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2015/12/13

民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 下書きその10(選択的夫婦民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 

下書きは今回で終了する

 

Ⅴ 井戸田博史などの法制史学者の夫婦別姓旧慣習説は否認されている

 

4)明治9年太政官指令の批判的検討

 

A 位記は夫婦別氏の根拠にはならない

  

(要旨) 位階授与の宛名が所生の氏(源平藤橘等古代姓氏)なのは、歴史的経緯から当然のことだが、中世・近世において叙位の対象となる女性はごく少数にすぎず、しかも後宮女官も平安時代以降は、女房名ないし候名で呼称するのが通例となり、実名敬避の慣習から、叙位の氏名を社会生活で使用される実態はきわめてとぼしい。さらに古代的姓氏は明治四年以降使用されなくなり、いわゆる苗字に氏が法的にも一元化されたことから、旧慣習とみなすのは合理的でない。

 

 「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」が妻は所生の氏とする理由しているが、これは古代的姓氏の性格にかかわるものともいえる。

 

 

 (A)位階授与と古代的姓氏の性格について

 

 女性に関して、明確に姓を冠し文書に登場するのが位階授与(位記)であった。叙位の宛名は(天皇の賜与・認定の古代的姓氏源平藤橘等)+実名である。

 従一位左大臣一条忠香の三女は、はじめの諱が勝子(まさこ)。通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)であったが、明治元年と改名(皇女富貴宮の諱を避けるため)。一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)

 從三位藤原朝臣美子

 右中辨藤原朝臣長邦傳宣

 權中納言藤原朝臣公正宣

 奉 勅宜爲女御者

 明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世奉(ウィキペディアより引用)

 従三位の叙位は藤原朝臣美子である。したがって 叙位文書から所生の氏という観念を引きずったとも思える。

所生の氏は当然のことで律令国家では10世紀以降有名無実になったとはいえ、改賜姓はそもそも天皇大権であり、天皇が賜与、認定あるいは奪うものであって、公民の秩序を定めたのである。氏とカバネ(真人・朝臣・宿禰・忌寸等)は朝廷政治上に占める地位に応じており、政治的に認定された身分標識としての性格も強かった、例えば桓武生母和史新笠の高野朝臣賜姓は、皇太夫人とされる前提での賜姓であるが、個人だけのもので、親族の和氏にまで及ぶものではないのである。臣下が結婚など事情で勝手に改姓するような性格のものではもちろんないのである。

 

 例えば九世紀の文人貴族として知られる南淵氏は南淵朝臣弘貞が参議、南淵朝臣年名が大納言にまで昇進しているが、もともと息長真人、槻本公、坂田宿禰、坂田朝臣という氏姓だった。改賜姓は才用による登用や天皇側近としての地位の向上に伴うものと理解できるが、十世紀以降ほとんど歴史に登場しなくなる。   

一方、称徳女帝により、和気清麻呂を別部穢麻呂に貶められて流罪にしたり、不破内親王は臣籍に降下させて厨真人厨女にされ京外追放とされたりした。それも天皇の権能であり、源平藤橘等狭義のカバネがついていた古代的姓氏は、われわれが今日使っている苗字(これも氏とも姓ともいう)とはかなり性格がちがう。

 氏やカバネは九世紀までは確実に律令官人社会において機能しており、国家は宿禰賜姓によって卑姓氏族に門戸を開き、有為な実務官僚を登用する才用主義重視の政策をとったとさられた。また高い姓に改姓することによって、系譜上同族であるという多くの氏が、昇進の機会を得たともいわれている。

 しかし承和の変以降、源藤二氏(正確にいえば北家藤原氏冬嗣流-摂関家が中心)を頂点とする門閥貴族のヒエラルキーが次第に形成されて、天皇の改賜姓権能が有名無実化していくと、中小氏族が門閥の厚い壁ゆえ、系譜を仮冒して大族に結びつかんとしたために「氏族」が父系出自のリネージとは言い難いケースが少なくないのである[宇根1983]。宇根は改賜姓の具体的事例を列挙しているが、ここでは局務家についてのみ引用する。院政期以後になると史官や外記局などの実務官人は「官職請負」的な、ほぼ特定の氏によって担われることになるが、局務(太政官外記局を統括する大外記)中原朝臣・清原真人がそうである。「局務家の清原真人は延暦十七年(798)にはじまる清原真人と直接系譜的につながるものではなく、その前身は海宿祢で、寛弘元年(1004)十二月、直講、外記等を歴任した海宿祢広澄が清原真人姓に改姓したものである。」「中原朝臣も、その前身は大和国十市郡に本貫をもつ十市氏であり、天慶年間に少外記有象が宿祢姓を賜与され、更に天禄二年(971)にウジ名を中原に改め、天延二年(974)に至って中原朝臣となったものである。これも推測を加えるならば『三代実録』にみえる助教中原朝臣月雄らの系譜にむすびつけたものかも知れない。」[宇根1983]とされている。

大藤修[1996]によると官位を天皇から賜わるには由緒のある特定の尊貴な姓氏を持っていることが前提条件であるが、武家領主たちは、自らの系譜を由緒づけ、京都の権門勢家に画策して官位を得んと努めた。例えば家康は、三河の一土豪にすぎない松平氏を由緒づけるために、清和源氏の嫡流である上野国新田氏の支族得川氏の系図を借り受け、「徳川」氏となり、それを前提にして、誓願寺の慶岳、吉田兼右、近衛前久らの仲介により朝廷より「従五位下三河守源家康」宣下を得た、

また近世朝廷は、官職授与は武家や神職のみならず、職人などにも授与されていたのである。

 

「禁裏番衆所之記」寛永十九年条には次の職人受領のことがのっている。

 

二・四 瓦師藤原紹真任摂津掾、同藤原真清任河内大掾

 

二・九 香具屋藤原芳隆任河内目

 

二・二六 筆結藤原方富任若狭目

 

三・六 大工藤原宗政任播磨大掾、同藤原友庸任越前大掾、檜大工壬生盛政任近江大掾、各叙正七位下

 

五・二八 油煙師藤原貞鎮任豊後掾、上卿三条大納言 奉行綏光朝臣[宮地1981

 

上記8名の職人のうち7名が本姓藤原氏なのであるが、貴族の藤原氏と系譜で繋がっているはずはない。源平藤橘等古代的姓氏はもはや父系出集団ともいえない政治的に認定された標識となってしまっている。

 

B]女叙位の対象はきわめて限定されている

 

 女叙位について大藤[1996]がピックアップした近世の事例ではいずれも、将軍か将軍世嗣生母で徳川家に妾として入った女性であるがいずれも実父か養父の本姓である。

元禄15214日 従一位 藤原朝臣光子 

五代将軍徳川綱吉母桂昌院(名は玉)、家光妾、本庄(藤原)宗利養女

文政11110日 従二位 故従三位藤原輝子(追贈)

七代将軍徳川家継母月光院(名は喜世、左京の局とも称する。 家宣妾 勝田(藤原)玄哲女

文政11110日 従三位 故無位平朝臣篤子(追贈)

徳川家基母蓮光院(お知保の方)、家治妾、津田()日向守信之姉

 

 現代では生まれてすぐ命名された実名で生涯同じだが、前近代は異なる。佳字+子という実名は叙位の際命名されるのが通例と考えられる。

桂昌院の従一位は破格とも思えるが、もともとお玉といい俗説ではもともと京都堀河の八百屋の娘で、春日局のお茶子として江戸城に入り、偶々家光の御手が付いて四男の母となり、幸運にも四男は将軍に就任し、朝幕関係も良好だったかためである。

 しかし、桂昌院が藤原光子とされたのは、位記以外見出せないし自著することもないから、これを旧慣習と評価できないのである。

 なお、正妻の場合だが、後藤[2009 74]によると応仁の乱勃発の前年『後法興院記』文正元年(1466)に女叙位の聞書きがあり、「従三位源益子 関白室」は二条持通正妻の伯家雅兼王女のことであるから、女叙位は一貫して所生の氏として理解してよい。しかしこの時も女官17名に対し、正妻としては二条北政所だけである。当時、妻として叙位されるのは摂関家だけだという。したがって一般に叙位される女性などほとんどいなかったのであって、これをもって夫婦別氏の旧慣習とはいえない。

 

 

(C)後宮女官の呼称について

 

  ア 奈良時代が夫婦別氏であっても、嫡妻制が確立されておらず今日のような婚姻家族とは違うので先例とはならない

 

 

 伊集院[2014 156頁]に次のような大臣とその妻の一覧表があるが、妻が女官であることが多いのは嵯峨朝で蔵人所が設置されるまで、内侍司が「常侍」「奏請」「宣伝」を職掌とし天皇と男性官僚をとりもつ地位にあり、有力女官を妻とすることにメリットがあったためである。

 

     夫      妻

 

右大臣 藤原不比等 -県犬養橘三千代

左大臣 橘諸兄   -藤原多比能

左大臣 藤原永手  -大野仲千(尚侍・尚蔵)

右大臣 大中臣清麻呂-多治比古奈禰(尚侍)

右大臣 藤原是公  -橘真都我(尚蔵)

右大臣 藤原継縄  -百済王明信(尚侍)

右大臣 藤原内麻呂 -百済永継(女孺)

右大臣 清原夏野  -葛井庭子

右大臣 藤原三守  -橘安万子(典侍)

右大臣 橘氏公   -田口真仲(乳母)

太政大臣 藤原良房 -源潔姫

右大臣 藤原良相  -大枝乙枝

 

上記の表は、左大臣藤原冬嗣-藤原美都子のような同姓の妻のケースと、妻が不詳の大臣等を除いている。一見してこれは夫婦別氏を示すものと考えるのは早計である。論理的には実はそうではない。

貴族で嫡妻制が成立するのは関白基経以降といわれ、中世前期に嫡妻制はくずれてしまうのである。ここに記載された時期は、嫡妻制度が確立されていない。従って今日の婚姻家族とは違う。

 

例えば藤原内麻呂の妻は桓武天皇皇子(良峯安世)を生んだ女孺の百済永継と記載されているが、百済永継を妻としたことが内麻呂にとってメリットがあったとしても、坂上苅田麻呂女が最も子供が多く事実上正妻に近い、依当大神女も妻だったし、格からいうと藤原衛の母だった左大臣藤原永手女が嫡妻に近い立場ともいえる。

つまり嫡妻制が確立していない一夫多妻で、今日の家族概念と違う。

藤原衛は仁明天皇の蔵人頭、式部大輔、大宰大弐を歴任したが参議には昇進していない、九世紀、蔵人頭・式部大輔を歴任した官人は大抵参議に昇進しているので異例である。たぶん淳和上皇近臣だったため甥の良房に警戒されていたのか承和の変の影響と思える。また依当大神女を母とする大納言藤原愛発は承和の変で謀反人にされなければ大臣や氏長者となっていた可能性が高い。

従って百済永継を母とする冬嗣流が最も有力な門流となったのは結果論にすぎず、永継が嫡妻であったわけではなかった。

また嫡妻制が確立していない証拠として、藤原不比等が姦通罪にされていないことを挙げることができる。

県犬養宿禰三千代は天武12年(683)ころ敏達天皇曽孫の美努王と結婚し葛城王(橘諸兄)佐為王(橘佐為)、牟漏女王を生んだ。

ところが持統八年(694)美努王が大宰帥に赴任する際に三千代は同行せず、飛鳥に残って不比等と再婚した。

三千代は阿閉皇女(元明)付きの女官で持統上皇の信任厚く、不比等にとって有益な結婚だった。現代では夫が単身赴任で別居しても結婚は継続し、間男に妻を奪われるということは考えにくいが、この時代はさほど問題なかったと考えられている。

戸令二七先姧条に違反する姦通と思われるが、なんらお咎めはなかった。石田純一が「不倫は文化でしょ」というのも嫡妻制が確立されていなかった時期が古代・中世にあるのである意味正しいともいえるのである。

したがってこのことから、この時代は嫡妻制が成立しておらず、対偶婚的状況にあったと説明されることがある。

今日の婚姻家族とは違う。夫婦別氏の先例としては論外である

また飛鳥・奈良時代の後宮時代についていえば天武八年に中央豪族から氏女を出仕させる制度が定められ氏女は出身母体である氏から推薦されて代表として氏の名を負っているので、既婚・未婚を問わず所生の氏であり県犬養橘三千代は県犬養氏の氏女であった。公文書で女官は、職名・氏・姓と記した。氏女の場合、五位以上が氏名+命婦、六位以下が氏名+イラツメと称し、采女は五位以上が郡名+命婦、六位以下が郡名+采女と称する。[伊集院2014]。

氏女は氏の代表として宮廷に出仕しているのだから所生の氏は当然のことである。采女の場合は出身母体の郡名なのである。

 

 

イ 平安中期以降、女房の候名が確立し、通常は実名で呼称されることはない

 

平安時代中期から女房の候名が確立した。日常生活で呼称されているのは候名であって姓+実名ではない。清少納言や紫式部の実名が不詳であるのは、実名で指称されることがなかったからである。角田文衛[2006 178頁ベジ]によると平安時代中期の女房の候名は主として父、やむをえぬ場合は、夫、兄弟、祖父の官職名に因んで賜った。候名は優雅であり「実名敬避」に役立ち、女房たちの実名に煙幕をはった。女流歌人の次のような事例である[角田2006 121頁]。

 和泉式部 式部は父の藤原為時が(蔵人)式部丞の任にあったため。和泉は夫の橘道貞の任和泉守に因む。

 伊勢大輔 父の大中臣輔親が伊勢の祭主で神祇官の権大副。

 上東門院中将 父藤原道雅の任左近衛中将に因む。

 馬内侍 右馬権頭源時明の女。

 相模 相模守大江公資の妻。

 もっとも姓氏をもって指呼されている事例もある。『類聚雑例』長元九年五月十七日条に後一条天皇の御大葬に当たって素服を賜るべき人々「女房十八人」が書き出されている。

 先藤三位。藤三位。江三位。菅典侍。已上御乳母。少将内侍。兵部内侍。左兵衛内侍。左衛門命婦。左京命婦。小馬命婦。侍従命婦。中務命婦。兵衛命婦。小左門命婦。式部命婦。兵衛命婦。馬命婦。

 つまり、乳母四名は姓氏で指呼されている。しかし天皇乳母に称される例外的事例をもって夫婦別姓とはいえないだろう。しかも江三位とは近江守藤原惟憲の妻藤原美子であり大江氏の三位ではない。新田[1992]によれば夫の官職に因んで近江の内侍と称されていたが、昇叙により『栄花物語』第十九の禎子内親王着裳の儀の記述では「近江の三位」となり、第二十八の中宮威子出産の記述では「大弐の三位」となる。これは夫惟憲が大宰大弐であったためである。つまり後一条天皇乳母藤原美子の女房名は「近江内侍」「近江三位」「大弐三位」と変遷しているが、いずれも夫の官職に因むものである。

 では赤染衛門、清少納言はどう解釈すべきか。

 

赤染衛門は夫婦別氏の根拠にはならない

 

赤染衛門は帰化系氏族の赤染時用が父または養父とされる(赤染氏は燕国王公孫淵の後裔と伝え、河内を本貫として赤染部を掌る。天平勝宝二年に赤染造広足、高麿ら24人が常世連姓を賜う。)

夫は、従四位下式部大輔大江匡衡であるから、夫婦別姓の典型としてみることもあるが、父の氏で指呼する候名は珍しいものであって、例外的事例とみなす。衛門では女房相互の符牒になりえないからではないか。角田文衛氏[2006 119頁]は『紫式部日記』に依拠して赤染ではなく「匡衡衛門」と称されていたという。これは赤染衛門が夫の昇進のための運動に熱心であったためだか、いかにもあてこすった言い方であり年長者に対して非礼でもある。

むしろ『紫式部日記』に丹波守北の方と称されているこちらのほうが一般的指称(当時大江匡衡は任丹波守で妻は任地に下向せず京に止まっていた)だと思う。

 

清少納言も夫婦別氏の根拠にならない

 

 清少納言は、清原元輔の女だが実名不詳である。角田[2006 120頁]によるとこの候名は再婚した相手の少納言藤原信義の官名に因むとされる。清少納言は第三者から指称であり、日常生活において、女房相互の符牒としては少納言と指呼されていたことは『枕草子』の有名な「香炉峯の雪」より明白である。

 

 雪のいと高う降りたるを、例ならずして御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などして集まりさぶらふに、「少納言よ、香炉峯の雪いかならん」と仰せらるれば、御格子あげ

させて、御簾を高くあげたれば、わらはせ給ふ。

 

 中宮藤原定子は「少納言よ」と呼んでいるのであって清氏とは指呼しないのである。し

かも少納言が夫の官名に因むのであるから、これを夫婦別姓の論拠とはできない。

 

 候名は時代的変遷があり、南北朝・室町時代になると禁裏女房は男官の「公卿、殿上人、地下」に対応して「上臈、中臈、下臈」とし、上臈には公卿の官職(大納言など)を、中臈には京官の上位のもの(四等官のかみである卿、督、大夫)を付し、下臈には外官(地方官 伊予、播磨)を付けて呼んでいた[桑山1996]。吉野[1982]によると室町時代に女房名を遺跡として相続する慣習があったとしている。大納言典侍は広橋家の女(含猶子)で相続され、匂当内侍は奥向経済を掌握し女房奉書を書き出す重要な職掌であるが、南家高倉、東坊城両家の女が補された。しかも候名の変わり方に一定の決まりがあって、南家高倉家は右衛門督局か右衛門内侍から匂当内侍、東坊城家は別当局、左衛門督局、中内侍から匂当内侍であった。下臈の伊予局は和気氏の女が相続した。相続の慣習は江戸時代に姿を消した。こうした後宮女官の呼び名から夫婦別姓の慣習を見いだすことは全くできない。

 

D)明治4年10月27日太政官布告で、公文書で古代的姓氏は称されなくなった

 

 版籍奉還(明治2年6月)直後の明治2年7月8日に「職員令」「官位相当表」が布告され復古的な官制に改革がなされた。このために「藤原朝臣実美」「大江朝臣孝允」といった王朝風表記となり、これは天皇賜与・認定による古代的姓氏をメインとするものである。

 しかし、この復古的改革は版籍奉還をスムーズにさせるための措置と考えられる。先に述べたように、将軍との君臣関係は苗字、天皇との君臣関係は古代的姓氏であり、伝統的に王政と苗字での君臣関係はなかったからである。しかしながら、現実には藤原朝臣実美よりも三条実美、越智宿禰博文ではなく伊藤博文のほうが、わかりやすく、家名ないし苗字のほうが家筋を識別できる機能があるため、見直されることとなり、明治4年10月21日の太政官布告で「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」[井戸田1986 7884頁]により、古代的姓氏を公文書で用いることはできなくなった。

 さらに、明治8年2月13日の太政官布告の平民苗字必称令により、姓氏は苗字(公家の場合は称号とされる家名)に一元化されたのであるから、近世以前の位記において所生の氏の冠称が伝統的なものであるとしても、今日の姓氏は、天皇の賜与認定によるところの源平藤橘等の古代的姓氏ではなく、武家であれば開発領主の地名に由来する家名としての苗字、公家であれば15世紀ごろまでに確定した称号に由来するところの家名、農民については15世紀後半以降の苗字、総じていえば苗字を氏、姓として一元化したものであるから、きわめて論理的に範疇の違う古代的姓氏の事例をもって旧慣習とみなすことはできない。

 

E)明治9年太政官指令に実効性なく、事実上明治民法施行前より夫婦同氏が慣行になっていた

 

明治9年太政官指令「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」は社会生活の実態とまったく乖離しており、事実上実効性がなかったと考えられる。それは夫婦の別氏を称することの不便さが各府県の多くの伺文で取り上げられていることでも明らかである。役所が公文書に生家姓を強いることも困難な実態にあり、事実上明治民法に先行して夫婦同氏が普及し慣行となっていたことが看取することができる。代表的な伺文を引用する。

 

 明治22年12月27日宮城県伺

 「婦女嫁スルモ仍ホ生家ノ氏ヲ用フベキ旨曽テ石川県伺御指令モ有之候処嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方一般ニ慣行ニシテ財産其他公私ノ取扱上ニ於テモ大ニ便益ヲ覚候ニ付嫁家戸主トナル者ノ外ト雖モ必ズシモ生家ノ氏ヲ称セサルモ便宜ニ任セ嫁家ノ氏ヲ称スルハ不苦義ニ候哉」

 明治23年5月2日東京府伺

 「婦人結婚ヲ為シタル後ト雖夫ノ氏ヲ称セス其生家ノ氏ヲ称用スル事ニ付イテハ明治九年四月石川県伺ニ対シ内務卿御指令ノ趣モ有之候得共凡ソ民間普通ノ慣例ニ依レハ婦ハ夫ノ氏ヲ称シ其生家ノ氏ヲ称用スル者ハ極メテ僅々二有之然ルニ右御指令之レアルカ為メ公文上ニ限リ強イテ生家ノ氏ヲ称用セシメサルヲ得スシテ習慣ニ反シ往々苦情モ相聞実際ノ取扱上ニ於テモ錯誤ヲ生シ易キ義ニ付夫家ノ氏ヲ称セシムル方事実適当ナルノミナラス既ニ民法人事編草案第三十六条ニモ婦ハ夫ノ氏ヲ称用云々ト有之法理ニ於テモ然ルヘキ義ト相信シ候ニ付自今夫家ノ氏ヲ称用セシメ候様致度」[廣瀬1985

 

 折井[2003]が発掘した資料によると西欧式を意識していた側面もうかがえられる。明治24年8月創刊の『女鑑』(教育勅語の精神を女性に徹底する国粋主義的婦人雑誌)では「土方子爵夫人亀子」「高島子爵夫人 春子」「土岐夫人 理世子」などとなっており、田辺龍子が明治21年に発表した小説『藪の鶯』では「レディ篠崎」「ミスセス宮崎」と呼びかけている。

 明治初期に女性の新しい生き方を模索して格闘した女性たち、岸田俊子は明治18年に結婚して中島俊子に、景山英子は明治18年に結婚し福田英子に、星良は明治30年に結婚して相馬良となっている。進歩的な女性たちを含め夫婦同姓だったのである。

 

 この点につき折井は「○○夫人と呼ばれることで夫と一体化するように感じて、旧時代にはない新しい家族像を実感していたのではなかろうか」と述べ、明治9年太政官指令にもかかわらず現実には夫方の姓を名乗る妻が多く存在し、生家の姓氏を名乗る場合は、儒教的道徳に従う古い慣習と考えられていたとする。

 

以上、妻は所生の氏とした明治9年太政官指令は、慣習、実態に反しており、論理性に乏しかったと断言してよい。

 

 

5)柴桂子によって近世における夫婦別姓旧慣習説は明確に否定されている

 

夫婦別姓推進論の背景として井戸田博史[2003]、洞富雄[1957]、熊谷開作[1963]などの法制史学者が夫婦別姓旧慣習説を唱えていたことである。特に井戸田博史が夫婦別姓を支持する方向で論じていたことである。しかし、近世史研究プロパー、女性史研究者が井戸田説や法制史学者の見解を批判している。

近世については大藤修[1996]、とくに柴桂子[2003]が一次史料を詳細に検討したうえで、江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、指称、自称、自署はしていないことを明らかにしており、井戸田説を批判している。

 

 柴によれば、法制史研究者によって「江戸時代の妻の氏は夫婦別氏だった」と流布されているが、夫婦異姓の根拠とされる史料はごくわずかに過ぎない、女性の立場や実態把握に疑問があるとする。

「法制史研究者は別姓の根拠を、主として武士階級の系図や妻や妾の出自の氏に置いている。ここに疑問がある。妾や側室は雇人であり妻の範疇には入らない。給金を貰い借り腹の役目を終わると解雇され配下の者に下賜されることもある。

 より身分の高い家の養女として嫁ぐことの多い近世の女性の場合には、系図などには養家の氏が書かれ「出自重視説」も意味をなくしてしまう。

 別姓説の中に「氏の父子継承原理」が語られるが、女の道として教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていた。

 また、宗門人別帳でも夫婦同宗とされ、婚家の墓地に埋葬されるなど婚家への一体性・帰属性が強かった。」

 

 実態として近世の既婚女性はどう呼ばれどう名乗っていたのか

 

◎他称の場合

 

○出版物 『近世名所歌集』嘉永四年(1851)、『平安人物誌』文政五年(1822)

姓はなく名前のみで○○妻、○○母と婚家の身分が記されている。『江戸現在広益人名録』天保一三年(1842)も同様だが、夫と異なる姓で記載されている場合もわずかある。

 

○人別書上帳・宗門人別帳

庶民の場合は姓も出自もなく、筆頭者との続柄・年齢が記される。

 

○著書・歌集・写本などの序文や奥付

 

武士階級でも姓も出自もなく、院号や名のみの場合が多い。

 

○犯科帳、離縁状、訴状、女手形

 

姓はなく名のみが記され○○妻、○○後家と書かれ、名前さえ記されないものもある。

 

○門人帳 

別姓の例としてよく取りあげられる「平田先生門人姓名録」であるが、幕末の勤王家として名高い松尾多勢子は「信濃国伊那郡伴野村松尾左次右衛門妻 竹村多勢子 五十一歳」と登録されている。しかし、この門人帳には29名の女性の名があるが、既婚者で生家姓で登録されているのは多勢子を含め5名で、婚家の名で登録されているのは10名、名だけで登録されているのが3名である。他は○○娘とあり未婚者と考えられる。

他に心学門人帳などあるが、姓はなく名のみが記され、○○妻、○○娘と細字で傍書されている。

 

○墳墓、一般的には正面に戒名、側面に生家と婚家の姓が刻まれている。

 

◎自称・自署の場合

 

○著書 多くは姓はなく名のみを自署している。

 

○書画・短冊 雅号のみの場合が多い

 

○書簡 これも名前のみサインである。

 

○『古今墨跡鑑定便覧』本人の署名を集めたもので、姓はなく名前のみサインである。

 

例外的にフルネームの署名もあるが書画や文人の書簡であって夫婦別姓とはいいがたい。なぜ、自署は名前だけだったのだろうか、これは私の見解だが、たぶん近世の既婚女性は手紙を書くとしても親族の範囲にとどまるのであり、名前だけで十分個人が特定できる範囲が交際範囲であると考えられる。

 

 柴桂子の指摘から一般に、江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、指称、自称、自署はしているわけではないと断言してさしつかえないだろう。夫婦別姓は旧慣習とはいえない。多勢子のような例外的事例をもって夫婦別姓というのは過当な一般化だろう。

 墓碑名については、明治民法施行前において、例えば明治五年、神道布教の中央機関として設置された大教院が神葬の儀礼を編纂せる近衛忠房・千家尊福『葬祭略式』を刊行し、そのなかで、「妻には姓名妻某氏霊位と記す」となし、妻の生家の氏を刻むよう奨導した例がある江守[1990]があるが、そもそも教派神道を別として、神道式の葬式は今日普及しておらず、墓碑名に生家姓を刻むとしても、それは妻の由緒、姻戚関係を明らかにする趣旨で、生きている人の実態において生家姓を冠称していたとする根拠にはならない。

 夫婦別姓推進論者は舅姑や夫と同じ墓に入りたくないと言うが、しかし我が国においては、婚入配偶者が、生家に帰葬されるという慣習はきわめて例外的なものである。

 もっとも江守[1990]は「子持たずの若嫁の帰葬」を論じている。新潟県岩船郡・西頸城郡・青森県三戸郡田子町・秋田県鹿角市、仙北地方に「子持たずの若嫁の帰葬」の習俗があるとしている。これは子どもができないで若死にした場合、特に不正常死した若嫁の遺骸や遺骨を生家が引き取るというならわしであるという。江守[1990]は、中国の東北地区の満族・ダフール族・エヴァンギ族にも類似した出嫁女の帰葬の習俗があリ、ツングース系の北方民族との一致点を見いだしているが、しかしながら、こうしたローカルな習俗から、出嫁女の婚家帰属性を否定することに論理性はない。我が国というか東アジアに共通していえることだが、例えば足入れ婚のように、初生子を出産するまでの、嫁の地位が不安定であるということは指摘されている。しかし、今日足入れ婚の悲劇はきかなくなったし法律婚が定着している以上この問題を論ずる必要はないだろう。

 

 柴桂子氏の重要な論点として

 女の道として教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていた。

 という指摘があるが、出嫁女の婚家帰属性については我が国も漢土法も近世朝鮮・韓国も同じことである。

 

6)戦国時代の公家と農民において夫婦同氏の旧慣習が認められる

 

A 後藤みち子説

 

 後藤みち子[2009]によれば戦国時代の貴族は基本的に夫婦同じ家名で称されるのが普通であるとしている。摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。

 清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。近衛尚通(14721544)の『後法成寺関白記』によると久我通信正妻を「久我女中」と称し、徳大寺実淳妻は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。

 西洋でも○○家出の○○卿夫人というように、夫の家名や爵位にちなんで称されるのと同じ感覚である。

 一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。姑と嫁は東-西、南-北と対になって形づけられた。

 三条西実隆(14551537)『実隆公記』では中御門宣秀正妻を「中御門西向」と称し、『親長公記』では中御門宣秀の父である中御門宣胤の正妻を「中御門東向」と称している。姑が「東向」で嫁が「西向」である。

 三条西家の家妻の役割が検討されているが、使用人の給分の分配(使用人の給料を決定する)、食料の手配・管理、追善仏事の運営、連歌会。和歌会の設営があげられている。これは近現代に庶民の家の主婦の役割に通じるものがあるといえるだろう。このように公家社会において嫡子単独相続確立期に、家妻は、家政・家職の経営の役割を分担し、婚家の名字を冠して称された。

 後藤の著書の表現は、女叙位の位記は所生の氏であるから夫婦別氏、夫婦同苗字と述べているが、社会的呼称は、婚家の名字+妻の社会的呼称(女中、向名)であるから実質的には夫婦同氏といってよいと思う。であるから、旧慣習は別氏というより同氏なのである。

 さらに後藤は、『実隆公記』紙背文書、公家の正妻からの58通の消息の差出書(発信者の署名)を検討しているが、九条尚経正妻や二条尹房正妻は「き」と署名しこれは正妻を意味する北政所の略であるとする。以下は、正妻を意味する向名の略である。

           差出書

三条西公条正妻    に   西向

正親町実胤正妻    き   北向

正親町三条実望正妻  き   北向

中御門宣秀正妻    に   西向

甘露寺元長正妻    き   北向

 

 つまり婚家の地位を発信者の署名としているのであり、婚家帰属性を示すものといえる。

 

B 坂田聡説

 

 坂田聡は中世史の研究者だが、明確に選択的夫婦別姓支持を主張している[坂田2002]。しかし、坂田[2006 2009]の丹波国山国荘は夫婦同苗字が3例、北近江菅浦にも同様の例があるとし、庶民においては15世紀後半以降夫婦同苗字のほうが一般的とみなし、明治初期庶民は夫婦同姓を当然視していたことからそうだとするのである。一方、農民に苗字が成立していない鎌倉時代は夫婦別氏としており、少なくとも家が成立した後は、夫婦同苗字としているので、これは事実上夫婦別氏旧慣習説を否定しているものと読めるのである。


文献表

明石一紀

2000「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下

2006『古代・中世のイエと女性』校倉書房196頁以下

荒井献

1985「新約聖書における女性の位置」『聖書セミナー』第1号1985日本聖書協会発行 162頁以下 『新約聖書の女性観』岩波セミナーブックス 1988も同内容

嵐義人

1998「姓氏・名乗、あれこれ」(『日本「姓氏由来」総覧』新人物往来社222)

井戸田博史

1986『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986 

2003『氏と名と族称』法律文化社

井上兼行・清水昭俊

1968「出雲調査短報」『民族學研究』331号 1968

上野和男

1982「日本の祖名継承法と家族--祖先祭祀と家族類型についての一試論」『政経論叢』5056

1985「日本の位牌祭祀と家族--祖先祭祀と家族類型についての一考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』6

ウタ・ランケ・ハイネマン

1996高木昌史他訳『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 20頁以下

宇根俊範

1983「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99 関連して宇根俊範「律令制下における賜姓についてー朝臣賜姓ー」『史学研究』(広島大)147 1980

梅村恵子

2000「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店

江守五夫

1990『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂

1993「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993

1998『婚姻の民俗-東アジアの視点から-』吉川弘文館1998

大竹秀男

1977『「家」と女性の歴史』

大藤修

1996『近世農民と家・村・国家 : 生活史・社会史の視座から』吉川弘文館1

2001「幕臣体制の成立と法」『新体系日本史2 法社会史』

折井美耶子

2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636 

加地信行

1998『家族の思想 儒教的死生観の果実』PHP新書

勝俣鎭夫

2011『中世社会の基層をさぐる』山川出版社

蒲生正男

1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968

1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本―岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970

1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

1974b「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3

 1975「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3 

河内祥輔

2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館

告井幸男

2007「摂関・院政期における官人社会」『日本史研究』535

官文娜

2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版

京楽真帆子

1993「平安京における居住と家族-寄住・妻方居住・都市」『史林』76巻2号

金宅圭

2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会

熊谷開作

1963『歴史のなかの家族』酒井書店

1987『日本の近代化と「家」制度』法律文化社,

クーランジュ

1924 田辺訳『古代都市』白水社1961、原著1924)

栗原弘

1994『高向群枝の婚姻女性史像の研究』高科書店 

桑山浩然

1996「室町時代における公家女房の呼称 」『女性史学』(通号 6) [1996]

久留島京子

1989「市民社会の成立と女性論-メアリー・アステル」『史學研究』185, 1989

小池誠

4 2005「序言 「家社会」とは何か(特集 アジアの家社会)」『アジア遊学 』74 

後藤みち子

2009『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館

坂田聡

2002「中世後期~近世の家・家格・由緒--丹波国山国地域の事例を中心に 」『歴史評論 』630

2007「家制度の期限を探る-転換期としての戦国時代-」『青少年問題』625

2006『苗字と名前の歴史』吉川弘文館

2009「戦国女性の姓・苗字・名」『歴史読本』544

柴桂子

2003「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003]

(2004「〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現状) のコメント」『総合女性史研究』(21) [2004.3])上記と同内容

清水昭俊

1970<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

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1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 

1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

滋賀秀三

1967『中国家族法の原理』創文社1967 

シロコゴロフ

1924大間知訳満州族の社会組織」『満州族』(大間知篤三著作集6)未来社1982原著1924)

鈴木明日見

2013「ランゴバルド諸法における男子未成年者の婚姻 : リウトプランド王付加勅令128条、カロリング勅令140条を中心としてThe Marriage of Male Minor in the Lombard Laws : Based on the Article 128 of the Laws of King Liutprand and the Article 140 of the Laws of Carolingian」『駒沢史学』80 2013

曽我良成

2012『王朝国家政務の研究』吉川弘文館

高橋秀樹

2004『中世の家と性』山川出版社

ダニエル・デフォー

1981山本和平訳「世界文学全集10」集英社 379頁

谷口やすよ

1978「漢代の皇后権The Political Power of the Empress in the Han Dynasty」『史學雜誌 』87(11) 1978 

角田文衛

2006『日本の女性名-歴史的展望』国書刊行会

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1970『家族の構造-社会人類学的分析』東京大学出版会「日本同族構造の分析」

仁井田 陞

1952『中国法制史』岩波書店1952

西谷正浩

2006『日本中世の所有構造』塙書房

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1992「栄花物語』の女官名称-乳母「近江の内侍」」関根慶子博士頌賀会編『平安文学論集』 風

樋口健太郎

2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂(大阪)2005年

2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011

廣瀬隆司

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福島正義

1990『武蔵武士-そのロマンと栄光』さいたま出版会

福地陽子

1956<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展<Article>THE GROWTH AND DEVELOPMENT OF THE CATHOLIC PRECEPT AGAINST DIVORCE」『法と政治』7(4)1956

服藤早苗

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J・Lフランドラン

1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房

イレイン・ぺイゲルス

1988 邦訳1993絹川・出村訳『「楽園神話」解釈の変遷アダムとエバと蛇』ヨルダン社

保科季子

2002「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』6121

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1957「明治民法施行以前における妻の姓」『日本歴史』137号

松永晋一1959

「キリストのからだとしての教会The Church as the Body of Christ」『神學研究』 9  1959

宮地正人

1981『天皇制の政治史的研究』校倉書房

桃 裕行

1947『上代学制の研究』畝傍史学叢書

湯川俊治

2005『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会

吉田孝

1963 『律令国家と古代の社会』岩波書店

吉野芳恵

1982「室町時代の禁裏の女房-匂当内侍を中心にして」『國學院大學大学院紀要文学研究科』13号

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