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2015/11/03

民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 下書きその2(選択的夫婦別氏・夫婦別姓絶対反対)

川西正彦

 

 全くお粗末なことに、114日の最高裁弁論まで完成できずまだ下書きで半分もいってない。真剣さが足りないとのお叱りがあるかもしれないが、とにかくこの論文は完成させるようにする。年内にも判決という報道なので焦りに焦っているが、無駄にはならないはずだ。

 

下書き1   http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/7501-2b00.html

 

 

目次

Ⅰ 明治民法の夫婦同氏()制 梅健次郎の立法趣旨は正しい

 

Ⅰ)妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致しているとの立法趣旨は正しい。

 

1 出嫁女の婚家帰属(婚家の成員である)の立証

(1)(3)前回

(4)夫から妻に処分された家領は、他氏に流出しないという歴史的慣例は妻の婚家帰属性の論拠となる

 

ア 戸令応分条と公家法

イ 夫より妻に処分された家領が、夫の氏に還った例 

ケース1 道長→源倫子→頼通

ケース2 頼通→隆姫女王→祐子内親王(養女)→忠実

ケース3 基実→平盛子→(高倉天皇)→基通

(その他のケース)

 

(5) 夫婦斉体思想の受容による正妻制の確立と戦後の憲法24条による教会法的婚姻理念の継受

ア 夫婦斉体思想

イ 我が国における正妻制の確立と夫婦同氏慣行の一致

(ア) 一対一、差し向かいの夫婦像は中世後期以降

(イ) 例外―近代まで嫡妻制が確立しなかった皇室

(ウ) 正妻制が確立された戦国時代の公家では社会的呼称として夫婦同氏が定着した

A 後藤みち子説 B湯川敏治説

 

(4)夫から妻に処分した家領は、他氏に流出しないという歴史的慣例

 

 私は上記に述べた婚入配偶者は婚家に帰属するという人類学者の理論を、法制史や歴史学の成果と結び付けて歴史的由来を明らかにし補足するという作業を行いたいと考える 結論は、歴史的由来が深いので、妻の婚家帰属性を否定する夫婦別姓導入は、わが国の基本的家族規範から逸脱し、社会の凝集力となる根本的な規範を否定する。

 憲法理論として、社会の凝集力となる歴史的規範を否定するような違憲判断は行き過ぎであるゆえ、夫婦同氏制度は合憲とされなければならない

 

ア 戸令応分条と公家法

 

 律令相続法で妻の財産については、大宝令戸令応分条に「妻家所得奴婢、不在分限。還於本宗」とあり、古記は「若有妻子者、子得。无子者、還本宗耳」と注釈し、妻が生家から将来した所得は実子が得るが、子が無い場合は本宗に還されるとする。中世前期の一期相続と同じである。実際、永暦2(1161)に妻に子がないケースでの紛争で明法博士の裁定は「女子に処分するもの、女子亡ずれば、夫、妻の祖家に還す可きなり」[栗原弘1999 202]と裁定されている。

なお養老令は「妻家所得、不在分限」だけであり、唐令の「妻家並不得追理」(妻家所得は夫の所有に帰する)という規定を採用しておらず、古代は夫婦別財であったという女性史家学説の根拠の一つになっている。

しかし五味文彦[1982]は、明法家の法律書『法曹至要抄』『裁判至要抄』を根拠として、公家法では「夫婦同財」が,遅くとも12世紀初頭には確立したという。「夫婦同財とは、妻の財産を夫が「主」として「進退」することを意味する。‥‥夫が妻にかわって、妻の財産所領を領知・知行したのが、夫婦同財の内容であった」。また中世以降は,結婚した娘(嫁女)に対する生前譲与を親が取り消す権利(悔返権))が否定され,妻に対する実親の親権が著しく後退していったとする。

 

一方、吉田徳夫[1987]は五味説を批判し、「相伝の由緒は女性にあり、この点においては夫婦別産制である」とする。栗原弘[1999]も〔嫡子単独相続に移行する〕南北朝期までは別産で、妻の財産は夫のそれとは同化しないとしている。中世前期までは大筋で認めてよいだろう。

 

しかしながら、夫から妻へ家領が処分される事例が1113世紀初期の分割相続時代の摂関家にみられる。これは正妻制の確立とも関連していることだが、義江彰夫[1967]が抽出した事例では、下記のとおり夫から妻に処分された家領は、夫の氏の嫡流に還されているのである。

義江は、「夫側から妻・嫁への処分がなされたばあい、一期の知行ののち妻・嫁の生家に伝領されることなく父側にもどさるべきことは、すでに律令法(戸令応分条)さえ認めるところであり、摂関家においても古くから一貫して慣習として通っている」と結論している。

明法家の見解は示されてないが、 夫より妻に処分された財産は、妻の生家に流出しないというのが慣習というのである。とするならばこの慣例は、妻の婚家帰属の根拠の一つとなる。

この事例を取り上げた理由は、夫婦別氏()推進論者が、夫婦同氏を家制度の残滓として攻撃し、夫に従いたくない、舅姑を親とも思いたくもないし仕えたくない。夫と同じ墓に入りたくないなどと主張する一方で、法定相続で夫からがっつり遺産(つまり夫家由来の財産)を取得するのは当然だという、とても我儘で欲の深い反倫理的思想を展開するからである。

ローマの結婚は夫権に服するすマヌス(手権)婚が通例だが、夫権に服さない結婚のあり方もあって。これを無夫権婚という。ローマが持参金型結婚のため、生家の父が持参金による生家の父が婚家への財産の流出を渋るために広がったものである。今日の事実婚に近い。この場合、寡婦となっても夫からの財産分与、終身的経済保障はない。女性にとってはみじめなあり方が、無夫権婚であった。

ところが、夫婦別姓論者の主張は、ローマの無夫権婚とは明らかに違う。婚家に従属するのはいやといいながら婚家の財産であった夫の遺産は奪い取ってしまおうとするからである。

藤原基実から正妻平盛子の相続の例でも明らかなように平清盛ですら、摂関家領を横領することはしなかったし、できなかったのであって、それをやってしまおうとするのが現代の夫婦別姓推進論者であり、このように反倫理的な主張を最高裁が認めるということは到底許されないというべきである。

 

 

 イ 夫より妻に処分された家領が、夫の氏に還った例 

 

ケース1 道長→源倫子→頼通

Photo_2

 

梅村恵子[2007 158]によれば藤原道長の正妻は源倫子(左大臣源雅信女)であり、倫子は親への求婚と許可を得、儀式婚をあげた上で同居に至ったのであり、源明子(左大臣源高明女)は公的には妾、生涯別居の次妻、副妻と呼ばれる存在である。

道長薨後、男子頼通は、父の遺言に従って最良の家領を法成寺に寄進したほか、膨大な家領すべてを倫子に処分する。道長の遺言によれば倫子一期ののちは女子二人、彰子・威子に処分されることになっていたが、実際には倫子ののちは頼通が伝領している。彰子・威子が指定されていたのは女院、后位にあるためだと思うが、実際は頼通である。これが摂ろく渡領の基盤と考えられている。

 

ケース2 頼通→隆姫女王→祐子内親王(養女)→忠実

Photo_3

 

頼通から正妻の隆姫女王に処分された家領は、邸宅の高倉殿に附属して、隆姫の養女祐子内親王に伝えられたため高倉一宮領という。内親王は長治二年(1105)家領処分を行わないまま薨じたので、翌年摂政忠実[i]は、「宇治殿(頼通)所分旨」を根拠に、この所領を宣旨により認定され入手、曾祖父の家領であったものを取り戻した。

高倉一宮領は忠実より女の泰子(鳥羽后)に伝えられ高陽院領となり、基実が高陽院の猶子とされたため、基実に伝えられた[川端新2000][ii]

 

ケース3 基実→平盛子→(高倉天皇)→基通

Photo

 

関白基実は父忠通から摂関家の基幹所領である京極殿領(摂関家の年中行事の財源となる中核的所領群)を相続し、高陽院(鳥羽后忠実女泰子)の所領も相続していたが、遺領処分状を作成せず、仁安元年(1166年)赤痢で24歳という若さで薨じた。男子基通(母は藤原忠隆女)7歳と幼少であったことから、摂政は弟の松殿基房が継承し、氏長者領のみ相続したが、その他の膨大な基実遺領は、上皇の院宣によりに家政機関を有していた基実の正妻平清盛女11(北政所盛子)に中継ぎ的に相続させたケースである。

上皇の裁断は清盛に諮ったうえでのものだが、よくいわれる平氏が摂関家領を横領する目的というのは古い学説であり、今日では否定されている[iii]。結果的に基実遺領は実子で盛子の養子とされた基通に伝えられた。

従って、妻に処分した家産は異姓に流出しないことを示したモデル事例である。正妻に処分される場合の意義を確認できるものとして評価すべきである。

 

○治承3年政変の意義

治承3(1179)6月盛子が24歳で薨じた際、後白河法皇は清盛不在(芸州厳島参詣)に乗じて摂関家領を没収し、高倉天皇の管領とする。これは盛子が高倉天皇准母だったことによるが、目的はすでに十年以上摂関職にあった基房を摂関家の継承者にするためだった。清盛は激怒し、養孫で婿でもあった基通への相続にこだわった結果が治承3年の政変(後白河院政停止、高倉親政開始、関白基房罷免、基通関白就任)である[河内2007]。

摂関家の嫡流争いはこの後も続くが、最終的には文治二年(1186)の文治争論の院の裁定により、基通が盛子より伝領した摂関家領の相続が確定し、摂関家嫡流近衛家の家領となる[iv]

結果的に分割相続の時代であっても京極殿領という摂関家の中核所領は師実→()忠実→()忠通→()基実→(正妻)平盛子→基通と直系で相続され、中世的「家」が成立したとみてよいと思う。

 

ケース4 忠通→源信子→基通

 

所領として少量だが、忠通の妻源信子に処分された家領は、信子の孫にあたる基通が相続している。

 

ケース5 基通→最舜女→兼基・円静・円基・静忠・実信

 

基通は、家領の3分の2を長子の摂政家実に処分するが、その他は細かく分割相続され、正妻ではないが家女房といわれる僧最舜女に10箇所を処分している。しかし最舜女は、生家に勝手に処分することは許されておらず、基通からいちいち許可を得て、実子に分割処分している。実子に分割処分された家領のほとんどは、一期の後、近衛家流の近親の僧侶か、近衛家嫡流に戻されている。

 

(5) 夫婦斉体思想の受容による正妻制の確立と戦後の憲法24条による教会法的婚姻理念の継受

 

ア 夫婦斉体思想

 

よくいわれるように夫婦別姓が夫婦の一体性を損なうという指摘は正しい。これは、出嫁女の婚家帰属性というテーマと別にしてもよかったが、この範疇で扱うこととする。

私は、夫婦の一体性の根拠となる思想の重要性、すなわち文明規範のとしての価値が強調されてないことが問題であると考える。

世界的に一夫一婦の単婚制の理念といえば、キリスト教がそうたが、実は中国の儒教倫理も一夫一婦(多妾制)であり、嫡妻の権利を重んじている点では洋の東西の文明規範は類似したものとなっているのである。

むろん江守五夫のように、我が国の基層文化には北方民族の流入により古代より嫁入婚があったという学説もあるが、正妻制の確立は、やはり令制以後の中国の儒教思想の影響によるところが大きいとみるべきだろう。

我が国の家族道徳の基本は孝子・順孫・義夫・節婦(総じて「孝義」)という儒教道徳である。律令国家の統治理念は儒教道徳による民衆教化なのである。それで日本は安定した社会の基盤を形成してきたはずだ。

儒教は親孝行というように親子関係を重視していると考えがちだが、偕老同穴の思想にみられるように、夫婦の一体性も重視していることに注意したい。

そしてそれは、福沢諭吉が「古来偕老同穴は人倫の至重なるものとして既に已に其習慣を成し、社会全体の組織も之に由りて整頓したることなれば、今俄に変動せんとするも容易に行はる可きに非ず」『福翁百話』と言ったように、それは近代社会にも通じる夫婦倫理といえる。

令制では、儀制令春時祭田条の〈郷飲酒礼〉、戸令国守巡行条の〈五教教喩〉や、賦役令の孝子・順孫・義夫・節婦の表旌などによる家族道徳の形成により、村落社会の秩序を確立した。婦人道徳が民衆に浸透していったのは節婦の表旌に多くの記事がみられる9世紀と考えられる(賦役令では孝子・順孫・義夫・節婦の聞こえがある者を太政官に報告し、天皇へ奏聞を行い、その家の門前か所属する里の入口に孝状を掲げてその人物と同一戸の全ての公民に対する全ての課役を免除した)

節婦とは「願守其(夫)墳墓以終天年」「其守節而有義」「謂、夫亡後葬舅姑負土、営墓、慕思不止也」とされる。

(一例をあげると。三代実録、清和天皇、貞観七年三月廿八日巳酉条 近江国に言えらく、伊香郡の人石作部廣継女、生まれて年十五にして、初めて出でて嫁ぎ、卅七にして、夫を失ふ。常に墳墓を守り、哭きて声を断たず、専ら同穴を期ひて再び嫁ぐに心無し。其の意操を量るに節婦と謂ふべし』と。勅あり『宜しく二階を叙して戸内の租を免じ。即ち門閭に表すべし』)

つまり節婦には単に二夫に仕えずという貞操概念だけでなく、偕老同穴という夫婦の羈絆性を重視する価値観が含まれており、キリスト教の夫婦の伴侶性を重んじる価値観にも通じている。

(もっとも我が国の婦人道徳の形成において特徴的なのは節婦にみられる儒教的倫理と仏教が混淆して、貴人の女性の出家という習慣がはじめは貴族、後に武家に広まった。初例は9世紀の仁明女御藤原貞子と考えられる[v]。)

 

もちろん、儒教の家族道徳はこれだけではない。七出の状も戸令に定められているし、舅姑らしたがう道徳は公定イデオロギーだったし、これ徳川時代まで寺子屋の女子教育にいたるまで一貫したものである。むろん三従四徳も基本的なものである。また「修身・斉家・治国・平天下」という『大学』のことばが表すように、礼の基本として、社会の基本単位としての家族のあり方を繰り返しとくのが儒教である。それは我が国に継受された規範的な価値である。

 

 

しかし、出嫁女の婚家帰属性という観点では、近年の王権論の流行で注目された中国の夫婦斉体思想に着目する必要がある。

 

「妻は家事を伝え祭祀を承く」戸婚律二九条疏

「夫れ祭なるものは、必ず夫婦これを親らす」『禮記』祭統

夫婦単位の祖先祭祀という意味が含まれている。

基本的な文献として谷口やすよ[1978]であり、これは漢代の太后臨朝の根拠を明らかにしたものである。皇帝が帝嗣を定めずに崩御の場合、皇后が皇帝に代わる者として皇帝の荷う王朝創始者の徳を帝嗣に継承させたとし、漢代の皇后の役割を高く評価した論文であり、多く引用されている。

『儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためであるとする。また『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされ、さらに同書祭統においては、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえるとするのである。

後漢時代には皇后珊立に際して、「皇后の尊、帝と體を齊しくす」『績漢書』禮儀志劉昭注引蔡質「立皇后儀」)という詔が発せられたように、皇后は皇帝と一体な存在とみなされていた[保科季子2002]。

法制史家では滋賀秀三が夫婦斉体思想を説明していた。「異なる「宗」出身の妻は、夫と共に夫が属す宗廟祭祀の主体となり、子孫から孝養を尽くされる者となる「婦女雖複非丁、拠礼与夫斉体」(名例律二七条)と、夫婦斉体=一体とみなされる。ただし、夫婦一体といっても「夫者婦之天也」(名例律六条)というように、あくまでも夫の人格に妻が包接されるという意味での一体であって、夫が生存する限りは妻の存在は夫の陰に隠れてみえない。ようやく寡婦になったときには夫の代位者として夫の有していた諸権利をもつことができるが、これは妻のうちに亡夫の人格が合体したことに帰属する‥‥。[梅村恵子2004]」

つまり中国の宗法では夫婦一体で祭り祭られる存在であり、これは日本でも世代仏として夫婦一対の位牌となることで基本的に我が国に継受された思想といえるし、まさに婚家帰属性を明らかにしている思想である。

夫婦別氏()を批判する立場では偕老同穴等の我が国が古来より夫婦倫理として継受され重んじられていたまさに夫婦斉体思想の崩壊をもたらすと観念されるからである。

 

イ 我が国における正妻制の確立と夫婦同氏慣行の一致

 

(ア) 一対一、差し向かいの夫婦像は中世後期以降

 

夫婦斉体思想にもとづく正妻制はいつ確立したのだろうか。

我が国の律令法では、貴族層に対して妻=正妻を届け出ること、嫡子と庶子との区別を設けることを義務づけ、蔭位の制度も嫡子とを区別して適用される。制度上、正妻制ははじめからあった。

しかし九世紀中葉までは前代との慣習を引きずって正妻と妻との間に社会的地位の違いはみられず、子どもの出身の位階についても、正妻の子どもと他の妻の子どもと区別されることがなかった[梅村2007[vi]

貴族層において正妻制が一旦確立した時期として、梅村[2007]は関白基経の子供たちの時代つまり10世紀としている。

 

服部早苗[1991]によれば我が国の元服儀礼は、天皇とその周辺から政治的社会的地位の確立過程で出現し、それが日本的特色であったこと。位階は王権との距離をあらわし本来律令では臣君に仕えて忠をつくし功を積んでから授与されるものであった。この位階授与原理は8世紀には確実に遵守され、勅授すら21歳にほぼ蔭位どおりに授与され、祥瑞出現の特例でも20歳だった。古代においても本来の意味での成人は21歳だったのである。

 つまり、元服と叙位は別であった。ところが平安時代になるとこの原則が破られる。

転換期となったのが関白基経の嫡男時平と、その弟の仲平・忠平の元服叙爵である。16歳の時平は光孝天皇の仁和二年(886)正月二日仁寿殿において「天皇手ずから冠をとって」元服儀礼が行われると同時に正五位下に叙位がなされた。宸筆の位記には「名父の子、功臣の嫡」と叙位理由が記載され、このような天皇御自ら冠をとるという儀礼はこの三兄弟に限られた空前絶後の殊遇であり、基経の権力の絶頂を思わせるが、こののち元服儀礼は父の功績、政治的社会的地位の父子継承表明の性格が濃厚なものとなるのである。

重要なことは時平・忠平・仲平の母が人康親王女(仁明二世女王)であり、人康親王女が正妻として扱われており、父子の地位継承と正妻制がリンクしていて、異腹の兼平とは差がつけられている。

藤原道長は左大臣源雅信女倫子を正妻とし、左大臣源高明女明子は次妻、副妻ともいうが公的には妾であった[梅村2007 。源倫子を母とする頼通、教通だけが元服後の最初の位階として従五位下を授けられ、即日昇殿を許されており、父と同じ地位、摂関を継承している。

明子を母とする頼宗、顕信、能信、長家とは明らかに差別化されているので、正妻制が実質を有していたといえる。

しかし、一般には正妻制は容易に確立せず、実質後継男子を生んだ母親が一家の女主人とされる傾向が強かった。梅村[2007]によれば、一対一、差し向かいの夫婦像が一般的になるのは、中世後期であるという。つまり日本において礼記等の夫婦斉体思想が一般的に受容されたのが、中世後期になってからだということである。

そうすると公家や武家が嫡子単独相続の家に移行したのは、おおよそ南北朝期とみられるから、その時期と符合する。単独相続を特徴とする日本的「家」制度の成立と、正妻制の確立はリンクしているのであり、正妻が婚家に帰属するものである以上、婚家帰属性を否定する夫婦別姓は、一夫一婦の正妻制(嫡妻観念)を変質させることになる。一夫一婦の単婚の理念にもとづいている今日日の法律婚制度の核心にかかわることで、夫婦別姓が、社会の凝集力となる規範を崩壊させるものとして容認できない理由の一つである。

 

(イ) 例外―近代まで嫡妻制が確立しなかった皇室

 

ただし、前近代において正妻制が確立しなかった例外がある。皇室である。むろん、皇后とは天子の嫡妻と定義されるが、令制皇后は実態としては政治的班位である。円融后中宮藤原遵子は女御より直接皇太后にのぼせられた藤原詮子(一条生母)の女房から「素腹后」と嘲られたが、東三条院藤原詮子は厳密にいうと皇后でなかったから嫡妻でない。円融天皇の嫡妻はあくまでも中宮藤原遵子であるはずだが、嫡妻たる藤原遵子をさしおいて皇太后にのぼせられたのは藤原詮子である。しかし太上天皇に准じた身位である女院宣下された詮子を側妾などというのは全く憚られることであって、つまり女御所生の親王は有力な皇位継承候補者たりうるのであって、この意味では皇后と女御にはさほど大きな格差がないといえる。この在り方は嫡妻権が明確な厳密な意味での婚姻家族ではない。

立后が政治行為だというのは、例えば光明皇后は聖武践祚の6年後(長屋王排斥後)、橘嘉智子が嵯峨践祚6年後、藤原穏子にいたっては、皇太子保明親王が薨じた緊急事態において醍醐践祚の26年後の立后だからである。

政治的な理由で一帝二妻后の例もある。また政治的理由で皇后が里第で籠居を余儀なくされるようなケースもある。むしろ前近代のいわゆる天皇制の特徴は嫡妻たる皇后を冊立せずとも、正配たる配偶者がなくても後宮女官が側妾の役割を果たして続いていくような柔軟性があることだろう。この点は近代の皇后のように嫡妻権の明確なあり方(大正天皇の公式の母は昭憲皇太后であって柳原愛子ではない)。嫡妻権が明確で皇后と妾の格差が明確な中国王権のあり方とも違う制度である[vii]

 

 

 

(ウ)正妻制が確立された戦国時代の公家では社会的呼称として夫婦同氏が定着した

 

A 後藤みち子説

 

 後藤みち子[2014]によれば、先行研究として脇田晴子を引用し、中世における嫁取婚の成立は「家」の成立を意味し、嫁取婚形式の「家」は基本的には一夫一妻制が成立し、正妻の地位が確立するとし、梅村恵子を引用し平安中期の正妻制は、その後根付かず、室町時代になっても天皇家、宮家、摂関家に正妻はおかれなかったが、戦国時代になって正妻がおかれるようになるとする。

  実際、室町時代の公家日記で「嫁娶」の記事が少ないのである。戦国時代になると婚姻儀礼の記事が多くみられ、これが正妻の確立を意味すると考えられている。

  正妻の確立=嫁取婚とすると、西洋的な一夫一妻制の確立=嫁取婚であり、嫁取婚を攻撃する夫婦別姓論は、正妻、一夫一妻制度に対応した婚姻のあり方を否定するもので、婚姻制度の変質を意味することとなるのである。

  後藤によれば戦国時代に嫁取儀礼が公家日記に書かれているのは、「家」の継承者である「嫡子」に正妻を迎える儀礼として重視され、誰がいつだれを正妻としたかを公表する意味もあったとする。

  嫁取儀礼後「正妻は夫方の父母や親族と対面し、三献で祝うことで夫の親族として認められたことになる。また「家」の家司と祝いの宴が催されるが、これは「家」の家司たち「家」の継承者の正妻を披露したことになり、正妻が「家」の一員と認められたことになる。」婚礼のあり方としては武家の文化との混淆があるかもしれない。

 また後藤みち子[2009]中世後期の貴族は基本的に夫婦同苗字というか夫婦同じ家名で称されるのが普通であるとしている。摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。

清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。近衛尚通(14721544)の『後法成寺関白記』によると久我通信正妻を「久我女中」と称し、徳大寺実淳妻は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。

 西洋でも○○家出の○○卿夫人というように、夫の家名や爵位にちなんで称されるのと同じ感覚である。例えばクリフォード・チャタレイ准男爵の妻をチャタレー夫人というように。

一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。姑と嫁は東-西、南-北と対になって形づけられた。

三条西実隆(14551537)『実隆公記』では中御門宣秀正妻を「中御門西向」と称し、甘露寺親長(14251500)『親長卿記』では中御門宣秀の父である中御門宣胤の正妻を「中御門東向」と称している。姑が「東向」で嫁が「西向」である。

三条西家の家妻の役割が検討されているが、使用人の給分の分配、食料の手配・管理、追善仏事の運営、連歌会・和歌会の設営があげられている。近現代の庶民の家の主婦の役割に通じるものがある。このように公家社会において家妻は、家政・家職の経営の役割を分担し、婚家の名字を冠して指称された。差し向かいの夫婦像であり今日の婚姻家族とほとんど同じあり方といえる。

当時においても女叙位の位記は所生の氏であろうからそのような意味では、夫婦別氏だが、それは律令国家では改賜姓が天皇大権とされていて、位記や口宣案は源平藤橘等の古代的姓氏と実名であったが、実名忌避の慣習から、通常社会生活では用いないし、そもそも明治4年の太政官布告で、本姓といわれる源平藤橘等の古代的姓氏を公用で用いてはならないことになって、それ以降は藤原朝臣実美ではなく三条実美、越智宿祢博文ではなく、伊藤博文と、苗字を使うこととなり今日、姓とか氏とか称されているものは苗字、家名としての称号であるから論外としてよい。

戦国公家の社会的呼称は、婚家の苗字+妻の社会的呼称(女中、向名)であるから実質的には夫婦同氏()の感覚に近いものと認識できる。

正妻制(嫡妻)の確立=妻の婚家帰属の明確性=夫婦斉体思想の受容=一対一差し向かいの夫婦像=「家」の成立=夫婦同氏(苗字)とリンクして理解することができる。

ゆえに婚姻家族の基本理念にかかわる夫婦同氏はゆるがせにできない事柄なのである。

 

B 湯川敏治説

 

戦国時代の公家は重要な論点なので後藤みち子以外の研究者からも引用しておく。

湯川[2005]公家日記での夫婦同氏の呼称について解説しており参考になる。

 

公家日記で自己の室、他人の室に対してどのように称しているか

 

三条西実隆(14551537)の『実隆公記』(いうまでもなく当代一流の文化人である)

 

自分の室を指して 室家(しっか)、青女 「今日室家、小女等向勧修寺亭」

 「青女向勧修寺亭」

 他人の室に対しては「滋野井室家今日帰宅」「今夜勧修寺中納言新嫁云々」「入夜鷹司亜相殿北方来臨」「九条北政所来臨」

  

 婚家名で称しており今日の夫婦同氏と同じ感覚である。

 

甘露寺親長(14251500)の『親長卿記』(後土御門天皇がもっとも信頼した廷臣、戦国時代の朝廷の枢機に参画している)

 

 中御門宣胤に嫁した女を指して「東向予息女、中御門室家今日帰大津」

 

甘露寺元長(14561527)の『元長卿記』

 

 中御門宣胤に嫁した姉を指して「中御門大納言室、予姉也、東向入来」

 

自己自身の娘、姉であっても、婚家名で称していることから、夫婦同氏のならわしと理解してよいと考える。(以上18頁)

 

次に摂関の正妻を北政所と称するが、呼称勅許か必要であるとしている。

三条西実隆の女保子は九条尚経に嫁いでおり、実隆が内々に北政所勅許を朝廷に働きかけていたが、嫁いで8年後に治定された。それまでは「九条姫御料人」「九条御料人」と記されている。

 

三条西実隆の女であっても自ら「九条御料人」と記しているのだから、これも夫婦同氏のならわしと理解できるのである。64頁

 

 ○近衛尚通の正妻(北政所と称される)、徳大寺実淳女維子の里帰りについて

 

維子が近衛家に嫁いだのは17歳の時、明応6年(1496)である。7人の子どもの母である。定期的な里帰りは正月と七月である。

正月四日に実家の徳大寺家から酒、鏡餅等が贈られてくる。里帰りは五日で、近衛家から実家へ両種二荷が贈られるならわしだった。これが明応7年から永正4年(1507)まで、永正5年以降は正月四日に里帰りし、日帰りで酒。鏡餅等を持ち帰る。日帰りなのでほとんど義理のつきあいになったように思える。

七月は盆前の七月十一日の生見玉行事である。定期的な里帰りは永正17年までそれ以降はないがその理由はわからない。不定期の里帰りで理由のわかっているものは、弟の元服、徳大寺家の花見、父の病気見舞い、父の葬礼であるが、さほど交流は多くないように思える。

他家との社交生活は、公家よりも武家と親しかった。公家では久我家ぐらい。細川氏一族とくに細川高国が頻繁に近衛家を訪れ、家族ぐるみの交際があり、高国から猿楽見物の招待もされている。また娘を将軍家に嫁がせた関係で足利義晴とも交際があった。摂関家の正妻の役割としては、当主不在時に、当主代理として来客と面会することとしており、近衛家の成員として行動しており、婚家帰属性は明確である。

 

文献表

 

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[i]忠実の時代に摂関家領が集積されるのは、忠実自身に原因があり、太政官機構を統率できず受領監察制度が機能しなくなって律令国家的給付(封戸・位禄等)が崩壊し、経済基盤が家領と知行国に移行していったためである。

[ii] なお高陽院領など女院領の意義について川端新は、忠実以降、摂関の職が院の恣意によって左右され、本来藤氏内の問題である氏長者も宣旨によることになり、摂関家の政治的地位が不安定となったことから、政局に左右されず、荘園を集積できる女院という身位を利用して、家領の保全を図ったとする。[川端2000

[iii]

平清盛が摂関家領を奪おうとしたというのは間違いである。

 

関白基実は藤原忠隆女(大国受領系院近臣家・兄が平治の乱の謀反人信頼)との間に男子基通をもうけていたが、長寛二年(1164)平清盛次女9歳を正妻とする(1167年准三宮宣下で実名盛子となづけられ、高倉殿北政所と称された。2012年NHK大河ドラマの登場人物でもあった)

その2年後仁安元年(1166年)基実は赤痢のため24歳で夭没、基通は7歳と幼少のため六条天皇の摂政には基実の弟殿基房がついた。

この遺領処分は清盛にも諮ったうえ、後白河上皇の裁断により、氏領である殿下渡領等をのぞく家領のいっさい(京極殿領・高陽院領その他の家産)が、子のない11歳の寡婦盛子に伝領されることとなった。盛子には家政機関が附置されていたためである。

この事件は、平氏による「摂関家領横領」と称されることがあるが、清盛が摂関家領を奪おうとしたというのは戦前の村田正言や戦後の石母田正などの古い学説であって、今日では否定されている。治承3年盛子が24歳の若さで薨じたとき、「異姓の身で藤原氏の所領を押領したので春日大明神の神罰が下った」という世間の噂があった(『玉葉』治承3618日条)。しかしこれは浮説にすぎない

もっとも樋口健太郎[2011]がいうように、平氏が一門や家人を摂関家の家司や職事とし、それに指示を与えることで間接的に家産機構を掌握したとはいえる。また清盛が摂関家の大殿の立場を踏襲し、いわば摂関家を包摂したことが平氏の政治権力を正当化することになったとはいえるだろう。

しかし樋口[2005]によれば、そもそも基実が盛子を正妻に迎えたのは姻戚関係で軍事警察権を掌握した清盛を後見人とすることにより摂関家内の自身の立場を強化し、嫡流としての地位を守るためだったのであり、「盛子の相続」は「基実の嫡子である基通への中継ぎとしての性格を有して」いる「彼女はまさに嫡流である基通の後見として、その『家』を受け継ぐ位置にあった」樋口[2011]とする。

  河内祥輔[2007]も、兼実も盛子の相続が、春日大明神の神意に反しないとの見解であった。盛子が「仮の伝領の人」であり、基通が「宗たる文書・庄園、伝領せらるべきの仁」とみなしていたという。基通は、盛子の養子とされたのであり、夫の遺産を妻が相続し、それを亡父の実子に譲るという方式である。

実際、北政所盛子は家長代行として忠通の忌日仏事をはじめ摂関家の仏事を主催していた。しかも兼実、皇嘉門院(崇徳后、忠通女藤原聖子)、基実母源信子もこの仏事に関与し、盛子はその中心にいたし、仏事や寺院の管領権も有していたというのである[樋口2001]。正妻である盛子は明らかに摂関家に帰属しているとみるべきである。このことは、後述する中国の夫婦斉体思想が我が国にも浸透したことを意味している。

 

[iv]文治二年(1186)の文治争論とは、源頼朝が後援する兼実が 基通に代わって摂政に就任したため、頼朝は、基通のもつ摂関家領のうち高陽院領以外の家領、つまり最重要所領群である京極殿領を兼実に移すよう圧力をかけたものである。後白河院は拒絶、争論の結果後白河院の庇護のもと基通の主張が通り、この結果、氏長者の領と家の領の線引きが流動的だったあり方に終止符を打ち、近衛家と九条家の家領の区分が確定する[川端新2000]。兼実は実子の良通が皇嘉門院(崇徳中宮藤原聖子)の猶子であったため皇嘉門院領は相続したが、九条家の基幹所領はこれだけで、それ以外は幕府との友好関係などから増やしていったものとみられている。

法皇が頼朝の要求を拒絶したのは道理でもあるが、基通が平家を見捨て法皇に接近したこともある。「君臣合体の儀」と揶揄された男色関係も保身術の一つだろう。

 

[v]我が国の婦人道徳の形成において特徴的なのは節婦にみられる儒教的倫理と仏教が混淆して、貴人の女性の出家がみられる(この慣例は九世紀に成立したとみてよい)。ここでは婦徳が讃えられている二人のキサキ、仁明女御藤原朝臣貞子と清和女御藤原朝臣多美子のエピソードを引用する。

 

 女御藤原貞子出家の女性史上の意義

 

 藤原貞子(仁明女御、父右大臣藤原朝臣三守、母不詳、成康親王・親子内親王・平子内親王の生母、天長十年十一月従四位下、承和六年正月、従三位、嘉祥三年七月、正三位、貞観六年八月薨。贈従一位、仁明天皇の深草山陵兆域内に葬られる)薨伝に「風容甚だ美しく、婉順なりき。仁明天皇、儲弐と為りたまふや、選を以て震宮に入り、寵愛日に隆し」と見え、仁明の東宮時代に結婚、年齢は不明。文徳実録仁寿元年二月丁卯条に「正三位藤原朝臣貞子、出家して尼となる。貞子は先皇の女御なり、風姿魁麗にして、言必ず典礼なり。宮掖の内、その徳行を仰ぎ、先皇これを重んず。寵数は殊に絶える。内に愛あるといえども、必ず外に敬を加う。先皇崩じて後,哀慕追恋し、飲食肯わず。形容毀削し、臥頭の下、毎旦、涕泣の処あり。左右これを見、悲感に堪えず、ついに先皇のために、誓いて大乗道に入る。戒行薫修し、遺類あることなし。道俗これを称す」とあり(大江篤「淳和太后正子内親王と淳和院」大隅和雄・西口順子編『シリーズ女性と仏教1尼と尼寺』平凡社1989)、天皇のキサキで崩後出家し尼となった先例として桓武女御橘朝臣常子の例があるが、貞子は序列筆頭の女御なので(仁明天皇は皇后を立てていないので貞子が序列最上位のキサキ。文徳生母つまり東宮生母の藤原順子より位階上位)貞子の出家は女性史的にみて決定的な意義がある。父藤原三守は崇文の治の大立者であり、仁明生母の太皇太后橘嘉智子の姉橘安万子を妻としていることもあり、仁明天皇とはミウチ同然であるが、三守がもう少し長命で(承和七年薨-不審説もある)、承和の変さえなければ恒貞親王の次の候補として成康親王の可能性もあったと私は考える。

 

 女御藤原多美子出家の意義と婦人道徳

 

 藤原多美子(清和女御、父右大臣藤原朝臣良相)薨伝は概ね次のとおり「性安祥にして、容色妍華、婦徳を以て称さらる。貞観五年十月従四位下、貞観六年正月清和天皇元服の夕選を以て後宮に入り、専房の寵有り、少頃して女御、同年八月従三位、同九年三月正三位、元慶元年十一月従二位、同七年正月正二位、仁和二年十月薨。徳行甚だ高くして中表の依懐する所と為る。天皇重んじ給ひ、増寵他姫に異なり。天皇入道の日(清和上皇の出家-元慶三年五月)、出家して尼と為り、持斎勤修す。晏駕の後、平生賜りし御筆の手書を収拾して紙を作り、以て法華経を書写し、大斎会を設けて恭敬供養しき。太上天皇の不眥の恩徳に酬い奉りしなり。即日大乗会を受く。聞きて聴者感嘆せざる莫し。熱発して奄ち薨じき」

 多美子は清和天皇の元服加冠の儀の当日に後宮に入って、そのまま入内、女御となった。帝最愛の寵姫であったが皇子女をもうけることができなかった。

 貞観18年清和天皇は二十七歳で上皇権を放棄するかたちで退位された。退位は藤原基経の策略とみなす説(太田英比古「清和太上天皇の出家事情と水尾山寺隠棲(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)」『政治経済史学』107、108、109)がある。上皇の封戸は財政難のため半減とされたのであり、出家せざるをえないようにしむけられたのかもしれないが、いずれにせよ清和上皇の出家に従って、女御藤原多美子は出家して尼となった。夫唱婦随これほど美しい婦人道徳はない。出家されてほどなく元慶四年上皇は崩御になられたが、その後、多美子は平生天皇から賜った手紙を集めて漉き返し、その紙に法華経を写経して供養している。この時代には脱墨技術はないので、漉き返しを行う紙の色は薄い黒色となった。太上天皇の不眥の恩徳に酬い奉り、それを聞いた人々は感嘆したが、多美子は熱発して亡くなってしまったというのである。ここに貴人の女性の婦人道徳とはこうあるべきだということが示されている。 

[vi]飛鳥白鳳時代の結婚は緩かったのではないかと思わせるものとして県犬養橘宿禰三千代と藤原不比等の結婚である。

 県犬養宿禰三千代は出仕し天武12年(683)ころ敏達天皇曽孫の美努王と結婚し葛城王(橘諸兄)佐為王(橘佐為)、牟漏女王を生んだ。ところが持統八年(694)美努王が大宰府率に赴任する際に三千代は同行せず、飛鳥に残ったが不比等と再婚した。

三千代は阿閉皇女(元明)付きの女官で持統上皇の信任厚く、不比等にとって有益な結婚だった。戸令二七先姧条「先ず姧してむ、後に娶きて妻妾と為らば、赦に会うと雖も、猶し離て」の趣旨からすれば、違法であるがお咎めはなかった。

[vii]中国では、たんに皇帝生母であるだけでは政治権力はない。国母とは日本のように天皇生母のことではなく、皇后なのである。北魏のように皇帝生母は死を賜ることさえある。皇帝権力を代行できるのは皇帝生母でなく皇帝の公式の母である先帝皇后である。漢代の太后臨朝しかり、宋代の垂簾聴政しかり。清の西太后が例外だが、それでも先帝皇后である東太后より席次を上回ることはできなかった。


 

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