入手資料整理177
1−69 比較家族史学会監修『家と家父長制』新装版 早稲田大学出版部2003
この本は、丸の内丸善で新刊当時に買ったもので、学際的。
栗原真人「イングランドにおける家父長家族の変容をめぐって−継承財産設定を中心として−」
コモンロー上の不動産権の基本的単位である単純封土権の法定相続は、直系のみならず傍系まで含まれ、その法定相続人の範囲は広大なものとなるが、男子直系卑属がある場合は、長男子単独相続となり、長男以外の子供たちは相続権はない。
すでにみてきたように日本では嫡子単独相続の濫觴をなしたのは、たぶん鎌倉時代文永10年(1273)つまり元寇の前年の「小槻有家起請」という官務家小槻氏壬生流が嫡子単独相続を宣言した時期、この年に摂関継承できる家が確定した。鎌倉時代後期から南北朝にかけて単独相続に移行したと考えられるが、イギリスでもコモンローと教会法の管轄権が確定したのが十三世紀だから、さほど大きな違いはないようにも思える。
中世コモンローにはローマ法のような家長権という概念はないが、婚姻期間中に妻の法的人格はすべて夫に吸収される。
17世紀後半に厳格継承財産設定が普及する。これは長男以外の子供たちの分与産を婚姻するときに前まって定めるシステムで、大法官裁判所に保護されるエクイティ上の権利である。これによって財産分与の法的保障のなく、結婚も困難だった二・三男の地位が上昇し、「家産の絶対的所有者」だった家父は「一代限りの管理者」にすぎない生涯不動産権者と地位が低下したとする。
家父長家族から愛情家族、平等家族を変容をみたとするストーンらの見解があるとするが妥当なのだろうか。ボンフィールドは厳格継承財産設定が傍系の男子相続人よりも娘たちへの分与産を優先するため父系の観念が衰退したとする。
妻の財産権は、中世においてはコモンロー上の寡婦産があるが、16世紀のユース法によりエクイティ上の寡婦給与を支給する慣行となり、これは婚姻の時に前もって決められる。さらに16世紀末にユース、信託財産を介して妻に特有財産を与えることが大法官裁判所によってなされ、厳格継承財産設定により、婚姻中の妻に小遣銭など単独で使用される財産権が付与された。18世紀には小遣銭と特有財産という既婚婦人の財産権が確立したとする。
コモンローは夫との婚姻中の妻に財産権を認めないが、近世において大法官裁判所により特有財産、厳格継承財産設定により小遣銭が認められたという展開である。
日本の庶民の「家」は主婦が家長と並びたつ存在で、財布を握っていたり、使用人の給与を決定する権限があったというイメージがつよく西欧と比較して地位が低いわけではないだろう。
五味文彦「中世の家と家父長制」
朝廷については、治天の君を中心とする家の重層的構造。慈円『愚管抄』は上は国王から下は庶民にいたるまで家が世の中を構成していたという見方で単純明快に説明している。12世紀初頭に諸国の公領において、あるいは都市的な場においてね在家役の賦荷が広く行われていたが、「在家」が百姓・庶民の家の成立を物語るとする。15世紀以降に家が成立するという坂田聡らの見解とは違う。
藤井勝「近世農民の家と家父長制」
近世村落社会の家の特徴は端的に「百姓株」制度であるとする。「百姓株」とは「清右衛門株」「又兵衛株」と表現され跡ともいう。株あるいは名跡というのである。
株とは村落社会における「一軒前」の資格であり、村落の本来の成員となり、共有財産の使用、水利運営、祭祀集団(宮座・伊勢講等)の所属など権利・義務を獲得するものである。株とは身分的自立、社会的自立の単位だといっている。
近世農民の家父長制については、鎌田浩・青山道夫・江守五夫が家父長制支配を強調するのに対し、川島武宣・大竹秀男・中田薫が消極的な見解をとっている。つまり親権や夫権はあるものの、包括的支配権としての家父長権は存在しないという見方がある。著者も離縁は夫権の行使であって、家長は村落の規範など秩序の維持に努めることを第一義として行動するといったことをいっている。そうでないと百姓株を失うからであり、家成員の支配もその範囲内でのものだろう。
我が国はローマ法のように家族を権力関係とする制度とは少し違うように思える。
鎌田浩「家父長権の理論」
原田俊彦「共和制ローマと家父長制の概念」
ローマは家族を基礎として形成され、家族は国家に匹敵した。家父長権は法的に無制限と想定されていることを検討している。家族成員の殺害権も有していたとされるが、ハドリアヌス帝の二世紀前半に法的規制を被った。
結婚は法的なものではなかったとし、婚姻の成立は、花嫁の引き渡し、花嫁の輿入れで構成される慣習上のものであった。婚姻が慣習である以上、家父長の婚姻同意権も、法的なものでなく慣習にすぎないが、婚姻の儀式性、共同体への公示性からみて、事実上家父長との合意は必要だった。
マヌス(夫権)設定については、ガーイウスを引用「婚姻を一年間中断せずに継続する女子はウーヌスにより夫権に帰入された。」つまり「一年間の占有によって使用取得されたかのように(女子)は夫の家(ファミリア)に移り、かつ娘のような地位を得た」夫権に帰入することを欲しない場合には、毎年三夜(おそらく連続して)不在にして、この方法でウーヌスを中断すると、婚姻に夫権は発生しない。
無夫権婚姻についてこの論文では詳しく説明してないが、後世、持参金をしぶるため活用されたが、これは女子の実家の都合であり、無夫権婚姻は寡婦への夫家からの財産分与がないので、終身的経済保障は実家にたよるあり方なので、女子にとってはみじめなあり方である。
夫婦別姓論者は夫・舅姑に従いたくないとしている点で無夫権的婚姻を理想としているようだが、にもかかかわらず、夫から法定相続を得ようとするのは非常にずるいと私は考える。無夫権を主張し、姑に仕えないというなら、たんに事実婚でよいわけで婚家の財産まで与えてしまうのは行き過ぎだといわなければならない。。
堀敏一「古代中国の家父長制」
家長の権力は絶対的でなく、父権・親権、尊卑・長幼という世間や年齢による上下関係が重視される。
江守五夫「家父長制の歴史的発展形態−夫権を中心とする一考察−」
ローマ 夫権(手権ともいう・マヌス)に帰属するマヌス婚が通例であり、妻は夫に対して「娘の地位」に立つ。家子に対する父権と同様であり、生殺与奪の権を含み、所有権保護の訴訟と同様の手続で保護された。
ゲルマン社会 ムント(庇護権)婚である。夫のムント権は妻を「懲戒し、奴隷として売り、追い出す等々」の権利を含むが、妻側の氏族に監視されるのである。
妻には「鍵の権力」という家政権限が夫から委任された。この論文ではかかれてないが、ゲルマンには「朝の贈物」という慣習があり、初夜の翌朝、花婿から花嫁にモーニングギフト(モルゲンガーペ)がなされ、それは鍵の権力の委任が含まれ、婚姻は完成する。花婿側は、花嫁の父にメタ、ムンディウスといわれる婚資を支払う。ちなみに花嫁の引き渡しはムント権が父から夫に移転することを意味する。
ゲルマン法に由来する花嫁の引き渡しは、教会挙式に取り込まれ、バージンロードの式次第がそれを簡略化したものといえる。
欧州では地中海沿岸が持参金型、アルプス以北は花嫁代償型
キリスト教については既に言及していることなので省略する。
近代市民社会でも夫権は同様である。
ナポレオン民法231条「夫は妻を保護し、妻は夫に服従する義務を負う」
なお231条は2004年5月26日の法律第439号により削除された。
著者は夫権の動揺は、1960年代以降の女性の社会進出としているが、夫権が動揺したのは比較的近年の現象なのであり、とくに前世紀末から今世紀にかけてじわじわ進行している事態なのである。今は世界史の転覆がなされるかいなかの瀬戸際にあるというのが私の認識である。
1−70明石一紀『古代・中世のイエと女性―家族の理論 』校倉書房古代・中世の
婿養子と入夫中継婚の歴史的事例は必ず引用するが、入夫中継婚については畠山氏のケース以外に、将軍家の竹御所と九条頼経の例もある。
1−71西谷正浩『日本中世の所有構造』塙書房2006年
長子単独相続制
武士の場合は史料上、嫡子単独相続を明記したものとして 宝治元年(1247)平朝秀譲状が最も古いが、石井良介を引用し、武家の単独相続への移行は、鎌倉末期から南北朝にはじまり、室町期に一般化すると述べる。
したがって貴族社会のほうが少し早い時期と考える
貴族層では、暦仁(りゅくにん)元年(1238)の藤原忠定置文 (藤原北家御子左流、歌人として著名な藤原定家の伯父にあたる人物)が最も古いとされ、次に仁治(にんじ)3年(1242)石清水八幡宮宇美宮家の房清処分状案とされる。
正応6年(1293)関白を辞した九条忠教による家督の内大臣師教宛の譲状は、「為興隆家門、不分譲諸子」として日記・文書・剣・平緒と荘園所領の全てを長子師教一子に処分したものである。これは忠教の父忠家の遺誡によるものなので、分割相続の停止は、忠家薨去の単独建治元年1175よりも早い時期とされるのである。
なお、遠藤珠紀が引用した文永10年(1273)の「小槻有家起請」は「所領事(中略)有家子孫中、伝文書仕朝廷之者、為其財主可惣領(後略)」も単独相続を宣言したものであるから、鎌倉時代後期を画期とみなす。
ただし、元享元年(1322)西園寺実兼処分譲状案は分割相続である(ただし、関東次を継がせた実衡を「家督之正流」として日記文書や氏寺妙音院を譲与している)。久我家が単独相続に移行したのは南北朝期(岡野友彦「中世久我家と久我家領庄園』続群書類従完成会2002』、勧修寺家も南北朝期(『中村直勝著作集第4巻』淡交社1978』とされている。したがって、
「貴族社会では、財産の単独相続は13世紀中盤にはじまり、南北朝期に一般化した」
10884 久武綾子『夫婦別姓』世界思想社2003年
10885 増本敏子・久武綾子・井戸田博史『氏と家族』大蔵省印刷局1999年
10886 江守五夫『日本の婚姻 その歴史と民俗日本基層文化の民族学的研究Ⅱ』弘文堂 1986
10887蒲生正男「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本―岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970年
10888大竹秀男『「家」と女性の歴史』弘文堂1977
10889江守五夫「婚姻の民俗からみた日本(公開講演会)」『民俗学研究所紀要』(通号20)1996
「レヴィレート婚というのは兄がなくなった時に弟が嫂をめとる婚姻で、日本では「嫂直し」とかいって1940年代まではさかんに行なわれていた。実際、戦争未亡人の再婚がどう行なわれたかというとことを、戦後間も時期に九州大学の青山道夫先生というか増俸の大先生が九州管内で調査されたことでありますが、半数以上が亡夫の弟と再婚することでありました」
10900五味文彦「在家・分業の構造『史学雑誌』79(5)1970
10901栗原真人「ボンフィールドL.Bonfieldの婚姻継承財産設定研究について」『阪大法学』133・134 1985
10902鎌田浩ほか「熊本県における家督相続復活決議と農家相続」『熊本法学』22号1977
昭和48年6月の熊本県菊池郡泗水町を皮切りとして熊本県下30町村で家督相続復活のための憲法改正要望決議が相次いで出され、これは昭和49年10月31日朝日新聞で報道されたのを皮切りに、広く報道されたのである。熊本県の政治的風土がたぶん保守的ということもあるだろうが、家制度を崩壊させた戦後民法改正に対する批判も根強くあったことを物語る。
この運動は県会議長、自民党県連幹事長であった荒木豊雄氏が個人的努力で推進したものである。同氏は明治憲法復元運動を行なっていた生長の家相愛会熊本県連合会顧問でもあった。
昭和48年6月16日熊本県菊池郡泗水町決議(出席14、欠席2、全員賛成)
憲法改正要望決議
次の事項を、法律で明定できるよう、憲法第24条を改正されたい。
一、家督相続の制度並びに相続権の優位性
一、家督相続人の直系尊属扶養及び祭具等の承継並びに祭祀主宰義務
右決議する。
(提案理由)
いまや、われわれの社会は、荒廃の途をたどりつつある。即ち老人問題、青少年問題等々深刻にして多様な諸問題を含む生活環境の荒廃を生起している。そのよってきたるところは、現憲法の個人の尊厳重視と私権優先指向のなかで、そのひずみとして平和な人間関係や社会連帯の意識を弱めたことにある。
特に農村社会における影響の深刻なるは、まことに憂慮すべきものあり。(中略)農村社会の基盤であった家族制度の崩壊と共に次第に活力を失い、もはや衰亡するもやもはかり知れざるときにある。そもそも我が国の農業は、家によって保たれ、農地も技術もも親より子に引継がれ、家族労働と、農村社会の相互扶助のなかで安定を得てきたものである。
このことは、農業の近代化をはばむ要因ともなったが、然し、このなかで育成された農村の貴重な社会資産を、現憲法は失のう結果を招くに至った。即ち、家を崩壊し、農業の継続を断ち、農業の基礎たる農地を分散し、そして農村における人のきずな、連帯意識、相互扶助の精神、引いては郷土愛、愛国心を稀薄にしてしまった。
ここにおいて当議会は、この状態を座視するあたわず、また今日の農業問題の根底にあるものは現憲法第24条による家の崩壊にあると断じ、その改正を要望し、ここに提案するものである。
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