前例に反する疑問だらけの退位礼
3/21にも述べたが譲位式は内裏の外で行われるのが通例である。『儀式』ではそうなっているはず。天皇は禁裏御所から仙洞御所へ行幸し、剣璽も伴に移動し、仙洞御所(上皇御所)に遷御された後に譲位式がなされるのが筋。
ところが今回は皇居正殿を行われるので異例。安倍は上皇御所を造営整備することもせず、伝統的な譲位受禅ではない異例の儀式にしてしまったことから勤王家とはとてもいえない。むしろいじめに近いのに「令和」を決めたのは俺様と威張っているのはちゃんちゃらおかしい。
もっとも上皇御所でなく内裏紫宸殿で譲位式がなされた例外はある。寛平九年七月三日の宇多譲位醍醐受禅は異例なことに、皇太子の元服加冠の儀と同日にセットされた。清和、陽成の元服は正月であり、七月というのも異例であるが、敦仁親王は当日東宮より内裏清涼殿に入り元服を加えたのち、異例なことに譲位式が紫宸殿で行われた。譲位の詔で新帝の奏請宣行は時平と道真の輔導によれと命令を下すというきわめて特徴的な儀式になった(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』吉川弘文館 1986)
これには政治的な理由がある。『九暦逸文』(藤原師輔)によると皇位継承当日七月三日の夜、皇太夫人班子女王は娘の為子内親王(醍醐の伯母)とともに参内した際、藤原穏子(基経女、13歳醍醐と同年齢)がともに参入してきたので、班子女王の命により宇多上皇が穏子の参入を停めたという。穏子は寝所近くまで進入してきたので、班子女王が弘徽殿で待機状態にあった上皇を呼びだし、上皇御自ら実力阻止行動に出るというドタバタ劇があったようだ。要するに、元服の夜の添臥をめぐって、摂関家を嫌っている宇多御生母班子女王は為子内親王とすることで譲らず、にもかからず藤原氏側は藤原穏子の参内を強行したので、それを阻止する目的など(これ以外にも醍醐養母藤原温子の居所をめぐる政治的駆け引きもあったと考える)で、上皇が内裏にとどまる必要があったという特殊事情である(なお宇多上皇はこの後、八月九日に母后班子女王とともに東院(もしくは洞院)に遷御されている)。
しかし今回はそういう特殊事情はないのに上皇御所で譲位式が行われないのは先例無視も甚だしいということである。
産経新聞や保守系の論客が退位ではなく譲位と言っているのも疑問。政府は公式的に譲位を認めてないはず。退位と報道している新聞が正確だろう。保守派論客で今回の儀式を批判しているのは中川八洋氏がいるが、譲位受禅でなく退位即位としたこと。伝統を重んじ一日のうちに譲位受禅を終えるようにすべきともっと異議をとなえるべきだった。
おことばが譲位なのか退位になるのかは儀式をまだ見てないので不明だが、もし「譲位」とされるならば強い天皇と歴史的に評価されると思う。
ついでに云うと、民間の改元に便乗した商売にけちをつける趣旨ではないが、改元カウントダウンのような大晦日に擬したセレモニーは新奇なもので違和感がある。重大事は皇位継承であって、改元はそれに附随して行われただけだろ。
なお天皇は行幸だが、院(上皇)は御幸と表現するようだ。これを間違えると恥ずかしいので注意したい。
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