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2021年12月の8件の記事

2021/12/24

①案は排除するか、生涯非婚内親王・女王の厚遇に切り替えるべき

①案は排除するか、生涯非婚内親王・女王の厚遇に切り替えるべき

 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議最終報告は、今後も徹底的に批判していきたい。①案は恒久的な制度とし、新制度では眞子内親王のようにして皇室を離れることを不可能にする案を示している。私は①案は排除して、皇室典範12条維持しつつ、有識者会議が女性皇族を残したいというのなら、生涯非婚女性皇族を厚遇する制度の創設で十分だと思う。
 具体的には生涯非婚を選択される女性皇族は特旨により准三宮待遇とする、后位に准じた身位とし独立した生計と家政機関を附属させる。皇族以外と結婚する場合はこれまでどおり皇室を離れる。
 女性皇族には二つの選択肢があり、皇室典範12条には手をつけなくてすむ。歴史的には、皇女は夭折事例を除いても、千五百年単位で八割以上は非婚。非婚内親王の准母皇后等が11例あるほか、女院宣下される非婚内親王も多く、中世には膨大な御願寺領荘園の本所であったケースもあるし、室町時代から江戸時代の尼門跡(比丘尼御所、御宮室)は寺領の経営体のトップであり、伝統にかなったありかたが非婚内親王の厚遇である
 23日東京新聞で女系論者の高野明勅氏のコメントがあり「女性皇族は皇統譜に、配偶者と子どもは戸籍に属することになり,極めて奇妙な制度だ。女性皇族の結婚の大きな障害になるだろう」と予測しているとする。この見解に関する限り賛同する。
 日本の家族慣行は、婚入配偶者(嫁、婿)は婚家に帰属し、男性は一般に嫁を迎えるか、家長予定者として入婿になるかであり、家長となれない入婿は男性への侮辱である。こんな歪な制度を皇室につくっていいのか。そのうえ結婚しにくくなると高森氏がおっしゃるなら、私の案のほうがましというもの。
 

2021/12/21

皇室典範12条の改変に反対する本音の理由

  12月20日配信の新日本文化チャンネル桜、討論「皇統存続の道」を部分的に見ましたが、百地章氏が冒頭、女性皇族の案には反対だが、旧宮家の男子を養子で迎える道が開けたので、一代くらいの女性皇族がいてもという発言に少しがっかりした。
 百地氏は、平成2年の即位礼、大嘗祭の時期から有識者として発言されていて、当時政教分離違反論が結構つよくあったが、厳格解釈を批判していた数少ない憲法学者で、もちろん実績のある方で尊敬はしてますが、皇室典範12条改正の懸念というものが聞かれなかったので、がっかりしたということです。
 私は、百道氏や八木英次のように有識者会議やその事務局を評価してません。皇室典範12条改正に積極的で危険だというふうにかんがえます。
 つまり私の本音というか、見解は以下のとおりであります。
 現在の皇室典範12条は、旧皇室典範44条と基本的に同趣旨である。

 11月30日事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料 からの孫引きである。

  皇室典範義解(伊藤博文『帝国憲法皇室典範義解』(国家学会蔵版 明治22 年)p185~186)
第四十四条 皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍内親王女王ノ称ヲ有セシムルコトアルヘシ恭テ按スルニ女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス此ニ臣籍ト謂ヘルハ専ラ異姓ノ臣籍ヲ謂ヘルナリ仍内親王又ハ女王ノ尊称ヲ有セシムルコトアルハ近時ノ前例ニ依ルナリ然ルニ亦必特旨アルヲ須ツハ其ノ特ニ賜ヘルノ尊称ニシテ其ノ身分ニ依ルニ非サレハナリ
 義解は嫁する者は、夫の身分に従うという趣旨が述べられているが、エンゲルスは嫁入婚と家父長制家族の成立を「世界史的女性の敗北」と称しており、家父長的家族を悪くいうのは共産主義者の思想である.
 家父長家族の粉砕が共産主義者の目的だから、左翼側からすれば夫の身分に従うという性的役割固定観念を粉砕したいのて、皇室典範12条も粉砕したいのである。
 女性宮家とは言ってないが、女性皇族が皇室に残り、夫を従えるかたちになると、まさに家父長家族の否定で、左翼にとっては望ましいことなのである。
  
 伝統規範は、皇族どうしの婚姻では女性皇族は后妃であって、配偶者の男性皇族が在世しているかぎり即位することはないし、当主となることはない。非婚内親王は厚遇された。非婚皇后の例も11例あるし、膨大な御願寺領の本所となり、女院となれば院庁が開設され、院司を従える。
 尼門跡(比丘尼御所・御宮室)も寺領の経営体のトップである。
 女性皇族がトップでありうるのは女帝でれ、女院であり尼門跡であれ、非婚であることかが前提である。だから生涯非婚内親王の厚遇には反対しないが、皇室典範12条の改変は、性的役割固定観念の打破とい左翼の戦略どおりの結果になるので非常に不愉快なのである。。
 性的役割分担、つまり男性が天皇で女性が皇后、男性が宮家の当主で、女性が妃というののと違う制度をつくって性的役割分担を流動化させてしまうと、皇室制度を破壊し、男系継承も危うくなってしまう。有識者会議は悠仁親王殿下の次については男系でいくとはも女系でいくともいっておらず、先送りにしており、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議の①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は、皇室典範12条の否定であり、性的役割の流動化につながり、女系を既成事実化する懸念が強いので反対なのである。
 だから旧宮家の男系男子の養子縁組と抱き合わせで①案をやられるのは非常に困るのである。
 ひょとしたら女系もありというでは、旧宮家の方々も二の足を踏むことになりかねず、チャンネル桜の百道氏がフリップをもって、旧宮家には若い男系男子がこれだけおられると説明していたが、男系・女系は先送りにせず、悠仁親王殿下の次も当然男系男子で、皇統上格別の由緒のある伏見宮御一流の男系男子は潜在的皇位継承資格者としてできるかぎり皇族に復帰していただくという方針を打ち出したほうがよい。

2021/12/19

有識者会議案①のモデルとされる品宮(級宮)常子内親王(後水尾第15皇女)の検証と反論 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議批判シリーズその5 動画台本

 この動画は前回のその4の補足になります。

動画はmasahiko kawanishi (全部小文字の方です)チャンネルで公開してます。ご笑覧いただければ幸甚に存じます。

 

 11月30日事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料に「内親王・女王が皇族以外と結婚しても皇族の身分を保持することを可能とする案」(以下①案と略す)を正当化するために、江戸時代以前は臣下に嫁した後も内親王は身位を保持し、あるいは臣下に嫁した後、親王宣下を蒙ったり、叙品された事例を先例として例示している。以下の内親王6方である。

 

〇勤子内親王(醍醐皇女)藤原師輔に降嫁 10世紀前半

〇康子内親王(醍醐皇女)藤原師輔に降嫁 10世紀中葉

 所生子 太政大臣藤原公季、深覚

〇常子内親王(後水尾皇女)近衛基煕に降嫁 17世紀後半

 所生子 

長女 近衛煕子 甲府藩主徳川綱豊正室(のち6代将軍家宣)。家宣薨後、天英院。

長男 近衛家煕 関白・摂政・准后

次男 大炊御門信名 左近衛中将 

〇栄子内親王(霊元皇女)二条綱平に降嫁 17世紀後半

 所生子 関白二条吉忠

〇八十宮 吉子内親王(霊元皇女)徳川家継と婚約 18世紀初期

〇和宮 親子内親王(仁孝皇女)徳川家茂に降嫁 19世紀

 

 要するに先例があるんだから、ぜひやりたいという事務局の意向のようだが、ちょっと待ったと。これが本当に①案の先例といえるのですか。私は不適切な事例でこれは先例にはならないと私は言いたい。康子内親王や和宮親子内親王について前回の動画で一応言及したので、今回は、品宮常子内親王にしぼってとりあげる。

  史料として、品宮常子内親王が記主の『无上法院殿御日記』があり、内親王の宮廷社交生活が知られている。

 今後、有識者会議や政府が①案を押していく口実として、常子内親王の前例があるよと言ってきそうなので、先手を打って反論するのがこの動画の目的である。

  品宮(級宮)常子内親王とは、後水尾院の第15皇女で、母は新広義門院(典侍園国子)、霊元御生母、国母である。後水尾院は皇子が19方、皇女が17方もおられたが、なかでも鍾愛された皇女である。

  寛文4年(1664)11月に満22歳で6歳年下の権大納言近衛基煕(当時より近衛家当主、のち関白)に降嫁。

政治史的には近衛基煕は霊元上皇の政敵、親幕派として知られている人物だ。

  常子内親王については、瀬川淑子『皇女品宮の日常生活―『无上法院殿御日記』を読む』岩波書店2001という伝記的書物があり、この本から主として引用、参考にさせていだくが常子内親王が有識者会議案のモデルたりうるかについて私の批判的意見を以下述べる。

 なお品宮の内親王宣下は正規のものではなく延宝5年(1677)に諱が常子と定まったことにより、公認された。以降常子内親王と署名されているということだが、これは重要な問題ではなく、諱が定められたなら内親王であることは認めてよい。

  

一 居住形態

  基煕の時代、近衛家には今出川邸(1585年~陽明亭、東亭、現京都御苑北西)という本邸と、旧本宅である桜御所(1483年~旧御霊殿、現同志社大学新町キャンパス)があった。このほか近衛家には別業として鴨川右岸に河原御殿など複数、宝永年間に堀川御殿が新造され、後水尾院より拝領したとみられる幡枝の別荘があり、紫竹の別邸は常子内親王が入手したものである。このほかの物件も所有していた。

 瀬川氏によれば寛文4年(1664)結婚当初は別居だった。品宮は独身時代からの御所の品宮御殿、基煕は桜御所(旧本宅)とあり、寛文6年(1666)に新宅の陽明殿(今出川邸)で同居したと述べている。しかし、これについて上代の妻問婚を想定するのは間違っていると思う。

 寛永13年(1636)後水尾皇女の女二宮が、基煕の父尚嗣に降嫁の際、今出川邸に「奥方御殿」が造営整備されており、この前例からみて、品宮も近衛家の本宅である今出川邸が居所とされて当然のように思える。

 万治4年(1661)の大火で内裏や仙洞御所や多くの公家屋敷が焼亡したが、近衛家本邸(建築史家の論文では今出川邸と称される)類焼を免れた。火元は新在家(内裏の南)二条家に降嫁した賀子内親王邸とされている。後西天皇は白川方面に一時避難された後、近衛家本邸を仮内裏とされ、寛文3年正月に近衛邸仮内裏で霊元天皇に譲位、寛文4年8月新造の仙洞御所へ移徒されるまで、後西上皇の仮御所とされた経緯がある、その間、近衛家当主の基煕は別邸の桜御所を居所としたのだろうが、なんらかの事情で本邸に戻るまで再整備が必要であったのだろう。品宮が結婚した寛文4年ころの日記がないため、なぜ結婚初期別居という変則的なものだったのか詳細が不明なのである。

 ところで、瀬川氏によれば、品宮は結婚当初、後水尾法皇の御所で夜遅くまで過ごすことが多く、数年たっても変わりなかったという。後水尾院の近衛邸の御幸は105回と頻繁にあり、常子内親王は後水尾院の文化サロンのメンバーであり、修学院離宮への御幸にもお供しており、結婚後も宮廷社交で自由な生活をしていた。

 なお後水尾法皇を中心とする遊興・文芸活動の拠点は、仙洞御所、長谷・岩倉・幡枝の山荘のほか、晩年は公家町にある、皇子女の邸宅であった。宮門跡や御宮室(尼門跡)は公家町に里坊(別宅)を持っており、室内の遊興の場となっていた。後水尾法皇は近衛邸だけでなく、こうした皇子女の邸宅に頻繁に御幸されていたのである。

 そのような意味では、常子内親王は宮廷社交にたけており、結婚した後は夫に従い里帰りは、暮れの挨拶、正月、盆などの慣例に限定される一般のしきたりとは違ったかなり自由な結婚生活であったとはいえる。

 しかし、結婚2年以降は近衛家本邸の今出川邸が内親王の居所であり、摂家当主の正室たる立場ではあることは間違いないといってよいのである。

  常子内親王は自身の結婚の記録が残ってないが、天和3年(1683)長男の家煕と霊元皇女の憲子内親王(女一宮)との婚儀は日記に詳しく記していて、「女一宮ねもじ、色直しの時大納言より紅梅に改めらるる」とあり、白無垢、色直しという嫁入婚の現代でも和装婚礼の定番である習俗と同じである。

 基煕の日記にも、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している。明らかに嫁迎え、嫁入婚の儀礼である。内親王は婚家に帰属することを意味する。

 日本的家制度は離在単位なのであり、両属はありえないことになっている。婚入配偶者は婚家に帰属する。常子内親王の墓所は、近衛家の菩提寺の大徳寺である。

 なお常子内親王は、延宝元年(1673)遊興のため紫竹屋敷を入手した。目的は野歩き、周囲の散策で、上賀茂、今宮社、鷹ヶ峰に足をのばしたし、兄弟たちが門主の門跡寺院を訪れることも多かった。さらに粟田口三条下屋敷も入手し東山の花見などに利用した。郊外散策を好まれる方だったが、行動範囲は概ね現在の京都市内といってよいだろう。

 後述する常子内親王に充行された知行もあり、近衛家は臨時収入が多く、常子内親王の長女煕子が綱豊に嫁し、のちに将軍家宣となったことから、徳川家より贈り物や多額の送金があり、経済的には余裕があったとみられている。

 

二 品宮常子内親王の財産の相続

  瀬川氏によると常子内親王所有の財産として、独身時代からの品宮御殿と、品宮のもとからの所有地である岩倉の山も家煕が相続した。

 また内親王は、父の後水尾院崩御の際、遺言により修学院村300石の知行が与えられていた。これは、後水尾院が崩御によって幕府に返却する知行三千石の一部ということであり、幕府が認め所司代より報知されたもので、これは内親王薨去により幕府に返却されたとみられている。

 近世の皇室、宮家、門跡、公家の家領については、中世とは違って徳川幕府が知行充行権を掌握していたので、幕府の麾下にある近世領主であった。したがってこの処分は皇室領の一期相続とは性質が違うものと理解している。

 瀬川氏は上記を近衛家領だといっている。

 岩倉の山は後水尾院からの拝領であるから持参金のようなものかもしれないが基本的に、内親王所有の財産は近衛家に相続されており、そのような意味でも婚家に帰属している。

 また家煕は母をさして「政所」とか「北政所」と称していることからも摂家の正室という立場である。

 ただし瀬川氏は、延宝5年に常子内親王は門跡宮方の深草の知行の監督、後水尾院より宰領を命じられていたことを明かにしている。これは兄弟宮の寺領である。新広義門院(霊元生母園国子)が預かっていたものの経営をまかせられた。

 門跡領も広義には皇室領ともいえるので、皇室の所領経営を代務していたことになり、当然知行から収入も得ていたと考えられる。臣下に降嫁しても内親王という身位ゆえんといえる。

 ところで、有識者会議案①というのは、内親王に皇族費が給付され、公務をなさる前提のものと考える。御所は皇室側が用意するのか不透明であるが、品宮常子内親王がこの案の前例とはいいにくい。

 学問や芸能は文芸活動や遊興の世俗的行事も含めて広い意味では皇室の公務である。常子内親王は結婚後も多くの兄弟や姉宮がおられて宮門跡・尼門跡も含めた皇族との交流があった。それは皇室に限られるものでなく、摂家のような上流貴族とて同じことである。門跡領を実質管領していたことについては公務といえるかもしれないが、現在の皇室は近世的領主とは違うので家領経営という仕事はない。

 有識者会議案の意図は内親王・女王に摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員という国制の根幹にかかわる役割を担っていただく趣旨なので、常子内親王のあり方とはかなり違う。

 そのように重要な役割を担うとすれば、宮家のように皇室側が内親王に邸宅を用意することになるだろうし、近衛家本邸を居所とし、摂家の正室の立場にあった常子内親王とは違う立場であるといいうる。

 門跡の寺領経営をまかせられたことについては、黒田清子さまが、公務ではないが皇室と歴史的にかかわりある伊勢神宮祭主であり、そうした役目を果たされていることと大差はないという見方もできるだろう。

  結論は、常子内親王が有識者会議案①のひな形たりえない。上記以外の理由として、そもそも継嗣令王娶親王条において臣下が内親王を娶ることを違法としていることがある。

 ではなぜ、17世紀に摂家への皇女・内親王九方の降嫁がみられるのか。

 江戸時代も尼門跡に入室するケースは多いですが、結婚される皇女もでてきます。17世紀に皇女の摂家への降嫁が9例あります。この理由については、久保貴子氏がコメントしており、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないかと考えられる。徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。また、 一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」とする。

[久保貴子(2009). 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち). 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2.

 上記の見方に加え、私の考えでは五摂家が禁中並公家諸法度により、事実上、世襲親王家当主より座次、序列上位となったことが大きいと思う。皇族以上の序列なら臣下が娶ることは違法とされていた内親王との結婚も障碍はないという理屈はありうるので、原則から逸脱してないという方便になっていると考えます。しかし近世朝廷においては、17世紀末期に皇女の婚姻の方針が転換された。元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来、摂家との婚姻をやめ、原則として本来の在り方である内親王は皇族と結婚する在り方に回帰している。

  ということで、結論は事務局の資料に例示されている内親王6方は、①案を正当化する口実としては不適切である。①案は端的にいって女系容認の英国王室のアン王女などをモデルとしたものであり、新奇な制度で皇室制度を根本的に破壊し、国体を変革させる危険なものということであります。

(瀬川淑子、久保貴子氏以外の引用・参考)

京都国立博物館 特集展示 初公開!天皇の即位図 リーフレット 2019
平井聖 「近世における仙洞御所の沿革」 日本建築学会論文報告集第61号1959
藤田勝也「近世近衛家の屋敷について」日本建築学会計画系論文集675 2012
町田香「『无上法院殿御日記』にみる後水尾院サロン以降の宮廷の庭園文化」ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌70(5) 2007

 

2021/12/17

有識者会議の先生方へ意見具申

有識者会議の先生方へ意見具申

 

    内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案に 反対、特に事務局が積極的な皇室典範12条改正に反対 

 

                        

 

 軽輩であることをわきまえず、厚かましくも不躾な手紙をお許し願います。皇室の在り方は強い関心があり7月にも意見具申の手紙を出した者です。

  • 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とすること②皇族の養子縁組可能とすることで、皇統に属する男系の男子が皇族となることを可能とすること③皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすることのうち③案が正しいということは、7月に申し上げたことでありますので、①に反対する理由だけ上申します。

 

(理由1) 歴史上一貫した内親王の性格規定の否定

 皇族以外と結婚しても、内親王は皇室に残るとする有識者会議の案は、歴史上一貫した規範である内親王の皇親内婚の原則を否定し、皇族にのみ嫁ぐことで皇室の血縁的尊貴性を守る役割という「内親王」号の歴史的性格規定を否定するから、皇室制度を根本的に破壊する。

 日本の「内親王」号は、我国独特の称号で、唐や新羅の「公主」号とは違う。継嗣令王娶親王条で皇親内婚が定められているがゆえに、内親王号であり、有識者会議案のように皇族以外と結婚しても皇室から離れないのは、内親王号の歴史的由来に反し、道理に反する。

 11/30会議の事務局の制度的歴史的研究資料では、法制史的な観点が欠落している。

  内親王の内を向いた性格、皇親内婚原則は歴史的に一貫した原則である。

  つまり令制では内親王を臣下が娶るのは違法で、反律令行為である。違法でも勅許による結婚も少なからずあるが、例外的な事例といえる。

 統計的にも6世紀の欽明后石姫皇女以降、現代まで、一世皇女ないし内親王(一世皇女)で皇親(皇族)と結婚したことが知られるのが63方、臣下と結婚したのが27方であり、やはり皇親内婚が多数を占めそれが原則であることは明確に言える。

 生涯非婚の皇女が多いのは令制や荘園公領制のもとで経済基盤があり、南北朝~江戸時代は尼門跡という寺領の経営体のトップというポストが皇女のために用意されていたためであり、非婚内親王の厚遇はありうるが、臣下と結婚することは原則に反するのである。

 内親王が臣下に11月30日の事務局資料には、結婚後も内親王であった6方が例示されているが、令制の原則に反するもので、例外的な違法婚を伝統と言い募る詭弁に思える。

 

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 とくに内親王が臣下に降嫁した初例10世紀の勤子内親王ほか三方の師輔への降嫁はいずれも密通し事後承認された結婚の在り方で、けっして好ましい在り方ではなく、醍醐皇女康子内親王と師輔の密通には、『大鏡』で村上天皇の機嫌を損ねたとあるように醜聞でもあった。

 令制では尼門跡も皇女たる属性に変わりないし、内親王の身位は懲罰的な事例でない限りはく奪されるものではないので、降嫁しても当然婚家のメンツもあるし内親王であって自然であるが、事務局資料例示の近世の摂家や徳川家に降嫁した例では日本的家制度成立期以降のもので、「家」は離在単位なので、両属はありえず婚入配偶者であり、常子内親王は近衛家の菩提寺、親子内親王は増上寺を墓所としているように婚家に帰属したものと認識すべきで、常子内親王所有の財産は、近衛家熙に相続しているように、有識者会議が①のモデルとするアン王女や皇族費が給付され皇族の公務をなさる在り方とは全然違うように思え、こうした令制では違法だが勅許された結婚を前例として①案を正当化するのは納得がいかない。

 また事務局資料は、康子内親王の所生子が太政大臣藤原公季、常子内親王所生が近衛熙子(徳川家宣御台所・天英院)、関白近衛家熙、左近衛中将大炊御門信名、栄子内親王所生日が関白二条吉忠であることに言及してないが、藤原氏に降嫁した場合は、父系帰属主義により、所生子は藤原氏であるから、絶対皇族にはならない。これが①案の先例といえるのか疑問である。

 1698年に霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来、朝廷は古式にのっとり原則として、皇女は結婚するケースでは皇親との結婚が原則となっており、明治41年の常宮昌子内親王から昭和18年の照宮成子内親王まで内親王五方はすべて皇族と結婚していることから、近代でも令制原則を明らかに意識し踏襲している。ゆえに皇族との結婚は原則であることは歴史的に一貫しているもの。

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 有識者会議案は、内親王の内向きの性格を否定、外向きになって皇族外の婚入配偶者を迎えることになり、皇室制度1600年の規範を根本的に破壊する。

 皇室典範12条は、内親王・女王の身位を保持するための結婚は皇族との結婚を規定し、大筋で令制の原則を大筋で踏襲しているといえるが、有識者会議の皇族以外と結婚しても、内親王・女王が身位を保持する案は 歴史的に一貫した規範で令制の婚制の核となる皇親内婚の思想を根本的に否定するので、皇室制度の破壊になるからダメということです。

  文殊正子氏によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している。  

 文殊正子. (1986). 『内親王』号について 『公主』号との比較. 古代文化 38(10).中村みどり. (2002). 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」. 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編による要約

 

(理由2)「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案」は夫が世にある限り女性当主はありえない日本の家族慣行を否定する重大な文化破壊になる

 

(理由3)内親王・女王は婚姻関係にあるかぎり、后妃以上になれないという鉄則を踏まえなればならないが、有識者会議案はこの鉄則を破るから許せない

 

(理由4)皇室と庶民の家とは性格が異なる面があるとはいえ、当主となりえない入婿という我が国にはない男性を侮辱する制度を創設することの国民に与える影響は大きく、家族規範を混乱させることとなる。それゆえ有識者会議案は絶対的に反対

 

(理由5)アン王女がモデルの有識者会議案は女系容認の英国王室の模倣であり、我国の国体を破壊する

 

 大変厚かましく無礼な物言いでありましたがご寛恕願います。有識者会議が①案を答申する可能性は高いこと、特に事務局が積極的なことは報道などで推察できることではありますが、皇室典範12条の改正に流れが行くことを危惧しております。私は、政府や国会議員に①案の反対、③案の推奨のために意見をネットのブログと動画で発信しており、なお続行していきます。

 詳細については、ブログは「川西正彦の公共政策研究」、動画は YouTubeのmasahiko kawanishi (全部小文字の方です)チャンネル、ニコニコ動画でもアップしてますのでご笑覧いただければ幸甚に存じます。

 事務的な手紙で大変失礼しました。

2021/12/12

有識者会議事務局資料の欺瞞 違法婚である藤原師輔が密通のうえ事後承認された醍醐皇女康子内親王の降嫁等を、内親王が結婚後も身位を保持する先例だ、伝統だと言い募るのは全く論理性がない

 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議は、男系維持か、女系許容かという議論は棚上げにしたうえ、皇族の数の確保が喫緊の課題という名目で、皇室制度を根本的に変革する内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案①を答申する可能性が高いが私は強く反対する

 配偶者や所生子を皇族とするか否かは棚上げとして、7月9日の議事記録には反対論の多い「女性宮家」という言葉は使わず、アン王女の家族を模倣してもよいのではないかという意見が議事録にあり、内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する案①案に積極的な意向のメンバーがおられることがわかる。女系容認の英国王室の模倣は皇室制度を根本から破壊し賛成しない。

  11月30日の会議における事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料では、事務局は皇室典範12条改正に積極的であり、きわめて危険な状況にあると考える。

   私は12条改変に絶対反対であるとともに、伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を重んじ、伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべきで、養子縁組案についても批判的な見方をとるが、それはともかく最悪の事態となる、皇室典範12条改正を避けたいという趣旨で意見を具申する。

  ともかく内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する案(以下①と示す)は、夫婦別姓の歪な結婚の在り方であり、12条改変により継嗣令王娶親王条に遡る皇室の伝統を破壊する。容認しがたいので、政府や国会議員の方々も賛同してもらいたくない。

   ここでは、事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料に論理性が乏しいことの一点のみを指摘する。

   有識者会議事務局は、内親王・女王が皇族以外と結婚しても皇族の身分を保持することを可能とする案を正当化するために、江戸時代以前は臣下に嫁した後も内親王は身位を保持し、あるいは臣下に嫁した後、親王宣下を蒙ったり、叙品された事例を先例としているが、以下のとおり全く論理性がない。その理由について以下7つのセクションで分けて説示する。

 事務局資料の例示した6例は以下のとおりである。

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 事務局例示の皇女降嫁事例は有識者会議案①の先例とみなす論理性はない理由

 

一 例外的な違法婚を伝統と言い募る詭弁

 

  事務局資料が例示している臣下と内親王の結婚は、継嗣令王娶親王条に違反する違法婚で、例外的に勅許されている事例であり、本来の内親王の婚姻の在り方ではない。

 内親王は皇親のみとの結婚が合法であったゆえ、令制ではそもそも臣下との婚姻は想定されていない。反律令行為、例外を伝統的な事例であると言い募っている事務局資料は詭弁であり、悪質といえる。

 事務局資料には継嗣令王娶親王条の説明がなく皇親女子の法制史を無視しており適切なものではない。

 内親王号が我国独特の称号で、皇親との結婚だけが合法であるゆえ内親王であり、臣下に嫁す唐の公主号は継受していない。有識者会議案①は内親王の歴史的性格規定を無視しており、歴史的性格規定に反する婚姻を、あたかも伝統であるかのように意味をすり替えることにより皇室制度の伝統破壊をもたらす

  

二 統計的にみても大原則は皇親内婚、事務局例示の違法婚は例外的事例。事務局は令制が想定してない反律令行為を規範とする過ちを犯している

 

 6世紀の欽明后石姫皇女以降、1500年間で、一世皇女(内親王宣下されていないケース含、養女を除外)の結婚は和皇女照宮成子内親王まで天皇・皇親(皇族)との結婚は63方、10世紀の醍醐皇女勤子内親王から紀宮清子内親王まで臣下に降嫁した結婚は 27方にすぎない、夭折事例を除いても皇女のおおよそ8割以上、大多数は生涯非婚だが、臣下に降嫁することは好ましくないという認識は一貫していた

 内親王降嫁は藤原師輔と醍醐皇女三方の密通を事後的に承認したことから始まったが、師輔は当時後宮を統率していた皇太后藤原穏子中宮大夫に任用され信任されており、違法婚は、藤原師輔が内親王を手懐けて密通したことかが懲罰対象とならかなった先例により始まったものであり、とはいえ、10世紀、17世紀、20世紀後半以降に集中してみられるが、通史的にみられない一時的な事象にすぎない。皇親内婚原則がなしくずしになっているわけでは全くないのである。

 

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三 醍醐皇女康子内親王と師輔の密通には、さすがに村上天皇の機嫌を損ねたように、事後承認されたとはいえ、けっして好ましい在り方ではなく、これを前例として示している事務局資料に説得性はない

 

 皇室の伝統というのは皇親女子の皇親内婚である。とりわけ内親王は令制では臣下が娶ることは一貫して違法だった。

 この点について文殊正子氏によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している。

[文殊正子. (1986). 『内親王』号について 『公主』号との比較. 古代文化 38(10).中村みどり. (2002). 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」. 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編による要約]

 内に向いた性格ゆえ事務局例示の婚姻事例は、内親王本来の性格規定に反した結婚なのである。  

 継嗣令王娶親王条(「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す)は皇親女子の皇親内婚を定めていて、臣下が娶ることができるのは五世王以下とされており、皇親内婚は5~7世紀の慣行を明文化したものである

 ただし延暦12年(793)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」で現官大臣と良家の子孫(三位以上の家柄と想定)は三世王以下の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、大幅に規制緩和された[栗原弘. (2002). 「皇親女子と臣下の 婚姻史一 藤原 良房と潔姫の結婚の意義の理解のために一」. 名古屋文理大学紀要2]。

 二世女王降嫁の初例は承和前半期の藤原衛への、淳和二世女王恒世親王女の降嫁である

 しかし臣下が内親王を娶ることは一貫して違法なのである。とはいえ反律令行為でも、実際には10世紀以降幕末まで18方20例ある。

 臣下が内親王を娶った内親王降嫁の歴史上の初例は事務局資料例示の承平4年(934)頃の醍醐皇女勤子内親王の藤原師輔への降嫁である。内親王は源順に 『和名類聚抄』を編纂させた才媛でもあった。

 勤子内親王病没後、師輔は承平7年に伊勢斎宮を退下された醍醐皇女雅子内親王と密通し、結婚し4人の子女をもうけた雅子内親王病没後、天暦9年(955)醍醐皇女康子内親王と密通、いずれのケースも師輔が内親王を手懐けて密通し、事後承認を得た形の結婚である[岡部 明日香(2012)「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実:―絵画と斎宮」中古文学 90(0)]。

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 事務局資料例示の康子内親王は村上天皇と同じ后腹の姉宮、居所は母の太皇太后藤原穏子と同じ殿舎だった。太后藤原穏子が崩御になられたあと、准三后宣下され、格別尊貴な内親王であったので、康子内親王の密通についてはさすがに天気を損じた。

 師輔は康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなきに(前が汚れている)」(『大鏡』)とか「九条殿(師輔)はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『中外抄』) などと伝えられている [保立道久 (1996). 『平安王朝』 岩波新書 81] 

 とはいえ、村上天皇は違法でも勅許されたのである。師輔は村上天皇の皇太弟時代の東宮大夫であり立坊を実現させた功臣で、皇后の安子の父でありミウチであった

 また『中外抄』は12世紀の関白忠実の口述記録なので、本当に師輔のまらが大きかったのか、公然周知の醜聞だったのか疑問がないわけではないが、12世紀には内親王が降嫁した事例はないので、臣下への降嫁は好ましくないという意識が強くあったと考えられる。

 要するに事務局の例示は反律令行為の違法婚を伝統的なものとすりかえた議論をしている点できわめて悪質といえる。

 なお10世紀中葉、藤原師輔に降嫁した雅子内親王は右近衛少将藤原高光、太政大臣藤原為光の母であり、康子内親王は太政大臣藤原公季の母(公季誕生後に産褥死で薨去)であるが、いうまでもなく父系帰属主義であるので、所生子は藤原氏であるし、藤原師輔が内親王三方を娶ったからといってもちろん皇族になるわけではない。

 藤原師輔への内親王三方降嫁のようなイレギュラーな事例を伝統のように思わせ、しかも所生子は藤原氏という説明もなく、有識者会議案①の先例として示しているのは印象操作のように思え釈然としない。

  

四 内親王位は令制では格別の礼遇であり、皇親内婚か生涯非婚が前提の身位で、身位を将来失うことは想定されていない。懲罰的な事例以外、内親王位を奪われることはないので令制が想定していない婚嫁であっても、懲罰される事由ではないので身位を保持しているのは当然のことである

 

 継嗣令王娶親王条では、内親王は親王、二~四世王との結婚のみ合法なのであり、そのような結婚がなされるか生涯非婚が前提での親王位、親王宣下であるので、将来、結婚によって親王位を失うことは想定されていない。

 親王位は令制では格別の礼遇であり懲罰的な事例以外、奪われることはない。例えば神亀6年(729)奈良時代に文武・元正皇妹吉備内親王が長屋王事件で所生の二世王とともに縊死。聖武皇女不破内親王が神護景雲3年(769)県犬養姉女ら一味による巫蠱事件に連座し、内親王の身位を廃され、厨真人厨女と改名させられ京外追放された例(後に復位)、男性皇族の宮門跡では、永享6年(1343)後小松猶子後二条五世王の妙法院新宮明仁法親王が幕府への謀反により逐電した例、明治元年には中川宮朝彦親王が陰謀を企てたとして親王位をはく奪(後に復位)された例があるが、通例ではありえないことで結婚しても親王位を保持していることは当然であるので格別強調する必要はない。

 

 

五 江戸時代における摂家に降嫁した後の親王宣下は、婚家側のメンツにかかわるので親王宣下されてある意味当然である。それは宮門跡側が格付けにかかわるため門主は親王宣下(五世王や六世王でも親王宣下された事例がある)が求められるのと同じことである

 

 

六 歴史的には皇族ではあっても朝廷の政務には原則としてかかわらない宮門跡や尼門跡が存在し、特に江戸時代以降臣下に降嫁した内親王は婚家に帰属している以上、皇室側の政務にかかわることはないという意味で有識者会議案①の先例とみなすには整合性に乏しい

  院政期から幕末まで多くの皇子や皇族が入寺、得度し宮門跡に入室したが、宮と称され親王宣下され法親王、入道親王となり、僧籍であっても皇族であることには変わりない。

 在俗の親王は、式部卿、中務卿、弾正尹に任用され、皇位継承候補者たりうるが、法親王はそうではなく、皇位継承者たりえないが、同じ親王であっても本来の朝廷の官職に任用されないという点で立場が異なる。

 南北朝時代より江戸時代にかけて多くの皇女は入寺得度し、比丘尼御所、御宮室、と称される、通称尼門跡であるが、寺領領主の経営体のトップが皇女である。内親王宣下されない、皇女、皇族の身分であることは変わらない。寺領領主なのであり、皇族であっても在俗の非婚内親王で御領や化粧領が充行われている事例とは立場が違うことはいうまでもない

 有識者会議案は、摂政、国事行為臨時代行、皇族会議議員となる皇族を確保するために内親王を皇室にとどまるものとするものであるが、日本的家制度の成立は14~15世紀であるが、結婚は、嫁入婚であり、婚姻によって婚家に帰属するものという観念が通例であるから、17世紀の内親王及び皇女の摂家への降嫁9例と、幕末の徳川家への降嫁1例の皇女内親王は婚家への婚入配偶者であり、内親王であっても婚家に帰属しているとみるべき。

 たとえば事務局資料例示の仁孝皇女親子内親王(皇女和宮)は徳川家名存続に働き、慶喜処分寛大の嘆願を行い、墓所は増上寺であること、家茂薨後は薙髪して静寛院と号したが、これは将軍夫人が未亡人となると院号を称するのが慣例であったためで、天皇御生母や非婚内親王など后位に准じた、もしくは勝るとも劣らぬ身位であった女院宣下ではない。よって徳川家側にあり皇室から離れているとみるべきで、婚嫁した後も、皇室の公務を行う皇族とする有識者会議案①とは整合しない。

  

七 江戸時代の摂家降嫁9方の皇女及び内親王と、徳川家へ降嫁1方は、御領、化粧領といった知行はあてがわれていないのではないか。婚嫁した皇女が知行主だったという根拠がない以上、皇族費が給付されることを前提とする有識者会議案①と整合しないし、前例とするのは欺瞞だ。

  事務局資料では、皇女が結婚した後に親王宣下された例として、寛文4年(1664)後水尾皇女常子内親王が近衛基凞(1690関白)に嫁した後、延宝5年(1677 )に親王宣下を蒙っている例をあげている。

 所生子は事務局資料では説明がないが常子内親王は近衛熙子( 徳川家宣御台所・天英院)、関白近衛家熙、左近衛中将大炊御門信名の母である。

 また霊元皇女栄子内親王は貞享3年(1686 )二条綱平(1722 年関白)に嫁した後(婚姻直前に親王宣下)、寛保3年(1743 年)二品に叙されており(資料にはないが所生子は関白二条吉忠)であり、こうした17世紀の摂家への降嫁事例が、臣下に結婚し内親王の身位を保持している前例、有識者会議案①の先例としているが、これも問題がある。

  有識者会議案は、摂政、国事行為臨時代行、皇族会議議員となる皇族を確保するために内親王を皇室にとどまるものとするものなので、その他の公務もこなすことも想定される皇族といえる。

 当然、皇族費が給付されるものと想定できる。それが宮家当主並の金額か、配偶者や所生子にも給付されるか不透明なところもあるが、①皇室に残る女性皇族には皇族費が給付される案とみてよいだろう。

 では、事務局資料が前例とする江戸時代に摂家や徳川家に降嫁した皇女、内親王は、現代の皇族費に相当する、内親王独自の御領、化粧料といった知行が充行われていたのか、それはなかった。知行主ではないとみるのが妥当と考えるので、前例とみなすのは不適切である。

 つまり、有識者会議案①からイメージする内親王が結婚後も皇室に残り、皇族費が給付され公務にあたるというものと、全然違う結婚の在り方であり、有識者会議案①の前例が近衛基凞に降嫁した常子内親王や、二条綱平に降嫁した栄子内親王というのは釈然としない。

  なぜならば、豊臣秀吉は、秀吉は諸公家、諸門跡の中世の知行を収公し再給付することより、知行充行権を掌握した [山口和夫. (2017). 『近世日本政治史と朝廷』. 吉川弘文館山口和夫, 2017]。諸公家の収入は安定したが、それぞれ由緒のある公家の所領であった中世の荘園公領制とは違って、知行は再給付した秀吉の麾下におかれることとなった。この知行充行権は徳川幕府に引き継がれた。徳川幕府は全領主階級を統合し、知行充行権を掌握、皇室、宮家、公家は幕府より御領、家領の知行をあてがわれる近世的領主となったのである。

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 南北朝から戦国時代にかけて、皇女は結婚しなくなり、室町時代以降は内親王宣下されることもなくなり、皇女は入寺得度し尼門跡(比丘尼御所、御宮室)となるのが通例とされた。寺領の経営体のトップであり経済的基盤がある。皇室では皇女が入寺得度されることはめでたいことであった。

 尼門跡(「比丘尼御所」)だが、高貴ゆえ結婚できない皇女を尼寺に閉じ込めたというのは大きな誤解である。室町・戦国時代の研究では、後柏原天皇の治世、比丘尼御所は年4回宮中に参内しており、里帰りは俗人と同じことだし、社寺参詣や遊興には男性公家、しかも天皇近臣が従っており、内親王でなくても皇女という立場は変わらない[菅原正子「天皇家と比丘尼御所」服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』小学館 2002]。

 菅原正子氏が、後土御門皇女渓山が住持である比丘尼御所大慈院の永正7年(1510)~14年(1517)7年間の収入を明らかにしているが、主な収入が1867貫7文 支出1735貫409文である。現在の価値に換算しざっくり言うと、年収三千万円の住持が皇女のポストということになり、黒字であり、経済的に決して悪くない待遇といえる。

 しかし17世紀には皇女の数が増加し経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。江戸時代も皇女の多くは尼門跡として入室したが、摂家に降嫁するようになったのは、皇女の数が多くなり在俗非婚皇女は知行主たりえない状況で、尼門跡のポスト以外の処遇としてひねりだされたということではないだろうか。

 摂家に降嫁する皇女は、独自の知行を与える必要はないため、御領、化粧料が充行われることはなかったと考えられる。

 ただし江戸時代には生涯非婚の内親王が厚遇された例が3例ある。久保貴子(2009). 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち)」. 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 からの引用であるが次の三方である。

 第一に後光明皇女孝子内親王(一品、准后、女院宣下)は、後光明天皇の唯一の子で、後水尾院の意向で、生涯手許に留める方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領300石が与えられた。

  第二に桜町皇女智子内親王(一品、後桜町女帝)である。寛延元年(1748)幕府から将軍世子家治との密々の縁組の申し入れがあったが、桜町天皇が拒否。桜町崩後に御領300石。なお女帝即位は、弟の桃園天皇の遺詔で、英仁親王(後桃園)5歳だったため、親王の伯母にあたる智子内親王が10歳になるまで中継として即位するという趣旨であった。

 第三に仁孝皇女淑子内親王(一品、准后)である、閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料300石を得たが、 11年後親王が薨去、御殿を持たず婚姻先も失い、住まいを転々としたが、長期にわたって空主が続いていた、桂宮の諸大夫たちが、仁孝皇女淑子内親王の桂宮相続を願い出て、幕府に承認され、幕府から道具料500石が進上されている。

 上記三方は非婚内親王として知行が与えられているので、結婚する必要も、尼門跡となる必要もなかった。しかし、大多数の皇女は知行主たりえなかったので、尼門跡となるか結婚したというように思える。

 なお、事務局資料にある霊元皇女八十宮は2歳で徳川家継と婚約、正徳6年(1716)納采の儀まで行われたが、家継の夭折で結婚には至らなかった。とはいえ将軍家の婚約者であるから、相応の知行があてがわれたと考えられるのである。

 私は、伝統から嫡系の生涯非婚内親王が厚遇されてよいとは思うが、有識者会議案は婚入配偶者を前提としたもので、非婚を前提としていないので伝統に反するといえるのである。

 なお、内親王の経済基盤について補足説明をすると、そもそも令制では親王は格別の礼遇で、親王の品田は一品に80町、二品60町、三品50町、四品40町、食封は親王一品に800戸、二品600戸、四品300戸で内親王は半減である。このほか時服、有品親王に月料などの特典があり、親王は令制では特に、文学・家令・扶・従の職員が附く。文学は経書を教授する教育係で内親王には附かない。このほか帳内(近侍して雑用に当たる者)が、一品親王なら160人、品位によって差がある。

 内親王の食封は男性の親王の半分とはいえ、格別の国家的給付であり厚遇された。家政機関も附置される。令制どおりの国家的給付がなされたのは短い期間だったかもしれないが、内親王とは本来そのような経済基盤をもってしかるべき身位であるから、生涯非婚内親王が多かったのだといえる。

 院政期以降は、非婚皇后に立てられたり女院宣下され、膨大な御願寺領の本所だった八条院(暲子内親王)や、宣陽門院(覲子内親王)のように、非婚内親王は経済的に恵まれていたが、鎌倉後期以降、皇室領の巨大荘園群は、皇統の惣領、治天の君が管領することとなり、南北朝、室町時代、戦国時代は、非婚内親王独自の経済基盤に乏しくなったため、皇女はほとんどすべて、尼門跡(比丘尼御所)となり、寺領領主となった。江戸時代に尼門跡にならないで、非婚内親王として厚遇されたケースは先に述べたとおりである。

 

八 内親王の皇親内婚原則に回帰した霊元院の一連の政策以降、終戦前迄内親王は皇族と結婚することが原則だったことが無視されている

 

 江戸時代は皇女が尼門跡に入室する多数を占めるが、結婚されるケースも少なくない。17世紀に皇女の摂家への降嫁が9例ある。この理由については、久保貴子氏(前掲書)がコメントしており、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないかと考えられる。徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。また、 一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」とする。

  上記の見方に加え、私の考えでは五摂家が禁中並公家諸法度により、事実上、世襲親王家当主より座次、序列上位となったことが大きいと思う。皇族以上の序列なら臣下が娶ることは違法とされていた内親王との結婚も障碍はないという理屈はありうるので、原則から逸脱してないという方便になっているとも考える

 しかし近世朝廷においては、17世紀末期に皇女の婚姻の方針が転換された。元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来、摂家との婚姻をやめ、原則として本来の在り方である内親王は皇族と結婚する在り方に回帰している。

 この方針の転換については推測にすぎないが、霊元天皇が幕府と強く交渉して、天和3年(1683)に14世紀中葉以来の立太子礼(朝仁親王)を復活させ、貞享4年(1687)に221年ぶりに、大嘗祭(東山天皇)を復活させた。元禄10年(1697年)有栖川宮家の幸子女王が東山天皇に入内し宝永5年(1708)皇后に立てられたが、皇族の皇后は後醍醐后珣子内親王以来。だから、内親王が皇族に嫁ぐようになったのも、霊元天皇による朝儀復興とか本来の姿に戻そうという政策と軌を一にするものという理解でよいのではないか。

  もっとも正徳6年(1716)2歳の霊元皇女八十宮が家継と婚約した例などもあるが、これは霊元法皇の幕府と関係修復を図る政治的意図によるもの、ただ家継の夭折で結婚にはいたってない。

 和宮親子内親王についてはよく知られているとおり当時の公武合体策という特殊な事情によるもので、例外的事例であり、和宮とて有栖川宮熾仁親王と縁約していたから、幕末まで皇女は結婚するなら皇族という方針は一貫している。

 明治22年旧皇室典範のもとでは、明治41年の常宮昌子内親王から、明治皇女4方はすべて皇族と結婚しております。明治皇女内親王は九方おられる、五方は夭折されており、無事に成長した方は四方だった。すべて皇族との結婚である。

 また昭和18年の昭和皇女照宮成子内親王も皇族と結婚しているので終戦前の皇女内親王の5方の結婚はすべて皇族であり、令制以来の伝統原則に沿った在り方を踏襲していた。

 したがって終戦前は、内親王は皇族と結婚するのが古来より原則というのが意識されていたと推定できるのである。

 17世紀末期から、20世紀前半というくくりでは、内親王が天皇か皇族と結婚した例9例に対し、臣下が娶ったのは1例にすぎない。

 戦後は内親王が皇族と結婚せず、臣下への降嫁が通例となった状況があるが、それは全体の歴史からみれば、例外的事象であって、異例が続いているというべきである。

 皇室典範12条は明治皇室典範44条と同趣旨のため旧皇室典範を継受しているのであるから、旧皇室典範のもとでも実態として一世皇女内親王はすべて皇族に嫁し、令制においては臣下が娶ること違法であった伝統を意識しており、皇室典範12条も原則は、内親王が身位を失わない皇族内婚と理解できるので、戦後の在り方は異例と言い切ることができる。

 それゆえ皇室典範12条改正を要すると提言されている、有識者会議①案は、内親王の皇親内婚原則、歴史的性格規定を否定し皇室制度を破壊する。

 よって非婚内親王の厚遇はあってもよいが、①案は全面的に反対である。

 

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2021/12/08

天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議の「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」批判 下書きその一

 これは動画にしますその台本です

 

1130日の会議における「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」では、事務局は皇室典範12条改正に積極的であり、きわめて危険な状況にあると考える。わたくしは12条改変に絶対反対であるとともに、伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を重んじ、伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべきで、養子縁組案についても批判的な見方をとるが、

 皇室典範12条改正は最悪の事態であり、これを回避することが肝要と考え、事務局の資料を批判する。

 

一 勤子内親王(醍醐天皇皇女)以下の例示に論理性はない

 

ともかく内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する案は、夫婦別姓の歪な結婚の在り方であり、12条改変により継嗣令王娶親王条に遡る皇室の伝統を破壊する。容認しがたいので、政府や国会議員の方々も賛同してもらいたくない。

事務局の研究資料からうかがえることは、内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とするために、特例ではなく、皇室典範12条を改正し恒常的な制度とすることを提言し、その根拠として、明治皇室典範44条では臣下に降嫁した場合、皇族女子は皇族の列から離れることしし、現皇室典範12条もこれを踏襲しているが、江戸時代以前は内親王は臣下に嫁しても内親王という身位を保持もしくは、もしくは結婚後に親王宣下されたり、叙品されているので、皇親であることにかわりはなかったとし、伝統に反していないということを言いたいようである。

具体的には勤子内親王(醍醐天皇皇女)、康子内親王(醍醐天皇皇女)、常子内親王(級宮、後水尾天皇皇女)、栄子内親王(女二宮、霊元天皇皇女)、吉子内親王(八十宮、霊元天皇皇女)親子内親王(和宮、仁孝天皇皇女)をあげているが、率直に言って、有識者会議案が英国のアン王女やオランダが制度のモデルとみられる一方、上記の令制では違法だが、勅許により臣下に嫁した内親王を前例としているのは、イメージとして大きな隔たりがある。

以下のとおり上記の内親王を前例としてこれを正当化するのは大きな難点がある。

 

 

(一) 事務局が例示した内親王の婚姻は、令制では継嗣令王娶親王条により臣下が内親王を娶ること自体が違法で、令制で想定されていない例外的な婚姻の在り方である。

 

要するに例示されているのは令制では違法婚であるが、反律令行為であるが勅許された例外的事例である。令制の違法婚を正当として前例とみなすのは法制史的に妥当なものでなく、伝統というのは皇親女子の皇子内婚である。

この点については文殊正子氏によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している。

[文殊正子. (1986). 『内親王』号について 『公主』号との比較. 古代文化 38(10).中村みどり. (2002). 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」. 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編による要約]

統計的にも6世紀の欽明后石姫皇女以降、現代まで、一世皇女ないし内親王(一世皇女)で皇親(皇族)と結婚したことが知られるのが63方、臣下と結婚したことが知られているのが27方であり、時期的には10世紀と17世紀、20世紀後半以降に多くみられるが、歴史的に一貫しているものではなく、一時的事象なのである。やはり皇親内婚が多数を占めそれが原則であることは明確に言える。

内に向いた性格ゆえ事務局例示の婚姻事例は、内親王本来の性格規定に反した結婚なのである。  

継嗣令王娶親王条は皇親女子の皇親内婚を定めていて、臣下が娶ることができるのは五世王以下とされており、皇親内婚は57世紀の慣行を明文化したものである。ただし延暦12年(793)九月丙戌の詔で見任大臣と良家の子孫は三世王以下の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、大幅に規制緩和された。

二世女王降嫁の初例は承和前半期の藤原衛への、淳和二世女王恒世親王女の降嫁である。

しかし臣下が内親王を娶ることは一貫して違法なのである。

ということで臣下が内親王を娶る反律令行為であったが、実際には10世紀以降幕末まで1820例ある。臣下が内親王を娶った内親王降嫁の歴史上の初例は事務局資料例示の承平4年(934)頃の醍醐皇女勤子内親王の藤原師輔への降嫁である。内親王は源順に 『和名類聚抄』を編纂させた才媛でもあった。勤子内親王病没後、師輔は承平7年に伊勢斎宮を退下された醍醐皇女雅子内親王と密通し、雅子内親王病没後、天暦9年(955)醍醐皇女康子内親王と密通、いずれのケースも師輔が内親王を手懐けて密通し、事後承認を得た形の結婚である[岡部 明日香(2012)「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実:―絵画と斎宮

中古文学 90(0)]。

事務局資料例示の康子内親王は村上天皇と同じ后腹の姉宮、居所は母の太皇太后藤原穏子と同じ殿舎だった。太后藤原穏子が崩御になられたあと、准三后宣下され、格別尊貴な内親王であったので、康子内親王の密通についてはさすがに天機を損じた。

師輔は康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなきに(前が汚れている)」(『大鏡』)とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『中外抄』) などと伝えられている。

 [保立道久. (1996). 『平安王朝』. 岩波新書] 

とはいえ、村上天皇は違法でも勅許されたのである。師輔は村上天皇の皇太弟時代の東宮大夫であり立坊を実現させた功臣で、皇后の安子の父でありミウチであった。

また中外抄は12世紀の関白忠実の口述記録なので、本当に師輔のまらが大きかったのか、公然周知の醜聞だったのか疑問がないわけではないが、12世紀には内親王が降嫁した事例はないので、臣下への降嫁は好ましくないという意識が強くあったと考えられる。

要するに事務局の例示は反律令行為の違法婚を伝統的なものとすりかえた議論をしている点できわめて悪質といえる。

 

もとより、勤子内親王や康子内親王が違法婚で降嫁という令制が想定していない結婚であったといっても生涯内親王であったことはいうまでもないだろう。

奈良時代に文武皇妹吉備内親王が長屋王事件で縊死。聖武皇女不破内親王が神護景雲3年(769)県犬養姉女らの巫蠱事件に連座し、内親王の身位を廃され、厨真人厨女と改名させられ京外追放されたが、これらは謀反であるから当然のことで(ただし後に誣告だとされ不破内親王は復位)、このような懲罰的事例でもない限り内親王位をはく奪されることはないからである。

違法婚ではあったが、父系帰属主義は明確に意識されたため師輔に内親王三方が降下してももちろん皇族になるわけではないし、雅子内親王所生の右近衛少将藤原高光、太政大臣藤原為光、康子内親王所生子は太政大臣藤原公季であって、所生子は藤原氏であるから、とくに藤原公季は村上天皇の甥で近親といえる。公季は宮中で養育されたのは、康子内親王が産褥死で薨ぜられ、3年後に師輔も薨ぜられたので、師輔女の皇后藤原安子が引き取ったという事情によるので准皇族とされたわけではない。

 

2021/12/05

政府・国会議員へ 事務局は皇室典範12条改正に積極的で危険だ。天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議批判

 有識者会議は、男系維持か、女系許容かという議論は棚上げにしたうえ、皇族の数の確保が喫緊の課題という名目で、皇室制度を根本的に変革する内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案を答申する可能性が高いが私は強く反対する

 配偶者や所生子を皇族とするか否かは棚上げとして、反対論の多い「女性宮家」という言葉は使わず、アン王女の家族を模倣してもよいのではないかという意見が議事録にあり、英国の模倣なら国民は納得すると思っているようである。

 1130日の会議の事務局提出の資料では事務局は皇室典範12条改正に積極的であり、きわめて危険な状況にあると考える。わたくしは12条改変に絶対反対であるとともに、伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を重んじ、伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべきで、養子縁組案についても批判的な見方をとるが、ともかく内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する案は、夫婦別姓の歪な結婚の在り方であり、12条改変により継嗣令王娶親王条に遡る皇室の伝統を破壊する。容認しがたいので、政府や国会議員の方々も賛同してもらいたくない。

 私の意見は自身のブログとYouTubeで意見を述べていますので御笑覧いただければ幸甚に存じます。

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masahiko kawanishi (全部小文字の方です)チャンネル

有識者会議批判動画2台本

 

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき・「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議批判  動画その2台本

 

動画台本

 たぶん時間の無駄になるのでお勧めはしませんが、からかってやりたい方は YouTubeのmasahiko kawanishi (全部小文字の方です)チャンネルでご笑覧いただければ幸甚に存じます。

 

 

〇「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案」は夫が世にある限り女性当主はありえない日本の家族慣行を否定する重大な文化破壊になる

 

 

 有識者会議の「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案」この案は、摂政や国事行為臨時代行たりうる皇族数の確保を喫緊の課題として、女性皇族を皇室に残すが、配偶者と所生子は、当面は皇族とせず、女系を容認するか否かは先送りにして既成事実として進めていこうというものである。

 

 プリンスコンソート類似の制度を創設せず女系容認の論議を先送りにすればハードルが低くなるという判断のようだが、しかし夫となる男性の身分、地位構成(ステータスシステム)が不確定で女性皇族の添え物扱い。夫婦別姓の事実婚のような前例のない歪で醜悪な制度であり、非常に不自然なものといえる。

  

 動画第1回の反対論の要旨

 

(理由その1)歴史上一貫した内親王の性格規定の否定

 

 皇族以外と結婚しても、内親王は皇室に残るとする有識者会議の案は、歴史上一貫した規範である内親王の皇親内婚の原則を否定し、皇族にのみ嫁ぐことで皇室の血縁的尊貴性を守る役割という「内親王」号の歴史的性格規定を否定するから、皇室制度を根本的に破壊する。

 

 

 日本の「内親王」号は、我国独特の称号で、唐や新羅の「公主」号とは違う。継嗣令王娶親王条で皇親内婚が定められているがゆえに、内親王号であり、有識者会議案のように皇族以外と結婚しても皇室から離れないのは、内親王号の歴史的由来に反し、道理に反する。

 

 

 

 

 内親王の内を向いた性格、皇親内婚原則は歴史的に一貫した原則である。その根拠は以下のとおりである。

 

 つまり

1 令制では内親王を臣下が娶るのは違法で、反律令行為である。違法でも勅許による結婚も少なからずあるが、例外的な事例といえる。

 統計的にも6世紀の欽明后石姫皇女以降、現代まで、一世皇女ないし内親王(一世皇女)で皇親(皇族)と結婚したことが知られるのが63方、臣下と結婚したのが27方であり、やはり皇親内婚が多数を占めそれが原則であることは明確に言える。

 

旧皇室典範44条と皇室典範12条は一世皇女内親王を臣下が娶ることを違法としていないが、その場合は皇族の列から離れることを規定している。

 旧皇室典範44条のもとで明治41年の常宮昌子内親王から昭和18年の照宮成子内親王まで内親王五方はすべて皇族と結婚していることから、令制原則を明らかに意識し踏襲している。ゆえに歴史的に一貫しているもの。

 

 

 

  有識者会議案は、内親王の内向きの性格を否定、外向きになって皇族外の婚入配偶者を迎えることになり、皇室制度1600年の規範を根本的に破壊する。

 

 

  皇室典範12条は、内親王・女王の身位を保持するための結婚は皇族との結婚を規定し、大筋で令制の原則を踏襲しているといえるが、有識者会議の皇族以外と結婚しても、内親王・女王が身位を保持する案は 歴史的に一貫した規範で令制の婚制の核となる皇親内婚の思想を根本的に否定するので、皇室制度の破壊になるからダメということ。

 

 

  文殊正子氏によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している。  

 

 文殊正子. (1986). 『内親王』号について 『公主』号との比較. 古代文化 38(10).中村みどり. (2002). 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」. 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編による要約

 

 

 

2回 動画本編

〇「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案」は夫が世にある限り女性当主はありえない日本の家族慣行を否定する重大な文化破壊になる

 

 

(理由2)内親王・女王は婚姻関係にあるかぎり、后妃以上になれないという鉄則を踏まえなればならないが、有識者会議案はこの鉄則を破るから許せない

 

(理由3)皇室と庶民の家とは性格が異なる面があるとはいえ、当主となりえなない入婿という我が国にはない男性を侮辱する制度を創設することの国民に与える影響は大きく、家族規範を混乱させることとなる。それゆえ有識者会議案は絶対的に反対

(理由4)幕末の淑子内親王の桂宮相続は女性宮家の先例とはいえない

(理由5)アン王女がモデルの有識者会議案は女系容認の英国王室の模倣であり、我国の国体を破壊する

 

 動画2回は理由34をとりあげ 理由4以降は次回とする。

 

 

 

(理由2)内親王・女王は婚姻関係にあるかぎり、后妃以上になれないという鉄則を踏まえなればならないが、有識者会議案はこの鉄則を破るから許せない

 

 

  皇統嫡系の内親王が入婿的に傍系の男性皇族と婚姻するケースはしばしばあるが、内親王は婚姻関係にある限り后妃以上にはなれない。仮に家附き女的立場にある内親王であっても結婚した場合、当主にはなりえないというのが我国の皇室の歴史で一貫した規則性である。

 

  内親王・女王が結婚して身位を維持することができるのは天皇・皇族と結婚したケースに限るというのが、皇室典範12条の規定であるから、有識者会議案は皇室典範12条を劇的に改変もしくは特例として皇族以外の内親王・女王が結婚しても身位を保持する案というべきであるが、この場合内親王・女王と結婚する皇族以外の男性配偶者は、たとえ身位が不確定で皇族にならないとしても外形上皇室の入贅と認識されることになる。このような前例はない。新奇であり非常に歪な制度である。

 

 21 我国の皇室における男系(父系)帰属主義の一貫性

 

 皇族どうしの婚姻(皇親内婚)では、嫡系の親王であれ傍系の諸王であれ、即位するのは男性皇親、宮家の当主も男性皇親である。嫡系の内親王であれ、傍系の女王であれ女性皇親は皇后か妃、あるいは女御と決まっており、歴史的に一貫した鉄則である。

 有識者会議の内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案はこの歴史的に一貫した鉄則を破るので皇室制度を根本的に破壊する。

 大化元年の男女の法でも明らかなように、我国は古来より父系帰属主義である。皇室以外の中世以降の日本的家制度の成立についてはここでは言及しないこととし、皇室にしぼって取り上げる。

 令制の親王号、王号を称する皇親とは、父系で天皇に繋がる。父系帰属主義であることはいうまでもない。

 我国の令制皇親制度と男系主義は非常にわかりやすいと思います。

 そもそも「王」とは何か。中国において春秋時代に「王」とは最高の君主を意味したが、戦国時代に有力な諸侯が「王」を自称したので地位が相対化した。漢王朝においては帝室一族は「王」号を称しうるが、外夷の君長にも「王」号が与えられた。それゆえ、中国では「王」は皇帝によってあたえられる最高の爵位となり、我が国とは意味が違っている [西嶋定生. (1999). 『倭国の出現 東アジア世界のなかの日本』. 東京大学出版会]。

  

 唐制との違いについては吉田孝. (2006). 『歴史のなかの天皇』 . 岩波新書が一番わかりやすい。

  「唐制では『王・公・侯・伯・子・男』の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の『王』は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの『王』名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて『王』名号を称するのである。但し、『王』族の急増をもたらした。その結果、『賜姓』による臣籍降下が日常化し、『王』も『姓』の一種とみなされるようになる。」

 

 以下の言辞は皇位の男系継承は明確に認識されていたことを裏付けるといえる。

 花園上皇の『誡太子書』(元徳2年・1330)に「 吾朝は皇胤一統なり」 「異姓簒奪の恐無し」とある。

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 内大臣洞院満季が後小松上皇の勅命を奉じ撰進した皇室の系図が『本朝皇胤紹運録』(応永33年・1426)というように、皇位継承資格者は皇胤(男系)である。

 

 同趣旨の見解として慈円の『愚管抄』巻七(承久2年頃・1220)に「日本ノ国ノナライハ、国王種姓ノ人ナラヌスヂヲ国王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル国」「コノ日本国ハ、初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノマゝニテイカナル事イデクレドモ、ケフマデタガハズ‥‥ [村井章介. (2005). 「易姓革命の思想と天皇制」『中世の国家と在地社会』. 校倉書房]

 

 神武天皇より王胤によって皇位が継承されてきた。自明の事柄である。

 『神皇正統記』は、「唯我国のみ天地ひらけし初より、今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓のなかにをきても、をのずと傍より伝給しすら、猶正にかへる道ありてぞたもちましましける。」という。

 吉田定房奏状には「異朝は紹運の躰頗る中興多し。蓋し是れ異姓更に出ずる故のみ。本朝の刹利天祚一種なるが故に、陵遅日に甚だしく、中興期なし」 [村井章介. (2005). 「易姓革命の思想と天皇制」『中世の国家と在地社会』. 校倉書房] とある。異姓に帝位が継承されない天祚一種が日本であるとする。

 

 

 

 

本郷和人

『天皇はなぜ万世一系なのか』文春新書2010

196頁以下で保守論客の女系天皇反対論批判をやっていて、「結果としての男系天皇にすぎない」と言う。その理由の一つとして高群逸枝説の古代における招婿婚の盛行を取り上げて、「天皇の相承は男系で、という強烈な意識があったのは想定しがたく」などと書いている。このような見解は甚だ疑問。

 高群逸枝説は鷲見等曜、歴史人類学の江守五夫の嫁取婚古代起源説、近年では栗原弘が、高群逸枝は『招婿婚の研究』で史料を改竄していると厳しく批判し、実際には高群が主張するほど平安時代に婿取婚が一般的ではなかったことを示している。

江守五夫『家族の歴史民俗学』弘文社 1990

栗原弘『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』高科書店 1994参照

 

 

22内親王が結婚しているケースでは夫帝優先の原則、当主は男性皇族という規則性を否定する有識者会議案は皇室制度を根底から破壊する

 

 内親王に御配偶となる男性皇親がおられる場合は配偶者の男性皇族が即位する「夫帝優先の原則」という大原則がある。

 ただし御配偶の天皇崩後、女帝として即位する例がある。これは庶民の家でも、後家(寡婦)が次期家長が年少の場合に一時的に家長代行の役割を果たす慣行と同じである。

 日本の家族慣行では入婿は家長予定者として迎えられるのであって、入婿が当主となりえない在り方は非正常な家族関係だといわなければならず、有識者会議案は、たんに皇室だけの問題にとどまらず、日本の家族慣行、醇風美俗を否定するもので容認できない。

 「夫帝優先の原則」とは古代史家の佐藤長門. (2009). 『日本古代王権の構造と展開』 吉川弘文館で提示した概念「夫帝優先の原則」とは古代史家の佐藤長門. (2009). 『日本古代王権の構造と展開』 吉川弘文館で提示した概念である

 

 

221井上内親王のケース

 ただし、令制では合法の皇親内婚。皇族どうしの結婚については入婿的な結婚の事例はある。

 

 ここでは、皇統嫡系でしかも、皇子がいない状況での内親王について、井上内親王、昌子内親王、欣子内親王について取り上げる。いずれも入婿的な婚姻で配偶者が天皇である。

 例えば聖武皇女井上内親王は嫡系の皇統だが、皇后であって、御配偶の傍系皇親である大納言白壁王(天智二世王)が光仁天皇。なお皇后井上内親王は光仁崩後、太后臨朝称制型の中継ぎの女帝として即位する可能性があり、宝亀2年(772)廃后事件[近江昌司. (1962). 「井上皇后事件と魘魅について」. 天理大学学報(14)榎村寛之. (2007). 「元・斎王井上内親王廃后事件と八世紀王権の転成 」. 国立歴史民俗博物館研究報告( 134)]はそれを阻止するための謀略である蓋然性が高いとされる。

 

 

  重要なことは、井上内親王は聖武皇女で嫡系皇統(草壁皇統)であり斎王でもあったが、天智二世孫白壁王と結婚した以上、皇后に冊立されても、「夫帝優先の原則」により配偶者の白壁王をさしおいて即位することはできないということである。

廃后事件というのは、謀略ともいわれ真相は不確定ですが、光仁天皇を呪詛したという嫌疑がありえないわけではない。それは光仁天皇が崩御すれば井上皇后は女帝として即位できるからです。

 内親王に配偶者がある場合は配偶者の皇族が即位するという大原則があるからです。

 

222昌子内親王のケース

 

 10世紀の朱雀皇女昌子内親王も嫡系の内親王といえるが、皇后であって、御配偶の憲仁親王が冷泉天皇。応和三年(963)憲仁親王の元服当日、昌子内親王(13歳、満11歳)が入内した [河村政久史. (1973). 「昌子内親王の入内と立后をめぐって」. 史叢(7]

 このイトコどうしの結婚は天暦太后藤原穏子の既定方針による婚姻だが、冷泉天皇は奇行で知られ、わずか2年で譲位しているが、だからといって昌子内親王が即位するという性的役割の代替はありえないのである。

 イトコどうしといえば、敬宮愛子内親王殿下と悠仁親王殿下が仮に結婚した場合は、令制の慣例にあてはめても、やはり「夫帝優先の原則により」敬宮愛子内親王殿下は当然皇后であり、悠仁親王殿下が即位することは自明である。そのために冷泉天皇の前例を示した。

 

223姝子内親王のケース

 

 伯母-甥婚で類似した事例として結婚としては、鳥羽皇女で生母が美福門院の姝子内親王が東宮守仁親王の東宮妃となり、さらに二条天皇の中宮に立てられたケースがある。鳥羽上皇には妻后が三方おられたが、結果的には中級貴族出身の近衛御生母藤原得子が正后の位置づけになったと思う。その理由は、躰仁親王(近衛天皇)は崇徳天皇の中宮で関白忠通女藤原聖子を養母とし、一方崇徳皇子重仁親王は藤原得子を養母としたのである。養母を摂関家の中宮としたことで躰仁親王は箔がついたのである。得子は中級貴族としては破格の処遇で近衛登極と同時に皇后に立てられ、さらに女院宣下されたのである。鳥羽法皇は生前の保延5年(1139年)に鳥羽の安楽寿院境内に三重塔を築いてそこに自らの寿陵に定めた。久安4年(1148年)頃には、藤原得子のためにその南東に三重塔を作った。待賢門院は花園西陵であり、したがって藤原得子が、正后の位置づけにされていたと考える。

 しかし、近衛天皇は早世し、関白忠通が推した後白河が即位したが、二条天皇への中継ぎにすぎない。守仁親王(二条)養母が美福門院で、近衛天皇の身代わりとなって嫡流の継承者とするために、姝子内親王と結婚したというのが私の理解である。ゴッドマザー的存在として宮廷で求心力のあった美福門院にとっては近衛の身替わりであり、入婿的存在でもあったと考えられる。

 ところが姝子内親王は、鳥羽法皇の意向で後白河同母姉で後白河と親しい統子内親王の猶子とされていたことから、後白河や統子内親王(上西門院)と親しかったのであり、後白河院政派と二条親政派の対立で板挟みとなり二条天皇とは良好な関係でなくなったため20歳で出家されるのである。

 

224欣子内親王のケース

 

 近世では後桃園天皇が後嗣なく早世し、遺児である皇女欣子内親王を皇后に立てることを前提として、傍系の閑院宮典仁親王息祐宮(光格天皇)が大統を継承しているが、嫡系の欣子内親王はあくまでも皇后。「夫帝優先の原則」により女帝はありえない。

  なお、江戸時代中期以降、昭和18年まで内親王が、伏見宮家に二方、閑院宮家に一方、竹田宮一方、北白川宮一方、朝香宮に一方、東久邇宮に二方嫁しているが、いずれも親王妃である。

 

 

明治神宮歴史データベース

 

大正14(1925)49

竹田宮故恒久王妃昌子内親王殿下、北白川宮故成久王妃房子内親王殿下、東久邇宮稔彦王妃聰子内親王殿下御参拝。

 

 

 内親王・女王は結婚し、配偶者が在世している以上、当主、家長は男性皇親であり、皇后、女院もしくは親王妃、王妃以上の身位になれないという鉄則があり、この趣旨から、鉄則に反する有識者会議案には反対である

 

 

  我が国の庶民の家族慣行では入婿は次期家長予定者として迎えられる。この慣習は、皇室でも光格后欣子内親王の例などで同じことであった。

 

 入婿的な傍系皇親が、添え物の配偶者となるなどということは絶対ありえない。有識者会議案の女性皇族の配偶者は当面皇族とはされず、当主となりえない入婿というのが大問題で、皇室のみならず、庶民の家族慣行に反し受け入れがたいのである。

 私は、女系には反対だが、女性当主も同様に反対である。

民間では近年華道の家元に女性当主の例があるということだが、これは日本の家族慣行とは違う。

 皇室と庶民の婚姻家族とは違うものだとしても、国民は皇室の在り方を模範として受け止める傾向があるから、歪な家族制度を創設することは、国民への影響が大きく、そのことも有識者会議案に反対なのである。

  皇室のありかたは影響が大きく、日本の家族慣行に反する次期家長になれない入婿という制度を創成することは、絶対的に容認しがたい。とくに男性を侮辱する制度として反対する。

 (理由3)皇室と庶民の家とは性格が異なる面があるとはいえ、当主となりえなない入婿という我が国にはない男性を侮辱する制度を創設することの国民に与える影響は大きく、家族規範を混乱させることとなる。それゆえ有識者会議案は絶対的に反対

 

 人類学者の大御所清水昭俊氏は厳密な定義で知られるが、「婿養子」という語を用いずたんに「婿」とする。なぜならば「嫁養子」という言葉がないので「婿」と「嫁」でよいということです。

 

 以下の清水氏の学説に依存しますが、日本の家族慣行について説明します。

 

清水昭俊

1970<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.111985

1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985

1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

 

 

 

 

  •  日本の「家」の婚入配偶者の地位構成

 

 

  •  婿とは次期家長である。

 

  •  嫁とは主婦予定者である。

 

(家附き娘も嫁と同じ地位構成、性的役割で当主とはならない)

 

 次期家長(当主)でない婿、添え物的な婿というのは日本ではありえない。

 

 

 日本の家族慣行に著しく反しているので女性当主に強く反対である。

 

 ただし、寡婦が実子が年少である場合には、中継ぎ的に家長代行となることはありうるが、夫がこの世にいる限り女性当主はないというべきだろう。

 

 

 

 婚姻制度というのは性的役割分担があって成立しているものであると清水氏は述べており、家長、当主となれない入婿というものに日本では価値はない。そのような男性の処遇は侮辱であり屈辱でありとても容認できない。

 それゆえ、有識者会議の「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案」に反対である。

 

 有識者会議案のような夫婦別姓の事実婚のような歪な制度をつくることは強く反対する。それならいわゆる「皇女制度」のほうがはるかにましというべきである。あるいは非婚内親王を厚遇する制度の創設、一時金(持参金)を2倍、3倍にするなど婚出される女性皇族の待遇を改善したほうがよい。

 

 日本の家族慣行については厳密な定義で定評のある人類学者の清水昭俊が1967年の出雲地方斐伊川下流の村落の調査にもとづき精緻な理論で「家」成員交替過程を明らかにした。

 

 家成員は、おのおの与えられた地位に伴う役割を分担するものとして家生活に参与する。家は集団として不定形ではなく、限られた数の地位が一定の秩序に配列されている。つまり家は、時間的に配列された夫婦の対の地位(前・現・次代の家長・主婦-下記参照)と排除予定者以外の地位を用意していない。

 

 日本では、入婿は次期家長として迎えられるのであって、実子であれ婿であれ男性が次期家長、嫁であれ家附き娘であれ主婦予定者である。

 

 家長と主婦というの定型の役割である。それが日本の慣習ですよということです。

 

 日本の「家」の成員の地位構成

 

 〇前家長(おじっつぁんold man,grandfather)-前主婦(おばばoldwoman,grandmother)

 

〇家長(おっつぁんmale adult)-主婦(おばさんfamale adult

 

〇次期家長(わけぇしゅyoung fellow)-主婦予定者(よめじょinMarrying young woman)

  指称 門名+おじっつぁん

[清水昭俊1987 209]

 

 

   〇日本の「家」とはこういうものスマートに理論化(清水昭俊説)

 

ア 家成員の資格

 

  家成員は実子、養子、婚入者の3つの範疇と断言している。子供(実子・養子)と婚入者(嫁・婿)の2つの範疇と言い換えてもよい。[清水昭俊1973 62頁]

 

 つまり、家成員の獲得とは、出生、家外からの婚入、養取である。

 

 なお、清水は妻妾制の廃止された明治から昭和の「家」について論じており、近世においては密子・猶子というカテゴリーも認められるが、ここでは論外としたい。

 

 〈家連続者〉と婚入配偶者

 

 清水が独自に定義している用語で、家長-主婦の地位構成で婚姻に先立って家の成員であった者を〈家連続者〉と定義する。つまり跡取息子、家付き娘等の範疇である。〈家連続者〉の配偶者、家外から婚入して来る者を、男なら婿、女なら嫁という。婚姻は両性の個人の結合のみならず、家と個人の結合でもあり、この家を婚入者にとって婚家という。

 従って、この結合の終息は離婚ではなく、家との結合の断絶でありこれを不縁という。

 

 かくして、家連続者夫婦子供の出生=次代家連続者獲得→(次代)家連続者夫婦という循環的な過程が繰り返されるのである[清水1973]

 

清水説から明確にいえることは、日本の家族慣行は

 

 婚入配偶者は婚家に帰属するし、死後は婚家の仏となる

 

嫁は、主婦予定者として婚家に迎えられる

 

婿は、家長予定者として婚家に迎えられる

(家付き娘は主婦予定者であって当主になるわけではない)

 

 「家」は離在単位で、両属はありえない

 

 民俗慣行の「センタク帰り」「シャウトノツトメ」という慣習の地域があり新婚の嫁の頻繁な里帰りや、夫婦が嫁の生家の夜なべ仕事を手伝ったり、くつろいだりするする慣習は、婚家帰属性を否定するものではない。

 「娘三人持てば身代潰す」といわれる名古屋の慣習、初節句を盛大に祝う慣習のある地域があり、その費用は主として嫁の生家に求められる地域があるが、実家の経済支援は学問的には婚家帰属性を否定するものではない。

 

 白無垢・色直しの意義も出嫁女の婚家帰属性を意味する

  白無垢・色直しは現代の婚礼・披露宴においても、和装花嫁衣装の定番である。

嫁入は、古くは嫁取(よめどり)と言い、嫁入婚の成立儀礼を「嫁娶」とよんでいるように、儀礼の基本は、嫁を夫家に迎い入れる「嫁迎え」にあった。(江守五夫『日本の婚姻』弘文堂1986 294頁)つまり、出嫁女の婚家帰属が嫁入婚であるが、端的に「白無垢・色直し」だけを切り取ってもその意味が込められていると言ってよいのである。

 色直しは本来、嫁迎えから三日目に行われ、その後、嫁が舅姑、親族と対面披露されたが、明治以降では祝言の盃が済むとすぐに色直しの儀式を行うようになり、大きな披露宴では主要な儀式となった。

 歴史人類学者の江守五夫によれば「白無垢が死装束であって、花嫁が生家を出るときにいったん死ぬとみなされ、また、婚家に入ってから、赤色の衣装に色直しすることが再生をあらわしているということは、日本各地の人々が語っている」とする。(江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993 51)

 また、徳島県立博物館によれば、 花嫁行列は日が沈んで提灯を携える。 花嫁の出立時には生家の門で藁火をたき、花嫁が使用していた茶碗を割った。「県内の花嫁行列に見られるこれらの習俗は、葬送の際、死者を送り出す所作と非常に類似しています。‥‥死者と同様にあつかうことで、花嫁に象徴的な死を与え、生まれ変わることを指し示したものだと考えられます‥‥角隠し、白無垢の花嫁衣装の特徴は、死者に着せる死装束、または、葬送に参列する人々の服装に類似します。死者の装束は一般に白色とされ、額には三角形の白布の宝冠が被せられます。‥‥かつては喪服が黒色でなく白色であったと言い伝えも耳にします」(徳島県立博物館企画展図録『門出のセレモニー-婚礼・葬送の習俗』徳島県立博物館編2001) 色直しについて「婚礼には披露宴の際、花嫁が白無垢から色打掛などに着替える色直しと言う習俗が見られます。色直しには、白無垢によって死の状態にあるとされる花嫁が、色のついた衣装に着替えることによって、 あらたに嫁いだ家の人間として生まれ変わったことを示す」と説明している。

 また小笠原流の伝書においても「嫁入りは惣別死にたるもののまねをするなり。さて輿もしとみよりよせ白物を着せて出すなり。さて輿出て候えば門火など焼くこと肝要なり。ことごとく皆かえらぬ事を本とつかまつり候」(小笠原敬承斎「結婚にまつわるしきたり その起源と意味」『歴史読本』2010.10. 55 10号 通巻856)とあり、白無垢=死装束の模倣との見解を裏打ちしている。

 しかし伊勢流有職故実研究家伊勢貞丈の見解では、白無垢の白色は五色の大本であるためとし死装束であるとはいってない。ただ通俗的によくいわれるのは「白無垢」は婚家の家風にしたがい何色にでも染まりますとの意味を込めたものとされているから、実質的な意味に大きな差はないと考える。

 

ウ 排除予定者

 

 〈家連続者〉だけが、生涯、家の成員であり、その余の子供たちは婚姻より前に生家から離れなければならないので、これを排除予定者と定義する。

 

 家からの排除は、婚出、養出、分家設立の3つの形態のみである[清水1973]

 

 エ 仏体系

 

 人は死亡時に所属した家の仏になる。仏には世代仏と子仏の2種類がある。世代仏(セダイホトケ)とは、清水が出雲の調査で発見した概念だが、日本の「家」の標準的な仏体系とみなしてよいと思う。

 

 これは、歴代の家長・主婦達であり、永久に年忌が営まれる。生前結婚し、家長・主婦に予定されながら、家長・主婦になる前に死亡した者、男の家連続者(家長予定者)が、結婚年齢に達しながら未婚で死亡した場合を含む。ただし婿、嫁で不縁とされた者、中継ぎとして分家した夫婦、女の家連続者については夫が世代仏にならない限り、世代仏とはならない]。一系列に配列された歴代の世代仏は、生きている家成員と、家の創始者(先祖)を結びつける媒体である[清水1987 208頁]

 

オ 家成員獲得過程を規制する規則群

 (A)最下世代を基点とした家成員を基点とした家成員獲得過程を規制する規則群

 指定される〈家連続者〉とは

 

) 下の世代が上の世代に優先する

 

)上記の枠内で男子が女子に優先する。

 

)上記の枠内で年長者が年少者に優先する。

 

  つまり第一に最下世代夫婦の長男子、第二に長女子、第三に最下世代夫婦のうち家連続者の弟、第四に最年長姉妹である。

 

 上記の可能性が不可能な場合は、家外から養子を求める。有力な家では血筋の中切れを嫌い分家から養子を求めるが、それは強制的な規則ではない。

 

 (B)最下世代夫婦に事故が生じた場合の対処を規制する規則群

 

)次代家連続者長男が結婚後間もなく死亡した場合

 

 弟妹が家に残っていた場合、寡婦は生家に戻し、弟妹を家連続者に指定する。

 

 残っていたのが弟であり、死亡した兄と年齢差がなければ、寡婦と弟の結婚(レヴィレート婚・逆縁婚)が指定される。

 

 弟妹も家に残って言いない場合は、婚入配偶者であった寡婦が、〈家連続者〉となり、あらたに婿を迎える。血筋としては〈中切れ〉になるがそれでも家は連続していく。

 

2)息子を残して最下世代夫婦の夫が死亡した場合

 

 死者夫婦の息子を次の次の家連続者に指定したうえで、死者の弟ないし妹夫婦を〈中継ぎ〉として、息子が成人するまで家の運営を代理させる。息子の成人後、〈中継ぎ〉夫婦は分家を創設する[清水1987 211]

 

 

 (C)清水説(B)の補足 寡婦・寡夫の再婚による家の継承

 

 

 清水説はフィールドワークに基づいて家の連続は、婚入者〈寡婦・寡夫〉を介しても実現されているという規則を提示した。婚入者〈寡婦・寡夫〉は家連続者としてあらたに配偶者を迎えることにより家は連続する。

 

 〈家連続者〉は「婚入配偶者を迎えて家成員を増殖させるために、家がその内部に用意する家成員」と定義されるため、婚入配偶者たる嫁・婿は家成員であることを見事なロジックで立証している。

 

 ちなみに近世における女の道の教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていたという指摘があるが(柴桂子「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」江戸期おんな考14 2003年)、出嫁女の婚家帰属性については我が国も漢土法も近世朝鮮・韓国も同じことである。

 この点については東洋法制史の滋賀秀三(『中国家族法原理』創文社1967 459頁以下註16)によると女性は父の宗との帰属関係を有さない。父を祭る資格を有さないのである。女性は婚姻によってはじめて宗への帰属関係を取得する。夫婦一体の原則にもとづき、夫の宗の宗廟に事える義務を有し、死後、夫婦同一の墳墓に合葬され、考妣対照の二牌つまり夫婦で一組の位牌がつくられ、妻は夫と並んで夫の子孫の祭を享けるが、女性は実家において祭られる資格を有さず、未婚の女の屍は家墳に埋葬されず他所に埋める。つまり女性は生まれながらにして他宗に帰すべく、かつそれによってのみ人生の完結を見るべく定められた存在であった。白虎通に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」。「婚礼の挙行によって女性は確定的に夫宗〔夫の宗族〕の秩序に組み込まれる」。漢族は妻は夫の宗族に帰属する。韓国の門中も同じことである。

 

 日本と中国の違い

 

  比較文化的にいうと、日本と中国では入婿の扱いが違う・女家に婿入りする贅婿の「贅」の字には「余計なもの」「無駄なもの」という意味があり、「質」の意味があり質にとられた婿という意味もある[牧野巽(1985・初出1935)「中国における家族制度」『牧野巽著作集第6巻』御茶の水書房]

 

 20世紀前半期の北支、中支の民族学調査で、実は中国は完全な父系社会でなく、我が国とおなじく準父系である。後嗣のない家では、娘と単に子孫をつくるための社会的地位のない配偶者(入贅)という存在があり、これは宗法に反するので軽蔑の対象となった。

 

 日本ではたんに家を断絶させないための入贅という男性にとって軽蔑の対象となる婿入りという慣習はない。入婿が次期家長であるからで、この規則性をなくして、有識者会議案は女性宮家を既成事実化するもので皇室に家を断絶させないための入贅 という中国的な下位制度を認める、ことになるが、我国の家族慣習と異質のものなので適切ではない。

 

 有識者会議案は日本の醇風美俗が失われる危機と受け止める

  

 婚入配偶者(婿・嫁)が新に婚入配偶者を迎えて家を継承した歴史的事例

 

〇畠山氏

 畠山重忠未亡人北条時政女が岩松義純と再婚した例

畠山重忠は秩父平氏の嫡流、長寛二年(1164)に畠山館(現深谷市)に出生し、知勇兼備の武将として「坂東武士の鑑」とされた著名な人物であるが、元久二年(1205)北条時政後室牧の方の謀略により、嫡子重保が由比ガ浜で討たれ、重忠は二俣川で北条兄弟軍により討たれた。重忠の末子、弟による家門再興は許されず、平姓畠山氏は断絶、政子の命令で重忠の所領は没収されたが、承元四年(1210)重忠未亡人北条時政女の所領は改易されないこととなり、この未亡人は足利義兼の次男、岩松義純と再婚し、畠山泰国を出生しており、畠山の名跡は泰国の子孫が継承、足利一門として室町時代には管領となる[福島正義1990『武蔵武士-そのロマンと栄光』さいたま出版会]

 

 〇 住友家

 

婿養子で家外から後妻を迎え、その間の子孫が家名を継承した例

   住友社史によると、家祖は政友であり、京都で書籍と医薬品を商う「富士屋」を開き長男の政以が継いだが、長女の婿となったのが蘇我理右衛門の長男理兵衛(16021662)であり、住友に改姓し、住友友以(とももち)と名乗った。実家より銅吹き業を持込み、実質住友財閥を興した人といえる。大阪に移転し代々銅精錬業として「泉屋」の家号を用いた。このため住友社史では蘇我理右衛門を元祖あるいは業祖としているのである。

 友以は岩井善右衛門女を後妻としており、実質的な家業は婿養子の友以と岩井間の子孫が継いでいる。しかし友以の母が政友姉であるから、住友家の血筋は女を介して中切れにはなっていない。しかし八代目で血筋が絶え岡村家から養子を迎え、十五代目に徳大寺家の子孫を婿養子としている[官文娜2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版2005年]

 

 皇室と庶民の家とは性格が異なる面があるとはいえ、当主となりえなない入婿という我が国にはない男性を侮辱する制度を肯定することの国民に与える影響は大きく、家族規範を混乱させることとなる。それゆえ有識者女性宮家は絶対的に反対なのである。

 

 

 

 

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