公務員に労働基本権付与絶対反対-政府は巨悪と手を結ぶな

無料ブログはココログ

ニュース(豪州・韓国等)

意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

Reference Sites

« 2021年7月 | トップページ | 2021年9月 »

2021年8月の3件の記事

2021/08/28

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議 を批判する その3

承前,動画作成用台本

 

 

有識者会議が検討している夫婦別姓の事実婚のような歪な構造の女性宮家は異常なものだ

 

 女性宮家というのは、英国のような女性当主でプリンスコンソートを迎えるイメージだと思っていた。ウィキペディアによれば、「女王の配偶者が共同国王として戴冠していない場合、その人物のことをプリンス・コンソート(prince consort 、日本語訳は「王配」)といい、王家の成員としてプリンスと見なすようになった。」

 しかし有識者会議が考えているのは、女性皇族を結婚後も皇室に残すととし、配偶者と所生子は当面皇族にせず、時期がきたら、男系でいくか、女系容認かを判断するという。なにか夫婦別姓の事実婚のような歪な構造であり、女性当主に添え物としての男性という非常におかしな制度にしようとしている。

 ここではプリンスコンソートのあるイギリスの模倣が妥当ではないということを述べる。有識者会議が検討しているのは、王配を皇族の成員とはしないで、成員にすることは時期がたったら判断するというものであり、英国の模倣ではないが、将来的には想定されていることなのでこの問題を論じる。

 

 アン女王-カンバーランド公

 

エリザベス2世―エジンバラ公

 

女王の配偶者が共同国王として戴冠していない場合、その人物のことをプリンス・コンソート(prince consort 、日本語訳は「王配」)といい、王家の成員としてプリンスと見なすようになった。」  ウィキペディア

 

 

 

〇もちろん英国王室のプリンスコンソート方式も強く反対する

 

 

 有識者会議のヒアリングで英国王室に詳しい君塚直隆関東学院大教授が、男女を問わず長子(初生子相続)、女系容認と主張されたというが、英国は2013年の王位継承法で長子相続による男子優先を撤廃している。

 しかし、そもそも14世紀の英仏百年戦争というのは王位継承戦争で、エドワード三世が、母方でカペー朝直系の血統を継いでいるので、男系だが傍系のヴァロア家のフィリップ6世よりフランス王にふさわしいと主張し宣戦布告し始まったものであり [福井憲彦, 2019]、英国王室というのは昔から、女系で王位継承の正当性ありという思想で戦争してきた国家なのである。

 令制の皇親が男系で一貫している日本の皇室とは根本的に違った思想なのである。

100

 

  イギリスの場合男系が途絶すると女系をたどって後継者を見つけてきた。例えばエリザベス一世の後はヘンリー七世の娘マーガレットの曾孫に当たるジャームス一世が即位し、スチュアート朝ですね。

 名誉革命でジェームス二世が追放された後は、娘のメアリー2世と夫君でオランダ人の女系でスチュアート朝の血を引いているウィリアム三世の共同統治とした。

 しかしウィリアム3世とメアリ2世に子供がないため、メアリー2世の妹アンが王位を継承する、配偶者がいてカンバーランド公のジョージであるが「女王の配偶者」(王配Prince Consort)及び海軍総司令官の地位を与えられたが、統治者としての君臨は行わなかった。

 Photo_20210828133801

 

 

日本の女帝はすべて不婚です。先帝皇后等の寡婦か生涯非婚内親王ですから、それとは違いますね。

 女性宮家の雛型がたぶんこれだと思いますね。これは我国とは異質のものです。

 エリザベス2世と、今年薨ぜられたエジンバラ公も共同統治者ではないわけです。その前例ではないかと思います。

 1701年王位継承法とは、アン女王の異母弟カトリック教徒のジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート、ジェームズ老僭王といいますが、この方の王位継承を排除するため英国議会が制定した。

 国王は女系であれスチュアート朝の血を引いており英国国教会会信徒のみとされ、この制定法は王位継承者を、ジェームズ1世の外孫にあたるゾフィー(父はジェームズ1世女エリザベスと結婚したプファルツ選帝侯兼ボヘミア王のフリードリヒ5世)の子孫に限定するものだったため、ゾフィー母とするブラウンシュバイク・リューネブルク選帝のゲオルグ・ルートヴィッヒがジョージ1世としてイギリス王となった。

 つまりスチュワート朝の男系ではなく女系をとったのでハノーヴァー朝となったのである。

 英語が喋れない国王といわれますが、日本ではそのようなことはありえないことはいうまでもないです。

 

 イギリスの場合でも男系が途絶すれば姓が変わるから、プランタジネット朝、チューダー朝、スチュアート朝というように王朝名が変わるが、我が国は英国王室とは原理原則が異なるのであって、英国王室など初生子相続にしている外国に合わせよなどという意見は棄却されるべき。

 ところで、イギリス王室の例から、女系容認でないと続かないというような意見は間違いです。

 フランス王権はユーグ・カペーの989年の即位から、男系継承で、復古王のブルボン朝最後のフランス王シャルル10世(在位1824~30)まで一貫している。七月王政のルイ・フィリップ(在位1830~48)もオルレアン家という傍系だが、カペーの系譜につながっている [福井憲彦, 2019]。

 フランス王権は単婚婚姻非解消主義の文化圏でありながら、男系継承でもざっと千年、王位継承者が枯渇することはなかったのである。

 

 フランス 男系継承を法定 明文化

 1374年シャルル5世

 ヴァンセンヌ勅令 

 

サリカ法典

「ただ土地に関しては、いかなる相続財産も女に帰属するべきではなく、全ての土地は兄弟たる男なる性に帰属すべし」

 

 カペー朝は直系男子に恵まれ、15代341年続き、カペー朝の奇跡といわれる。続くヴァロア朝は傍系の男系男子で、1374年シャルル5世のヴァンセンヌ勅令で男系継承の王位継承法を成文化した。これはゲルマン部族法典のサリカ法典で「ただ土地に関しては、いかなる相続財産も女に帰属するべきではなく、全ての土地は兄弟たる男なる性に帰属すべし」を法源としている [佐藤賢一, 2014]。ヴァロア朝はアンリ3世で途絶したため、1589年に末流のブルボン公家の分家でヴァンドーム伯家(後に公家)のアンリ4世が即位したが、十代遡ってカペー朝に繋がる傍系である。当時の人々はヴァロア朝が絶えた時は、ブルボン公家が王位に就くときちんと認識していたため混乱することはなかった。

Photo_20210828133601

 ヨーロッパ大陸では、サリカ法の影響が大きく、フランス、神聖ローマ帝国、ドイツ領邦など男系であった。1979年にスウェーデン、1990年にノルウェー、1991年ベルギーなど性別にかかわらず長子相続制をとるようになった。近年ではルクセンブルグは2010年[山田敏之. (2017)]、2013年に英国がそうなった‹。欧州では男系男子長子相続(サリカ法典)を墨守しているのはリヒテンシュタインしかないといわれます。

〇女子差別撤廃条約に条文の解釈は締約国にゆだねられ、杓子定規に解釈する必要なし

 

 ルクセンブルグは女子差別撤廃条約との関連で、王位継承法を変更したという。 女系推進派は、これがトレンドだといいます しかし女子差別撤廃条約(アメリカ合衆国が批准していないので、これが国際的スタンダードな考え方とはいえない)は人権条約の実施措置としてはもっとも緩い報告制度をとっている。締約国の義務は国連の女子差別撤廃委員会(CEDAW) に条約批准の一年後とその後は四年ごとに条約の実施のためにとった立法上、司法上、行政上のその他の措置の報告をするだけにすぎない。CEDAWの権限は弱く条約十八条で提案と一般的勧告をを行うことができるが条文の解釈は締約国に委ねられいるから[浅山郁(1985)]、勧告に強制力はないので問題にせずともよい。

 ただ女子差別撤廃条約の危険性は慣習法を否定する理念を持っていることです。慣習法で規律された公序良俗を否定したい政治勢力に利用されることです。

 

 私はジェンダー平等論はラムダ株より恐ろしい害毒、女子差別撤廃条約はアメリカ合衆国が未批准なので意味なしという考え方ですから、ルクセンブルグや英国のようなあり方に変更することに当然反対です。

 

 女子差別撤廃条約で法改正するなど論外というのは、文明の正統的な規範・思想から逸脱している。

 ジェンダー平等論はエンゲルス主義の発展バージョン

 

 

 

〇ルクセンブルグと英国に絶対追随するな

 有識者会議は女系容認の議論を棚あげするが、内親王を婚姻しても皇室に残し、既成事実として女性宮家を推進する可能性があり、非常によくない

 

 

 西洋文明的脈絡でいえば、文明世界の規範とは明確な性差別、神の宣告(創世記3章16節)による

 

 男性による女性の支配である。ここでは西洋文明的脈絡から述べます。すなわち神の宣告、神が女に下した罰「なんじは夫をしたい、彼はなんじを治めん」(創世記3:16)つまり男性による女性の支配をいう。神の宣告だから忽せにできない決定的な価値です。これが、文明世界の秩序、鉄則、社会的正義であります。この規範からの逸脱は文明から転落、反文明とみなさなければならない。

 またパウロが教えるように「男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」(第一コリント11:3)「男は神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきでない。女はまた男の光栄である。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだから」(第一コリント11:7~9)。「婦人たちは教会で黙っていなさい。婦人たちに語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」(第一コリント14:34)

 真正パウロの勧告であるコリント前書に忠実であるべき。男女平等とか同権とか、女子差別撤廃なんていうのは文明規範に対する叛逆です。秩序紊乱です。

 第二パウロ書簡では

「妻は自分の夫に対して主に対するように(従え)。キリストが教会の頭であるのと同様、男が女の頭なのだ。キリストはまた(教会という)身体の救済者でもあるけれども、教会がキリストに従うようにして、妻はあらゆることについて夫に従え」(エぺゾ書5章22-25節田川健三訳) 「女たちよ、男たちに従え。それが主にあってふさわしいことである。男たちよ、女たちを愛せ。そして女たちに対してきつく対応してはならない」(コロサイ書3章18-20節

 

 

神が女に下した罰

「なんじは夫をしたい、彼はなんじを治めん」

(創世記3:16)

 

 神の宣告を否定するウーマンリブ・ジェンダー平等論は、神に対する重大な反逆

 

 

 

 

 神の宣告(文明規範)の反逆思想

 SDGsも反逆思想

 

  

  

人間(男性)は神の像と似姿にしたがってつくられた。

女は男の補助者

ジェンダー平等論=不法

 

 

 秩序を紊乱させる恐るべき異端思想

 女性に説教を許すカタリ派にはアビショニア十字軍が差し向けられた

 

 

現代社会の何が問題か

世俗主義、世俗化が進行しすぎ、反聖書思想、反キリスト教思想の跋扈、キリスト教の左傾化

特にヨーロッパがひどい

非嫡出子の権利

ジェンダー平等

同性婚 LGBTQ

 

 

 

さらにアメリカでも

ウォークカルチャー

エンゲルス主義に呑みこまれるのかこの世界は

この流れをとめるのはリヴァイヴァルしかない

 

〇神の宣告は西洋文明の根幹的価値というべきだ 

 

 『グラ ティアヌス法令集』の冒頭の一節に「人類は二 つの法によって規律されている,すなわち,自 然法と慣習である。 自然法とは聖書および福音 書の中に含まれているものである」(坂本進2004)聖書=自然法なのである。

 私はクリスチャンではない。ただし親近感はある。宗教的な理由でなくてもバイブルなのである。聖書が西洋文明二千五百年の規範を提示した書物と理解している。

 

 『創世記』ヤハウェ資料において、女は男の補助者として創られたが、彼の誘惑者となり彼を破滅に導いた。神は女に次のように宣告した。「私はあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなおあなたの欲望はあなたの夫に向かい、彼はあなたを支配するであろう」〔『創世記』3・16〕。神自らが、妻に対する夫の権威を高めた。男性支配による社会的、法的、経済機構は神の認可にもとづく決定的な秩序なのであります。

 

 女王メアリー・チューダーに反対した

スコットランド宗教改革者ジョン・ノックス

 女王反対論は正論といえる

 

 

 カルヴァン派のスコットランド長老教会を誕生させたジョン・ノックス(1505-72)がジュネーブで1558年に匿名で刊行した『女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り』という著作ですが、これはイングランド女王メアリー・チューダーと、スコットランド摂政ギーズのメアリの統治に反対し、転覆する反乱のアジテーションという政治目的の文書ですが、宗教倫理的な事柄は古代教父を多く引用しており、翻訳が出版されているので一部を引用する。

 つまり女王メアリの統治を女性という理由で非難している。カルヴァン派の思想です。

 

 

 

〇ヨアンネス・クリュソストモス(聖人) コンスタンティノーブル司教 東方教会最大の説教師

 

 女に優先権を与えた男を叱って「男に悪しき助言を与える女をはねつけるのが男の役割である。男に有害な助言を与えた女の耳には、四六時中、エバに与えられた罪を聞かせてやらなければならない」又、神の宣告を引き合いに出し「‥‥あなたは神の許を離れ、あの悪しき動物と喜んで親しみ、その助言を受け入れようとしたゆえに、わたしはあなたを男に服させるのであり、あなたが男の支配を認めるようにと、わたしは明確に男をあなたの主に任じる。あなたは支配することはできないから。支配されることを学べ」又「たとえ男は堕落しているにせよ、男の上に立つ権威を女が奪い取ることは許されない」さらに「女性というものは短気で無鉄砲で、その貪欲さは地獄の底なし沼のよう、つまり飽くことを知らない」と教えております。

 

 ジョン・ノックス著 飯島啓二訳「女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り」『宗教改革著作集第十巻カルヴァンとその周辺Ⅱ』教文館 1993

 

〇聖アウグスティヌス

「女はキリストに服するように男に服さなければならない。‥‥肉が霊に服すように女は男に服さなければならない。現世の弱さと滅びのうちにある肉は霊にさからって欲望を燃やし求めるからであり、従って聖霊は女に対し肉が権威となりうるようなものを与えようとしない」

 

 ジョン・ノックス著 飯島啓二訳「女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り」『宗教改革著作集第十巻カルヴァンとその周辺Ⅱ』教文館 1993

 

 

〇聖アンブロジウスの教え ミラノ司教 『六日間天地創造説』

 

「エペソ人への手紙」に触れ「女は自然法により、男に服するように命じられている。なぜならば、男は女の作成者で創始者であるから。すなわちキリストが教会のかしらであるように、男は女のかしらである。教会はキリストに始原を持つのだから、教会はキリストに服する。同じように女は男に始源を持つのだから女は服従すべきである」と教えている。

 

ジョン・ノックス著 飯島啓二訳「女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り」『宗教改革著作集第十巻カルヴァンとその周辺Ⅱ』教文館 1993

 

 

 ノックスの引用はほかにもありますがここまでにします。超大物の引用ですから十分でしょう。

 次に宏学博才、普遍的博士と尊称された大アルベルトゥスの見解を見ておきます。

 

〇アルベルトゥス・マグヌス(1206-80、列聖1931)の見解『動物論』。

「女性は男性よりも道徳には向いていない‥‥女性は気まぐれで好奇心が強い。女が一人の男と交わっているとき、彼女はできれば別の男と寝たいと思っている。女というのは誠を知らない。‥‥。女性とは出来損ないの男性であり、男性に比べると欠点だらけの性質を持っている。だから内面は信用できない。自分で手の届かないものは、ごまかしや悪魔のような嘘で手に入れようとする。つまり短く言えば、毒蛇か角の生えた悪魔に用心するように、あなたはあらゆる女性に気をつけなければならない。.」

 ウタ・ランケ-ハイネマン著 高木昌史他訳 『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 178頁

 

 

 ただし12世紀秘跡神学は女性の地位を上昇させたのではないか、その意義は十分検討する必要がある。

 

 

 結婚の秘跡

 花婿キリストと花嫁教会 

   

    

  教皇アレクサンデル3世が法定

  中世最大の神学者

  ペトルス・ロンバルトゥスの理論 

  合意主義婚姻理論

婚姻は当事者の合意により容易で、家父長権と対立する理論

 

  自由主義の原型は秘跡神学とカノン法だった

 

 〇次に17世紀の価値観

 

 ミルトンの『失楽園』(4・297-301)

男は思索と勇気のために造られていた、

女は柔和さと美しく優雅な魅力のために。

男はただ神のために、女は男の内なる神のために。

男の美しく広い額と清らかな目は、絶対的支配を語っていた。

 

 滝沢正彦(1997)「『失楽園』の夫婦像-「人間」への成長としての原罪-」辻裕子,佐野弘子編 『神、男、そして女 : ミルトンの『失楽園』を読む 』 英宝社

 

 ミルトンは『闘士サムソン』1671年で次のようにいう。

「女性の精神的天稟は急いでつくられたため未完成のままであり、判断力は乏しく、能力は最善のものを理解し尊重するほど高くなく、又選択にあたってはしばしば悪いものを愛しないではいられないように低劣である‥‥」

「女が男のためにつくられたもので、そして男が女のためにつくられたものでないということを知らないものが誰があろう」

 『失楽園』1667年も男性が女性を支配しなければならないことを強調している 

 「‥‥彼等の性がちがうように、両人は対等でなかった。すなわち彼(アダム)は思索と勇気ある行為をするためにつくられており、彼女(イーヴ)はやさしさと甘美な魅力の美のためにつくられていた。彼は神のためにのみ、彼女は彼をとおして神のためにつくすようにつくられていた。」 

 「イーヴは、その人(アダム)にいともうるわしい様子で次のように答えた。「私の創造者であるかたよ、あなたがお命じになることには、私は絶対服従です。神様はそのように命じていられます。神様があなたのおきてで、あなたが神のおきてです。それ以上何も知らないのが女のもっとも幸福な知識であり、女の美徳なのです」[西島正1954]

 楽園追放は男が神に従わず女に従ったことによる。この教訓は至福千年の道徳的教訓というべきものであって決して棄て去ることのできないものである。

 17世紀プロテスタントは、男は頭、女は身体、神は男性による女性の支配を神聖な秩序として定め給うたと牧師は説教した[久留島京子1989]。万人祭司の理念とは、家庭も一つの小さな教会であり、家長たる夫が小さな教区の主教であるということ、市民社会は男性に求心力のある家庭があってこそ成立したというべきだ。

 

〇 18世紀の価値観

 

 18世紀中葉のブラックストーンの英法釈義では、「婚姻によって、夫と妻は法律上一人となる。すなわち、婦人の存在または法律上の存在そのものは、婚姻中、停止されるか、または少なくとも夫のそれに合体され、統合される。夫の翼、保護、そして庇護のもとに、彼女はあらゆることを行う‥‥covertbaronすなわちbaronまたは領主(lord)であるかの彼女の夫の保護と勢力のもとにあると言われる。そして婚姻中の妻の状態は、そのカバチュアとよばれる。」

 夫とは妻の領主です。

 

 ダニエル・デフォーは1724年「ロクサーナ」と言う作品でこう言っている。「結婚契約の本質そのものが、自由、財産、権威その他一切を男に委ねることにほかならない。結婚してしまえば、女は単なる女中にすぎない、つまり奴隷である。」 財をたくわえて独立の生活ができたのも結婚していない時だけ。娼婦や愛人のほうが自由な人間であった

 問題はアン女王です。18世紀の初期の女王ですが、夫のカンバーランド公ジョージは、共同統治者ではなくプリンスコンソート、添え物である。夫は妻の領主ではないわけです。

 こういう歪な夫婦をのありかたが正当化されたことは、適切ではなかったです。

 

 世俗主義、反聖書的世俗的ヒューマニズムがよくない理由は、キリスト教において自然法とは聖書に体現されているものです。男性は神の宣告も神の法であり自然法です。それがウォークカルチャーそれが否定される方向に向かっているからです。 この文明における道徳的価値を掘り崩してします。

 その行きつく先は、「宗教は阿片」だといった社会主義、全体主義です。

 

 神の宣告の反逆は罪と思えます。私は地獄に行きたくないので、神の宣告に忠実でありたい。アダムへの罰として,労働の苦しみと生涯を終えれば,「土に帰る」(創 3 : 17- 19)労働に励むのは当然、過労死しても恨むことはありません。。

 男性による女性の支配を放棄するイクメンのような行為は死んでもやりません。 

 神の像に似せてつくられたのは男性であるからであります。そもそも人権なんていうのは、男性が神の似姿としてつくられたという神学的フィクション以外の何物でもないのです。

 もちろん「人間の尊厳」などというのか不遜で、アダムの罪を意識していない表現でこの好ましくありませんが、仮に「人間の尊厳」を認めても、それは「男性の尊厳」であって、女性の人権とか、ジェンダー平等などという新奇な思想はものは文明規範から逸脱以外の何物でもない。

 正統思想ではないです。カタリ派は女性も聖職者となりえたため、異端とされアビショニア十字軍が差し向けられたのではないですか。カタリ派の弾圧といっても全然同情なんてしません異端ですから。

 現今の状況はは異端思想、反逆思想がのさばっている、まったく異常です。

 

我々はエンゲルス主義に屈服するわけにはいかない

 

 ジェンダー平等論とはマルクス主義フェミニズムの発展形、エンゲルス主義の変異株といってもよいだろう。

 エンゲルス主義は婚姻家族を解体させる志向

ジェンダー平等論 SDGsも同じなので社会主義思想と親和的。

 

 もちろん、私は夫婦別姓も反対ですが、ジェンダー平等論という反文明規範的思想に与して、女性当主の宮家を既成事実化することは反対であります。

 

 私は聖書を重んじます。聖人、古代教父の教え、著名な中世の神学者を重んじます。

文明の正統な価値観を継承していくべきだと思います。

ゆえにエンゲルスやSDGsのような怪しい思想に強く反対します。

 

 男性は神に従わず、女に従ったから、楽園を追放され、死がもたらされた。

 

ジェンダー平等論に男性が屈服するのはパラダイスロストの教訓を生かすことなく同じことを繰り返す、非常に愚かなことである

 

 ほぼ完結

 

 引用参考文献はシリーズ全体で前回のその2の末尾にあります。

2021/08/26

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議批判 その2

承前 動画作成用の台本

 

「女性宮家」は夫が世にある限り女性当主はありえない日本の家族慣行を否定する重大な文化破壊になる

 

 今日の女性宮家の議論は、不婚であること前提としておらず、英国王室のような女性当主、プリンスコンソート(王配)類似の新しい身位の創出を前提としていることが問題だ。

 しかし有識者会議は、摂政や国事行為臨時代行たりうる皇族数の確保を喫緊の課題として、女性皇族を皇室に残すが、配偶者と所生子は、当面は皇族とせず、女系を容認するか否かは先送りにして既成事実として進めていこうという案が検討されているとの報道がある

 

 プリンスコンソート類似の制度を創設せず女系容認の論議を先送りにすればハードルが低くなるという判断のようだが、しかし夫となる男性の身分、地位構成(ステータスシステム)が不確定で女性皇族の添え物扱い。夫婦別性の事実婚のような前例のない歪で醜悪な制度あり、非常に不自然なものといえる。

 

〇内親王・女王は婚姻関係にあるかぎり、后妃以上になれないという鉄則は踏まえなればならない

 

    皇統嫡系の内親王が入婿的に傍系の男性皇族と婚姻するケースはしばしばあるが、内親王は婚姻関係にある限り皇后以上にはなれない。つまり家附き娘的立場にある内親王であってもが結婚した場合、当主にはなりえない。

 

 皇族どうしの婚姻では、嫡系の親王であれ傍系の諸王であれ、即位するのは男性皇親、嫡系の内親王であれ、傍系の女王であれ女性皇親が皇后か妃と決まっている。

 ここでは、皇統嫡系でしかも、皇子がいない状況での内親王について、井上内親王、昌子内親王、欣子内親王について取り上げる。いずれも入婿的な婚姻で配偶者が天皇である。

 例えば聖武皇女井上内親王は嫡系の皇統だが、皇后であって、御配偶の傍系皇親である大納言白壁王(天智二世王)が光仁天皇。なお皇后井上内親王は光仁崩後、太后臨朝称制型の中継ぎの女帝として即位する可能性があり、宝亀2年(772)廃后事件[近江昌司, 1962] [榎村寛之, 2007]はそれを阻止するための謀略である蓋然性が高いとされる。

 

 重要なことは、井上内親王は聖武皇女で嫡系皇統(草壁皇統)であり斎王でもあったが、天智二世孫白壁王と結婚した以上、皇后に冊立されても、「夫帝優先の原則」により配偶者の白壁王をさしおいて即位することはできないということである。

Photo_20210825215001 

 10世紀の朱雀皇女昌子内親王も嫡系の内親王といえるが、皇后であって、御配偶の憲仁親王が冷泉天皇。憲仁親王の元服当日、昌子内親王(13歳、満11歳)が入内した [河村政久史, 1973]

 このイトコどうしの結婚は天暦太后藤原穏子の既定方針による婚姻だが、冷泉天皇は奇行で知られ、わずか2年で譲位しているが、だからといって昌子内親王が即位するというジェンダー役割の代替はありえないのである。

4_20210825215601

 イトコどうしといえば、敬宮愛子内親王殿下と悠仁親王殿下が仮に結婚した場合は、令制の慣例にあてはめても、やはり「夫帝優先の原則により」敬宮愛子内親王殿下は皇后であり、悠仁親王殿下が天皇であることは自明である。そのために冷泉天皇の前例を示した。

 

 近世では後桃園天皇が後嗣なく早世し、遺児である皇女欣子内親王を皇后に立てることを前提として、傍系の閑院宮典仁親王息祐宮(光格天皇)が大統を継承しているが、嫡系の欣子内親王はあくまでも皇后。「夫帝優先の原則」により女帝はありえない。

 なお、江戸時代中期以降、昭和18年まで内親王が、伏見宮家に二方、閑院宮家に一方、竹田宮一方、北白川宮一方、朝香宮に一方、東久邇宮に二方嫁しているが、いずれも親王妃である。

 

Photo_20210827011201

 

 

 入婿的な傍系皇親が、添え物の配偶者となるなどということは絶対ありえない。女性宮家の女性皇族の当主の配偶者は皇位継承を想定していないしても、当主となりえない入婿というのが大問題で、皇室のみならず、庶民の家族慣行に反し受け入れがたいのである。

 

 我が国の庶民の家族慣行では入婿は次期家長として迎えられる。この慣習は、皇室でも欣子内親王の例などで皇室も同じことであった。

 皇室のありかたは影響が大きく、日本の家族慣行に反する次期家長になれない入婿という制度を創成することは、容認しがたい。

 

 

 人類学者の大御所清水昭俊氏(参考文献表参照)は厳密な定義で知られるが、「婿養子」という語を用いずたんに「婿」とする。なぜならば「嫁養子」という言葉がないので「婿」と「嫁」でよいということです。

 

 

 

• 日本の「家」の婚入配偶者の地位構成

 

 

• 婿とは次期家長である。

 

• 嫁とは主婦予定者である。

 

(家附き娘も嫁と同じ地位構成)

 

 次期家長(当主)でない婿、添え物的な婿というのは日本ではありえない。

 

 日本の家族慣行に著しく反しているので女性当主に強く反対である。

 

 ただし、寡婦が実子が年少である場合には、中継ぎ的に家長代行となることはありうるが、夫がこの世にいる限り女性当主はないというべきだろう。

 

 婚姻制度というのは性的役割分担があって成立しているものであり、家長、当主となれない入婿というものに価値はない。そのような男性の処遇は侮辱であり屈辱でありとても容認できない。

 

 夫婦別姓の事実婚のような変な制度をつくることは強く反対する。

 

 そのような女性宮家をつくるなら、持参金を2倍、3倍にして婚出する女性皇族を厚遇したり、いわゆる「皇女制度」のほうがはるかにましというべきである。

 

 

 日本の家族慣行については厳密な定義で定評のある人類学者の清水昭俊が1967年の出雲地方斐伊川下流の村落の調査にもとづき精緻な理論で「家」成員交替過程を明らかにした。

 

 家成員は、おのおの与えられた地位に伴う役割を分担するものとして家生活に参与する。家は集団として不定形ではなく、限られた数の地位が一定の秩序に配列されている。つまり家は、時間的に配列された夫婦の対の地位(前・現・次代の家長・主婦-下記参照)と排除予定者以外の地位を用意していない。

 

 日本では、入婿は次期家長として迎えられるのであって、実子であれ婿であれ男性が次期家長、嫁であれ家附き娘であれ主婦予定者である。

 

 家長と主婦というの定型のジェンダー役割である。それが日本の慣習ですよということです。

 

 

日本の「家」の成員の地位構成

 

 

 

〇前家長(おじっつぁんold man,grandfather)-前主婦(おばばoldwoman,grandmother)

 

〇家長(おっつぁんmale adult)-主婦(おばさんfamale adult

 

〇次期家長(わけぇしゅyoung fellow)-主婦予定者〈嫁(よめじょinMarrying young woman)

 

指称 門名+おじっつぁん

 

[清水昭俊1987 209]

 

 

 

 

〇日本の「家」とはこういうものスマートに理論化(清水昭俊説)

 

 

 

ア 家成員の資格

 

 家成員は実子、養子、婚入者3つの範疇と断言している。子供(実子・養子)と婚入者(嫁・婿)の2つの範疇と言い換えてもよい。[清水昭俊1973 62頁]

 

つまり、家成員の獲得とは、出生、家外からの婚入、養取である。

なお、清水は妻妾制の廃止された明治から昭和の「家」について論じており、近世においては密子・猶子というカテゴリーも認められるが、ここでは論外としたい。

 

 

 

イ〈家連続者〉と婚入配偶者

 

 清水が独自に定義している用語で、家長-主婦の地位構成で婚姻に先立って家の成員であった者を〈家連続者〉と定義する。つまり跡取息子、家付き娘等の範疇である。〈家連続者〉の配偶者、家外から婚入して来る者を、男なら婿、女ならという。婚姻は両性の個人の結合のみならず、家と個人の結合でもあり、この家を婚入者にとって婚家という。

 

 従って、この結合の終息は離婚ではなく、家との結合の断絶でありこれを不縁という。

 

 かくして、家連続者夫婦→子供の出生=次代家連続者獲得→(次代)家連続者夫婦という循環的な過程が繰り返されるのである[清水1973]

 

 

ウ 排除予定者

 

〈家連続者〉だけが、生涯、家の成員であり、その余の子供たちは婚姻より前に生家から離れなければならないの  で、これを排除予定者と定義する。

 家からの排除は、婚出、養出、分家設立3つの形態のみである[清水1973]

 

 エ 仏体系

 人は死亡時に所属した家の仏になる。仏には世代仏子仏2種類がある。世代仏(セダイホトケ)とは、清水が出雲の調査で発見した概念だが、日本の「家」の標準的な仏体系とみなしてよいと思う。

 

 これは、歴代の家長・主婦達であり、永久に年忌が営まれる。生前結婚し、家長・主婦に予定されながら、家長・主婦になる前に死亡した者、男の家連続者(家長予定者)が、結婚年齢に達しながら未婚で死亡した場合を含む。ただし婿、嫁で不縁とされた者、中継ぎとして分家した夫婦、女の家連続者については夫が世代仏にならない限り、世代仏とはならない]。一系列に配列された歴代の世代仏は、生きている家成員と、家の創始者(先祖)を結びつける媒体である[清水1987 208頁

 

 

オ 家成員獲得過程を規制する規則群

 

 

清水の学者としての能力の高さは、この精緻な規則群の提示によって明らかである

 

(A)最下世代を基点とした家成員を基点とした家成員獲得過程を規制する規則群

 

指定される〈家連続者〉とは

下の世代が上の世代に優先する

)上記の枠内で男子が女子に優先する。

)上記の枠内で年長者が年少者に優先する。

 つまり第一に最下世代夫婦の長男子、第二に長女子、第三に最下世代夫婦のうち家連続者の弟、第四に最年長姉妹である。

上記の可能性が不可能な場合は、家外から養子を求める。有力な家では血筋の中切れを嫌い分家から養子を求めるが、それは強制的な規則ではない。

 (B)最下世代夫婦に事故が生じた場合の対処を規制する規則群

)次代家連続者長男が結婚後間もなく死亡した場合

弟妹が家に残っていた場合、寡婦は生家に戻し、弟妹を家連続者に指定する。

残っていたのが弟であり、死亡した兄と年齢差がなければ、寡婦と弟の結婚(レビレート婚)が指定される。

弟妹も家に残って言いない場合は、婚入配偶者であった寡婦が、〈家連続者〉となり、あらたに婿を迎える。血筋としては〈中切れ〉になるがそれでも家は連続していく。

2)息子を残して最下世代夫婦の夫が死亡した場合

死者夫婦の息子を次の次の家連続者に指定したうえで、死者の弟ないし妹夫婦を〈中継ぎ〉として、息子が成人するまで家の運営を代理させる。息子の成人後、〈中継ぎ〉夫婦は分家を創設する[清水1987 211]

 

 (C)清水説(B)の補足 寡婦・寡夫の再婚による家の継承

 

清水説はフィールドワークに基づいて家の連続は、婚入者〈寡婦・寡夫〉を介しても実現されているという規則を提示した。婚入者〈寡婦・寡夫〉は家連続者としてあらたに配偶者を迎えることにより家は連続する。

 

〈家連続者〉は「婚入配偶者を迎えて家成員を増殖させるために、家がその内部に用意する家成員」と定義されるため、婚入配偶者たる嫁・婿は家成員であることを見事なロジックで立証している。

 ちなみに近世における女の道の教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていたという指摘があるが(柴桂子「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」江戸期おんな考14 2003年)、出嫁女の婚家帰属性については我が国も漢土法も近世朝鮮・韓国も同じことである。
 この点については東洋法制史の滋賀秀三(『中国家族法原理』創文社1967 459頁以下註16)によると女性は父の宗との帰属関係を有さない。父を祭る資格を有さないのである。女性は婚姻によってはじめて宗への帰属関係を取得する。夫婦一体の原則にもとづき、夫の宗の宗廟に事える義務を有し、死後、夫婦同一の墳墓に合葬され、考妣対照の二牌つまり夫婦で一組の位牌がつくられ、妻は夫と並んで夫の子孫の祭を享けるが、女性は実家において祭られる資格を有さず、未婚の女の屍は家墳に埋葬されず他所に埋める。つまり女性は生まれながらにして他宗に帰すべく、かつそれによってのみ人生の完結を見るべく定められた存在であった。白虎通に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」。「婚礼の挙行によって女性は確定的に夫宗〔夫の宗族〕の秩序に組み込まれる」。漢族は妻は夫の宗族に帰属する。韓国の門中も同じことである。

  比較文化的にいうと、日本と中国では入婿の扱いが違う・女家に婿入りする贅婿の「贅」の字には「余計なもの」「無駄なもの」という意味があり、「質」の意味があり質にとられた婿という意味もある[牧野巽(1985・初出1935

 

 20世紀前半期の北支、中支の民族学調査で、実は中国は完全な父系社会でなく、我が国とおなじく準父系である。後嗣のない家では、娘と単に子孫をつくるための社会的地位のない配偶者(入)という存在があり、これは宗法に反するので軽蔑の対象となった。

 

 日本ではたんに家を断絶させないための入贅という男性にとって軽蔑の対象となる婿入りという慣習はない。入婿が次期家長であるからで、この規則性をなくして、皇室に家を断絶させないための入贅 という中国的な下位制度を認めるのは適切ではない。

 

女性宮家で日本の醇風美俗が失われる危機

 

 

 皇室と庶民の家とは性格が異なる面があるとはいえ、当主となりえなない入婿という我が国にはない男性を侮辱する制度を肯定することの国民に与える影響は大きく、家族規範を混乱させることとなる。それゆえ女性宮家は絶対的に反対なのである。

 

 

〇幕末の淑子内親王の桂宮相続は女性宮家の先例とはいえない

 

  幕末の淑子内親王の桂宮相続が女性宮家の先例という主張に反論しておくと、近世の世襲親王家は、他の公家と同じように、幕府より知行を充行された近世的領主で、事実上、公家領を安堵している幕府の麾下にあった。中世の伏見宮家の家領であった室町院領や播磨国衙領といった皇室領と由来のものとは違うのである。。

 

 秀吉は諸公家、諸門跡の中世の知行を収公し再給付することより、知行充行権を掌握し [山口和夫, 2017]、これが徳川幕府に引き継がれたからである。 

 

 近世では、皇位継承予定者以外の皇子は入寺得度して宮門跡(法親王)が通例だが、世襲親王家が空主となった場合は皇子が宮家を相続する。

 

 文化7年(1810)桂宮を相続した光格皇子盛仁親王は2歳で夭折し、天保7年(1836年)仁孝皇子節仁親王が桂宮を相続したが4歳で夭折、長期にわたって桂宮は空位だった。しかし家領の経営は諸大夫により続いており、皇子が誕生したときのポストとしてとっておかれた。

 

 そうしたところ文久2年(1862年)10月桂宮家に仕える諸大夫たちが仁考皇女敏宮淑子内親王の桂宮家相続を願い出、幕府も承認したため、非婚内親王の当主は異例だが、文久3年(1863年)淑子内親王は宮家を相続した [久保貴子, 2002]。幕府は道具料500石を進上、時に35歳で生涯独身、慶応2年(1866)准后、一品、明治14年(1881)薨去により宮家は断絶した。

 

続く

 

シリーズ全体の引用・参考文献

 

阿部泰郎. (2018). 「芸能王の系譜」『天皇の歴史10天皇と芸能』. 講談社学術文庫.

 

安田政彦. (1998). 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』. 吉川弘文館.

 

伊藤喜良. (1997). 『南北朝動乱と王権』. 東京堂出版.

 

位藤邦生. (1973). 「無力次第也 「看聞日記」に見る伏見宮貞成の生きかた (中世文学(特集)). 国文学攷(62).

 

井原今朝男. (1995). 『日本中世の国政と家政』. 校倉書房.

 

井原今朝男. (2014). 『室町廷臣論』. 塙書房.

 

井山温子. (1995). 「しりへの政』その権能の所在と展開」. 古代史研究(13.

 

井上光貞. (1985初出は1964). (上光貞著作集一『日本古代国家の研究』. 岩波書店.

 

井上亘. (1993). 「光明立后の史的意義をめぐって」. 学習院史学 (31).

 

稲田利穂. (1989). 「曹源寺蔵「永正18410日和漢聯句」--翻刻と解説」. 岡山大学教育学部研究集録 (80).

 

稲葉伸道. (2019). 『日本中世の王朝・幕府と寺社』. 吉川弘文館.

 

榎村寛之. (2007). 「元・斎王井上内親王廃后事件と八世紀王権の転成 」. 国立歴史民俗博物館研究報告( 134.

 

園部寿樹. (2015). 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五). 山形県立米沢治芳短期大学紀要 51.

 

遠藤みどり. (2015). 『日本古代の女帝と譲位』. 塙書房.

  

家永遵嗣. (2013). 「室町幕府と「武家伝奏」・禁裏小番」. 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 5.

 

家永遵嗣. (2016). 「光厳上皇の皇位継承戦略」 . 桃崎有一郎・山田邦和『室町政権の首府構想と京都』所収.

 

家永遵嗣水野圭士ほか. (2019). <資料解題>解説と翻刻 国立公文書館所蔵『初任大饗記』, 国立歴史民俗博物館所蔵『義満公任槐召仰議并大饗雑事記』」. 人文 (17).

 

河西秀哉. (2008). 「象徴天皇制・天皇像の定着 ミッチー・ブームの前提と歴史的意義」. 同時代史研究(1.

 

河村政久史. (1973). 「昌子内親王の入内と立后をめぐって」. 史叢(7.

 

角田文衛. (1985初出1966). 「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』. 法蔵館.

 

角田文衛(2003)『二条の后藤原高子 業平との恋』幻戯書房

 

岸俊男. (1957). 「光明立后の史的意義」. ヒストリア(20.

 

岸俊男. (1969). 『藤原仲麻呂』. 吉川弘文館.

 

岩佐美代子. (1997). 『宮廷に生きる』. 笠間書院.

 

吉川真司. (1998). 『律令官僚制の研究』. 塙書房.

 

吉田賢司. (2017). 『足利義持』. ミネルヴァ書房.

 

吉田孝. (2006). 『歴史のなかの天皇』 . 岩波新書.

 

吉田常吉. (1976). 『幕末政治論集』. 岩波書店.

 

久水俊和. (2011). 『室町時代の朝廷行事と公武関係』. 岩田書院.

 

久水俊和. (2020a). 『中世天皇家の作法と律令制の残像』. 八木書店.

 

久水俊和. (2020b). 『中世天皇葬礼史――許されなかった〝死〟』. 戎光祥出版.

 

久保貴子. (1998). 『近世の朝廷運営 - 朝幕関係の展開』. 岩田書院.

 

久保貴子. (2002). 「江戸時代-武家社会のはざまに生きた皇女」服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』. 小学館.

 

久保貴子(2009). 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち). 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2.

 

橋本義則. (1996). 『平安宮成立史の研究』. 塙書房.

 

橋本義彦. (1976). 「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』. 吉川弘文館.

 

近江昌司. (1962). 「井上皇后事件と魘魅について」. 天理大学学報(14.

 

近藤毅大. (1997). 「紫微中台と光明太后の『勅』」. ヒストリア(155.

 

近藤好和. (2019). 『天皇の装束』. 中央公論新社.

 

金井静香. (1999). 『中世公家領の研究』. 思文閣出版.

 

栗原弘(1990

「藤原内麿家族について」日本歴史 (511)

 

栗原弘. (2002). 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」. 名古屋文理大学紀要2.

 

栗山圭子. (2001). 「准母立后制にみる中世前期の王家」『日本史研究』465号. 日本史研究465.

 

古藤真平. (2018). 『日記で読む日本史3 宇多天皇の日記を読む』. 臨川書院.

 

五味文彦. (2006). 『中世社会史料論』. 校倉書房.

 

荒川玲子. (1986). 「比丘尼御所に於ける御所号勅賜の意義」 . 書陵部紀要(38.

 

荒木敏夫. (1999). 『可能性としての女帝} . 青木書店.

久留島京子(1989)「市民社会の成立と女性論-メアリー・アステル」『史學研究』185,

高岸輝. (2017). 「天皇と中世絵巻」高岸輝・黒田智『天皇の美術史3乱世の王権と美術戦略 室町戦国時代』. 吉川弘文館.

 

高岸輝. (2020). 『中世やまと絵史論』. 吉川弘文館.

 

高橋康夫. (1978). 「後小松院仙洞御所跡敷地における都市再開発の実態室町時代京都の都市再開発に関する考察」. 日本建築学会論文報告集(263.

 

高橋康夫. (1978). 「戦国期京都の町 組 「六 町 」 の地域構造」. 日本建築学会論文報告集274.

 

高橋康夫. (1983). 『京都中世都市史研究』. 思文閣出版.

 

高橋典幸. (2019). 「南北朝動乱期の社会」『中世史講義』. 筑摩書房.

江森五夫(1973)『講座家族3婚姻の成立』弘文堂四章三節社会主義婚姻思想の展開

今江広道. (1983). 「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収. 吉川弘文館.

 

今谷明. (2000). 『室町時代政治論』. 塙書房.

 

佐々木宗雄. (1994). 『日本王朝国家論』名著出版1994. 名著出版.

 

佐藤賢一. (2014). 『ヴァロア朝-フランス王朝史2. 講談社現代新書.

 

佐藤長門. (2009). 『日本王権の構造と展開』. 吉川弘文館.

 

佐藤長門. (2009). 日本古代王権の構造と展開. 吉川弘文館.

 

桜井栄治. (2009). 『室町人の精神』. 講談社学術文庫.

 

桜田真理絵. (2016). 「未婚の女帝と皇位継承元正・孝謙天皇をめぐって. 駿台史学156.

 

桜田真理絵. (2018). 「女帝「非婚」と「未婚」のあいだ -「不婚の女帝」論の再検討-. 文化継承学論集 (13).

 

三崎裕子. (1988). 「キサキ宮の存在形態について」 . 史論41.

 

三村晃功. (1995). 「「永正8年月次和歌御会」をめぐって--725日和歌御会を中心に」. 光華女子大学研究紀要 (33).

 

三島暁子. (2002). 「室町時代宮中御八構の開催と記録」. 武蔵文化論叢二.

 

三島暁子. (2003). 「南北朝、室町時代の追善儀礼に見る公武関係」. 武蔵文化論叢三.

 

三島暁子. (2012). 『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』. 思文閣出版.

 

三木太郎. (1953). 「椿葉記」より見たる持明院統分裂の原因長講堂領以下の所領を中心としてー」. 駒沢史学2.

 

山口和夫. (2017). 『近世日本政治史と朝廷』. 吉川弘文館.

山﨑雅稔(2001)承和の変と大宰大弐藤原衛4 条起請」歴史学研究』751号、(2001

山崎雅稔. (2012). 「藤原衛の境涯」. 帝京大学外国語外国文学論集(18).

山田敏之. (2017).「ヨーロッパ君主国における王位継承制度と王族の範囲―近

年まで又は現在、男系継承を原則とする国の事例―」レファレンス(802

山田敏之. (2018). 「旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と永世皇族制の確立」. レファレンス(808.

 

山本啓介. (2013). 「後柏原天皇時代の内裏和歌活動について 時代背景と形式」. 日本文学629.

 

篠川賢. (2013). 『飛鳥と古代国家』. 吉川弘文館.

 

酒井信彦. (2002). 戦国時代の朝廷 朝廷の「式微」は真実か. 日本及び日本人1643.

 

酒井茂幸. (2009). 『禁裏本歌書の蔵書史的研究』思文閣出版.

 

所功. (2012). 『日本の宮家と女性宮家』「皇室史上の宮家制度」. 新人物往来社.

 

小森崇弘. (2008). 「後土御門天皇の月次連句文芸御会と公家」. 立命館文學 (606).

 

小川剛生. (2005). 『二条良基研究』. 笠間書院.

 

小川剛生. (2009). 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』. 森話社.

 

小川剛生. (2017). 『中世和歌史の研究』. 塙書房.

 

小川剛生. (2020). 『徒然草をよみなおす』. ちくまブリマー新書.

 

小川剛生. (2020). 『二条良基 (人物叢書). 吉川弘文館.

 

小野則秋. (1944). 『日本文庫史研究 上巻』. 京都・大雅堂.

 

小林よしのり. (2010). 『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』. 小学館.

 

松永和浩. (2020). 「後光厳天皇-神器を欠き、都を逐れても」久水・石原變『室町・戦国天皇列伝』所収. 戎光祥出版.

 

松園斉. (1997). 『日記の家』. 吉川弘文館.

 

松薗斉. (2010). 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」. 人間文化 (25),.

 

松薗斉. (2014). 「戦国時代禁裏女房の基礎的研究 後土御門~後奈良天皇期の内裏女房一覧」. 愛知学院大学論叢 (44).

 

松薗斉. (2016). 「室町時代禁裏女房の基礎的研究  後花園天皇の時代を中心に」. 人間文化 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (31).

 

上村正裕. (2018). 「しりへの政と皇后: 八・九世紀を中心に」. 日本歴史 (844),.

 

植木朝子. (2009). 「『看聞日記』にみられる楽器」松岡心平編『看聞日記と中世文化』. 森話社.

 

新田一郎. (2001). 「継承の論理-南朝と北朝」『岩波講座 天皇と王権を考える 2統治と権力」」. 岩波書店.

 

新田一郎. (2011). 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著. 講談社.

 

森茂暁. (2017). 『室町幕府崩壊』. 角川文庫.

 

森暢平. (2014). 「昭和20年代における内親王の結婚: 「平民」性と「恋愛」の強調」. 成城文藝229.

 

森田大介. (2020). 「後柏原天皇-践祚二十年を経ての即位」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』. 戎光祥出版.

 

森茂暁. (2004). 『満済』. ミネルヴァ書房.

 

神谷正昌. (2020). 『清和天皇』. 吉川弘文館.

 

神田裕理. (2019). 『朝廷の戦国時代-武家と公家の駆け引き』. 吉川弘文館.

 

秦野祐介. (2020). 『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』. 東京堂出版.

 

秦野裕介. (2018). 常盤井宮恒興王への親王宣下. ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座, 11-04.

 

秦野裕介. (2020). 『乱世の天皇』. 東京堂出版.

 

秦野裕介. (2020). YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」. (ページ: 31以降). 日本史オンライン講座.

 

秦野裕介. (2020). YouTube中世の皇位継承16 後小松上皇 後光厳流の断絶と継承. 日本史オンライン講座.

 

秦野裕介. (2020). YouTube中世の皇位継承17 後小松上皇と後花園天皇. 日本史オンライン講座.

 

水間政憲. (2019). 『ひと目でわかる皇室の危機 ~天皇家を救う秘中の秘」. ビジネス社.

 

水野智之. (2005). 『室町時代公武関係の研究』. 吉川弘文館.

 

水野智之. (2014). 『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』. 吉川弘文館.

 

水野柳太郎. (2008). いわゆる光明立后の詔について. 奈良史学 (26).

 

成清弘和. (1999). 『日本古代の王位継承と親族』. 岩田書院.

 

清水昭俊. (1970). <>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>「「<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」. 民族學研究 35(3).

1973)「<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1),

清水昭俊. (1987). 『家・身体・社会 家族の社会人類学』. 弘文堂.

 

盛本昌広. (2008). 『贈答と宴会の中世』. 吉川弘文館.

西島正. 1954「ミルトンの女性觀」紀要 3

西嶋定生. (1999). 『倭国の出現 東アジア世界のなかの日本』 1999. 東京大学出版会.

西別府元日. (2002). 『律令国家の展開と地域支配』. 思文閣出版.

 

川上多助(1982)『平安朝史学』上 初版1930 昭和57年 国書刊行会

 

川崎晃. (2004). 「聖武天皇の出家・受戒をめぐる憶説」三田古代史研究会『政治と宗教の古代史』. 慶応義塾大学出版会.

 

川西正彦. (2006). 仁藤敦史『女帝の世紀』批判(1)~(4. http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/cat20259607/index.html.

 

浅見雅男. (20102018). 『大正天皇婚約解消事件』. 角川ソフィア文庫.

浅山郁(1985)「女子差別撤廃条約の報告制度と締約国からの報告 (女性そして男性) -- (外国における女性と法) 」『法学セミナー増刊 総合特集シリーズ 』日本評論社  (通号 30)

前田雅之. (2018). 『書物と権力 中世文化の政治学』. 吉川弘文館.

 

早川庄八. (1993). 『続日本紀(古典講読シリーズ)』. 岩波セミナーブックス.

 

相馬真理子. (1997). 「琵琶の時代から笙の時代へ--中世の天皇と音楽」. 書陵部紀要 (49).

 

増田忠彦. (2013). 「資料にみえる 碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち). 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 (15).

 

村井章介. (2005). 「易姓革命の思想と天皇制」『中世の国家と在地社会』. 校倉書房.

 

村井章介. (2005初出1997).  『中世の国家と在地社会』. 校倉書房.

 

村田正志. (1954初刊、1984). 『村田正志著作集第四巻證註椿葉記」. 思文閣出版.

 

村田正志. (1983(初出1944). 「後小松天皇の御遺詔」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』. 思文閣出版.

滝沢正彦(1997)「『失楽園』の夫婦像-「人間」への成長としての原罪-」辻裕子,佐野弘子編 『神、男、そして女 : ミルトンの『失楽園』を読む 』 英宝社

瀧浪貞子. (1991). 『日本古代宮廷社会の研究』「孝謙女帝の皇統意識」. 思文閣出版.

瀧浪貞子(2017)『藤原良房・基経』ミネルヴァ書房

谷口やすよ. (1978). 「漢代の皇后権」. 史学雑誌87(11.

 

谷口研語. (1994). [流浪の戦国貴族 近衛前久』. 中公新書.

 

谷田博文. (2019). 『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか』. 河出書房新社.

 

池和田有紀. (2020). 崇光天皇-北朝皇統分裂の始まり. 久水俊和・石原比伊呂編『室町・戦国天皇列伝』, 戎光祥出版.

 

竹島寛. (1982復刊、1936). 『王朝時代皇室史の研究』. 名著普及会1982復刊.

 

中込律子. (2005). 「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』. 清文堂出版.

 

中川八洋. (2018). 『徳仁新天皇陛下は最後の天皇』. ヒカルランド.

 

中川八洋. (2019). 「「旧皇族の復籍」妨害に全力疾走の赤い山羊八木秀次 ──“天皇制廃止狂の正体を厚化粧隠しする八木秀次の二枚舌話法. ブログ 中川八洋ゼミ講義.

 

中村みどり. (2002). 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」. 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編(1.

 

中村みどり. (2014). 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」. 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編 (13).

 

中村順昭. (2019). 『橘諸兄』. 吉川弘文館.

 

中林隆之. (1993 1994). 「律令制下の皇后宮職(上)(下). 新潟史学31 32.

 

仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎. (1995). 「わび茶と露地 (茶庭) の変遷に関する史的考察 その9: 禁中の茶とその茶庭」. 千葉大学園芸学部学術報告 (49).

 

猪瀬千尋. (2018). 『中世王権の音楽と儀礼』. 笠間書院.

 

朝倉尚. (1990). 『就山永崇・宗山等貴』. 清文堂.

 

田村航. (2013). 『一条兼良の学問と室町文化』. 便誠出版.

 

田村航. (2018). 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」. 史学雑誌 127(11).

 

田村航. (2020). 「後花園天皇-後光厳流か、崇光流か」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』. 戎光祥出版.

 

田島公. (1997). 「禁裏文庫の変遷と東山御文庫の蔵書」大山喬平教授退官『日本社会の史的構造 古代・中世』. 思文閣出版.

 

田島公. (2004). 「典籍の伝来と文庫 古代中世の天皇家ゆかりの文庫・宝蔵を中心に」石上英一『歴史と素材』所収. 吉川弘文館.

 

田島公. (2006). 「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』. 思文閣出版.

 

島薗進. (2019). 『神聖天皇のゆくえ』. 筑摩書房.

 

桃崎有一郎. (2020). 『室町の覇者足利義満-朝廷と幕府は以下に統一されたか』. 筑摩書房.

 

藤田寛. (2011). 『江戸時代の天皇』. 講談社学術文庫.

 

藤田高夫. (1990). 「前漢後半期の外戚と官僚機構」. 東洋史研究 , 48(4).

 

藤木邦彦. (1991). 『平安王朝の政治と制度』. 吉川弘文館.

 

波田永実 . (2017). 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」. 流経法學16(2).

 

梅村恵子. (2000). 「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』. 藤原書店.

 

白根陽子. (2018). 「伏見宮家領の形成」『女院領の中世的展開. 同成社.

 

飯倉晴武. (2000). 『地獄を二度もみた天皇 光厳院』. 吉川弘文館.

 

飯倉晴武. (2002). 『日本中世の政治と史料』. 吉川弘文館.

 

飯倉晴武. (2009). 「伏見宮本の変遷-書陵部での整理と書名決定-」. 禁裏・公家文庫研究第三輯.

 

坂本 進(2004)「キリスト教と自然法--統合に必要な政治倫理の基底をなすもの」社学研論集 (3),

 

武部敏夫. (1960). 「世襲親王家の継統について--伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」. 書陵部紀要12.

 

服藤早苗. (1991). 『家成立史の研究』 . 校倉書房.

 

福井憲彦. (2019). 『教養としてのフランス史の読み方』. PHP研究所.

 

文殊正子. (1986). 『内親王』号について 『公主』号との比較. 古代文化 38(10).

 

兵藤裕己. (2018). 『後醍醐天皇』. 岩波新書.

 

米田雄介. (1992). 『歴代天皇の記録』. 続群書類従完成会.

 

米田雄介. (2004). 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』. 塙書房.

 

保科季子. (2002). 「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』612. 東洋史研究612.

 

保田卓. (1997). 『日本における規範について その状況依存性の歴的考察(後編)). 教育・社会・文化研究紀要4.

 

保立道久. (1996). 『平安王朝』. 岩波新書.

 

豊永聡美. (2017). 『天皇の音楽 古代・中世の帝王学』. 吉川弘文館.

 

豊永聡美. (2020). 「後土御門天皇-心を砕いた朝議復興-」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』. 戎光祥出版.

 

北啓太. (2016). 「禁裏文庫と近衛家」田島公編『近衛家名宝からたどる宮廷文化史』. 笠間書院.

 

北條文彦. (2002). 「中世に於ける長講堂の供花の沿革について」. 駒沢史学 (58).

 

本田滝雄. (2007). 「公立学校施設の目的外使用不許可処分と司法審査」. ジュリスト1332.

 

末柄豊. (2011). 「伏見宮旧蔵文書二題」. 東京大学史料編纂所研究成果報告2011-3.

 

末柄豊. (2012). 「禁裏文書における室町幕府と朝廷」. ヒストリア(230.

 

末柄豊. (2012). 「十三絃道の御文書」のゆくえ」. 日本音楽史研究(8.

 

末柄豊. (2018). 『戦国時代の天皇』. 山川日本史リブレット.

 

木原弘美. (1995). 「 絵巻の往き来に見る室町時代の公家社会その構造と文化の形成過程について. 佛教大學大學院紀要 23 .

 

木本好信. (2004、初出2002). 『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう. .

牧野巽(1985・初出1935)「中国における家族制度」『牧野巽著作集第6巻』御茶の水書房

野村育代. (1992). 「王権の中の女性」峰岸純夫編『中世を考える家族と女性』吉川弘文館. 吉川弘文館.

 

野村玄. (2019). 「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題 明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響」. 大阪大学大学院文学研究科紀要(59.

 

龍野加代子. (1997). 「八条院領の伝領過程をめぐって」『法政史学』49号. 法政史学(49.

 

廣木一人. (2001). 「後土御門天皇家の月次連歌会」. 青山語文31.

 

 (追加・承和の変関連)

玉井力(1964)「承和の変について」歴史学研究286 

福井俊彦(1970)「承和の変についての考察」日本歴史260 (1970

遠藤慶太(2000)「『続日本紀』と承和の変」古代文化52

神谷正昌(2002)「承和の変と応天門の変」史学雑誌111111

佐藤長門(2012)「承和の変前後の春宮坊」『日本古代の王権と東アジア』吉川弘文館所収

仁藤智子(2016)「平安初期における后位の変質過程をめぐって 王権内の序列化と可視化」国士館人文学48

村上 史郎(1999)「九世紀における日本律令国家の対外意識と対外交通--新羅人来航者への対応をめぐって」史学 69(1)

奥村佳紀(1971)「新羅人の来般について」駒沢史学 (18)

 

 

 

 

 

 

2021/08/16

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議批判その1

動画作成用台本

 ユーチューブ動画の作り方の動画を何本か見たが教育系の「マナブ」が台本が必要という話をしたので、台本を作ることとした。

 

主張

 

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議は、男系維持か、女系許容かという議論を棚上げにしたうえ、皇族の数の確保が喫緊の課題という名目で、皇室制度を根本的に変革する「女性宮家」の創設を答申する可能性がある。

 

 配偶者を皇族としない方向性についても報道されているが、男性が当主となりえない入婿というのは、皇室の前例に反するだけでなく、日本の家族慣習にもないもので、歪な制度はやめるべきである。

 

 

 

理由  

 

〇令制では継嗣令王娶親王条で臣下が内親王を娶ることは違法である。反律令的行為である。本来、内親王は皇族と結婚すべき。適当な相手がいない場合は非婚が通例だった。

 

 皇室典範12条(内親王・女王が、天皇、皇族以外と結婚する場合皇族の身分を離れる)は、王娶親王条の趣旨を大筋で継受しており、皇室の千六百年の規範性は維持されてきた。12条の改変に反対である。

 

 

 

〇内親王は本来、皇室から皇室(広義の)に嫁ぐ、「内向き」なので「内親王」

 

 

 

〇女性宮家は、この令制内親王の根本的な性格を否定する。皇室のあり方を激変させるから反対である。

 

 

 

〇とはいえ、違法だが勅許によるケース等、皇女・内親王で臣下に降嫁した例は28例あるが、特定の時期10世紀・17世紀・戦後に集中しており例外的事例というべき。

 

 皇室典範で内親王の臣下への婚出が一応合法化されたのは中世前期の非婚皇后、非婚女院、中世後期~近世の尼門跡(御宮室)といった非婚内親王を処遇できるポストがなくなったためだろう。

 

 

 

〇非婚内親王と婚出する女性皇族はもっと厚遇されてよいと思うが、例えば持参金など。「女性宮家」はNG

 

非婚内親王に家政機関附置が限度である。

 

〇そもそも女系容認の英国王室を模倣する理由はない

 

〇家族慣習の破壊につながる

 

日本では入婿は家長予定者と決まっている。当主となれないプリンスコンソート創設は男性を侮辱するもので、歪な制度でありあってはならない。

 

 

 

内親王・女王の婚姻の問題について法制史的にみていきますが、そのまえに、令制の皇親制度について簡単に述べます。

 

 養老律令(天平宝字元年757施行)の継嗣令皇兄弟条「凡そ皇の兄弟、皇子をば、皆親王と為よ。〔女帝の子も亦同じ。〕以外は並に諸王と為よ。親王より五世は、王の名得たりと雖も、皇親の限りにあらず」 [『律令』, 1976]。

 

 その意味は天皇(女帝を含む)の皇兄弟(皇姉妹をふくむ)および天皇から数えて四世(皇子・皇孫・皇曾孫・皇玄孫)までの男女を皇親とし、そのうち皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とし、それ以外を諸王(王・女王)とし、五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れない。但し五・六世王は皇親と同じく不課の特典あり、七世王は揺が免じられ、皇親の特権特典は徐々にフェードアウトする制度設計になっていた [藤木邦彦, 1991]

 

 親王号、王号を称する皇親とは、父系で天皇に繋がる。父系帰属主義であることはいうまでもない。

 

継嗣令皇兄弟条

凡皇兄弟皇子 皆為親王〔女帝子亦同〕以外並為諸王 自親王五世雖得王名 不在皇親之

 

 

親王位は 概ね嵯峨朝より生得的身位ではなくなり親王宣下となる。皇親賜姓は奈良時代からありますが、院政期以降になると皇子は入寺得度して法親王になるケースが多くなり、これは幕末まで続きます。

 

 院政期から鎌倉時代は非婚内親王が格別厚遇されていた時期といえるかもしれません。皇后とは天子の嫡妻であるはずが、天皇准母(実質准母として意義のあったケースもある)としての非婚内親王の皇后が11例あります。

 

 また非婚内親王で女院宣下された例が後朱雀后後三条御生母陽成門院から、光格后欣子内親王まで41例(うち10例は非婚皇后)あります。

 

 なお、男性皇親については15世紀になると、天皇や上皇の猶子という親子関係の擬制により、実系で五世王以降であっても親王宣下が合法化しています。これは重要な事柄ですが、これは伏見宮の由緒のテーマで取り上げることとして、ここでは内親王や女王の婚姻の問題ですので省略します。

 

 皇女についていうと、南北朝時代から戦国時代までは内親王宣下がなくなりました。皇女は結婚することもなく、尼門跡(比丘尼御所、御宮室)に入るのが通例となります。江戸時代になると内親王宣下が復活しますが、尼門跡に入るケースがも多かった。

1_20210815213801

2_20210815213801

 

皇女一覧表で説明する

 

3_20210815213801

 

 そこで本題に入りますが、 律令国家では、継嗣令王娶親王条というのが、皇親女子の通婚関係を規定してます。

4_20210815213801

 ここに書いてあるのは諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることができるということです。

 

 従って内親王、二世~四世女王は(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)は臣下との婚姻は禁止ということです。

 

 我が国の内親王は皇親内婚のみ許された。律令が天皇の血縁女子の婚出を禁止したのは、皇族の血縁的尊貴性を隔絶的に保護維持するため。子は父系に帰属するため、皇子が臣下の女を娶っても所生の子は、皇族に列するが、皇女が臣下に嫁いだ場合は、臣下に皇族の血を引く子が生まれることを好ましくないという思想です。

 

 栗原弘は記紀が皇親女子と臣下との婚姻事例を伝えていない事実は重要であるとする。5 7世紀に天皇に血縁的に近い女子を婚出させないとしい規制は(鎌足-鏡女王)を除き一貫して堅守されていたとし、その慣例を成文化したのが王娶親王条である。

 

 つまり皇室においては令制前の5世紀頃より一貫した規範だとされる [栗原弘, 2002]、実証史学にもとづいて1600年の規範といえるのです。

 

 中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している [文殊正子, 1986] [中村みどり, 2002]

 

 内を向いた性格だから内親王なのであって。この趣旨から、内親王の配偶者は皇族に限定されるのが本来の在り方。

 

実際、王娶親王条は8世紀までは厳格に守られていた。

 

 

法制史的な堅い話になりますが重要なところなので、はしおらずに説明します。

 

 

 

令制では内親王の臣下への降嫁は違法

 

 

 

継嗣令王娶親王条

 

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 

 

継嗣令王娶親王条の意義

 

皇族の血縁的尊貴性を隔絶的に保護維持

栗原弘. (2002). 「皇親女子 と臣下の
婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」
. 名古屋文理大学紀要2.

 

 

 

「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している

 

文殊正子. (1986). 「『内親王』号について 『公主』号との比較」 古代文化 38(10)

 

 

 

 

記紀に皇親女子と臣下との婚姻事例が一例もない

 

 

 

『万葉集』には7世紀の藤原鎌足と鏡王女(系譜不明)

 

栗原弘. (2002). 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の
理解の た め に一」
. 名古屋文理大学紀要2

 

 

 

 

王娶親王条は8世紀までは厳格に守られていた

 

 

 

今江広道. (1983). 「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収. 吉川弘文館.

 

 

 

8世紀の違法婚 一例のみ

 

 

藤原久須麻呂

 

(太師藤原仲麻呂三男)

 

加豆良女王

 

(天武三世女王、淳仁即位で二世女王格上げ)

 

 

 

 

律令国家では、継嗣令王娶親王条というのが、皇親女子の通婚関係を規定してます。

 

 ここに書いてあるのは諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることができるということです。

 

 従って内親王、二世~四世女王は(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)は臣下との婚姻は禁止ということです。

 

 我が国の内親王は皇親内婚のみ許された。律令が天皇の血縁女子の婚出を禁止したのは、皇族の血縁的尊貴性を隔絶的に保護維持するため。子は父系に帰属するため、皇子が臣下の女を娶っても所生の子は、皇族に列するが、皇女が臣下に嫁いだ場合は、臣下に皇族の血を引く子が生まれることを好ましくないという思想です。

 

 栗原弘は記紀が皇親女子と臣下との婚姻事例を伝えていない事実は重要であるとする。5 7世紀に天皇に血縁的に近い女子を婚出させない規制は(鎌足-鏡女王)を除き一貫して堅守されていたとし、その慣例を成文化したのが王娶親王条である。

 

 令制以前に知られている臣下と皇族女子の婚姻は『万葉集』にある7世紀の藤原鎌足と鏡王女(系譜不明)があるが、これは例外で、8世紀においても臣下と皇族女子の婚姻例で明確に違法といえるのは加豆良女王(天武三世女王、淳仁即位で二世女王格上げ)と藤原久須麻呂(太師藤原仲麻呂三男)との結婚だけである。臣下が三世王という高貴な女性を妻にすることは、反律令的行為であるが天下の政柄を執っていた仲麻呂だからできたことである [今江広道, 1983]

 

Photo_20210815231401

   1_20210815231401     

2_20210815231501

Photo_20210815232001

 

 皇親内婚規則は『日本紀略』延暦12年(793)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」により大きく変質することになる [安田政彦, 1998] [米田雄介, 2004] [中村みどり, 2014]。

 見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて有力貴族との結婚が可能となった。皇族の血統的尊貴性の隔絶的に維持する継嗣令の主旨を大きく後退させた。9世紀以降の臣下と皇親女子や皇女の婚姻の主要な事例は次の表のとおりある。 [栗原弘, 2002]。

 

 

〇延暦12年(793)の皇親内婚規制緩和

 

 

 

『日本紀略』延暦12年(793)九月丙戌の詔

 

「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者

 

見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得る

 

12

 

Photo_20210815235001 Photo_20210815235002

 

  [中村みどり, 2014]によれば見任大臣とは、在任の大臣、良家の子孫とは、三位以上の家柄だという(それに准じた家柄を含む)。

 なぜ、延暦12年に女王降嫁を認める政策が打ち出されたのか。諸説あり、よく言われるのは桓武天皇御生母の和史乙継女新笠ですね。皇太夫人となった方ですが、高野朝臣というのは天皇から母への賜姓です。

 百済武寧王の子孫と称しているが、それは200年も前の話で、古い渡来系なのだろうが、系譜は不明。ということでそもそも桓武は御生母が卑姓氏族なので、女王降嫁に抵抗はなかった。皇親の血縁的隔絶的尊貴性の保持について厳格な姿勢を踏襲しなかったという説明です。

 藤原氏の殊遇については、桓武天皇が藤原式家の後見のもとに即位した恩賞である等の見解がある。

 光仁天皇を支えたのも宿奈麻呂(良継)ら藤原式家だったし、井上内親王廃后・他戸親王廃太子事件は藤原百川とその周辺による謀略である蓋然性の高い事件ですが、井上皇后を排斥しない限り、桓武の即位はなかったわけですから、その恩賞ということです。

 しかし、桓武朝の廟堂においては藤原氏は衰退し、神王が右大臣、壱志濃王が大納言に昇進し皇親政権樹立構想があったとされる。そうすると、令制の厳格な皇親内婚に規制しているあり方よりは、女王降嫁によって皇親が貴族と姻戚関係を強化したほうが得策と考えられたのかもしれない。

 

Photo_20210815235701

 

 

もっとも 延暦12年(793)詔で認めらたの藤原氏が二世女王を娶るケースは、桓武天皇の曽孫にあたる恒世親王女までなかった。

 

 

 

藤原良房と源潔姫の婚姻の意義

 

 

 

良房が嵯峨源氏と義兄弟となることにより嵯峨系門閥の主軸となる。

 

 

 

 

承和の変を契機として、源藤二氏を頂点とするヒエラルキーを形成する原点

 

 恒世親王女の結婚に先行して  天長6年(829)藤原良房と嵯峨皇女源潔姫の結婚がある。殊遇であり、史上初めて臣下が皇女を娶った例だが、内親王ではないためぎりぎり合法といえる。所生子は、清和御生母で太皇太后にまでのぼせられた藤原明子だけで、男子はなく、養嗣子の基経の実父は兄長良である。

 良房は嵯峨源氏と義兄弟となり嵯峨系門閥主軸となった意義が大きい。承和の変を契機として源藤二氏を頂点とするヒエラルキーが形成されていく原点となるものだといってよい。

 良房の父が冬嗣です。神野親王の春宮坊官で、嵯峨天皇の藩邸の旧臣(東宮時代から側近)、初代蔵人頭として有名。嵯峨朝で順調に昇進し台閣首班右大臣、淳和朝で左大臣。結果的に冬嗣の子孫が摂関家となったわけですし、良房はいわずと知れた人臣初の太政大臣、摂政です。やはり源潔姫との結婚は重要な意味があったというべきです。

 

Photo_20210816000901

藤原衛の官歴

 

弘仁7(816) 文章生試及第

弘仁13822) 従五位下

弘仁14823) 遠江守

        木工頭

        右少弁

        式部少輔

天長9832)  正五位下

天長10833  従四位下

承和元(834

              式部大輔兼伊予守

承和7 840) 従四位上 蔵人頭

承和9842) 大宰大弐

嘉祥3850) 弾正大弼

仁寿元(851)

   勘解由長官兼加賀守

天安元(857) 右京大夫

同年卒 最終官位

 右京大夫兼加賀守正四位下

 

〇藤原衛と恒世親王女の結婚

 

藤原氏への二世女王降嫁の初例は藤原衛への淳和二世女王恒世親王女の降嫁である。時期は、任式部大輔兼伊予守の承和初期と考えられています[山崎雅稔, 2012]。つまりこの婚姻の意義は

 

 

 

藤原衛の承和元年任式部大輔は参議昇進が見込めるポストで、将来恒貞親王を支える人材として期待しての、殊遇と想定

 

 

 

恒世親王の母は平城・嵯峨と同じく皇后藤原乙牟漏を生母とする高志内親王であり、これは異母兄妹婚の所生子であるから桓武天皇の純血種なのである。

 

 弘仁14年(823淳和天皇の皇太子に指名される。これは嵯峨が推したためである。高志内親王の贈皇太后は立太子を正当化するものであるが、恒世親王は、皇太子指名を辞退、嵯峨皇子の正良親王(仁明)が皇太子となった。恒世親王はこの3年後に薨去

 

 これは権力のバランスの問題である。嵯峨天皇は三大軍事官僚をすべて味方につけて、薬子の変で平城上皇を無力化したのだから実力は淳和より嵯峨が上である。

 

 しかし、仁明天皇は皇太子に淳和皇子の恒貞親王を立てます。恒貞親王は生母が皇后正子内親王で、仁明天皇の双子の妹で。つまり嵯峨の孫でもあり、仁明の甥でもある。

 

 両皇統が譲りあいのようなかたちになるわけです。この譲り合いは、儒教的な謙譲の美徳を表わした儀礼的なものとされてます。神谷正昌2002]

 

Photo_20210816001001

 

藤原衛は参議にも昇進してないので、著名な人物とはいえないが、政治史的には任大宰大弐時代に上奏した承和9四条起請(新羅は聖武朝以来旧例を用いず日本に苞苴を貢がないこと、交易に事寄せて国情を窺っていることを非難し、新羅人の一切の入国禁止することを求める)で知られている。[奥村佳紀1971][村上史郎1999][山﨑雅稔2001]。藤原衛の排外主義的な政策提言に対し、朝廷は、入境禁止のような厳しい政策をとらず交易を継続することとしたが、新羅人の帰化を認めない方針に転換した。よって、四条起請は対外政策転換の画期と評価されている。

 

 

 

 

承和9815

 

大宰大弐藤原朝臣衛

 

四条起請

 

 

 

新羅朝貢其来尚矣。

 

而起自聖武皇帝之代、

 

迄于聖朝不用旧例。

 

常懐姧心、苞苴不貢。寄事商賈、窺国消息。方今民窮食乏、若有不虞犮。望請。新羅国人、一切禁断、不入境内。

 

 

 

 

父が右大臣内麿、母が称徳朝の左大臣藤原永手女であるから藤原北家のなかでも貴種、内麿の妻としては百済永継や坂上宿祢苅田麻呂女などがいましたがこちらが嫡流といってもよい。もっとも当時は嫡妻との区別が明確でなかったともいわれる栗原弘(1990]

 

 貴種であるうえに、文章生試に及第して優秀で将来を嘱望された。

 

 良吏としての実績があり、淳和朝で式部少輔、恒世親王女降嫁は将来、仁明の皇太子、恒貞親王を支える人材として見込まれたがゆえの殊遇と考えられる。

 

 承和元年に式部大輔、式部省は人事官庁なので9世紀は要職だった。式部大輔は摂関期以降、儒学者で天皇の侍読を処遇するポストになったが、9世紀は違います。天皇の信任のある近臣があてられることが多い。

 

 恒世親王女との結婚はこの時期と考えられています。

 

承和7年に仁明天皇の蔵人頭、同年の淳和上皇崩御に際し装束司を務めた。9世紀においては、式部大輔、蔵人頭を歴任すると参議昇進が通例であるが、藤原衛は参議に昇進できなかった。

 

 これは、承和7年に淳和上皇崩御と、右大臣藤原三守の薨去(嵯峨の藩邸の旧臣、太皇太后橘嘉智子の姉を妻としていることから嵯峨のミウチといってもよいが、藤原南家としては50年ぶりの右大臣まで昇進した。淳和天皇の春宮大夫で、双方の近臣としてパイプ役でもあったと考えられる)で淳和近臣グループは後見者と重鎮を失ったことにより、嵯峨近臣グループとのバランスで不利に形勢に傾いていったためだろう。

 

 嵯峨上皇の崩御つまり承和の変の半年前、承和9年正月の任大宰大弐という人事が問題になる。これは、藤原衛が参議昇進コースから外されたという見方と、当時、新羅で反乱を起こした張宝高と文室宮田麻呂の密貿易が発覚し、不穏な情勢だった。それゆえ重要な任務であり、遠江守時代、新羅人の蜂起を鎮めたとされる実績のある藤原衛が起用されたという見方がある。

 

 蔵人頭から大宰大弐は前例があり嵯峨天皇の寵臣朝野鹿取である。朝野鹿取は、朝臣賜姓されているが、もとは卑姓氏族で、入唐経験があり、嵯峨天皇の皇太弟時代の侍読ですから藩邸の旧臣といえます。嵯峨朝で重用され、蔵人、中務大輔などの要職を歴任、弘仁末期に蔵人頭となったが、淳和朝の任大宰大弐は干された感がある。仁明朝になってから嵯峨上皇の意向により、参議に昇進し、民部卿などの要職も兼ねた。

 

 ただ朝野鹿取は卑姓氏族の出身で、毛並みの良い藤原衛とはちがう。

 

 それゆえ藤原衛の任大宰大弐は、干された感のある人事といえるのである。

 

 5年後に帰京、嘉祥3年に任弾正大弼、仁寿元年の任勘解由長官。これは国司の交替時の監察ですが、朝野鹿取のように参議にも昇進できなかったのです。広い意味での承和の変の政治的敗者といえるでしょう。

 

Photo_20210816001101

 

 

 承和の変は、承和97月嵯峨天皇崩御に際し、春宮坊帯刀舎人伴健岑と但馬権守橘逸勢が皇太子を奉じて東国に入り謀反を起こすことを画策し、誘われた阿保親王が告発したことに始まって、淳和皇子恒貞親王廃太子、春宮坊官60余名の処罰、仁明皇子道康親王(御生母は良房妹の順子)の立太子にいたったものである。

 

 歴史家は①伴健岑と橘逸勢が謀反を計画した。②太皇太后橘嘉智子と中納言藤原良房が共謀を企てた③良房一派が仕組んだ陰謀とおよそ3通りの解釈をしていて、[瀧浪貞子2017]は②説をとってますが真相は不確定といえます。

 

 

 

結果論を一口にいえば

 

 

藩邸の旧臣体制の

 

打破

 

 

福井俊彦(1970)「承和の変についての考察」日本歴史260

 

 

 つまり、承和の変とは、藩邸の旧臣体制から、淳和上皇派を一掃することより嵯峨系門閥を中心とする体制に変化したといえます。

 

 この公卿表ですがブルーが淳和上皇近臣グループ、オレンジが嵯峨上皇近臣グループです。筆頭公卿藤原緒嗣は淳和の外戚ということでブルーに色分けしますが、承和9年に69歳の御老体で病気がち政務にかかわらなくなった、これは当時の太政官符を見れば明らかことで、名目的な左大臣にすぎません。実質右大臣が台閣首班です。

 

 淳和派の大納言兼民部卿藤原愛発は免官、民部省は租税関係・地券関係の管轄ですから9世紀は重要ポストですよ。後釜は良房です。この人がやめてくれないと、良房は大臣にも氏長者にもなれませんから、標的になった感がありますね。

 

 淳和の忠臣藤原吉野と参議兼春宮大夫文室秋津は左遷、もう一人淳和近臣で三原春上がいますが、翌年辞職してますから、淳和上皇派は総崩れです。

 

 もっとも恒貞親王の東宮学士春澄善縄のように周防権守に左遷されたが翌年文章博士で呼び戻され、貞観期に参議に昇進したケースもあるわけですが、承和の変の意義を一口でいうなら淳和上皇派が一掃された事件で、藤原氏では藤原式家5名と、南家2名が処罰(左遷)されており、式家は凋落することになります。

 

 要するに、承和の変は藤原氏内部の暗闘に決着をつけたといえます。良房としては非常に都合のよい結末となりました。

 

 そんなことで、藤原衛は在京しておらず春宮坊とは無関係なので承和の変で処罰はされてませんが、淳和近臣ですから、嵯峨系門閥に嫌われて大宰府から都に戻っても参議になれませんでした。反主流派ゆえ干された。広い意味での政治的敗者です。

 

 ちょっと脱線しました。本題は、皇族女性の婚姻のありかたですが、延暦12年詔で合法化された二世女王降嫁の初例ということでくわしく取り上げました。要するに藤原衛は藤原氏のなかでも貴種ゆえの殊遇でしたが、承和の変により、二世女王を娶ったメリットはなくなったという話をしました。さすが淳和上皇が見込んだだけあって、歴史には名を残してますということを述べました。

 

〇藤原基経への二世女王降嫁

 

 次の事例が藤原基経への二世女王の降嫁である。御二方いて、操子女王と人康親王女(仁明二世王)である。操子女王は宇多女御醍醐養母て皇太夫人となった藤原温子と兼平の母だが、嵯峨二世女王説と、仁明二世女王説がある。この問題は詮索しないこととし、この系図は嵯峨二世女王説で書いてます。

 宮廷史的には人康親王女の降嫁に大きな意義を認めることができる。

 それは基経の嫡男時平と、その弟の仲平・忠平の元服叙爵です。三平兄弟は、いずれも人康親王女所生と考えられています。16歳の時平は光孝天皇の仁和二年(886)正月二日仁寿殿において「天皇手ずから冠をとって」元服儀礼が行われると同時に初叙叙爵がなされた [服藤早苗, 1991]。

 宸筆の位記には「名父の子、功臣の嫡」と叙位理由が記載され、天皇御自らの加冠は三平兄弟に限られ空前絶後であり、基経の権力の顕示したともいえるが、正妻で皇族である人康親王女を母としているゆえの殊遇ともいえる。

 しかも光孝天皇(一品式部卿時康親王)と人康親王は生母が仁明女御贈皇太后藤原沢子で同腹であり、時平の母が光孝天皇の姪であるから、近親なのである。

 藤原基経が陽成廃黜、光孝擁立を断行したのは、蔵人頭等の人事で基経と対立した皇太后藤原高子を政治から遠ざけるのが重要な目的だったといえ説[角田文衛(2003)]に同意し暴君説をとらないが、三平兄弟が時康親王(光孝)と近親だったということも理由の一つとしてよいだろう。

  この後、藤原忠平が宇多皇女源順子(猶子とみられる)を娶り実頼を儲け、文徳孫の源能有女を娶り、師輔、師氏を儲けているが、これは合法である。

 

Photo_20210816001102

 〇10 世紀における違法婚の出現

 

  

Photo_20210816004701 2_20210816004401

 

 

 藤原衛や藤原基経二世女王降嫁は延暦12年(793)の皇親内婚規制緩和により合法ですが、10世紀には違法婚が出現します。 

 

 違法だが勅許により合法ですが、継嗣令王娶親王条の原意には反しています。

 

 藤原師輔への勤子内親王・雅子内親王・康子内親王降嫁は明確に違法である。にもかかわらず村上天皇により勅許された。

 

 藤原師輔は摂関家中興の祖である。天慶2年(939)皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同3年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(のち村上天皇)の室に入れ(皇后に立てられ冷泉・円融御生母)、権勢の基礎を築き、同74月成明親王が朱雀天皇の立皇太弟で、師輔は東宮大夫に転じる。要するに師輔の殊遇は村上天皇にとって立坊の功労者であり、外戚でもあったという事情が背景にある [角田文衛, 1985初出1966]。

 

康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなさに(前が汚れている)」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『大鏡』『中外抄』) [保立道久, 1996] [中村みどり, 2002] などと伝えられており公然周知の醜聞だったという

右大臣藤原師輔に醍醐皇女の内親王三方の降嫁をはじめとして、違法だが勅許により臣下には降嫁した例を、女性宮家の雛形にはできない。

 内親王の配偶者の藤原師輔は冷泉・円融の外祖父であり、摂関家の中興の祖であるが、もちろん内親王三方の降嫁によって皇族になるなどということはない。

 右大臣藤原師輔に降嫁した康子内親王所生の太政大臣藤原公季は清華家の閑院流藤原氏の祖であるが、父系帰属主義なので皇族でありうるはずがなく、同じく師輔に降嫁した雅子内親王所生子が太政大臣藤原為光、右近衛少将藤原高光であるが、藤原氏であって皇族にはなりえない。

 ただ天皇と近親の貴種であるから、公季や為光は天皇の師範たる太政大臣になれたということである。

 女性宮家を認めると藤原師輔を皇族としたうえ、藤原公季も皇族することになり、摂関家も閑院流藤原氏も皇族になってしまい、日本史を否定することになる。

 

Morosuke3

 

 10世紀から11世紀の前半期にかけて(藤原師輔の醍醐皇女降嫁から藤原教通の三条皇女降嫁まで〕内親王降嫁の例が12例検出できる。しかし中世には内親王宣下されていない皇女の2例があるのみで、中世では皇族や天皇、上皇との結婚のほか、大多数の皇女が非婚であり、南北朝時代より戦国時代は、内親王宣下もなくなり、皇女は尼寺に入るのが通例となります。

 再び臣下への降嫁が出現するのは近世になります。17世紀に内親王が摂関家に嫁した例が9例ありますが、久保貴子(2009)がその理由を分析してますが、私が思うに端的にいえば、禁中並公家諸法度で、公家の序列を明確にして、儲君以外の親王より三公が座次上位となったので、摂関家の地位が上昇し、世襲親王親王家の位地が低下したことと関連があり、令制の原意では違法であっても、そのように認識することもなくなったとはいえます。しかし元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が、伏見宮邦永親王妃になって以来、内親王の嫁ぎ先が摂関家から世襲親王家に方針が転換してます。その理由は解明されていませんが、霊元上皇が近衛基熙を「親幕派」として嫌っていたので、摂関家と距離をおくようにしたのか、令制の原意に即したあり方に戻したともいえます。仁孝皇女の敏宮淑子内親王は閑院宮愛仁親王と婚約したが婚儀前に薨去したため非婚だった。和宮親子内親王は、有栖川宮熾仁親王と婚約していたが、政治的な事情で将軍家に嫁すこととなった。

 朝廷は幕末まで方針は変わっていません。

 しかも明治から昭和18年まで内親王5方の結婚はすべて皇族です。元禄11年以降(1698)、徳川時代に内親王は、伏見宮に二方、閑院宮に一方、天皇と御一方が結婚していますが、それ以外は特殊な例である和宮の一例を望いて非婚した。元禄11年(1698)つまり18世紀以降、昭和18年(1942)照宮成子内親王が東久邇宮盛厚王に嫁すまでまで、結婚した内親王10方のうち9方が天皇もしくは皇族だということです。 継嗣令王娶親王条の趣旨は大筋で維持されていたといってよいのです。

 室町時代以降の皇女・内親王の一覧表ですが、これは、ここに書いているとおり、小学館の服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』小学館 2002 皇女一覧表やウィキペディア等ネットから引いてますが、皇女のすべてではないです。明治天皇の皇女内親王は10方ですが、6方は夭折され、成人まで無事に成長された4方だけを記載してます。

 

 

全体的なことをいいますと6世紀の宣化天皇から幕末まで史料上検出される皇女が494方(夭折した方含む)あり、このうち天皇及び皇族と結婚した例が58方、臣下に降嫁した例24方(うち内親王は21方)である。明治以降の内親王を加えると、天皇及び皇族と結婚した例63方、臣下に降嫁した例28方となる。内親王の降嫁は令意に反するといえるが、95分以上大多数は合法的な皇族との結婚か、非婚だったのである。

 

 江戸時代については、13歳まで無事に成長した皇女50方のうち、結婚した皇女は14方もあり、ほとんど大多数非婚だった中世とは違う。(服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』小学館の2002参照)

 

内訳は皇后が1方、摂家9方、世襲親王家3方(伏見宮2方、閑院宮1方)、徳川家1方、生涯非婚は36方、内訳は尼門跡28方、女帝2方、女院1方、宮家相続1方などでり、特に在俗のままの非婚内親王で厚遇された方としては次の三方があげられる。

 

 第一に後光明皇女孝子内親王(一品、准后、女院宣下)は、後光明天皇の唯一の子で、後水尾院の意向で、生涯手許に留めて厚遇する方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領300石が与えられた。[久保貴子2009

 

 

 

第二に桜町皇女智子内親王(一品、後桜町女帝)である。寛延元年(1748)幕府から将軍世子家治との密々の縁組の申し入れがあったが、桜町天皇が拒否。桜町崩後に御領300石。なお女帝即位は、弟の桃園天皇の遺詔で、後桃園天皇が5歳だったため、10歳になるまで中継という趣旨である。[久保貴子2009

 

 第三に仁孝皇女淑子内親王(一品、准后)である、閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料300石を得たが、 11年後親王が薨去、御殿を持たず婚姻先も失い、住まいを転々としたが、長期にわたって空主が続いていた、桂宮の諸大夫たちが、仁孝皇女淑子内親王の桂宮相続を願い出て、幕府に承認され、、幕府は道具料500石を進上されている。[久保貴子2009

 

 在俗のまま厚遇される内親王は非婚であることが大前提ということです。

 

明治皇室典範

第四十四條皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ

 

 現皇室典範

第十二条皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる

 

 ところで明治22年の皇室典範44条と、現皇室典範の12条では、女性皇族は皇族以外との婚姻により皇族の身分を離れることになってます。

 これは、皇親内婚の継嗣令王娶親王条の趣旨にかなっている整合性があると考えます。皇族内婚が原則だから、皇族以外との結婚は身分を離れると。ただ令制の原意どおりにはいかない。延暦12年の詔により二世女王は藤原氏、三世女王以下は、現任大臣家や三位以上の家柄もしくはそれに准ずる良家に嫁すことを認めていることや、南北朝時代から江戸時代、皇女の大多数(光明皇女より光格皇女までおよそ70方)が尼寺に入寺された。高貴な身分ゆえ結婚できない存在となった。しかし尼門跡(比丘尼御所、御宮室)は決して待遇は悪くないです。寺領経営体の小領主であり、ただし幕末期に皇女が減って、空主となる門跡が相次ぎ荒廃していった。明治維新により皇族の出家が禁止され、皇女を処遇するポストが失われたこともあり、皇室典範では、臣下への婚出それ自体違法としないが、皇族の列から離れるものとしたと私は理解している。

 明文上、継嗣令王娶親王条のように、内親王と臣下の婚姻を違法とはしていません。しかし、実際は、先にもいいましたとおり、

 明治皇室典範のもとでは、婚期まで無事に成長した明治皇女4方、常宮昌子内親王・房子内親王・允子内親王・聡子内親王は、明治41年から竹田宮恒久王(明治41年)・北白川宮成久王(明治42年)・朝香宮鳩彦王(明治43年)・東久邇宮稔彦王(大正5年)に嫁し、昭和皇女1方照宮成子内親王は、東久邇宮盛厚王(昭和18年)に嫁しており、臣下に降嫁した例はない。内親王は皇族内婚の令制の主旨どおりである。皇室典範のもとで、臣下は令制といいますか、令制前から5世紀頃からの伝統ということは先にも申しましたが、内親王を娶るのは違法という趣旨を大筋で継受としているといえます。

 12条をそのように理解すると、伝統規範にかなっている皇室典範12条の改変は絶対あってはらならないと思います。

 

 多くの人は誤解しているのではないですか。戦後は内親王が民間に嫁ぐのが通例になった。これは全歴史を通じてきわめて異例なことなのである戦後の内親王は、女王もそうですが、すべて民間に降嫁していて、本来望ましい皇族との結婚がありません。明治以降戦前の内親王5方は皇族と結婚、これは筋がとおってます。戦後の内親王4方、婚約内定の内親王御一方を含めると5方、みな皇族以外です。むろん適齢の男性皇族がいなかったとも思いますが、しかし旧皇族は選択されていません。

 昭和20年代の、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の結婚においても、「平民」性が強調され、カップルの「仲睦まじさ」、「恋愛」感情が注目されていた。鷹司平通氏は旧華族、摂関家への降嫁は、17世紀以来のことだった。日本交通公社(交通博物館)に勤務され月給 6 千円、天皇の娘が「一平民サラリーマン」の妻となる出来事として受け止められた [森暢平, 2014]。皇室の民主化をアピールするうえで、若い内親王が「象徴天皇制が民衆に近づいたことを実感させる存在」だった [河西秀哉, 2008]

 一般国民に近い存在となることが通例となっているが、それは報道を通じて皇室の民主化という政策的意図があったのかもしれません。

 戦後の在り方は本来の在り方ではない。上流貴族の清華家ですら降嫁の前例がないのである。地下官人クラスに降嫁などありえない。我が国では中国王朝の「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有しているので [文殊正子, 1986] [中村みどり, 2002]、本来の意義をわきまえてないというべきです。

 内親王は内を向いた性格だということ。その意味で、皇族と結婚するか、非婚が原則で、民間に降嫁しても悪くはないが、それが原則ではないということは踏まておくならば、ましてや女性宮家などというものは論外だということです。

 内親王の遇し方について改善は必要かもしれません。結婚相手がたとえ旧華族だとしても必ずしも資産家とは限らない、一時金として推定約1億5000万円が支給されると報道されてますが、持参金としては少ないのでは。二倍、三倍あってよいとおもいます、そういう内親王の待遇改善は必要ですが、「内親王」の本来の意味を否定する女性宮家はNG。

 

 

つづく

 

一連の記事全体の引用参考文献表

 

阿部泰郎. (2018). 「芸能王の系譜」『天皇の歴史10天皇と芸能』. 講談社学術文庫.

 

安田政彦. (1998). 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』. 吉川弘文館.

 

伊藤喜良. (1997). 『南北朝動乱と王権』. 東京堂出版.

 

位藤邦生. (1973). 「無力次第也 「看聞日記」に見る伏見宮貞成の生きかた (中世文学(特集)). 国文学攷(62).

 

井原今朝男. (1995). 『日本中世の国政と家政』. 校倉書房.

 

井原今朝男. (2014). 『室町廷臣論』. 塙書房.

 

井山温子. (1995). 「しりへの政』その権能の所在と展開」. 古代史研究(13.

 

井上光貞. (1985初出は1964). (上光貞著作集一『日本古代国家の研究』. 岩波書店.

 

井上亘. (1993). 「光明立后の史的意義をめぐって」. 学習院史学 (31).

 

稲田利穂. (1989). 「曹源寺蔵「永正18410日和漢聯句」--翻刻と解説」. 岡山大学教育学部研究集録 (80).

 

稲葉伸道. (2019). 『日本中世の王朝・幕府と寺社』. 吉川弘文館.

 

榎村寛之. (2007). 「元・斎王井上内親王廃后事件と八世紀王権の転成 」. 国立歴史民俗博物館研究報告( 134.

 

園部寿樹. (2015). 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五). 山形県立米沢治芳短期大学紀要 51.

 

遠藤みどり. (2015). 『日本古代の女帝と譲位』. 塙書房.

 

.

 

家永遵嗣. (2013). 「室町幕府と「武家伝奏」・禁裏小番」. 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 5.

 

家永遵嗣. (2016). 「光厳上皇の皇位継承戦略」 . 桃崎有一郎・山田邦和『室町政権の首府構想と京都』所収.

 

家永遵嗣水野圭士ほか. (2019). <資料解題>解説と翻刻 国立公文書館所蔵『初任大饗記』, 国立歴史民俗博物館所蔵『義満公任槐召仰議并大饗雑事記』」. 人文 (17).

 

河西秀哉. (2008). 「象徴天皇制・天皇像の定着 ミッチー・ブームの前提と歴史的意義」. 同時代史研究(1.

 

河村政久史. (1973). 「昌子内親王の入内と立后をめぐって」. 史叢(7.

 

角田文衛. (1985初出1966). 「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』. 法蔵館.

 

角田文衛(2003)『二条の后藤原高子 業平との恋』幻戯書房

 

岸俊男. (1957). 「光明立后の史的意義」. ヒストリア(20.

 

岸俊男. (1969). 『藤原仲麻呂』. 吉川弘文館.

 

岩佐美代子. (1997). 『宮廷に生きる』. 笠間書院.

 

吉川真司. (1998). 『律令官僚制の研究』. 塙書房.

 

吉田賢司. (2017). 『足利義持』. ミネルヴァ書房.

 

吉田孝. (2006). 『歴史のなかの天皇』 . 岩波新書.

 

吉田常吉. (1976). 『幕末政治論集』. 岩波書店.

 

久水俊和. (2011). 『室町時代の朝廷行事と公武関係』. 岩田書院.

 

久水俊和. (2020a). 『中世天皇家の作法と律令制の残像』. 八木書店.

 

久水俊和. (2020b). 『中世天皇葬礼史――許されなかった〝死〟』. 戎光祥出版.

 

久保貴子. (1998). 『近世の朝廷運営 - 朝幕関係の展開』. 岩田書院.

 

久保貴子. (2002). 「江戸時代-武家社会のはざまに生きた皇女」服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』. 小学館.

 

久保貴子(2009). 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち). 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2.

 

橋本義則. (1996). 『平安宮成立史の研究』. 塙書房.

 

橋本義彦. (1976). 「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』. 吉川弘文館.

 

近江昌司. (1962). 「井上皇后事件と魘魅について」. 天理大学学報(14.

 

近藤毅大. (1997). 「紫微中台と光明太后の『勅』」. ヒストリア(155.

 

近藤好和. (2019). 『天皇の装束』. 中央公論新社.

 

金井静香. (1999). 『中世公家領の研究』. 思文閣出版.

 

栗原弘(1990

「藤原内麿家族について」日本歴史 (511)

 

栗原弘. (2002). 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」. 名古屋文理大学紀要2.

 

栗山圭子. (2001). 「准母立后制にみる中世前期の王家」『日本史研究』465号. 日本史研究465.

 

古藤真平. (2018). 『日記で読む日本史3 宇多天皇の日記を読む』. 臨川書院.

 

五味文彦. (2006). 『中世社会史料論』. 校倉書房.

 

荒川玲子. (1986). 「比丘尼御所に於ける御所号勅賜の意義」 . 書陵部紀要(38.

 

荒木敏夫. (1999). 『可能性としての女帝} . 青木書店.

 

高岸輝. (2017). 「天皇と中世絵巻」高岸輝・黒田智『天皇の美術史3乱世の王権と美術戦略 室町戦国時代』. 吉川弘文館.

 

高岸輝. (2020). 『中世やまと絵史論』. 吉川弘文館.

 

高橋康夫. (1978). 「後小松院仙洞御所跡敷地における都市再開発の実態室町時代京都の都市再開発に関する考察」. 日本建築学会論文報告集(263.

 

高橋康夫. (1978). 「戦国期京都の町 組 「六 町 」 の地域構造」. 日本建築学会論文報告集274.

 

高橋康夫. (1983). 『京都中世都市史研究』. 思文閣出版.

 

高橋典幸. (2019). 「南北朝動乱期の社会」『中世史講義』. 筑摩書房.

 

今江広道. (1983). 「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収. 吉川弘文館.

 

今谷明. (2000). 『室町時代政治論』. 塙書房.

 

佐々木宗雄. (1994). 『日本王朝国家論』名著出版1994. 名著出版.

 

佐藤賢一. (2014). 『ヴァロア朝-フランス王朝史2. 講談社現代新書.

 

佐藤長門. (2009). 『日本王権の構造と展開』. 吉川弘文館.

 

佐藤長門. (2009). 日本古代王権の構造と展開. 吉川弘文館.

 

桜井栄治. (2009). 『室町人の精神』. 講談社学術文庫.

 

桜田真理絵. (2016). 「未婚の女帝と皇位継承元正・孝謙天皇をめぐって. 駿台史学156.

 

桜田真理絵. (2018). 「女帝「非婚」と「未婚」のあいだ -「不婚の女帝」論の再検討-. 文化継承学論集 (13).

 

三崎裕子. (1988). 「キサキ宮の存在形態について」 . 史論41.

 

三村晃功. (1995). 「「永正8年月次和歌御会」をめぐって--725日和歌御会を中心に」. 光華女子大学研究紀要 (33).

 

三島暁子. (2002). 「室町時代宮中御八構の開催と記録」. 武蔵文化論叢二.

 

三島暁子. (2003). 「南北朝、室町時代の追善儀礼に見る公武関係」. 武蔵文化論叢三.

 

三島暁子. (2012). 『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』. 思文閣出版.

 

三木太郎. (1953). 「椿葉記」より見たる持明院統分裂の原因長講堂領以下の所領を中心としてー」. 駒沢史学2.

 

山口和夫. (2017). 『近世日本政治史と朝廷』. 吉川弘文館.

山﨑雅稔(2001)承和の変と大宰大弐藤原衛4 条起請」歴史学研究』751号、(2001

山崎雅稔. (2012). 「藤原衛の境涯」. 帝京大学外国語外国文学論集(18).

 

山田敏之. (2018). 「旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と永世皇族制の確立」. レファレンス(808.

 

山本啓介. (2013). 「後柏原天皇時代の内裏和歌活動について 時代背景と形式」. 日本文学629.

 

篠川賢. (2013). 『飛鳥と古代国家』. 吉川弘文館.

 

酒井信彦. (2002). 戦国時代の朝廷 朝廷の「式微」は真実か. 日本及び日本人1643.

 

酒井茂幸. (2009). 『禁裏本歌書の蔵書史的研究』思文閣出版.

 

所功. (2012). 『日本の宮家と女性宮家』「皇室史上の宮家制度」. 新人物往来社.

 

小森崇弘. (2008). 「後土御門天皇の月次連句文芸御会と公家」. 立命館文學 (606).

 

小川剛生. (2005). 『二条良基研究』. 笠間書院.

 

小川剛生. (2009). 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』. 森話社.

 

小川剛生. (2017). 『中世和歌史の研究』. 塙書房.

 

小川剛生. (2020). 『徒然草をよみなおす』. ちくまブリマー新書.

 

小川剛生. (2020). 『二条良基 (人物叢書). 吉川弘文館.

 

小野則秋. (1944). 『日本文庫史研究 上巻』. 京都・大雅堂.

 

小林よしのり. (2010). 『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』. 小学館.

 

松永和浩. (2020). 「後光厳天皇-神器を欠き、都を逐れても」久水・石原變『室町・戦国天皇列伝』所収. 戎光祥出版.

 

松園斉. (1997). 『日記の家』. 吉川弘文館.

 

松薗斉. (2010). 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」. 人間文化 (25),.

 

松薗斉. (2014). 「戦国時代禁裏女房の基礎的研究 後土御門~後奈良天皇期の内裏女房一覧」. 愛知学院大学論叢 (44).

 

松薗斉. (2016). 「室町時代禁裏女房の基礎的研究  後花園天皇の時代を中心に」. 人間文化 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (31).

 

上村正裕. (2018). 「しりへの政と皇后: 八・九世紀を中心に」. 日本歴史 (844),.

 

植木朝子. (2009). 「『看聞日記』にみられる楽器」松岡心平編『看聞日記と中世文化』. 森話社.

 

新田一郎. (2001). 「継承の論理-南朝と北朝」『岩波講座 天皇と王権を考える 2統治と権力」」. 岩波書店.

 

新田一郎. (2011). 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著. 講談社.

 

森茂暁. (2017). 『室町幕府崩壊』. 角川文庫.

 

森暢平. (2014). 「昭和20年代における内親王の結婚: 「平民」性と「恋愛」の強調」. 成城文藝229.

 

森田大介. (2020). 「後柏原天皇-践祚二十年を経ての即位」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』. 戎光祥出版.

 

森茂暁. (2004). 『満済』. ミネルヴァ書房.

 

神谷正昌. (2020). 『清和天皇』. 吉川弘文館.

 

神田裕理. (2019). 『朝廷の戦国時代-武家と公家の駆け引き』. 吉川弘文館.

 

秦野祐介. (2020). 『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』. 東京堂出版.

 

秦野裕介. (2018). 常盤井宮恒興王への親王宣下. ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座, 11-04.

 

秦野裕介. (2020). 『乱世の天皇』. 東京堂出版.

 

秦野裕介. (2020). YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」. (ページ: 31以降). 日本史オンライン講座.

 

秦野裕介. (2020). YouTube中世の皇位継承16 後小松上皇 後光厳流の断絶と継承. 日本史オンライン講座.

 

秦野裕介. (2020). YouTube中世の皇位継承17 後小松上皇と後花園天皇. 日本史オンライン講座.

 

水間政憲. (2019). 『ひと目でわかる皇室の危機 ~天皇家を救う秘中の秘」. ビジネス社.

 

水野智之. (2005). 『室町時代公武関係の研究』. 吉川弘文館.

 

水野智之. (2014). 『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』. 吉川弘文館.

 

水野柳太郎. (2008). いわゆる光明立后の詔について. 奈良史学 (26).

 

成清弘和. (1999). 『日本古代の王位継承と親族』. 岩田書院.

 

清水昭俊. (1970). <>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>「「<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」. 民族學研究 35(3).

 

清水昭俊. (1987). 『家・身体・社会 家族の社会人類学』. 弘文堂.

 

盛本昌広. (2008). 『贈答と宴会の中世』. 吉川弘文館.

 

西嶋定生. (1999). 『倭国の出現 東アジア世界のなかの日本』 1999. 東京大学出版会.

 

西別府元日. (2002). 『律令国家の展開と地域支配』. 思文閣出版.

 

川上多助(1982)『平安朝史学』上 初版1930 昭和57年 国書刊行会

 

川崎晃. (2004). 「聖武天皇の出家・受戒をめぐる憶説」三田古代史研究会『政治と宗教の古代史』. 慶応義塾大学出版会.

 

川西正彦. (2006). 仁藤敦史『女帝の世紀』批判(1)~(4. http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/cat20259607/index.html.

 

浅見雅男. (20102018). 『大正天皇婚約解消事件』. 角川ソフィア文庫.

 

前田雅之. (2018). 『書物と権力 中世文化の政治学』. 吉川弘文館.

 

早川庄八. (1993). 『続日本紀(古典講読シリーズ)』. 岩波セミナーブックス.

 

相馬真理子. (1997). 「琵琶の時代から笙の時代へ--中世の天皇と音楽」. 書陵部紀要 (49).

 

増田忠彦. (2013). 「資料にみえる 碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち). 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 (15).

 

村井章介. (2005). 「易姓革命の思想と天皇制」『中世の国家と在地社会』. 校倉書房.

 

村井章介. (2005初出1997).  『中世の国家と在地社会』. 校倉書房.

 

村田正志. (1954初刊、1984). 『村田正志著作集第四巻證註椿葉記」. 思文閣出版.

 

村田正志. (1983(初出1944). 「後小松天皇の御遺詔」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』. 思文閣出版.

 

瀧浪貞子. (1991). 『日本古代宮廷社会の研究』「孝謙女帝の皇統意識」. 思文閣出版.

瀧浪貞子(2017)『藤原良房・基経』ミネルヴァ書房

谷口やすよ. (1978). 「漢代の皇后権」. 史学雑誌87(11.

 

谷口研語. (1994). [流浪の戦国貴族 近衛前久』. 中公新書.

 

谷田博文. (2019). 『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか』. 河出書房新社.

 

池和田有紀. (2020). 崇光天皇-北朝皇統分裂の始まり. 久水俊和・石原比伊呂編『室町・戦国天皇列伝』, 戎光祥出版.

 

竹島寛. (1982復刊、1936). 『王朝時代皇室史の研究』. 名著普及会1982復刊.

 

中込律子. (2005). 「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』. 清文堂出版.

 

中川八洋. (2018). 『徳仁新天皇陛下は最後の天皇』. ヒカルランド.

 

中川八洋. (2019). 「「旧皇族の復籍」妨害に全力疾走の赤い山羊八木秀次 ──“天皇制廃止狂の正体を厚化粧隠しする八木秀次の二枚舌話法. ブログ 中川八洋ゼミ講義.

 

中村みどり. (2002). 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」. 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編(1.

 

中村みどり. (2014). 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」. 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編 (13).

 

中村順昭. (2019). 『橘諸兄』. 吉川弘文館.

 

中林隆之. (1993 1994). 「律令制下の皇后宮職(上)(下). 新潟史学31 32.

 

仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎. (1995). 「わび茶と露地 (茶庭) の変遷に関する史的考察 その9: 禁中の茶とその茶庭」. 千葉大学園芸学部学術報告 (49).

 

猪瀬千尋. (2018). 『中世王権の音楽と儀礼』. 笠間書院.

 

朝倉尚. (1990). 『就山永崇・宗山等貴』. 清文堂.

 

田村航. (2013). 『一条兼良の学問と室町文化』. 便誠出版.

 

田村航. (2018). 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」. 史学雑誌 127(11).

 

田村航. (2020). 「後花園天皇-後光厳流か、崇光流か」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』. 戎光祥出版.

 

田島公. (1997). 「禁裏文庫の変遷と東山御文庫の蔵書」大山喬平教授退官『日本社会の史的構造 古代・中世』. 思文閣出版.

 

田島公. (2004). 「典籍の伝来と文庫 古代中世の天皇家ゆかりの文庫・宝蔵を中心に」石上英一『歴史と素材』所収. 吉川弘文館.

 

田島公. (2006). 「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』. 思文閣出版.

 

島薗進. (2019). 『神聖天皇のゆくえ』. 筑摩書房.

 

桃崎有一郎. (2020). 『室町の覇者足利義満-朝廷と幕府は以下に統一されたか』. 筑摩書房.

 

藤田寛. (2011). 『江戸時代の天皇』. 講談社学術文庫.

 

藤田高夫. (1990). 「前漢後半期の外戚と官僚機構」. 東洋史研究 , 48(4).

 

藤木邦彦. (1991). 『平安王朝の政治と制度』. 吉川弘文館.

 

波田永実 . (2017). 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」. 流経法學16(2).

 

梅村恵子. (2000). 「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』. 藤原書店.

 

白根陽子. (2018). 「伏見宮家領の形成」『女院領の中世的展開. 同成社.

 

飯倉晴武. (2000). 『地獄を二度もみた天皇 光厳院』. 吉川弘文館.

 

飯倉晴武. (2002). 『日本中世の政治と史料』. 吉川弘文館.

 

飯倉晴武. (2009). 「伏見宮本の変遷-書陵部での整理と書名決定-」. 禁裏・公家文庫研究第三輯.

 

武部敏夫. (1960). 「世襲親王家の継統について--伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」. 書陵部紀要12.

 

服藤早苗. (1991). 『家成立史の研究』 . 校倉書房.

 

福井憲彦. (2019). 『教養としてのフランス史の読み方』. PHP研究所.

 

文殊正子. (1986). 『内親王』号について 『公主』号との比較. 古代文化 38(10).

 

兵藤裕己. (2018). 『後醍醐天皇』. 岩波新書.

 

米田雄介. (1992). 『歴代天皇の記録』. 続群書類従完成会.

 

米田雄介. (2004). 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』. 塙書房.

 

保科季子. (2002). 「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』612. 東洋史研究612.

 

保田卓. (1997). 『日本における規範について その状況依存性の歴的考察(後編)). 教育・社会・文化研究紀要4.

 

保立道久. (1996). 『平安王朝』. 岩波新書.

 

豊永聡美. (2017). 『天皇の音楽 古代・中世の帝王学』. 吉川弘文館.

 

豊永聡美. (2020). 「後土御門天皇-心を砕いた朝議復興-」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』. 戎光祥出版.

 

北啓太. (2016). 「禁裏文庫と近衛家」田島公編『近衛家名宝からたどる宮廷文化史』. 笠間書院.

 

北條文彦. (2002). 「中世に於ける長講堂の供花の沿革について」. 駒沢史学 (58).

 

本田滝雄. (2007). 「公立学校施設の目的外使用不許可処分と司法審査」. ジュリスト1332.

 

末柄豊. (2011). 「伏見宮旧蔵文書二題」. 東京大学史料編纂所研究成果報告2011-3.

 

末柄豊. (2012). 「禁裏文書における室町幕府と朝廷」. ヒストリア(230.

 

末柄豊. (2012). 「十三絃道の御文書」のゆくえ」. 日本音楽史研究(8.

 

末柄豊. (2018). 『戦国時代の天皇』. 山川日本史リブレット.

 

木原弘美. (1995). 「 絵巻の往き来に見る室町時代の公家社会その構造と文化の形成過程について. 佛教大學大學院紀要 23 .

 

木本好信. (2004、初出2002). 『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう. .

 

野村育代. (1992). 「王権の中の女性」峰岸純夫編『中世を考える家族と女性』吉川弘文館. 吉川弘文館.

 

野村玄. (2019). 「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題 明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響」. 大阪大学大学院文学研究科紀要(59.

 

龍野加代子. (1997). 「八条院領の伝領過程をめぐって」『法政史学』49号. 法政史学(49.

 

廣木一人. (2001). 「後土御門天皇家の月次連歌会」. 青山語文31.

 

 (追加・承和の変関連)

玉井力(1964)「承和の変について」歴史学研究286 

福井俊彦(1970)「承和の変についての考察」日本歴史260 (1970

遠藤慶太(2000)「『続日本紀』と承和の変」古代文化52

神谷正昌(2002)「承和の変と応天門の変」史学雑誌111111

佐藤長門(2012)「承和の変前後の春宮坊」『日本古代の王権と東アジア』吉川弘文館所収

仁藤智子(2016)「平安初期における后位の変質過程をめぐって 王権内の序列化と可視化」国士館人文学48

村上 史郎(1999)「九世紀における日本律令国家の対外意識と対外交通--新羅人来航者への対応をめぐって」史学 69(1)

奥村佳紀(1971)「新羅人の来般について」駒沢史学 (18)

 

 

 

 

 

 

« 2021年7月 | トップページ | 2021年9月 »

最近のトラックバック

2025年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28