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2021/07/22

伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき(その一)補遺1

 これは719日付意見具申「 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その一)」本文の付け足し

http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2021/07/post-8e31a1.html

 これは「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議で議論されている事柄についての筆者の意見の補足である。

 

補遺 第2章第2節第1項

第2 女帝は基本的に皇后権に由来するので、皇統を形成できない

 

補遺1 女帝中継論について

 

 女帝中継ぎ論とは井上光貞によって体系化された通説で、古代の女帝を「皇太后が皇嗣即位の困難なとき、いわば仮に即位したもの」で「権宜の処置」としてとらえ、女帝出現の背景・事情を「中継ぎ」という観点から説明したものであるが [井上光貞, 1985初出は1964]

 佐藤長門が指摘するように井上説は60年近く前のもので今日の研究水準からみて容認できない部分があるにせよ、王位継承上の文脈において「中継ぎ」論を支持してよいと思う [佐藤長門, 2009]

 近年の研究でも桜田真理絵が元正と孝謙は明確に中継ぎだと論じている [桜田真理絵, 2016]

 近世の女帝についても一応言及しておく。

〇明正女帝

 明正女帝のケースは践祚の時点で後水尾上皇に皇子がなく異例だが、官務家小槻孝亮の日記に後水尾天皇譲位の覚書が記載されており、、数年来の疾病が悪化し腫れ物もできており治療に専念したいので譲位したいこと「女一宮に御位あづけられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」 [荒木敏夫, 1999]とあり、実際弟の後光明天皇に譲位されているので、中継ぎである。紫衣事件や、春日局参内事件等、後水尾天皇の幕府への憤りの表明とされるので、父帝に退位する理由があって女帝が即位した特殊な例といえる。

〇後桜町女帝

 最後の女帝、後桜町女帝の即位は、桃園天皇の遺詔により、桃園皇子英仁親王(のちの後桃園)が5歳の幼さであったため、10歳になるまで中継ぎとして、桃園皇姉の緋宮智子内親王が即位した。公家たちの反発が強かったが、親王が13歳になるまで8年間在位した。

 智子内親王は将軍世嗣家治との縁談があったが、父帝桜町天皇が拒否し、非婚独身のままだった。 [久保貴子, 2009]

 幼帝には摂政で対応できるし、後桃園御生母一条兼香女富子も健在であり、皇太后より女院宣下(恭礼門院)されている。准母的な女帝をはさむ必要はなかったが、この時期の歴代天皇が早世が続いたことと、宝暦事件で天皇近臣が追放され、桃園天皇は摂関家と折り合いが悪かったことにより、女帝を中継ぎにはさんだものと考えられる。

 このケースも幼帝が成長するまでの中継ぎなので、太后臨朝型のバリエーションと理解してよい。

(参考文献 高埜利彦「近世の女帝ふたり」『別冊文藝・天皇制』河出書房新社、辻達也「徳川政権確立過程の公武関係」『日本の近世2天皇と将軍』中央公論者1991

 

補遺2 女帝に不婚は強制されないという説への反論

 

 要するに、女帝は皇后の政治的権能に由来し、皇女や内親王は、皇后となりうる身位ゆえ、天子の嫡妻としての皇后は6世紀以降16方、皇女以外の皇親を含めると19方。非婚内親王でも准母皇后が11方おられたし、女帝にもなりえたのだが、皇親女子は配偶者が世にある限り、天皇にはなれない鉄則がある以上、皇位継承順位に内親王等を加えることは困難であり論理性に乏しい。

 しかし令制は明文で女帝が即位後配偶者をもつことを禁止はしていないとする見解が多くの歴史家が指摘しているところである。しかし現実には全て不婚であり、前例がない以上論理性に乏しい。仮にありうるとしても、「夫帝優先の原則」により女帝が天皇より皇后に身位は異動することになると思う

 というのは、『霊異記』に「是れ道鏡法師の皇后と枕を同じくして交通ぐ」(仁藤敦史「皇位継承と宣命」平川・沖森・栄原・山中編『文字と古代日本1』吉川弘文館2004年所収)との表現があり、女帝は皇后とされている。つまり性的関係ないし配偶関係があった場合はもはや天皇ではなく、皇后であるとの認識を示しているからである。

 配偶関係では常に男性が天皇、女性が皇后ということである。

 仁藤敦史は、『女帝の世紀-皇位継承と政争』角川選書2006年、第三章「ミオヤ」と「ワガコ」139~140頁)によると孝謙女帝には聖武天皇の遺言で皇太子とされた道祖王(一品、新田部親王息)は、配偶者として想定されていたするが、阿倍内親王(孝謙・称徳)は21歳で立太子、32歳で即位、道祖王立太子の時点で孝謙女帝は39歳。道祖王が立太子した時点(天平勝宝8年)の年齢については渡辺晃宏(『日本の歴史04巻平城京と木簡の世紀』講談社2001年281頁)は少なくとも40歳としている。年齢的に近いとはいえ、39歳は当時の女性の婚期としては遅いように思う。

 仮に、奇想天外だが、皇太子道祖王が孝謙の配偶者という含みがあったとしても、天皇は道祖王、皇后が孝謙である。天皇が皇后の身位に異動するというべきである。。

 皇位継承候補者の年齢もみていくこととする。天平勝宝9年の道祖王廃太子後の皇嗣策定会議で、召集された貴族から推薦された皇位継承候補者であるが、まず塩焼王(父新田部親王、聖武皇女不破内親王の夫)は当時推定45歳、池田王(父舎人親王)は43歳、船王(父舎人親王)は51歳。これらの候補者を退けて皇太子に立てられた大炊王(のち淳仁天皇-父舎人親王)は25歳(渡辺前掲書282頁)。

 仁藤敦史によると女帝は不婚を強制されていたのではない「即位後(あるいは即位前)における婚姻および出産の可能性」があり「つまり女帝は婚姻により新たな女系を創出できる」と言う。だとするならば15歳年下の大炊王を別にして、塩焼王・道祖王・池田王・船王は阿倍内親王(孝謙)の結婚相手として年齢的には釣り合いがとれており、とっくに結婚しているはず。

 しかし、女帝即位は不婚が前提であるからこそ、立太子された阿倍内親王とこれらの皇親との結婚はなかったというのが常識的な見方である。仁藤説に論理性はない。

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