏の摂関家横領事件」以降の展開である。

女院領の意味
 忠実による家領の女院領化が高陽院領であり、結局九条家の家領となった。忠通の集積した所領は皇嘉門院領として女院領化して、結局近衛家の家領となる。
 忠実以降、摂関の職が院の恣意によって左右され、本来藤氏内の問題である氏長者も宣旨によることになり、摂関家の政治的地位が不安定となったことから、政局に左右されず、荘園を集積できる女院という身位を利用して、家領の保全を図ったと著者は説明している。

1-58元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂(大阪)2005年
岡野友彦「源師房-摂関家出身の源氏長者」
実父が村上皇子具平親王である従一位右大臣源師房は頼通の養子であったが藤原姓ではないのは摂関の継承で争いの種にならないようにするためであったとする。
 具平親王の長男である源頼成 は藤原伊祐の養子となり、藤原姓を名乗っている。異姓養子は家制度の特徴なので11世紀を画期とみなす理由となる。

佐藤健治「藤原師実・師通-両殿下制の挫折」

関白師通は白河院の受領重任人事の指図を拒否した。受領功過定を経ていない者を重任させることはできないというのは正論である。

1-59元木康雄『保元・平治の乱と平氏の栄華』 清文堂(大阪』2014年

樋口健太郎「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」
 
 日本的家制度の成立において、平氏摂関家領横領事件以降の展開は重要であると認識したので、ポスト忠通の権力継承の分析を読んだ。
 保元の乱で勝利した関白忠通の実子基実は、保元元年権大納言、保元二年に15歳で右大臣と急速に昇進し、保元三年には関白・氏長者職が譲られる。ただし16歳と若いため父忠通が大殿として摂関家の家長としての権限を掌握する体制である。
 問題は基実の異母弟も摂関家嫡子に特有なルートで急速に昇進したこと。異母弟は基房(母は源国子)、兼実、兼房、道円、慈円(母は藤原仲光女) だが、基房は保元元年に13年で元服、五位中将、保元二年に参議を越して権中納言、兼実も保元三年に10歳で元服、五位中将、永暦元年権中納言。
 このため、西谷正浩などは忠通は摂関家を分立される意図があったとしているが、著者は分立の意図はありえないとする。この時期の摂関家は、「摂関としての儀式や故実を行うために必要な父祖の日記や文書、そして年中行事の財源となる所領が重要であり、これらは後継者と認められた者のみに継承された。」これらはそう簡単に分割できないとする。
 (これは私の考えだが当時は分割相続とはいえ、分割できない日記・文書・中核所領があるのであり、そのことは家職の継承に嫡子単独相続ではなくなった現代でも同じことである)
 そのうえで、忠通の本命の後継者は基房であったとする。その根拠として、忠通から基房に日記に譲られたこと。基房の妻が藤原公教女(閑院流)と摂関家にふさわしいこと等があるという。
 基実は平治の乱の直前に藤原忠隆女を妻としているが、大国受領系院近臣家で、摂関家と釣り合う家格ではない。しかも妻の兄の信頼は平治の乱で処刑されておりメリットがない。
 忠通薨後、基実は平清盛女盛子と再婚する。著者は、姻戚関係で軍事警察権を掌握した清盛を後見人とすることにより摂関家内の自身の立場を強化し、嫡流としての地位を守るためだったという。


川合康 「平清盛-「おごれる」権力者の実像」

 永万二年(1166) 摂政基実 は赤痢のため24歳で薨去、妻の平清盛女盛子が「摂関家領をはじめとする家産を基実の嫡男基通が成長するまで管理する役割を果たしていた」として、著者は平氏の摂関家領横領とはいってない。
 
 准后白川殿盛子は治承三年(1179)6月17日に24歳の若さで亡くなる。これはウィキからの引用だが、家領横領というのは兼実が「(世間の噂では)異姓の身で藤原氏の所領を押領したので春日大明神の神罰が下った」と日記に記している(『玉葉』治承3年6月18日条)世間の噂を根拠としているのだろうが、兼実は白川殿盛子とは良好な関係であり、そのような見方を否定している。
 この時清盛は安芸厳島神社に参詣していた。関白松殿基房は後白河院の支援により、盛子が管理していた摂関家領の奪取に動く。摂関家の家産は高倉天皇のの管理下に置かれたが、実際に管理する白川殿倉預は後白河院近習の藤原兼盛が補任される。さらに10月9日の除目で基房の嫡子師家が8歳で権中納言に任ぜられ非参議二位中将基通をこえ、松殿師家が嫡流であることを誇示することになる。
 怒った清盛は同年11月14日数千騎を率いて上洛し、15日清盛の奏請により基房の関白と師家の権中納言が停止され、、基通が関白・内大臣・氏長者に任ぜられた。
 18日 に前関白基房を九州に配流することを決定、20日には後白河院を鳥羽殿に幽閉し、これを治承三年の政変(クーデター)という。
 この後、木曽義仲と結託した松殿基房が一時復権するが、最終的には京極殿領を中核とする摂関家領は基房(松殿家)にも兼実(九条家にも奪われることなく、基実(近衛家)の子孫の家領として継承されている。なるほど盛子が管理していた時期に平氏の家司が摂関家領にかかわったことは事実だが、妻に処分した家産は異姓に流出したわけではないし、それが法でもあり慣習でもあったということである。

1-60佐藤健治『中世権門の成立と家政』吉川弘文館2000年
序章が家制度成立に関する先行研究のまとめ
 「藤原四家の特質と展開-南家を中心として」
藤原氏では弘仁十七年(821)に冬嗣が、勧学院を設立し、大学院南曹とする。勧学院は氏院として氏寺。氏社の訴訟・賦課・祭祀を管轄し、施薬院とともに食封千戸を寄せる。
これは北家のものではなく藤原氏全体であり、平安初期藤原氏は形式上北家、式家、南家、京家の四家によって構成され、例えば南家の場合は位階上臈が南家長者となり、氏爵の申請を氏長者に取次ぐ役目があった。しかし京家は早く没落し、式家、南家は漸次勢力がふるわなくなる。式家・南家は生き残りをかけて家業を創設する以外になかった。それが博士家である。

著者は・平安貴族社会の門流から家成立の過程について次のようにまとめている「「中世的な家格。家業は、鳥羽院政期に骨格が完成」し、そこでは家風が重んじられ、高い位に上るだけでは門流の長者になれない場合があった。さらに摂関家における朱器・台盤のように、家門はこれを象徴的に示す器物が相伝され、家記と呼ばれる日記の相伝が家)成立の一要素ともいわれる。‥‥博士家ではさらに官職と密接に関わるものが相伝されていた。それは加点の施された書籍である。加点本は、博士家にはなくてはらならない相承物である。
例えば北家内麿流の日野家は広業から始まる儒家だが、広業の孫の正家(万寿3年(1026年)~- 天永2年10月12日(1111年11月14日)の白氏文集は現在宮内庁書陵部にあるが、博士家の相承物とみられる。
南家貞嗣流では実範(11世紀中庸に活躍)が紀伝道の権威となりこの門流が博士家として知られる。永範(文章博士,東宮学士などをへて正三位宮内卿。後白河,二条,高倉天皇の3代の侍読をつとめた1102/06-1180)が南家博士家の読みを統一し、加点をほどこされた本は「秘本」となり、読み合わせにより「秘説」が伝授され「家説」となった。  
博士家成立の時期を日本的家制度成立の時期とみなしてよいと思う。つまり11~12世紀である。


「摂関家における「公的家」の基本構成」
家領職員令により位階に応じて設置される家政機関を公的家というが、家務所の組織は平安中期に変質し令制の枠を外れたかたちで政所が設置され、家令職員令による家がそのまま平安中後期に至ったのではない、平安後期にいたり永続的経営体としての家が上流貴族で成立する。
所、作物所、文殿、地子所 、贄殿、納殿であった。
 藤原道長時代の摂関家の家政機関とは 政所、北政所、侍所、蔵人所、厨、随身所、膳

家政職員は、子息、娘、妻にもそれぞれ設置され、。忠通のケースでは、元服により正五位に叙爵した時点で侍所が設置され、家政職員として、家司三人、職事二人、知家事、案主、雑色長、侍所司、雑色女が補任された。近衛大将になると随身所とと御厨を設置、内大臣に就任して膳所と納殿が設置されるのである。内覧宣旨または摂関詔を蒙ると、文殿、蔵人所が設置されるのである。
妻の家政機関については、頼長の台記によると、夫の大臣に任じられて家司が補任され、執政の後に政所を設置するのである。妻が准三后となると家司が増員され、職事が補任されるとする。著者によれば院政期になると国家的身位に応じた家政機関務設置は従三后だけだとする。
家政機関の補任権は子息と同様、夫が持ち、職員構成上も夫家と兼帯するので、妻個人の独立した家政機関というよりも「家」の傘下にあるものである。
これは私の考えだがこのような公的家の再生産、それは基本的には個人単位のものであるが、門流で連続して再生産されるので実質的に永続的な家とかわりなくなっていく、国家的給付である、封戸制が禄制が崩壊して、貴族の収入源が、荘園や知行国に移行すると家領だ経営体となり中世的「家」が成立するという筋書きだろう。
 つまり令制の個人単位の公的家は蔭位制による公的家の再生産がなされ、9世紀末期に、源藤二氏を頂点とするヒエラルキーが形成され門閥貴族化するに従い、公的家の再生産の連続が次第に永続的家となり、11世紀末の封戸、位禄の崩壊によって国家的給付が不能になると家領の経営体とし中世的家が成立すると概略してよいだろう。

2015/08/27

入手資料整理172

組合掲示板に『戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会10万人・全国100万人大行動』の参加を呼びかけるちらしが2枚貼られていたむが、組合員はさほど関心はなさそうだ。
 家事雑用に時間をとられてまだ夫婦別姓反対論で引用する材料集めの段階だが、こんな調子でもまにあわせる。男女共同参画にも反対しなきゃいかないし、忙しいが徹夜してでも全てやるつもり。
家令職員令に規定される公的「家」や王臣家は8世紀・9世紀よりあるものだがこれは封戸制の家政機関としての家である。社会構造としての日本的「家」制度の形成については公家起源説と武家起源説があるが、非血縁養子による家業・家職継承という観点から官職請負制がはじまる少し前の11世紀の諸道博士家起源説が妥当であると私は考える。その観点から公家や諸堂博士家関係の論文を収集した。

10860菅原正子「七五三の源流」日本歴史630号2000年
 今日のような11月15日となったのは江戸時代、史料上は天保年間。七~八月花火見物で浴衣姿の若い娘を地下鉄などでみかけることが多かったが、浴衣がブームとなり外出着となったのは天保の改革以降であるから。江戸時代末期の習俗は今日でもほとんど消えずに残っているといえる。

10861菅原正子「室町時代における公家の所領経営と機構--15世紀山科家の場合」
『日本歴史』443 1985年

家司の業務や所領経営の実態について解明しているが、さしあたり基本的な知識だけで十分である。
要点-非血縁継承12世紀の例
   山科の称号は14世紀中葉から、内蔵頭独占世襲の時期と一致

 山科家は四条流の支流で、藤原北家といっても傍流の魚名流であり累代四位・五位どまりであったが、白河院政期の顕季以来、院近臣として活躍、山科家の祖である、正二位権中納言教成(1177 ~1239)は後白河近臣相模守平業房と高階栄子との間の子で、藤原(冷泉)実教の猶子となった。母の従二位高階栄子は丹後局と称され、夫の平業房が清盛により処刑された後、後白河上皇に近侍して寵愛を得、政治にも介入した女性として有名である。
 父が伊勢平氏であるから、非血縁継承である。
 丹後局は後白河上皇の御起請符(承認)により実子の教成に山科御所のほか遠江、美濃、信濃、備前国等の所領を譲り渡しており家領を形成した。
 山科を正式の称号としたのは貞和二年(1346)であり、これにより教行-教言の系統を嫡流とした。西欧で父姓継承が定着したのが14世紀ごろと考えられるからほぼ同じといってよいと思う。
 貞和二年に教言が内蔵頭に補任されて以来山科家が独占世襲し、山科家の所領は家領と内蔵寮領となる。

10862湯川敏治『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会2005年 
元関西大学非常勤講師。公家の家政、後宮女官に関する業績があるが、著者
は明言してないが、公家日記での夫婦同氏の呼称について解説しており参考になる。

公家日記で自己の室、他人の室に対してどのように称しているか

三条西実隆の『実隆公記』

自分の室を指して 室家(しっか)、青女 「今日室家、小女等向勧修寺亭」
「青女向勧修寺亭」
他人の室に対しては
「滋野井室家今日帰宅」「今夜勧修寺中納言新嫁云々」「入夜鷹司亜相殿北方来臨」「九条北政所来臨」
 亜相殿とは大納言のこと。
婚家名で称しており今日の夫婦同氏と同じ感覚である。西洋でも社会生活では夫の家名(姓)+夫人と指称するのと同じ。例えばクリフォード・チャタレイ准男爵の妻をチャタレー夫人というように。

甘露寺親長の『親長卿記』

 中御門宣胤に嫁した女を指して「東向予息女、中御門室家今日帰大津」

甘露寺元長の『元長卿記』

 中御門宣胤に嫁した姉を指して「中御門大納言室、予姉也、東向入来」

自己自身の娘であっても、婚家名で称していることから、夫婦同氏のならわしと理解してよいと考える。 以上18頁

次に摂関の正妻を北政所と称するが、呼称勅許か必要である。

三条西実隆の女保子は九条尚経に嫁いでおり、実隆が内々に北政所勅許を朝廷に働きかけていたが、嫁いで8年後に治定された。それまでは「九条姫御料人」「九条御料人」と記されている。

三条西実隆の女であっても自ら「九条御料人」と記しているのだから、これも夫婦同氏のならわしと理解できるのである。64頁


近衛尚通の正妻(北政所と称される)、徳大寺実淳女維子の里帰りについて

 維子が近衛家に嫁いだのは17歳の時、明応6年(1496)である。7人の子どもの母である。
 定期的な里帰りは正月と七月である。

 正月四日に実家の徳大寺家から酒、鏡餅等が贈られてくる。里帰りは五日で、近衛家から実家へ両種二荷が贈られるならわしだった。これが明応7年から永正4年(1507)まで
永正5年以降は正月四日に里帰りし、日帰りで酒。鏡餅等を持ち帰る。
日帰りなのでほとんど義理のつきあいになっているように思える。

 七月は盆前の七月十一日の生見玉行事である。

定期的な里帰りは永正17年までそれ以降はないがその理由はわからない。

不定期の里帰りで理由のわかっているものは、弟の元服、徳大寺家の花見、父の病気見舞い、父の葬礼であるが、さほど交流は多くなく、正妻は明らかに婚家の成員なのであり、両属的なものでは決してない。

他家との社交生活は、公家よりも武家と親しかった。細川氏一族とくに細川高国が頻繁に近衛家を訪れ、家族ぐるみの交際があり、高国から猿楽見物の招待もされている。また将軍家とも交際があった。

近衛家では家計管理は当主が握っていた。

北政所の遊興・寺社参詣記事は多く、近衛家は開放的な家風で堅苦しくない。

10863勝山清次 「便補保の成立について--「納官済物」納入制度の変遷」『史林』5第59巻 第6号(1976)
10864星野公克 「太政官厨家料国と便補保」『史學研究』 182,, 1989
 私は日本的「家」制度の成立期を11世紀と考えているが、官司請負制の成立は、中央政府諸官衙の公事用途調達方式の変化と関連している事柄である。
 11世紀40年代に「料国制」が成立し、官衙ごとに納物負担国と所済定数が制定されるが11世紀末に受領監察制度が機能しなくなり、12世紀後半以降内挺関係や諸公事にかかわる官衙の済物の弁済状況が悪化する。このため納物徴収の責任者である小槻氏は、在地l領主からの寄進や功力を入れて開発などした便補保を積極的に建立し、鎌倉時代の建久~承久年間に諸司領として確立(子孫相伝の宣旨)。鎌倉中期以降は便補保以外納物は確保されなくなった。
 太政官厨家領は官務小槻氏が管領することとなり、官務を世襲することになるといった筋書き。

2015/08/20

入手資料整理171

10858槇道雄「公卿家領の成立とその領有構造」『日本歴史』460号1986年

まず公卿家領の成立要因としては、11世紀末における封戸制の崩壊、つまり国家的給付(律令的封禄)の崩壊をあげている。
この点については勝山清次が「11世紀の90年代以後に、寺社・公卿の封戸を問わず封物の納入状況が急速に悪化したという指摘を引用しているが、著者は引用してないが佐々木宗雄の著書でも、11世紀末に封戸制が崩壊、位禄も12世紀以降支給されなくなったと指摘しているとおりである。。要するに11世紀の90年代が転換期と大ざっぱに考えてよいと思う。
 これは私の解釈だが、堀河天皇の関白師通期までは、関白が太政官機構を掌握しており受領功過定等の受領監察制度が機能し、ひきしまった政治が行なわれていた。ところが次の摂関忠実は若く、源師子に恋して、白河上皇に古女頂戴したために何もいえなくなり、上皇に従属してしまった。むろん鳥羽天皇の母は閑院流藤原氏で摂政でありながら外戚でなかったこともある。院近臣が台頭し「夜の関白」の発言権が強くなっていくという政治過程で、後期王朝国家の律令国家的収取体系は崩壊したのである。

 著者は公卿家領の成立は寺社と同じく封戸の荘園化であると言っている。

 つまり院宮王臣家・公卿・寺社の経済基盤は、11世紀末を転換期として

 封戸(国家的給付)→荘園(家領)及び知行国

となったということだろう。

そして「荘園」とは何か、単純明快に「公領分割」だ

という永原説を引用。

公卿家領の領有構造について勧修寺家領が検討されているが、上級領主を戴かない私領はほとんどない。上級領主は院・女院・摂関であり、「預所」という地位は、院庁や女院庁の下文の発給により許可されたのであり、その地位は上位者の管領下にあったので、不都合があれば没収されかねない地位であるとする。「したがって「預所」としての公卿は、定額の年貢のほかにも上級領主から割り当てられる臨時課役の負担など、種々の奉仕が求められることになり‥‥かなりの努力を払わなければならなかった」とするので、家領といっても近代的所有のありかたとはちがうといえる。

10859 星川正信「室町期における大炊寮領と中原氏」『法政史学』32 / 1980

 局務家中原氏と清原氏が、太政官少納言局の大外記を代々世襲したが、大外記は太政官内の記録、文書勘例、公事等を奉行する職掌であるが、同時に大炊頭として、内定経済の保管的役割をにない、大炊寮領の管領権を行使していた。
つまり、大炊寮領の権益を中原氏が家領化して、局務家が成立したと理解する。

2015/08/18

入手資料整理170


10856京楽真帆子「平安京における居住と家族-寄住・妻方居住・都市」『史林』76巻2号1993年3月

 高群逸枝の古代招婿婚・妻方居住が基本だったとする説を明確に否定しており気分の良い論文。
要所は「貴族の居住は、一般に「仮住まい」・「寄住」を経たのち、買得、譲渡によって所有権を正式に得た邸宅で行われるようになる。平安貴族にとって、妻方居住はこうした「仮住まい」・「寄住」の一形態にすぎなかった」
 妻方居住は選択肢の一つにすぎず、婚姻によって縛られる規範でもなんでもないと説明。

10857京楽真帆子「平安時代の「家」と寺-藤原氏の極楽寺・勧修寺を中心として-」『日本史研究 』346号1991年
 高藤流の勧修寺御八講を行う長者は一門中の最高官位者が勤める慣例であった。これは藤原氏の氏長者が最高官位者であるのと類似している。勧修寺という私寺を紐帯として勧修寺流という親族集団が形成された。著者は、最高官位者を長者とし、父子継承を重視することによって永続性を保ったが、家格が形成され、「家」における最高官位が固定されることにより中世的「家」が成立するという見通しを述べている。

 なお勧修寺流とは醍醐生母藤原胤子の父高藤(正三位内大臣・贈正一位太政大臣)を祖とする。藤原北家とはいえ傍流の実務的中級貴族の一門。吉田・万里小路・勧修寺・坊城など。

 これは私の考えだが、「氏」は厳密には単系出自集団とは言いがたい。厳密にリネージ(系族)とはいえない面が多分にある。しかし平安貴族についていえば藤原氏という大きなくくりはおよそ大リネージに類比できる。
 著者は勧修寺流のような門流は、ファーテスのいう分節リネージに当たると大まかな説明をしているが妥当である。「家」分節リネージの最小規模の下位リネージということか。「氏」と「家」の違いの説明の仕方のひとつである。

2015/08/17

入手資料整理169

10855 義江彰夫 摂関家相続の研究序説『史学雑誌』76-4、1967年
 古いが、家領の相続研究の基本的な論文なのでよんだところ、夫婦別姓反対論のひとつの根拠を発見し有益だった。

1.氏の財産と家の財産の違いについて

 「氏の財産」として『殿下渡領』これは氏行事の費用負担にあてられるものである。『氏院寺領』これは勧学院領、法成寺・東北院・平等院に寄進された所領であり、氏長者が臨時徴収権・荘官任免権・裁判権を握る。

これは私の意見だが、このほか氏長者には氏爵の推薦権もあると思うが、氏爵は和気氏、百済王氏も含めて15世紀頃まで行われており、家格が固定した中世においても家ではなく氏も存在意義があったとみる。

2.夫側から妻・嫁への処分と一期知行後の帰属

 義江氏によれば、「夫側から妻・嫁への処分がなされたばあい、一期の知行ののち妻・嫁の生家に伝領されることなく父側にもどさるべきことは、すでに律令法(戸令応分条)さえ認めるところであり、摂関家においても古くから一環して慣習として通っている」

 事例
 道長→源倫子(鷹司殿)→頼通
 頼通→隆子女王(高倉北政所)→養女祐子内親王→忠実
 基実→平盛子(白川殿)→後白河上皇が没収→基通

 「摂関家領横領」事件の評価が問題になる。関白氏長者基実は藤原忠隆女との間に男子基通をもうけていたが、平清盛は摂関家と接近を図るため女盛子を基実の妻とした。その2年後仁安元年(1166年)基実は24歳で夭没、基通は幼少のため六条天皇の摂政には弟松殿基房がついた。しかし殿下渡領等をのぞく家領のいっさいは、清盛によって子のいない盛子に伝領されることとなり、盛子は基通を養子とした。
 義江氏は「妻への処分が可能であるという慣習を利用して平家が事実上横領したことを示すものであるから、特殊な例外」としているが
 田中文英「平氏政権と摂関家」『平氏政権の研究』所収によれば「このことから直ちに清盛が摂関家領を平家領にして「荘園領主」に転化したと理解することは飛躍を免れない」のであって、「清盛の摂関家領支配の方式は、摂関家領を前関白夫人たる盛子に白河殿領として伝領させ、基通が幼少のため氏長者にすることができないので自己の意のままになる氏長者が出現するのを待機しているものなのであった。これは横領にはちがいないが、摂関家領を平氏の所領になし、みずからが本家の地位について家領支配を実現しようとするものではなかった」という。
 結果的には基実の遺領は基通に伝えられ、これが近衛家の基幹所領になるのであるから、平家が横奪したのではない。むしろ、盛子は養子の基通が幼少であることから家長代行としての中継ぎの役割であり、家領が直系で継承されたことから見て、日本的「家」制度のモデル的事例ともいえるのではないかというのが私の感想である。
 このように、妻に処分された家領を他氏が横奪することは原則として律令にも慣習にも反するのである。平清盛は、摂関家領の収入を横領したかもしれないが、平家のものにすることはできなかった。
 よって、現代の夫婦別姓論者が、夫に従うのも、舅姑に仕えるのむもいや、婚家姓もなのらない。それでいて婚家の財産は相続で横奪することを合法化するというのは、伝統的な法・慣習に反するといえるのである。

10857関口裕子「日本古代の豪貴族層における家族の特質について(下)」『原始古代社会研究6』校倉書房1984年』 

公的家とは
 家令職員令は有品親王と職事三位以上について、家政機関の職員とその職掌を規定しており、職員の俸給は禄令で決められた国家官人である。
 著者によると、国家的給付としての封戸の所有主体として家政機関の設置を公認したものであるが、家政機関が律令制定により初めて設置されたというものではなく、有力家に存在する現実の家政機関を基盤として立法化されたものとする。
 品封・位封は男子の半分とはいえ内親王や職事三位以上の女性にも公的家は設置されるので、これは、婚姻家族と父子継承を基本とする「家」ではなく、男女個人の経営体に附属される家政機関のことである。本主死去により消滅する非永続的な家であるはずだが、本主死後も「家」が継続することがあるという。

 ここから私の意見だが、王臣家とか、院宮王臣家というのも公的な家政機関が附置されている、皇親、貴族のことをいうはずである。公的家がもともと、個人に附置される家政機関で、死去により消滅するものだとしても、蔭位制(高位者の子孫を父祖である高位者の位階に応じて一定以上の位階に叙位する制度)があり、とくに9世紀後半から10世紀にかけて源藤二氏を中心とするヒエラルキー的な門閥社会となっていくと、個人に設置される家政機関としての「家」もしだいに父子継承の門流、さらに家として認識されていくということでよいのではないか。


 

2015/08/14

不愉快だ安倍の戦後70周年談話

 「女性たちの尊厳」云々というところが気に入らない。そもそも「人間の尊厳」だの「人権」だのというのは、男性が「神の像」としてつくられたという神学的フィクションを根拠とした虚構である。「神の像」としてつくられたのは男性であって女性ではない。従って女性の尊厳は神学的にはありえない。なぜならば女性は男性の肋骨によりつくられ、蛇にだまされ、楽園から追放される原因となった。
 そもそも「人間の尊厳」を軽々しく言うことすら憚れることであるというのは、アウグスティヌス以来、人間はアダムの罪により、倫理的に致命的に腐敗しているという人間観が西洋文明の根幹にあるためである。西洋文明1500年の正統思想である 、人間に尊厳などない。よるべない罪人であり、神の超越的恩寵にすがる以外にない存在というのが正しい人間観なのである。
 人間なんて信用できない。倫理的に致命的に腐敗している。女性ならなおさらだ。「人間の尊厳」ですら傲慢で不快な思想なのに女性の尊厳は正しくないとというのが正統的な思想なのである。
 女性活躍法案といい、安倍の女性の持ち上げ方は異常である。
 真正保守なら「女性の尊厳」など軽々しく言わない。殆ど左翼だ。

2015/08/09

入手資料整理168

(夫婦別姓反対論を書くためのもの)
 本当は女性活躍法案に強く反対しなきゃいけないけれども、戦争法案よりこっちこそが悪法だと思いますが。しかし夫婦別姓が最も深刻な問題と受け止め、カウンターリポートのため余暇時間はこれ1本で取り組むことにします。法制史、女性史、人類学、歴史民族学、女性学、憲法、ドイツ判例など全部チェックしなきゃいかんから結構手間がかかるが、今回だけは必ず完成させたい。
 
1-56薗部寿樹『日本の村と宮座-歴史的変遷と地域性』高志書院2010年
 一般向けの書物なので比較的平易。
 著者は福田アジオの東日本の「番」西日本の「衆」という村落類型二分論、網野善彦の東の「イエ的社会」西の「ムラ的社会」という東西二分論に批判的である。
 宮座についても畿内近国の村落類型とする人が多いが、北海道・沖縄を除く全国にあるのであって、畿内近国13-15世紀のそれは、臈次成功制宮座というのである。中国地方などのそれを名主座というのである、地域差はあるが過度に強調するのは間違いということ。
 宮座は11世紀半ばにはじまり、村落内身分を支えるシステムの根幹で、集団で身分的優越性を共有する。(34ページ)と説明。たんに祭祀組織とみるのは近視眼的な見方である。
11世紀半ばの住人の身分標識は氏姓+実名の名乗り
例えば後冷泉朝の天喜三年(1055年)美濃国大井荘住人の大神正重・宮常末・桑名正吉・大中臣信末・佐佐貴吉松・穴太信吉
堀河朝の永長二年(1097年)筑前国碓井封山口村住人の物上末貞・伴国元・三宅光任(36ページ)
 宮座の構成員は氏姓・実名があり、身分的に優越したと考えられる。
 鎌倉時代13世紀後半の史料では氏姓・実名のない人もいた。下人、所従層は通称、幼名の名乗りでしかない。
 臈次成功制宮座では13世紀後半に直物が発達し、惣有地とならんで村の財政を担った。
直物とは、烏帽子成(成人式)、官途成、大夫成、乙人成、入道成等の通過儀礼における醵出のことである。
 官途名に用いる官職は、近衛、衛門、兵衛などの武官、守、介、国名などの受領名、平内、源内などの内舎人名、大夫などの通貴の呼称もあった。衛門は13世紀半ばからみられるものの、15世紀以降に頻出する、現代でも、ドラえもんとか、ホリエモンがいるように、官途名では最も知られているが、重要なことは、13世紀以降は、氏姓による身分標識ではなくも、宮座における官途が身分標識となっていくと説明されている。
 12世紀においては、荘官が官途成を行なう費用を強制徴収しているケースがあり、もとは荘官による荘園制支配の一環だったとも考えられる。
 臈次成功制宮座から家格制宮座への変質、さらに家格制も形骸化して村組頭役宮座に変質する過程については略すが、江戸時代寛政期頃以降の村組頭役宮座では身分的差別は本百姓と水呑百姓ぐらいになったと説明している。
 私が、特に着目した資料としては、16世紀末期(豊臣政権期)における家格制の身分差別である。(123ページ)近江国神崎郡山路村(現東近江市能登川町)の文禄年中の史料によると、
 侍方(名衆中)とは、小南、出路、林、串田、豊田、河端、河崎、杉田、高山、小山、黒田‥‥の名字を持つ者であるが、侍方は天下の法式の通りとしながら、氏なしの下人は、烏帽子をかぶってはいけない。雪駄、足駄をはいてはいけない。ただ下駄、足半だけが許され、絹を着てはいけないこととなっていた。
 原田敏丸『近世村落の経済と社会』257頁によると255頁によると名字を名のる百姓を「侍方」(先祖が武士だったという由緒のあるという意味)、名字を持たない百姓を「仲間方」というのである。近江国神崎郡種村の例では元禄期に仲間方も名字をなのることが許されたとし、近世中期から末期にかけて侍方の特権は漸次解体に向かったとされる。
 夫婦別姓問題とは直接的関連はないが、畿内近国の先進地域における村落共同体の進展と「家」制度、近世中期から末期にかけて家格制が形骸化していく過程で、氏なしの下人も名字をもつようになりと言う大筋を知ることができて有益であった。古くは氏姓実名を有しているのは宮座の構成員だけだったが、身分標識は氏姓実名から官途名、宮座における序列となったため、氏姓は意味を失って、名字に変わったと解釈できる。名字なしの仲間方は差別されていた。家名としての名字が日本人にとって重要なことはいうまでもないことである。

1-56原田敏丸『近世村落の経済と社会』山川出版社1983年
10837加藤美恵子「中世の出産-着帯・介添え・産穢を視座として」『女性史学』16号2006年
10838 薗部寿樹「中近世村落における宮座の変質と再編、結衆、長男衆、そして神楽講」国立歴史民俗博物館研究報告 112号 2004年。
 大和国平群郡服部郷(現生駒郡斑鳩町大字服部)の宮座の変遷について、14~16世紀が結衆、17~18世紀が長男衆、19世紀前記の神楽講への転換について論ずる。著者の分析では天正7年(1579)より長子、嫡子による座の継承慣行が行なわれはじめ、寛永3年(1626)に「長男衆」という言葉が用いられ、17世紀後半には長男が座を継承する慣行が成立した。18世紀前半、長男衆は新参者の新規入座を閉ざし家格差別を固定化しようとする。18世紀後期~19世紀前半、村方との対立で主導権を奪われるようになり、文政3年(1820)に本座・新座の二座体制が成立し、激しい反目関係があったと推測しているが、この頃から神楽講と称するようなる。世俗的な統制力を失った本座は新座に対する祭祀組織としての優越性を誇示するためだろうとしている。
10839 永原慶二「黒田俊雄氏の中世身分」『歴史評論』528号1994年
黒田説の永原氏の要約
中世社会の基本的身分階層
1.貴種 権門家、国家の支配機能を分掌、権威を独占
2.司・侍 中央・地方の諸官司、国郡司から権門の家司・寄人・武家の御家人、貴種に臣従し、権力を行使する階層
3.百姓 荘園公領における自立的経営者層、在地領主に私的に隷属していない
4.下人 自己の経営をもたず、有力私人に人格的に隷属
5.非人 
中世的身分階層秩序は応仁の乱期までは持続するが、「戦国動乱期に急速に解体に向かう。それは中央権力機構の変動ばかりでなく、小農民自立の進行による本百姓・小百姓の身分格差の縮小、下人の自立などによる村落構造の変化、商工業・商工業者などの座的結合に内在する平等の原理の発達により、種姓的見付箋秩序を克服する諸条件が幅広く形成」
10840薗部寿樹「座的構造論と宮座研究」『歴史評論』528号1994年
10841山下英愛「韓国における戸主制廃止と今後の展望」『女性史学』16号2006年
韓国では2005年3月2日の民法改正案の国会通過で、戸主制が廃止され、さらに2008年1月11日には日本統治時代の戸籍制度もなくなり、新しい身分登録制となった。
 フェミニズムの勝利ともいえる現象だが、我が国も追随する方向性に強い懸念がある。
10842薗部受樹『村落内身分と村落神話』校倉書房2008年
10843後藤みち子『中世公家の墓制にみる夫婦と「家」『総合女性史研究 』23号 2006年
10844関口裕子「家父長制家族の未成立と日本古代社会の特質について」『日本史研究』 247号1983年
10845鈴木国弘「中世前期親族論序説」『日本史研究』 247号1983年
10846江守五夫「父権制社会における似而非《母権制》的現象--女性史学と民族学との協業のために 」『歴史評論』371号 1981年
10847水田珠枝「女性史における家族・階級・意識-米田佐代子氏への疑問」『歴史評論』371号 1981年
10848鈴木国弘「中世の親族と「イエ」」『歴史評論』371号 1981年
10849坂田聡「家制度の期限を探る-転換期としての戦国時代-」『青少年問題』625号2007年
10850坂田聡「中世後期~近世の家・家格・由緒--丹波国山国地域の事例を中心に 」『歴史評論 』630号2002年
10851坂田聡「戦国女性の姓・苗字・名」『歴史読本』54巻4号2009年
10852直江眞一「アレクサンデル三世期における婚姻法」『法政研究』81巻3号 2014年(ネット公開)
10853鈴木啓一「日常からの疑問-こんなものいらない-12-お色直し」『朝日ジャーナル』26巻30号1984年
10854宮川満『家・家族の歴史と婚姻習俗』第一書房2000年
10855徳島県立博物館企画展図録『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』徳島県立博物館編2001 
 婚礼にこめられた意味について考察している。
徳島県内の花嫁行列について

花嫁行列は日が沈んで提灯を携える。
花嫁の出立時には生家の門で藁火をたき、花嫁が使用していた茶碗を割った。
花嫁が生を出る時の作法として、表の間から出る

「県内の花嫁行列に見られるこれらの習俗は、葬送の際、死者を送り出す所作と非常に類似しています。‥‥死者と同様にあつかうことで、花嫁に象徴的な死を与え、生まれ変わることを指し示したものだと考えられます。短期間に変化が求められる嫁入婚において、より早く生家より分離し、婿方の家に統合することを促そうという意識のあらわれ」との解釈である。

婚礼衣装
白無垢・角隠しについて

よくいわれることは
角隠し(本来は揚帽子)は、浄土真宗の女性が寺参りをする際に 被ったものに由来して、女性特有の業をおさめるために被る。白無垢については、婚家の家風にしたがい何色にでも染まりますとの意味を込めたもの。

 角隠しのほうに花嫁に傘をさす。笠をせるという習俗が全国各地でみられるが、日常の象徴である太陽を避ける意図を含んだ意味があり、花嫁の象徴的な死という非日常を強調するものとされる。
「角隠し、白無垢の花嫁衣装の特徴は、死者に着せる死装束、または、葬送に参列する人々の服装に類似します。死者の装束は一般に白色とされ、額には三角形の白布の宝冠が被せられます。 死者を送る葬列に参列する者が額に宝冠を付けたり、被りものをする習俗もあります。さらに、かつては喪服が黒色でなく白色であったと言い伝えも耳にします。県内、三好町では、嫁入りの時に着用 葬列に参列する際に身につけた」と解説
もっとも伊勢流有職故実研究家伊勢貞丈の見解では、白色は五色の大本であるためとしているが、この本では生家での死を象徴するという趣旨が全面に出ている。

色直しについて

「婚礼には披露宴の際、花嫁が白無垢から色打掛などに着替える色直しと言う習俗が見られます。色直しには、白無垢によって死の状態にあるとされる花嫁が、色のついた衣装に着替えることによって、 あらたに嫁いだ家の人間として生まれ変わったことを示すものだと言えます。
明治期以来、規模の大きい披露宴や武家礼法の流派である小笠原流を重視する風潮から、嫁の披露が婚礼のうち主要な儀式となり、庶民の間でも花嫁衣装が華やかになった‥‥県内では裾模様の着物に丸帯と言う例が一般的ですが、明治期の裕福な家での花嫁衣装として、神山町などで裾に綿の入った白、赤、黒の振袖三枚を重ねて着たという報告があります。この衣装の形式は江戸時代の後期に大名家などで登場したと 言われる、白、赤、黒の小袖を重ねる三枚襲の形式を取り入れたものと考えられます。ちなみに白は 花嫁の清らかさ、赤は可憐さ、華やかさ、黒は廷重で儀式性を重んじる心をあらわしているとされます」と説明
そうすると、白無垢-色直しという、日本人なら誰でも知っている婚礼衣装、習俗は、白無垢(生家の死)-色直し(婚家での再生)というまさに出嫁女の婚家帰属を意味するセレモニーである。
従って夫婦別姓論者は、出嫁女の婚家帰属を否定する思想なので、まさに日本国の醇風美俗に全面的に敵対ものだといわなければなららない。


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