公務員に労働基本権付与絶対反対-政府は巨悪と手を結ぶな

無料ブログはココログ

ニュース(豪州・韓国等)

« 2021年8月 | トップページ | 2021年10月 »

2021年9月の3件の記事

2021/09/26

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案反対

 

 

 

 

 

 

 

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議

 

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は96日の共同通信天皇ご一家と4宮家存続の構想 政府、女性皇族が継ぐ案を想定」というニュースがあり、この報道では有力とされているが、私は反対します。

 

 

理由1 皇室典範12条は継嗣令王娶親王条(およそ1300年前)の趣旨を大筋で継受しており、王娶親王条は56世紀の皇室の慣例を明文化したものだから1600年の伝統規範を、12条により維持しているがゆえ、揺るがせにできない規範的価値であり、改変には絶対反対、特例としての適用除外も反対である。

 

 

 

 継嗣令王娶親王条と皇室典範の明文規定は以下のとおり異なるが継受しているといえる

 

 つまり令制は臣下が皇親女子を娶れないことを原則とし、二世女王以下は規制緩和されたが、内親王を臣下が娶ることは一貫して違法であった。皇室典範ではそのような原則論を述べていない。でも大筋で継受していると解釈できる理由を示す

 

 

王娶親王条の趣旨を大筋で継受しているといえる根拠

 

 

1   皇室典範12条は、皇族女子が身位を維持できる在り方として、皇族内婚という比較文化的には特徴的な婚制を明文規定しているゆえ、皇親内婚を原則とする令制を大筋で継受している。

 

 

2 皇室典範12条は、王娶親王条が違法とする臣下が内親王(一世皇女)を娶ることを否定していない。

しかしそれは、藤原良房-源潔姫の婚姻を合法にした方便と全く同じだ。

 

 

3 欽明后石姫皇女より紀宮清子内親王まで6世紀から21世紀まで約1500年の

皇女(養女除く)の婚姻

  皇族内婚    臣下へ降嫁

   63   29

統計的にみても歴史的に一貫して皇族内婚が原則、皇室典範12条は皇族の身位を失わない結婚の在り方として継受している。

 

 

 

 

4 日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。

文殊正子. (1986). 『内親王』号について 『公主』号との比較. 古代文化 38(10).

 

 内婚、内向きだから内親王

 内親王号創出の意義、性格を維持している皇室典範12条

(皇族以外と結婚しても、内親王は皇室に残る、有識者会議の案は内親王の歴史的性格規定を否定、皇室制度を破壊する)

 

 

 

 

5 実態面からみて旧皇室典範のもとでは皇女5方すべてが皇族と婚姻しており、内親王は皇族以外との結婚を違法としていた令制の趣旨を継受している証拠。現皇室典範12条と旧典範44条の内容はほぼ同じなので、現典範も継受していると言ってよい。

 

 

 

 

〇継嗣令王娶親王条

 

 

 

 

 

 「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 

諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。従って皇親の範疇である内親王、二世~四世女王の(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)臣下との婚姻は違法

 

 

 

『日本紀略』延暦12年(793)九月丙戌の詔

 

 

 

「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者

 

 見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得る

 

〇旧皇室典範(明治22年1889)

第四十四條

皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ

 

 

 

〇現皇室典範

 第十二条  

 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる

 

 

 

私が改変絶対反対、適用除外も反対と申し上げているのは皇室典範12条であります。皇族女子が結婚する場合内親王、女王といった身位を維持できるのは皇族と結婚する場合に限るという条文です。これは旧皇室典範も同じです。違うのは

 

 要するに皇室典範では皇族内婚と皇族外(臣下、一般国民)との結婚を区別してまして、この区別は、皇族内婚を原則としていた令制を継受していると理解してよいということです。具体的に令制の婚制をみていきたいと思います。

 

 

 図表化したのがこれです。ただし、慶 雲 3 年 (706) 2 月 16 日の 格1で5世王も皇親とされたので、8世紀において臣下が娶りうるのは六世女王以下ということになります。 

 

 

 

 

 63対29というデータですが、若干説明します。内親王と皇親の婚姻は一覧表をつくってあります。石姫皇女の立后が540年ということで、およそ1500年間に63例ということです。き色に塗ったのは皇后に立てられた例で、13例あります。平安時代まではもちろんかなりの数があります。ただ12世紀の二条天皇とよし子内親王といういとこ同士の結婚、母は美福門院ですが、この後しばらく内親王は非婚が通例になります。鎌倉時代の後半に内親王と天皇の婚姻がまたみられるようになります。南北朝時代以降はこちらの図表をみていただきます。 この表は室町時代以降の皇女・内親王(夭折事例は除く)一覧表で、引用参考・服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』小学館 2002 皇女一覧表、ウィキペディア コトバンク等江戸時代の霊元天皇の皇女以降、皇女もしくは内親王の一覧表で、ただし夭折された方は除いております。南北朝・室町・戦国時代は、皇女は正しくは比丘尼御所、通称尼門跡に入室するのが通例になります。尼門跡は寺領領主とて経営体の長で決して悪くありません。江戸時代も尼門跡に入室するケースは多いですが、結婚される皇女もでてきます。17世紀に皇女の摂家への降嫁が9例あります。この理由については、久保貴子氏がコメントしており、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないかと考えられる。徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。また、 一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」とする。

 

久保貴子(2009). 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち)」. 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2.

 

 

 

 上記の見方に加え、私の考えでは五摂家が禁中並公家諸法度により、事実上、世襲親王家当主より座次、序列上位となったことが大きいと思う。皇族以上の序列なら臣下が娶ることは違法とされていた内親王との結婚も障碍はないという理屈はありうるので、原則から逸脱してないという方便になっていると考えます。かし近世朝廷においては、17世紀末期に皇女の婚姻の方針が転換された。元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来、摂家との婚姻をやめ、原則として本来の在り方である内親王は皇族と結婚する在り方に回帰している。この方は皇后ですね。

 この方針の転換については推測にすぎないが、霊元天皇が幕府と強く交渉して、天和3年(1683)に14世紀中葉以来の立太子礼(朝仁親王)を復活させ、貞享4年(1687)に221年ぶりに、大嘗祭(東山天皇)を復活させた。元禄10年(1697年)有栖川宮家の幸子女王が東山天皇に入内し宝永5年(1708)皇后に立てられてますが、皇族の皇后は後醍醐后珣子内親王以来のことです。だから、内親王が皇族に嫁ぐようになったのも、霊元天皇による朝儀復興とか本来の姿に戻そうという政策と軌を一にするものという理解でよいのてはないか。

  もっとも正徳6年(1716)2歳の霊元皇女八十宮が家継と婚約した例などもあるが、これは霊元法皇の幕府と関係修復を図る政治的意図によるもの、ただ家継の夭折で結婚にはいたってません。和宮親子内親王についてはよく知られているとおり当時の公武合体策という特殊な事情によるもので、例外的事例であり、和宮とて有栖川宮熾仁親王と縁約していましから、幕末まで皇女は結婚するなら皇族という方針は一貫している。明治22年旧皇室典範のもとでは、明治41年の常宮 昌子内親王から、明治皇女4方明治皇女内親王は九方おられましたが、五方は夭折されており、無事に成長した方は四方だった。すべて皇族との結婚です。また昭和18年の昭和皇女照宮 成子内親王も皇族と結婚しているので終戦前ので皇女内親王の5方の結婚はすべて、皇族であります。従1いまして17世紀末期から、20世紀前半というくくりでは、内親王が皇族と結婚した例9例に対し、臣下が娶ったのは1例にすぎません。

  ですから旧皇室典範のもとでは、令制の原則である。内親王は皇族と結婚するのが原則であることを明確に意識し踏襲している。旧皇室典範44条と、現典範12条は同趣旨であることは先ほど申し上げたとおりですから、実態面からみて皇室典範は令制の原則を継受していると言って位と思います。

  もちろん、皇室典範は皇女内親王が臣下に降嫁すること自体は合法としていることは令制と違います。皇族に相応の相手がいないとか、江戸時代のような尼門跡のポストはないのですから、皇女が多かったならば、それもあったかもしれまんが、実際は、令制が臣下は内親王れないとする大原則どおりであることがある。原則どおりだったということです。会ったかもしれませんが、

 

 

 

 こちらは、臣下が皇女内親王を娶った例(養女を除く)です。栗原弘氏の論文は、さきほど『歴史のなかの皇女たち』ネットを参照しました。

 29例というのは、令制では二世女王の範疇であるこの三方はカウントしないで29です。

 細かい話になりますが、内親王の範疇は令制と皇室典範は違います。現在は令制の二世女王でも内親王です。む

 

源潔姫は、臣籍に下って結婚しており内親王ではないのでぎれぎり合法といえます。しかし内親王を娶るのは反律令行為、違法でした。

 

10世紀前半に藤原師輔への勤子内親王・雅子内親王・康子内親王降嫁は明確に違法である。にもかかわらず勅許され、この後も内親王降嫁は20例以上あります。

  これは師輔の三皇女降嫁は醍醐崩後、朱雀朝、村上朝においてである。

 藤原師輔は 天慶2年(939)師輔の伯母にあたる皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同3年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(のち村上天皇)の室に入れ(皇后に立てられ冷泉・円融御生母)、権勢の基礎を築き、同7年4月成明親王が朱雀天皇の立皇太弟で、師輔は東宮大夫に転じる。要するに師輔の殊遇は後宮を統率していた皇太后藤原穏子に贔屓にされ、中宮大夫として仕えていたこと。村上天皇にとって立坊の功労者であり、外戚でもあったという事情が背景がある [角田文衛, 1985初出1966

「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』. 法蔵館.]

 

 

 

 

 

 康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなきに(前が汚れている)」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『大鏡』『中外抄』下29) [保立道久, 『平安王朝』. 岩波新書1996]などと伝えられており公然周知の醜聞だったようである。

 師輔がやったことは反律令的行為で、 都の人々も臣下が内親王を娶ることをスキャンダルとしてとらえているともいえます。

 

しかしこれが゜前例になって、10世紀から11世紀前半にかけて内親王が降嫁した例が少なからずあります。

儀式進行で失態が多く無能といわれる藤原あきみつにしても内親王二方が降嫁してます。三条天皇は禔子を藤原頼通(藤原道長の長男)へ嫁がせることで道長の勢力を牽制しようとしたが、頼通の病気により実現せず[1]、禔子は万寿3年(1026年)に藤原教通(頼通の弟)の継室として降嫁したとウィキペディアにあります。

 

 このように、令制では違法であっても、内親王を臣下が娶った例はありますが、特定の時期、10世紀と17世紀と20世紀後半以降に集中的に7あらわけていめだけであり、全時代を通じてみられる現象ではありません。63対29だから統計的にみても皇族ナイコンが原則です。

 

昭和20年代の、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の結婚においても、「平民」性が強調され、カップルの「仲睦まじさ」、「恋愛」感情が注目されていた。鷹司平通氏は旧華族、摂関家への降嫁は、17世紀以来のことだった。日本交通公社(交通博物館)に勤務され月給 6 千円、天皇の娘が「一平民サラリーマン」の妻となる出来事として受け止められた [森暢平, 2014]。皇室の民主化をアピールするうえで、若い内親王が「象徴天皇制が民衆に近づいたことを実感させる存在」だった [河西秀哉, 2008]。

 

 一般国民に近い存在となることが通例となっているが、それは報道を通じて皇室の民主化という政策的意図があったのかもしれません。

 

 もちろん、wikiiによれば、順宮厚子内親王のケースは、久邇宮朝彦親王女が池田家に嫁いでいるということで、池田家と久邇宮家は姻戚関係だがあった。香淳皇后が関与した縁談とされており、もちろん文句をいう筋合いでは全くないですが、ますが、宮家の女王なら旧華族でよいと思うが内親王の原則はあくまでも終戦前のような皇族との結婚が原則であるべきです。

 戦後の在り方は本来の在り方ではない。上流貴族の清華家ですら降嫁の前例がないのである。地下官人クラスに降嫁などありえない。したがって戦後の在り方は異例が続いているという見方をすべきだ。もともと内親王は公主と違って臣下に嫁すものでない。

 戦後は原則が履行されてない状況だが、典範12条は、内親王・女王の身位を保持するための結婚は皇族との結婚を規定し、令制の原則を踏襲しているからいいが、有識者会議の皇族以外と結婚しても、内親王・女王が神位を保持する案は、内婚という婚制の核にある思想を否定するので、皇室制度の破壊になるからダメというのか私の意見です。

 

引用参考文献は

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021/09/11

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議 を批判する その5

動画台本の再修正

 

1 皇室典範12条は継嗣令王娶親王条の趣旨を大筋で継受しており、王娶親王条は少なくとも5~6世紀以降の皇室の慣例を明文化したものなので、およそ1600年の伝統規範を、12条により維持している以上、揺るがせにできない規範的価値ゆえ、改変には反対、特例としての適用除外も反対である。

 

 継嗣令王娶親王条

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。

 従って皇親の範疇である内親王、二世~四世女王は(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)は臣下との婚姻は違法

 

 

『日本紀略』延暦12年(793)九月丙戌の詔

「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者

 見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得る

 

Photo_20210912111001 

 

 

明治皇室典範(明治22年1889)

第四十四條

皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ

 

 

 現皇室典範

 第十二条  

 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。

 

内親王の範疇

 

 令制     皇姉妹、皇女

 

 嵯峨朝以降  親王宣下制度に移行

 

 旧皇室典範  皇女から皇玄孫の女子(四世孫まで) 

        支系から大統を継承した場合の皇姉妹

 

 現皇室典範  嫡出の皇女および嫡男系嫡出の皇孫である女子  三世以下の嫡男系嫡出の子孫は,男を王,女を女王とする(皇室典範第6条)

 

要旨

 

 皇室典範12条は内親王、女王たりうるのは、皇族と結婚するか非婚に限られるものとしている。

 これは、皇親女子の皇親内婚を定める継嗣令王娶親王条の趣旨を大筋で継受しているものと理解してよい。令制では延暦12年詔で規制緩和がなされ、二世女王以下は、条件付きで臣下に降嫁することを認めた。にもかかわらず原則論は、皇親内婚であり、特に臣下が内親王を娶ることは一貫して違法であるが、実際には10世紀に藤原師輔は醍醐三皇女内親王の降嫁をはじめとして、原則に反する結婚は少なからずある。師輔と康子内親王の密会はスキャンダルでもあったが、勅許された。しかしそれは例外とみるべきである。

 内親王は、皇族と結婚し内向きなので内親王号なのである。実際の皇親女子の結婚は大筋で延暦12年詔に準拠してなされており、明治以降、皇族の入寺得度が禁止されたので、中世より近世において大多数の皇女を尼門跡のポストで遇することができなくなったこともあり、皇女が臣下に婚出することを違法とはしていないが、実態としては、明治22皇室典範のもとでは、終戦前まで皇女内親王の五方すべてが皇族と結婚しており、実態面からも令制の継受としての性格は明白である。

 よって、皇親女子の内婚が原則論である伝統規範を維持してきた12条は揺るがせにできず、これを否定する有識者会議の内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能として皇族を確保しようとする提案は、皇室の伝統規範を破壊するゆえ棄却されなければならない。

 

 

 

 

 

 

 皇室典範12条は継嗣令王娶親王条の趣旨を大筋で継受していると理解してよい。

 

 つまりきわめて特徴的な皇族内婚志向の制度の趣旨を継受している。

 

 臣下に皇族の血を引く子が生まれることを好ましくないという思想を引き継いでいる。

 

 でも、継嗣令と皇室典範の明文規定自体は違うものではないかとの反論があると思うのでそこのところを説明したいと思います。

 

 要するに、内親王は結婚相手は皇族が原則という規範性は令制から皇室典範まで一貫しているものとしてとらえると、とりわけ皇女、内親王の臣下への降嫁は皇室典範では明文上禁止するものではないが歴史的経緯から原則に反するもの異例としてとらえることができるということを言います。

 

 そうしますと、臣下、民間人、一般国民と結婚したうえ、皇族の身分を保持し宮家を立てることは、皇親女子、とりわけ皇女内親王の婚姻規制の歴史的経緯を無視し、伝統規範に著しく反し、実質女系容認の英国王室等の在り方に接近するものである。

 本来内に向いた、性格規定のなされている「内親王」の本来の趣旨を歴史的意義を無視しており断じて容認できないということであります。

 

 皇室では少なくとも5~6世紀から皇親女子は皇親内婚が規範であり、それを明文化したのが継嗣令王娶条親王条である。

 臣下は皇親女子(内親王、二世、三世、四世女王)を娶ることはできない。これが本来の在り方です。天皇の血縁女子の婚出を禁止したのは、皇族の血縁的尊貴性を隔絶的に保護維持することです。

 中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している [文殊正子, 1986] [中村みどり, 2002]

 中国では宗法の秩序により、同姓不娶。外婚制ですね。日本の令制は唐永徽令を模範としてますが、外婚制は継受してません。

 

 実際、王娶親王条は8世紀までは厳格に守られていた。これは例外で、8世紀においても臣下と皇族女子の婚姻例で明確に違法といえるのは加豆良女王(天武三世女王)と藤原久須麻呂(太師藤原仲麻呂三男)との結婚だけである。臣下が三世王という高貴な女性を妻にすることは、反律令的行為であるが天下の政柄を執っていた仲麻呂だからできたことである [今江広道, 1983]。

 

 ただし延暦12年(793)詔で規制緩和され、見任大臣と良家(三位以上の家柄とみなされている)は、三世、四世女王を娶ることができるとし、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて女王は貴族との結婚が可能にとなった。これは大きな改変といえますが、しかし依然として内親王と臣下の婚姻は違法です。

 なお、二世女王を娶った初例は承和元年(834)頃の藤原衛と淳和皇子恒世親王女です。

 皇族としか結婚しないから内親王ですね。それが、皇族でなく臣下に降嫁するのは「内親王」とはいいがたいところがあります。

 もっとも10世紀前半に藤原師輔への勤子内親王・雅子内親王・康子内親王降嫁は明確に違法である。にもかかわらず勅許され、この後も内親王降嫁は20例以上あります。

  これは師輔の三皇女降嫁は醍醐崩後、朱雀朝、村上朝においてである。

 藤原師輔は 天慶2年(939)師輔の伯母にあたる皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同3年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(のち村上天皇)の室に入れ(皇后に立てられ冷泉・円融御生母)、権勢の基礎を築き、同7年4月成明親王が朱雀天皇の立皇太弟で、師輔は東宮大夫に転じる。要するに師輔の殊遇は後宮を統率していた皇太后藤原穏子に贔屓にされ、中宮大夫として仕えていたこと。村上天皇にとって立坊の功労者であり、外戚でもあったという事情が背景にある [角田文衛, 1985初出1966]。

 

 藤原師輔は、康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなさに(前が汚れている)」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『大鏡』『中外抄』) [保立道久, 1996] [中村みどり, 2002] などと伝えられており公然周知の醜聞だったという。

 つまり都の人々は、臣下である師輔と康子内親王の密会は、内親王の降嫁は違法という意味でスキャンダルとしてみていたことになります。

 全体的となところをみておきましょう。

 問題を皇女内親王に絞って考えるのがわかりやすいと思います。臣下が内親王を娶ることは令制では一貫して違法です。

 実際、皇女ないし内親王が、皇親(男性皇族)と結婚した事例は540年に欽明天皇の皇后に立てられた宣化皇女石姫皇女から、1943年に東久邇宮盛厚王に嫁した昭和天皇の皇女照宮成子内親王まで、私が数えたところ63例あり、うち立后が13例ある。ですから内親王は皇族と結婚するのが基本である。

 一覧表がこれです。

 千四百年に63例は少ないといえるかもしれないが、それは生涯非婚の皇女であるケースが最も多いからです。その意味については後で話します。

 問題は臣下との結婚であるが、10世紀に右大臣藤原師輔に醍醐皇女内親王三方が降嫁して以来、違法であるが勅許による婚姻というのが少なからずある。

 それ以前の9世紀における、藤原義房と嵯峨皇女源潔姫との結婚を含めると、実子としての皇女及び内親王を臣下が娶った例は、令制では25例、戦後の5例(眞子内親王殿下を含める)と30例に及ぶ。

 とはいえ江戸時代の10例のうち9例は摂家であり、17世紀に集中している。

 つまりおよその1500年間で、皇女内親王が皇親男子と結婚した、皇族内婚が63例、実子としての皇女及び内親王が臣下と婚姻した例は30例です。

 

  

 石姫皇女(540立后)から眞子内親王殿下(2017婚約内定)のおよそ1500年間

 

  実子としての皇女及び内親王 

 

  皇親男子との結婚 63例 (うち立后13例)

 

  臣下との結婚   30例

 

 63対30ということですから、統計的にみても原則は皇族との結婚であるといえるのです。

 貴族の家格が確定した院政期以降、上流貴族である清華家ですら降嫁は一例もなく、臣下が皇女を娶ることが多かった時期は、10世紀と17世紀、20世紀後半より現代までに限定されている。

 それゆえ、臣下との結婚より倍以上、皇族との結婚のだがら、内親王は皇族と結婚するのが実態としても原則といいうる。

 とくに元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王妃となって以来、内親王は皇族もしくは天皇と結婚するのが通例となり、昭和18年に照宮成子内親王が東久邇宮盛厚親王に嫁すまで、内親王の結婚は天皇が一例、皇族が八例あり、臣下に嫁したのは特殊な政治的事情による和宮親子内親王だけである。

 つまり17世紀末期から20世紀の前半までは、近世朝廷だけでなく皇室典範制定後においても、皇女内親王は、皇族に嫁すことを原則とする方針となっております。

 例外の和宮も有栖川宮熾仁親王と縁約していたのであって、姉の淑子内親王も閑院宮節仁親王との縁約があったが、親王が早世されたので、結婚には至らなかった。このことから朝廷は福子内親王以来、17世紀末から一貫して、内親王は皇族との結婚という、令制の本来の趣旨に沿ったあり方となっており、明治皇室典範のもとでは、明治天皇の皇女内親王は九方おられたが、夭折された五方を除く四方が皇族に嫁し、昭和18年昭和天皇皇女内親王一方が、皇族に嫁したこととあわせ、明治22皇室典範のもとでは、無事に成長された皇女内親王五方すべてが皇族に嫁し、令制が臣下が内親王を娶れないとする大原則どおりであることがある

 つまり、皇室典範以降も、皇女は皇族との結婚が原則という意識があることは明白である。

 でも、皇室典範は、明文で内親王の臣下へま降嫁を違法としていないではないかという反論がありえる。

 この点については、令制と明治皇室典範とは内親王の範疇が異なることを指摘しておきたい。令制では、内親王は天皇の姉妹か、皇女のみで、生得的身位です。もっとも嵯峨朝以降は親王宣下制となり、内親王宣下されない限り、内親王ではない。源潔姫のように賜姓臣籍降下する場合もありますし、南北朝時代より江戸時代まで、多くの皇女が「比丘尼御所」とか御宮室といいますが、尼門跡となりますが、内親王宣下されないのが通例です。

 ところが明治22年皇室典範では、内親王は、皇女から皇玄孫の女子(四世孫まで)と        支系から大統を継承した場合の皇姉妹とされ、令制の二世女王、三世女王、四世女王が内親王とされてます(また現皇室典範では違った規定となってますが)。

 つまり延暦12年で、見任大臣良家の子孫が三世女王以下を娶ることが許され、藤原氏は二世女王を娶ることは合法とされた。ですから、内親王のくくりが四世女王まで拡大されたので、内親王を娶ること自体が違法ということを規定しなくても、令制を継受しているといえるのです。

 令制つまり前近代での、皇親女子の婚姻の在り方は、実態としても延暦12年詔の趣旨でした。つまり理念的には皇親内婚、とくに皇女内親王は臣下に嫁すのは好ましくない。しかし二世女王以下は条件付きで臣下に降嫁することを認めている在り方で、皇室典範では含みとすることを明文規定していないが、実際の皇族女子の結婚の在り方から少なくとも終戦前までは令制のしゅしどおりだったということです。

 加えて、明治維新で皇族が入寺得度できなくなり、皇女には尼門跡のポストがなくなりましたからら、そういう意味でも内親王と臣下の婚姻を違法と明文で規定するむことはしなかったのだと思います。

 もっとも私は皇室典範の立法過程を調べてませんが、結果論としてそのように分析できるということであります。

(補足説明)

(1)非婚内親王が多い件

理由は、2つあります。

一つは臣下に皇族の血を引く子が生まれることを好ましくないという思想。すでに述べたとおり内親王・女王たりうるのは、非婚か皇族と結婚するかいずれかとする、王娶親王条の思想。もう一つは令制で内親王に相当な国家的給付ずありかなりの収入と家政機関が付くので経済的に厚遇されるという伝統である。

 土地制度が荘園公領制となってから御願寺領等荘園群の本所が内親王であるケースが多かった。

 南北朝時代から江戸時代まで皇女の大多数が尼門跡となったが、これも寺領領主で経営体の長であり、皇女を遇するポストとなっていた。

 このような伝統を踏まえるならば、非婚内親王の厚遇はありうる選択肢というるが、有識者会議の考え方は

 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持するというもので、非婚ではないので伝統には反する。

 

(令制の親王や皇親の待遇)

 

 位階は親王は一品から四品の品位、諸王は一位から五位。親王は格別で諸王は礼遇では劣る。

皇親には多額の田地や禄が支給され、親王の品田は一品に80町、二品60町、三品50町、四品40町、食封は親王一品に800戸、二品600戸、四品300戸で内親王は半減である。このほか時服、有品親王に月料などの特典があり、皇親が官職につくと官職に応じて職田、食封、季禄などがつく

親王は令制では特に、文学・家令・扶・従の職員が附く。文学は経書を教授する教育係で内親王には附かない。このほか帳内(近侍して雑用に当たる者)が、一品親王なら160人、品位によって差がある。

 

 院政期から鎌倉時代は非婚内親王が格別厚遇されていた時期といえるかもしれません。皇后とは天子の嫡妻であるはずが、天皇准母(実質准母として意義のあったケースもある)としての非婚内親王の皇后が11例あります。

 

 また非婚内親王で女院宣下された例が後朱雀后後三条御生母陽成門院から、光格后欣子内親王まで41例(うち10例は非婚皇后)あります。

 

 南北朝時代以降は、男性皇族の宮門跡と同じように入寺得度するケースが大多数をしめるようになる。これを比丘尼御所とか御宮室といいますが、ここでは尼門跡としますが、とくに室町・戦国時代は皇女はすべて非婚で尼門跡です。私が数えたところ正確ではないかもしれませんが入寺得度された皇女ないし尼門跡といえるケースは63例あります。江戸時代は結婚した皇女は14例、尼門跡は幕末に荒廃したといわれますが、28例あります。

 

 要するに非婚皇女が寺領領主とて経営体の長となるポストが存在し、皇室では皇女が入寺得度されることは、めでたいことで、このポストは決して悪くありませんから、非婚が多かったともいえる。

 

 尼門跡(「比丘尼御所」「御宮室」)だが、皇女を尼寺に閉じ込めたというのは大きな誤解である
 室町・戦国時代の研究では、後柏原天皇の時代、比丘尼御所は年
4回宮中に参内しており、里帰りは俗人と同じことだし、社寺参詣や遊興には男性公家、しかも天皇近臣が従っており、内親王でなくても皇女という立場は変わらない[菅原正子2002]。男性公家を引き連れて夜遅くまで酒宴という世俗的で自由気まま生活なを送る尼門跡もおられたのである。。

 

 

 永正8年(1511 329日の観桜御宴では申楽が催され、宮御方(のちの後奈良)と三宮が御出座された。『実隆公記』によれば召された方々は、中書王(伏見宮貞敦親王)、円満院宮(後土御門皇子)、仁和寺宮(後柏原三宮の覚道か貞常親王息の道永)、大慈光院宮(後土御門皇女)、安善寺宮(後土御門皇女)、大慈院宮(後土御門皇女)、大聖寺新宮(後土御門皇女)、曇花院、三時知恩院御附弟、二位、三位禅尼等、以下公家衆で、三献中書王(伏見宮)御酌、七献天酌とある

 

 

 

 

 

後土御門皇女 渓山

 

 

 

永正14 真如堂参詣 吉田山で酒宴

 

永正16 千本釈迦堂参詣 酒宴

 

永正17 聖門師村 池亭 酒宴

 

 

 

後花園皇女 芳苑恵春

 

文明7 賀茂神社 猿楽見物

 

文明8 千本釈迦堂と鞍馬寺2回参詣

 

文明11 日吉大社祭礼見物

 

    石山寺参詣

 

    高雄 紅葉

 

シリーズ全体の引用・参考文献 は

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議批判
その2の末尾

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021/09/05

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議 を批判する その4

動画台本の修正

 

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」 に関する有識者会議の内親王・女王が結婚しても皇族の身分のままとする案は、いわゆる女性当主の宮家といってもよいと思いますが、これに反対する理由の第一は、

皇室典範12条(明治皇室典範44条もほぼ同じ)の改変は絶対反対で、特例としての適用除外も反対ということです。それは、12条が令制の皇親女子の婚姻規制である継嗣令王娶親王条の趣旨を大筋で継受していると解釈してよいと考えられるからです。

 

明治皇室典範

第四十四條皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ

 

 現皇室典範

第十二条皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる

 

 とはいっても、継嗣令王娶親王条は臣下が内親王を娶ることは違法とされ、皇室典範はそうでないなど違いはあるのですが、令制の父系帰属主義を継承していることは同じで一貫しており、戦後は異例にも内親王や女王が皇族以外結婚するケースが続いていますが、明治41年から昭和18年まで内親王五方は皇族と結婚しており、令制の趣旨と合致している。継嗣令王娶親王条は少なくとも5~6世紀の慣例を明文化したものと考えられるので、千六百年の規範を大筋で維持されていると理解できそれゆえ、揺るがせにできないという結論ですが、要約していうとこういうことです。

 つまり継嗣令王娶親王条は皇親内婚を規定しています。臣下は内親王から四世女王までの皇親女子を娶れないんです。

 我が国の内親王は皇親内婚のみ許された。律令が天皇の血縁女子の婚出を禁止したのは、皇族の血縁的尊貴性を隔絶的に保護維持するため。子は父系に帰属するため、皇子が臣下の女を娶っても所生の子は、皇族に列するが、皇女が臣下に嫁いだ場合は、臣下に皇族の血を引く子が生まれることを好ましくないという思想です。

 栗原弘は記紀が皇親女子と臣下との婚姻事例を伝えていない事実は重要であるとする。5 7世紀に天皇に血縁的に近い女子を婚出させないとしい規制は(鎌足-鏡女王)を除き一貫して堅守されていたとし、その慣例を成文化したのが王娶親王条である。

 つまり皇室においては令制前の5世紀頃より一貫した規範だとされる [栗原弘, 2002]、実証史学にもとづいて1600年の規範といえるのです。

 中国では皇帝の娘や姉妹つまりプリンセスは「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している [文殊正子, 1986] [中村みどり, 2002]

 内を向いた性格だから内親王なのである。

 実際、王娶親王条は8世紀までは厳格に守られていた。

 ただし延暦12年(793)詔で規制緩和され、見任大臣と良家(三位以上の家柄とみなされている)は、三世、四世女王を娶ることができる。特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて女王は貴族との結婚が可能にとなった。

 なお、二世女王を娶った初例は承和元年(834)頃の藤原衛と淳和皇子恒世親王女です。

 問題を皇女内親王に絞って考えるのがわかりやすいと思います。臣下が内親王を娶ることは令制では一貫して違法です。

 実際、皇女ないし内親王が、皇親(男性皇族)と結婚した事例は540年に欽明天皇の皇后に立てられた宣化皇女石姫皇女から、1943年に東久邇宮盛厚王に嫁した昭和天皇の皇女照宮成子内親王まで、私が数えたところ63例あり、うち立后例が13ある。ですから内親王は皇族と結婚するのが基本である。

 千四百年に63例は少ないといえるかもしれないが、それは生涯非婚の皇女であるケースが最も多いからです。

  院政期から鎌倉時代は非婚内親王が格別厚遇されていた時期といえるかもしれません。皇后とは天子の嫡妻であるはずが、天皇准母(実質准母として意義のあったケースもある)としての非婚内親王の皇后が11例あります。

 また内親王で女院宣下された例が後朱雀后後三条御生母陽成門院から、光格后欣子内親王まで41例(うち10例は非婚皇后)あります。これは非婚内親王も含めた数です

 南北朝時代以降は、男性皇族の宮門跡と同じように入寺得度するケースが大多数をしめるようになる。これを比丘尼御所とか御宮室といいますが、ここでは尼門跡としますが、とくに室町・戦国時代は皇女はすべて非婚で尼門跡です。私が数えたところ正確ではないかもしれませんが入寺得度された皇女ないし尼門跡といえるケースは63例あります。江戸時代は結婚した皇女は14例、尼門跡は幕末に荒廃したといわれますが、28例あります。

 要するに非婚皇女が寺領領主とて経営体の長となるポストが存在し、皇室では皇女が入寺得度されることは、めでたいことで、このポストは決して悪くありませんから、非婚が多かったともいえる。

 問題は臣下との結婚であるが、10世紀に右大臣藤原師輔に醍醐皇女内親王三方が降嫁して以来、違法であるが勅許による婚姻というのが少なからずある。

 それ以前の9世紀における、藤原義房と嵯峨皇女源潔姫との結婚を含めると、皇女及び内親王を臣下が娶った例は、令制では25例、戦後の5例(眞子内親王殿下を含める)と30例に及ぶ。

 とはいえ江戸時代の10例のうち9例は摂家であり、17世紀に集中している。この理由については、久保貴子氏がコメントしており、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないかと考えられる。徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。また、 一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」とする。

久保貴子(2009). 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち). 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2.

 

 上記の見方に加え、私の考えでは五摂家が禁中並公家諸法度により、事実上、世襲親王家当主より座次、序列上位となったことが大きいと思う。皇族以上の序列なら臣下が娶ることは違法とされていた内親王との結婚も障碍はないというべきである。

 近世の摂家への降嫁9例はそのようにみるべきで、今日における民間人への内親王降嫁と同列のものではない。

 序列の問題を補足しておきますが、鎌倉末期は書札礼で親王家は大臣家と同格だったとされるが、戦国時代に伏見宮家のステイタスが上昇した。

 天正15年(1587)の座次相論とは713日秀吉は関白任官披露のため前例のない公家、門跡が一同に会する禁中能会を開催したことによる。前例がないことをやったのだから当然もめるわけです。

 これは親王と准后との間で座次相論となり、不満を持つ方々、伏見宮家出身の宮門跡らが欠席したという事件なんですね。

 そもそも、摂関と宮家当主が同席する行事というのが中世にあったのか。足利義満が本来宮家は参仕しない朝儀に常磐井宮満仁親王を無理やり呼びつけた例があるようですが、ふつうないと思う。

 後土御門天皇は連句文芸を好まれ33年間に宮中で月次和漢御会を1500回張行してます。崩御の三日前も連句文芸御会が張行されていたということです。戦国時代、朝儀は衰退しましたが、文芸、遊興的行事などは行われてました。御会は5種類あったということですが、御会に召されることの多いメンバーとしては勝仁親王(後柏原)以外では、納言クラス、勧修寺流など中級貴族以下の禁裏小番の天皇近臣、伏見宮邦高親王とその連枝である門跡や僧侶でした。

 そもそも摂家が参内することがほとんどなくなっていた。近衛政家が参内したのはたった7回うち5回が外様和漢連句文芸御会ですが、これは近衛政家と西園寺実遠の懇願により実現したもの。天皇がミウチや禁裏小番の近臣とばっかり親睦を深めているのはまずいという認識でしょう。摂家、清華家当主も参仕できる御会を設けたのです。しかし近衛政家出席の外様の御会に勝仁親王や伏見宮邦高親王が参加することはないんです。摂家当主とは同席しません。これば座次の問題があるからかもしれません。

 政家の参加が5回で終わってしまったのは、恒例の一献で近衛政家が、断酒精進を理由に天皇の酌を受け取らなかったという事件があり、小森崇弘. (2008). 「後土御門天皇の月次連句文芸御会と公家」. 立命館文學 (606)

 酒を飲まないことに天皇が激怒し、そういう事情もあり戦国時代、天皇と摂関は疎遠になったということですね。

 そこで天正15年(1587)の相論ですが、当時の親王は、儲君たる誠仁親王を別格として、伏見宮第9代中務卿邦房親王、御室(仁和寺)、青蓮院、妙法院、梶井の宮門跡はいずれも伏見宮出身の法親王だった。准后は前関白近衛龍山(前久)と、聖護院、大覚寺、三宝院、勧修寺の門跡准后で、摂家出身者であった。

 関白秀吉は当事者より意見を聴取したうえ直ちに裁定を下し、正親町天皇の認可を受けた(『親王准后座次三ヶ条之事』)。

 715日の裁定は、親王と准后は同格、門跡准后、法親王、前関白は同格とし、それぞれの席次はくじ引きという曖昧さを残すものだった。ただし伏見宮邦房親王と近衛龍山は別格で、常に並んで上座を占めるとされた [谷口研語, 1994] [神田裕理, 2019]。従って伏見宮邦房親王は、前関白であるが准后宣下を受けてない九条兼孝、一条内基、二条昭実より上座とされていたのである [谷口研語, 1994]

 ところが元和元年 (1615) 禁中並武家諸法度であいまいだった座次が序列化され、皇太子以外の親王は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より下位の座次と決められた。

 家康は親王が大臣や准后より上位との見解を示したが、関白九条尚栄や摂家は、これを修正し、奈良時代、舎人親王より右大臣の藤原不比等が上席だったことを根拠として親王は三公の下とされたが、天正の座次の取り決めより親王の地位が著しく下降しているのは釈然としないものがある。

 摂関家の位地が上昇した以上、臣下は内親王を娶ることができないという、継嗣令王娶親王条を厳格に考える必要はなく、17世紀に皇女が摂関家に嫁した9例があると考えます。令制の規定から大きく逸脱するものではないという理解です。

 貴族の家格が確定した院政期以降、上流貴族である清華家ですら降嫁は一例もなく、臣下が皇女を娶ることが多かった時期は、10世紀と17世紀、20世紀後半より現代までに限定されている。

 それゆえ、臣下との結婚より倍以上、皇族との結婚のだから、内親王は皇族と結婚するのが実態としても原則といいうる。

 とくに元禄11(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王妃となって以来、内親王は皇族もしくは天皇と結婚するのが通例となり、昭和18年に照宮成子内親王が東久邇宮盛厚親王に嫁すまで、内親王の結婚は天皇が1例、皇族が8例あり、臣下に嫁したのは特殊な政治的事情による和宮親子内親王だけである。

 つまり17世紀から末期から20世紀の前半までは、近世朝廷だけでなく皇室典範制定後においても、皇女内親王は、皇族に嫁すことを原則とする方針となっております。

 例外の和宮も有栖川宮熾仁親王と縁約していたし、姉の敏宮淑子内親王も閑院宮節仁親王と縁約がありました。このことから朝廷は福子内親王以来、17世紀末から一貫して、内親王は皇族との結婚という、令制の本来の趣旨に沿った方針といえるのであって、明治皇室典範のもとでは、明治天皇の皇女内親王は九方おられたが、夭折された五方を除く四方が皇族に嫁し、昭和18年昭和天皇皇女内親王一方が、皇族に嫁したこととあわせ、明治皇室典範のもとでは、無事に成長された皇女内親王五方すべてが皇族に嫁し、令制が臣下は内親王れないとする大原則どおりであることがある。

 なるほど令制では内親王と臣下の結婚を違法とし、皇室典範では、明文上、皇族から離れるが、臣下との婚姻を禁止していないという違いはあっても、実態面では明治皇室典範のものでは内親王はすべて皇族と結婚ということで、令制の趣旨どおりで、皇室典範が、内親王降嫁を違法としてないのは、17世紀に摂家への降嫁が慣例になった時期があったこと、皇族の出家が禁止され、皇女を処遇できる尼門跡のポストがなくなったことを考慮してのものと考えられ、実態面からみて、明治皇室典44条は、令制の趣旨を継受したといいうると考えてよいと思う。だから、明治皇室典範44条とそれと概ね同じ内容の現行皇室典範は明文規定か違っていたとしても、大筋で令制継嗣令王娶親王条の趣旨を継受していると理解できるのいうのが私の見解です。

 そもそも、臣下が内親王を娶るのが原則に反するのだから、日本の内親王は中国皇帝のプリンセスである公主と違って皇族と結婚する内向きなのが基本的性格なのに、女系許容の英国皇室のようにプリンスコンソートを抱え込む制度は、内親王の根本的な性格を否定するものとして反対だということです。

 補足して、なぜ17世紀末から摂関家への降嫁から、皇女は皇族との婚姻が原則という風に戻ったのかについてですが、久保貴子氏は不明としておりますが、考えられることとしては、これはたんなる憶測ですが、霊元天皇親政期の天和貞享年間に内親王三方が摂関家に嫁してます。これは当時の慣例どおりです。1690年代元禄期ですが、東山天皇の治世、関白近衛基熙と霊元上皇と対立してました。

 霊元上皇は、幕府に強く交渉し、久しく廃絶していた大嘗祭、立太子式などの朝儀を再興した。しかし、院政の強行をはじめとして、朝廷の運営をめぐって関白近衛基熙と相容れなかったので、近衛基熙を「親幕派」として嫌ってました。そうしたことから、内親王の嫁ぎ先も摂関家から親王家にしたのではないか。

元禄11年(1698)福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁ぐ前年に、有栖川宮家の幸子女王を東山天皇の女御として入内しており、数年後に立后されてます。皇親皇后は久しぶりのことですが、令制の原則に戻した感があります。

 ということで大嘗祭再興などの霊元上皇による一連の政策をセットとして見てよいと思います。

もっとも、正徳6年(1716)霊元法皇は幕府と関係修復に転じ、新井白石があっせんした2歳の皇女八十宮の将軍家継への降嫁を認めます。結局家継が8歳で薨ぜられたので、実現はしませんでしたが、これも事情があって、江戸の大奥、前代将軍家宣御台所の天英院ですね。近衛基熙女ですが、大奥での天英院の勢力を排除したい家継生母月光院と、近衛基熙を政敵とする法皇の思惑が一致したというこということはウィキベディアに書かれてます。

要するにこれは政敵の幕府との結びつきを弱めてやろうという趣旨ですね。その後緋宮智子内親王と家治との縁談もあったのですが、桜町天皇は拒否してますから、八十宮は例外として考えてよいです。

 問題は戦後のあり方である。すべて臣下、一般国民なのである。これは皇室の民主化をアピールするためか、サラリーマンの妻、自由恋愛であることが報道され、国民に内親王が一般国民に近い生活をしていることが宣伝されたことが、皇室と国民の距離を縮めたと考えられる。国民大衆に親しまれる皇室といいますか、これがミッチーブームにつながる。

 むろん鷹司平通氏は摂家であるし、池田隆政氏は久邇宮家と姻戚関係があったということで、昭和の三例は旧華族ですが、皇室典範では合法でも令制の趣旨原則には反している、前にも言いましたが家格が確立した院政期以降でいうと清華家ですら降嫁はないです。まして地下官人クラスに降嫁は絶対ありえない。ありえなかったことが起きたとみるべき。 

 戦後の内親王や女王の結婚相手に皇族も旧皇族も御一方もおられないのは意図なものかどうかは知りませんが、20世紀前半期とは違って令制の趣旨を継受していないあり方のようにも思え問題なのである。

 つまり、戦後の内親王は本来の在り方ではなく、むしろ中国王朝のプリンセス公主に近いありかたになっている。国民の多くは誤解しているかもしれない、20世紀前半の在り方が原則なのに、戦後の在り方がふつうだと勘違いしているのではないか。

 ショックだったのは、東京都職員への降嫁です。そんなことがあってよいのかと率直に思いました。もちろんその方は立派な方なのだろうし、この婚姻自体を批判する趣旨では全くありませんが、東京都勤務が少しひっかかるということだけ言います。

 というのは、今上陛下は皇太子時代、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁であることから、東京都水道局の朝霞浄水場や平成20年には玉川田園調布にある研修・開発センターを行啓され、水道事業や施設等視察をされてます。私が経験した限りでは親皇室的な職場では全くないことが問題なんです。

 平成126月に上皇陛下の御生母香淳皇后が崩御になられました。725日に豊島岡墓地で斂葬の儀がありました、当日は平日で当時水道局千代田営業所に私はいましたが、10時に斂葬の儀に合わせて黙とうが要請されていたはずですが、10時少し前に所長は席を外し、しばらくすると組合役員(全水道東水労、全労協旧社会党系)が所長席前に陣取り演説を開始し、我々は天皇制に反対なので皇太后葬儀の黙とうを認めないとして、庁内放送のボリュームをさげ、長時間の反天皇制演説を続けました。10時半ころに勝手に離席した所長が戻ってきました。会議が予定されていたとは思えませんし、どこかで待機していたのでしょう。

 これは管理職と組合が示し合わせで、施設管理権、業務指揮権を放棄して現認を避けるために行っていることです。演説行為は業務の集中を妨げ、他の職員の職務専念を妨害させる行為であり、演説者の職務専念義務違反でもありますから、まともな企業の管理職なら、中止命令をするはずです。しかし私が経験している範囲で管理職は業務指揮権と、施設管理権が組合によって掣肘されており、他の職員の業務を妨げる行為、無許可演説・集会、を禁止する就業規則もないわけです。したがって処世術として管理職は組合のいいなりになって業務指揮権や施設管理権(庁舎管理権)を発動することをしないのが通例です。権限があり職場の秩序維持のために必要なことでも、命令はしませんし、違法行為や違法行為を助長する行為があっても現認調書を本局に提出することもないです。こうした職場風土は今日でも同じです。もちろん弔旗は掲出しません。赤旗の掲出は認めても日の丸はダメという左翼体質の職場です。

 平成12年の斂葬の儀では近くの銀行など弔旗を掲出していたのを見ましたが、都の出先の庁舎はしません。もちろん消防署は国旗掲出しますよ、掲出したところもあるかもしれませんが、私が勤務した出先で国旗を掲出した例はありません。千代田営業所は主税局との合同庁舎ですが、知事部局や水道局は消防署と違います。

平成211112日に天皇陛下御即位20年祝賀行事があり、国旗の掲出が政府から

されていたはずですが、当時水道局中野営業所にいましたが、もちろん組合を憚って掲出されません。そもそも国旗が備品としてないですから。

 もっとも都市整備局がどうかは全く知りません、教育庁のように

「OBJECTION HINOMARU KIMIGAYO」等と印刷したトレーナーを着用した教員に重い処分を下したりするところもありますが(都立南大沢学園養護学校事件・東京地判平29522TKC)それは一面を見ているのであって、私の経験は主として水道局ですが、よその局から異動してくる東京都管理職の体質は局をまたいでもさほど変わらないというように思えます。

 即位礼とか休日閉庁だから国旗掲出の必要はないですが、平日に行われる式典があっても、国旗を掲出しないのは組合員どころか管理職も反天皇制的な体質といわれてもしかたないです。そうしたことで、内親王降嫁の殊遇を得ている方が東京都勤務というのは違和感がある。その方は立派な方だが、職場の体質について疑問を呈しました。むしろニューヨークの法律事務所に勤務される方は良かったのではないでしょうか。職場が反天皇制なんてことはないと思いますから。

 くだくだ言いましたが要するに令制以来の原則を再確認した場合、やはり内親王なら、原則は皇族との結婚、一般国民へ婚出例外とみるべきで、それとは逆に、プリンスコンソート類似の制度で一般国民を迎えるのはもってのほかということです。

« 2021年8月 | トップページ | 2021年10月 »

最近の記事

最近のトラックバック

2021年10月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

世界旅行・建築