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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

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2023/03/21

国会議員の先生方へ意見具申 有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対 ③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき -「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-(第1分冊)結論・理由の要点

 2022 11月28日のエントリー下記リンクで公開リンクPDF版を公開したものを若干修正しましたがほぼ同じ内容です。検索にひっかかるようにするため再掲するものです。まだ読んでない重要な論文がいくつかあり加筆の余地がありますが、とりあえずこれを決定版にします。

国会議員への意見具申 皇位継承者の安定的確保 有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対 ③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき-「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-: 川西正彦の公共政策研究 (cocolog-nifty.com

 意見書の目的

  取るに足らない者が恐る恐る謹んで上申します、軽輩でありながら、不躾にも長文の文書を送りつける無礼をお許しください。有識者会議の新奇な制度の提案は皇室制度を破壊するだけでなく、国民の家族慣行に影響が大きく、千古の国体たる「家」制の否定であり、深刻な問題と受けとめており、この際意見したい。私の思想的立場は秩序と古典的価値を重んじる自由主義。ご笑覧いただければ幸甚に存じます。

  この意見具申の目的は、令和3年12月22日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告が悪質なものであり、この計略にはまらないよう、国会議員の先生方に訴えるものであります。

  とりわけ①案を恒久的制度とするため皇室典範12条を改変する方向性を強く打ち出している点、女子は婚家を継ぐものという婦人道徳を破壊するため絶対的に反対します。

  令和3年12月22日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告は、下記の①案と②案を検討すべきとしました。

  仮に①案を実施しても女性皇族に皇位継承権を付与せず、配偶者、所生子も当面皇族としないで将来身分を検討するものとし、②案も当事者は皇位継承資格を付与しないことを示し、悠仁親王殿下の次の皇位継承者を、男系男子維持か男女共系に変革するかという問題は先送りとする趣旨の報告でした。

  令和4年1月12日には岸田首相により国会報告が行われている。

①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること

②皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること

③皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること

 

   ①案は、皇室典範12条の立法趣旨を否定して婚入配偶者の婚家帰属性という日本の家族慣行の全面的否定となるから、重大な変革である。天皇と皇后、親王と親王妃といった皇族の性的役割分担を流動化させる目論見がある。

  それゆえ皇室典範12条改変を狙いとする①案先行実施及び②案との並行実施は絶対回避すべきである。将来的には英国・北欧・ベネルクスと同様、男女共系の長子相続への移行を見据えた案であり、改変の反対理由の説示が意見書の第一の目的である。

  正しい政策は、旧宮家の再興、旧皇族の復籍をコンセプトとして、伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒にもとづき、『椿葉記』に説示される王統の正当性、永続が約された王統として、男系男子の方々を独立の当主として奉戴申し上げるのが筋であり、できるだけ多くの旧宮号を復活させるべきである。

  未婚者に限らず、親子ともども家族全員が復籍するあり方が望ましい。

   つまり有識者会議が推奨していない「③ 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること」が「継嗣を広め、皇基を固くする」正しい選択であり、その理由を説示するのが、意見書の第二の目的である。

結論

一 有識者会議の①案は日本的「家」の婚姻慣習、婚入配偶者の婚家帰属性を否定し、夫婦、親子で身分を異にする歪な婚姻の在り方であり、性的役割分担の流動化をもたらす最悪な案なので断固として排斥するべき。②案との並行実施も強く反対する。皇室典範12条の制定趣旨は正当であり改変に強く反対する。

二 ③案を実施する。②案は現存宮家の方々が養嗣子への承継を望まれた場合にのみ③案と並行して実施すること検討するとし、皇室典範1条も改変を認めない。

三 ③案の実施方法は以下のとおりとする。

(一)皇籍復帰の対象者は伏見宮御一流のみとする

 皇統に属する男系男子(皇胤)を幅広く調査、公式に認定し、暫定的に皇位継承順位を付与、適正規模の範囲で、認定された皇胤の御家族が皇籍に直接復帰されるようなし奉るべきである。

  対象者は、皇統上の格別の由緒、永続を約されている由緒にもとづき一品式部卿伏見宮邦家親王の御子孫(伏見宮御一流)にしぼる。皇別摂家の末流など藤氏となった方々が復帰するのは論理的でない。

(二)調査対象と優先順位

第一範疇 

 12宮家(祭祀承継家を含む)の末流の男系男子と養嗣子(但し第一~第三範疇の男系男子に限る)を第一範疇として全員が皇籍に直接復帰することを原則とする。員数が適正規模を超える場合には調整する。

 この範疇の調査対象は、昭和22年に皇籍離脱した11宮家のうち離脱時に皇位継承資格者のいない東伏見宮家を除く10宮家(皇位継承順では、伏見宮→山階宮→賀陽宮→久邇宮→梨本宮→朝香宮→東久邇宮→北白川宮→竹田宮→閑院宮)の末流の男系男子と養嗣子に加えて、戦前に華族に列し宮家の祭祀を承継した華頂侯爵家と東伏見侯爵家の御子孫を加えたカテゴリーになる。

  華頂宮は第4代博忠王が独身で薨ぜられ、大正13年に断絶したが、実弟の博信王が家名を賜り臣籍降下し華頂侯爵として祭祀を承継しており、伏見宮博恭王の御子孫であって血筋としては伏見宮家に近く皇室典範が実弟の養子相続さえ認められていれば存続していたことを考慮し、11宮家と同列に遇するのが妥当であり第一範疇とする。

  また東伏見宮依仁親王は大正13年に継嗣なく薨去し断絶が決定したが、宮家自体は周子妃殿下により昭和22年まで存続した。事実上の養子だった久邇宮邦彦王三男の邦英王が祭祀を継承し昭和6年に家名を賜り東伏見侯爵として華族に列しているので、10宮家と同列に遇するのが妥当であり第一範疇とした。

 優先順位は、①旧宮家(祭祀承継家を含む)の本家を継承した男子、②実系の子孫が途絶した旧宮家であっても養嗣子もしくは当主の推挙で第一~第三の範疇の男系男子である場合、③分家分出した男系男子、④旧皇族以外の他家の養子となった方も優先順位を下げるが皇胤認定するものとする。

 以上に加えて第二範疇以下でも、皇室、皇族方から推挙のあった男系男子は第一範疇に加える。

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第二範疇

  大正9年以降昭和18年まで次男以下の王で12方が、皇族の臣籍降下を可能にした明治40年皇室典範増補第一条により、情願によって家名を賜り降下し華族に列しているが、第一範疇の宮家の祭祀を承継した華頂侯爵家と東伏見侯爵家を除く10家の御子孫で男系男子の方々を第二範疇の皇籍復帰の対象者とする。

 優先順位は第一範疇の次とするが、皇室や現皇族に推挙された方、第一範疇で実系が途絶した宮家の養嗣子か当主に推挙された方は第一範疇に加える。

大正2年 久邇宮邦彦王次男 邦久王→久邇侯爵

大正15年 伏見宮博恭王三男 博信王→華頂侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王三男 藤麿王→筑波侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王四男 萩麿王→鹿島伯爵

昭和4年 山階宮菊麿王五男 茂麿王→葛城伯爵

昭和6年 久邇宮邦彦王三男 邦英王→東伏見伯爵

昭和11年 朝香宮鳩彦王次男 正彦王→音羽侯爵

昭和11年 伏見宮博恭王四男 博英王→伏見侯爵

昭和15年 東久邇宮稔彦王三男 彰常王→粟田侯爵

昭和17年 久邇宮邦彦王甥 家彦王→宇治伯爵

昭和18年 久邇宮邦彦王甥 徳彦王→龍田伯爵

 

第三範疇 

  明治時代に家名を賜り臣籍降下し華族に列した方々の御子孫で男系男子。小松侯爵家や清棲伯爵家。

 

(三)秘密会での決定や、推挙権による決定など別の方法があってもよい

 筆者は全く部外者であり、上記の類別で男系男子の員数はメディアで流布されている大雑把なことしか知らない。

 旧皇室典範の皇位継承順としなかったのは、久邇宮系末流が上位となり北白川宮系末流が下位となるので、全員復帰でならよいが、適正規模が少なめに判断された場合、不公平感があるためである。そのため12宮家の本家嫡流と、養嗣子を優先して復帰するプランを結論としている。

 ウィキペディアによれば閑院家は絶家と書かれているが、実系が途絶した旧宮家でも養嗣子又は当主の推挙者を加え、旧宮号をできるたけ復活させるべきである。

 しかし、この際、優先順位とか堅苦しいことはいわないで、非公式の協議や、秘密会で皇籍復帰者を決定してもそれには反対しないし、皇室側の推挙があったほうが収まりがよいということなら、天皇皇后両陛下、成人皇族の方々に推挙権を行使していただく、王朝時代に御給(年官年爵)という制度があって、天皇、三后、女院、親王、内親王に廷臣の叙位等を推挙する制度がありそのアナロジーである。

  要するに①案を排除③案が実現すれば正しい政策なので、優先順位や調整の方法は二の次でこだわらない。なお適正規模の問題については、補遺32頁以下、理由概要version1の15頁で言及することとする。

 

    *******************************************************************

 

 理由の説示は、簡潔なものとして「理由の要点」、(補遺)中世皇統崇光院流=伏見宮御一流の正当性、皇統上の格別の由緒、永続が約されている意義と、皇室典範以降の諸問題について③案を推す理由を比較的詳しく述べる。以上第1分冊である。

 全体の理由要旨としてversion1とversion2、やや長めの理由概要と3つのバージョンを用意し第2~第4分冊として、①案の反対論は第3・4分冊がより詳しく本音を出した見解としたが、論旨は4分冊とも同じものである。本文は冗長で第5分冊の第Ⅰ部が①案に反対の理由、第6分冊の第Ⅱ部が③案の旧皇族(伏見宮御一流)の男系男子が養子でなく直接復帰すべく奉るべき理由を縷々説示する。

 意見具申はPDFで第7分冊の引用参考文献一覧表をふくめ7分冊と長大になっているうえ、内容が重複しているので適当なところを、ご笑覧いただければ幸甚に存じます。(このエントリーでは第7分冊の引用参考文献一覧表は文末で示します)

目次

意見書の目的... 1

結論... 2

一 有識者会議の①案は日本的「家」の婚姻慣習、婚入配偶者の婚家帰属性を否定し、夫婦、親子で身分を異にする歪な婚姻の在り方であり、性的役割分担の流動化をもたらす最悪な案なので断固として排斥するべき。②案との並行実施も強く反対する。皇室典範12条の制定趣旨は正当であり改変に強く反対する。    2

二 ③案を実施する。②案は現存宮家の方々が養嗣子への承継を望まれた場合にのみ③案と並行して実施すること検討するとし、皇室典範1条も改変を認めない。    2

三 ③案の実施方法は以下のとおりとする。    2

理由の要点... 6

第一 皇室典範12条は死守されるべき... 6

第二 ①案は「皇室の歴史と整合的なもの」という説示は間違っているので棄却されるべき    7

第三 ①案は奇妙で歪、夫婦別姓の導入に先鞭をつけることになる... 9

第四 ②案養子縁組案は筋が悪い。直接男系男子が宮家当主として復帰すべき... 10

第五 宮家再興、創設に消極的になる必要はなく、復帰されるべき正当な理由がある... 10

第六 『椿葉記』の由緒を重んじ伏見宮御一流の皇族復帰をなし奉るべき... 11

(一)『椿葉記』が伏見宮の由緒となった経緯      11

(二)南朝正統史観によるダメージは克服できる    14

(三)崇光院流は完全なる傍系化が回避されるステイタスを得た    16

(四)『椿葉記』に込められた意味を忖度すべき    17

第七 伏見宮の永代存続は世数制限のある令制においても合法で正当... 18

第八 世数制限は愚策。永世皇族主義で旧皇族を奉載申し上げるべき    21

 

(補遺)中世皇統崇光院流=伏見宮御一流の正当性、皇統上の格別の由緒、永続が約されている意義と、皇室典範以降の諸問題について... 23

(一)伏見宮家が正統・嫡流たる由緒、その証拠もある    23

(二)後崇光院が本格的な太上天皇であった決定的意義    29

(三)伏見宮の永続性には合法的な根拠がある    33

(四)幕末維新期以降 伏見宮系皇族の繁栄の意味    36

(五)旧皇室典範の問題点    39

(六)大正9年の永世皇族制放棄政策の問題点    41

(七)「準則」の背景として南朝正統史観の影響とその克服の方途    44

(八)宮家の数の適正規模    46

 引用参考文献一覧は第7分冊としましたので文末にはありません。                            

理由の要点

①案に徹底的に反対し、③案の直接皇族とする案を推す理由を以下説示する。

 

第一 皇室典範12条は死守されるべき

 有識者会議は①案を恒久的制度とするため皇室典範12条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)を改変する方向性を強く打ち出している。

 皇室典範12条の趣旨[i]は、婦人は婚家を継ぐもの、妻は夫の家に入って婚家の成員となるので、生家からは離れる我が国の常識的な家族慣行、婦人道徳にもとづいており、加えて夫婦が尊卑を同じくするという価値観は、儒教の基本的な経書にある文明理念であり[ii]、これを否定するのは性差、男性が天皇、親王、女性が皇后、親王妃といった性的役割分担を否定する共産主義イデオロギー、ジェンダー平等論に毒された考え方なので断乎容認できない。

 世界的にファミリー企業の平均寿命は24年にすぎないが、我国には二万社近くが百年以上の歴史を有している[官文娜2010]。戸主権により統制される「家」制度は廃止されても家族慣行としての「家」は、日本の親族構造として厳として存在しているのであって、それを否定する①案、皇室典範12条の改変は恐るべき文化破壊をもたらすゆえ容認できない。

 勿論、皇室典範1条も死守されなければならないが、多くの方が主張しているので、脚注で大筋のところを説示するにとどめ[iii]、本意見書では12条改変反対の趣旨を中心に記述する。

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第二 ①案は「皇室の歴史と整合的なもの」という説示は間違っているので棄却されるべき

 

 令和3年11/30提出の事務局調査研究資料では①案を正当化する前例として、藤原師輔と密通したうえ降嫁した醍醐皇女勤子内親王以下、内親王6方の婚姻を例示し、臣下に嫁しても内親王としての身位を失うわけではないとしているが、令制では内親王が臣下と結婚することは違法(継嗣令王娶親王条)なので[iv]、想定外の婚姻である。そもそも親王・諸王でない臣下に嫁すこと自体、反律令行為であり、違法であるが勅許という異例のケースである。それを有識者会議報告書が「皇室の歴史と整合的なもの」と評価しているのはフェイクというほかない。

 例示6方で墓所が判明している4方のうち、霊元皇女八十宮吉子内親王(2歳で婚約したが、相手の家継が夭折したため後家となった)を除いて、宮内庁治定陵墓のリストにはなく婚家の菩提寺であるから、皇室から離れたと認識できる。ゆえに①案の先例たりえない。

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 日本の令制では、皇女は天皇・親王・諸王としか結婚できないから、「公主」号は継受されず、我国独自の称号「内親王」号なのであり[v]、ところが①案は臣下と結婚しながら、摂政、国事行為臨時代行等を内親王に担っていただくというもので、内親王号の歴史的由来を否定するに等しく皇室の伝統破壊になる。

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 もっとも延暦12年詔では二世女王以降が、条件付で臣下に嫁すことを可能にし、規制は緩和しているが、内親王と臣下の結婚は令制では一貫して違法なのである。

 

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 第三 ①案は奇妙で歪な制度、夫婦別姓の導入に先鞭をつけることになる

 夫妻でありながら皇族女子が皇統譜、夫と嫡子は戸籍であり、尊卑を同じくしないのは、家族慣行にない奇妙で歪なあり方でる。家長たりえない入婿など男性に対する侮辱であり、実質夫婦別姓の先行実施のようできわめて不愉快な制度になる。

 なお、私は選択的夫婦別姓に強く反対なのでなおさら不愉快である。

 

第四 ②案養子縁組案は筋が悪い。直接男系男子が宮家当主として復帰すべき

 そもそも養子相続を否定し、実系の皇統のみが存続する皇室典範9条のもとで現存宮家当主の方々が養嗣子を求めておられるのか不透明であるし、9条のコンセプトをあえて変更する理由はない。

 養子というと次男以下が他家に養出するイメージだが、旧宮家の本家継承者が旧宮号で復帰してしかるべきで、現存宮家の承継者となる必要はない。次男以下の男系男子は、継嗣のない旧宮家の養嗣子か当主の推薦があれば旧宮号、他の方は新宮号やかつての宮号を復活させる形で、旧宮家末流の方々を奉戴申しあげるべき。

 

第五 宮家再興、創設に消極的になる必要はなく、復帰されるべき正当な理由がある

 養子縁組案は皇族費など増やさず、現存する宮家の邸宅を継承する案で、財政的支出を極力控える趣旨といえるが、そこまで支出を惜しむことはない。

 昭和22年皇籍離脱した11宮家は実系(血筋)ではすべて第20・23代一品式部卿伏見宮邦家親王(1802~1872)の御子孫であるのでここでは伏見宮御一流と記す。

 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒、『椿葉記』が説示する嫡流を引く王統であること。永続を約された由緒が複数以上ある以上(次節以降、補遺参照)、伏見宮系12宮家は、終戦後の特別な事情により臣籍に降下したのだから、今上陛下の次世代の皇位継承資格者が乏しい状況に鑑み、旧皇族の方々を奉戴申し上げ、宮家を再興していただくべきである。養子縁組ではなく直接当主として復帰していただくのが筋であり、もし現存宮家の方々が養嗣子を迎えるご希望があるなら別途検討すべきである。

 旧皇族復帰の大義名分として、皇室典範第1条の男系継承が語られることが多いが、それだけではなく、この意見具申では、伏見宮御一流=崇光院流皇統に正当性がある、数々の根拠を強調し、それゆえ皇籍復帰をなし奉るべきであるとの見解である。

 

第六 『椿葉記』の由緒を重んじ伏見宮御一流の皇族復帰をなし奉るべき

(一)『椿葉記』が伏見宮の由緒となった経緯

 持明院統(後深草院流皇統)は14世紀中葉観応の擾乱で南朝軍が京都を一時占領した経緯から、崇光院流と後光厳院流に分裂したが、崇光院流が後深草院流の正統(嫡流・嫡宗家)と主張され、伏見宮が永代存続する由来のわかる『椿葉記』(永享5年1433-貞成親王〔道欽入道親王〕のちの後崇光院法皇著)があるということは、皇籍復帰に向けて大きなアドバンテージといえるだろう。この王統の正当性を示す書物がばっちりあるわけである。
 逆にいえば『椿葉記』がある以上、皇位継承の正当性が担保されている伏見宮御一流をないがしろにして、北欧や西欧の王室のように直系長子男女共系に走るのは国民の一人として容認しがたいということである。 

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 伏見宮は初代栄仁(なかひと)親王(親王宣下-応安元年/正平23/1368)より昭和22年(1947)第26代博明王が皇籍を離脱するまで実系の男系子孫で継承され、600年近く皇統正系と併存し皇族の崇班を継承してきた意義は甚大である。

 但し実系継承については例外が1例あり、宝暦9年(1759)後嗣のない16代邦忠親王が29歳で薨去、伏見宮家は『椿葉記』等格別の由緒があるゆえ入寺得度した皇族を還俗させ実系に復すことを嘆願している。しかし宝暦10年桃園天皇の第二皇子(17代貞行(さだもち)親王)が伏見宮を継承されたため一旦は血筋が中切れとなったが、明和9年(1772)13歳で早世されたため再び空主となる。

 結果的に安永3年(1774)15代貞建(さだたけ)親王の次男で勧修寺に入室した寛宝入道親王が還俗して18代邦頼親王となり実系に復している[武部敏夫1960]

 

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 当時、実系で永続すべき根拠として『椿葉記』の由緒を示しており、このたびもこれと全く同じ趣旨を強調したい。

 『椿葉記』執筆意図は、永享5年の後小松院御遺詔(上皇は血筋としては途絶した後光厳院流皇統の万歳継帝を望まれ、後花園を御猶子としているゆえ、皇統転換の主張を許さない趣旨で、伏見宮へ尊号宣下してはならない、仙洞御所を居所にはさせないとしたもの)に対抗して天皇実父の見解を主張するものである。

 つまり正長元年(1428)7月後嗣のない称光天皇が御発病あらせられ、崩御の3日前に伏見若宮御歳10歳が仙洞御所に入御、後小松上皇と対面し「後小松院の御所生の如く御父子の儀を契約せられ」たのち新内裏で践祚あそばされた(『建内記』[村田正志1983 初出1944])。後花園天皇である。

  強い正統意識を持ち続けた実父道欽入道親王(伏見宮第3代貞成(さだふさ)親王-称光天皇の勅勘を蒙り薙髪入道)は新帝と他人の関係にされたことに納得するはずがない。

 永享3年(1431)より後花園登極を崇光院流の皇胤再興(ひらたくいえば嫡宗家が皇位を奪還した)と位置付けるため、太上天皇尊号を拝受する意向を後花園天皇に上奏する計画をもち、その実現のため長講堂や石清水八幡宮などに奉納祈願のうえ、叡覧に備える目的で起草したのが『正統廃興記』であり、途中で後嵯峨天皇の故事を由来とするタイトルに改め永享5年に完成し、翌年奏進されたのが『椿葉記』である。

 主な論点は①崇光天皇廃位から後花園元服までの約80年間の史実とその意義、とくに所領の問題、総じて崇光院流が後深草院以来の正統であることを悟っていただくよう記述され、皇位から離れて凋落したが後花園登極による皇胤再興にいたる歴史、全体の三分の二を占める。②天皇実父が無品親王であってよいはずがない。承久の後高倉院の先例にもとづいて太上天皇尊号拝受の意向があること。猶子は一代かぎりのことで真実の父母が皇統を形成する。③君徳涵養、学芸見識の修養心得、帝王学の記述もあり、賢王聖代は一条、後朱雀、後三条であるとし、雑訴は関白・大臣等に勅問し、明法家が提出した勘状を読んで、道理に従って裁決すれば、君主として誤りはないとする。④若宮を始終御猶子となし奉ることにより、天皇家と伏見宮が将来永く疎隔あるまじきこと親しい関係であるべきとする。伏見宮家の世襲親王家構想と解釈されている。⑤崇光院以来奉公してきた廷臣らに御慈愛をかけられんこと。核心部分は②であり、後小松崩後に尊号宣下の一点突破で、後小松院と後花園の猶子関係を実質解消する意図である

 しかし天皇は実父の熱望を黙殺し続け、後小松崩後13年も経過した文安4年(1447)11月の太上天皇尊号宣下は、詔書によれば実父としてでなく傍親への格別の厚意としての尊号宣下とされている(貞成王は後小松院より年長だが上皇の猶子として親王宣下されているため「兄」とされた)[田村航2018]。天皇は国を譲られた重恩により後小松院御遺詔を重んじ、筋を通したことになる。

 

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この詔書の趣旨により皇統正系(天皇家)が崇光院流を継承しておらず、猶子の親子の擬制により後光厳院流直系であることが明瞭になった。後小松上皇が自らの系統の正統性を主張するため編纂された『本朝皇胤紹運録』(洞院満季編、応永33年1426成立)のとおり後光厳院流が正系ということになったが、逆にいうと後花園の実弟で伏見宮を継承した貞常親王の御子孫だけが持明院統嫡流の流儀を継承した崇光院流であり、崇光院流の正当性を記している『椿葉記』は結果的に伏見宮家の由緒になったといえる。

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『神皇正統記』のような日本全史ではないので広く知られてはいないが、皇統の正統性をテーマにしている著作として『椿葉記』はそれに匹敵する価値があるとみるべきだ。

 もちろん朝廷公認ではないし執筆時は無品親王といっても太上天皇尊号が勅定され、至尊とされた方の著作だから尊重されてしかるべきである。

 

二)南朝正統史観によるダメージは克服できる

 終戦後の特殊な事情があったとはいえこれほどの格別の由緒のある伏見宮御一流があっさり皇籍を離脱され、永続を約されている由緒などが全く顧みられることがなかったのは理由がある。

 明治44年の南朝正統の勅裁の影響と、それ以降の教科書が北朝抹殺論に近い記述になったことでダメージが大きかったためである。

 崇光院流が後深草院以来の正統という『椿葉記』の主張が意味をなさない時代背景である。

 伏見宮は北朝の崇光天皇(1334~98、在位1348~51)の御子孫で、皇子の栄仁(なかひと)親王(1351~1416 )が初代とされるが、大正~皇籍離脱時まで旧宮家は、崇光が歴代天皇から外れたため、鎌倉時代の後伏見天皇(1288~1336、在位1298~1301)の末流と称さざるをえなくなっていたのである

 南北朝正閏論争とは、明治43年(1910)喜田貞吉が編修する国定の教師用教科用図書が、宮内省が南北朝正閏を決定していない状況から、南北朝の対立につき軽重をつけない論旨となっていた。検定期の教科書は南朝を「正位」、北朝を「閏位」と位置付けるのが一般的であったので、教育現場で反発があり、明治44年1月読売新聞が非難、2月藤沢元造代議士の質問は、政府側の説得で回避されたが、犬養毅が大逆事件と絡めて激烈な弾劾演説してこの問題を政争にした。

 激昂した山縣有朋が教科書改訂を断行しない桂太郎内閣の緩慢を非難、明治44年2月27日喜田定吉は休職処分となり[千葉功2019 ]、桂首相は南朝正統を閣議決定したうえ、2月28日明治天皇に歴代について上奏、仰裁、3月諮詢された枢密院も南朝正統の奉答書を可決した。

 明治44年(1911)3月3日の勅裁とは、天皇が内閣総理大臣からの上奏、枢密院からの奉答、宮内大臣からの上奏を容れる形で侍従長より「後醍醐天皇より後小松天皇に至る間の皇統は、後醍醐天皇・後村上天皇・後亀山天皇・後小松天皇なることを認定したまへる旨を内閣総理大臣並びに宮内大臣に達せしめたまふ」とされたことをいう。

 また、宮内大臣が天皇に「北朝の天皇に対する宮中の取扱方」について伺ったところ、天皇は宮内大臣に「光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては尊崇の思召により尊号・御陵・御祭典等総て従来の儘たるべき旨を命じたまふ」とされた。

 したがって、皇統譜においても光厳・光明・崇光・後光厳・後円融は歴代天皇から外された。今日でも、尊号、御陵、御祭典は維持しつつも、北朝天皇として別冊にまとめられている。

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 天に二日なし、万世一系と矛盾するため、明治44年の国史教科書の修正では、北朝抹殺論により北朝側は「逆賊」とされ、「南北朝」は「吉野の朝廷」に改められた。以後、田中義成などが両朝併立説を主張したが、一般には南朝正統説、南朝忠臣賛美が終戦時まで支配していた。

 北朝を抹殺してしまうと肝心な伏見宮の由緒は見えてこない。旧皇族にとってダメージになっていた。ゆえに、伏見宮系の由緒が全く顧みられることなく、皇籍を離脱された背景としては、『椿葉記』など北朝側の歴史が否認されていた皇国史観の時代背景をみてよいのである。その点で不当な扱いをされたことこそ問題である。

 南朝正統史観は、後期水戸学で尊王攘夷、足利時代以降失われた国体回復運動に思想的に転位した。明治維新の大業は建武の中興の道筋によるものであり、その歴史的意義を認めつつも、しかしながら野村玄[2019]によれば、明治天皇の南朝正統とする聖裁(勅裁)は消極的同意であるとの説もあることも言及しておきたい。

 この聖裁は、国家の大事であるのに、公式令の詔による詔書の形式を避け、勅書の形式をも採られず国民に宣誥されていない。文書的裏付けである内閣総理大臣と宮内大臣への伝宣書は侍従長名・侍従長印で発出され、事務連絡文書に近く、官報にも告示されていない。

 詔書の形式を避けた宸意が消極的同意とみなされている。

 南朝忠臣を賛美する教育は過去のものである。「桜井の別れ」の逸話は、年輩の方はよくご存じだが、大阪府三島郡島本町国史跡の発掘調査では南北朝期の駅家の跡が発見されておらず『太平記』の創作の疑いがあり[小谷徳洋2022]、教えられていない。

 実証的な史学では15年に及ぶ光厳院政は院宣を活発に発給し現存するものだけでも350通に及ぶ、公家法を完成させた暦応雑訴法が制定され、雑訴興行の充実した政治機構が存在し「公家政務の到達点」との意義を認めている [伊藤喜良 1997][深津睦夫2014]。また京極流の勅撰和歌集である『風雅和歌集』が編纂された。南朝においても朝儀は行われていたが、弁官、局務、官務が機能している京都朝廷の意義を否定する北朝抹殺論は行き過ぎに思える。

 南朝正統はある程度価値相対化した議論が今日あってよいわけである。現代においては憚ることなく伏見宮の由緒を語ってよいだろう。

 近世期の朝廷では、北朝方の後小松上皇が自らの系統の正統性を主張するため編纂された『本朝皇胤紹運録』(洞院満季編、応永33年1426成立)が勅撰の皇室系譜として宮中で重んじられ、公家の間では北朝正統論が絶対視されていた[森安雅子2011]。後村上天皇は義良親王、後亀山天皇は熙成王で、帝に非ざる皇親の扱いであり、朝廷は南朝を公認していないのである。

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『続神皇正統記』壬生晴富(15世記後半)、幕府編修『本朝通鑑』(寛文10年 1670)林羅山・鵞峰編纂、『池の藻屑』荒木田麗女(安永4年1774)も北朝正統論である。

 今日では南北朝・室町時代の実証主義的な研究が進展し、伏見宮の由緒にかかわる研究成果も多く、書物も近年多く出版されており最新の研究成果をふまえるなら、『椿葉記』の論理をふくらますことが容易にできるので、政府が伏見宮御一流の格別の由緒を重んじる方針を示せば、南朝正統論によるダメージは容易に克服できる事柄である。

(三)崇光院流は完全なる傍系化が回避されるステイタスを得た

 近年の研究で、南北朝史研究の大家村田正志の従来説、皇室も伏見宮も崇光院流とする説は否定されたが、このことは伏見宮の由緒にとって不利な材料にはならない。

 第一に、とにかく歴史上類例の少ない、帝に非ざる皇族が、生前に太上天皇尊号を拝受し後崇光院法皇となった意義が大きい。関白以下公家衆より拝礼される本格的な法皇だった[田村航2018,久水俊和2020a]。伏見宮の威信は高まり崇光院流の正当化に少なくとも成功した。

 第二に『椿葉記』の趣旨は部分的に実現した。

「若宮をは始終君の御猶子になし奉るへけれは、相構て水魚の如くにおほしめして、御はこくもあるへきなり」[村田正志 1954初刊、1984](写真次頁-群書類従. 第貳輯 椿葉記 国立国会図書館デジタルコレクション公開分)伏見宮の若宮を始終猶子とし、天皇家と伏見宮家は将来疎隔することなく水魚の如き親しい関係であるべきとする構想は実現し、実際そのとおりとなった。

 親王位は継嗣令皇兄弟条で、皇子か天皇の兄弟の身位であるが、始終天皇の猶子とするということは、皇子に准じた礼遇として、親王宣下を受けるという意味で『椿葉記』のこの部分は伏見宮の世襲親王家構想と解釈されている[小川剛生2009][田村航2018]。

 中世では一般論として猶子とは「猶子になると擬制的な親子関係が形成されるため、親は猶子に対して権力を行使することができた。反対に猶子になった者は親の家の一員に准ずる存在として、その家の格式・礼遇がおよそ適用された」 [水野智之, 2014]と解説されているとおりで、その意義は大きい。

 国立国会図書館デジタルコレクション 群書類従 第弐輯

 

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 後崇光院太上天皇崩後、康正2年(1456)10月伏見宮系譜「貞常親王御記」にある所伝「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門(庭田長賢)來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申‥‥」は裏付けがないため慎重に扱いたいが[小川剛生2009]、天皇は伏見宮を継承した第4代貞常親王に「永世伏見殿御所」号と後崇光院の生前の異紋をそのまま位袍などに使用することが許可された。また牛車での参内も許された

 「永世伏見殿御所」とは世襲親王家の公認を意味し『椿葉記』の趣旨を実現したものと解釈されている。

 伏見宮家の宮家継承者は必ず天皇の猶子となって、親王位を維持できるので、皇統嫡系との距離に依存せずに自立し継承される宮家となり、天皇と血縁的に疎隔しても(猶子という擬制で穴埋めし)、親王家としてのステイタスは劣化せず、皇親からフェードアウトしない地位を確立したのである[新田一郎 2011]。

 「永世伏見殿御所号」勅許は裏付けがないといっても、後花園が実弟の伏見宮4代貞常親王を信頼していたことは、『後花園院御消息』で成仁親王(後土御門)に伏見宮の申されたことはないがしろしてはならない旨訓戒し、応仁元年7月には一条兼良と貞常親王を調停のために幕府に派遣していることなどから確実であるので[田村航2018]、否定する材料もない。

 皇室典範で養子が否定されるまで、伏見宮家は、第3代無品貞成(さだふさ)親王より第24代元帥陸軍大将貞愛(さだなる)親王まで、歴代当主が親王宣下を受けているので、それが慣例だったともいえる。

 第七に説示するとおり中世公家法は律令は不変でも解釈によって合法化できた。皇親の定義は実質修正され、世襲親王家が成立する条件が整っており、伏見宮が「別格の宮家」「准天皇家」として完全なる傍系化が回避された[久水俊和2020a]特別の地位を占めたといえる。

四)『椿葉記』に込められた意味を忖度すべき

 『椿葉記』に込められた意味を忖度すべきである。「おほよそ称光院の絶たる跡に皇胤再興あれは、後嵯峨院の御例とも申ぬへし。八幡の御託宣に、椿葉の陰ふたゝひ改としめし給へは其ためしを引て椿葉記と名付侍ることしかり」というのが書名の意味で、土御門皇子(のちの後嵯峨天皇)が、出家しようか悩んでいたとき、石清水八幡宮を参詣し、そこで「椿葉影再改」との神託を得たので学問に励んでいたところ、四条天皇が12歳で急逝され後高倉院皇統は途絶、北条泰時の強い推薦により、順徳皇子を退けて図らずも皇位を継承した『増鏡』や『古今著聞集』にある故事に拠っている。

 「皇胤再興」がキーワードだが、「椿葉影再改」とは『和漢朗詠集』の大江朝綱の漢詩「早春内宴賦聖化万年春詩序」(承平2年932)より採られており、天子となって徳高く久しく栄えるだろうとの句である[秦野裕介2020]。

 つまり「荘子 逍遙遊」によれば、椿葉の影再び改まる八千年をもって一春とする。大昔、大椿という木があって、八千年を春、八千年を秋としていた。椿葉とは永続性のたとえである。

(椿は最高の吉祥木だった。花がポトリと落ちるから縁起が悪いとされたのは江戸時代以降のこと)

 『椿葉記』には「皇位の正統性を承認・守護する神」である八幡神の御託宣により皇位を継承した後嵯峨院の皇子後深草院の正嫡の皇統(崇光院流)の永続の願いが込められている。

 後崇光院太上天皇の存念を現代に生かすべき。この意見書の核心である。だから③案一択しかないと結論する。

 

第七 伏見宮の永代存続は世数制限のある令制においても合法で正当

 親王位は、継嗣令皇兄弟条にあるとおり天皇の兄弟姉妹か皇子女の身位で格別の礼遇であったし、同条では五世王は王号を称するが皇親の範疇にあらずとし皇親には世数制限がある。とはいえ五世王と六世王は不課の特典があり、令制皇親は天皇から血縁が疎隔するとフェードアウトしていく制度設計である。このことと、中世後期以降の世襲親王家が代を重ねても、フェードアウトせず、親王位を再生産するステイタスを維持できる制度であることとは矛盾するのではという疑問を持つ人がいるが、これは矛盾せず、全く合法であると申し上げたい。

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 なるほど13~14世紀には継嗣令では親王位ではない二世王の親王宣下の例は少なくないが、14世紀まで四世王以降の親王宣下はない。上皇や天皇の猶子として三世王の親王宣下の例もあるが後光厳天皇は亀山三世王常磐井宮満仁王の親王宣下の奏請を三世王であることを理由に拒否している[松薗斉2010]。のちに満仁王が親王号欲しさに義満に愛妾を譲り首尾よく願いが叶えられた[小川剛生2005 100頁]。三世王の親王宣下は特例だったのである。それは治天の君の意向いかんであり、この時代には自立的に親王位を再生産できる世襲親王家は存在していない。

 しかし、15世紀には、親王宣下は継嗣令皇兄弟条では皇親ですらない五世王、六世王でも親王宣下が慣例化した。末流の皇胤でも親王位が勅定されうる展開には十分理由があった。

 そもそも唐制では『王・公・侯・伯・子・男』の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の『王』(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず庶流も父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの『王』名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて『王』名号を称するのである[吉田孝『歴史のなかの天皇』岩波新書, 2006] 。つまり唐制と違って皇親は増加しやすく、財政負担が大きい構造になっていた。それゆえ、奈良時代より賜姓による臣籍降下で皇親を減らさざるをえなくなっていた。貞観12年(870年)、豊前王の建議をいれて、王禄を賜う者を429人に限定したのである。

 嵯峨朝には、親王宣下制となり親王位は生得的身位ではなくなった。土地制度が荘園公領制に移行した院政期以降は、皇子の多くが入寺得度し門主となった。宮門跡には所領が付随し、王権を法力で護持するのみならず、宗教ネットワークを掌握するためにも天皇の周囲に配置すべきポストだったし、勅問衆として天皇より意見具申が求められ国政にも関与することは上流貴族と同じである[井原今朝雄2014]。しかし法親王は一代皇族であるから皇統を形成できないので、皇親を大幅に減らした。

 中世においては皇親が出家して寺に入ることで多くの皇統が消えていった。天皇家は、観応3年(1352)践祚の後光厳より、9世代にわたって限嗣単独相続である(下記後光厳皇子の例)。

後光厳天皇(在位1352~1371)の皇子(一子単独相続の典型)

 後円融天皇              御生母    紀仲子(崇賢門院)

 亮仁法親王 (妙法院)       右衛門佐

 行助入道親王(円満院)二品

 覚叡入道親王(梶井)        左京大夫局

 永助入道親王(仁和寺)一品      紀仲子(崇賢門院)

  堯仁法親王 (妙法院)二品

 道円入道親王(青蓮院)       伯耆局

 覚増法親王 (聖護院) 

 寛守法親王 (上乗院)

 明承法親王 (梶井)

 聖助法親王 (本覚院)

 堯性法親王 (妙法院)

 道寛内親王 (大覚寺)

 新しい皇統(天皇家の分家)が形成されていない。後光厳の所領は、光明法皇が辞退した祖母広義門院領だけ相続し、あとは南方との戦闘を得た没官領である。分割できる御料がないので当然のことである。天正17年(1589)後陽成皇弟智仁親王に秀吉より知行三千石が宛行われて、八条宮家が創立されるまで、天皇家に分家はなかった。

 従って在俗皇親は当然血縁的に疎隔する。親王位は勅別当が補され、政所、家政機関が附く以上、家領と近臣を引き継ぐことのできる世襲宮家は適合的な制度だったといえる。15世紀の皇親制度の変容は以上のような歴史的脈絡から必然的なものだったといってもよい 。

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 つまり、15世紀になると、後円融、後小松の実子が少なかったうえ、称光は皇女のみ。後花園も皇子は御一方だけで、辛うじて皇位継承者は持明院統の内輪で確保できたが、天皇の周囲に配置される門跡に入室する人材が払拭していた時期が長かった。

 この事情から、天皇から数えて五世孫以降の末流の皇胤でも上皇や天皇の猶子とされたうえで、親王宣下されることが慣例化した。いずれも大覚寺統の木寺宮か常磐井宮出身の皇族で、北朝に参仕した宮家である(図表参照)。

 五世王親王宣下の初例は、後小松院政の応永26年(1419) 12月21日妙法院新宮と称された明仁法親王と17世御室(仁和寺門跡)承道法親王の親王宣下である。御二方とも木寺宮世平王実子、後二条五世王、後小松院猶子である(『看聞御記』『薩戒記』)。世襲宮家は、天皇家に皇子が少ないときに、宮門跡に入室する人材のプールでもあったのだ[松薗斉 2010]。

 応永26年(1419)後二条五世王の親王宣下は『看聞御記』に記されており『椿葉記』の執筆は永享3年(1431)以降であるから、伏見宮家世襲親王家構想は、五世王の親王宣下が合法化、既成事実化したことをみて、着想されたと推測できるのである。

 継嗣令皇兄弟条は五世王以降を皇親の範疇としてないので、それは便宜的だというかもしれない。しかし中世の律令法は「准的」等の明法家の法技術によって、令義解の原意にこだわらず現状追認的に合法化できるのであって [保田卓 1997]、 猶子という親子関係の擬制で血縁の疎隔を穴埋めすることは、准的「乙は甲と比べてみて、甲と釣り合うもの、同格のものと価値づける」というテクニックで合法になるだろう。

 従って応永26年(1419)の五世王親王宣下以降の展開は、継嗣令の原意である皇親が嫡系から離れてはそのステイタスを維持できず、世代を経るごとに劣化コピーする制度を修正し、皇統の正当性が重要というあり方になったのであり、世襲親王家の成立を可能にした。

 宝徳元年(1449)10月23日、常磐井宮直明王の第二王子勧修寺宮恒弘法親王が後崇光院太上天皇(伏見宮貞成)の猶子として親王宣下を受けた。亀山五世王である『康富記』  [秦野祐介 2020]。五百年来の大学者、一天無双の才人と尊称される一条兼良が現任関白で認めている以上合法である 。

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   天皇・上皇の猶子となることによって、末流の皇胤でも親王位が勅定されうる展開は、現代の永世皇族制の皇室典範の考え方に接近している。しかるべき由緒のある皇統に属する男子であれば、世数で天皇と疎隔した皇胤末流でも皇子に准じた礼遇になりうるということである。後二条直系の木寺宮は後宇多院の譲状により大覚寺統正統、常磐井宮は亀山院遺詔で正嫡とした由緒があり持明院統とは友好関係にあったからこそ親王宣下を受けたとも考えられ、将軍家の庇護のもとにあった後南朝皇胤は親王宣下はなく明らかに差別化されていた 。

 しかし木寺宮や常磐宮は世襲親王家ではない、あくまでも天皇や上皇の意向次第で親王宣下を受ける存在にすぎないが、後崇光院が亀山院系でも格別の由緒のある木寺宮や常磐宮出身の皇族を猶子として庇護している以上、伏見宮の優位性は明らかで、伏見宮が世襲親王家のステイタスたりうるのは納得できるといえるだろう。

 

第八 世数制限は愚策。永世皇族主義で旧皇族を奉載申し上げるべき

 明治22年皇室典範起草の過程で、井上毅は親王宣下と天皇の養子廃止に反対し、世襲親王家は「継嗣を広め、皇基を固くする」ものとしてその存続を主張したが、柳原前光が封建時代の因習という否定的な評価をとったため廃止された[山田敏之2018]。これによって中世由来の天皇の猶子という親子関係の擬制で、諸王に親王宣下される制度はなくなった。血縁の疎隔を穴埋めする准的な制度を失ったことになる。

 歴史的経緯からすれば、特別のステイタスである本当の意味での世襲親王家は伏見宮家である、後小松上皇による伏見宮家の室町院領永代安堵の院宣(応永23年1416)や後花園天皇による「永世伏見殿御所号」勅許(康正2年1456)等の永続性の由緒があるからである。

 近世四親王家は、伏見宮も含め幕府により宛行われた家領を相続する近世領主にすぎないことは他の公家と同じことで、それを「封建的因習」と言っているのだろうが、荘園公領制が衰退し知行充行権を徳川幕府が掌握する以前から、中世の皇室領である室町院領、熱田社領、播磨国衙領等を経済基盤としてきた伏見宮家は格が違うし「封建的因習」によって成立したものでなく、『椿葉記』が説示するとおり後深草院流嫡流を引き、その流儀を継承している宮家として正当性により別格とされたとみるべきである。

 明治4年に伏見宮邦家親王息の三宝院門跡から還俗した載仁親王が継嗣のない世襲親王家、閑院宮家を継承し、同じく邦家親王息の明治14年(1881)に東伏見宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁親王)が世襲親王家に格上げされ、永代存続する伏見宮系の世襲親王家は三家に増加したが、この制度は遺憾ながら廃止された。

 しかも柳原前光は、伏見宮の血統が皇位から遠く、五世以下の皇族は皇系疎遠なるものから降下させる案を伊藤博文に問い賛成を得ていた。井上毅は、五世以下を皇族としないのならば継体天皇の継承に差支えを生じるなどとして反論したという。しかし、枢密院諮詢案の段階で形勢の逆転があり、伊藤博文が豹変し、五世以下の皇族を臣籍降下可能として、疎遠の皇族より適用するという臣籍降下規定が突然削除された。最終的には皇室繁栄のために井上毅や宮内書記官の三宮義胤が言及していた永世皇族主義となったのである[西川誠2019]。

 すなわち「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」、世数制限はないのである。男系が続く限り永世皇族制が採用された。

 皇室典範以前は、山階宮と久邇宮は二代皇族とされ、華頂宮は明治天皇の特旨により、梨本宮は養子によって、北白川宮も兄の能久親王が後嗣となって宮家が継承され存続していたが、旧世襲親王家も含め明治皇室典範により永世皇族制を前提として存続することとなったということである。

 皇室典範施行以後も伏見宮系宮家は増加した。賀陽宮邦憲王(明治25年)は、久邇宮の家督を継承する予定だったが、病身のため弟の邦彦王に家督を譲り、病状が回復し、久邇宮邦彦王が伊藤博文と明治天皇に情願して宮家が創立された。東伏見宮(明治36年)は依仁親王が小松宮の継嗣を停止して創立した。明治39年には三家が創立、竹田宮、朝香宮、東久邇宮であり、いずれも永世皇族制のもとでは横並びであり宮家の格差はなくなった。

 しかし明治40年の皇室典範増補により、永世皇族制を見直し第一條 「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ」とされ、家名を賜い、臣籍に降下し華族に列することが可能となった。大正9年以降、伏見宮系の次男以下の皇族が情願により家名を賜い、華族に列するのが慣例になったといえるが、増補第一条は、臣籍降下を強制するものではなかった。

 ところが第一次大戦後に、大正天皇の皇子四方が無事に成長されたこともあり、皇族は世数制限とし、伏見宮系の永世存続を認めず、排除していく動きが加速した。帝室制度審議会で大正 8(1919)年 1 月より「皇族処分内規案」の検討が開始され、委員の伊東巳代治、平沼騏一郎、岡野敬次郎が世数制限により永世皇族制を放棄し、事実上伏見宮系皇族を整理する方針を打ち出した。

 宮内省側は次男以降のみの臣籍降下案だったが、伊東巳代治が皇族の世数制限実現で妥協せず、大正9年2月までに宮内省との合意により「皇族ノ降下ニ関スル内規」として成立し、2月末大正天皇に上奏、3月3日枢密院に諮詢、審査委員会で若干修正され「皇族ノ降下ニ関スル準則」となり、3月17日の枢密院本会議で満場一致で可決、皇族会議を経て制定されることとなった[永井和2012]。

 「準則」において王(明治皇室典範では4世孫まで親王位とされたので、王とは5世孫以降の皇族にあたる)は長子孫の特例を除いて、家名賜って、臣籍降下し華族に列するとされ、次男以降は多嘉王と邦芳王を例外として臣籍降下とされた。

 長子孫系については8世孫までが皇族で以降が臣籍降下とされた。ただし伏見宮系皇族に特例があり、後伏見15世孫(崇光13世-後崇光11世)邦家親王を4世孫として計算し、邦家親王から数えて4世孫まで皇族のままだが、以降は臣籍降下とするものだった。この計算だと当時の当主から2~3世代まで、伏見宮は博明王、久邇宮は邦昭王までということになる。

 なお枢密院の審議でタイトルの修正があり「準則」とされたため、特殊計算で9世孫は、絶対的、自動的に臣籍降下するものではないが、9世孫は家名を賜り、華族に列するのが原則とするというものである。

 これは永続を約された伏見宮の由緒を全く無視するものといえるが、宮家の消滅を当時より2~3世代以降としたことで、宮内省では受け容れられるものと判断したようである。

 秘密会のため、読売新聞は仄聞により緩やかな宮内省案を推測する報道だった。本当のことは把握されておらず、国民がこれを知るようになったのは平成12年『倉富勇三郎日記』「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」関係抄録(大正8年)」が書陵部紀要で発表されてからのことであった。

 宮内官僚で、のちに枢密院議長を歴任した倉富勇三郎の日記により「準則」の裁可までの経過と、波多野敬直宮内大臣の辞職までの詳細が明らかになったということである。

 当時は成人男子皇族全てが皇室会議の議員で、皇太子以外はすべて伏見宮系だった。元老は皇室会議での異論は天皇の権威が揺らぐのであってはならず形式的に承認するだけと考えていたが、久邇宮邦彦王を中心として、博恭王(伏見宮継嗣子)、博義王、朝香宮鳩彦王、北白川成久王が反対の意向と判明し、可決が困難な不穏な情勢のため4月の皇室会議は突然延期された。

 枢密院議長山縣有朋は久邇宮を説得したが不調、元老との深刻な対立を回避し事態を収拾するため北白川宮成久王が皇族間の調整に乗りだし、宮内省と事前協議したうえ、反対派の発言の自由を保証することを前提として、5月15日皇室会議では議員に利害にかかわるため採決しないで閉会する事前の打ち合わせがなされた[永井和2012]。

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 当日の皇室会議は、ほぼシナリオどおりに展開し、結果的には大正天皇により裁可された(なお、天皇は発語障害がみられ、大正9年3月25日の宮内庁掛の医師による「拝診書」によれば、幼少時の腦膜炎の為故障のある御脳に影響して、御安静を失ったり、お体が傾く事が起こったり、身体の平衡を保つ基が困難な状態であった[杉下守弘2012 小林幸男2003])。

 ただし「準則」は公示されておらず、原敬は皇族会議を通過し制定されたとしているが、この効力について無効とする説、波多野宮相が廃案なのに天皇の御裁可を頂いたのは大暴挙[中川八洋2018]との見解もある。

 しかも会議の数日後、波多野敬直宮相は「皇族会議にて議すへき事項なりとして御諮詢を奏請したるに、皇族会議にて議決せさることゝなりたるは、取調不行届の結果にて、恐懼に堪へす」という趣旨の待罪書を大正天皇に提出した[永井和2012]。これは却下されたが、6月16日皇室会議での不首尾の責任をとって辞職する

「準則」の効力は疑問視せざるをえず、女系容認論者には終戦後の特別な事情がなくても、旧皇族はいずれ臣籍に降下されることになっていたと主張されることがあるが、このプロパガンダに気にとられる必要はない。

 大正8年以降の経緯は、当時南朝正統、北朝抹殺論のご時世であり、崇光院流=伏見宮の皇統上の格別の由緒を無視、永続を約されている由緒を無視しているので不当に思える。先にも述べているように、令制の原意である皇親の世数制限は、日本的「家」の成立期である室町・戦国時代、15世紀以降、令制の皇親制度は、五世王、六世王の末流の皇親でも、天皇の猶子という擬制により、天皇と世数で血縁的に疎隔しても親王宣下が受けられる制度に変容し、それゆえ世襲親王家が制度化したこと。中世の公家法は、令義解の原意にこだわらなくても現状追認的に合法となるので、この法制史的経緯を無視していて、令制の原意にこだわりすぎているものと今日的観点で非難したい。

 伏見宮の永代存続は令制で合法なのである。天皇と世数で疎隔してもステイタスが維持できていた。旧皇室典範も原則は永世皇族制であったのだから、この趣旨にもとづいて皇族に復帰していただくべきである。

 

 

(補遺)中世皇統崇光院流=伏見宮御一流の正当性、皇統上の格別の由緒、永続が約されている意義と、皇室典範以降の諸問題について

(要点 第五~第七の下書きであり重複するが少し詳しい内容なので補遺として掲載する)

(一)伏見宮家が正統・嫡流たる由緒、その証拠もある

 伏見宮御一流には皇統上の格別の由緒がある。『椿葉記』(永享5年1433道欽入道親王著)が説示しているとおり崇光院流=伏見宮家は後深草院以来の正嫡、嫡流を引く由緒を有する。ゆえに永続してしかるべきでなので、旧皇族の方々を奉載申し上げるべきである。

 伏見宮が持明院統の嫡流を引く、正統たる由緒は、次節以下の主として4点である。 

 中世においては嫡流か傍流かという判別は重要な指標である。鎌倉時代の皇位継承において、三種神器だけではなく、太刀契、玄上(琵琶の名器)、鈴鹿(和琴の名器)などが累代御物として伝領されていた。しかし歴代天皇であっても嫡流と、中継ぎ(一代主)とでは差別があった。王家惣領の太上天皇に皇位継承者、所領等経済基盤や両統に分割された文庫等の財産の継承者を決定する権限がある。

 要するに摂関家において殿下渡領という氏長者に相伝する所領、五摂家それぞれの家領があるように、皇室においても皇位継承により相伝される御物と、両皇統の惣領が管理し皇統の正嫡に伝えられる財産に分かれていた。中継ぎの天皇は子孫の皇位継承の見込みがないし、皇統の財産を差配する権限もない。

 直系子孫が皇位継承し、院政を敷くことができるのは原則として正嫡に指定された天皇に限られる。後醍醐のように中継ぎに指定された天皇が全財産を継承しても一期相続なのである。花園や光明は中継の役割に徹したため、持明院統は、14世紀中葉まで分裂せずにすんでいた。しかし大覚寺統では前代以往の治天の君の遺詔や譲状が反故にされ、鎌倉末期には4つの王家に分裂し(大覚寺統正統康仁親王、邦省親王、後醍醐系、恒明親王)が、それぞれ皇位継承の正当性を主張し競望する事態となった。

 1 延文2年(1357)に崇光上皇が嫡流所領の全てを相続した

 観応の擾乱の最終局面(正平7/観応3/1352)、南朝軍が京都に進攻、北朝三上皇、皇太子花園皇子(光厳猶子)直仁親王が拘引され南朝拠点に連れ去られた(次頁地図で示す)。約4~5年虜囚の身となる一方、幕府軍は男山合戦で南朝軍を撃退し、身柄を確保していた崇光弟の芝宮15歳(後光厳)を擁立し北朝を再建したことにより持明院統は分裂状態となる。

 

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 延文2年(1357)光厳法皇は深草金剛寿院、崇光上皇(伏見宮の流祖1334~1398)は城南離宮伏見殿に還御なる。王家惣領の光厳法皇は、譲国の詔宣なく勝手に幕府が擁立した後光厳天皇を「御時宜不快」として認めていなかった。廃太子直仁親王は法体で帰洛し皇位継承を放棄していたため、光厳法皇の承認のもと崇光上皇が、光厳御生母広義門院(西園寺寧子)が保全していた治天の君が管領する全ての財産を相続した。

 『椿葉記』は「抑長講堂領・法金剛院領・熱田社領・同別納・播磨国衙・同別納等は、後深草院以来正統につたはる。然は法皇の御譲を受け上皇御管領あり。御堂御領知行する諸家みなこの院に奉公す」と記し、これが崇光院流を「正統」とする第一の理由である。

 長講堂領は後白河院追善仏事料所巨大所領群で、追善仏事を主催する持明院統惣領は、後白河皇統の継承者を自認していた。

 のちに伏見宮初代栄仁(なかひと)親王となる崇光皇子は当時7歳、この時点で後光厳皇子は降誕していないので、有力な皇位継承候補に浮上した。

 もっとも、崇光上皇は南方に幽閉されて、子孫の皇位継承を断念する起請文を書かされているが、虜囚の身で窮余認めたもので、効力などないことはいうまでもない[vi]

 なお崇光上皇は文和4年(1355)~延文元年(1356)抑留されていた河内国天野金剛寺で、琵琶の秘曲を光厳法皇より伝受され(『秘曲伝授月々例』 [池和田有紀 2020][秦野裕介2020])、治天の君となる嫡流の天皇は秘曲を伝授されており、崇光院を正統とみなす第二の理由となる。

(YouTube 日本史オンライン講座 講師秦野裕介 観応の擾乱 後光厳天皇践祚と持明院統の分立【研究者と学ぶ日本史】2022参照)

 

 しかし、後光厳天皇は、応安3年(1370)光厳天皇7回忌宸筆御八講を清涼殿で盛大に営み、光厳院の継承者たることを顕示したうえで [三島暁子 2012]、皇子(後円融)へ譲位する内意を幕府に伝えた。崇光上皇は巻き返しのため幕府に使者を遣わし『椿葉記』によれば「後深草院以来、正嫡にてまします御理運の次第」を説き、皇子栄仁親王20歳(伏見宮初代)の践祚を申し入れたが管領細川頼之は拒否、後光厳皇子の皇位継承を支持する(『椿葉記』[家永遵嗣2013])。

『椿葉記』は栄仁(なかひと)親王を正嫡と記している、第三の理由である。

 崇光院は正理・正統の皇位継承を求めたが、後光厳及び近臣による幕府と結びつく戦略が上手だった。伏見宮家ではこのことを長く遺恨とする。

 

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 その後、政治力、廷臣の掌握力で勝る足利義満によって崇光院近臣は制圧され、皇位競望は困難になった。応永5年(1398)崇光院崩後、長講堂領等嫡流所領等は没収され、後小松天皇の禁裏御領に編入された[vii]

 栄仁親王は義満により出家を強いられた。親王の発心入道に驚いた伏見宮家司の庭田経有は、「凡そ天照大神以来一流の御正統、既に以て失墜、言語に絶するものなり。只、悲涙に溺れおわんぬ」と同情を惜しまなかった(庭田経有日記応永5年5月26日条)[村田正志 (1983(初出1944)、横井清2002、今谷明1990]。

 伏見宮家の正統意識が強いことを物語っている。

 但し、栄仁親王は、足利義満より萩原宮直仁親王遺領(室町院領)7箇所(伊賀国長田荘、江州山前荘、塩津荘、今西荘、若州松永荘、越前国磯部荘栗田嶋、備中国大嶋保)の相続と、播磨国衙領の返還が認められた。義満に京極流勅撰和歌集『風雅集』正本を贈ったのはその報謝とみられる。義満薨後に一時接収された伏見も幕府により返還され、最晩年には後小松院の所望で天皇家の象徴たる重宝(准累代御物級)である横笛の「柯亭」*[植木朝子 2009]を進献することにより、室町院領全ての永代安堵の院宣等などが下され、世襲宮家として存続できることになった。

  栄仁親王は応永 23 年 11 月 20 日(1416)薨ぜられたが、伏見宮貞成王の『看聞御記』は「ああ登極の御先途ついにもって達せられざるの条、生前の御遺恨この一事にあり」と父の思いの無念を綴っている [桜井栄治 2009]。皇位を傍系から奪還できず、天皇家から宮家に転落したのが伏見宮家であった。

*後宇多天皇御愛用の楽器で、御筥にお入れになり、常に座右に置かれたとある(増鏡)[今井通朗1962]「准累代御物級」「天皇家の象徴」とされるのは、上記の記録から、玄上や鈴鹿と同じく、皇位継承により伝領されていたと推定できるからである。

 

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2 貞治2年(1363)光厳法皇の置文に伏見殿の御子孫が正統とあること

 『椿葉記』によれば貞治2年光厳院置文(1363)に「正統につきて伏見殿(崇光院)の御しそん御管領あるべきよし‥‥」とあり、光厳院は崇光の子孫を嫡流と認定している [村田正志 1984初刊1954]。ゆえに嫡流所領が没収されても嫡流の由緒はどうしても残るのである。

 もっとも置文の正本、案文は現存せず二次史料だが、『椿葉記』の歴史記述は正確であり、叡覧に供される目的で執筆されたので、話を盛っているとは考えにくい。これが、伏見宮が嫡流を引く第四の理由であ る。

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3 持明院統皇統文庫の伏見宮家への伝来

 貴族社会では家記、古記録を伝えている家が嫡流なのである[高橋秀樹1996]。家記の自筆原本・古記録の蔵書が嫡流の証しになる。伏見宮家は嫡流ゆえ持明院統皇統文庫が伝来した。これは14世紀中葉に光厳院が管理した仙洞御文庫目録と15世紀前期に伏見宮が管理した即成院預置目録等の書目が一致するため書誌学的に立証されている[飯倉晴武 2002, 2009,田島公 2004,2006,酒井茂幸 2009]。伏見宮家が嫡流を引く王統といいうる第五の理由である。

 昭和22年12月伏見宮の蔵書は宮内府に788部1666点が寄託され、後に国費で宮内庁書陵部が購入した[飯倉晴武 2002]。現存する最も古いものは延喜19年(919)大江朝綱筆の『紀家集』である[viii]

 伏見宮旧蔵本は、中世の天皇家の蔵書をよく伝え[小川剛生2017]、鎌倉時代後期宸筆宸記のほか記録類も貴重な自筆原本や古写本のほか、琵琶を中心とした楽書もあり充実していると評価され、書誌学的に総合的に判断し中世天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された古文書の一部を伝えてきた以上、嫡流を引く由緒を認めるべきである。

 そもそも、天皇ゆかりの宝物や貴重図書は、原則として大内裏内の倉や文庫にあり、典籍・文書は校書殿、内御書所、一本御書所に保管されていた。

  しかし院政期以降は、歴代御記などは院が管理して、天皇は借覧するあり方になった[井原今朝雄1995]

皇室の蔵書は後嵯峨院崩御時に両統に分割され、日記や政務文書は後深草院に譲られ「和歌并鞠文書」は亀山院に譲られたと伏見院自身が認めているという [小川剛生 2017]。

  応永24年(1417)伏見宮第2代治仁王は中風で頓死、弟の貞(さだ)成(ふさ)王が伏見宮を継承した。無位無官だったが嫡流ゆえ、本来は持明院統の治天の君が管理する文庫推定213合の膨大な古記録・典籍を相続した[飯倉晴武 2002]。応永8年(1401)の伏見殿の火災で、累代御記文書が焼失したとされるが詳細は不明で、この教訓により即成院、法安寺、大光明寺といった伏見の寺に分散して預置するようになったようである。

 近年では、伏見宮第5代邦高親王より三条西実隆が借用した(『実隆公記』延徳2年(1490)八月条)の、歴代天皇宸筆や皇族御筆、三蹟など平安時代の「古筆」のリストが検討され、このうち弘法大師御筆の法華経、称讃浄土経、無垢清光陀羅尼等、智証大師(円珍)筆の転女成仏経、三蹟藤原行成卿筆の心経、諸仏集会陀羅尼経といった経巻が、写本だが東山御文庫にある後白河院蓮華王院宝蔵の蔵書目録と合致し、宝蔵の蔵書の一部は伏見宮家に伝来したことが立証されている[田島公 2004]。

 本来天皇家が管理すべき皇室の重宝級蔵書は伏見宮が伝来していたということである。

伏見宮の蔵書は後小松院政期以降、宸筆宸記等[松薗斉 1997]、重宝級が天皇家に断続的に進献されており、室町殿への報謝[前田雅之 2018]や将軍来訪時の引出物として、貴族や大名、国人等へ下賜、贈答品とされたもの[小川剛生2017]、戦乱時の移動等により散逸等、失われたものは少なくない。

「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしずめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生 2017]ともいわれ、戦国時代の伏見宮家は、土佐一条家との姻戚関係とか今川氏親などへの贈答品などで荘園公領制の衰退による収入減をしのいでいたという見方もできる。

 一方、禁裏文庫は嘉吉3年(1443)禁闕の変で内裏が放火され被害があったほか、応仁文明の乱での被害が大きく、文明8年(1476)の新造内裏類焼で悉く焼失した。その後も歴代天皇は書写、収書活動を続けていく。天文4年(1535)伏見天皇宸記2合が伏見宮第6代貞敦親王より後奈良天皇に進献され(『後奈良天皇宸記』)、後水尾院の文庫に伏見天皇宸記70巻があったという記録があるが[米田雄介 1992]、万治4年(1661)正月に二条家賀子内親王御殿出火で隣接する内裏が焼亡し、禁裏文庫の古筆は悉く焼失しているので、この時失われたと考えられる。幸いにも朝儀に関して後西天皇が書写した副本は難を免れ、親本は失われたが、古典籍、古記録の良質の写本を中心に禁裏文庫は再建され、今日の東山御文庫に伝えられている。

 東山御文庫は、天皇陛下の御物であり、侍従職が管理しているが、霊元天皇以降の禁裏文庫は近世の写本が中心なのである。誤解がないように言っておくと、東山御文庫には伝嵯峨天皇宸筆『李嶠雑詠』、宇多天皇宸筆の『周易抄』、『後鳥羽天皇詠三十首和歌色色紙』という名品があるが、これは近衛忠凞が明治天皇に献上したもので、来歴は新しい [北啓太 2016]。また東山御文庫にある伝醍醐天皇筆「自題山草亭」は、明治5年に伏見宮邦家親王が明治天皇に献上したもので、伏見宮家に伝わっていたものである [田島公 2004]。

 そうしたことから中世の天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された書籍・文書絵画の一部はむしろ伏見宮家によった近代に伝えられたといえる[田島公2006]。

 持明院統の皇統文庫には、王権の荘厳なレガリアともいうべき宇多、醍醐、村上、後朱雀、後鳥羽、順徳の日記があった。後南朝小倉宮より足利義教に進められ、さらに後花園に進献された後三条、後朱雀といった平安時代の天皇の日記は室町時代まであったが、平安時代のものは今日原本も写本もなく、逸文だけが伝わっているだけである。

 そうした諸事情から、もともとあった量からすればかなり少ないとはいえ、伏見宮家で維持された持明院統の天皇の日記は比較的よく残っている。伏見院日記8巻、花園院日記36巻等である。今上陛下が大学卒業時に深い感銘を覚えましたと仰られた花園天皇の『誡太子書』や『学道の御記』も伏見宮旧蔵本にある。

 永享2年(1430)後花園天皇の大嘗会に際して伏見宮より後小松上皇に代々秘蔵の後深草院より三代の『大嘗会記録』『神膳御記』が進献されている。これは失われたとみられるが、伏見宮で維持されたもので、「建暦二年十月供神膳秘記」があり、後鳥羽上皇が順徳天皇に作法を教申せしめたものだが、後深草天皇が抄録して書写したものを伏見天皇が後伏見天皇のために書写したものが現存しているのである[米田雄介 1992]。

 伏見宮旧蔵本の『御産部類記』19巻は醍醐天皇以降の皇子女の誕生に関する貴重な逸文が多い史料だが、鎌倉中期に西園寺家が所蔵していたが、鎌倉末期から南北朝頃に持明院統皇統文庫に移管された[詫間直樹2003]。14世紀中葉の光厳院が管理する仙洞御文庫目録や15世紀前期に伏見宮が管理する即成院預置目録にもある。

 同様に仙洞御文庫目録、即成院預置目録にある書物で、伏見宮旧蔵本として現存するものとして、筆者が調べたところでは、東宮元服部類記、平安後期の『水左記』の自筆原本4巻は、もともと蓮華王院宝蔵の蔵書であったことがわかっているが[田島公2004]、堀河左府記という書名で、また現存の行成卿記(権記)全22巻も仙洞御文庫、即成院預置の双方のリストにある。また双方のリストある本朝世紀は散逸した部分があるが現存しているものがある。中右記1巻と、台記(鎌倉写)8巻は、宇治左府記という書名で即成院預置目録にある。

 現存する伏見宮本、小右記32巻(野府記-鎌倉写)は前田家(旧三条西家)本とともに最も古い写本なので貴重だが、仙洞御文庫目録にみあたらないので室町時代以降に宮家に伝来したものかもしれない。

 いずれにせよ光厳院の仙洞御文庫にあったものが伏見宮に伝来し、その文庫の一部は昭和22年まで維持され、現存していることが確認できるので[飯倉晴武2009]、これは嫡流を引く家系である物的証拠といえるのである。

 現存する古記録が嫡流の由緒を物語っているのだから、この王統の正当性を主張できる。

4 琵琶の習得、秘曲の伝受という嫡流の流儀の継承

 中世において管弦は帝王学の要であり、儒教の礼楽思想により管弦に秀でることが有徳の君主の証とされ、天皇は特定の楽器を熱心に習得した [豊永聡美 2001,2017] [相馬真理子 1997]。

 器物として平安中期より笛が天皇の習得すべきものとされていたが、二条天皇が琵琶を好まれ、後鳥羽、順徳が琵琶の累代楽器「玄上」を弾奏した由緒から [五味文彦 2006,坂井孝一2018]、累代楽器の権威構造は累代御物「玄上」-大嘗会の清暑堂御神楽-琵琶の秘曲伝授が中心となり[猪瀬千尋 2018]、琵琶が管弦首座として重視されるに至った。

 後深草院は亀山天皇に琵琶の秘曲伝受で先を越されたことを悔やまれ、立て続けに秘曲の伝授を受けた[阿部泰郎 2018]。その甲斐あって、御遊では後深草院が琵琶を弾き、亀山院は笛の吹奏が慣例化したので、持明院統では琵琶の弾奏は譲れない。皇統の正統性にかかわるものとして後深草院流嫡流の天皇は琵琶の習練が必須となった。中継ぎに指定された花園院や光明院の帝器は笛であり、嫡流の天皇とは明確に差別化されていた。

 持明院統嫡流の後深草-伏見-後伏見-光厳-崇光-栄仁親王-治仁王は、最秘曲の啄木を伝授されている。貞成親王以降は啄木の伝授は受けてないが、貞常親王、邦高親王、貞敦親王は楊真操、両流泉といった秘曲の伝授を受けた[猪瀬千尋 2018]。

 つまり、伏見宮家は、琵琶の秘曲を伝承する家でもあり、それが持明院統正嫡の流儀なのであった。

 一方後光厳院流の帝器は笙であり、後花園は実父が琵琶を強く勧め、練習用の楽器も進献されたにもかかわらず笙を帝器とし嫡流の流儀を継承しなかった。

 文明14年(1482)後花園院13回忌の御懴法講では後土御門天皇の笙の御所作に、伏見宮邦高親王が琵琶を合わせていた [三島暁子 2012]。後深草院流以来の流儀を継承していることが、完全に傍系化しない「別格の宮家」であるゆえんである。伏見宮が嫡流を引く第二の理由であることすでに述べたとおり。

 

5 伏見宮家は18世紀後半においても『椿葉記』の由緒により嫡流を自認していた

 伏見宮16代邦忠親王は病を得て宝暦9年(1760)6月2日に薨去する。継嗣とすべき男子のいなかった親王は、伏見宮家は「崇光院已来嫡流格別之家筋」であるので「系脈無断絶速相続被仰出」て欲しいと、亡くなる前に御内儀へ願い出ていた(広橋兼胤公武御用日記5月25日の条)[松澤克行・荒木裕2008]。

 嫡流を絶やさないために実系相続にこだわる伏見宮家は『椿葉記』の由緒などを理由に竹園連枝(邦忠親王弟)で勧修寺に入寺得度した寛宝入道親王の還俗を嘆願したにもかかわらず、桃園皇子で後桃園天皇の同母弟が伏見宮を相続し血筋は中切れになるが、17代貞行親王は13歳で薨ぜられたので再び空主となる。しかし朝廷は空主のまま皇子が降誕された時のポストとする考え方だった。

 伏見宮家は奥の手を使う。紀州徳川家と代々姻戚関係があり、将軍吉宗、家重の正室が伏見宮家の女王だった。この縁故により大奥取締松島を伝手として将軍徳川家治に直訴し、将軍が朝廷に伏見宮の実系相続を要請したことで、安永3年(1774)寛宝入道親王が還俗して18代邦頼親王となり実系相続が継続された[武部敏夫 1960]。

 血筋の中切れを嫌い、実系継承を続行させる矜持は、嫡流の自認にあり、流祖の崇光院崩御から380年近くたった時のことであるが、現在は630年近く経過しているが、表向き皇統正系ではなくても400年たっても嫡流を意識されているということは、600年たっても同じことであると思う。

 

(二)後崇光院が本格的な太上天皇であった決定的意義

1 伏見宮は太上天皇尊号宣下の一点突破で皇統の付け替えを画策

 伏見宮家が正統、嫡流の意識を持ち続けたのは、後花園天皇が後小松上皇の御猶子とされたうえで践祚され、後光厳院流の継承者となり、崇光院流の流儀を継承しなかった歴史的経緯による。

 応永26年(1419)伏見宮第3代貞成王に男子が誕生、のちの後花園天皇(御生母は敷政門院、庭田重有女幸子)である。

 貞成王が応永28年(1421)8月に石清水八幡宮に代参を立て奉納祈願した願文は、無位無官を脱すること。旧領の相伝の本復。自らが「皇統」の「嫡流」「正嫡」であり、「小児息災安穏にして一流万代に相続せしめ給へ」と念じ、嫡流が不遇の境界に置かれるのは道理に合わぬという懸命の祈請立願であった [横井清 2002]。

 後小松上皇、称光天皇健在なので過激な文章といえるが[位藤邦生1991]、それだけ強い正統、嫡流意識を持ち続けたということである、この崇光院流永続の祈願は昭和22年まで宮家が存続した以上、大筋において実現したというのが凄いことだといえる。

 翌年伏見を訪れた足利義持に、貞成王は秘蔵の『宮滝御幸記』(菅原道真)を贈つたところ喜ばれ、仙洞御所に義持が参上した際も、伏見若宮がずいぶんと話題になったという[横井清 2002]。応永30年には称光の弟で儲君とされていた小川宮が変死、称光天皇は病弱で後嗣なく、伏見宮にとって一陽来復の好機が到来した。

 応永31年(1424)伏見宮貞成王は、訴訟事に便宜をはかってもらうため後小松上皇に後深草院以来相伝の『寛平御記』『延喜御記』、『朝覲行幸記』三合、『諸社諸寺御幸記』の御記五合を進献しているが、宇多、醍醐の二代御記は重宝であり、上皇から特に感謝された [古藤真平 2018]。翌年の親王宣下とは無関係とはいえないだろう

 応永32年(1425)に後小松上皇より伏見宮へ後円融天皇33回忌宸筆御八講の写経供養の助筆の依頼があり、これを梃子にして念願の親王宣下を奏請し4月16日後小松院の猶子として勅定された。当時の親王宣下は治天の君の意向次第であるが、時に54歳だった。

 6月28日後嗣のない称光天皇が出奔未遂を起こす。天皇が平曲を聴くため琵琶法師を宮中に呼ぼうとしたところ、後小松上皇より前例がないとしてダメ出しされた。天皇は使者を怒鳴りつけ逐電を企てた。女官が必死に押しとどめ、足利義持がかけつけて説得にあたったが、天皇は上皇への不満をぶちまけ、伏見宮貞成を猶子にしたことに反発した。それゆえ貞成親王を出家させる以外に、神経質な称光天皇を宥める手段がなく、親王宣下の4ヶ月後の7月薙髪して道欽入道親王となる。

 とはいえ貞成親王は上皇より年長なので、皇位継承のための猶子だったという想定には疑問がある。伏見宮の期待は7歳の若宮にかかっていたのであり、この年に次男(のちの伏見宮4代貞常親王)も誕生していて、法体になったダメージは大きなものではないといえる。

 正長元年(1428)7月称光天皇が御発病あらせられ、後小松上皇と関白二条持基の合意により[石原比伊呂2018]、称光崩御の3日前に伏見若宮御歳10歳が仙洞御所に入御された。後小松上皇と対面し「後小松院の御所生の如く御父子の儀を契約せられ」たのち新内裏で践祚した『建内記』[村田正志1983 初出1944]。

 後光厳院流の実系は四代で途絶した。伏見宮道欽入道親王は「天照大神、正八幡大菩薩の神慮とはいえ、ふしきなる御果報、幸運眉目にてあらすや」(『椿葉記』草本乙巻) [村田正志 1954初刊、1984]と若宮践祚を喜びつつも、新帝とは他人の関係とされてしまったことには当然納得していなかった。

 それゆえ伏見宮道欽入道親王が永享6年(1434)に奏進した『椿葉記』は、崇光院流こそ正統と新帝に悟っていだだく目的で書かれ、「御猶子は一代の御契約にて、誠の父母の御末にてこそわたらせ給へ」と述べ、御猶子関係は、一代限りの契約でその子孫には及ばず真実の父母の御子孫が皇統となるとしている。

 そして帝に非ざる皇族が史上初太上天皇尊号を拝受した承久3年(1221)の後高倉院(高倉皇子守貞親王)の先例に拠って、太上天皇尊号を拝受する意向を奏上し、この一点突破で、後小松崩後に猶子関係の実質解消を示唆したうえで、後花園登極を正統たる崇光院流の再興と位置づけたい旨を記述している。

  足利義教が伏見宮に好意的で自信を持たれたのか、親王は正統再興のため後花園元服前の永享3年7月に太上天皇尊号が勅定されるよう神仏への祈願を開始している。

  まず後深草院聖忌に後深草院宸筆法華経を長講堂に奉納した。本気だ。嫡流はこちらだと主張しているのも同然で、上皇のお耳には絶対に入らぬよう隠密に事を運んだ。

翌月、石清水八幡宮に鹿毛の馬と和歌を添えた願文を奉納した[横井清2002 313頁以下][秦野裕介2020]。

和歌三首

「いにしへのためしあればと 祈るてふ 我が理を 神は知るらむ」

「君が代に遭ふは嬉しき 老いが身に のこる望みを 哀れとも知れ」

「吾れ人の数ならずとも 男山 さか行く末を 守らざらめや」

 このほか石山寺詣でも祈願し、長谷寺には庭田三位に願書を託した。

伏見宮がこれほど尊号勅定にこだわったのは、後花園天皇の皇統属性を決するからである。

例えば光仁実父の志貴皇子は叙位もなかった皇族だが、薨去の54後に追尊して春日宮御宇天皇号を受けた。桓武天皇は延暦12年平安京遷都の報告を山階(天智)、後田原(光仁)、先田原(春日宮御宇天皇)山陵に行っており[利行榧美2006]、天武系の聖武は排除され、天武より天智皇統への交替は、祖父が追尊天皇(志貴皇子)であることにより明確になったということである。『椿葉記』は追尊天皇ではなく、生前の太上天皇尊号拝受を望むものである。

  一方、朝廷では伏見宮が尊号を望み皇統の付け替えを画策していることはおそらく察知されていたのだろう。

 永享5年(1433)後小松院崩御。御遺詔は、伏見宮を仙洞御所に移徙させてはならない。伏見宮に尊号宣下してはならない。追号は後小松院とするの三点で、後光厳院流皇統の万歳継帝を望む趣旨であった[村田正志 (1983初出1944)]後小松遺詔遵守派の三宝院満済、一条兼良らは諒闇を主張し、伏見宮贔屓の足利義教と二条持基らは反対して籤引きに持ち込んだが、2対1で諒闇に決した。

 しかし公家の家領を安堵する朝廷の実権者でもある左大臣足利義教は、後小松院仙洞御所を破却し、永享7年主要な寝殿・対屋等を移築して一条東洞院伏見殿御所を造営、御遺詔は事実上反故にされたともいえる。伏見宮が伏見より洛中に移徙され中央政界に復帰し、威信は高まった。伏見宮は永享8年報謝として京極流の勅撰和歌集『玉葉集』正本を義教に贈っている[末柄豊 2011]。また仙洞御所跡地は伏見宮領となった。

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 ところが後花園は実父の要望を黙殺し続けた。この後、後花園親政で嘉吉の変、禁闕の変を乗り切った後、文安4年(1447)11月になって道欽入道親王(伏見宮貞成)はやっと太上天皇尊号宣下を拝受することができた。

 時に77歳。後小松崩御から14年はあまりにも待たされ過ぎである。万里小路時房のような強硬に反対する公家の存在もあったが、なによりも後花園天皇が後小松院を慕っていて[秦野裕介2020]、国を譲られた重恩により御遺詔を重んじたゆえ、尊号宣下には慎重だったと推測されている。

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2 実父でなく兄とされた太上天皇尊号宣下詔書と皇統問題

 帝に非ざる皇族の太上天皇尊号宣下は当時の認識では(後高倉、後亀山)に続いて3例めであるが、結果的に万里小路時房が後高倉の例と同族への厚意としての後亀山の例(明徳5年1394)の中間の位置づけなら反対しないと折り合ったので実現した(朝廷は南朝を公式に認めていないので、後亀山の尊号は不登極帝の特例としての扱い、南朝による正平の光明・崇光の扱いと同じ)。

 近年、文安4年の太上天皇尊号宣下の詔書が解明され、後崇光院は天皇の父ではなく傍親とされ、傍親への格別の厚意としての尊号宣下とし、この巧妙な術策により後小松院御遺詔との整合性が図られた。

 康正2年(1456)の後崇光院(伏見宮貞成)の葬礼で後花園天皇が錫紵装束であったのは「御兄弟分」としての特例であった[田村航2018]。

 貞成王は後小松上皇の猶子となって親王宣下を受けており、それゆえ「兄」にあたるとされたのである。従って天皇家とは、猶子という親子関係の擬制による継承も含む、後光厳院流の直系の皇統なのであり、18世紀後半の光格天皇も後桃園の養子とされたので、後光厳以降皇統転換はなされず直系継承なのである。そして伏見宮だけが崇光院流ということになり、通説の天皇家も伏見宮も崇光院流とする村田説が否定され、皇統問題は決着したのである。

 結局『椿葉記』は天皇家を正統たる崇光院流とする目的で執筆されたが、そうならず、伏見宮家が永代存続する皇統上の格別の由緒として伝えられることになったといえる。

 後花園が後小松御遺詔を反故にしなかったのは、道義として当然だろう。実父は伏見宮であっても家督継承上の父は後小松院だからである。

 後世の尊号一件の松平定信の理屈と同じことである。天皇や皇太子は帝王学として学問(『孝経』四書五経、史書、漢詩文)や和歌の修養のほか管弦楽器の稽古を行うが、後花園は清原業忠に師事して永享11年『礼記』、嘉吉元年に『春秋左氏伝』を学び、「御利性、言語道断の御事なり」とその利発さを絶賛されている[菅原正子2014]。

 近年では後花園天皇は、「ずば抜けて高い君主の資質」「日本を往古から理想とした、《礼》をよく実践する国に脱皮させた」 [桃崎有一郎 2020] と歴史家の評価が高い。近来の英主たる所以である。

 ただし、後小松院御遺詔を重んじたことは伏見宮を蔑ろにしたわけではないのである。例えば、寛正3年(1462)皇儲に確定した皇子成仁王(後土御門)を説諭する『後花園院御消息』でことに伏見殿(貞常親王)に対して敬意を表することを説き [田村航 2020]、応仁元年(1467)7月後花園上皇は、関白再補の一条兼良と式部卿伏見宮貞常親王を勅使として、応仁の乱の調停のため幕府に派遣した [田村航 2013]。

 むしろ後花園より親崇光院流とみなされているのが、伏見宮家で養育された後土御門天皇である。伏見宮や竹園連枝(伏見宮の実弟、宮門跡、禅僧)は宮廷の文芸、遊戯、遊興的行事の多くに召され参仕しており、例えば長享3年3月5日5の庚申和歌御会は、皇族だけの内々の徹夜行事で、天皇、勝仁親王(後柏原)、伏見宮邦高親王、道永法親王、常信法親王、宗山等貴といった天皇家と伏見宮、竹園連枝が約60首を詠じている[朝倉尚 1990]。後土御門が和漢連句文芸を好んだのも伏見宮家で養育された影響だった[小山順子2021]。後土御門は伏見指月に般舟三昧院を建立し、後光厳院流の泉涌寺に対抗した天皇家の第二の御寺になった[久水俊和, 2020b] [秦野裕介, YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」, 2020] [川上貢(1960)][伊藤唯真(1982)]。

 般舟三昧院の建立は、伏見宮家の菩提寺大光明寺と近接しているのだから、明らかに親伏見宮を意味する。

 後柏原天皇も御生母が庭田家で外戚が伏見宮と共通したことからやはり伏見宮や連枝と親しく、後柏原、後奈良は先帝の中陰仏事を般舟三昧院としていることなどから、少なくともこの三代の天皇は親崇光院流なので皇統問題はそのような意味でなお検討の余地を残してはいるとはいえる。

 

2 後崇光院は本格的な太上天皇であり伏見宮の威信を高めた

 名目上、実父でなく兄弟分で直系尊属にされなかったが、太上天皇尊号拝受は明らかに伏見宮の威信を高めたのである。当時旧三条実量邸が仙洞仮御所(最晩年に一条東洞院伏見殿御所に還御)であるが、御所の室礼と扈従公卿の行粧が整えられ、後崇光は繧繝畳に着座し、晴儀で公事が執行された[久水俊和 2020a]。

 文安5年より元旦には「院拝礼事」が毎年行われ、関白一条兼良、五摂家の近衛教基以下、公家衆より拝賀を受けた。正月十日の将軍足利義政の「院参」も恒例行事として定着するようになった。同時代人より「仙洞」「法皇」「院御所」と称され[田村航2018]、正真正銘の至尊たる太上天皇であった。

 院拝礼事で関白以下の拝賀を受けたことは、伏見宮が別格の宮家となった理由の一つだろう。

 康正2年(1459)後崇光院崩後、伏見宮家の所伝によれば、第4代伏見宮二品式部卿貞常親王に「永代伏見殿御所」号、後崇光院の紋の使用、牛車による参内が勅許された。それはたんに、実弟ゆえの厚遇ではなく、崇光院流=伏見宮は、格別の由緒と嫡流の流儀を継承している正当性ゆえとみてよいと思われる。

 久水俊和[2020a]によれば「崇光院流の流儀は王家のなかでは別格であり」、伏見宮家は「崇光院流の正当性を担保し」「皇位継承への一縷の望みを遺す世襲親王家に転成した」、「別格の宮家」「准天皇家」とされる  。伏見宮は完全なる傍流化を回避されたということを言っている。

 4代貞常親王の元服加冠役は関白二条持基で後花園天皇と同じ。5代邦高親王の元服加冠役は准后前左大臣足利義政で後年の後柏原天皇(勝仁親王)と同じで将軍家が後見者とされた[小倉慈司2010]。

 この後、伏見宮は、天皇家と血縁的に疎隔しても親王家としてのステイタスは劣化せず、皇親の身分からフェードアウトしない自立した世襲親王家という特別のステイタスを獲得した。

 第3代の後崇光院太上天皇(貞成親王)以来第22・24代貞愛親王(崇光15世王・元帥陸軍大将)まで、歴代当主は親王宣下を受けている。

 明治22年の皇室典範で世襲親王制度は廃止され、第25代伏見宮博恭王(元帥海軍大将・軍令部総長)以降、伏見宮は王号を称するが、昭和22年に第26代博明王(崇光18世王)が皇籍を離脱するまで、流祖崇光院崩御より約550年、式部卿や中務卿等に任用され、しかも他流を交えず(例外、桃園皇子17代貞行親王)、実系継承で皇族の崇班を継承した意義は甚大である。

 

(三)伏見宮の永続性には合法的な根拠がある

 中世皇統である伏見宮に永続性の由緒があることを強調したるい。柱は次の3点である

 

1 応永23年後小松上皇より室町院領永代安堵の勅裁

 伏見宮初代栄仁親王は、室町院領(後高倉皇統追善仏事料所荘園群-萩原宮遺領)について応永23年(1416)に後小松上皇より「永代」安堵の院宣を得ている。これは白根陽子[ 2018]の専論で詳しく研究さ れている。『看聞御記』応永23・9・3条によれば「室町院領永代可有御管領之由載勅裁(中略)殊更永代字被載之条、御本望満足珍重也」。永代安堵については、植田真平・大澤 泉[2015]が『看聞御記』のほか『後小松院御消息類』、後小松上皇書状案 図書寮文庫所蔵 伏-七九四 『後崇光院御文類』栄仁親王書状案 図書寮文庫所蔵 伏-七六五を史料として参照指示している。

 伏見宮家は、皇室領の一部を治天の君により永代安堵されたのだから、この由緒を重んじ、政府は伏見宮に永代存続の意義を認めるべきだ。

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2 『椿葉記』の伏見宮家当主を永代天皇の猶子となし奉る構想の奏上

 『椿葉記』(著者・道欽入道親王=伏見宮貞成)は、後光厳院流天皇家も崇光院流伏見宮も実系では崇光院流一統になったのだから、過去のように不仲となることなく親睦にして、将来永く疎隔あるまじきこと。そのために伏見宮の若宮を始終御猶子となし奉るべきことを実父からの要望として奏上している[村田正志 1984初刊1954]。これは、伏見宮を世襲親王家とする構想である[小川剛生2009][田村航 2018]。

『椿葉記』は朝廷が公認した歴史書でないが、至尊たる太上天皇になられた方の著作である以上、政府は『椿葉記』の由緒に基づく伏見宮の永続性を認めるべきだ。

 

3 康正2年の後花園天皇より「永世伏見殿御所」号を勅許されたという所伝

 康正2年10月(1456)の伏見宮系譜「貞常親王御記」の伏見宮第4代二品式部卿貞常親王が、後花園天皇より「永世伏見殿御所」号を勅許されたという所伝は、裏付ける史料がなく慎重に扱うが、この意味は世襲親王家の公認であり、近年これを伏見宮家の「永世」にわたる存続を約されたものとして、あるいは、②の実父の意向に天皇が応えたものとして、積極的に評価する歴史家が多い[ix]。それは当時、世襲親王家が成立する客観的条件が整っており辻褄が合うからである。天皇や上皇の猶子という親子関係の擬制により、准的に皇子に准じた礼遇とされることにより、五世王、六世王の親王宣下が15世紀に慣例化(合法化と言ってもよい-図表「五世王、六世王の親王宣下」参照)されたことにより皇親概念に世数制限が事実上なくなったことがある[松薗斉2010][x]

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(大覚寺統系図)

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 令制では五世王、六世王は不課の特典が認められていたが、継嗣令皇兄弟条の原意では皇親の範疇にはない。にもかかわらず、親王宣下された。

 従って、仮に「永世伏見殿御所」勅許の所伝を疑うとしても、伏見宮家は永続性のある世襲親王家であることが事実上公認されていたことに変わりないし、それは15世紀に天皇や上皇の猶子と親子関係の擬制により血縁の疎隔を穴埋めして、しかるべき皇統の御子孫ならば世数制限を問題にしなくなった歴史的経緯により、合法的な制度として説明できる。

 それゆえ550年間、皇族の崇班を継承し、皇統嫡系の後光厳院流天皇家と併存してきた。

 

(四)幕末維新期以降 伏見宮系皇族の繁栄の意味

 幕末維新期に、皇室の脱仏教化がトレンドとなって伏見宮系の門跡が続々と還俗、宮家が創設された。勧修寺門跡だった山階宮晃親王が元来仏教に批判的で、文久以降慶応年間にかけて、島津久光らに対して宮門跡の還俗を主張し、皇族の出家や門跡寺院の制度そのものの廃止を盛んに訴えていた[藤田大誠2006]。   明治元年には皇族の出家が禁止された。晃親王は律令体制を理想としており、還俗を促した目的は、皇族を政治勢力として成長させることにあったという見方がある[熊野秀一2014]。

 院政期以降、大多数の皇子は入寺得度して法親王もしくは入道親王となった。そもそも法親王は院権力による顕密仏教統制を目的として白河院によって創出された制度とされるが、天皇の周囲に配置され、法力によって王権を護持する。門跡寺院には寺領が付随しており、宮門跡は寺領経営体トップの一代皇族である。

 16世紀初頭において、宮門跡や比丘尼御所は、摂家・清華家と同じく「勅問の輩」にあたり、天皇の国家意志決定過程において、天皇から勅問衆として選択されて意見具申を求められた特権公家層との位置づけがなされ、門跡領は広義の禁裏御料として保護された[井原今朝男 2014]。

 15世紀以降、天皇家に皇子が少ない時期がしばしばあって、世襲宮家が宮門跡に入室する人材を供給した。伏見宮家では15世紀から19世紀まで宮門跡を多数輩出した実績が認められる。

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 東山時代に御室は木寺宮出身だが、梶井、上乗院(仁和寺脇門跡)、勧修寺、妙法院、竹内(曼殊院)、聖護院が伏見宮邦高親王の実弟で占められていた。道永法親王(仁和寺脇門跡)や常信法親王(勧修寺門跡)が後土御門天皇の宮廷で文芸、遊戯的行事に参仕している[朝倉尚 1990]。

 天正15年の秀吉の関白就任時は、御室、青蓮院、妙法院、梶井が伏見宮出身者で占めていた。幕末期も伏見宮系の門跡が多かった時期にあたる。

 近世門跡の研究では、宮門跡の実父や養父にあたる天皇家や親王家は門跡の運営にも関与し、門跡寺院組織構成員が親王家当主に伺いを立て、門跡は皇室や宮家の統制を受けていた。

 したがって、幕末維新期に在俗親王家が多数創立されたことは、明治になって突然伏見宮系皇族が増えたというわけではない。時代によっては伏見宮連枝が法親王として多くを占めていたわけである。

 幕末期に青蓮院門跡であった中川宮(文久3/1863、その後賀陽宮、久邇宮)、勧修寺門跡であった山階宮(文久4/1864)、30世御室仁和寺宮(慶応2年/その後、東伏見宮、小松宮と改称)が還俗。

 王政復古を契機に慶応4年(明治元年/1868)に聖護院宮(慶応 4年 8 月に嘉言親王の薨去により消滅)、知恩院門跡より華頂宮、梶井門跡より梶井宮(その後、梨本宮と改称)、聖護院に入寺した信仁入道親王が照高院宮(その後、聖護院宮、北白川宮を改称)としてそれぞれ還俗して創立され、明治4年に三宝院門跡から還俗した伏見宮出身の載仁親王が継嗣のない世襲親王家、閑院宮家を継承し、明治14年(1881)に東伏見宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁親王)が世襲親王家に格上げされ、永代存続する伏見宮系の世襲親王家は三家となっている。山階宮と久邇宮は二代皇族とされ、華頂宮は特旨により、梨本宮は養子によって、北白川宮も兄の能久親王が後嗣となって宮家が継承され存続、さらに明治皇室典範により永世皇族制を前提として存続することとなった。

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 ここでは、久邇宮、山階宮、小松宮、北白川宮創立等の経緯を記す。

〇久邇宮

 幕末期の最初の還俗の例は、青蓮院門跡だった中川宮朝彦親王(伏見宮邦家親王第4王子、その後、一会桑政権と連携していた時期に賀陽宮と改称、一時宮号の停止後、久邇宮と称する。)であるが、文久2年還俗以前に国事御用掛に任命されており、文久3年(1863年)一橋慶喜の建白により還俗し、公武合体(親幕)派として、同年の8月18日の政変(尊皇攘夷過激派を京都から追放した)で宮廷を動かし、孝明天皇、慶喜を陰で支えるなど大きな影響力があった[徳田武2011]。

 しかし第二次長州征伐失敗で失脚状態になり、尊攘派から「陰謀の宮」と憎まれ、明治元年には親王位を剥奪されるが、明治8年に久邇宮として復位。京都のかつて親子内親王所有だった下立売門内の土地を宮邸とする。伊勢神宮の祭主に就任、明治15年に神宮皇學館を設置した。

 梨本宮守正王、皇室典範以降創立の賀陽宮、朝香宮、東久邇宮は久邇宮朝彦親王の御子孫である。

〇山階宮

 勧修寺門跡だった山階宮晃親王(伏見宮邦家親王第一王子)の還俗は、雄藩が朝廷改革を志向し、提携できる皇族とみなされたためで、一橋慶喜、松平慶永、松平容保、伊達宗城、島津久光の連署による願出による。孝明天皇が不快感を抱いたため朝廷の抵抗があったが、薩摩藩が主体となった運動により還俗の道が開かれた。

 慶応元年以降は、幕府と結びついた中川宮や二条斉敬の朝廷主流派に対抗し、正親町三条実愛ともに朝廷内の王政復古派を形成、孝明天皇により国事御用掛を罷免、蟄居に追い込まれたが、孝明天皇崩御で復権した[高久嶺之介1981、熊野秀一2014]。王政復古後、議定・外国事務総督に就き、明治政府の外交トップとなった。

〇小松宮

 嘉彰親王は、邦家親王の第8王子で仁和寺門跡から還俗し、仁和寺宮→東伏見宮→小松宮彰仁親王と改め、明治新政府議定、軍事総裁、奥羽征討総督等の維新以来の功労が認められ、明治14年に家格を世襲親王家に改められる。明治23年陸軍大将、31年元帥。36年薨去、国葬を賜る。

〇北白川宮

 邦家親王第13王子の初代智成親王は17歳で明治5年に薨去。邦家親王の第9王子の兄能久王を後嗣と遺言した。第2代北白川宮能久王とは輪王寺宮門跡公現入道親王であった。戊辰戦争で奥羽列藩同盟の盟主として擁立され「東武天皇」だったという説がある。仙台藩が降伏し新政府により処分を受け親王位を解かれていた。明治11年親王位に復位、日清戦争では近衛師団長として出征。戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、明治28年現地でマラリアに罹り薨去。国葬を賜る。

 竹田宮は能久親王の御子孫である。

 次代の北白川宮成久王はフランスの陸軍士官学校に留学、大正12年パリ郊外の自動車事故により35歳で薨去。3代北白川宮永久王は日華事変に出征、昭和15年蒙疆方面で演習中、軍用機の不時着事故のため31歳で薨去[中島武1942]。

 明治期の伏見宮系皇族の繁栄は、一品式部卿伏見宮邦家親王が子だくさんのうえ、無事に成人した男子が比較的多かったことによるが、それは伏見宮家が特別のステイタスにより実系で継承されてきたためであり、15世紀以降、天皇家の皇子が少ない時期に伏見宮が宮門跡となる人材を輩出してきた実績の延長線上にある。後崇光院太上天皇が親王時代に『椿葉記』で伏見宮家の世襲親王家構想を奏上した意義は大きかったし、石清水八幡宮などに崇光院流が正統だとして永続を祈願したことがかなり効いているというほかないだろう。

 一方天皇家は桜町天皇から明治天皇まで七代の男帝は、皇子が比較的少ないだけでなく、無事に成長した皇子が極端に少なかった。対照的といえるだろう。実績からして伏見宮御一流の復籍が安全安心なのである。

 〇桂宮家の途絶

 伏見宮に次いで古い八条宮の系譜の桂宮は霊元皇子の京極宮が実系三代で途絶し、光格皇子の盛仁親王が空主だった京極宮を相続、桂宮として幕府より三千石余の世襲親王家では最大の知行が認められたが2歳で夭折、空主の後、仁孝皇子の節仁親王が相続したが4歳で夭折されたので長期にわたって空主だった。文久2年に桂宮の諸大夫より閑院宮愛仁親王と婚約したが親王の早世で結婚できず住居を転々としていた仁孝皇女淑子内親王の相続を願出があり、幕府が承認したため、異例だが淑子内親王が相続、但し非婚であるため明治14年薨去により桂宮は途絶している。

 

 〇有栖川宮家の途絶

 有栖川宮家は、霊元皇子職仁親王より5世代6代、実系で継承されていたが、明治41年に嗣子栽仁王薨去で継嗣がなく、皇室典範で養子相続が否定されたため宮家の断絶が確定、威仁親王妃薨去の大正13年で正式に絶家となる。祭祀は高松宮が承継、有栖川宮家の良質の蔵書は高松宮親王妃により国に寄贈され、現在高松宮伝来禁裏本として国立民俗博物館が管理している。

 閑院宮家は初代東山皇子直仁親王より5代愛仁親王まで実系で継承されたが、愛仁親王が嗣子なく早世、従来宮家の血筋が中切れになった場合、相続できるのは皇子に限られ、伏見宮家出身者が相続することはなかった。しかし皇子がいないので、明治4年に邦家親王第16皇子載仁親王が相続したので血筋は伏見宮系になっている。したがって有栖川宮家が絶家となった後、皇室典範のもとで存続する宮家は、大正天皇の直宮のほかはすべて伏見宮系となった。

 

(京極宮/桂宮、有栖川宮、閑院宮系図)

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(五)旧皇室典範の問題点

1 世襲親王家の廃止

 明治22年(1889)旧皇室典範によって、歴代が天皇の猶子という親子関係の擬制により、血縁が疎隔しても皇子に准じた礼遇として親王宣下を受ける世襲親王家は廃止されることとなり宮家の格差をなくし、養子相続も否定されることになった。伏見宮、閑院宮が親王号でなく王号を称するようにしたのは明らかに格下げといえる。

 つまり、令制では親王家には親王庁(政所)が附属し廷臣を従える格別の待遇だった。『江家次第』などによれば、公卿のうちから勅別当が指名され、家司・御監・職事・侍者・蔵人が補された。応安元年(1368)栄仁親王(伏見宮初代)の親王宣下では本所の儀という親王庁の構成員を任命する、王朝時代の習わしがまだ行われていた[小川剛生 2009]。それだけ格式のある親王家が500年以上続いてきた(例外第2代治仁王)伏見宮がたんに王号を称することになったのは明らかに格下げである。

 とはいえ旧皇室典範31条は「永世皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」とされ実系で男子が続く限り永世皇族制とされたのであり、当時、実子のなかった小松宮も含めれば、伏見宮系7つの宮家が永世皇族制のもとに存続することとなった。

 世襲親王家の制度は否定されたが、伏見宮系7家のうち6家は男子が続くかぎり存続することとなったことは一応良しとしてもよいだろう。

 ただし、皇室典範起草の過程で皇族永世主義とされるまで以下のような紆余曲折があった。内規規取調所案は世襲親王家を廃止し世数制限するものとしていたが、井上毅は親王宣下と天皇の養子廃止に反対し、世襲親王家は「継嗣を広め、皇基を固くする」ものとしてその存続を主張した。また、欧州諸国では王族の子孫はいつまでも王族で人民に降ることはないとしてプロイセンの王家の2分家の例をあげ、両家は家格も王家と同じで世襲親王家に相似しているとして、世襲親王家廃止に疑義を呈したが、柳原前光が世襲親王家について封建時代の因習という否定的な評価をとったがゆえに廃止した「山田敏之2018]。

 さらに、柳原前光は、伏見宮の血統が皇位から遠く、五世以下の皇族は皇系疎遠なるものから逓次降下させる案を伊藤博文に問い、伊藤の賛成を得た。

 柳原の見解は伏見宮の由緒を無視している。先祖の柳原資明は観応擾乱後の崇光上皇の別当として仕えていたのに。

 井上毅は、五世以下を皇族としないのならば継体天皇の継承に差支えを生じるなどとして反論したという。

 ところが、枢密院諮詢案では、伊藤博文により五世以下の皇族を臣籍降下可能として、疎遠の皇族より適用するという臣籍降下規定が削除され、永世皇族主義が適用されていた。枢密院に諮詢される前に突然、方針が変更されたのだ。

最終的には皇室繁栄のために井上毅や宮内書記官の三宮義胤が言及していた永世皇族主義となったのである[西川誠2019]。

 

2 小松宮と華頂宮の養嗣子の臣籍降下

 明治36年の小松宮彰仁親王薨去の際、養子であった弟の依仁親王の継嗣が停止された。養子相続が皇室典範で否定されたからである。小松宮は一代で断絶したが、依仁親王は新たに東伏見宮家を創設する。これは小松宮の旧宮号である。小松宮家の祭祀を承継したのは北白川宮能久親王第4王子輝久王で臣籍降下し小松侯爵となる。

 また華頂宮家は、明治16年第2代博厚王が8歳で薨ぜられたため、伏見宮貞愛親王の庶子博恭王が華頂宮を相続したが、明治37年伏見宮家の嫡子邦芳王が不治の病を理由とした請願により廃嫡とされたため、博恭王は伏見宮家に復帰した。このため第4代華頂宮は勅命により博恭王の第二王子博忠王が入った。しかし博忠王は大正13年嗣子なく23歳で薨ぜられたで、華頂宮家は絶家となったが、博恭王の第三王子で博忠王の実弟博信王が、祭祀を承継し臣籍降下し華頂侯爵となる。

 実弟の養嗣子さえ認めていれば華頂宮は存続できたのである。

 

3 明治25~39年創設の5宮家と明治40年皇室典範増補

 

 とはいえ皇室典範施行以後も伏見宮系宮家は増加した。賀陽宮邦憲王(明治25年)は、久邇宮の家督を継承する予定だったが、病身のため弟の邦彦王に家督を譲り、病状が回復し、久邇宮邦彦王が伊藤博文と明治天皇に情願して宮家が創立された。賀陽宮は、朝彦親王が一会桑政権と連携した時期に称した宮号である。東伏見宮(明治36年)は小松宮の継嗣を停止して創立した。明治39年には三家が創立、竹田宮、朝香宮、東久邇宮であるが、図表のとおり明治天皇の皇女が嫁している。いずれも永世皇族制のもとで創立された。伏見宮系は12宮家となったのである。

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   しかし明治40年以降は伏見宮系の宮家は増加しなくなった。

 明治40年皇室典範増補第一条により、王(旧皇室典範では5世王以降)ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシとされた。

 大正9年以降宮家の次男以下の男子は情願により臣籍降下が慣例となったため、この後、伏見宮系の宮家は減少(大正13年に華頂宮が絶家)することはあっても創設されなくなった。

 皇室典範以降の問題点は、永世皇族制となったとはいえ世襲親王家が廃止され、天皇の猶子という親子関係の擬制により血縁の疎隔を埋め合わせする准的な制度、それは中世公家法の法技術により正当であるのそれを排したこと。それは、『椿葉記』天皇家と伏見宮は親睦にして、将来永く疎隔あるまじきこと。そのために伏見宮の若宮を始終御猶子となし奉るべきことした由緒を顧みなかったことの問題がある。

 後崇光院が「始終御猶子」というのは、永代親王家ということで、この由緒を無視してしまったことは非常にまずかったと思う

六)大正9年の永世皇族制放棄政策の問題点

 さらに問題は、第一次大戦後に永世皇族制を見直し、皇族は世数制限とし、伏見宮系の永世存続をみとめず、排除していく動きが加速したことである。

 大正9年に大正天皇が裁可した「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」であるが、公示されず、報道もされていないため、近年までよく知られてなかった。平成12年の書陵部紀要【資料紹介】『倉富勇三郎日記』「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」関係抄録(大正8年)」(オープンアクセス)以降議論になった事柄である。ここでは永井和[2012]と浅見雅男[2016]を引用してその経緯を説示する。

 それは帝室制度審議会で大正 8(1919)年 1 月より「皇族処分内規案」の検討が開始され、委員の伊東巳代治、平沼騏一郎、岡野敬次郎が世数制限により永世皇族制を放棄し、事実上伏見宮系皇族を整理する方針を打ち出した。

  大正9年2月までに宮内省との合意により「皇族ノ降下ニ関スル内規」は成立し、2月末大正天皇に上奏、3月3日枢密院に諮詢、審査委員会で若干修正され「皇族ノ降下ニ関スル準則」となり、3月17日の枢密院本会議で満場一致で可決、皇族会議を経て制定されることとなった。

  これは、皇族の範疇を次男系統は四世孫まで、長子孫系系統でも八世孫までに世数制限することとしたもので、建前上、大正天皇の直宮も永世皇族にはしていないが、実質伏見宮系をターゲットとして皇族を整理する案である。

  伏見宮系は、後伏見15世孫(崇光13世)邦家親王を四世孫として計算し、次男以降は多嘉王と邦芳王を例外として原則臣籍降下、長子孫系も邦家親王から四世孫まで臣籍降下とすること原則としている。当時の当主より2~3世代を経て臣籍降下し、宮家を消滅させることを原則とするものである。

 「準則」が長子孫系統で皇族の身位の維持を保証しているのは、伏見宮家が博明王まで、久邇宮家は邦昭王まで、賀陽宮は邦寿王まで、北白川宮家は道久王まで、竹田宮家は恒正王まで、朝香宮は誠彦王まで、東久邇宮は信彦王までで、次の世代は家名を賜り華族に列することを原則としている(なお伏見博明氏は御高齢であるが、令和4年に著書を出版され、読売テレビインタビューにも出演されており、仮に「準則」が適用されたとしても伏見宮家は今日まで存続していたとはいえる)。

  当時の皇室会議員は成年男子皇族15方であるが、皇太子裕仁親王以外は伏見宮系皇族である。

  皇族会議の議案は天皇が下付したものであり、通常は何の異論もなく承認されるのが慣例であった。元老や宮内省にとって異論が噴出するなどあってはならないことだった。

  しかし、久邇宮邦彦王、伏見宮継嗣博恭王、博義王、朝香宮鳩彦王といった反対派皇族の存在があり、不穏な情勢により、4月9日の会議は中止延期された。その後、宮内省の把握では5月6日の時点で、少なくとも五方が反対で、態度不明の御一方は反対が予想され、仮に皇太子が賛成としても6対6で可決の見通しが立たない状況となり、枢密院議長の山縣有朋は反対派の中心となっていた久邇宮邦彦王を訪ね説得にあたった。

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  当時大正天皇の皇子四方が無事に成長されているが、邦彦王は、「準則の通りにては皇統の断絶する懸念あり」と言い、山縣は「皇統の断絶等を云々せらるるは、畢竟杞憂に過ぎす‥‥若し皇族にて此案に反対せられたりと云ふ如き事か世間に分かる様になりては、皇族自身の不徳のみならす、皇室の不徳ともなる‥‥」と述べたが、久邇宮は説得に応じなかった。

  事態の収拾に動いたのは北白川宮成久王だった。各宮を訪問し、議決しないで天皇に奏上することで皇族間の合意を得たという。但し反対派から条件があり、質問と反対意見は自由に述べることを保証するというもので、波多野宮相と交渉し、宮内省側はこの妥協案を受け容れた。

  5月15日の皇室会議では、大正天皇は臨席せず、議長は伏見宮貞愛親王で、図表のとおり16方が出席し、1時間ほどの皇室会議員の主な発言は以下のとおり。

北白川宮成久王「現時民心動揺の際、皇族降下の如き処分を為すは一層民心の動揺を誘発する恐なきや」

久邇宮邦彦王「本案の施行は皇統断絶の懸念あり」

朝香宮鳩彦王「準則は典範増補に矛盾するの疑あり」

博恭王「増補には華族に列せしむることあるへしとあるに、準則には華族に列すと決定的の辞を用ゐ在り。何の為めなるや」

  質問に対する返答が終わると、議長(伏見宮貞愛親王)より本案に対する各員の意見を問うたところ、打ち合わせどおり閑院宮載仁親王が「本案は皇族会議員各自の利害に関係するを以て自分は表決せさる旨」を述べ、成久王が賛成を表した。それに対して博恭王、邦彦王はこれに反対して質問した。波多野宮相が「皇族会議員が多数にて表決を避けることを決められるのであれば、宮内大臣としては異議は唱えることはいたしません」と返答し、そこで議長は、載仁親王の意見に対し反対の論がないので、皇族会議はこの件については表決しないことに決すと宣言し、閉会を告げた。

  皇族会議は議決を回避したが、「施行準則」そのものは、大正天皇の裁可を受けた。

 しかし会議の数日後、波多野敬直宮相は「皇族会議にて議すへき事項なりとして御諮詢を奏請したるに、皇族会議にて議決せさることゝなりたるは、取調不行届の結果にて、恐懼に堪へす」という趣旨の待罪書を大正天皇に提出した。これは却下されたが、6月16日波多野宮内大臣は皇室会議での不首尾の責任をとって辞職する。

  皇室会議は秘密会であったため、新聞報道は仄聞として大筋の事実を伝えたが正確ではなかった。読売新聞では皇室典範増補の内規で王の第二子以下の男子の臣籍降下が義務づけられたことに対し、皇族が反発し難航したことの責任をとったとされており、「施行準則」が12宮家は二~三世代を経て消滅することを原則としいていることを新聞は把握していないのである。国民はこの事実を知らなかった。

 「準則」が有効とする議論に正面から反論しているのが中川八洋氏で、宮内庁が平成12年(2000)に明らかにするまで「準則」なるものは一般に知られていなかった。2000年に宮内庁書陵部が『倉富勇三郎日記』編纂で偶然発見した形で表に出された。女性女系天皇準備の一環とみなされている。

 「準則」は邦彦王、鳩彦王、博恭王など多数が絶対反対で皇室会議は紛糾。実態として廃案であり、法手続き的には成立していないとされるのは、皇室会議令八条は「過半数によりこれを決す」と決議を絶対要件としているためである。波多野敬直宮内大臣が廃案なのに大正天皇の御裁可を頂いたのは大暴挙とされている。とはいえ公示されず、法律は効力を有しないともいう [中川八洋 2018]。

   したがって「大正天皇の御裁可」により永世皇族制は否定されていたというプロバガンダに惑わされる必要はないと思う[xi]

  世数制限は、令制の皇親制度の原意は四世王までが皇親で、五世王、六世王は不課の特典があるというものに倣った考え方だが、すでに述べたとおり15世紀に上皇や天皇の猶子という准的措置により令制では皇親の範疇にない五世王、六世王の親王宣下が合法化された(以降五世王以降が親王宣下を受けたのは、大覚寺統正統の木寺宮、亀山院遺詔により正嫡と定められた常磐井宮、後深草院流正嫡を自認した伏見宮と、近世以降の親王家、有栖川宮、閑院宮)。しかるべき王統なら世数制限に関係なく皇親としての身位からフェードアウトすることもない中世後期以降合法化された制度、公家法の展開からしてみれば永世皇族制を放棄したのは間違いだった考える。

 伏見宮は血筋のスペアとして創設されたの分家では全然ない。「準則」は、嫡流の財産の一部を維持し、嫡流の流儀を継承している格別の家筋として天皇家と併存してきた伏見宮御一流の矜持を無視している愚策である。

  但し、当時の伏見宮系皇族は、宮家消滅は不当、『椿葉記』の皇統上の格別の由緒や、永続が約された家系であるという、正面切った反論をしていない。

  それは、明治44年に南朝正統の勅裁があり、伏見宮の嚢祖である崇光院が、歴代天皇から外され、伏見宮は後伏見天皇の末流とされてしまったことの影響が大きいと考える。

 

(七)「準則」の背景として南朝正統史観の影響とその克服の方途

 南北朝正閏問題の経緯については複雑なので、オープンアクセスの千葉功[2019]講演や、それを解説する秦野裕介が講師をしているYouTube日本史オンライン講座「南北朝正閏問題 国定教科書は南北朝を認めるか」2022の参照指示するが、近年このテーマの研究はさかんである。千葉功講演等より主として依拠、引用等して大まかなところをいえば次のとおりである。

 明治43年(1910)喜田貞吉が編修する国定の教師用教科用図書が、宮内省が南北朝正閏を決定していない状況から、南北朝の対立につき軽重をつけない論旨となっていた。検定期の教科書は南朝を「正位」む、北朝を「閏位」と位置付けるのが一般的であったので、教育現場で反発があり、明治44年1月読売新聞が非難、2月藤沢元造代議士の質問は、政府側の説得で回避されたが、犬養毅が激烈な大逆事件と絡めて弾劾演説してこの問題を政争化した。激昂した山縣有朋が教科書改訂を断行しない桂太郎内閣の緩慢を非難、明治44年2月27日喜田定吉は休職処分となり[千葉功2019 ]、桂首相は南朝正統を閣議決定したうえ、2月28日明治天皇に歴代について上奏、仰裁、3月諮詢された枢密院も南朝正統の奉答書を可決した。

 明治44年(1911)3月3日の勅裁とは、天皇が内閣総理大臣からの上奏、枢密院からの奉答、宮内大臣からの上奏を容れる形で侍従長より「後醍醐天皇より後小松天皇に至る間の皇統は、後醍醐天皇・後村上天皇・後亀山天皇・後小松天皇なることを認定したまへる旨を内閣総理大臣並びに宮内大臣に達せしめたまふ」とされたことをいう。

 ただし宮内大臣が天皇に「北朝の天皇に対する宮中の取扱方」について伺ったところ、天皇は宮内大臣に「光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては尊崇の思召により尊号・御陵・御祭典等総て従来の儘たるべき旨を命じたまふ」とされた。

 ここまでが、第一次政治決着である。

 喜田貞吉・三上参次罷免後の教科用図書調査委員会では、南朝正統論者で占められていたが、「史実派」と「憲法派」が対立、委員長である加藤弘之、山川健次郎は「史実派」であり、「憲法派」穂積八束の「北朝を抹殺し、北朝天子を親王とすべし」という北朝抹殺論を排除した。

 ところが、小松原文相や桂内閣は、教科用図書調査委員会の総会決議を無視し、教科書改訂では、「光厳天皇」は「光厳院」、「光明天皇」は「光明院」と改め、略系図では、光厳・光明は親王、崇光・後光厳・後円融は王とされ、穂積八束の北朝抹殺論に沿った内容とした。これが第二次政治決着である。

 保守派の方々は憤慨されるかもしれないが、わたくしは伏見宮の由緒を語る以上、南朝正統史観はある程度価値相対化した立場をとりたい。

 北朝抹殺論は今日では不当のように思える。15年に及ぶ光厳院政における政務は活発で、院宣は350通が現存している[森茂暁2008]。

 院評定が開かれ、政務の中心となる文殿が整備され、公家法を完成させた暦応雑訴法が制定され、「公家政務の到達点」との意義が認められている [伊藤喜良 1997]。

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 大正、昭和期における北朝抹殺論の影響による伏見宮御一流のダメージは大きかった。つまり、皇統嫡系も神皇正統記では偽主とする光厳系であることは、伏見宮と同じことだが、後小松が後亀山より神器が譲渡され、歴代天皇とされているが、伏見宮の曩祖崇光院は、南朝より太上天皇尊号を受けてはいるが略系図では王で帝に非ざる皇族にされてしまったからである。

 書陵部にある伏見宮旧蔵本、嘉暦3年(1328)「御事書并目安案」は、後伏見上皇が、在位10年になっても後醍醐天皇が居座り続ける不当性を幕府に訴えたものであるが、「此の御方は遠くは神武天皇、近くは後深草院以降、皇統の嫡嗣として、両上皇は久しく姑射の洞を卜し、春宮は紹運の儲君にして、ともに長生殿にあり」[深津睦夫2014 13頁]という皇統の嫡嗣たる量仁親王(光厳)の即位促進を目的として、当代(後醍醐)は「一代の主」であると「定申」された身ではないか、中継ぎなのだから早々と退位すべきとしている[森茂暁2020,73頁]。いわば後醍醐の政敵であった。伏見宮御一流が後伏見末流とされたことは政敵の末流となり、ダメージが大きかったといえるのである。

 当時の南朝忠臣賛美一辺倒の時代にあっては、そもそも歴代天皇から外れた崇光院流を正統とする『椿葉記』などを理由として、伏見宮御一流の永続性を主張することは憚られる空気があったに違いないからである。

 とはいえ近世期の朝廷では、北朝方の後小松上皇が自らの系統の正統性を主張するため編纂された『本朝皇胤紹運録』(洞院満季編、応永33年1426成立)が勅撰の皇室系譜として宮中で重んじられ、公家の間では北朝正統論が絶対視されていた[森安雅子2011]。

 後村上天皇は親王(義良親王 陸奥太守、於南方稱君主、號後村上天皇云々)、後亀山天皇も諸王(熙成王 法名金剛心、自吉野降後、蒙太上天皇尊號、號後亀山院)、帝に非ざる皇親の扱いである。後亀山は帝に非ざる皇親として、同族への厚意として太上天皇尊号宣下された。

 朝廷は南朝を公認していない。桜町天皇の「享保二十年九月廿一日 人皇百十六代孫昭仁」という自署、光格天皇の寛政7年10月の阿弥陀経奥書に、「神武第百二十代兼仁合掌三礼」という自署は[藤田覚2011]、北朝を正統とした数え方である。

 しかし、幕末期以降南朝正統史観、水戸学の名分論史学の影響が大きくなった。

 そもそも水戸光圀が南朝を正統としたのは、家康が清和源氏新田流の由緒を主張したためであり、新田氏の初代義重の四男義季が得川郷に居住し、徳川氏の先祖とされていた。足利氏と雄を争って敗れた新田氏は「忠貞」ゆえに天祐を得て、家康の時代に幕府を創業したとされ、徳川氏の政治的覇権を正当化する企だてだった[兵藤裕己2018]。

 それが後期水戸学、藤田幽谷によって名分論的史学は思想的に転位する。18歳の若さで執筆した『正名論』(寛政3年1791)の神がかり的な文章により、天皇の権威が強調されたため、徳川氏の名分を介在する余地もなくしてしまった[兵藤裕己2018]。

 会沢正志斎の『新論』(文政8年1825)によれば足利時代とは「国体を欠くや甚だしき」時代であり、足利時代以降失われた「国体」を回復する運動が尊王攘夷だった[兵藤裕己2018]。

 王政復古とは、後醍醐天皇が企てた新政の再現であり、幕府どころか、摂政・関白等の公家の門流支配も廃してしまったところが革新的だったともいえる。

 南朝忠臣の顕彰運動が活発に行われ、鎌倉宮(明治2年)、湊川神社(明治5年)などの建武中興十五社が創建され、明治6年文部省編纂の『小学読本』巻四には楠木正成、正行父子の話が載せられた [兵藤裕己 2018]。明治後期には忠君愛国が国民道徳の基軸であり、南朝忠臣を臣民の鑑とする教育がなされていたことはいうまでもない。

 明治44年勅裁により南朝が正統とされ光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の北朝の天皇は歴代天皇から外された。尊号、御陵、御祭典は維持しつつも、現在の皇統譜においても光厳以下五代が歴代に数えられておらず、北朝天皇として別冊にまとめられているとことは今日も同じである。

 今日においても地方のお年寄で皇国史観を信奉する方々はおられる。しかし現代では南朝忠臣賛美はされてない。桜井の駅の別れは『太平記』の創作で史実ではないらしい。

 近年では明治44年南朝正統の勅裁は消極的同意だったという説[野村玄2019]もあり、この問題は容易に克服できる事柄である。

 いかに南朝正統史観と言っても、後南朝末流は15世紀に史料上消えている。北朝に帰属した亀山院系の常磐井宮は16世紀に消え、北朝帰属の大覚寺統正統の木寺宮は、近世初期まで末流が遠州で土着し存続していた可能性があるが、歴史上消えている。

 皇統は伏見宮系しかないわけであるから、旧宮家の末流の方々が復籍するのが筋である。

 伏見宮の由緒の研究が特に進んだのは、戦中の村田正志氏の業績以降だと思うが、平成時代に中世の音楽の研究が著しく進展した。これは岩佐美代子『校注文机談』(1989年)や、宮内庁書陵部『図書寮叢刊伏見宮旧蔵楽書集』(1989)の発刊など伏見宮旧蔵文書等基本資料が使いやすくなったためで、伏見宮に伝来した文書の書誌学的研究も成果がある。

 また近年『応仁の乱』が売れたために、室町時代ブームになり『看聞御記』など細かいエピソードまで詳しく研究されている。伏見宮の由緒を語る書物は続々と出版されている。実証的な史学にもとづいて伏見宮の由緒を重んじ再評価していくならば、当然、安定的な皇位継承のために、当然旧皇族の復籍が妥当という結論になる。

 八)宮家の数の適正規模

 伏見宮は中世皇統であるが、以上述べた皇統上の格別の由緒と歴史的脈絡から、国家的給付を受けて永続すべき権利性があるというべき。伏見宮と分家にあたる宮家は皇室典範によって格差がなくなったため、伏見宮の由緒は横並びになった御一流の方々の由緒でもあるから、皇籍復帰のために財政支出を惜しむ必要などない。

 応永23年(1416)伏見宮初代栄仁親王は後小松院より室町院領を永代安堵され、康正2年(1456)第4代二品式部卿貞常親王にの「永世伏見殿御所号」と後崇光院太上天皇の異紋の勅許、牛車による参内の勅許の所伝等により伏見宮は別格の宮家として永続が約されているので、当事者から仰らないとしても、永続を約されている由緒を政府は客観的に認めるべきである。

 宮家の数の適正規模については、中川八洋[1918]は皇統護持に必要な宮家14~15としている。明治39年の段階で皇太子を含め14宮家が存在していたことからのようだが、わたくしは別の観点で伏見宮系は4~12宮家復活、創設してよいと考える。

15世紀の伏見宮家の経済規模分を復活させる徳政と言う観点である。

1 5世紀中葉の伏見宮の家領[xii]の年収は二千貫相当で現金換算で約2億円相当[秦野裕介YouTube2022 55分過ぎ]に対して、禁裏御料は7億5千万円[xiii]と試算されているが、令和4年常陸宮家の皇族費が4575万円、三笠宮家が5856万円、高円宮家3690万円余と比較すると、一つの宮家で皇族三方だと五千万円以上になるから、15世紀の伏見宮の年収は、現代の宮家3~4家分の経済規模にすぎないとはいえる。

 しかし推定2億円というのはあくまでも実効知行地と足利義教の差配により永享8年以降伏見宮の権利となった年収五百貫以上あった「干鮭昆布公事」の上納金と旧仙洞御所跡地の地子収入の合計なので、名目上の家領は、不知行地も含めるとかなりの規模になるはず。

 伏見宮初代栄仁親王が、後小松上皇に、崇光院が秘蔵していた天皇の象徴たる累代御物に准じた「天下名物至極重宝」という名笛「柯亭」[xiv]を進献したことと引き換えに永代安堵された室町院領とはもともと百か所以上の巨大荘園群を両統で分割相続したもので[xv]、所領経営は安定していない時期もあったようだが、本来の経済規模はずっと大きい。

 不知行地の多かった播磨国衙領や不知行地の権利も含めると経済規模は数億円からもっとあるはず。また伏見宮家の財産には文庫の膨大な書物があった。「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしずめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生 2017]というのは言い過ぎではない。

 荘園公領制は秀吉が公家の家領と地子収入を収公して再給付したことにより中世の所領とは違うものになった。近世では知行充行権は江戸幕府にあり、知行は幕府の麾下にあった[山口和夫 2017]。伏見宮家領は表向き一千石実収四百石程度の近世領主にすぎないが、そこを見ていただけではだめだ。かつては後高倉皇統追善仏事料所荘園群とか後嵯峨院の御分国だった播磨国衙などの本物の皇室領を家領としていたというべらぼうな由緒のある伏見宮家が昭和22年まで存在していたのだ。秀吉や幕府に知行を充行われて創立された近世以降の宮家とは格式が違うのである。最低でも4家~12家の再興、創設が妥当という結論になる。現代における本領回復に相当する徳政があってよいと考えるものである。

 

[i] 同条は旧皇室典範44条を継受したものであり、皇室典範義解によれば「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨のものであって、相応正当な理由がある。

夫の身分に従うとは、夫と尊卑を同じくした同一の身分、夫が侯爵なら嫡妻も侯爵家の身分という意味であり、妻は夫の家に入る。出嫁女は生家から離れ、婚家の成員となるゆえ夫と身分を同じくすること。

[ii] 『儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためであるとする。また『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされ、さらに同書祭統においては、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえるとするのである[谷口やすよ1978]。

後漢時代には皇后珊立に際して、「皇后の尊、帝と體を齊しくす」『績漢書』禮儀志劉昭注引蔡質「立皇后儀」)という詔が発せられたように、皇后は皇帝と一体な存在とみなされていた[保科季子2002]

夫婦は一体でなければならない。皇統譜と戸籍と別々は異常だ。

[iii]  男系主義については信用できる歴史家の著作から2件を引用する。

 吉田孝青山学院大学名誉教授(故人)[『歴史のなかの天皇』, 2006]が唐制との違いを説明している。

「唐制では『王・公・侯・伯・子・男』の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の『王』(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの『王』名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて『王』名号を称するのである。但し、『王』族の急増をもたらした。その結果、『賜姓』による臣籍降下が日常化し、『王』も『姓』の一種とみなされるようになる。」。

米田雄介(神戸女子大学教授、元宮内庁書陵部編修課長・正倉院事務所長)「皇親を娶った藤原氏」続日本紀研究会編『続日本紀の諸相』2004は継嗣令を男系主義と述べている。

 「継嗣令皇兄弟条 によると『凡皇兄弟皇子 皆為親王〔女帝子亦同〕以外並為諸王 自親王五世雖得王名 不在皇親之限』とあるように、『雖得王名 不在皇親之限』と規定されているから、皇親でない五世王は内親王との結婚は認められず、また一般の貴族官人らが皇親と婚姻することもできないのである。令意によると、婚姻は男系主義をとっており、親等の数え方も男系主義に基づくことはいうまでもない。‥‥‥しかし‥‥『女帝子亦同』とあることから、男帝・女帝の区別はなく、したがって男系・女系の区別がないと考えられるかもしれないが、もともとこの文言は日本令の元になった唐令にはみえず、大宝令の制定当時のわが国の現実を踏まえて挿入されたもので、本質的には男系主義であったと考えられる。 

 以下の言辞は皇位の男系継承を裏付けるともいえる。

 花園上皇の『誡太子書』に「 吾朝は皇胤一統なり」」 「異姓簒奪の恐無し」とある。洞院満季が後小松上皇の勅命を奉じ撰進した皇室の系図か『本朝皇胤紹運録』というように、皇位継承資格者は皇胤(男系)である。

 同趣旨の見解として『愚管抄』巻七に「日本ノ国ノナライハ、国王種姓ノ人ナラヌスヂヲ国王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル国」「コノ日本国ハ、初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノマゝニテイカナル事イデクレドモ、ケフマデタガハズ‥‥」 [村井章介, 2005] 。神武天皇より王胤によって皇位が継承されてきた。自明の事柄である。

 『神皇正統記』は、「唯我国のみ天地ひらけし初より、今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓のなかにをきても、をのずと傍より伝給しすら、猶正にかへる道ありてぞたもちましましける。」という。

 吉田定房奏状には「異朝は紹運の躰頗る中興多し。蓋し是れ異姓更に出ずる故のみ。本朝の刹利天祚一種なるが故に、陵遅日に甚だしく、中興期なし」 [村井章介, 2005] とある。異姓に帝位が継承されない天祚一種が日本であるとする。

 それゆえわが国の皇親とは、女系を排除した親族概念である宗、ローマ法のアグナチオに類比できる。ただし中国の宗法制度のような外婚制や昭穆制をともなわない。

 比較文化的にいうと男系継承についてはサリカ法のフランス王権の方が徹底している。フランスは女王や女子相続は不可。我が国は女帝が歴史上存在し、院政期より鎌倉時代において非婚内親王(女院)が膨大な御願寺領(皇室領荘園群)の本所であったことから、サリカ法との相違点がある。。

[iv] (継嗣令王娶親王条)

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。 従って皇親の範疇である内親王、二世~四世女王は(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)は臣下との婚姻は違法。

 ただし、日本紀略延暦12年(793)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」 見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得ることにより、規制緩和がなされているが、内親王と臣下の結婚は一貫して違法である[今江広道 1983][安田政彦 1998][栗原弘2002][米田雄介2014]。

[v] 文殊正子 1986 「『内親王』号について 『公主』号との比較 」古代文化 38(10)によれば中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した[中村みどり2014による文殊説の要約]。

[vi] ここに至る複雑な過程について、要点だけ記す。観応の擾乱の渦中、幕府が南朝に降伏する「正平一統」(観応2年11月/正平6/1351)があり、崇光天皇は在位3年で廃位、神器、壺切は南朝に接収されたが、光厳上皇に長講堂領等が従来どおり安堵され、光明・崇光は南朝より太上天皇尊号宣下を受けた。しかし宥和はみせかけで、翌年閏2月和睦は破綻し、南朝軍が京都に進攻、5月男山合戦で幕府軍は南朝軍を撃退したが、光厳・光明・崇光三上皇と皇太子花園皇子(光厳猶子)直仁親王が拘引され、八幡より河内国東条、さらに賀名生に連行された。

しかし、幕府は2歳の崇光皇子(栄仁-1351~1416伏見宮初代)と15歳崇光弟の芝宮(弥仁-後光厳)の身柄を確保しており、二条良基より新主を元服後の自立践祚とする提案があって、15歳の芝宮が新主とされ、二条良基を関白として北朝が再建された。

 問題は後光厳践祚(観応3年8月)が譲国の詔宣(太上天皇詔命)を受けておらず、群臣義立だけで正当化されたことである。当時、持明院統(王家)惣領光厳上皇は、南朝拠点で虜囚の身であったが、光厳院は後光厳践祚を「御時宜不快」して認めてないとする風聞が伝わっており、治天の君の代行とされた光厳生母の広義門院(西園寺寧子)は嫡流所領の支配権を後光厳に与えず、緊急避難の中継ぎの扱いだった[家永遵司2013、秦野裕介2021ab]。

譲国の詔宣がなくとも百官の推戴による正当な皇位継承ではある 。しかし太上天皇の譲りを受けてないのであるから、後深草院流の王家を継承していない。新しい皇統なのである。

  崇光上皇は、延文2年(正平13年-1358)河内国より伏見殿に還御なる。光厳法皇は深草金剛寿院に還御。廃太子直仁親王は法体で帰洛した。実は、光厳上皇は建武2年5月の春日大明神の神託により、康永2年(1343)の置文で花園皇子の直仁親王を正嫡とするトリッキーな皇位継承戦略をとり、崇光は当初中継の天皇として即位した[家永遵嗣2013][石原比伊呂2020]。しかし直仁親王が南朝により皇位継承を放棄させられたことにより、光厳長子である崇光が嫡流に転換したのである。

 

[vii] 光厳院は晩年の貞治2年(1363)の置文で、栄仁親王が践祚するか、両統迭立ならば崇光院流が長講堂領・法金剛院領を相続するが、そうでなければ後光厳天皇が相続するものとしたので、『椿葉記』では所領没収を正当なものとして認めている[飯倉晴武2000]。

但し、後述するように置文には崇光院流を正統とする記述があり、所領の没収は嫡流転換を意味せず、没収されても嫡流と主張できる。天皇家と伏見宮家が550年間併存したという理由の一つは、光厳院置文にもあったのである。

[viii] ちなみに『椿葉記』の書名の由来である「椿葉影再改」とは『和漢朗詠集』の大江朝綱の漢詩「早春内宴賦聖化万年春詩序」(承平2年932)より採られており、天子となって徳高く久しく栄えるだろうとの句である[秦野裕介2020]。大江朝綱自筆が残っていることはすごいことである。

[ix] 新田一郎2011 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社、田村航 2018 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)★、秦野裕介2020『乱世の天皇』東京堂出版225頁

後崇光院法皇崩後、康正2年(1456)10月伏見宮系譜「貞常親王御記」にある「永世伏見殿御所」号勅許という所伝(「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門(庭田長賢)來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申‥‥」)について、その意味は伏見宮が世襲親王家として公式に認められたと解釈されているが、近年の研究者は(田村航など)後光厳院流と崇光院流を両立させ、伏見宮家の永続を約したものという積極的解釈がなされている点は注目してよい。

 ちなみに、勅使庭田長賢は伏見宮近臣でもあり、後柏原天皇生母の典侍庭田朝子の父である(贈内大臣)。

ただし、国文学系の小川剛生[2009]が、裏付ける史料がないことから慎重に扱いたいとしており、複数の史料がない以上史実と断定しにくい難点があるが、にもかかわらず歴史家が積極的に評価するのは理由がある。

 親王宣下は本来、治天の君の意向次第である。中世の常磐井宮や木寺宮は清華家が後見する格式の高い宮家で、断続的に親王宣下を受けているが、常磐井宮満仁王(亀山三世王)は後光厳天皇に親王宣下を奏請したが拒否され[松薗斉2010]、後に足利義満に取り入ることにより親王宣下を受けた。

 崇光三世王の貞成王は応永18年に40歳で元服、服装はそれまで「半尻」姿だった。応永32年父栄仁親王と皇位継承を争った後円融院33回忌の写経供養に参加したことで、後小松院猶子として54歳でやっと無位無官から脱し、親王宣下を拝受できたのだから、この時点では伏見宮は世襲親王家ではない。

伏見宮第二王子、第4代貞常親王は、文安2年(1445)3月関白二条持基を加冠役として元服し、6月に親王宣下を受けた。時に21歳、文安3年3月任式部卿、文安4年3月二品に叙せられたのは厚遇といえる。同年8月家領を譲られて第4代伏見宮当主となった[小川剛生2009]。もっとも継嗣令では天皇の兄弟は親王と規定されているから親王宣下は当然ともいえる。

「永世伏見殿御所」号勅許の後、伏見宮家は文明6年(1474)に第5代邦高親王が後土御門猶子として19歳(元服加冠役は准后前左大臣足利義政)、文亀2年(1502)に第6代貞敦親王は後柏原猶子として17歳で元服と同時に順調に親王宣下を受けている。したがって、この所伝がなかったとしても、事実上、歴代当主の親王宣下が慣例となったことはいうまでもない。実質邦高親王以降が世襲親王家といってよいだろう。

 以下、歴史家等の「永世伏見殿御所」号勅許の所伝のコメントを引用する。

 

A 新田一郎氏(法制史)のコメント

「親王たるステイタスを長期にわたり安定して継承する本格的な世襲親王家は伏見宮家を以て嚆矢とする。貞常が後花園天皇から永世にわたり「伏見殿御所」と称することを勅許された、とする所伝があり、これによって、伏見宮家が皇統嫡系との距離に依存せずに自立し継承される世襲親王家してのステイタスを確立した、とする解釈が示される場合がある。こうして天皇家直系と伏見宮家は皇統の内部で画然と分かたれ、それぞれ継承されるべき役割を異にする家として成型される。伏見宮家はその家産とステイタスを継承する世襲親王家として成型され、皇位の正統の所在は擬制的な直系へと固定されたわけである。」 [新田一郎 2011]。

 

B 田村航氏(中世史)のコメント

「伏見宮は『故院』すなわち貞成の生前の異紋を、そのまま位袍などに使用することが許可された。これは貞常親王以降の伏見宮が、後崇光院=貞成親王をよりどころにするということである。同時に「伏見殿御所」の「永世」にわたる存続も約された。これは貞成が後小松院の猶子として受けた親王宣下をふまえ、貞常王、邦高王、貞敦王、邦輔王がそれぞれ後花園・後土御門・後柏原・後奈良の歴代天皇の猶子として親王宣下を受け、以降同様に継承されていったことをさす。かくして伏見宮は親王の再生産をつづける特別の地位を得たのである。

‥‥後崇光院=貞成から伏見宮が得られる正統性を制度的に裏付けたもので、伏見宮の当主が世代を重ねても天皇家と疎遠となる事態が避けられた。‥‥‥伏見宮は代々の親王宣下で皇位継承権を担保され、ここに崇光院皇統のある種の再興が果たされた」 とする [田村航 2018]。

 

 上記の見解は、後花園が後光厳院流を継承したので、実家の伏見宮と宥和政策をとったという脈絡での説示である。

 

 なるほど後花園は後小松院御遺詔を重んじ、崇光院流を継承することはなかった、実父に協調的でない部分も多分にあったことは秦野裕介[2020]が明らかにしている。

しかし、実家の伏見宮に対して好意的であったことは間違いない。例えば、皇子成仁王を伏見宮で養育させ、寛正3年(1462)皇儲に確定した皇子成仁王(後土御門)を説諭する『後花園院御消息』でことに伏見殿に対して敬意を表することを説き [田村航 2020]、応仁元年(1467)7月後花園上皇は、関白再補の一条兼良と二品式部卿伏見宮貞常親王を勅使として、応仁の乱の調停のため幕府に派遣するなど、伏見宮は信頼されていた [田村航 2013]。ゆえに「永世伏見殿御所」号勅許は史実であってもおかしくないとの認識をもつことはできるだろう。

 

C 秦野裕介氏(中世史)のコメント

「後花園は、弟の貞常に伏見宮家の継承と、その『永世』にわたる存続を約した。そして伏見宮家の当主は代々天皇の猶子となって親王宣下を受けるという特殊な形がとられるようになった。ここに後光厳皇統と崇光皇統の両立が完成したのである。」 [秦野祐介 2020]とする。田村航説の参照指示ありそれをふまえた見解。

 

D 松薗斉氏(中世史)のコメント

「貞常親王が「永世伏見殿御所」と後花園から許可されたという伏見宮も、代々天皇の猶子となって親王宣下を受けなければならないわけで、基本的には‥‥中世の他の宮と同じである。むしろ持明院天皇家の家記・文書を継承し、現天皇家の「家」の機能を補完する側面が「家」としての継続を可能にした」 。中世の皇統文庫を維持、継承していたことが伏見宮家の強みだったという見解 [松薗斉 2010]。

 

E 小川剛生氏(中世和歌史)のコメント

「この御記の内容はいまのところ他に裏付がないので、当面この説の信憑性には慎重にならざるを得ないが、ここで後崇光院の紋を使用すること。また、「御所」の号を永代にわたり許されたというのは、これをもって世襲親王家の存在を公式に認めたということになるだろう」 [小川剛生 2009] 。

 

[x] 五世王親王宣下の初例は、応永26年(1419) 12月21日妙法院新宮と称された明仁法親王と17世御室(仁和寺門跡)承道法親王の親王宣下である。御二方とも木寺宮世平王実子、後二条五世王、後小松院猶子である(『看聞御記』『薩戒記』)。

 世襲宮家は、天皇家に皇子が少ないときに、天皇の周囲に配置される宮門跡に入室する人材のプールでもあったのだ[松薗斉 2010]。

『椿葉記』の執筆時期は永享3年(1431)以降であるから、伏見宮家世襲親王家構想は、後小松院政で五世王でも上皇の猶子として親王宣下が可能であることをみて、着想されたと推測できるのである。

 後小松院と明仁法親王、承道法親王は13親等離れている猶子だが、門跡寺院側は、威信にかかわるので親王宣下を望んだ [松薗斉 2010]。

 継嗣令皇兄弟条は五世王以降を皇親の範疇としてないので、それは便宜的だというかもしれない。しかし中世の律令法は「准的」等の明法家の法技術によって、令義解の原意にこだわらず現状追認的に合法化できるのであって [保田卓 1997]、 猶子という親子関係の擬制で血縁の疎隔を穴埋めすることは、准的「乙は甲と比べてみて、甲と釣り合うもの、同格のものと価値づける」というテクニックで合法になるだろう。。

[xi] 不適切かもしれないが、当時の大正天皇の御病状についても検討してみると、大正8年12月25日の原敬日記によると、勅語御朗読を数日来御練習なされたにもかかわらず御朗読困難。音読障害があり、26日議会開院式を欠席、原敬が勅語を代読。「準則」が枢密院で可決された後の大正9年3月25日の宮内庁掛の医師による「拝診書」によれば、天皇の御こころを惱ませらるゝ事、すなわち精神的ストレスが多かったため神経過敏となった。一~二 年前からの 一、二 の分泌臓器の官能失調の 2 つが幼少時の腦膜炎の為故障のある御脳に影響して、御安静を失ったり、お体が傾く事が起こったり、身体の平衡を保つ基が困難という病状を呈したとある。しかし大正9年には、軍歌を聞召、唱和、夜のビリヤードなど盛んであり、角力天覧もあった。大正10年4月24日大隈重信が面会後、「陛下ハ果シテ御諒解アリシヤ否ヤハ疑シ」と話し言葉の理解障害があり、大正10年11月25日に天皇大権(統治大権、統帥権、皇族監督権)の遂行不能により皇太子が摂政に就任するが、同日の御容態書によれば、「御記銘、御判断、御思考等の脳力暫時衰へさせられ、………。殊に御記憶力に至りては御衰退の兆最も著しく」とある[杉下守弘2012 小林幸男2003]。

「準則」の御裁可が大正9年5月であるが、病状は翌年ほどではないとしても、天皇の統治体権は空洞化に近い状況にあったのかもしれない

[xii] 伏見宮第3代貞成親王(道欣入道親王)より4代貞常親王への御譲状

「後崇光院院御分類」第四巻十五[横井清2002 389頁]

相伝御領以下目録在別紙譲進之候、永代可有御管領候也

文安三年八月廿七日 (御花押)

追伸

記録文書以下同可有御管領候、代々御記禁裏へ進之候、可得御意候、御領之中男女御恩不相替可有御扶持候也

譲進

  • 伏見御領

五ヶ加納

一、播磨国衙

別紙十カ所 但当時七カ所管領

  此地御祈 伊和西 玉造保 粟賀加納

  石見郷 市余田 佐土余部

  • 熱田社領

付藪郷

  • 江州山前南庄

同七里村、八里村 北庄役

  • 昆布干鮭月俸
  • 若州松永庄一円
  • 江州塩津庄、同今西庄
  • 丹波草野 同戸野谷
  • 播州平野五名半分
  • 同国餝摩津別符
  • 筑前住吉社
  • 日向国大嶋保
  • 一条東洞院敷地 仙洞旧跡

已上

右管領所々、式部卿親王所譲与如件、此内人給寄進等有之、不可有相違者也、

文安参年八月廿七日 (御花押)

[xiii] 久水俊和 2020 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店

[xiv] 

38

[xv]

 

25

議員へ意見具申

有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対

③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき

-「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-(第7分冊 引用・参考文献一覧表)

                    

引用・参考文献(一覧表

 ★印=オープンアクセス(ネット公開)

翻訳書

ジョン・ノックス1986飯島啓二訳「女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り」『カルヴァンとその周辺〈2(宗教改革著作集〈10)』教文館

JL・フランドラン1992宮原信訳『性の歴史』藤原書店

JL・フランドラン1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房

イレイン・ぺイゲルス1993 絹川・出村訳『「楽園神話」解釈の変遷アダムとエバと蛇』ヨルダン社(原著1988

ウタ・ランケ・ハイネマン1996高木昌史他訳『カトリック教会と性の歴史』三交社

ピーター・ラスレット1986『われら失いし世界―近代イギリス社会史』川北・指・山本訳 三嶺書房

ミッテラウアー,ミヒャエル、 ジーダー,ラインハルト1993若尾夫妻訳『ヨーロッパ家族社会史』名古屋大学出版会

ミッテラウアー,ミヒャエル1994若尾・服部・森・肥前・森訳1994『歴史人類学の家族研究-ヨーロッパ比較家族史の方法』新曜社

メッツ,ルネ1962久保正幡・桑原武夫訳『教会法』ドン・ボスコ社

赤阪俊一2008「教会法における結婚」埼玉学園大学紀要. 人間学部篇 8号★

赤坂恒明2018「室町期の皇族、木寺宮とその下向」『日本史のまめまめしい知識第3巻』岩田書院

赤坂恒明2019「遠州木寺宮考」十六世紀史論叢12

赤坂恒明2020『「王」と呼ばれた皇族 古代・中世皇統の末流』吉川弘文館

明石一紀2000「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店

明石一紀2006『古代・中世のイエと女性』校倉書房

秋山喜代子1993『養君にみる子どもの養育と後見』史学雑誌 102 (1)

朝倉尚 1990 『就山永崇・宗山等貴』 清文堂

浅見雅男 20102018 『大正天皇婚約解消事件』 角川ソフィア文庫

浅見雅男2016『皇族と天皇』ちくま新書

浅山郁1985「女子差別撤廃条約の報告制度と締約国からの報告 (女性そして男性) -- (外国における女性と法) 」『法学セミナー増刊 総合特集シリーズ 』日本評論社 (通号 30)

阿部泰郎2018 『天皇の歴史10天皇と芸能』渡部泰明、鈴木健一、松澤克行共著 講談社学術文庫

荒井献1985「新約聖書における女性の位置」『聖書セミナー』第1号日本聖書協会

1988『新約聖書の女性観』岩波セミナーブックス

荒川玲子1986 「比丘尼御所に於ける御所号勅賜の意義」 書陵部紀要(38

荒木敏夫1999 『可能性としての女帝 』 青木書店

嵐義人1998「姓氏・名乗、あれこれ」(『日本「姓氏由来」総覧』新人物往来社)

飯倉晴武2000 『地獄を二度もみた天皇 光厳院』 吉川弘文館

飯倉晴武2002 『日本中世の政治と史料』 吉川弘文館

飯倉晴武2009 「伏見宮本の変遷-書陵部での整理と書名決定-」 禁裏・公家文庫研究第三輯 思文閣出版

家永遵嗣 2013「室町幕府と「武家伝奏」・禁裏小番」 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 5

家永遵嗣 2016 「光厳上皇の皇位継承戦略」  桃崎有一郎・山田邦和『室町政権の首府構想と京都』所収

家永遵嗣 201814世紀の公武関係・朝幕関係と室町幕府 : 皇位継承争いのもとにおける国制の再構築(縮約補訂)」学習院史学56

家永遵嗣・水野圭士ほか 2019 <資料解題>解説と翻刻 国立公文書館所蔵『初任大饗記』, 国立歴史民俗博物館所蔵『義満公任槐召仰議并大饗雑事記』」 人文 (17)

池和田有紀2020 崇光天皇-北朝皇統分裂の始まり 久水俊和・石原比伊呂編『室町・戦国天皇列伝』, 戎光祥出版

伊集院葉子2014『古代の女性官僚女官の出世・結婚・引退』吉川弘文館

伊藤之雄2021『最も期待された皇族東久邇宮』千倉書房

伊藤喜良1997 『南北朝動乱と王権』 東京堂出版

伊藤唯真1982「知 恩 院 周 誉 珠 琳 と 浄 厳 坊 宗 真」鷹陵史学8

石崎泰助1975「秘跡概念の発展についての一考察」アカデミア 人文自然科学編,保健体育編35

石原比伊呂2015『室町時代の将軍家と天皇家』勉誠出版

石原比伊呂2018『足利将軍と室町幕府』戎光祥出版

石原比伊呂2020『北朝の天皇』中公新書

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今谷明 2000 『室町時代政治論』 塙書房

今井通朗1962「平安文学に現われた楽器」東洋音楽

井山温子 1995 「しりへの政』その権能の所在と展開」 古代史研究(13

岩井託子1996a「グレトナ・グリーン英国随一の結婚式場(1) 」 中京大学文学部紀要 312

岩井託子1996b 「グレトナ・グリーン英国随一の結婚式場(2)」中京大学文学部紀要 313434

岩井託子1997「グレトナ・グリーン英国随一の結婚式場(5)」 中京大学文学部紀要 32

岩井託子1999a「グレトナ・グリーン 英国随一の結婚式場(8)」中京大学文学部紀要 341

岩井託子1999 b「グレトナ・グリーン 英国随一の結婚式場(9) 」中京大学文学部紀要 342

岩井託子2002『イギリス式結婚狂騒曲 駆け落ちは馬車に乗って』中公新書

岩佐美代子1993「光厳天皇-その人と歌-」駒澤國文 30

岩佐美代子 1997 『宮廷に生きる』 笠間書院

植木朝子 2009 「『看聞日記』にみられる楽器」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社

植田真平・大澤 泉(2015)「伏見宮貞成親王の周辺『看聞日記』人名比定の再検討」書陵部紀要66

上野和男1982「日本の祖名継承法と家族--祖先祭祀と家族類型についての一試論」『政経論叢』5056

上野和男1985「日本の位牌祭祀と家族--祖先祭祀と家族類型についての一考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』6

上野雅和1962「イングランドのキリスト教化と婚姻法-イングランドにおける近代的婚姻の成立過程2」松山商大論集132

上野雅和1981「イギリス婚姻思想史-市民的夫婦一体観の成立をめぐって」福島正夫編『家族-政策と法』東大出版会

鵜川馨 1991「十八世紀英国における婚姻契約」『イングランド中世社会の研究』聖公会出版

梅村恵子 2000 「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店

宇根俊範1980「律令制下における賜姓について-朝臣賜姓ー」『史学研究』80

宇根俊範1983「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99

枝村茂1975「婚姻の秘跡性をめぐる神学史的背景」  アカデミア 人文自然科学編,保健体育編 25

枝村茂1978「婚姻の不解消性と教会権についての神学的考察」アカデミア 人文自然科学編,保健体育編 28

枝村茂1980「カトリック教説における婚姻の目的の多元性」 アカデミア 人文自然科学編,保健体育編 31

枝村茂1985「カトリック教会法における婚姻の形式的有効要件とその史的背景」宗教法学3

枝村茂1995「カトリック婚姻法における世俗性と宗教性」宗教法14

江守五夫1986『日本の婚姻』弘文堂

江守五夫1990『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990

江守五夫1993「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993

江守五夫1998『婚姻の民俗-東アジアの視点から-』吉川弘文館1998

榎村寛之 2007 「元・斎王井上内親王廃后事件と八世紀王権の転成 」 国立歴史民俗博物館研究報告( 134

遠藤慶太2000「『続日本紀』と承和の変」古代文化52

遠藤みどり 2015 『日本古代の女帝と譲位』 塙書房

近江昌司1962 「井上皇后事件と魘魅について」 天理大学学報(14

大島創2015「法金剛院と法金剛院領の形成・伝領過程」史観172

大竹秀男1977『「家」と女性の歴史』弘文堂

大藤修1996『近世農民と家・村・国家 : 生活史・社会史の視座から』吉川弘文館

小笠原敬承斎(2010)「結婚にまつわるしきたり その起源と意味」『歴史読本』201010 55 10号 通巻856

岡野友彦2015『戦国貴族の生き残り戦略』吉川弘文館

岡部 明日香(2012)「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実:―絵画と斎宮」中古文学 90(0)★

小川剛生2003『南北朝の宮廷誌―二条良基の仮名日記』臨川書店

小川剛生2005 『二条良基研究』 笠間書院

小川剛生 2009 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社

小川剛生2012『足利義満』中公新書

小川剛生2017 『中世和歌史の研究』 塙書房

小川剛生 2020 『徒然草をよみなおす』 ちくまブリマー新書

小川剛生 2020 『二条良基』 (人物叢書)吉川弘文館

奥村佳紀1971「新羅人の来般について」駒沢史学 (18)

小倉慈司2010「親王・王成年式表」『書陵部紀要』(61

小田部雄二2014『天皇と宮家 消えた十二宮家と孤立する天皇家』新人物文庫

小野則秋 1944 『日本文庫史研究 上巻』 京都・大雅堂

尾上陽介(2001)「年官制度の本質」史観 145★

折井美耶子2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636

加栗貴夫2018「家移り儀礼から見た中世後期の「家」妻の位置」『日本史のまめまめしい知識第3巻』岩田書院

加地信行1998『家族の思想 儒教的死生観の果実』PHP新書

加藤東知1927『英国の恋愛と結婚風俗の研究 』日本大学出版部

勝俣鎭夫2011『中世社会の基層をさぐる』山川出版社

河西秀哉 2008 「象徴天皇制・天皇像の定着 ミッチー・ブームの前提と歴史的意義」 同時代史研究(1

河西秀哉2018『天皇制と民主主義の昭和史』人文書院

上村正裕 2018 「しりへの政と皇后: 八・九世紀を中心に」 日本歴史 (844)

金井静香 1999 『中世公家領の研究』 思文閣出版

神谷正昌2002「承和の変と応天門の変」史学雑誌111111

神谷正昌 2020 『清和天皇』 吉川弘文館

亀田俊和2014『南朝の真実 忠臣という幻想』吉川弘文館

亀田俊和2015『高師直』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー

蒲生正男1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968

蒲生正男1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社

蒲生正男1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

蒲生正男1974b「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3

蒲生正男1975「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3川上貢(1960)『般舟三昧院について』日本建築学会論文報告集 662

川上多助1982『平安朝史学』上 初版1930 昭和57年 国書刊行会

川崎晃 2004 「聖武天皇の出家・受戒をめぐる憶説」三田古代史研究会『政治と宗教の古代史』 慶応義塾大学出版会

神田裕理 2019 『朝廷の戦国時代-武家と公家の駆け引き』 吉川弘文館

河村政久史1973 「昌子内親王の入内と立后をめぐって」 史叢(7

官文娜2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版

官文娜2010「日中伝統家業の相続に関する歴史的考察--北京同仁堂楽家と三井家との比較において」立命館文學617

菊池大樹2001「宗尊親王の王孫と大覚寺統の諸段階」歴史学研究747

岸俊男 1957 「光明立后の史的意義」 ヒストリア(20

岸俊男1969 『藤原仲麻呂』 吉川弘文館

北啓太2016 「禁裏文庫と近衛家」田島公編『近衛家名宝からたどる宮廷文化史』 笠間書院

鍛代敏雄2013敗者の日本史11『中世日本の勝者と敗者』吉川弘文館

北西鶴太郎 「大鏡の文藝性序説 : その 1 主題に就いて」文芸と思想  (3)★

北野隆(1979)「近世公家住宅における数寄屋風書院について : その 2 摂家住宅について」日本建築学会論文報告集 275(0)★

木原弘美 1995 「 絵巻の往き来に見る室町時代の公家社会その構造と文化の形成過程について」 佛教大學大學院紀要 23号★

木村修二1994「近世公家社会の「家」に関する一試論 : 養子縁組をめぐって」 史泉79

木本好信 (2004、初出2002) 『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう

京楽真帆子1989「平安貴族の居住形態」比較家族史研究4

京楽真帆子1993「平安京における居住と家族-寄住・妻方居住・都市」『史林』76巻2号

金宅圭2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会

久保貴子 1998 『近世の朝廷運営 - 朝幕関係の展開』 岩田書院

久保貴子 2002 「江戸時代-武家社会のはざまに生きた皇女」服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』 小学館

久保貴子2009 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち) 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2

楠元町子 2010「万国博覧会と皇室外交-伏見宮貞愛親王と1904年セントルイス万博-」愛知淑徳大学論集一文学部・文学研究科篇一 (35)★

熊谷開作1963『歴史のなかの家族』酒井書店

熊谷開作1987『日本の近代化と「家」制度』法律文化社

倉本一宏2019『公家源氏』中公新書小山順子2021「後土御門天皇と連句文芸-文芸を導く天皇」芳澤元編『室町文化の座標軸-遣明船時代の列島と文事』勉誠出版

倉本一宏2001「内府悦気有り」駒沢女子大学研究紀要 (8)1

栗原弘1990「藤原内麿家族について」日本歴史 (511)

栗原弘1994『高向群枝の婚姻女性史像の研究』高科書店

栗原弘1999『平安時代の離婚の研究』弘文堂

栗原弘 2002 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2★

栗原弘2004「藤原道長家族の追善仏事について」比較家族史学会 編 (19)★

栗原真人1991 <論説>秘密婚とイギリス近代 (1)」 香川大学 11巻1号★

栗原真人1992a 「〈論説>秘密婚とイギリス近代 (3)  香川法学 121号★

栗原真人1992 b「<論説>秘密婚とイギリス近代(4・完)  香川法学 122号 ★

栗原真人1996「 フリートとメイフェア : 一八世紀前半ロンドンの秘密婚」 香川法学 154号★

栗原涼子2003「革新主義考アナーキストフェミニズムについて」岩手県立大学盛岡短期大学部研究論集 5

栗山圭子 2001 「准母立后制にみる中世前期の王家」『日本史研究』465号 日本史研究465

黒田俊雄(1994・初出1982)「朝家・皇家・皇室考-」『黒田俊雄著作集一権門体制論』法蔵館

桑山浩然1996「室町時代における公家女房の呼称 」『女性史学』( 6)

河内祥輔2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館

河内祥輔2018「鎌倉幕府と天皇」『天皇と中世の武家』所収

呉座勇一2018『陰謀の日本中世史』角川新書

小久保嘉紀2022「斯波義敏と斯波義廉の内訌」渡邊大門編『諍いだらけの室町時代』柏書房

小谷徳洋2022「河内四条畷の戦いと楠木正行の生涯」渡邊大門編『南北朝の動乱主要合戦全録』星海社

後藤みち子2009『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館

後藤みち子2014「室町戦国時代の婚姻」高橋秀樹編『婚姻と教育』竹林舎

小森崇弘2008 「後土御門天皇の月次連句文芸御会と公家」 立命館文學 (606)

小林よしのり 2010 『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』 小学館

古藤真平2018 『日記で読む日本史3 宇多天皇の日記を読む』 臨川書院

五味文彦 2006 『中世社会史料論』 校倉書房

近藤佳代子(2015)「夫婦の氏に関する覚書(一)」宮城教育大学紀要49

近藤成一2016『鎌倉幕府と朝廷』岩波新書

近藤毅大 1997 「紫微中台と光明太后の『勅』」 ヒストリア(155

近藤好和2010「布衣始について」日本研究42★

近藤好和 2019 『天皇の装束』 中央公論新社

齋藤公太2019『「神国」の正統論―『神皇正統記』受容の近世・近代』ぺりかん社

佐伯智広2019『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』吉川弘文館

坂井孝一2018『承久の乱』中公新書

酒井信彦 2002 戦国時代の朝廷 朝廷の「式微」は真実か 日本及び日本人1643

酒井茂幸2009 『禁裏本歌書の蔵書史的研究』  思文閣出版

坂本真美子 1987「十 五 世 紀 の 宮 廷 雅 楽 と 綾 小 路 有 俊」東洋音楽研究51

坂田聡(2002)「中世後期~近世の家・家格・由緒--丹波国山国地域の事例を中心に 」『歴史評論 』630

坂田聡(2006)『苗字と名前の歴史』吉川弘文館

坂田聡(2007)「家制度の期限を探る-転換期としての戦国時代-」『青少年問題』625

桜井栄治 (2009) 『室町人の精神』 講談社学術文庫桜井栄治 2009 『室町人の精神』 講談社学術文庫

桜田真理絵 2016 「未婚の女帝と皇位継承元正・孝謙天皇をめぐって」 駿台史学156

桜田真理絵2018 「女帝「非婚」と「未婚」のあいだ -「不婚の女帝」論の再検討-」 文化継承学論集 (13)

佐々木宗雄 1994 『日本王朝国家論』名著出版

佐古愛己2012『平安貴族社会の秩序と昇進』思文閣出版

佐古愛己2013「中世叙位制度の特質に関する一考察 : 鎌倉期を中心佐藤長門 (2009) 『日本王権の構造と展開』 吉川弘文館

佐藤賢一2009『カペー朝-フランス王朝史1』講談社現代新書

佐藤賢一 2014 『ヴァロア朝-フランス王朝史2』 講談社現代新書

佐藤賢一2019『ブルボン朝-フランス王朝史3』講談社現代新書

佐藤哲也2012「近代教育思想の宗教的基層(1) : コトン・マザー『秩序ある家族』(1699)」 宮城教育大学紀要 47号★

佐藤長門 2009 『日本王権の構造と展開』 吉川弘文館

佐藤長門(2012)「承和の変前後の春宮坊」『日本古代の王権と東アジア』吉川弘文館

篠川賢 2013 『飛鳥と古代国家』 吉川弘文館

滋賀秀三1967『中国家族法の原理』創文社

柴桂子2004「近世の夫婦別姓への疑問〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現状 のコメント」『総合女性史研究』(21)

柴田敏夫1987「「コモン・ロー・マリッジ」略史」大東法学 14

島善高1992「近代における天皇号について」早稲田人文自然科学研究(41

島津一郎1974『妻の地位と離婚法』第42イギリスにおけるコモン・ロー婚の展開 有斐閣

島村修治1971『外国人の姓名』ぎょうせい

清水昭俊1970「<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

清水昭俊1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

清水昭俊1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

清水昭俊1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

清水昭俊1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 

清水昭俊1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

東海林亜矢子2004「母后の内裏居住と王権」お茶の水史学 48

白木歩澄2018「十八世紀イングランドにおける女性の結婚観 : ハードウィック婚礼法制定による変化」歴史研究64

白根陽子2018 「伏見宮家領の形成」『女院領の中世的展開』 同成社

末柄豊 2011 「伏見宮旧蔵文書二題」 東京大学史料編纂所研究成果報告2011-3

末柄豊2012 「禁裏文書における室町幕府と朝廷」 ヒストリア(230

末柄豊2012 「十三絃道の御文書」のゆくえ」 日本音楽史研究(8

末柄豊 2018 『戦国時代の天皇』 山川日本史リブレット

菅原正子2002「中世後期-天皇家と比丘尼御所」服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』小学館

菅原正子2014『日本中世の学問と教育』同成社

杉崎重遠 1954「北宮考 -九条右大臣師輔室康子内親王-」國文學研究 (9-10)★

鈴木繁夫2004「交わりの拡張と創造性の縮小 : ミルトンの四離婚論をめぐる諸原理について」言語文化論集 261号★

鈴木繁夫2013「性格不一致の離婚とその起源 : ミルトン離婚論と現代離婚観の宗教性」言語文化論集 35(1)

瀬川淑子2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』

相馬真理子 1997 「琵琶の時代から笙の時代へ--中世の天皇と音楽」 書陵部紀要 (49)

園部寿樹2015 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五) 山形県立米沢治芳短期大学紀要 51

曽我良成2012『王朝国家政務の研究』吉川弘文館

曾我部静雄1974「日唐の詔勅に見える節婦の旌賞」史林572

曽我部愛2021『中世王家の政治と構造』同成社

杣田善雄2003『幕藩権力と寺院・門跡』思文閣出版

苑田 亜矢1997 1159年の教皇選挙と教皇庁上訴 : イングランド史からの一考察」有明工業高等専門学校紀要 33

苑田亜矢2000「一二世紀イングランドにおける教皇庁への上訴をめぐって--1164年のクラレンドン法第8条および1172年のアヴランシュの和約の再検討」法制史研究 (50)

薗部寿樹2014資料紹介『看聞日記』現代語訳(二)山形県立米沢女子短期大学紀要50★

薗部寿樹2015 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五) 山形県立米沢女子短期大学紀要51★

高岸輝2007「室町時代における高階隆兼の伝説形成」美術史論集7

高岸輝 2017 「天皇と中世絵巻」高岸輝・黒田智『天皇の美術史3乱世の王権と美術戦略 室町戦国時代』 吉川弘文館

高岸輝 2020 『中世やまと絵史論』 吉川弘文館

高久嶺之介1981「近代皇族の権威集団化過程その1 近代宮家の編成過程」社会科学(27)★ 

高埜利彦2014『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館

高埜利彦2019「江戸時代の皇位継承」朝幕研究会『論集近世の天皇と朝廷』岩田書院

高橋秀樹1996『日本中世の家と親族』吉川弘文館

高橋秀樹2004『中世の家と性』山川出版

高橋秀樹2014「「家」研究の現在」『婚姻と教育』竹林舎

高橋康夫1978 「後小松院仙洞御所跡敷地における都市再開発の実態室町時代京都の都市再開発に関する考察」 日本建築学会論文報告集(263)★

高橋康夫1978 「戦国期京都の町 組 「六 町 」 の地域構造」 日本建築学会論文報告集274号★

高橋康夫 1983 『京都中世都市史研究』 思文閣出版

高橋典幸 2019 「南北朝動乱期の社会」『中世史講義』 筑摩書房

武部敏夫 1960 「世襲親王家の継統について-伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」 書陵部紀要12

武部敏夫1987『和宮』吉川弘文館

瀧浪貞子 1991 『日本古代宮廷社会の研究』「孝謙女帝の皇統意識」 思文閣出版

瀧浪貞子2017『藤原良房・基経』ミネルヴァ書房

竹島寛 (1982復刊、1936) 『王朝時代皇室史の研究』 名著普及会1982復刊

武田佐知子1980「律令国家による儒教的家族道徳規範の導入-孝子・順孫・義夫・節婦の表旌について」竹内理三編『天皇制と社会構造』校倉書房

詫間直樹2003「伏見宮本『御産部類記』について」『禁裏・公家文庫研究 第一輯』思文閣出版

詫間直樹2006「高松宮家旧蔵『伏見殿文庫記録目録』について」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』思文閣出版

田島公 1997 「禁裏文庫の変遷と東山御文庫の蔵書」大山喬平教授退官『日本社会の史的構造 古代・中世』 思文閣出版

田島公2004 「典籍の伝来と文庫 古代中世の天皇家ゆかりの文庫・宝蔵を中心に」石上英一『歴史と素材』所収 吉川弘文館

田島公2006 「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』 思文閣出版

龍野加代子1997 「八条院領の伝領過程をめぐって」『法政史学』49号 法政史学(49)★

玉井力1964「承和の変について」歴史学研究286

谷口やすよ1978 「漢代の皇后権」 史学雑誌87(11)★

谷口研語 1994 『流浪の戦国貴族 近衛前久』 中公新書

谷田博文 2019 『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか』 河出書房新社

田中明2007「修学院離宮における御幸様式の変遷と場所構成について」日本建築学会計画系論文集72 621

田中和夫1958「イギリスの婚姻法」比較法研究18号 

田村航 2013 『一条兼良の学問と室町文化』 便誠出版

田村航 2018 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)

田村航 2020 「後花園天皇-後光厳流か、崇光流か」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

千葉功2019「南北朝正閏問題再考」学習史学57★

告井幸男2007「摂関・院政期における官人社会」日本史研究535

角田文衛 (1985初出1966) 「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』 法蔵館

角田文衛2003『二条の后藤原高子 業平との恋』幻戯書房徳田武(2011)『朝彦親王伝 維新史を動かした皇魁』勉誠出版

角田文衛2006『日本の女性名―歴史的展望』国書刊行会

東郷茂彦2020『「天皇」永続の研究』弘文堂

所功 2012 『日本の宮家と女性宮家』「皇室史上の宮家制度」 新人物往来社

所功2021「皇位継承史上の危機と課題」『皇位継承の歴史と廣池千九郎』モラロジー研究

徳島県立博物館企画展図録2001『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』

利行榧美2006「桓武朝における「国忌」についての一考察」奈良史学(24

豊永聡美2001「平安時代における天皇と音楽」研究紀要 25(東京音楽大学)

豊永聡美2017 『天皇の音楽 古代・中世の帝王学』 吉川弘文館

豊永聡美2020 「後土御門天皇-心を砕いた朝議復興-」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎 (1995) 「わび茶と露地 (茶庭) の変遷に関する史的考察 その9: 禁中の茶とその茶庭」 千葉大学園芸学部学術報告 (49)

直江眞一1990「『我々はイングランド法を変更することを欲せず』(Nolumus leges Anglie mutare)について」『法学』東北大 543

直江眞一2014「アレクサンデル三世期における婚姻法 : 一一七七年六月三〇日付ファウンテン修道院長およびマギステル・ヴァカリウス宛教令をてがかりとして」法政研究 81 (3)

永井晋2003『金沢貞顕』吉川弘文館

永井晋2006『金沢北条氏の研究』八木書店

永井晋2021『八条院の世界』山川出版社

永井晋2022『鎌倉幕府はなぜ滅びたのか』吉川弘文館

永井和 2012 「波多野敬直宮内大臣辞職顛末 : 一九二〇年の皇族会議 (杉橋隆夫教授退職記念論集)」立命館文学(624)★

中込律子 2005 「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』 清文堂出版

中川和明1991「聚楽第行幸の行列について」弘前大学國史研究 (90)

中川八洋2005『皇統断絶』ビジネス社

中川八洋2007『悠仁天皇と皇室典範』清流出版

中川八洋2018 『徳仁新天皇陛下は最後の天皇』 ヒカルランド

中川八洋 2019 「「旧皇族の復籍」妨害に全力疾走の赤い山羊八木秀次 ──」 ブログ 中川八洋ゼミ講義

中林隆之 (1993 1994) 「律令制下の皇后宮職(上)(下) 新潟史学31 32

中村順昭 2019 『橘諸兄』 吉川弘文館

中村みどり 2002 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編(1

中村みどり2014 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編 (13)★

中村順昭 2019 『橘諸兄』 吉川弘文館

中本真人2021a「北山惣社御神楽と綾小路信俊」人文科学研究147

中本真人2021b『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』新典社

波田永実 2017 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」 流経法學16(2)★

成清弘和1999 『日本古代の王位継承と親族』 岩田書院

仁井田 陞1952『中国法制史』岩波書店

西川誠2019「皇室典範の制定-明治の皇位継承」歴史学研究会編『天皇はいかに受け継がれたか』績文堂

西川健誠2005「夫婦の交わり,神との交わり : 『楽園喪失』における夫婦愛と信仰()」神戸外大論叢 56(2)

西川健誠2004「夫婦の交わり, 神との交わり : 『楽園喪失』における夫婦愛と信仰 ()」 神戸外大論叢 55(3)★】

西嶋定生 1999 『倭国の出現 東アジア世界のなかの日本』 1999 東京大学出版会

西島正1954「ミルトンの女性觀」紀要 3

西田かほる2021「近世遠江における親王由緒-木寺宮をめぐって-」静岡文化芸術大学研究紀要21

西別府元日2002 『律令国家の展開と地域支配』 思文閣出版

西谷正浩1996『日本中世の所有構造』塙書房

新田一郎 2001 「継承の論理-南朝と北朝」『岩波講座 天皇と王権を考える 2統治と権力」」 岩波書店

新田一郎2011 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社

仁藤智子2016「平安初期における后位の変質過程をめぐって 王権内の序列化と可視化」国士館人文学48

布谷陽子2005「中世王家領の研究-女院領の伝領と王家の追善仏事」博士論文要旨★

根本猛1992「アメリカ法にみる母性保護と男女平等」『法経論集』静岡大学法経短期大学部6768

野田泰三2019「宣陽門院覲子内親王の夢 (女性歴史文化研究所 第27回シンポジウム報告「発信する皇女たち -斎王を中心に-」. II)」女性歴史文化研究所紀要27

野村育代1992 「王権の中の女性」峰岸純夫編『中世を考える家族と女性』吉川弘文館 吉川弘文館

野村玄2019 「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題 明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響」 大阪大学大学院文学研究科紀要(59)★

橋本義彦 1976 「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』 吉川弘文館

橋本義彦2003「東山文庫と書陵部」『禁裏公家文庫研究第一輯』

橋本義則 1996 『平安宮成立史の研究』 塙書房

波田永実2017 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」 流経法學16(2)★

波多野敏1990「フランス、アンシャン・レジームにおける結婚の約束と性関係」京都学園法学 創刊号★

秦野祐介 2020 『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』 東京堂出版

秦野裕介 2018 「常盤井宮恒興王への親王宣下」 ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座, 11-04

秦野裕介2019「オンライン日本史講座四月第二回「南北朝の動乱」4」ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座 412

秦野裕介 2020 『乱世の天皇』 東京堂出版

秦野裕介 2020 YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」 (ページ: 31以降) 日本史オンライン講座★

秦野裕介2020 YouTube「中世の皇位継承16 後小松上皇 後光厳流の断絶と継承」 日本史オンライン講座★

秦野裕介2020 YouTube「中世の皇位継承17 後小松上皇と後花園天皇」 日本史オンライン講座★

秦野裕介2020YouTube「京都のお寺の歴史 妙心寺Ⅰ花園上皇の御所を禅寺に」日本史オンライン講座★

秦野裕介2021「観応の擾乱」「禁闕の変」渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』所収 柏書房

秦野裕介2022a「両統迭立から正中の変・元弘の変まで」「和泉堺浦・石津の戦い」「九州における南北朝の動乱」渡邉大門編『南北朝動乱主要合戦全録』星海社

秦野裕介2022YouTube「戦国大名477 足利家 天皇家と足利将軍家」日本史オンライン講座★ 

秦野裕介2022YouTube「観応の擾乱 後光厳天皇践祚と持明院統の分立」日本史オンライン講座★

塙陽子1993「カトリック教会婚姻不解消主義の生成と発展」『家族法の諸問題()』信山社

早川庄八 1993 『続日本紀(古典講読シリーズ)』 岩波セミナーブックス

樋口健太郎2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂

樋口健太郎2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011

久水俊和 2011 『室町時代の朝廷行事と公武関係』 岩田書院

久水俊和 2020a 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店

久水俊和 2020b 『中世天皇葬礼史――許されなかった〝死〟』 戎光祥出版

久水俊和2021「同一の帳簿を用いる「公武共同の財政構造」『「室町殿」の時代 安定期室町幕府研究の最前線』山川出版社

廣木一人2001 「後土御門天皇家の月次連歌会」 青山語文31

廣瀬隆司1985「明治民法施行前における妻の法的地位」愛知学院大学論叢法学研究2812.

広岡裕児 1998 『皇族』読売新聞社

兵藤裕己2018 『後醍醐天皇』 岩波新書

深津睦夫2014『光厳天皇』ミネルヴア書房

深澤光佐子2015『明治天皇が最も頼りにした山階宮晃親王』宮帯出版社

福井俊彦1970「承和の変についての考察」日本歴史260 

福井憲彦 2019 『教養としてのフランス史の読み方』 PHP研究所

福田景道2015「『池の藻屑』の皇位継承史構図―編年史的側面と「世継」―」島大国文35

島大国文★

福地陽子1956<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展」法と政治7(4)

服藤早苗 1991 『家成立史の研究』  校倉書房

藤木邦彦1991 『平安王朝の政治と制度』 吉川弘文館

藤田覚 2011a 『江戸時代の天皇』 講談社学術文庫

藤田覚2012b『近世天皇論』清文堂

藤田大誠2006 「幕末維新期における宮門跡の還俗に関する一考察」国学院大学日本文化研究紀要 96

藤田高夫1990 「前漢後半期の外戚と官僚機構」 東洋史研究 , 48(4)

不破勝敏夫1958a「Common Law Marriageについて-1-」山口経済学雑誌 8(3

不破勝敏夫1958bCommon Law Marriageについて-2-」山口経済学雑誌 8(4)

不破勝敏夫1959「アメリカにおけるCommon Law Marriageの理論」山口経済学雑誌 10(1)

北條文彦 2002 「中世に於ける長講堂の供花の沿革について」 駒沢史学 (58)

保科季子2002 「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』612号 東洋史研究612

保立道久 1996 『平安王朝』 岩波新書

洞富雄1957『日本母権制社会の成立』淡路書房

前田雅之 2018 『書物と権力 中世文化の政治学』 吉川弘文館

増田忠彦201) 「資料にみえる 碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち)」 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 (15)

松下晴彦2004「グレトナ・グリーン「駆け落ち婚」の聖地」英米文化学会編『英文学と結婚-シェイクスピアからシリトーまで』彩流社所収

松永和浩2013『室町期公武関係と南北朝内乱』吉川弘文館

松永和浩 2020 「後光厳天皇-神器を欠き、都を逐れても」久水・石原變『室町・戦国天皇列伝』所収 戎光祥出版

松永和浩2022「室町幕府の皇位・皇統」「室町時代と酒-『看聞日記』を中心に-」『京都の中世史5首都京都と室町幕府』

松薗斉 1997 『日記の家』 吉川弘文館

松薗斉2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25),

松薗斉2014 「戦国時代禁裏女房の基礎的研究 後土御門~後奈良天皇期の内裏女房一覧」 愛知学院大学論叢 (44)

松薗斉 2016 「室町時代禁裏女房の基礎的研究  後花園天皇の時代を中心に」 人間文化 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (31)

松薗斉2017『日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家  (日記で読む日本史)』臨川書院

松澤克行・荒木裕2008「 刊行物紹介 大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記 九」東京大学史料編纂所報第44号★

三木太郎 1953 「椿葉記」より見たる持明院統分裂の原因長講堂領以下の所領を中心としてー」 駒沢史学2★

三崎裕子 1988 「キサキ宮の存在形態について」  史論41

三島暁子 2002 「室町時代宮中御八構の開催と記録」 武蔵文化論叢二

三島暁子 2003 「南北朝、室町時代の追善儀礼に見る公武関係」 武蔵文化論叢三

三島暁子 201 『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』 思文閣出版

水間政憲 2019 『ひと目でわかる皇室の危機 ~天皇家を救う秘中の秘」 ビジネス社

水野智之2014 『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』 吉川弘文館

水野柳太郎2008 「いわゆる光明立后の詔について」 奈良史学 (26)

水野智之 2005 『室町時代公武関係の研究』 吉川弘文館

三村晃功 1995 「「永正8年月次和歌御会」をめぐって--725日和歌御会を中心に」 光華女子大学研究紀要 (33)★

村上史郎1999「九世紀における日本律令国家の対外意識と対外交通--新羅人来航者への対応をめぐって」史学 69(1)

村井章介 2005 「易姓革命の思想と天皇制」『中世の国家と在地社会』 校倉書房

村田正志 (1954初刊、1984) 『村田正志著作集第四巻證註椿葉記」 思文閣出版

村田正志 (1983(初出1944) 「後小松天皇の御遺詔」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版

村田正志 (1983(初出1951)「皇統における熊澤一派の俗論を筆誅する」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版

桃崎有一郎 2020 『室町の覇者足利義満-朝廷と幕府は以下に統一されたか』 筑摩書房

森茂暁(2005 2020)『南朝全史』講談社

森茂暁2007戦争の日本史11『南北朝の動乱』吉川弘文館

森茂暁2008『増補・改訂 南北朝期公武関係史の研究』思文閣出版

森茂暁(1997 2013)『闇の歴史、後南朝』角川書店

森茂暁 2017 『室町幕府崩壊』 角川文庫

森茂暁 2004 『満済』 ミネルヴァ書房

森暢平 2014 「昭和20年代における内親王の結婚: 「平民」性と「恋愛」の強調」 成城文藝229

森暢平2022『天皇家の恋愛』中公新書

盛本昌広2008 『贈答と宴会の中世』 吉川弘文館

森田大介2020 「後柏原天皇-践祚二十年を経ての即位」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

森安雅子2011「『池の藻屑』における南北朝史観をめぐって」岡大国文論稿39

両角倉一1958「最 盛 期 の 堂 上 連 歌 壇」連歌俳諧研究16★゜

文殊正子 1986 「『内親王』号について 『公主』号との比較 」古代文化 38(10)

保田卓 1997 『日本における規範について その状況依存性の歴的考察(後編)』 教育・社会・文化研究紀要4

安田政彦 1998 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』 吉川弘文館

山﨑雅稔2001「承和の変と大宰大弐藤原衛条起請」歴史学研究751号、(2001

山崎雅稔 2012 「藤原衛の境涯」 帝京大学外国語外国文学論集(18)

山口和夫 2017 『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館

山田敏之 2018 「旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と永世皇族制の確立」 レファレンス(808)★

山本啓介2013 「後柏原天皇時代の内裏和歌活動について 時代背景と形式」 日本文学629

湯川俊治2005『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会

横井清2002『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫 旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979

吉川真司 1998 『律令官僚制の研究』 塙書房

吉田賢司 2017 『足利義持』 ミネルヴァ書房

吉田孝 2006 『歴史のなかの天皇』  岩波新書

吉田常吉 1976 『幕末政治論集』 岩波書店

米田雄介 1992 『歴代天皇の記録』 続群書類従完成会

米田雄介 2004 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』 塙書房

渡邊大門2012『戦国時代の貧乏天皇』柏書房,

渡邊大門2019『奪われた三種の神器』草思社

渡邊大門2021「長禄の変」『戦乱と政争の室町時代』柏書房

渡邊大門2022a「南北朝の合一」『南北朝動乱主要合戦全録』星海社

渡邊大門2022b『嘉吉の乱』ちくま新書

 

 

 

 

 

 

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