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2021/09/11

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議 を批判する その5

動画台本の再修正

 

1 皇室典範12条は継嗣令王娶親王条の趣旨を大筋で継受しており、王娶親王条は少なくとも5~6世紀以降の皇室の慣例を明文化したものなので、およそ1600年の伝統規範を、12条により維持している以上、揺るがせにできない規範的価値ゆえ、改変には反対、特例としての適用除外も反対である。

 

 継嗣令王娶親王条

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。

 従って皇親の範疇である内親王、二世~四世女王は(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)は臣下との婚姻は違法

 

 

『日本紀略』延暦12年(793)九月丙戌の詔

「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者

 見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得る

 

Photo_20210912111001 

 

 

明治皇室典範(明治22年1889)

第四十四條

皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ

 

 

 現皇室典範

 第十二条  

 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。

 

内親王の範疇

 

 令制     皇姉妹、皇女

 

 嵯峨朝以降  親王宣下制度に移行

 

 旧皇室典範  皇女から皇玄孫の女子(四世孫まで) 

        支系から大統を継承した場合の皇姉妹

 

 現皇室典範  嫡出の皇女および嫡男系嫡出の皇孫である女子  三世以下の嫡男系嫡出の子孫は,男を王,女を女王とする(皇室典範第6条)

 

要旨

 

 皇室典範12条は内親王、女王たりうるのは、皇族と結婚するか非婚に限られるものとしている。

 これは、皇親女子の皇親内婚を定める継嗣令王娶親王条の趣旨を大筋で継受しているものと理解してよい。令制では延暦12年詔で規制緩和がなされ、二世女王以下は、条件付きで臣下に降嫁することを認めた。にもかかわらず原則論は、皇親内婚であり、特に臣下が内親王を娶ることは一貫して違法であるが、実際には10世紀に藤原師輔は醍醐三皇女内親王の降嫁をはじめとして、原則に反する結婚は少なからずある。師輔と康子内親王の密会はスキャンダルでもあったが、勅許された。しかしそれは例外とみるべきである。

 内親王は、皇族と結婚し内向きなので内親王号なのである。実際の皇親女子の結婚は大筋で延暦12年詔に準拠してなされており、明治以降、皇族の入寺得度が禁止されたので、中世より近世において大多数の皇女を尼門跡のポストで遇することができなくなったこともあり、皇女が臣下に婚出することを違法とはしていないが、実態としては、明治22皇室典範のもとでは、終戦前まで皇女内親王の五方すべてが皇族と結婚しており、実態面からも令制の継受としての性格は明白である。

 よって、皇親女子の内婚が原則論である伝統規範を維持してきた12条は揺るがせにできず、これを否定する有識者会議の内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能として皇族を確保しようとする提案は、皇室の伝統規範を破壊するゆえ棄却されなければならない。

 

 

 

 

 

 

 皇室典範12条は継嗣令王娶親王条の趣旨を大筋で継受していると理解してよい。

 

 つまりきわめて特徴的な皇族内婚志向の制度の趣旨を継受している。

 

 臣下に皇族の血を引く子が生まれることを好ましくないという思想を引き継いでいる。

 

 でも、継嗣令と皇室典範の明文規定自体は違うものではないかとの反論があると思うのでそこのところを説明したいと思います。

 

 要するに、内親王は結婚相手は皇族が原則という規範性は令制から皇室典範まで一貫しているものとしてとらえると、とりわけ皇女、内親王の臣下への降嫁は皇室典範では明文上禁止するものではないが歴史的経緯から原則に反するもの異例としてとらえることができるということを言います。

 

 そうしますと、臣下、民間人、一般国民と結婚したうえ、皇族の身分を保持し宮家を立てることは、皇親女子、とりわけ皇女内親王の婚姻規制の歴史的経緯を無視し、伝統規範に著しく反し、実質女系容認の英国王室等の在り方に接近するものである。

 本来内に向いた、性格規定のなされている「内親王」の本来の趣旨を歴史的意義を無視しており断じて容認できないということであります。

 

 皇室では少なくとも5~6世紀から皇親女子は皇親内婚が規範であり、それを明文化したのが継嗣令王娶条親王条である。

 臣下は皇親女子(内親王、二世、三世、四世女王)を娶ることはできない。これが本来の在り方です。天皇の血縁女子の婚出を禁止したのは、皇族の血縁的尊貴性を隔絶的に保護維持することです。

 中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している [文殊正子, 1986] [中村みどり, 2002]

 中国では宗法の秩序により、同姓不娶。外婚制ですね。日本の令制は唐永徽令を模範としてますが、外婚制は継受してません。

 

 実際、王娶親王条は8世紀までは厳格に守られていた。これは例外で、8世紀においても臣下と皇族女子の婚姻例で明確に違法といえるのは加豆良女王(天武三世女王)と藤原久須麻呂(太師藤原仲麻呂三男)との結婚だけである。臣下が三世王という高貴な女性を妻にすることは、反律令的行為であるが天下の政柄を執っていた仲麻呂だからできたことである [今江広道, 1983]。

 

 ただし延暦12年(793)詔で規制緩和され、見任大臣と良家(三位以上の家柄とみなされている)は、三世、四世女王を娶ることができるとし、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて女王は貴族との結婚が可能にとなった。これは大きな改変といえますが、しかし依然として内親王と臣下の婚姻は違法です。

 なお、二世女王を娶った初例は承和元年(834)頃の藤原衛と淳和皇子恒世親王女です。

 皇族としか結婚しないから内親王ですね。それが、皇族でなく臣下に降嫁するのは「内親王」とはいいがたいところがあります。

 もっとも10世紀前半に藤原師輔への勤子内親王・雅子内親王・康子内親王降嫁は明確に違法である。にもかかわらず勅許され、この後も内親王降嫁は20例以上あります。

  これは師輔の三皇女降嫁は醍醐崩後、朱雀朝、村上朝においてである。

 藤原師輔は 天慶2年(939)師輔の伯母にあたる皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同3年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(のち村上天皇)の室に入れ(皇后に立てられ冷泉・円融御生母)、権勢の基礎を築き、同7年4月成明親王が朱雀天皇の立皇太弟で、師輔は東宮大夫に転じる。要するに師輔の殊遇は後宮を統率していた皇太后藤原穏子に贔屓にされ、中宮大夫として仕えていたこと。村上天皇にとって立坊の功労者であり、外戚でもあったという事情が背景にある [角田文衛, 1985初出1966]。

 

 藤原師輔は、康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなさに(前が汚れている)」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『大鏡』『中外抄』) [保立道久, 1996] [中村みどり, 2002] などと伝えられており公然周知の醜聞だったという。

 つまり都の人々は、臣下である師輔と康子内親王の密会は、内親王の降嫁は違法という意味でスキャンダルとしてみていたことになります。

 全体的となところをみておきましょう。

 問題を皇女内親王に絞って考えるのがわかりやすいと思います。臣下が内親王を娶ることは令制では一貫して違法です。

 実際、皇女ないし内親王が、皇親(男性皇族)と結婚した事例は540年に欽明天皇の皇后に立てられた宣化皇女石姫皇女から、1943年に東久邇宮盛厚王に嫁した昭和天皇の皇女照宮成子内親王まで、私が数えたところ63例あり、うち立后が13例ある。ですから内親王は皇族と結婚するのが基本である。

 一覧表がこれです。

 千四百年に63例は少ないといえるかもしれないが、それは生涯非婚の皇女であるケースが最も多いからです。その意味については後で話します。

 問題は臣下との結婚であるが、10世紀に右大臣藤原師輔に醍醐皇女内親王三方が降嫁して以来、違法であるが勅許による婚姻というのが少なからずある。

 それ以前の9世紀における、藤原義房と嵯峨皇女源潔姫との結婚を含めると、実子としての皇女及び内親王を臣下が娶った例は、令制では25例、戦後の5例(眞子内親王殿下を含める)と30例に及ぶ。

 とはいえ江戸時代の10例のうち9例は摂家であり、17世紀に集中している。

 つまりおよその1500年間で、皇女内親王が皇親男子と結婚した、皇族内婚が63例、実子としての皇女及び内親王が臣下と婚姻した例は30例です。

 

  

 石姫皇女(540立后)から眞子内親王殿下(2017婚約内定)のおよそ1500年間

 

  実子としての皇女及び内親王 

 

  皇親男子との結婚 63例 (うち立后13例)

 

  臣下との結婚   30例

 

 63対30ということですから、統計的にみても原則は皇族との結婚であるといえるのです。

 貴族の家格が確定した院政期以降、上流貴族である清華家ですら降嫁は一例もなく、臣下が皇女を娶ることが多かった時期は、10世紀と17世紀、20世紀後半より現代までに限定されている。

 それゆえ、臣下との結婚より倍以上、皇族との結婚のだがら、内親王は皇族と結婚するのが実態としても原則といいうる。

 とくに元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王妃となって以来、内親王は皇族もしくは天皇と結婚するのが通例となり、昭和18年に照宮成子内親王が東久邇宮盛厚親王に嫁すまで、内親王の結婚は天皇が一例、皇族が八例あり、臣下に嫁したのは特殊な政治的事情による和宮親子内親王だけである。

 つまり17世紀末期から20世紀の前半までは、近世朝廷だけでなく皇室典範制定後においても、皇女内親王は、皇族に嫁すことを原則とする方針となっております。

 例外の和宮も有栖川宮熾仁親王と縁約していたのであって、姉の淑子内親王も閑院宮節仁親王との縁約があったが、親王が早世されたので、結婚には至らなかった。このことから朝廷は福子内親王以来、17世紀末から一貫して、内親王は皇族との結婚という、令制の本来の趣旨に沿ったあり方となっており、明治皇室典範のもとでは、明治天皇の皇女内親王は九方おられたが、夭折された五方を除く四方が皇族に嫁し、昭和18年昭和天皇皇女内親王一方が、皇族に嫁したこととあわせ、明治22皇室典範のもとでは、無事に成長された皇女内親王五方すべてが皇族に嫁し、令制が臣下が内親王を娶れないとする大原則どおりであることがある

 つまり、皇室典範以降も、皇女は皇族との結婚が原則という意識があることは明白である。

 でも、皇室典範は、明文で内親王の臣下へま降嫁を違法としていないではないかという反論がありえる。

 この点については、令制と明治皇室典範とは内親王の範疇が異なることを指摘しておきたい。令制では、内親王は天皇の姉妹か、皇女のみで、生得的身位です。もっとも嵯峨朝以降は親王宣下制となり、内親王宣下されない限り、内親王ではない。源潔姫のように賜姓臣籍降下する場合もありますし、南北朝時代より江戸時代まで、多くの皇女が「比丘尼御所」とか御宮室といいますが、尼門跡となりますが、内親王宣下されないのが通例です。

 ところが明治22年皇室典範では、内親王は、皇女から皇玄孫の女子(四世孫まで)と        支系から大統を継承した場合の皇姉妹とされ、令制の二世女王、三世女王、四世女王が内親王とされてます(また現皇室典範では違った規定となってますが)。

 つまり延暦12年で、見任大臣良家の子孫が三世女王以下を娶ることが許され、藤原氏は二世女王を娶ることは合法とされた。ですから、内親王のくくりが四世女王まで拡大されたので、内親王を娶ること自体が違法ということを規定しなくても、令制を継受しているといえるのです。

 令制つまり前近代での、皇親女子の婚姻の在り方は、実態としても延暦12年詔の趣旨でした。つまり理念的には皇親内婚、とくに皇女内親王は臣下に嫁すのは好ましくない。しかし二世女王以下は条件付きで臣下に降嫁することを認めている在り方で、皇室典範では含みとすることを明文規定していないが、実際の皇族女子の結婚の在り方から少なくとも終戦前までは令制のしゅしどおりだったということです。

 加えて、明治維新で皇族が入寺得度できなくなり、皇女には尼門跡のポストがなくなりましたからら、そういう意味でも内親王と臣下の婚姻を違法と明文で規定するむことはしなかったのだと思います。

 もっとも私は皇室典範の立法過程を調べてませんが、結果論としてそのように分析できるということであります。

(補足説明)

(1)非婚内親王が多い件

理由は、2つあります。

一つは臣下に皇族の血を引く子が生まれることを好ましくないという思想。すでに述べたとおり内親王・女王たりうるのは、非婚か皇族と結婚するかいずれかとする、王娶親王条の思想。もう一つは令制で内親王に相当な国家的給付ずありかなりの収入と家政機関が付くので経済的に厚遇されるという伝統である。

 土地制度が荘園公領制となってから御願寺領等荘園群の本所が内親王であるケースが多かった。

 南北朝時代から江戸時代まで皇女の大多数が尼門跡となったが、これも寺領領主で経営体の長であり、皇女を遇するポストとなっていた。

 このような伝統を踏まえるならば、非婚内親王の厚遇はありうる選択肢というるが、有識者会議の考え方は

 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持するというもので、非婚ではないので伝統には反する。

 

(令制の親王や皇親の待遇)

 

 位階は親王は一品から四品の品位、諸王は一位から五位。親王は格別で諸王は礼遇では劣る。

皇親には多額の田地や禄が支給され、親王の品田は一品に80町、二品60町、三品50町、四品40町、食封は親王一品に800戸、二品600戸、四品300戸で内親王は半減である。このほか時服、有品親王に月料などの特典があり、皇親が官職につくと官職に応じて職田、食封、季禄などがつく

親王は令制では特に、文学・家令・扶・従の職員が附く。文学は経書を教授する教育係で内親王には附かない。このほか帳内(近侍して雑用に当たる者)が、一品親王なら160人、品位によって差がある。

 

 院政期から鎌倉時代は非婚内親王が格別厚遇されていた時期といえるかもしれません。皇后とは天子の嫡妻であるはずが、天皇准母(実質准母として意義のあったケースもある)としての非婚内親王の皇后が11例あります。

 

 また非婚内親王で女院宣下された例が後朱雀后後三条御生母陽成門院から、光格后欣子内親王まで41例(うち10例は非婚皇后)あります。

 

 南北朝時代以降は、男性皇族の宮門跡と同じように入寺得度するケースが大多数をしめるようになる。これを比丘尼御所とか御宮室といいますが、ここでは尼門跡としますが、とくに室町・戦国時代は皇女はすべて非婚で尼門跡です。私が数えたところ正確ではないかもしれませんが入寺得度された皇女ないし尼門跡といえるケースは63例あります。江戸時代は結婚した皇女は14例、尼門跡は幕末に荒廃したといわれますが、28例あります。

 

 要するに非婚皇女が寺領領主とて経営体の長となるポストが存在し、皇室では皇女が入寺得度されることは、めでたいことで、このポストは決して悪くありませんから、非婚が多かったともいえる。

 

 尼門跡(「比丘尼御所」「御宮室」)だが、皇女を尼寺に閉じ込めたというのは大きな誤解である
 室町・戦国時代の研究では、後柏原天皇の時代、比丘尼御所は年
4回宮中に参内しており、里帰りは俗人と同じことだし、社寺参詣や遊興には男性公家、しかも天皇近臣が従っており、内親王でなくても皇女という立場は変わらない[菅原正子2002]。男性公家を引き連れて夜遅くまで酒宴という世俗的で自由気まま生活なを送る尼門跡もおられたのである。。

 

 

 永正8年(1511 329日の観桜御宴では申楽が催され、宮御方(のちの後奈良)と三宮が御出座された。『実隆公記』によれば召された方々は、中書王(伏見宮貞敦親王)、円満院宮(後土御門皇子)、仁和寺宮(後柏原三宮の覚道か貞常親王息の道永)、大慈光院宮(後土御門皇女)、安善寺宮(後土御門皇女)、大慈院宮(後土御門皇女)、大聖寺新宮(後土御門皇女)、曇花院、三時知恩院御附弟、二位、三位禅尼等、以下公家衆で、三献中書王(伏見宮)御酌、七献天酌とある

 

 

 

 

 

後土御門皇女 渓山

 

 

 

永正14 真如堂参詣 吉田山で酒宴

 

永正16 千本釈迦堂参詣 酒宴

 

永正17 聖門師村 池亭 酒宴

 

 

 

後花園皇女 芳苑恵春

 

文明7 賀茂神社 猿楽見物

 

文明8 千本釈迦堂と鞍馬寺2回参詣

 

文明11 日吉大社祭礼見物

 

    石山寺参詣

 

    高雄 紅葉

 

シリーズ全体の引用・参考文献 は

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議批判
その2の末尾

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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