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2015/09/13

入手資料整理176

 材料あつめは時間的にまにあわなくなるのでそろそろ切り上げる。

1-65河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館2007

「治承元年事件および治承三年政変について」


平氏摂関家横領説を否定

 清盛が摂関家領を奪おうとしたとする見解は、1939年の村田正言や、1950年の石母田正の見解であってそんなのは古いと言っている。
 近年では樋口健太郎が「盛子の相続」は「基実の嫡子である基通への中継ぎとしての性格を有して」いる「彼女はまさに嫡流である基通の後見として、その『家』を受け継ぐ位置にあった」(「平安末期における摂関家の『家』と平氏」『ヒストリア』189 2004年のちに『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011)としており、この見解に従うとする。
 兼実も盛子の相続が、春日大明神の神意に反しないとの見解であった。盛子が「仮の伝領の人」であり、基通が「宗たる文書・庄園、伝領せらるべきの仁」とみなし のちに政敵となる基通のものとはっきり言っているというのである。

 基房は内大臣藤原公教(三条家)女を妻としていたが、前太政大臣藤原忠雅(花山院家)女を北政所に迎えていた。さらに未亡人の平盛子と再婚を後白河法皇がすすめているとの噂があった。レヴィラート婚である。著者は清盛が反対して立ち消えになったとみているが、儒教倫理には反するものであるゆえ立ち消えになのかもしれない。近現代の庶民の「家」の論理からすけば嫡子がいなければレヴィラート婚はよくあることで、戦争未亡人の多くがそうであるが、このケースは亡兄の嫡子がいる以上軋轢は避けられず、無理があると私は思う。
 
 盛子が24歳で亡くなった際、清盛は厳島神社にいたため、法皇は清盛不在に乗じて摂関家領を高倉天皇に伝領する。これは盛子が高倉天皇准母とされていたため。目的は、基房を摂関家の継承者にするためだった。法皇は清盛が妥協してくると楽観していたが、清盛はあくまで基通への相続にこだわった結果が治承3年の政変である。結局、高倉が清盛の脅しによって、関白基房を罷免したから、高倉親政になり、後白河の院政が停止される事態になったのだという。

1-66樋口健太郎『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011


 白川殿盛子が摂関家領を伝領した意味


 准三后白川殿平盛子(清盛女、高倉殿北政所と称された)は九歳で基実と結婚し、1166年十一歳で未亡人となり摂関家領を伝領、1167年准三宮宣下で実名盛子となづけられたのであるから、夫の基実は盛子という名を知らない。琵琶の名手だったという。1179年二十四歳薨。摂関職は基房が継いだが、摂関家は盛子が継承したのである。それは盛子が家政機関を有していたからである。当初はほとんど忠通・基実に仕えた摂関家の家司だった。摂関や藤氏長者の地位を失った忠実や忠通といった大殿が摂関家領の経営権を有しており、嫡系に継承された。摂関家領の管領は、氏長者や現任の摂関にあるのではない。著者は「摂関職の継承は、摂関家の継承ではない」と端的に言う。嫡系継承の「家」の論理からして、七歳で父を失った基通へ継承の中継ぎ(家長代行)として家領を経営したとしても不自然ではない。

 実際、寡婦である北政所盛子は家長代行として摂関家の仏事を主催していた。しかも兼実、皇嘉門院(崇徳后、忠通女藤原聖子)、基実母源信子もこの仏事に関与し、摂関家親族と対立することなく、盛子はその中心にいたし、仏事や寺院の管領権も有していたというのでである。
 盛子が家領を経営していたのは11歳から24歳であり若い女性だが、家司がサポートするから、行事を主催できる。

 すでに12世紀半ばは中世的「家」成立の画期とする学説(高橋秀樹など)があるが婚入配偶者である正妻が寡婦となって家長代行として婚家の仏事を主催することは日本的家制度のルールからして妥当なものであり、盛子はモデル事例と考えるものである。(近現代の庶民の家族慣行では子供のいない寡婦は実家に帰されることがあるが、子供がいる場合は生家に戻すことはない。このケースでは実子ではないが基通を猶子としているのだからルールからして婚家から離れることはない。)
 つまり正妻なのだから摂関家の成員とみなす。
 むろん平氏の家司も盛子の家政機関に介入したのは事実だが、基通にとって岳父清盛は政敵松殿基房との嫡流争いを考えれば後見者として頼もしい存在なのだから姻戚の平氏の家司が家政機関に介入してもそれは不自然ではない。


 名家の国政実務独占

 名家とは五位蔵人や弁官という顕職を経て公卿に昇進する中下級実務的貴族の高藤流(勧修寺流)、内麿流(日野流)、高棟流平氏の三流である。鳥羽院政期以降五位蔵人と弁官を名家が独占したただけでなく、摂関家の政所執事も高藤流(勧修寺流)、内麿流(日野流)の一門で占められ、政所年預は高棟流平氏が世襲した。
 名家が太政官、蔵人方、摂関家という国家運営機構の実務を独占したとされ、、官務を世襲した小槻氏、局務を世襲した中原・清原氏の官司請負と同様に名家が国家実務を請け負ったとの評価もできるという趣旨のようである。
 執事や年預は先例・故実に通暁していないと勤まらない。名家は故実を集積、相伝する家というだけでなく、状況によっては摂関の後見役となった。
 現代でも、二世・三世議員が必ずしも有能とは限らないように、摂関でも例えば基通は「不知和漢事」と酷評され、九条忠家が「大嘗祭故実無御存知」として罷免されたように、単独では摂関としての職務を果たせない人もいたから名家によるサポートは当然必要だった。

関連して、10879鈴木理恵「名家の形成と公事情報の交換」『日本歴史』658 2003によれば名家は院権力と結びついたことにより家格を形成したが、繁栄の基礎は実務官僚としての技量であり、姻戚関係のネットワークから世襲しつつあった官職の作法や故実などの情報を入手して実際の活動に生かし、口頭伝達や身体的所作あるいは日記や文書の形で蓄積していった。名家三流は協力関係にあったとする。またひとつの官職の在職年数が短くなったことも、蓄積した情報を効率よく伝えていくが重要になり、特定の一門に官職が限定される要因としている。

1-67遠藤珠紀『中世朝廷の官司制度』吉川弘文館2011


 局務について 18頁以下がわかりやすく要約されているので使いたい「中世の外記局は朝儀・公事を奉行し、その記録の作成にあたり、先例を調査上申し、人事関係の手続きを分担処理するなど、朝廷運営の中核に存在した。‥‥外記局の最上位の大外記で、局を統括する人物を「局務」と称された。また一二世紀半ば以降、中原・清原両氏により局の運営が請け負われたとされている‥‥しかしながら中原氏では複数の流が競合し、外記局の構成員は決して特定の家による独占状況ではない。‥‥複数の家を競合させ、官司の活性化を図っていた‥‥橋本義彦氏は貴姓氏族と卑姓氏族の間には「越ゆべからず断層」が存在し、この時期家格差はより固定化していくと指摘している‥‥外記・史には源平藤橘の四姓の人物は任じられない‥‥この結果、外記就任に際し、貴姓の官人が中原などの卑姓に改姓する事例も指摘されている。」

 どうして中原氏が局務となったのかについては、11世紀初頭、外記日記が図書寮の工によって盗まれ、紙・壁の材料にされた。しかし幸い中原師任・師平が私的に書写し保管していたので、情報が全て失われずにすんだことから、国家の奉為にさばかり忠を致す者とされたことによる。バックアップをしてくれていたから感謝されているのである。


 著者は、後世から遡って系図の特徴から「家」成立の起点設定しているあり方に疑問を呈し、小槻氏については13世紀後半、中原氏は14世紀に中世的「家」が成立するという。


官務家小槻氏の分立と嫡子単独相続を定めた「小槻有家起請」

 亀山天皇の文永4年(1267)、小槻秀氏(大宮流)と小槻有家(壬生流)の代に所領相論があり、「家」成立の画期と著者はいう。結果、小槻「氏」のなかで永業流(大宮家)と隆職(壬生家)の優越を宣言し、両流で官務職と相伝文書の独占的継承を認めた。
 文永10年(1273)つまり元寇の前年の「小槻有家起請」は「所領事(中略)有家子孫中、伝文書仕朝廷之者、為其財主可惣領(攻略)」と文書だけでなく所領の嫡子単独相続を定めた。実際には所領争論はこの後も繰り返されているが、嫡子単独相続の自覚的宣言として、戦後の民法改正まで700年近く続いた、嫡子単独相続の濫觴とみなしてよいだろう。

関連して10880三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館 2007によれば、文永10年に九条忠家が関白に就任し、いわゆる五摂家が摂関職に就任できる家と確定したのであり、文永10年はその意味でも画期といえるのではないか。

関連して10881鈴木理恵「明経博士家中原・清原氏による局務請負と教育」 『教育史学会紀要』 30 1987
 明経道とは「十三経を専らに学び、経書を表とし、詩賦文章を裏と被致候」学問である。
 外記局が主務としていた除目関係文書、任官、昇任の申請書たる申文・款状が中国の古典の故事を豊富に引用した漢文で認められていたことが明経道と結びつくほか、中原師遠が天文博士であったほか、中原氏や清原氏がは算・陰陽・暦道・医道・明法といった幅広い学問を行っていたので、先例勘申には幅広い知識が求められたこともあるとする。


 
その後の小槻氏と中原氏

 官務家小槻氏は壬生家と大宮家に分かれたが、大宮家は14世紀に低迷し、16世紀半ば身をを寄せていた周防大内氏のクーデターに巻き込まれて断絶、壬生家だけになる。
 局務家中原氏は15世紀半ばに六角流・西大路流が断絶、16世紀に押小路流が断絶、近世は押小路家(正親町流)だけになる。清原氏は15世紀以降少納言に任ぜられるようになり、その後外記局を離れたため、局務は押小路家に限定されるようになる。


中世朝廷社会における公卿の称号と家名


称号と家名は違う

 361頁。称号は「同官者のなか、実名を憚りつつ個人を特定するために使用された。称号は奏達され、太政官に把握されており、朝廷社会で普遍的に通用していた。」称号は官名と一体なので同一人物でも時期によって異なる。
 実名を憚る慣習により、朝廷で用いられる公認の通称であり、もっとも一般的な人名表記といいかえてよいだろう。
 鎌倉時代以上公卿が爆発的に増加したので「久我大納言」のように固有名詞がつく場合があるが、注意を要することは、後世の家名と直結しないケースが少なくないことである。父子、家筋という狭い範囲でなく、一門一党のなかでの臈次等で継承されるケースも少なくない。
 イレギュラーな例として、(久我)通忠は、生涯のなかで「土御門大納言」「新源大納言」「八条大納言」「中院大納言」と呼ばれている。

 結論を先にいうと朝廷社会では武家よりも遅れて家名が一般に定着したのは15世紀と考えられる。私が思うにそれは天皇との君臣関係が基本的に古代的姓氏であり、将軍と御家人の君臣関係が名字であることと違うためだと思うが、称号という人名表記が流布され、それで十分人物を特定する社会的標識となっていたことも大きいと考える。

関連して1-68平山敏治郎『日本中世家族の研究』法政大学出版局は53頁は「平安朝の末から鎌倉時代にかけて‥‥父子直系の家族の間に同じ称号を用いて世襲する慣例がはじまった」とするが、この学説は古い。

 著者が例示している史料、350頁以下では中御門宣胤の『宜胤卿記』文明13年(1481)記冒頭に「藤量光号日野新納言柳原」「参議藤永継号藤宰相高倉」「藤政為兼従号侍従宰相高倉」本文中に「庭田源大納言事也」「柳原日野前中事也」と称号と家名が併記されている事例があり、万里小路時房の『建内記』永享4年10月16日条(1434)に時房は後小松院一周忌仏事を室町殿義教に命じられ、公卿に対して参仕を命ずる状を出したが、御教書の一通は「藤大納言殿」(武者小路隆宗)「右大将殿」(西園寺公名)と称号で、もう1通は同一人物でるにもかかわらず、「武者小路殿」「西園寺殿」という宛所である。
 このように称号と家名が併存、併用されている15世紀には家名が成立していると判断できる。
 具体的に家名が確定した時期については菅原正子「室町時代における公家の所領経営と機構--15世紀山科家の場合」 『日本歴史』443 1985が山科を正式の称号としたのは貞和二年(1346)であり、これにより教行-教言の系統を嫡流としたとしている。
 関連して10882大澤かほり「室町期における吉田家の成立」『年報中世史研究』 31 2006年
 半家、神祇大副を極官とし、亀ト道と日本書紀研究を家業とする卜部氏における「家」成立についての考察し、吉田流嫡流について、「冷泉」と号する兼豊1305-1376の代が氏的継承と嫡継承の2つの原理に基づく家であるとし、史料から兼熙が二条良基の推薦で公卿に昇進した前後の永徳3年(1383)から明徳2年(1391)の間に吉田家が成立し「吉田殿」とも称され、嫡子単独相続となった。吉田家成立後、卜部氏諸流と関係が悪化、吉田流と平野流が訴訟を繰り返していたが、文明年間に吉田兼倶が出て吉田神道を創設する。
 なお、吉田兼好は江戸時代以降の通称で、「徒然草」が書かれた時代は吉田家とはいわないようだ。


 次に名家、勧修寺流藤原氏の甘露寺家の家名成立だか、これは平山も遠藤も言及している。貞和4年(1348)高師直が四条畷で楠正行を討ち、吉野まで攻め入った年、(吉田)国俊と、(甘露寺)藤長が同時に権中納言に昇進した。国俊が年齢、臈次とも上位である国俊が勧修寺流一門の通例である「吉田中納言」を称号に決めた。これは一門であれば称号にできるものだったのであり、藤長の父隆長も「吉田中納言入道」と称していたので、任官時期次第で藤長が名乗ってもよかったのであるが、国俊で決定したので、藤永は先祖とゆかりのある甘露寺(すでに寺はない)を名乗りたいとして、(勧修寺)経顕、(洞院)公賢、一門長者の(葉室)長光と相談した結果、異論も出たが自称を尊重するいう趣旨で了承され、「甘露寺中納言」を称号としたということが、『園太暦』に詳細に書かれている。
 ということで、14世紀中葉ではまだ、家名が確定しておらず流動的な面があったことをうかがわせる。

 関連して村井章介「綾小路三位と綾小路前宰相『看聞日記』人名表記法寸考効」『文学』416、岩波書店、2003
 宇多源氏綾小路家は催馬楽などの「うたいもの」を家業とし、天皇の郢曲の師を代々輩出し宮廷音楽界を支えてきた。(綾小路)有資は後深草・亀山・伏見天皇の郢曲の師を勤め、有資の男信有は、伏見天皇の郢曲の師を、また信有の男有頼は後伏見・後醍醐天皇の郢曲の師を、さらに有頼の男敦有は崇光院の郢曲の師となっている。
 伏見宮貞成親王の近習として知られる庭田家、田向家は宇多源氏(綾小路)有資の養子(実は藤原(徳大寺)公直息)の経資を祖とするが、「うたいもの」の家業は有資の息信有の家系が継承したのである。しかし著者は家業の継承とは別に嫡流は経資の家系であるという。従来、『看聞日記』応永24年(1417)から28年に連衆として頻繁に出てくる人物、貞成親王の側近とみられる「綾小路三位」という称号の人物は、信有流の信俊と人物比定されていたが、これは誤りで、経資流の(田向)経良であるとする。信俊は「前源宰相」という称号であったという。つまり田向家の系統は、実は一門の嫡流で「綾小路」と称することを憚る理由はないとのことのようである。従って15世紀初期はまだ家名が流動的だったといえる。

10883告井幸男「摂関・院政期における官人社会」『日本史研究』535 2007

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