内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案反対
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「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議の
内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は9月6日の共同通信「天皇ご一家と4宮家存続の構想 政府、女性皇族が継ぐ案を想定」というニュースがあり、この報道では有力とされているが、私は反対します。
理由1 皇室典範12条は継嗣令王娶親王条(およそ1300年前)の趣旨を大筋で継受しており、王娶親王条は5~6世紀の皇室の慣例を明文化したものだから1600年の伝統規範を、12条により維持しているがゆえ、揺るがせにできない規範的価値であり、改変には絶対反対、特例としての適用除外も反対である。
継嗣令王娶親王条と皇室典範の明文規定は以下のとおり異なるが継受しているといえる。
つまり令制は臣下が皇親女子を娶れないことを原則とし、二世女王以下は規制緩和されたが、内親王を臣下が娶ることは一貫して違法であった。皇室典範ではそのような原則論を述べていない。でも大筋で継受していると解釈できる理由を示す
王娶親王条の趣旨を大筋で継受しているといえる根拠
1 皇室典範12条は、皇族女子が身位を維持できる在り方として、皇族内婚という比較文化的には特徴的な婚制を明文規定しているゆえ、皇親内婚を原則とする令制を大筋で継受している。
2 皇室典範12条は、王娶親王条が違法とする臣下が内親王(一世皇女)を娶ることを否定していない。
しかしそれは、藤原良房-源潔姫の婚姻を合法にした方便と全く同じだ。
3 欽明后石姫皇女より紀宮清子内親王まで6世紀から21世紀まで約1500年の
皇女(養女除く)の婚姻
皇族内婚 臣下へ降嫁
63 29
統計的にみても歴史的に一貫して皇族内婚が原則、皇室典範12条は皇族の身位を失わない結婚の在り方として継受している。
4 日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。
文殊正子. (1986). 『内親王』号について 『公主』号との比較. 古代文化 38(10).
内婚、内向きだから内親王
内親王号創出の意義、性格を維持している皇室典範12条
(皇族以外と結婚しても、内親王は皇室に残る、有識者会議の案は内親王の歴史的性格規定を否定、皇室制度を破壊する)
5 実態面からみて旧皇室典範のもとでは皇女5方すべてが皇族と婚姻しており、内親王は皇族以外との結婚を違法としていた令制の趣旨を継受している証拠。現皇室典範12条と旧典範44条の内容はほぼ同じなので、現典範も継受していると言ってよい。
〇継嗣令王娶親王条
「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」
諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。従って皇親の範疇である内親王、二世~四世女王の(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)臣下との婚姻は違法
〇『日本紀略』延暦12年(793)九月丙戌の詔
「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者
見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得る
〇旧皇室典範(明治22年1889)
第四十四條
皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ
〇現皇室典範
第十二条
皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる
私が改変絶対反対、適用除外も反対と申し上げているのは皇室典範12条であります。皇族女子が結婚する場合内親王、女王といった身位を維持できるのは皇族と結婚する場合に限るという条文です。これは旧皇室典範も同じです。違うのは
要するに皇室典範では皇族内婚と皇族外(臣下、一般国民)との結婚を区別してまして、この区別は、皇族内婚を原則としていた令制を継受していると理解してよいということです。具体的に令制の婚制をみていきたいと思います。
図表化したのがこれです。ただし、慶 雲 3 年 (706) 2 月 16 日の 格1で5世王も皇親とされたので、8世紀において臣下が娶りうるのは六世女王以下ということになります。
63対29というデータですが、若干説明します。内親王と皇親の婚姻は一覧表をつくってあります。石姫皇女の立后が540年ということで、およそ1500年間に63例ということです。き色に塗ったのは皇后に立てられた例で、13例あります。平安時代まではもちろんかなりの数があります。ただ12世紀の二条天皇とよし子内親王といういとこ同士の結婚、母は美福門院ですが、この後しばらく内親王は非婚が通例になります。鎌倉時代の後半に内親王と天皇の婚姻がまたみられるようになります。南北朝時代以降はこちらの図表をみていただきます。 この表は室町時代以降の皇女・内親王(夭折事例は除く)一覧表で、引用参考・服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』小学館 2002 皇女一覧表、ウィキペディア コトバンク等江戸時代の霊元天皇の皇女以降、皇女もしくは内親王の一覧表で、ただし夭折された方は除いております。南北朝・室町・戦国時代は、皇女は正しくは比丘尼御所、通称尼門跡に入室するのが通例になります。尼門跡は寺領領主とて経営体の長で決して悪くありません。江戸時代も尼門跡に入室するケースは多いですが、結婚される皇女もでてきます。17世紀に皇女の摂家への降嫁が9例あります。この理由については、久保貴子氏がコメントしており、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないかと考えられる。徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。また、 一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」とする。
久保貴子(2009). 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち)」. 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2.
上記の見方に加え、私の考えでは五摂家が禁中並公家諸法度により、事実上、世襲親王家当主より座次、序列上位となったことが大きいと思う。皇族以上の序列なら臣下が娶ることは違法とされていた内親王との結婚も障碍はないという理屈はありうるので、原則から逸脱してないという方便になっていると考えます。かし近世朝廷においては、17世紀末期に皇女の婚姻の方針が転換された。元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来、摂家との婚姻をやめ、原則として本来の在り方である内親王は皇族と結婚する在り方に回帰している。この方は皇后ですね。
この方針の転換については推測にすぎないが、霊元天皇が幕府と強く交渉して、天和3年(1683)に14世紀中葉以来の立太子礼(朝仁親王)を復活させ、貞享4年(1687)に221年ぶりに、大嘗祭(東山天皇)を復活させた。元禄10年(1697年)有栖川宮家の幸子女王が東山天皇に入内し宝永5年(1708)皇后に立てられてますが、皇族の皇后は後醍醐后珣子内親王以来のことです。だから、内親王が皇族に嫁ぐようになったのも、霊元天皇による朝儀復興とか本来の姿に戻そうという政策と軌を一にするものという理解でよいのてはないか。
もっとも正徳6年(1716)2歳の霊元皇女八十宮が家継と婚約した例などもあるが、これは霊元法皇の幕府と関係修復を図る政治的意図によるもの、ただ家継の夭折で結婚にはいたってません。和宮親子内親王についてはよく知られているとおり当時の公武合体策という特殊な事情によるもので、例外的事例であり、和宮とて有栖川宮熾仁親王と縁約していましから、幕末まで皇女は結婚するなら皇族という方針は一貫している。明治22年旧皇室典範のもとでは、明治41年の常宮 昌子内親王から、明治皇女4方明治皇女内親王は九方おられましたが、五方は夭折されており、無事に成長した方は四方だった。すべて皇族との結婚です。また昭和18年の昭和皇女照宮 成子内親王も皇族と結婚しているので終戦前ので皇女内親王の5方の結婚はすべて、皇族であります。従1いまして17世紀末期から、20世紀前半というくくりでは、内親王が皇族と結婚した例9例に対し、臣下が娶ったのは1例にすぎません。
ですから旧皇室典範のもとでは、令制の原則である。内親王は皇族と結婚するのが原則であることを明確に意識し踏襲している。旧皇室典範44条と、現典範12条は同趣旨であることは先ほど申し上げたとおりですから、実態面からみて皇室典範は令制の原則を継受していると言って位と思います。
もちろん、皇室典範は皇女内親王が臣下に降嫁すること自体は合法としていることは令制と違います。皇族に相応の相手がいないとか、江戸時代のような尼門跡のポストはないのですから、皇女が多かったならば、それもあったかもしれまんが、実際は、令制が臣下は内親王れないとする大原則どおりであることがある。原則どおりだったということです。会ったかもしれませんが、
こちらは、臣下が皇女内親王を娶った例(養女を除く)です。栗原弘氏の論文は、さきほど『歴史のなかの皇女たち』ネットを参照しました。
29例というのは、令制では二世女王の範疇であるこの三方はカウントしないで29です。
細かい話になりますが、内親王の範疇は令制と皇室典範は違います。現在は令制の二世女王でも内親王です。む
源潔姫は、臣籍に下って結婚しており内親王ではないのでぎれぎり合法といえます。しかし内親王を娶るのは反律令行為、違法でした。
10世紀前半に藤原師輔への勤子内親王・雅子内親王・康子内親王降嫁は明確に違法である。にもかかわらず勅許され、この後も内親王降嫁は20例以上あります。
これは師輔の三皇女降嫁は醍醐崩後、朱雀朝、村上朝においてである。
藤原師輔は 天慶2年(939)師輔の伯母にあたる皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同3年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(のち村上天皇)の室に入れ(皇后に立てられ冷泉・円融御生母)、権勢の基礎を築き、同7年4月成明親王が朱雀天皇の立皇太弟で、師輔は東宮大夫に転じる。要するに師輔の殊遇は後宮を統率していた皇太后藤原穏子に贔屓にされ、中宮大夫として仕えていたこと。村上天皇にとって立坊の功労者であり、外戚でもあったという事情が背景がある [角田文衛, 1985初出1966
「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』. 法蔵館.]
康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなきに(前が汚れている)」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『大鏡』『中外抄』下29) [保立道久, 『平安王朝』. 岩波新書1996]などと伝えられており公然周知の醜聞だったようである。
師輔がやったことは反律令的行為で、 都の人々も臣下が内親王を娶ることをスキャンダルとしてとらえているともいえます。
しかしこれが゜前例になって、10世紀から11世紀前半にかけて内親王が降嫁した例が少なからずあります。
儀式進行で失態が多く無能といわれる藤原あきみつにしても内親王二方が降嫁してます。三条天皇は禔子を藤原頼通(藤原道長の長男)へ嫁がせることで道長の勢力を牽制しようとしたが、頼通の病気により実現せず[1]、禔子は万寿3年(1026年)に藤原教通(頼通の弟)の継室として降嫁したとウィキペディアにあります。
このように、令制では違法であっても、内親王を臣下が娶った例はありますが、特定の時期、10世紀と17世紀と20世紀後半以降に集中的に7あらわけていめだけであり、全時代を通じてみられる現象ではありません。63対29だから統計的にみても皇族ナイコンが原則です。
昭和20年代の、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の結婚においても、「平民」性が強調され、カップルの「仲睦まじさ」、「恋愛」感情が注目されていた。鷹司平通氏は旧華族、摂関家への降嫁は、17世紀以来のことだった。日本交通公社(交通博物館)に勤務され月給 6 千円、天皇の娘が「一平民サラリーマン」の妻となる出来事として受け止められた [森暢平, 2014]。皇室の民主化をアピールするうえで、若い内親王が「象徴天皇制が民衆に近づいたことを実感させる存在」だった [河西秀哉, 2008]。
一般国民に近い存在となることが通例となっているが、それは報道を通じて皇室の民主化という政策的意図があったのかもしれません。
もちろん、wikiiによれば、順宮厚子内親王のケースは、久邇宮朝彦親王女が池田家に嫁いでいるということで、池田家と久邇宮家は姻戚関係だがあった。香淳皇后が関与した縁談とされており、もちろん文句をいう筋合いでは全くないですが、ますが、宮家の女王なら旧華族でよいと思うが内親王の原則はあくまでも終戦前のような皇族との結婚が原則であるべきです。
戦後の在り方は本来の在り方ではない。上流貴族の清華家ですら降嫁の前例がないのである。地下官人クラスに降嫁などありえない。したがって戦後の在り方は異例が続いているという見方をすべきだ。もともと内親王は公主と違って臣下に嫁すものでない。
戦後は原則が履行されてない状況だが、典範12条は、内親王・女王の身位を保持するための結婚は皇族との結婚を規定し、令制の原則を踏襲しているからいいが、有識者会議の皇族以外と結婚しても、内親王・女王が神位を保持する案は、内婚という婚制の核にある思想を否定するので、皇室制度の破壊になるからダメというのか私の意見です。
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