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2015年9月の11件の記事

2015/09/27

下書き(一)1-4 白無垢・色直し

(一)夫婦別姓推進運動は日本的「家」慣行を敵視し、婚入配偶者たる嫁女の婚家帰属性を否定することを目的としており、我が国の社会構造を根底から揺るがし、「家族」慣行に大混乱をもたらす。

1.社会構造としての婚入配偶者の婚家帰属の実証

(4)白無垢・色直し

 白無垢・色直しは現代の婚礼・披露宴においても、和装花嫁衣装の定番であるから日本人なら誰でも知っている。
 嫁入は、古くは嫁取(よめどり)と言い、嫁入婚の成立儀礼を「嫁娶」とよんでいるように、儀礼の基本は、嫁を夫家に迎い入れる「嫁迎え」にあった。(江守五夫『日本の婚姻』弘文堂1986 294頁)つまり、出嫁女の婚家帰属が嫁入婚であるが、端的に「白無垢・色直し」だけを切り取ってもその意味が込められていると言ってよいのである。

 色直しは本来、嫁迎えから三日目に行われ、その後、嫁が舅姑、親族と対面披露されたが、明治以降では祝言の盃が済むとすぐに色直しの儀式を行うようになり、大きな披露宴では主要な儀式となった。
 歴史人類学者の江守五夫によれば「白無垢が死装束であって、花嫁が生家を出るときにいったん死ぬとみなされ、また、婚家に入ってから、赤色の衣装に色直しすめことが再生をあらわしているということは、日本各地の人々が語っている」とする。(江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993 51頁述べ
 また、徳島県立博物館によれば、 花嫁行列は日が沈んで提灯を携える。 花嫁の出立時には生家の門で藁火をたき、花嫁が使用していた茶碗を割った。「県内の花嫁行列に見られるこれらの習俗は、葬送の際、死者を送り出す所作と非常に類似しています。‥‥死者と同様にあつかうことで、花嫁に象徴的な死を与え、生まれ変わることを指し示したものだと考えられます‥‥角隠し、白無垢の花嫁衣装の特徴は、死者に着せる死装束、または、葬送に参列する人々の服装に類似します。死者の装束は一般に白色とされ、額には三角形の白布の宝冠が被せられます。‥‥かつては喪服が黒色でなく白色であったと言い伝えも耳にします」(徳島県立博物館企画展図録『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』徳島県立博物館編2001) 色直しについて「婚礼には披露宴の際、花嫁が白無垢から色打掛などに着替える色直しと言う習俗が見られます。色直しには、白無垢によって死の状態にあるとされる花嫁が、色のついた衣装に着替えることによって、 あらたに嫁いだ家の人間として生まれ変わったことを示す」と説明している。
 また小笠原流の伝書においても「嫁入りは惣別死にたるもののまねをするなり。さて輿もしとみよりよせ白物を着せて出すなり。さて輿出て候えば門火など焼くこと肝要なり。ことごとく皆かえらぬ事を本とつかまつり候」(小笠原敬承斎「結婚にまつわるしきたり その起源と意味」『歴史読本』2010.10. 55巻 10号 通巻856)とあり、白無垢=死装束の模倣との見解を裏打ちしている。

 しかし伊勢流有職故実研究家伊勢貞丈の見解では、白無垢の白色は五色の大本であるためとし死装束であるとはいってない。ただ通俗的によくいわれるのは「白無垢」は婚家の家風にしたがい何色にでも染まりますとの意味を込めたものとされているから、実質的な意味に大きな差はないと考える。
 
 これについては反論もありうる。新郎も色直しするからである。しかし本来の意味がどうであれ、国民に広く流布されているのが上記の解釈であるから、白無垢-色直しは出嫁女の婚家帰属性を表徴するものと理解して問題ないと考える。

入手資料整理179

(今回も夫婦別姓反対の材料あつめ)
1-80岡野友彦 『戦国貴族の生き残り戦略』吉川弘文館2015
久我(こが)家(清華家(せいがけ)・村上源氏)の専論
家名は京都西南郊の別荘「久我水閣」に由来する。
源通親の4人の子供、通具・通光・定通・通方がそれぞれ堀川・久我・土御門・中院を名乗ることからみて家名は鎌倉初期(通光の代)に定着したとする。公家の家名成立が15世紀以降との説がある一方、著者は早い時期を想定しているようだ。

異性収養の例
戦国時代、享禄4年(1531)右大臣久我通言(みちとき)は嗣子の邦通に先立たれ、天文(てんぶん)年間に近衛尚通(ひさみち)の末子(ばっし)の晴通を養子にした。晴通の実姉が将軍足利義晴の正室であることから政治的に有利との判断によるものだろうが以降近衛家の分家のような位置づけになった。

1-81尾形勇『中国古代の「家」と国家』岩波書店1979

周代封建制では諸侯は「国」卿大夫層を「家」という。「氏」は卿大夫層の独占なのであくまでも支配者層
周代の姓氏は「族」政治的支配圏の冠称、異族も吸収した部族集団としての族、秦漢期以降の「姓」は「家」の冠称
漢代における「姓」と「家」
姓は家族名で、その起源は氏である。女性は戸籍上夫の姓に従っていた。「鄭望之」の妻「鄭貞」というように
日本では賜姓や改姓が頻繁にあるが、中国では例外的措置で原則として、姓は変更されず、いかなる事情でも剥奪されず、漢代において皇帝から庶民にいたるまで姓を有し、皇帝の姓種も民間にみられるように同一地平にある。

家の概念として、同居共財なら「家」別財なら別の家、独身者でもひとつの「家」というものである。したがってこの定義なら、「家」制度が解体したとしても、特有財産があっても原則同居共財で暮らしている限り「家」であるといえるのである。

なお、夫婦と子供たちの単位を房という。たとえば日本では女房という。
日本の場合核家族で、親の世帯と経済単位が別でも、親族としてのつながりがあり「家」意識は払しょくしてない。

1-82永原慶二『室町・戦国の社会』吉川弘文館2006
226頁以下80年代の研究だが、武家の嫡子単独相続への移行を示す資料として、備後の有力御家人山内首藤家の元徳2年(1330)の文書で、その理由として所領分割すると将軍への軍役が勤めがたくなるというもの。幕府滅亡の3年前。建武2年(1335)能登鹿島郡の地頭天野氏文書を挙げていて、鎌倉末期から南北朝内乱期が、単独相続への転換期としている。
その理由は、朝廷・幕府が一体となった国家的秩序、荘園公領制の「職」の体系の弛緩・解体と、在地領主権の伸長による領域支配の創出強化による、重層的、散在的な「職」知行の維持が困難になったこと。簡単にいえば実力社会になり、分割相続で家が弱小化するないということである。
 したがってこれは女性の地位が低くなったことを意味しない。戦国時代でも嫁は「粧田む」化粧料と称する持参財があり、あるいは「敷銭」という持参金があった。女子は買得所有の主体たりうる。
 単独相続と分割相続では大きく違うとはいえ、分割相続でも均分でなく特定の子供に厚くする形態のものは西洋にも多く例があり、戦後、分割相続になったから「家」が解体したとはいいきれない。なぜなら、単独相続になる前の鎌倉時代にも家はあったし、分割できない家産もあり、実際、現代でも家業は継承されている。


1-83豊田武『苗字の歴史』吉川弘文館2012
74頁以下 平安末期から鎌倉時代を通して武士は族的団結の中心として、先祖相伝の本領を保持し、これを名字地として尊んだ。兄弟の共同体がつくられ、惣領制的な一族とも名字を共通とした。
将軍の御家人になるには見参の儀式ががあるが平家追討の際は、名字を記載した「交名注進」が鎌倉殿の見参に供されただけで御家人となれた。
武士は元服に際して名字をつけるのがならわしだったとする。つまり元服は父子継承の確認の儀式と考えられる。

1-84『牧野巽著作集第六巻』御茶の水書房1985
196頁 贅婿(ぜいせい)とは、女家の婿入りのことだが、贅の意味は「余計なもの」「むだなもの」のほかに「質」に゜とられた婿の意味があり、一定の労役に服したうえで女子を連れ帰る労役婚の痕跡も認められるが、歴史時代には宗法に反するので、甚だ世に軽蔑された。
日本的「家」制度では婿養子は、次期家長予定者として迎えられるものなので、中国の贅婿とは違う。

清代には「女子は才なきがすなわち徳である」とされた

1-85滋賀秀三『中国家族法の原理』
 伝統的中国の家族法であるが、未婚女子は父を祭る資格がなく、未婚という地位のままで祭られることもない。すなわち女子は結婚して初めて宗の所属関係を生じる。
「男有室、女有家」左伝桓公十八年
「嫁者家也、婦人外成、以出適人為家」白虎通巻四嫁娶
(嫁とは家なり(えんづくとはいえなり)、婦人は外で一人前となる。人は出適ことによって家をもつ)
従って女性は夫の宗に帰属するものである。
妻は夫と共に夫の祖先を祭る義務を負う。
「夫祭也者、必夫婦親之」礼記祭統(夫れ祭なるものは、必ず夫婦これを親す(みづからす)」
「妻者伝家事、承祭祀」唐律疏議戸婚二十九条疏(妻は家事を伝え、祭祀を承く)
妻は夫と並んで、夫の子孫の祭を享ける。既婚者は必ず祖墳に、夫婦同一の墳に合葬
される。
「穀則異室、死則同穴」詩経王風大車(穀〔い〕きては則ち室を異にするも、死すれば則ち穴を同じくす)

補足 これは日本でね道徳的価値として継受しており、は偕老同穴という夫婦の一体性を重視する道徳につながっている。。
古来偕老同穴は人倫の至重なるものとして既に已に其習慣を成し、社会全体の組織も之に由りて整頓したることなれば、今俄に変動せんとするも容易に行はる可きに非ず」(福澤諭吉『福翁百話』「一夫一婦偕老同穴」
夫婦別姓に反対する重要な理由の一つに、福沢諭吉が人倫の至重なるものととしたこの価値観の破壊がある。ジェンダー論者は破壊すべきだとするかもしれいが、最高裁がそれに同調することがあってはならないのである。


重要なことは自己の腹から出た子孫でなくても嫡妻は、子孫から祭られる。

位牌は考妣対照の二牌をもって一組とする。宗譜の書式としても、夫の名と妻の名は対等に大書される。
このように妻は、宗の占めている夫の地位への合体、祭り祭られる関係で夫婦一体をなしている。
 我が国では蒋介石の妻が宋美齢というように表面上の夫婦別姓のため、女子は既婚者でも実家の宗族に帰属していると考える人があるが、とんでもない間違いである。

1-86『新体系日本史2 法社会史』
大藤修 「幕臣体制の成立と法」
283頁
「日本の家は単なる個々人の集合体ではなく、個々人を超越し、個々人を折々の質料とする。形式的・永続的な機構としての性格をもつ。そして、それ自体の社会的機能(家業=家職)、それ自体の名(家名=屋号)、それ自体の名誉(家名・家柄)、それ自体の象徴(家紋)、それ自体の財産(家産)、それ自体の先祖、それ自体のしきたり(家風・家法)を有し、折々の代表者(家長)を有した」
このような集合体は世界的に類例のない特徴のあるものと私は考える。
「村と町」
村が社会の基礎単位として認められたのは、太閤検地と幕府・大名による検地を画期とする。
小農民の家意識の成立と百姓株の形成(304頁以下)
私的には苗字を称していたが、それは同族の標識でもあった。家長の地位の継承にともない、通名を襲名することによて家の個別性と超世代的永続性を表示した。家長名の相続、通名相続が一般化すると「公儀名」となり、財産関係の行為で公式的名義とされた。家長名「何兵衛」「何衛門」かは、村での身分階層をも意味した。
分家筋の小農民の家が自立性を強めると、検地帳名請地に対する権利を強め、自己の家産と認識するようになる。
幕藩領主は百姓経営維持のため17世紀後期以降分地を制限したので、田畑、屋敷、家名、家業、祖先祭祀が一体となった単独相続が一般化する。
そうすると、公家・武家の単独相続定着は14世紀、小農民は17世紀後半と概括してよいだろう。

1-87 『日本のフェミニズム3性役割』岩波書店1995
1-88 福田アジオ『番と衆』吉川弘文館1997
蒲生正男説を引用紹介する。伝統的村社会を「同族制村落」と「年齢階梯制村落」という異なるイデオロギーの存在に分ける考え方があるが、結局この2類型は、どちらかといえば僻地の少数例にすぎないのである。
第三の類型として蒲生正男の「頭屋制村落」がある。それは神社祭祀のトウヤ、墓地の穴掘りのヤマシ、その他公共事業などを、各戸が順送り、平等につとめる村落であり、近畿・中国地方の歴史的に古い村にみられるタイプである。それは各戸の自立自存が可能な安定的な農耕を基盤としている。

家の永続性の柳田国男の解釈、日本人の真の幸福は現世での満足ではなく、死後永久に祖霊となって永久に子孫と交流することにあり、訪れるところがなければ最大の不幸であるという観念。

1-89 藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』吉川弘文館1991
貴人の正妻を北の方、摂関の正妻を北政所と称するのは、江戸時代の有識故実家伊勢貞丈により男が陽、女が陰という陰陽思想としていることから、この見解が多数説だが、著者は妻室の後宮は北に住するためという坂本太郎説を支持している。しかしいまいち納得できない。陰陽思想でよいのではないか。
1-90 服藤早苗『平安朝 女の生き方』小学館2004
日本霊異記上巻三一の「交通ぐ」(とつぐ』は性行為を意味し、「嫁ぐ」という意味ではないとする。
平安時代の婚姻儀式で詳細に記された最初の文書は醍醐皇子重明親王の『吏部王記』天暦2年(948) 11月22日以降の記事であるとする。三日餅の初見も重明親王の婚姻が初見であり、9世紀には整った儀式がなく、結婚が社会制度として整うのが10世紀中ごろとするが、これについては当然反論があると思うし、聟入婚の母系的解釈も疑問である。
1-91伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店2000
梅村恵子「天皇家における皇后の地位」
古代についていえば日本と中国では大きく違う。古代中国家族の『夫婦斉体』思想を滋賀秀三より要領よく引用している。
異なる「宗」出身の妻は、夫と共に夫が属す宗廟祭祀の主体となり、子孫から孝養を尽くされる者となる「婦女雖複非丁、拠礼与夫斉体」(名例律二七条)と、夫婦斉体=一体とみなされる。ただし、夫婦一体といっても「夫者婦之天也」(名例律六条)というように、あくまでも夫の人格に妻が包接されるという意味での一体であって、夫が生存する限りは妻の存在は夫の陰に隠れてみえない。ようやく寡婦になったときには夫の代位者として夫の有していた諸権利をもつことができるが、これね妻のうちに亡夫の人格が合体したことに帰属する‥‥。
太后臨朝がこのケースである、皇后は皇帝と一体であったがゆえに、皇帝の徳を継承し、皇帝と同じ権力を有することとなる。『夫婦斉体』思想がその根拠となっている。

1-92アナール論文選2『家の歴史社会学』藤原書店2010
二宮宏之「歴史の中の「家」」
ル=ロワ=ラデュリ「慣習法の体系」
アンシャンレジーム期のフランスの相続は大きくわけて3つの地域で異なる

1 南部および中央部(オック語圏成文法地域)
一人(多くは長男)に先取権が認められており、被相続人は遺言によって特定の子供を優位におくことができる。
2 西部諸地域
ノルマンディーのみ、女子を除く男子均分相続、その他の地域は均分相続

3 オルレアン=パリ地域
生前贈与を受けた者を除く均分相続、16世紀から持戻しにより均分相続の選択を可とする

ようするに南が長子相続、北と西が均分もしくは選定相続である、西欧についていえば英国、北欧、北ドイツ、バイエルン、オーストリア、南仏が長子相続であるが、
フランスの慣行で注意を要するのが、貴族は長子相続で別であるということと、西部の慣習法の均分相続は平等たが、強制的な持戻し制度があり父親の財産は父方の系列に、母親の財産は母方の系列に相続され、結婚じたいが、財産移転にほとんど意味がないという。我が国の夫婦別姓推進論のような夫権に従わず夫方の財産をとってしまうというようなえげつないものとは違う。

1-93M.ミッテラウアー『歴史人類学の家族研究』新曜社1994
1-94水野智之『名前の権力と中世史』吉川弘文館2014
1-95江守五夫『婚姻の民俗』吉川弘文館1998
1-96江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993
大林太良「東北アジアにおける日本の家族」
父系的な傾向は2世紀からという見解は、倭国の大乱で西日本が内乱状態だった。妻方居住婿入り婚だと、戦力となる若い男の忠誠心が維持できず戦闘に不利。内乱期には嫁入(夫方居住)の父系が有利になるとの見解。つまり内乱は父系を促すとの見解。
結婚にあたって火を跨いで妻が夫の家に入るという習俗は、わが国に広くみられる、火の間を通るのもあるが、火によって花嫁が清められて夫の家に入るという西ヨーロッパにいたるまでユーラシアで広くみられる習俗であるから、古代から嫁入り婚があったという説である。また牧場の経営も父系となるといっている。東国武士の同族は牧場の経営組織からでてきたという仮説も提示されている。とするとエンゲルスの見解も疑問である。むろん高群説も否定できる。
江守五夫「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」
 著者は我が国の婚姻習俗と中国北方民族との共通点が多いことを指摘し、古代から嫁入婚が成立していると著者の学説の根拠のひとつになっている。出嫁女の婚家帰属は、漢族の嫁入婚文化の影響のほか、朝鮮族との関連性、さらにギリヤーク族に日本の東北地方にみられる「カマド分け」儀礼に似た習俗がみられることから近似していることを報告している。
 火による祓除
日本では花嫁が夫家に入るとき、火を跨いだり、交叉する松明の下をくぐらされたり、焚火の傍らを通る火の儀礼はが各地で行われていた。著者は言及してないが、次の1-97が文明-永正期の政所執事伊勢貞陸(さだみち)の著書でも、武家の婚礼でも夕刻の輿入れで門火という篝火がたかれるとしている。
 火の儀礼は、韓国や満族と共通し、ユーラシアに広くみられるものであるが、『隋書』倭国伝に「婦、夫家に入るや、必ず先ず火を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ」の一文があり、古代からあった。その他労役婚(年期婿)、養老招婿婚など北方民族との共通点を多く指摘しているが、ここは使いたいと思ったのは、ソ連の民族学者シロコドロフがエヴェンキ族は女性が出嫁後も、生まれた氏族に属し、父族の諸神霊を崇拝し続けるという説がある。この見解が妥当かいなかは検証が必要だが、シロコドロフ説を前提とすると。結局、夫婦別姓推進論者が主張する、夫権、婚家の舅姑に従わない結婚は、「日本人をエヴェンキ族化させる」ものということができる。
1-97二木謙一『中世武家の作法』吉川弘文館1999
1-98岡野友彦『源氏と日本国王』講談社現代新書2003
 古代的姓氏と苗字の違いの説明はおおざっぱな印象だが、旧慣習説を疑問視している姿勢は一応評価する。新書版なので社会の影響力があった。なお「北条政子」は、戦後とくに1960年以降一般化した人名表記で、同時代人はもちろんのこと、戦前まで歴史家はそのように指称していないと高橋秀樹が指摘していることである。
1-99勝俣鎭夫『中世社会の基層をさぐる』山川出版社2011
カマドの一体化原理との関連
1-100長谷川・市田・高橋・木村『ちょっと待て夫婦別姓』日本教育新新聞1997
1-101東京弁護士会女性の権利委員会編『これからの選択夫婦別姓』日本評論社1990
1-102加治信行『家族の思想』PHP新書1998
1-103上田信『伝統中国〈盆地〉〈宗族〉にみる明清時代』講談社選書1995
日本的「家」と中国の宗族がかなり違うものであることを説明。
90頁は、
 日本では父からムスコへ家が継がれる。家を継ぐ実態は家督・家産である。財産のない庶民でいえば生業の基礎となる社会関係・権利である。分家は本家と、資格・権利・義務において本家と異質のものになる。
しかし中国の宗族は、共通の祖先であるならば祖先祭祀の資格は平等であり、世輩の上下関係〈祖先から何代目か〉があるだけである。
同性不婚については、華北、華中では同じ祖先でなければ不婚ではないので実質同宗不婚だという。

1-104網野善彦『日本の歴史をよみなおす』筑摩書房1991
「惣村」は14世紀後半から15世紀、日本列島の主要部に、村と町といえる明確な実態をもつ集落が安定的に成立するのは15世紀ぐらいから。
 中世において「女捕り」「辻捕り」は貞永式目で禁止されていても罪は重くなかった。法師の場合斟酌あるべしとされ、ふだん禁欲しているので大目にみられた。
 『御伽草子』の「ものぐさ太郎」に供も連れず、輿にも乗らないでひとりで歩いている女を、女捕ることは「天下公許」であるといわれており、女捕り=レイプとは限らないが、強姦は大目にみられていたことがわかる。
 

2015/09/26

「1億総活躍社会」なんてバッカじゃないのか

 「1億総活躍社会」なんてバッカじゃないのか安倍は。女性活躍とか地方創生とかいってたのをひっくるめただけなのか。国民総リア充躁状態なんてありえないし、安倍はやはり国家社会主義者なのか発想が全体主義的で一億総火の玉にならないと気が済まないようだ。倫理的に生きるということは不幸な運命でも受け容れるということだから、大半の人は輝かない人生でいいんですよ。片隅の小さな幸福でいいという人が大半でしょ。安倍が「活躍」「活躍」とわめくこと自体憂鬱だ。どうせ特定社会階層への分配政策なんでしょ。かえって政策の犠牲になってコストを転嫁されてそれで終わり、一生裏方か下積みで終わる人が多くなりそうだ。婚活で弾き飛ばされて漂流し、下流老人となって当然の社会でしょ。多くの人はすき家で220円のたまごかけ朝食を食べて、西友の80円カップ麺で満足してますよ。むしろ分配政策やめて何もしないタイプの政治家の方がまし。
私は、都立園芸高校出身ですが、横井時敬という農本主義者の訓示が掲げられていて、ハードワークでは誰にも負けないようにと教育されましたよ。ようするに裏方で十分だという思想です。「シベリアの鬼」と称される抑留経験を自慢する教師がいて、知足安分、身の程を知れという教育も受けた。苦労しろ、苦労しろ、苦労が将来のためになるみたいな思想をたたきこまれたので、安倍のように大学で外車をー乗り回し、麻雀にうつつをぬかすような坊ちゃんじゃないから、このような軽薄な政策にはとてもついていけない。

2015/09/23

入手資料整理178

1-72市川茂孝『母権と父権の文化史』農山漁村文化協会 1993
著者は日本不妊学会功労評議員で理系なので、科学史以外は比較的平易でコンパクトにまとめられているが、ただキリスト教の結婚理念についてはもっと奥が深いのでこのページ数で論じられるものではないだろう。

169頁 マヌ法典は次のように教えている。
「女は幼いうちは父に、若いときは夫に、老いては息子に従わなければならない。家庭の用事といえども勝手にしてはならない。女性は独立に値しないものである」

 女性の本性について「マヌは人類創造に際して、女性に寝床、座席及び装飾への愛着をもたせ、愛欲、憤怒、不正、悪意、悪行を賦与した。女性は、男性に対する熱情、移り気、生れつきの薄情によって夫に叛くものである。男性は女性のこのような本性を承知してゆめゆめ監護を怠ってはならない」

仏教における女性の見方

著者によれば釈迦には女性蔑視の思想はないが、アーリア人の弟子により歪曲され男性優位の思想が教典の中に復活するという。

阿含経の五障説

「女性は、梵天王、帝釈、魔王、転輪聖王、仏になれない」

 大乗仏教では女でも成仏できるとされているにもかかわらず、その経典の一つである大無量寿経の第三十五願には変成男子(へんじょうなんし)の記述がある。女は女のままでは成仏できない胎児期に祈りによって男子に変わっておくという説である。

涅槃経
「三千世界の男の煩悩をすべて集めたものが、一人の女の業障に等しい」

アリストテレスの生命哲学

なぜ男と女は分かれているのか

 男の精液に含まれる起動因は女の質料因よりよく、神的である。よりよいものはより悪いものから分かれたほうがよい。だから、男と女は分かれている。


1-72高橋秀樹編『生活と文化の歴史学4婚姻と教育』竹林舎2014

辻垣晃一「鎌倉時代の婚姻形態』
 女性史学の田畑泰子が、80~90年代に「嫁入り」の語が鎌倉時代に見られないということを発見したが、2002年に「嫁す」は嫁取婚を意味すると改説した。しかしながら、鎌倉時代の婚姻についてはなお学説が混乱している状況にあるように思える。
 坂田聡にいたっては、1994年鎌倉時代の庶民の婚姻形態を「対偶婚」とした。これはエンゲルスの唯物史観的家族理論に則るもので「夫婦関係の萌芽がみられるが、いまだ姦通の自由な多夫多妻婚状態」のことである。これについては高橋秀樹が批判している。
 しかし私は庶民対偶婚説が案外当たっているかもしれないとも思う。我々が思い描く伝統的な農村の集落は、中世後期の展開なのである。中世前期下層に「家」が成立していないとみられるからである。
 鎌倉時代後期の天皇についていえば、後嵯峨と亀山は父子で平棟子を共有し、亀山と後宇多が父子で宗尊親王女を愛し、伏見と後伏見の父子も洞院実明女を愛したというように、錯綜した男女関係がみられるということは、石田純一のいうような「不倫は文化でしょ」状態であったと考えられ庶民にいたってはという発想はありうるからである。
 著者によれば「嫁」は単に肉体関係を意味する用法もあり、嫁=婚姻ではない。
 著者によれば、式目以前の嫁取婚事例は、最も古いのが文治2年(1186)、『吾妻鏡』養和2年(1182)。『曽我物語』安元年間1175~77として、武家は公家よりも50~60年間早い嫁取婚の一般化であるとする。別の論文で官務壬生家が戦国時代でも古風な婿取婚の形式であったことから、婿取婚も後世まで残っている。
 摂関家は嫁取婚を行うと「入内」の形式に似てしまうことから憚られたということである。

後藤みち子「室町・戦国時代の婚姻」
 先行研究として脇田晴子を引用し、中世における嫁取婚の成立は「家」の成立を意味し、嫁取婚形式の「家」は基本的には一夫一妻制が成立し、正妻の地位が確立するとし、梅村恵子は平安中期の正妻制は、その後根付かず、室町時代になっても天皇家、宮家、摂関家に正妻はおかれなかったが、戦国時代になって正妻がおかれるようになるとする。
 実際、室町時代の公家日記で「嫁娶」の記事が少ないのである。、戦国時代になると婚姻儀礼の記事が多くみられ、これは正妻の確立を意味すると考えるのである。
 正妻の確立=嫁取婚とすると、西洋的な一夫一妻制の確立=嫁取婚であり、嫁取婚を攻撃する夫婦別姓論は、正妻、一夫一妻制度に対応した婚姻のあり方を否定するもので、婚姻制度の変質を意味することとなるのである。
 著者によれば戦国時代に嫁取儀礼が公家日記に書かれているのは、「家」の継承者である「嫡子」に正妻を迎える儀礼として重視され、誰がいつだれを正妻としたかを公表する意味もあったとする。
 嫁取儀礼後「正妻は夫方の父母や親族と対面し、三献で祝うことで夫の親族として認められたことになる。また「家」の家司と祝いの宴が催されるが、これは「家」の家司たちら「家」の継承者の正妻を披露したことことになり、正妻が「家」の一員と認められたことになる。」婚礼のあり方としては武家の文化との混淆があるかもしれない。

坂本亮太「中世後期の寺庵と村社会-近江国菅浦を事例として-」

 祖先祭祀のあり方から「家」成立を探る論文である。結論は、13世紀末から14世紀前半ころは乙名層が中心となり念仏講を形成しつつ、集団で先祖祭祀を行っていた。15世紀以降、名主・百姓層は寺庵を建立することで自らの先祖を弔うようになる。寺庵建立階層は、鎮守、本地堂の壇那となり、阿弥陀寺を中心とした宮座とは異なる座的構造り、祖先祭祀が拡散化し、これは「家」が形成されたことを意味し、家名の成立とも一致する。

高橋秀樹 「「家」研究の現在」

1-73 『岩波講座日本歴史』第7巻 中世2 2014


高橋秀樹「中世の家と女性」

1―74 高橋秀樹『三浦一族の中世』吉川弘文館2015

1-75比較家族史学会『家族 世紀を超えて』日本経済評論社2002
森岡清美 「幕末維新期における家の変化」
源平藤橘などの古代的姓をやめて、苗字ないし称号のみとしたのは明治4年だが、その前に、明治2~3年の職員録には従三位藤原朝臣利通というように、王朝風になったことがうる。この意味は版籍奉還のため、いったん将軍から拝領した苗字を返上して、天皇との君臣関係での氏名である源平藤橘の本姓に戻したうえ、それでは社会的標識としては不都合なので、家名に相当する苗字に統一したという手順を踏んだとみてもよいのではないか。

1-75 坂田聡『苗字と名前の歴史』吉川弘文館2002
1-76 奥富敬之『名字の歴史学』角川選書2004
1-77 大藤修『日本人の姓・苗字・名前』吉川弘文館2012
1-78 小谷野敦『名前とはなにかなぜ羽柴筑前守は筑前と関係ないのか』青土社2011
 例によって「荻上チキ」の実名隠ぺいを批判するなど、そこそこ面白かった。この名前だと男か女かさえわからないのである。

136頁以下はわかりやすいので使わせてもらう。 明治4年に一苗字一名となるまえ、武士は実名(諱)と通称を持っていた。実名忌避の慣習のため、人を指称するとき社会生活で使われるのは通称である。

 吉田松陰は、通称寅次郎、実名矩方、高杉晋作の実名は春風、坂本竜馬の実名は直陰のち直柔

 一名主義なので通称か実名かどちらかを残したのである。大久保一蔵は実名の利通に、西郷吉之助は隆盛に、木戸準一郎は孝允、伊藤俊輔は博文、井上聞太が馨と実名をとったが、板垣退助(実名正躬、のち正形)のように通称を選択してもよかった。従って明治以降の男子は実名型となまえと通称型のなまえが混在することになるのである。

 近年面白い名前だと思ったのは、土屋太鳳、どこかの屋号かい、たいほうと読むのかとおもったらタオなのだそうだ。川島海荷、「かいに」かと思ったら「うみか」だった。

2015/09/22

夫婦同姓は合憲でなければならない理由 アウトライン1

アウトライン


一、明治民法起草者で夫婦同性を強く推進したのは、もっとも進歩的だった梅健次郎であり、その立法趣旨は今日においても全く妥当なものである

 (一)嫁女は婚入配偶者として夫家に入るのであるから夫婦同姓が日本家族慣習(日本的「家」制度)に合致しているとの見解を述べているが、それは正しかった。(漢土法では夫婦別姓はあるかもしれないが、日本はシナとは違うとはっきり言っている)

梅謙次郎の法典調査会での発言「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信シラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ」

 (二)欧米の婚姻法制、慣習の継受
 
 西欧では、13~14世紀以降、父系の家名(父系姓)が慣習となり、キリスト教の夫婦の羈絆性の強い結婚理念ともあいまって、夫婦同姓が定着し、ファミリーネームと称されるのである。今日でも先進国は夫婦同姓が通例である。そもそも近代友愛結婚というのも、古典カノン法の合意主義婚姻理論を淵源とし、花婿キリストと花嫁教会の一致というアナロジー等により、結婚がサクラメントであり神聖とされたのである。夫婦一体性を強調するキリスト教的道徳つまり西洋文明的脈絡の結婚観も我が国でも受け容れられ、したがってファミリーネームも受け容れられている。
 つまり、夫婦同姓は日本的家制度に合致する社会的標識でもあるが、北西ヨーロッパ的な単純世帯(核家族)の友愛結婚にも合致する制度であり、今日の我が国で広まっている結婚のあり方(伝統的「家」継承ではなく、愛情を基礎として夫婦の伴侶性を重視する結婚)にも合致している。


二、夫婦別姓推進運動は、婚姻に関する文明規範の破壊を目指すもの

(一)夫婦別姓推進運動は婚入配偶者たる嫁女の婚家帰属性を否定することを目的としており、我が国の社会構造を根底から揺るがすもので、日本的「家族」慣行に大混乱をもたらす。

 明治民法の家制度は崩壊した。戦後、戸主権がなくなり、分割相続となったことは家族のあり方を大きく変化させたことは事実である。しかし実定法でなく慣習としての「家」制度の変差の範囲であって、日本的「家」制度的家族慣行の基本原則は今日でも社会構造として厳然と存在する。

 嫁女の婚家帰属性の理論的根拠(人類学、民族学の観点から)

1.清水昭俊説

 厳密な定義で定評のある人類学者だが、戦後においても慣習としての日本的「家」制度を出雲地方などのフィールドワークにより実証している。

(1)「家」は離在単位である。したがって両属はありえないとする。したがって、夫婦別姓論者が主張する婚家に帰属しない妻などありえずルール違反。
 家の成員とは、実子、養子、嫁、聟であることを理論的に証明している。

(もっとも、家族慣行において伝統的に嫁は第一子を出産するまで、地位の不安定なことが指摘されていた。それは、令制の離婚理由に子を産めないことがあげられているほか、試験婚的な足入れ婚の慣習があったことによるが、今日では法律婚が定着し、足入れ婚の悲劇もほとんどきかなくなったゆえ、この問題は解決されている)

(2)「家」は家長-主婦の夫婦の世代連続体である。
 
 嫁は「主婦予定者」として婚家に迎えられ、聟は「家長予定者」として迎えられる。この慣習は今日でも変わりない。

(3)世代仏 これも今日でもかわりない

(4)嫁は「家連続者」たりうる。

 寡婦となった嫁が、レビレート婚で弟に再嫁して家を継承する以外、家の外から新たに聟を迎えて家を継承することがある。この入夫中継婚は決定的な意味で嫁女の婚家帰属性の証明である。歴史的事例としては畠山氏妻北条時政女が足利氏と結婚し畠山氏を継承する、鎌倉将軍家の二代源頼家妻だった竹御所が四代藤原頼経に嫁すといった例があり、血筋にこだわりなく継承される日本的家制度の特徴をよくあらわしている。

 つまり、仮にAがB子と結婚したとする。夫のAはすぐ死んだが、未亡人となったB子は、さらに家の外からCを聟として迎え、非血縁継承になるがそれでもA家は継承されるのである。婚入配偶者であるB子は家付き娘と同じ地位にある。嫁養子ということばはないが、まさに嫁は夫家の実子同様の成員なのである。


2.蒲生正男説
  カマドの一体化原理(これは少し難しいが入れておく)

3.江守五夫説
 我が国の婚姻習俗には北方民族と共通する嫁入婚の習俗が広範にみられる。我が国の基層文化の理解。

4.日本人なら誰でも知っている婚姻習俗

 婚礼衣装の「白無垢」は死装束であり、生家での死を意味し、「色直しは婚家での再生を意味する。白無垢-色直しは出嫁女の婚家帰属を象徴している。これは通俗説ともいわれるが、民俗学的にはそのようなものと理解されており国民に広範に受け容れられている価値観である。

5.貴族・大名の正妻の役割

 日本的「家」の夫婦の役割分担の基本的モデルが戦国時代の公家である。貴族の正妻、大名の正妻も婚家に帰属することを明らかにする研究は少なくない。

(二)男系相続慣習の粉砕をもくろむことは許しがたい

 夫婦同姓は要するに、嫁取か婿取の選択は当事者の 自由であり、形式的には平等な法制である。にもかかわらず夫婦別姓推進論者は、統計的に、女子が姓を変えることが多く、婿取婚より嫁入婚が大多数をしめていることを不平等として家名の男系相続慣習を攻撃するのであるが、日本的「家」が婿養子や非血縁継承を含む準父系原則であるものの、基本は父系継承であり、それは大化元年(645年)男女の法(良民の父母の間に生れた子は父に帰属させる)、養老令戸令戸主条(718年完成・757年公布施行)に「凡そ戸の主は皆家の長を以てせよ」とあり嫡妻の長男を嫡子として家を相続させることが基本原則として示されている。
 よって男系相続が原則であることは、律令制定以前よりも古い法規範であり(伊勢神宮の式年遷宮より古い)、1300年以上の法規範・伝統・慣習はもはや「国民的規範」「国体」そのものである。この慣習が不平等でよろしくないという新奇な思想は到底容認できないのである。

(三)夫婦別姓推進の底意

 エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』岩波書店1960戸塚訳は次のようにいう。
「原始社会には。生産力や技術からみて、集団的土地所有と集団労働が必要不可欠であり、生産物も共同で所有していたから、貧富の差はさほどなかった。生産力の発展によって、より多くの生産物が蓄積されるようになると、その生産物を財産とする私的所有が生まれてくる。
 さらに、私的所有物を、確実なわが子に継がせるために、夫は妻を自分の家屋に住まわせる嫁入婚とし、夫婦と子どもと奴隷で構成される社会的単位としての家族が生まれた。財産所有者は夫だったから、家長が奴隷を支配するように妻も子どもも隷属さらる家父長制家族として成立した。世界史的女性の敗北である。そして家父長どうし奴隷の反乱防止と相互の利害調整のために、法と軍隊をそなえて国家をほ作りあげる。家族・私有財産・国家は、こうして歴史的に誕生した。」
 嫁入婚と家父長制家族の成立を「世界史的女性の敗北」と称しており、逆に嫁入婚と家父長制家族に打撃を加えていくことにより、「世界史的女性の敗北」を転覆させれば事実上社会主義革命の展望が開かれることとなる。
 現実には戸主権の喪失で男性は明らかに弱くなっているが、「家」制度の残滓とにらんだ夫婦同姓に打撃をあたえて、とどめを刺すのが推進論者の底意と考える。さらに夫婦同姓違憲となると次は戸籍制度で攻撃の標的となるだろう。すでに韓国では2008年1月11日には日本統治時代の戸籍制度が廃止され、新しい身分登録制となった。日本も先進国韓国に続くこととなるだろう。

 私はエンゲルスに反対である。私が好きなのは合衆国最高裁で極保守派といわれたDavid Josiah Brewer判事(任1889~1908)の1891年のイェール大学の講演である。
「イヴが禁断の果実さえ欲して占有をした、その記録に残る最初の時代から、財産の観念とその占有権の神聖さとは、一度も人類から離れたことはなかったのである。理想的人間性についていかなる空想が存在しえようとも‥‥歴史の夜明けから現代の時代にいたるまで、現実の人間の経験は、占有の喜びと一緒になった獲得の欲求が、人間活動の現実的な動機となっていることを明らかにしている。独立宣言の断定的な表現のなかで、幸福の追求は譲渡することのできない権利の1つであると断言されているとき、財産の獲得、占有、及び享有は、人間の政府が禁ずることができず、それが破壊することのない事柄であることが意味されているのである。‥‥永遠の正義の要請は、合法的に取得され合法的に保有されたいかなる私的財産も公衆の健康、道徳あるいは福祉の利益のために、補償なく略奪されあるいは破壊されることを禁ずるものである」ラッセル・ギャロウェイ著佐藤・尹・須藤共訳『アメリカ最高裁判所200年の軌跡 法と経済の交錯』 八千代出版1994年 89頁

 私有財産こそ神聖だという思想であるが、私も基本的に賛同する。したがって、男系相続、嫁入婚、家父長制、夫権、「家」制度を攻撃するジォンダー理論、フェミニストの多くが、同時にエンゲルス主義者でないとしても、思想傾向は一致しているので結局同じことである。夫婦同姓違憲は社会主義革命に途を開く、共産主義者の思う壺であるがゆえに強く反対するのである。

三 夫婦同姓こそ我が国の慣習に合致し、「家」は制度歴史的に一貫した制度であり、慣行は国体に等しく、その破壊は国体破壊である。

 (一)夫婦別姓旧慣習説は誤りである。

ここまでをまず書くこととにします。

2015/09/21

入手資料整理177

1−69 比較家族史学会監修『家と家父長制』新装版 早稲田大学出版部2003

この本は、丸の内丸善で新刊当時に買ったもので、学際的。

栗原真人「イングランドにおける家父長家族の変容をめぐって−継承財産設定を中心として−」

コモンロー上の不動産権の基本的単位である単純封土権の法定相続は、直系のみならず傍系まで含まれ、その法定相続人の範囲は広大なものとなるが、男子直系卑属がある場合は、長男子単独相続となり、長男以外の子供たちは相続権はない。
 すでにみてきたように日本では嫡子単独相続の濫觴をなしたのは、たぶん鎌倉時代文永10年(1273)つまり元寇の前年の「小槻有家起請」という官務家小槻氏壬生流が嫡子単独相続を宣言した時期、この年に摂関継承できる家が確定した。鎌倉時代後期から南北朝にかけて単独相続に移行したと考えられるが、イギリスでもコモンローと教会法の管轄権が確定したのが十三世紀だから、さほど大きな違いはないようにも思える。
 中世コモンローにはローマ法のような家長権という概念はないが、婚姻期間中に妻の法的人格はすべて夫に吸収される。
 17世紀後半に厳格継承財産設定が普及する。これは長男以外の子供たちの分与産を婚姻するときに前まって定めるシステムで、大法官裁判所に保護されるエクイティ上の権利である。これによって財産分与の法的保障のなく、結婚も困難だった二・三男の地位が上昇し、「家産の絶対的所有者」だった家父は「一代限りの管理者」にすぎない生涯不動産権者と地位が低下したとする。
 家父長家族から愛情家族、平等家族を変容をみたとするストーンらの見解があるとするが妥当なのだろうか。ボンフィールドは厳格継承財産設定が傍系の男子相続人よりも娘たちへの分与産を優先するため父系の観念が衰退したとする。

 妻の財産権は、中世においてはコモンロー上の寡婦産があるが、16世紀のユース法によりエクイティ上の寡婦給与を支給する慣行となり、これは婚姻の時に前もって決められる。さらに16世紀末にユース、信託財産を介して妻に特有財産を与えることが大法官裁判所によってなされ、厳格継承財産設定により、婚姻中の妻に小遣銭など単独で使用される財産権が付与された。18世紀には小遣銭と特有財産という既婚婦人の財産権が確立したとする。
 コモンローは夫との婚姻中の妻に財産権を認めないが、近世において大法官裁判所により特有財産、厳格継承財産設定により小遣銭が認められたという展開である。

 日本の庶民の「家」は主婦が家長と並びたつ存在で、財布を握っていたり、使用人の給与を決定する権限があったというイメージがつよく西欧と比較して地位が低いわけではないだろう。


五味文彦「中世の家と家父長制」

 朝廷については、治天の君を中心とする家の重層的構造。慈円『愚管抄』は上は国王から下は庶民にいたるまで家が世の中を構成していたという見方で単純明快に説明している。12世紀初頭に諸国の公領において、あるいは都市的な場においてね在家役の賦荷が広く行われていたが、「在家」が百姓・庶民の家の成立を物語るとする。15世紀以降に家が成立するという坂田聡らの見解とは違う。

藤井勝「近世農民の家と家父長制」

 近世村落社会の家の特徴は端的に「百姓株」制度であるとする。「百姓株」とは「清右衛門株」「又兵衛株」と表現され跡ともいう。株あるいは名跡というのである。
 株とは村落社会における「一軒前」の資格であり、村落の本来の成員となり、共有財産の使用、水利運営、祭祀集団(宮座・伊勢講等)の所属など権利・義務を獲得するものである。株とは身分的自立、社会的自立の単位だといっている。
 近世農民の家父長制については、鎌田浩・青山道夫・江守五夫が家父長制支配を強調するのに対し、川島武宣・大竹秀男・中田薫が消極的な見解をとっている。つまり親権や夫権はあるものの、包括的支配権としての家父長権は存在しないという見方がある。著者も離縁は夫権の行使であって、家長は村落の規範など秩序の維持に努めることを第一義として行動するといったことをいっている。そうでないと百姓株を失うからであり、家成員の支配もその範囲内でのものだろう。
 我が国はローマ法のように家族を権力関係とする制度とは少し違うように思える。
 
鎌田浩「家父長権の理論」

原田俊彦「共和制ローマと家父長制の概念」


 ローマは家族を基礎として形成され、家族は国家に匹敵した。家父長権は法的に無制限と想定されていることを検討している。家族成員の殺害権も有していたとされるが、ハドリアヌス帝の二世紀前半に法的規制を被った。

 結婚は法的なものではなかったとし、婚姻の成立は、花嫁の引き渡し、花嫁の輿入れで構成される慣習上のものであった。婚姻が慣習である以上、家父長の婚姻同意権も、法的なものでなく慣習にすぎないが、婚姻の儀式性、共同体への公示性からみて、事実上家父長との合意は必要だった。

 
 マヌス(夫権)設定については、ガーイウスを引用「婚姻を一年間中断せずに継続する女子はウーヌスにより夫権に帰入された。」つまり「一年間の占有によって使用取得されたかのように(女子)は夫の家(ファミリア)に移り、かつ娘のような地位を得た」夫権に帰入することを欲しない場合には、毎年三夜(おそらく連続して)不在にして、この方法でウーヌスを中断すると、婚姻に夫権は発生しない。

 

 無夫権婚姻についてこの論文では詳しく説明してないが、後世、持参金をしぶるため活用されたが、これは女子の実家の都合であり、無夫権婚姻は寡婦への夫家からの財産分与がないので、終身的経済保障は実家にたよるあり方なので、女子にとってはみじめなあり方である。
 夫婦別姓論者は夫・舅姑に従いたくないとしている点で無夫権的婚姻を理想としているようだが、にもかかかわらず、夫から法定相続を得ようとするのは非常にずるいと私は考える。無夫権を主張し、姑に仕えないというなら、たんに事実婚でよいわけで婚家の財産まで与えてしまうのは行き過ぎだといわなければならない。。


 
 堀敏一「古代中国の家父長制」

 家長の権力は絶対的でなく、父権・親権、尊卑・長幼という世間や年齢による上下関係が重視される。


 江守五夫「家父長制の歴史的発展形態−夫権を中心とする一考察−」


 ローマ 夫権(手権ともいう・マヌス)に帰属するマヌス婚が通例であり、妻は夫に対して「娘の地位」に立つ。家子に対する父権と同様であり、生殺与奪の権を含み、所有権保護の訴訟と同様の手続で保護された。

 ゲルマン社会 ムント(庇護権)婚である。夫のムント権は妻を「懲戒し、奴隷として売り、追い出す等々」の権利を含むが、妻側の氏族に監視されるのである。

 
 妻には「鍵の権力」という家政権限が夫から委任された。この論文ではかかれてないが、ゲルマンには「朝の贈物」という慣習があり、初夜の翌朝、花婿から花嫁にモーニングギフト(モルゲンガーペ)がなされ、それは鍵の権力の委任が含まれ、婚姻は完成する。花婿側は、花嫁の父にメタ、ムンディウスといわれる婚資を支払う。ちなみに花嫁の引き渡しはムント権が父から夫に移転することを意味する。
 ゲルマン法に由来する花嫁の引き渡しは、教会挙式に取り込まれ、バージンロードの式次第がそれを簡略化したものといえる。

 欧州では地中海沿岸が持参金型、アルプス以北は花嫁代償型

 キリスト教については既に言及していることなので省略する。

 近代市民社会でも夫権は同様である。
 ナポレオン民法231条「夫は妻を保護し、妻は夫に服従する義務を負う」
 
 なお231条は2004年5月26日の法律第439号により削除された。


 著者は夫権の動揺は、1960年代以降の女性の社会進出としているが、夫権が動揺したのは比較的近年の現象なのであり、とくに前世紀末から今世紀にかけてじわじわ進行している事態なのである。今は世界史の転覆がなされるかいなかの瀬戸際にあるというのが私の認識である。

1−70明石一紀『古代・中世のイエと女性―家族の理論 』校倉書房古代・中世の

 婿養子と入夫中継婚の歴史的事例は必ず引用するが、入夫中継婚については畠山氏のケース以外に、将軍家の竹御所と九条頼経の例もある。

1−71西谷正浩『日本中世の所有構造』塙書房2006年

 長子単独相続制

 武士の場合は史料上、嫡子単独相続を明記したものとして 宝治元年(1247)平朝秀譲状が最も古いが、石井良介を引用し、武家の単独相続への移行は、鎌倉末期から南北朝にはじまり、室町期に一般化すると述べる。

 したがって貴族社会のほうが少し早い時期と考える

 貴族層では、暦仁(りゅくにん)元年(1238)の藤原忠定置文 (藤原北家御子左流、歌人として著名な藤原定家の伯父にあたる人物)が最も古いとされ、次に仁治(にんじ)3年(1242)石清水八幡宮宇美宮家の房清処分状案とされる。
 
 正応6年(1293)関白を辞した九条忠教による家督の内大臣師教宛の譲状は、「為興隆家門、不分譲諸子」として日記・文書・剣・平緒と荘園所領の全てを長子師教一子に処分したものである。これは忠教の父忠家の遺誡によるものなので、分割相続の停止は、忠家薨去の単独建治元年1175よりも早い時期とされるのである。

 なお、遠藤珠紀が引用した文永10年(1273)の「小槻有家起請」は「所領事(中略)有家子孫中、伝文書仕朝廷之者、為其財主可惣領(後略)」も単独相続を宣言したものであるから、鎌倉時代後期を画期とみなす。
 ただし、元享元年(1322)西園寺実兼処分譲状案は分割相続である(ただし、関東次を継がせた実衡を「家督之正流」として日記文書や氏寺妙音院を譲与している)。久我家が単独相続に移行したのは南北朝期(岡野友彦「中世久我家と久我家領庄園』続群書類従完成会2002』、勧修寺家も南北朝期(『中村直勝著作集第4巻』淡交社1978』とされている。したがって、

「貴族社会では、財産の単独相続は13世紀中盤にはじまり、南北朝期に一般化した」
10884 久武綾子『夫婦別姓』世界思想社2003年
10885 増本敏子・久武綾子・井戸田博史『氏と家族』大蔵省印刷局1999年
10886 江守五夫『日本の婚姻 その歴史と民俗日本基層文化の民族学的研究Ⅱ』弘文堂 1986
10887蒲生正男「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本―岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970年
10888大竹秀男『「家」と女性の歴史』弘文堂1977
10889江守五夫「婚姻の民俗からみた日本(公開講演会)」『民俗学研究所紀要』(通号20)1996
 「レヴィレート婚というのは兄がなくなった時に弟が嫂をめとる婚姻で、日本では「嫂直し」とかいって1940年代まではさかんに行なわれていた。実際、戦争未亡人の再婚がどう行なわれたかというとことを、戦後間も時期に九州大学の青山道夫先生というか増俸の大先生が九州管内で調査されたことでありますが、半数以上が亡夫の弟と再婚することでありました」
10900五味文彦「在家・分業の構造『史学雑誌』79(5)1970
10901栗原真人「ボンフィールドL.Bonfieldの婚姻継承財産設定研究について」『阪大法学』133・134 1985
10902鎌田浩ほか「熊本県における家督相続復活決議と農家相続」『熊本法学』22号1977

 昭和48年6月の熊本県菊池郡泗水町を皮切りとして熊本県下30町村で家督相続復活のための憲法改正要望決議が相次いで出され、これは昭和49年10月31日朝日新聞で報道されたのを皮切りに、広く報道されたのである。熊本県の政治的風土がたぶん保守的ということもあるだろうが、家制度を崩壊させた戦後民法改正に対する批判も根強くあったことを物語る。
 この運動は県会議長、自民党県連幹事長であった荒木豊雄氏が個人的努力で推進したものである。同氏は明治憲法復元運動を行なっていた生長の家相愛会熊本県連合会顧問でもあった。


昭和48年6月16日熊本県菊池郡泗水町決議(出席14、欠席2、全員賛成)

憲法改正要望決議

次の事項を、法律で明定できるよう、憲法第24条を改正されたい。
一、家督相続の制度並びに相続権の優位性
一、家督相続人の直系尊属扶養及び祭具等の承継並びに祭祀主宰義務
右決議する。

(提案理由)
 いまや、われわれの社会は、荒廃の途をたどりつつある。即ち老人問題、青少年問題等々深刻にして多様な諸問題を含む生活環境の荒廃を生起している。そのよってきたるところは、現憲法の個人の尊厳重視と私権優先指向のなかで、そのひずみとして平和な人間関係や社会連帯の意識を弱めたことにある。
 特に農村社会における影響の深刻なるは、まことに憂慮すべきものあり。(中略)農村社会の基盤であった家族制度の崩壊と共に次第に活力を失い、もはや衰亡するもやもはかり知れざるときにある。そもそも我が国の農業は、家によって保たれ、農地も技術もも親より子に引継がれ、家族労働と、農村社会の相互扶助のなかで安定を得てきたものである。
 このことは、農業の近代化をはばむ要因ともなったが、然し、このなかで育成された農村の貴重な社会資産を、現憲法は失のう結果を招くに至った。即ち、家を崩壊し、農業の継続を断ち、農業の基礎たる農地を分散し、そして農村における人のきずな、連帯意識、相互扶助の精神、引いては郷土愛、愛国心を稀薄にしてしまった。
 ここにおいて当議会は、この状態を座視するあたわず、また今日の農業問題の根底にあるものは現憲法第24条による家の崩壊にあると断じ、その改正を要望し、ここに提案するものである。

2015/09/14

第4次男女共同参画基本計画の基本理念、働き方・暮らし方・意識変革の強要は、契約自由、私的自治、市民的自由 という近代市民社会の原則を否定するもので強く反対

 (パブリックコメント、首相官邸、内閣府等あて)

  男性中心型労働改革について、欧州連合の労働時間指令のような週単位の時間外労働に係る上限規制や休息時間(勤務間インターバル)規制の導入に反対であることはすでにコメントしたとおりだが、「男女がともに働き方・暮らし方・意識を変革し、男性中心型労働慣行等を見直すことにより、互いに責任を分かち合いながら家事・育児・介護等へ参画する」という伝統的家族倫理を逸脱するフェミニズムの偏った価値観を国民や企業、労働者におしつけることで、私的自治・自由企業体制・契約自由といった近代市民社会の根幹を崩してしまうことを危惧するものである。
 戦後の民法改正で、戸主権がなくなり分割相続となったとしても、法制ではなく家族慣行としての日本的家制度、家長-主婦の夫婦の役割分担による家族観はなお国民に広範に受容されている。白無垢・色直し等嫁入婚も国民の慣習である一方、「家」ではなく、個人の心理的充足を第一義の目的とする友愛的結婚も広範に受容されているが、結局の所、自由主義社会では夫婦の役割分担は、私的自治の領域であり、政府が干渉すべき領域ではない。
 私はエペソ書「妻たる者よ主に仕えるように夫に仕えなさい」第一ペテロ書「妻たる者よ夫に従いなさい」等の新約聖書の家庭訓ジャンルを重んじるのみならず、儒教の三従四徳という東洋文明の婦人道徳も当然のことと考える。夫が家長として家庭という小さな教会の主教となる男性に求心力のある近代市民社会の家族モデルが最善という価値観であるが、フェミニズム的な働き方、暮らし方、男女関係を国民におしつける男女共同参画基本計画は伝統的規範・婦人道徳らにとどめを刺す破壊力のあるものとして深刻な脅威と受けとめる。
 エンゲルスは嫁入婚と家父長的家族の成立を「世界史的女性の敗北である」と述べたが、男女共同参画基本計画の真意は、改革の強要により伝統的家庭倫理を一掃することで、「世界史」的文明規範を転覆させ、社会主義革命を実現することにあると考える。ゆえに強く反対である。
 
  第4次男女共同参画の基本理念に反対(自民党あて)

「男女がともに働き方・暮らし方・意識を変革し、男性中心型労働慣行等を見直すことにより、互いに責任を分かち合いながら家事・育児・介護等へ参画する」という伝統的家族倫理を逸脱するフェミニズムの偏った価値観を国民や企業、労働者におしつけることで、私的自治・自由企業体制・契約自由といった近代市民社会の根幹を崩してしまうことを危惧するものである。
 戦後の民法改正で、戸主権がなくなり分割相続となったとしても、法制ではなく家族慣行としての日本的家制度、家長-主婦の夫婦の役割分担による家族観はなお国民に広範に受容されている。一方、「家」ではなく、個人の心理的充足を第一義の目的とする友愛的結婚も広範に受容されているが、結局の所、自由主義社会では夫婦の役割分担は、私的自治の領域であり、政府が干渉すべき領域ではない。
 フェミニズム的な働き方、暮し方、男女関係を国民におしつけ、公定イデオロギー化する男女共同参画基本計画は伝統的規範・婦人道徳を破壊し、私的自治、信教の自由をも破壊するものとして深刻な脅威と受けとめる。
 エンゲルスは嫁入婚と家父長的家族の成立を「世界史的女性の敗北である」と述べたが、男女共同参画基本計画の底意は、改革の強要により伝統的家庭倫理を一掃することで、「世界史」的文明規範を転覆させ、社会主義革命の道筋を開くことにあると考える。ゆえに強く反対である。
 
 

2015/09/13

入手資料整理176

 材料あつめは時間的にまにあわなくなるのでそろそろ切り上げる。

1-65河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館2007

「治承元年事件および治承三年政変について」


平氏摂関家横領説を否定

 清盛が摂関家領を奪おうとしたとする見解は、1939年の村田正言や、1950年の石母田正の見解であってそんなのは古いと言っている。
 近年では樋口健太郎が「盛子の相続」は「基実の嫡子である基通への中継ぎとしての性格を有して」いる「彼女はまさに嫡流である基通の後見として、その『家』を受け継ぐ位置にあった」(「平安末期における摂関家の『家』と平氏」『ヒストリア』189 2004年のちに『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011)としており、この見解に従うとする。
 兼実も盛子の相続が、春日大明神の神意に反しないとの見解であった。盛子が「仮の伝領の人」であり、基通が「宗たる文書・庄園、伝領せらるべきの仁」とみなし のちに政敵となる基通のものとはっきり言っているというのである。

 基房は内大臣藤原公教(三条家)女を妻としていたが、前太政大臣藤原忠雅(花山院家)女を北政所に迎えていた。さらに未亡人の平盛子と再婚を後白河法皇がすすめているとの噂があった。レヴィラート婚である。著者は清盛が反対して立ち消えになったとみているが、儒教倫理には反するものであるゆえ立ち消えになのかもしれない。近現代の庶民の「家」の論理からすけば嫡子がいなければレヴィラート婚はよくあることで、戦争未亡人の多くがそうであるが、このケースは亡兄の嫡子がいる以上軋轢は避けられず、無理があると私は思う。
 
 盛子が24歳で亡くなった際、清盛は厳島神社にいたため、法皇は清盛不在に乗じて摂関家領を高倉天皇に伝領する。これは盛子が高倉天皇准母とされていたため。目的は、基房を摂関家の継承者にするためだった。法皇は清盛が妥協してくると楽観していたが、清盛はあくまで基通への相続にこだわった結果が治承3年の政変である。結局、高倉が清盛の脅しによって、関白基房を罷免したから、高倉親政になり、後白河の院政が停止される事態になったのだという。

1-66樋口健太郎『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011


 白川殿盛子が摂関家領を伝領した意味


 准三后白川殿平盛子(清盛女、高倉殿北政所と称された)は九歳で基実と結婚し、1166年十一歳で未亡人となり摂関家領を伝領、1167年准三宮宣下で実名盛子となづけられたのであるから、夫の基実は盛子という名を知らない。琵琶の名手だったという。1179年二十四歳薨。摂関職は基房が継いだが、摂関家は盛子が継承したのである。それは盛子が家政機関を有していたからである。当初はほとんど忠通・基実に仕えた摂関家の家司だった。摂関や藤氏長者の地位を失った忠実や忠通といった大殿が摂関家領の経営権を有しており、嫡系に継承された。摂関家領の管領は、氏長者や現任の摂関にあるのではない。著者は「摂関職の継承は、摂関家の継承ではない」と端的に言う。嫡系継承の「家」の論理からして、七歳で父を失った基通へ継承の中継ぎ(家長代行)として家領を経営したとしても不自然ではない。

 実際、寡婦である北政所盛子は家長代行として摂関家の仏事を主催していた。しかも兼実、皇嘉門院(崇徳后、忠通女藤原聖子)、基実母源信子もこの仏事に関与し、摂関家親族と対立することなく、盛子はその中心にいたし、仏事や寺院の管領権も有していたというのでである。
 盛子が家領を経営していたのは11歳から24歳であり若い女性だが、家司がサポートするから、行事を主催できる。

 すでに12世紀半ばは中世的「家」成立の画期とする学説(高橋秀樹など)があるが婚入配偶者である正妻が寡婦となって家長代行として婚家の仏事を主催することは日本的家制度のルールからして妥当なものであり、盛子はモデル事例と考えるものである。(近現代の庶民の家族慣行では子供のいない寡婦は実家に帰されることがあるが、子供がいる場合は生家に戻すことはない。このケースでは実子ではないが基通を猶子としているのだからルールからして婚家から離れることはない。)
 つまり正妻なのだから摂関家の成員とみなす。
 むろん平氏の家司も盛子の家政機関に介入したのは事実だが、基通にとって岳父清盛は政敵松殿基房との嫡流争いを考えれば後見者として頼もしい存在なのだから姻戚の平氏の家司が家政機関に介入してもそれは不自然ではない。


 名家の国政実務独占

 名家とは五位蔵人や弁官という顕職を経て公卿に昇進する中下級実務的貴族の高藤流(勧修寺流)、内麿流(日野流)、高棟流平氏の三流である。鳥羽院政期以降五位蔵人と弁官を名家が独占したただけでなく、摂関家の政所執事も高藤流(勧修寺流)、内麿流(日野流)の一門で占められ、政所年預は高棟流平氏が世襲した。
 名家が太政官、蔵人方、摂関家という国家運営機構の実務を独占したとされ、、官務を世襲した小槻氏、局務を世襲した中原・清原氏の官司請負と同様に名家が国家実務を請け負ったとの評価もできるという趣旨のようである。
 執事や年預は先例・故実に通暁していないと勤まらない。名家は故実を集積、相伝する家というだけでなく、状況によっては摂関の後見役となった。
 現代でも、二世・三世議員が必ずしも有能とは限らないように、摂関でも例えば基通は「不知和漢事」と酷評され、九条忠家が「大嘗祭故実無御存知」として罷免されたように、単独では摂関としての職務を果たせない人もいたから名家によるサポートは当然必要だった。

関連して、10879鈴木理恵「名家の形成と公事情報の交換」『日本歴史』658 2003によれば名家は院権力と結びついたことにより家格を形成したが、繁栄の基礎は実務官僚としての技量であり、姻戚関係のネットワークから世襲しつつあった官職の作法や故実などの情報を入手して実際の活動に生かし、口頭伝達や身体的所作あるいは日記や文書の形で蓄積していった。名家三流は協力関係にあったとする。またひとつの官職の在職年数が短くなったことも、蓄積した情報を効率よく伝えていくが重要になり、特定の一門に官職が限定される要因としている。

1-67遠藤珠紀『中世朝廷の官司制度』吉川弘文館2011


 局務について 18頁以下がわかりやすく要約されているので使いたい「中世の外記局は朝儀・公事を奉行し、その記録の作成にあたり、先例を調査上申し、人事関係の手続きを分担処理するなど、朝廷運営の中核に存在した。‥‥外記局の最上位の大外記で、局を統括する人物を「局務」と称された。また一二世紀半ば以降、中原・清原両氏により局の運営が請け負われたとされている‥‥しかしながら中原氏では複数の流が競合し、外記局の構成員は決して特定の家による独占状況ではない。‥‥複数の家を競合させ、官司の活性化を図っていた‥‥橋本義彦氏は貴姓氏族と卑姓氏族の間には「越ゆべからず断層」が存在し、この時期家格差はより固定化していくと指摘している‥‥外記・史には源平藤橘の四姓の人物は任じられない‥‥この結果、外記就任に際し、貴姓の官人が中原などの卑姓に改姓する事例も指摘されている。」

 どうして中原氏が局務となったのかについては、11世紀初頭、外記日記が図書寮の工によって盗まれ、紙・壁の材料にされた。しかし幸い中原師任・師平が私的に書写し保管していたので、情報が全て失われずにすんだことから、国家の奉為にさばかり忠を致す者とされたことによる。バックアップをしてくれていたから感謝されているのである。


 著者は、後世から遡って系図の特徴から「家」成立の起点設定しているあり方に疑問を呈し、小槻氏については13世紀後半、中原氏は14世紀に中世的「家」が成立するという。


官務家小槻氏の分立と嫡子単独相続を定めた「小槻有家起請」

 亀山天皇の文永4年(1267)、小槻秀氏(大宮流)と小槻有家(壬生流)の代に所領相論があり、「家」成立の画期と著者はいう。結果、小槻「氏」のなかで永業流(大宮家)と隆職(壬生家)の優越を宣言し、両流で官務職と相伝文書の独占的継承を認めた。
 文永10年(1273)つまり元寇の前年の「小槻有家起請」は「所領事(中略)有家子孫中、伝文書仕朝廷之者、為其財主可惣領(攻略)」と文書だけでなく所領の嫡子単独相続を定めた。実際には所領争論はこの後も繰り返されているが、嫡子単独相続の自覚的宣言として、戦後の民法改正まで700年近く続いた、嫡子単独相続の濫觴とみなしてよいだろう。

関連して10880三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館 2007によれば、文永10年に九条忠家が関白に就任し、いわゆる五摂家が摂関職に就任できる家と確定したのであり、文永10年はその意味でも画期といえるのではないか。

関連して10881鈴木理恵「明経博士家中原・清原氏による局務請負と教育」 『教育史学会紀要』 30 1987
 明経道とは「十三経を専らに学び、経書を表とし、詩賦文章を裏と被致候」学問である。
 外記局が主務としていた除目関係文書、任官、昇任の申請書たる申文・款状が中国の古典の故事を豊富に引用した漢文で認められていたことが明経道と結びつくほか、中原師遠が天文博士であったほか、中原氏や清原氏がは算・陰陽・暦道・医道・明法といった幅広い学問を行っていたので、先例勘申には幅広い知識が求められたこともあるとする。


 
その後の小槻氏と中原氏

 官務家小槻氏は壬生家と大宮家に分かれたが、大宮家は14世紀に低迷し、16世紀半ば身をを寄せていた周防大内氏のクーデターに巻き込まれて断絶、壬生家だけになる。
 局務家中原氏は15世紀半ばに六角流・西大路流が断絶、16世紀に押小路流が断絶、近世は押小路家(正親町流)だけになる。清原氏は15世紀以降少納言に任ぜられるようになり、その後外記局を離れたため、局務は押小路家に限定されるようになる。


中世朝廷社会における公卿の称号と家名


称号と家名は違う

 361頁。称号は「同官者のなか、実名を憚りつつ個人を特定するために使用された。称号は奏達され、太政官に把握されており、朝廷社会で普遍的に通用していた。」称号は官名と一体なので同一人物でも時期によって異なる。
 実名を憚る慣習により、朝廷で用いられる公認の通称であり、もっとも一般的な人名表記といいかえてよいだろう。
 鎌倉時代以上公卿が爆発的に増加したので「久我大納言」のように固有名詞がつく場合があるが、注意を要することは、後世の家名と直結しないケースが少なくないことである。父子、家筋という狭い範囲でなく、一門一党のなかでの臈次等で継承されるケースも少なくない。
 イレギュラーな例として、(久我)通忠は、生涯のなかで「土御門大納言」「新源大納言」「八条大納言」「中院大納言」と呼ばれている。

 結論を先にいうと朝廷社会では武家よりも遅れて家名が一般に定着したのは15世紀と考えられる。私が思うにそれは天皇との君臣関係が基本的に古代的姓氏であり、将軍と御家人の君臣関係が名字であることと違うためだと思うが、称号という人名表記が流布され、それで十分人物を特定する社会的標識となっていたことも大きいと考える。

関連して1-68平山敏治郎『日本中世家族の研究』法政大学出版局は53頁は「平安朝の末から鎌倉時代にかけて‥‥父子直系の家族の間に同じ称号を用いて世襲する慣例がはじまった」とするが、この学説は古い。

 著者が例示している史料、350頁以下では中御門宣胤の『宜胤卿記』文明13年(1481)記冒頭に「藤量光号日野新納言柳原」「参議藤永継号藤宰相高倉」「藤政為兼従号侍従宰相高倉」本文中に「庭田源大納言事也」「柳原日野前中事也」と称号と家名が併記されている事例があり、万里小路時房の『建内記』永享4年10月16日条(1434)に時房は後小松院一周忌仏事を室町殿義教に命じられ、公卿に対して参仕を命ずる状を出したが、御教書の一通は「藤大納言殿」(武者小路隆宗)「右大将殿」(西園寺公名)と称号で、もう1通は同一人物でるにもかかわらず、「武者小路殿」「西園寺殿」という宛所である。
 このように称号と家名が併存、併用されている15世紀には家名が成立していると判断できる。
 具体的に家名が確定した時期については菅原正子「室町時代における公家の所領経営と機構--15世紀山科家の場合」 『日本歴史』443 1985が山科を正式の称号としたのは貞和二年(1346)であり、これにより教行-教言の系統を嫡流としたとしている。
 関連して10882大澤かほり「室町期における吉田家の成立」『年報中世史研究』 31 2006年
 半家、神祇大副を極官とし、亀ト道と日本書紀研究を家業とする卜部氏における「家」成立についての考察し、吉田流嫡流について、「冷泉」と号する兼豊1305-1376の代が氏的継承と嫡継承の2つの原理に基づく家であるとし、史料から兼熙が二条良基の推薦で公卿に昇進した前後の永徳3年(1383)から明徳2年(1391)の間に吉田家が成立し「吉田殿」とも称され、嫡子単独相続となった。吉田家成立後、卜部氏諸流と関係が悪化、吉田流と平野流が訴訟を繰り返していたが、文明年間に吉田兼倶が出て吉田神道を創設する。
 なお、吉田兼好は江戸時代以降の通称で、「徒然草」が書かれた時代は吉田家とはいわないようだ。


 次に名家、勧修寺流藤原氏の甘露寺家の家名成立だか、これは平山も遠藤も言及している。貞和4年(1348)高師直が四条畷で楠正行を討ち、吉野まで攻め入った年、(吉田)国俊と、(甘露寺)藤長が同時に権中納言に昇進した。国俊が年齢、臈次とも上位である国俊が勧修寺流一門の通例である「吉田中納言」を称号に決めた。これは一門であれば称号にできるものだったのであり、藤長の父隆長も「吉田中納言入道」と称していたので、任官時期次第で藤長が名乗ってもよかったのであるが、国俊で決定したので、藤永は先祖とゆかりのある甘露寺(すでに寺はない)を名乗りたいとして、(勧修寺)経顕、(洞院)公賢、一門長者の(葉室)長光と相談した結果、異論も出たが自称を尊重するいう趣旨で了承され、「甘露寺中納言」を称号としたということが、『園太暦』に詳細に書かれている。
 ということで、14世紀中葉ではまだ、家名が確定しておらず流動的な面があったことをうかがわせる。

 関連して村井章介「綾小路三位と綾小路前宰相『看聞日記』人名表記法寸考効」『文学』416、岩波書店、2003
 宇多源氏綾小路家は催馬楽などの「うたいもの」を家業とし、天皇の郢曲の師を代々輩出し宮廷音楽界を支えてきた。(綾小路)有資は後深草・亀山・伏見天皇の郢曲の師を勤め、有資の男信有は、伏見天皇の郢曲の師を、また信有の男有頼は後伏見・後醍醐天皇の郢曲の師を、さらに有頼の男敦有は崇光院の郢曲の師となっている。
 伏見宮貞成親王の近習として知られる庭田家、田向家は宇多源氏(綾小路)有資の養子(実は藤原(徳大寺)公直息)の経資を祖とするが、「うたいもの」の家業は有資の息信有の家系が継承したのである。しかし著者は家業の継承とは別に嫡流は経資の家系であるという。従来、『看聞日記』応永24年(1417)から28年に連衆として頻繁に出てくる人物、貞成親王の側近とみられる「綾小路三位」という称号の人物は、信有流の信俊と人物比定されていたが、これは誤りで、経資流の(田向)経良であるとする。信俊は「前源宰相」という称号であったという。つまり田向家の系統は、実は一門の嫡流で「綾小路」と称することを憚る理由はないとのことのようである。従って15世紀初期はまだ家名が流動的だったといえる。

10883告井幸男「摂関・院政期における官人社会」『日本史研究』535 2007

2015/09/06

入手資料整理175

 マタハラ事業者名初公表とか児童ポルノ単純所持初検挙とかおもしろくないニュースが続きますが、それはともかく評判のフライデーを買い、少し驚きましたが、恋愛禁止のAKBと違って、元ミスキャンパスの女性キャスターが男と遊んでも普通なんじゃないかと。

今回も夫婦別姓反対論の材料集め

10870所功 「続類従未収本『三善氏系図』考「続類従」『塙保己一記念論文集』温故学会1971年

11世紀における非血縁養子の事例をあつめているのでその部分だけ読んだ。
三善為康 (算博士。『朝野群載』や『二中歴』の著者として知られる1049~1139)、越中国射水郡の豪族射水氏の出身で18歳のとき上洛して算博士三好為長に師事したうえ、猶子(養子)となった。著者によれば三好行康も為康の猶子だった。

三好為長についてはウィキに曽我良成氏の著作の引用がある。

記・史・諸道博士などの家側でも家職を継ぐ子供がいない場合、もしくは子供にその能力がない場合には優秀な養子を迎えることで家名の存続を図ろうとする動きがあった。後継者を確保したい師匠=養父(三善為長)と中央に出仕したい弟子=養子(射水→三善為康)の思惑の合致が縁組の要因と考えられている(曽我良成「官司請負制下の実務官人と家業の継承」(初出:『古代文化』第37巻第12号(古代学協会、1985年12月)/改題所収:「実務官人の〈家〉と家業の継承」曽我『王朝国家政務の研究』(2012年、吉川弘文館

10871曽我良成『王朝国家政務の研究』吉川弘文館2012
引用は終章の要約だけでも十分か。

10872西別府元日「王臣家牒の成立と王臣家の動向について」『歴史学研究 』476号

10873浅見公子「イギリスにおける妻の財産上の地位(一)」『北大法学論集)12(3)1962 伝統的なコモンロー夫婦体主義と、エクイティ上の権利、1870年既婚婦人財産法以下の展開。夫婦別産制の原則になったのは1935年である。ここではコモンロー一体主義についてのみ引用する。 ブラックストーンの英法釈義では、「婚姻によって、夫と妻は法律上一人となる。すなわち、婦人の存在または法律上の存在そのものは、婚姻中、停止されるか、または少なくとも夫のそれに合体され、統合される。夫の翼、保護、そして庇護のもとに、彼女
はあらゆることを行う‥‥covertbaronすなわちbaronまたは領主(lord)であるかの彼女の夫の保護と勢力のもとにあると言われる。そして婚姻中の妻の状態は、そのカバチュアとよばれる。」460頁
ダイシーによれば「婚姻というものは、とにかくカバチュアの間、妻の財産上諸権利を夫むに譲り渡すことであった」「彼女の財産のほとんどが、婚姻の時に彼女が所有していたと、婚姻後、彼女の手に入ったものとを問わず、彼がのぞむならば絶対的に彼自身のものになった」461頁
13世紀からのコモンロー一体主義の根拠はなにか、著者は解説してないが、これは私の考えだが、やはりキリスト教の結婚観によるものだろう。
 例えば、文献学的に疑う余地のない真正パウロ書簡であるコリント前書には、すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である」「男き神のかたちであり神の輝きであるから、かしらにものをかぶるべきではない。また女は男の輝きである。なぜなら男は女から出たのではなく、女が男から出たのである。また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである」とある。
 秘跡神学では、結婚は花婿キリストと花嫁教会の一致とされるため神聖なのである。花嫁は教会に擬せられ尊重されているが、教会はキリストに従うのであり、指導者はキリストであることはいうまでもない。
 日本国憲法にある両性の本質的平等などいうのは20世紀の思想である。イギリスで言えば夫婦別産制が確立した1935年以降のことで比較的新しい思想である。

10874久留島京子「市民社会の成立と女性論-メアリー・アステル」『史學研究』185, 1989
 アステルとは1666年生まれの女性である。著者によればフェミニズムは18世紀末のウルストンクラフトを始祖とする。アステルはそれ以前の古い時代の女性で男権社会を否定しないが女性に教育が必要だと説いた点で先駆的とされるのである。
 近代市民社会成立期というのはコモンロー夫婦一体主義時代でもあるが男権社会だった。著者が引用するダニエル・デフォーの1724年「ロクサーナ」と言う作品はわりやすいので使いたいと思う。
「結婚契約の本質そのものが、自由、財産、権威その他一切を男に委ねることにほかならない。結婚してしまえば、女は単なる女中にすぎない、つまり奴隷である。」
 財をたくわえて独立の生活ができたのも結婚していない時だけ。娼婦や愛人のほうが自由な人間であった。 山本和平訳「世界文学全集10」集英社1981 379頁
 17世紀プロテスタントは、男は頭、女は身体、神は男性による女性の支配を神聖な秩序として定め給うたと牧師は説教した。当然のことである。
 プロテスタントの万人祭司の理念とは、家庭も一つの小さな教会であり、家長たる夫が小さな教区の主教であるということ、市民社会は男性に求心力のある家族を前提として成立したものであると私は考える。
 我が国の場合、男尊女卑等儒教思想を伝統としているが、これは不平等な調和という思想であり、西洋のすべて男性による女性の支配のトーンが強い男権社会と意味合いが違う。次の脇田晴子論文のように鎌倉中期の『沙石集』のように夫権は強大だったが、室町時代以降「家」的組織では「家内のことを職掌とする妻の地位は高かった。嫁の地位が低いのであって、家父長の妻たる姑の地位は一家を総覧する地位にあった」
10875脇田晴子「歴史のなかの結婚・婚姻」『歴史読本』2010.10. 55巻 10号 通巻856号
 著者は夫婦が同居する家族は12世紀以降と言っているが、次の栗原弘の研究を読む限り信じがたい。
 室町時代は、公家・武家・商工業者・農業者・芸能者のなかに「家」的組織が整備され、現在の会社や企業に代わる単位が「家」だったという。
1-62栗原弘『平安前期の家族と親族』校倉書房2008

10876小笠原敬承斎「結婚にまつわるしきたり その起源と意味」『歴史読本』2010.10. 55巻 10号 通巻856号
 「小笠原流の伝書には、花嫁が輿に乗って実家を出るのだが、そのさいは門火が焚かれていたことが記されている」
「嫁入りは惣別死にたるもののまねをするなり。さて輿もしとみよりよせ白物を着せて出すなり。さて輿出て候えば門火など焼くこと肝要なり。ことごとく皆かえらぬ事を本とつかまつり候」
 著者は明言はてないが白無垢=死装束という解釈でよさそうだ。門火については歴史民族学の観点からも検討したい。

10877梅村恵子「飛鳥奈良時代の結婚 葛木連戸主和気広虫」『歴史読本』2010.10. 55巻 10号 通巻856号
戸令二七先姧条「先ず姧してむ、後に娶きて妻妾と為らば、赦に会うと雖も、猶し離て」と婚前婚外交渉は決して認めないという条文が設けられている。しかしこれは日本の基層文化に合致しない。先進国のシナとは異なるのである。
 日本の文化は「マグハヒ(目合)、ミアヒ(御合)、マク(婚)、トツグ(嫁継)など男女の交際や結婚をあらわすことばはいずれも性交の意を原議としているように、男女の交際は即肉体関係に結びついていた」この説明はわかりやすく使いたい。
 そこで問題となる県犬養橘宿禰三千代と藤原不比等の結婚である。
 県犬養宿禰三千代は出仕し天武12年(683)ころ敏達天皇曽孫の美努王と結婚し葛城王(橘諸兄)佐為王(橘佐為)、牟漏女王を生んだ。
 ところが持統八年(694)美努王が大宰府率に赴任する際に三千代は同行せず、飛鳥に残ったが不比等と再婚した。
 三千代は阿閉皇女(元明)付きの女官で持統上皇の信任厚く、不比等にとって有益な結婚だった。現代では夫が単身赴任で別居しても結婚は継続し、間男に妻を奪われるということは考えにくいが、この時代はさほど問題なかったと考えられている。
 戸令二七先姧条に違反する姦通と思われるが、なんらお咎めはなかった。石田純一が「不倫は文化でしょ」というのある意味正しいともいえるのである。

10876 桃裕行『上代学制の研究』畝傍史学叢書1947

ふるい本だが、筆者の関心である、博士家の世襲家業化と、非血縁養子の事例検索にとってまず読むべきものなのでピックアップする。

310頁から352頁がさしあたり関心の範囲である。
311頁「大宝養老令によって定められた大学寮の制度はともかくも人材主義の上に立つもので、教官の選衡についても大体実力本位で、氏の貴賤に左右されなかったが、平安中期以降になると、一定の官職の世襲が起こると共に、大学寮に於いても、学科(「道」)」毎に、教官(「博士」)となる氏族が一定せられ、遂にそれらの氏族毎に家学が形成されるに至った」

1.紀伝道

 紀伝道における世襲氏族は、菅原・大江両氏はよく知られているけれども、藤原氏の日野流(北家内麿-真夏流)式家、南家も世襲氏族である。世襲を確立したのは

日野流(北家内麿-真夏流)が広業(任文章博士寛弘5年(1008))、資業(任文章博士寛仁元年(1017))兄弟。
式家が明衡(任文章博士治暦二年(1066))
南家が実範 (任文章博士天喜元年(1053))とされているがこれについてはもう少し説明が必要で
 
関連して10877仁木夏実「藤原永範考」大谷大学研究年報57 2005で補足すると

儒者には二つの昇進ルートがあり
(1)儒者弁(弁官)から参議、納言職にいたる
(2)少内記、大内記を経て、式部少輔・大輔や文章博士など式部省関連の官を昇進し、極官が公卿

 (1)が日野流であり実光(任右大弁大治5年1130)のころに儒者弁を家業化した。他の藤原氏博士家よりも高い家格に位置する。
 藤原永範は南家藤原氏博士家で初めて公卿になったケースで、後白河、二条、高倉三代の侍読を勤めた。著者によると鳥羽院の願文、呪願文が多くが永範の手によるものであり、院の愛顧により順調に昇進したのだという。後白河の東宮学士に就任したの、南家出身の少納言入道信西の推薦による抜擢人事とされる。

この論文に歴代東宮学士(侍読)の一覧表がついているので引用する。

朱雀 大江維時・藤原元方(南家)
村上 大江維時・紀在昌
冷泉 藤原敏通・大江斉光
円融 大江斉光
花山 菅原輔正・藤原惟成(北家魚名流)
一条 藤原忠輔(北家山蔭流)・高階成忠・藤原広業(日野広業流)
後一条 大江挙周
後朱雀 藤原広業(日野広業流)・藤原義忠(式家)・平定親
後冷泉 大江挙周・藤原義忠(式家)
後三条 藤原実政(日野広業流)・平定親・藤原明衡(式家)・大江匡房
白河  藤原実政(日野広業流)・大江匡房
堀河  大江匡房・藤原正家(日野広業流)・藤原敦宗(日野資業流)
鳥羽  藤原俊信(日野広業流)・菅原在良
崇徳  藤原敦光(式家)・藤原資光(日野資業流)
近衛  藤原顕業(日野広業流)・藤原俊経(日野広業流)
後白河 藤原永範(南家)
二条  藤原範兼(南家)・藤原俊憲(南家)・藤原永範(南家)
六条  (未詳)
高倉  藤原永範(南家)・藤原兼光(日野広業流)・藤原俊経(日野広業流)
安徳  藤原光範(南家)・藤原親経(日野広業流)
後鳥羽 藤原光範(南家)・藤原親経(日野広業流)
土御門 (未詳)
順徳  藤原範時(南家)・藤原頼範(南家)

2.明経道(大学博士助教直講)

仁和以降の大学教官には、善淵氏、中原氏、山辺氏、秦氏、八多氏、依知秦氏、滋善氏、津守氏、六人部氏、時原氏、宗丘氏、賀茂氏、賀陽氏、惟宗氏、大江氏、安倍氏が歴任しているが、後朱雀天皇のころから中原・清原氏に固定化される

3.明法道(明法博士)
 一条朝の惟宗允亮が『政事要略』を編纂した(長保4年1002)ことで知られ優れた人物だったが、惟宗氏はもとは始皇帝の子孫とされ秦公と云い元慶年間に惟宗朝臣を賜ったが独占的世襲氏族となったわけではない。甘南備保資が(寛仁三年1019任明法博士)に大江に改姓した事情は不明。
 小野道風の来孫にあたる有隣(大治二年1127任明法博士)は、外祖父菅原有真の養子となり菅原姓を名乗ったが、後に小野姓に戻っている。
 法家の世襲氏族としては坂上・中原氏であるが、中原氏には坂上流中原氏といって坂上でもあり中原でもあるという家系のほか、坂上とは関係ない中原氏もある。中原資清はじめ菅原氏を称していた。
 
 大江広元について、頼朝の側近で鎌倉幕府の政所初代別当として著名な人物だが、旧姓中原である。著者によると広元は明経博士中原広季の四男で、紀伝道の家だったが、中原広元として明法博士に就任した。広季の実子なのか大江維光が実父の養子なのかわからないところがある。さらに広元は参議藤原光能の子で、母が中原広季に再嫁したので中原姓となり後に大江維光と父子契約したとの説もあるとする。
 ウィキでは『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」には大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に『続群書類従』所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としている

なお10878今江広道 「法家中原氏系図考証」『書陵部紀要』 (27) 1975 により補足すると。
 明法道についてはすぐれた著作のある惟宗氏が家学を継承できず、坂上・中原氏にとって替えられたのか不明な点が多い。つまり一条朝は家学の相承固定化のはしりで、医道の丹波・和気両氏、陰陽道の安倍・賀茂両氏で固定化されていくのに、惟宗氏だけれは、明法家として断絶してしまうのである。
 法家は室町幕府によって市中検断の権が武家の手に吸収されると活動範囲が狭くなり、明法道は室町初期に急速に衰退し、たんに宮廷儀礼上の必要から勢多家、堀河家など数家が存続するだけになる。

2.算道 算博士

 平安初期の算博士小槻宿禰今雄は近江栗太郡の人で、後に左京に貫し阿保朝臣姓を賜ったが、もとの小槻宿禰に戻る。一条天皇のころから三善氏があらわれ、小槻氏とともに世襲氏族となる。三善為康 (算博士。『朝野群載』や『二中歴』の著者として知られる1049~1139)、は越中国射水郡の豪族射水氏の出身で18歳のとき上洛して算博士三好為長に師事したうえ、猶子(養子)となったことはすでに所功氏の論文のところで述べたことである。

1-63田端泰子『日本中世女性史論』塙書房1994

 私は11世紀を日本的「家」制度成立の画期とする根拠として、異姓養子による家業継承が11世紀に多くの事例を見出すことができることを挙げたい。
 もっとも重要な事例と思えるのが大江広房であり、陸奥守橘以綱が実父であり大江匡房が橘氏から養子をとったのである。異姓養子であるが、娘を娶っており、今日でいう入婿、婿養子である。
天永2年(1111年)に本姓に復し橘氏長者であった父以綱の後を受け長者となる。
 著者によれば「貴族の二、三男は他家に入って財産相続するか僧になる以外に生活のすべはなかった‥‥貴族階級では家業=家職の成立とその相続の必要性が養子を制度化した‥‥古代社会に五位以上について詳しく規定されていた養子制度は、平安期に至り、他姓養子の要素を加えて、貴族層に定着する」と述べている。244頁 

1-64服藤早苗『家成立史の研究』 校倉書房1991
ざっと見て、278頁以下の「元服と家の成立過程」が参考になった。我が国の元服儀礼は、天皇とその周辺から政治的社会的地位の確立過程で出現し、それが日本的特色であったこと。位階は王権との距離をあらわし本来律令では臣君に仕えて忠をつくし功を積んでから授与されるものであった。野村忠夫『律令官人制の研究』によれば、この位階授与原理は8世紀には確実に遵守され、勅授すら21歳にほぼ蔭位どおりに授与され、祥瑞出現の特例でも20歳だった。
 
 つまり、元服と叙位は別であった。ところが平安時代になるとこの原則が破られる。とくに転換期となったのが関白基経の嫡男時平と、その弟の仲平・忠平の元服叙爵である。時平は仁和二年(886)正月二日仁寿殿において「天皇手ずから冠をとって」元服儀礼が行われると同時に正五位下に叙位がなされた。天皇神筆の位記には「名父の子、功臣の嫡」と叙位理由が記載され、こののち元服儀礼は父の功績、政治的社会的地位の父子継承表明の性格が濃厚なものとなるのである。
 以下むすびにかえての要約は引用したいと考える。

2015/09/01

第4次男女共同参画基本計画男性中心型労働慣行等の変革に強く反対

第4次基本計画のパブリックコメント(9/14まで)と、各省庁これより簡略化したものを自民党、首相官邸にらもこれより長いものを送信しました。

  企業のの成長にハードワークは絶対必要だ。マッキントッシュ開発時にジョブズのチームは「週80時間労働、大好き」と書かれたTシャツを着て3年間猛烈に働いたし、ウォズニアックは数週間徹夜で働いた。最強の企業文化のあるウォルマートのサムズルールの第一は、コミットメント(献身的、粉骨砕身働く)である。何事も熱中しなければものにならない。長時間労働を「ブラック」とラベリングする風潮に反対する。
 1週間当たりの所定外勤務時間の法定上限を設定や連続勤務時間の法定上限及び勤務間インターバル(最低休息時間)制度は、EU労働時間指令(週48時間、11時間のインターバル)を意識したものだろうが、英国ではメジャー政権きEU労働時間指令を受容れず、ブレア政権により受け容れた。しかしながら同時に労働者により署名された書面による個別的オプト・アウトの合意により、法定労働時間規則の適用を免除する制度も設けた。2004年の使用者側のあるアンケート調査では65%の企業が、自社の従業員(一部または全部)にオプト・アウトに同意するよう求めている。従って英国の労働時間は大陸より長く、リーマン危機まで16年間の景気拡大があり、近年も経済は堅調であるのも、欧州大陸型の労働時間規制がないためである。労働時間規制が生産性向上だせなどというのは詭弁だ。
 人生で成功するためには勤勉に働くべきだ。ジェンダー理論で女性のために、ほとほどに働いていたのでは成果も出せないし昇進もできない。女性のために働き方を矯正させるようなあり方、男性に対する侮辱だ。

 自由主義的な立場から、育児休業や次世代育成支援にも反対なのである。結局、女性の継続雇用強化は、女性の新規採用や、いったん離職した女性の雇用を減らす。あくまで特定社会階層のみの利益となるだけだからである。
 米国では連邦レベルでは法定年次有給休暇もないし、1993年の家族医療休暇(12週間の無給休暇の権利)だけである。
 米国では平均出産後11週で職場に復帰するという。ところが、我が国では育児休業で長期穴をあけることにあたりまえになりつつある。
 そのしわよせは相当なものである。話はで出てこなくても、コスト転嫁で疲弊している労働者は少なくないと思う。
 マタハラ規制なんかしたら、愚痴のひとつも言えば懲戒処分となったりし全く理不尽なので反対するのである。

重ねて成人年齢引下げに強く反対する。飲酒年齢引下げは事故多発化政策としか思えない


(自民党あて600字以内)

 自民党が成人年齢だけでなく飲酒喫煙も18歳の方針の記事を見て驚いている。
そもそも18歳選挙権は国民投票法成立のため民主党の公約を丸呑みしたものである。それ自体も疑問だが成人年齢は国民の7割が引下げに反対であり、若者が求めているわけでもない。明治9年の太政官布告で満20歳に定められ、私法においては、満20歳の成年制度で長い間安定しており、これを引き下げることは混乱を生じるだけだ。安定している法制度をぶち壊すな。
 米国はコモンローの成年は21歳であるが、ベトナム戦争の際、学生運動が盛んになり、18歳以上21歳未満の者は徴兵されるのに選挙権がないのは不当だとの主張がなされ、1971年に選挙権を18歳に引下げた。ドイツも兵役義務が18歳かのため1970年に18歳に選挙権が引下げられた。あくまで激しい学生運動を懐柔させる政策だったのである。
 米国では45州が18歳、コロラド、ミネソタ、ミシシッピが21歳、アラバマ、ネブラスカが19歳である。私はコロラド、ミネソタ州のように選挙年齢と成人年齢が違っていてもいいと思う。国民の7割が反対しても成人年齢も引下げというのは納得できない。
 飲酒年齢はアメリカでは一部の州を除いてほとんどの州が21歳なのではないか。理由は若年者の運転による交通事故が統計上多いことだときいている。交通事故を増加させる政策は愚の骨頂。

(関連省庁と首相官邸あて)

 自民党が成人年齢だけでなく飲酒喫煙も18歳の方針の報道を見て驚いている。
そもそも18歳選挙権は国民投票法成立のため与野党間の取引、民主党の公約を丸呑みしたものである。それ自体も疑問だが成人年齢は国民の7割が引下げに反対であり、若者が求めているわけでもない。私は反対論の日本大学法学部民事法・商事法研究会「『民法の成年年齢引下げについての中間報告書」に対する意見」『日本法学』75巻2号2009年の見解に賛同する。明治9年の太政官布告で満20歳に定められ、私法においては、満20歳の成年制度で長い間安定しており、これを引き下げることは混乱を生じるだけだ。安定している法制度をぶち壊すことに強い疑問をもつ。
 米国はコモンローの成年は21歳であるが、ベトナム戦争の際、学生運動が盛んになり、18歳以上21歳未満の者は徴兵されるのに選挙権がないのは不当だとの主張がなされ、1971年に選挙権を18歳に引下げた。ドイツも兵役義務が18歳かのため1970年に18歳に選挙権が引下げられた。あくまで激しい学生運動を懐柔させる政策だったのである。
 米国では45州が18歳、コロラド、ミネソタ、ミシシッピが21歳、アラバマ、ネブラスカが19歳である。私はコロラド、ミネソタ州のように選挙年齢と成人年齢が違っていてもいいと思う。国民の7割が反対しても成人年齢も引下げというのは納得できない。
 飲酒年齢はアメリカでは一部の州を除いてほとんどの州が21歳なのではないか。理由は若年者の運転による交通事故が統計上多いことだときいている。交通事故を増加させる政策は愚の骨頂。

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