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2021/08/16

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議批判その1

動画作成用台本

 ユーチューブ動画の作り方の動画を何本か見たが教育系の「マナブ」が台本が必要という話をしたので、台本を作ることとした。

 

主張

 

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議は、男系維持か、女系許容かという議論を棚上げにしたうえ、皇族の数の確保が喫緊の課題という名目で、皇室制度を根本的に変革する「女性宮家」を創設を答申する可能性がある。

 

 配偶者を皇族としない方向性についても報道されているが、男性が当主となりえない入婿というのは、皇室の前例に反するだけでなく、日本の家族慣習にもないもので、歪な制度はやめるべきである。

 

 

 

理由  

 

〇令制では継嗣令王娶親王条で臣下が内親王を娶ることは違法である。反律令的行為である。本来、内親王は皇族と結婚すべき。適当な相手がいない場合は非婚が通例だった。

 

 皇室典範12条(内親王・女王が、天皇、皇族以外と結婚する場合皇族の身分を離れる)は、王娶親王条の趣旨を大筋で継受しており、皇室の千六百年の規範性は維持されてきた。12条の改変に反対である。

 

 

 

〇内親王は本来、皇室から皇室(広義の)に嫁ぐ、「内向き」なので「内親王」

 

 

 

〇女性宮家は、この令制内親王の根本的な性格を否定する。皇室のあり方を激変させるから反対である。

 

 

 

〇とはいえ、違法だが勅許によるケース等、皇女・内親王で臣下に降嫁した例は28例あるが、特定の時期10世紀・17世紀・戦後に集中しており例外的事例というべき。

 

 皇室典範で内親王の臣下への婚出が一応合法化されたのは中世前期の非婚皇后、非婚女院、中世後期~近世の尼門跡(御宮室)といった非婚内親王を処遇できるポストがなくなったためだろう。

 

 

 

〇非婚内親王と婚出する女性皇族はもっと厚遇されてよいと思うが、例えば持参金など。「女性宮家」はNG

 

非婚内親王に家政機関附置が限度である。

 

〇そもそも女系容認の英国王室を模倣する理由はない

 

〇家族慣習の破壊につながる

 

日本では入婿は家長予定者と決まっている。当主となれないプリンスコンソート創設は男性を侮辱するもので、歪な制度でありあってはならない。

 

 

 

内親王・女王の婚姻の問題について法制史的にみていきますが、そのまえに、令制の皇親制度について簡単に述べます。

 

 養老律令(天平宝字元年757施行)の継嗣令皇兄弟条「凡そ皇の兄弟、皇子をば、皆親王と為よ。〔女帝の子も亦同じ。〕以外は並に諸王と為よ。親王より五世は、王の名得たりと雖も、皇親の限りにあらず」 [『律令』, 1976]。

 

 その意味は天皇(女帝を含む)の皇兄弟(皇姉妹をふくむ)および天皇から数えて四世(皇子・皇孫・皇曾孫・皇玄孫)までの男女を皇親とし、そのうち皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とし、それ以外を諸王(王・女王)とし、五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れない。但し五・六世王は皇親と同じく不課の特典あり、七世王は揺が免じられ、皇親の特権特典は徐々にフェードアウトする制度設計になっていた [藤木邦彦, 1991]

 

 親王号、王号を称する皇親とは、父系で天皇に繋がる。父系帰属主義であることはいうまでもない。

 

継嗣令皇兄弟条

凡皇兄弟皇子 皆為親王〔女帝子亦同〕以外並為諸王 自親王五世雖得王名 不在皇親之

 

 

親王位は 概ね嵯峨朝より生得的身位ではなくなり親王宣下となる。皇親賜姓は奈良時代からありますが、院政期以降になると皇子は入寺得度して法親王になるケースが多くなり、これは幕末まで続きます。

 

 院政期から鎌倉時代は非婚内親王が格別厚遇されていた時期といえるかもしれません。皇后とは天子の嫡妻であるはずが、天皇准母(実質准母として意義のあったケースもある)としての非婚内親王の皇后が11例あります。

 

 また非婚内親王で女院宣下された例が後朱雀后後三条御生母陽成門院から、光格后欣子内親王まで41例(うち10例は非婚皇后)あります。

 

 なお、男性皇親については15世紀になると、天皇や上皇の猶子という親子関係の擬制により、実系で五世王以降であっても親王宣下が合法化しています。これは重要な事柄ですが、これは伏見宮の由緒のテーマで取り上げることとして、ここでは内親王や女王の婚姻の問題ですので省略します。

 

 皇女についていうと、南北朝時代から戦国時代までは内親王宣下がなくなりました。皇女は結婚することもなく、尼門跡(比丘尼御所、御宮室)に入るのが通例となります。江戸時代になると内親王宣下が復活しますが、尼門跡に入るケースがも多かった。

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皇女一覧表で説明する

 

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 そこで本題に入りますが、 律令国家では、継嗣令王娶親王条というのが、皇親女子の通婚関係を規定してます。

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 ここに書いてあるのは諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることができるということです。

 

 従って内親王、二世~四世女王は(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)は臣下との婚姻は禁止ということです。

 

 我が国の内親王は皇親内婚のみ許された。律令が天皇の血縁女子の婚出を禁止したのは、皇族の血縁的尊貴性を隔絶的に保護維持するため。子は父系に帰属するため、皇子が臣下の女を娶っても所生の子は、皇族に列するが、皇女が臣下に嫁いだ場合は、臣下に皇族の血を引く子が生まれることを好ましくないという思想です。

 

 栗原弘は記紀が皇親女子と臣下との婚姻事例を伝えていない事実は重要であるとする。5 7世紀に天皇に血縁的に近い女子を婚出させないとしい規制は(鎌足-鏡女王)を除き一貫して堅守されていたとし、その慣例を成文化したのが王娶親王条である。

 

 つまり皇室においては令制前の5世紀頃より一貫した規範だとされる [栗原弘, 2002]、実証史学にもとづいて1600年の規範といえるのです。

 

 中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している [文殊正子, 1986] [中村みどり, 2002]

 

 内を向いた性格だから内親王なのであって。この趣旨から、内親王の配偶者は皇族に限定されるのが本来の在り方。

 

実際、王娶親王条は8世紀までは厳格に守られていた。

 

 

法制史的な堅い話になりますが重要なところなので、はしおらずに説明します。

 

 

 

令制では内親王の臣下への降嫁は違法

 

 

 

継嗣令王娶親王条

 

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 

 

継嗣令王娶親王条の意義

 

皇族の血縁的尊貴性を隔絶的に保護維持

栗原弘. (2002). 「皇親女子 と臣下の
婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」
. 名古屋文理大学紀要2.

 

 

 

「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している

 

文殊正子. (1986). 「『内親王』号について 『公主』号との比較」 古代文化 38(10)

 

 

 

 

記紀に皇親女子と臣下との婚姻事例が一例もない

 

 

 

『万葉集』には7世紀の藤原鎌足と鏡王女(系譜不明)

 

栗原弘. (2002). 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の
理解の た め に一」
. 名古屋文理大学紀要2

 

 

 

 

王娶親王条は8世紀までは厳格に守られていた

 

 

 

今江広道. (1983). 「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収. 吉川弘文館.

 

 

 

8世紀の違法婚 一例のみ

 

 

藤原久須麻呂

 

(太師藤原仲麻呂三男)

 

加豆良女王

 

(天武三世女王、淳仁即位で二世女王格上げ)

 

 

 

 

律令国家では、継嗣令王娶親王条というのが、皇親女子の通婚関係を規定してます。

 

 ここに書いてあるのは諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることができるということです。

 

 従って内親王、二世~四世女王は(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)は臣下との婚姻は禁止ということです。

 

 我が国の内親王は皇親内婚のみ許された。律令が天皇の血縁女子の婚出を禁止したのは、皇族の血縁的尊貴性を隔絶的に保護維持するため。子は父系に帰属するため、皇子が臣下の女を娶っても所生の子は、皇族に列するが、皇女が臣下に嫁いだ場合は、臣下に皇族の血を引く子が生まれることを好ましくないという思想です。

 

 栗原弘は記紀が皇親女子と臣下との婚姻事例を伝えていない事実は重要であるとする。5 7世紀に天皇に血縁的に近い女子を婚出させない規制は(鎌足-鏡女王)を除き一貫して堅守されていたとし、その慣例を成文化したのが王娶親王条である。

 

 令制以前に知られている臣下と皇族女子の婚姻は『万葉集』にある7世紀の藤原鎌足と鏡王女(系譜不明)があるが、これは例外で、8世紀においても臣下と皇族女子の婚姻例で明確に違法といえるのは加豆良女王(天武三世女王、淳仁即位で二世女王格上げ)と藤原久須麻呂(太師藤原仲麻呂三男)との結婚だけである。臣下が三世王という高貴な女性を妻にすることは、反律令的行為であるが天下の政柄を執っていた仲麻呂だからできたことである [今江広道, 1983]

 

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 皇親内婚規則は『日本紀略』延暦12年(793)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」により大きく変質することになる [安田政彦, 1998] [米田雄介, 2004] [中村みどり, 2014]。

 見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて有力貴族との結婚が可能となった。皇族の血統的尊貴性の隔絶的に維持する継嗣令の主旨を大きく後退させた。9世紀以降の臣下と皇親女子や皇女の婚姻の主要な事例は次の表のとおりある。 [栗原弘, 2002]。

 

 

〇延暦12年(793)の皇親内婚規制緩和

 

 

 

『日本紀略』延暦12年(793)九月丙戌の詔

 

「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者

 

見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得る

 

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  [中村みどり, 2014]によれば見任大臣とは、在任の大臣、良家の子孫とは、三位以上の家柄だという(それに准じた家柄を含む)。

 なぜ、延暦12年に女王降嫁を認める政策が打ち出されたのか。諸説あり、よく言われるのは桓武天皇御生母の和史乙継女新笠ですね。皇太夫人となった方ですが、高野朝臣というのは天皇から母への賜姓です。

 百済武寧王の子孫と称しているが、それは200年も前の話で、古い渡来系なのだろうが、系譜は不明。ということでそもそも桓武は御生母が卑姓氏族なので、女王降嫁に抵抗はなかった。皇親の血縁的隔絶的尊貴性の保持について厳格な姿勢を踏襲しなかったという説明です。

 藤原氏の殊遇については、桓武天皇が藤原式家の後見のもとに即位した恩賞である等の見解がある。

 光仁天皇を支えたのも宿奈麻呂(良継)ら藤原式家だったし、井上内親王廃后・他戸親王廃太子事件は藤原百川とその周辺による謀略である蓋然性の高い事件ですが、井上皇后を排斥しない限り、桓武の即位はなかったわけですから、その恩賞ということです。

 しかし、桓武朝の廟堂においては藤原氏は衰退し、神王が右大臣、壱志濃王が大納言に昇進し皇親政権樹立構想があったとされる。そうすると、令制の厳格な皇親内婚に規制しているあり方よりは、女王降嫁によって皇親が貴族と姻戚関係を強化したほうが得策と考えられたのかもしれない。

 

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もっとも 延暦12年(793)詔で認めらたの藤原氏が二世女王を娶るケースは、桓武天皇の曽孫にあたる恒世親王女までなかった。

 

 

 

藤原良房と源潔姫の婚姻の意義

 

 

 

良房が嵯峨源氏と義兄弟となることにより嵯峨系門閥の主軸となる。

 

 

 

 

承和の変を契機として、源藤二氏を頂点とするヒエラルキーを形成する原点

 

 恒世親王女の結婚に先行して  天長6年(829)藤原良房と嵯峨皇女源潔姫の結婚がある。殊遇であり、史上初めて臣下が皇女を娶った例だが、内親王ではないためぎりぎり合法といえる。所生子は、清和御生母で太皇太后にまでのぼせられた藤原明子だけで、男子はなく、養嗣子の基経の実父は兄長良である。

 良房は嵯峨源氏と義兄弟となり嵯峨系門閥主軸となった意義が大きい。承和の変を契機として源藤二氏を頂点とするヒエラルキーが形成されていく原点となるものだといってよい。

 良房の父が冬嗣です。神野親王の春宮坊官で、嵯峨天皇の藩邸の旧臣(東宮時代から側近)、初代蔵人頭として有名。嵯峨朝で順調に昇進し台閣首班右大臣、淳和朝で左大臣。結果的に冬嗣の子孫が摂関家となったわけですし、良房はいわずと知れた人臣初の太政大臣、摂政です。やはり源潔姫との結婚は重要な意味があったというべきです。

 

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藤原衛の官歴

 

弘仁7(816) 文章生試及第

弘仁13822) 従五位下

弘仁14823) 遠江守

        木工頭

        右少弁

        式部少輔

天長9832)  正五位下

天長10833  従四位下

承和元(834

              式部大輔兼伊予守

承和7 840) 従四位上 蔵人頭

承和9842) 大宰大弐

嘉祥3850) 弾正大弼

仁寿元(851)

   勘解由長官兼加賀守

天安元(857) 右京大夫

同年卒 最終官位

 右京大夫兼加賀守正四位下

 

〇藤原衛と恒世親王女の結婚

 

藤原氏への二世女王降嫁の初例は藤原衛への淳和二世女王恒世親王女の降嫁である。時期は、任式部大輔兼伊予守の承和初期と考えられています[山崎雅稔, 2012]。つまりこの婚姻の意義は

 

 

 

藤原衛の承和元年任式部大輔は参議昇進が見込めるポストで、将来恒貞親王を支える人材として期待しての、殊遇と想定

 

 

 

恒世親王の母は平城・嵯峨と同じく皇后藤原乙牟漏を生母とする高志内親王であり、これは異母兄妹婚の所生子であるから桓武天皇の純血種なのである。

 

 弘仁14年(823淳和天皇の皇太子に指名される。これは嵯峨が推したためである。高志内親王の贈皇太后は立太子を正当化するものであるが、恒世親王は、皇太子指名を辞退、嵯峨皇子の正良親王(仁明)が皇太子となった。恒世親王はこの3年後に薨去

 

 これは権力のバランスの問題である。嵯峨天皇は三大軍事官僚をすべて味方につけて、薬子の変で平城上皇を無力化したのだから実力は淳和より嵯峨が上である。

 

 しかし、仁明天皇は皇太子に淳和皇子の恒貞親王を立てます。恒貞親王は生母が皇后正子内親王で、仁明天皇の双子の妹で。つまり嵯峨の孫でもあり、仁明の甥でもある。

 

 両皇統が譲りあいのようなかたちになるわけです。この譲り合いは、儒教的な謙譲の美徳を表わした儀礼的なものとされてます。神谷正昌2002]

 

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藤原衛は参議にも昇進してないので、著名な人物とはいえないが、政治史的には任大宰大弐時代に上奏した承和9四条起請(新羅は聖武朝以来旧例を用いず日本に苞苴を貢がないこと、交易に事寄せて国情を窺っていることを非難し、新羅人の一切の入国禁止することを求める)で知られている。[奥村佳紀1971][村上史郎1999][山﨑雅稔2001]。藤原衛の排外主義的な政策提言に対し、朝廷は、入境禁止のような厳しい政策をとらず交易を継続することとしたが、新羅人の帰化を認めない方針に転換した。よって、四条起請は対外政策転換の画期と評価されている。

 

 

 

 

承和9815

 

大宰大弐藤原朝臣衛

 

四条起請

 

 

 

新羅朝貢其来尚矣。

 

而起自聖武皇帝之代、

 

迄于聖朝不用旧例。

 

常懐姧心、苞苴不貢。寄事商賈、窺国消息。方今民窮食乏、若有不虞犮。望請。新羅国人、一切禁断、不入境内。

 

 

 

 

父が右大臣内麿、母が称徳朝の左大臣藤原永手女であるから藤原北家のなかでも貴種、内麿の妻としては百済永継や坂上宿祢苅田麻呂女などがいましたがこちらが嫡流といってもよい。もっとも当時は嫡妻との区別が明確でなかったともいわれる栗原弘(1990]

 

 貴種であるうえに、文章生試に及第して優秀で将来を嘱望された。

 

 良吏としての実績があり、淳和朝で式部少輔、恒世親王女降嫁は将来、仁明の皇太子、恒貞親王を支える人材として見込まれたがゆえの殊遇と考えられる。

 

 承和元年に式部大輔、式部省は人事官庁なので9世紀は要職だった。式部大輔は摂関期以降、儒学者で天皇の侍読を処遇するポストになったが、9世紀は違います。天皇の信任のある近臣があてられることが多い。

 

 恒世親王女との結婚はこの時期と考えられています。

 

承和7年に仁明天皇の蔵人頭、同年の淳和上皇崩御に際し装束司を務めた。9世紀においては、式部大輔、蔵人頭を歴任すると参議昇進が通例であるが、藤原衛は参議に昇進できなかった。

 

 これは、承和7年に淳和上皇崩御と、右大臣藤原三守の薨去(嵯峨の藩邸の旧臣、太皇太后橘嘉智子の姉を妻としていることから嵯峨のミウチといってもよいが、藤原南家としては50年ぶりの右大臣まで昇進した。淳和天皇の春宮大夫で、双方の近臣としてパイプ役でもあったと考えられる)で淳和近臣グループは後見者と重鎮を失ったことにより、嵯峨近臣グループとのバランスで不利に形勢に傾いていったためだろう。

 

 嵯峨上皇の崩御つまり承和の変の半年前、承和9年正月の任大宰大弐という人事が問題になる。これは、藤原衛が参議昇進コースから外されたという見方と、当時、新羅で反乱を起こした張宝高と文室宮田麻呂の密貿易が発覚し、不穏な情勢だった。それゆえ重要な任務であり、遠江守時代、新羅人の蜂起を鎮めたとされる実績のある藤原衛が起用されたという見方がある。

 

 蔵人頭から大宰大弐は前例があり嵯峨天皇の寵臣朝野鹿取である。朝野鹿取は、朝臣賜姓されているが、もとは卑姓氏族で、入唐経験があり、嵯峨天皇の皇太弟時代の侍読ですから藩邸の旧臣といえます。嵯峨朝で重用され、蔵人、中務大輔などの要職を歴任、弘仁末期に蔵人頭となったが、淳和朝の任大宰大弐は干された感がある。仁明朝になってから嵯峨上皇の意向により、参議に昇進し、民部卿などの要職も兼ねた。

 

 ただ朝野鹿取は卑姓氏族の出身で、毛並みの良い藤原衛とはちがう。

 

 それゆえ藤原衛の任大宰大弐は、干された感のある人事といえるのである。

 

 5年後に帰京、嘉祥3年に任弾正大弼、仁寿元年の任勘解由長官。これは国司の交替時の監察ですが、朝野鹿取のように参議にも昇進できなかったのです。広い意味での承和の変の政治的敗者といえるでしょう。

 

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 承和の変は、承和97月嵯峨天皇崩御に際し、春宮坊帯刀舎人伴健岑と但馬権守橘逸勢が皇太子を奉じて東国に入り謀反を起こすことを画策し、誘われた阿保親王が告発したことに始まって、淳和皇子恒貞親王廃太子、春宮坊官60余名の処罰、仁明皇子道康親王(御生母は良房妹の順子)の立太子にいたったものである。

 

 歴史家は①伴健岑と橘逸勢が謀反を計画した。②太皇太后橘嘉智子と中納言藤原良房が共謀を企てた③良房一派が仕組んだ陰謀とおよそ3通りの解釈をしていて、[瀧浪貞子2017]は②説をとってますが真相は不確定といえます。

 

 

 

結果論を一口にいえば

 

 

藩邸の旧臣体制の

 

打破

 

 

福井俊彦(1970)「承和の変についての考察」日本歴史260

 

 

 つまり、承和の変とは、藩邸の旧臣体制から、淳和上皇派を一掃することより嵯峨系門閥を中心とする体制に変化したといえます。

 

 この公卿表ですがブルーが淳和上皇近臣グループ、オレンジが嵯峨上皇近臣グループです。筆頭公卿藤原緒嗣は淳和の外戚ということでブルーに色分けしますが、承和9年に69歳の御老体で病気がち政務にかかわらなくなった、これは当時の太政官符を見れば明らかことで、名目的な左大臣にすぎません。実質右大臣が台閣首班です。

 

 淳和派の大納言兼民部卿藤原愛発は免官、民部省は租税関係・地券関係の管轄ですから9世紀は重要ポストですよ。後釜は良房です。この人がやめてくれないと、良房は大臣にも氏長者にもなれませんから、標的になった感がありますね。

 

 淳和の忠臣藤原吉野と参議兼春宮大夫文室秋津は左遷、もう一人淳和近臣で三原春上がいますが、翌年辞職してますから、淳和上皇派は総崩れです。

 

 もっとも恒貞親王の東宮学士春澄善縄のように周防権守に左遷されたが翌年文章博士で呼び戻され、貞観期に参議に昇進したケースもあるわけですが、承和の変の意義を一口でいうなら淳和上皇派が一掃された事件で、藤原氏では藤原式家5名と、南家2名が処罰(左遷)されており、式家は凋落することになります。

 

 要するに、承和の変は藤原氏内部の暗闘に決着をつけたといえます。良房としては非常に都合のよい結末となりました。

 

 そんなことで、藤原衛は在京しておらず春宮坊とは無関係なので承和の変で処罰はされてませんが、淳和近臣ですから、嵯峨系門閥に嫌われて大宰府から都に戻っても参議になれませんでした。反主流派ゆえ干された。広い意味での政治的敗者です。

 

 ちょっと脱線しました。本題は、皇族女性の婚姻のありかたですが、延暦12年詔で合法化された二世女王降嫁の初例ということでくわしく取り上げました。要するに藤原衛は藤原氏のなかでも貴種ゆえの殊遇でしたが、承和の変により、二世女王を娶ったメリットはなくなったという話をしました。さすが淳和上皇が見込んだだけあって、歴史には名を残してますということを述べました。

 

〇藤原基経への二世女王降嫁

 

 次の事例が藤原基経への二世女王の降嫁である。御二方いて、操子女王と人康親王女(仁明二世王)である。操子女王は宇多女御醍醐養母て皇太夫人となった藤原温子と兼平の母だが、嵯峨二世女王説と、仁明二世女王説がある。この問題は詮索しないこととし、この系図は嵯峨二世女王説で書いてます。

 宮廷史的には人康親王女の降嫁に大きな意義を認めることができる。

 それは基経の嫡男時平と、その弟の仲平・忠平の元服叙爵です。三平兄弟は、いずれも人康親王女所生と考えられています。16歳の時平は光孝天皇の仁和二年(886)正月二日仁寿殿において「天皇手ずから冠をとって」元服儀礼が行われると同時に初叙叙爵がなされた [服藤早苗, 1991]。

 宸筆の位記には「名父の子、功臣の嫡」と叙位理由が記載され、天皇御自らの加冠は三平兄弟に限られ空前絶後であり、基経の権力の顕示したともいえるが、正妻で皇族である人康親王女を母としているゆえの殊遇ともいえる。

 しかも光孝天皇(一品式部卿時康親王)と人康親王は生母が仁明女御贈皇太后藤原沢子で同腹であり、時平の母が光孝天皇の姪であるから、近親なのである。

 藤原基経が陽成廃黜、光孝擁立を断行したのは、蔵人頭等の人事で基経と対立した皇太后藤原高子を政治から遠ざけるのが重要な目的だったといえ説[角田文衛(2003)]に同意し暴君説をとらないが、三平兄弟が時康親王(光孝)と近親だったということも理由の一つとしてよいだろう。

  この後、藤原忠平が宇多皇女源順子(猶子とみられる)を娶り実頼を儲け、文徳孫の源能有女を娶り、師輔、師氏を儲けているが、これは合法である。

 

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 〇10 世紀における違法婚の出現

 

  

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 藤原衛や藤原基経二世女王降嫁は延暦12年(793)の皇親内婚規制緩和により合法ですが、10世紀には違法婚が出現します。 

 

 違法だが勅許により合法ですが、継嗣令王娶親王条の原意には反しています。

 

 藤原師輔への勤子内親王・雅子内親王・康子内親王降嫁は明確に違法である。にもかかわらず村上天皇により勅許された。

 

 藤原師輔は摂関家中興の祖である。天慶2年(939)皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同3年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(のち村上天皇)の室に入れ(皇后に立てられ冷泉・円融御生母)、権勢の基礎を築き、同74月成明親王が朱雀天皇の立皇太弟で、師輔は東宮大夫に転じる。要するに師輔の殊遇は村上天皇にとって立坊の功労者であり、外戚でもあったという事情が背景にある [角田文衛, 1985初出1966]。

 

康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなさに(前が汚れている)」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『大鏡』『中外抄』) [保立道久, 1996] [中村みどり, 2002] などと伝えられており公然周知の醜聞だったという

右大臣藤原師輔に醍醐皇女の内親王三方の降嫁をはじめとして、違法だが勅許により臣下には降嫁した例を、女性宮家の雛形にはできない。

 内親王の配偶者の藤原師輔は冷泉・円融の外祖父であり、摂関家の中興の祖であるが、もちろん内親王三方の降嫁によって皇族になるなどということはない。

 右大臣藤原師輔に降嫁した康子内親王所生の太政大臣藤原公季は清華家の閑院流藤原氏の祖であるが、父系帰属主義なので皇族でありうるはずがなく、同じく師輔に降嫁した雅子内親王所生子が太政大臣藤原為光、右近衛少将藤原高光であるが、藤原氏であって皇族にはなりえない。

 ただ天皇と近親の貴種であるから、公季や為光は天皇の師範たる太政大臣になれたということである。

 女性宮家を認めると藤原師輔を皇族としたうえ、藤原公季も皇族することになり、摂関家も閑院流藤原氏も皇族になってしまい、日本史を否定することになる。

 

Morosuke3

 

 10世紀から11世紀の前半期にかけて(藤原師輔の醍醐皇女降嫁から藤原教通の三条皇女降嫁まで〕内親王降嫁の例が12例検出できる。しかし中世には内親王宣下されていない皇女の2例があるのみで、中世では皇族や天皇、上皇との結婚のほか、大多数の皇女が非婚であり、南北朝時代より戦国時代は、内親王宣下もなくなり、皇女は尼寺に入るのが通例となります。

 再び臣下への降嫁が出現するのは近世になります。17世紀に内親王が摂関家に嫁した例が9例ありますが、久保貴子(2009)がその理由を分析してますが、私が思うに端的にいえば、禁中並公家諸法度で、公家の序列を明確にして、儲君以外の親王より三公が座次上位となったので、摂関家の地位が上昇し、世襲親王親王家の位地が低下したことと関連があり、令制の原意では違法であっても、そのように認識することもなくなったとはいえます。しかし元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が、伏見宮邦永親王妃になって以来、内親王の嫁ぎ先が摂関家から世襲親王家に方針が転換してます。その理由は解明されていませんが、霊元上皇が近衛基熙を「親幕派」として嫌っていたので、摂関家と距離をおくようにしたのか、令制の原意に即したあり方に戻したともいえます。仁孝皇女の敏宮淑子内親王は閑院宮愛仁親王と婚約したが婚儀前に薨去したため非婚だった。和宮親子内親王は、有栖川宮熾仁親王と婚約していたが、政治的な事情で将軍家に嫁すこととなった。

 朝廷は幕末まで方針は変わっていません。

 しかも明治から昭和18年まで内親王5方の結婚はすべて皇族です。元禄11年以降(1698)、徳川時代に内親王は、伏見宮に二方、閑院宮に一方、天皇と御一方が結婚していますが、それ以外は特殊な例である和宮の一例を望いて非婚した。元禄11年(1698)つまり18世紀以降、昭和18年(1942)照宮成子内親王が東久邇宮盛厚王に嫁すまでまで、結婚した内親王10方のうち9方が天皇もしくは皇族だということです。 継嗣令王娶親王条の趣旨は大筋で維持されていたといってよいのです。

 室町時代以降の皇女・内親王の一覧表ですが、これは、ここに書いているとおり、小学館の服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』小学館 2002 皇女一覧表やウィキペディア等ネットから引いてますが、皇女のすべてではないです。明治天皇の皇女内親王は10方ですが、6方は夭折され、成人まで無事に成長された4方だけを記載してます。

 

 

全体的なことをいいますと6世紀の宣化天皇から幕末まで史料上検出される皇女が494方(夭折した方含む)あり、このうち天皇及び皇族と結婚した例が58方、臣下に降嫁した例24方(うち内親王は21方)である。明治以降の内親王を加えると、天皇及び皇族と結婚した例63方、臣下に降嫁した例28方となる。内親王の降嫁は令意に反するといえるが、95分以上大多数は合法的な皇族との結婚か、非婚だったのである。

 

 江戸時代については、13歳まで無事に成長した皇女50方のうち、結婚した皇女は14方もあり、ほとんど大多数非婚だった中世とは違う。(服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』小学館の2002参照)

 

内訳は皇后が1方、摂家9方、世襲親王家3方(伏見宮2方、閑院宮1方)、徳川家1方、生涯非婚は36方、内訳は尼門跡28方、女帝2方、女院1方、宮家相続1方などでり、特に在俗のままの非婚内親王で厚遇された方としては次の三方があげられる。

 

 第一に後光明皇女孝子内親王(一品、准后、女院宣下)は、後光明天皇の唯一の子で、後水尾院の意向で、生涯手許に留めて厚遇する方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領300石が与えられた。[久保貴子2009

 

 

 

第二に桜町皇女智子内親王(一品、後桜町女帝)である。寛延元年(1748)幕府から将軍世子家治との密々の縁組の申し入れがあったが、桜町天皇が拒否。桜町崩後に御領300石。なお女帝即位は、弟の桃園天皇の遺詔で、後桃園天皇が5歳だったため、10歳になるまで中継という趣旨である。[久保貴子2009

 

 第三に仁孝皇女淑子内親王(一品、准后)である、閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料300石を得たが、 11年後親王が薨去、御殿を持たず婚姻先も失い、住まいを転々としたが、長期にわたって空主が続いていた、桂宮の諸大夫たちが、仁孝皇女淑子内親王の桂宮相続を願い出て、幕府に承認され、、幕府は道具料500石を進上されている。[久保貴子2009

 

 在俗のまま厚遇される内親王は非婚であることが大前提ということです。

 

明治皇室典範

第四十四條皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ

 

 現皇室典範

第十二条皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる

 

 ところで明治22年の皇室典範44条と、現皇室典範の12条では、女性皇族は皇族以外との婚姻により皇族の身分を離れることになってます。

 これは、皇親内婚の継嗣令王娶親王条の趣旨にかなっている整合性があると考えます。皇族内婚が原則だから、皇族以外との結婚は身分を離れると。ただ令制の原意どおりにはいかない。延暦12年の詔により二世女王は藤原氏、三世女王以下は、現任大臣家や三位以上の家柄もしくはそれに准ずる良家に嫁すことを認めていることや、南北朝時代から江戸時代、皇女の大多数(光明皇女より光格皇女までおよそ70方)が尼寺に入寺された。高貴な身分ゆえ結婚できない存在となった。しかし尼門跡(比丘尼御所、御宮室)は決して待遇は悪くないです。寺領経営体の小領主であり、ただし幕末期に皇女が減って、空主となる門跡が相次ぎ荒廃していった。明治維新により皇族の出家が禁止され、皇女を処遇するポストが失われたこともあり、皇室典範では、臣下への婚出それ自体違法としないが、皇族の列から離れるものとしたと私は理解している。

 明文上、継嗣令王娶親王条のように、内親王と臣下の婚姻を違法とはしていません。しかし、実際は、先にもいいましたとおり、

 明治皇室典範のもとでは、婚期まで無事に成長した明治皇女4方、常宮昌子内親王・房子内親王・允子内親王・聡子内親王は、明治41年から竹田宮恒久王(明治41年)・北白川宮成久王(明治42年)・朝香宮鳩彦王(明治43年)・東久邇宮稔彦王(大正5年)に嫁し、昭和皇女1方照宮成子内親王は、東久邇宮盛厚王(昭和18年)に嫁しており、臣下に降嫁した例はない。内親王は皇族内婚の令制の主旨どおりである。皇室典範のもとで、臣下は令制といいますか、令制前から5世紀頃からの伝統ということは先にも申しましたが、内親王を娶るのは違法という趣旨を大筋で継受としているといえます。

 12条をそのように理解すると、伝統規範にかなっている皇室典範12条の改変は絶対あってはらならないと思います。

 

 多くの人は誤解しているのではないですか。戦後は内親王が民間に嫁ぐのが通例になった。これは全歴史を通じてきわめて異例なことなのである戦後の内親王は、女王もそうですが、すべて民間に降嫁していて、本来望ましい皇族との結婚がありません。明治以降戦前の内親王5方は皇族と結婚、これは筋がとおってます。戦後の内親王4方、婚約内定の内親王御一方を含めると5方、みな皇族以外です。むろん適齢の男性皇族がいなかったとも思いますが、しかし旧皇族は選択されていません。

 昭和20年代の、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の結婚においても、「平民」性が強調され、カップルの「仲睦まじさ」、「恋愛」感情が注目されていた。鷹司平通氏は旧華族、摂関家への降嫁は、17世紀以来のことだった。日本交通公社(交通博物館)に勤務され月給 6 千円、天皇の娘が「一平民サラリーマン」の妻となる出来事として受け止められた [森暢平, 2014]。皇室の民主化をアピールするうえで、若い内親王が「象徴天皇制が民衆に近づいたことを実感させる存在」だった [河西秀哉, 2008]

 一般国民に近い存在となることが通例となっているが、それは報道を通じて皇室の民主化という政策的意図があったのかもしれません。

 戦後の在り方は本来の在り方ではない。上流貴族の清華家ですら降嫁の前例がないのである。地下官人クラスに降嫁などありえない。我が国では中国王朝の「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有しているので [文殊正子, 1986] [中村みどり, 2002]、本来の意義をわきまえてないというべきです。

 内親王は内を向いた性格だということ。その意味で、皇族と結婚するか、非婚が原則で、民間に降嫁しても悪くはないが、それが原則ではないということは踏まておくならば、ましてや女性宮家などというものは論外だということです。

 内親王の遇し方について改善は必要かもしれません。結婚相手がたとえ旧華族だとしても必ずしも資産家とは限らない、一時金として推定約1億5000万円が支給されると報道されてますが、持参金としては少ないのでは。二倍、三倍あってよいとおもいます、そういう内親王の待遇改善は必要ですが、「内親王」の本来の意味を否定する女性宮家はNG。

 

 

つづく

 

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 (追加・承和の変関連)

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福井俊彦(1970)「承和の変についての考察」日本歴史260 (1970

遠藤慶太(2000)「『続日本紀』と承和の変」古代文化52

神谷正昌(2002)「承和の変と応天門の変」史学雑誌111111

佐藤長門(2012)「承和の変前後の春宮坊」『日本古代の王権と東アジア』吉川弘文館所収

仁藤智子(2016)「平安初期における后位の変質過程をめぐって 王権内の序列化と可視化」国士館人文学48

村上 史郎(1999)「九世紀における日本律令国家の対外意識と対外交通--新羅人来航者への対応をめぐって」史学 69(1)

奥村佳紀(1971)「新羅人の来般について」駒沢史学 (18)

 

 

 

 

 

 

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