(二)結婚は自由でなければならないという古典カノン法を基軸とする西洋文 明の婚姻理念を継承すべきであり、婚姻の自由を抑制する婚姻適齢引き上げに 強く反対である
1概略バージョン1
(1)古典カノン法の何が自由なのか
A 古典カノン法とは
B 当事者の相互的な婚姻誓約だけで婚姻が成立(無方式合意主義諾成婚姻理
論)
C 家父ないし両親・領主の同意要件を明確に否定(親族とのコンセンサス
の排除)
D 婚姻適齢はローマ法を継受したが成熟は年齢を補うという理論によりさら
に緩和した
(2)結婚が自由でなければならない理由
A 聖書的根拠(淫行を避けるため手段としての結婚)
B 副次的理由
(3)古典カノン法が近代まで生ける法だった英国における自由な結婚の歴史
(4) 近代個人主義的友愛結婚の源流は古典カノン法にあり、現代人の結婚観を規定したものであるから、自由な結婚の理念は継承されなければならない
(1)明治民法施行前、そもそも婚姻適齢法制がなくても何の問題もなかった
し、婚姻適齢を引上げる正当な理由は何一つない
(2)婚姻適齢法制の文明基準2000年以上続いているローマ法の男14歳女12
歳
(3)親や領主の同意要件を否定し未成年者の婚姻を肯定する教会法が婚姻成
立要件では人類史上もっとも自由主義的な立法である
(4)秘密婚を容認する古典カノン法が近代まで継続したイギリス(結婚は自
由でなければならない、それは現代人の結婚観の基本となった)
(1)ローマ法
(2)キリスト教とセクシャリティ(カノン法成立の背景と現代人の結婚観の
基本)
A 新約聖書における三種類の全く異なった思想
a) 婚姻と通常の社会関係を否定する反(脱)社会思想(イエスの急進的使信)
b) 仮言命法による結婚の消極的是認(真正パウロ-コリント前書7章)
c) 結婚を肯定し家庭訓を説く(第二パウロ書簡と第一ペトロ書)
B 独身優位主義の確定とその決定的な意義
C 情欲の鎮和剤remedium concupiscentiaeとしての結婚目的は決定的で、婚
姻の自由のもっとも重要な根拠である
D コリント前書「情欲の緩和」が近代個人主義的友愛結婚の思想的源流でも
ある
(3)教会の管轄権となった婚姻と、秘跡神学の進展
(4)古典カノン法の成立
(5)秘密婚をめぐる軋轢、世俗権力との抗争
(6)トレント公会議で要式主義へ転化したが親の同意要件は一貫して否定
(7)フランス-教会婚姻法から離反(婚姻法の還俗化)の嚆矢
(8)イギリス-宗教改革後も無式合意主義(古典カノン法)が生ける法とし
て継続
A 古典カノン法が近代まで生ける法だったイギリスの特筆すべき法文化
B 秘密婚の隆盛(17世紀より18世紀前半のイギリス)
C 1753年ハードウィック卿により婚姻法の還俗化
D グレトナ・グリーン結婚(18世紀中葉から19世紀中葉)-それでも自由な結
婚が有効だった
この法諺はローマ法の無方式合意主義諾成婚姻理論を継受した教会婚姻法の理念としてより鮮明なものとなっている。それは西洋文明規範ともいえる。
古典カノン法が事実上容認していたいわゆる秘密婚marriage clandestin問題ともいえる。教会法は当事者に最大限の自己決定権を与えている。それは、たんに無方式合意主義というだけでなく、ローマ法の婚姻適齢をさらに緩め、性行為が可能なら年齢制限が事実上ないことからも明らかである。この婚姻法は世俗的な利害関係を捨象した結婚の理念をもっていたから、軋轢を生じたのは事実である。結果的に近現代では、親の同意し要件を否認する教会婚姻法は否定されて還俗化し、今日実効性のある婚姻法は世俗国家のものとなっている。とはいえ、古典カノン法の法文化は一貫し特に英米で寿命が長かった。歴史的意義は大きく、現代人の結婚観念の基本ともなっているのである。
単婚の婚姻理念を劃定したのはカノン法であり、その理念を無視することはできない。無視してよいというのは、社会主義者かアナーキストかということになるだろう。
ここで古典カノン法と言ったのは12世紀に成立した教会婚姻法をさし、1563年のトレント公会議以降の婚姻法、カノン法を全廃して成文法典として1918年以降の教会法と区別する趣旨である。
中世ラテン=キリスト教世界では、9世紀に成立した偽イシドルス教令集が教皇主権
の根拠とされ、カロリング朝が終焉した10世紀半ばには俗権に対し教権が優位に立ち、婚姻事項を霊的裁治権として教会裁判所の専属管轄権とした。従って教会婚姻法が西方の統一法である。こののち神学者によって婚姻の秘跡性が理論化されていくこととなる。
いわゆる「教皇革命」ののち12世紀中葉に教皇受任裁判がなされるようになり、教皇庁が司法化していく。教皇は婚姻事件の最終裁定者となった。古典カノン法とは各地で採録された,教令(Dekretale) 教皇の回答 (Erlasse)などを体系的に集成したものであり、教会婚姻法は主として教皇アレクサンデル3世(在位1159~1181)期に成立し、1234年の『グレゴリウス9世教令集』には婚姻法関係が全21章166条収録されているが、その三割強がアレクサンデル3世の教令である。[直江眞一2014]「法律と行政の天才」」といわれる教皇アレクサンデル3世が無方式合意主義婚姻理論、正確には緩和的合意主義を決定的に採用したことで劃期といえる。
イングランドでは、教会裁判所は婚姻と遺言による動産処分を専属管轄権として安定していた。中世のイギリスは事実上国王と教皇の共同統治国家だったのである。メイトランドがいうとおり、イングランド婚姻法とはローマ教会婚姻法そのものにほかならない。
もっとも1236年マートン大評議会で、教会側の強い反対にもかかわらず、世俗貴族は一致して、教会法の婚姻遡及効(アレサンデル3世の教令による後の婚姻による嫡出子の準正)を拒否した。「我々はイングランド法を変更することを欲せず」(Nolumus leges Anglie mutare)にと決議したのである。土地の相続は世俗裁判所の管轄として劃定したのである。もっともこれはどの子どもが長子かという問題で教会婚姻法の根幹を揺るがすことではない。相続に関して教会裁判所の干渉を避けていたのはイギリスだけではなく大陸でも同じことである。しかし婚姻の成否については教会裁判所の管轄権であることは明確であった。
古典カノン法の特徴は、社会的経済的利害関係の捨象である。第三者の干渉しない当事者の合意で成立する婚姻であり、個人に最大限の自己決定権を与えていることである。教会婚姻法では秘密婚を抑止することができないため世俗社会から強い非難を被っていた。
もちろん教会の戸口の前の儀式や、婚姻予告も中世においてなされていた。しかしそのような儀式がなくても有効な婚姻なのであり、無方式にこだわるのが古典カノン法の理念であるからである。
教権は教会婚姻法が秘密婚を擁護しているという非難をかわすためにトレント公会議の閉幕年1563年のタメットシ教令で婚姻予告や教会挙式を義務化する。婚姻の自由という観点ではトレント公会議は、大きな後退といえる。
また16世紀中葉のフランスを嚆矢として19世紀まで緩慢な進行により婚姻法は還俗化していくこととなる。
しかしイングランドでは宗教改革後、教会裁判所は市民法律家に入れ替わっても18世紀中葉まで古典カノン法が「古き婚姻約束の法」として生ける法として実効性があり、スコットランドではその後も生ける法として実効性があった。
従って古典カノン法の自由な理念の寿命が長く影響力が大きかったのは現代のカトリック地域というより古典カノン法=コモン・ローマリッジとして生ける法だった英国であり、つまり英米文化圏である。近現代人の結婚観にも大きな影響を与えている。
では古典カノン法の何が自由であるかというと次のとおりである。
合意主義それ自体は古く、ローマの古典時代からのものである。2世紀の正統的なラテン教父テルトゥリアヌスは「婚姻は意思によって完成する」といい、4世紀の四大教父聖アンブロジウスも「処女性の喪失ではなくて結婚の約束が結婚を作る」と述べ、9世紀の教皇ニコラウス1世も外形的に認識され得べき合意を婚姻締結の本質要件とした。[船田享二1971 41、62頁]
11~12世紀においては、ボローニャ学派が合衾主義を説いたが、フランス学派は合意主義婚姻理論を説いた。教会法学者として著名な聖イヴォ(没1116頃シャルトル司教)、ランのアンセルムス(没1117)、サンヴィクトルのフーゴー(1096~1141)、中世最大の教師ぺトルス・ロンバルドゥス(没1160パリ司教)がそうである。
古典カノン法は、12世紀に成立する。教会婚姻法の骨格は各地で採録された教皇アレクサンデル3世(位1159~1181)の教令といってよい。教皇アレクサンデル3世が決定的に採用したのが緩和的合意主義婚姻理論である。
現在形の言葉による相互的な婚姻誓約(suponsalia per verba de praesente『我は汝を我が妻とする。I will take thee to my Wife 我は汝を我が夫とするI will take thee to my Husband』)と言うだけで婚姻が成立し、合衾copula carnalisで完成婚となり婚姻非解消となる。未来形の相互的婚姻誓約は、合衾によって完成婚となる。2人の証人(俗人でよい)が必要だが、理論的には証人がなくても婚姻は成立する。
①現在文言での約言(婚姻成立)→合衾(完成婚)
②現在文言での約言(婚姻成立)→合衾の前に修道生活入り又は教皇の免除(例外的に婚姻解消)
③未来文言での約言(婚約)→現在文言での約言(婚姻に転換)→合衾(完成婚)
④未来文言での約言(婚約)→合衾(完成婚)
[塙陽子1993]
このように本来の教会法の婚姻とは当事者の合意としての民事行為である。東方教会では、婚姻とは司祭の行為であり典礼儀式のことであったが、西方では合意説theria cosensusをとっているため司祭の祝福や典礼儀式は婚姻の成立とは無関係となった。
12世紀の秘跡神学では婚姻の秘跡とは婚姻という一つの現実ににおいて表象されるキリストと教会の結合の秘儀というものであったから、司祭の祝福や典型儀式と結びつけられてはいないのである。教会儀式は神学的にも婚姻成立のために不要だったのである。
ペトルス・ロンバルドゥスはキリストと教会の一致をかたどる一つのイメージは結婚愛によって開始され、性交により完成されるとする。[枝村茂1975]
また教皇アレクサンデル3世は、性交によって完成された婚姻はキリストと教会の秘儀のイメージをその中に有しており、キリストと教会の不解消的一致の秘跡であると述べている。[枝村茂1975]
このように、12世紀の秘跡神学は、聖なる絆として婚姻非解消主義の一つの根拠ともなっているが、一方結婚愛や夫婦愛、性交を神聖視したのであり婚姻とは社会的経済的利害関係が第一義ではないとする近代個人主義的友愛結婚の思想的淵源であったといえる。
もちろん、合意主義といってもカノン法は婚姻非解消主義であり、婚姻誓約が二度あった場合は最初の相手が正当な結婚である。二度目の婚姻誓約はたとえ事実上の夫婦であったとしても婚姻としては無効となるという点で、厳格主義である。しかし婚姻成立が容易であり、個人の自己決定を最大限認めている点で自由主義的法制といえるのである。
もっとも13世紀になると典礼儀式に秘跡の効力を帰する神学者の見解は少なくなくなる。また1215年の第四ラテラン公会議で秘密婚の抑止のため式婚姻予告を奨励するが、義務ではないため「秘密婚」は有効な婚姻だった。
なお、教会の戸口の前の儀式を要求したのは英国では世俗裁判所であって、寡婦産の設定のためであり、古典カノン法は挙式を要求するものではない。
ちなみに中世史家の鵜川馨[1991 531頁]によれば花婿が花嫁に指輪や銀貨を贈るセレモニーについて、「‥‥ゲルマン法に固有の婚姻契約の履行を担保するものとしてを 動産質 (E pledge, OE wedd)を与える儀礼が,教会の儀式にとりこまれたことを示している。従ってweddという言葉は、将来夫の死後に寡婦産として現実に土地の引渡しを担保するものとして,指輪あるいは銀貨が与えられるのであって,本来は質物,担保を意味した‥‥」とウエディングの語源を説明する。つまり指輪や銀貨等はゲルマン法に由来し、教会法が要求している事柄ではない。
C 家父ないし両親・領主の同意要件を明確に否定(親族とのコンセンサスの排除)
ローマ法では婚姻当事者が家長権に服する場合、家長の同意のない婚姻は無効とされた[船田享二1971 56頁]。ゲルマン法のムント婚は、家父から花婿へのムント権(庇護権)の譲渡である。
しかし教会法は家父(両親)に家子の結婚をコントロールする権限を認めない。古典カノン法の婚姻適齢は次節のとおり男14歳、女12歳であるが、当事者に最大限の自己決定権を付与している点、人類史上類例のない法文化といえるのである。
実際、駆け落ちや周囲が強く反対する結婚であっても教会法を利用して恋を貫いた多くの事例がある。
例えば1469年英国ノーフォーク州の名家パストン家の長女マージョリー20歳は、初恋の相手である家令のコールと結婚した。コールはパストン家の金庫番であり使用人の監督者でもあったが、身分違いの結婚のため家族から猛反対されたが、コールは賢く、ノーリッジ司教に仲裁を求めた。教会法により二人の婚姻誓約は有効とされたのである。[社本1999]
このようにカノン法は、当事者の幸福が家族のプライドによって犠牲にされることのない、恋愛の結実が結婚であるという文化を形成した。
この自由な婚姻理念は、結婚に伴う社会的利害関係を捨象しており、親権者の子供の結婚のコントロールを困難にしたから、世俗社会と軋轢を生じた。
しかし教会は婚姻の自由のために数世紀にわたって世俗権力と抗争したのである。世俗権力は要式主義、親の同意要件を要求したが、1563年トレント公会議は秘密婚に対する非難をかわすため要式主義をとることで妥協したものの、フランスガリカン教会による親の同意要件の要求は断固として退けた。
D 婚姻適齢はローマ法を継受したが成熟は年齢を補うという理論によりさらに緩和した
従って次の1601年の教会法学者ベネディクティの見解は、教皇アレクサンデル3世の教令に従ったものといえる
「要求される年齢はいくつか?女子は最低11歳半、男子は13歳半である‥‥ただし、法律のいう、早熟が年齢を補う場合は別である。その例=10歳の少年が射精、もしくは娘の処女を奪い取るに足る体力・能力を備えているならば、結婚が許されるべきこと疑いをいれない。‥‥男との同衾に耐え得る場合の娘についても同様であり、その場合の結婚は有効である」Benedicti, J1601. La Somme des peches1601[フランドラン1992 342頁]
つまり女子の場合は、身体的交渉に耐えられる大人っぽさがあれば、12歳未満でも婚姻適齢とする。
なお、カトリック教会は1918年にカノン法を全廃し、新成文法典としており、婚姻適齢も男16歳、女14歳と改定しているが、成年期を満20歳、成熟期を男14歳、女12歳としていることは変わっておらず、成年期が権利の自由な行使のできる年齢であっても、例外として婚姻、修練期への進入、墓所の選定等は未成年者に両親・後見人の承認を得ることなく自由な権利の行使を認めており、この点は一貫しているのである。[ルネ・メッツ1962 107頁]
(2)結婚が自由でなければならない理由
A 聖書的根拠(淫行を避けるため手段としての結婚)
結婚の目的として初期スコラ学者は真正パウロ書簡のコリント前書7:2,7:9(淫行を避けるための手段としての結婚)を決定的に重視した。これが婚姻の自由の根拠の第一にあげてよいだろう。淫欲の治療薬remedium concupiscentiae(Ⅰコリント7章2節、9節)と初期スコラ学者により公式化された教説である。
ふしだらな行為、姦淫を避け放埓さを防止するため、情欲に燃えるよりは結婚したほうがよいというもので、パウロは、独身であることがより望ましいとしているが、しかし多くの人は、性欲を我慢できない、ゆえに結婚は自由で容易に成立するものでなければならないのである。
古代教父では東方教会最大の説教者にして「黄金の口」と称されたコンスタンティノーブル司教ヨアンネス・クリュソストモス(344または349~ 407。聖人・教会博士)が、正当にも聖書に忠実な見解を述べている。
結婚とは自然の火を消すために始められたものである。すなわち姦淫を避けるために人は妻をもつのであって、子どもをつくるためのものではない。悪魔に誘惑されないように夫婦が一緒になることを命じる。「一つの目的が残った。すなわちそれは、放埓さと色欲を防止することである」『純潔論』[ランケ・ハイネマン1996 77頁]
スコラ学者にとって結婚とは性欲の治療薬であった。美人を見ても冷静でいられるようにするため美人と結婚するという同毒療法だったのである。
性倫理の確立という点でも、婚姻の自由は重要で、淫らな生活、姦淫の総数を減らし、子どもを私生児にしないために、性的熱情は夫婦の床に限定されることが望ましいのであるから、婚姻の不自由は、不品行な性行為を助長しかねないためである。ゆえに婚姻に容易に成立し自由でなければならない。
福音書のイエスの使信は結婚を積極的に位置付けておらず、むしろ否定的である(ルカ12章49~53節)。第二パウロ書簡(偽パウロ書簡)や第一ペトロ書には家庭道徳訓(コロサイ3章18節-4章1節、Ⅰテモテ2章8節-3章1節、6章1-2節、Ⅰペテロ2章18節-3章7節)があり、結婚を明確に肯定する表現もある(Ⅰテモテ5章14節、へブル13章4節)。またエペゾ書5章24-25節には夫婦関係をキリストと教会の関係になぞらえる表現があるが、なぜ結婚の理由付け、目的については立ち入ってない。
パウロの真筆書簡で結婚について集中的に語っているのはコリント前書7章1~40節で、真正パウロは仮言命法的に結婚を消極的に肯定しているが、パウロは結局、結婚する理由として淫行を避けるため、我慢できないなら結婚してよい(Ⅰコリント7章2節・9節)と、年頃の娘なのに行き遅れると心配するなら結婚してよい(Ⅰコリント7章36節)ということしか言っていないのである。
ラテン的キリスト教世界では、4世紀に独身聖職者制に異議を唱えたヨウィニアーヌスJovinianus がローマ司教シリキウスにより異端宣告され、徹底的に叩かれたように、独身者が最善で、結婚は性欲を自制できない人の次善の選択との位置づけだった。
10世紀以降婚姻が教会裁判所の管轄権となって婚姻を神学的に明確に説明することが必要となった。結婚を悪とする異端のカタリ派やアルビ派対策としても積極的な位置づけが必要だった。
11~12世紀の秘跡神学の進展により、結婚は花婿キリストと花嫁教会の結合を象徴するしるしとして秘跡とされた。サクラメントとされた以上性交や夫婦愛を神聖視されていくことになる。
トレント会議の要式主義をとらずに古典カノン法が生ける法として継続したからである。
教権はルター派などからの教会法では秘密婚marriage clandestinを防止できないという非難をかわすために1563年トレント公会議閉幕年のタメットシ教令は 婚姻公示(予告)、婚約者の一方の住む小教区の主任司祭の前での挙式、 2名ないし3名(最低2名)の証人の出席、新郎新婦の署名が必要とされ、秘密婚を無効とした。
トレント公会議に影響力をもった神学者はメルヒオールのカノである。彼は司祭が秘跡の執行者であることを強く主張した。[枝村茂1975]それは12世紀の神学・教会法学者とは異なる考えといわなければならないが、司祭がかかわらず俗人二人の証人が形式的要件だった古典カノン法からすると婚姻の自由という観点では明らかに後退したといえる。
一方フランス(ガリカニスム教会)からの親の同意要件の要求は断固として拒否した。このため1579年のブロワの王令は、教会が出したタメットシ教令によって課された要件に加えて、挙式時に「4人」の証人の出席が必要とされ、さらに両親の同意を要件とした。[大島梨沙2011]このため、カノン法的には合法でも王法としては 無効な婚姻が出現することになり、以後緩慢な進行で、婚姻法の還俗化が進行していくことになる。。
しかし、トレント公会議によって無方式諾成婚姻理論が途絶えたのではない。英国では宗教改革により教会裁判所は聖職者から市民法律家に入れ替わったが、トレント公会議を受け入れる必要がないため、古典カノン法は、「古き婚姻約束の法」(コモン・ローマリッジ)として継続した。イングランド婚姻法とはメイトランドが述べたとおりトレント公会議以前のローマ教会婚姻法そのものだったのである。
とはいえ英国でも秘密婚は弊害と認識されており、英国教会は1604年に婚姻予告もしくは婚姻許可証による教会挙式と21歳以下の未成年者の親の同意要件を定めたが、教皇の免除を歴史的由来とする主教の裁治権の及ばない、特権教会、特別教区等で行われる自由な婚姻は「古き婚姻約束の法」が生ける法として有効な婚姻であり続けたたため、1604年法は死文化したのである。
駆け落ちだけでなく婚姻予告制度を嫌う人々は秘密婚センターであるメイフェア礼拝堂やフリート街の結婚媒介所で結婚したのである。[栗原真人1992b、1996、柴田敏夫1987、加藤東知1927]
イングランドでは1753年の大法官ハードウィック卿法(議会制定法)で、「古き婚姻約束の法」を無効とし、婚姻予告または婚姻許可証による教会挙式と21歳以下の未成年者の親の同意要件を定めた。フランスより200年遅い婚姻法の還俗化である。イギリスで古き婚姻約束の法が、他国より長い寿命を保ちえたのは制定法によりコモン・ローを無効化することに躊躇があったためだろう。
逆説のようだが、婚姻法の還俗化とは教会挙式の強制と親の同意要件の設定だったのである。しかし同法はスコットランドには適用されず、しかもイングランド-スコットランド協定で1863年まで、イングランド人でスコットランド法による未成年者が親のどういてを要せず、婚姻予告も婚姻許可証も必要のない自由な結婚が可能だった。スコットランドでは改革教会はトレント公会議に対する反発で、なお古き婚姻約束の法を墨守していた。
このためにイングランドとの国境地帯に多くの結婚媒介所が設立され駆け落ち婚のメッカとなった(グレトナ・グリーン結婚)。純愛に燃える二人が轟く胸を抑え、はるばる北国へ自由な結婚の聖地をめざし四頭馬車を駈けるロマンチックな結婚は人気となり、恋に恋する乙女たちの憧れとなった。[岩井託子2002、松下晴彦2004、加藤東知1927]
このようにして英国で古典カノン法=古き婚姻約束の法が生ける法としての寿命が長かったため、多くの国民が駆け落ちや周囲が強く反対する結婚であっても恋を貫いたのである。結婚は親族のためのものではなく自己自身のためで婚姻の自由は抑制されるべきではないとの法文化が根づいた。そのハイライトがグレトナ・グリーン結婚だったといえるのではないだろうか。
また結婚の自由は、中世カノン法にもとづくから、近代の経済的自由、営業の自由、宗教の自由、言論の自由といった観念より古い。近代の個人主義的自由主義の源流はカノン法とみてよいと思う。それゆえ継承されるべき理念である。
とはいえ私の主張は、妥協的なもので、教会法にはきわめて好意的な考えだが、だからといって未成年者の親の同意要件を否認するものではない。世俗国家立法の考え方を否定もしないのである。その理由は、親の監護教育権・身上統制権は宗教の自由と関連し、現代では無視できない人権となっているからである。
現代においては親族の利害のために家子の結婚を利用する考え方が衰退しているだけでなく、世俗政府の家族関係、親権への干渉は危ういものと考えるためである。
しかし婚姻適齢では文明の理念を継承するために妥協できない。
もっともカトリック教会は1918年の新教会法典で、婚姻適齢を男16歳、女14歳としているが、それでも世俗国家よりも低い基準となっているのは、当然のことである。
○Iコリント7章9(田川建三訳)
「もしも我慢できなければ、結婚するが良い。燃えさかるよりは、結婚するほうがましだからである。」
remedium concupiscentiaeの観点からパウロは我慢しなくてよいと言っている。したがって16歳・17歳女子に我慢を強いる法改正に当然反対しなければならない。真正クリスチャンならなおさらのことである。
AKB総選挙で結婚宣言をした須藤凜々花の2017年6月21日のスポーツ紙記者会見で「我慢できる恋愛は恋愛でない」という名言が大きく報道され反響を呼んだ。聖書的にも正しいと思う。彼女は20歳だが、16・17歳女子も同じことである。夫婦の情緒的な依存関係、相手を共感的に理解し、力づけあい、感謝し合う、それは結婚以外に得難いものであり、それによって人生の困難、苦労も乗り越えられる。幸福追求に不可欠な価値である結婚を我慢する必要はないし、我慢を強いる法改正はまさに悪魔の法改正だといわなければならない。
明治民法(明治31年、1898年施行)は婚姻適齢男子17歳、女子15歳と制定したが、明治の30年間のように婚姻適齢の成文法がなかったというのは、婚姻年齢のことは国家が規定せず民間の慣習に干渉しなくても、本質的には何の問題もなかったといえるのである。
明治民法のように医学上の見地から母胎の健康保持に必要な体力を有する年齢を婚姻適齢とする考え方も、身体的心理的成熟には個人差があるだけでなく、医学の発達、女子の体格・栄養状況から見ても、出産リスクが小さくなった今日には不要であり、婚姻適齢を引き上げる理由はむしろなくなったというべきである。
法制史的に言えば婚姻適齢法制の文明基準は2000年以上続いているローマ法の男14歳、女12歳で、カノン法はローマ法を継受し、コモン・ローもカノン法と同じである。もっとも、カトリック教会は1918年の新教会法典で婚姻適齢を男16歳、女14歳とし、英国も1929年に制定法で男女とも16歳を婚姻適齢としている。
しかし、マサチューセッツ州は、現在でも未成年でも親の同意もしくは裁判所の承認で、男14歳、女12歳を婚姻適齢とし、ニューハンプシャー州は同様に男14歳、女13歳であり、2017年3月婚姻適齢引上げ法案は議会が否決したのであり、2000年の伝統はなお継続しているというべきである。
ローマの適齢法制はアウグストゥスの婚姻立法以来女子の婚約年齢を7歳、婚姻適齢を12歳としたことにはじまると考えられる。
船田享二[1971 49頁]は「婚姻適齢は、男子については最初は個別的に決定され、後には満十四歳に達したときとされ、女子については第十二歳目に入ったとき規定された。」と述べ出所はガイウス1・196、ウルピアヌス11・28、学説類集12・4・8、勅法類集5・60・3としている。
ユスティニアヌス帝が当事者の合意によって婚姻が成立する原則を明確にしており、大筋でローマ法の無方式諾成婚姻理論を継受したといってよい。
ただし1つ大きな違いがある。ローマ法は婚姻当事者が家長権に服するときは家長の同意を必要とするとされているが、教会法は親や領主の同意要件を明確に否定している。
婚姻は自由でなければならない。その神学的根拠は何だろうか
結婚の目的として初期スコラ学者はコリント前書7章2節,7章9節(淫行を避けるための手段としての結婚)を決定的に重視した。これが婚姻の自由の聖書的根拠の第一にあげてよいだろう。
淫欲の治療薬remedium concupiscentiaeと初期スコラ学者により公式化された教説である。ふしだらな行為、姦淫を避け放埓さを防止するため、情欲に燃えるよりは結婚したほうがよいというもので、パウロは、独身であることがより望ましいとしているが、しかし多くの人は、性欲を我慢できない、ゆえに結婚は自由で容易に成立するものでなければならないのである。
結婚に関して最大限自己決定権を認める古典カノン法の無方式合意主義婚姻理論は秘密婚の温床となった。この自由な婚姻理念は、結婚に伴う社会的利害関係を捨象しており、親権者が子供の結婚のコントロールを困難にするものであったから、世俗社会と軋轢を生じた。しかし教会は自由な婚姻のために数世紀にわたって世俗権力と抗争したのである。
教会は教会法では秘密婚を防止できないという非難をかわすために1563年トレント公会議閉幕年に婚姻予告と教会挙式を義務化したが、フランス(ガリカニスム教会)からの親の同意要件の要求は断固として拒否し、このため1566年フランス国王アンリ2世は「婚姻に関する王示」により、独自の婚姻法を定めた[小梁吉章2005]。これが婚姻法の還俗化の嚆矢である。
したがってカノン法の男子14歳、女子12歳の婚姻適齢というのは、親や領主の同意要件のないものである。婚姻の自由と、修練者となる(結婚せざる)自由は、コインの裏と表であり、未成年者であっても個人の自由としたことが、教会法が人類史上画期的な意義のあるものといって過言でない。
少なくともトレント公会議以前、教会法の理念ではロミオ16歳とジュリエット13歳が勝手に婚姻誓約しても婚姻の成立を妨げることはできない。
しかも教会法学者はさらに婚姻適齢を緩和しようとした。
「要求される年齢はいくつか?女子は最低11歳半、男子は13歳半である‥‥ただし、法律のいう、早熟が年齢を補う場合は別である。その例=10歳の少年が射精、もしくは娘の処女を奪い取るに足る体力・能力を備えているならば、結婚が許されるべきこと疑いをいれない。‥‥男との同衾に耐え得る場合の娘についても同様であり、その場合の結婚は有効である」Benedicti, J1601. La Somme des peches1601[フランドラン1992 342頁]
そもそも12世紀の教皇アレクサンデル3世は、婚姻適齢前であっても合衾により完成婚に至ったならば性関係を続けなければならないとしているので、合衾(床入り)が可能なら実質婚姻適齢とするとは当然の理といえる。
初期スコラ的見解では、結婚の第一義的目的が淫欲の治療薬、情欲の緩和の手段を得るためであるから、性行動が可能な身体的・心理的成熟=婚姻適齢とするのが理にかなっている。
加えて、結婚は11~12世紀の秘跡神学の進展により、花婿キリスト、花嫁教会の結合を象徴するしるしとして、秘跡とされたため、性交や夫婦愛も神聖化された。したがって若いからといって、神聖化された結婚を妨げる理由はない。
また教会法は性的不能を婚姻障碍としているので、思春期以前の婚姻は実は婚姻障碍にひっかかるのである。したがって14歳・12歳はローマ法にならった目安で、合衾(床入り)が可能なら実質婚姻適齢でよいわけである。
婚姻は教会の霊的裁治権とされ、教会法は福音書で告げられた法と同じく神の法であったから、まさしくこれこそが文明基準であった。
もっとも、トレント公会議後の公式教導権に基づく文書である「ローマ公教要理」では男女が一つに結びつかなければならない理由として第一の理由は、相互の扶助の場として夫婦の共同体への自然的欲求、第二の理由として子孫の繁殖への欲求、第三の理由として原罪に由来する情欲の緩和の手段を得るためである。[枝村茂1980]とあり、3つの結婚する理由の1つが情欲の緩和となっているだけだが、聖書的根拠が明確なのは第三の理由なのである。
また1917年に公布されたカトリック教会法典は婚姻の第一目的を「子供の出産と育成」第二目的を「夫婦の相互扶助と情欲の鎮和」[枝村1980]と明文化され、情欲の鎮和は第二目的に後退しているものの、現代においても無視できない意義を有することは聖書的根拠が明白であるから当然のことだろう。
イギリスは15世紀の宗教改革により、トレント公会議を受け入れる理由はなく、中世教会婚姻法は、「古き婚姻約束の法」(コモン・ローマリッジ)と称され生ける法として継続した。それは、教皇アレクサンデル三世の法といってもよいし、中世最大の教師にしてパリ司教ベトルス・ロンバルゥスの合意主義婚姻理論そのものといってもよい。
スコットランドの改革教会はトレント公会議に強く反発していたので、要式主義をとらず、古典カノン法の無方式合意主義が継承された。
このため英国は、フランスや大陸よりも古典カノン法の自由な理念が近現代まで色濃く継承されたといえるのである。
これは逆説ではない、そもそも教会婚姻法成立期に、イングランドから活発な教皇上訴があり、英国で採録された教皇令が、13世紀のグレゴリウス9世教皇令集に多く採録されており、イギリスは古典カノン法形成に寄与したばかりでなく、そもそもアングリカン教会というのも教皇アレクサンデル三世の命名で、王権はなるほど土地の相続に関して、教会裁判所の干渉を拒絶したが、英国において婚姻と遺言検認は教会裁判所の管轄権として安定していた。メイトランドがいうように、イングランド婚姻法とはローマ教会婚姻法そのものだったのである。
もっとも英国教会は1604年に、婚姻予告もしくは婚姻許可証による挙式を義務付け、未成年者の親の同意要件を定めるが、一方で無方式合意主義婚姻理論の「古き婚姻約束の法」(古典カノン法と同じ)も生ける法であったため、歴史的由来(教皇の免除により理論上は教皇の直轄)により、主教の管轄の及ばない特権教会や特別教区が存在していたので、そこでは親の同意のないカップルであれ法的に有効な婚姻となった。
このためロンドンのメイフェア礼拝堂と、フリート監獄、フリート街(フリート結婚)が特に有名な秘密婚媒介所であり、カップルの聖地となった。
当時のロンドン市民の多くは、たとえ駆け落ちでなくても、教区教会での婚姻予告を嫌っており秘密結婚センターで結婚した。自由な結婚を求める民衆が少なくなかったのである
しかし、1753年ハードウィック卿法により英国においても婚姻法を還俗化し、挙式と未成年者の親の同意要件を定め、ついに「古き婚姻約束の法」を無効とした。
しかし、これで自由な結婚が終焉したわけではなく抜け道があった。同法はスコットランドには適用されず、スコットランド改革教会はトレント公会議に強く反発したことから古典カノン法は継続していた。イングランド-スコットランドの協定でイングランド人がスコットランド婚姻法によって結婚しても有効な結婚とされていたのである。
このため、スコットランドの国境地帯に結婚媒介所が営業され、駆け落ち婚のメッカとなり、純粋な愛に燃えたカップルが胸を轟かせ馬車を駈けるロマンチックな結婚は大人気となった(グレトナ・グリーン結婚)。しかしこれも風紀が乱れたため1856年のプールアム卿法で、スコットランド法による結婚はスコットランド人か、スコットランドに3週間居住した住民に限られると定めたことによりグレトナ・グリーン結婚は衰退することになる。
とはいえ英米文化圏において、婚姻の自由が重視されるのは古典カノン法=コモンロー・マリッジが一貫して、束縛のない自由な結婚の理念を色濃く継承してきた数百年の歴史的背景によるのである。教会法は名家のお嬢さんと家令という身分差のある結婚を断固として擁護した。フリート結婚は、客引きが寄ってきて聖職禄を剥奪された僧侶が立ち会う如何わしい雰囲気のある結婚だったが、グレトナ・グリーン結婚は馬車を駈けるロマンチックなもので有名人士も多くスコットランドで結婚し、演劇や文学作品の題材となった。要するに、婚姻予告が不要で、未成年者でも親の同意なく自由な結婚がなされていたことが語り継がれ、「結婚は自由であるべきである」という法文化が浸透している風土が英米文化圏にはあるといえる。
私は近代社会の自由(経済的自由・宗教の自由等精神的自由)、個人主義的自由主義の起源は、カノン法の結婚の自由にあるという見解である。それゆえ文明史的意義のあるものであるから、この法文化は継承されなければならない。ゆえに婚姻の自由を抑制する、婚姻適齢引上げに絶対的に反対である。
ローマでは古い時代においては、マヌス婚という夫権取得のための特定の方式(共祭または共買の)履行が求められる厳格な婚姻がなされた。これによって嫁女は夫権に服従するとともにいずれ家母となる地位を得た。
しかし古典時代の法は夫権取得とは無関係に当事者が夫たり妻たる意思を実現する場合にこれを婚姻と認めて、それ以外に特殊な方式の履行、要件を規定しなかった。
とはいえ実際上は、婚姻と事実上の結合を区別する諸種の手続が履行されることを常とし、古い時代の迎妻式はキリスト教の浸潤とともに、異教的とみなされ廃れるようになったが、帝政時代には一般的には婚姻締結のために、書面を用い、嫁資の設定を重視するようになった。
西ローマ帝国末期の458年マイオリアヌス帝の勅法は嫁資の設定に証書の作成を必要とし、作成されない場合に婚姻を無効としたが、東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が例外を除いて旧原則に戻した。[船田享二1971改版32頁]
ユスティニアヌス帝の学説類集(Digesta533年)は、女が男の家に入る前にも婚姻が成立することを説く法文を採録した。帝はこのように迎妻の事実は必要とせぬ原則を示すとともに、他方書面の作成または嫁資の設定を婚姻成立のために重視しようとする一般の傾向に対して、嫁資の設定がなくても婚姻が当時者の合意によって成立するという古来の原則を確立する[船田享二1971改版40頁]
ローマ法大全を編集させたユスティニアヌス帝が合意主義を原則とした歴史的事実は重い。カノン法に継受されるのもある意味では当然の成り行きともいえる。結局のところ、ローマ法もカノン法も、カノン法そのものであるコモン・ローマリッジも大筋では同じ理論と解釈できる。
結婚や家族について、新約聖書はかなり異なった三つの思想が併存しているといえる。結婚や家族としての義務に消極的なイエスの使信(終末論的独身主義)、独身が望ましいが仮言命法的に消極的に結婚を是認する真正パウロ(終末論的独身主義)、結婚を肯定し、家庭訓を備え、脱社会的傾向の危険を防ぐためこの世的な社会制度にかかわることを是認する第二パウロ書簡等のことである。3つの思想は相矛盾しているともいえるが、重畳的に理解するならば最大公約数的には、独身者が優位というべきであり、独身聖職者制を揺らがないとしても、一般人の結婚は否定せず、後の秘跡神学にみられるようら善として肯定してもよいということになるだろう。
a)婚姻と通常の社会関係に否定的な反(脱)社会思想(イエスの急進的使信)
イエスは去勢した人々(マタイ19:12)不妊の女を讃えた(ルカ23:29)また共観福音書には結婚と死を、独身主義と永遠の生命を結びつける思想が示されている[ぺイゲルス1993 57頁]。結婚に否定的な考え方は復活の問答に示されている。夫を失った女性が順次その弟と再婚した場合(レヴィラート婚)復活の際に彼はだれの妻となるのかという問答で、イエスは復活後の人間は天使のような存在になるから結婚関係は問題でなくなるという(マルコ12章18-17節、マタイ22章23-33節、ルカ20章27-40節)。[澤村雅史2017]
○ルカ20章34~35節
イエスは彼らに言われた『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、かの世に入って死者のなかから復活するのにふさわしいとみなされる人々は、めとることも嫁ぐこともない。彼らは天使に等しい者であり、復活の子らとして、神の子であるゆえにもはや死ぬことがないからである』」
またイエスは、すべての所有物を放棄せよ(マルコ10章21節、ルカ12章33節)、家族を捨て、畠を捨てよ(マルコ10章29節)両親・伴侶・子どもに対してであれ、家族の義務を捨てよと信従者に命じた。「‥‥自分の父、母、妻、子供、兄弟、姉妹をさらには自分の生命をも憎まなければ、私の弟子になることはできない」。(ルカ14章26節)。
このようにイエスは家族の絆を裂き、破壊することを認めた。
○ルカ12章49~53節
「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。‥‥あなたがたは私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか、否、言っておくが、むしろ分裂である。今から後、ひとつの家族では五人が分裂し、三人が二人と、二人が三人と対立する‥‥」と述べユダヤ人の社会生活のなかでも最も神聖とみなされている家族の義務を退けた。
このようにイエスの使信は結婚や家族に否定的である。
パウロの真筆書簡のなかで結婚やセクシャリティに関して集中的に述べているのは、コリント前書7章1-40節である。(いうまでもなく第一コリント書は54~56年エフェソで書かれた疑う余地のない真正のパウロ書簡である。パウロの名に帰せられている13ないし14書簡のうち、パウロの真筆は、ローマ人への手紙、コリント人への手紙第一、第二の手紙、ガラテヤ人への手紙、フィリピ人への手紙、テサロニケ人への第一の手紙の6書簡とされている。)
パウロはコリント教会からの質問に答えるかたちで、結婚は淫欲の治療薬(2~5、9節)であるとされ、これは初期スコラ学者によって情欲の鎮和剤remedium concupiscentiaeとして公式化されたように、新約聖書を根拠とする結婚の目的の第一として強調してよいと私は考える。
対抗宗教改革のローマ公教要理でも3つの結婚をする理由づけの一つになっている。
パウロ自身は独身をもっとも理想的な状態としてとして考えているが(7章8節)、それを万人にあてはめようとはしない。
ひとくちでいえば現在終末論的独身主義といえるが、「もし自制できなければ結婚したほうがよい」(7章9節)というように仮言命法で結婚を消極的に肯定している。
また、妻の身体は夫のもの、夫の身体は妻のもの、義務的性行為と、相手の性的要求を拒んではならないことも言及している。
「‥‥人間にとっては、女に触れない方がよい。しかし淫行(を避ける)ために、それぞれ自分の妻を持つが良い。また女もそれぞれ自分の夫を持つが良い。妻もまた夫に対してそうすべきである。妻は、自分の身体に対して、自分で権限を持っているのではなく、夫が持っている。同様に、夫もまた自分に対して自分が権限を持っているのではなく、妻がもっているのである。互いに相手を拒んではならない。‥‥‥」
○Iコリント7章8-9節(田川建三訳)
結婚していない人および寡婦に対しては、私のように(結婚せずに)いるのがよい、と言っておこう。もしも我慢できなければ、結婚するが良い。燃えさかるよりは、結婚するほうがましだからである。」
○Ⅰコリント7章36節
(田川建三訳)
「もしも誰かが自分の処女に対してさまにならないことをしていると思うなら、彼女がすでに十分に成熟しており、かつそうすべきであるのならば、その欲することをなすがよい。それは罪を犯すことにならない。結婚するがよい。」
(新共同訳)
「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないなと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。」
(バルパロ訳-講談社)
「年頃を過ぎた娘を不面目に思っている人で、何とかとしようと思うなら、心のままにするがよい。それは罪を犯すことではない、結婚させてよい。」
c)結婚を肯定し家庭訓を説く(第二パウロ書簡と第一ペトロ書)
パウロの名に帰されているが、文献学的に真筆性が疑われているものを第二パウロ書簡という。エフェソ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロニケ人への第二の手紙、テモテへの第一、第二、テトスへの手紙、ヘブライ人への手紙である。
新約聖書のなかでも比較的後期、AD80年から100年前後、パウロ系の教会の弟子筋の筆による偽作と考えられている。
公同書簡第一ペトロ書は、70年以降の成立で、ペトロによるものではないとするのが有力である。
後述の異端者ヨウィニアーヌスが発見したⅠテモテ5章14節、へブル13章4節は明確に結婚を肯定している
また結婚関係による夫婦関係をキリストと教会の関係になぞらえる表現がある。(エぺゾ5章24-25節)
○エぺゾ書5章22-25節(田川健三訳)
すなわち、妻は自分の夫に対して主に対するように(従え)。キリストが教会の頭であるのと同様、男が女の頭なのだ。キリストはまた(教会という)身体の救済者でもあるけれども、教会がキリストに従うようにして、妻はあらゆることについて夫に従え。夫たちよ、妻を愛せ。キリストもまた教会を愛し、教会のためにみずからを引き渡したもうたのだ。
また正しい、健全な夫婦倫理・家族道徳を論ずる箇所が多くあり、のちにルターによって「家庭訓 」(Haustafel)とと呼ばれた(コロサイ3章18節-4章1節、Ⅰテモテ2章8節-3章1節、6章1-2節、Ⅰペテロ2章18-3章7節など。なおⅠテモテ4章3節は敵対者の教えのなかに結婚の禁止がふくまれていると述べている。)〔澤村雅史2017〕
○コロサイ書3:18-20(田川健三訳)
女たちよ、男たちに従え。それが主にあってふさわしいことである。男たちよ、女たちを愛せ。そして女たちに対してきつく対応してはならない。子どもたちよ。あらゆることについて両親に従え。これが主にあってよく気に入られることである。
家庭訓は原始教会に由来しないとする説が有力で、ヘレニズムないしヘレニズムユダヤ教の倫理的訓戒・家政論を背景としているが、それとは異なる特徴も指摘されている。
例えばコロサイ書 の家庭訓においては、当時社会的に弱小・劣者とみなされた妻・子供・奴隷などが、倫理的責任を負う呼びかけの第一対象に位置づけられていること。
また19節では、妻への命令に続いて夫への勧めが述べられている。「愛しなさい」がヘレニズムでの道徳訓(家政論)には認められないのである。[山内昇2000]
家庭訓を備える第二パウロ書簡等は、禁欲主義的、急進的なグループに反対し、キリスト教徒が脱社会的傾向に陥る危険に防ぐため、構造・社会制度に積極的にかかわることを勧め、それぞれの社会の場における「主」への従順の実践を促す機能を果たした。
つまり常識的市民倫理(ペテロ第一2章13-14節は「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが統治者の皇帝であろうと‥‥」とある。)結婚、家庭等、よきこの世性が肯定されているのである。
真筆性の疑いは決して聖書正典としての価値を毀損する趣旨では全くない。第二パウロ書簡等が正典でなければ、キリスト教は急進的なセクトで終焉してしまい、ローマの公認宗教となり世界宗教に進展しなかっただろうといわれるのである。
(蛇足ながら むしろフェミニスト神学が第二パウロ書簡等の家庭訓を非難し、これは古代道徳で女性が強くなった現代にはあわないと攻撃するのは聖書正典の価値を貶めるものとして非難に値する。 紀元後2世紀には、帝国下ではいたるところで女性が職業に従事し、観劇、スポーツ、コンサート、パーティ社交生活に熱中し、あらゆる種類の運動競技に参加し、武器をとって戦場に赴く者もいた[ペイゲルス1992 122頁] 新約聖書の家庭訓は、当時の女性解放的風潮に反対したことも大きな意義といえるのであり、このことは現代にも通じる。宗教改革500周年の今こそ家庭訓の意義を復権すべきだというのが私の考えである。)
B 独身優位主義の確定とその決定的な意義
初期キリスト教会は独身を結婚より高く評価する傾向が主流であることは、使徒教父文書より明らかである。
4世紀独身者は結婚者よりも聖なる存在ではないと主張したヨウィニアーヌスは、彼は第二パウロ書簡に結婚を明確に肯定する思想を発見した。「‥‥若いやもめは結婚して子を産んでほしい」Ⅰテモテ5章14節「すべての人は結婚を重んずるべきである。また寝床を汚してはならない」へブル13章4節。ヨウィニアーヌスはさらにマリアの処女懐妊に疑問を呈した。
彼は「現代のエピクロス」と非難され、四大教父の一人で禁欲主義のチャンピオンたるヒエロニムス( 聖人Hieronymus没420年)により徹底的に反駁され、ローマ司教シリキウス(位384~399)によって異端宣告された。
ヒエロニムスはヨウィニアーヌスが不当にも、真正パウロ書簡コリント前書第7章を無視していることを激しく攻撃した。
「もし「男性は女性に触れないほうが良い」(Ⅰコリント7章1節)のなら、触れることは悪い‥‥[パウロが唯一結婚を許すのは]、「姦淫の故」(Ⅰコリント7章9節)であって、それはあたかも、「もっとも上等な小麦粉を食べることは良い」ことでであるが、しかし飢えた人が排泄物をむさぼり食うなら大麦を食べても良いというもので‥‥」Jerome Adverrsus Jovinianum[ぺイゲルス1993 205頁]
聖ヒエロニムスが言う以上、真正パウロ書簡であるコリント前書を無視した議論はナンセンスというのが正統的な解釈なのである。
後に情欲の鎮和剤remedium concupiscentiaeとして公式化されたこともうなづける。
ヨウィニアーヌスの異端宣告は独身聖職者制に挑戦する者を叩きつぶした点で大きな意義があった。独身者優位主義は、結婚せざる自由を確定し、逆説的に婚姻の自由をもたらしたという観点からも重要なのである
C 情欲の鎮和剤remedium concupiscentiaeとしての結婚目的は決定的で、婚姻の自由のもっとも重要な根拠である
性欲を自制できない大部分の男女は結婚しなければならない。そうしなければもっと悪いことをするだろう。人々は罪を犯し、子は私生児になるだろう。したがって婚姻は容易になしうるものでなければならぬ。[島津一郎1974 240頁]人々に宗教上の罪を犯させたり、子を私生児にしないようにする配慮から結婚は容易に成立すべきものだったのである。ゆえに結婚は自由でなければならない。
意思せずとも勃起するように原罪によって性欲は免れられないものである。多くの人は制御不可能であり、それゆえ我慢できないなら結婚しなさいとの勧告である。パウロは我慢を強いるものではないから、婚姻の自由を抑制し婚姻適齢を制限することは、反聖書的なものといえるのである。
remedium concupiscentiaeは古代教父では東方教会最大の説教者にして「黄金の口」と称されたコンスタンティノーブル司教ヨアンネス・クリュソストモス(聖人)が特に重視している。結婚とは自然の火を消すために始められたものである。すなわち姦淫を避けるために人は妻をもつのであって、子どもをつくるためのものではない。悪魔に誘惑されないように夫婦が一緒になることを命じる。「一つの目的が残った。すなわちそれは、放埓さと色欲を防止することである」『純潔論』[ランケ・ハイネマン1996 77頁]
アウグスティヌスは子孫をつくることを結婚目的としたが、パウロのテキストに密着し忠実なのはクリュソストモスである。ゆえにクリュソストモスを評価する。
私が生殖目的の結婚という趣旨を好まない理由はストア主義者など異教に由来するものと疑っているためである。
真正パウロ書簡では結婚目的としては「もし自制できなければ」という仮言命法で淫欲の治療薬ぐらいのことしか語っていない。それは当然のことで、終末が切迫している状況においてのことである。
第二パウロ書簡の意義については既に述べたとおりである。しかしながら真正パウロ書簡、コリント前書の淫欲の治療薬remedium concupiscentiaeは真筆であるがゆえに、より決定的な意義をもつということは、聖書解釈として正当なものだといわなければならない。
13世紀 パリ大学の教授だったオーベルニュのギヨームはこう言った。「若くて美しい女と結婚することは望ましい」なぜなら「女を見ても氷のようでいられる」と同毒療法の教説を述べた。
むろんコリント前書は、コリントが当時ギリシャ最大の産業都市で、神殿売春もさかん(否定説あり)で誘惑の多い都市であったことを背景としているが、真正パウロ書簡のなかで、結婚の意義について主としてふれているのはコリント前書第7章なのであり、結局真正パウロが結婚の目的として示しているのは「情欲の緩和」くらいしかないのであるから、初期スコラ学者がこれを重視したのは全く正当といえる。
ジャンセニストという禁欲主義者は生殖目的を重視するが、生殖を結婚目的とする思想は先に述べたようにキリスト教固有のものではない。
トレント公会議後の公式教導権に基づく文書である「ローマ公教要理」Catechismus Romanusでは男女が一つに結びつかなければならない理由として第一の理由は、相互の扶助の場として夫婦の共同体への自然的欲求、第二の理由として子孫の繁殖への欲求、第三の理由として原罪に由来する情欲の緩和の手段を得るためである。[枝村茂1980]とあり、3つの結婚する理由の1つが情欲の緩和となっているだけだが、聖書的根拠が明確なのは第三の理由なのである。
また、1917年に公布された現行カトリック教会法典は婚姻の第一目的を「子供の出産と育成」第二目的を「夫婦の相互扶助と情欲の鎮和」[枝村1980]と明文化され、情欲の鎮和は第二目的に後退しているものの、現代においても軽視されていないのは聖書的根拠が明白であるから当然のことだろう。
近代人は「情欲の緩和」とい結婚目的にあまり好意的でないことが少なくない。
それは近現代社会が中世よりも非暴力的、道徳的に管理されすぎた社会となり、性的にも禁欲的であることが建前となったため、現代人が非常に性的に抑圧とされた生き方をしているためである。古代・中世はそうではなかった。15世紀のフランスではどのような都市でも市営娼家があり上りの料金は職人の日給の八分の一以下の廉価だった。それにもかかわらず強姦は多発し、ふつうの徒弟、商人の子息が通過儀礼的に集団強姦に参加した[フランドラン1992 346頁]。むろん犯罪ではあるが堅気の妻や娘でなければ大目にみられた。
アウグスティヌスが意思せずとも勃起すると悩んだように、中世では性欲は制御不可能なものという認識であった。それは人間性を正しく理解しているといえるだろう。
D コリント前書「情欲の緩和」が近代個人主義的友愛結婚の思想的源流でもある
淫行という悪事を避けるための結婚というのは目的としては消極的な結婚観ともいえるが、婚姻の自由の根拠となった。「もしも我慢できなければ、結婚するが良い。燃えさかるよりは、結婚するほうがましだからである。」(Ⅰコリント7章9節)。我慢する必要はないのである。
AKB総選挙で結婚宣言し話題となった須藤凜々花がスポーツ新聞記者会見で「我慢できる恋愛は恋愛じゃない」と語った(報知新聞2017年6月23日)というが、聖書的には正しい。結婚を我慢する必要はないし、パウロの勧告に従って結婚するのは正しい。
ゆえに教会婚姻法(古典カノン法)は、婚姻に関して儀式も不要、主君や血族の干渉も排除し、婚姻適齢以前に合衾した場合は婚姻が成立するのである。つまり結婚の目的を個人主義的心理的充足のためのものとしたのである。恋愛の結実としての結婚を容認し、それはいわゆる近代個人主義的友愛結婚の理念に継承されていった、それは我が国でも広範な国民から支持されている結婚観念である。
近代個人主義友愛結婚とは典型的にはミルトンが離婚論で展開した、慰めと平和を得るための結婚といえる。それはミルトン独自の思想ではなく、17世紀イギリス人の一般的な観念でもあった。
ミルトンにとって結婚とは、アダムとエバの夫婦関係に神が意図したような、「適切な楽しい交わり(カンヴァセーション)を」を得るためのものだった。
ミルトンのいう「交わり」にはもちろん性交も含む概念である。幸福追求の手段としての結婚である。[稲福日出夫1985]
鈴木繁夫[2015]により敷衍するとミルトンの結婚における第一義的目的とは「神が原初において人間に結婚を命じたとき、その目的は「男と女が適切に楽しく交わり、その交わりによって、男は孤独な生活という害悪に対して慰めをえ、元気づけるため」(『離婚の教義と規律』)であるはずだという。魂のレベルにおける深い知的交流、一緒にいて楽しいという感情的交流、体感の疎通、性器性交のエクスタシーまでを含んだ広い意味での慰めが夫婦の交わりとして、結婚には保証されているというのだ」
ミルトンは、コリント前書7章9節について、創世記2章18節「神言給ひける人独なねは善からず我彼に適ふ助者を彼のために造らんと」と結びつけ持論に引きつけた特徴的な解釈をとっている。
「私たち皆が知っているとおり、パウロは「情の燃えるよりは結婚する方がよい」といっている。それゆえ、結婚はその悩みの救済策として與えられたものである。しかしこの情が燃えるというのは何を意味するのだろうか。単なる肉欲のうながしや、情欲の刺戟ではないことは確かだ。神は特にそんな獣どもをかえりみたもうことはない。してみると、それはまだ不貞の罪を知らないがまえに、楽園でアダムの心に神が起こされたあの願い-すなわち人が独りでいて情を燃やすのはよくないとみられた神の願い-結婚という楽しい共同生活で、自分の魂にふさわしい魂を備えた別の肉体と結合することによって、冷酷な孤独感を追い払いたいというあの願い-それ以外の何物であろう」
The Doctine and Discipline of Divorce, ChapterⅡ.[西島正1954 163頁]
ミルトンがアダムとイブから結婚観を組み立てるのはテクニックだろう。秘跡神学のように結婚を花婿キリスト、花嫁教会の一致を象徴するしるしとしてしまうと、聖なる絆となって離婚論が成り立たなくなるからだろう。しかし夫婦愛を神聖視してる点で大差ないともいえるのである。
むろん婚姻非解消主義とミルトンの離婚論は大きな違いがあるとはいえ、ミルトンとてコリント前書7:9を引用しているし、クリュソストモスや初期スコラ学者と同じく、生殖を婚姻の主要目的とみなさない点で、思想的には同一の系譜に属するという見方ができるのである。
。
以上のようにコリント前書第7章に示される「情欲の緩和」「淫欲の治療薬としての結婚」は、近代個人主義的友愛結婚の思想的源流の一つでもあり、現代人の結婚観に通じているものと理解することができる。
ラテン的キリスト教世界では、カロリング朝が終焉した10世紀半ばに、世俗権力に対し教権が優位に立つようになり、9世紀に成立した偽イシドルス教令集は偽書であるが、教皇主権の根拠とされた。10世紀には婚姻を教会の霊的裁治権として教会裁判所の管轄権とした。
また11~12世紀の秘跡神学の進展により、結婚は花婿キリストと花嫁教会の結合の聖なる象徴として積極的な意義が認められるようになった。1139年ラテラノ公会議で婚姻を基本的に悪ときめつけたカタリ派とアルビ派が異端宣告されたこともあり、スコラ学者は婚姻の秘跡性を明確に説明する必要があったからである。
花婿キリストと花嫁教会の結合の聖なる象徴というのは、エぺゾ書にも奥義とされているので、もちろん古い思想である。
枝村茂は、ヴェールかけの儀式について、ローマの婚姻典礼と、童貞女の奉献の典礼との一致を指摘している。婚姻典礼とは婚姻への祝福ではなくなり、花嫁のみの祝福になった。その理由はコリント前書7章11節にある。真正パウロによれば、男性は直接的に神の像であるけれども、女性はそうでない。したがって男は直接的にキリストを象徴し、女は教会を象徴する。したがって婚姻の祝福もヴェールの覆いも女だけ必要である。
すなわち、キリストに対する妻たる教会の愛と奉仕が、夫に対する妻の愛において象徴的に表されるのである。妻にとっては夫はキリストのかたどりであり、彼女の夫に対する忠実と奉仕はキリストへの間接的奉仕を意味したのである。ヴェールに覆われた花嫁とは、キリストの似姿として純潔なものとして捧げられた女性なのである。童貞女は直接的に、人妻は間接的にキリストに仕えるということである。[枝村1975]
婚姻成立理論については12世紀中葉までフランス学派の合意主義、シャルトル司教イヴォ(没1116頃)、ランのアンセルムス(没1117)、サンヴィクトルのフーゴー(1096~1141)、ぺトルス・ロンバルドゥス(没1160パリ司教)らと、ボローニャ学派のグラティアヌス(没1150?)の合衾主義で論争となったとされる。しかし、私が検討した限りでは、ロンバルドゥスとグラティアヌスとではさほど大きな違いはないようにも思える。決着をつけたのは教皇アレクサンデル3世(位1159~1181)であり、後述するような緩和的合意主義婚姻理論を決定的に採用した。
合意主義婚姻理論はローマの諾成婚姻理論の継受ともいえる。ローマでは古い時代は、単なる合意だけではなく現実の迎妻の事実も必要とされたが、ユスティニアス帝により当事者の合意によって婚姻が成立するという原則を確立していたのである。
このように本来の教会法の婚姻とは当事者の合意としての民事行為である。東方教会では、婚姻とは司祭の行為であり典礼儀式のことであったが、西方では合意説theria cosensusをとっており、12世紀では婚姻の秘跡とは婚姻という一つの現実において表象されるキリストと教会の結合の秘儀というものであったから、司祭の祝福や典礼儀式と結びつけられることはなかったので、教会儀式は神学的にも婚姻成立のために不要だったのである。
例えばサン・ヴィクトルのフーゴーは、婚姻論を書いた最初の神学者であるが、非常に合意主義にこだわった立論をしているのが特徴である。婚姻を合意によってお互いに自分自身を相手に対して義務づける夫と妻の合法的生活共同体としたうえで、「彼の見解を要約すれば可見的共同体として-キリストとその教会との一致のかたどり-は夫婦愛と婚姻の人格的関係(res sacramenti)の表現形態であり、他方この夫婦愛は神と人間との霊的関係を表象する外見的しるし(sacramentum)である。‥‥婚姻のもつ成聖の独自性はの人間に対する神の秘跡としての夫婦愛のなかに見出されるのである。」。このような夫婦愛を神聖視したもう一人の神学者としては13世紀のヘールズのアレキサンデル(1190~1245)の結婚を秘跡として受けた人の恩恵とは愛の霊的一致(unio spiritualis caritatis)という思想をあげることができる。[枝村茂1975]
ペトルス・ロンバルドゥスはキリストと教会の一致をかたどる一つのイメージは結婚愛によって開始され、性交により完成されるとする。[枝村茂1975]
また教皇アレクサンデル3世は、性交によって完成された婚姻はキリストと教会の秘儀のイメージほその中に有しており、キリストと教会の不解消的一致の秘跡であると述べている。[枝村茂1975]
このように、12世紀の秘跡神学は、婚姻非解消主義の一つの根拠ともなっているが、一方結婚愛や夫婦愛、性交を神聖視したのであり婚姻とは社会的経済的利害関係が第一義ではないとする近代個人主義的友愛結婚のり思想的淵源であったといえる。
12世紀中葉、教皇受任裁判が制度化され教皇庁は司法化した。なかでも教皇アレクサンデル3世(在位1159~1181)は活発に働いて今日700ほどの教令が伝来している。これが古典カノン法の基礎になった。
教会婚姻法とは教皇に上訴された具体的な婚姻事件などについて教皇の教令などを採録した体系的集成のことで、1234年の教皇庁公認の『グレゴリウス9世教令集』に婚姻法関係が全21章166条収録されているが、その三割強がアレクサンデル3世の教令であり[直江眞一2014]、同教皇が決定的な意味でパリ学派の合意主義婚姻理論を採用したのである。正確にいえば緩和的合意主義といい、現在形の言葉による約束で婚姻が成立し、合衾(床入り)で完成婚(婚姻の解消しえない絆)となるというもので、合衾以前に二人とも修道生活に入れば離別は可能としている。
12世紀に確立した古典カノン法の最大の特徴は人類史上類例のない婚姻成立が容易な法文化といえることである。
つまり、主君、血族による意思決定の排除(親や領主の同意は不要)、儀式も不要、当事者個人の合意のみで(諾成婚姻理論-形式的要件では二人の証人(俗人でよい)を要するが、理念的には法定婚姻適齢(男14・女12)に達していれば「我れ汝を我が妻とする」「我れ汝を我が夫とする」という相互の現在形の言葉による約束で婚姻は成立する(未来形の言葉の合意の婚姻約束(7歳から可)は合衾した時点で婚姻が成立する)というのはラテン的キリスト教世界の教会法だけなのである。
(もっとも教皇の免除により政略的な結婚も可能だった。例えばヘンリー2世の娘ジョーン10歳をシチリア王グリエルモ2世の妃にしたのは、皇帝とシチリア王国の同盟を阻止する目的で教皇が熱心に勧めた政略的縁談だった。教皇はオールマイティである。)
インノケンティウス2世は対立教皇アナクレトゥス2世との厳しい抗争が決着がついたとはいえ、当時の教皇が政治的に不安定であったことを考慮すると偽書の蓋然性が高いとの感想をもった。
合意主義の理念は我が国でも基本的に継受している。憲法24条は「婚姻は両性の合意のみに基いて成立し」としているがもとをたどれば古典カノン法の無方式合意主義婚姻理論に由来する。憲法24条起草者が西洋の法文化であるとしても古典カノン法を意識してはいないと思うが、その由来は教皇アレクサンドル3世の教令「ウェニエンス・アド・ノース」の婚姻理念にある。
補足すると、教皇アレクサンデル3世は教令「ソレト・フレクェンテル」の中で、秘密結婚を契約した当事者たちは呪われるべきだし、結婚の合意は証人の前で交換されねばならないと規定したけれども、こうした要請の遵守を有効な結婚の条件とすることを差し控えた。
一方教令「クォド・ノービス」の中で結婚は「合理的で合法的な理由があれば」秘密裡に契約しても構わないとした。
教令「スペル・エオ・ウェロ」の中では、司祭の立会なく、あるいは厳粛さがなくても、現在形の言葉による合意によって契約された結びつきは、完全な拘束力を持つとした。[赤阪俊一2008]
このように秘密婚に対して批判的な教令と許容的な教令が混在しているのだが、1170年代の教令は無方式合意主義を確定したといわれるのである。
ちなみに現在のカトリック教会は20世紀にカノン法を廃止し成文法典を定めているが「婚姻は法律上能力を有する者の間で適法に表示された当事者の合意によって成立する。この合意はいかなる人間の力によっても代替されえない」(第1057条1項)[枝村1985]と合意主義婚姻理論を継承しており、婚姻適齢は男16歳女14歳としているものの古典カノン法の理念と本質的には変わってないといえる。
ではなぜ、グラティアヌスなどの合衾主義は採用されなかったのか。
第一にヨゼフは許婚者とされるのがならわしだが、サンヴィクトルのフーゴーはマリアとヨゼフの間に真実の結婚があったと主張した。合衾がなくても婚姻が成立するとすれば処女懐胎と矛盾しないのである。[ランケ-ハイネマン1996]
第二はうがった見方だが、当事者の合意が決定的で、主君や血族のコンセンサスを排除したのは、強制的な結婚を否定することにより修道院に優れた人材を供給するためだったともいわれる。結婚の自由は、結婚せざる自由と裏表の関係にあり、独身主義優位思想が結婚の自由を生んだともいえる。
第三に合意主義はイギリスからの婚姻事件上訴による教皇受任裁判(アンスティー事件についてはわが国でも研究されている)の教皇の裁定により教令集に採録されたもので、基層文化として婚前交渉に許容的な北西ヨーロッパに合致していた。結婚において処女性を重視する地中海沿岸地域では合衾主義でもよかったが教会法はどの地域でも通用する普遍的な制度を採用したのである
ちなみにアレクサンデル3世は皇帝と長期にわたって闘争し、合意主義の神学者の多いフランスと英国は一貫してアレクサンデルを支持していたので結びつきが強かった。
第四に合衾(床入り)に証人を求めることが困難な場合があるが、言葉による誓約なら証人の存在により婚姻成立を確定できる。カノン法の証拠法は世俗法に先行した意義を有している。
合意主義婚姻理論の採用に当たってはペトルス・ロンバルドゥス(没1160パリ司教)の影響力はいうまでもない。中世最大の教師である、中世の神学部の授業とはロンバルドゥス命題論集の註解なのであり、基本的テクストだった。文明の規範提示者であり、それゆえダンテの『神曲』では最後の審判でキリストに陪席する人物となっている。
しかしこの文明の規範提示者として決定的には教皇アレクサンデル3世である。前名ロランドゥス・パンティネッリ、教皇庁尚書院長から、1959年教皇に登位した。
同教皇は教皇首位権の確立のため、不撓不屈の精神で中世屈指の傑物皇帝フリードッヒ・バルバロッサと長期(枢機卿時代から通算して20年以上)にわたって闘争し、ついに1177年ヴェネツィア和約でサンマルコ広場で皇帝を跪かせた。またベケット殉教事件でヘンリー2世をノルマンジーに召喚したことでも知られる。その行政・政治力と頭脳の明晰さは明白である。
同教皇の教令の特徴は、あくまでも結婚についての自己決定権を重視していることである。これほど自由にこだわったというのは偉大というほかない。
「自由」の原理は「近代世界の最大の成果」といえるが、しかし、その淵源は、中世カノン法の結婚の自由にあると私は考える。もちろん婚姻非解消主義は自由主義とはいえないが、婚姻成立の要件でこれほど自由な法文化はないと結論できる。人類学では結婚とは社会的承認を意味しているが、そうでない結婚を許容しそれが法文化となった点で人類史上の奇跡である。ゆえに教会婚姻法はかけがえのない文明のレガシーである。
この問題は古典カノン法成立期から意識されていて1215年第四ラテラノ公会議が合意主義の欠点を補うため婚姻予告の制度を奨励したが、依然として聖職者がかかわらない、合意主義の婚姻は有効であった。それゆえに親権者のコントロールがきかないので世俗の慣習と、対立、軋轢が生じた。
ゲルマンの慣習法でムント婚とは、女性のムント権(庇護・後見権)保持者である、父より夫にムント権が引き渡されるというものである。そのさいムントシャッツなる婚資が贈与され、初夜の翌朝花嫁は、花婿から「モルゲンガーペ」(朝の贈り物)をもらって正式な妻となった。[赤阪俊一2008]
しかし教会法は、結婚を人的庇護権の引き渡しとはみなしていない。婚資や嫁資といった世俗の慣習を婚姻に付随する慣習であっても婚姻の成立要件としていない。当事者の合意により成立、合衾により完成婚となり婚姻非解消となる。要件はそれだけなのである。
英国において教会の扉の前の儀式を要求したのは世俗裁判所であって教会法ではない。土地の相続は世俗裁判所の管轄権のため寡婦産を確定するためである。金貨・銀貨・指輪の授与は花嫁に終身的経済保障するゲルマン法の動産質である。それがウェディングであり、婚姻成立要件そのものではない。
12世紀イタリアの法学者ヴァカリウスは引き渡し(迎妻式)を婚姻成立で重視する見解をとっていたが、神学者や教会法学者の主流はそうではなく、教会法はそのような要件を定めるものでは全くない。無式の婚姻誓約だけで有効な結婚であった。
しかし世俗的には婚姻は単に2人の魂の結合である以上に婚資と相続を通じた2つの家系、家産の結合であり、寡婦産の設定などの財産移転をともなう。身分差のある不都合な結婚は、親族集団や姻戚同士の反目を導き、嫡出子の相続の問題を引き起こし世俗社会と大きな軋轢を生じることとなった。
英国では1236年マートン大評議会で、教会側の強い反対にもかかわらず、世俗貴族は一致して、教会法(古典カノン法)の婚姻遡及効(後の婚姻による嫡出子の準正-アレクサンデル3世の教令ローマ法を継受した)を拒否した。「我々はイングランド法を変更することを欲せず」(Nolumus leges Anglie mutare)と決議したのである。このためイングランドでは、教会法上の準正子は、年長非嫡出子とよばれ、正当な相続人とはみなされなかった。
直江眞一[1990]によれば、相続に関して教会裁判所の干渉を避けていたのはイギリスだけではなく大陸でも同じことだという。
結婚は無方式の行為で成立するとした古典カノン法が人類の叡智とはとても思えないとメイトランドは言った。その意味は教会法は事実婚を否定するからだ。先に婚姻約束した者が、真の妻であり夫なのだ。「世界のどの国民でも、恋人たちは現在形と未来形とを正確に使い分けそうにない。中世において婚姻もしくは婚姻らしいものも非常に不安定であった。永年連れ添った男女の仲が致命的な容易さをもって姦通と証明されたり」した。[島津一郎1974 232頁]。
『第一教令集』収録の教皇アレクサンデル3世が英国ノーリッジ司教に送った教令をメイトランドは引用している。ここに無方式合意主義婚姻理論の何たるかが端的に示されている。
「ある男女が主人の命により相互に受け入れたが、その際には司祭は同席しておらず、英国聖公会が慣用する儀式も行われなかったこと、そして肉体的に結合するまえに、他の男が上記の女と婚姻の挙式を行い、彼女を知ったということを、われわれは貴下の手紙から理解する。我々の回答は次のとおりである。第一の男と女が、一方が他方に対し゛我は汝をわがものmeumとして受けいれる゛、我は汝をわがものmeumとして受けいれる゛と述べて、現在に向けられた相互的な合意によって相互に受け入れたならば、その時は前記の儀式が行われなかったとしても、また肉体的交通がなかったとしても、女は最初の男に返還されなければならない。蓋し、このような合意があれば、女は他人と結婚することができず、またはしてはならないからである。しかしながら前記の言葉による合意がなかったならば、また将来の〔言葉による〕合意ののちに性結合が結ばれなかったならば、その時に女は、無のちに彼女を受けいれ、彼女を知った第二の男に委ねなければならない。」
[島津一郎1974 230頁]
メイトランドにかぎらず、近代人は男女が握手し婚姻約束をしたならば、一生離れられない絆になるという、誘拐しても合意すれば有効な結婚だという諾成婚姻理論を非難する。しかし私は公平な立場で、むしろ世俗権力と数世紀にわたった結婚の自由のために抗争した教会法の理念こそ価値を認めるものである。この婚姻理論を提示したなぜならば神学者に対する敬意と信用による。
もっとも婚姻意思の合致を婚姻の本質的要件としていることは古典カノン法と変わりない。
ただし、婚姻の有効成立要件として「教会の面前での挙式」を無効制裁の措置をもって義務付けた。すなわち教会の権威と名において立合う職務上の承認としてカトリックの役務者の二人の単純証人の面前での挙式と合意表明を義務付けた。これを「フォノマ・カノニカ」といいカトリックにおける独特な法規である。[枝村茂1985]
つまり無方式婚も真の婚姻であり秘跡であるが、婚姻のもつ社会的本性面から公的契約とみなし、契約であるかぎり公共善のために阻止できる体裁を整えたのである。
公会議のもう一つの措置は、婚姻公告に関するものである。以後においては、婚姻に先立って婚姻当事者の所属の主任司祭によって行われる教区のミサでの説教に際して、つづけて三回の日曜に三度公告がなされる。また聖職者は婚姻登録簿を管理する義務を負う。
挙式と婚姻公告の義務づけは大きな方針転換といえるが、しかしながらトリエント公会議はガリカニスムのフランスから親の同意を欠く場合に婚姻を無効とする障害とみなすべきという主張を断固として拒否した。
フランスでは親の同意要件のない教会法のために、貴族は身分違いの婚姻を回避することに汲々とし、貴族の婚姻は国王の同意を要したが、国王の意に沿わない婚姻がなされることで王権のメンツがつぶされたという事情があった。しかしこれは神学的に受けいれられるものでない。
トレント公会議の信奉者は「家子にたいして婚姻は親の同意なしには無効な契約であると誤って主張するもの」と破門の宣告をして応酬したのである。[ロングレイ1967]
とはいえ、トレント公会議の要式主義は、古典カノン法の自由な婚姻より明らかに後退したといえる。
中世フランス慣習法地域の成人年齢は平民で男子14歳、女子12歳、貴族で男子21歳、女子15歳であった。「フランスには父権は存在しない」という法諺もあるくらいである。[田中通裕1987]
しかし15世紀以降フランス王権は、社会秩序を維持するため、父権の強化を図り、成人年齢は男女とも25歳となった。
フランス国王アンリ2世は、教会の管轄権である婚姻制度に介入して、1556年「婚姻に関する王示」により、男子30歳、女子25歳という高めの成人年齢を設定したうえ、未成年の婚姻における親の同意を強制し、これが婚姻法の還俗化の嚆矢となる。
その第1条は「肉欲ゆえに慎みもないふしだらな婚姻が日常的に行われ、父母の希望または同意もなく、また父母の希望に反して、本人同士で婚姻を誓い合い困ったものだという苦情が国王裁判所に寄せられている。こうした婚姻は守るべき礼儀を欠き、遺憾であり、困惑をもたらすものである。これまでも法令は神への畏敬と父母への礼儀に反することなきよう命じてきたが、こうした悪弊が止まず、かえって増えており、ここに規則を定める」とし「父母の意向に反し、法令に反し、神の掟に反し、法と公序に反するものは、隠避婚姻」であり第2条「かかる婚姻をした者、しようとしたものは相続から廃除」するとした。[小梁吉章2015],
1579 年 5 月のブロワ王令,1629年 1 月のミショー法典、1639 年 11 月の「婚姻の手続に関する」国王宣言、1697 年 3 月の「婚姻の手続に関する規則を定めた」王令などでは,未成 年者の結婚について,アンリ2 世の定めた成人年齢をそのまま踏襲しつつ, さらに「この年齢を過ぎても子供は両親に意見を求める義務があること」「両親の同意なしに結婚した未成年者に対しては,民事上の制裁のみならず刑事上の制裁も加えられるべきこと」が定められている。
1579年のブロワ王令は誘惑=誘拐罪を死刑をもって罰するとしたほか、婚姻の要件として、トレント公会議と類似しているが4人の証人の面前で主任司祭による宗教的挙式と3回の予備的広告を強制することとした。[ロングレイ1967]
こうしてフランスでは教会の役割は王令にもとずく挙式等の執行と、婚姻登録簿の保管だけになった。
このように、フランスは、秘密婚や身分差のある結婚を防止し、父権が強化され、結婚は親権者のコントロールのもとにおくものとしたのである。
フランスを嚆矢として婚姻法の還俗化さらに民事婚化が緩慢ではあるが近代の流れとなった。それは教権側が、親の同意要件の要求に対し妥協しなかったことと関連している。
トレント公会議は、親の同意要件を否定したとはいえ、婚姻予告や挙式婚の義務化は自由な婚姻理念からは後退したものと評価できる。結婚を良い意味でも悪い意味でも世間体を重んじる結婚に変化させた。それを道徳化といってもよいが、いずれにせよ大陸では無式合意主義の秘密婚容認時代は終焉するのである。ところが英国では事情が異なる。
(8)イギリス-宗教改革後も無式合意主義(古典カノン法)が生ける法として継続
そもそも遺言というのは、「父と子と聖霊の名において」作成され、死後の幸福と安寧のためのものだったから宗教的な性格を有するものだった。動産のなかで最良のもの一つ(騎士なら馬)を墓所のある教会に遺贈するのが慣例である。遺贈財産に余裕があれば修道士に遺贈したり、橋の修復などの慈善事業が好まれた。中世の人々は死後の幸福のために遺産を残し、教会に献上されていたのである。
教皇アレクサンデル3世は、ハドリアヌス4世(史上唯一の英国人教皇)の指名した後継者であったことから、英国は当初から支持基盤であり、友好関係を維持していた。
クラレンドン法でヘンリー2世と教皇が対立したことはよく知られているが、近年の研究で英国では婚姻事件で活発な教皇上訴が行われており[苑田亜矢1997、2000]上訴が多かったのは反ベケット派巨頭ギルバート・フォリエットのいたロンドン司教座であり、反ベケット派は教権と王権のいずれも尊重する立場にあったこと。合意主義を確定したアンスティー事件も英国の事件であること。英国で採録された教令の多くがカノン法となっていること。そもそもアングリカン教会と命名したのが教皇アレクサンドル3世であること。
13世紀においてジョン王は英国とアイルランドの国土を教皇に献上し、長期にわたって受封料を確実に支払っていた。近年の研究によりマグナカルタは反教皇文書ではなく、むしろ教皇とともに歩むことを確認したものとみなされている。事実上、中世高期の英国は国王と教皇の共同統治国家であったのである。
したがってメイトランドがまさしく言ったように、イングランド婚姻法とはローマ教会婚姻法そのものだった。
とはいえヘンリー8世の宗教改革によりローマカトリックを離脱した。にもかかわらず教会裁判所は聖職者から市民法律家に入れ替わったが実務はそのまま継承され、トリエント公会議の要式主義を受容することはなく、古典カノン法の無式合意主義婚姻理論が、そのまま「古き婚姻約束の法」「コモンローマリッジ」として居酒屋など俗人の立ち合いのもとに、婚姻誓約がなされれば容易に婚姻が成立する法が生ける法として継承されることとなった。
イングランドで議会制定法により秘密婚を防止するため中世教会婚姻法を無効としたのが1753年のハードウィック卿法である。フランスより200年遅れた婚姻法の還俗化だった。 スコットランドはその後も生ける法であった。また英国では家族法と遺言検認の裁判管轄権が世俗裁判所に移管されたのが1857年である。
したがってイギリスは古典カノン法の自由な結婚理念が近代まで色濃く継承されたのであり、法制史的に特筆してよい事柄である。
秘跡神学は、結婚をキリストと教会の一致を象徴するものとして秘跡とし、夫婦愛をキリストと教会の結合に比擬してその価値を高めたが、男女の愛情を精神的なもののなかでも至上のものとし概念と結婚を結びつける願望の風潮はイギリスで一番早く受容された[社本時子1999 131頁]。
古典カノン法が自由な結婚を擁護した中世の一例として、ノーフォーク州の名家パストン家書簡集にある1469年の長女マージョリー20歳と家令リチャード・コール30歳代の秘密結婚を挙げることができる。二人は結婚を誓ったが、引き離されてしまった。
リチャード・コールからマージョリーへの手紙
「私の愛しいお嬢様、そして神の御前では真実の妻である貴女に‥‥‥一緒に暮らす権利のもっともあるはずの私たちがもっとも離れているのですから。最後に貴女と言葉を交わしてから一千年もたったように思います。私は世界中すべての富を手に入れるより貴女と一緒にいたいと思います‥‥」
身分違いの結婚で家族は許さなかった。結婚するならば、貧しい蝋燭売りに身を落とすしかなかった。しかしコールの求めによってノーリッジ司教は仲裁にのりだし、二人が交わした結婚の誓いの言葉が有効とされ、結婚式も執り行われた。[社本時子1999 142頁]
このように身分差のある周囲が望まない結婚であっても、教会法を盾として自由な結婚がなされたことは特筆してよい法文化といえるのである。
英国においても握手結婚(男女は握手して婚姻誓約をするのが慣例)つまり秘密婚の弊害は意識されていて、1604年教会法は婚姻予告か、婚姻許可証による教区教会もしくは礼拝堂での挙式婚を正規の婚姻と定め、親ないし保護者の同意のない21歳未満の婚姻を違法(ただし無効ではない)であり、そうでない秘密婚を違法としたが、無効とすることはできなかった。
当時の教会裁判所実務については栗原正人[1991]が、名誉革命後の権威書であった ヘンリ・スィンバーンH.Swinburne(1551~1624)の「婚姻約束もしくは婚姻契約論」A Treatise on Spousals or Matrimonial Contractsを検討している。
同書は1686年に出版され、1711年重版となっているが、婚姻適齢について、7歳以上は「将来形の婚姻約束」ができる。法廷婚姻適齢は男子14歳、女子12歳であり「現在形の婚姻約束」によって婚姻が成立する。「『我は汝を我が妻とする。I will take thee to my Wife 我は汝を我が夫とするI will take thee to my Husband』というような現在形の言葉を用いてなされた婚姻約束を結ぶ男女は、いかなる合意によってもこの婚姻約束を解消しえないし、実体の点でも夫婦そのものとみなされ、婚姻の解消しえない絆があるとみなされる。従って、彼らのいずれかが実際に第三者と結婚式を挙げ、その人と肉体関係を結び、子供ができたとしても、この婚姻は不法なものとして解消され、結婚した当事者は姦通者として罰せられる。その理由は、これは将来の行動の約束ではなく、現在の完全なる合意だからである。この合意だけが公けの挙式も肉体関係もなしに婚姻を創設する。公の挙式も肉体関係も婚姻の本質ではなく、合意こそが婚姻の本質なのである。現在時制の言葉によってこのように完全に保証された男女が神の前での夫婦である」
この内容は、合意主義婚姻理論そのものであり、先に引用した、12世紀の教皇アレクサンデル3世のノーリッジ司教宛ての教令とも似ている。
この権威書はイングランド婚姻法=古き婚姻約束の法=コモン・ローマリッジが、古典カノン法そのものだったという証拠であると考える。
古き婚姻約束の法は生ける法であり、英国教会主教の統治の及ばない、特別教区、特権教会、たとえばロンドンのメイフェア礼拝堂や、フリート監獄のような特許自由地域が秘密婚センターとなった。親の同意のない21歳未満であっても容易に婚姻することができた。主教(司教)の統治の及ばない、特別教区、特権教会の特権は12世紀のアレクサンデル3世の教令に由来する。理論上は教皇の直轄なのでカノン法がそのまま適用されるということである。
1740年のロンドンで結婚する人々の二分の一から四分の三は秘密婚であったとされる[栗原1996]。多くの人々が婚姻予告を嫌い、教区教会の挙式ではなく、結婚媒介所での個人主義的な自由な結婚を行っていたので、事実上1604年教会法は死文化していった。
結局秘密婚を防止するためには、婚姻法の還俗化以外に手段はなかったのである。
1753年「秘密婚をよりよく防止するための法律」(通称ハードウィック卿法)は、フリート街のの居酒屋等における聖職禄を剥奪されたフリート監獄の僧侶による結婚媒介所が一大秘密結婚センターとなったことが国の恥と認識されたことにより、反対意見も少なくなかったが、イングランドで500年以上継続した古き婚姻約束の法を議会制定法により無効としたものであり、死文化した1604年法をあらためて、世俗議会制定法としたものである。
フランスより200年遅い婚姻法の還俗化であったが、皮肉なことに還俗化とは、クエィカーと、ユダヤ人を除いて教会挙式を強要することだった。すなわち、国教会方式の教会挙式婚を有効な婚姻とし、21歳以下の未成年者は親ないし保護者の同意を要するとした。[栗原真人1992b]
D グレトナ・グリーン結婚(18世紀中葉から19世紀中葉)-それでも自由な結婚が有効だった
このため未成年者で親の同意のないケース、駆け落ちなど自由な結婚を求めるカップルの需要に応え、スコットランドの国境地帯の寒村に続々と結婚媒介所が営業するようになった。グレトナ、グリーンは西海岸で、東海岸ではコールドストリームが有名だが、スコットランド越境結婚を総称してグレトナ・グリーン結婚と言う。
立ち会う牧師は元は鍛冶屋などの職人、いかさま牧師である。結婚に反対する親族の追跡を振り切るため、四頭立て急行馬車を雇い上げ、純粋な愛に燃えるカップルが胸を轟かせスコットランドを目指すロマンチックな風俗は、恋に恋する乙女たちの憧れとなり、18世紀の多くの文学作品で題材となっている。このために、グレトナ・グリーンは純粋な恋愛結婚の聖地とされるのである。西洋結婚風俗史のハイライトといえるだろう。[加藤東知1927、岩井託子1996a]
語り継がれる華麗な駆け落ち婚について一例のみ引用する。1782年スキャンダルの元祖といわれる銀行家チャイルド家一人娘セアラ・アン15歳と金欠貴族ウェスモランド伯爵の駆け落ちである。ロンドンのメイフェアからスコットランドまで凄まじい追跡劇となり、銃で馬を撃ち合い、四頭馬車が、三頭になったが無事スコットランドに越境して結婚した。その孫娘のアディラ19歳も1843年士官と駆け落ちし、グレトナで結婚している。この時代は馬車でなく鉄道であった。[岩井託子2002 83頁]
グレトナ・グリーン結婚の斜陽化は過当競争で結婚媒介料が低廉化し、風紀が乱れ、有名人士が嫌うようになったこと。鉄道の開通で馬車で駈ける風情がなくなったこと。決定的には1856年のプールアム卿法で、スコットランド法による結婚はスコットランド人か、スコットランドに3週間居住した住民に限られるようにしたことである。
要するにイングランド人は、19世紀の半ばまで、古典カノン法が生きていたので、未成年であっても親の同意の必要ない自由な結婚が可能だった。
ペトルス・ロンバルドゥスの理論や、教皇アレクサンデル3世の教令が、そのまま近代まで生きていた。英米の法文化で結婚は自由でなければならないというのは、このような歴史をふまえてのことである。英国は1929年の年齢法で婚姻適齢はコモンロー男子14歳、女子12歳から、男女とも16歳となった。スコットランドも婚姻適齢は男女とも16歳だが、未成年者でも親の同意要件はない。というのは、スコットランド改革教会が、トレント公会議を嫌って、要式化を否定し、古典カノン法を墨守したという歴史的背景から理解することができるだろう。
文献表(引用・参考)
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2 ニュースの穴 女性の婚姻適齢が改正で18歳に引き上げへ 早ければ2021年にも施行
2017-02-08
3 ニューヨークタイムズ記事「 It’s Legal for 14-Year-Olds to Marry. Should It Be? By LISA W. FODERAROMARCH 13, 2017」
4 CBSN.Y.2ch記事「 Advocates Call For End To N.Y. Law Allowing Children As Young As 14 To MarryFebruary 14, 2017 10:58 PM」
5 WMUR-TV記事「NH House rejects bill to raise minimum marriage age to 18
Existing law allows 13-year-old girls, 14-year-old boys to marry with parental, court approval Updated: 10:56 PM EST Mar 9, 2017」
6 PDF http://nownyc.org/wp-content/uploads/2016/02/Factsheet.pdf
7PDF「諸外国における成年年齢等の調査結果」ttp://www.moj.go.jp/content/000012471.pdf
ユタ州経済 近隣諸州より好調維持
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/eb4e275ac3ec0f8a79b4614e9309e147
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>紀元後2世紀には、帝国下ではいたるところで女性が職業に従事し、観劇、スポーツ、コンサート、パーティ社交生活に熱中し、あらゆる種類の運動競技に参加し、武器をとって戦場に赴く者もいた
ユウェナーリスが「諷刺詩」で描写している堕落したローマの女は、まるで今の日本女の姿そのものですよね
投稿: | 2017/08/09 11:02
女性解放などというものは歴史的に見れば文明の荒廃期・頽廃期の特徴であり、国家滅亡の兆候でしかありませんからね
日本、いや全ての先進国はもっと歴史に学ぶべきだよ
女性解放、同性愛蔓延、少子化、異民族流入、国家解体
嘗てローマが辿った歴史だ
現代の先進国はローマの歴史を再び繰り返しているだけ
投稿: | 2017/08/13 11:53
欧州に流入するイスラム移民は、神聖なる聖書の教えに背き、ジェンダー/フェミニズムなどという邪教に傾倒して堕落した白人を滅ぼすために神が遣わした聖なる使徒である
消えよ、けがれた背教者ども
そしてこれからは我が忠実なる僕たるお前たちムスリムが白人どもに代わってこの地を治めよ
それが偉大な神の御心なのだ
またイスラム移民に犯されて殺された沢山の白人女ども
これも神罰である
思い上がった白人女どもを罰するためのな
そんな呪われた白人どもに憧れを抱き、白豚ソーセージが大好物の日本女ども
こやつらも同じ運命を辿ることになるだろう
投稿: | 2017/08/17 16:21