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2015/11/29

民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 下書きその6(選択的夫婦別氏・夫婦別姓絶対反対)

Ⅱ 9698%が夫の氏を選択する慣行が性差別という主張は、我が国が準父系の出自形式の社会構造にあり、大化の改新の男女の法以来の法制的根拠を有するものであるから、「我千古ノ国体」の否定であり、母系社会では私有財産制を発達させることができず、文明世界は原則どこでも父系出自形式の社会なのであるから文明の否定という結論にいきつくので容認できない。

 

 

1 9698%が夫の氏となる理由

 

 

 

9698%が夫の氏を選択する慣行は、第一に我が国の社会構造が準父系の出自形式をとるためである。

 

人類学の大御所である清水昭俊は、「家」を出自集団descent group、それも分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的であるとし、さらに「家内的親族集団とりわけ家族を内包とし、家内的集団と親族的機能集団を、あるいはさらに機能的親族集団が何らかの機能的関係(一族としての連帯関係など)に取り込むことのできる範囲の(遠い)親族を外延とする概念」を表す用語として日本語では「家」、欧語の再広義でのfamilyないしその同系語、あるいはhouseないしその同系語が適当」とも述べている。これは、日本の夫婦同姓(家名)と西洋のファミリーネームが近似した概念であるという根拠となる。

 

したがって、いわゆる核家族であっても「家」といえるのである。家族は共住であることを要件としないのがレビィ=ストロースでの見解であり正しい。

 

したがって、いわゆる核家族も機能的親族集団との連帯関係を否定するものではないから「家」といえるのだ。盆・正月の帰省さえなく両親と疎遠となっても財産を継承する立場にあれば親族的機能を否定できず、ゆえに明治民法の「家」が崩壊しても、社会構造としての「家」は存続し、それが基本なのだ。

 

また清水昭俊は日本の家・同族の出自形式は、中国の宗族のような父系(厳密には準父系)出自集団と、ポリネシア的複系集団との中間に位置するとの見解である。つまり準父系との見解である。すでに述べたとおり清水は、出雲地方の調査に基づいて、家成員を実子、養子、嫁、婿と定義し、〈家連続者〉を「婚入配偶者を迎えて家成員を増殖させるために、家がその内部に用意する家成員」と定義したうえで、最下世代の家成員を基点とした家成員獲得過程を規制する規則群を明らかにした。

 

 

 

指定される〈家連続者〉とは

 

 

 

(1) 下の世代が上の世代に優先する

 

 

 

(2) 上記の枠内で男子が女子に優先する。

 

 

 

(3) 上記の枠内で年長者が年少者に優先する。

 

 

 

つまり第一に最下世代夫婦の長男子、第二に長女子、第三に最下世代夫婦のうち家連続者の弟、第四に最年長姉妹である

 

(最下世代夫婦に事故が生じた場合の対処を規制する規則群もあり、

 

○次代家連続者長男が結婚後間もなく死亡した場合

 

 

 

 弟妹が家に残っていた場合、寡婦は生家に戻し、弟妹を家連続者に指定する。

 

 

 

 残っていたのが弟であり、死亡した兄と年齢差がなければ、寡婦と弟の結婚(レビレート婚)が指定される。

 

 

 

 弟妹も家に残って言いない場合は、婚入配偶者であった寡婦が、〈家連続者〉となり、あらたに婿を迎える。

 

 

 

○息子を残して最下世代夫婦の夫が死亡した場合

 

 

 

死者夫婦の息子を次の次の家連続者に指定したうえで、死者の弟ないし妹夫婦を〈中継ぎ〉として、息子が成人するまで家の運営を代理させる。息子の成人後、〈中継ぎ〉夫婦は分家を創設する

 

 

 

したがって子供で、〈家連続者〉となるのは一人であり、それ以外の子供は排除予定者である。婚出、養出、分家設立により家の成員ではなくなるのだ。

 

 

 

以上のように精緻で明確な規則性をもっているのが日本的「家」慣行である。したがって、原則父系出自であり一般的嫁入婚であるが、散発的に入夫婚(婿取婚)と、非血縁養子による継承があるので準父系出自形式とされるのである。

 

氏や家名は婿取以外は夫の氏となることから、非血縁養子による継承も含めて、夫の氏になるのは、当然のことである。

 

どうしてこういう規則性を有するかは後述する。

 

 

 

第二に、戦後民法の改正により「家」制度が崩壊し、産業構造が変化して家業の継承のない家族が増えたことにより、婿取婚や非血縁養子によって家を継承しなければならない理由が少なくなったことは、むしろ父系出自傾斜が強まったともいえる。

 

 

 

 

 

2 「国体」としての「家」

 

 

 

日本的家制度の典型とされる嫡子単独相続は、貴族社会(公家)では、13世紀中盤にはじまり、南北朝期に一般化した。また武家の単独相続への移行は、鎌倉末期から南北朝にはじまり、室町期に一般化した[西谷2006[i]。 小農民は、17世紀後期以降、幕藩領主が百姓経営維持のため分地を制限したため、田畑、屋敷、家名、家業、祖先祭祀が一体となった単独相続が一般化したとされている[大藤修2001]

 

 従って、大ざっぱにいって日本の戦後民法改正まで300700年単独相続の時代があり、それを日本的家制度といってもよいが、しかし、「家」は単独相続が崩壊しても存在していることは社会的事実であることはすでに述べたとおりである。

 

清水昭俊が定義するように、「家」を出自集団descent group、それも分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的であると定義していることから、出自集団としての家という観点をとるとその歴史はもっと古いのである。

 

 つまり私は、嫡子単独相続が成立した後の「家」を狭義の「家」とみなし、出自集団のしての家は、古代にさかのぼるものでありまさに、穂積八束が「我千古ノ国体ハ家制二則ル家ヲ大二スレハ国ヲ成シ国ヲ小二スレハ家ヲ成ス」といったように「国体」ともいうべき社会構造と理解すべきであると考える。

 

 

 

(1) 出自形式からみた「家」は古代より存在する

 

 

 

ア 父系原則の起源と準父系への変質への法制史

 

 

 

 

 

日本の家を準父系出自形式といっても、明らかに父系に傾斜しているので、女子を介することがあるがそれは男子がいない場合であり、稀に血筋が中切れとなる非血縁養子が〈家連続者〉となるというものである。

 

さらに重要なことは、日本的「家」では婚入配偶者としての婿は、家長予定者として迎えられるので、(中国の男子の孫を得るための贅婿は宗法に反するので軽蔑された存在であり、たんに添え物であり、日本の婿養子とは違う)。これは外国の他の父系的出自集団と同じことだが、血筋として父系で徹底していないとしても、家長〈家督〉継承は常に父から男性に継承されるということである。

 

 

 

原則父系というのは法制史的には古代に由来する

 

 

 

() 男女の法

 

 

 

大化元年 (645) 年八月に発布された,(1) 良民の父母の間に生れた子は父に帰属させる。 (2) それぞれ主人を異にする奴婢の間に生れた子は,母方の婢に帰属させるという法令であるが、法制での父系出自原則の起源ともいえる。

 

孝徳朝は部民制を克服し、天皇と郡司(郡領)が直接的に結ばれて、中央集権的な地方支配体制が整えられた国制改革の画期であり、体制の

 

ジェンダー論者は「良民は父に帰属させる」は差別というかもしれないが、これこそが「国体」なのであり、それは1400年たっても国民の意識の基底にあるものといえる。

 

 

 

もっとも大化前代、古日本の基層文化については、民族学では岡正雄が5つの文化の複合という構想を示している。

 

すなわち古日本の基層は①母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化(メラネシア方面)②母系的・陸稲栽培=狩猟民文化(東南アジア方面)③父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化(北東アジア・ツングース方面)④男性的・年齢階梯制的・水稲栽培=漁撈民文化(中国江南地方)⑤父権的・「ウジ」氏族的=支配者文化(アルタイ・朝鮮半島)の文化複合であり、大ざっぱにいえば南方と北方の文化の複合であり、私は、東南アジアは母系というより双系(複系)なのではないかという疑問を抱きつつも、この構想は大筋で妥当なものと理解している。

 

歴史人類学・法社会学の江守五夫[19901993[ii]1998]は婚姻習俗に北方民族との共通点を多く見出していて、嫁入婚古代起源説を主張、民族学の大林太良[1993][iii]2世紀から父系的な傾向との見解を示しており、男女の法は基層文化と大きなずれのないものという理解でよいと思う。

 

なお、我が国では、高群逸枝が古代における母系社会の根強い存在を主張し、思想的共鳴者も少なくないし、社会一般では高群説が広く信じられているふしがあるが、栗原弘[1994]などによって意図的操作にもとづく学説であり誤謬として厳しく批判されていることである[iv]

 

 

 

() 律令相続法(戸令戸主条)父系出自原則の明確化

 

 

 

大宝令および養老令は継嗣令に家相続の規則を定めている。継嗣は「承家の人」(令集解古記)、すなわち家の相続人をいう。養老令戸令戸主条に「凡そ戸の主には皆家の長を以ってせよ」とあり、嫡妻の長男を嫡子として家を相続さらせるのが基本原則で、大宝令は有位者を有位者のみを対象としていたが、養老令(天平宝字元年757年施行)は庶民にも適用するものとした。相続権者を直系卑属たる男子に限定し、男子孫なき時は。たとい女子孫があっても「なお、子無しというべし」(令集解優位朱説)として同姓中の男子を養子に迎えて相続させるもの(戸令聴養条)としている(大竹[1977)

 

 

 

() 嫡子の制の進展 (父から子への地位の継承の慣例化)

 

 

 

嫡子の制は日本律令に特有である。これは蔭位の制(高位者の子孫を父祖である高位者の位階に応じて一定以上の位階に叙位する制度)を中心とする出身法と、財産相続法に関連して規定されている。

 

いずれも唐令とは異なり嫡子を他の子供とは異なり特別に扱おうとするものであるが、吉田孝[1963]は中国とは違う制度を導入した理由について、「首長位が傍系の範囲で移動する「氏」ではなくて、嫡子制による「家」に支配の基礎を置こうとしたのは、「氏」の組織が律令国家の支配集団の単位としてはあまりにも流動的であった‥‥嫡子制の導入は、家長の地位の継承を父-子のあいだに固定し、「家」を律令国家の支配機構の基本単位として意図的に設定しようとするものだった。」とする。

 

もっとも、奈良時代には嫡子制は定着しなかったし、平安前期までは、蔭位による貴族優遇と矛盾するが、官人登用の柱である徳行才用主義(能力主義)も機能していた、たとえぱ卑姓氏族出身の朝野鹿取とか、春澄善縄は参議まで昇進したのである。とくに春澄善縄の父は従八位下・周防国大目という官人としては最も低い階層の出自であったし、九世紀前半までは藩邸の旧臣体制といわれるように、門閥というより天皇の東宮時代の側近や寵臣が昇進していくケースが目立った。

 

しかし、承和の変を契機として、源藤二氏を頂点とする門閥社会のヒエラルキーが形成されていくのである。

 

嫡子制が後世の日本的「家」制度に進展するエポックメーキングは、関白藤原基経の嫡男時平と、その弟の仲平・忠平(いずれも母は人康親王女)の三平元服叙爵である。わが国の元服儀礼は、天皇とその周辺から政治的社会的地位の確立過程で出現し、位階は王権との距離をあらわし本来律令では臣君に仕えて忠をつくし功を積んでから授与されるものであった。この位階授与原理は8世紀には遵守され、勅授すら21歳にほぼ蔭位どおりに授与され、祥瑞出現の特例でも20歳だった。

 

つまり、元服と叙位は別であった。ところがこの原則が破られたのである。

 

藤原時平は仁和二年(886)正月二日仁寿殿において「天皇手ずから冠をとって」元服儀礼が行われると同時に正五位下に叙位(初叙叙爵)がなされた。位記には「名父の子、功臣の嫡」[v]と叙位理由が記載され、こののち元服儀礼は父の功績、政治的社会的地位の父子継承表明の性格が濃厚なものとなるのである(服藤[1991])

 

諸大夫が明らかに家格をあらわす称となるのが、10世紀末から11世紀、実務官人の官職請負制が11世末以降、蔵人と弁官、摂関家政所執事といった国政中枢を高藤流(勧修寺流)、内麿流(日野流)、高棟流平氏の名家三流で独占するのが12世紀の鳥羽院政期と考えられるこのころには家筋の家格がほぼ決まっていった。

 

それに先立ち、11世紀前期に元服叙爵と若年元服が定着し、頼通のような十代参議を生み出したが、公卿の数には限度があるので、すべて子供が元服叙爵されるわけでなく、父の後継者として嫡庶が区別され、嫡妻子の特定の子息が父の地位を継承していくこととなる。こけは正妻制の成立ともいってもよいが、若年公卿に昇進した子息も若年で公卿となるサイクルを繰り替えすことによって、父から子息に地位継承がなされ、子供は父の地位を継承すべきものという観念が浸透した。家筋により昇進スピード、昇進ルートがパターン化していくことにより、家格が確立していったのである。

 

家格制とは、原則として子息は最終的に父の地位まで昇進することが前提になっている。

 

 

 

(エ)異姓養子による父系出自原則の変質

 

 

 

律令相続法は父系出自原則を明確にしたものであるが、この原則は、10世紀以降異姓(他姓)養子の多くの事例を見出すことにより変質する。

 

異姓養子の例をいくつかあげることとする。

 

まず大江広房だが、陸奥守橘以綱が実父であり大江匡房(10411111)が橘氏から養子をとったのである。異姓養子であるが、娘を娶っており、今日でいう入婿、婿養子である[田端1994]。 天永2年(1111年)に本姓に復し橘氏長者であった父以綱の後を受け長者となる

 

12世紀では大江広元(1148122)だが、桃裕行[1947]によると明経博士中原広季の四男で、中原広元として明法博士に就任した。広季の実子なのか大江維光が実父の養子なのかわからない。さらに広元は参議藤原光能の子で、母が中原広季に再嫁したので中原姓となり後に大江維光と父子契約したとの説もあるという。

 

三善為康 (算博士。『朝野群載』や『二中歴』の著者として知られる1049~1139)は、越中国射水郡の豪族射水氏の出身で18歳のとき上洛して算博士三好為長に師事したうえ、猶子(養子)となった。所[1971]によれば三好行康も為康の猶子だった。

 

曽我[2012]によれば外記・史・諸道博士家で家職を継ぐ子供がいない場合、もしくは子供にその能力がない場合には優秀な養子を迎えることで家名の存続を図ろうとする動きがあったとする。後継者を確保したい師匠=養父(三善為長)と中央に出仕したい弟子=養子(射水→三善為康)の思惑の合致が縁組の要因と考えられている。

 

このほか異姓養子の著名な例としては、後白河院近臣平業房と高階栄子(丹後局)との間の子である教成が、藤原実教の養子となった。後の山科家である。血筋としては平氏だが、藤原氏であるから異姓養子である[田端1994]。

 

改賜姓は天皇大権であり、勝手に改姓することは違法だったが、明法家が令聴養条をゆるく解釈したためになしくずし的に異姓養子容認になっていたと考えられる。また、官職の世襲は、官位相当制を原則とする律令の官僚制を破るものであるが、平安末期から鎌倉時代初期、明法家が家業のためなら律令を破ることも許されるという説を公然と揚言するようになって既成事実化したのである。むろんその背景には、受領監察体制、律令的国家給付(封戸、位禄等)が崩壊した12世紀以降の歴史的展開がある。

 

しかしながら、世襲氏族、律令国家封禄制度家格制の形成、に先立って、10世紀半ばより、諸道博士家では、世襲氏族が多くあらわれるようになり、それは家職の継承が意識されるようになったことが背景にあると考えられる[告井2007]。

 

紀伝道

 

紀伝道における世襲氏族は、菅原・大江両氏はよく知られているけれども、藤原氏の日野流(北家内麿-真夏流)式家、南家も世襲氏族である。世襲を確立したのは

 

 

 

日野流(北家内麿-真夏流)が広業(任文章博士寛弘5年(1008))、資業(任文章博士寛仁元年(1017))兄弟。

 

 式家が明衡(任文章博士治暦二年(1066))

 

 南家が実範 (任文章博士天喜元年(1053))とされている。

 

局務-これは12世紀以降の展開だが、中原氏と清原氏で固定化される。

 

官務-11世紀末以降小槻氏が官職請負

 

法家-すぐれた著作のある惟宗氏が家学を継承できず、坂上(本姓中原氏)・中原氏にとって替えられ固定化。

 

陰陽道-10世紀中葉より賀茂氏と安倍氏で固定化。

 

医道-10世紀末より和気氏、丹波氏で固定化

 

楽家―10世紀より多氏が活躍

 

算博士―小槻氏と三善氏が知られている。

 

 

 

告井[2007]によると、特定氏族の世襲固定(父から子の継承)は摂関期にあらわれた。10世紀の改姓は理念的だったが、院政期以降は養子としての改姓であった。

 

非血縁養子により父系出自原則は変質していった。

 

 

 

() 鎌倉幕府の養子制度

 

 

 

 明石[2006]鎌倉幕府法は男子がいない場合、嫡子として兄弟の子をはじめ「一族並二傍輩」の男子を養子とするのが一般的であった。原則は同姓養子であるが、他人養子といって非血縁の傍輩を養子とする(異姓養子)や女人養子といって女性が養子を取って継がせることは禁止していなかった。のみならず、平安末期から女系の妹の子(甥)や女子の子(外孫)を跡取り養子とする方法が多くとられるようになったという。中原広季は外孫藤原親能を、大友経家は外孫藤原能直を、宇都宮朝定は外孫三浦朝行を、得川頼有は外孫岩松政経を、大屋秀忠は外孫和田秀宗をそれぞれ養子とし跡を継がしめている。これを明石は婿養子への過渡的な養子制とみなしている。

 

 

 

 以上、概略的だったが法制史的にいえば、父系出自原則は大化改新より1300年以上の歴史の重みをもつもので、非血縁継承や婿養子も11世紀以降法的にも許容されていく経過にもとづいて、準父系出自形式が我が国の社会構造となったものであるから、9698%が夫の姓を選択しているのはある意味当然の事柄であって、この慣習が違憲だというならば、大化改新以来の歴史の否定であり「我千古ノ国体」の否定となり断じて容認することはできないのである。

 

 

 

 

 



 

[i]武士の場合は史料上、嫡子単独相続を明記したものとして 宝治元年(1247)平朝秀譲状が最も古い。

 

 

 

 貴族層では、暦仁(りゅくにん)元年(1238)の藤原忠定置文 (藤原北家御子左流、歌人として著名な藤原定家の伯父にあたる人物)が最も古いとされ、次に仁治(にんじ)3(1242)石清水八幡宮宇美宮家の房清処分状案とされる。

 

  正応6(1293)関白を辞した九条忠教による家督の内大臣師教宛の譲状は、「為興隆家門、不分譲諸子」として日記・文書・剣・平緒と荘園所領の全てを長子師教一子に処分したものである。これは忠教の父忠家の遺誡によるものなので、分割相続の停止は、忠家薨去の単独建治元年1275よりも早い時期とされるのである。

 

ただし、元享元年(1322)西園寺実兼処分譲状案は分割相続である(ただし、関東申次を継がせた実衡を「家督之正流」として日記文書や氏寺妙音院を譲与している)。久我家が単独相続に移行したのは南北朝期(岡野友彦「中世久我家と久我家領庄園』続群書類従完成会2002』、勧修寺家も南北朝期(『中村直勝著作集第4巻』淡交社1978』とされている

 

 

 

 実務官人について、官務(大夫史)は11世紀末頃より小槻氏が世襲・独占し官司請負制となり、局務(大外記)は12世紀半ば中原氏と清原氏によって独占され官司請負制になったというのというのが通説であるが、遠藤珠紀『中世朝廷の官司制度』吉川弘文館2011は、後世から遡って系図の特徴から「家」成立の起点設定しているあり方に疑問を呈し、小槻氏については13世紀後半、中原氏は14世紀に中世的「家」が成立するという。

 

文永4(1267)、小槻秀氏(大宮流)と小槻有家(壬生流)の代に所領相論の結果、小槻「氏」のなかで永業流(大宮家)と隆職(壬生家)の優越を宣言し、両流で官務職と相伝文書の独占的継承を認めたことが「家」成立の画期とする。

 

  文永10(1273)つまり元寇の前年の「小槻有家起請」は「所領事(中略)有家子孫中、伝文書仕朝廷之者、為其財主可惣領(攻略)」と文書だけでなく所領の嫡子単独相続を定めた。実際には所領争論はこの後も繰り返されているが、嫡子単独相続の自覚的宣言として、戦後の民法改正まで700年近く続いた、嫡子単独相続の濫觴とみなしてよいだろう。

 

関連して三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館 2007によれば、文永10年に九条忠家が関白に就任し、いわゆる五摂家が摂関職に就任できる家と確定したのであり、蒙古襲来の前年文永10年はその意味でも画期といえるのではないか。

 
 
 

[ii]江守は、出嫁女の婚家帰属について漢族の嫁入婚文化の影響のほか、朝鮮族との関連性、さらにギリヤーク族に日本の東北地方にみられる「カマド分け」儀礼に似た習俗がみられることから近似していることを報告している。

 

  火による祓除

 

 火の儀礼は、韓国や満州族(中国では満族という)と共通し、ユーラシアに広くみられるものであるが、『隋書』倭国伝に「婦、夫家に入るや、必ず先ず火を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ」の一文があり、大化前代にも嫁入婚があった。その他労役婚(年期婿)、養老招婿婚など北方民族との共通点を多く指摘しているが

 

 日本では花嫁が夫家に入るとき、火を跨いだり、交叉する松明の下をくぐらされたり、焚火の傍らを通る火の儀礼は各地で行われていた。著者は言及してないが、二木謙一『中世武家の作法』吉川弘文館1999が文明-永正期の政所執事伊勢貞陸(さだみち)の著書でも、武家の婚礼でも夕刻の輿入れで門火という篝火がたかれるとしている。

 

  

 
 
 

[iii]父系的な傾向は2世紀からというのは、倭国の大乱で西日本が内乱状態だった。妻方居住婿入り婚だと、戦力となる若い男の忠誠心が維持できず戦闘に不利であり、内乱期には嫁入(夫方居住)の父系を促したとの見解。

 

 結婚にあたって火を跨いで妻が夫の家に入るという習俗は、わが国に広くみられる、火の間を通るのもあるが、火によって花嫁が清められて夫の家に入るという西ヨーロッパにいたるまでユーラシアで広くみられる習俗であるから、古代から嫁入り婚があったという説である。また牧場の経営も父系となるといっている。東国武士の同族は牧場の経営組織からでてきたという仮説も提示されている。

 
 
 

[iv]高群逸枝は、平安前期の「一時的妻訪婚」を意図的な創作により「純婿取婚」とした。八九四年より一〇八七年までの結婚は婿の実家に妻子を連れていくことはないとするのである。

 

 

 

 要するに  ツマドイ、ムコトリとは、婚姻の初期の段階であるのに、母系原理の根強い存続を主張するために、意図的資料操作により虚構の学説をでっち上げたのである。  

 

 

 

 栗原弘[1994]によると、高群逸枝説というのは、日本は古代から一貫して父系家父長制であり、男性による女性支配が宿命であるとの説を打破し、男性社会に反撃する目的で創られたもので、女性史を冷静にみようとするものではなかった。 栗原は藤原氏の主要な邸宅の伝領過程を明らかにすることによって、高群が父系異居構想のために意図的操作をしていることを明らかにしている。高群学説について学問的否定者は、洞富雄、江守五夫、鷲見等曜、思想的批判者として、緒方和子、中山そみ、犬童美子である。

 

 

 

 ところが批判的継承者や思想的共鳴者のほうがずっと多いのである。このために高群学説がいまだに偉大だと勘違いしている人が多いのが大問題である。

 

 

 

 私が思うに、当事者の合意で婚姻が成立するのは古典カノン法の理念である。秘密結婚を承認したのは教会法だった。しかしラテン的キリスト教世界の教会法圏外の社会ではそうではない。一般的に、婚姻成立のために重要なのは妻方の父母、親族の承認である。そうでないと駆け落ちになるからである。日本の古風なムコトリの意味は娘との婚姻を承認することを公にする儀式として重要なのだろう。

 

 

 

 柳田国男の「聟入考」は、日本は古代か一貫して父系社会であり、「聟入」を付随した古風の婚姻と、「聟入」を喪失した新しい婚姻を峻別しない[栗原1994 32頁]。  

 

 

 

 私は必ずしもそう考えない。当事者が結婚相手を探して仲人が仲介する村落と、家と家との取決を仲人が仲介する結婚が基本の村落では結婚のあり方が違うからである。

 

 

 

 しかし一時的妻訪婚とて、いずれ、夫方に居住し落ち着くということであれば、柳田の結婚のあり方としては大差ないと認識してよい

 

 

 

 京楽真帆子[1993]は高群逸枝の古代招婿婚・妻方居住が基本だったとする説を明確に否定している。 「貴族の居住は、一般に「仮住まい」・「寄住」を経たのち、買得、譲渡によって所有権を正式に得た邸宅で行われるようになる。平安貴族にとって、妻方居住はこうした「仮住まい」・「寄住」の一形態にすぎなかった」  妻方居住は仮住まいの選択肢の一つにすぎなかったわけである

 
 
 

[v] 陽成天皇遜位事件は、事実上、基経の政治力で退位させ、一品式部卿時康親王(光孝天皇)を皇位継承者としたというのが通説。時平の母は光孝の姪、基経の母藤原乙春は、光孝生母と姉妹、つまり従兄弟だった。

 

文献表

 

明石一紀

 

2000「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下

 

2006『古代・中世のイエと女性』校倉書房196頁以下

 

荒井献

 

1985「新約聖書における女性の位置」『聖書セミナー』第1号1985日本聖書協会発行 162頁以下 『新約聖書の女性観』岩波セミナーブックス 1988も同内容

 

嵐義人

 

1998「姓氏・名乗、あれこれ」(『日本「姓氏由来」総覧』新人物往来社222)

 

井戸田博史

 

1986『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986 

 

井上兼行・清水昭俊

 

1968「出雲調査短報」『民族學研究』331号 1968

 

上野和男

 

1982「日本の祖名継承法と家族--祖先祭祀と家族類型についての一試論」『政経論叢』5056

 

1985「日本の位牌祭祀と家族--祖先祭祀と家族類型についての一考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』6

 

ウタ・ランケ・ハイネマン

 

1996高木昌史他訳『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 20頁以下

 

梅村恵子

 

2000「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店

 

江守五夫

 

1990『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990

 

1993「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993

 

1998『婚姻の民俗-東アジアの視点から-』吉川弘文館1998

 

大竹秀男

 

1977『「家」と女性の歴史』

 

大藤修

 

2001「幕臣体制の成立と法」『新体系日本史2 法社会史』

 

折井美耶子

 

2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636 

 

加地信行

 

1998『家族の思想 儒教的死生観の果実』PHP新書

 

勝俣鎭夫

 

2011『中世社会の基層をさぐる』山川出版社

 

蒲生正男

 

1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968

 

1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本―岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970

 

1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

 

1974b「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3

 

 1975「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3 

 

河内祥輔

 

2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館

 

告井幸男

 

2007「摂関・院政期における官人社会」『日本史研究』535

 

官文娜

 

2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版

 

京楽真帆子

 

1993「平安京における居住と家族-寄住・妻方居住・都市」『史林』76巻2号

 

金宅圭

 

2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会

 

熊谷開作

 

1987『日本の近代化と「家」制度』法律文化社,

 

クーランジュ

 

1924 田辺訳『古代都市』白水社1961、原著1924)

 

栗原弘

 

1994『高向群枝の婚姻女性史像の研究』高科書店 

 

久留島京子

 

1989「市民社会の成立と女性論-メアリー・アステル」『史學研究』185, 1989

 

小池誠

 

4 2005「序言 「家社会」とは何か(特集 アジアの家社会)」『アジア遊学 』74 

 

清水昭俊

 

1970<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

 

1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

 

1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

 

1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

 

1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 

 

1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

 

滋賀秀三

 

1967『中国家族法の原理』創文社1967 

 

シロコゴロフ

 

1924大間知訳満州族の社会組織」『満州族』(大間知篤三著作集6)未来社1982原著1924)

 

鈴木明日見

 

2013「ランゴバルド諸法における男子未成年者の婚姻 : リウトプランド王付加勅令128条、カロリング勅令140条を中心としてThe Marriage of Male Minor in the Lombard Laws : Based on the Article 128 of the Laws of King Liutprand and the Article 140 of the Laws of Carolingian」『駒沢史学』80 2013

 

曽我良成

 

2012『王朝国家政務の研究』吉川弘文館

 

 

 

ダニエル・デフォー

 

1724山本和平訳「世界文学全集10」集英社1981 379頁

 

谷口やすよ

 

1978「漢代の皇后権The Political Power of the Empress in the Han Dynasty」『史學雜誌 』87(11) 1978 

 

所功

 

1971「続類従未収本『三善氏系図』考「続類従」『塙保己一記念論文集』温故学会

 

仁井田 陞

 

1952『中国法制史』岩波書店1952

 

西谷正浩『日本中世の所有構造』塙書房2006

 

中根千枝

 

1970『家族の構造-社会人類学的分析』東京大学出版会1970「日本同族構造の分析」

 

樋口健太郎

 

2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂(大阪)2005年

 

2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011

 

福島正義

 

1990『武蔵武士-そのロマンと栄光』さいたま出版会

 

福地陽子

 

1956<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展<Article>THE GROWTH AND DEVELOPMENT OF THE CATHOLIC PRECEPT AGAINST DIVORCE」『法と政治』7(4)1956

 

服藤早苗

 

1991『家成立史の研究』 校倉書房1991

 

J・Lフランドラン

 

1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房

 

イレイン・ぺイゲルス

 

1988 邦訳1993絹川・出村訳『「楽園神話」解釈の変遷アダムとエバと蛇』ヨルダン社

 

保科季子

 

2002「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』6121

 

松永晋一1959

 

「キリストのからだとしての教会The Church as the Body of Christ」『神學研究』 9  1959

 

桃 裕行

 

1947『上代学制の研究』畝傍史学叢書 

 

吉田孝

 

1963 『律令国家と古代の社会』岩波書店

 

 
 

 

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