意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)
意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)
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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その一) : 川西正彦の公共政策研究 (cocolog-nifty.com)
第3章 伏見宮御一流には後深草院以来の皇統嫡流という皇統上格別の由緒があり、完全なる傍系化を回避された皇統であるゆえ、復籍は当然である
目次
第3章 伏見宮御一流には後深草院以来の皇統嫡流という皇統上格別の由緒があり、傍系化を回避された皇統であるゆえ、復籍は当然である... 1
第2節 伏見宮には後深草天皇以来の正嫡(嫡流)という格別の由緒がある... 4
第3項 『椿葉記』によれば貞治2年(1363)光厳法皇置文に「‥‥正統につきて伏見殿の御子孫御管領」とある 7
第6項 皇位を継承しなくても伏見宮が嫡流を引くといえる理由... 9
第3節 伏見宮は永続が約されている由緒が複数以上ある... 10
第4節 伏見宮は持明院統皇統文庫を相続し、その一部を昭和22年まで維持したことは嫡流たる証左たりうる 10
第2項 蓮華王院宝蔵の経巻、書籍の伏見宮への伝来の立証... 12
第3項 伏見宮蔵書の変容と現存する伏見宮旧蔵本の評価... 13
第6節 伏見宮は近世以降の宮家と比較して格式が断然上... 19
第1項 中世の皇室領を家領とした由緒、しかも「永代」安堵の勅裁を得ているのは伏見宮だけ... 19
第2節 応仁文明の乱以降戦国時代の伏見宮家のステイタスは高く、天皇家と非常に親密だった... 20
第1節 小論の目的
「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議の討議資料をみると、皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすることについて、 法律改正で対応するには難しい面があり、国民感情の面からも抵抗があるのではないかとの意見が書かれており、現存宮家の養子縁組に傾いているが、養子縁組を認めても、皇位継承者とするか否かは次の会議で議論するので、皇位継承者となりうるかは不透明な面も残っている。
私は養子縁組に限定する案に強く反対する。もし、養子縁組に限定すると、宮家の当主が財産や祭祀の承継等で養嗣子は必要ないと言われれば、結局女系しかないということになり、皇統に属する男系男子を直接宮家の当主としてする案を残さないと非常にまずい結果といえる。
旧皇族が直接、宮家当主として皇籍復帰していただくべき。伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒により、旧皇族の方々には矜持があるはずであり、宮家を再興され当主として戻っていただくのが筋である。コンセプトは旧皇族の復籍、伏見宮御一流の宮家再興とすべきである。
養子縁組といっても最大4家程度になるが、それでは弥縫策に思えるし、選定相続となると、皇籍離脱前に皇位継承順位で上位であっても復帰できず、ほぼ同じ家格なのに、養子に選ばれなかった旧皇族は不満が残る。
6月30日の有識者ヒアリングで表明された意見について (案)という資料では八木秀次氏と百地章氏は養子縁組でも直接復籍でもどちらもありという意見とされているが、だとすれば両氏に不満が残る。
この点、11宮家の総数51名の臣籍降下という異常な措置を、現政府をして溯つて撤回せしめるべきとした小堀桂一郎氏や独立の宮家当主として旧皇族を遇されるべきとし養子に反対する中川八洋氏といったヒアリングに呼ばれてない論客からたぶん批判の出そうな展開になっている。筆者も小堀桂一郎氏や中川八洋氏と大筋では同じ意見で、それが礼儀だと思う。養子にとってやるよ式で復帰されるのは大変失礼ではないか。もちろん現存宮家の養子縁組は、女性宮家よりずっとましだが、次善の選択とする見解である。
なお動画で竹田恒泰氏が養子縁組でよいと言う意見を言っていたが、当事者でもあり謙虚すぎる意見のように思え、反対である。
要するに女系にならなければ良いというのは消極的にすぎ、それはあたりまえのことで、皇統嫡系(天皇家)の皇統と、もともと持明院統の嫡流だった伏見宮系の皇統(完全なる傍系化を回避した)が併存した550年間の在り方が望ましいということで、積極的に旧皇族復籍を望むものである。
4月21日のヒアリングで中世史家の本郷恵子氏が「旧宮家の離脱以来 70 年以上が経過しているわけで、そういう方たちに戻っていただいても、単に皇統に属する男子というだけでは、現在いらっしゃる女性皇族を上回る説得力を持つとはちょっと思えない‥‥男系男子優先というのを改めて、男女を区別せず直系長子優先で継承していく」べきとされ、中世史家では今谷明氏も呼ばれ、一応永代宮家との由緒に言及されているが、もっと伏見宮家の皇統上の格別の由緒を強調してくれる専門家を呼ぶべきだった。伏見宮の由緒に詳しい歴史家はたくさんいるし、国文学系、芸能美術史系も悪くない。貞成親王の『看聞御記』は室町時代の基本的史料なので専攻の学生ならよく知っており学生でもよいくらいで、人選に問題があったと思っている。
それ以前の問題として討議資料によれば女性宮家とは言ってないが、女性皇族の意向いかんで、結婚後も皇族に残る措置を特例として認める方向性が出される可能性も残っている。これに反対する見解はすでに第2章で述べたとおりである。。
ここでは4月21日のヒアリングで古川隆久教授が述べた見解「もう既に旧皇族の方も皇籍離脱後長期間経っており、もともとが直系の方々と比べると相当縁が遠い方々になる」として旧皇族復帰は排斥する見解に強く反対し、伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を無視するものとして容認できないので、以下この論点の一点のみにしぼって、反論する意見を具申します。
昭和22年に昭和天皇と大正天皇の直宮三方を守るために、皇籍を離脱したとされる11宮家は、実系ではすべて崇光14世王の伏見宮20代・23代邦家親王の御子孫であり、伏見宮御一流である。
平成17年皇室典範に関する有識者会議の報告書では、旧皇族の復籍を排除する理屈として、「旧皇族は、既に60年近く一般国民として過ごしており、また、今上天皇との共通祖先は約600年前の室町時代に遡る遠い血筋の方々である」とし、女性宮家推進論者小林よしのり氏は「‥‥600年も血筋が離れた旧宮家の子孫を皇族になどという意見はもってのほか‥‥」と言っている [小林よしのり, 2010]。さらに令和2年8月25日河野太郎防相(当時)は記者の質問に対し、旧宮家(昭和22年に臣籍降下した11宮家)というのは1428年に践祚した後花園天皇の弟君(貞常親王)が伏見宮を継承し、600年前に皇室と枝分かれした男系であり、国民の理解を得られるのか疑問を呈し、旧宮家復籍に難色を示す発言があった。
要するに、旧皇族伏見宮御一流は、男系継承といっても、血筋が遠く、国民の納得を得られないから切り捨てよという見解である。
それは以下述べる、伏見宮が永続を約されている由緒、『椿葉記』等に示される後深草院以来の嫡流たる皇統上の格別の由緒、世襲親王家として公認され、代を重ねて天皇家と血縁的に疎隔しても親王家としてのステイタスは劣化せず、皇族の身位からフェードアウトすることもない、別格の宮家としての特別のステイタスが付与されていた歴史的経緯を無視するもので、全く不当であるからです。その理由を明らかにするのが小論の目的であります。
なぜなら、国民の理解を得られないなどとケチをつけている女性宮家推進派のプロハガンダを明確に否定しないことには、旧皇族も気分良く復籍してしただけない懸念があるからである。
復籍していただくために、お膳立てとして適切な専門家による伏見宮御一流の格別の由緒をまとめ、とくに『椿葉記』に示される後深草院以来の正統との由緒、後崇光院は本格的な太上天皇であったこと、伏見宮は永続が約され、復籍の権利性を有すること。天皇家と550年併存してきた理由、戦国時代には天皇家と非常に親密だったこと、世襲親王家の意義、幕末維新以降の展開、明治22年皇室典範は世襲親王家を廃止したが、伏見宮御一流の世襲親王家は閑院宮、小松宮を含め三家あったことなどを含めて国民に説明するための「続椿葉記」PTを首相直属で立ち上げ、国民向けに崇光院流=伏見宮御一流の正当性をわかりやすく示す文書を作成することを提案する。
近年の出版界の室町時代ブームもあり、伏見宮の由緒の研究は著しく進捗しているので、容易なことである。人選さえ間違いなければ成功することを確信している。
菅首相が専門家を呼びだして面接し、あんた本郷恵子氏と同意見じゃないだろうね、「看聞御記」をネタに論文書いてメシ食ってるのに、女系とか言うの。もしそうでなれれば、伏見宮に有利な材料を全部出してまとめてこい、と言えば、あっという間にできると思う。
ただ筆者は、都立園芸高園芸科出身で農業教育しか受けてないので歴史や文学は全く素人、社会的地位も全くない人間であり、業界部外者なので、具体的に誰が良いか思想的なことはわからない。
しかし伏見宮御一流の由緒はこういうものとなるだろうという常識論を示したいと考えた。それがこの意見書の目的である。
なお、上記のプロハガンダに対して母方では、貞建親王の御生母が霊元皇女福子内親王であり、朝香宮に允子内親王、竹田宮に昌子内親王、東久邇宮に聡子内親王、北白川宮に房子内親王と明治天皇皇女4方が嫁し、さらに東久邇宮には昭和天皇皇女成子内親王が嫁し、天皇家と近親の旧皇族の男系男子がおられるとことや、そもそも上皇陛下御生母の香淳皇后は久邇宮邦彦王女であるから、血筋と疎隔というネガティブな評価を切り返す手法もありうるが、小論はそのような見解とは違うので、伏見宮御一流の男系男子を当主として宮家を再興していただくのが筋であり、天皇家と近親者に絞ることも反対で、現存の宮家の養嗣子として旧皇族を迎えるのは次善の選択との考えなので、多くの女性宮家反対論者とも見解を異にする。
第2節 伏見宮には後深草天皇以来の正嫡(嫡流)という格別の由緒がある
第1項 持明院統嫡流の全財産は崇光上皇が相続した
崇光院流=伏見宮である。『椿葉記』の歴史記述は、崇光廃位から突然始まる。
観応2年(1351)尊氏は南朝に降伏し、崇光天皇(18歳)廃位、神器は南朝が接収した。正平7/観応3年(1352)南朝軍が京都を一時占領、光厳・光明・崇光三上皇と直仁廃太子を吉野に連行する。幕府は同年8月崇光弟の後光厳天皇(15歳)を擁立する。後鳥羽践祚等の先例により群臣義立により正当化されたが、後光厳践祚には譲国の詔宣(太上天皇詔命)がなかった。光厳上皇は「御時宜不快」として認めていない [家永遵嗣, 2013]。
崇光上皇は文和4年(1355)~延文元年(1356)河内国天野金剛寺で抑留中、持明院統の惣領である光厳法皇より、持明院統嫡流歴代の帝器である琵琶の最秘曲(啄木・両流泉・揚真操)を直接伝受されている『秘曲伝授月々例』 [池和田有紀, 2020]。
これを後村上の琵琶の秘曲伝受に対抗したとの見方があるが、正嫡認定とみてよい。琵琶の秘曲は嫡流の天皇に必ず伝綬されているからである。
延文2年(1357)光厳法皇、崇光上皇と僧体の直仁廃太子は解放され、崇光上皇は伏見殿に還御なる。光厳生母の広義門院が保全していた、持明院統の嫡流所領である長講堂領、法金剛院領等を光厳法皇の承認により相続し(『椿葉記』)40年以上管領した。また持明院統相伝の文書・記録類も相続したことは次のように目録学的に立証されている。
光厳上皇は、正平7/観応3年(1552閏2月22日持明院統文庫に収蔵する書籍・文書を仁和寺と洞院家に預けた。文和4年(1355)他の場所(土御門東洞院殿説と伏見の寺院説がある)に移され、この時の点検目録は「仙洞御文庫目録」(『群書類従』巻495)として今日まで伝存している。
文和4年以降、この蔵書群はこの後、崇光院が還御された伏見の大光明寺、即成院、法安寺といった寺院に預け置かれるようになっていた。伏見宮3代貞成王の『看聞御記』紙背文書にある、応永24(1417)年、同29年の「即成院預置御文書目録」、応永27年、32年「法安寺預置文書目録」等が、「仙洞御文庫目録」の書目と一致するため、持明院統文庫が光厳院→崇光院→栄仁親王→貞成王と伏見宮家に伝来したことは立証されている [田島公, 2004] [酒井茂幸, 2009]。ゆえに、崇光院が嫡流である。
一方、光厳法皇は後光厳に冷淡な対応で、良く言っても緊急避難的な即位、中継ぎの扱いだった。崇光皇子(伏見宮初代の栄仁)はこの年7歳、しかし翌年に後光厳皇子が誕生したため、皇位継承をめぐって確執が深まる展開になった。
第2項 『椿葉記』は崇光院流=伏見宮を正嫡とする
伏見宮の嫡流たる由緒を記す実物の証拠は多数あるが、そもそも『椿葉記』で伏見宮を嫡流とする由緒が書かれていることは、大きなアドバンテージといえる。
永享6年(1434)奏進された『椿葉記』1巻は伏見宮第3代貞成親王(のち後崇光院太上天皇)が、後小松院の御猶子として践祚した後花園天皇に、正統は崇光院流であることを悟っていただくため、叡覧に供せられた手記である [三木太郎, 1953]。
『椿葉記』によれば応安3年(1370)「伏見殿(崇光上皇)より栄仁親王(崇光皇子・伏見宮初代)践祚の事、後深草院以来正嫡にしてまします御理運の次第を、日野(武者小路)中納言教光卿を勅使にて武家に仰らる」。管領細川頼之の返答は「聖断たるへきよし」と申し、拒否された [村田正志, 1954初刊、1984]。
近年の研究では、応安3年(1370)後光厳天皇は、光厳天皇七回忌宸筆御八講を清涼殿で盛大に営むことにより、光厳院の継承者であることを顕示したうえ [三島暁子, 2012] 、同年8月天皇は皇子緒仁(後円融)への譲位の内意を幕府に伝えた。これを知った崇光近臣の勧修寺経顕が、上皇に報告し、上皇は11月巻き返しのため、崇光院流を「正統」、後光厳院流を「庶子」とする宸筆折紙を記して使者を頼之に遣わしたが、頼之は宸筆を拝見したことがないと言って、折紙を手に取り懐にしまいこ込んでしまったという(『後光厳天皇日記』応安3・11・3) [家永遵嗣, 2013]。崇光院流はこのことを長く遺恨としたが、後光厳近臣の正統化戦略が一枚上手だったとの心証を持つ。
この後足利義満は、崇光上皇の近臣を制圧して、皇位競望を許さず、崇光崩後、嫡流所領の長講堂領等が収公され、崇光院流天皇家は宮家(伏見宮)に転落する。
後光厳院流は4代実系で皇位を継承したが、正長元年(1428)後嗣のない称光天皇が重篤となり、伏見宮にとって一陽来復のチャンスが到来する。
後小松上皇と足利義宣(のち義教)の合意により、称光崩御の3日前に伏見若宮(10歳)が仙洞御所に迎えられ、後小松上皇の御猶子とする儀式の後、若宮は新内裏にて践祚した。後花園天皇である。実父伏見宮貞成親王は、「天日嗣を受させ給事、天照大神、正八幡大菩薩の神慮とはいえ、ふしきなる御果報、幸運眉目にてあらすや」(草本乙巻) [村田正志, 1954初刊、1984]と喜びを隠さないが、若宮が院の御子となり、実父と他人の関係にされたことには納得するはずがなかった。
『椿葉記』は事実上、猶子という親子関係の擬制により直系継承として後光厳院流の万歳継帝に道筋をつけた後小松院に対抗する言論であった。親王は、崇光天皇廃位以降の歴史を記述し、「御猶子は一代の御契約にて、誠の父母の御末にてこそわたらせ給へ」という皇統観にもとづき、後高倉院の先例に拠り太上天皇尊号を受ける意向を奏上し、尊号拝受の一点突破で、猶子関係を終了させ、正統たる崇光院流の皇胤再興(皇統の付替え)としたい実父の思いを伝えている。
しかし、天皇は国を譲られた重恩のある後小松院遺詔を重んじ、崇光院流を継承すること事実上、拒否した。しかしながら、伏見宮を世襲親王家とする提案や、皇室と伏見宮が過去のように不仲とならず、親睦にして将来疎隔なきようとする趣旨、崇光院以来奉公してきた廷臣等に御慈愛をかけられんことを述べた趣旨は受け容れ、実家の伏見宮と宥和策をとった。後土御門や後柏原といった戦国時代の天皇も伏見宮と親しい交流があったことから『椿葉記』の趣旨は生かされたといえる。
勿論『椿葉記』は朝廷公認の歴史書ではない。しかし親王は文安4年(1447)歴史上2例しかない非登極皇族でありながら「至尊」たる太上天皇尊号を拝受された方であるから、尊重されてしかるべきである。
なお『椿葉記』には君徳涵養や学芸修養に関する記述があり帝王学の趣もある書物だが、『椿葉記』が聖主と仰いでいるのは一条、後朱雀、後三条といった王朝時代の天皇であり、「洪才博覧にましてこそ政道もよく行はれんすれ、雑訴などの大事は、関白大臣以下の臣下の然へき人に勅問ある事なり、法家の勘状なとめされて、道理にもとづいて御さたあれは、君の御あやまりはなき也」と述べ、天皇は大局から道理にもとづいた判断を下すために、学問に通じなくてはならないという。これはこの後の天皇の在り方を示唆していて、さすがに太上天皇尊号を拝受するにふさわしい人物といいうる。
この格別の由緒を、正統たる崇光院流の再興に執念を持ち続け、永続を祈願した後崇光院太上天皇の存念を、現代に生かすことこそ、日本国にとって望ましい。これが本意見書の核心となる意見であります。
第3項 『椿葉記』によれば貞治2年(1363)光厳法皇置文に「‥‥正統につきて伏見殿の御子孫御管領」とある
光厳法皇置文の正文・案文とも現存しないが要旨は『椿葉記』が伝えている。
「おほよそ長講堂領・法金剛院領の事は光厳院置文に、親王(栄仁)践祚あらば直に御相続あるへし。もししからずば禁裏(後光厳)御管領あるへし。ただし末代兩方御治天あらば、正統につきて伏見殿(崇光院)の御しそん御管領あるべきよし申をかる」 [村田正志, 1954初刊、1984]
さらに伏見荘はいずれの場合も崇光院流の所領とし、花園院の管領していた旧室町院領は、先坊直仁親王一期の後、宗領に返付というものである。
つまり、光厳法皇は、貞治2年になって考えを改め長講堂領・法金剛院領という、崇光院が相続した持明院統嫡流に伝わる基幹所領について、崇光院の後の処置を定めた。崇光皇子栄仁が皇位を継承できなかった場合は後光厳に譲られる内容で、後光厳に有利なものである。
これは後光厳皇子(後円融)と同年齢の足利義満が母方で従兄弟であり、その成長を見たうえ、幕府の支持が崇光院に移行する可能性が低いという現実政治の情勢を踏まえ、無益な紛争を避けるための趣旨と考える。
従って、この置文は崇光法皇崩後約百日後、応永5年(1398)、足利義満により崇光院が相続し約40年間管領していた持明院統嫡流所領、長講堂領等を没収され後小松天皇に付与された根拠になっている。『椿葉記』は「あまりになさけなき次第」としながら、「光厳院の置文」により収公の正当性を認めている。
一方で、朝廷の実権者足利義満は、伏見宮に後嵯峨院御分国を後深草院が相続した由緒のある播磨国衙領と萩原宮直仁親王遺領(室町院領)7か所の相続を認め、さらに、萩原宮遺領の庶流の所領(室町院領)すべてについて、応永23年(1416)後小松上皇により伏見宮に「永代」安堵され [白根陽子, 2018]、伏見宮の存続は確定した。
重要なことは、この置文は崇光院流のメンツを潰すものではなく、「末代兩方御治天あらば、正統につきて伏見殿の御しそん御管領あるべきよし」と「正統」は崇光院流を示しており、嫡流所領を奪われても、なお嫡流を主張できるところが伏見宮のすごいところといえる。
従ってこの置文は嫡流転換を意味しない。皇位を奪還すれば旧領を回復しうる解釈すら可能である。
勿論『椿葉記』は二次史料であり、正文、案文も失われて、「正統」の記述の裏付けはないとの見方もありうるが、『椿葉記』の歴史記述は正確であり、叡覧に供する目的の手記なので、話を盛っているとは思えない。「至尊」たる太上天皇になられた方の著作であるから信用すべきというほかない。
第4項 持明院統皇統文庫の相続と維持
治天の君光厳上皇が管理していた持明院統皇統文庫は、光厳院→崇光院→栄仁親王→貞成王と、嫡流の伏見宮家にすべてが伝来したことは、目録学的に立証されており、蓮華王院宝蔵から伝来した経巻なども伏見宮に伝来したことがわかっている [田島公, 2004] [田島公, 2006] 、伏見宮第3代の貞成王が相続し管理下に置いたのは213合あったとの説がある [飯倉晴武, 2002] ]。
もっともその後、天皇家に進献されたり、失われたものもあるが、昭和22年まで文庫は維持され、伏見宮が戦後特権を失って蔵書を手放し、宮内庁書陵部で購入した。伏見宮旧蔵本には中世の皇統文庫のリストにあったものも少なからず現存しており実物の証拠があるわけである。
貴族社会では古記録を伝えている家が嫡流であるから、中世の皇統文庫を維持してきた伏見宮は重んじられてしかるべきである。この論点は重要なので第4節で詳しく述べる。
第5項 嫡流の証しとしての琵琶の伝習
順徳天皇の『禁秘抄』は天皇が学ぶべき学芸の第二を管弦としているように、中世において管弦は、学問に続く帝王学の要であり、管弦に秀でることが有徳の君主の証とされ、多くの天皇が特定の楽器を熱心に習得した [豊永聡美, 2017] [相馬真理子, 1997]。
鎌倉時代の累代楽器の権威構造は累代御物「玄上」-清暑堂御神楽-琵琶の秘曲伝授と琵琶が中心で、したがって亀山、後醍醐、後村上も琵琶の秘曲を伝授されており、持明院統嫡流の後深草-伏見-後伏見-光厳-崇光-栄仁親王-治仁王は、最秘曲の啄木を伝授されている。 [猪瀬千尋, 2018] 、貞成親王以降は啄木の伝授は受けてないようだが、貞常親王、邦高親王、貞敦親王は楊真操、両流泉といった秘曲の伝授を受けた。
後深草院は亀山天皇に秘曲伝授で先を越されたことを後悔され、巻き返しのため立て続けに秘曲の伝授を受けた、以降持明院統嫡流の天皇は琵琶の伝習が必須となった。琵琶にこだわったのは、後鳥羽、順徳が名器「玄上」を弾いた由緒から [五味文彦, 2006]、帝王の管弦主座として、皇統の正統性にかかわるものと認識されていたためである。
持明院統の庶流の天皇、花園や光明の帝器は笛で、琵琶を習得していないし、秘曲の伝授も受けておらず嫡庶で差別化されていた。帝王学として琵琶を相承し、秘曲を伝授されることが、持明院統正嫡の証しなのである。
『椿葉記』は持明院統の帝王学である琵琶の習練を勧めているにもかかわらず、後花園天皇は足利義教の方針で、後光厳院流の笙を習得し、後土御門にも相伝され、伏見宮貞常親王は琵琶を継承したので、相馬万里子や豊永聡美は、後花園は後光厳院流の流儀が継承されたとの見解である。
したがって琵琶の伝習、秘曲の伝授により伏見宮が嫡流の流儀を継承した王統といえるのである。
第6項 皇位を継承しなくても伏見宮が嫡流を引くといえる理由
近年、文安4年(1447)11月伏見宮第3代貞成親王(道欽入道親王)への太上天皇尊号宣下の詔書が解明され、天皇実父としてではなく、傍親(兄)への厚意としての尊号宣下であることが明らかにされた [田村航, 2018]。
後花園天皇は後小松上皇の御猶子とされたうえ践祚したことから、後光厳院流の継承者であることを表明していたことが明らかになったのである。ゆえに天皇家も伏見宮も崇光院流御一統とする村田正志説の従来説は否定された。
貞成親王は後小松院の猶子として親王宣下されたことから実父であっても兄とされたのである。
よってこの皇統重要問題は、天皇家は「本朝皇胤紹運録」の系図のとおり後光厳院流、伏見宮だけが崇光院流ということで決着したのである。
北朝は正平一統により一時消滅した。後光厳践祚は『園太暦』に「非受禅、非太上天皇詔、又不可有被渡霊器之儀‥‥」『椿葉記』に「父の御譲にもあらす、武将(等持院)のはからひとして申をこなふ。此宮は、妙法院の門跡へ入室あるへきにさため申さるゝところに、不慮の聖運をひらかせ給て‥‥」と記すとおりであり、血統では繋がっていても譲位受禅ではないため切断がある。また後光厳は崇光の猶子ではないので、崇光院流と後光厳院流は別の皇統であり、後光厳院践祚を持明院統天皇家の惣領光厳上皇が認めていない以上、当時はよく言っても緊急避難的即位、中継ぎにすぎなかったとみることができる。
後光厳院流が公武合体構造の国家体制を築いて政治的に優位に推移したとはいえ、それは正理、正統の証とはいえない。ではどうして皇統嫡系といえるのか。またそのことは崇光院流=伏見宮を嫡流とする見解と矛盾しないかという批判があるかもしれないが、それは次のように説明したい。
私は後光厳院流は以下の史実によって正統性を顕示、確保したゆえ皇統嫡系たりえたと考える。
(1)光厳、後光厳、後円融といった歴代天皇の追善供養(崇光院を除いて)を国家的仏事として盛大に営んだこと [三島暁子, 2012]] [久水俊和, 2011]。一方、崇光の追善は「イエ的」仏事にとどまったこと。
(2)応永5年(1398)崇光院崩後、崇光院近臣を制圧していた足利義満の政治力により、崇光院が40年管領していた持明院統主要所領の長講堂領等を後小松天皇は没収できたこと。
(3)後小松上皇は応永23年(1416)伏見宮栄仁親王より「天下名物至極重宝」名笛「柯亭」を伏見宮より進献させたこと(椿葉記・看聞御記) [植木朝子, 2009]。
(4)後小松上皇へ応永31年(1424)『寛平御記』『延喜御記』(二代御記)という皇統文庫のなかでも特に重要で象徴的なものが伏見宮貞成王が進献されたこと(看聞御記)。
(5)伏見若宮を猶子として践祚させたゆえ、永享2年(1430)後深草院より三代の『大嘗会記録』『神膳御記』が伏見宮道欽入道親王(貞成親王)より後小松上皇へ進献されたこと(看聞御記)。
(6)天文4年(1535)伏見天皇宸記2合が伏見宮第6代貞敦親王より後奈良天皇に進献された(後奈良天皇宸記)こと。
私の考えでは、歴史家のいう追善仏事を公家沙汰とした意義を認めつつも、しかしそれは後付けの論理ともいえるので、後光厳院流が皇統嫡系(正流)たりえたのは、崇光院流=伏見宮より持明院統嫡流の財産、なかでも荘園群の大部分と、象徴的な重宝、皇統文庫のなかでも象徴的に重要なものを切り取ったことによると考える。
後小松上皇は皇統文庫や重宝は法的根拠がないので収公できなかった。しかし上皇は、1416年准累代御物級の「天下名物至極重宝」名笛「柯亭」を室町院領永代安堵の院宣と引き換えに伏見宮より進献させ、1424年『寛平御記』『延喜御記』という重宝が表向きは訴訟に便宜を図ってもらうため伏見宮より上皇に進献されており、その翌年に貞成王が親王宣下されている。また後花園は伏見宮貞成の実子である以上、相当量の宸筆宸記等が天皇家に進献されたと推定されている。
しかし、『後奈良天皇宸記』天文4年(1535)7・4条に「自竹園伏見院御記二合給之喜悦也」とあり、伏見宮第6代貞敦親王が伏見天皇宸記二合をこの時点で進献していたということは(なお、伏見宮旧蔵本では伏見天皇日記宸筆8巻その他が現存するのですべてではない)、伏見宮家からの宸筆宸記等の天皇家への進献は断続的で長期にわたっていたことがわかる。
第5代邦高親王まで、持明院統嫡流の天皇である伏見院宸記を天皇家に進献してなかったのは嫡流の証左として維持していたともいえるし、この時点で、すでに第7代邦輔親王は親王宣下を受けており、世襲親王家としてのステイタスは確立していたゆえ貞敦親王は手放したともいえる。
これについては裏事情がありそうで、同時期に貞敦親王の妹玉姫が嫁した義弟の一条房冬(土佐一条家)は近衛大将の任官を望み朝廷に銭一万疋の献金が用意されたが、後奈良天皇は拒否、伏見宮貞敦親王の懇請によって任官されたが、売官になるため献金は突き返された。この借りがあったとも考えられる。
しかし一万疋は1500万円くらいの価値があるが、書聖である伏見院御記二合はかけがえのない価値があり、得をしたのは天皇家のように思える。
貴族社会では家記・古記録を伝える家が嫡流なので、伏見院宸記二合が伏見宮第6代貞敦親王より善意で進献されたことにより、天皇家は皇統嫡系としての体裁、面目を整えることができたというべきである。ゆえに伏見宮をぞんざいに扱えない義理は今日もあるというべきではないのか。
しかし天皇家に進められたのは財産のすべてではない。皇統文庫の残余の部分は伏見宮が相続したし、持明院嫡流の流儀である琵琶の伝習は伏見宮が継承したこと。なによりも、光厳院置文は嫡流の皇統を付替えたとは全く言っておらず、正統は伏見殿の御子孫としており、再び崇光院流が皇位を奪還すれば、嫡流所領も奪還しうると解釈できる内容である。このことから、たとえ財産を後小松が切り取って、皇統正流は後光厳院流になったといっても、崇光院流の正当性、嫡流の由緒はどうしても伏見宮に残るのである。それゆえ伏見宮家は、完全に傍系化せず、天皇家と併存して永続する別格の宮家となった。
第3節 伏見宮は永続が約されている由緒が複数以上ある
これについては第1章第9節と同文なので省略する リンクは
意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その一) : 川西正彦の公共政策研究 (cocolog-nifty.com)
第4節 伏見宮は持明院統皇統文庫を相続し、その一部を昭和22年まで維持したことは嫡流たる証左たりうる
貴族社会では家記、古記録を伝えている家が嫡流である。伏見宮家は嫡流ゆえ持明院統皇統文庫が伝来した・家記の自筆原本・古記録の蔵書が嫡流の証しになる。
持明院統に伝来した文庫は、延文2年(1357)以降、崇光上皇の管理下に置かれた。(応永24年(1417)伏見宮初代栄仁親王の王子第2代治仁王頓死(中風)により、弟の貞成王が遺跡を継承した。伏見宮第3代貞成王は親王ですらなかったが、嫡流ゆえ本来なら治天の君に伝えられるべき皇室の重宝といえる豊富な古記録を相続していたことは以下のとおり明白なことである。
そもそも天皇ゆかりの宝物や貴重図書は、原則として大内裏内の倉や文庫にあり、典籍・文書は校書殿、内御書所、一本御書所に保管されていたのである。
しかし院政期以降は、歴代御記などは院が管理して、天皇は借覧するあり方になった [井原今朝男, 1995]。
皇室の蔵書は後嵯峨院崩御の時に両統に分割され、日記や政務文書は後深草院に譲られ「和歌并鞠文書」は亀山院に譲られたと伏見院自身が認めているという [小川剛生, 2017] 。
持明院統の典籍・文書は、冷泉富小路殿を経て土御門東洞院殿に収蔵され、大覚寺統に伝えられた文書は冷泉万里小路殿に収蔵され、親王時代の後醍醐天皇に一期相続で贈与された。
元弘元年(1331)10月、笠置山陥落による後醍醐天皇の六波羅遷幸に際し、光厳天皇はぬかりなく後醍醐皇子の尊良親王に大覚寺統文庫の明け渡しを要請したが、接収できたのは一部だけだった。後高倉、後鳥羽、順徳の宸記が1~2巻程度と後宇多、後醍醐ゆかりのものは後宇多皇女の禖子内親王(崇明門院)に伝えられ、これは動乱期に失われたようである[酒井茂幸, 2009] [飯倉晴武2000]。
光厳上皇は、南朝軍が京都に進入し、八幡に遷幸された翌日正平6年閏2月22日持明院統文庫に収蔵する書籍・文書を仁和寺と洞院家に預けた [酒井茂幸, 2009]。
文和4年(1355)他の場所(土御門東洞院殿説と伏見の寺院説がある)に移され、この時の点検目録は「仙洞御文庫目録」177合(『群書類従』巻495)として今日まで伝わっている。
文和4年以降、この蔵書群はこの後、崇光院が還御された伏見の大光明寺、即成院、法安寺といった寺院に預け置かれるようになっていた。
後崇光院太上天皇(伏見宮貞成王)の『看聞御記』紙背文書にある、応永24(1417)年、同29年の「即成院預置御文書目録」(155合)、応永27年、32年「法安寺預置文書目録」等が、「仙洞御文庫目録」の書目と一致することため、持明院統文庫は光厳院→崇光院→栄仁親王→貞成王と伏見宮家に伝来したことは立証されている。
加えて尾張大須文庫の「御記惣領目録」が14世紀末から15世紀初めの伏見宮が所蔵していた持明院統に伝えられた、歴代天皇の日記や、史書、法制書、諸家の日記の目録であり、「仙洞御文庫目録」と「即成院預置御文書目録」の中間に位置するものであること明らかにされている[田島公2004,2006]。
なお、伏見宮の蔵書は、飯倉晴武氏の計算では213合ほどあった。一合とはどのくらいの量かよくわからないが、『玉勝間』が一合50巻と言っているので、かなりの分量といえる [飯倉晴武, 2002]。
応永5年(1398)8月に栄仁親王は長講堂領・法金剛院領等の嫡流所領を没収されたけれども、都合がよいことに、親王は、萩原宮遺領の室町院領の7箇所と萩原殿を相続でき、播磨国衙領も返還されたが、しかし、義満は山荘を造営するため伏見殿を接収した。
このため、応永5年栄仁親王は萩原殿(現在の妙心寺玉鳳院)に移ったが、義満は引越し費用として銭二万疋を給付している。結局伏見に山荘は造営されなかったが、応永8年(1401)に伏見殿の火災で累代御記、文書、楽器の過半が焼失したとされ、詳細は不明である。その後、嵯峨、有栖川と居所を転々とする [桜井栄治, 2009]。
義満薨後の応永15年(1408)管領斯波義将の沙汰で伏見荘が返還され、翌年栄仁親王は伏見に還御され、宝厳院という尼寺を仮御所としている。
ところで、義満の申請により崇光流の「御文書」はことごとく後小松に譲与されたとされたとの見解もある [松永和浩, 2020]。『満済准后日記』にそのような記述があるのは知っているが、義満薨去は応永15年だが、先にも述べたように応永24~32年の伏見の寺の預置文書目録により、伏見宮が光厳院仙洞御文庫より伝来した文書を管理していたことは立証されていることである。
応永24(1417)年「即成院預置御文書目録」、応永27年「法安寺預置文書目録」によると、伏見宮の蔵書として、寛平・延喜御記(宇多・醍醐)、天暦御記(村上)、林鳥(後鳥羽御記)、後深草・伏見御記・心日御記(後伏見)があった。
なお後光厳天皇が光厳院より御記を相続できなかったことは、『後光厳院宸記』応安3・11・3が、後深草院御記の書写を崇光上皇に申し込んだが断られたこという記事により明白なことである [松園斉, 1997]。
第2項 蓮華王院宝蔵の経巻、書籍の伏見宮への伝来の立証
田島公が伏見宮近臣の三条西実隆『実隆公記』延徳2年(1490)八月条にある、伏見宮第5代邦高親王から借用した歴代天皇宸筆や皇族御筆、三蹟など平安時代の「古筆」のリストを検討され、このうち弘法大師御筆の法華経、称讃浄土経、無垢清光陀羅尼等、智証大師(円珍)筆の転女成仏経、三蹟の一人藤原行成卿筆の心経、諸仏集会陀羅尼経といった経巻が、近世の写本だが東山御文庫にある蓮華王院宝蔵目録と一致することを明らかにしている [田島公, 2004]。
蓮華王院宝蔵とは後白河院の蒐集品の宝蔵で、書物は御経や漢籍のほか、官庫(天皇家ゆかりの朝廷文庫)の重要な蔵書を含む。元弘の変以降に什物は流出し、絵巻・絵画は仁和寺に移され、経巻や典籍は持明院統に継承されたと想定されていたが、伏見宮に少なくとも一部は伝来したことが立証された。
要するに、本来なら天皇家が管理すべき蓮華王院宝蔵の蔵書は、嫡流だが皇位を回復できなかった伏見宮に伝来し、伏見宮の蔵書だったということである。
なお現存する伏見宮旧蔵本で最も古いものとして延喜19年(919)漢詩人として著名な大江朝綱筆の『紀家集』(紀長谷雄の漢詩集を書写したもの)。東山御文庫にある伝醍醐天皇筆「自題山草亭」は、明治5年に伏見宮邦家親王が明治天皇に献上したもので、伏見宮家に伝わっていたものである [田島公, 2004]。
第3項 伏見宮蔵書の変容と現存する伏見宮旧蔵本の評価
とにかく、伏見宮第3代貞成王は皇統のすべての文庫を相続しているから嫡流といえることはいうまでもないが、このセクションでは、貞成王の親王宣下の時期から伏見宮蔵書の経過、変容と、現存する伏見宮旧蔵本の評価という問題をとりあげる。
伏見宮家の蔵書は、明治5~7年にかけて、宮家の命によって家従の浦野直輝が宮家蔵の古記録・古文書を書写した、『伏見宮記録文書』という副本が作成されたので、早くから知られており、研究や史料に引用されてきた。
戦後、宮家は特権が剥奪され、財産税によって資産を失い、蔵書を全て手離さざるを得なくなったが、皇室にゆかりのある蔵書を市中に散乱させるのは忍びがたいとして、昭和22年12月宮内庁書陵部に788部1666点が寄託され、後に国費で宮内庁が購入した [飯倉晴武, 2002]。
現在宮内庁書陵部にある伏見宮旧蔵本の評価は、中世の天皇家の蔵書をよく伝えており、伏見院日記8巻、花園院日記36巻等の鎌倉時代後期宸筆宸記のほか記録類も貴重な自筆原本や古写本のほか、琵琶を中心とした楽書もあり充実している。古典の伝承の世界では、古筆、古写本が重んじられるので史料的価値が高いことはいうまでもない。現存する伏見宮旧蔵本で最も古いものとして延喜19年(919)大江朝綱筆の『紀家集』である。今上陛下が大学卒業時に深い感銘を覚えましたと仰った花園天皇の『誡太子書』や『学道の御記』も伏見宮旧蔵本にある。
問題はこれで嫡流たる由緒を示すだけのものがあるかというかなり重要な論点である。
結論を先にいうと、肯定的な評価でよいと思う。
伏見宮本には南北朝時代の持明院統皇統文庫のリストと一致する書籍は少なからず現存している。進献、贈与、流失したものが少なくないとはいえ、中世の皇統文庫が伏見宮において一貫して維持されてきたとはいいうる。
例えば伏見宮旧蔵本で現存する『水左記』の自筆原本4巻は、これは元々蓮華王院宝蔵の蔵書だが、文和4年(1355)光厳院の仙洞御文庫目録、伏見宮貞成王の応永24年(1417)年即成院預置目録に『堀河左府記』として同じタイトルがリストにある。
伏見宮旧蔵本の『御産部類記』19巻は醍醐天皇以降の皇子女の誕生に関する貴重な逸文が多く、重要史料だが、鎌倉中期に西園寺家が所蔵していたもので、鎌倉末期から南北朝頃に他の御産関係史料とともに西園寺家より持明院統皇統文庫にまとめて移管されたことが明らかにされている[詫間直樹2003]。仙洞御文庫目録や即成院預置目録にもあり、昭和22年まで伏見宮の蔵書だったわけである。
とはいえ嫡流に伝えられた皇統文庫は南北朝時代頃のリストを集計し200合以上あった量からすると、天皇家に進献されたもの、贈答品等で流失したり、戦乱の移動の際失われた等、散逸した部分も大きいように素人目には思う。
伏見宮の蔵書は、伏見宮家伝来と称する手鑑が各地でみられるため江戸時代に分散したものも少なくないという意見もある [末柄豊, 2011]。
一方、光厳院から皇統文庫の相続とは別に萩原宮直仁親王遺領を伏見宮が相続した関係だと思うが、花園天皇宸記36巻は全体の7割が現存し、中世の天皇の日記としては分量的にまとまっており最もよく残っている。但し萩原宮からの相続は、花園院の絵画のコレクションもあったようだが、穿った見方をすれば持明院統庶流の財産の位置づけになるので、嫡流の証明にはならないともいえる。
伏見宮蔵書は室町時代以降、後崇光院(貞成親王)の『看聞御記』42巻、他家の日記・記録、朝儀関係の記録、宮家当主の筆跡や作品、歌会の記録なども加わり、増加した部分はもちろんある。例えば鎌倉時代の写本で最も古い時期の写本として貴重な「野府記」(「小右記」)や平戸記は皇統文庫のリストに見当たらないので、宮家になってから室町時代以降入ってきたと考えている。
現在国立民俗博物館にある高松宮家旧蔵「伏見殿文庫記録」は1682年前後に霊元天皇が書写のため伏見宮より借用したリストであるが、「本朝世紀」がかなり散逸したとはいえ、ざっと見た限りでは、その後大きく目減りはしてないように思える。
とはいえ鎌倉時代後期の天皇の宸筆宸記で現存している分量は、当初伏見宮にあった分量よりかなり少ないのであるが、この時期のもので現存しているのは、柳原本のほか主として伏見宮本なのであって、東山御文庫に現存してるのは後深草院の「八幡御幸記」のほか、伏見院の「大嘗会御禊御幸御覧記」「後深草院落飾記」くらいしかないのではないか。
誤解がないようにいっておけば、東山御文庫には伝嵯峨天皇宸筆『李嶠雑詠』、宇多天皇宸筆の『周易抄』、『後鳥羽天皇詠三十首和歌色色紙』という名品があるが、これは近衛忠凞が明治天皇に献上したもので、来歴は新しい [北啓太, 2016]。
この点、禁裏文庫で現存しているものとの比較という観点が重要に思える。
京都御所に東山御文庫がある。これは皇室の御文庫で、天皇陛下の御物であり、侍従職が管理しているが、天皇家に伝来した古記録や典籍は、文明8年(1476)後土御門天皇の新造の御所が消失し、「御物」「累代御器」「御記」が悉く消失した。後柏原天皇の前後から積極的な書写蒐集が始まり、後水尾天皇が収書や文庫の整理を行ったが、禁裏御本の古筆は万治4(1661)年大火ですべてを焼失したとされている。
しかし後西天皇がこの事態を予見し、バックアップとして朝儀に関連した記録類の副本を作成していたため、譲位後に禁裏に納められた。その後も火災はあったが、焼失することなく副本が現在まで伝えられている。その親本は応仁の乱以降、蒐集、書写された古典籍、古記録の写本に遡る可能性があるので貴重なものであるが、したがって近世禁裏文庫は近世の写本が中心なのである [田島公, 1997]。
田島公によれば「現在、東山御文庫に継承された近世禁裏文庫に残っている史書・古記録・漢籍など史料の残存状況を調べると応仁文明の乱以前に遡る写本・古文書の原本は少ないので、禁裏収蔵文書の継承の断絶性という意味では応仁・文明の乱の被害が最も大きかったといえよう。すでに説かれているように、中世天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された書籍・文書・絵画などの一部は、むしろ伏見宮家によって近代まで伝えられたといえよう。」 [田島公, 2004]という。
この評価にもとづき伏見宮家は昭和22年まで中世天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された書籍・文書の一部を伝えていたと断言できるので、総合的に判断して、しかるべき古記録を伝えてきた嫡流を引く由緒を認定してよいように思える。だからこそ完全なる傍系化が回避され永続されるべき宮家といえるのである。要するに、正統とか嫡流というのはたんに名分論でなく、たとえ今は国有財産になっても古記録、書物を伝えてきたという、物証があるということである。
以下具体的に伏見宮家から流出した文書をみていくことする。
『看聞日記』によると応永24年(1417)伏見宮貞成王より後小松上皇に『後深草天皇文永三年御移徙記』の書写、『御移徙記分類記』を進献された[園部寿樹, 2015]。応永29年には『宮瀧御幸紀』という重宝が進献されている。
応永31年(1424)伏見宮貞成王は、訴訟事に便宜をはかってもらうため後小松上皇に後深草院以来の相伝の『寛平御記』『延喜御記』、『朝覲行幸記』三合、『諸社諸寺御幸記』の御記五合を進献しているが、文庫のなかでもかなり重要なものといえる。宇多、醍醐の二代御記は、上皇から特に感謝されたと記されている [古藤真平, 2018]。
さらに後伏見院御記の進覧の依頼も受けている。翌年にも後伏見院御記の書写の依頼もあったが [松園斉, 1997]、応永32年に貞成王は親王宣下を受けたことと二代御記の進献は関連性があるかもしれない。
なお、伏見宮貞成親王の『看聞日記』は応永32年以前の分が、全面改稿されているので批判的にみておく必要はある。
永享2年(1430)貞成親王より後小松上皇に代々秘蔵の後深草院より三代の『大嘗祭記録』『神膳御記』が進献されている。これは後花園天皇の大嘗会に際してである
こうした古記録は主上御作法や院御作法を知るために天皇家に必要なものであるから、進献されたのはある意味当然ともいえる。
後花園朝の天皇家の蔵書に関しては『建内記』永享11年(1439)2月2日条によると歴代天皇の日記は、室町土御門の浄華院に預け置かれており、万里小路時房は天皇の下問に答え延喜天暦御記、後円融御記に言及しているが、それ以外何があったのかはっきりしない。天暦御記は伏見宮から進献されたものかどうかも不明である。
現在、平安時代の天皇の日記は原本も写本もなく、逸文が残ってるだけで、禁裏の蔵書は文明8年(1476)11・13の火災で失われたと思う。
一方、後南朝小倉宮に伝えられた重宝があり、勝光明院宝蔵に納められていた後朱雀天皇と後三条天皇の後二代御記である。これは政務・儀式の亀鏡として重宝とされていた。
『看聞御記』永享7年(1435)8・25によると、小倉宮聖承より足利義教に進められ、義教はこれを後花園天皇に献上された。その後『看聞御記』嘉吉元年(1441)6・27によると天皇は、後二代御記を、父貞成親王に預け置くべしとされ、伏見の蔵光庵に預け置かれたが、その後どうなったのかが不明である。
伏見宮旧蔵本を最も高く評価されているのが、書陵部主席研究官として、著者の確定、書名の決定等調査にあたっていた飯倉晴武氏で、同氏によれば伏見宮第3代貞成親王は後花園嗣立後も持明院統正統文庫をそのまま管理下におき、第二王子貞常親王が伏見宮を嗣ぎ、宮家が天皇家と併存することを確信したので、持明院統正統文庫は伏見宮で維持することにしたとする [飯倉晴武, 2009]。
飯倉氏とは異なる見解として、第4代貞常親王が相続した文庫は後花園天皇に進献された御記を除いた残余の部分とする見方もある [松園斉, 1997]。つまり文安5年(1448 )6月6日付後崇光院譲状で代々の天皇の日記だけを禁裏に進められ、他の記録文書は貞常親王に相伝することを指示しているためである。
この説では、皇統文庫の中核である歴代天皇の日記は、禁裏に進められているので分割相続というニュアンスになる。
しかしながら『後奈良天皇宸記』天文4年(1535)7・4条に「自竹園伏見院御記二合給之喜悦也」という記事があり、この時、伏見宮第6代貞敦親王が伏見天皇宸記二合を進献したということは、それまでは伏見宮の蔵書だったということである。
伏見宮初代栄仁親王が崇光院から相続したリストと考えられる「御記惣目録」に伏見宮の蔵書として、後深草院御記が七合、伏見院御記が二合、心日御記(後伏見)が五合と記されており [田島公, 2004]、江戸時代「長忠卿記」元文4年(1739)6・28条に霊元天皇の仰せによると、後水尾院文庫に伏見院御記70巻があったが、焼亡して5冊が伝わっているとの記録と符合する[依田雄介1992]。これは万治4年(1661)の禁裏火災で失われたと考えられる。なお、書陵部の伏見宮旧蔵本には伏見天皇宸記の原本8巻その他の宸筆宸記があるため、全体の量からすれば少ないが、伏見宮の蔵書としても残してあったということになる。
従って後花園天皇に進められた御記の全容は不明で、飯倉説と松薗説の両論併記とする。
第4項 贈答品としての書物
贈答品的な趣旨で流失したものについても言及しておきたい
足利義満には時期不明だが、伏見宮初代栄仁親王から京極流の勅撰和歌集『風雅集』(正本とみられる)、伏見宮3代貞成親王から足利義教には永享7年(1435)同じく京極流の『玉葉集』奏覧正本一合(19巻1巻欠)のほか [前田雅之, 2018]、伏見殿御所を訪れた義教の引き出物として伏見院宸筆三帖(『春草集』『周防内侍集』『赤染衛門集』の伏見院による書写)が贈られている [小川剛生, 2017]。伏見院は書体を縦横無尽に書きわけ「書聖」と称され人気が高かった。また宝徳元年(1449)院参した足利義政に、後崇光院太上天皇より『和漢朗詠集』等が下賜されている [田村航, 2018]。
『風雅集』は、応永3年(1396)に崇光院が義満の杯を取って呑むという珍事による、一万疋の経済援助、もしくは応永5年の室町院領7箇所の安堵の報謝を想定できる。『玉葉集』は一条東洞院伏見殿御所造営の報謝である。
前田家の尊経閣文庫『旧武家手鑑』の永享7年(1435)8・27付、従一位左大臣足利義教の御礼の手紙は伏見宮から散逸した文書と考えられ、これは現代語訳があり「‥‥この間はゆったりとお過ごしいただき、非常に結構なことでした、さて玉葉和歌集の正本をいただき、恐縮しながらも、うれしさに限りがありません。大事にいたします‥‥誠恐謹言」とある[末柄豊. 2011] 。書止め文言は同格者のもので、当時は親王家と大臣家が同格であるが、足利義教は朝廷の実権者で准摂関家ともいえるから、丁重な御礼といえる。
小川剛生によると応仁の乱以降私家集の二大コレクションは伏見宮第5代邦高親王と足利義政所蔵の歌集だったという。とくに伏見宮の蔵書は中古の歌人と鎌倉中期までのものを有しており、質量ともに優れていたという。「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしづめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生, 2017]というのは言い過ぎではない。
しかし仙洞御文庫目録に三合あったはずの私歌集は現存の伏見宮旧蔵本には一点しか残ってない。第6代貞敦親王以降、戦国時代に今川氏親ら大名や武家に贈答品として散逸したとみられている。
そういうと伏見宮が財産の切り売りで存続してきた言い方になるが、中世の宮家はことごとく消えていったのに伏見宮だけが永続したのも嫡流の財産がものをいったというべきである。
第5項 飯倉晴武氏の伏見宮旧蔵本の評価について
飯倉晴武は伏見宮旧蔵本の価値の高いことを強調している専門家である。「伏見宮旧蔵の記録類はですね。たとえば『水左記』の平安時代の原本が含まれていたり、あるいは鎌倉時代の写しになります『小右記』『中右記』『平戸記』という著名な現在伝えられている古記録のもっとも古いといわれている写本がほとんど伏見宮旧蔵の本でございます。‥‥」。「で、この伏見宮家の文書のなかには伏見天皇の日記や、『花園天皇日記』‥‥持明院統の天皇の日記も入っております。‥‥持明院統の正統はこちらだということを暗に主張していたと思うわけです。‥‥‥(江戸時代には四親王家となり)伏見宮家という宮家の存在が薄くなったかにみえます。でも実際には皇位の正統を伝えるべくこういう皇室の記録文書は伏見宮家にある。‥‥江戸時代朝儀が復活されるころにあわせて‥‥後西天皇が記録類の筆写をはじめます。‥‥公家たちを動員してやるのですけれども、それが東山御文庫といわれるものですね。‥‥後西天皇、霊元天皇、東山天皇‥‥たくさん写本を作り出してます。どういう写本かといいますと、やはりですね近世の公家が写したように『小右記』『中右記』『権記』『平戸記』等伏見宮家で持っているものと同じものの写本を作り出していきます。‥‥ありきたりの各公家が持っている古記録の写本と同じです。」 [飯倉晴武, 『日本中世の政治と史料』, 2002, ページ: 223~228]
伏見宮旧蔵本に贔屓めの見解に思えるが、かなり重大なことを言っているので引用した。ただ「ありきたり」の部分は誤解がないよう補足しておきたい。
「小右記」(伏見宮本のリストでは「野府記」)は原本はなく、最も古い写本が、鎌倉時代の書写で、前田家本(三条西家旧蔵本)37巻と書陵部にある伏見宮旧蔵本33巻、九条家本12巻ということである。古典の世界では古い写本の価値が高いのである。
「小右記」の写本は、内閣文庫、国立民俗博物館、静嘉堂文庫、京大、学習院、関西大学などあっちこっちに数多くあるが、いずれも江戸時代の書写である。東山御文庫の「小右記」64冊も江戸時代の書写であるが、これは後西天皇が、三条西家本と、伏見宮本系の写本である勧修寺家本を底本として校合して書写し、「小右記」の諸本に詳本と略本があるのを見極め、良質の写本を作り上げており、丁寧な仕事をしているから、「ありきたり」の写本というわけにはいかないように思え、この点は公正な評価として強調したい。
第6項 絵巻物について
伏見宮の絵巻物コレクションの消長や、貞成親王と絵巻物等とのかかわりについては、近年高岸輝の業績があるので若干引用しておきたい [高岸輝, 2017] [高岸 輝, 2020]。
伏見宮ゆかりの絵画では、高階隆兼「名筆」の宝庫といわれる萩原殿コレクションがある。これは嫡流でなく、花園院-萩原宮直仁親王からの伝来で、鳴滝殿方丈(直仁親王王女)、智観(治仁王王女)を経て、一部が貞成親王に吸収された。
後花園天皇と貞成親王は、しばしば絵巻の賃借が行われ、足利義教が加わり、絵画愛好サロンを形成していた。嘉吉年間以降の貞成親王の新作は、親王の嗜好を基調とした「数奇」の世界だった。
太上天皇拝受の後の制作としては文安5年(1448)土佐広周筆の「天稚彦草紙絵巻」(ベルリン国立アジア美術館蔵)、下巻は七夕伝説の絵巻として現存する最古のもので、詞書は後花園宸筆、法皇が奥書を記した。後花園の注文だが法皇がかかわっている。
文安6年(1449)の「放屁合戦絵巻」(サントリー美術館蔵)は後崇光法皇が平安末期の原本を気に入って転写させたもの。
第5節 後崇光院は本格的な太上天皇だった
永享7年(1435)8月足利義教は、一条東洞院後小松院仙洞御所を破却し、その東隣に移築して道欽入道親王(伏見宮貞成親王)の御所が造営され、同年12月親王は伏見より洛中御所に移徙された [高橋康夫, 1983]。永享8年には後小松院御所跡地も伏見宮領となる。後小松院仙洞御所は、応永23年(1416)7月焼亡し、諸国守護に一万疋を拠出させて再建されているので、院御所にふさわしい建築だったに違いない [秦野裕介, 2020]。後小松院御遺詔は足利義教により事実上反故にされた。
嘉吉3年(1443)禁闕の変で土御門東洞院内裏が焼亡、再建されるまで伏見殿御所は後花園天皇の仮御所となり、親王は、土御門高倉の転宝輪三条実量邸に移徙された。
文安2年(1445)3月伏見宮第二王子は関白二条持基を加冠役として元服し、6月に親王宣下を受けた。貞常親王である。時に21歳、文安3年3月任式部卿、文安4年3月二品に叙せられたのは厚遇といえる。同年8月に家領を譲られて第4代伏見宮当主となった。
父貞成王は応永31年、後深草院以来の皇統文庫のなかでも重宝の寛平・延喜二代御記を後小松上皇に進献し歓心を買い、応永32年父栄仁親王と皇位継承を争った後円融院33回忌の写経供養に参加したことで、54歳でやっと親王宣下を受けたのであるが、この後、伏見宮家は第5代邦高親王が19歳(元服加冠役は准后前左大臣足利義政)、第6代貞敦親王は17歳で順調に親王宣下を受けている。)
文安4年(1447)伏見宮貞成親王は後小松崩後13年も待たされたとはいえ熱望していた太上天皇尊号拝受が実現した(非登極皇族としては当時の認識では三例め)。
なお、ウィキペディアでは横井清説に拠って親王は太上天皇尊号宣下を辞退したと書かれている。文安5年(1448)2月22日尊号辞退の報書を提出したのは事実だが、近年では尊号宣下は拝受するのが前提で、形式的に辞退するのが慣例で、内実は尊号の拝受だったとする説により明確に否定されている。。
[久水俊和, 『中世天皇家の作法と律令制の残像』, 2020] [田村航, 「伏見宮貞成親王の尊号宣下後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」, 2018]によるとそれは以下の史実による。
〇院庁は開庁された。執事(別当)は権大納言三条西公保、、年預に庭田政賢。
〇布衣始(ほうしはじめ)が行われた。これは、天皇の冠姿装束から上皇の烏帽子狩衣姿に移行する儀礼で、いわば天皇退位儀礼なので、非登極で法体だった後崇光院には必要なかったが、変則的な形で強行された。 [近藤好和, 2019]
〇元日の「院拝礼事」が毎年行われた、関白一条兼良、五摂家の近衛教基以下、公家衆より拝賀を受けた。また正月十日の将軍足利義政の院参も恒例行事として行われた。
〇宝徳2年の仙洞歌合と、享徳2年の和歌御会始において上皇たることを示した
〇伏見御所の公事は御所の室礼と扈従公卿の行粧が整えられ、後崇光は繧繝畳に着座し、晴儀で執行され、親王時代と比較して院中の威儀が大いに正された。
後花園天皇は尊号宣下の時点で29歳で天皇親政、すでに嘉吉の変や、禁闕の変といった危機をくぐり抜けており、先例の後高倉院のように、後堀河天皇が10歳であったため院政をしいた状況とは異なるが、後崇光院は正真正銘の太上天皇であり、例えば大覚寺殿と称された後亀山院は、院庁が開庁されたという史料がなく、名目的な事例といえるかもしれないが、後崇光院は礼式と作法において本格的な太上天皇であった。このことは伏見宮の威信を高めた。
久水俊和は太上天皇尊号宣下の意義について「‥尊号宣下は、崇光院流の正当かつ正統化への指向を含むものだったが、実態は‥‥伏見宮の礼式・作法の再興が帰結点である。‥‥後花園に崇光院流を継承することはできなかったが、崇光院流は少なくとも傍流ではなかったとの正当化には成功した‥‥」
伏見宮家が完全なる傍系化を免れ、別格の宮家となった理由とされている。
後崇光院太上天皇は、最晩年に一条東洞院伏見殿御所に還御されているので、同所を仙洞御所といってよいと思う。
第6節 伏見宮は近世以降の宮家と比較して格式が断然上
(第1章第6節第2項と重複)
第1項 中世の皇室領を家領とした由緒、しかも「永代」安堵の勅裁を得ているのは伏見宮だけ
第4代貞常親王は一条東洞院御所を相続し伏見殿御所とし、少なくとも第6代貞敦親王までは陣中の同所を居所としていたことは史料上確認されている(『二水記』 [高橋康夫, 1983])。旧仙洞御所を相続した宮家であるから格式は高い。
伏見宮家の家領は、播磨国衙領(後嵯峨院の御分国を後深草院が相続した由緒)、萩原宮遺領の室町院領(後高倉院由来の皇室領で伏見院が三方相論のうえ一部を獲得)江州山前荘、塩津荘、今西荘、若州松永荘など、熱田社領(後白河准母上西門院領由来)、伏見御領などである。室町院領については応永23年(1416)に後小松上皇より「永代」安堵の勅裁を得ている(『椿葉記』『看聞日記』 [白根陽子, 2018])。永享8年に足利義教の差配で、新たに「昆布干鮭公事」が伏見宮に付与された。蝦夷地産昆布等の専売権で、年収五百余貫で、宮家の収入の三分の一を占めるほど大きかった [秦野裕介, 2020]。
なお伏見宮には萩原宮遺領を相続した関係で花園院ゆかりの絵巻物も伝わっていた。嘉吉元年には伏見宮家の所領若州狭松永荘(小浜市)の新八幡宮に伝来した「彦火々出見尊絵巻」「伴大納言絵巻」(国宝・出光美術館蔵)「吉備大臣入唐絵巻」(ボストン美術館蔵)を帝に進覧するため借出している(『看聞日記』) [高岸 輝, 2020]。
14~15世紀は限嗣単独相続の日本的家制度の成立期といえるが、天皇家も限嗣単独相続となり天正17年(1589)豊臣秀吉の奏請により知行地三千石を得た八条宮智仁親王(後陽成皇弟-後の桂宮)が親王家を創立するまで、天皇家から分出する宮家はなかった。秀吉は諸公家、諸門跡の中世の知行を収公し再給付することより、知行充行権を掌握した [山口和夫, 2017]。徳川幕府は全領主階級を統合し、知行充行権を掌握、公家も幕府より知行を付与される近世的領主となった。高松宮(後の有栖川宮)や閑院宮は幕府が与えられた知行により創立された。
伏見宮家も幕末期は表向き千二百石、実収は四百石程度の小領主にすぎず、中世のような格式は備えてない。しかし伏見宮というのは皇統上の格別の由緒があり、中世の皇室領を家領として「永代」安堵もされていたのであるから、秀吉や幕府が付与した知行により創立した近世の宮家とは断然違う格式といってよいのである。
長享元年(1487)閏11月伏見殿御所において宗祇の『伊勢物語』講釈があり、聴講者は伏見宮第5代式部卿邦高親王、常信法親王(勧修寺門跡)、道永法親王(仁和寺脇門跡)、慈運(竹内門跡)、禅僧宗山等貴(万松軒)、以上の四方は竹園連枝(伏見宮当主の実弟)、庭田雅行、今出川公興、三条西実隆、勧修寺経茂、海住山高清、姉小路基綱、綾小路俊量、園基富、田向重治、中院通世、冷泉永宣、五辻富仲.、綾小路有俊、宗巧(五条政仲)
なお一日だけだが、勝仁親王(のちの後柏原天皇)が聴講されている。
出席者の多くは伏見宮近臣と考えられる。今出川家は清華家で、伏見宮を後見していた。公興女が邦高孝親王妃。、三条西実隆は大臣家、父公保が、伏見宮貞成親王家の勅別当、後崇光院庁の執事。庭田、田向、綾小路は伏見宮家譜代の家司だった。後柏原、伏見宮貞常親王、邦高親王の御生母が庭田家で天皇家と共通する外戚である。
小規模とはいえ、廷臣を伺候させ、家礼を従えており摂関家と同じ権門だったのである。
第2節 応仁文明の乱以降戦国時代の伏見宮家のステイタスは高く、天皇家と非常に親密だった
後崇光院太上天皇は『椿葉記』で天皇家と伏見宮は「相構て水魚のことくおほしめして」と水魚の如く親睦し、将来永く疎隔あるまじきこととしていたが、実際その通りになったことはすごいとことだと思う。
主として東山時代以降、後土御門、後柏原の宮廷で催行された文芸・遊興的活動等における伏見宮が頻繁に召されているので、列挙する。
後土御門天皇が出御される遊興的な活動では、儲君たる勝仁親王(のちの後柏原天皇)、二宮、伏見宮家側では伏見宮第5代邦高親王(式部卿贈一品、後土御門猶子)のほか実弟の道長法親王も常信法親王もよく参内している。同じく実弟の禅僧就山永崇(聯輝軒)、宗山等貴(萬松軒)は将軍家猶子で将軍側近でもあったが、竹園連枝の立場で宮中に参仕しているケースが数多く、とくに宗山が社交的で、天皇の無聊を慰める格好の相手だったと考えられている [朝倉尚, 1990]。
後土御門天皇は伏見宮家で養育されたことなどから、崇光院流に親近感を持っていたと考えられている。また後花園と貞常親王の御生母敷政門院は庭田経有女であり、邦高親王御生母も庭田重有女、後柏原御生母も庭田長賢女(贈皇太后)で、庭田家が天皇家と伏見宮共通の外戚という結びつきもあった。伏見宮連枝はそろって和歌・連歌に堪能で文才があり、勝仁親王(後柏原)とも親密な交流があった。
〇連歌
後土御門は連句文芸を愛好され、禁裏において5種類の御会が33年間に約1500回、崩御の3日前まで連句文芸御会が張行されていた。 [小森崇弘, 2008]が、邦高親王が参加したのは2種類である。
文明10年(1478)以降の晴の月次連歌会では天皇が常に発句を詠んだ、座衆は、勝仁親王、伏見宮邦高親王、中・下級の公家10数名が恒常的メンバーで、勧修寺流の禁裏小番衆が多く召されている [廣木一人, 2001]。
『椿葉記』に「勧修寺故内府(経顕卿)、光厳院の寵臣にしてありし、其子孫当時中納言経成卿に至まて御心さしを存する人也」と勧修寺家は崇光院流に忠実と評価され、たぶんこの趣旨から勧修寺流が重視される一方、日野一門は極力排除された。
勝仁親王主催の月次連歌会では、天皇は恒常的に出御、伏見宮邦高親王も定期の連衆だった。勝仁親王に仕えた家司、内衆が参仕し、常信法親王や道永法親王のほか、延徳元年以降法中衆が多くなり禅僧の就山永崇、宗山等貴は頭役も務めた。
後柏原天皇の治世では連歌会は低調になったが、伏見宮は毎回参加している。曼珠院で永正18年(1521)4月10日催行の和漢連句の出詠者と出句数は以下の以下のとおり [稲田利穂, 1989]
後柏原天皇11、知仁親王(後奈良)7、伏見宮貞敦親王7、宗山等貴12、宗清(冷泉為広)10、甘露寺元長8、中御門宣秀6、東坊城和長9、冷泉永宣6、高辻章長7、中山康親6、万里小路秀房5、春湖壽信3、庭田重親3。
〇和歌
後土御門天皇の文明年間の点取和歌御会では、邦高親王、道永法親王、常信法親王、両山のほか覚胤入道親王(妙法院門跡)や堯胤法親王(梶井門跡)が詠進している。
長享3年(1489)3.5の庚申和歌御会は、皇族だけの内々の会で、天皇、勝仁親王、邦高親王、道永法親王、常信法親王、宗山が約60首を詠じている。
勝仁親王は和歌の稽古に熱心であり伏見宮第6代貞敦親王(後柏原猶子)と竹園連枝は鍛錬を目的した着到和歌に参加している。
後柏原天皇の「公宴御会」は限られた近臣だけが参会した。詠進は毎月なされるが、参集、披露する御会を年始だけとする持続可能な在り方とし、この行事は現在の皇室でも続いている。伏見宮邦高親王や貞敦親王が主要な出詠者であることはいうまでもない [森田大介, 2020] [山本啓介, 2013]。
〇遊興・遊戯等
後土御門の宮廷では多くの遊興、遊戯が開催された。正楽(雅楽)、申楽(謡、能、曲舞)茶(嗅茶、十種茶)香(香嗅、十種香)、弓(雀小弓、揚弓)、扇合、栗打、類句の校合、囲碁観戦など。講釈活動等も含め、多くの催しに伏見宮当主や連枝が参加している。
文明9年禁裏持仏堂で弁財天法楽月次を邦高親王主催で催し、勝仁親王もこれに加わった。
文明10年(1448)の御楽始は天皇の笙、勝仁親王の筝、伏見宮邦高親王の琵琶を筆頭に、22名の演奏で行われた [豊永聡美, 2020]。
禁裏での講釈、例えば文明12年10月の一条兼良の江家次第講釈、吉田兼倶の日本書紀講釈などを伏見宮が聴聞されている。
揚弓は7間半の距離の的を坐って射て勝負する。明応年間に宮中で大流行し、『御湯殿上日記』明応6年(1497)6.5によれば勝仁親王、二宮、伏見宮、伏見宮連枝が参加している。22名が11名ずつ別れ、天皇と勝仁親王のチームが勝、伏見宮のチームが負と記されている [朝倉尚, 1990]。
延徳元年(1489)6.4小御所で専門棋士の重阿弥と伊予法橋泰本の囲碁対局があり『実隆公記』によれば「簾中に於て叡覧(後土御門)有り。親王御方(勝仁)・伏見殿(邦高)・連輝軒・万松軒・予‥‥」が観戦したと記されている [増田忠彦, 2013]。囲碁観戦はこれ以外にも記録がある。
後柏原の宮廷では貝覆を女中衆と男衆で争ったが、『二水記』によれば永正14年(1510)5.8伏見宮貞敦親王、常信法親王、慈運、宗山が参加しているが男衆が負けてしまい、負態を負った [朝倉尚, 1990]。
後柏原天皇の観桜御宴は毎年恒例となっており、『実隆公記』によれば、永正4年(1507)2月26日召された方々は、中書王(伏見宮貞敦親王)が筆頭で、尼門跡の女性皇族が多く召されている。永正5年(1508)の観桜御宴には3月7日に中書王(貞敦親王)、10日に式部卿宮(邦高親王)が召されている。また同年 後柏原天皇は邦高親王を召し「毛詩」を講じさせている。
永正8年(1511) 3月29日の観桜御宴では申楽が催され、宮御方(のちの後奈良)と三宮が御出座された。『実隆公記』によれば召された方々は、中書王(伏見宮貞敦親王)、円満院宮(後土御門皇子)、仁和寺宮(後柏原二宮の覚道法親王)、大慈光院宮(後土御門皇女)、安善寺宮(後土御門皇女)、大慈院宮(後土御門皇女)、大聖寺新宮(後土御門皇女)、曇花院、三時知恩院御附弟、二位、三位禅尼等、以下公家衆で、三献中書王(伏見宮)御酌、七献天酌とある。
応仁文明の乱で、朝儀は退転、衰微し、16世紀中葉に皇室の年間収入は室町時代前期の十分の一に激減し、後柏原以降大嘗会も行われなくなったが、朝廷が沈滞したわけではない [酒井信彦, 2002]。
摂関家は次第に伺候しなくなり、朝廷の規模が小さくなった分、伏見宮とその連枝、禁裏小番の内々衆など近臣を参集した文芸、遊興的行事は頻繁に行われており、後土御門は実弟がいないこともあり伏見宮系皇族は宮廷文化の中心的位置にあったといえる。
『実隆公記』永正5年(1508)8.1条に八朔の進上品が記されている
禁裏(後柏原天皇) 硯・唐墨一廷 十帖
宮御方(皇子知仁のちの後奈良天皇) 金覆輪
伏見殿(邦高親王)金
室町殿(足利義尹)金
伏見殿と室町殿は進上品も同等で横並びの認識であり、伏見宮のステイタスは高かった。三条西実隆は邦高親王より権跡を下賜され、大永3年(1523)から5年にかけて伏見殿にて源氏物語を講釈するなど伏見殿に伺候することが多かった。
後奈良天皇と伏見宮第6代貞敦親王も親しかった。永正15年(1518)3.19知仁親王(のち後奈良)はお忍びで源氏物語ゆかりの石山寺に参詣、貞敦親王と竹内門跡が扈従している(『二水記』)。貞敦親王(入道宮)は天文19年(1550)の禁裏における伊勢神宮法楽千句和漢連句御会、天文22年閏正月2.22の禁裏における歓喜天法楽千句和漢連句御会に参会している(『言継卿記』)。いずれも貞敦親王、曼殊院宮と近臣のみの参集である。
新年の賀詞を述べるために書状を送ること習慣について、16世紀前半には天皇と宮家、門跡との間で賀状を交わす習慣が定着していた。書陵部にある伏見宮旧蔵文書に正親町天皇の返事が伝えられているが、年賀状は郵便制度以降に国民に一般に定着したものだが、伏見宮と天皇が賀状を交わしたことがその起源なのかもしれない。 [末柄豊, 2018]
後崇光院の著書、嫡流たる由緒を語った『椿葉記』があることは伏見宮御一流にとって大きなアドバンテージであるが、後崇光院のいう「水魚の如く」とは切り離せない関係のことだが、本当に500年、600年たっても親しい関係だったというのはすごいことである。今日でも菊栄親睦会があるとのことである。
サリカ法によりフランスの王位継承法は男系継承であるが、ブルボン朝のアンリ4世は、カペー朝のルイ9世の男系13世孫である、世界にもそのように説明して、皇籍に復帰すれば納得する。ここで旧宮家が復籍すれば『椿葉記』は伝説的名著となりうるである。600近く前のこの著作の由緒を重視すべきというのが私の意見である。
〇伏見御寺般舟三昧院
後土御門天皇は文明年間に伏見の指月の地に仏閣を建て「般舟三昧院」の勅額をかけた。伏見宮家の菩提所大光明寺の塔頭のあったところである。このことは後土御門が崇光院流を強く意識していたものと解釈されている。後花園の追善仏事が行われたことにより「御寺」となった。しかし豊臣秀吉は伏見築城のため、宇喜多秀家と豪姫の女を養女としたうえ伏見宮第10代貞清親王の側室とするなど工作したうえ、伏見を接収、このため般舟三昧院は京都西陣に移転したが、歴代天皇の位牌は明治維新以降泉涌寺に移されるまでは般舟三昧院にあった。現在も後花園、後土御門、後奈良の分骨所と後土御門御生母嘉楽門院、後奈良御生母豊楽門院の墓所があるが、寺は競売により現在は別の寺になっている [秦野裕介, YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」, 2020]。
文明14年(1482)後花園院13回忌の御懴法講では後土御門天皇の笙の御所作に、邦高親王が琵琶を合わせた [三島暁子, 2012]。
長享2年(1488)10月勝仁親王(後柏原)が般舟三昧院の参詣に、伏見宮邦高親王、就山永崇、宗山等貴が扈従 [朝倉尚, 1990]。
後土御門、後柏原、正親町の中陰仏事(四十九日)も伏見御寺般舟三昧院で行われた。後光厳院流系の「御寺」泉涌寺との追善仏事をめぐる主導権争いもみられたが、結局、泉涌寺をしのぐ地位を得られず崇光院流の巻き返しはならなかったとされている [久水俊和, 2020b]。
引用参考文献は2021/07/19意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その一)の文末
。
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