有識者会議案①のモデルとされる品宮(級宮)常子内親王(後水尾第15皇女)の検証と反論 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議批判シリーズその5 動画台本
この動画は前回のその4の補足になります。
動画はmasahiko kawanishi (全部小文字の方です)チャンネルで公開してます。ご笑覧いただければ幸甚に存じます。
11月30日事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料に「内親王・女王が皇族以外と結婚しても皇族の身分を保持することを可能とする案」(以下①案と略す)を正当化するために、江戸時代以前は臣下に嫁した後も内親王は身位を保持し、あるいは臣下に嫁した後、親王宣下を蒙ったり、叙品された事例を先例として例示している。以下の内親王6方である。
〇勤子内親王(醍醐皇女)藤原師輔に降嫁 10世紀前半
〇康子内親王(醍醐皇女)藤原師輔に降嫁 10世紀中葉
所生子 太政大臣藤原公季、深覚
〇常子内親王(後水尾皇女)近衛基煕に降嫁 17世紀後半
所生子
長女 近衛煕子 甲府藩主徳川綱豊正室(のち6代将軍家宣)。家宣薨後、天英院。
長男 近衛家煕 関白・摂政・准后
次男 大炊御門信名 左近衛中将
〇栄子内親王(霊元皇女)二条綱平に降嫁 17世紀後半
所生子 関白二条吉忠
〇八十宮 吉子内親王(霊元皇女)徳川家継と婚約 18世紀初期
〇和宮 親子内親王(仁孝皇女)徳川家茂に降嫁 19世紀
要するに先例があるんだから、ぜひやりたいという事務局の意向のようだが、ちょっと待ったと。これが本当に①案の先例といえるのですか。私は不適切な事例でこれは先例にはならないと私は言いたい。康子内親王や和宮親子内親王について前回の動画で一応言及したので、今回は、品宮常子内親王にしぼってとりあげる。
史料として、品宮常子内親王が記主の『无上法院殿御日記』があり、内親王の宮廷社交生活が知られている。
今後、有識者会議や政府が①案を押していく口実として、常子内親王の前例があるよと言ってきそうなので、先手を打って反論するのがこの動画の目的である。
品宮(級宮)常子内親王とは、後水尾院の第15皇女で、母は新広義門院(典侍園国子)、霊元御生母、国母である。後水尾院は皇子が19方、皇女が17方もおられたが、なかでも鍾愛された皇女である。
寛文4年(1664)11月に満22歳で6歳年下の権大納言近衛基煕(当時より近衛家当主、のち関白)に降嫁。
政治史的には近衛基煕は霊元上皇の政敵、親幕派として知られている人物だ。
常子内親王については、瀬川淑子『皇女品宮の日常生活―『无上法院殿御日記』を読む』岩波書店2001という伝記的書物があり、この本から主として引用、参考にさせていだくが常子内親王が有識者会議案のモデルたりうるかについて私の批判的意見を以下述べる。
なお品宮の内親王宣下は正規のものではなく延宝5年(1677)に諱が常子と定まったことにより、公認された。以降常子内親王と署名されているということだが、これは重要な問題ではなく、諱が定められたなら内親王であることは認めてよい。
一 居住形態
基煕の時代、近衛家には今出川邸(1585年~陽明亭、東亭、現京都御苑北西)という本邸と、旧本宅である桜御所(1483年~旧御霊殿、現同志社大学新町キャンパス)があった。このほか近衛家には別業として鴨川右岸に河原御殿など複数、宝永年間に堀川御殿が新造され、後水尾院より拝領したとみられる幡枝の別荘があり、紫竹の別邸は常子内親王が入手したものである。このほかの物件も所有していた。
瀬川氏によれば寛文4年(1664)結婚当初は別居だった。品宮は独身時代からの御所の品宮御殿、基煕は桜御所(旧本宅)とあり、寛文6年(1666)に新宅の陽明殿(今出川邸)で同居したと述べている。しかし、これについて上代の妻問婚を想定するのは間違っていると思う。
寛永13年(1636)後水尾皇女の女二宮が、基煕の父尚嗣に降嫁の際、今出川邸に「奥方御殿」が造営整備されており、この前例からみて、品宮も近衛家の本宅である今出川邸が居所とされて当然のように思える。
万治4年(1661)の大火で内裏や仙洞御所や多くの公家屋敷が焼亡したが、近衛家本邸(建築史家の論文では今出川邸と称される)類焼を免れた。火元は新在家(内裏の南)二条家に降嫁した賀子内親王邸とされている。後西天皇は白川方面に一時避難された後、近衛家本邸を仮内裏とされ、寛文3年正月に近衛邸仮内裏で霊元天皇に譲位、寛文4年8月新造の仙洞御所へ移徒されるまで、後西上皇の仮御所とされた経緯がある、その間、近衛家当主の基煕は別邸の桜御所を居所としたのだろうが、なんらかの事情で本邸に戻るまで再整備が必要であったのだろう。品宮が結婚した寛文4年ころの日記がないため、なぜ結婚初期別居という変則的なものだったのか詳細が不明なのである。
ところで、瀬川氏によれば、品宮は結婚当初、後水尾法皇の御所で夜遅くまで過ごすことが多く、数年たっても変わりなかったという。後水尾院の近衛邸の御幸は105回と頻繁にあり、常子内親王は後水尾院の文化サロンのメンバーであり、修学院離宮への御幸にもお供しており、結婚後も宮廷社交で自由な生活をしていた。
なお後水尾法皇を中心とする遊興・文芸活動の拠点は、仙洞御所、長谷・岩倉・幡枝の山荘のほか、晩年は公家町にある、皇子女の邸宅であった。宮門跡や御宮室(尼門跡)は公家町に里坊(別宅)を持っており、室内の遊興の場となっていた。後水尾法皇は近衛邸だけでなく、こうした皇子女の邸宅に頻繁に御幸されていたのである。
そのような意味では、常子内親王は宮廷社交にたけており、結婚した後は夫に従い里帰りは、暮れの挨拶、正月、盆などの慣例に限定される一般のしきたりとは違ったかなり自由な結婚生活であったとはいえる。
しかし、結婚2年以降は近衛家本邸の今出川邸が内親王の居所であり、摂家当主の正室たる立場ではあることは間違いないといってよいのである。
常子内親王は自身の結婚の記録が残ってないが、天和3年(1683)長男の家煕と霊元皇女の憲子内親王(女一宮)との婚儀は日記に詳しく記していて、「女一宮ねもじ、色直しの時大納言より紅梅に改めらるる」とあり、白無垢、色直しという嫁入婚の現代でも和装婚礼の定番である習俗と同じである。
基煕の日記にも、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している。明らかに嫁迎え、嫁入婚の儀礼である。内親王は婚家に帰属することを意味する。
日本的家制度は離在単位なのであり、両属はありえないことになっている。婚入配偶者は婚家に帰属する。常子内親王の墓所は、近衛家の菩提寺の大徳寺である。
なお常子内親王は、延宝元年(1673)遊興のため紫竹屋敷を入手した。目的は野歩き、周囲の散策で、上賀茂、今宮社、鷹ヶ峰に足をのばしたし、兄弟たちが門主の門跡寺院を訪れることも多かった。さらに粟田口三条下屋敷も入手し東山の花見などに利用した。郊外散策を好まれる方だったが、行動範囲は概ね現在の京都市内といってよいだろう。
後述する常子内親王に充行された知行もあり、近衛家は臨時収入が多く、常子内親王の長女煕子が綱豊に嫁し、のちに将軍家宣となったことから、徳川家より贈り物や多額の送金があり、経済的には余裕があったとみられている。
二 品宮常子内親王の財産の相続
瀬川氏によると常子内親王所有の財産として、独身時代からの品宮御殿と、品宮のもとからの所有地である岩倉の山も家煕が相続した。
また内親王は、父の後水尾院崩御の際、遺言により修学院村300石の知行が与えられていた。これは、後水尾院が崩御によって幕府に返却する知行三千石の一部ということであり、幕府が認め所司代より報知されたもので、これは内親王薨去により幕府に返却されたとみられている。
近世の皇室、宮家、門跡、公家の家領については、中世とは違って徳川幕府が知行充行権を掌握していたので、幕府の麾下にある近世領主であった。したがってこの処分は皇室領の一期相続とは性質が違うものと理解している。
瀬川氏は上記を近衛家領だといっている。
岩倉の山は後水尾院からの拝領であるから持参金のようなものかもしれないが基本的に、内親王所有の財産は近衛家に相続されており、そのような意味でも婚家に帰属している。
また家煕は母をさして「政所」とか「北政所」と称していることからも摂家の正室という立場である。
ただし瀬川氏は、延宝5年に常子内親王は門跡宮方の深草の知行の監督、後水尾院より宰領を命じられていたことを明かにしている。これは兄弟宮の寺領である。新広義門院(霊元生母園国子)が預かっていたものの経営をまかせられた。
門跡領も広義には皇室領ともいえるので、皇室の所領経営を代務していたことになり、当然知行から収入も得ていたと考えられる。臣下に降嫁しても内親王という身位ゆえんといえる。
ところで、有識者会議案①というのは、内親王に皇族費が給付され、公務をなさる前提のものと考える。御所は皇室側が用意するのか不透明であるが、品宮常子内親王がこの案の前例とはいいにくい。
学問や芸能は文芸活動や遊興の世俗的行事も含めて広い意味では皇室の公務である。常子内親王は結婚後も多くの兄弟や姉宮がおられて宮門跡・尼門跡も含めた皇族との交流があった。それは皇室に限られるものでなく、摂家のような上流貴族とて同じことである。門跡領を実質管領していたことについては公務といえるかもしれないが、現在の皇室は近世的領主とは違うので家領経営という仕事はない。
有識者会議案の意図は内親王・女王に摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員という国制の根幹にかかわる役割を担っていただく趣旨なので、常子内親王のあり方とはかなり違う。
そのように重要な役割を担うとすれば、宮家のように皇室側が内親王に邸宅を用意することになるだろうし、近衛家本邸を居所とし、摂家の正室の立場にあった常子内親王とは違う立場であるといいうる。
門跡の寺領経営をまかせられたことについては、黒田清子さまが、公務ではないが皇室と歴史的にかかわりある伊勢神宮祭主であり、そうした役目を果たされていることと大差はないという見方もできるだろう。
結論は、常子内親王が有識者会議案①のひな形たりえない。上記以外の理由として、そもそも継嗣令王娶親王条において臣下が内親王を娶ることを違法としていることがある。
ではなぜ、17世紀に摂家への皇女・内親王九方の降嫁がみられるのか。
江戸時代も尼門跡に入室するケースは多いですが、結婚される皇女もでてきます。17世紀に皇女の摂家への降嫁が9例あります。この理由については、久保貴子氏がコメントしており、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないかと考えられる。徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。また、 一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」とする。
[久保貴子(2009). 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち)」. 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2.)
上記の見方に加え、私の考えでは五摂家が禁中並公家諸法度により、事実上、世襲親王家当主より座次、序列上位となったことが大きいと思う。皇族以上の序列なら臣下が娶ることは違法とされていた内親王との結婚も障碍はないという理屈はありうるので、原則から逸脱してないという方便になっていると考えます。しかし近世朝廷においては、17世紀末期に皇女の婚姻の方針が転換された。元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来、摂家との婚姻をやめ、原則として本来の在り方である内親王は皇族と結婚する在り方に回帰している。
ということで、結論は事務局の資料に例示されている内親王6方は、①案を正当化する口実としては不適切である。①案は端的にいって女系容認の英国王室のアン王女などをモデルとしたものであり、新奇な制度で皇室制度を根本的に破壊し、国体を変革させる危険なものということであります。
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