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2015年11月の14件の記事

2015/11/30

外国人観光客に優しくない東京の事例

週刊東洋経済の先週発売号(11/28号)の鉄道特集だが、訪日観光客に優しくない交通アクセスが、槍玉にあげられていたが、なるほどと思えた。
神田駅。観光スポットではないが、最も人気のある浅草に行くための乗換駅である。JRの1階コンコースは柱が多くて地下鉄の入口がみつけにくい、しかも改良工事中で上り専用、下り専用の別々の狭い階段に仕切られている。日頃から通勤で使っている人は別としてとまどうと思う。
都営地下鉄の大門。大江戸線はJR浜松町に非常に近く乗換え駅なのに、観光客にはわかりにくい。車内アナウンスでは「大門(浜松町)」というが「浜松町」の方がメジャーなので、「浜松町-大門」に駅名を変えたほうが親切だと思う。
さらに、女性専用車に知らずに乗って、刺さるような視線を浴びたのも不快だとも書かれていた。女のほうがいばってるからね。このまえも席をつめろと別の女性同伴客を隣り合わせにすわらすためとかで若い女から指図されたが、通勤車両なのによその客の都合のためにかまう必要があるのか。

2015/11/29

民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 下書きその6(選択的夫婦別氏・夫婦別姓絶対反対)

Ⅱ 9698%が夫の氏を選択する慣行が性差別という主張は、我が国が準父系の出自形式の社会構造にあり、大化の改新の男女の法以来の法制的根拠を有するものであるから、「我千古ノ国体」の否定であり、母系社会では私有財産制を発達させることができず、文明世界は原則どこでも父系出自形式の社会なのであるから文明の否定という結論にいきつくので容認できない。

 

 

1 9698%が夫の氏となる理由

 

 

 

9698%が夫の氏を選択する慣行は、第一に我が国の社会構造が準父系の出自形式をとるためである。

 

人類学の大御所である清水昭俊は、「家」を出自集団descent group、それも分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的であるとし、さらに「家内的親族集団とりわけ家族を内包とし、家内的集団と親族的機能集団を、あるいはさらに機能的親族集団が何らかの機能的関係(一族としての連帯関係など)に取り込むことのできる範囲の(遠い)親族を外延とする概念」を表す用語として日本語では「家」、欧語の再広義でのfamilyないしその同系語、あるいはhouseないしその同系語が適当」とも述べている。これは、日本の夫婦同姓(家名)と西洋のファミリーネームが近似した概念であるという根拠となる。

 

したがって、いわゆる核家族であっても「家」といえるのである。家族は共住であることを要件としないのがレビィ=ストロースでの見解であり正しい。

 

したがって、いわゆる核家族も機能的親族集団との連帯関係を否定するものではないから「家」といえるのだ。盆・正月の帰省さえなく両親と疎遠となっても財産を継承する立場にあれば親族的機能を否定できず、ゆえに明治民法の「家」が崩壊しても、社会構造としての「家」は存続し、それが基本なのだ。

 

また清水昭俊は日本の家・同族の出自形式は、中国の宗族のような父系(厳密には準父系)出自集団と、ポリネシア的複系集団との中間に位置するとの見解である。つまり準父系との見解である。すでに述べたとおり清水は、出雲地方の調査に基づいて、家成員を実子、養子、嫁、婿と定義し、〈家連続者〉を「婚入配偶者を迎えて家成員を増殖させるために、家がその内部に用意する家成員」と定義したうえで、最下世代の家成員を基点とした家成員獲得過程を規制する規則群を明らかにした。

 

 

 

指定される〈家連続者〉とは

 

 

 

(1) 下の世代が上の世代に優先する

 

 

 

(2) 上記の枠内で男子が女子に優先する。

 

 

 

(3) 上記の枠内で年長者が年少者に優先する。

 

 

 

つまり第一に最下世代夫婦の長男子、第二に長女子、第三に最下世代夫婦のうち家連続者の弟、第四に最年長姉妹である

 

(最下世代夫婦に事故が生じた場合の対処を規制する規則群もあり、

 

○次代家連続者長男が結婚後間もなく死亡した場合

 

 

 

 弟妹が家に残っていた場合、寡婦は生家に戻し、弟妹を家連続者に指定する。

 

 

 

 残っていたのが弟であり、死亡した兄と年齢差がなければ、寡婦と弟の結婚(レビレート婚)が指定される。

 

 

 

 弟妹も家に残って言いない場合は、婚入配偶者であった寡婦が、〈家連続者〉となり、あらたに婿を迎える。

 

 

 

○息子を残して最下世代夫婦の夫が死亡した場合

 

 

 

死者夫婦の息子を次の次の家連続者に指定したうえで、死者の弟ないし妹夫婦を〈中継ぎ〉として、息子が成人するまで家の運営を代理させる。息子の成人後、〈中継ぎ〉夫婦は分家を創設する

 

 

 

したがって子供で、〈家連続者〉となるのは一人であり、それ以外の子供は排除予定者である。婚出、養出、分家設立により家の成員ではなくなるのだ。

 

 

 

以上のように精緻で明確な規則性をもっているのが日本的「家」慣行である。したがって、原則父系出自であり一般的嫁入婚であるが、散発的に入夫婚(婿取婚)と、非血縁養子による継承があるので準父系出自形式とされるのである。

 

氏や家名は婿取以外は夫の氏となることから、非血縁養子による継承も含めて、夫の氏になるのは、当然のことである。

 

どうしてこういう規則性を有するかは後述する。

 

 

 

第二に、戦後民法の改正により「家」制度が崩壊し、産業構造が変化して家業の継承のない家族が増えたことにより、婿取婚や非血縁養子によって家を継承しなければならない理由が少なくなったことは、むしろ父系出自傾斜が強まったともいえる。

 

 

 

 

 

2 「国体」としての「家」

 

 

 

日本的家制度の典型とされる嫡子単独相続は、貴族社会(公家)では、13世紀中盤にはじまり、南北朝期に一般化した。また武家の単独相続への移行は、鎌倉末期から南北朝にはじまり、室町期に一般化した[西谷2006[i]。 小農民は、17世紀後期以降、幕藩領主が百姓経営維持のため分地を制限したため、田畑、屋敷、家名、家業、祖先祭祀が一体となった単独相続が一般化したとされている[大藤修2001]

 

 従って、大ざっぱにいって日本の戦後民法改正まで300700年単独相続の時代があり、それを日本的家制度といってもよいが、しかし、「家」は単独相続が崩壊しても存在していることは社会的事実であることはすでに述べたとおりである。

 

清水昭俊が定義するように、「家」を出自集団descent group、それも分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的であると定義していることから、出自集団としての家という観点をとるとその歴史はもっと古いのである。

 

 つまり私は、嫡子単独相続が成立した後の「家」を狭義の「家」とみなし、出自集団のしての家は、古代にさかのぼるものでありまさに、穂積八束が「我千古ノ国体ハ家制二則ル家ヲ大二スレハ国ヲ成シ国ヲ小二スレハ家ヲ成ス」といったように「国体」ともいうべき社会構造と理解すべきであると考える。

 

 

 

(1) 出自形式からみた「家」は古代より存在する

 

 

 

ア 父系原則の起源と準父系への変質への法制史

 

 

 

 

 

日本の家を準父系出自形式といっても、明らかに父系に傾斜しているので、女子を介することがあるがそれは男子がいない場合であり、稀に血筋が中切れとなる非血縁養子が〈家連続者〉となるというものである。

 

さらに重要なことは、日本的「家」では婚入配偶者としての婿は、家長予定者として迎えられるので、(中国の男子の孫を得るための贅婿は宗法に反するので軽蔑された存在であり、たんに添え物であり、日本の婿養子とは違う)。これは外国の他の父系的出自集団と同じことだが、血筋として父系で徹底していないとしても、家長〈家督〉継承は常に父から男性に継承されるということである。

 

 

 

原則父系というのは法制史的には古代に由来する

 

 

 

() 男女の法

 

 

 

大化元年 (645) 年八月に発布された,(1) 良民の父母の間に生れた子は父に帰属させる。 (2) それぞれ主人を異にする奴婢の間に生れた子は,母方の婢に帰属させるという法令であるが、法制での父系出自原則の起源ともいえる。

 

孝徳朝は部民制を克服し、天皇と郡司(郡領)が直接的に結ばれて、中央集権的な地方支配体制が整えられた国制改革の画期であり、体制の

 

ジェンダー論者は「良民は父に帰属させる」は差別というかもしれないが、これこそが「国体」なのであり、それは1400年たっても国民の意識の基底にあるものといえる。

 

 

 

もっとも大化前代、古日本の基層文化については、民族学では岡正雄が5つの文化の複合という構想を示している。

 

すなわち古日本の基層は①母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化(メラネシア方面)②母系的・陸稲栽培=狩猟民文化(東南アジア方面)③父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化(北東アジア・ツングース方面)④男性的・年齢階梯制的・水稲栽培=漁撈民文化(中国江南地方)⑤父権的・「ウジ」氏族的=支配者文化(アルタイ・朝鮮半島)の文化複合であり、大ざっぱにいえば南方と北方の文化の複合であり、私は、東南アジアは母系というより双系(複系)なのではないかという疑問を抱きつつも、この構想は大筋で妥当なものと理解している。

 

歴史人類学・法社会学の江守五夫[19901993[ii]1998]は婚姻習俗に北方民族との共通点を多く見出していて、嫁入婚古代起源説を主張、民族学の大林太良[1993][iii]2世紀から父系的な傾向との見解を示しており、男女の法は基層文化と大きなずれのないものという理解でよいと思う。

 

なお、我が国では、高群逸枝が古代における母系社会の根強い存在を主張し、思想的共鳴者も少なくないし、社会一般では高群説が広く信じられているふしがあるが、栗原弘[1994]などによって意図的操作にもとづく学説であり誤謬として厳しく批判されていることである[iv]

 

 

 

() 律令相続法(戸令戸主条)父系出自原則の明確化

 

 

 

大宝令および養老令は継嗣令に家相続の規則を定めている。継嗣は「承家の人」(令集解古記)、すなわち家の相続人をいう。養老令戸令戸主条に「凡そ戸の主には皆家の長を以ってせよ」とあり、嫡妻の長男を嫡子として家を相続さらせるのが基本原則で、大宝令は有位者を有位者のみを対象としていたが、養老令(天平宝字元年757年施行)は庶民にも適用するものとした。相続権者を直系卑属たる男子に限定し、男子孫なき時は。たとい女子孫があっても「なお、子無しというべし」(令集解優位朱説)として同姓中の男子を養子に迎えて相続させるもの(戸令聴養条)としている(大竹[1977)

 

 

 

() 嫡子の制の進展 (父から子への地位の継承の慣例化)

 

 

 

嫡子の制は日本律令に特有である。これは蔭位の制(高位者の子孫を父祖である高位者の位階に応じて一定以上の位階に叙位する制度)を中心とする出身法と、財産相続法に関連して規定されている。

 

いずれも唐令とは異なり嫡子を他の子供とは異なり特別に扱おうとするものであるが、吉田孝[1963]は中国とは違う制度を導入した理由について、「首長位が傍系の範囲で移動する「氏」ではなくて、嫡子制による「家」に支配の基礎を置こうとしたのは、「氏」の組織が律令国家の支配集団の単位としてはあまりにも流動的であった‥‥嫡子制の導入は、家長の地位の継承を父-子のあいだに固定し、「家」を律令国家の支配機構の基本単位として意図的に設定しようとするものだった。」とする。

 

もっとも、奈良時代には嫡子制は定着しなかったし、平安前期までは、蔭位による貴族優遇と矛盾するが、官人登用の柱である徳行才用主義(能力主義)も機能していた、たとえぱ卑姓氏族出身の朝野鹿取とか、春澄善縄は参議まで昇進したのである。とくに春澄善縄の父は従八位下・周防国大目という官人としては最も低い階層の出自であったし、九世紀前半までは藩邸の旧臣体制といわれるように、門閥というより天皇の東宮時代の側近や寵臣が昇進していくケースが目立った。

 

しかし、承和の変を契機として、源藤二氏を頂点とする門閥社会のヒエラルキーが形成されていくのである。

 

嫡子制が後世の日本的「家」制度に進展するエポックメーキングは、関白藤原基経の嫡男時平と、その弟の仲平・忠平(いずれも母は人康親王女)の三平元服叙爵である。わが国の元服儀礼は、天皇とその周辺から政治的社会的地位の確立過程で出現し、位階は王権との距離をあらわし本来律令では臣君に仕えて忠をつくし功を積んでから授与されるものであった。この位階授与原理は8世紀には遵守され、勅授すら21歳にほぼ蔭位どおりに授与され、祥瑞出現の特例でも20歳だった。

 

つまり、元服と叙位は別であった。ところがこの原則が破られたのである。

 

藤原時平は仁和二年(886)正月二日仁寿殿において「天皇手ずから冠をとって」元服儀礼が行われると同時に正五位下に叙位(初叙叙爵)がなされた。位記には「名父の子、功臣の嫡」[v]と叙位理由が記載され、こののち元服儀礼は父の功績、政治的社会的地位の父子継承表明の性格が濃厚なものとなるのである(服藤[1991])

 

諸大夫が明らかに家格をあらわす称となるのが、10世紀末から11世紀、実務官人の官職請負制が11世末以降、蔵人と弁官、摂関家政所執事といった国政中枢を高藤流(勧修寺流)、内麿流(日野流)、高棟流平氏の名家三流で独占するのが12世紀の鳥羽院政期と考えられるこのころには家筋の家格がほぼ決まっていった。

 

それに先立ち、11世紀前期に元服叙爵と若年元服が定着し、頼通のような十代参議を生み出したが、公卿の数には限度があるので、すべて子供が元服叙爵されるわけでなく、父の後継者として嫡庶が区別され、嫡妻子の特定の子息が父の地位を継承していくこととなる。こけは正妻制の成立ともいってもよいが、若年公卿に昇進した子息も若年で公卿となるサイクルを繰り替えすことによって、父から子息に地位継承がなされ、子供は父の地位を継承すべきものという観念が浸透した。家筋により昇進スピード、昇進ルートがパターン化していくことにより、家格が確立していったのである。

 

家格制とは、原則として子息は最終的に父の地位まで昇進することが前提になっている。

 

 

 

(エ)異姓養子による父系出自原則の変質

 

 

 

律令相続法は父系出自原則を明確にしたものであるが、この原則は、10世紀以降異姓(他姓)養子の多くの事例を見出すことにより変質する。

 

異姓養子の例をいくつかあげることとする。

 

まず大江広房だが、陸奥守橘以綱が実父であり大江匡房(10411111)が橘氏から養子をとったのである。異姓養子であるが、娘を娶っており、今日でいう入婿、婿養子である[田端1994]。 天永2年(1111年)に本姓に復し橘氏長者であった父以綱の後を受け長者となる

 

12世紀では大江広元(1148122)だが、桃裕行[1947]によると明経博士中原広季の四男で、中原広元として明法博士に就任した。広季の実子なのか大江維光が実父の養子なのかわからない。さらに広元は参議藤原光能の子で、母が中原広季に再嫁したので中原姓となり後に大江維光と父子契約したとの説もあるという。

 

三善為康 (算博士。『朝野群載』や『二中歴』の著者として知られる1049~1139)は、越中国射水郡の豪族射水氏の出身で18歳のとき上洛して算博士三好為長に師事したうえ、猶子(養子)となった。所[1971]によれば三好行康も為康の猶子だった。

 

曽我[2012]によれば外記・史・諸道博士家で家職を継ぐ子供がいない場合、もしくは子供にその能力がない場合には優秀な養子を迎えることで家名の存続を図ろうとする動きがあったとする。後継者を確保したい師匠=養父(三善為長)と中央に出仕したい弟子=養子(射水→三善為康)の思惑の合致が縁組の要因と考えられている。

 

このほか異姓養子の著名な例としては、後白河院近臣平業房と高階栄子(丹後局)との間の子である教成が、藤原実教の養子となった。後の山科家である。血筋としては平氏だが、藤原氏であるから異姓養子である[田端1994]。

 

改賜姓は天皇大権であり、勝手に改姓することは違法だったが、明法家が令聴養条をゆるく解釈したためになしくずし的に異姓養子容認になっていたと考えられる。また、官職の世襲は、官位相当制を原則とする律令の官僚制を破るものであるが、平安末期から鎌倉時代初期、明法家が家業のためなら律令を破ることも許されるという説を公然と揚言するようになって既成事実化したのである。むろんその背景には、受領監察体制、律令的国家給付(封戸、位禄等)が崩壊した12世紀以降の歴史的展開がある。

 

しかしながら、世襲氏族、律令国家封禄制度家格制の形成、に先立って、10世紀半ばより、諸道博士家では、世襲氏族が多くあらわれるようになり、それは家職の継承が意識されるようになったことが背景にあると考えられる[告井2007]。

 

紀伝道

 

紀伝道における世襲氏族は、菅原・大江両氏はよく知られているけれども、藤原氏の日野流(北家内麿-真夏流)式家、南家も世襲氏族である。世襲を確立したのは

 

 

 

日野流(北家内麿-真夏流)が広業(任文章博士寛弘5年(1008))、資業(任文章博士寛仁元年(1017))兄弟。

 

 式家が明衡(任文章博士治暦二年(1066))

 

 南家が実範 (任文章博士天喜元年(1053))とされている。

 

局務-これは12世紀以降の展開だが、中原氏と清原氏で固定化される。

 

官務-11世紀末以降小槻氏が官職請負

 

法家-すぐれた著作のある惟宗氏が家学を継承できず、坂上(本姓中原氏)・中原氏にとって替えられ固定化。

 

陰陽道-10世紀中葉より賀茂氏と安倍氏で固定化。

 

医道-10世紀末より和気氏、丹波氏で固定化

 

楽家―10世紀より多氏が活躍

 

算博士―小槻氏と三善氏が知られている。

 

 

 

告井[2007]によると、特定氏族の世襲固定(父から子の継承)は摂関期にあらわれた。10世紀の改姓は理念的だったが、院政期以降は養子としての改姓であった。

 

非血縁養子により父系出自原則は変質していった。

 

 

 

() 鎌倉幕府の養子制度

 

 

 

 明石[2006]鎌倉幕府法は男子がいない場合、嫡子として兄弟の子をはじめ「一族並二傍輩」の男子を養子とするのが一般的であった。原則は同姓養子であるが、他人養子といって非血縁の傍輩を養子とする(異姓養子)や女人養子といって女性が養子を取って継がせることは禁止していなかった。のみならず、平安末期から女系の妹の子(甥)や女子の子(外孫)を跡取り養子とする方法が多くとられるようになったという。中原広季は外孫藤原親能を、大友経家は外孫藤原能直を、宇都宮朝定は外孫三浦朝行を、得川頼有は外孫岩松政経を、大屋秀忠は外孫和田秀宗をそれぞれ養子とし跡を継がしめている。これを明石は婿養子への過渡的な養子制とみなしている。

 

 

 

 以上、概略的だったが法制史的にいえば、父系出自原則は大化改新より1300年以上の歴史の重みをもつもので、非血縁継承や婿養子も11世紀以降法的にも許容されていく経過にもとづいて、準父系出自形式が我が国の社会構造となったものであるから、9698%が夫の姓を選択しているのはある意味当然の事柄であって、この慣習が違憲だというならば、大化改新以来の歴史の否定であり「我千古ノ国体」の否定となり断じて容認することはできないのである。

 

 

 

 

 



 

[i]武士の場合は史料上、嫡子単独相続を明記したものとして 宝治元年(1247)平朝秀譲状が最も古い。

 

 

 

 貴族層では、暦仁(りゅくにん)元年(1238)の藤原忠定置文 (藤原北家御子左流、歌人として著名な藤原定家の伯父にあたる人物)が最も古いとされ、次に仁治(にんじ)3(1242)石清水八幡宮宇美宮家の房清処分状案とされる。

 

  正応6(1293)関白を辞した九条忠教による家督の内大臣師教宛の譲状は、「為興隆家門、不分譲諸子」として日記・文書・剣・平緒と荘園所領の全てを長子師教一子に処分したものである。これは忠教の父忠家の遺誡によるものなので、分割相続の停止は、忠家薨去の単独建治元年1275よりも早い時期とされるのである。

 

ただし、元享元年(1322)西園寺実兼処分譲状案は分割相続である(ただし、関東申次を継がせた実衡を「家督之正流」として日記文書や氏寺妙音院を譲与している)。久我家が単独相続に移行したのは南北朝期(岡野友彦「中世久我家と久我家領庄園』続群書類従完成会2002』、勧修寺家も南北朝期(『中村直勝著作集第4巻』淡交社1978』とされている

 

 

 

 実務官人について、官務(大夫史)は11世紀末頃より小槻氏が世襲・独占し官司請負制となり、局務(大外記)は12世紀半ば中原氏と清原氏によって独占され官司請負制になったというのというのが通説であるが、遠藤珠紀『中世朝廷の官司制度』吉川弘文館2011は、後世から遡って系図の特徴から「家」成立の起点設定しているあり方に疑問を呈し、小槻氏については13世紀後半、中原氏は14世紀に中世的「家」が成立するという。

 

文永4(1267)、小槻秀氏(大宮流)と小槻有家(壬生流)の代に所領相論の結果、小槻「氏」のなかで永業流(大宮家)と隆職(壬生家)の優越を宣言し、両流で官務職と相伝文書の独占的継承を認めたことが「家」成立の画期とする。

 

  文永10(1273)つまり元寇の前年の「小槻有家起請」は「所領事(中略)有家子孫中、伝文書仕朝廷之者、為其財主可惣領(攻略)」と文書だけでなく所領の嫡子単独相続を定めた。実際には所領争論はこの後も繰り返されているが、嫡子単独相続の自覚的宣言として、戦後の民法改正まで700年近く続いた、嫡子単独相続の濫觴とみなしてよいだろう。

 

関連して三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館 2007によれば、文永10年に九条忠家が関白に就任し、いわゆる五摂家が摂関職に就任できる家と確定したのであり、蒙古襲来の前年文永10年はその意味でも画期といえるのではないか。

 
 
 

[ii]江守は、出嫁女の婚家帰属について漢族の嫁入婚文化の影響のほか、朝鮮族との関連性、さらにギリヤーク族に日本の東北地方にみられる「カマド分け」儀礼に似た習俗がみられることから近似していることを報告している。

 

  火による祓除

 

 火の儀礼は、韓国や満州族(中国では満族という)と共通し、ユーラシアに広くみられるものであるが、『隋書』倭国伝に「婦、夫家に入るや、必ず先ず火を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ」の一文があり、大化前代にも嫁入婚があった。その他労役婚(年期婿)、養老招婿婚など北方民族との共通点を多く指摘しているが

 

 日本では花嫁が夫家に入るとき、火を跨いだり、交叉する松明の下をくぐらされたり、焚火の傍らを通る火の儀礼は各地で行われていた。著者は言及してないが、二木謙一『中世武家の作法』吉川弘文館1999が文明-永正期の政所執事伊勢貞陸(さだみち)の著書でも、武家の婚礼でも夕刻の輿入れで門火という篝火がたかれるとしている。

 

  

 
 
 

[iii]父系的な傾向は2世紀からというのは、倭国の大乱で西日本が内乱状態だった。妻方居住婿入り婚だと、戦力となる若い男の忠誠心が維持できず戦闘に不利であり、内乱期には嫁入(夫方居住)の父系を促したとの見解。

 

 結婚にあたって火を跨いで妻が夫の家に入るという習俗は、わが国に広くみられる、火の間を通るのもあるが、火によって花嫁が清められて夫の家に入るという西ヨーロッパにいたるまでユーラシアで広くみられる習俗であるから、古代から嫁入り婚があったという説である。また牧場の経営も父系となるといっている。東国武士の同族は牧場の経営組織からでてきたという仮説も提示されている。

 
 
 

[iv]高群逸枝は、平安前期の「一時的妻訪婚」を意図的な創作により「純婿取婚」とした。八九四年より一〇八七年までの結婚は婿の実家に妻子を連れていくことはないとするのである。

 

 

 

 要するに  ツマドイ、ムコトリとは、婚姻の初期の段階であるのに、母系原理の根強い存続を主張するために、意図的資料操作により虚構の学説をでっち上げたのである。  

 

 

 

 栗原弘[1994]によると、高群逸枝説というのは、日本は古代から一貫して父系家父長制であり、男性による女性支配が宿命であるとの説を打破し、男性社会に反撃する目的で創られたもので、女性史を冷静にみようとするものではなかった。 栗原は藤原氏の主要な邸宅の伝領過程を明らかにすることによって、高群が父系異居構想のために意図的操作をしていることを明らかにしている。高群学説について学問的否定者は、洞富雄、江守五夫、鷲見等曜、思想的批判者として、緒方和子、中山そみ、犬童美子である。

 

 

 

 ところが批判的継承者や思想的共鳴者のほうがずっと多いのである。このために高群学説がいまだに偉大だと勘違いしている人が多いのが大問題である。

 

 

 

 私が思うに、当事者の合意で婚姻が成立するのは古典カノン法の理念である。秘密結婚を承認したのは教会法だった。しかしラテン的キリスト教世界の教会法圏外の社会ではそうではない。一般的に、婚姻成立のために重要なのは妻方の父母、親族の承認である。そうでないと駆け落ちになるからである。日本の古風なムコトリの意味は娘との婚姻を承認することを公にする儀式として重要なのだろう。

 

 

 

 柳田国男の「聟入考」は、日本は古代か一貫して父系社会であり、「聟入」を付随した古風の婚姻と、「聟入」を喪失した新しい婚姻を峻別しない[栗原1994 32頁]。  

 

 

 

 私は必ずしもそう考えない。当事者が結婚相手を探して仲人が仲介する村落と、家と家との取決を仲人が仲介する結婚が基本の村落では結婚のあり方が違うからである。

 

 

 

 しかし一時的妻訪婚とて、いずれ、夫方に居住し落ち着くということであれば、柳田の結婚のあり方としては大差ないと認識してよい

 

 

 

 京楽真帆子[1993]は高群逸枝の古代招婿婚・妻方居住が基本だったとする説を明確に否定している。 「貴族の居住は、一般に「仮住まい」・「寄住」を経たのち、買得、譲渡によって所有権を正式に得た邸宅で行われるようになる。平安貴族にとって、妻方居住はこうした「仮住まい」・「寄住」の一形態にすぎなかった」  妻方居住は仮住まいの選択肢の一つにすぎなかったわけである

 
 
 

[v] 陽成天皇遜位事件は、事実上、基経の政治力で退位させ、一品式部卿時康親王(光孝天皇)を皇位継承者としたというのが通説。時平の母は光孝の姪、基経の母藤原乙春は、光孝生母と姉妹、つまり従兄弟だった。

 

文献表

 

明石一紀

 

2000「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下

 

2006『古代・中世のイエと女性』校倉書房196頁以下

 

荒井献

 

1985「新約聖書における女性の位置」『聖書セミナー』第1号1985日本聖書協会発行 162頁以下 『新約聖書の女性観』岩波セミナーブックス 1988も同内容

 

嵐義人

 

1998「姓氏・名乗、あれこれ」(『日本「姓氏由来」総覧』新人物往来社222)

 

井戸田博史

 

1986『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986 

 

井上兼行・清水昭俊

 

1968「出雲調査短報」『民族學研究』331号 1968

 

上野和男

 

1982「日本の祖名継承法と家族--祖先祭祀と家族類型についての一試論」『政経論叢』5056

 

1985「日本の位牌祭祀と家族--祖先祭祀と家族類型についての一考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』6

 

ウタ・ランケ・ハイネマン

 

1996高木昌史他訳『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 20頁以下

 

梅村恵子

 

2000「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店

 

江守五夫

 

1990『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990

 

1993「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993

 

1998『婚姻の民俗-東アジアの視点から-』吉川弘文館1998

 

大竹秀男

 

1977『「家」と女性の歴史』

 

大藤修

 

2001「幕臣体制の成立と法」『新体系日本史2 法社会史』

 

折井美耶子

 

2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636 

 

加地信行

 

1998『家族の思想 儒教的死生観の果実』PHP新書

 

勝俣鎭夫

 

2011『中世社会の基層をさぐる』山川出版社

 

蒲生正男

 

1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968

 

1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本―岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970

 

1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

 

1974b「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3

 

 1975「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3 

 

河内祥輔

 

2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館

 

告井幸男

 

2007「摂関・院政期における官人社会」『日本史研究』535

 

官文娜

 

2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版

 

京楽真帆子

 

1993「平安京における居住と家族-寄住・妻方居住・都市」『史林』76巻2号

 

金宅圭

 

2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会

 

熊谷開作

 

1987『日本の近代化と「家」制度』法律文化社,

 

クーランジュ

 

1924 田辺訳『古代都市』白水社1961、原著1924)

 

栗原弘

 

1994『高向群枝の婚姻女性史像の研究』高科書店 

 

久留島京子

 

1989「市民社会の成立と女性論-メアリー・アステル」『史學研究』185, 1989

 

小池誠

 

4 2005「序言 「家社会」とは何か(特集 アジアの家社会)」『アジア遊学 』74 

 

清水昭俊

 

1970<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

 

1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

 

1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

 

1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

 

1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 

 

1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

 

滋賀秀三

 

1967『中国家族法の原理』創文社1967 

 

シロコゴロフ

 

1924大間知訳満州族の社会組織」『満州族』(大間知篤三著作集6)未来社1982原著1924)

 

鈴木明日見

 

2013「ランゴバルド諸法における男子未成年者の婚姻 : リウトプランド王付加勅令128条、カロリング勅令140条を中心としてThe Marriage of Male Minor in the Lombard Laws : Based on the Article 128 of the Laws of King Liutprand and the Article 140 of the Laws of Carolingian」『駒沢史学』80 2013

 

曽我良成

 

2012『王朝国家政務の研究』吉川弘文館

 

 

 

ダニエル・デフォー

 

1724山本和平訳「世界文学全集10」集英社1981 379頁

 

谷口やすよ

 

1978「漢代の皇后権The Political Power of the Empress in the Han Dynasty」『史學雜誌 』87(11) 1978 

 

所功

 

1971「続類従未収本『三善氏系図』考「続類従」『塙保己一記念論文集』温故学会

 

仁井田 陞

 

1952『中国法制史』岩波書店1952

 

西谷正浩『日本中世の所有構造』塙書房2006

 

中根千枝

 

1970『家族の構造-社会人類学的分析』東京大学出版会1970「日本同族構造の分析」

 

樋口健太郎

 

2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂(大阪)2005年

 

2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011

 

福島正義

 

1990『武蔵武士-そのロマンと栄光』さいたま出版会

 

福地陽子

 

1956<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展<Article>THE GROWTH AND DEVELOPMENT OF THE CATHOLIC PRECEPT AGAINST DIVORCE」『法と政治』7(4)1956

 

服藤早苗

 

1991『家成立史の研究』 校倉書房1991

 

J・Lフランドラン

 

1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房

 

イレイン・ぺイゲルス

 

1988 邦訳1993絹川・出村訳『「楽園神話」解釈の変遷アダムとエバと蛇』ヨルダン社

 

保科季子

 

2002「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』6121

 

松永晋一1959

 

「キリストのからだとしての教会The Church as the Body of Christ」『神學研究』 9  1959

 

桃 裕行

 

1947『上代学制の研究』畝傍史学叢書 

 

吉田孝

 

1963 『律令国家と古代の社会』岩波書店

 

 
 

 

2015/11/28

原節子の映画を見た感想

  また「東京物語」(1953)をBSでやっていたので見たが、これは典型的な日本の「家」ではないと思った。設定は地方都市のサラリーマンなのである。たまたま風景がよいので、尾道をロケ地にしただけである。家業を継承する家でないし、親父はものわかりがよすぎて戸主としての威厳を感じない。
 九州では戦争未亡人の半数がレヴィレート婚(亡兄の嫂を娶る-逆縁婚)で再嫁した。レヴィラート婚は儒教倫理では否定されているのでこれは庶民的な「家」の論理であるが、その趣旨からすると紀子は三男の国鉄職員と結婚するのが筋と言う見方もできなくもない。しかし、次男の嫁で家を継ぐ立場ではないしサラリーマン家庭なのでそうなる必然もない。しかし不縁にはされていない女だった。レヴィレート婚を勧められるのをいやがって、「節婦」を演じていたという見方もできないわけではなく、むしろ女性の自立を促すフェミニズム作品なのかもしれない。
 もし大坂志郎と再婚させる筋書きだと、外国からは反発をくらうことになる。外人受けするために、必ずしも日本的とはいえない家を描いた。結局虚構である。 

 参考 
大衆文化評論家指田文夫ブログhttp://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948/e/496e763de6de26ce0f4090b266196c9c

2015/11/26

原節子死去のニュースを見た感想

    本日の東スポによれば、戦中「ハワイ・マレー沖海戦」(1942)など戦意昂揚映画に多数出演していた。ヒトラーが絶賛したという都市伝説もあるという。朝日は、戦後第二次東宝争議でいやけがさして組合を脱退したなどということも経歴として書かれていた。

  その時期のことは私だけでなく多くの人がほとんど知らないのである。したがって原節子といってもほとんどなじみのない世代であるが、世界界遺産級といわける「東京物語」(1953)だけは最近BSでやっていたので見た。

    紀子という、都会のOLだが戦争未亡人という役だったが、東洋の婦人道徳である節婦、婦人は生家の親でなく婚家の舅姑を真の親と思い尽くすべきという基本的倫理観を備えている女性として描かれていた。   欧州での評価が高いのはわれわれには退屈なドラマでも、新鮮にうつるということだろう。   ようするに、現代の夫婦別姓論者のように、夫に従いたくない、舅姑に仕えるなんてまっぴら、夫や舅と同じ墓に入りたくない。でも婚家の財産はぶんどりたいという、わがままな人たちからみれば、古風で時代錯誤な女を演じていたということである。  

2015/11/24

民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 下書きその5(選択的夫婦別氏・夫婦別姓絶対反対)

C)ドイツ連邦憲法裁判所の氏に関する決定について

 

 再三述べているとおり、明治民法が夫婦同氏制をとったのは、婚入配偶者の婚家帰属、日本的「家」制度の慣習と合致するのと同時に、大陸系欧州諸国ドイツ、オーストリア、スイス、イタリアといった当時夫婦同氏制の外国法制を継受したという側面があるのである。

しかし、ドイツの1993年の氏に関する法改正は、「夫婦は共通の氏(婚氏)を決定するべきである」という原則を示しつつ「その夫婦が婚氏を決定しないときは、彼らは婚姻締結時に称している氏を婚姻締結後も称する」とし、夫婦同氏制は名目的になり、たんに倫理的、道義的義務にすぎなくなって、事実上選択的夫婦別姓になったとされている。

なぜこんな規定になってしまったのか、その経緯は、富田哲[2003]に依存するが、大筋で次の通りである。

 

○もともとドイツでは妻は夫の氏を称するものだった

 

 欧州で姓は血族名であり、父祖の名に基づいている。アンリ2世の時代フランス貴族は血族名は洗礼名のように慣習になっていなかった[フランドラン1993]。ドイツでも基本的には同じことで父系血族名が姓といえるだろう。

1896年公布1900年施行民法1355条は「妻は夫の姓を取得する」とあり、夫の姓を称することが権利であり義務でもあったが、未婚時の姓を併記する慣習も認められていた。

日本の婿取、入夫婚のような夫が妻の氏を選択できる規定はなかった。1957年改正では男女同権法にもとづき、「婚氏および家族の氏は夫の氏とする。妻は身分官吏に対する表示により未婚時の氏を夫の氏に不可する権利を有する」とされた。妻の未婚時姓併記の慣習を権利としたのである。

 

1976年改正で夫も妻の氏を選択できるようになった

 

 1976年改正では「夫婦は共通の氏を称する」民法13551項としたうえで「夫婦は、婚姻締結に際して、身分官吏による表示により、夫の出生氏または妻の出生氏を婚氏として決定することができる。決定するに至らないときは、夫の出生氏が婚氏となる」同2項と規定した。

 

○連邦憲法裁判所19883.18決定 (夫婦同氏を合憲判断)

 

民法1355条夫婦同氏の義務がドイツ基本法により保障されている人格権を侵害しないとした。理由は、(1)氏が識別のメルクマールとして社会的機能を有しており、かつ家族共同体を表示していること(2)付随的氏の前置を認めていること(3)通称使用を認めていることであった。とりわけ、氏が社会的標識として機能し、家族を表示する点について尊重され保護されるべきであるとした。

「人格権」なるものはドイツが本場である。この趣旨からすると出生氏への愛着云々とか、結婚しても出生氏を通すことが、人格権として憲法上の権利という主張は、ドイツでも通用しないのだから我が国でも通用するはずがないといえる。

 

○連邦憲法裁判所19913.15決定。(民法133522文を違憲とする)

 

「夫の出生氏または妻の出生氏を婚氏として決定することができる。決定するに至らないときは、夫の出生氏が婚氏となる」の後段がドイツ基本法32項「男女は平等の権利を有する。国家は、男女の平等が実際に実現するように促進し、現在ある不平等の除去に向けて努力する。」という規定に反し違憲とした。そのうえで、民法改正までの暫定措置として、婚氏の合意に至らなかった夫婦は婚姻締結時の氏を維持するなどとした。

こり決定はインパクトが大きくラジカルなものと受け止められ、1993年の法改正にいたったのである。

 

ハプニングのような憲法判断に思える。しかし我が国の現行民法には夫婦共通の氏が合意に至らないとき夫の氏とするというような、氏の決定について文面上性差別的な規定はない。民法133522文があまりにも不用意な規定に思えるのである。我が国には戸籍があり、法律婚が入籍と称されるように慣習では、一般的嫁入婚か、婿取婚かは入籍する前に合意されているのがふつうであり、ドイツとは事情が異なるし、そもそもドイツ基本法と、日本国憲法の平等権の判断枠組みは異なると思えるから、この判断は日本法に適用できないと思う。

 

 このように、憲法裁判所が一方で夫婦同氏を合憲としながら、共通の氏が合意に至らないとき夫の氏を称するという強行規定が違憲とされ、結果的に名目的な夫婦同氏制、事実上の選択的夫婦別氏とするいびつなかたちでの立法政策がとられたのである。

 

 私が思うに夫婦一体的なキリスト教法理による夫婦同姓を貫徹できなくなった、ドイツなどの国々は、もはや西洋文明圏内が世俗化し、堕落したことを意味するか、社会主義思想の感化といってよい。我が国は見識をもって夫婦同姓を護持すべきである。

 夫婦斉体思想が西洋であれ東洋であれ文明的な婚姻家族である、それを否定するのは反文明である。文明対非文明の文化闘争である。

 

 

 

富田哲

2003「ドイツにおける夫婦別姓の導入」『歴史評論』636

 

2015/11/23

北の湖親方訃報に思ったこと

   別に北の湖のファンでもなかったが、現役時代一度だけ、京王デパートの相撲展の催物に顔を出していたのをみかけたことがある。身長180センチだったと思うが、上背は高く感じなかった。この人は入門が早く、中1で両国中学に転校したので、純粋に角界一筋の人間といえる。戦後70年で横綱でも理事長になれたのはたった7人だけ。中卒だが人望のある人だったということになる。

  週刊新潮の今年の1月22日号で輪島を国技館に招いて対談している。輪島も下喉頭癌の手術で声が出なくなったということだが、北の湖は若いときはガンガンやっていた酒を病気を機にやめたという。あれだけ豪快に飲んでいたのに「酒がうまいと思ったことは一度もない」と言っていた。うまくないのに飲まざるをえないのは組織風土のせいといえるだろう。 NHKで解説をやっていた初代玉ノ海が意味深に北の湖が偉いのは実績だけじゃないんですよみたいなことを言ってたことがあるのを思い出す。

民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 下書きその4(選択的夫婦別氏・夫婦別姓絶対反対)

D 夫婦別姓論者は一夫一婦夫婦斉体思想を崩壊させる

 

(A) 一夫一婦の婚姻家族の理念の基盤は夫婦斉体思想である

 

西洋では「これこそついにわたしの骨と骨、わたしの肉と肉、彼女は女とよばれることになろう。彼女は男より取られたのだから」(創世記2.23)に根拠があった。女はそもそも男の肋骨からつくられた分身だった。だから男は妻と結びつき、彼らは一つの肉となるという思想から派生したものである。

既に述べたとおり東洋においても「妻は家事を伝え祭祀を承く」戸婚律二九条疏「夫れ祭なるものは、必ず夫婦これを親らす」『禮記』祭統といった「婦女雖複非丁、拠礼与夫斉体」(名例律二七条)と、夫婦斉体=一体思想がある。

『儀禮』『禮記』によれば、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためという思想であり、夫婦は祖先祭祀において祭り祭られる存在ということになる。日本的「家」でも夫婦は一対の位牌となって子孫から年忌供養される。仏教との混淆があるとはいえ、基本的に同じことである。

婚姻家族はあたりまえだと思っている人が多いだろうが、大きな間違いだ。人類学者は父と母がいて子供がいる家庭が普遍的なものでは全くないと言っている。父という地位のない家族が存在するのだ[i]。したがって実は婚姻家族というものは、夫婦斉体思想という文明に強く根付いた価値観に支えられて存在するものといえる。夫婦斉体思想の女性の自立などいう新奇な思想はない。逆に言えば夫婦別姓論者の主張する夫婦斉体を引き裂く価値観に持ち込まれると、案外脆弱な性格をもつものなのである。

もっとも夫婦斉体思想は東洋と西洋では違いがある。キリスト教は終末論宗教なので、祖先祭祀を否定し、婚姻非解消主義という極論に達した。結婚を生殖目的から解放した。「‥‥子どもを産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いである」(ルカ23・29)とイエスは不妊の女を讃えたし、パウロは淫らな行為を避けるための結婚を認め、中世の秘跡神学にいたっては、結婚は花婿キリスト、花嫁教会の結合を象徴するものとなり、結婚はたんに自然的結合ではなく、宗教的愛の結合にまで昂められたのである。

一方、12世紀の聖ベルナルドゥス(教皇や国王に指図できる超大物)が霊的結婚と肉体的交わりのない純潔の愛を賞揚した。修道女はキリストとの霊的結婚を誓い、ベルナルドゥスに対抗したアベラルドゥスは弟子のエロイーズとの恋に反対され、局部を切断されたが、彼女は女子修道会に入って互いの純愛を貫いた。西洋人の結婚に愛とロマンの感情が強く流れているのはこうした伝統によるものである。ス

しかも12世紀にアベラルドゥスの弟子でもあった教皇アレクサンデル3世が決定的に採用した合意主義婚姻理論は、結果的に個人の心理的充足を目的とする結婚のあり方を促し、個人主義友愛結婚の基盤となった。

しかも古典カノン法は、親権者や領主の承認や身分を問わず2人の証人により合意主義により容易に婚姻が成立するものだったため、自由な結婚理念とりわけ秘密結婚を助長したが、古典カノン法や秘跡神学は純粋な愛による結婚を肯定するのである。このために教会は数世紀にわたって世俗権力と闘争を続けた。16世紀ガリカニズムのフランスが教会婚姻法から離脱し、国王による法制としたのが、婚姻法の還俗化の嚆矢であるが、その理由は、親の承認を結婚の要件とすべきとするフランスの主張をトレント公会議が拒否したためだった。

我が国は、東洋からも西洋からも夫婦斉体思想を受容した。明治15年妻妾制の廃止により西洋の単婚理念を継受したといえるし、戦後の憲法24条からキリスト教的思想に基づく合意主義婚姻理論を継受したといえるからである。(もちろん、我が国においても家と家との取り決め結婚以外に、まず当事者の合意があり、仲人が両家を仲介するという2つのタイプがあったのだから、合意を基礎とする結婚の形態は西洋だけのものではない)

 

 

B)明治民法は家族共同体のファミリーネームを欧米から継受したという側面がある

 

 冒頭に述べたように明治民法の夫婦同氏も我が国の慣習に合致していたという面があるが、立法趣旨のもう一つはドイツ、オーストリア、スイス、イタリア等欧州諸国の法制をモデルとしたとされており、西洋の法制を継受したという側面も大きい。

 夫婦の一体性の強い、家族共同体のファミリーネームが継受されたのである。それは、日本の「家」と欧米の家族共同体が近似的性格を有するので受容されたと理解することができる。

 日本の社会学では、欧米の婚姻家族との対比において日本の「家」の独自性、特殊性を強調し、封建的、前近代的なものとして否定的する傾向が強いが、レヴィ=ストロースの「家社会」の研究により、日本の「家」に類似するような社会制度は世界各地に存在していることがわかってきた。レヴィ=ストロースは次のように「家」を定義する。「物質的および非物質的財から構成される財産を保有する法人であり、この法人は現実の系あるいは想像上の系にそって、名前、財産、称号を伝えることを通して永続する。この連続性は親族関係または姻族関係の言葉において、たいていはその双方の言葉において表現されている限り正当なものとみなされる」。また家は成員権が出自規則によって明確に定められているクラン、リニィジより家はある程度融通性があると説明されている[小池誠2005]。

 したがって「家」は特殊なものではないし、排斥される理由も実はない。人類学の大御所清水昭俊は、清水盛光、川本彰、リーチを引いたうえで日本語の「家」と欧語のfamilyは近似したものとの認識を示している。

「家内的親族集団とりわけ家族を内包とし、家内的集団[ii]と親族的機能集団を、あるいはさらに機能的親族集団が何らかの機能的関係(一族としての連帯関係など)に取り込むことのできる範囲の(遠い)親族を外延とする概念」を表す用語として日本語では「家」、欧語の再広義でのfamilyないしその同系語、あるいはhouseないしその同系語が適当」としている。

 夫婦同氏姓制はドイツ法の継受ともいわれるが、英米も慣習は夫婦同姓が慣習である。実際ヒラリーはかつて弁護士として生家のローダム姓を名乗っていた。保守的なアーカンソー州の選挙民は別姓を不快とみなし知事選で夫が負けたである。そこで本心ではないが選挙のためにクリントン姓にしたのだという。フランスは、アンシャンレジーム期より夫婦同姓を女性の権利としている。結婚した女性が寡婦となっても終身的に経済保障されるためには、夫姓を名乗る必要があるのは当然だろう。総じて言えば欧米は夫婦同姓であり、欧米で別姓を主張するのはキリスト教文明に対する反抗であり跳ね上がりである。

 我が国でも明治民法施行前の実態も、夫婦同氏が大勢だったが、折井美耶子[2003]が発掘した資料によると西欧式を意識していた側面もうかがえられる。明治24年8月創刊の『女鑑』(教育勅語の精神を女性に徹底する国粋主義的婦人雑誌)では「土方子爵夫人亀子」「高島子爵夫人 春子」「土岐夫人 理世子」などとなっており、田辺龍子が明治21年に発表した小説『藪の鶯』では「レディ篠崎」「ミスセス宮崎」と呼びかけている。

 明治初期に女性の新しい生き方を模索して格闘した女性たち、岸田俊子は明治18年に結婚して中島俊子に、景山英子は明治18年に結婚し福田英子に、星良は明治30年に結婚して相馬良となっている。進歩的な女性たちを含め夫婦同姓だったのである。

 この点につき折井は「○○夫人と呼ばれることで夫と一体化するように感じて、旧時代なはない新しい家族像を実感していたのではなかろうか」という。

 戦後の憲法24条で合意主義を継受したのだから、より一層西洋文明の結婚観に近づいたのである。したがって24条に合致するのは夫婦同氏制なのである。



[i]その例証として南インドのナヤール族がよく引用される。ナヤール族の女はその兄弟・姉妹・母親・母方オジとともに住み、彼女の夫は夜だけ訪ねてきて朝食前に帰っていく(蒲生1974)。母系大家族(タラヴァード)制だが男尊女卑で、最年長男子が家長として権威をもっている。しかしそれは父ではなく母方オジなのである(清水1987)

 ナヤールの子どもは自分の父を知っているが、父は大家族の成員ではない。父という地位のない家族が存在するのだ。夫が同一カーストでない場合は食事は許されない。要するにセックスだけの夫なのである。

 また下位カーストの夫と通じる女は処刑又は追放されるが、男女とも性的権利を独占しないので、同時に複数の異性を夫・妻とすることができる。ガフは「集団婚」と称している。 

 厳密な定義な定評のある清水昭俊[1987 18]は、家族の構造的定義は困難とする。

[ii] 結局、家族は不確定概念ということになるが、清水昭俊は親族集団と家内的集団の重複の具合で、家族的事象を類型化している。

 社会人類学で家内的集団(domestic group)とは、「成員の身体的相互行為をその内部で行わせる集団」として定義される[清水1987 48頁]。、一般に排便、放屁、あくび、居眠り、入浴を他者に曝すことは恥であり、礼儀として公的領域は一定の身体的相互行為を排除するが、それを内部で行わせるという意味のようだ。

 家内的集団=家族なのではなく、親族的に構成されると家族といえるのである。

折井美耶子

2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636 

蒲生正男

1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968

1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本―岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970

1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

1974b「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3

 1975「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3 

4 2005「序言 「家社会」とは何か(特集 アジアの家社会)」『アジア遊学 74 

清水昭俊

1970<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 

1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

2015/11/22

入手資料整理180

1-105『歴史評論』636 2003 特集姓のゆくえ
富田哲「ドイツにおける夫婦別姓の導入」/柳谷慶子「日本近世の姓と姓観念」/折井美耶子「明治民法制定までの妻と氏」/飯沼賢司「日本における夫婦別姓の特異性/加藤美穂子中国・韓国の夫妻・親の姓/星野澄子「現代社会の夫婦別姓と名前」

10903森明子「ヨーロッパ家族史研究における「家族」概念をめぐって・ミッテラウアーを中心として」『歴史人類』18 1990

10904小池誠「序言 「家社会」とは何か (特集 アジアの家社会)」『アジア遊学 』74 2005 

 著者は「明治民法下のような家制度はなくなっても、世代を超えた縦のつながりに基づく家意識は、完全に日本社会から消えたわけではない」というが、現実には縦のつながりを意識していない人はほとんどいないと思う。
 日本の社会学では、日本の「家」の特殊性を強調する傾向が強かったが、レヴィ=ストロースの「家社会」の研究により、日本の「家」に類似するような社会制度は世界各地に存在していることがわかってきた。レヴィ=ストロースは次のように「家」を定義する。「物質的および非物質的財から構成される財産を保有する法人であり、この法人は現実の系あるいは想像上の系にそって、名前、財産、称号を伝えることを通して永続する。この連続性は親族関係または姻族関係の言葉において、たいていはその双方の言葉において表現されている限り正当なものとみなされる」。家は成員権が出自規則によって明確に定められているクラン、リニィジより家はある程度融通性があると説明されている。
 
 人類学者が特殊ではないと言う以上、川島武宣みたいに「家」イデオロギーを否定的なものと見なす必要などない。

10905波平恵美子「日本の家社会」『アジア遊学 』74 2005 
 核家族を中心に考えると、人は二つの種類の家族の成員となる。両親の子と生まれ、結婚するまでのファミリー・オブ・オリエンテーションと、結婚して独立して家庭を営むファミリー・オブ・プリクエーションとである。
 白川村の大家族制度は、当時膨大な労働力を要した養蚕を大規模を行い現金収入を得るために一時期特殊なかたちで発達したものと言っている。それはそうかもしれないが家族は変貌するとの見解だが、やや安易ではなかろうか。

10906秀村研二「チプ、門中と父系意識の変化」『アジア遊学 』74 2005

10907森明子「オーストリア農村の家 家の『自立』と人の『自立』」『アジア遊学 』74 2005

10908住谷一彦「オーストリア・ネッケルマルクト村の調査ノート」『歴史民族学ノート』未来社 1983

10909ミッテラウアー,ミヒャエル、 ジーダー,ラインハルトミッテラウアー『ヨーロッパ家族社会史―家父長制からパートナー関係へ』名古屋大学出版会 1993」

2015/11/19

1億総活躍政策の不快

 JCB書類送検のニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151119-00000157-jij-sociを読んだが、ホワイトカラーでこれほどの有名企業で働けるなら、週35時間くらいの残業だから、苛酷とは思えない。これはそもそも労使自治の問題である労使協定違反というだけで不払いでもないのに悪者扱いするのがまちがい。労働政策が反自由主義的でそっちのほうが悪だと思う。
 ところで今一番、不安に思っているのは、12月16日の大法廷判決だが、第四次男女共同参画も間もなく答申され閣議決定されるというがこれも相当不快である。それにくらべれば小ネタだが、国家社会主義者安倍が推進する介護離職ゼロだとか希望出生率1.8だのという社会党のような政策がある。政策ブレーンの菊池桃子氏によれば、ソシアルインクルージョンというべきとのことだが、自民党から出てきた政策といえば、企業内保育の拡充だの介護休業できる職場環境だの、保育士の試験を年2回にするだの。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151118-00000584-san-pol
 企業保育所とか、従業員の厚生福利に関して政治が介入するするのがそもそも間違い、継続雇用を強化すればするほど、企業は女子の新規採用や、いったん離職した婦人の採用を減らさざるをえない。若年女子の正社員採用が減れば持参金効果はマイナスの効果となり、そもそも年収400万未満の男性は結婚しない傾向にあるから、結婚しにくくなる。私が思うに政策を打てば打つほど悪循環になる。
 三浦展の『格差固定』光文社という本によれば、「30代で子供のいない夫婦は自民党に投票」「20-34歳という若い世代の専業主婦は自民党に投票」ということである。つまり自民党に投票した人は、介護離職ゼロとか、保育士を増やすとかそういう政策に期待して投票しているはずがないと考える。左翼政権のような政策で、有権者に対する裏切りだと思う。

2015/11/17

婚姻家族をオワコン化させる夫婦別氏(別姓)

今日の産経新聞「正論」八木秀次の「夫婦別姓、慎重な最高裁判断を」     http://www.sankei.com/column/news/151117/clm1511170001-n1.htmlを読んだ。選択的夫婦別姓が導入されると姓(法的には氏)は家族の呼称でなくなる。氏=家名は意味をなさなくなる、オワコンになるという革命的な出来事という趣旨を言ってますが、そのとおりでしょう。最高裁が革命を起こしてよい権限があろうはずがない。この人は90年代から、夫婦別姓反対でオピニオンリーダーの一人だったし、当然のことながら再婚禁止期間も含めて合憲判断をという主張で大筋で同意する。学術論文を見たことがないとかいろいろ批判されているが、言論人としては、都議会ヤジ事件、非嫡出子相続の大法廷判決批判、渋谷区パートナーシップ条例批判、ヘイトスピーチ規制反対などの論陣も張ったわけだし、よくやっていると思います。問題は八木氏に続く言論人が少ないということだと思います

 そこで昨日の続きであるが、婚姻家族は普遍的なものではない。しかも家族の機能は代替できるのだ。国家社会主義者安倍は、一億総活躍社会の実現として、介護離職ゼロを目指すという、厚生労働省にそそのかされてやっているとは思えない。本気で家族機能の解体を図ろうとしているのだろう。
 家族の一体性というが、それをささえているのは伝統的規範、慣習、制度、イデオロギーであるが、わが国には、イデオロギーは完全に崩壊している。舅姑を真の父母と思えとす寺子屋でやっていた儒教的婦人道徳は排斥され、明治以降の良妻賢母教育もフェミニストのつきあげで崩壊した。婦人道徳教育というものは何もないのである。
 新約聖書には家庭訓があるが、キリスト教徒は1パーセント程度、教会の日曜学校に通っている女子などほとんどいない。エホバの証人なら聖書に忠実なので夫に忠実に従う妻になるだろうが、そういう教育を受けている女子は少数しかいない。
 したがって、わが国で夫婦一体性を担保している制度は、ファミリーネームとしての夫婦同姓と、慣習として残っている家制度、死んで夫婦一対の位牌になって年忌供養されるという慣習ぐらいしかないのである。
 したがって夫婦同姓制度が潰されると、婚姻家族の理念はあっという間に崩壊する。

 家庭は、相互に扶助協力義務を有する夫婦(民法752条)を中心として、未成年の子の監護養育(民法820条、877条1項)や、他の直系血族の第一次的扶養(民法877条1項)等が期待される親族共同生活の場として、重要な社会的基礎を構成するものである。国民感情及び社会的慣習を根拠として制定された民法750条は断乎維持されるべき。
 ところで1993年の榊原富士子・吉岡睦子・福島瑞穂『結婚が変わる・家族が変わる-家族法・戸籍法大改正のすすめ』日本評論社という著書では次のように主張されている。(72頁以下)。

○ 夫婦の同居・協力・扶助義務の規定もいらない(民法752条廃止)
○ 夫婦の日常の家事費用の連帯責任の廃止を(民法761条)
○ 老親介護は「嫁」のただ働きか( 日本的家制度における出嫁女の婚家帰属性を女性差別として非難)

 
 このように、伝統的な婚姻家族の破壊を意図してます。特に舅姑に仕えたくないと云う趣旨は伝統的婦人道徳に反し邪悪そのものと云える。夫婦別姓推進論者、の本音が実は相互に扶助協力義務を有する夫婦(民法752条)の廃止でもあるようだ。
 韓国で戸籍が廃止され、新しい身分登録制度になったようには我が国も戸籍が廃止され、身分登録制度とマイナンバーだけになるはずだ。
 国家社会主義者安倍が女性活躍法案を成立させたので、上級公務員の3割以上が女性になる。フェミニズム、ジェンダー理論による政策はより強化される。当然、嫁入り婚の醇風美俗、白無垢、色直しも排撃される、教会挙式のヴァージンロードも、ゲルマン法の庇護権の父から夫への譲渡を意味する儀式なので潰されるはずだ。
 今でも保育士を保母さんといってしまうと社会的に抹殺されかねない怖さがありますが、結婚はたんなるパートナーシップ、醜い打算による野合に変質することになる。
 

2015/11/16

アイデア(ナヤール族と比較させる)

 既に述べたように夫婦斉体思想の核心は創世記にあったのである。
 「これこそついにわたしの骨と骨、わたしの肉と肉、彼女は女とよばれることになろう。彼女は男より取られたのだから」創世記2.23
 女はそもそも男の肋骨からつくられた分身であった。だから男は妻と結びつき、彼らは一つの肉となる。
 イエスはこれを婚姻非解消主義の根拠にしてしまったために、中世の秘跡神学にいたっては、結婚は花婿キリスト、花嫁教会の結合を象徴するものとなり、結婚はたんに自然的結合ではなく、宗教的愛の結合にまで昂められたのである。
 端的にいえばそれが西洋文明の単婚理念である。
 とはいえ現代の生物学では逆であって、もともと男も女であった。妊娠6週目から24週目にかけて大量のテストステロンが分泌されこれをアンドロゲン・シャワーと呼ぶが、このとき脳は女性的特徴を失い男となるのである。
 したがって、科学的にいえばアダムとイヴはフィクションである。
 しかし、創世記は文明規範の核心だから否定できないのである。西洋文明1500年の核心とは、アウグスティヌスのアダムの罪により人類の倫理観は致命的に腐敗しているとする価値観である。だから人間性とかヒューマニズムなどというものを信じてはいけない。われわれは、神の宣告により労働せざるをえなくなったから、勤勉に働かざるをえない。道徳の基本は創世記からはじまるものである。
 
 それに挑戦しているのが、夫婦別姓論者をはじめとするフェミニスト、ジェンダー理論である。私が夫婦一体性の理念を揺るがせにできないというのは
そういう趣旨である。

 婚姻家族や、父と母がいる家庭というものが普遍的なものだと思っている人がいるがとんでもない。核家族普遍説は人類学者が明確に否定している。
 
 その例証として南インドのナヤール族がよく引用される。ナヤール族の女はその兄弟・姉妹・母親・母方オジとともに住み、彼女の夫は夜だけ訪ねてきて朝食前に帰っていく(蒲生1974)。母系大家族制だが男尊女卑で、最年長男子が家長として権威をもっている。しかしそれは父ではなく母方オジなのである(清水1987)。
 ナヤールの子どもは自分の父を知っているが、ほとんど接触はない。父という地位のない家族が存在するのだ。夫が同一カーストでない場合は食事は許されない。要するにセックスだけの夫なのである。
 また下位カーストの夫と通じる女は処刑又は追放されるが、男女とも性的権利を独占しないので、同時に複数の異性を夫・妻とすることができる。ガフは「集団婚」と称している。
 
 厳密な定義な定評のある清水昭俊[1987 18頁]は、家族の構造的定義は困難とする。

2015/11/15

民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 下書きその3(選択的夫婦別氏・夫婦別姓絶対反対)

法律論だけではなく人類学、民族学、法制史、倫理学、歴史すべてを結集していく方針だったため、まだ未完成なのは遅すぎて大失敗、無責任のそしりをまぬがれないが、無意味には終わらせたくないので、カウンターレポートとして完成させたい。1216日最高裁判決が違憲ならば言語道断、司法部による悪しき立法政策として国会の権能を奪い取ることとなり、当然批判しなければならないし、たとえ合憲でも反対意見と僅差だったり、国会に立法を促すような厚かましさがあれば問題が再燃する可能性があるからである。

 

 

(エ)憲法24条は教会法(古典カノン法)の理念を継受しており、夫婦同氏がその理念に一致する。

 

A 憲法24条は西洋の合意主義婚姻理論を継受していると解釈できる

 

これまで、わが国の伝統的な家族慣行に照らして夫婦同氏制が妥当なものであると言ってきたが一転して視点を変えたい。

争点になっている憲法24条だが、夫婦別姓論者が憲法違反というのとは逆に、むしろ夫婦同氏が憲法24条の理念に合致していると私の見解である。

なぜならば「.婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」というのは12世紀古典カノン法の合意主義婚姻理論に由来するものだからである。

 むろん憲法24条起草者が古典カノン法を意識して起草はしていないかもしれない。しかし、人類史上、親や領主の承諾も不要、挙式も不要、個人の合意のみで(理念的には二人の証人がなくても)婚姻が成立するというのはラテン的(西方)キリスト教世界の教会法だけなのである。ラテン的キリスト教世界では10世紀半ばより教会裁判所が婚姻を専属管轄権としたため、中世高期に婚姻法が体系化されたのであるが、合意主義的婚姻理論とは、ランのアンセルムス、シャルトルのイヴォ、サンヴィクトルのフーゴ、ぺトルス・ロンバルドゥス[i]が理論化し、教皇アレサンデル3(115981)、が決定的に採用したものである(正確には緩和的合意主義。合衾により解消不能な完成婚となるというもの)。

 西洋文明世界の規範提示者は、古代教父だけではない、婚姻という観点では、中世最大の教師ロンバルドゥス、グラティアヌスの弟子でもあった教皇アレクサンデル3世は、大きな存在なのであり、それは現代の個人主義的友愛結婚についても同じことだ。 

 なぜ、グラティアヌスなどの合衾主義を採用しなかったかというと三つ理由がある、第一にヨゼフは許婚者とされるのがならわしだが、サン・ヴィクトルのフーゴはマリアとヨゼフの間に真実の結婚があったと主張し、合衾がなくても婚姻が成立しないと辻褄があわなくなるからである。第二に合意がなければ結婚はないということは、結婚は自己決定であり、逆に結婚なせざる自由、独身を通し聖職者になる可能性を拡大した。第三に合意主義はイギリスからの上訴を教皇が裁定してカノン法になったもので、婚前交渉のある北西ヨーロッパの基層文化に合致していた。処女性を重視する地中海沿岸では合衾主義でもよかったが、教会法はどの地域でも通用する普遍的な制度を採用したのである。

教会挙式は16世紀の教会法が秘密結婚の温床となっているという非難をかわすためトレント公会議以降義務付けられたのであり、イギリスにいたっては、宗教改革でトレント公会議を否定したので、古典カノン法がコモンローマリッジとして18世紀中葉まで生ける法だった。居酒屋であれ二人の証人さえいれば容易に婚姻は成立した。婚姻法のもっとも早い還俗化は16世紀のトレント公会議で親の承諾権を主張を拒否されたガリカニズム教会つまりフランスである。近代の婚姻法の還俗化によって婚姻非解消主義が維持できなくなったが、キリスト教的婚姻の基本特性である。夫婦の一体性という理念は、西洋文明圏では一貫したものといえる。

 

 

 もっとも教会がファミリーネームを制定したわけではない。しかし教会法が適用されたラテン的キリスト教世界、例えばフランスにおいて血族の概念が確立したのは1314世紀、父系姓の確立は14世紀である[フランドラン1993]。父系姓というのがファミリーネームで、夫婦同姓なのであり、これは、夫婦の一体性を基本特性とする教会法的婚姻理念(これは次節で詳しく述べる)の影響が最も大きいと考えられるからである。

 

B 夫婦の同等の権利も教会婚姻法やキリスト教的夫婦倫理の継受という側面がある

 

 ところで憲法24条の「夫婦が同等の権利を有することを基本として」というのはどうか。私はこれもキリスト教の婚姻理念に継受している側面があると考える。ローマにおいては、家父権を有する家父の一個の男性の支配下に家族が従属するものとされたが、教会法は、家族集団から政治的公権的性格を排除した。家族集団は倫理的に規範を維持するものとしたのである。

 聖書にも夫婦の対等な権利に言及している部分がある。コリント前書735がある。「夫はその分を妻に尽し、妻も夫に然すべし。妻は己が身を支配する権を持たず、之を持つ者は夫なり、斯くのごとく夫も己が身を支配する権を持たず、之を有つ者は妻なり。相共に拒むな‥‥」

 夫の身体は妻のもの、妻の身体は夫のもの。相手の性的欲求を拒むなとしている点、全く対等なのである。

 もっともパウロは同じコリント全書 これが正統教会の規範である。

 「男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」(第一コリント11:3)「男は神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきでない。女はまた男の光栄である。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだから」(第一コリント11:7~9)。「婦人たちは教会で黙っていなさい。婦人たちに語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」(第一コリント14:34))。とも述べているから、男女同権主義者では全くないが、コリント前書735に限っていえば全く対等であり、これも夫婦一体性の論理的帰結でもある。

 

C 西洋文明による夫婦斉体思想

 

西洋の夫婦斉体思想の要点は次の3点である

 

a) 新約聖書の旧新約聖書の「人は、その父と母と離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となる」というもの(創世記224、マタイ195[ii]、エペソ5.31

その解釈はユダヤ教とキリスト教では著しく異なるが、夫婦斉体思想の核心といえる。

 

b)パウロの夫の身体は妻のもの、妻のからだは夫のもの、結婚相手の性的欲求に応える義務とする思想(コリントⅠ7・1-5)。これは初期スコラ学者により夫婦倫理として重視された[iii]。(前節でも引用)

 

c) aの進展としてキリストと教会との間の秘儀を、結婚の秘儀に類比する思想である(エペソ5253132、コリントⅡ112)。とくに第二パウロ書簡[iv]のエペソ書の思想といえるが、秘儀とは、教会は、キリストの神秘的花嫁である故に、ただ一つのキリストのからだであるというものである[松永1959]。もっとも新約聖書においては、キリストが花婿で、教会が花嫁ないし妻であるとは直接的な表現はないけれども、これが12世紀にいたって結婚が秘蹟とそれる根拠となった。

 つまり結婚はキリストと教会の結合の映像となるものとされたのである。キリストと教会の結合が不分離であるように、その結合の象徴たる結婚も絶対不分離とされた。よってスコラ的婚姻観によれば、婚姻の基本的特性は「一体性とキリスト教徒の婚姻において秘蹟に基き特に強固にされた非解消性」とされるのである[福地1956]。


[i] 中世最大の教師、パリ司教、1160没。塙陽子「カトリック教会婚姻不解消主義の生成と発展」『家族法の諸問題()』1993 信山社 からロンバルドゥスの理論を引用する。

「先ず、合意が『私は汝を娶ろう』の意味において、≪ego te accipiam in uxorem≫≪ego te accipiam in maritum≫なる言葉でなされたとき、sponsalia per verba de futuro(未来文言の約婚)として婚約が成立する。これに対し『私は汝を娶る』の意味において≪ego te accipio in uxorem≫≪ego te accipio in maritum≫なる言葉で交換された場合には、 suponsalia per verba de praesente(現在文言の約婚)であって、婚姻はただちに成立する。しかしこの婚姻は所謂matrimonium ratum(et non consummatum)(未完成婚)であって、信者間にのみ成立する婚姻であり、原則として非解消で在るが若干の例外を認めうる。 すなわち、夫婦の一方が婚姻に優る状態であるところの修道生活に入る場合、又は教皇の免除(despensatio)を得た場合には解消しうる。この未完成婚の状態にある夫婦にcopula carnalis(身体的交渉)を生じた場合、始めて『二人の者合して一体となり』(erunt duo carne una)、キリストと教会の結合を顕わし、秘蹟としてmatrmonium ratum et cosummatum(完成婚)が成立する。これは絶対に不解消である。また、婚約の場合において、当事者がverba de praesentiを交換した場合、これは婚姻に転換するが、単に未完成婚にすぎず、完成婚になるためには更にcopula carnalis(consummatio)を要する。唯、verba de futuroを表示した当事者間においてverba de praesentiを交換する前にcopula carnalisを生じたときは、直ちに完成婚を生じた。したがってconsummatioは婚姻の成立に不可欠のものではなく、単に婚姻を不解消とするものにすぎない」

 図式化すれば以下のようになる。ロンバルドゥスは合意主義婚姻理論とされ、合意主義にこだわった神学者といわれるが、合衾の意義もそれなりに重視されており、巧妙に折衷させた理論といえるだろう。

①現在文言での約言(婚姻成立)→合衾(完成婚)

②現在文言での約言(婚姻成立)→合衾の前に修道生活入り又は教皇の免除(例外的に婚姻解消)

③未来文言での約言(婚約)→現在文言での約言(婚姻に転換)→合衾(完成婚)

④未来文言での約言(婚約)→合衾(完成婚)

[ii] ○創世記

 

 主なる神がアダムの肋骨からイヴを造ったときアダムはこう言った。

創世記2.23-24

 

「『「これこそついにわたしの骨と骨、

わたしの肉と肉

彼女は女とよばれることになろう。

彼女は男より取られたのだから。』

それゆえ男は彼の父母を離れて、彼の妻に結びつき、彼らはひとつの肉となるのである。」

 

 西洋文明の夫婦斉体思想の根拠は創世記だった。

ユダヤ教のラビは、のこれらの数行を性的ふるまいの基準とした。「彼の父母を離れて」は近親姦禁止の根拠とした。

の根拠である。ラビ・アキバ(紀元後135年頃)「彼の妻に結びつき」の解釈として、それは隣人の妻でも男でも、動物でもないとして、姦淫、同性愛、獣姦禁止の根拠とした。ラビ・イシ(145年頃)は「彼らはひとつの肉となる」という婉曲な表現から、受胎を抑制する不自然な性行為や体位の禁止の根拠とした。そのうえで、生殖を容易にするものは、離婚であれ多妻であれ是認するのである[ぺイゲルス1988 55頁]。

ところがイエスは、創世記この重要な箇所について、ラビの解釈とは逆に離婚禁止の根拠とするのである。パリサイ人に対しイエスは次のようにいう。

 

 

しかしイエスはラビの一般的な解釈とは正反対に婚姻非解消主義の根拠にしてしまう。

 

マタイ福音書1946

あなたがたは読んだことはないのか。最初に彼らを創造された方は、彼らを男と女に創造し、そして言われた。『それゆえ男は彼の父母を離れて彼の妻と結びつき、二人はひとりになる』だから彼らはもはや二人でなく、ひとりである。したがって神が結びつけられたものを人は離してはならない

イエスによるヘブライのポリガミーと離婚という習慣(古代ユダヤはの否定と解釈されているが、これが単婚・婚姻非解消主義というこれが西洋の夫婦斉体思想の核心かもしれない。

しかし逆説的だが、イエスは婚姻家族に全く好意的でない。御国のために家族の義務を捨てよ、家族の絆を裂き、家族を憎みなさいと説く。

「‥‥自分の父、母、妻、子供、兄弟。姉妹を、さらには自分の生命をも憎まないなら、私の弟子となることはできない。」(ルカ福音書14・26)。

「私が来たのは地上に火を投じるためである‥‥あなたがたは私を地上に平和をもたらすために来たと思うのか。否、言っておくが、分裂である。今から後ひとつの家庭では五人が分裂し‥‥父は息子と、息子は父と、母は娘と、娘は母と、姑は嫁と、嫁は姑と対立するからである」(ルカ福音書12・49-54)

さらに、イエスは永遠の生命は独身者にふさわしいとも説く。

「この世の子らは娶ったり嫁いだりするが、かの世に入って死者のなかから復活するのにふさわしいとみなされる人々は、娶ることも嫁ぐこともない。彼らは天使に等しい者であり、復活の子らとして神の子であるがゆえにもはや死ぬことはないからだろう」(ルカ福音書20・34-36)

[iii]コリント前書はAD53年に書かれた、疑う余地のないパウロの真筆である。コリント前書第7章が消極的ながら結婚を是認し最もキリスト教的な結婚の意義を示す。

 

「‥‥男は女にふれないほうがよい。しかし淫らな行為を避けるために、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持つがよい。妻は自分の身体を夫の自由にまかせ、夫も自分の身体を妻の自由にゆだねなければならない。互いに拒んではいけない。‥‥」(コリントⅠ7・1-5)

「わたしのように、独りでおれば、それが一番よい。しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは、結婚する方が、よいからである。」(コリントⅠ8-9)

 

 

当時コリントは人口60万人超ギリシャ最大の都市だった、神殿売春ももちろんあった。「コリント娘」とは娼婦を暗示させる言葉だった。パウロは誘惑の多いコリントの信徒に対し、淫らな行為を避けるために次善の選択として結婚を認め、結婚において相手の性的欲求にじるのは義務であり、夫の身体は妻のもの、妻の身体を夫のものと説いた。これも夫婦斉体思想の一つといえるだろう。

 みだらな行為を避けるための結婚は、初期スコラ学者により定式化する。パリ大学神学教授のオーベルニュのギヨーム(1180/901249)はこういった。「若くて美しい女性と結婚することが望ましい。なぜなせば美人を見ても氷のようにいられるから」。毒をもって毒を制するということ。

同毒療法としての結婚の意義づけであるが、別の見方をすればイエスと真正パウロの結婚に関する見解は結婚を生殖目的から解放したのである。終末論的状況において生殖は意味をなさないからである。西洋の個人主義的友愛結婚の根拠はここにあった。

 

[iv]第二パウロ書簡とは、聖書正典としてパウロの名に帰せられているが、文献学的には偽パウロの筆による二次的なパウロ主義的書簡をいう(テモテ第一、第二、テトス、エペソ、コロサイ、テサロニケ第二、)。ヘブル書は伝統的にパウロに帰せられているが、パウロによるものと限定する必要はないので、パウロ書簡に含まれないことが多い。又ペテロ第一、第二はペテロの名に帰されているが、パウロ主義に近く、これらも含めてここでは第二パウロ書簡等と称することとする。

ペイゲルス女史がわかりやすい説明をしている。パウロの死後30年~50年の時点で、初期クリスチャンは、急進的禁欲主義者と通常の結婚を支持する穏健派との間で遺産の分捕り合いのような争いとなった。その結果大多数の教会が、2世紀末までに今日新約聖書とよばれている福音書と書簡の目録の結集を正典として受け入れることにより穏健派が勝利した。[ペイゲルス1988 78頁]

 真筆性の疑義は、決して正典としての価値を毀損する趣旨ではない。イエスもパウロも独身主義者である以上、禁欲主義の主張はそれなりの根拠をもっていたが、「家庭訓」ジャンルを有する第二パウロ書簡等が下記のように急進的禁欲主義を排斥したため、キリスト教は、急進主義的なセクトで終わることなく、世界的宗教に進展することができたからである。

 「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、結婚の床は汚されてはならない」(ヘブライ134)。エペソ書は禁欲主義的キリスト教徒を愚か者と呼び「自分の肉体を憎んだ者は誰もおらず、むしろそれを養い、いたわるものである。わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。『それゆえに、人は父母から離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』この奥義は大きいそれはキリスト教会とをさしている。いずれにしての、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。また妻も夫を敬いなさい」(エペソ52933)と主張した<。

 エペソ書の著者は、アダムとイヴのその結果としての結婚のヴィジョンをキリストと教会の大いなる秘儀を象徴するものとした[ぺイゲルス1988]とした。

 

文献表

 

 

 

荒井献

 

1985「新約聖書における女性の位置」『聖書セミナー』第1号1985日本聖書協会発行 162頁以下 『新約聖書の女性観』岩波セミナーブックス 1988も同内容

 

嵐義人

 

1998「姓氏・名乗、あれこれ」(『日本「姓氏由来」総覧』新人物往来社222)

 

井戸田博史

 

1986『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986 

 

井上兼行・清水昭俊

 

1968「出雲調査短報」『民族學研究』331号 1968

 

上野和男

 

1982「日本の祖名継承法と家族--祖先祭祀と家族類型についての一試論」『政経論叢』5056

 

1985「日本の位牌祭祀と家族--祖先祭祀と家族類型についての一考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』6

 

ウタ・ランケ・ハイネマン

 

1996高木昌史他訳『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 20頁以下

 

梅村恵子

 

2000「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店

 

江守五夫

 

1990『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990

 

1993「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993

 

1998『婚姻の民俗-東アジアの視点から-』吉川弘文館1998

 

加地信行

 

 1998『家族の思想 儒教的死生観の果実』PHP新書

 

勝俣鎭夫

 

 2011『中世社会の基層をさぐる』山川出版社

 

蒲生正男

 

1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968

 

1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本―岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970

 

1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

 

1974b「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3

 

 1975「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3 

 

河内祥輔

 

2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館2007

 

 

 

官文娜

 

2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版2005

 

金宅圭

 

2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会2000

 

熊谷開作

 

1987『日本の近代化と「家」制度』法律文化社,1987

 

クーランジュ

 

1924 田辺訳『古代都市』白水社1961、原著1924)

 

 

 

久留島京子

 

1989「市民社会の成立と女性論-メアリー・アステル」『史學研究』185, 1989

 

清水昭俊

 

1970<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

 

1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

 

1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

 

1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

 

1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 

 

1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

 

滋賀秀三

 

1967『中国家族法の原理』創文社1967 

 

シロコゴロフ

 

1924大間知訳満州族の社会組織」『満州族』(大間知篤三著作集6)未来社1982原著1924)

 

鈴木明日見

 

2013「ランゴバルド諸法における男子未成年者の婚姻 : リウトプランド王付加勅令128条、カロリング勅令140条を中心としてThe Marriage of Male Minor in the Lombard Laws : Based on the Article 128 of the Laws of King Liutprand and the Article 140 of the Laws of Carolingian」『駒沢史学』80 2013

 

ダニエル・デフォー

 

1724山本和平訳「世界文学全集10」集英社1981 379頁

 

谷口やすよ

 

1978「漢代の皇后権The Political Power of the Empress in the Han Dynasty」『史學雜誌 』87(11) 1978 

 

仁井田 陞

 

1952『中国法制史』岩波書店1952

 

西谷正浩『日本中世の所有構造』塙書房2006

 

 

 

中根千枝

 

1970『家族の構造-社会人類学的分析』東京大学出版会1970「日本同族構造の分析」

 

樋口健太郎

 

2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂(大阪)2005年

 

2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011

 

福島正義

 

1990『武蔵武士-そのロマンと栄光』さいたま出版会

 

福地陽子

 

1956<論説>カトリツク教婚姻非解消主義の生成と發展<Article>THE GROWTH AND DEVELOPMENT OF THE CATHOLIC PRECEPT AGAINST DIVORCE」『法と政治』7(4)1956

 

服藤早苗

 

1991『家成立史の研究』 校倉書房1991

 

J・Lフランドラン

 

1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房

 

イレイン・ぺイゲルス

 

1988 邦訳1993絹川・出村訳『「楽園神話」解釈の変遷アダムとエバと蛇』ヨルダン社

 

保科季子

 

2002「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』6121

 

松永晋一1959

 

「キリストのからだとしての教会The Church as the Body of Christ」『神學研究』 9  1959

 

 

 

 

 

 

 

 

2015/11/04

下書き (エ)1

エ)憲法24条は教会法(古典カノン法)の理念を継受しており、夫婦同氏がその理念に一致する。

 

これまで、わが国の伝統的な家族慣行に照らして夫婦同氏制が妥当なものであると言ってきたが一転して視点を変えたい。

争点になっている憲法24条だが、夫婦別姓論者が憲法違反というのとは逆に、むしろ夫婦同氏が憲法24条の理念に合致していると私の見解である。

なぜならば「.婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」というのは12世紀古典カノン法の合意主義婚姻理論に由来するものだからである。

 むろん憲法24条起草者が古典カノン法を意識して起草はしていないかもしれない。しかし、人類史上、親や領主の承諾も不要、教会挙式も不要、個人の合意のみで(理念的には二人の証人かなくても)婚姻が成立するというのはラテン的キリスト教世界の教会法だけなのである。合意主義的婚姻理論とは、ランのアンセルムス、シャルトルのイヴォ、サンヴィクトルのフーゴ、ぺトルス・ロンバルドゥスが理論化し、教皇アレサンデル3(115981)、が決定的に採用した合意主義婚姻理論にほかならないからある。

 教会挙式は16世紀のトレント公会議以降義務付けられたのであり、イギリスにいたっては、宗教改革でトレント公会議を否定したので、古典カノン法がコモンローマリッジとして18世紀中葉まで生ける法だった。居酒屋であれ二人の証人さえいれば容易に婚姻は成立した。

 なぜ、グラティアヌスなどの合衾主義を採用しなかったかというと三つ理由がある、一つはヨゼフは許婚者というのがならわしだが、フーゴはマリアとヨゼフの間に真実の結婚があったと主張し、合衾がなくても、婚姻は成立するとせざるをえなかったためである。第二に

合意がなければ結婚はないということは、独身を通し僧になる可能性を拡大した。第三に合意主義はイギリスからの上訴の裁定によりカノン法になったもので、婚前交渉のある北西ヨーロッパの基層文化に合致していた。処女性を重視する地中海地方では合衾主義でもよかったが教会法はどの地域でも通用する普遍的な制度を採用したのである。

 もっとも教会がファミリーネームを制定したわけではない。しかし教会法が適用されたラテン的キリスト教世界、例えばフランスにおいて血族の概念が確立したのは1314世紀、父系姓の確立は14世紀である[フランドラン1993]。父系姓というのがファミリーネームで、夫婦同姓なのであり、これは、夫婦の一体性を重視する教会法的婚姻理念の影響が最も大きいと考えられるからである。

つづく

注記(ロンバルドゥスに)

塙陽子「カトリック教会婚姻不解消主義の生成と発展」『家族法の諸問題(上)』1993 信山社
「先ず、合意が『私は汝を娶ろう』の意味において、≪ego te accipiam in uxorem≫≪ego te accipiam in maritum≫なる言葉でなされたとき、sponsalia per verba de futuro(未来文言の約婚)として婚約が成立する。これに対し『私は汝を娶る』の意味において≪ego te accipio in uxorem≫≪ego te accipio in maritum≫なる言葉で交換された場合には、 suponsalia per verba de praesente(現在文言の約婚)であって、婚姻はただちに成立する。しかしこの婚姻は所謂matrimonium ratum(et non consummatum)(未完成婚)であって、信者間にのみ成立する婚姻であり、原則として非解消で在るが若干の例外を認めうる。 すなわち、夫婦の一方が婚姻に優る状態であるところの修道生活に入る場合、又は教皇の免除(despensatio)を得た場合には解消しうる。この未完成婚の状態にある夫婦にcopula carnalis(身体的交渉)を生じた場合、始めて『二人の者合して一体となり』(erunt duo carne una)、キリストと教会の結合を顕わし、秘蹟としてmatrmonium ratum et cosummatum(完成婚)が成立する。これは絶対に不解消である。また、婚約の場合において、当事者がverba de praesentiを交換した場合、これは婚姻に転換するが、単に未完成婚にすぎず、完成婚になるためには更にcopula carnalis(consummatio)を要する。唯、verba de futuroを表示した当事者間においてverba de praesentiを交換する前にcopula carnalisを生じたときは、直ちに完成婚を生じた。したがってconsummatioは婚姻の成立に不可欠のものではなく、単に婚姻を不解消とするものにすぎない」
 図式化すれば以下のようになる。ロンバルドゥスは合意主義婚姻理論とされ、合意主義にこだわった神学者といわれるが、合衾の意義もそれなりに重視されており、巧妙に折衷させた理論といえるだろう。
①現在文言での約言(婚姻成立)→合衾(完成婚)
②現在文言での約言(婚姻成立)→合衾の前に修道生活入り又は教皇の免除(例外的に婚姻解消)
③未来文言での約言(婚約)→現在文言での約言(婚姻に転換)→合衾(完成婚)
④未来文言での約言(婚約)→合衾(完成婚

2015/11/03

民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 下書きその2(選択的夫婦別氏・夫婦別姓絶対反対)

川西正彦

 

 全くお粗末なことに、114日の最高裁弁論まで完成できずまだ下書きで半分もいってない。真剣さが足りないとのお叱りがあるかもしれないが、とにかくこの論文は完成させるようにする。年内にも判決という報道なので焦りに焦っているが、無駄にはならないはずだ。

 

下書き1   http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/7501-2b00.html

 

 

目次

Ⅰ 明治民法の夫婦同氏()制 梅健次郎の立法趣旨は正しい

 

Ⅰ)妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致しているとの立法趣旨は正しい。

 

1 出嫁女の婚家帰属(婚家の成員である)の立証

(1)(3)前回

(4)夫から妻に処分された家領は、他氏に流出しないという歴史的慣例は妻の婚家帰属性の論拠となる

 

ア 戸令応分条と公家法

イ 夫より妻に処分された家領が、夫の氏に還った例 

ケース1 道長→源倫子→頼通

ケース2 頼通→隆姫女王→祐子内親王(養女)→忠実

ケース3 基実→平盛子→(高倉天皇)→基通

(その他のケース)

 

(5) 夫婦斉体思想の受容による正妻制の確立と戦後の憲法24条による教会法的婚姻理念の継受

ア 夫婦斉体思想

イ 我が国における正妻制の確立と夫婦同氏慣行の一致

(ア) 一対一、差し向かいの夫婦像は中世後期以降

(イ) 例外―近代まで嫡妻制が確立しなかった皇室

(ウ) 正妻制が確立された戦国時代の公家では社会的呼称として夫婦同氏が定着した

A 後藤みち子説 B湯川敏治説

 

(4)夫から妻に処分した家領は、他氏に流出しないという歴史的慣例

 

 私は上記に述べた婚入配偶者は婚家に帰属するという人類学者の理論を、法制史や歴史学の成果と結び付けて歴史的由来を明らかにし補足するという作業を行いたいと考える 結論は、歴史的由来が深いので、妻の婚家帰属性を否定する夫婦別姓導入は、わが国の基本的家族規範から逸脱し、社会の凝集力となる根本的な規範を否定する。

 憲法理論として、社会の凝集力となる歴史的規範を否定するような違憲判断は行き過ぎであるゆえ、夫婦同氏制度は合憲とされなければならない

 

ア 戸令応分条と公家法

 

 律令相続法で妻の財産については、大宝令戸令応分条に「妻家所得奴婢、不在分限。還於本宗」とあり、古記は「若有妻子者、子得。无子者、還本宗耳」と注釈し、妻が生家から将来した所得は実子が得るが、子が無い場合は本宗に還されるとする。中世前期の一期相続と同じである。実際、永暦2(1161)に妻に子がないケースでの紛争で明法博士の裁定は「女子に処分するもの、女子亡ずれば、夫、妻の祖家に還す可きなり」[栗原弘1999 202]と裁定されている。

なお養老令は「妻家所得、不在分限」だけであり、唐令の「妻家並不得追理」(妻家所得は夫の所有に帰する)という規定を採用しておらず、古代は夫婦別財であったという女性史家学説の根拠の一つになっている。

しかし五味文彦[1982]は、明法家の法律書『法曹至要抄』『裁判至要抄』を根拠として、公家法では「夫婦同財」が,遅くとも12世紀初頭には確立したという。「夫婦同財とは、妻の財産を夫が「主」として「進退」することを意味する。‥‥夫が妻にかわって、妻の財産所領を領知・知行したのが、夫婦同財の内容であった」。また中世以降は,結婚した娘(嫁女)に対する生前譲与を親が取り消す権利(悔返権))が否定され,妻に対する実親の親権が著しく後退していったとする。

 

一方、吉田徳夫[1987]は五味説を批判し、「相伝の由緒は女性にあり、この点においては夫婦別産制である」とする。栗原弘[1999]も〔嫡子単独相続に移行する〕南北朝期までは別産で、妻の財産は夫のそれとは同化しないとしている。中世前期までは大筋で認めてよいだろう。

 

しかしながら、夫から妻へ家領が処分される事例が1113世紀初期の分割相続時代の摂関家にみられる。これは正妻制の確立とも関連していることだが、義江彰夫[1967]が抽出した事例では、下記のとおり夫から妻に処分された家領は、夫の氏の嫡流に還されているのである。

義江は、「夫側から妻・嫁への処分がなされたばあい、一期の知行ののち妻・嫁の生家に伝領されることなく父側にもどさるべきことは、すでに律令法(戸令応分条)さえ認めるところであり、摂関家においても古くから一貫して慣習として通っている」と結論している。

明法家の見解は示されてないが、 夫より妻に処分された財産は、妻の生家に流出しないというのが慣習というのである。とするならばこの慣例は、妻の婚家帰属の根拠の一つとなる。

この事例を取り上げた理由は、夫婦別氏()推進論者が、夫婦同氏を家制度の残滓として攻撃し、夫に従いたくない、舅姑を親とも思いたくもないし仕えたくない。夫と同じ墓に入りたくないなどと主張する一方で、法定相続で夫からがっつり遺産(つまり夫家由来の財産)を取得するのは当然だという、とても我儘で欲の深い反倫理的思想を展開するからである。

ローマの結婚は夫権に服するすマヌス(手権)婚が通例だが、夫権に服さない結婚のあり方もあって。これを無夫権婚という。ローマが持参金型結婚のため、生家の父が持参金による生家の父が婚家への財産の流出を渋るために広がったものである。今日の事実婚に近い。この場合、寡婦となっても夫からの財産分与、終身的経済保障はない。女性にとってはみじめなあり方が、無夫権婚であった。

ところが、夫婦別姓論者の主張は、ローマの無夫権婚とは明らかに違う。婚家に従属するのはいやといいながら婚家の財産であった夫の遺産は奪い取ってしまおうとするからである。

藤原基実から正妻平盛子の相続の例でも明らかなように平清盛ですら、摂関家領を横領することはしなかったし、できなかったのであって、それをやってしまおうとするのが現代の夫婦別姓推進論者であり、このように反倫理的な主張を最高裁が認めるということは到底許されないというべきである。

 

 

 イ 夫より妻に処分された家領が、夫の氏に還った例 

 

ケース1 道長→源倫子→頼通

Photo_2

 

梅村恵子[2007 158]によれば藤原道長の正妻は源倫子(左大臣源雅信女)であり、倫子は親への求婚と許可を得、儀式婚をあげた上で同居に至ったのであり、源明子(左大臣源高明女)は公的には妾、生涯別居の次妻、副妻と呼ばれる存在である。

道長薨後、男子頼通は、父の遺言に従って最良の家領を法成寺に寄進したほか、膨大な家領すべてを倫子に処分する。道長の遺言によれば倫子一期ののちは女子二人、彰子・威子に処分されることになっていたが、実際には倫子ののちは頼通が伝領している。彰子・威子が指定されていたのは女院、后位にあるためだと思うが、実際は頼通である。これが摂ろく渡領の基盤と考えられている。

 

ケース2 頼通→隆姫女王→祐子内親王(養女)→忠実

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頼通から正妻の隆姫女王に処分された家領は、邸宅の高倉殿に附属して、隆姫の養女祐子内親王に伝えられたため高倉一宮領という。内親王は長治二年(1105)家領処分を行わないまま薨じたので、翌年摂政忠実[i]は、「宇治殿(頼通)所分旨」を根拠に、この所領を宣旨により認定され入手、曾祖父の家領であったものを取り戻した。

高倉一宮領は忠実より女の泰子(鳥羽后)に伝えられ高陽院領となり、基実が高陽院の猶子とされたため、基実に伝えられた[川端新2000][ii]

 

ケース3 基実→平盛子→(高倉天皇)→基通

Photo

 

関白基実は父忠通から摂関家の基幹所領である京極殿領(摂関家の年中行事の財源となる中核的所領群)を相続し、高陽院(鳥羽后忠実女泰子)の所領も相続していたが、遺領処分状を作成せず、仁安元年(1166年)赤痢で24歳という若さで薨じた。男子基通(母は藤原忠隆女)7歳と幼少であったことから、摂政は弟の松殿基房が継承し、氏長者領のみ相続したが、その他の膨大な基実遺領は、上皇の院宣によりに家政機関を有していた基実の正妻平清盛女11(北政所盛子)に中継ぎ的に相続させたケースである。

上皇の裁断は清盛に諮ったうえでのものだが、よくいわれる平氏が摂関家領を横領する目的というのは古い学説であり、今日では否定されている[iii]。結果的に基実遺領は実子で盛子の養子とされた基通に伝えられた。

従って、妻に処分した家産は異姓に流出しないことを示したモデル事例である。正妻に処分される場合の意義を確認できるものとして評価すべきである。

 

○治承3年政変の意義

治承3(1179)6月盛子が24歳で薨じた際、後白河法皇は清盛不在(芸州厳島参詣)に乗じて摂関家領を没収し、高倉天皇の管領とする。これは盛子が高倉天皇准母だったことによるが、目的はすでに十年以上摂関職にあった基房を摂関家の継承者にするためだった。清盛は激怒し、養孫で婿でもあった基通への相続にこだわった結果が治承3年の政変(後白河院政停止、高倉親政開始、関白基房罷免、基通関白就任)である[河内2007]。

摂関家の嫡流争いはこの後も続くが、最終的には文治二年(1186)の文治争論の院の裁定により、基通が盛子より伝領した摂関家領の相続が確定し、摂関家嫡流近衛家の家領となる[iv]

結果的に分割相続の時代であっても京極殿領という摂関家の中核所領は師実→()忠実→()忠通→()基実→(正妻)平盛子→基通と直系で相続され、中世的「家」が成立したとみてよいと思う。

 

ケース4 忠通→源信子→基通

 

所領として少量だが、忠通の妻源信子に処分された家領は、信子の孫にあたる基通が相続している。

 

ケース5 基通→最舜女→兼基・円静・円基・静忠・実信

 

基通は、家領の3分の2を長子の摂政家実に処分するが、その他は細かく分割相続され、正妻ではないが家女房といわれる僧最舜女に10箇所を処分している。しかし最舜女は、生家に勝手に処分することは許されておらず、基通からいちいち許可を得て、実子に分割処分している。実子に分割処分された家領のほとんどは、一期の後、近衛家流の近親の僧侶か、近衛家嫡流に戻されている。

 

(5) 夫婦斉体思想の受容による正妻制の確立と戦後の憲法24条による教会法的婚姻理念の継受

 

ア 夫婦斉体思想

 

よくいわれるように夫婦別姓が夫婦の一体性を損なうという指摘は正しい。これは、出嫁女の婚家帰属性というテーマと別にしてもよかったが、この範疇で扱うこととする。

私は、夫婦の一体性の根拠となる思想の重要性、すなわち文明規範のとしての価値が強調されてないことが問題であると考える。

世界的に一夫一婦の単婚制の理念といえば、キリスト教がそうたが、実は中国の儒教倫理も一夫一婦(多妾制)であり、嫡妻の権利を重んじている点では洋の東西の文明規範は類似したものとなっているのである。

むろん江守五夫のように、我が国の基層文化には北方民族の流入により古代より嫁入婚があったという学説もあるが、正妻制の確立は、やはり令制以後の中国の儒教思想の影響によるところが大きいとみるべきだろう。

我が国の家族道徳の基本は孝子・順孫・義夫・節婦(総じて「孝義」)という儒教道徳である。律令国家の統治理念は儒教道徳による民衆教化なのである。それで日本は安定した社会の基盤を形成してきたはずだ。

儒教は親孝行というように親子関係を重視していると考えがちだが、偕老同穴の思想にみられるように、夫婦の一体性も重視していることに注意したい。

そしてそれは、福沢諭吉が「古来偕老同穴は人倫の至重なるものとして既に已に其習慣を成し、社会全体の組織も之に由りて整頓したることなれば、今俄に変動せんとするも容易に行はる可きに非ず」『福翁百話』と言ったように、それは近代社会にも通じる夫婦倫理といえる。

令制では、儀制令春時祭田条の〈郷飲酒礼〉、戸令国守巡行条の〈五教教喩〉や、賦役令の孝子・順孫・義夫・節婦の表旌などによる家族道徳の形成により、村落社会の秩序を確立した。婦人道徳が民衆に浸透していったのは節婦の表旌に多くの記事がみられる9世紀と考えられる(賦役令では孝子・順孫・義夫・節婦の聞こえがある者を太政官に報告し、天皇へ奏聞を行い、その家の門前か所属する里の入口に孝状を掲げてその人物と同一戸の全ての公民に対する全ての課役を免除した)

節婦とは「願守其(夫)墳墓以終天年」「其守節而有義」「謂、夫亡後葬舅姑負土、営墓、慕思不止也」とされる。

(一例をあげると。三代実録、清和天皇、貞観七年三月廿八日巳酉条 近江国に言えらく、伊香郡の人石作部廣継女、生まれて年十五にして、初めて出でて嫁ぎ、卅七にして、夫を失ふ。常に墳墓を守り、哭きて声を断たず、専ら同穴を期ひて再び嫁ぐに心無し。其の意操を量るに節婦と謂ふべし』と。勅あり『宜しく二階を叙して戸内の租を免じ。即ち門閭に表すべし』)

つまり節婦には単に二夫に仕えずという貞操概念だけでなく、偕老同穴という夫婦の羈絆性を重視する価値観が含まれており、キリスト教の夫婦の伴侶性を重んじる価値観にも通じている。

(もっとも我が国の婦人道徳の形成において特徴的なのは節婦にみられる儒教的倫理と仏教が混淆して、貴人の女性の出家という習慣がはじめは貴族、後に武家に広まった。初例は9世紀の仁明女御藤原貞子と考えられる[v]。)

 

もちろん、儒教の家族道徳はこれだけではない。七出の状も戸令に定められているし、舅姑らしたがう道徳は公定イデオロギーだったし、これ徳川時代まで寺子屋の女子教育にいたるまで一貫したものである。むろん三従四徳も基本的なものである。また「修身・斉家・治国・平天下」という『大学』のことばが表すように、礼の基本として、社会の基本単位としての家族のあり方を繰り返しとくのが儒教である。それは我が国に継受された規範的な価値である。

 

 

しかし、出嫁女の婚家帰属性という観点では、近年の王権論の流行で注目された中国の夫婦斉体思想に着目する必要がある。

 

「妻は家事を伝え祭祀を承く」戸婚律二九条疏

「夫れ祭なるものは、必ず夫婦これを親らす」『禮記』祭統

夫婦単位の祖先祭祀という意味が含まれている。

基本的な文献として谷口やすよ[1978]であり、これは漢代の太后臨朝の根拠を明らかにしたものである。皇帝が帝嗣を定めずに崩御の場合、皇后が皇帝に代わる者として皇帝の荷う王朝創始者の徳を帝嗣に継承させたとし、漢代の皇后の役割を高く評価した論文であり、多く引用されている。

『儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためであるとする。また『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされ、さらに同書祭統においては、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえるとするのである。

後漢時代には皇后珊立に際して、「皇后の尊、帝と體を齊しくす」『績漢書』禮儀志劉昭注引蔡質「立皇后儀」)という詔が発せられたように、皇后は皇帝と一体な存在とみなされていた[保科季子2002]。

法制史家では滋賀秀三が夫婦斉体思想を説明していた。「異なる「宗」出身の妻は、夫と共に夫が属す宗廟祭祀の主体となり、子孫から孝養を尽くされる者となる「婦女雖複非丁、拠礼与夫斉体」(名例律二七条)と、夫婦斉体=一体とみなされる。ただし、夫婦一体といっても「夫者婦之天也」(名例律六条)というように、あくまでも夫の人格に妻が包接されるという意味での一体であって、夫が生存する限りは妻の存在は夫の陰に隠れてみえない。ようやく寡婦になったときには夫の代位者として夫の有していた諸権利をもつことができるが、これは妻のうちに亡夫の人格が合体したことに帰属する‥‥。[梅村恵子2004]」

つまり中国の宗法では夫婦一体で祭り祭られる存在であり、これは日本でも世代仏として夫婦一対の位牌となることで基本的に我が国に継受された思想といえるし、まさに婚家帰属性を明らかにしている思想である。

夫婦別氏()を批判する立場では偕老同穴等の我が国が古来より夫婦倫理として継受され重んじられていたまさに夫婦斉体思想の崩壊をもたらすと観念されるからである。

 

イ 我が国における正妻制の確立と夫婦同氏慣行の一致

 

(ア) 一対一、差し向かいの夫婦像は中世後期以降

 

夫婦斉体思想にもとづく正妻制はいつ確立したのだろうか。

我が国の律令法では、貴族層に対して妻=正妻を届け出ること、嫡子と庶子との区別を設けることを義務づけ、蔭位の制度も嫡子とを区別して適用される。制度上、正妻制ははじめからあった。

しかし九世紀中葉までは前代との慣習を引きずって正妻と妻との間に社会的地位の違いはみられず、子どもの出身の位階についても、正妻の子どもと他の妻の子どもと区別されることがなかった[梅村2007[vi]

貴族層において正妻制が一旦確立した時期として、梅村[2007]は関白基経の子供たちの時代つまり10世紀としている。

 

服部早苗[1991]によれば我が国の元服儀礼は、天皇とその周辺から政治的社会的地位の確立過程で出現し、それが日本的特色であったこと。位階は王権との距離をあらわし本来律令では臣君に仕えて忠をつくし功を積んでから授与されるものであった。この位階授与原理は8世紀には確実に遵守され、勅授すら21歳にほぼ蔭位どおりに授与され、祥瑞出現の特例でも20歳だった。古代においても本来の意味での成人は21歳だったのである。

 つまり、元服と叙位は別であった。ところが平安時代になるとこの原則が破られる。

転換期となったのが関白基経の嫡男時平と、その弟の仲平・忠平の元服叙爵である。16歳の時平は光孝天皇の仁和二年(886)正月二日仁寿殿において「天皇手ずから冠をとって」元服儀礼が行われると同時に正五位下に叙位がなされた。宸筆の位記には「名父の子、功臣の嫡」と叙位理由が記載され、このような天皇御自ら冠をとるという儀礼はこの三兄弟に限られた空前絶後の殊遇であり、基経の権力の絶頂を思わせるが、こののち元服儀礼は父の功績、政治的社会的地位の父子継承表明の性格が濃厚なものとなるのである。

重要なことは時平・忠平・仲平の母が人康親王女(仁明二世女王)であり、人康親王女が正妻として扱われており、父子の地位継承と正妻制がリンクしていて、異腹の兼平とは差がつけられている。

藤原道長は左大臣源雅信女倫子を正妻とし、左大臣源高明女明子は次妻、副妻ともいうが公的には妾であった[梅村2007 。源倫子を母とする頼通、教通だけが元服後の最初の位階として従五位下を授けられ、即日昇殿を許されており、父と同じ地位、摂関を継承している。

明子を母とする頼宗、顕信、能信、長家とは明らかに差別化されているので、正妻制が実質を有していたといえる。

しかし、一般には正妻制は容易に確立せず、実質後継男子を生んだ母親が一家の女主人とされる傾向が強かった。梅村[2007]によれば、一対一、差し向かいの夫婦像が一般的になるのは、中世後期であるという。つまり日本において礼記等の夫婦斉体思想が一般的に受容されたのが、中世後期になってからだということである。

そうすると公家や武家が嫡子単独相続の家に移行したのは、おおよそ南北朝期とみられるから、その時期と符合する。単独相続を特徴とする日本的「家」制度の成立と、正妻制の確立はリンクしているのであり、正妻が婚家に帰属するものである以上、婚家帰属性を否定する夫婦別姓は、一夫一婦の正妻制(嫡妻観念)を変質させることになる。一夫一婦の単婚の理念にもとづいている今日日の法律婚制度の核心にかかわることで、夫婦別姓が、社会の凝集力となる規範を崩壊させるものとして容認できない理由の一つである。

 

(イ) 例外―近代まで嫡妻制が確立しなかった皇室

 

ただし、前近代において正妻制が確立しなかった例外がある。皇室である。むろん、皇后とは天子の嫡妻と定義されるが、令制皇后は実態としては政治的班位である。円融后中宮藤原遵子は女御より直接皇太后にのぼせられた藤原詮子(一条生母)の女房から「素腹后」と嘲られたが、東三条院藤原詮子は厳密にいうと皇后でなかったから嫡妻でない。円融天皇の嫡妻はあくまでも中宮藤原遵子であるはずだが、嫡妻たる藤原遵子をさしおいて皇太后にのぼせられたのは藤原詮子である。しかし太上天皇に准じた身位である女院宣下された詮子を側妾などというのは全く憚られることであって、つまり女御所生の親王は有力な皇位継承候補者たりうるのであって、この意味では皇后と女御にはさほど大きな格差がないといえる。この在り方は嫡妻権が明確な厳密な意味での婚姻家族ではない。

立后が政治行為だというのは、例えば光明皇后は聖武践祚の6年後(長屋王排斥後)、橘嘉智子が嵯峨践祚6年後、藤原穏子にいたっては、皇太子保明親王が薨じた緊急事態において醍醐践祚の26年後の立后だからである。

政治的な理由で一帝二妻后の例もある。また政治的理由で皇后が里第で籠居を余儀なくされるようなケースもある。むしろ前近代のいわゆる天皇制の特徴は嫡妻たる皇后を冊立せずとも、正配たる配偶者がなくても後宮女官が側妾の役割を果たして続いていくような柔軟性があることだろう。この点は近代の皇后のように嫡妻権の明確なあり方(大正天皇の公式の母は昭憲皇太后であって柳原愛子ではない)。嫡妻権が明確で皇后と妾の格差が明確な中国王権のあり方とも違う制度である[vii]

 

 

 

(ウ)正妻制が確立された戦国時代の公家では社会的呼称として夫婦同氏が定着した

 

A 後藤みち子説

 

 後藤みち子[2014]によれば、先行研究として脇田晴子を引用し、中世における嫁取婚の成立は「家」の成立を意味し、嫁取婚形式の「家」は基本的には一夫一妻制が成立し、正妻の地位が確立するとし、梅村恵子を引用し平安中期の正妻制は、その後根付かず、室町時代になっても天皇家、宮家、摂関家に正妻はおかれなかったが、戦国時代になって正妻がおかれるようになるとする。

  実際、室町時代の公家日記で「嫁娶」の記事が少ないのである。戦国時代になると婚姻儀礼の記事が多くみられ、これが正妻の確立を意味すると考えられている。

  正妻の確立=嫁取婚とすると、西洋的な一夫一妻制の確立=嫁取婚であり、嫁取婚を攻撃する夫婦別姓論は、正妻、一夫一妻制度に対応した婚姻のあり方を否定するもので、婚姻制度の変質を意味することとなるのである。

  後藤によれば戦国時代に嫁取儀礼が公家日記に書かれているのは、「家」の継承者である「嫡子」に正妻を迎える儀礼として重視され、誰がいつだれを正妻としたかを公表する意味もあったとする。

  嫁取儀礼後「正妻は夫方の父母や親族と対面し、三献で祝うことで夫の親族として認められたことになる。また「家」の家司と祝いの宴が催されるが、これは「家」の家司たち「家」の継承者の正妻を披露したことになり、正妻が「家」の一員と認められたことになる。」婚礼のあり方としては武家の文化との混淆があるかもしれない。

 また後藤みち子[2009]中世後期の貴族は基本的に夫婦同苗字というか夫婦同じ家名で称されるのが普通であるとしている。摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。

清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。近衛尚通(14721544)の『後法成寺関白記』によると久我通信正妻を「久我女中」と称し、徳大寺実淳妻は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。

 西洋でも○○家出の○○卿夫人というように、夫の家名や爵位にちなんで称されるのと同じ感覚である。例えばクリフォード・チャタレイ准男爵の妻をチャタレー夫人というように。

一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。姑と嫁は東-西、南-北と対になって形づけられた。

三条西実隆(14551537)『実隆公記』では中御門宣秀正妻を「中御門西向」と称し、甘露寺親長(14251500)『親長卿記』では中御門宣秀の父である中御門宣胤の正妻を「中御門東向」と称している。姑が「東向」で嫁が「西向」である。

三条西家の家妻の役割が検討されているが、使用人の給分の分配、食料の手配・管理、追善仏事の運営、連歌会・和歌会の設営があげられている。近現代の庶民の家の主婦の役割に通じるものがある。このように公家社会において家妻は、家政・家職の経営の役割を分担し、婚家の名字を冠して指称された。差し向かいの夫婦像であり今日の婚姻家族とほとんど同じあり方といえる。

当時においても女叙位の位記は所生の氏であろうからそのような意味では、夫婦別氏だが、それは律令国家では改賜姓が天皇大権とされていて、位記や口宣案は源平藤橘等の古代的姓氏と実名であったが、実名忌避の慣習から、通常社会生活では用いないし、そもそも明治4年の太政官布告で、本姓といわれる源平藤橘等の古代的姓氏を公用で用いてはならないことになって、それ以降は藤原朝臣実美ではなく三条実美、越智宿祢博文ではなく、伊藤博文と、苗字を使うこととなり今日、姓とか氏とか称されているものは苗字、家名としての称号であるから論外としてよい。

戦国公家の社会的呼称は、婚家の苗字+妻の社会的呼称(女中、向名)であるから実質的には夫婦同氏()の感覚に近いものと認識できる。

正妻制(嫡妻)の確立=妻の婚家帰属の明確性=夫婦斉体思想の受容=一対一差し向かいの夫婦像=「家」の成立=夫婦同氏(苗字)とリンクして理解することができる。

ゆえに婚姻家族の基本理念にかかわる夫婦同氏はゆるがせにできない事柄なのである。

 

B 湯川敏治説

 

戦国時代の公家は重要な論点なので後藤みち子以外の研究者からも引用しておく。

湯川[2005]公家日記での夫婦同氏の呼称について解説しており参考になる。

 

公家日記で自己の室、他人の室に対してどのように称しているか

 

三条西実隆(14551537)の『実隆公記』(いうまでもなく当代一流の文化人である)

 

自分の室を指して 室家(しっか)、青女 「今日室家、小女等向勧修寺亭」

 「青女向勧修寺亭」

 他人の室に対しては「滋野井室家今日帰宅」「今夜勧修寺中納言新嫁云々」「入夜鷹司亜相殿北方来臨」「九条北政所来臨」

  

 婚家名で称しており今日の夫婦同氏と同じ感覚である。

 

甘露寺親長(14251500)の『親長卿記』(後土御門天皇がもっとも信頼した廷臣、戦国時代の朝廷の枢機に参画している)

 

 中御門宣胤に嫁した女を指して「東向予息女、中御門室家今日帰大津」

 

甘露寺元長(14561527)の『元長卿記』

 

 中御門宣胤に嫁した姉を指して「中御門大納言室、予姉也、東向入来」

 

自己自身の娘、姉であっても、婚家名で称していることから、夫婦同氏のならわしと理解してよいと考える。(以上18頁)

 

次に摂関の正妻を北政所と称するが、呼称勅許か必要であるとしている。

三条西実隆の女保子は九条尚経に嫁いでおり、実隆が内々に北政所勅許を朝廷に働きかけていたが、嫁いで8年後に治定された。それまでは「九条姫御料人」「九条御料人」と記されている。

 

三条西実隆の女であっても自ら「九条御料人」と記しているのだから、これも夫婦同氏のならわしと理解できるのである。64頁

 

 ○近衛尚通の正妻(北政所と称される)、徳大寺実淳女維子の里帰りについて

 

維子が近衛家に嫁いだのは17歳の時、明応6年(1496)である。7人の子どもの母である。定期的な里帰りは正月と七月である。

正月四日に実家の徳大寺家から酒、鏡餅等が贈られてくる。里帰りは五日で、近衛家から実家へ両種二荷が贈られるならわしだった。これが明応7年から永正4年(1507)まで、永正5年以降は正月四日に里帰りし、日帰りで酒。鏡餅等を持ち帰る。日帰りなのでほとんど義理のつきあいになったように思える。

七月は盆前の七月十一日の生見玉行事である。定期的な里帰りは永正17年までそれ以降はないがその理由はわからない。不定期の里帰りで理由のわかっているものは、弟の元服、徳大寺家の花見、父の病気見舞い、父の葬礼であるが、さほど交流は多くないように思える。

他家との社交生活は、公家よりも武家と親しかった。公家では久我家ぐらい。細川氏一族とくに細川高国が頻繁に近衛家を訪れ、家族ぐるみの交際があり、高国から猿楽見物の招待もされている。また娘を将軍家に嫁がせた関係で足利義晴とも交際があった。摂関家の正妻の役割としては、当主不在時に、当主代理として来客と面会することとしており、近衛家の成員として行動しており、婚家帰属性は明確である。

 

文献表

 

阿部一

 

2014「日本の伝統的家族・擬似家族システムとしてのイエの形成The Formation of 'Ie' as Japanese Traditional Family/Quasi-Family System

 

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荒井献

 

1985「新約聖書における女性の位置」『聖書セミナー』第1号1985日本聖書協会発行 162頁以下 『新約聖書の女性観』岩波セミナーブックス 1988も同内容

 

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1998「姓氏・名乗、あれこれ」(『日本「姓氏由来」総覧』新人物往来社222)

 

井戸田博史

 

1986『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986 

 

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1968「出雲調査短報」『民族學研究』331号 1968

 

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1996高木昌史他訳『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 20頁以下

 

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2000「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店

2007『家族の古代史 恋愛・結婚・子育て』吉川弘文館

 

江守五夫

 

1990『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990

 

1993「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993

 

1998『婚姻の民俗-東アジアの視点から-』吉川弘文館1998

 

加地信行

 

1998『家族の思想 儒教的死生観の果実』PHP新書

 

勝俣鎭夫

 

2011『中世社会の基層をさぐる』山川出版社

 

蒲生正男

 

1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968

 

1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本―岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970

 

1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

 

1974b「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3

 

 1975「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3 

 

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2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館2007

 

 

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2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版2005

 

金宅圭

 

2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会2000

 

熊谷開作

 

1987『日本の近代化と「家」制度』法律文化社,1987

 

クーランジュ

 

1924 田辺訳『古代都市』白水社1961、原著1924)

 

久留島京子

 

1989「市民社会の成立と女性論-メアリー・アステル」『史學研究』185, 1989

 

後藤みち子

 

2009『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館

 

2014「室町・戦国時代の婚姻」高橋秀樹編『生活と文化の歴史学4婚姻と教育』竹林舎

 

清水昭俊

 

1970<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

 

1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

 

1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

 

1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

 

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1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

 

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1924大間知訳満州族の社会組織」『満州族』(大間知篤三著作集6)未来社1982原著1924)

 

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2013「ランゴバルド諸法における男子未成年者の婚姻 : リウトプランド王付加勅令128条、カロリング勅令140条を中心としてThe Marriage of Male Minor in the Lombard Laws : Based on the Article 128 of the Laws of King Liutprand and the Article 140 of the Laws of Carolingian」『駒沢史学』80 2013

 

ダニエル・デフォー

 

1724山本和平訳「世界文学全集10」集英社1981 379頁

 

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仁井田 

 

1952『中国法制史』岩波書店1952

 

西谷正浩『日本中世の所有構造』塙書房2006

 

 

中根千枝

 

1970『家族の構造-社会人類学的分析』東京大学出版会1970「日本同族構造の分析」

 

樋口健太郎

 

2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂(大阪)2005年

 

2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011

 

 

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1990『武蔵武士-そのロマンと栄光』さいたま出版会

 

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1991『家成立史の研究』 校倉書房1991

 

J・Lフランドラン

 

1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房

 

保科季子

 

2002「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』612

 

湯川敏治

 

2005『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会2005

 


[i]忠実の時代に摂関家領が集積されるのは、忠実自身に原因があり、太政官機構を統率できず受領監察制度が機能しなくなって律令国家的給付(封戸・位禄等)が崩壊し、経済基盤が家領と知行国に移行していったためである。

[ii] なお高陽院領など女院領の意義について川端新は、忠実以降、摂関の職が院の恣意によって左右され、本来藤氏内の問題である氏長者も宣旨によることになり、摂関家の政治的地位が不安定となったことから、政局に左右されず、荘園を集積できる女院という身位を利用して、家領の保全を図ったとする。[川端2000

[iii]

平清盛が摂関家領を奪おうとしたというのは間違いである。

 

関白基実は藤原忠隆女(大国受領系院近臣家・兄が平治の乱の謀反人信頼)との間に男子基通をもうけていたが、長寛二年(1164)平清盛次女9歳を正妻とする(1167年准三宮宣下で実名盛子となづけられ、高倉殿北政所と称された。2012年NHK大河ドラマの登場人物でもあった)

その2年後仁安元年(1166年)基実は赤痢のため24歳で夭没、基通は7歳と幼少のため六条天皇の摂政には基実の弟殿基房がついた。

この遺領処分は清盛にも諮ったうえ、後白河上皇の裁断により、氏領である殿下渡領等をのぞく家領のいっさい(京極殿領・高陽院領その他の家産)が、子のない11歳の寡婦盛子に伝領されることとなった。盛子には家政機関が附置されていたためである。

この事件は、平氏による「摂関家領横領」と称されることがあるが、清盛が摂関家領を奪おうとしたというのは戦前の村田正言や戦後の石母田正などの古い学説であって、今日では否定されている。治承3年盛子が24歳の若さで薨じたとき、「異姓の身で藤原氏の所領を押領したので春日大明神の神罰が下った」という世間の噂があった(『玉葉』治承3618日条)。しかしこれは浮説にすぎない

もっとも樋口健太郎[2011]がいうように、平氏が一門や家人を摂関家の家司や職事とし、それに指示を与えることで間接的に家産機構を掌握したとはいえる。また清盛が摂関家の大殿の立場を踏襲し、いわば摂関家を包摂したことが平氏の政治権力を正当化することになったとはいえるだろう。

しかし樋口[2005]によれば、そもそも基実が盛子を正妻に迎えたのは姻戚関係で軍事警察権を掌握した清盛を後見人とすることにより摂関家内の自身の立場を強化し、嫡流としての地位を守るためだったのであり、「盛子の相続」は「基実の嫡子である基通への中継ぎとしての性格を有して」いる「彼女はまさに嫡流である基通の後見として、その『家』を受け継ぐ位置にあった」樋口[2011]とする。

  河内祥輔[2007]も、兼実も盛子の相続が、春日大明神の神意に反しないとの見解であった。盛子が「仮の伝領の人」であり、基通が「宗たる文書・庄園、伝領せらるべきの仁」とみなしていたという。基通は、盛子の養子とされたのであり、夫の遺産を妻が相続し、それを亡父の実子に譲るという方式である。

実際、北政所盛子は家長代行として忠通の忌日仏事をはじめ摂関家の仏事を主催していた。しかも兼実、皇嘉門院(崇徳后、忠通女藤原聖子)、基実母源信子もこの仏事に関与し、盛子はその中心にいたし、仏事や寺院の管領権も有していたというのである[樋口2001]。正妻である盛子は明らかに摂関家に帰属しているとみるべきである。このことは、後述する中国の夫婦斉体思想が我が国にも浸透したことを意味している。

 

[iv]文治二年(1186)の文治争論とは、源頼朝が後援する兼実が 基通に代わって摂政に就任したため、頼朝は、基通のもつ摂関家領のうち高陽院領以外の家領、つまり最重要所領群である京極殿領を兼実に移すよう圧力をかけたものである。後白河院は拒絶、争論の結果後白河院の庇護のもと基通の主張が通り、この結果、氏長者の領と家の領の線引きが流動的だったあり方に終止符を打ち、近衛家と九条家の家領の区分が確定する[川端新2000]。兼実は実子の良通が皇嘉門院(崇徳中宮藤原聖子)の猶子であったため皇嘉門院領は相続したが、九条家の基幹所領はこれだけで、それ以外は幕府との友好関係などから増やしていったものとみられている。

法皇が頼朝の要求を拒絶したのは道理でもあるが、基通が平家を見捨て法皇に接近したこともある。「君臣合体の儀」と揶揄された男色関係も保身術の一つだろう。

 

[v]我が国の婦人道徳の形成において特徴的なのは節婦にみられる儒教的倫理と仏教が混淆して、貴人の女性の出家がみられる(この慣例は九世紀に成立したとみてよい)。ここでは婦徳が讃えられている二人のキサキ、仁明女御藤原朝臣貞子と清和女御藤原朝臣多美子のエピソードを引用する。

 

 女御藤原貞子出家の女性史上の意義

 

 藤原貞子(仁明女御、父右大臣藤原朝臣三守、母不詳、成康親王・親子内親王・平子内親王の生母、天長十年十一月従四位下、承和六年正月、従三位、嘉祥三年七月、正三位、貞観六年八月薨。贈従一位、仁明天皇の深草山陵兆域内に葬られる)薨伝に「風容甚だ美しく、婉順なりき。仁明天皇、儲弐と為りたまふや、選を以て震宮に入り、寵愛日に隆し」と見え、仁明の東宮時代に結婚、年齢は不明。文徳実録仁寿元年二月丁卯条に「正三位藤原朝臣貞子、出家して尼となる。貞子は先皇の女御なり、風姿魁麗にして、言必ず典礼なり。宮掖の内、その徳行を仰ぎ、先皇これを重んず。寵数は殊に絶える。内に愛あるといえども、必ず外に敬を加う。先皇崩じて後,哀慕追恋し、飲食肯わず。形容毀削し、臥頭の下、毎旦、涕泣の処あり。左右これを見、悲感に堪えず、ついに先皇のために、誓いて大乗道に入る。戒行薫修し、遺類あることなし。道俗これを称す」とあり(大江篤「淳和太后正子内親王と淳和院」大隅和雄・西口順子編『シリーズ女性と仏教1尼と尼寺』平凡社1989)、天皇のキサキで崩後出家し尼となった先例として桓武女御橘朝臣常子の例があるが、貞子は序列筆頭の女御なので(仁明天皇は皇后を立てていないので貞子が序列最上位のキサキ。文徳生母つまり東宮生母の藤原順子より位階上位)貞子の出家は女性史的にみて決定的な意義がある。父藤原三守は崇文の治の大立者であり、仁明生母の太皇太后橘嘉智子の姉橘安万子を妻としていることもあり、仁明天皇とはミウチ同然であるが、三守がもう少し長命で(承和七年薨-不審説もある)、承和の変さえなければ恒貞親王の次の候補として成康親王の可能性もあったと私は考える。

 

 女御藤原多美子出家の意義と婦人道徳

 

 藤原多美子(清和女御、父右大臣藤原朝臣良相)薨伝は概ね次のとおり「性安祥にして、容色妍華、婦徳を以て称さらる。貞観五年十月従四位下、貞観六年正月清和天皇元服の夕選を以て後宮に入り、専房の寵有り、少頃して女御、同年八月従三位、同九年三月正三位、元慶元年十一月従二位、同七年正月正二位、仁和二年十月薨。徳行甚だ高くして中表の依懐する所と為る。天皇重んじ給ひ、増寵他姫に異なり。天皇入道の日(清和上皇の出家-元慶三年五月)、出家して尼と為り、持斎勤修す。晏駕の後、平生賜りし御筆の手書を収拾して紙を作り、以て法華経を書写し、大斎会を設けて恭敬供養しき。太上天皇の不眥の恩徳に酬い奉りしなり。即日大乗会を受く。聞きて聴者感嘆せざる莫し。熱発して奄ち薨じき」

 多美子は清和天皇の元服加冠の儀の当日に後宮に入って、そのまま入内、女御となった。帝最愛の寵姫であったが皇子女をもうけることができなかった。

 貞観18年清和天皇は二十七歳で上皇権を放棄するかたちで退位された。退位は藤原基経の策略とみなす説(太田英比古「清和太上天皇の出家事情と水尾山寺隠棲(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)」『政治経済史学』107、108、109)がある。上皇の封戸は財政難のため半減とされたのであり、出家せざるをえないようにしむけられたのかもしれないが、いずれにせよ清和上皇の出家に従って、女御藤原多美子は出家して尼となった。夫唱婦随これほど美しい婦人道徳はない。出家されてほどなく元慶四年上皇は崩御になられたが、その後、多美子は平生天皇から賜った手紙を集めて漉き返し、その紙に法華経を写経して供養している。この時代には脱墨技術はないので、漉き返しを行う紙の色は薄い黒色となった。太上天皇の不眥の恩徳に酬い奉り、それを聞いた人々は感嘆したが、多美子は熱発して亡くなってしまったというのである。ここに貴人の女性の婦人道徳とはこうあるべきだということが示されている。 

[vi]飛鳥白鳳時代の結婚は緩かったのではないかと思わせるものとして県犬養橘宿禰三千代と藤原不比等の結婚である。

 県犬養宿禰三千代は出仕し天武12年(683)ころ敏達天皇曽孫の美努王と結婚し葛城王(橘諸兄)佐為王(橘佐為)、牟漏女王を生んだ。ところが持統八年(694)美努王が大宰府率に赴任する際に三千代は同行せず、飛鳥に残ったが不比等と再婚した。

三千代は阿閉皇女(元明)付きの女官で持統上皇の信任厚く、不比等にとって有益な結婚だった。戸令二七先姧条「先ず姧してむ、後に娶きて妻妾と為らば、赦に会うと雖も、猶し離て」の趣旨からすれば、違法であるがお咎めはなかった。

[vii]中国では、たんに皇帝生母であるだけでは政治権力はない。国母とは日本のように天皇生母のことではなく、皇后なのである。北魏のように皇帝生母は死を賜ることさえある。皇帝権力を代行できるのは皇帝生母でなく皇帝の公式の母である先帝皇后である。漢代の太后臨朝しかり、宋代の垂簾聴政しかり。清の西太后が例外だが、それでも先帝皇后である東太后より席次を上回ることはできなかった。


 

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