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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

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2022年3月の2件の記事

2022/03/30

東京都パートナーシップ宣誓制度に全面的に反対

  6月の都議会で提案される東京都パートナーシップ宣誓制度のパブリックコメント3月31日までですが、次の意見を出しました。

  全面的に反対する。同性カップルの権利拡大に反対の理由は、わが国では歴史的に男色行為を罪悪視しない文化があったとされるが、近代化により西洋文明の価値、規範、単婚婚姻制度を受け入れ成り立っている。
 我々は西洋文明2500年の正統的な規範、道徳的教訓、価値を継承すべきである。
 プラトンは生殖と無関係な不毛な交わりを反自然的行為とし、男色行為は、一方の男性を女性の地位に下落させるので禁止すべきとした。
 アリストテレスは神に祝福される結婚という形態を介しての生殖行為は自然な行為なので善、同性愛、獣姦そのたの不自然な性行為は悪。ソドミー、肛門性交を反自然的行為として道徳的に承認しないのは西洋文明では正統的な思想であり規範であった。
聖書においていちいち引用しないが、同性愛を悪徳としている。
 私は聖書や古代哲学の巨人、教父の言葉に従いたい。
 そして結婚が秘跡であるのは花婿キリストと花嫁教会の一致という類比によるものである。結婚が神聖で秘跡なのは、異性愛だからである。
 われわれは宗教的に霊性を向上していく人生をもとめ至福千年の道徳的教訓を捨て去るべきではない。私は今はやりのキャンセルカルチャーやグレートリセットに反対なのだ。
 LGBT運動の主張の公認は、文明の正統的な価値観をとっている人々に正常と異常と差別する知性の基軸を喪失させ、アナルセックスは良いものだ。アナルセックスとフェラチオだけのセックスも正常、クリニングスだけのセックスも正常と言わなければ社会的地位から蹴落とされる恐ろしい社会になりかねない。実際、新潮45が廃刊に追い込まれている。
 それゆえ、婚姻制度ではないとしつつも、東京都が同性カップルを公認することによって、社会の悪影響が懸念される。彼らは公認の地位を得たことにより、LGBTに跪かない市民を攻撃していくことになるだろう。
 実際、米国では宗教的信念により同性カップルのウェディングケーキを拒否した菓子屋や、ブーケのサービスを拒否した花屋が人権侵害だと糾弾され、いじめられたりしている。
 政府や都道府県による営業の自由や契約の自由の侵害はコロナ対策であたりまえのようになっているが、正統的な価値観をもつ市民がいじめられる社会はまっぴらごめんだ。

 

2022/03/12

天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告は悪質なので反対する(意見具申その1)

 軽輩が国制の根幹にかかわる問題に口出しするのは甚だ僭越ではあるが、これはたんに皇室、国体の問題ではなく、ロイヤルファミリーが国民に慕われる存在である以上、国民の家族慣行に大きな影響があるので、家族のあり方という国民一人ひとりにかかわる問題なので、これは一国民として発言したいという趣旨による意見具申である。

 

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告は悪質なので反対する... 1

第1章 疑問点の提示... 2

第1節    ①案が「皇室の歴史と整合的なもの」というのはフェイク.. 3

第2節 リヒテンシュタインを模倣しなければならない理由はない... 5

第3節 皇室典範12条の改変という重大な変更が安易に行われようとしている.. 7

第4節 ①案は皇室典範12条を改正するので「女性宮家」に容易に転換する... 8

第2章 結論... 9

第3章 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する①案は絶対反対... 10

第1節 要旨... 10

一 内親王の歴史的由来を否定する.. 10

二 夫婦別姓の事実婚のような歪な制度の創出は不愉快... 12

三 性的役割の流動化により皇室制度を破壊する.. 12

四 皇室典範12条改正は日本の家族慣行を否定する... 13

五 令制では皇女内親王は臣下に婚嫁しても皇族の身分を維持したとする先例は、①案を正当化しない.. 15

(一) 令制と近代皇室典範では皇族の概念が異なる.. 15

(二) 例示の6例は違法婚、令制が想定していない婚姻である.. 16

(三) 例示3方の所生子は藤原氏で、父系帰属を留保している①案とは違う.. 16

(四) 17世紀以降例示の内親王の婚家帰属性は明白... 17

第2節 有識者会議①案を悪質とみなす理由... 18

一 将来的には共系、女系容認を目指している案.. 18

二 皇室典範12条潰しで女系容認の突破口にする隠れた意図... 19

三 女性宮家の可否が全くなされていない... 19

(一) 前例とされる幕末の淑子内親王の桂宮相続が検討されてない... 20

(二) 生涯非婚内親王なら「女性宮家」を否定はしない.. 23

(三) 内親王の経済的厚遇は、皇親のみに嫁ぐ皇親内婚が定められていたため.. 24

(四) 古代・中世の非婚内親王の礼遇からすれば、もっと女性皇族の経済的待遇を良くすべきかもしれないが①案は伝統に反し反対である... 25

四 皇位継承資格のない皇族がやたらと増加する案... 29

第3節 ①案は皇室典範12条改正を伴い皇室制度を根本的に破壊する.. 31

一 アン王女がモデルの①案は英国の模倣であり国体を破壊する... 32

二 皇室典範12条には相応妥当な理由がある.. 35

第4章 事務局調査・研究資料例示の臣下に降嫁した内親王8例は、①案を正当化しない.. 51

第1節 反律令の違法婚が皇室の歴史と整合的であるはずがない.. 53

第2節 事務局資料例示6方の検討.. 55

一 醍醐皇女勤子内親王... 55

二 醍醐皇女康子内親王... 55

(一) 天気を損じた違法婚... 55

(二) 夫方居住... 57

(三) 法性寺での仏事... 57

三 霊元皇女品宮(級宮)常子内親王... 58

(一) 品宮の財産と相続(近衛家熈が相続)... 60

(二) 夫方居住... 61

(三) 嫁取婚(嫁入婚)である... 62

(四) 墓所... 64

四 霊元皇女栄子内親王... 65

五 霊元皇女八十宮吉子内親王.. 65

六 仁孝皇女和宮親子内親王... 66

第5章 代替案... 67

 

 

 

1章 疑問点の提示

 

  令和31222日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議は、下記の案と案を検討すべきとした。

  ①案を実施しても女性皇族に皇位継承権を付与せず、配偶者、所生子も当面皇族としないで、将来身分を検討するものとし、案も当事者は皇位継承資格を付与しないことを示し、悠仁親王殿下の次の皇位継承者は、男系維持なのか女系容認・共系に変革するかという問題は先送りとする趣旨の報告であった。

  4112日には岸田首相により国会報告が行われている。

①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること

② 皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること

③ 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること

 

 ここでは主たる疑問点を提示し、次章で結論だけを述べ、理由については第3章以下で取り上げる。

 

第1節   ①案が「皇室の歴史と整合的なもの」というのはフェイク

 

   有識者会議報告は、臣家に降嫁しても皇族の身分を維持した先例として仁孝皇女和宮(静寛院宮親子内親王)を例示し、①案が「皇室の歴史と整合的なもの」として正当化する理由としている。

  また令和31130日会議「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」では以下の6方を挙げ、臣家に降嫁しても皇族の身分を維持したとして①案の先例としている。

以下資料の引用

【江戸時代より前の事例】

ア.勤子内親王(醍醐天皇皇女)天慶元年(938 年)藤原 師輔(947 年右大臣)に嫁した後、天慶元年11 月薨去。薨去を伝える史料に「四品勤子内親王薨」と見える。

イ.康子内親王(醍醐天皇皇女)

天暦9年(955 年)藤原師輔に嫁した後、天暦 11 年(957 年)薨去。薨去を伝える史料に「一品康子内親王薨」と見える。

【江戸時代の事例】

ウ.常子内親王(級宮、後水尾天皇皇女)

寛文4年(1664 年)近衛 基凞(1690 年関白)に嫁した後、延宝5年(1677 年)に親王宣下※を蒙っている。

エ.栄子内親王(女二宮、霊元天皇皇女)

貞享3年(1686 年)二条 綱平(1722 年関白)に嫁した後(婚姻直前に親王宣下)、寛保3年(1743 年)二品に叙されている。

オ.吉子内親王(八十宮、霊元天皇皇女)

正徳6年(1716 年)2月に徳川 家継(江戸幕府第7代将軍)と結納の儀を行ったが、同年4月に家継は死去したため、江戸には行かず京都に居

住し続けた。ただし、薨去(宝暦8年(1758 年))まで家継正室として遇

された。享保 11 年(1726 年)に親王宣下を受け、宝暦8年には二品に叙

された。

カ.親子内親王(和宮、仁孝天皇皇女)

文久元年(1861 年)親王宣下を受け、文久2年(1862 年)徳川 家茂(江戸幕府第 14 代将軍)に嫁した。明治6年(1873 年)二品に叙され、

薨去(同 10 年(1877 年))後の同 16 年(1883 年)一品を追贈されている

 

  以上のように6方は、婚姻直前もしくは婚姻また婚約後の、親王宣下、婚姻後の叙品の事例の例示だが、江戸時代には内親王宣下を受けていない、御宮室(尼門跡)にも叙品の例があり、婚出した内親王であれ、尼門跡であれ皇族であることはかわらないとはいえる。

6_20220313002001 

 また令和3126日議事録に次のような①に積極的な意見がある。

 「女性皇族が御結婚後も皇族の身分を保持されるときに、その配偶者と子が皇族とならないということは、かつて日本でもそのような事例があったということで、スタンダードになる可能性もあるのではないか。女性皇族の御結婚のハードルを下げることにもつながり、お相手の方の職業選択の自由が守られるなどプライベートの部分を守ることにもつながるのではないか。」

  事務局の示した6例をスタンダードとみなすメンバーの歴史認識はおかしい。報告書に「皇室の歴史と整合的なもの」とする見解に重大な異議がある。

 

一 例示6例はすべて違法婚

 

 令制の皇親は単系出自リネジで、血統そのもの。嫡流であれ庶流で男女いずれでも、父系で天皇に繋がれば、継嗣令皇兄弟条では五世王まで皇親。ただし嵯峨朝以降は親王宣下制となり、臣籍に降下(賜姓源氏)していない条件で皇親の範疇である。ただし15世紀に事実上、五世王・六世王の親王宣下が合法化され[松薗斉 (2010)]、伏見宮家が永代親王家とされたのであるが[田村航 (2018)]、8世紀の不破内親王のように謀反や陰謀にかかわらなければ皇親の位地をはく奪されることはない。

 例えていうと、血統の生理的一貫性はない点、皇親と違うが、天皇の賜与・認定による源平藤橘等の古代的姓氏と同じ。そもそも改賜姓権限は天皇大権であり、婚出によって変更されることはない。

 しかしながら、令制の継嗣令王娶親王条は皇親女子は皇親内婚を定めている。ただし延暦129月詔で二世女王以下は条件付で臣下への降嫁を合法化したが、臣下が内親王を娶ることは一貫して違法であり、事務局が例示した和宮(静寛院宮親子内親王)ほか6方の皇女の降嫁などは反律令行為で、政治的に勅許されたイレギュラーな事例なのである。

 令制が想定していない、反律令行為がスタンダードでありうるはずがないし、そもそも違法行為が、皇室の歴史と整合的でありうるはずがない。

 事務局例示資料は6方(うち1方は婚約のみ)、実際には、違法と考えられる内親王皇女の勅許による結婚として令制では婚約の一例を除いて22方である。内親王に限ると18方臣籍に降嫁した皇女を含む(ただし養女除く)と23方、20世紀後半以降を含めると27方(令制では二世女王にあたる眞子内親王殿下まで含めても30方)。

 統計的にみると6世紀の宣化皇女から19世紀の孝明皇女まで臣籍に降下した皇女をのぞくと446方(服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』 小学館2002の皇女一覧表参照)のうち、欽明后石姫から光格后欣子内親王まで皇女56方(臣籍に降下した皇女含むと58方)近代まで含むと東久邇宮盛厚親王妃成子内親王まで63方が皇親内婚である。

 合法婚56対違法婚22である。生涯非婚の内親王が大多数をしめるが、全体からいればそもそも違法婚である臣下への降嫁は圧倒的少数なのである


 特に事務局例示の10世紀の醍醐皇女康子内親王と藤原師輔の密通については、「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『中外抄』) [保立道久 (1996) ]などと伝えられており、評判が悪いことがわかる。

『中外抄』は12世紀の藤原忠実の口述記録であり、後世の評価とはいえ、醜聞として認識されている。村上天皇の怒りもかった(『大鏡』)。結果的に事後承認されたのは、師輔が皇后藤原安子の父でミウチであり功臣でもあったためで、反律令行為であることに変わりない。

 イレギュラーな事例、違法行為を皇室の伝統だというのである。とんでもない間違いである。

 

二 例示6例は①案のイメージとはかなり違う

 

 事務局が例示した6方すべてが①案を正当化できないことは本文で逐一説示するが、簡単に和宮親子内親王に言及すれば、家茂薨後に薙髪され、静寛院という法号は、天皇が選んでいるけれども、将軍正室としてのものであり、静寛院宮の葬儀は徳川家で行われ、墓所が婚家の菩提寺増上寺であり、宮内庁治定陵墓のリストにはないということは天皇家から婚出し離れたという認識してよい。

 婚家に帰属しているのは明らかで天皇家から離れている。しかし①案は婚出し夫方居住とするとは述べておらず、婚入配偶者となって天皇家から離れるものとは述べていないので、前例とみなすことに強い疑問がある。

 

三 内親王の所生子は資料に記載がなく隠ぺいされている

 

 なによりも、事務局調査資料例示の康子内親王は太政大臣藤原公季の母で、常子内親王は関白近衛家煕の母で、栄子内親王は二条吉忠の母である。

 父系帰属主義により所生子は藤原氏である。しかし「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」には内親王の所生子の記載がなく隠ぺいされている。

 前例では臣下に降嫁した内親王の所生子は皇族ではありえないことになっている。

 しかし①案は当面、配偶者と所生子を皇族とはしないと言いつつ、将来的に皇族とすることも検討されうるということは、79日議事録に「女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」と有識者会議メンバーが発言していることである。

 所生子の身分は将来検討するのでは前例とは異なるのだから、論理的に考えて所生子の姓を留保しているニュアンスのある①案を正当化しない。

 

 

2節 リヒテンシュタインを模倣しなければならない理由はない

 

 一 リヒテンシュタインとはゆかりがないのに強要したい有識者会議の欺瞞

 

 1130日議事録に「我が国と同様、男系男子継承制を採るリヒテンシュタインにおいては、女性皇族が婚姻後も公族の身分を保持しつつ、その配偶者と子は公族とならないという制度であることや、継承者が不在となった際に継承養子を迎えることとしている制度があることは、緩やかに皇族数を増加させようと考えている今後の検討において参考となるのではないか。」との意見がある。

 清家座長は会合後、記者団に対しリヒテンシュタインの継承養子が今後の検討で参考になると語っているとの記事があり(2021/11/30産経ニュースウエブサイト「年内に最終答申へ 皇位継承有識者会議」)、有識者会議①と②案は、リヒテンシュタイン公国モデルの採用と言いたげだが、両方同時にあるいは皇室典範12条法改正だけで容易な①案の先行実施をにじませている。

 私は、あえて同国こそ参考例と言いだしたのは意図的な狙いがあると思っている。

 フランスや神聖ローマ帝国、ドイツ領邦はフランク王国のサリカ法典に依拠して男系継承であり女性君主を認めない。一方、英国や北欧の国々やロシアは女性君主を容認している。

 1970年代から2010年代にかけて、北欧、ベネルクスといった欧州の君主国が男女いかんにかかわらず初生子相続・共系に王位継承法を変更し、2013年に英国も王位継承法を変更している状況で、リヒテンシュタイン公国は欧州では数少ない男系継承墨守国とされる。

 あえて同国を前面に出してきたのは、男系継承墨守国なら、男系維持論者に①案を呑ませやすい。あるいは、同国が永世中立国であるから、有識者会議案はイデオロギー的に中立というアピールと考える。

 しかしなぜ、大国である日本が、リヒテンシュタインの模倣をしなければならないのか釈然としない。

 サリカ法典は男子のみが土地相続できるとしているが、日本では非婚内親王が莫大な王家領御願寺領荘園の本所であった時期があり、歴史的由来は違うのである。

 リヒテンシュタイン侯爵家は、神聖ローマ帝国属する領邦国家で、かつては広大な領土があったし、現在も中東欧に膨大な地所を保有する。ハンス=アダム2世公爵は純資産50億ドルの大富豪であり、小豆島程度のミニ国家だからと言って侮ってはいけないと思うる。しかし日本とは歴史的にあまりゆかりのない国である。

 我国は大宝養老の儀制令で「 天子、祭祀所称、 天皇、詔書所称、 皇帝、華夷所称、 陛下、上表所称」とされ、対外的には皇帝号を使用していた時期があり、日清戦争や日露戦争の宣戦詔書は皇帝号であった。また条約においてはEmperor of Japanとされた[島善高1992]。

 格の違いがある。遠い小国の模倣を皇室に強要させるいわれはない。

 女性皇族が結婚しても王族の身分を保持するのはオランダ、ノルウェー、ベルギーといった初生子相続、共系に王位継承法を変更した国々も同じことで、①案はオランダ、ノルウェー型のモデルともいえるにもかかわらず、リヒテンシュタイン・モデルと位置付けたのは男系維持論者に呑ませるための印象操作にほかならない。

 

二 アン王女が①案の基本モデルで、英国のように共系を目指しているのでは

 

 先にも引用した令和379日議事録に以下の発言がある。

「イギリス王室では、アン王女は王族であるが、御家族は王族ではなく、それによって問題が生じているわけではない。このような海外の例を見ても、御本人は皇族であるが、御家族はそうではない、という形も、それほど無理なく成立するのではないか。 女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」

 この発言から知名度が高いアン王女を①案のモデルと想定し、将来的には女系容認の本音を看取できるのである。

英国王室はもともと女系容認で、2013年に英国は王位継承法をあらため長子相続による男子優先を撤廃しており、①案は英国など共系に移行した国々のモデルでもあり、リヒテンシュタイン・モデルというのは後付けの理屈である。男系維持論者を油断させるためのリップサービスに思える。当面①案であってもいずれ「女性宮家」女系・共系への改革の可能性をもたせているのが①案である。

 

 

3節 皇室典範12条の改変という重大な変更が安易に行われようとしている

 

 

 中間報告の段階で、①案は「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする」案とされ、特例として皇室典範12条適用除外とする結論もありえたはずだが、1130日会議の事務局側の資料により恒久的制度とするべきと提案された。

 同日の会議で「‥‥ 女性皇族の方が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案について、その法形式は、一人一人の女性皇族の方の身分に関わる話であるので、調査・研究結果のとおり、恒久的な制度として対応することがよいのではないか。‥‥」という意見がありこの方向でまとまった。

 眞子内親王殿下のように一般国民に婚出することにより自動的に皇室から離れることをできなくする案である。

 むろん内親王が皇位継承予定者と結婚して皇后となることは当然ありうる。イトコどうしの結婚は、冷泉天皇-昌子内親王のような前例があるから。

しかし、嫡系内親王が皇位継承順位の低い皇族と結婚する場合も、女性皇族は親王妃、王妃として宮家に婚出した形になる。17世紀末より8例ある。

 婚出できない女子とは、96%が夫方の姓をとっている、我が国の慣習と異なり異常な制度だといわなければならない。

 男系維持のリヒテンシュタイン・モデルが①案だから安全という宣伝文句に踊らされて、この急進的改革を受け入れようとしている、男系維持主義者の考え方は甘い。 

 有識者会議は、安易に恒久的制度の確立に賛同し、きわめて安易に皇室典範12条の改変という急進的、重大な変更を結論している。

 皇室典範12条は旧皇室典範44条を継受するものだが、出嫁女の婚家帰属という、日本的「家」制度に対応するもので、夫と妻の身分を一致させることは、異姓戸籍の否定、夫婦同氏という明治の家族政策と一致するだけでなく、欧米の単婚婚姻家族の理念の継受(妻妾制廃止)、夫婦の伴侶性を重んじる考え方においても、夫婦を同一身分とするのは相応妥当な理由がある。

 これを改変することは男性が天皇、宮家当主、女性が后妃という性的役割分担を流動化させ、婚出する女性は婚家に帰属する日本の家族慣習を廃棄することになり、国民が皇室を慕っている以上、国民の家族観に与える影響も重大で、本来内向きの歴史的由来のある内親王号、皇室制度を根本的に変革される。

 男系維持のリヒテンシュタイン・モデルだと宣伝し男系維持とみせかけて、真意を隠す意図が看取できる。

 

4節 ①案は皇室典範12条を改正するので「女性宮家」に容易に転換する

 

 令和379日の議事録に以下のような女性宮家の議論がある。

 「「女性宮家」という言葉によって、一足飛びに議論がされ、多くの反対論が生じているように思う。配偶者・子は皇族とせず、内親王・女王御本人が皇族に残るという形であれば、そこまで強い反対はないのではないか。」

 「「女性宮家」については、その定義も多くの国民の中で一致していない中で、議論が曖昧になっている部分があるのではないか。「女性宮家」に対する反対は、おそらく女性天皇・女系天皇につながるという危惧があるということではないか。」

 この発言から、一部の政治勢力から反発のある「女性宮家」を正面から取り上げず、「女性宮家」のネーミングを避け、より通りやすい案として①案が立案され、将来「女性宮家」に容易に転換できる戦略をとったものと推測する考えられる。

 もっとも広い意味では、独身の内親王が、独立生計を営み経済的に男性宮家当主に准じた待遇とすることも「女性宮家」であり、これは皇室典範をいじる必要はなく可能である。

 歴史的にみて生涯非婚皇女は夭折事例を除いてもこの千五百年間で8割以上をこえ、非婚内親王は、内親王庁、女院宣下の場合は院庁、つまり家司・院司を従え、家政機関が設置されて独立生計であったケースが多かったし、南北朝時代から江戸時代まで多くの事例のある尼門跡も寺領経営体のトップであった。伝統重視というなら、初めから女性皇族は結婚するという前提となっているのが不可解である。

 とはいえ、歴史的事例のように非婚女性皇族を厚遇して皇族として残っていただくというのは、結局皇位継承候補者の安定的確保とはならないので、従来は、ほとんど考慮されてはいなかった。

 ところが、有識者会議が当面皇族数の減少を避ける措置に重点をおいて、皇位継承者の拡充問題は先送りとしたことから、当然検討されてしかるべきだが全く行われていないのは欺瞞的対応である。

 今日多くの人が「女性宮家」と称しているのは、配偶者も皇族とし、所生子も皇族として、場合によっては皇位継承権も付与するあり方。つまり非婚でなく結婚する女性宮家当主なるものを創設するのがいわゆる「女性宮家」である。

 これを実現するには皇室典範12条の改正が必須で、「女性宮家」という反発のあるネーミングを避けた①案で皇室典範12条潰しをするのが①案の眼目ではないのか。

 皇室典範12条潰しさえ済ませば、①案が「女性宮家」に転換するのはきわめて容易だからである。

 私は文化戦争の天王山が、皇室典範12条と夫婦同氏制度の維持にあると考えるので、12条改変は絶対反対である。
 日本的「家」制度、家族慣行にマッチした、婚出した女性は夫の身分に従う、夫婦同一の身分、出嫁女の婚家帰属性という慣行維持にあると考えているので、当面男系維持で大きな変更はしたくないといいながら、しらっと左翼側の性別役割分担の撤廃の主張につながる12条改変に迎合していく①案は、かなり策略的な意図を感じる。

 有識者会議①案は、女性皇族に皇族費がどのような形で支給されるか、夫方の私邸に居住するのか、宮家と同じく皇族の居邸が用意されるのか、納采の儀など婚儀のありかた。墓所について不明である。議事録ではモデルとしてアン王女に言及しているメンバーがいるが、ロンドンの居邸はセント・ジェームズ宮殿であり、ふだん居住しているコッツウェルズのマナーハウスは、女王が結婚祝いとして購入した物件で、そもそも英国が単純核家族社会ということもあるが、夫方居住とはなっていない。

 有識者会議①案で皇室に残る女性皇族は、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員を担うだけでなく、独身時代の公務を引き続き担っていただくとのことであるから、皇族費不支給は考えにくいとすると、実質女性宮家に等しい待遇となる可能性があるので、①案は典範12条潰しで地ならしし、容易に女性宮家に転換するための案と考えてよいだろう。

 仮に①案と②案を平行して実施したとしても、②案が養子を取る側の宮家当主と、養子を出す旧皇族との間に入って政府やしかるべき要人がまとめていくものだとすれば、それを意図的に政府がサボタージュすれば②案は進捗せず、結局、①案だけが進捗して女性宮家にせざるをえなくなる状況をつくるのが狙いなのだろう。

 

2章 結論

 

 先に結論をのべると①案に絶対反対で皇室制度を破壊する。③の一択、②は次善策という評価で、有識者会議には批判的、かなり悪質との特に有識者会議案①は叩きつぶすべしとの見解を持つ。

 ①案は、女性皇族(内親王・女王)が皇族以外と結婚しても皇族の身位を失わず保持することにより、皇族の数を確保する。そのために皇室典範12条「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」を改正する。特例ではなく恒久的な制度とするものだが、案に付随する12条改正には絶対反対である。

 有識者会議は②案と並行もしくは①案を先行して実施することをにじませているが、それは非常によくないので、①案は明確に破棄すべき案と強く主張したい(とはいえ念のためにこじれた場合の代替案も第四章で示す)。

 最善策は③案の一択。後崇光院太上天皇の親王時代の著書『椿葉記』にある伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒、後小松上皇と後花園天皇の叡慮により永代存続が約され、天皇と血縁が離れても、ステータスが劣化することのない別格の宮家(准天皇家)として550年、天皇家と併存してきた歴史的経緯、意義を重んじ、旧宮家の復帰、復籍をコンセプトとすべき。

 ②は現存宮家当主が希望される場合に追加すべき案で、次善の案と考える。養子縁組にしぼるのは反対である。

 次章以下①案に反対理由を記すが、理由の要旨、本文となる。その次に③案を支持する基本的理由を述べる(次回掲載)。

 

 3章 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する①案は絶対反対

 

1節 要旨

 

 皇室典範12条改正を必須とする案は絶対反対である。皇室典範12条には相応妥当な理由があり、これを改正することは皇室制度が破壊される深刻な危機と認識する。理由の要旨は以下のとおり。

 

一 内親王の歴史的由来を否定する

 

 第一に、①案は令制(継嗣令王娶親王条)において皇親内婚のみを適法とする内親王の歴史的性格規定を全面的に否定するので、皇室制度を根本的に破壊する。

 

〇継嗣令王娶親王条

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 

 文殊正子[1986]によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した[中村みどり2014による文殊説の要約]。

 有識者会議①案は、皇族女子と一般国民と結婚しても皇室に残る制度であるから、「内親王」号のきわめて特徴的な歴史的由来を否定するもので伝統破壊そのものである。

 令制では延暦129月詔で二世女王以下が条件付で臣下への降嫁が認められたが、臣下が内親王を娶ることは一貫して違法なのである[安田政彦 (1998)、栗原弘 (2002)、中村みどり(2002)(2014)]。

 

〇延暦12年(793)九月丙戌詔

「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」

 

 有識者会議報告は、違法婚であるが勅許により例外的に臣下に降嫁した事例(和宮親子内親王など)を根拠にして案を「皇室の歴史と整合的」とする詭弁を弄している。

 反律令行為、令制が想定していない婚姻のあり方が「皇室の歴史と整合する」という言い方は、皇室の歴史を歪めており、有識者会議はきわめて悪質と断定してよい。

 一方、旧皇室典範は内親王の範疇を令制の四世女王まで拡大し、現皇室典範も二世女王まで内親王の範疇である。近代皇室典範では、内親王の範疇が変更したうえ、継嗣令王娶親王条が明示する皇親内婚を規定しておらず、内親王が臣下に嫁すことが合法化されている。

 しかし、内親王・女王が身位を維持しうる結婚のあり方を、天皇か皇族との結婚に限定したことから、大筋で令制の趣旨を継受しているという見方をしてよいだろう。

 なぜならば旧皇室典範44条のもとで明治41年常宮昌子内親王から昭和18年照宮成子内親王まで無事に成人された内親王5方すべてが皇族と結婚しており、令制の皇女内親王は皇族との結婚が大原則であることが意識されていたとみてよい(別表参照)。

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 したがって、戦後の令制の内親王の範疇である一世皇女が四方つづけて臣下に嫁していることは、通史的にみると例外的なあり方といえる。ただし皇籍を離脱しているので、ぎりぎり合法と評価される嵯峨皇女源潔姫が藤原良房に嫁した例に照らしてみれば、令制の理念を大筋では継承されているという見方ができる。

 しかし①案は令制の伝統的な内親王のあり方と全く整合性がないゆえ、内親王の内向きの制度によって成り立ってきた皇室制度を根本から破壊することを事実上目的とした案と評価できる。

 

 

 

二 夫婦別姓の事実婚のような歪な制度の創出は不愉快

 

 第二に①案は、女性皇族は皇統譜、配偶者と所生子は戸籍という、夫婦別姓の事実婚のように異常で新奇、歪な制度を創出するが、これは夫婦別姓推進論者に与するイデオロギー的偏向、政治的な判断が根底にあるように思える。

 歴史的に既婚の女性皇族は、三后、妃、后位を退いた後の女院宣下の例があるが、配偶者が生存するかぎり天皇、宮家当主たりえない慣例であり、皇親内婚では当主は常に男性皇族である。

 基本的に内親王が既婚者である時は、御配偶の男性皇族が在世している限り、后妃以上にはなれない。つまり天皇、宮家当主にはなれない。

 我国の家族慣行では入婿は家長予定者として迎えられる。家付き娘が当主になるわけではない。しかし①案では配偶者男性は添え物的存在で、これは日本の家族慣行に反し、男性に対する侮辱的扱いとなり容認できない。

 

三 性的役割の流動化により皇室制度を破壊する

 第三に、①案は皇位継承資格問題を先送りして、当面は女性皇族、所生子に皇位継承権は付与されないにもかかわらず、臣下と結婚した場合でも女性皇族が皇室に残り皇族の役割を果たしていくことは、天皇は男性で、皇后が女性、宮家当主が男性で、妃が女性という、性的役割分担を流動化させ、皇室制度を変質させようとする意図が背景にあると考えてよく、非常に不愉快である。

 皇室典範12条の改正は、エンゲルスが家父長制を私有財産の起源とみなして、これを打破しようとする共産主義者の目論見どおりになる。

 むろんマルクス主義の変異株ともいえるジェンダー平等論者にとっても性的役割分担の流動化は大歓迎で、皇室を変質させる重大な変更といえる。共産主義者にとって皇室典範12条の改正が核心的に重要であり、有識者会議はこの戦略に沿った報告をしていると評価するほかない。

 夫婦同氏の96%が夫家姓というのは、大化元年の男女の法かそれ以前に由来する日本の慣習で、皇室典範12条改正により、父系帰属主義を粉砕する道筋をつけることは事実上、少なくとも大化元年以来の規範の徹底的破壊、共産主義者と、ジェンダー平等論者の大勝利となる。ゆえに絶対反対なのである。

 

 

四 皇室典範12条改正は日本の家族慣行を否定する

 

 第四に、皇室典範12条は相応妥当な理由がある。

 

 

  • 皇室典範 第12

 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる

 

  • 旧皇室典範(明治221889)第44

皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ

 

 皇室典範12条は、旧皇室典範44条を継受したものである。帝国憲法皇室典範義解(伊藤博文著)によれば44条(皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス)の趣旨は、「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という理由が示されている。

 これは、婚出する女性は婚家に帰属する。婚入配偶者の婚家帰属性という日本の家族慣行に合致するもので、本文で後述する明治8年の内務省夫婦同氏案趣旨と同じ理由である。

 実際、17世紀摂家に降嫁した皇女内親王9例は、嫁取婚で、夫方居住、墓所は婚家の菩提寺であり、内親王を称していても婚家帰属は明白である。

 皇室や宮家は、明治22年皇室典範により、養子することができなくなり、一般国民の家族と異なるが、基本的には婚出する皇族女子、婚入する妃は婚家帰属、男子御一方以外は、男子は宮家当主として分家分出、女子は、皇后となるケース以外は、婚出により(宮家に婚出する場合も含め)家から排除されるというのは日本の家族慣行と大筋で同じことである。

 夫と妻の身分を一致させることは、異姓戸籍の否定、夫婦同氏という明治の家族政策と一致するだけでなく、欧米の単婚婚姻家族の理念の継受(妻妾制廃止)、夫婦の伴侶性を重んじる考え方においても、夫婦を同一身分とするのは相応妥当な理由がある。

 それゆえ、旧皇室典範44条と、現皇室典範12条は中世以来の日本的「家」制度の家族慣行に合致しており、伝統から逸脱するものではないから、断固維持されなければならないと考える。

 補足すると、皇室も貴族や武家と同様、14世紀より「家」制度的な慣行である。

 中世前期まで皇位継承のたびに頻繁な皇統の転換があったが、皇統嫡系は14世紀の後光厳天皇より日本的「家」制度と同じ限嗣単独相続で、皇位継承は、猶子という親子関係の擬制による継承もある直系継承に収束しているのである[新田一郎 (2011)]。

 崇光三世王の後花園天皇は正長元年(1428)後小松院の猶子(事実上養子、実父は後伏見宮貞成親王、のちに後崇光院太上天皇)と為されたうえで践祚、東山三世王の光格天皇は安永8年(1779)後桃園天皇女御藤原維子の猶子(実質後桃園の養子、実父は閑院宮典仁親王、追諡号慶光天皇)と為されたうえで践祚されたのである。

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 また、兄弟継承の場合も、弟を養嗣子として嫡系の直系継承とする。

 承応3年(1654)後光明天皇に皇子がなく崩御になられたため、生後間もない異母弟の高貴宮(のち霊元天皇)を養嗣子とされた。

 後光明の次の後西天皇(良仁親王)も異母弟で、親王は高松宮を継承して花町宮と称され、傍系の宮家当主から皇位を継承、高貴宮が成長するまでの中継ぎの扱いであり、皇位継承は後水尾→明正→後光明→後西→霊元の順序だが、皇統は後水尾→後光明→霊元が嫡系ということになる。

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 つまり皇室嫡系は後光厳院流皇統のまま今日まで皇統移動せず直系継承なのである。本朝皇胤紹運録の系図のとおりなのである(もっとも皇室典範は、養子することができないので、皇嗣殿下は、今上陛下の養子とはされていない。従って今後は中世前期のように皇統移動することになる)。

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 江戸時代の天皇家や宮家を「家」と類比すると家連続者となる男子一人を残して、つまり皇室の場合は儲君、それ以外の男子の大多数は入寺得度し法親王となり、例外的に空主の宮家を継承し在俗のまま事実上分家分出ないし養出と類似したあり方、女子は婚出する内親王以外、多くの場合、例外もあるが入寺得度し尼門跡となるというありかたは、一般国民の「家」が次男以下は分家分出か養出、女子は婚出して家から排除されるあり方と基本的に類似している。

 有識者会議①案は前記のような伝統規範的「家」の規則性を破壊し、性的役割分担を流動化させ革命的事態を起こすことを狙っている。

 婚出した内親王が天皇家を離れることは前近代でも同じである。

 江戸時代に結婚した皇女は14例で、皇后1例、世襲親王家に嫁す2例、摂家に嫁す9例、徳川家が1例(婚約例含むと2例)だが、皇后となった欣子内親王以外は天皇家から離れたとみてよい。

 なぜなら、人は死んだ時の家の仏となる。墓所でどの家に帰属するかがわかるからである。

 別表に示すとおり天皇家から臣家に嫁した皇女は宮内庁治定陵墓のリストにはない(例外的に八十宮吉子内親王は、リストにあるが、婚約したが結婚生活の実質はない)。東福寺海蔵院は近衛家の墓所だったが大徳寺に移された。嵯峨二尊院には二条家、鷹司家の墓所があり、東福寺は九条家の墓所があるので、降嫁した内親王の墓所は婚家の菩提寺であるから、天皇家から離れたといえるのである。

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 尼門跡は出家しても皇族であることに変わりないが、一方婚出した皇親は、宮家であれ摂家であれ、皇親ではあるとしても婚家に帰属する。それが日本的家制度であり、皇室も例外にはなっていないことを述べた。

 有識者会議はこうした日本の家族慣行に根差した理由のある旧皇室典範44条とそれを継受した現皇室典範12条の意義を顧みることもなく、皇族数の確保という口実で、特例でなく恒久的な制度とするため全面改正に積極的な方針を打ち出したのは、伝統規範破壊という意味で非常に恐ろしい政策である。

 国論を二分する夫婦別姓導入に関する議論に先行する形で、夫婦別姓の事実婚のような新奇な制度を創出し、制度改正を先導する底意が有識者会議にはなかったとしても、意図せざる結果をもたらし非常に不愉快で、夫婦同氏制度を支持している立場でも強く反対である。

 

五 令制では皇女内親王は臣下に婚嫁しても皇族の身分を維持したとする先例は、①案を正当化しない

 

 有識者会議報告は、臣家に降嫁しても皇族の身分を維持した先例として仁孝皇女和宮(親子内親王)を例示し、①案が「皇室の歴史と整合的なもの」として正当化する理由にしている。

 また令和31130日会議「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」では10世紀藤原師輔に降嫁した醍醐皇女勤子内親王(内親王が臣下に降嫁した初例)、同じく醍醐皇女康子内親王、17世紀近衛基煕に降嫁した後水尾皇女品宮常子内親王、二条綱平に降嫁した霊元皇女栄子内親王、18世紀徳川家継と婚約したが家継夭折により江戸に下向しなかった霊元皇女八十宮吉子内親王、19世紀徳川家茂に降嫁した仁孝皇女和宮親子内親王の6方を例示している。

 しかし、以下の理由で事務局史料例示6方は、案を正当化しない。「皇室の歴史と整合的なもの」と太鼓判を押す有識者会議の評価は全く間違っているし、案の前例として説得できる要素に乏しい。

 

(一) 令制と近代皇室典範では皇族の概念が異なる

 

 令制皇親(「親王」「王」名号の天皇の親族)は、単系出自リネジ(血統)の概念なので、人類学的にいうと自動的に単系出自集団である皇親の成員となる。

 嵯峨朝以降、親王宣下制となり、親王位、内親王位は生得的身位ではなくなったが、賜姓されて臣籍に降下しない限り皇親として生涯身位を保持するのは当然である。

 神護景雲3年(769)に巫蠱事件に連座して内親王位を剥奪された例(不破内親王)があるけれども、謀反や陰謀にかかわらない限り親王位が剥奪されることはない。

 一方、皇室典範は后妃が臣下出身であれ皇族の身分とされる。天皇の正配や親王妃が臣下出身の場合は、天皇家に属しても皇親ではない令制とは概念が異なる。

 自然血統概念と、正配も含む「家」ファミリーの概念との違いである。

 したがって令制と近代では皇族の概念が異なるから、令制における臣家に降嫁しても皇族の身分を維持した先例をもって、①案を正当化できない。

 

(二) 例示の6例は違法婚、令制が想定していない婚姻である

 

 先述したとおり、皇親女子の皇親内婚を規定する継嗣令王娶親王条は延暦129月詔で修正されたが、令制では臣下が内親王を娶ることは一貫して違法である。従って、「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」6方はすべて違法であるが勅許された例外的事例なのである。

〇継嗣令王娶親王条

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

〇延暦12年(793)九月丙戌詔に

「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」

 

 特に醍醐皇女康子内親王と藤原師輔の密通は村上天皇の怒りをかったのであって、事後的に承認されたとはいえ反律令行為である。

イレギュラーなケースを、「皇室の歴史と整合的なもの」とする有識者会議の結論に論理性はない。詭弁に等しい。

 

(三) 例示3方の所生子は藤原氏で、父系帰属を留保している案とは違う

 

 臣家に降嫁した内親王の所生子は、父系帰属主義により父の姓を称する。良民の子は父地につける大化元年の男女の法と同じことなのである。

 10世紀の康子内親王の所生子が太政大臣藤原公季、17世紀の常子内親王の所生子が関白藤原(近衛)家煕、栄子内親王の所生子が関白藤原(二条)吉忠である。

 しかし有識者会議は①案の所生子の身分をどうするかを、「将来において悠仁親王殿下の御年齢や御結婚等をめぐる状況を踏まえた上」つまり結婚される頃まで先送りするというものであり、先例のように父系帰属主義を必ずしもとるとは言ってはいない。所生子の身分は留保されているニュアンスで先例とは異なる。

 実際、79日議事録には、「女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」と、将来皇族とすることに積極的な意見があり、状況次第で女系容認もありうる趣旨である。

 藤原公季や近衛家煕、二条吉忠が父系帰属主義で、母は内親王でも皇族になれない。所生子は明確に皇族ではない前例と、①案の趣旨とは明らかに異なるのである。従って論理的に考えて①案の前例とみなすことはできない。。

 

(四) 17世紀以降例示の内親王の婚家帰属性は明白

 

 江戸時代に摂家、将軍家に降嫁した皇女・内親王は、嫁取婚、夫方居住であり、摂家等の正室として婚家に帰属し、墓所も婚家の菩提寺等(近衛家・東福寺海蔵院・大徳寺、二条家・二尊院、九条家・東福寺、徳川家・増上寺)にあるから皇室から離れていることは明白である。

 事務局資料の例示6方のうち、平安時代の勤子内親王と康子内親王は墓所不詳だが、宮内庁治定陵墓(宮内庁が管理)とされているのは霊元皇女八十宮吉子内親王だけである。事務局資料が、八十宮が徳川家正室の寡婦の扱いなので結婚した皇族の範疇にしていることに異論はないが、八十宮は2歳で徳川家継8歳と婚約したが、直後に家継が夭折したため江戸に下向せず、実際に結婚したわけではないから宮内庁の管理なのだろう。墓所は知恩院、徳川家の拠点であって、御寺ではない。

 常子内親王(大徳寺)、栄子内親王(嵯峨二尊院)、親子内親王(増上寺)は宮内庁治定陵墓のリストにはない。ということは、宮内庁はこれらの皇族は天皇家から離れ、婚家に帰属していると認識しているわけである。

 嫁取婚については近衛家煕に霊元皇女憲子内親王の婚儀の詳細が「无上法院殿御日記」「基煕公記」に記されており嫁取婚の形式である[瀬川淑子(2001)]。17世紀の摂家への降嫁他の8例も同様と考えられる。

 なお、摂家に降嫁した皇女のうち東福門院(後水尾后源和子、徳川秀忠女)所生の皇女二方(後水尾皇女女二宮と、賀子内親王)は、幕府より婚姻に際し三千石が充行われているが、これは将軍の外孫にあたるためで、17世紀に摂家に降嫁した他の7方は、国家的給付に相当する皇女御料はなかったと久保貴子[2009]が指摘しており、皇族費の国家的給付が想定される案とは違う。

 また、事務局資料には例示されていない女二宮と賀子内親王については、婚嫁した近衛家や二条家の邸宅の敷地内に皇女のために大きな御殿が新造されているけれども、夫方居住なのである。その他の17世紀に摂家に降嫁した内親王は、品宮常子内親王が新婚当初だけ別居という変則的なあり方だが、近衛家本邸を居所としており、他の内親王も夫方居住である。

 なお、10世紀の醍醐皇女康子内親王と師輔との密通は内裏だったが、婚姻が承認された後は、師輔の坊城第を居邸とし、夫方居住が史料上確認できる。墓所不明だが、四十九日と一周忌は法性寺(藤原忠平建立の氏寺)であった。

 有識者会議①案は皇室財産の邸宅が用意されるのか不確定だが、摂政や国事行為臨時代行たりうる立場である以上、結婚相手の私邸住まいではすまないようにも思われ、例示の内親王が夫方居住であることは、①案のモデルであるアン王女が、女王が購入し贈られたマナーハウスを居邸としていることとも異なると指摘できる。

 つまり例示された内親王の先例は①案の想定とは状況がかなり異なるので、①案を正当化できない。

 

 以下の本文で、要旨で述べたことを詳説し、その他の論点を補足する。

 

 

本文

2節 有識者会議①案を悪質とみなす理由

 

一 将来的には共系、女系容認を目指している案

 

 私は、有識者会議案はかなり悪質と評価する。

 有識者会議①案は、婚入配偶者(出嫁女)は婚家に帰属する、日本的「家」の家族慣行にもとづいた皇室典範12条の改正を必須とすることにより、天皇や宮家当主は男性皇族、皇后や妃は女性皇族という性的役割分担を流動化させることに真の狙いがあるものと考える。

 将来的にはスウェーデン、英国などと同じく、男女いかんにかかわらず長子相続(1979年にスウェーデン、1983年オランダ、1990年ノルウェー、1991年ベルギー、2009年デンマーク、2010年ルクセンブルク、2013年英国が王位継承法を改正)、要するに初生子相続の女系容認、共系の皇位継承法に変革する構想を暗に示唆している。

 つまり、令和37月の中間整理の段階では、皇族数を確保する当面の目的は、悠仁親王殿下が即位した後、皇室を支えるために摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員等を担える員数を確保するという趣旨であり、①案が皇室典範12条の改正により恒久的な制度とするとは言ってはいない。

 皇族数減少期の特例も視野にあったはずだが、11月に会議が再開されて、事務局の提案を受け入れ、最終段階で恒久的制度として、女性皇族は男性皇族と同様、生涯皇族にする案として明確にしたのである。

 有識者会議①案が実現すると、眞子内親王殿下のように一般国民と結婚しても皇室を離れることは原則としてできなくなる。対立する見解を中和させるため、仮に①案と②案が並行して実施されたとしても、養子縁組が進捗しない場合には女性皇族が圧倒的に多くなる。仮に②案も並行して実現し旧皇族が復帰したとしても、親王妃、王妃を含めると、皇族全体では女性皇族の割合がどんどん増加していくプランなのである。

 女性皇族が今後も増加し、仮に悠仁親王に皇子がない事態になれば、女性皇族に皇位継承権を付与し、共系、女系容認しかないという流れになることを見据えているのではないか。

 

二 皇室典範12条潰しで女系容認の突破口にする隠れた意図

 既述のとおり、少なくとも14世紀以降、皇室や宮家は日本的「家」制度と同じく限嗣単独相続となった。

 事務局が強く推した皇室典範12条を改正する目的は、男性皇族が天皇家や宮家の家連続者であり、当主であり、女性皇族は后妃、親王妃、王妃という、女性は婚家に嫁す存在としての伝統的慣行、性的役割分担を流動化させることにあると考える。それは大きな変革になる。

 しかも恒久的制度とする方針を有識者会議が受け入れた以上、将来的にはスウェーデンや英国の王位継承法に准じた改正を想定しているとみてよい。

 加えて、②案が並行して実現しても養子縁組の旧皇族に皇位継承資格は付与されないとすると、悠仁親王殿下以降、男系男子の皇位継承法を今後も維持していくことは留保されているので、旧皇族が過渡期の一時的な皇族減少策に利用されて終わる茶番になる可能性すらある。

 皇室典範12条さえ潰せば永久に女性皇族が増加していくからくりで、概ね男女同数とするには女性皇族の配偶者が一般国民であっても皇族とし女系容認とするほかない。皇室制度は大きく変質することになり、それが①案の隠れた狙いなのだろう。

 

三 女性宮家の可否が全くなされていない

 

 有識者会議は付帯決議にある女性宮家の可否について言及していないことも問題とされる。論点をずらして正面切った提言をしていない。

 女性宮家をしっかり精査すれば、「皇位継承の歴史や伝統は、大変重いもの」という観点では否定的にならざるをえないから、女性宮家ではなく①案のような変化球になったといえる。

 今回の有識者会議のコンセプトは悠仁親王殿下が即位した時点で、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員たりうる皇族の員数を確保するということなら、非婚の内親王・女王を厚遇して皇族数を確保するプランもありうるが、その言及はない。

 結論を先にいうと生涯非婚内親王、とりわけ嫡系の内親王が厚遇されていた歴史的経緯をふまえ、非婚内親王は、独立生計で家政機関を付置し宮家当主に準じた経済的待遇があってもよい。

 所功氏[2018]は、次のように女性宮家の創設を主張する。

 「いわゆる女性宮家とは、皇族女子を当主とする宮家であります‥‥「皇室経済法」第六条三によれば、内親王も「独立の生計を営む」ことが想定されています。その第六条一により、三笠宮次男の宜仁親王も結婚せずに独立して「桂宮」と称された実例がありますから、未婚の皇族女子が当家から独立して新宮家を称することは、法的に可能だと解されます。しかし、未婚のままではその方限りで終わってしまいます。それゆえ必要なことは‥‥結婚して当家を相続できるようにすることです。」

 私が女性宮家推進論に反対するのは、主として皇室典範12条改変と、歪なかたちで入婿的配偶者を認めることにあり、配偶の男性皇族が在世しているかぎり、女性皇族は当主たりえない規範に反するからであり、女性皇族に皇位継承資格を付与することや、所生子も皇族とする前提がなくても反対である。

 有識者会議が皇室典範12条潰しを狙っていることは、従来の「女性宮家」推進論と全く同じであり、本当の狙いを隠し、旧宮家の男系男子の養子縁組とセットにして対立する見解と中和させるようにみせかけていると考える。

 私の本心は結論で述べたとおり③案のみがベスト、②案は次善策で、旧宮家の再興、復帰をコンセプトにしてシンプルな政策を望むので積極的には推さないが、皇室典範12条改変さえなければ、たんに非婚の女性皇族の厚遇には反対はしない。たとえば嫡系の内親王を准三宮のような形として厚遇することは、先例もあるから非婚であるという前提のもとに反対はしない。

 

(一) 前例とされる幕末の淑子内親王の桂宮相続が検討されていな

1 空主の期間が長かった桂宮家

 女性宮家を正面からとりあげなかったので、この議論が避けられてしまった。そこで所功氏が女性宮家の前例とする、幕末の仁孝皇女敏宮淑子内親王の桂宮相続について筆者の見解を述べる。

 周知のとおり、江戸時代は伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の世襲親王家が4家あった。桂宮とは天正14年(1586)、豊臣秀吉の猶子だった陽光院誠仁親王の皇子一品式部卿智仁親王を初代として創設され、八条宮と称したが、家領は秀吉より付与された。

 この点、中世の世襲宮家の所領体制と幕府の麾下におかれた徳川時代の世襲親王家では性格が異なるので留意したい。

 たとえば室町時代の伏見宮家の家領の由緒をみていくと、応永23年(1416)後小松院より永代安堵された室町院領(近江山前荘、塩津荘、今西荘、若狭松永荘など)[村田正志. (1954初刊、1984)][白根陽子(2018)]とは、後高倉院系の荘園群で伏見院が亀山院・瑞子女王と争ってその一部を獲得した由緒がある[金井静香. (1999)]。播磨国衙領は後嵯峨院の御分国を後深草院が相続した由緒があり、ほかに後白河院の姉宮上西門院領だった熱田社領などもあり、小規模ながら廷臣を伺候させ、家礼を従える権門だったのである。

 永享8年(1436)に足利義教の差配で加わった「干鮭昆布公事」という専売権は元々北条得宗家の権益だが[秦野祐介 (2020]、それ以外は持明院統に伝来した由緒のある皇室領で、15世紀中葉には現金換算で約2億円程度の収入があったと推定されている[秦野裕介YouTube2022 55分過ぎ]。

 しかし近世の石高知行制に移行し、伏見宮は幕末には表向き千二百石、実収四百石程度といわれ、知行地も付け替えられ、中世と近世では家領が全く違うものになってしまっている。それはなぜか。

 豊臣秀吉が諸公家、諸門跡の中世の知行、洛中の地子銭収入をいったんすべて収公し、知行を再編して再給付することにより、知行充行権を掌握したからである [山口和夫, 2017]

 戦国末期に荘園の不知行地化が進んでいたため、知行の再編再給付により公家の収入は安定化したが、それは秀吉の麾下におかれることを意味していた。

 そして徳川幕府は全領主階級を統合し、知行充行権を秀吉より引継ぎ、皇室、宮家、公家は幕府より御領、家領の知行を充行われる近世的領主となったのである。 

 中世の所領体制の皇室領とは意味が違うのである[菅原正子2002]。近世は、古代のように皇親各々に封禄が給付されたり、現代のように皇族各々に皇族費が給付されるのとは違う。宮家に家領があてがわれていて、家領の相続した皇族が宮家当主である。

 近世では、皇位継承予定者以外の皇子は入寺得度して宮門跡(法親王)となるのが通例だが、世襲親王家が空主となった場合は皇子が宮家を相続する。

 すべての宮家で実系が途絶し空主となったことがあり、皇子が宮家を相続した。ただし伏見宮は桃園天皇第二皇子の貞行親王が17代当主として相続したが、親王が早世されたため、勧修寺門跡寛宝親王の還俗(18代伏見宮邦頼親王-15代貞建親王の二男)により実系相続に復帰したので、戦後の臣籍降下まで皇統の曩祖崇光天皇より550年一貫して実系を維持した。

 一方、頻繁に空主となり、実系の世襲が長くても四代までだったのが桂宮であり、このため宮号も八条宮、常磐井宮、京極宮、桂宮と変遷している。

 それゆえ桂宮は、皇位継承者以外の皇子が、入寺得度せず、在俗親王とする空きポストのような状況になっていた時期が長い。特に19世紀は、宮家を相続した親王の夭折が相次いだためである「若松正志(2014)]

 霊元三世孫の京極宮公仁親王は後継者がなく明和7年(1770)薨御。寛政元年(1789)後室で紀州徳川家から嫁した寿子妃が薨ぜられて宮家は空主となった。

 文化7年(1810)、光格皇子盛仁親王は天皇の命により京極宮の継承者となり、桂宮の宮号を賜る。幕府より山城国葛野郡川勝寺村、下桂村、徳大寺村、夙村、御陵村及び乙訓郡開田村30066余の領有を認められたが2歳で夭折し、宮家は空主となる。

 天保7年(1836年)仁孝皇子節仁親王が桂宮を相続したが4歳で夭折、長期にわたって桂宮は空主だった。しかし家領の経営は諸大夫により続いており、皇子が誕生したときのポストとしてとっておかれた。

 そうしたところ文久2年(186210月桂宮家に仕える諸大夫たちが仁考皇女敏宮淑子内親王の桂宮家相続を願い出、幕府も承認したため、非婚内親王の当主は異例だが、文久3年(1863)、淑子内親王は宮家を相続した [久保貴子, 2002]。幕府は道具料500石を進上、時に35歳で生涯独身、慶応2年(1866)准后、一品、明治14年(1881)薨御により宮家は断絶した。

 

2 公武合体策で、和宮の姉宮にもしかるべき待遇が用意された

 

 敏宮淑子内親王は天保11年(1840)閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料300石を得たが、2年後に親王が薨ぜられので結婚に至らず、朝廷は淑子内親王の御殿を用意できず、住まいを転々としていた。江戸時代の皇女の多くは尼門跡(御宮室)となったが、幕末は尼門跡が荒廃したようで、入寺することはなかったと考えられる。

 敏宮淑子内親王と和宮は同居していた時期があり、文久元年(1861)江戸への出立が近づいた和宮親子内親王は、輪王寺宮里坊を居所としていた姉宮敏宮淑子内親王の処遇を憂い、御殿造営を幕府に命じられるよう天皇に願い出たとされている。よくできた話であり、降嫁を控えて幕府も拒否できなかったのである[久保貴子 (2002)]。

 公武一和という文久の政治的事情で、孝明天皇や和宮の姉宮を粗略に扱えない幕府側の事情もあり、宮家当主として非婚内親王を厚遇したものであって、婚入配偶者と結婚することを前提とした今日取りざたされる女性宮家とは性格が異なる。

 淑子内親王の宮家相続は、35歳独身であり、配偶者を迎えることは考えられていない。だからこそ相続できた。宮家は空主が長期続いていたこともあり、表向きは和宮の計らいと諸大夫の願い出があって、姉宮に御殿と知行が付与されたということになる。

 以上の特殊な事情から、淑子内親王は、長期間空主だった桂宮当主として遇された。しかし宮家が空主でなければ、非婚内親王最後の女院、後光明皇女孝子内親王(一品、准后、女院宣下により礼成門院)のような遇され方になったのではないか。

 在俗非婚内親王の厚遇の前例の孝子内親王は、後光明天皇の唯一の子で、後水尾院の意向で、手許に留める方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領300石が与えられた[久保貴子2009]。

 このケースは東福門院(徳川秀忠女)の計らいがあったのではないかとみられている。

 孝子内親王がなぜこのような形になったか、後光明の猶子である高貴宮に万一事故があったときの中継要員なのかそれは憶測にすぎない。

 

(二) 生涯非婚内親王なら「女性宮家」を否定はしない

  つまり、生涯非婚内親王の厚遇、特に嫡系の内親王については准后、院号宣下相当の遇され方をしても前例があるので悪いとは言いにくい。

 もっとも、在俗の非婚内親王で後水尾皇女昭子内親王(岩倉御所)は母が東福門院(源和子・徳川秀忠女)のため厚遇されたが、母后と同居していた時期が長く、後光明皇女孝子内親王の御殿も母と同居であった。

 ところが桂宮は表向き三千石の知行で、淑子内親王は異例の厚遇といえる。

 後水尾皇女女二宮や賀子内親王が摂家に降嫁する際、幕府より三千石が付与されているのは、徳川家の縁者のためで、東福門院や明正上皇の知行五千石と比較しても、非婚内親王に三千石+道具料500石は破格の待遇に思える。

 ただし宮家当主というのは家領経営体のトップというポストであるが、内親王が婚入配偶者を迎えたりすることは伝統に反するのでなされることはない。淑子内親王も非婚であり、この意味で、皇室典範12条は維持されなければならない。

 とすれば、結論は、非婚である限りの「女性宮家」、非婚女性皇族の厚遇は皇室典範12条の絶対維持と皇位継承資格を付与しない前提なら否定はしない。

 12条維持なので、皇族以外との結婚で眞子内親王殿下のように皇室を離れて結婚を希望されてもよいし、非婚か皇族と結婚して皇室に残っても相応に厚遇される案であれば、共産主義者が喜ぶだけの有識者会議①案より、人生設計の選択肢が広くて自由度が高いから、たぶん当事者となる女性皇族にとっても喜ばれる案になる。

 ただし積極的には提言しない。皇位継承者の確保にはつながらないからである。③案などを堅実に実施し、皇族数確保の目途がたてば、「女性宮家」は必要ない。

 有識者会議①案は明確に棄却すべきであるが、内親王の国民的人気から待遇改善はあってもよいという趣旨である。くすぶるなら皇族数を確保するための代替案とする。第4章でも同様のことを述べる。

 女系容認の政党の出方がわからないが、①案は将来的に女系容認をみすえた案であることに気づくはずで、こちらを推してくる可能性が強いからである。

 

(三) 内親王の経済的厚遇は、皇親のみに嫁ぐ皇親内婚が定められていたため

  6世紀の宣化皇女欽明后石姫より紀宮清子内親王までの約千五百年間で、皇女(実子)の結婚は天皇・皇親と結婚された例が63方に対し、臣下に降嫁した例が27方である。

 これは継嗣令第十三の王娶親王条が、臣下が娶りうるのは五世女王以降とし、皇親女子の皇親内婚を規定していることによる。内婚は56世紀に遡る皇室の慣行であり[栗原弘(2002)]、皇族の血の聖性を保証することに由来する。皇族の血の流出を防ぎ、皇統の神聖さを高めるものだった[村山太郎(2003)]。

 それゆえ、統計的にみても内親王は皇親内婚が、違法婚になる臣下への婚姻よりずっと多い。しかし、夭折事例を除いても、皇女のおおよそ八割は、生涯非婚であり「皇女独身主義」的状況もみられた。13世紀、15世紀から16世紀は、ほとんど皇女は生涯非婚だった。

 もっとも、延暦129月詔に三世女王以下は、現任大臣、良家の子孫が娶ってもよいことになり、藤原氏は特に二世女王を娶ることを許すとされ、大きな規制緩和がなされている。

 二世女王の臣下への降嫁は、9世紀の淳和二世女王恒世親王女の内麿十男藤原衛への降嫁が初例である。

 しかし令制においては臣下が内親王を娶ることは一貫して違法なのである。

 これに挑戦したのが10世紀の藤原師輔であり、醍醐皇女三方(勤子内親王・雅子内親王・康子内親王)と密通し、反律令行為でありながら事後承認される形で違法婚が成立している[ 岡部 明日香・(2012)]。

 とはいえ、内親王が臣下と結婚することは好ましくないという意識は歴史上一貫していて、生涯非婚内親王が大多数をしめるのは、第一に継嗣令王娶親王条が、臣下との結婚を違法としているためであるが、令制の規定により内親王庁が付置され経済的な待遇で恵まれていたこともある。

 もっとも食封制や禄制は崩壊過程をたどったが、それに代わるものとして内親王は御給(年官年爵)の給主として特権があった。

 律令国家の収取体系が完全に崩壊した、12世紀以降も内親王が非婚准母皇后として立后や、女院宣下により三后に概ね劣らぬ顕位とされたこと。王家御願寺領の本所として経済的にも恵まれていた。

 室町時代以降は、寺領経営体のトップである尼門跡(比丘尼御所)のポストが用意された。

 このように古代より中世まで一貫して内親王や皇女についてみると、総じて経済的な待遇は良かったといえる。

 というのも内親王は天皇か皇親以外と結婚しない、内向きの性格ゆえ厚遇されたのであって、一般国民と結婚しても皇族の身位を失わないとする有識者会議案は歴史的な皇室制度とは全く理念が異なるのである。

 

(四) 古代・中世の非婚内親王の礼遇からすれば、もっと女性皇族の経済的待遇を良くすべきかもしれないが①案は伝統に反し反対である

  有識者会議案は、女性皇族の処遇の大改革をめざしているが、それは皇室の歴史的伝統に合致しない。この点古代・中世の内親王の礼遇、経済的特権について概観したうえ見解を述べる。

 

 

1 令制の家令職員、禄令食封など

 

 令制において親王の礼遇が諸王・諸臣と比較して格別であることはいうまでもない。

その礼遇、経済的待遇については、諸王・ 臣下の位階に相当する叙品(一~四品)により格差もあった。

 『西宮記』の「一親王及后腹、 一度三品、余四品」の意味は、「一親王」とは最初の男子の親王であり、皇后所生の親王が「后腹」で、初叙において三品に直叙され、それ以外の親王は、初叙を四品とする。内親王が天皇の妃となるときは三品直叙としている[久下 裕利(2006)]。これは10世紀の慣例を示しているが、あくまでも令制の規定どおり内親王は皇親とのみ結婚する前提のものである。

 嵯峨朝以降、親王宣下制度となり、親王は生得的身位ではなくなり[i]、源潔姫のように賜姓されて臣籍に降下する皇女と、内親王宣下される皇女と格差がつけられるようになる。

 親王の待遇は、家令職員令で文学・家令・扶・従の職員がつく、文学は経書を教授する教育係で内親王にはつかない。帳内(近侍して雑用にあたる)の数は品階によって格差がある。親王の品田は一品に80町、二品60町、三品50町、四品40町、禄令食封条では親王一品に800戸、二品600戸、三品400戸、四品300戸で内親王は半減である。なお正三位の食封は130戸なので、四品内親王は正三位より良い待遇といえる。このほか時服、有品親王に月料などの特典があり、皇親が官職につくと官職に応じて職田、食封、季禄などがつく[藤木邦彦. (1991)]。

 これは平安時代には延喜式に踏襲されたものの、食封制や禄制は崩壊過程をたどっていく。しかし内親王にはそれに代わる特権である。御給(年官年爵)を行使するようになるので、経済的に優遇されたといえる。それは、皇親内婚もしくは非婚で、皇族にとどまる身位であるからと理解してよいのである。

 

2 内親王庁(政所)につい

 

 平安中期以後になると、親王には摂関家のように別当・家司が附属する親王庁が組織された。『江家次第』によれば公卿のうちから勅別当が指名され、その指示で本所の儀が執行され、家司・御監・職事・侍者・蔵人が補されるならわしであり、応安元年(1368)の栄仁親王(崇光皇子、伏見宮初代)までは、親王庁の構成員を任命する儀が行われていた。従って、中世まで、親王家とは廷臣を伺候させ、家礼を従える権門であった [小川剛生, 2009]

 内親王についても内親王庁(政所)が開設された。例えば鳥羽皇女暲子内親王(八条院)は、保延4年(11382歳で内親王宣下を受け、後見者となる勅別当には母美福門院の別当を兼ねる、中納言藤原伊通が補任されている。

 伊通は二条親政派の重鎮であり、中級貴族ながら太政大臣にまで昇進した。暲子内親王は二条天皇の准母として、従来女院は后位を退いて宣下をうけたが、先例にない后位を経ないで女院宣下を受けた。それを押し通したのが伊通だった[永井晋2021]。

 後白河は中継ぎの天皇なので、鳥羽院・美福門院の嫡系所領を継承したのは八条院であり、母の跡をついで、二条親政派を支え、旧鳥羽院政派の公家や廷臣をまとめた。後白河院に冷遇された廷臣や、没落した家を庇護したため[永井晋2021]、新規の所領が加わり続け、220か所以上という莫大な荘園群の本所となった。最強の皇女といわれるゆえんである。

 八条院の猶子で、荘園群の相続を指定されていた後鳥羽皇女昇子内親王(春華門院・中宮藤原任子所生・八条院薨後半年で薨御)は当歳で内親王宣下をうけた。政所家司は以下のとおり(『三長記』建久61016)[永井晋2021]。

 つまり満0歳で以下の家礼を従えたということである。

職事 左中将 三条公房

家司 丹後守 藤原長経

家司 伊予守 藤原能季

蔵人     源国朝

侍者 中宮六位進 源季忠

御監 元中宮侍長 源重継

庁年預 中宮属 安倍資兼

 

3 御給(年官年爵)制度

 

 非律令的な制度だが、内親王や三后、女院について10世紀後半以降、院宮給事と称される、人事推挙権御給の権限があった。これは食封制の崩壊からそれに代わる封禄制度、給主が家政機関や近親者に官位を賜ることを本質とした制度とされる[佐古愛己(2014)]。

 年官年爵という、毎年一定数の官職や位階を与えるべき者を推薦し、その任料・叙料を推薦者の所得とした制度である[ii]

 一般論として非婚内親王は利害調整的な政治にかかわらないとしても、御給により朝廷の人事に関与していることになる。

 律令官人は官職位階によって地位をあらわしており、御給は家格に見合った地位につくために有効な手段だった。年爵を受けるためには、給主との血縁関係、勤務状態、精勤が条件だった[細谷勘資(1990)]。

 院政期になると、内親王、女院、准后など年爵の給主が増加したうえ、院家沙汰行事の勧賞が急増し「非年労制的」昇級が激増、従来叙爵に使用されていた年爵は、後白河院政期には三位以上に及んだ。

 御給による叙位は昇進を早め有利だったのである。このため年労制的秩序は崩壊に向かい、人格的関係と個別具体的奉仕が重視される中世的叙位制度が後白河院政期に確立する[佐古愛己(2014)]

 ただし御給制度は、13世紀後半から統制されるようになり、14世紀には治天の君と国母、有力な上皇、女院に限られるようになった。

 

4 非婚准母皇后と女院制度

 

 令制の収取体系は12世紀以降、受領監察が形骸化して崩壊し、土地制度は荘園公領制に移行する。

 平安時代に天皇の妻后として皇后に立てられた内親王は5方、皇族と結婚した内親王は、5方以外に16方おられる。

 保元元年(1156)鳥羽皇女姝子内親王(高松院)が後白河皇子だが皇后藤原得子猶子の守仁親王(二条)の東宮妃とされるまで、間断なく内親王が結婚する事例が続いてきたが、姝子内親王以降、内親王は非婚が通例となる。しかしこの時代は非婚内親王が最も厚遇されていた時期かもしれない。

 院政期から鎌倉時代にかけて非婚内親王は准母等を名目とする皇后の立后例が、11例ある。

 皇后は天子の嫡妻だから、非婚内親王を准母として皇后に立てるというのは本来の制度とは違うが、白河上皇は、醍醐養母皇太夫人藤原温子(関白基経女)が中宮職が付置されていたため、温子は宇多天皇の女御として入内したのに、これを前例とする強弁ともいえる強引なやり方で、鍾愛する白河皇女媞子内親王を厚遇するため、非婚でありながら堀河天皇の姉だが准母という名目で皇后に立てられた。さらに后位を退いて女院宣下された(郁芳門院)。これが非婚内親王の女院宣下の初例である。

 非婚皇后の第二例は、鳥羽准母令子内親王(白河皇女)である。鳥羽天皇の実母藤原苡子が産褥死し、鳥羽天皇は5歳で践祚したので、行幸等扶持する母后が必要であり、名目的ではなく実質的に准母としての役割を果たしている。令子内親王は政争にかかわることなく、太皇太后にのぼせられ長命でもあったので、これを佳例として、非婚准母皇后が慣例化したのである[橋本義彦. (1976)]。

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 また非婚皇后だけでなく、非婚内親王が直接女院となる事例も多くある。そもそも女院の初例は一条御生母の皇太后藤原詮子の女院宣下、東三条院であり、初期の女院は、国母に限られ、太上天皇に准じ、后位に勝るとも劣らぬ顕位であったが、女院は、時代により性格が変化し、天皇生母でない皇太后や、非婚内親王も含めて女院宣下されるようになった。非婚内親王の女院宣下は院政期から江戸時代まで34例ある。

 とくに院政期から鎌倉時代、八条院(鳥羽皇女)や宣陽門院(後白河皇女)が有名だが院庁が開設されて院司を従え、莫大な御願寺領荘園群の本所として大富豪となった。

 しかしそれは内親王の歴史的由来が、臣下に降嫁すべきものではなく、内向きの性格を有していたからであることを理解すべきである。

 なお鎌倉時代後期になると、巨大皇室領荘園群は、持明院統、大覚寺統両皇統の惣領である治天の君の管領となり、巨大荘園群を相続する内親王はいなくなる。

 

5 尼門跡

 

 皇室領の実効知行地が大きく減少した室町・戦国時代は皇女のすべてが入寺得度し尼門跡(比丘尼御所)となった。尼門跡は経済的には幕府に依存していたが、寺領経営体のトップで相応の収入はあった。

 例えば後土御門皇女渓山が住持の大慈院の永正7年(1510)~14年(15177年間の主な収入が1867貫7文[菅原正子(2002)]で、現代の貨幣価値に換算して2億円近くありしかも黒字である。

 つまり年収約3千万円の住持が皇女のポストであり、しかも渓山は男性公家を引き連れて、社寺参詣や遊興に繰り出す余裕があった。また尼門跡領も広義の禁裏御領として保護されていたのである[井原今朝男 (2014)]。

 尼門跡は、令制の内親王の経済的待遇とは違うが、寺領領主で代替されているともいえる。

 中世後期から近世の尼門跡(比丘尼御所・御宮室)は内親王宣下をうけないが、皇族であることに変わりなく決して悪い待遇ではない。

 

6 小括

 

 以上の歴史的経緯から、皇女内親王はもっと厚遇されてよい。しかしそれは、令制が皇族との結婚のみ合法としていたように、内向きの性格ゆえである。

 内親王が令制の規定どおりの国家的給付を受けていた時期は短いだろう。9世紀には食封制も禄制も崩壊過程をたどっていったと考えられるからである。

 しかしそれに代替する経済的特典は付与されてきたわけだし、大富豪となった時期もあった。少なくとも中世までは男性親王と同じく、廷臣が祗候し家礼を従える存在だったと考えられ、尼門跡も寺領経営体のトップでありしかるべき経済的待遇があった。

 令制を規範として生涯非婚独身を前提とするならば独立生計、家政機関付置の「女性宮家」の考え方は全面的には否定しない。

 しかし有識者会議①案は、天皇や皇親と結婚相手が限られ、あるいは非婚にとどまったからこそ厚遇されていた歴史上の内親王のあり方とは全く違うものである。

 有識者会議案は、皇室典範12条を改正する方針である以上、一般国民と結婚しても生涯皇族として国家的給付が想定される案で、これは伝統的なあり方から大きく逸脱するだけでなく、内親王号の歴史的由来[文殊正子. (1986)]を否定し、皇室制度を根本的に破壊するものとして反対する。

 

四 皇位継承資格のない皇族がやたらと増加する案

 有識者会議①案は、皇位継承者でもないのに常に女性皇族が多数をしめる状況をつくってしまうことが問題である。

 中世前期以前、在俗の非婚内親王が権門体制の一翼を担ったことはすでに述べた。

 しかし、室町時代以降、多くの皇女は入寺、得度された。尼門跡は皇族であることに変わりなく世俗行事で宮廷の在俗皇族と交流があるにせよ、基本的には天皇家からは離れているので、①案のように在俗のまま皇室にとどまりつつ、一般国民と結婚することを合法化して、皇室に残る女性皇族の増加をめざす政策は歴史的にみてきわめて異様なあり方といえる。

 尼門跡と婚出した内親王が皇族であれ天皇家から離れたと解釈すると、江戸時代には天皇家に残る非婚内親王はさほど多くないのは、17世紀に皇女御料が制度化されていなかったことがある。

 江戸時代は無事に成人した皇女50方のうち28方、生涯非婚皇女の八割は尼門跡(御宮室)であり、尼門跡は親王宣下されなくても皇族であることにかわりないが、17世紀は皇女御料が制度化されていなかった[久保貴子(2009)]。

 江戸時代の初期は皇女の数が多く結婚するケースが比較的多いのは、尼門跡のポストが足りなかったこともある。

 後水尾皇女17方のうち女二宮と、賀子内親王は、徳川秀忠の外孫にあたるため摂家との婚姻の時点で三千石の知行が付与されたということだが、これは徳川家の縁者であるための特別待遇で、普通の皇女には知行はない。

 近衛基煕に降嫁した後水尾皇女品宮常子内親王(母は新中納言局園国子)が後水尾院崩後、法皇の遺詔により、幕府に返還する知行三千石のうち、修学院村300石の知行を得た[瀬川淑子(2001)]。これは幕府が承認したためだが、常子内親王が39歳の時である。従ってこれは皇女御料という性格のものでなく、皇室領の一期相続でもない。品宮は法皇に鍾愛され独身時代に公家町に御殿を賜り、岩倉の山も法皇から賜っており、法皇は近衛基煕夫妻に幡枝の別荘も下賜された。さらに法皇は近衛家本邸の茶室などの改築にも支出したうえ、常子内親王は法皇に無心して銀子五百枚で紫竹の別荘も購入したが[久保貴子2008]、制度的な皇女御料はなかったとみられている。またこれらの物件は近衛家煕が相続している。

 したがって17世紀の皇女は、後光明皇女孝子内親王(生涯非婚)のように知行を充行われることがなければ、寺領領主である尼門跡か、摂家や皇族と結婚するしかなかった。

 17世紀に摂家に降嫁した内親王は9方おられる。17世紀末期に方針が変わって、内親王は結婚する場合は皇親との結婚が原則となり世襲親王家の親王妃となられた内親王が3方、後桃園皇女欣子内親王は光格天皇の中宮であるが、皇后に立てられた欣子内親王以外は、摂家の政所や、親王家の妃として、嫁取婚により婚家に帰属するから、結婚して天皇家に実質とどまったといえるのは、皇后の欣子内親王だけなのである。

 ただし、生涯非婚内親王で天皇家にとどまった例が数例ある。まず後水尾皇女で明正女帝、岩倉御所と称される昭子内親王、後光明皇女孝子内親王、桜町皇女智子内親王(後桜町女帝)である。幕末の仁孝皇女淑子内親王は婚約していた閑院宮愛仁親王が早世されたので独身のまま、長期間空主が続いていた桂宮の諸大夫の請願により桂宮を相続した。

 後光明皇女孝子内親王(一品、准后、女院宣下礼成門院)は、後光明天皇の唯一の子で、後水尾院の意向で、生涯手許に留めて厚遇する方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領300石が与えられたが[久保貴子2009]、これは東福門院のはからいとも考えられている。

 桜町皇女智子内親王(一品、後桜町女帝)は寛延元年(1748)幕府から将軍世子家治との密々の縁組の申し入れがあったが、桜町天皇が拒否。桜町崩後に御領300石を得たのは[久保貴子2009]、縁談申し入れの経緯もあるからだろう。

 幕末の淑子内親王の厚遇は、既に述べたとおり公武合体策で和宮が将軍家に降嫁した経緯から、和宮の姉宮を粗略に扱えない事情があった。

 周知のとおり、江戸時代は四親王家あった。入寺得度した法親王は皇位継承者たりえないので、男性皇族は基本的に在俗なら皇位継承資格者といえる。天皇家嫡系の儲君のほか、宮家当主とその王子が在俗であれば皇位継承者たりえた。

 近世の女性皇族で潜在的に皇位継承候補たりうるのは、非婚で在俗の皇女か、皇后に立てられた幸子女王や欣子内親王が御配偶の天皇崩御の後ということになるが、皇女は十代の早い時期に、入寺するか婚姻するかが決められる傾向があり、皇女御料は制度化していないので、潜在的に皇位継承者たりうる在俗の非婚皇女はこれまで述べた事例のように常に存在するわけではない。

 とするならば、江戸時代の状況は皇位継承候補たりうる皇族はやはり男性皇族が多いということになる。

 明治から昭和、特に11宮家離脱前は、多くの男性皇族がおられて皇位継承者が不足することはなかったことはいうまでもない。

 ところが有識者会議①案は、皇位継承者でもないのに常に女性皇族が多数をしめる状況をつくってしまう。

 ノーマルな思考なら、皇位継承者たりうる男系男子が不足しないような対策であるべきなのに、①案は逆なのである。

 皇族減少期に限った対策なら、①案は恒常的制度とする必要はないが、皇室典範12条を改正して恒常的制度にすることに事務局がこだわるのは、隠された狙いがあると勘繰られても仕方ない。

 真の狙いは、性的役割分担の流動化、家父長制の粉砕という、左翼勢力が喜ぶ皇室制度の伝統破壊である。

 にもかかわらず保守派論客が有識者会議案を肯定的に評価していることに不安を覚えるものである。

 

 第3節 ①案は皇室典範12条改正を伴い皇室制度を根本的に破壊する

一 アン王女がモデルの案は英国の模倣であり国体を破壊する

   令和3年、79日有識者会議議事録に以下の発言がある。

 「イギリス王室では、アン王女は王族であるが、御家族は王族ではなく、それによって問題が生じているわけではない。このような海外の例を見ても、御本人は皇族であるが、御家族はそうではない、という形も、それほど無理なく成立するのではないか。 女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」

 これより後の1130日会合でリヒテンシュタインの制度の言及があるが、アン王女への言及が先行していることから、アン王女が案のモデルと想定できる。

 アン王女のロンドンの居邸はセント・ジェームズ宮殿、普段は女王が結婚祝いとして購入したコッツウェルズのマナーハウスを居邸とされている。アン王女をモデルとすれば、①案も夫方の私邸ではなく、宮家と同じく皇室財産の邸宅になるのではないかと想定できる。

 要するに①案は英国王室の模倣をやろうとしているが、非常に筋の悪い案である。

 

(一)女系容認の英国王室の模倣は国体破壊

 そもそも14世紀の英仏百年戦争は、母方でフランス王権カペー朝直系の血統を継いでいるエドワード3世が、男系だが傍系のヴァロア家フィリップ6世よりフランス王にふさわしいと主張し、宣戦布告した(別表参照)。

 英国王室は昔から、女系で王位継承の正当性ありという思想で戦争してきた国家なのだ。

 大陸では、サリカ法の影響が大きく、フランス[iii]、神聖ローマ帝国、ドイツ領邦など男系であったが、英国は古くより男系が途絶すると女系をたどって後継者を見つけてきたので女系容認であった。

 また1979年にスウェーデン、1983年オランダ、1990年にノルウェー、1991年ベルギー、2009年デンマーク、2010年ルクセンブルグが男女いかんにかかわらず長子(初生子)相続の王位継承法に変更した。英国は2013年に、王位継承法をあらため長子相続による男子優先を撤廃しており、英国の模倣は我が国の皇位継承と全く異なり、単系出自でなく共系になっているのだから、単系出自の皇室のあり方を著しく変質させる。

 入婿が家長予定者として婚家に婚入する日本的家制度、出嫁女の婚家帰属の我が国の家族慣行と、英国(北西ヨーロッパ)は核家族が基本で社会構造が違うことも指摘しておきたい。

 英国は近代以前から本質的に夫婦と子供からなる単純核家族の社会であったことは、ケンブリッジグループのピーター・ラスレット[川北稔・指昭博・山本正訳(1986)]や歴史人口学が示していることで、日本にも隠居制家族があるが、英国とは社会構造が違うというべきであり、アン王女を安易に模倣すべきではない。

 英国王室の模倣は我が国の国体や家族慣行とも違うものであるから、国体や我が国の醇風美俗を破壊することになり、それゆえ①案は文化破壊の脅威となる。

 

(二)女子差別撤廃条約との関連で改正したルクセンブルクに追従する理由なし

 なおルクセンブルク大公国は、女子差別撤廃条約との関連で、2010年大公位継承法を変更したという。

 この論点に有識者会議報告はふれていないが、①案がこれをトレンドとみて皇室典範12条の男女差をなくす方向性を打ち出しているとも考えられる。

 当然、女系容認の政党は、女子差別撤廃条約を錦の御旗として、女性宮家を主張してくるだろうから、コメントしておきたい。

 女子差別撤廃条約は、まずアメリカ合衆国が批准していないので、これが国際的スタンダードなとはみなせない。

 合衆国が批准しない理由の一つとして、男女平等権憲法修正案が1982年に廃案になったことや、公民権法タイトル7の性差別禁止規定の判例理論で、鉛の被曝を避けるための胎児保護ポリシー(間接的母性保護)を性差別として違法とした全米自動車労組対ジョンソンコントロールズ事件判決 AUTOMOBILE WORKERS v. JOHNSON CONTROLS, INC., 499 U.S. 187 (1991)が、女子差別撤廃条約では容認している母性保護を違法としたため、条約になじまないことがある。

 しかも人権条約の実施措置としてはもっとも緩い報告制度をとっている。締約国の義務は国連の女子差別撤廃委員会(CEDAW) に条約批准の一年後とその後は四年ごとに条約の実施のためにとった立法上、司法上、行政上のその他の措置の報告をするだけにすぎない。CEDAWの権限は弱く条約十八条で提案と一般的勧告を行うことができるが条文の解釈は締約国に委ねられているから[浅山郁(1985)]、勧告に強制力はないので問題にせずともよいというのが私の意見である。

 

(三) 日本の令制皇親の父系帰属主義と英国とは全く違う

 

 ところで、我国では皇室典範以前に、皇位の男系継承の成文法はなかったという人がいるが、とんでもない。

 令制皇親の父系帰属は明白で、女系を排除した親族概念である宗、ローマ人のいう男系親(アグナチオ)に類比できるものであり、父系出自のリニージ、自然血統で繋がっている親族概念である。

 このことは、以下の吉田孝の説明がわかりやすい。

 「唐制では『王・公・侯・伯・子・男』の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の『王』は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの『王』名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて『王』名号を称するのである。但し、『王』族の急増をもたらした。その結果、『賜姓』による臣籍降下が日常化し、『王』も『姓』の一種とみなされるようになる」[吉田孝. (2006)

 花園上皇の『誡太子書』(元徳2年・1330)に「 吾朝は皇胤一統なり」 「異姓簒奪の恐無し」とある。

 内大臣洞院満季が後小松上皇の勅命を奉じ撰進した皇室の系図が『本朝皇胤紹運録』(応永33年・1426)というように、皇位継承資格者は皇胤(男系)である。

 同趣旨の見解として慈円の『愚管抄』巻七(承久2年頃・1220)に「日本ノ国ノナライハ、国王種姓ノ人ナラヌスヂヲ国王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル国」「コノ日本国ハ、初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノマゝニテイカナル事イデクレドモ、ケフマデタガハズ‥‥ [村井章介. (2005)]

 男系継承は明確に意識されている。

 父系帰属主義が明白といえるのは、先述した藤原公季などの例でもいえる。

 そもそも臣下が内親王を娶ることは、継嗣令王娶親王条により違法であるが、10世紀、藤原師輔は醍醐皇女内親王三方(勤子、雅子、康子)と密通のうえ事後承認される形で、内親王降嫁が実現した。

 太政大臣藤原為光は雅子内親王の所生、太政大臣藤原公季は康子内親王の所生である。17世紀の皇女・内親王が摂家に降嫁した事例で関白近衛家煕は、常子内親王所生で、関白二条吉忠は栄子内親王所生である。父系帰属主義により父が藤原氏なら、所生子も藤原氏であることは自明である。

 姓が男系で継承されるのは欧州も同じことだが、英国の王位継承は女系継承がよくある。

 そもそも12世紀のプランタジネット朝ヘンリー2世が女系継承で、男系が途絶すると女系をたどって後継者を見つけてきた。

 例えばエリザベス1世(位15581603)の後は女王の祖父ヘンリー七世の娘マーガレットの曾孫に当たるジェームス1世(位16031625)。

 アン女王(位1702 1714)はカンバーランド公のジョージが王配Prince Consortであったが、子供がなかった。

 次の王位はアン女王の曽祖父ジェームス1世の外孫にあたるゾフィーを母とするハノーヴァー選帝侯のゲオルグ・ルートヴィッヒがジョージ1世(位171427)として英国王に即位した(系図参照)。

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 英国はそもそも女系容認思想で成立している王権であっただけでなく、2013年法で長子相続の男子優先をやめ、男女いかんを問わない長子相続となっている。完全に共系としたのである。

 長老派教会の創始者でスコットランド宗教改革の指導者ジョン・ノックスの著書「「女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り」が[ジョン・ノックス(1986]は、女性君主が、聖書や教父の教えに反するとして批判していたのはある意味正論である。

 我が国の皇室と成り立ちが全然違う。それをモデルとする①案は国体を破壊することになる。

アン王女がモデルということは、①案は英国と同じ完全共系を目指しているのが隠された目的だと思う。

 

二 皇室典範12条には相応妥当な理由がある

 

(一)婚入配偶者の婚家帰属という家族慣行を無視してはならない

 

 皇室典範12条は明治22年典範44条と同趣旨で、旧典範を継受したものである。

 帝国憲法皇室典範義解(伊藤博文著)によれば旧皇室典範44条の趣旨は「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス」とされ婚出した女子(出嫁女)は夫の身分に従うゆえ、皇族の列から離れるとしている。

 つまり婚入配偶者(嫁・婿)の婚家帰属という、我国の常識的な家族慣行に即した合理的な判断をとっているのである。

 にもかかわらず有識者会議は、女性皇族を皇室に留める方策として旧皇室典範44条の趣旨を顧みることもなく、それを継受した皇室典範12条を安易に棄て去る判断をとっていることは大きな過ちである。

 これは女性宮家の創設よりも重大な皇室制度の変革になる。

 日本的「家」は家連続者一名(跡継ぎ、実子長男が通例だが、家付き娘、養子の場合もある)だけが家に残り、婚入配偶者(主婦予定者としての嫁、家長予定者としての婿)を迎えて「家」を継承する。その他の家成員は婚出、養出、分家設立により生家から離れるのが、日本の家」のルールである。「家」とは離在単位であり、個人が帰属する家は一つ、両属はありえない[清水昭俊1970,1972,1973]。

 分割相続から嫡子単独(限嗣)相続に移行した日本的「家」は1415世紀に成立した。

 皇室も14世紀の後光厳天皇より、嫡子(限嗣)単独相続で、日本的家制度の直系継承となったことは要旨で述べたとおりである。

 皇統嫡系が直系に収束した背景として、貴族社会が限嗣単独相続の成立期にあったこと。猶子が貴族、武家社会で実質的意味を有していたこと。公武御契約(後光厳皇統と足利将軍家の盟約)により政治的に後光厳皇統が、嫡流とされる崇光院流(伏見宮)その他の皇統と比較して圧倒的に優位に立ったことがある。

 皇室典範では、養取、養出を禁止したので、中世前期以前の皇統転換を前提とする制度となったが、他は一般の家族慣行と同じことであり、婚姻家族の夫婦一体性の観点からも夫婦を同一身分とすることは論理性がある。

 皇室典範12条は家族慣行に沿って相応妥当な理由があるのでこれを改変することは、たんに皇室の問題でなく、皇室が国民に慕われる存在ゆえ、国民の家族慣行に与える影響が大きく、いかに皇族数を確保する理由であるとしても反対なのである。

 要するに婚入配偶者は婚家に帰属し家成員となる。婚出した者は家成員から排除される家族慣行を有識者会議は全く無視しており、皇室典範12条潰しという、左翼受けする非常に乱暴な結論を拙速に導きだしていると批判できる。

(二)①案は配偶者となる男性が添え物となる不愉快で歪な制度

 有識者会議①案の不快さは、嫁入婚や婚入者の婚家帰属といった家族慣行を無視する暴挙であり、たんに皇族数を確保するとい名目のため、女性皇族が皇統譜、配偶者と所生子は当面戸籍という、同戸異姓というか、夫婦別姓を先取りしたかのような、配偶者となる男性を添え物にする異様な婚姻形態を創設することにある。

 有識者会議①案は従来どおり嫁入婚(歴史的には嫁取婚ともいう)の形式になるのか、入婿型なのか、たんに事実婚なのか不確定である。

仮に入婿型だとすると、一般国民のケースは皇室の前例に明確に反する。

 皇親内婚で入婿的な傍系の皇親が大統を継承したケースは屡々あり、8世紀の聖武皇女井上内親王と天智二世王白壁王の婚姻では傍系皇親の男性皇親が即位(光仁天皇)、嫡系皇統であれ内親王は皇后である

 同様の例として、10世紀の朱雀皇女昌子内親王(皇后)と村上皇子憲平親王(冷泉天皇)、12世紀の鳥羽皇女姝子内親王(中宮)と後白河皇子守仁親王(二条天皇)、18世紀の後桃園皇女欣子内親王(中宮)と光格天皇(ただし結婚より前に、閑院宮典仁親王六男の祐宮が後桃園天皇女御で正妻格の藤原維子の猶子として大統を継承、これは女一宮欣子内親王の入内、立后を前提としての皇位継承である)、「夫帝優先の原則」により、傍系であれ配偶者の皇親が天皇である。

 また皇統嫡系の内親王が、世襲親王家もしくは宮家に嫁す例は、元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来、昭和18年(1943)昭和天皇の長女照宮成子内親王が東久邇宮盛厚王に嫁したケースまで8例あるが、宮家当主は男性皇族で、内親王はあくまでも親王妃、王妃であり、当主となるわけではない。

 「夫帝優先の原則」とは古代史の佐藤長門 [2009,  286]が提示した分析概念で、皇親内婚では、配偶者が世にある限り、即位するのは男帝、皇親女子の皇后もしくは妃なのでありこれは歴史的に一貫した規則性がある。

 歴史上の女帝で、配偶者のあった4方の女帝はすべて御配偶の天皇の崩御、もしくは御配偶の皇太子の薨御の後に不婚で即位していることを、「夫帝優先の原則」というのである。

 女帝は、本源的に不婚が強制されていると主張される。佐藤長門 [2009]や遠藤みどり [2015]「不婚の女帝」論がそうである。但し、桜田真理絵 [2018]は不婚ではなく「非婚・未婚」と言うべきだという。

 それは「夫帝優先の原則」と裏返しの意味であり、妊娠・出産の役割は皇后・妃で、天下知らしめす君主の役割ではないという見方もあるが、それは女帝即位が皇后権に由来しているからだろう。

 皇室の入婿的な婚姻とは、傍系皇親で有力な皇位継承候補者であり、実際に、光仁や光格のように即位した入婿的皇親の例がある。とすれば、入婿型では配偶者となる男性に皇位継承資格があり、しかもそれは内親王より優先するものでなければ歴史的伝統に合致しないのである。しかし①案はそうではない。

 また日本の一般の家族慣行では、婚入配偶者(嫁・婿)は婚家に帰属し、入婿は家長予定者として婚家に迎えられる慣例である。家付き娘は主婦予定者なのであり、当主となるのは婿である。

 比較文化的に検討してみると、中国は宗法によって完全な父系社会であるわけではなく、入贅の慣行もある。日本と同じ準父系であることは20世紀前半の民族学的調査でわかっている[牧野巽(1985・初出1935)]。しかし入贅となる男性は宗法に反するので軽蔑の対象となる、表向きには祖父-孫継承になるので無視される存在なのである。

 むろん中国と日本では、家族慣行に共通点も多いが、我が国では当主となりえない、たんに子づくりのための入贅というのはない。これは中国と日本の家族慣行の違いの一つである。

 有識者会議①案は、中国の入贅のあり方に類比できる。日本的ではない政策、軽蔑される対象となる家長予定者でない入贅という、中国では軽蔑される下位制度を皇室に創出しようとしている。しかも、これを恒久的制度とするというのである。これは男性に対する重大な侮辱だ。

 つまり①案は、皇室の前例にもなく、我が国の庶民の家族慣行とも合致しない、当主となりえない、たんに添え物としての入婿という歪で醜悪な制度を創出する。それが政治的にも夫婦別姓推進論を先導する役割を果しそうなので非常に不愉快であるだけでなく、文化破壊の脅威と認識せざるをえない。

 

 

(三)日本の「家」の構造に即した皇室典範12条は合理的、妥当性がある

 ところで、前記引用の旧皇室典範44条義解「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ」とは、出嫁女の婚家帰属性を意味しているとみてよいだろう。

 それは以下に引用する明治8年内務省「夫婦同氏」案の趣旨と合致するからである。

 明治8年11月9日妻の氏について未だに成例がないために内務省は、腹案を示しつつ伺出を太政官に提出している。

 「華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚嫁シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候ヘ共、右ハ未タ成例コレナキ事項ニ付決シ兼候ニ付、仰上裁候‥‥」[廣瀬隆司(1985)][近藤佳代子(2015)]

 文面からみて皇室典範義解と内務省の夫婦同氏腹案の趣旨は同じである。

 要するに内務省案は、華士族平民いずれであれ、婦女は他の家に婚嫁した後は、夫の身分に従うはずのもの。婚家に帰属するのであるから、夫家の苗字を終身称するのが穏当というものである。

 夫の身分に従うというのは、出嫁女の婚家帰属性というだけでなく、夫婦同一身分、嫁取婚(嫁入婚)、家父長主義、大化元年の男女の法に遡ることができる父系帰属主義といずれの見方も可能であるが、それは我が国の家族慣行の常識である。

 江戸時代の婦人道徳の教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』貝原益軒)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範である[柴桂子(2004)]。それは歴史的に一貫した社会構造といえる[iv]

 中国の宗法においても出嫁女は夫の宗に属するので朝鮮・韓国も含めて、東アジア共通の古くからの文化ともいえるのでその意味は深い[v]

 このことは、同戸異姓の禁止、氏を統一した明治政府の政策とも合致している。実際今日においても夫婦同氏の96%が夫家姓であるのも、日本が準父系の社会構造であり先述した歴史的経緯にもよる。

 つまり東アジアの婚姻の在り方、日本的家族慣行に合致させたのが皇室典範12条の意義といえる。

 この婚姻家族は同一の身分とする考え方によって、旧皇室典範44条と現皇室典範12条は、皇族女子も皇族の身位を維持できるのは天皇・皇族と結婚した場合のみとし、臣下に婚嫁した場合は、夫の身分と同一とするものとして皇室を離れる。

 但し、旧皇室典範44条では特旨により、皇室を離れた場合も、内親王号、女王号を称しうることとしたのである。

 ところで、室町戦国時代に皇女はすべて生涯非婚、入寺得度されているが、17世紀には皇女の結婚例が10例あり、9例は摂家(二条家及び近衛家3方、鷹司家2方、九条家1方)である。17世紀末期以降、昭和18年(1943)まで内親王の婚姻は9例が皇族で(天皇1方、伏見宮2方、東久邇宮2方、竹田宮、朝香宮及び北白川宮1方)、1例が徳川家(婚約例を含むと2例)である。17世紀末期以降の方針の転換は、霊元上皇の古式復興政策と軌を一にするもとと考えられる。

 では、なぜ臣下が内親王を娶ることが違法なのに17世紀に9例もあるかという点は、久保貴子氏がコメントしており、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないかと考えられる。徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。また、 一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」とする[久保貴子(2009)]

 上記の見方に加え、私の考えでは五摂家が禁中並公家諸法度により、事実上、世襲親王家当主より座次、序列上位となったことが大きいと思う。皇族以上の序列なら臣下が娶ることは違法とされていた内親王との結婚も障碍はないという理屈はありうるからである。

 戦国時代は伏見宮のステイタスが高く、伏見宮出身宮門跡の法親王と、摂家出身の門跡准后との間で争いになった天正15年(1587)の座次相論では715日関白秀吉が裁定し、正親町天皇の認可を受けた(『親王准后座次三ヶ条之事』)。裁定は、親王と准后は同格、門跡准后、法親王、前関白は同格とし、それぞれの席次はくじ引きとされ、ただし伏見宮邦房親王と近衛龍山は別格で、常に並んで上座を占めるとされた [谷口研語, 1994] [神田裕理, 2019]

 鎌倉時代末期の書札札では親王家は大臣と同格だったので[小川剛生 (2009) ]、親王家は明らかにステイタスが上昇している。従って伏見宮邦房親王は、前関白であるが准后宣下を受けていない九条兼孝、一条内基、二条昭実より上座とされていたのである [谷口研語, 1994]。この時期の裁定と比べると禁中並公家諸法度は明らかに、世襲親王家の位地が下降し、五摂家の位地が上昇しているといえる。

 摂家に降嫁した内親王はいずれも夫方居住であり、墓所は二条家に降嫁した賀子内親王や栄子内親王は二尊院、近衛家に降嫁した常子内親王や憲子内親王は大徳寺、九条家に嫁した益子内親王は、東福寺。いずれも婚家の廟所である。

 これは昭和25年鷹司平通に降嫁した昭和天皇の皇女孝宮和子内親王の廟所が鷹司家の菩提寺二尊院であることと同じことである。

 人は死んだ時に帰属していた家の仏となるという一般の家族慣行と同じことである。

 静寛院宮親子内親王(和宮)にしても、葬儀は徳川家により行われ、墓所は徳川家茂と同じ増上寺であり、婚家帰属性は明白で、そのような趣旨でも、皇室典範では臣下に嫁した場合は皇室から離れるものとしたのは合理性がある。

 なお、光格后欣子内親王(新清和院)は後月輪陵であるが、きー宮家に嫁した内親王は江戸時代の福子内親王、秋子内親王が相国寺内伏見宮家墓地、慶光天皇妃成子内親王は蘆山寺陵(閑院宮家墓所)、明治皇女4方と昭和皇女1方の墓所は皇族専用の豊島岡墓地である。江戸時代は宮家の墓所であり、天皇家から離れたと認識しうるのである。

 現皇室典範12条は旧皇室典範の趣旨を継受しているので、皇室典範12条は、最高裁が合憲とした夫婦同氏と同様に合理性があるという理屈になるのである。

 以上の論点について、明治民法の家制度はもはや効力を有していないという反論があるかもしれないが、慣習としての日本的「家」制度は現に広範に存在する。日本は北西ヨーロッパ型の単純核家族社会の社会構造とは違うだろう。

 人類学者の清水昭俊1960年代の出雲地方のフィールドワークで研究し理論化された「家」も現に存在し、白無垢・色直し・結納などの嫁入婚の習俗もすたれていないし、家職や家業を継承している家や老舗も存在する。中国の宗族では家職や家業の継承の慣習はない。それは日本的「家」の特徴である。

 私は、1415世紀以来の嫡子単独相続が成立した後の「家」を一応日本的「家」と定義するが、出自集団としての家は、古代にさかのぼるものであり、まさに、穂積八束が「我千古ノ国体ハ家制二則ル家ヲ大二スレハ国ヲ成シ国ヲ小二スレハ家ヲ成ス」といったように「国体」ともいうべき社会構造と理解すべき。

 厳密な学術的定義で定評のある清水昭俊は、「家」を出自集団descent group、それも分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的であると定義している。

 清水昭俊は、清水盛光、川本彰、リーチを引いたうえで日本語の「家」と欧語のfamilyは近似したものとの認識を示している。

 「家内的親族集団とりわけ家族を内包とし、家内的集団、親族的機能集団を、あるいはさらに機能的親族集団が何らかの機能的関係(一族としての連帯関係など)に取り込むことのできる範囲の(遠い)親族を外延とする概念」を表す用語として日本語では「家」、欧語の最広義でのfamilyないしその同系語、あるいはhouseないしその同系語が適当」[清水1987 56頁]としている。

 人類学者の定義に従えば、母系家族と対極をなすのが婚姻家族であって「これは家内的生活が主として夫婦間の性的分業によって営まれる家と定義され、核家族や核家族からなる拡大家族はこれに含まれる」[清水1987 97頁]とされている。

人類学者の大御所がそういう以上「家」は、都市部で核家族が主流となっても社会構造として存在し、ロイヤルファミリーも例外ではない。

従って①案は日本の社会構造に挑戦する急進的な性格を有しているゆえ、穏健な政策を望む一国民としては排除されてしかるべきと考える。

(四)前近代と近代の姓氏概念の違い

 

  すでに述べたとおり、皇室典範12条と夫婦同氏の立法趣旨は共通するものがあるということである。

 この章は旧皇室典範44条を継受した皇室典範12条は相応妥当なものという理由の補足的な説明になる。

 本題から少し外れるが筆者は夫婦別姓には反対であり夫婦同氏は堅持すべきとする考え方であるというのは、梅健次郎の立法趣旨が妥当だということである。

  • 妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致している[vi]
  • 欧米ではキリスト教の夫婦一体性、絆を重んじる婚姻理念から西洋では夫婦同姓が通例で、ファミリーネームの欧州の法制を継受した。

 また実態においても庶民は夫婦同氏が慣例になっていたことは府県からの伺からも明らかなことである[vii]。庶民の夫婦同氏慣行が当然といえるのは、徳川時代の宗門人別帳でも夫婦同宗とされ、婚家の墓地に埋葬されるなど婚家への一体性・帰属性が強かったためでもある。

 にもかかわらず、明治9317日太政官指令が「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」とし所生ノ氏にこだわった主たる理由は何かというと、太政官法制局見解「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」[viii]という見解に尽きる。

 明治元年(18681228

女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)

 從三位藤原朝臣美子(昭憲皇太后、左大臣一条忠香女)

(ウィキペディアより引用)

 太政官法制局は、庶民の実態としては夫婦同氏であるのに、自然血統主義である上代由来の令制の皇親概念と天皇の賜与認定による、天皇大権、王朝的姓氏概念にこだわった見解をとっていた。

 むろん時代によって、皇親女子の礼遇、特権のあり方は変遷があるとはいえ、令制では、皇室典範のように内親王や女王の身位は、婚出によって失う性格のものではない。

 嵯峨皇女源潔姫のように賜姓により臣籍降下するか、神護景雲3年(769)聖武皇女不破内親王が巫蠱事件に連座して懲罰的に内親王位を剥奪されるようなケースでなければ、皇親が臣下として扱われることはないとはいえる。

 源平藤橘といった王朝的姓氏が婚姻によって改姓されないのは当然のことである。姓の賜与認定は天皇大権であるから、勝手に改姓してよいものではないからである。

  したがって、前近代において内親王が臣下に降嫁しても、内親王の身位は保持したという有識者会議の見解は、現象的にはそのとおりであり、それは「皇后藤原氏ナランニ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」と裏返しの理屈になるが、にもかかわらず、明治維新後、前近代の姓氏概念において大きな変更があったので、以下の理由により旧皇室典範44条を継受した皇室典範12条は相応妥当なものといえる。

 令制の皇親は、血統が生理的(実系で)に貫徹し擬制による例外のない単系父系出自である。

 要するに『王』名号は、天皇と父系で繋がるリネジ、血統の標識なのである。婚姻関係とは基本的に無関係である。

 天皇大権により臣下に賜与・認定される源平藤橘等の古代的姓氏も婚姻により変更されない点では同じである。 

 もっとも天皇の改賜姓権能による古代的・律令的姓氏は血筋として実系が貫徹しているわけでは全然ない[宇根俊範1980 1983]。政治的に血統とは無関係に認定されうるという点では、皇親とは違うとはいえるが、類似したカテゴリーである。

 要するに令制の皇親は賜姓による臣籍降下と、懲罰的に剥奪される場合を除いて、生涯皇親である。

 南北朝・室町時代以降多くの皇女が入寺得度し比丘尼御所、御宮室(尼門跡)と称されたが、内親王宣下をうけてなくても、皇女たる位地は同じであり、男性の宮門跡(法親王)と同様、皇親であることに変わりなく、出家された場合であっても令制では基本的に皇親たる立場や親王宣下を受けた皇親が懲罰的理由[ix]以外では身位を失うことはないといえる。

 つまり前近代において内親王、女王の身位が失われないことは、いわゆる本姓(古代的姓氏)が婚姻によって変更されるものではないという理屈と類比できるのであり、同列のものとして理解してよい。

  しかしながら近世までは我が国は天皇の賜与・認定による姓氏(古代的姓氏、王朝風姓氏、源平藤橘など)と自然発生的な家名である苗字(名字)の姓氏の二元システムであったものが、後者に一元化されたのが近代である。

 すなわち近世朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は本姓+実名、例えば常陸土浦藩主(土屋氏)の場合「源寅直」、将軍の領知主印状の宛名は苗字+官職「土屋能登守」となる[大藤修1996]。

 要するに天皇との君臣関係は公式的には王朝風の古代的姓氏(本姓)。将軍との君臣関係は名字(苗字)であった。

 明治維新以後、藤原朝臣実美よりも三条実美、越智宿禰博文ではなく伊藤博文のほうが、わかりやすく、家名ないし苗字のほうが家筋を識別できる機能があるため、見直されることとなり、明治4年10月21日太政官布告で「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」[井戸田1986 7884頁]により、古代的姓氏を公文書で用いることはできなくなった。

 さらに、明治8年2月13日太政官布告の平民苗字必称令により、姓氏は苗字(公家の場合は称号とされる家名)に一元化されたのである。

 もちろん源平藤橘等、天皇の賜与・認定の由緒は重んじられてよいことだが、実生活では用いてはならないルールになった。

 近世には勝手に系図を作って古代的姓氏を自称する家もかなり多く、社会的標識としては不適切、藤原氏といっても上流・中級貴族だけでなく、職人階層まで広範な範疇になるためである。法制的には氏(苗字)、慣習としては家名、名字、門名で家を識別することとなったのである。

 日本的家制度は離在単位であり、個人はどこかの家の成員だが、両属することはない、婚入者(嫁・婿)は婚家の成員で死後は婚家の仏となる。家成員は婚出、養出、分家設立により生家から離れるのが、日本の「家」のルールである。

 出嫁女の婚家帰属性という観点では、日本の家族慣習のみならず、伝統的な中国、朝鮮でも同じことである。したがってその由来は東アジア共通の文化であり、中世に始まるものではなく非常に深い[x]

 一方、西洋ではローマ法の諾成婚姻理論、古典カノン法が12世紀にローマ法を継受した合意主義婚姻理論を決定的に採用したため、個人の合意によって容易に婚姻が成立する、秘密結婚の文化があり、戦後も我が国にも広がった価値観ではある。

 しかし婚姻は両性の個人の結合のみならず、家と個人の結合でもあることは少なくとも我が国においては常識的な家族慣行である。

 明治政府は、明治5年の太政官布告で改姓を原則禁止し、「家」を識別する記号は変動できないこととした。また明治9年の内務省指令で、「家」を識別する記号は、複数あってはならない。「家」と氏は一対一で対応するものとし、同戸異姓が否定された。

 明治15年に妻妾制が廃止され、西洋的な単婚で夫と妻の伴侶性の強い婚姻家族の価値観も受け容れられることにより、伝統的な「家」の成員、婚入配偶者の婚家帰属性とともに、夫婦同宗の東アジア共通の価値観、夫婦の一体性から、夫婦同一身分とする考え方は常識的なものであり、「家」を識別する記号にならない古代的姓氏は実質否定された。

 要するに令和31130日有識者会議「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」にある江戸時代以前の臣家に嫁した内親王が身位を失うわけではないとして内親王6方を例示しているが、それは令制皇親と今日用いられてない律令的古代的姓氏が類似した概念であり同列のものと理解してよい。

 

 (五)令制皇親と近代皇室典範の皇族の範疇の違い

 明治22年皇室典範における皇族の範疇は、前近代の皇親の概念とは違う。

 つまり近代の皇室典範における皇族と、血統の標識である令制の皇親とは概念が異なる。

 令制では臣下出身の三后皇太夫人、女御、親王妃は、皇親の範疇にはないが、近代の皇室典範では三后、親王妃、王妃は皇族となる。

 この変更の背景として、三后という身位ゆえ皇族という考え方だが、実質婚入配偶者を皇族とするものである。

 この点、令制では立后は政治行為であり、光明皇后の立后は聖武即位の5年後、橘嘉智子の立后は、高津内親王廃妃の後、嵯峨即位の6年後、藤原穏子の立后にいたっては入内の22年後、醍醐即位の26年後である。一帝二妻后の例や、立后のない天皇も少なくなく、我が国の皇后は中国王朝のように嫡妻性より政治行為による身位という性格が強いことがある。

 一方、明治以降の皇后は嫡妻としての性格が明確になった。三后や親王妃、王妃は臣下出身であっても、生家とは離れており皇室の成員という考え方である。

 明治9年の太政官法制局の見解である「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」の考え方が、明治22年の皇室典範では採用されなかったのは、理由があるといえる。

 令制で皇后冊立は政治的に決定される位地であり、入内時には将来の位地は不確定なのである。ゆえに配偶者であっても皇族ではない。この点近代の皇室とは異なる。

 よって后妃が臣下であっても皇族とする皇室典範のあり方と相似並列的に臣下に降嫁する女性皇族は、婚家に婚出するものとして、生家から離れる家族慣行に基づき、夫と身分と同じくする考え方をとっているのは自然である。

 つまり、有識者会議①案を正当化するためには、令制皇親のカテゴリーに戻す。皇族出身ではない三后、親王妃、王妃を皇族の成員から外すことでないと、理屈のうえでは釣り合わなくなる。

 

 

(六)夫婦別姓旧慣習説批判はそのまま有識者会議①案批判にあてはまる

 1 女性の呼称の変遷

 本題から外れるようだが、旧皇室典範44条の義解と明治8年内務省「夫婦同氏」案が同趣旨であることから、表題の論点を述べることで、理屈のうえでは旧典範44条を継受した皇室典範12条の正当性の主張を補完できると考える。

  つまり、夫婦同氏と皇室典範12条は同一の理由によるものなのであり、夫婦同氏の慣習は、少なくとも15世紀に遡る慣例だからである。逆に言うと、皇室典範12条改正は、夫婦同氏制を破壊する重大な要因になるのできわめて危険といえるのである。

 女性の呼称、指称のあり方は、それ自体大きなテーマで、角田文衛氏[2006]などの業績もあり、大筋のところを述べておくにとどめる。

 下記は89世紀の大臣と妻が女官であるケース等の一覧表である[伊集院葉子(2014) 156]

 

     夫      妻

 

右大臣 藤原不比等 -県犬養橘三千代

左大臣 橘諸兄   -藤原多比能

左大臣 藤原永手  -大野仲千(尚侍・尚蔵)

右大臣 大中臣清麻呂-多治比古奈禰(尚侍)

右大臣 藤原是公  -橘真都我(尚蔵)

右大臣 藤原継縄  -百済王明信(尚侍)

右大臣 藤原内麻呂 -百済永継(女孺)

右大臣 清原夏野  -葛井庭子

右大臣 藤原三守  -橘安万子(典侍)

右大臣 橘氏公   -田口真仲(乳母)

 奈良時代の女官は本姓+実名による署名がなされていたと考えられるので、天皇により賜与・認定される姓名に実質的意味があったと推定できる。

 しかしだからといって、奈良時代の夫婦別姓状況を肯定的に評価しない。貴族で嫡妻制が成立するのは関白基経以降といわれ[栗原弘(1990)]
、ここに記載された時期は、嫡妻制度が確立されていない時期であり、従って今日の婚姻家族とは違う、対偶婚に近い在り方だからである

る。

 飛鳥白鳳時代の結婚は緩く、対偶婚的といわれる。その例として県犬養橘宿禰三千代と藤原不比等の結婚である。 県犬養宿禰三千代は出仕し天武12年(683)ころ敏達天皇曽孫の美努王と結婚し葛城王(橘諸兄)佐為王(橘佐為)、牟漏女王を生んだ。ところが持統八年(694)美努王が大宰府率に赴任する際に三千代は同行せず、飛鳥に残ったが不比等と再婚した。三千代は阿閉皇女(元明)付きの女官で持統上皇の信任厚く、不比等にとって有益な結婚だった。戸令二七先姧条「先ず姧してむ、後に娶きて妻妾と為らば、赦に会うと雖も、猶し離て」の趣旨からすれば、違法であるがお咎めはなかった。

 対偶婚なら夫婦別姓は合理的といえる が、それはともかく女性の姓名は六国史にあるものなので、女叙位は所生の氏である。

 しかし嫡妻制が成立した平安時代中期から女房の候名が確立した。日常生活で呼称されているのは候名であって姓+実名ではない。清少納言や紫式部の実名が不詳であるのは、実名で指称されることがなかったからである。つまり社会生活で夫婦別姓にはなっていない。

 角田文衛[2006 178頁]によると平安時代中期の女房の候名は主として父、やむをえぬ場合は、夫、兄弟、祖父の官職名に因んで賜った。候名は優雅であり「実名敬避」に役立ち、女房たちの実名に煙幕をはった。

 女流歌人の次のような事例である[角田文衛(2006)121頁]。

 

 〇和泉式部 式部は父の藤原為時が式部丞の任にあったため。和泉は夫の橘道貞の任和泉守に因む。

 〇伊勢大輔 父の大中臣輔親が伊勢の祭主で神祇官の権大副。

 〇上東門院中将 父藤原道雅の任左近衛中将に因む。

 〇馬内侍 右馬権頭源時明の女。

 〇相模 相模守大江公資の妻。

 女房に限らず、后妃は清和生母原明子が染殿后、陽成生母藤原高子が二条后と称されるように、もちろん同時代人は「実名敬避」のならわしにより、実名で呼称することはないことはいうまでもない。

 中世における女官の符牒については近年多数の研究があるが長文になるためこれらは省略する。基本的に女性は位階授与の宛名以外に実名で称されることはほとんどないと考えてよい。

  女叙位等の宛名が本姓+実名である。戦国時代以降では以下のような例がある。本姓は、既婚者であれ生家か養家の姓が通例である。

  • 文正元年(1466) 従三位 源益子

   関白室二条持通正妻の伯家雅兼王女(白川伯王家)

  [後藤みち子2009]

  • 元禄15年(1702)2月14日 従一位 藤原朝臣光子 

   五代将軍徳川綱吉母桂昌院(お玉)、家光妾、本庄(藤原)宗利養女

  • 文政11年(1828)1月10日 従二位 故従三位藤原輝子(追贈)

   七代将軍徳川家継母月光院(お喜代の方)、家宣妾、元加賀藩士勝田玄哲女

  [大藤修(1996)]

 しかし、こうした事例も夫婦別姓の根拠にはならない。位記等の宛名は実生活で用いられることはまずないのである。たんに形式といってよいものだろうし、そもそも近世で女叙位の対象となる女性の数は少ない。

 

2 近世における夫婦別姓旧慣習説は柴桂子説により明確に否定されている

  夫婦別姓推進論の背景として井戸田博史[2003]、洞富雄[1957]、熊谷開作[1963]などの法制史学者が夫婦別姓旧慣習説を唱えていたことである。特に井戸田博史が夫婦別姓を支持する方向で論じていたことである。しかし、近世史研究者、女性史研究者が井戸田説や法制史学者の見解を批判している。

 近世については大藤修[1996]、とくに柴桂子[2003]が一次史料を詳細に検討したうえ、江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、指称、自称、自署はしていないことを明らかにしており、井戸田説を批判している。

 柴桂子によれば、法制史研究者によって「江戸時代の妻の氏は夫婦別氏だった」と流布されているが、夫婦異姓の根拠とされる史料はごくわずかに過ぎない、女性の立場や実態把握に疑問があるとする。

 「法制史研究者は別姓の根拠を、主として武士階級の系図や妻や妾の出自の氏に置いている。ここに疑問がある。妾や側室は雇人であり妻の範疇には入らない。給金を貰い借り腹の役目を終わると解雇され配下の者に下賜されることもある。」とする。

 別姓説の中に「氏の父子継承原理」が語られるが、『女大学宝箱』といった教訓書では、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていた。

 また、宗門人別帳でも夫婦同宗とされ、婚家の墓地に埋葬されるなど婚家への一体性・帰属性が強かった。

 実態として近世の既婚女性はどう呼称、自称していたのか。長文だが柴桂子論文かに引用する。

○出版物 『近世名所歌集』嘉永四年(1851)、『平安人物誌』文政五年(1822)

姓はなく名前のみで○○妻、○○母と婚家の身分が記されている。

○人別書上帳・宗門人別帳

庶民の場合は姓も出自もなく、筆頭者との続柄・年齢が記される。

○著書・歌集・写本などの序文や奥付

武士階級でも姓も出自もなく、院号や名のみの場合が多い。

○犯科帳、離縁状、訴状、女手形

姓はなく名のみが記され○○妻、○○後家と書かれ、名前さえ記されないものもある。

○門人帳 (略)

○墳墓、一般的には正面に戒名、側面に生家と婚家の姓が刻まれている。

◎自称・自署の場合

○著書 多くは姓がなく名のみを自署している。

○書画・短冊 雅号のみの場合が多い

○書簡 これも名前のみサインである。

○『古今墨跡鑑定便覧』本人の署名を集めたもので、姓はなく名前のみサインである。

例外的にフルネームの署名もあるが書画や文人の書簡であって夫婦別姓とはいいがたい。

 柴桂子の指摘から、一般に江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、自称、自署していないと断言してさしつかえないだろう。夫婦別姓の実態はない。

 夫婦別姓推進論者は舅姑や夫と同じ墓に入りたくないと言うが、しかし我が国においては、婚入配偶者が、生家に帰葬されるというのはきわめて例外的なものである[xi]

 

3 戦国時代の公家と農民において夫婦同氏の慣習が認められる

 1)後藤みち子説

 後藤みち子[2009]によれば戦国時代の貴族は基本的に夫婦同じ家名で称されるのが普通であるという。

 摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。

 清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。関白近衛尚通(14721544)は右大臣久我通言正妻(徳大寺実淳女)を「久我女中」と称し、太政大臣徳大寺実淳妻(出自不詳)は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。

 西洋でも○○家出の○○卿夫人というように、夫の家名や爵位にちなんで称されるのと同じ感覚である。

 一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。

 内大臣三条西実隆(14551537)は大納言中御門宣秀正妻(甘露寺親長女)を「中御門西向」と称し、権大納言甘露寺親長(14241500)は、権大納言中御門宣胤(甘露寺親長女)の正妻を自分の娘であるが「中御門東向」と称している。姑が「東向」で嫁が「西向」である。

 15世紀の公家社会における嫡子単独相続確立期以降に、家妻は、家政・家職の経営の役割を分担し、婚家の名字を冠して称された。

 後藤みち子氏は、女叙位の位記は所生の氏であるから夫婦別氏、夫婦同苗字と述べているが、社会的呼称は、婚家の名字+妻の社会的呼称(女中、向名)であるから、公家社会では15世紀には実質的には夫婦同氏といってよいと思う。であるから、嫁取婚、出嫁女の婚家帰属性から慣習は別氏というより同氏といえる。

 2) 坂田聡説
  坂田聡[2006  2009]は、丹波国山国荘は夫婦同苗字が3例、北近江菅浦にも同様の例があるとし、庶民においては15世紀後半以降夫婦同苗字のほうが一般的とみなし、明治初期庶民は夫婦同姓を当然視していたとするのである。一方、農民に苗字が成立していない鎌倉時代は夫婦別氏としており、少なくとも「家」が成立した後は、夫婦同苗字としているので、坂田氏自身は選択的夫婦別姓支持という政治的見解を述べているが、同氏の研究自体は、事実上夫婦別氏旧慣習説を否定している。

 以上のことから、夫婦別姓旧慣習説は否定してよい。

 限嗣単独相続の日本的「家」制度は15世紀の公家を基本モデルとしてとらえると、この時点から、夫婦同氏は必然だった。

 日本の家族慣行(1415世紀に成立した日本的家制度)は離在単位で、両属はありえない[清水昭俊197019721973]。婚入配偶者である嫁は主婦予定者として、婿は家長予定者として婚家に帰属するというのが社会通念である。

 つまり我が国では出嫁女、入婿という婚入する配偶者は婚家に帰属する家族慣行であり、嫁養子という言葉はないが、実質養子が養家に帰属するのと同じである。

 近代主義的観点でも明治15年に妻妾制が廃止され、西洋的な単婚で夫婦の伴侶性を強調する婚姻家族の価値観がとりいれられたことから、旧皇室典範44条、現皇室典範12条が夫婦で身分を同じくするものとしたことは、妥当なものである。

 「家」が離在単位であり、嫁取(嫁入)婚は、皇室であれ、庶民であれ常識的なものであるのに、そうした我国の家族慣行を否定するかのように、女性皇族は皇統譜、配偶者と所生子は当面戸籍という歪な制度をぶちあげた有識者会議①案は、我が国の公序良俗、順風美俗に対する重大な挑戦であるだけでなく、以下に述べるマルクス主義者に阿った提案と非難すべきというのが結論である。

 

(七) 皇室典範12条改正が実現すれば左翼、マルキストの大勝利

 夫婦同氏制を潰す政策を後押ししているのは共産主義イデオロギーもしくはそれと親和的なイデオロギー、世俗主義を信奉している勢力と考えられる。

 女性宮家や今回の有識者会議①案は、皇室典範12条の改変を必須としているが、それは、夫婦同氏制や、旧典範44条の義解にある夫の身分に従う趣旨などが、日本的「家」制度の残滓もしくは家父長制の残滓とみなされ攻撃の対象としている考え方に沿っているからこそ、私は反対なのである。

 エンゲルスの唯物論的家族史論『家族・私有財産・国家の起源』は、嫁入婚と家父長制家族の成立が私有財産制の淵源であると同時に「世界史的女性の敗北」と称しており、逆に嫁入婚と家父長制家族に打撃を加え、女権の拡大により、事実上社会主義革命の展望が開かれるという理屈になるからである。男女平等やジェンダー論は本質的に共産主義と親和的な思想である。

 事実上、①案の実現で、皇室典範12条を改正すればマルキストの目論見どおりとなる。その理由でも反対である。

 

(八) 皇室典範12条は令制の皇族女子の皇親内婚原則を一応踏襲しているが、①案は全く無視しており、皇室制度を根本的に破壊する。

 私が①案に強く反対する理由の第一がこれである。歴史上一貫した内親王の性格規定を否定し皇室の伝統を破壊する

 皇族以外と結婚しても、内親王は皇室に残るとする有識者会議の案は、歴史上一貫した規範である内親王の皇親内婚の原則を否定し、皇族にのみ嫁ぐことで皇室の血縁的尊貴性を守る役割という「内親王」号の歴史的性格規定を否定するから、皇室制度を根本的に破壊する。

 この点について文殊正子氏によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している[文殊正子 (1986) )、中村みどり (2002) 文殊説の要約]。

 皇親女子(内親王~四世女王・慶雲3年格では五世女王まで)は継嗣令王娶親王条により臣下は内親王を娶ることは違法であり、実際には10世紀に8例、11世紀に1例、17世紀に7例、19世紀に1例の違法であっても勅許による内親王の降嫁があるが、これは令制が想定している婚姻ではない。

 11/30会議における事務局の制度的歴史的研究資料では、法制史的な観点が欠落している。

 つまり、継嗣令王娶親王条の皇親女子の皇親内婚原則[今江広道 (1983)、安田政彦 (1998)、栗原弘 (2002)、中村みどり(2002)(2014)]については何も説明していない。内親王の歴史的由来を無視して婚姻法制をいじろうとすることが容認しがたいのである。

 

〇継嗣令王娶親王条

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。

 従って皇親の範疇である内親王、二世~四世女王と(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)臣下との婚姻は違法である。

 統計的にも6世紀の欽明后石姫皇女以降、現代まで千五百年で、一世皇女ないし内親王(一世皇女)で皇親(皇族)と結婚したことが知られるのが63方、臣下と結婚したのが27方であり、やはり皇親内婚が大きく上回り、それが原則であることは明確に言える。

 

 とはいえ延暦12年(793)九月丙戌詔において、見任大臣と良家の子孫は三世女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとした

 「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」『日本紀略』[安田正彦1998、栗原弘2002、中村みどり2014

 なお中村みどりによれば、「良家」とは三位かそれに准じた家柄と注釈している。二世女王降嫁の初例は9世紀の藤原衛への淳和二世女王恒世親王女の降嫁であり、次いで藤原基経への嵯峨二世女王操子女王、仁明人康親王女の降嫁などがあるが、この婚姻は合法ということになる。

 規制は緩和されたが、二世女王以下は内親王のような叙品や特別の礼遇ではないので、諸臣との身分的ずれは大きくないともいえる。

 しかし内親王を臣下が娶ることは令制では一貫して違法であり、皇親内婚原則という建前がくずれたわけでは全くない。

 旧皇室典範44条、現皇室典範12条は、内親王が臣下に降嫁することを違法とはしていないが、皇族女子が結婚後も身位を保持するのは天皇・皇族との結婚に限定しているので、令制の皇親内婚原則を一応踏襲し整合性をもたせているとも解釈できる。

 近世においても元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来霊元院の古式復興政策により、皇女が結婚する場合は皇親が通例となった。幕末まで内親王と皇親の結婚が4方、婚約を含むと6例ある。明治皇室典範以降においても、明治41年の常宮昌子内親王が、竹田宮恒久王に嫁してから、明治天皇の皇女4方と昭和18年の昭和天皇の長女照宮成子内親王と東久邇宮盛厚王の結婚まで、内親王5方は全て皇族との結婚で、原則は皇親内婚であることは明確に意識されていた。

 しかし有識者会議①案はこの歴史的原則を無視している点で伝統破壊の案であり、皇室制度を破壊する。

 つまり令制では内親王を臣下が娶るのは違法で、反律令行為である。違法でも勅許による結婚として令制では18方だが、それはイレギュラーな事例と言いうるのである。

  なお、生涯非婚の皇女は、夭折事例除いても皇女全体の八割以上を占める。というのは、臣下に降嫁することが好ましくないという認識が一貫してあったことと、内親王には令制の規定や荘園公領制のもとでも経済基盤があり、非婚内親王のために准母皇后や女院宣下により厚遇され、南北朝~江戸時代は尼門跡という寺領経営体のトップというポストが皇女のために用意されていたためであり、非婚内親王の厚遇は歴史的伝統としてありうるが、臣下と結婚することは原則に反するということである。

   

4章 事務局調査・研究資料例示の臣下に降嫁した内親王8例は、案を正当化しない

  要旨の五で既に述べているがここでは例示6方について逐一検討するなど詳説する。

 令和31130日有識者会議で提出された事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料に「内親王・女王が皇族以外と結婚しても皇族の身分を保持することを可能とする案」(以下案と略す)を正当化するために、江戸時代以前は臣下に嫁した後も内親王は身位を保持し、あるいは臣下に嫁した後、親王宣下を蒙ったり、叙品されたりする事例を先例として例示している。以下の内親王6方である。

   

〇勤子内親王(醍醐皇女)藤原師輔に降嫁 10世紀前半

 

〇康子内親王(醍醐皇女)藤原師輔に降嫁 10世紀中葉

 

 所生子 太政大臣藤原公季、深覚

 

〇常子内親王(後水尾皇女)近衛基煕に降嫁 17世紀後半

 

 所生子 長女 近衛煕子

 甲府藩主徳川綱豊正室(のち6代将軍家宣)。家宣薨後、天英院。

 長男 近衛家煕 関白・摂政・准后

 次男 大炊御門信名 左近衛中将 

 

〇栄子内親王(霊元皇女)二条綱平に降嫁 17世紀後半

 所生子 関白二条吉忠

〇八十宮 吉子内親王(霊元皇女)徳川家継と婚約 18世紀初期

〇和宮 親子内親王(仁孝皇女)徳川家茂に降嫁 19世紀

 有識者会議報告では、①案を正当化するために臣家に嫁した内親王が結婚後も皇親たる身分を保持していた先例として、仁孝皇女和宮親子内親王の一例のみあげているが、ここでは、事務局資料の6例のすべてについて批判的に検討する。

 私の統計では前近代で一世皇女が臣下に降嫁した例では23方、内親王宣下が確認されている例では18例ある(別表参照)。

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 なお天皇の孫にあたる二世女王(親王女)の臣下への降嫁の初例は、9世紀の承和前半期淳和皇子恒世親王女の藤原衛への降嫁で、平安時代に18例が確認されている。二世女王以下の皇族女子の臣下への降嫁は世襲親王家の女王の臣下への降嫁も含めればかなりの数にのぼると言ってよい。

 

1節 反律令の違法婚が皇室の歴史と整合的であるはずがない

 

  令和31130日の事務局資料の例示は全て臣下が内親王を娶った事例であり、すでに述べたとおり、継嗣令王娶親王条で臣下が内親王を娶ることは一貫して違法であり、例示の6例は、いずれも反律令行為であり、令制が想定していない違法婚である。それが勅許されたものであっても例外である。

 違法行為をもって「皇室の歴史と整合的なもの」とする有識者会議の見解は、詭弁といえる。完全に間違っている。

 法制的に違法の結婚を「皇室の伝統と整合的」と言っているのは皇室の歴史の冒涜だと言う厳しい言い方をしてもよい。

 もっとも、二世女王以下は延暦12年詔により条件付で臣下への降嫁が合法であるが、その事例はあげていないのである。

 なお、17世紀の皇女9方(うち内親王宣下7方)の摂家への降嫁については、なぜこの時期に集中的に摂家への降嫁がみられるかという問題は注釈が必要に思える。

 室町・戦国時代の皇女は入寺得度し比丘尼御所となるのが通例で、皇女は非婚で内親王宣下もなくなった。

 江戸時代においても皇女が尼門跡となるのは通例である。例えば後水尾皇女17方のうち8方は比丘尼御所であるけれども、結婚するケースも少なくない。

 嫁ぎ先が摂家とされた理由については、久保貴子氏がコメントしており、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないかと考えられる。徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。また、一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」[久保貴子2009]とする。

 上記の見方に加え、私の考えでは五摂家が禁中並公家諸法度により、事実上、世襲親王家当主より座次、序列上位となったことが大きいと思う。

 しかし近世朝廷においては、17世紀末期に皇女の婚姻の方針が明確に転換された。元禄11年(1698)霊元皇女綾宮福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来、摂家との婚姻をやめ、原則として本来の在り方である内親王は皇族と結婚する在り方に回帰している。

 この方針の転換については霊元院の古式復興政策の一環として評価すべきである。

 霊元天皇が幕府と強く交渉して、天和3年(1683)に14世紀中葉以来の立太子礼(朝仁親王)を復活させ、貞享4年(1687)に221年ぶりに、大嘗祭(東山天皇)を復活させた。

 元禄10年(1697)有栖川宮家の幸子女王が東山天皇に入内し宝永5年(1708)皇后に立てられたが、皇親皇后は後醍醐后珣子内親王以来。だから、内親王が皇親に嫁ぐようになったのも、霊元天皇による古式復興、原則回帰の政策と軌を一にするものという理解でよいと思う。

 もっとも正徳6年(17162歳の霊元皇女八十宮が家継と婚約しているが、これは霊元法皇の幕府と関係修復を図る、あるいは政敵近衛基熙を牽制する政治的意図によるものとみられており、江戸時代においては朝廷・公家の知行充行権を幕府が掌握し、知行が幕府の麾下にある以上、幕府の要請に応えていく必要もあったという事情をふまえてみるべきである。

 和宮親子内親王については幕府再三の要請、公武一和による鎖国攘夷という政治的判断によるもので、和宮とて有栖川宮熾仁親王と縁約していたのであるから、幕末まで皇女は結婚するなら皇親という方針は一貫している。

 明治22年旧皇室典範のもとでは、明治41年の常宮昌子内親王から、明治皇女4方はすべて皇族と結婚しており、明治皇女内親王は9方おられるが、5方は夭折されており、無事に成長された方は4方だった。すべて皇族との結婚である。

 また昭和18年の昭和皇女照宮成子内親王も皇族と結婚されているので、終戦前の皇女内親王5方の結婚はすべて皇族であり、令制以来の伝統原則に沿った在り方を踏襲していた。

 したがって終戦前は、内親王は皇族と結婚するのが古来より原則というのが意識されていた。

 皇室典範は、令制と違って臣下が内親王を娶ること自体は合法化したが、終戦前は内親王が臣下に降嫁することはなかったのである。

 17世紀末期から、20世紀前半というくくりでは、内親王が天皇か皇族と結婚した例9例に対し、臣下が娶ったのは1例にすぎない。

 

 戦後は内親王が皇族と結婚せず、臣下への降嫁が通例となった状況があるが、それは通史的にみれば、例外的事象であって、今日では合法であっても異例が続いているという見方をしてよい。

 皇室典範12条は明治皇室典範44条と同趣旨のため旧皇室典範を継受しているのであるから、旧皇室典範のもとでも実態として一世皇女内親王はすべて皇族に嫁し、令制においては臣下が娶ることが違法であった伝統を意識しており、皇室典範12条も原則は、内親王については身位を失わない皇族内婚と理解できるので、戦後の在り方は異例、ただし内親王が臣下に降嫁するのは、先にも述べたとおり臣籍に降下した皇女源潔姫と藤原良房が合法とされることと同列のものとして理解することによってかろうじて伝統の範疇という見方をとることはできるといえる。

 以下、事務局の調査・研究資料例示の6例を個別にとりあげ、案を正当化できないことを説明し、総括的説明は要旨で述べた通りなので省略する

 

2節 事務局資料例示6方の検討

 

一 醍醐皇女勤子内親王

   勤子内親王は醍醐天皇の第四皇女で母は更衣源周子(嵯峨三世孫)である。醍醐天皇鍾愛の皇女で、源順に 『和名類聚抄』を編纂させた才媛であり、絵もよくした。内親王で歴史上初めて臣下に降嫁した事例である。

承平4年(934)当時蔵人頭だった藤原師輔(27歳)は、本来律令では許されない内親王の降嫁を実現するために、勤子内親王(31歳)と密通し、後から承認を受ける形を取った。内親王は承平6年叙四品、天慶元年(938)子もなく病没(35歳)した[ 岡部 明日香(2012)]。

 この密通が大目に見られた背景として、母の源周子は更衣であり、所生子は賜姓し臣籍に降下されるのが通例であったからという見方もあるが批判もある。密通当時朱雀天皇は12歳、摂政は父の忠平だった。

臣下が内親王を娶ることは違法であり、令制が想定していない婚姻であり、これを先例として案を正当化する理由にはならない。

  

二 醍醐皇女康子内親王

(一) 天気を損じた違法婚

 天暦9年の師輔(48歳)と康子内親王(37歳)の密通についてはさすがに天気を損じたと伝えられている。

結果的に村上天皇は降嫁を勅許したとはいえ、突っ込みどころ満載、評判の悪い違法婚である。

事務局は①案を正当化するためにこの事例を引用しているのは全く説得力に乏しいといわなければならない。

 康子内親王は村上天皇の同腹の姉宮で、母は太皇太后藤原穏子、承平3年(933)裳着、叙三品、承平4年叙二品、天慶9年(946)叙一品、居所は母の藤原穏子と同じ殿舎だった。藤原穏子が崩御になられたあと、天暦8年(954)准三宮宣下、后腹ゆえ最高ランク、格別尊貴な内親王であった。

師輔は康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなきに(前が汚れている)」(『大鏡』)とか

 「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『中外抄』) などと伝えられている。[保立道久 (1996) 『平安王朝』. 岩波新書]

 内親王の御前が汚れていると言ったのは師輔の兄左大臣実頼である。

 『中外抄』では、師輔はまらが大きいので、内親王を悦ばせた醜聞みたいな言い方をしているが、ただ『中外抄』は、師輔の時代より六世代たった約200年後の関白藤原忠実の口述記録なので、本当に公然周知のスキャンダルだったのかはよくわからない。『中外抄』には藤原実資が女好きだったとか裏話もあって面白いが、後世の忠実の認識を示しているだけで、同時代人のものではないので批判的にみておく必要はある。

 忠実は『殿暦』で閑院流の藤原璋子と藤原季通が密通していると記し「乱行の人」「奇怪不可思議の女御」と非難していることから性的倫理に厳格であるゆえ、摂関家中興の祖とはいえ師輔に批判的な見方をとっているともいえるからである。

 とはいえ反律令行為である以上、少なくとも12世紀においては好ましくない行為と認識されていたとはいえる。12世紀には内親王が臣下に降嫁した事例がないのである。

 そのように評判の悪い密通であるが、勅許されたというのは、師輔は外舅であり、村上天皇の皇后藤原安子の父、皇太弟時代の春宮大夫として成明親王を支え、立坊の功臣であり、大目にみられたということである。

 要するに内親王三方降嫁という違法婚は、師輔自身が好色であり、密通を繰り返してもお咎めがないのは、師輔は伯母の皇太后藤原穏子の中宮大夫でもあり、太后に取り入って娘の安子を成明親王と結婚させたように近臣であったし、村上天皇にしてもミウチ同然で師輔に甘くならざるをえず、内親王降嫁を裁可したということで、婚姻政策の政策転換とはいえない。

 ただこれが前例になって令制では違法であっても10世紀には師輔の例を含めて9方、11世紀に御一方の内親王が臣下に降嫁した事例がある。

 もつとも師輔は降嫁が勅許されてからは夫婦愛が濃やかであり、康子内親王薨後は、師輔は独身生活を通したと『大鏡』には書かれている。

 康子内親王の所生子は深覚、太政大臣藤原公季である。天徳元年(957)に公季が誕生するが、同年産褥死で薨去。

 なお、藤原公季は閑院流藤原氏(清華家の転法輪三条、西園寺、徳大寺、今出川家)の嚢祖であるが、宮中で村上天皇の皇子たちと一緒に養育されたのは康子内親王が産褥死、師輔も3年後に薨じたため、母代がなく、師輔女の皇后藤原安子が引取ったということであり、皇子たちとは膳の高さで差別化されていたという。

 

(二) 夫方居住

 

 康子内親王の未婚時代の居所は基本的に太后の藤原穏子と同殿されていたと考えられている。

延長4年(926)皇太后藤原穏子は弘徽殿に還御、7歳の康子内親王、4歳の寛明親王(朱雀)、当歳の成明親王(村上)を伴っていた。

 承平2年(932)に藤原穏子は飛香舎を居所とし、康子内親王と成明親王も同殿されていた。藤原穏子は村上朝では朱雀太上天皇の朱雀院あるいは二条院を居所としており、朱雀上皇崩後、主殿寮に遷御、さらに内裏弘徽殿に入っている。このほか麗景殿、承香御などを居所とされていた[東海林亜矢子(2004)]。

 一方、師輔は「九条殿」とか「坊城右大臣」と称されたように、九条殿や坊城第、桃園第といった邸宅があった。康子内親王は内裏に居住していた時に、師輔と密通したが、勅許され師輔の邸宅である坊城第に居住していたことは史料により確認されている。

 

 坊城右大臣歌合(伝宗尊親王筆歌合巻、類聚歌合

天暦十年八月十一日、坊城殿にきたの宮おはしますに、つきのいとおもしろきに、をとこかたをむなかた、おまへのせざいをだいにてよめる

 北宮と称されるのが康子内親王である[杉崎重遠(1954)]。

 康子内親王は坊城第で薨ぜられた(『日本紀略』天徳元年六月六日条)[栗原弘(2004)]。

 

 夫方居住であり、師輔に降嫁した以上、皇室からは離れたという見方をとってもよいと思う。ゆえに①の先例とはならない。

 

(三) 法性寺での仏事

 

 康子内親王の墓所は不明である。

 四十九日は法性寺で執り行っている(『日本紀略』天徳元年七月二二日条)

 一周忌も法性寺で行っている(『日本紀略』天徳二年六月四日)[栗原弘(2004)]。

 法性寺とは藤原忠平が興福寺でなく京都に氏寺を建てる目的で建立され、定額寺、朱雀天皇の御願寺でもあった。寺域は広大で現在の東福寺や泉涌寺のある地域を含む。

 平安時代を通じて藤原氏の氏寺として繁栄し、藤原忠通は法性寺で出家し、法性寺入道前関白太政大臣と称される。九条兼実も法性寺で出家し、後法性寺殿と称された。

 鎌倉時代九条道家が東福寺を建立したことにより、東福寺に浸食される形で縮小していくことになる。

 法性寺の歴史については、YouTubeの「日本史オンライン講座・東福寺【京都のお寺の歴史】」2022で秦野裕介氏が解説しているので参照されたい。

 法性寺では師輔の先妻、武蔵守藤原経邦女盛子(伊尹・兼通・兼家・安子の母)の一周忌のほか忠平、師輔、師尹、実頼、伊尹、頼忠、為光の四十九日が執り行われている。また村上女御藤原述子(実頼女)、村上后藤原安子(師輔女、冷泉・円融生母)、花山女御藤藤原忯子(為光女)の四十九日、また藤原安子と円融后藤原媓子(兼通女)の一周忌が行われている[栗原弘(2004)]。

 小野宮流の方々の仏事も行われていることからみて、法性寺は忠平流の氏寺と考えてよいだろう。

 なお康子内親王の仏事が法性寺で執り行われたことについては、皇族が母方ゆかりの寺で法要がなされる前例があるので、母方の氏寺で執り行われたという解釈を栗原弘氏がとっているので、仮に康子内親王が生涯非婚であったとしても、官寺である法性寺で法要がなされた蓋然性は高い。

 したがって、法性寺の法要は内親王が皇室から離れた根拠にはならないが、師輔の先妻(藤原南家出身)も法性寺で一周忌が行われている以上、夫方の氏寺で法要が行われたという見方をとってもよいように思う。

 准三宮康子内親王は勅許されたと言っても、内親王との密通は継嗣令王娶親王条に反する反律令行為であり、天気を損じたのは史実とみてよい。令制が想定していない婚姻であるから、この先例をもって有識者会議案は正当化できないし、「皇室の歴史と整合的」と強弁している有識者会議は噴飯ものである。違法行為に準拠してそれが伝統だとはいえないからである。

 有識者会議①案はさしあたり、女性皇族の配偶者と所生子は皇族とはならないが、将来的には皇族とすることも検討するというものである。

 しかし所生の藤原公季は父系帰属主義で当然藤原氏であり皇族となることは絶対ない。

 有識者会議案のモデルと考えられるアン王女はセント・ジェームズ宮殿や、女王が結婚祝いとして購入したコッツウェルズのマナーハウスを邸宅とされ、王室側で用意されているが、康子内親王は師輔の邸宅である坊城第の夫方居住であり、明らかに臣下に降嫁したのであって、核家族を基本とする英国の生活実態も異なるゆえ、案のモデルたりえない。

 

三 霊元皇女品宮(級宮)常子内親王

 

 品宮(級宮)常子内親王とは、後水尾院の第15皇女で、母は新広義門院(新中納言局・典侍園国子)、霊元御生母、国母である。

 寛文4年(166423歳の時、6歳年下の大納言近衛基煕に降嫁した。所生子は甲府藩主徳川綱豊(のち将軍家宣)に嫁した煕子(天英院)、関白准后近衛家煕、大炊御門信名である。

 なお品宮の内親王宣下は正規のものではない。結婚に先立って親王宣下されるケースが多いが、品宮の場合は結婚後かなりたった延宝5年(1677)に諱が常子と定まったことにより、公認された。以降常子内親王と署名されているということだが、諱が定められたなら内親王であるといってよい。

 後水尾院は皇子が19方、皇女が17方もおられたが、なかでも鍾愛された皇女とされている。夭折された方をのぞくと皇女は14方、うち8方は比丘尼御所(尼門跡)である。在俗で生涯非婚が御二方、明正女帝と、女三宮昭子内親王(岩倉御所)、摂家に降嫁されたのが4方で、梅宮文智女王が鷹司教平に降嫁したが離縁し円照寺の開基となった。

 女二宮は近衛尚嗣に降嫁し、女五宮賀子内親王が二条光平に降嫁し、もう一方が品宮である

 皇女のなかでも中宮源和子(将軍秀忠女・東福門院)所生の女二宮と女五宮賀子内親王は厚遇された、婚姻に際して幕府より三千石が献上されている。

 しかし久保貴子[2009]によれば、これは秀忠の孫娘で将軍家縁者のためであって、17世紀において皇女御領(化粧領)はなかったとされている。従って皇女に知行が充行われてないとするならば、基本は室町時代と同じように、入寺得度し尼門跡となるのが皇女のあり方といえる。

 皇女御料は原則なかったというのは、皇女は、入寺し、結婚するのが十代前半が通例だったこともある。

 後水尾皇女梅宮(女一宮・母は典侍四辻公遠女与津子)は13歳で鷹司教平に降嫁したが数年後に離縁、その後剃髪し、法諱を文智という。寛文7年に仙洞御所で徳川家光17回忌追善の観音懺法が行われ、文智が導師を勤めたことをきっかけにして、東福門院が文智の円照寺のために幕府に寺領寄進を依頼したため、寛文8年に家綱からやっと寺領200石の朱印状が発せられたのだという[久保貴子(2008)]。それまでは冷遇されていたといってよいからである。

 第八皇女の緋宮(後西天皇皇姉、母は勾当内侍・御匣殿、櫛笥隆子)は、院参町に緋宮御殿が建設されているが、後水尾法皇崩後に落飾、法皇旧御料から300石が緋宮に贈られ、これが御宮室林丘寺の寺領となった[久保貴子(2008)]。

 つまりそれまで、皇女御料はなかったと考えられるのである。

 
 (一)品宮の財産と相続(近衛家熈が相続)

  品宮の場合も、新中納言局と称される園国子が母であるから、東福門院所生の皇女とは違って特別の御料は充行われてなかった。

ただし独身時代から、法皇より院参町に品宮御殿が与えられていた。万治4年(1661)大火の後、寛文4年に中筋の法皇別邸の隣に御殿が建てられ、なぜかその半年後に結婚している[久保貴子2008]

 また岩倉の山を法皇より賜っていた。法皇は人に物を与えるのが好きで、近衛家の寝殿の修復、茶室と物見の格子の構築は法皇の出費であり、近衛邸への御幸は105回に及ぶ[瀬川淑子(2001]。岩倉の山と地続きの幡枝の山荘も近衛家に下賜されている。

 また品宮は、紫竹の別邸を購入するため、法皇に無心し、法皇は銀子五百枚を支出している[久保貴子2008]

 さらに常子内親王は、父の後水尾院崩御の際、遺言により修学院村300石の知行が与えられていた。これは、後水尾院が崩御によって幕府に返却する知行3000石の一部ということであり、幕府が認め所司代より報知されたもので、これは内親王薨去により幕府に返却されたとみられている[瀬川淑子(2001]。近世の皇室、宮家、門跡、公家の家領については、中世とは違って徳川幕府が知行充行権を掌握していたので、幕府の麾下にある近世領主であった。したがってこの処分は皇室領の一期相続とは性質が違うものと理解している。

 延宝5年に常子内親王は門跡宮方の深草の知行の監督、後水尾院より宰領を命じられていた。新広義門院(霊元生母園国子)が預かっていたものの経営をまかせられた[瀬川淑子(2001]

 門跡領も広義には皇室領ともいえるので、皇室の所領経営を代務していたことになり、当然この知行から収入も得ていたと考えられる。それは臣下に降嫁しても内親王という身位ゆえんといえるかもしれない。

 しかしながら瀬川淑子氏によれば、品宮御殿や岩倉の山といった品宮の財産は嫡子の近衛家煕が相続し、これらは近衛家領だとしている。

 以上の考察から、品宮常子内親王の事例は、有識者会議案の前例にはならないと考える。品宮の財産は嫡子が相続しており、それゆえ婚家に帰属しているといえる。

 有識者会議案は、女性皇族に皇室に残ってもらうのは、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員その他の公務の担い手となる皇族がいなくからである。当然国家的給付、皇族費が給付されるとみる。しかし、品宮は国家的給付に相当する皇女御料を得ていないのである。

 後水尾法皇より賜った財産があり、遺詔より300石の知行を幕府が認めたとはいえ、それは内親王固有の給付でない。娘の煕子が徳川家宣の正室であるため、徳川家からの送金等もあって、近衛家は経済的余裕があったとみられるが、皇女固有の設定された知行はない。

 結婚した皇女内親王を皇室に残すという有識者会議案とは実態として隔たりがある。

 

(二) 夫方居住

 

 江戸幕府京都大工頭の中井家伝来の図面によると、寛永13年(1636)後水尾皇女の女二宮が、近衛尚嗣に降嫁の際、今出川の近衛家本邸に「奥方御殿(女二宮御殿)」が造営整備された[藤田勝也(2012)]。

 正保2年(1645)に後水尾第五皇女の賀子内親王は二条光平に降嫁し、当時新在家町の二条家本邸敷地内に邸宅があり、ここが万治4年(1661)大火の火元だった。二条光平本邸は今出川通の北に移転し、敷地の東半が「女五宮御殿」だったことが当時の指図でわかっている[藤田勝也(2009)]。

 寛文10年(16704月二条家賀子内親王の御殿に、実の父母である後水尾院と東福門院(徳川秀忠女源和子)の両院と、同母姉である明正上皇の御幸があり、御馳走と狂言尽くしが準備された。[瀬川淑子(200155頁]これは天皇家の方々を二条家に嫁した女五宮が饗応したという理解でよいわけである。賀子内親王は外祖父が徳川秀忠であるから経済的に恵まれており、大きな御殿が建てられたが、二条家の敷地内である以上夫方居住は明白である。

 ところが、品宮の場合は、事情が異なる。基煕の時代、近衛家には今出川邸(1585年~陽明亭、東亭、現京都御苑北西)という本邸と、旧本宅である桜御所(1483年~旧御霊殿、現同志社大学新町キャンパス)があった。

 瀬川氏によれば寛文4年(1664)結婚当初は別居だった。品宮は公家町の中筋にある品宮御殿、基煕は桜御所(旧本宅)に居住していた。寛文6年(1666)に新宅の陽明殿(今出川の本邸とみられる)で同居したと述べている。しかし、これについて上代の妻問婚を想定するのは間違っている。

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 皇別摂家の近衛家は17世紀に三代にわたって皇女、内親王の降嫁があった。寛永13年(1636)女二宮が、近衛家本邸に「奥方御殿」が造営されたのだから、品宮も近衛家本邸が居所とされて当然だからである。

 万治4年(1661)正月の大火で内裏、仙洞御所、女院御所、多くの公家屋敷が焼亡したが、近衛家本邸は類焼を免れた。火元は新在家(内裏の南)二条家に降嫁した賀子内親王邸であった。

 後西天皇は白川の照高院に臨幸、仮内裏は近衛家本邸とされ、2月内侍所仮殿上棟により移徒された。寛文3年正月に近衛邸仮内裏において譲位、新帝は新内裏で受禅、霊元天皇である。

 寛文48月後西上皇は新造の仙洞御所へ移徒されるまで、近衛邸は後西上皇の仮御所だったと考えられる。

 その間、近衛家当主の基煕は別邸の桜御所を居所としたのだろう。同年11月に品宮が結婚したのだが、なんらかの事情で本邸に居住するには再整備が必要であったのだろう。品宮が結婚した寛文4年ころの日記がないため、なぜ結婚初期、別居という変則的なことになったのか詳細が不明なのである。

 結婚のタイミングは、後西上皇の移徒とみられる。品宮も23歳で、姉宮3方の摂家への降嫁が1214歳であることから、当時の婚姻年齢としてはかなり遅いため結婚を急いだのが意外と真相かもしれない。

 品宮は結婚当初、後水尾法皇の御所で夜遅くまで過ごすことが多く、数年たっても変わりなかったという。この点、瀬川氏は妻としての自覚に乏しかったと批判的である。後水尾院の近衛邸の御幸は105回と頻繁にあり、常子内親王は後水尾院の文化サロンのメンバーであり、修学院離宮への御幸にもお供されており、結婚後も宮廷社交中心の自由な生活をされていた。

 後水尾法皇を中心とする遊興・文芸活動の拠点は、仙洞御所、長谷・岩倉・幡枝の山荘だったが、品宮の結婚時、後水尾法皇は69歳と高齢で、法皇は長命であったが、晩年は文芸というより遊興活動が中心になり、場所も公家町にある皇子女の邸宅になった。宮門跡や御宮室(尼門跡)は公家町に里坊(別宅)を持っており、室内の遊興の場となっていた。後水尾法皇は近衛邸だけでなく、こうした皇子女の邸宅に頻繁に御幸されていたのである。

 そのような意味では、常子内親王は宮廷社交にたけており、結婚した後は夫に従い里帰りは、暮れの挨拶、正月、盆などの慣例に限定される一般のしきたりとは違ったかなり自由な結婚生活であったとはいえる。

 とはいえ、いずれにせよ、品宮の居所は寛文6年(1666)以降近衛家本邸である。夫方居住である。

 

(三) 嫁取婚(嫁入婚)である

 

 天和3年(1683)家煕と霊元皇女の憲子内親王(女一宮)との婚儀は母の品宮常子内親王が日記に詳しく記されている。「御里の御所へまず中務卿を先に参らす‥‥‥女一宮ねもじ(練絹の白)、色直しの時大納言より紅梅に改めらるる」とあり、基煕の日記にも、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している[瀬川淑子(2001)]。明らかに嫁迎え、嫁入婚の儀礼である。御所を御里と言っていること。白無垢・色直しは現代の婚礼・披露宴においても、嫁入婚の和装花嫁衣装の定番である習俗と同じである。

 

〇 白無垢・色直しについて

 

 嫁入は、古くは嫁取(よめどり)と言い、嫁入婚の成立儀礼を「嫁娶」とよんでいるように、儀礼の基本は、嫁を夫家に迎い入れる「嫁迎え」にあった。[江守五夫1986 294]つまり、出嫁女の婚家帰属が嫁入婚であるが、端的に「白無垢・色直し」だけを切り取ってもその意味が込められていると言ってよいのである。

 色直しは本来、嫁迎えから三日目に行われ、その後、嫁が舅姑、親族と対面披露されたが、明治以降では祝言の盃が済むとすぐに色直しの儀式を行うようになり、大きな披露宴では主要な儀式となった。

 歴史人類学者の江守五夫によれば「白無垢が死装束であって、花嫁が生家を出るときにいったん死ぬとみなされ、また、婚家に入ってから、赤色の衣装に色直しすることが再生をあらわしているということは、日本各地の人々が語っている」とする[江守五夫1993 51頁]。

 徳島県立博物館によれば、 花嫁行列は日が沈んで提灯を携える。 花嫁の出立時には生家の門で藁火をたき、花嫁が使用していた茶碗を割った。「県内の花嫁行列に見られるこれらの習俗は、葬送の際、死者を送り出す所作と非常に類似しています。‥‥死者と同様にあつかうことで、花嫁に象徴的な死を与え、生まれ変わることを指し示したものだと考えられます‥‥角隠し、白無垢の花嫁衣装の特徴は、死者に着せる死装束、または、葬送に参列する人々の服装に類似します。死者の装束は一般に白色とされ、額には三角形の白布の宝冠が被せられます。‥かつては喪服が黒色でなく白色であったと言い伝えも耳にします」[徳島県立博物館2001]。

 色直しについて「婚礼には披露宴の際、花嫁が白無垢から色打掛などに着替える色直しと言う習俗が見られます。色直しには、白無垢によって死の状態にあるとされる花嫁が、色のついた衣装に着替えることによって、 あらたに嫁いだ家の人間として生まれ変わったことを示す」[徳島県立博物館2001]と説明している。

 また小笠原流の伝書においても「嫁入りは惣別死にたるもののまねをするなり。さて輿もしとみよりよせ白物を着せて出すなり。さて輿出て候えば門火など焼くこと肝要なり。ことごとく皆かえらぬ事を本とつかまつり候」[小笠原敬承斎2010]とあり、白無垢=死装束の模倣との見解を裏付けしている。

 しかし伊勢流有職故実研究家伊勢貞丈の見解では、白無垢の白色は五色の大本であるためとし死装束であるとは言ってない。ただ通俗的によくいわれるのは「白無垢」は婚家の家風にしたがい何色にでも染まりますとの意味を込めたものとされているから、実質的な意味に大きな差はないと考える。

 白無垢-色直しは出嫁女の婚家帰属性を表徴するものと理解して問題ないと考える。

 なお教会挙式でもヴァージンロードはゲルマン法の嫁の引き渡しであって、父から夫へムント権(保護権・庇護権)を譲り渡す儀式を簡略化したものであるから、生家から婚家へ移ることを意味するものといってよいのである。

  17世紀の摂家への降嫁は常子内親王に限らず、憲子内親王と同様のものであったと考えられる。婚礼は嫁入婚を示している。婚入配偶者は婚家に帰属するのである。

 婚家に帰属する婚入配偶者であれ、生家とかかわりをもつことはありうるとはいえ、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員のような重要な公務を一般国民の婚家に帰属する方がなさるというのはかなりの違和感がある。ゆえに、常子内親王を含め17世紀の摂家への降嫁例を前例として、有識者会議案を正当化できない。

  

(四) 墓所

  品宮常子内親王は大徳寺の近衛家廟所に墓所がある。近衛尚嗣に降嫁した後水尾皇女女二宮は東福寺海蔵院にある。近衛前久と信尹の墓があったが大徳寺に改葬されている。なぜ女二宮が改葬されていないか不明だが、近衛家の墓所があったところである。

 近衛家煕に降嫁した霊元皇女憲子内親王墓所は、ネットで調べたところ、大徳寺総見院、西王寺、長泉寺、清浄華院と4か所出てくるが、義母で叔母にもあたる常子内親王と同じく大徳寺がメインなのだろう。

 二条光平に降嫁した賀子内親王は、二条家の墓所嵯峨二尊院。二尊院に賀子内親王邸の御化粧之間が元禄年間に移築され、非公開だが茶室として現存する。

 なお、東福門院(明正生母、中宮源和子)は後水尾や明正と同じく泉涌寺月輪陵、在俗で生涯非婚だった後水尾皇女昭子内親王は、岩倉御所と称されるが、東福門院ゆかりの南禅寺境外塔頭の光雲寺が墓所である。

 なお後光明皇女で嫡流の皇女として一品、女院宣下で厚遇された孝子内親王は生涯非婚だったが、文明年間に後土御門天皇が伏見に建立し戦国時代に泉涌寺と並んで御寺とされていた般舟院陵(後花園、後土御門、後奈良の分骨所でもあり、秀吉の伏見築城により西陣に移転した)、幕末に桂宮を相続した非婚内親王の淑子内親王の墓所は泉涌寺である。

 したがって非婚内親王は皇室ゆかりの御寺かもしくは母后ゆかりの寺だが、摂家に降嫁した内親王は、近衛家なら東福寺海蔵院や大徳寺、鷹司家や二条家は二尊院、九条家は東福寺と婚家の墓所に葬られているのは婚家の嫡妻ゆえであり、生家を離れていると解釈してよいのである。

 また江戸時代、摂家に降嫁した内親王の墓所は宮内庁治定陵墓のリストにはない。非婚内親王の昭子内親王や孝子内親王の墓所はリストにあり宮内庁が管理している。

 宮内庁治定陵墓ではないということは端的に天皇家からは離れているとみなしてよい。

 

四 霊元皇女栄子内親王

 霊元院の第三皇女で、母は新上西門院藤原房子(左大臣鷹司教平女)、貞享3年(1686年)二条綱平への降嫁に先立って内親王宣下されており、寛保3年(1743)という晩年に二品に叙されているが、品位は生母の尊貴性と関連する面があり、生母が摂家の女である以上、栄子内親王の二品叙位はある意味当然のものといえるだろう。墓所は二尊院である。

 所生子は関白二条吉忠。

 すでに述べたとおり、17世紀の皇女は国家的給付にあたる皇女御料はなかったと考えられているが、二条家の敷地の東半は二条光平に降嫁し綱平の養母でもある賀子内親王の御殿だったこと、賀子内親王の母が東福門院で徳川家の縁者のため経済的には恵まれていたこと。賀子内親王所生の女は甲府藩主徳川綱重に嫁す姻戚関係もあった。そうした経緯で二条家には、二代続けて内親王が降嫁したと考えられる。

 摂家の正室たる立場、夫方居住、墓所も婚家の廟所であり、宮内庁治定陵墓ではない。皇室からは離れたとみてよいだろう。

 

五 霊元皇女八十宮吉子内親王

 

 霊元院の第十三皇女八十宮(母は右衛門佐局)は2歳で徳川家継と縁約した。この縁談は幕府の要請に応じたもので、霊元法皇は幕府との関係修復を意図、あるいは大奥の家継生母月光院と家宣正室の天英院(近衛基煕女)の対立に乗じて、政敵である親幕派の近衛基煕に楔を打ち込む狙いもあるとも言われる。

 しかし正徳6年(1716)納采の儀の2カ月後に家継が8歳で夭折し、八十宮は関東に下向していない。

 とはいえ事務局資料では後家として処遇されているので婚姻事例としている。享保11年(1726)内親王宣下で諱は吉子。婚家である将軍家のメンツもあり内親王宣下はある意味当然だろう。

 なるほど幕府より500石の道具料が進献され、御殿が建てられて、さらに毎年銀200両[久保貴子. (2002)]の待遇は、徳川家正室としての処遇といえるし、浄琳院も将軍正室としての法号であり、墓所も徳川家の拠点である知恩院である。

 ただし、宮内庁治定陵墓で宮内庁が管理している。しかし御寺の泉涌寺や般舟院ではない以上、皇室から離れたとみなしてよいと思う。

 私がとった統計では八十宮は婚姻事例としてカウントしてない。納采の儀までで、実際の結婚生活には至っていないのであるから、生涯非婚と分類しても問題ないだろう。

六 仁孝皇女和宮親子内親王

 

 仁孝皇女和宮は嘉永6年(18516歳で有栖川宮熾仁親王と婚約しておられたが、幕府は万延元年(1860)朝幕間の緊張緩和、公武一和を目的として、和宮の将軍家茂への降嫁を奏請することを決し、朝廷は孝明天皇のご希望でもある鎖国攘夷の措置を講ずればこの要請を拒否しないこととなり、内親王宣下は文久元年(18614月、同年10月に桂宮邸を出立、1115日江戸到着、文久2年(1862211日婚儀をあげられた。きわめて政治的な駆け引きの色濃い結婚である。

 家茂養母の天璋院との対面で、姑の天璋院が上座で、和宮は下座であったことが報告され孝明天皇が憤慨したという。

 将軍家定の正室である天璋院は、篤姫と称され、実は島津忠剛女、島津斉彬養女、のちに近衛忠煕養女。徳川家に嫁した以上は盛衰ともに徳川家に従う覚悟を示した女性で、和宮とは仲が悪く、「御風違い」で反目があったことはドラマにも描かれよく知られている。

 慶応2年(1866)家茂薨後、薙髪し静寛院と称される。法号は天皇が選んでいるが将軍正室としての法号である。静寛院宮は江戸にとどまることが徳川家のため天下万民のためであれば、上洛は望まないとのお考えだった。

 静寛院宮は将軍慶喜に対し、攘夷の継続遵守と、邦人の洋風模倣を禁止するよう求めたが、返事がなく、攘夷の叡慮は全く無視されたので、江戸にとどまる意味を失っただけでなく、婚家が天皇の名をもって討伐を受ける最悪の事態となった。

 慶応4年(1868)静寛院宮は慶喜と天璋院の懇請により、嘆願書の周旋を依頼された。

 226日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている。3月には帰順した者の宥免を求め、大総督府はこれを承諾することになった。

 その後明治2年~7年まで京都に帰住され、7年より東京麻布市兵衛町を居邸とされたが、明治10年脚気の発病により湯治のため滞在された箱根塔ノ沢の旅館で薨去、洋行中の徳川家達の留守居、松平確堂を喪主として葬儀が行われ、ご遺骸は生前のご希望により、芝増上寺の夫君家茂と相並んで葬られた[武部敏夫(1987)]。

 以上のことから、和宮(静寛院宮親子内親王)は夫方居住で、婚家徳川氏の家名存続と慶喜の寛大処分のために尽力、徳川氏の存亡に従う決心すら示された。婚家徳川氏の成員としてふるまっている。徳川家で葬儀がなされ、菩提寺増上寺が墓所であること。墓所は宮内庁治定陵墓のリストにはない。内親王とはいえ徳川家に婚入した正室であるから皇室とは離れた存在とみなしてよい。

 そもそも令制で臣下が内親王を娶ることは違法であり、このような結婚は令制が想定していない。違法だが、政治的に特殊な事情から勅許された結婚であった以上、イレギュラーなケースなのであり、和宮などの先例によって①案は「皇室の歴史と整合的なもの」という有識者会議の見解は間違っている。

 有識者会議の①案は、皇族女子に、摂政や国事行為臨時代行などを担っていただくために皇室に残ってもらう案であるから、皇族費の給付が想定され、居邸も夫方の私邸でなく宮家の当主のように皇室財産の居邸が用意されることが想定されることを考えると、和宮のケースを①案を正当化する先例とするにはかなりの違和感がある。

 以上有識者会議令和31130日事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料に臣家に嫁した皇女内親王が、内親王の身位を維持、もしくは婚嫁した後に内親王宣下、叙品がなされている例として例示された6例について検討し、①案の前例としては不適切な事例であることを示した。総括は冒頭の要旨に示したとおりである。

 

5章 代替案

 

 有識者会議①案はきわめて悪質で、明確に破棄されるべきである。

 

 しかし念のため、女系容認勢力が①案を推してくると思うので譲歩案も示す。

 皇族の員数を確保する目的で、女子皇族を皇族に留まらせる代替案として、生涯非婚を選択した女性皇族に限定して特旨により独立した居邸、家政機関を付置、独立生計として厚遇することとする。生涯非婚であることに限定した「女性宮家」のイメージである。

 たとえば嫡系内親王を念頭において准三宮として厚遇する制度とする。准三宮は三后に准じた待遇の身位の意味だが、前関白や、摂関家出身の宮門跡など准三宮宣下をうけており、皇族だけのものではないので、皇位継承権は付与しない。宮家当主の親王と同格かそれ以上の経済的待遇とする。目的は、有識者会議のいうとおり、皇族減少期に、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員その他を担っていただくことだけである。減少期だけの特例とする。

 鎌倉時代末期は、親王より准后が上位であったが、天正15年(1587)の座次相論による関白秀吉の裁定では親王と准后は同格とされており[谷口研語, 1994] [神田裕理, 2019]。この考え方を踏襲する。

 一方、眞子内親王殿下のように一般国民に婚出を希望される女性皇族の婚姻の自由のためにも、皇室典範12条にはいっさい手をつけず、一時金の引上げなど厚遇してよいと考える。

 そうすれば①案のように、皇室典範12条を粉砕して、性的役割分担を流動化させる懸念はないし、非婚で皇室に残ってもよい女性皇族も厚遇され、婚出を希望される女性皇族も厚遇し双方にとって①案よりも有益である。

 要するに、皇室典範12条改正を阻止することに眼目があり、それさえやらなければ「女性宮家」もありというのが私の意見。もちろん、③案もしくは②案が順調に進捗するならそれも必要はないということになる。

  

 

[i] ただし皇子でありながら臣籍降下した初例は光仁皇子広根朝臣諸勝で、次いで桓武皇子の長岡朝臣岡成と良峯朝臣安世であるが、母はいずれも女嬬(堂上の掃除、灯油等の雑仕)だった。

[ii] つまり律令制の考課選叙方式は、9世紀前半に六位以下の位階形骸化と五位以上成選制(勤務評定)が放棄されたことにより崩壊、承和期に巡爵と年労叙爵が成立し、9世紀末から10世紀初頭頃までには、受領など一部の官職以外は基本的に官職の年労や恩寵によって任官される、新しい平安時代的任官システムが確立するが[尾上陽介(2001)]、「非年労制的」昇級の機会としては院宮などの御給があり、10世紀以降、行事に伴う勧賞という昇級の機会もあったので、勧賞を獲得した家が昇進のうえで優越することになる。

[iii] ◎フランスの男系継承について

フランス王権はユーグ・カペーの989年の即位から、男系継承で、復古王政ブルボン朝最後のフランス王シャルル10世(在位182430)まで一貫している。七月王政のルイ・フィリップ(在位183048)も傍系のオルレアン家、カペーの系譜につながっている [福井憲彦, 2019]

 フランス王権は単婚婚姻非解消主義の文化圏でありながら、男系継承でもざっと千年、王位継承者が枯渇することはなかったのである。

 カペー朝は直系男子に恵まれ、15341年続き、カペー朝の奇跡といわれる。

続くヴァロア朝は傍系の男系男子で、1374年シャルル5世のヴァンセンヌ勅令で男系継承の王位継承法を成文化した。これはゲルマン部族法典のサリカ法典で「ただ土地に関しては、いかなる相続財産も女に帰属するべきではなく、全ての土地は兄弟たる男なる性に帰属すべし」を法源としている [佐藤賢一, 2014]

ヴァロア朝はアンリ3世で途絶したため、1589年に末流のブルボン公家の分家でヴァンドーム伯家(後に公家)のアンリ4世が即位したが、十代遡ってカペー朝に繋がる傍系である。当時の人々はヴァロア朝が絶えた時は、ブルボン公家が王位に就くときちんと認識していたため混乱することはなかった。

1979年にスウェーデン、1990年にノルウェー、1991年ベルギーなど性別にかかわらず長子相続制をとるようになった。近年ではルクセンブルグは2010年[山田敏之. (2017)]、2013年に英国がそうなった。欧州では男系男子長子相続(サリカ法典)を墨守しているのはリヒテンシュタインしかないといわれる。

[iv] 我が国の良妻賢母教育は、女子差別撤廃条約批准を梃とした家庭科共修や1986年の雇用機会均等法の頃からすたれ、婦人道徳の教育が否定される傾向にあるが、筆者は家父長制家族を破棄して私有財産制を止揚する、マルクス主義の影響、イデオロギー的偏向と考えて、婦人道徳の否定は悪しき傾向と考えるものである。)

[v] この点については東洋法制史の滋賀秀三[(1967459頁以下註16])によると女性は父の宗との帰属関係を有さない。父を祭る資格を有さないのである。女性は婚姻によってはじめて宗への帰属関係を取得する。夫婦一体の原則にもとづき、夫の宗の宗廟に事える義務を有し、死後、夫婦同一の墳墓に合葬され、考妣対照の二牌つまり夫婦で一組の位牌がつくられ、妻は夫と並んで夫の子孫の祭を享けるが、女性は実家において祭られる資格を有さず、未婚の女の屍は家墳に埋葬されず他所に埋める。つまり女性は生まれながらにして他宗に帰すべく、かつそれによってのみ人生の完結を見るべく定められた存在であった。白虎通に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」。「婚礼の挙行によって女性は確定的に夫宗〔夫の宗族〕の秩序に組み込まれる」。漢族の妻は夫の宗族に帰属する。韓国の門中も同じことである。

 だから、儒教規範で徹底している社会(例えば韓国農村)において、女性にとって最大の幸福とは、死後亡夫と並んで一組の位牌がつくられ夫の子孫によって祭を享けることにあるのだ したがって、妻の異族的性格や自然血統的家族観を強調する論理は誤りである。日本であれ、韓国であれ、満州族であれ、漢族であれ出嫁女の婚家帰属性は同じことである。

[vi] 明治民法の起草委員は帝国大学法科大学教授の穂積陳重、梅謙次郎、富井政章であったが、梅謙次郎は逆縁婚(生存する妻が死亡した夫の兄弟と再婚する)の取り扱いなどで士族家族慣行の採用を却下し、民法を庶民の家族慣習に合致させることを強調した。

 夫婦同氏についても強く推進したのも梅謙次郎である。穂積陳重・富井政章も異論はなく、世間の実態を追認したものともいえる。梅謙次郎は法典調査会で次のように夫婦同氏を強調した。「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信シラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ」。『人事慣例全集』58[江守五夫1990  57]

 

[vii] 明治9年太政官指令「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」は社会生活の実態とまったく乖離しており、事実上実効性がなかったと考えられる。それは夫婦の別氏を称することの不便さが各府県の多くの伺文で取り上げられていることでも明らかである。役所が公文書に生家姓を強いることも困難な実態にあり、事実上明治民法に先行して夫婦同氏が普及し慣行となっていたことが看取することができる。代表的な伺文を引用する。

 

〇明治22年12月27日宮城県伺

「婦女嫁スルモ仍ホ生家ノ氏ヲ用フベキ旨曽テ石川県伺御指令モ有之候処嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方一般ニ慣行ニシテ財産其他公私ノ取扱上ニ於テモ大ニ便益ヲ覚候ニ付嫁家戸主トナル者ノ外ト雖モ必ズシモ生家ノ氏ヲ称セサルモ便宜ニ任セ嫁家ノ氏ヲ称スルハ不苦義ニ候哉」

 

〇明治23年5月2日東京府伺

「婦人結婚ヲ為シタル後ト雖夫ノ氏ヲ称セス其生家ノ氏ヲ称用スル事ニ付イテハ明治九年四月石川県伺ニ対シ内務卿御指令ノ趣モ有之候得共凡ソ民間普通ノ慣例ニ依レハ婦ハ夫ノ氏ヲ称シ其生家ノ氏ヲ称用スル者ハ極メテ僅々二有之然ルニ右御指令之レアルカ為メ公文上ニ限リ強イテ生家ノ氏ヲ称用セシメサルヲ得スシテ習慣ニ反シ往々苦情モ相聞実際ノ取扱上ニ於テモ錯誤ヲ生シ易キ義ニ付夫家ノ氏ヲ称セシムル方事実適当ナルノミナラス既ニ民法人事編草案第三十六条ニモ婦ハ夫ノ氏ヲ称用云々ト有之法理ニ於テモ然ルヘキ義ト相信シ候ニ付自今夫家ノ氏ヲ称用セシメ候様致度」[廣瀬隆司1985

 

[viii] 皇親と臣下とは明確に区別する考え方は先に、以下の夫婦別姓の明治9年太政官指令にみられる。 

 太政官政府法制局の見解は次のとおりである。

 「内務省伺嫁姓氏ノ儀審案候処婦女人ニ嫁シタル者夫家ノ苗字ヲ称スルコト不可ナル者三ツアリ

第一 妻ハ夫ノ身分ニ従フヲ以テ夫ノ姓ヲ冒サシムヘシト云ハ是ハ姓氏ト身分ヲ混同スルナリ

第二 皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ皇后ヲ皇族部中ニ入ルゝハ王氏タルヲ以テノ故ニアラスシテ皇后タルヲ以テナリ

第三 今ニシテ俄カニ妻ハ夫ノ姓ニ従フトスレハ歴史ノ沿革実ニ小事ニアラス例ヘハ何々天皇ハ何々天皇ノ第幾子母ハ皇后〔王〕氏ト署セントスル歟 

 帰スル処今別二此制ヲ立テント欲スルヲ以テ一ノ大困難ヲ醸スナリ右等ハ都テ慣法ニ従ヒ別ニ制ヲ設ケサル方可然歟因テ御指令案左ニ仰高裁候也 」[山中永之佑1976、廣瀬隆司1985、近藤佳代子2015]。

[ix] 永享6年(1434)妙法院新宮明仁法親王が逐電。これは足利義教の公家・僧中の粛正の一環である[稲葉伸道2019]。また明治初年に中川宮朝彦親王が陰謀を企てたとして親王位を剥奪された例がある

[x] 註3と同じ

[xi] もっとも江守五夫[1990]は「子持たずの若嫁の帰葬」を論じている。新潟県岩船郡・西頸城郡・青森県三戸郡田子町・秋田県鹿角市、仙北地方に「子持たずの若嫁の帰葬」の習俗があるとしている。これは子どもができないで若死にした場合、特に不正常死した若嫁の遺骸や遺骨を生家が引き取るというならわしがある。しかしながら、こうしたローカルな習俗から、出嫁女の婚家帰属性という我が国の慣習を否定するほどの論理性はない。東アジアに共通していえることだが、例えば足入れ婚のように、初生子を出産するまでの、嫁の地位が不安定であるということは指摘されている。しかし、今日足入れ婚の悲劇はきかなくなったし法律婚が定着している以上この問題を論ずる必要はないだろう。

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小川剛生 (2009) 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社

小川剛生(2012)『足利義満』中公新書

小川剛生 (2017) 『中世和歌史の研究』 塙書房

小川剛生 (2020) 『徒然草をよみなおす』 ちくまブリマー新書

小川剛生 (2020) 『二条良基 (人物叢書) 吉川弘文館

小野則秋 (1944) 『日本文庫史研究 上巻』 京都・大雅堂

奥村佳紀(1971)「新羅人の来般について」駒沢史学 (18)★

尾上陽介(2001)「年官制度の本質」史観 145★

折井美耶子(2003)「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636

河西秀哉 (2008) 「象徴天皇制・天皇像の定着 ミッチー・ブームの前提と歴史的意義」 同時代史研究(1

河西秀哉(2018)『天皇制と民主主義の昭和史』人文書院金井静香 (1999) 『中世公家領の研究』 思文閣出版

上村正裕 (2018) 「しりへの政と皇后八・九世紀を中心に」 日本歴史 (844)

蒲生正男(1968)「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 

蒲生正男(1970)「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970

蒲生正男(1974a)「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

蒲生正男(1974b)「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3

蒲生正男(1975)「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3

神谷正昌 (2020) 『清和天皇』 吉川弘文館

川上多助(1982)『平安朝史学』上 初版1930 国書刊行会

川崎晃 (2004) 「聖武天皇の出家・受戒をめぐる憶説」三田古代史研究会『政治と宗教の古代史』 慶応義塾大学出版会

河村政久史 (1973) 「昌子内親王の入内と立后をめぐって」 史叢(7

神田裕理 (2019) 『朝廷の戦国時代-武家と公家の駆け引き』 吉川弘文館

岸俊男 (1957) 「光明立后の史的意義」 ヒストリア(20

岸俊男 (1969) 『藤原仲麻呂』 吉川弘文館

北啓太 (2016) 「禁裏文庫と近衛家」田島公編『近衛家名宝からたどる宮廷文化史』 笠間書院

北西鶴太郎 「大鏡の文藝性序説 : その 1 主題に就いて」文芸と思想  (3)

北野隆(1979)「近世公家住宅における数寄屋風書院について : その 2 摂家住宅について」日本建築学会論文報告集 275(0)

木原弘美 (1995) 「 絵巻の往き来に見る室町時代の公家社会その構造と文化の形成過程について―  佛教大學大學院紀要 23 

木本好信 (2004、初出2002) 『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう

官文娜(2005)『日中親族構造の比較研究』思文閣出版

久保貴子 (1998) 『近世の朝廷運営 - 朝幕関係の展開』 岩田書院

久保貴子 (2002) 「江戸時代-武家社会のはざまに生きた皇女」服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』 小学館

久保貴子(2008)『後水尾天皇』ミネルヴァ書房

久保貴子(2009) 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち)」 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2

金宅圭(2000)『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会

熊谷開作(1963)『歴史のなかの家族』酒井書店

熊谷開作(1987)『日本の近代化と「家」制度』法律文化社

倉本一宏(2001)「内府悦気有り」駒沢女子大学研究紀要 (8)1

栗原弘(1990)「藤原内麿家族について」日本歴史 (511)

栗原弘 (2002) 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2

栗原弘 (2004)「藤原道長家族の追善仏事について」比較家族史研究 (19)

栗山圭子 (2001) 「准母立后制にみる中世前期の王家」『日本史研究』465号 日本史研究465

桑山浩然(1996)「室町時代における公家女房の呼称 」『女性史学』( 6)

後藤みち子(2009)『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館

小林よしのり (2010) 『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』 小学館

近藤佳代子(2015)「夫婦の氏に関する覚書(一)」宮城教育大学紀要49巻★

近藤毅大 (1997) 「紫微中台と光明太后の『勅』」 ヒストリア(155

近藤好和 (2019) 『天皇の装束』 中央公論新社

古藤真平(2018) 『日記で読む日本史3 宇多天皇の日記を読む』 臨川書院

五味文彦 (2006) 『中世社会史料論』 校倉書房

小森崇弘 (2008) 「後土御門天皇の月次連句文芸御会と公家」 立命館文學 (606

酒井茂幸 (2009) 『禁裏本歌書の蔵書史的研究』  思文閣出版

坂田聡(2002)「中世後期~近世の家・家格・由緒--丹波国山国地域の事例を中心に 」『歴史評論 』630

坂田聡(2006)『苗字と名前の歴史』吉川弘文館

坂田聡(2007)「家制度の期限を探る-転換期としての戦国時代-」『青少年問題』625号桜井栄治 (2009) 『室町人の精神』 講談社学術文庫

桜田真理絵 (2016) 「未婚の女帝と皇位継承元正・孝謙天皇をめぐって—  駿台史学156★

桜田真理絵 (2018) 「女帝「非婚」と「未婚」のあいだ -「不婚の女帝」論の再検討- 文化継承学論集 (13)★

佐古愛己(2013)「中世叙位制度の特質に関する一考察 : 鎌倉期を中心に(研究発表,中世史部会,日本史部会,第一一〇回史学会大会報告)」史学雑誌1221

佐藤賢 (2014) 『ヴァロア朝-フランス王朝史2 講談社現代新書

佐藤長門 (2009) 『日本王権の構造と展開』 吉川弘文館

佐藤長門(2012)「承和の変前後の春宮坊」『日本古代の王権と東アジア』吉川弘文館

滋賀秀三(1967)『中国家族法の原理』創文社1967

篠川賢 (2013) 『飛鳥と古代国家』 吉川弘文館

柴桂子(2003)「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14)

柴桂子(2004)「近世の夫婦別姓への疑問」〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現状) のコメント『総合女性史研究』(21)

島善高(1992)「近代における天皇号について」早稲田人文自然科学研究(41

清水昭俊(1970)「<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3)

清水昭俊(1972)「<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3)

清水昭俊(1973)「<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1)

清水昭俊(1985a)「出自論の前線」『社会人類学年報』vol111985

清水昭俊(1985b)「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985

清水昭俊(1987)『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂198

東海林亜矢子(2004)「母后の内裏居住と王権」お茶の水史学 48巻★

白根陽子 (2018) 「伏見宮家領の形成」『女院領の中世的展開 同成社

末柄豊 (2011) 「伏見宮旧蔵文書二題」 東京大学史料編纂所研究成果報告2011-3★

末柄豊 (2012) 「禁裏文書における室町幕府と朝廷」 ヒストリア(230

末柄豊 (2012) 「十三絃道の御文書」のゆくえ」 日本音楽史研究(8

末柄豊(2018) 『戦国時代の天皇』 山川日本史リブレット

菅原正子(2002)「中世後期-天皇家と比丘尼御所」服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』小学館

菅原正子(2020)「公家の生活基盤を支えていたものは何か」神田裕理編『戦国時代の天皇と公家衆たち』文学通信

杉崎重遠 (1954)「北宮考 -九条右大臣師輔室康子内親王-」國文學研究 (9-10)★

瀬川淑子(2001)『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』

相馬真理子 (1997) 「琵琶の時代から笙の時代へ--中世の天皇と音楽」 書陵部紀要 (49)

園部寿樹 (2015) 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五) 山形県立米沢治芳短期大学紀要 51

高岸輝 (2017) 「天皇と中世絵巻」高岸輝・黒田智『天皇の美術史3乱世の王権と美術戦略 室町戦国時代』 吉川弘文館

高岸輝 (2020) 『中世やまと絵史論』 吉川弘文館

高橋康夫(1978) 「後小松院仙洞御所跡敷地における都市再開発の実態室町時代京都の都市再開発に関する考察」 日本建築学会論文報告集(263)★

高橋康夫 (1978) 「戦国期京都の町 組 「六 町 」 の地域構造」 日本建築学会論文報告集274号★

高橋康夫 (1983) 『京都中世都市史研究』 思文閣出版

高橋秀樹(1996)『日本中世の家と親族』吉川弘文館

高橋秀樹(2004)『中世の家と性』山川出版社

高橋典幸 (2019 「南北朝動乱期の社会」『中世史講義』 筑摩書房

瀧浪貞子 (1991) 『日本古代宮廷社会の研究』「孝謙女帝の皇統意識」 思文閣出版

瀧浪貞子(2017)『藤原良房・基経』ミネルヴァ書房

竹島寛 (1982復刊、1936) 『王朝時代皇室史の研究』 名著普及会

武部敏夫(1987)『和宮(人物叢書)』吉川弘文館

田島公 (1997) 「禁裏文庫の変遷と東山御文庫の蔵書」大山喬平教授退官『日本社会の史的構造 古代・中世』 思文閣出版

田島公 (2004) 「典籍の伝来と文庫 古代中世の天皇家ゆかりの文庫・宝蔵を中心に」石上英一『歴史と素材』所収 吉川弘文館

田島公 (2006) 「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』 思文閣出版

谷口研語 (1994).『流浪の戦国貴族 近衛前久』中公新書

谷口やすよ(1978)「漢代の皇后権」『史學雜誌 』87(11)

谷田博文 (2019) 『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか』 河出書房新社

龍野加代子 (1997) 「八条院領の伝領過程をめぐって」『法政史学』49号 法政史学(49)★

田中明 (2007)「修学院離宮における御幸様式の変遷と場所構成について」日本建築学会計画系論文集72 621 号★

田村航 (2018) 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)

田村航 (2020) 「後花園天皇-後光厳流か、崇光流か」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

徳島県立博物館編(2001)徳島県立博物館企画展図録『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』徳島県立博物館編

豊永聡美 (2017) 『天皇の音楽 古代・中世の帝王学』 吉川弘文館

豊永聡美 (2020) 「後土御門天皇-心を砕いた朝議復興-」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

永井晋(2021)『八条院の世界』山川出版社

 

仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎 (1995) 「わび茶と露地 (茶庭) の変遷に関する史的考察 その9: 禁中の茶とその茶庭」 千葉大学園芸学部学術報告 (49)★

中川八洋 (2018) 『徳仁新天皇陛下は最後の天皇』 ヒカルランド

中川八洋 (2019) 「「旧皇族の復籍」妨害に全力疾走の赤い山羊八木秀次 ── ブログ 中川八洋ゼミ講義

中込律子 (2005) 「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』 清文堂出版

中林隆之 (1993 1994) 「律令制下の皇后宮職(上)(下) 新潟史学31 32

中村みどり (2002) 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編(1)★

中村みどり (2014) 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編 (13)

中村順昭 (2019) 『橘諸兄』 吉川弘文館

波田永実  (2017) 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」 流経法學16(2)

成清弘和 (1999) 『日本古代の王位継承と親族』 岩田書院

角田文衛(2003)『二条の后藤原高子 業平との恋』幻戯書房

角田文衛(2006)『日本の女性名-歴史的展望』国書刊行会

角田文衛(2020)「太皇太后藤原穏子」『平安人物誌 下』法蔵館

角田文衛(2003)『二条の后藤原高子 業平との恋』幻戯書房

所功 (2012) 『日本の宮家と女性宮家』「皇室史上の宮家制度」 新人物往来社

所功(2021)「皇位継承史上の危機と課題」『皇位継承の歴史と廣池千九郎』モラロジー研究

生井 真理子(1998)「『古事談』 実資か?実頼か?」同志社国文学 (47) 1998

仁井田 陞(1952)『中国法制史』岩波書店

西嶋定生 (1999) 『倭国の出現 東アジア世界のなかの日本』 1999 東京大学出版会

西別府元日 (2002) 『律令国家の展開と地域支配』 思文閣出版

西谷正浩(2006)『日本中世の所有構造』塙書房

新田一郎 (2001) 「継承の論理-南朝と北朝」『岩波講座 天皇と王権を考える 2統治と権力」」 岩波書店

新田一郎 (2011)2018 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社/講談社学術文庫

仁藤智子(2016)「平安初期における后位の変質過程をめぐって 王権内の序列化と可視化」国士館人文学48

野村育代 (1992) 「王権の中の女性」峰岸純夫編『中世を考える家族と女性』吉川弘文館 吉川弘文館

野村玄 (2019) 「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題 明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響」 大阪大学大学院文学研究科紀要(59

 

橋本義彦 (1976) 「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』 吉川弘文館

秦野裕介 (2018) 常盤井宮恒興王への親王宣下 ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座, 11-04

秦野祐介 (2020) 『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』 東京堂出版

秦野裕介 (2020) YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」 日本史オンライン講座★

秦野裕介 (2020) YouTube「中世の皇位継承16 後小松上皇 後光厳流の断絶と継承」 日本史オンライン講座★

秦野裕介 (2020) YouTube「中世の皇位継承17 後小松上皇と後花園天皇」 日本史オンライン講座

秦野裕介(2021)「観応の擾乱」「禁闕の変」渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』柏書房

秦野裕介(2022YouTube  「戦国大名477 足利家 天皇家と足利将軍家」日本史オンライン講座 ★

久下 裕利(2006)「一品宮について--物語と史実と」学苑 (792)

久水俊和 (2011) 『室町時代の朝廷行事と公武関係』 岩田書院

久水俊和 (2020a) 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店

久水俊和 (2020b) 『中世天皇葬礼史――許されなかった〝死〟』 戎光祥出版

廣木一人 (2001) 「後土御門天皇家の月次連歌会」 青山語文31

廣瀬隆司(1985)「明治民法施行前における妻の法的地位」愛知学院大学論叢法学研究28巻1・2号

福井憲彦 (2019) 『教養としてのフランス史の読み方』 PHP研究所

福地陽子(1956)「<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展」『法と政治』7(4)1956

藤木邦彦 (1991) 『平安王朝の政治と制度』 吉川弘文館服藤早苗(1991)『家成立史の研究』 校倉書房

藤田勝也 (2009)「近世二條家の屋敷について -近世公家住宅の復古に関する研究 1-」[日本建築学会計画系論文集]/74 巻★

藤田勝也(2012)「近世近衛家の屋敷について」日本建築学会計画系論文集675★ 

藤田高夫 (1990) 「前漢後半期の外戚と官僚機構」 東洋史研究 , 48(4)

藤田寛 (2011)2018)『江戸時代の天皇』 講談社/講談社学術文庫

文殊正子 (1986) 『内親王』号について 『公主』号との比較 古代文化 38(10)

保科季子 (2002) 「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』612号 東洋史研究612

細谷勘資(1990)「 内麿流藤原氏の台頭と摂関家・女院--藤原資長・兼光を中心として」駒沢史学 (42)

保立道久 (1996) 『平安王朝』 岩波新書

前田雅之 (2018) 『書物と権力 中世文化の政治学』 吉川弘文館

増田忠彦 (2013) 「資料にみえる 碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち) 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 (15)★

松永和浩 (2020) 「後光厳天皇-神器を欠き、都を逐れても」久水・石原變『室町・戦国天皇列伝』所収 戎光祥出版

松薗斉 (2010) 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)

松薗斉 (2014) 「戦国時代禁裏女房の基礎的研究 後土御門~後奈良天皇期の内裏女房一覧」 愛知学院大学論叢 (44)

松薗斉 (2016) 「室町時代禁裏女房の基礎的研究  後花園天皇の時代を中心に」 人間文化 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (31)

松薗斉(2020)「伏見の土倉について―その文化史的アプローチ―」人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要(35)★

牧野巽(1985・初出1935)「中国における家族制度」『牧野巽著作集第6巻』御茶の水書房

町田香(2005)「後水尾院サロンと宮廷庭園の展開」ランドスケープ研究69   5 号★

町田香 (2006)「『无上法院殿御日記』にみる後水尾院サロン以降の宮廷庭園文化」ランドスケープ研究70 5 号★

松井みき子 , 後藤 久太郎(1996a)「寺町御殿と瓢界御殿 : 後水尾院の公家町別邸 上」日本建築学会計画系論文集 61(479)

松井みき子  後藤 久太郎(1996b)「二階町御殿と白賁軒御殿 : 後水尾院の公家町別邸 下」日本建築学会計画系論文集 61486

松井みき子  後藤 久太郎(1997)「」「无上法院日記」にみる「格子」と「物見」 上」日本建築学会計画系論文集 62(494)

松井みき子(1998)「公家邸指図にみる「物見」」日本建築学会計画系論文集 63(508)

三木太郎 (1953) 「椿葉記」より見たる持明院統分裂の原因長講堂領以下の所領を中心としてー」 駒沢史学★

三崎裕子 (1988) 「キサキ宮の存在形態について」 史論41

三島暁子 (2012) 『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』 思文閣出版

水野智之 (2005) 『室町時代公武関係の研究』 吉川弘文館

水野智之 (2014) 『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』 吉川弘文館

水野柳太郎 (2008) いわゆる光明立后の詔について」 奈良史学 (26)★

水間政憲 (2019) 『ひと目でわかる皇室の危機 ~天皇家を救う秘中の秘」 ビジネス社

三村晃功(1995) 「「永正8年月次和歌御会」をめぐって--725日和歌御会を中心に」 光華女子大学研究紀要 (33)

村井章介 (2005) 「易姓革命の思想と天皇制」『中世の国家と在地社会』 校倉書房

村井章介 (2005初出1997)  『中世の国家と在地社会』 校倉書房

村上史郎(1999)「九世紀における日本律令国家の対外意識と対外交通--新羅人来航者への対応をめぐって」史学 69(1)

村田正志 (1954初刊、1984) 『村田正志著作集第四巻證註椿葉記」 思文閣出版

村田正志 (1983(初出1944「後小松天皇の御遺詔」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版

村山太郎(2003)「『源氏物語』論 : 〈女〉言説との「対話」」広島大学大学院教育学研究科紀要 第二部, 文化教育開発関連領域  (52)

桃崎有一郎 (2020) 『室町の覇者足利義満-朝廷と幕府は以下に統一されたか』 筑摩書房森茂暁(1997)(2013)『闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』角川選書/角川ソフィア文庫

森茂暁 (2004) 『満済』 ミネルヴァ書房

森茂暁(2005)(2020)『南朝全史 大覚寺統から後南朝へ』講談社選書メチエ/講談社学術文庫

森茂暁 (2011)2017 『室町幕府崩壊』角川選書/角川ソフィア文庫

森暢平 (2014) 「昭和20年代における内親王の結婚「平民」性と「恋愛」の強調」 成城文藝229

森田大介 (2020) 「後柏原天皇-践祚二十年を経ての即位」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

盛本昌広 (2008) 『贈答と宴会の中世』 吉川弘文館

保田卓 (1997) 『日本における規範について その状況依存性の歴的考察(後編)) 教育・社会・文化研究紀要4

安田政彦 (1998) 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』 吉川弘文館

山口和夫 (2017) 『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館

山﨑雅稔(2001)「承和の変と大宰大弐藤原衛条起請」歴史学研究』751号、(2001

山崎雅稔 (2012) 「藤原衛の境涯」 帝京大学外国語外国文学論集(18)

山田敏之 (2018) 「旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と永世皇族制の確立」 レファレンス(808)★

山本啓介 (2013) 「後柏原天皇時代の内裏和歌活動について 時代背景と形式」 日本文学629)★

山中永之佑(1976)「明治民法施行前における妻の氏」『婚姻法の研究上高梨公之教授還暦祝賀』有斐閣1976

湯川俊治(20055『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会

吉田賢司 (2017) 『足利義持』 ミネルヴァ書房

吉田孝 (2006) 『歴史のなかの天皇』  岩波新書

吉野芳恵(1982)「室町時代の禁裏の女房-匂当内侍を中心にして」『國學院大學大学院紀要文学研究科』13号

米田雄介 (1992) 『歴代天皇の記録』 続群書類従完成会

米田雄介 (2004) 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』 塙書房

若松正志(2014)「日本史上の親王・宮家に関する基礎的研究  近世の桂宮家を中心に」京都産業大学総合学術研究所所報 (9)

鷲山茂雄(1979)「源氏物語の一問題 : 紫のゆかり・形代のこと」日本文学 28(8)

改革著作集〈10)』教文館

 

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