国会議員の先生方へ意見具申 有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき-「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-(第2分冊)理由要旨version1
結論は第一分冊で述べてます。比較的短い理由の要旨です。引用参考文献は第一分冊3月21日エントリー文末にあります。゜
理由要旨(version1)
内容
A ①案に付随する皇室典範12条の改変は家族慣行、婦人道徳を破壊する... 1
Ⅱ 旧宮号再興・旧皇族復籍をコンセプトとして③案の直接復帰にしぼるべき... 5
A 伏見宮御一流(崇光院流)が皇籍に復帰すべき正当性がある... 5
B 11宮家は皇室典範のもとでは永世皇族制が前提で存続した... 7
② 国家は伏見宮御一流永続のために財政支出する義理がある... 16
③『椿葉記』には崇光院流の永続の意味も込められている... 18
Ⅰ ①案と皇室典範12条改変に反対する理由
A ①案に付随する皇室典範12条の改変は家族慣行、婦人道徳を破壊する
有識者会議は、①案を恒久的制度とするため皇室典範12条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)の改変を強く打ち出しているが、同条は旧皇室典範44条を継受したものであり、皇室典範義解によれば「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨のものであって、相応正当な理由がある。
夫の身分に従うとは、夫と尊卑を同じくした同一の身分、夫が侯爵なら嫡妻も侯爵家の身分という意味であり、妻は夫の家に入る。出嫁女は生家から離れ、婚家の成員となるゆえ夫と身分を同じくすることで、婚入者の婚家帰属性という日本の家族慣行、女子は婚家を継いで我が家とする婦人道徳に合致させたものである[i]。
夫妻は尊卑を同じくするという理念は、儒教の経書にみられる文明理念であり、夫婦斉体思想、夫婦の一体性という婚姻家族にとって妥当な意義を有する[ii]。
尊卑を別にする夫妻・母子という異例の制度は、婚姻家族の在り方としては大きな変革となり日本の家族慣行、秩序観念、婦人道徳、醇風美俗を否定するので到底容認できない。
別の言い方をすれば、穂積八束が「我千古ノ国体ハ家制二則ル家ヲ大二スレハ国ヲ成シ国ヲ小二スレハ家ヲ成ス」といったように「国体」ともいう社会構造を全面否定する意図を看取できるのである。
B ①案は内親王の歴史的由来の否定
令制では内親王が臣下に降嫁することは一貫して違法であり[iii]、勅許された18例は令制が想定していないものである。「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した[iv]。
ところが①案は「内親王」号の歴史的由来を否定し、臣下と結婚しながら、摂政、国事行為臨時代行等を内親王や女王に担っていただくというもので、皇室の伝統破壊である。
加えて、この案は皇室の性的役割分担を流動化させるので、将来、英国、北欧、ベネルクスの君主国のように男女共系に移行することを見据えた案といえる。
C ①案は夫婦別姓に先鞭をつける歪な形の制度創出であり不愉快
有識者会議①案は、夫妻でありながら妻が皇統譜と夫と嫡子が戸籍でバラバラなのは「婚姻家族」としてはありえない歪で新奇な制度を創出するもので不愉快。我が国の家族慣行では入婿は家長(当主)予定者として迎えられるが、夫妻で尊卑を異にし、男性が皇族女子の添え物になるような婚姻のあり方は男性に対する侮辱だ。
D ①案が「皇室の歴史と整合的なもの」という説示は間違っている
事務局の調査研究資料(令和3・11・30)では、①案を正当化するために江戸時代以前は、臣下に嫁した後も内親王の身位であることに変わりないとして、6方を例示しているが、たとえば康子内親王(醍醐皇女)は藤原師輔と内裏で密通し、事後的に承認されたケースである(勤子内親王も同じ)。
『大鏡』によれば村上天皇の怒りをかった。同時代のものではないが『中外抄』は「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」[保立道久1996 81頁]とあり醜聞と認識されている。それは反律令行為だからである。
村上天皇及び世間は許さなかったとする下記の史料もあり、それは異常事態と認識されていたといえる。
『大鏡』三 裏書
一品康子内親王事
(中略)
天暦八年三月廿八日勅賜年官年爵。本封外加一千戸。准三宮。同九年配右大臣師輔公。帝及世不許之。天徳元年六月六日生仁義公(藤原公季)。即薨。同十日乙丑葬礼
[米田雄介2004 486頁]
とはいえ、師輔は村上天皇の皇太弟時代から近臣(春宮大夫)で、皇后安子の父で義父である以上、事の性質上、降嫁が事後的に勅許された。内親王は師輔の坊城第に居住し夫方居住であり[杉崎重遠 1954][栗原弘2004]、藤原公季の誕生直後産褥で薨ぜられている。
令制が想定していない違法行為を「皇室の歴史と整合的なもの」とする有識者会議報告の評価は論理的に間違っているし、フェイクと断言してよいと思う。
また、例示6方のうち婚約相手(徳川家継)の夭折で江戸に下向していない八十宮吉子内親王以外、墓所が判明している近世の摂家に降嫁した常子内親王、栄子内親王と徳川家に降嫁した親子内親王の墓所はいずれも婚家の菩提寺で、宮内庁治定陵墓のリストにはない。
婚家の墓所ということは皇室から離れたことを意味し、嫁取婚、夫方居住であったことを含め、婚家の成員である。皇族として摂政や国事行為臨時代行等を担う立場にある①案のイメージとは隔たりがあると言わなければならず、これらを先例として①案を正当化する論理性はない。
なお、①案は女性皇族の配偶者と所生子を当面皇族とはしないけれども、既成事実化したうえでいずれ皇族とすることも検討する趣旨だが、康子内親王所生子は太政大臣藤原公季、常子内親王所生が関白藤原(近衛)家煕であるように、所生子は父系帰属主義で藤氏である。
検討の余地などない前例なのに、検討するというのは、藤原公季や近衛家煕を皇族に認定するというありえないことをやるということであり、仮に康子内親王や常子内親王が①案の前例と認めるとしても、それは前例を否定することで、小さく生んで大きく育てるたくらみとみてよいだろう。
Ⅱ 旧宮号再興・旧皇族復籍をコンセプトとして③案の直接復帰にしぼるべき
A 伏見宮御一流(崇光院流)が皇籍に復帰すべき正当性がある
a)伏見宮御一流の由緒が顧みられなかったのは南朝正統史観の影響
昭和天皇と直宮3方を守るため昭和22年に皇籍を離脱した11宮家は、伏見宮御一流であるが、片山哲首相の説明では後伏見天皇の末流であり男系では天皇と血縁が疎隔していることを理由の一つとしている。
伏見宮には『椿葉記』(第3代貞成(道欽入道)親王のちの後崇光院太上天皇の永享5年の著作)非登極皇族で太上天皇尊号宣下を受けたのは、現代の認識では二例、後亀山院は現代では歴代天皇だが、近世以前を公認してないので三例をはじめ皇統上格別の由緒、永続を約されていた由緒があるが、それはいっさい無視された。そこに問題がある
それは、南朝正統史観、皇国史観の影響が大きいと言わなければならない。
『椿葉記』や石清水八幡宮願文など、伏見宮貞成親王(後崇光院法皇)は、崇光院流を正統とする強い意識を持ち続けたことが知られている。
(註 なお本朝皇胤紹運禄に従った系図なので宮内庁HPとは違う。但し後崇光院は貞成親王と記されており、尊号は註記が正しい。)
(註 なお非登極皇族で太上天皇尊号宣下を受けたのは、現代の認識では色をつけた二例、後亀山院は現代では歴代天皇だが、近世以前は公認されておらず帝に非ざる皇族としての尊号宣下でありで三例ともいえなくもない。)
理由の第一は、崇光上皇が持明院統の所領と財産を相続し、惣領の光厳法皇から正統と認定されているのは、後光厳ではなく崇光という趣旨である。
その光厳や崇光が歴代天皇から外され、後伏見上皇の末流とされたのは、ダメージが大きかった。書陵部にある伏見宮旧蔵本、嘉暦3年(1328)「御事書并目安案」は後伏見上皇が在位10年になっても後醍醐天皇が居座り続ける不当性を幕府に訴える内容だが、当代(後醍醐)は「一代の主」であると「定申」された身ではないか、中継ぎなのだから早々と退位すべきと訴えている[森茂暁2020,73頁]。いわば後醍醐の政敵であり、伏見宮御一流の由緒が全く顧みられることがなかったのはその事情が大きいといえる。
南北朝正閏問題の経緯については複雑なので、オープンアクセスの千葉功[2019]講演や、それを解説する秦野裕介が講師をしているYouTube日本史オンライン講座「南北朝正閏問題 国定教科書は南北朝を認めるか」2022の参照指示をするが、主として千葉功[2019]を参考、引用して、概略を述べる。
南北朝正閏論争とは、明治43年(1910)喜田貞吉(写真)が編修する国定の教師用教科用図書が、宮内省が南北朝正閏を決定していない状況から、南北朝の対立につき軽重をつけない論旨となっていた。検定期の教科書は南朝を「正位」、北朝を「閏位」と位置付けるのが一般的であったので、教育現場で反発があり、明治44年1月読売新聞が非難、2月藤沢元造代議士の質問は、政府側の説得で回避されたが、犬養毅が激烈な大逆事件と絡めて弾劾演説してこの問題を政争化した。激昂した山縣有朋が教科書改訂を断行しない桂太郎内閣の緩慢を非難、明治44年2月27日喜田定吉は休職処分となり[千葉功2019 ]、桂首相は南朝正統を閣議決定したうえ、2月28日明治天皇に歴代について上奏、仰裁、3月諮詢された枢密院も南朝正統の奉答書を可決した。
明治44年(1911)3月3日の勅裁とは、天皇が内閣総理大臣からの上奏、枢密院からの奉答、宮内大臣からの上奏を容れる形で侍従長より「後醍醐天皇より後小松天皇に至る間の皇統は、後醍醐天皇・後村上天皇・後亀山天皇・後小松天皇なることを認定したまへる旨を内閣総理大臣並びに宮内大臣に達せしめたまふ」とされたことをいう。
また、宮内大臣が天皇に「北朝の天皇に対する宮中の取扱方」について伺ったところ、天皇は宮内大臣に「光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては尊崇の思召により尊号・御陵・御祭典等総て従来の儘たるべき旨を命じたまふ」とされた。ここまでが第一次政治決着である。
したがって、皇統譜においても光厳・光明・崇光・後光厳・後円融は歴代天皇から外された。今日でも、尊号、御陵、御祭典は維持しつつも、北朝天皇として別冊にまとめられている。
明治44年の国史教科書の修正では、北朝抹殺論により北朝側は「逆賊」とされ、「南北朝」は「吉野の朝廷」に改められた。以後、田中義成などが両朝併立説を主張したが、一般には南朝正統説、南朝忠臣賛美が終戦時まで支配していた。
天に二日なし。万世一系と矛盾するため、北朝を抹殺し吉野朝時代とされた。北朝を抹殺してしまうと肝心な伏見宮の由緒は見えてこない。旧皇族にとってダメージになっていた。ゆえに、旧皇族の由緒が全く顧みられることなく、皇籍を離脱された背景としては、『椿葉記』など北朝側の歴史が否認されていた皇国史観の時代背景をみてよいのである。その点で不当な扱いをされたことこそ問題である。
喜田貞吉・三上参次罷免後の教科用図書調査委員会では、南朝正統論者で占められていたが、「史実派」と「憲法派」が対立、委員長である加藤弘之、山川健次郎は「史実派」であり、「憲法派」穂積八束の「北朝を抹殺し、北朝天子を親王とすべし」という北朝抹殺論を排除した。
ところが、小松原文相や桂内閣は、教科用図書調査委員会の総会決議を無視し、教科書改訂では、「光厳天皇」は「光厳院」、「光明天皇」は「光明院」と改め、略系図では、光厳・光明は親王、崇光・後光厳・後円融は王とされ、穂積八束の北朝抹殺論に沿った内容とした。これが第二次政治決着である。
北朝抹殺論は今日では不当のように思える。15年に及ぶ光厳院政における政務は活発で、院宣は350通が現存している[森茂暁2008]。
院評定が開かれ、政務の中心となる文殿が整備され、公家法を完成させた暦応雑訴法が制定され、「公家政務の到達点」との意義が認められている [伊藤喜良 1997]。また京極流の勅撰和歌集である『風雅和歌集』が編纂された。
しかし、大正、昭和期における北朝抹殺論の影響による伏見宮御一流のダメージは皇統嫡系より大きかったと考える。つまり、皇統嫡系も神皇正統記では偽主とする光厳系であることは、伏見宮と同じなのだが、後小松が後亀山より神器が譲渡され、以下歴代天皇であり、伏見宮の流祖崇光院は一応、南朝より太上天皇尊号を受けてはいるが略系図では王で帝に非ざる皇族にされてしまったからである。
B 天皇家と伏見宮家併存の意義を再評価すべき
しかし近年においては実証的な歴史学・国文学等(法制史、芸能史、美術史含)の研究により、伏見宮家が天皇と血縁が疎隔してもステイタスが劣化せず皇族からフェードアウトすることのない意義、世襲親王家の「公認」の過程の研究などで進展、成果がみられる。
帝に非ざる皇族である伏見宮道欽入道親王の太上天皇尊号宣下の辞退説は明確に否定されており、繧繝畳に坐し、元日には関白、摂家以下公家衆の拝賀を受けていた後崇光院法皇は本格的な法皇であったこともわかってきた[田村航2018][久水俊和2020a 39頁]。近年の研究は伏見宮王統の正当性を論じるにあたって有利なものと言ってよい
後深草院以来の正統として、嫡流を引く由緒、伏見宮家が嫡流ゆえ皇室文庫を相続し、その後天皇家に進献した部分があり、贈答品その他で散逸したものがあるにせよ、中世の天皇家の蔵書を昭和22年まで伏見宮家が伝えてきたことは書誌学的にみてその意義は大きい[飯倉晴武2002]。また嫡流の帝器だった琵琶の伝習など嫡流の流儀を継承してきたことから、伏見宮家は「別格の宮家」「准天皇家」あるいは完全なる傍系化を回避された王統と評価されている[久水俊和 2020a]。
550年間天皇家と併存して、しかも血筋が途絶することこなく皇族の崇班を継承してきた意義は甚大であるなお伏見宮は18世紀に実系途絶の危機を乗り越えている。宝暦9年(1760)継嗣のない第16代邦忠親王が、病を得て29歳で薨去。亡くなる直前に、伏見宮家は「崇光院已来嫡流格別之家筋」であるので「系脈無断絶速相続被仰出」て欲しいと、御内儀へ願い出ていた[松澤克行・荒木裕2008]。結果的には、宝暦10年桃園天皇の第二皇子が伏見宮(17代貞行親王)を相続したためいったん血筋は中切れとなったが、親王は明和9年(1772)13歳で早世されたので再び空主となる。宮家から『椿葉記』の由緒等を理由に朝廷に実系継承を嘆願され、将軍にも大奥経由で訴えた結果、安永3年(1774)後桃園天皇の勅命により、勧修寺に入寺得度した伏見宮貞建親王第2王子寛宝法親王の安永3年(1774)年18代邦頼親王として還俗したため実系に復している[武部敏夫1960]。
天皇家と伏見宮家が併存してきた意義を再評価するならば、伏見宮御一流の皇籍復帰をなし奉ることが妥当である。
Bその2 11宮家は皇室典範のもとでは永世皇族制が前提で存続した
幕末維新期以降、伏見宮系の宮家が増大傾向になったのは、皇室の脱仏教化がトレンドとなり、門跡制度が廃止されていく過程で、幕末期は皇子が少なく宮門跡の多くが伏見宮系だったため宮門跡が還俗し、国政に参画するなどしたことによる。
幕末期に青蓮院門跡であった中川宮(文久3/1863)、勧修寺門跡であった山階宮(文久4/1864)、30世御室仁和寺宮(慶応2/1866)その後、東伏見宮、小松宮と改称)が還俗。、
王政復古を契機に慶応4年(明治元年/1868)に聖護院宮(慶応 4年 8 月に嘉言親王の薨去により消滅)、知恩院門跡より華頂宮、梶井門跡より梶井宮(その後、梨本宮と改称)、聖護院に入寺した信仁入道親王が照高院宮(その後、聖護院宮、北白川宮を改称)としてそれぞれ還俗して創立され、明治4年(1872)に三宝院門跡から還俗した伏見宮出身の載仁親王が継嗣のない世襲親王家、閑院宮家を継承し、明治14年(1881)に東伏見宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁親王)が世襲親王家に格上げされ、永代存続する伏見宮系の世襲親王家は三家となっている。山階宮と久邇宮は二代皇族とされ、華頂宮は特旨により、梨本宮は養子によって、北白川宮も兄の能久親王が後嗣となって宮家が継承され存続、さらに明治皇室典範により永世皇族制を前提として存続することとなった。
ここでは、久邇宮、山階宮、小松宮、北白川宮創立等の経緯を簡単に述べる。
〇久邇宮
幕末期の最初の還俗の例は、青蓮院門跡だった中川宮朝彦親王(伏見宮邦家親王第4王子、その後、賀陽宮と改称、一時宮号の停止後、久邇宮と称する。)であり、文久2年還俗以前に国事御用掛に任命され、文久3年(1863年)一橋慶喜の建白により還俗し、公武合体(親幕)派として、同年の8月18日の政変(尊皇攘夷過激派を京都から追放した)で宮廷を動かし、孝明天皇、慶喜を陰で支えるなど大きな影響力があった[徳田武2011]。
しかし第二次長州征伐失敗で失脚状態になり、尊攘派から「陰謀の宮」と憎まれ、明治元年には親王位を剥奪され、明治8年に久邇宮として復位。京都のかつて親子内親王所有だった下立売門内の土地を宮邸とする。伊勢神宮の祭主に就任、明治15年に神宮皇學館を設置した。
梨本宮守正王、皇室典範以降創立の賀陽宮、朝香宮、東久邇宮は久邇宮朝彦親王の御子孫である。
〇山階宮
勧修寺門跡だった山階宮晃親王(伏見宮邦家親王第一王子)の還俗は、雄藩が朝廷改革を志向し、提携できる皇族とみなされたためである。一橋慶喜、松平慶永、松平容保、伊達宗城、島津久光の連署による願出によるもので、孝明天皇が不快感を抱いたため朝廷の抵抗があったが、薩摩藩が主体となった運動により還俗の道が開かれた。慶応元年以降は、幕府と結びついた中川宮や二条斉敬の朝廷主流派に対抗し、正親町三条実愛ともに朝廷内の王政復古派を形成、孝明天皇により国事御用掛を罷免、蟄居に追い込まれたが、孝明天皇崩御で復権した[高久嶺之介1981、熊野秀一2014]。王政復古後、議定・外国事務総督に就き、明治政府の外交トップとなった。
〇小松宮
嘉彰親王は、邦家親王の第8王子で仁和寺門跡から還俗し、仁和寺宮→東伏見宮→小松宮彰仁親王と改め、明治新政府議定、軍事総裁、奥羽征討総督等の維新以来の功労が認められ、明治14年に家格を世襲親王家に改められる。明治23年陸軍大将、31年元帥。36年薨去、国葬を賜る。
〇北白川宮
邦家親王第13王子の初代智成親王は17歳で明治5年に薨去。邦家親王の第9王子の兄能久王を後嗣と遺言したため、第2代能久王とは輪王寺宮門跡公現入道親王であった。戊辰戦争では奥羽列藩同盟の盟主として擁立され「東武天皇」説がある。仙台藩が降伏し新政府により処分を受け親王位を解かれていた。明治11年親王位に復位、日清戦争では近衛師団長として出征。戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、明治28年現地でマラリアに罹り薨去。特旨により国葬を賜る。
竹田宮は能久親王の御子孫である。
次代の北白川宮成久王はフランスの陸軍士官学校に留学、大正12年パリ郊外の自動車事故により35歳で薨去
3代北白川宮永久王は日華事変に出征、昭和15年蒙疆方面で演習中、軍用機の不時着事故のため31歳で薨去。三代に亘り大日本帝国の為に献身遊ばされた[中島武1942]。
明治22年皇室典範により、世襲親王家が廃止され、宮家の家格差はなくなって、親王号ではなく王号を称することとなり、養子相続が否定された。
しかし旧皇室典範31条は「永世皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」とされ男系男子が続く限り永世皇族制となったのであり、旧世襲親王家の伏見宮、閑院宮、小松宮のほか、山階宮、華頂宮、久邇宮、北白川宮、梨本宮も永世皇族となった。
しかし小松宮に実子がなく、明治36年の小松宮彰仁親王薨去の際、皇室典範で養嗣子は宮家を継承できないので、養子であった弟の依仁親王の継嗣が停止された。小松宮は一代で断絶したが、依仁親王は新たに東伏見宮家を創設する。これは小松宮の旧宮号である。但し小松宮家の祭祀を承継したのは北白川宮能久親王第4王子輝久王で臣籍降下し小松侯爵となる。
また華頂宮家は、明治16年第2代博厚王が8歳で薨ぜられたため、伏見宮貞愛親王の庶子博恭王が華頂宮を相続したが、明治37年伏見宮家の嫡子邦芳王が不治の病を理由とした請願により廃嫡とされたため、博恭王は伏見宮家に復帰した。このため第4代華頂宮は勅命により博恭王の第二王子博忠王が入った。しかし博忠王は大正13年嗣子なく23歳で薨ぜられたで、華頂宮家は絶家となったが、博恭王の第二王子博信王が、祭祀を承継し臣籍降下し華頂侯爵となる。
明治33年以降、旧皇室典範の永世皇族制を前提として邦家親王系の東伏見宮、久邇宮系の賀陽宮、朝香宮、東久邇宮、北白川宮系の竹田宮が創設されている。昭和22年に皇籍を離脱した11宮家は、旧世襲親王家が2、幕末維新以降創設された宮家が9、そのうち皇室典範以降の創設が5であるが、皇室典範のもとでは永世皇族制の前提のもとにあった。
旧皇族の方々の貢献は大きく、実系で伏見宮系皇族では次の四方が国葬を賜っている。明治28年(1895)陸軍大将北白川宮能久親王、明治36年(1903)元帥陸軍大将・征清大総督小松宮彰仁親王、大正12年(1923)元帥陸軍大将伏見宮貞愛親王、昭和20年(1945)、昭和20年(1945)元帥陸軍大将閑院宮載仁親王である。
明治22年皇室典範により、世襲親王家が廃止され、宮家の家格差はなくなって、親王号ではなく王号を称することとなり、養子相続が否定された。
しかし旧皇室典範31条は「永世皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」とされ男系男子が続く限り永世皇族制となったのであり、旧世襲親王家の伏見宮、閑院宮、小松宮のほか、山階宮、華頂宮、久邇宮、北白川宮、梨本宮も永世皇族となった。
しかし小松宮に実子がなく、明治36年の小松宮彰仁親王薨去の際、皇室典範で養嗣子は宮家を継承できないので、養子であった弟の依仁親王の継嗣が停止された。小松宮は一代で断絶したが、依仁親王は新たに東伏見宮家を創設する。これは小松宮の旧宮号である。但し小松宮家の祭祀を承継したのは北白川宮能久親王第4王子輝久王で臣籍降下し小松侯爵となる。
また華頂宮家は、明治16年第2代博厚王が8歳で薨ぜられたため、伏見宮貞愛親王の庶子博恭王が華頂宮を相続したが、明治37年伏見宮家の嫡子邦芳王が不治の病を理由とした請願により廃嫡とされたため、博恭王は伏見宮家に復帰した。このため第4代華頂宮は勅命により博恭王の第二王子博忠王が入った。しかし博忠王は大正13年嗣子なく23歳で薨ぜられたで、華頂宮家は絶家となったが、博恭王の第二王子博信王が、祭祀を承継し臣籍降下し華頂侯爵となる。
明治33年以降、旧皇室典範の永世皇族制を前提として邦家親王系の東伏見宮、久邇宮系の賀陽宮、朝香宮、東久邇宮、北白川宮系の竹田宮が創設されている。昭和22年に皇籍を離脱した11宮家は、旧世襲親王家が2、幕末維新以降創設された宮家が9である。
明治22年皇室典範の永世皇族制それ自体を前提とするならば、旧宮家の男系男子は、離脱してなければ皇族であったはずだから、現今のように皇位継承者が乏しくなっている状況では、できる限り復籍していただくのが筋である。
総じていうなら崇光院流=伏見宮に男系で天皇と血縁的に疎隔しているといっても『椿葉記』をはじめとして皇統上の格別の由緒があり、室町時代に「永代」存続が約されている由緒が複数以上あり、完全なる傍系化が回避された別格の王統であり、天皇家と併存して皇籍に復帰する正当性があることを政府は認め、旧皇族の方々を奉載申し上げるべきである。
この点、国民に向けて、適切な専門家を動員して「現代版新椿葉記プロジェクト」として伏見宮御一流皇籍復帰の正当性を法制史、宮廷史等その他脈絡から説示することを、政府が行なえば、今日の研究水準では伏見宮系に有利な成果が出ており、十分理解を得られるし、反天皇制でない国民の多くから歓迎されるだろう。
したがって養子縁組のような小細工することなく、皇室典範9条も12条も手をつけずに直接、未婚者に限らず家族ともども復帰していただくのが筋であると考える。
C 想定される反論の反論
以上の見解について、以下のような反論が予想できる。
明治 40年(1907)に五世以下の王が勅旨又は情願により家名を賜って華族に臣籍降下することを可能とする皇室典範増補が成立したことにより永世皇族制は見直されており、大正 9年(1920)には「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」永世皇族制を放棄された。
これは、世数制限を設け、永世皇族制を放棄する政策であり、皇族の範疇を次男系統は四世孫まで、長子孫系統でも八世孫までに世数制限することとしたもので、建前上、大正天皇の直宮も永世皇族にはしていないのが、実質伏見宮系をターゲットとして皇族を整理する趣旨のものである。
伏見宮系は、後伏見15世孫(崇光13世)邦家親王を四世孫として計算し、次男以降は多嘉王と邦芳王を例外として原則臣籍降下、長子孫系も邦家親王から四世孫まで臣籍降下とすること原則としている。当時の当主より2~3世代を経て臣籍降下し、宮家を消滅させる政策を打ち出した。
「準則」が長子孫系統で皇族の身位の維持を保証しているのは、伏見宮家が博明王まで、久邇宮家は邦昭王まで、賀陽宮は邦寿王まで、北白川宮家は道久王まで、竹田宮家は恒正王まで、朝香宮は誠彦王まで、東久邇宮は信彦王までで、次の世代は家名を賜り華族に列することを原則としている(なお伏見博明氏は御高齢であるが、令和4年に出版され、読売テレビの番組のインタビューにも出演されており、仮に「準則」が適用されたとしても伏見宮家は今日まで存続していることになる)
それゆえ、旧皇族復籍に難色を示していた所功[2012]などの論者は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられることになり、従来の規模の皇室を維持できなくなったことで、昭和22年に11宮家が臣籍降下したが、そうでなくても、伏見宮系皇族は皇族ノ降下二関する施行準則によりリストラされ、宮家は消滅させる方針だったのであり、しかも皇室典範増補第6条は臣籍降下した皇族は復籍できないとしており、旧皇族の復籍は国民の理解を得られないとする見解がある。
これらについては、公示されず、報道もされていないため、近年までよく知られてなかった。平成12年の書陵部紀要【資料紹介】『倉富勇三郎日記』「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」関係抄録(大正8年)」(オープンアクセス)以降明らかになったことで、慎重な議論が必要である。ここでは永井和[2012]と浅見雅男[2016]を引用してその経緯を概説すると以下のとおりである。
帝室制度審議会で大正 8(1919)年 1 月より「皇族処分内規案」の検討が開始され、委員の伊東巳代治、平沼騏一郎、岡野敬次郎が世数制限により永世皇族制を放棄し、事実上伏見宮系皇族を整理する方針を打ち出した。
大正9年2月までに宮内省との合意により「皇族ノ降下ニ関スル内規」は成立し、2月末大正天皇に上奏、3月3日枢密院に諮詢、審査委員会で若干修正され「皇族ノ降下ニ関スル準則」となり、3月17日の枢密院本会議で満場一致で可決、皇族会議を経て制定されることとなった。
当時の皇室会議員は成年男子皇族15方であるが、皇太子裕仁親王以外は伏見宮系皇族である。
皇族会議の議案は天皇が下付したものであり、通常は何の異論もなく承認されるのが慣例であった。元老や宮内省にとって異論が噴出するなど天皇の権威が揺らぐことになりあってはならないことだった。
しかし、久邇宮邦彦王、伏見宮継嗣博恭王、博義王、朝香宮鳩彦王といった反対派皇族の存在があり、不穏な情勢により、4月9日の会議は中止延期された。その後、宮内省の把握では5月6日の時点で、少なくとも五方が反対で、態度不明の御一方は反対が予想され、仮に皇太子が賛成としても6対6で可決の見通しが立たない状況となり、枢密院議長の山縣有朋は反対派の中心になっていた久邇宮邦彦王の説得にあたったが、不調に終わった。
事態の収拾に動いたのは北白川宮成久王だった。各宮を訪問し、議決しないで天皇に奏上することで皇族間の合意を得たという。但し反対派から条件があり、質問と反対意見は自由に述べることを保証するというもので、波多野宮相と交渉し、宮内省側はこの妥協案を受け容れた。
5月15日の皇室会議では、大正天皇は臨席せず、議長は伏見宮貞愛親王で、図表のとおり16方が出席し、約1時間の皇室会議員の主な発言は以下のとおり。
北白川宮成久王「現時民心動揺の際、皇族降下の如き処分を為すは一層民心の動揺を誘発する恐なきや」
久邇宮邦彦王「本案の施行は皇統断絶の懸念あり」
朝香宮鳩彦王「準則は典範増補に矛盾するの疑あり」
博恭王「増補には華族に列せしむることあるへしとあるに、準則には華族に列すと決定的の辞を用ゐ在り。何の為めなるや」
質問に対する返答が終わると、議長(伏見宮貞愛親王)より本案に対する各員の意見を問うたところ、打ち合わせどおり閑院宮載仁親王が「本案は皇族会議員各自の利害に関係するを以て自分は表決せさる旨」を述べ、成久王が賛成を表した。それに対して博恭王、邦彦王はこれに反対して質問した。波多野宮相が「皇族会議員が多数にて表決を避けることを決められるのであれば、宮内大臣としては異議は唱えることはいたしません」と返答し、そこで議長は、載仁親王の意見に対し反対の論がないので、皇族会議はこの件については表決しないことに決すと宣言し、閉会を告げた。
皇族会議は議決を回避したが、「施行準則」そのものは、大正天皇の裁可を受けた。
しかし会議の数日後、波多野敬直宮相は「皇族会議にて議すへき事項なりとして御諮詢を奏請したるに、皇族会議にて議決せさることゝなりたるは、取調不行届の結果にて、恐懼に堪へす」という趣旨の待罪書を大正天皇に提出した。これは却下されたが、6月16日波多野宮内大臣は皇室会議での不首尾の責任をとって辞職する。
皇室会議は秘密会であったため、新聞報道は仄聞として大筋の事実を伝えたが正確ではなかった。読売新聞では皇室典範増補の内規で王の第二子以下の男子の臣籍降下が義務づけられたことに対し、皇族が反発し難航したことの責任をとったとされており、「施行準則」が12宮家は二~三世代を経て消滅することを原則としていることを新聞は把握していないのである、国民はこの事実は知らなかった。
「準則」を有効とする議論に正面から反論しているのが中川八洋氏で、宮内庁が平成12年(2000)に明らかにするまで「準則」なるものは一般に知られていなかった。2000年に宮内庁書陵部が『倉富勇三郎日記』編纂で偶然発見した形で表に出された。女性女系天皇準備の一環とみなされている。
「準則」は邦彦王、鳩彦王、博恭王など多数が絶対反対で皇室会議は紛糾。実態として廃案であり、法手続き的には成立していないとされるのは、皇室会議令八条は「過半数によりこれを決す」と決議を絶対要件としているためである。波多野敬直宮相が廃案なのに大正天皇の御裁可を頂いたのは大暴挙とされている。とはいえ公示されず、法律は効力を有しないともいう [中川八洋 2018]。
私が思うに、皇室典範以前に伏見宮系の世襲親王家は3家あり、少なくとも3家に永続性があったことも顧みられていない。中川八洋の言うように手続的デュープロセスとしても「準則」の効力にはかなりの疑問があり、大正天皇の御裁可を錦の御旗として皇籍離脱を必然とするプロパガンダは気にしなくてよいと思う。
当時、大正天皇皇子が4方(皇太子裕仁親王、雍仁親王、宣仁親王、崇仁親王)おられたが、100年たった今日的観点では山縣のいう皇統の断絶等を云々は畢竟杞憂に過ぎずとした見解は見込み違いだったといえる。
適切なたとえではないが、例えば岡山藩池田家と鳥取藩池田家、仙台藩伊達家と宇和島藩伊達家というように幹は複数あったほうがよい。五摂家というのは江戸時代初期に2家が皇別摂家になった時点で、藤原氏の血脈としては二条晴良(1526~1579)の子孫だけが残った[木村修二1994]。5摂家のうち4家は血筋としては途絶していることも考慮すれば、邦彦王が皇統断絶の懸念を表明したのは杞憂ではなかったということである。
世数制限政策が推進された背景としては、明治44年に南朝を正統とする勅裁があり(近年では消極的同意とみなされているが[野村玄2019])、南朝忠臣賛美が支配的な時代において、歴代から外された北朝天皇の子孫である伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒は著しく軽視され、立場が悪くなっていたことの影響は大きい。
「準則」は南朝正統史観の影響による伏見宮王統の不当は軽視によるとみてよいだろう。
しかし今日では皇国史観は教育されていない。現代の研究水準からすれば伏見宮御一流の正当性は十分擁護できるので克服することは容易である。天皇家と併存してしかるべき王統なのである。
法制史的には15世紀に後二条天皇や亀山天皇の五世王、六世王が上皇や天皇の猶子とされたうえで親王宣下が合法化されており[松薗斉2010]、継嗣令王兄弟条が皇親を四世王の範囲に世数制限しているあり方は実質修正されていることを強調したい。
格別の由緒のある王統においては、猶子という親子関係の擬制という准的な措置により、血縁の疎隔を穴埋めし、ステイタスが劣化させない制度となったのである。それを歴代当主に公認もしくは慣例化した王統が伏見宮家である。
令制の皇親制度は15世紀に実質修正されているのだから、世数制限していた令制の原意にこだわる必要はなく、皇室典範の永世皇族制は歴史的経緯に反していない。「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」の世数制限の方針は、皇族いじめに等しく間違っていた。
『椿葉記』の由緒などを皇族方が持ち出すことはなかったようである。しかし桃園皇子伏見宮17代貞行親王(歴史上唯一実系相続でない伏見宮当主)が13歳で夭折された後、安永3年(1774年)6月に伏見宮家は後崇光院太上天皇の『椿葉記』の由緒により、実系相続を嘆願しているが、それができなかったのは、南朝正統史観の影響というほかない。
しかし今日、室町時代ブームで『看聞御記』の細かいエピソードまで詳しく研究され、後花園天皇の事績も評価されている状況では南朝忠臣賛美一辺倒の大正時代より伏見宮御一流に好意的な世論が形成される可能性はずっと高く、大正時代のような政策をとる必要はない。
旧皇室典範それ自体は、天皇猶子という親子関係の擬制という血縁の疎隔の穴埋めがなくても永世皇族としたものであり、加えて今日では伏見宮御一流の格別の由緒から正当性が引き出せるので、養子縁組という小細工をせずに直接復帰すべきであるというのが結論である。
●補足 皇籍復帰候補として戦前臣籍降下した家系も含めるべき
皇位継承者の安定的確保のため、皇籍復帰候補者は、昭和22年皇籍を離脱した11宮家の末流だけでなく、明治 40年(1907)に五世以下の王が勅旨又は情願により家名を賜って華族に臣籍降下することを可能とする皇室典範増補により大正9年から昭和18年にかけて臣籍降下して華族に列した12名の末流、明治22年皇室典範以前に臣籍降下した小松侯爵家などの末流なども含めて、男系男子の存在を政府が調査し、他家に養出した場合も含め皇胤認定し、リストとすべきである。
大正9年 山階宮菊麿王次男 芳麿王→山階侯爵
大正12年 久邇宮邦彦王次男 邦久王→久邇侯爵
大正15年 伏見宮博恭王三男 博信王→華頂侯爵
昭和3年 山階宮菊麿王三男 藤麿王→筑波侯爵
昭和3年 山階宮菊麿王四男 萩麿王→鹿島伯爵
昭和4年 山階宮菊麿王五男 茂麿王→葛城伯爵
昭和6年 久邇宮邦彦王三男 邦英王→東伏見伯爵
昭和11年 朝香宮鳩彦王次男 正彦王→音羽侯爵
昭和11年 伏見宮博恭王四男 博英王→伏見侯爵
昭和15年 東久邇宮稔彦王三男 彰常王→粟田侯爵
昭和17年 久邇宮邦彦王甥 家彦王→宇治伯爵
昭和18年 久邇宮邦彦王甥 徳彦王→龍田伯爵
このなかで旧皇族以外の他家に養出した方は優先順位を下げるが皇胤認定はする。
旧皇族の御子孫の全体像は部外者なのでわからない。しかし週刊誌報道などをみるかぎり相当数の方がおられるように思える。できる限り多くの方が、復帰されることを望む。今回辞退されたり調整により皇籍に復帰できなかった方々とその子孫についても、リストとしては残し、将来的な危機にも備えておくべきである。なお皇胤リストは伏見宮御一流に限定すべき。皇別摂家は論外、系譜上藤原氏が皇族になるなどあってはならない。
D 養子縁組②案に賛同できない理由
皇室典範9条も基本的には維持すべきである。
この点は中川八洋[2005]が「死守すべき皇室典範の第一条、第九条、第十二条」と主張されている。
近代の皇室典範は中世以降の朝廷が王家や摂関家など自立的「家」の集合体だったものを、天皇のもとに統率される体制としたので、相続あっても家督相続なしとされ、養子相続を否定した。「家」の集合体である近世以前の朝廷の体制に戻すのは時代錯誤に思え、このコンセプトを変更する理由は殊更ない。
17年前の著書だが中川八洋[2005]同書152頁によれば、久邇宮末流に3名、賀陽宮末流に1名(男児2名)、朝香宮末流に1名、東久邇宮末流に4名(男児1名)、竹田宮末流に5名の男系男子がおられる記載されており、14名すべて復帰していだたき、14宮家を創設すべきとしているが、また14~15家が適正規模とも述べている[中川八洋2018]。
今日では男系男子の数に変動があるにせよ、同様に男系男子全員復籍をベースとしつつも、しかるべき配慮をなし、戦前臣籍降下した末流の方々を含め、他のバリエーションも検討しておくべきだろう。
皇室を尊崇するということは、その親族の方々も尊重する考え方でなければならない。旧11宮家について閑院家は絶家とネット情報にあるが、継嗣のない宮家も尊重されてしかるべきで、伏見宮系の男系男子を養嗣子とされているならば当然、そうでなくても、旧宮家当主に男系男子の推薦権を付与するなど配慮があってしかるべきである。
旧宮家が、男系男子の養子を取っているケースとして、例えば昭和41年に梨本家が、久邇宮家の多嘉王三男徳彦王、臣籍降下して龍田徳彦伯爵を養嗣子としているがそういうケースで、もし末流が男系男子であるなら皇籍復帰候補たりえてよいと思う。
できれば由緒ある伏見宮や閑院宮の宮号も復活すれば、このうえなく喜ばしい。
継嗣のない宮家も含めて、原則を旧宮家の再興、旧皇族の復籍をコンセプトとすべきである。
養子縁組の考え方は現存宮家当主の選定相続になり、旧宮家側から養子に出すというのは次男以下の余分な男子というイメージが思い浮かぶ。しかし本家を継承する男子が旧宮号で直接復帰するのが筋である。そもそも、現存宮家の当主が養嗣子を望まれておられるのか不透明であり、万一積極的でなければ結局①案になってしまうリスクがある。
旧皇族の親子ともども直接復帰を軸として、もし②現存宮家の当主が養嗣子を望まれているなら③と平行して検討することには反対しない。
直接復帰に際して、天皇皇后両陛下や上皇上皇后両陛下、現存宮家の皇族方による選定もしくは認証があったほうがすわりがよいということなら、王朝時代の御給、年官年爵のように皇族方に推挙権を行使していただくとか、工夫があってもよいだろう。
E 宮家再興、創設に消極的になる必要はない
① 伏見宮御一流の格別の由緒
有識者会議の②養子縁組案は現存する宮家邸宅を相続させ、皇族費など増やさない案で、財政支出を極力控える案ともいえるが、次の理由で財政支出を惜しむしぶちんな対応にする理由などない。
応永23年(1416)伏見宮初代栄仁親王は後小松院より旧室町院領を永代安堵され、第4代伏見宮家は、康正2年(1456)の「永世伏見殿御所号」と後崇光院太上天皇の紋の勅許の所伝等により伏見宮は永続が約されているのである。従って、当事者は主張していないが、歴史的由緒からみて客観的にみて国家的給付を受けて、永続すべき権利があるので皇籍復帰の財政支出を惜しむ必要はない。
応永23年(1416)伏見宮初代栄仁親王は、後小松上皇の院宣により後堀河皇女の旧室町院領(萩原宮遺領)を永代安堵されている[白根陽子2018]、室町院領とは後高倉院皇統の追善仏事領所となる王家領(皇室領)であり、伏見宮家は、その他播磨国衙領、熱田社領等の由緒のある王家領を経営し、永享8年(1434)に「干鮭昆布公事」が追加され、年収現金換算2億円程度の年収[秦野裕介YouTube2022 55分過ぎ]。があったとされている。
あくまでも実効知行地と税収(上納金)等で2億円ということで、室町院領は100か所以上あって、持明院統の権利はその半分。大覚寺統と折半しており、実効知行地は大覚寺統より小さかったが、本来の価値、規模はずっと大きい。
もちろん荘園公領制は幕府が守護を支配できなくなった戦国時代に衰退し、秀吉は公家門跡の所領と洛中の地代収入をすべて収公したうえ知行を再給付することとなり、それを引き継いだ徳川幕府が、公家の知行充行権を掌握したので[v]、伏見宮も含め公家の家領は付け替えられたが、伏見宮は京都近郊の表向き一千石、旗本クラスの知行が充行われた。
しかし、もともと皇室領を永代安堵されていたのが伏見宮で、旧領本復のアナロジーで、宮家再興等にあっては国家的支出があってしかるべきなのである。
もちろん、現代において600年以上前の院宣にもとづいて旧領本復などありえないことはわかっている。
近世以降の世襲親王家は、八条宮(のち桂宮)が秀吉から知行を充行われ、高松宮(のち有栖川宮)、閑院宮は徳川幕府から知行を充行われて創設されたが、いわば武家政権に完全依存した経済基盤である。しかし伏見宮家は荘園公領制時代の本物の皇室領(後高倉皇統追善仏事料所荘園群)を永代安堵されたという由緒があり、加えて後嵯峨院の知行国で、後深草院が相続した播磨国衙領や後白河院准母上西門院系の熱田社領も所領だった。他の宮家とは格式が違う。重んじられてしかるべきと言いたいわけである。
② 国家は伏見宮御一流永続のために財政支出する義理がある
室町院領とは図表にあるとおり伏見宮家の知行としては伊賀国長田荘、江州山前荘、塩津荘、今西荘、若州松永荘、越前国磯部荘栗田嶋、備中国大嶋保そのほかの荘園群である。
治天の君の勅裁で永代安堵されている由緒の裏には、その代わり、後小松上皇に天皇の象徴たる累代御物に准じた「天下名物至極重宝」という名笛「柯亭」を進献し[植木朝子 2009]、その後も嫡流家ゆえ伏見宮に伝来した、後深草院以来の相伝の『寛平御記』『延喜御記』、『朝覲行幸記』三合、『諸社諸寺御幸記』の御記五合後深草院より三代の『大嘗会記録』『神膳御記』その他、重宝級の古記録を進献したことにより[松薗斉1997]、親王家としての位地を得たのであるから、伏見宮はその代償を払っている。
このような歴史的脈絡から国家は伏見宮御一流永続のために支出する義理があるというべきなのである。
嫡流の重宝・文庫が伝来した伏見宮は重宝を天皇家に進献して永代安堵を得ているのだから、政府はこの義理を果たすべきで、養子縁組に限るとか財政的支出に出し惜しみするやり方に固執するのは完全に間違っている。
もちろん、宮家が再興しても、かつての11宮家本邸のように都心の一等地に大きな敷地を用意することは困難かもしれない。
11宮家の本邸跡の現在
伏見宮邸→ホテルニューオータニ紀尾井町
山階宮邸→衆議院九段宿舎跡地とその付近(富士見)
賀陽宮邸-千鳥ヶ淵戦没者墓苑(番町)
久邇宮邸→聖心女子大学(広尾)
梨本宮邸→渋谷区役所仮庁舎・高齢者施設美竹の丘しぶや
朝香宮邸→東京都庭園美術館(白金)
東久邇宮邸→六本木ファーストビル(旧麻布市兵衛町)
北白川宮邸→グランドプリンスホテル新高輪・衆議院高輪宿舎
竹田宮邸→グランドプリンスホテル高輪
閑院宮邸→参議院議長公邸(永田町)
東伏見宮邸→常陸宮邸(常盤松御料地)
伏見宮家は「永世伏見殿御所」号勅許の所伝があり格式があるので都心の一等地でしかるべきである。室町時代の伏見殿は一条東洞院(現在の京都御所皇后常寧殿付近)にあり、後小松上皇の仙洞御所を破却して寝殿、対屋等を移築したものである。後崇光院太上天皇の仙洞御所を貞常親王が相続し、旧後小松院仙洞御所の跡地も伏見宮領となった。土御門内裏の北隣のブロックで陣中にあり、一等地といえる。建物自体は応仁の兵火で焼失したが、16世紀もこの場所にあった。近世においては今出川通の上(現在の同志社女子大付近)と公家町の東に伏見宮邸があった。
東京の伏見宮本邸も彦根藩中屋敷跡であり、有栖川宮邸の三年町や霞関離宮と比較しても遜色はなく、皇族の崇班としてふさわしい場所だった。
たとえば、白金自然教育園は、もともと御料地だったし、参議院議長公邸は閑院宮本邸の跡地なので返還してもらうとか、中川八洋氏は旧朝香宮邸の東京都庭園美術館を買いもどし、皇嗣殿下の御所とすべき見解も示されていたが、すでに都民に親しまれている所を潰すのは望まれないかもしれない。
しかし宮家の再興こそ大事なので御殿は二の次の問題にしたい。例えば、集合住宅型の宮殿、郊外や地方に拠点を置くなど経費削減策をとっても反対はしない。
③ 『椿葉記』には崇光院流の永続の意味も込められている
『椿葉記』は、後花園天皇に崇光院流が正統であることを悟っていただくために書かれたものだが、書名の由来は、土御門皇子(のちの後嵯峨天皇)が、出家しようか悩んでいたとき、石清水八幡宮を参詣し、そこで「椿葉影再改」との神託を得たので学問に励んでいたところ、四条天皇が12歳で急逝し、後高倉皇統が途絶、鎌倉幕府の推薦により、図らずも皇位を継承した『増鏡』や『古今著聞集』にある故事に拠っている。
「椿葉影再改」とは『和漢朗詠集』の大江朝綱の漢詩「早春内宴賦聖化万年春詩序」(承平2年932)より採られており、天子となって徳高く久しく栄えるだろうとの句である[秦野裕介2020]。
「椿葉」に次のような意味もある。「荘子‐逍遙遊」にある椿葉の影再び改まる八千年をもって一春とする。椿の葉が再び改まるほど永い年月のことである。すなわち崇光院流の永続の意味も込められている。それを政策とすべきである。
『椿葉記』がある以上、崇光院流は永続しなければならない。我々国民は③案の実現を望むのが妥当というのが結論である。
[i] 「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」『女大学宝箱』
[ii] 『儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためであるとする。また『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされ、さらに同書祭統においては、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえるとするのである[谷口やすよ1978]。
後漢時代には皇后珊立に際して、「皇后の尊、帝と體を齊しくす」『績漢書』禮儀志劉昭注引蔡質「立皇后儀」)という詔が発せられたように、皇后は皇帝と一体な存在とみなされていた[保科季子2002]。
[iii] (継嗣令王娶親王条)
「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」
諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。 従って皇親の範疇である内親王、二世~四世女王は(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)は臣下との婚姻は違法。
ただし、日本紀略延暦12年(793)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」 見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得ることにより、規制緩和がなされているが、内親王と臣下の結婚は一貫して違法である[今江広道 1983][安田政彦 1998][栗原弘2002][米田雄介2014]。
[iv] 文殊正子[1986]によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていた[中村みどり2014による文殊説の要約]。
[v] 山口和夫 2017 『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文
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