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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

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2021/12/12

有識者会議事務局資料の欺瞞 違法婚である藤原師輔が密通のうえ事後承認された醍醐皇女康子内親王の降嫁等を、内親王が結婚後も身位を保持する先例だ、伝統だと言い募るのは全く論理性がない

 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議は、男系維持か、女系許容かという議論は棚上げにしたうえ、皇族の数の確保が喫緊の課題という名目で、皇室制度を根本的に変革する内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案①を答申する可能性が高いが私は強く反対する

 配偶者や所生子を皇族とするか否かは棚上げとして、7月9日の議事記録には反対論の多い「女性宮家」という言葉は使わず、アン王女の家族を模倣してもよいのではないかという意見が議事録にあり、内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する案①案に積極的な意向のメンバーがおられることがわかる。女系容認の英国王室の模倣は皇室制度を根本から破壊し賛成しない。

  11月30日の会議における事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料では、事務局は皇室典範12条改正に積極的であり、きわめて危険な状況にあると考える。

   私は12条改変に絶対反対であるとともに、伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を重んじ、伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべきで、養子縁組案についても批判的な見方をとるが、それはともかく最悪の事態となる、皇室典範12条改正を避けたいという趣旨で意見を具申する。

  ともかく内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する案(以下①と示す)は、夫婦別姓の歪な結婚の在り方であり、12条改変により継嗣令王娶親王条に遡る皇室の伝統を破壊する。容認しがたいので、政府や国会議員の方々も賛同してもらいたくない。

   ここでは、事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料に論理性が乏しいことの一点のみを指摘する。

   有識者会議事務局は、内親王・女王が皇族以外と結婚しても皇族の身分を保持することを可能とする案を正当化するために、江戸時代以前は臣下に嫁した後も内親王は身位を保持し、あるいは臣下に嫁した後、親王宣下を蒙ったり、叙品された事例を先例としているが、以下のとおり全く論理性がない。その理由について以下7つのセクションで分けて説示する。

 事務局資料の例示した6例は以下のとおりである。

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 事務局例示の皇女降嫁事例は有識者会議案①の先例とみなす論理性はない理由

 

一 例外的な違法婚を伝統と言い募る詭弁

 

  事務局資料が例示している臣下と内親王の結婚は、継嗣令王娶親王条に違反する違法婚で、例外的に勅許されている事例であり、本来の内親王の婚姻の在り方ではない。

 内親王は皇親のみとの結婚が合法であったゆえ、令制ではそもそも臣下との婚姻は想定されていない。反律令行為、例外を伝統的な事例であると言い募っている事務局資料は詭弁であり、悪質といえる。

 事務局資料には継嗣令王娶親王条の説明がなく皇親女子の法制史を無視しており適切なものではない。

 内親王号が我国独特の称号で、皇親との結婚だけが合法であるゆえ内親王であり、臣下に嫁す唐の公主号は継受していない。有識者会議案①は内親王の歴史的性格規定を無視しており、歴史的性格規定に反する婚姻を、あたかも伝統であるかのように意味をすり替えることにより皇室制度の伝統破壊をもたらす

  

二 統計的にみても大原則は皇親内婚、事務局例示の違法婚は例外的事例。事務局は令制が想定してない反律令行為を規範とする過ちを犯している

 

 6世紀の欽明后石姫皇女以降、1500年間で、一世皇女(内親王宣下されていないケース含、養女を除外)の結婚は和皇女照宮成子内親王まで天皇・皇親(皇族)との結婚は63方、10世紀の醍醐皇女勤子内親王から紀宮清子内親王まで臣下に降嫁した結婚は 27方にすぎない、夭折事例を除いても皇女のおおよそ8割以上、大多数は生涯非婚だが、臣下に降嫁することは好ましくないという認識は一貫していた

 内親王降嫁は藤原師輔と醍醐皇女三方の密通を事後的に承認したことから始まったが、師輔は当時後宮を統率していた皇太后藤原穏子中宮大夫に任用され信任されており、違法婚は、藤原師輔が内親王を手懐けて密通したことかが懲罰対象とならかなった先例により始まったものであり、とはいえ、10世紀、17世紀、20世紀後半以降に集中してみられるが、通史的にみられない一時的な事象にすぎない。皇親内婚原則がなしくずしになっているわけでは全くないのである。

 

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三 醍醐皇女康子内親王と師輔の密通には、さすがに村上天皇の機嫌を損ねたように、事後承認されたとはいえ、けっして好ましい在り方ではなく、これを前例として示している事務局資料に説得性はない

 

 皇室の伝統というのは皇親女子の皇親内婚である。とりわけ内親王は令制では臣下が娶ることは一貫して違法だった。

 この点について文殊正子氏によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している。

[文殊正子. (1986). 『内親王』号について 『公主』号との比較. 古代文化 38(10).中村みどり. (2002). 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」. 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編による要約]

 内に向いた性格ゆえ事務局例示の婚姻事例は、内親王本来の性格規定に反した結婚なのである。  

 継嗣令王娶親王条(「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す)は皇親女子の皇親内婚を定めていて、臣下が娶ることができるのは五世王以下とされており、皇親内婚は5~7世紀の慣行を明文化したものである

 ただし延暦12年(793)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」で現官大臣と良家の子孫(三位以上の家柄と想定)は三世王以下の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、大幅に規制緩和された[栗原弘. (2002). 「皇親女子と臣下の 婚姻史一 藤原 良房と潔姫の結婚の意義の理解のために一」. 名古屋文理大学紀要2]。

 二世女王降嫁の初例は承和前半期の藤原衛への、淳和二世女王恒世親王女の降嫁である

 しかし臣下が内親王を娶ることは一貫して違法なのである。とはいえ反律令行為でも、実際には10世紀以降幕末まで18方20例ある。

 臣下が内親王を娶った内親王降嫁の歴史上の初例は事務局資料例示の承平4年(934)頃の醍醐皇女勤子内親王の藤原師輔への降嫁である。内親王は源順に 『和名類聚抄』を編纂させた才媛でもあった。

 勤子内親王病没後、師輔は承平7年に伊勢斎宮を退下された醍醐皇女雅子内親王と密通し、結婚し4人の子女をもうけた雅子内親王病没後、天暦9年(955)醍醐皇女康子内親王と密通、いずれのケースも師輔が内親王を手懐けて密通し、事後承認を得た形の結婚である[岡部 明日香(2012)「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実:―絵画と斎宮」中古文学 90(0)]。

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 事務局資料例示の康子内親王は村上天皇と同じ后腹の姉宮、居所は母の太皇太后藤原穏子と同じ殿舎だった。太后藤原穏子が崩御になられたあと、准三后宣下され、格別尊貴な内親王であったので、康子内親王の密通についてはさすがに天気を損じた。

 師輔は康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなきに(前が汚れている)」(『大鏡』)とか「九条殿(師輔)はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『中外抄』) などと伝えられている [保立道久 (1996). 『平安王朝』 岩波新書 81] 

 とはいえ、村上天皇は違法でも勅許されたのである。師輔は村上天皇の皇太弟時代の東宮大夫であり立坊を実現させた功臣で、皇后の安子の父でありミウチであった

 また『中外抄』は12世紀の関白忠実の口述記録なので、本当に師輔のまらが大きかったのか、公然周知の醜聞だったのか疑問がないわけではないが、12世紀には内親王が降嫁した事例はないので、臣下への降嫁は好ましくないという意識が強くあったと考えられる。

 要するに事務局の例示は反律令行為の違法婚を伝統的なものとすりかえた議論をしている点できわめて悪質といえる。

 なお10世紀中葉、藤原師輔に降嫁した雅子内親王は右近衛少将藤原高光、太政大臣藤原為光の母であり、康子内親王は太政大臣藤原公季の母(公季誕生後に産褥死で薨去)であるが、いうまでもなく父系帰属主義であるので、所生子は藤原氏であるし、藤原師輔が内親王三方を娶ったからといってもちろん皇族になるわけではない。

 藤原師輔への内親王三方降嫁のようなイレギュラーな事例を伝統のように思わせ、しかも所生子は藤原氏という説明もなく、有識者会議案①の先例として示しているのは印象操作のように思え釈然としない。

  

四 内親王位は令制では格別の礼遇であり、皇親内婚か生涯非婚が前提の身位で、身位を将来失うことは想定されていない。懲罰的な事例以外、内親王位を奪われることはないので令制が想定していない婚嫁であっても、懲罰される事由ではないので身位を保持しているのは当然のことである

 

 継嗣令王娶親王条では、内親王は親王、二~四世王との結婚のみ合法なのであり、そのような結婚がなされるか生涯非婚が前提での親王位、親王宣下であるので、将来、結婚によって親王位を失うことは想定されていない。

 親王位は令制では格別の礼遇であり懲罰的な事例以外、奪われることはない。例えば神亀6年(729)奈良時代に文武・元正皇妹吉備内親王が長屋王事件で所生の二世王とともに縊死。聖武皇女不破内親王が神護景雲3年(769)県犬養姉女ら一味による巫蠱事件に連座し、内親王の身位を廃され、厨真人厨女と改名させられ京外追放された例(後に復位)、男性皇族の宮門跡では、永享6年(1343)後小松猶子後二条五世王の妙法院新宮明仁法親王が幕府への謀反により逐電した例、明治元年には中川宮朝彦親王が陰謀を企てたとして親王位をはく奪(後に復位)された例があるが、通例ではありえないことで結婚しても親王位を保持していることは当然であるので格別強調する必要はない。

 

 

五 江戸時代における摂家に降嫁した後の親王宣下は、婚家側のメンツにかかわるので親王宣下されてある意味当然である。それは宮門跡側が格付けにかかわるため門主は親王宣下(五世王や六世王でも親王宣下された事例がある)が求められるのと同じことである

 

 

六 歴史的には皇族ではあっても朝廷の政務には原則としてかかわらない宮門跡や尼門跡が存在し、特に江戸時代以降臣下に降嫁した内親王は婚家に帰属している以上、皇室側の政務にかかわることはないという意味で有識者会議案①の先例とみなすには整合性に乏しい

  院政期から幕末まで多くの皇子や皇族が入寺、得度し宮門跡に入室したが、宮と称され親王宣下され法親王、入道親王となり、僧籍であっても皇族であることには変わりない。

 在俗の親王は、式部卿、中務卿、弾正尹に任用され、皇位継承候補者たりうるが、法親王はそうではなく、皇位継承者たりえないが、同じ親王であっても本来の朝廷の官職に任用されないという点で立場が異なる。

 南北朝時代より江戸時代にかけて多くの皇女は入寺得度し、比丘尼御所、御宮室、と称される、通称尼門跡であるが、寺領領主の経営体のトップが皇女である。内親王宣下されない、皇女、皇族の身分であることは変わらない。寺領領主なのであり、皇族であっても在俗の非婚内親王で御領や化粧領が充行われている事例とは立場が違うことはいうまでもない

 有識者会議案は、摂政、国事行為臨時代行、皇族会議議員となる皇族を確保するために内親王を皇室にとどまるものとするものであるが、日本的家制度の成立は14~15世紀であるが、結婚は、嫁入婚であり、婚姻によって婚家に帰属するものという観念が通例であるから、17世紀の内親王及び皇女の摂家への降嫁9例と、幕末の徳川家への降嫁1例の皇女内親王は婚家への婚入配偶者であり、内親王であっても婚家に帰属しているとみるべき。

 たとえば事務局資料例示の仁孝皇女親子内親王(皇女和宮)は徳川家名存続に働き、慶喜処分寛大の嘆願を行い、墓所は増上寺であること、家茂薨後は薙髪して静寛院と号したが、これは将軍夫人が未亡人となると院号を称するのが慣例であったためで、天皇御生母や非婚内親王など后位に准じた、もしくは勝るとも劣らぬ身位であった女院宣下ではない。よって徳川家側にあり皇室から離れているとみるべきで、婚嫁した後も、皇室の公務を行う皇族とする有識者会議案①とは整合しない。

  

七 江戸時代の摂家降嫁9方の皇女及び内親王と、徳川家へ降嫁1方は、御領、化粧領といった知行はあてがわれていないのではないか。婚嫁した皇女が知行主だったという根拠がない以上、皇族費が給付されることを前提とする有識者会議案①と整合しないし、前例とするのは欺瞞だ。

  事務局資料では、皇女が結婚した後に親王宣下された例として、寛文4年(1664)後水尾皇女常子内親王が近衛基凞(1690関白)に嫁した後、延宝5年(1677 )に親王宣下を蒙っている例をあげている。

 所生子は事務局資料では説明がないが常子内親王は近衛熙子( 徳川家宣御台所・天英院)、関白近衛家熙、左近衛中将大炊御門信名の母である。

 また霊元皇女栄子内親王は貞享3年(1686 )二条綱平(1722 年関白)に嫁した後(婚姻直前に親王宣下)、寛保3年(1743 年)二品に叙されており(資料にはないが所生子は関白二条吉忠)であり、こうした17世紀の摂家への降嫁事例が、臣下に結婚し内親王の身位を保持している前例、有識者会議案①の先例としているが、これも問題がある。

  有識者会議案は、摂政、国事行為臨時代行、皇族会議議員となる皇族を確保するために内親王を皇室にとどまるものとするものなので、その他の公務もこなすことも想定される皇族といえる。

 当然、皇族費が給付されるものと想定できる。それが宮家当主並の金額か、配偶者や所生子にも給付されるか不透明なところもあるが、①皇室に残る女性皇族には皇族費が給付される案とみてよいだろう。

 では、事務局資料が前例とする江戸時代に摂家や徳川家に降嫁した皇女、内親王は、現代の皇族費に相当する、内親王独自の御領、化粧料といった知行が充行われていたのか、それはなかった。知行主ではないとみるのが妥当と考えるので、前例とみなすのは不適切である。

 つまり、有識者会議案①からイメージする内親王が結婚後も皇室に残り、皇族費が給付され公務にあたるというものと、全然違う結婚の在り方であり、有識者会議案①の前例が近衛基凞に降嫁した常子内親王や、二条綱平に降嫁した栄子内親王というのは釈然としない。

  なぜならば、豊臣秀吉は、秀吉は諸公家、諸門跡の中世の知行を収公し再給付することより、知行充行権を掌握した [山口和夫. (2017). 『近世日本政治史と朝廷』. 吉川弘文館山口和夫, 2017]。諸公家の収入は安定したが、それぞれ由緒のある公家の所領であった中世の荘園公領制とは違って、知行は再給付した秀吉の麾下におかれることとなった。この知行充行権は徳川幕府に引き継がれた。徳川幕府は全領主階級を統合し、知行充行権を掌握、皇室、宮家、公家は幕府より御領、家領の知行をあてがわれる近世的領主となったのである。

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 南北朝から戦国時代にかけて、皇女は結婚しなくなり、室町時代以降は内親王宣下されることもなくなり、皇女は入寺得度し尼門跡(比丘尼御所、御宮室)となるのが通例とされた。寺領の経営体のトップであり経済的基盤がある。皇室では皇女が入寺得度されることはめでたいことであった。

 尼門跡(「比丘尼御所」)だが、高貴ゆえ結婚できない皇女を尼寺に閉じ込めたというのは大きな誤解である。室町・戦国時代の研究では、後柏原天皇の治世、比丘尼御所は年4回宮中に参内しており、里帰りは俗人と同じことだし、社寺参詣や遊興には男性公家、しかも天皇近臣が従っており、内親王でなくても皇女という立場は変わらない[菅原正子「天皇家と比丘尼御所」服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』小学館 2002]。

 菅原正子氏が、後土御門皇女渓山が住持である比丘尼御所大慈院の永正7年(1510)~14年(1517)7年間の収入を明らかにしているが、主な収入が1867貫7文 支出1735貫409文である。現在の価値に換算しざっくり言うと、年収三千万円の住持が皇女のポストということになり、黒字であり、経済的に決して悪くない待遇といえる。

 しかし17世紀には皇女の数が増加し経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。江戸時代も皇女の多くは尼門跡として入室したが、摂家に降嫁するようになったのは、皇女の数が多くなり在俗非婚皇女は知行主たりえない状況で、尼門跡のポスト以外の処遇としてひねりだされたということではないだろうか。

 摂家に降嫁する皇女は、独自の知行を与える必要はないため、御領、化粧料が充行われることはなかったと考えられる。

 ただし江戸時代には生涯非婚の内親王が厚遇された例が3例ある。久保貴子(2009). 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち)」. 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 からの引用であるが次の三方である。

 第一に後光明皇女孝子内親王(一品、准后、女院宣下)は、後光明天皇の唯一の子で、後水尾院の意向で、生涯手許に留める方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領300石が与えられた。

  第二に桜町皇女智子内親王(一品、後桜町女帝)である。寛延元年(1748)幕府から将軍世子家治との密々の縁組の申し入れがあったが、桜町天皇が拒否。桜町崩後に御領300石。なお女帝即位は、弟の桃園天皇の遺詔で、英仁親王(後桃園)5歳だったため、親王の伯母にあたる智子内親王が10歳になるまで中継として即位するという趣旨であった。

 第三に仁孝皇女淑子内親王(一品、准后)である、閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料300石を得たが、 11年後親王が薨去、御殿を持たず婚姻先も失い、住まいを転々としたが、長期にわたって空主が続いていた、桂宮の諸大夫たちが、仁孝皇女淑子内親王の桂宮相続を願い出て、幕府に承認され、幕府から道具料500石が進上されている。

 上記三方は非婚内親王として知行が与えられているので、結婚する必要も、尼門跡となる必要もなかった。しかし、大多数の皇女は知行主たりえなかったので、尼門跡となるか結婚したというように思える。

 なお、事務局資料にある霊元皇女八十宮は2歳で徳川家継と婚約、正徳6年(1716)納采の儀まで行われたが、家継の夭折で結婚には至らなかった。とはいえ将軍家の婚約者であるから、相応の知行があてがわれたと考えられるのである。

 私は、伝統から嫡系の生涯非婚内親王が厚遇されてよいとは思うが、有識者会議案は婚入配偶者を前提としたもので、非婚を前提としていないので伝統に反するといえるのである。

 なお、内親王の経済基盤について補足説明をすると、そもそも令制では親王は格別の礼遇で、親王の品田は一品に80町、二品60町、三品50町、四品40町、食封は親王一品に800戸、二品600戸、四品300戸で内親王は半減である。このほか時服、有品親王に月料などの特典があり、親王は令制では特に、文学・家令・扶・従の職員が附く。文学は経書を教授する教育係で内親王には附かない。このほか帳内(近侍して雑用に当たる者)が、一品親王なら160人、品位によって差がある。

 内親王の食封は男性の親王の半分とはいえ、格別の国家的給付であり厚遇された。家政機関も附置される。令制どおりの国家的給付がなされたのは短い期間だったかもしれないが、内親王とは本来そのような経済基盤をもってしかるべき身位であるから、生涯非婚内親王が多かったのだといえる。

 院政期以降は、非婚皇后に立てられたり女院宣下され、膨大な御願寺領の本所だった八条院(暲子内親王)や、宣陽門院(覲子内親王)のように、非婚内親王は経済的に恵まれていたが、鎌倉後期以降、皇室領の巨大荘園群は、皇統の惣領、治天の君が管領することとなり、南北朝、室町時代、戦国時代は、非婚内親王独自の経済基盤に乏しくなったため、皇女はほとんどすべて、尼門跡(比丘尼御所)となり、寺領領主となった。江戸時代に尼門跡にならないで、非婚内親王として厚遇されたケースは先に述べたとおりである。

 

八 内親王の皇親内婚原則に回帰した霊元院の一連の政策以降、終戦前迄内親王は皇族と結婚することが原則だったことが無視されている

 

 江戸時代は皇女が尼門跡に入室する多数を占めるが、結婚されるケースも少なくない。17世紀に皇女の摂家への降嫁が9例ある。この理由については、久保貴子氏(前掲書)がコメントしており、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないかと考えられる。徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。また、 一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」とする。

  上記の見方に加え、私の考えでは五摂家が禁中並公家諸法度により、事実上、世襲親王家当主より座次、序列上位となったことが大きいと思う。皇族以上の序列なら臣下が娶ることは違法とされていた内親王との結婚も障碍はないという理屈はありうるので、原則から逸脱してないという方便になっているとも考える

 しかし近世朝廷においては、17世紀末期に皇女の婚姻の方針が転換された。元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来、摂家との婚姻をやめ、原則として本来の在り方である内親王は皇族と結婚する在り方に回帰している。

 この方針の転換については推測にすぎないが、霊元天皇が幕府と強く交渉して、天和3年(1683)に14世紀中葉以来の立太子礼(朝仁親王)を復活させ、貞享4年(1687)に221年ぶりに、大嘗祭(東山天皇)を復活させた。元禄10年(1697年)有栖川宮家の幸子女王が東山天皇に入内し宝永5年(1708)皇后に立てられたが、皇族の皇后は後醍醐后珣子内親王以来。だから、内親王が皇族に嫁ぐようになったのも、霊元天皇による朝儀復興とか本来の姿に戻そうという政策と軌を一にするものという理解でよいのではないか。

  もっとも正徳6年(1716)2歳の霊元皇女八十宮が家継と婚約した例などもあるが、これは霊元法皇の幕府と関係修復を図る政治的意図によるもの、ただ家継の夭折で結婚にはいたってない。

 和宮親子内親王についてはよく知られているとおり当時の公武合体策という特殊な事情によるもので、例外的事例であり、和宮とて有栖川宮熾仁親王と縁約していたから、幕末まで皇女は結婚するなら皇族という方針は一貫している。

 明治22年旧皇室典範のもとでは、明治41年の常宮昌子内親王から、明治皇女4方はすべて皇族と結婚しております。明治皇女内親王は九方おられる、五方は夭折されており、無事に成長した方は四方だった。すべて皇族との結婚である。

 また昭和18年の昭和皇女照宮成子内親王も皇族と結婚しているので終戦前の皇女内親王の5方の結婚はすべて皇族であり、令制以来の伝統原則に沿った在り方を踏襲していた。

 したがって終戦前は、内親王は皇族と結婚するのが古来より原則というのが意識されていたと推定できるのである。

 17世紀末期から、20世紀前半というくくりでは、内親王が天皇か皇族と結婚した例9例に対し、臣下が娶ったのは1例にすぎない。

 戦後は内親王が皇族と結婚せず、臣下への降嫁が通例となった状況があるが、それは全体の歴史からみれば、例外的事象であって、異例が続いているというべきである。

 皇室典範12条は明治皇室典範44条と同趣旨のため旧皇室典範を継受しているのであるから、旧皇室典範のもとでも実態として一世皇女内親王はすべて皇族に嫁し、令制においては臣下が娶ること違法であった伝統を意識しており、皇室典範12条も原則は、内親王が身位を失わない皇族内婚と理解できるので、戦後の在り方は異例と言い切ることができる。

 それゆえ皇室典範12条改正を要すると提言されている、有識者会議①案は、内親王の皇親内婚原則、歴史的性格規定を否定し皇室制度を破壊する。

 よって非婚内親王の厚遇はあってもよいが、①案は全面的に反対である。

 

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