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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

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2023/04/11

国会議員への意見具申 有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対 ③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき-「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-(第4分冊)理由概要

                                                    平成4年12月

  結論と要点は第1分冊、比較的短い理由要旨(version1)は第2分冊、①案反対に重点を置いた理由要旨(version2)第3分冊

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理由概要

 

(天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告はきわめて悪質で容認し難い)

内容

理由概要... 1

(天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告はきわめて悪質で容認し難い).. 1

一 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する案に絶対反対... 2

(一) 皇室典範12条、旧皇室典範44条の立法趣旨は正当性があるのでこれを否定  することは日本の家族慣行を破壊する    2

(二)案は日本の家族慣行を根本的に否定する脅威、共産主義に屈服そのもの... 2

(二)案は婦人道徳を全面的に否定する恐ろしい害毒になる... 5

(三)内親王の歴史的由来を全面的に否定し皇室制度を破壊する.. 8

(四)31130事務局調査研究資料の案の前例とされる6事例に論理性はない... 9

(五)皇室典範12条改変は「千古ノ国体」たる家制度破壊... 13

二 案が最善-皇統に属する男系男子が直接復帰すべき.. 14

(一) 11宮家の再興・旧皇族復籍をコンセプトすべき.. 14

(二) 養子縁組案に否定的な理由... 15

第一 皇統上の格別の由緒、永続を約された由緒など崇光院流に正当性がある.. 16

第二 令制皇親制度は世数制限があるが、15世紀に実質修正され天皇との血縁的疎隔  してもステイタスを維持できる。皇統上の正当性こそが肝要... 16

第三 明治皇室典範は永世皇族制度となったから特殊な事情で離脱した宮家は復籍されるのが筋... 17

第四 想定される反論(皇族ノ降下二関スル施行準則)に対する反論... 18

第五 養子や親子関係の擬制が否定されている皇室典範において、養嗣子にこだわることにさほど意味はない... 21

第六 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を永続が約されている由緒を重んじるべき.. 22

 

一 ①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する案に絶対反対

 

 有識者会議報告は、①案を恒久制度とするため、皇室典範12条を改変する方向性を打ち出しているが、非常に危険な案で、夫婦なのに女性皇族は皇統譜、配偶者と所生子は戸籍という一体性がなくバラバラ、夫婦別姓のような歪で醜悪な制度を創出し、皇室制度を根本的に破壊する。

 皇室典範12条は内親王・女王が天皇・皇族と結婚する場合(皇后、親王妃、王妃)は、皇族の身分を保持するのは当然のこととして、皇族以外の民間人と結婚した場合は、嫁入婚が慣習である以上、婚入者として夫家の成員になるのだから、夫の身分に従うべきで皇籍を離脱するという趣旨のものであり、日本的「家」慣行に即したものなので堅持すべきである。

 有識者会議①案は民間人と結婚しても内親王・女王の身位を保持するが、配偶者や所生子は戸籍のまま、将来的には検討するとしてもさしあたり一般国民のままという歪な制度をつくろうとするものである。

 摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員、その他の公務を担っていただくことが①案の表向きの目的である以上、宮家当主の男性親王と同様の国家的給付(皇族費)がなされると想定できる。

 居邸について不明だが有識者会議議事録では英国のアン王女に言及しているメンバーがいて、王女は女王よりコッツウェルズの邸宅を贈られ、普段の居邸としている。ロンドンの居邸はセント・ジェームズ宮殿なので、王室側で用意されている。アン王女をモデルとすると女性皇族は夫方の私邸でなく皇室側で用意された御所ということになる。納采の儀など嫁取婚の形式になるか、墓所は皇室側か夫方かは不明であるが、以下の理由により強く反対する。

 

 


(一) 皇室典範12条、旧皇室典範44条の立法趣旨は正当性があるのでこれを否定  することは日本の家族慣行を破壊する

 

 皇室典範12条は、旧皇室典範44条を継受したものである。帝国憲法皇室典範義解(伊藤博文著)によれば44条(皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス)の趣旨は、「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という理由が示されている。第一部で後述する明治8年の内務省夫婦同氏案趣旨と同じ理由である。  

 「夫ノ身分ニ従フ」とは、妻は夫の家に婚入し、婚家の成員となるということと、夫の身分と尊卑を同じくするという、2つの意味が含まれる。

 旧皇室典範39条では「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」とされていたから、華族に嫁すならば、侯爵家なら、侯爵夫人となり夫家の成員となり、公爵なら、公爵夫人として華族に列する、夫と同一の身分ということである。

 出嫁女は婚家(夫家)の主婦予定者として迎えられるのであり、婚入者は婚家の成員であって、出嫁女は婚家を継ぐ者である・生家の成員から外れ、婚家に帰属して夫と身分を同じくする。死後は婚家の仏となるというのが日本の家族慣行である。

 嫁や入婿の婚家帰属性は華士族平民同じことであるから、皇室典範12条に相当な理由があり、これを改変することは穏当なものではないゆえ強く反対する。

 

(二)①案は日本の家族慣行を根本的に否定する脅威、共産主義に屈服そのもの

 戸主権のもとに家内統制される「家」制度は廃止されても家族慣行としての「家」は、分割相続となっても日本の親族構造とし存在し、家長と妻(主婦)が家政を役割分担する「家」は我が国の最も基本的な婚姻家族の在り方である。

 また家業、家職が継承されるのは日本の「家」の特徴である。中国の宗族はそうではない。世界的にファミリー企業の平均寿命は24年にすぎないが、我国には二万社近くが百年以上の歴史を有している[官文娜2010]。老舗企業が健在なのは「家」制度が社会構造であるためだというほかない。

(日本の「家」と憲法24条と婚姻理念についての補足)

 夫方の父母や親族と対面し、三献で祝うことで夫の親族として認められたこと意味するが、この儀式は今日でも行われている。結納も白無垢、色直しという嫁入婚の習俗もすたれておらず、夫婦同氏制で96%が夫の苗字である。

 なお、憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する」という合意主義婚姻理論は、起草者は意識していないかもしれないが、その法源はローマ法の諾成婚姻理論を継受した古典カノン法といえる。

 古典カノン法の緩和的合意主義は領主や父母の承諾などは婚姻の要件から排除したうえ婚姻適齢も男14、女12であり、教会法学者は12歳未満でも大人っぽければ可としていた[JL・フランドラン1992]。婚姻非解消主義という点では厳格であっても、人類史上最も自由な婚姻法といえるのであって、教会婚姻法は近親婚を禁止するなどして血族解体を促しており、ある意味では革新的でもあった。

 10世紀に婚姻は教会裁判所の管轄となり、12世紀中葉には教皇庁が司法化し、とくに英国からは活発な教皇上訴がなされていた。なかでも英国から婚姻の成否をめぐって教皇庁への上訴があり、法律家教皇の嚆矢であるアレクサンデル3世(教皇在位1159~81)が緩和的合意主義理論を採用した裁定によりカノン法の婚姻法が形成されていった[赤阪俊一2008] [直江眞一2014]。

 合意主義は、ヨゼフが許婚者である以上処女懐胎のマリアとの真実の婚姻があったとして、肉体的交通以前に合意による婚約によって婚姻は成立すると説いたパリ学派サン・ヴィクトルのフーゴ[ウタ・ランケ・ハイネマン1996]、中世最大の教師、パリ司教ペトルス・ロンヴァルドゥスの神学[塙陽子1993]等に依拠しているが、基本的にイギリスのような単純核家族型の社会、あるいは婚前交渉に寛容な北西ヨーロッパの基層文化に適合的なもので、教会挙式は婚姻を有効とする要件ではなかった。なぜならば結婚の秘跡とは聖職者が付与するものではないからである[秘跡については枝村茂1975参照]。慣習の違うあらゆる地域の人々の婚姻の成否を教会の管轄にしようとしたためである。実際、秘密婚を有効にしてしまう教会法に反発があり、教会と世俗権力は数世紀にわたって抗争していた。イギリスでは土地の相続は世俗裁判所の管轄のため寡婦産の確定のために挙式を要求したのは世俗裁判所であって教会裁判所は求めていない[島津一郎1974]。

 ラテン的キリスト教世界で、有効な婚姻であるために教会挙式が要件とされたのは教会法が秘密婚を容認しているという非難によるもので、16世紀中葉のトレント公会議以降のことである(ガリカニスム・フランス教会は父母の承認要件がないためトレント公会議を受け容れず)。イングランドでは1753年ハードウィック卿法により婚姻法が還俗化するまで、教会挙式を法的に要求しない合意主義の古典カノン法は、古き婚姻約束の法として生ける法であり、コモンロー・マリッジとして有効だった[不破勝敏夫1958a]「柴田敏夫1987 」[栗原真人1991,1992a,1992 b,1996][ 白木歩澄2018]。

 逆説的だが、婚姻法の還俗化とは教会挙式を強要することだったのである。しかしスコットランドではなお古法が有効でありイングランド=スコットランド協定によりイングランド人はスコットランド法により婚姻ができたため、18世紀後半の馬車で越境するロマンチックなグレトナ・グリーンの結婚風俗が知られている[加藤東知1927][岩井託子2002]。

 逆説的だが、中世の古典カノン法を近代まで墨守していたのはトレント公会議を非難した長老教会のスコットランドであった。

 逆説的だが、近代個人主義的友愛結婚の法源は古法、イギリスから教皇庁への上訴、教皇の裁定により成立した12世紀のカノン法に依拠していたのであって近代啓蒙主義の所産ではない。

 私は、古典カノン法の合意主義の重大な歴史的意義を認めつつ、あるいは西洋の個人主義的自己決定の源流かもしれないが、しかし世俗社会の家族慣行と大きな軋轢を生じたことも史実で、特に父母の承諾を必要としていない点、フランスは反発し国王立法により婚姻法を16世紀に還俗化させたのであるが、カノン法は、世俗社会の慣行や文化とずれている側面も多分にあったのである。

 憲法24条それ自体は法制史的には西洋のローマ法、古典カノン法由来の合意主義を打ち出し、結婚のあり方の西洋化を促したが、嫁入婚慣習や婚入者を成員とする日本的「家」の家族慣行を否定するものではないし、性的役割分担で成り立っている婚姻家族理念は西洋も同じことである。

 婚入者の婚家帰属(成員)性(嫁は主婦予定者として、入婿は家長予定者として迎えられる)という日本の家族慣行は明治民法以前も戦後も同じであり、人類学の大御所清水昭俊[1970、1972、1973]により、日本の「家」は嫁も婿を生家とは離れて、婚家の成員なることは理論化されていることで、明治民法の夫婦同氏制の立法趣旨も、妻は夫に家に入るのだから、夫と同苗字ということを民法起草者の一人梅謙次郎は法典調査会で述べている。

 であるから、婚入者たる嫁の婚家の成員性が夫婦同氏の立法趣旨の一つである。

 むろん、「夫ノ身分ニ従フ故」は、妻は夫権ないし家長に服する、妻は夫の庇護権のもとにある、伝統的家族規範のニュアンスを看取できるかもしれないが、それは社会通念だった。今日では古風といわれる反論があるかもしれないが、人類学の大御所清水昭俊[1987 97頁]によれば婚姻家族とは「家内的生活が主として夫婦間の性的分業によって営まれる家」と定義され、それは性的役割分担で成り立ち、婚入者は婚家の成員であることも学問的に理論化されているされているので、我が国の親族構造として否定しようがない。

 また和装婚礼でなく教会挙式が多くなったという反論があるかもしれない。

 しかし教会挙式はそもそも教会法由来ではなく、ヴァージンロードはゲルマン法の花嫁の引き渡し、父から花婿へムント(庇護権の譲渡)を意味し、教会挙式の要素のいくつかがゲルマン法由来で、嫁入り婚に類似した性格を有している。

 朝の贈り物(モルゲンガーペ)で花嫁に鍵が与えられ、主婦としての鍵の権力を得る[島津一郎1974]。

 家長と主婦で成り立っている婚姻のあり方は、西洋も日本も同じことである。

 鵜川馨[1991]によればウェディングの語源は、ゲルマン法に固有の婚姻契約の履行を担保するものとしての動産質(E pledge,OE wedd)を与える儀礼と述べ、weddは将来夫の死後に寡婦産として現実に土地の引き渡しを担保する者として、指輪あるいは銀貨が与えられることを意味する。本来は質物、担保を意味したが、wedは結婚するという意味に変わり、本来の保証する意味の言葉としてはpledgeなる語が用いられるようになった。ウェディングとは花嫁の終身的経済保障の担保・質物を与えるということを原義としていたのである。つまり、中世イギリスにおいては夫家の家産である土地の一部が寡婦産として設定され、花嫁は終身的経済保障を得る。人類学的にいう花嫁代償にあたり、夫家の家産を相続するのであるから、夫姓を唱える権利を取得するのである。

 これが北西ヨーロッパにおける夫婦同姓が慣習である理由の一つと考えている。

 むしろ西洋の方が男性支配原理や家父長制はもともと強いというべきだろう。

 すなわち神の宣告、神が女に下した罰「なんじは夫をしたい、彼はなんじを治めん」(創世記3:16)つまり男性による女性の支配をいう。現代のジェンダー平等の主張は神の宣告にたいする重大な反逆行為である。

 またパウロが教えるように「男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」(第一コリント11:3)「男は神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきでない。女はまた男の光栄である。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだから」(第一コリント11:7~9)。「婦人たちは教会で黙っていなさい。婦人たちに語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」(第一コリント14:34)

 新約聖書には家庭訓ジャンルがあって、これはペテロの第一の手紙と第二パウロ書簡(エペソ、コロサイ、第一第二テモテ、テトス)である。西洋文明世界の基本的な家庭倫理となっている。

 ここではペテロの第一の手紙の家庭訓は3章1節だけを引用する。「妻たる者よ、夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく、清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるだろう。」

 聖書学者の荒井献東大名誉教授はフェミニスト神学に批判的で、次のように解説する。「『仕える』と訳されている‥‥のは夫の下に立ちなさい。夫に服従しなさいという意味です。(中略)もしもこの『同じように』が前の文脈の主人に対する奴隷の服従を受けるものとすれば、妻は主人に対する奴隷と同じように夫に服従せよということになります」[荒井献1985]。

 それは古代ヘレニズム世界の家族倫理だというかも知れないが、このような古典的価値により文明社会の規範が成り立っているのであって、聖書的価値を尊重すべきである。

 近代市民社会も同じである。ナポレオン法典231条「夫は妻を保護し、妻は夫に服従する義務を負う」とある。ナポレオン法典には、父権、夫権、親族会議の力を示すものが多い。父権、夫権は近代市民社会においても全く正当なものであった。

 ブラックストーンは『英法釈義』(1765)1巻15章婚姻の一般的効果としての夫婦一体の原則について次のように説明する「婚姻によって、夫と妻は法律上一人格となる。すなわち、婦人(woman)の存在または法律上の存在そのものは、婚姻中、停止されるか少なくとも夫のそれに合体され、統合される。夫の翼、保護、そして庇護(cover)の下に、彼女はあらゆることを行う。したがって、われわれの法律用フランス語では、feme-coventと呼ばれ、covent-baronすなわち彼女のbaronないし領主(lord)である彼女の夫の保護と権力のもとあるといわれる」[上野雅和1962、1981]。 

 つまりイギリス普通法では夫とは妻の領主であった。

 我が国においても、近代化の過程で西欧の男性支配原理や価値観は移入されたが、戦後、男性は戸主権を喪失し弱くなり、長男は分割相続により威信を失ったという社会的事実がある。しかしながら社会構造、慣行として日本的「家」、単性家族は明らかに存在しているのだ

 清水昭俊国立民族学博物館名誉教授の出雲地方の1967年の調査によれば、相続の際、象徴物が伝達されることを「家督相続」と言っている。これは家内統制権というよりも、物象化された家長位の地位の継承のことである[清水昭俊1970 210頁]。今日でも家長位は慣行として存在する。

 戸主権は喪失したといっても、家長にはその「家」の指し示す家格と、それを裏付ける経済力、家格に応じて村落社会から家に課せられる、社会的義務と期待、これを維持、発展させる役割があり、家業その他の社会的営為の統括者としての役割がある[清水昭俊1970 208頁]。戸主権により統制される「家」制度は廃止されても家族慣行としての「家」は、日本の親族構造としてあるもので、それを否定する①案、皇室典範12条の改変は恐るべき文化破壊をもたらすゆえ難色を示さざるを得ない。

 有識者会議が目論む皇室典範12条の粉砕は、穂積八束が「我千古ノ国体ハ家制二則ル家ヲ大二スレハ国ヲ成シ国ヲ小二スレハ家ヲ成ス」といったように「国体」ともいうべき社会構造を瓦解させると脅威と理解すべきである。

 性的役割分担の定型概念の否定、家父長制への敵意、「家」を古風なものとして否定したいのはマルクス主義者のイデオロギーである。皇室典範12条粉砕により性的役割を流動化させようという有識者会議のやり方は、著しい左翼体質といわざるをえない。

「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という立法趣旨の否定は、ジェンダー平等を実現する左翼の政策で、出嫁女(婚入配偶者)は婚家帰属という日本の慣習を否定するものとして、千古の国体破壊となるので断乎反対なのである。

 

(二)①案は婦人道徳を全面的に否定する恐ろしい害毒になる

 女性は夫ともに婚家を継ぐことが婦人道徳の基本である。夫の身分に従うという趣旨は日本の古来の婦人道徳にもとづいている。

 それゆえ帝国憲法皇室典範義解(伊藤博文著)によれば44条(皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス)の趣旨は、「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という理由が示されている。

 女の道として教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり『女大学宝箱』は中等以上の身分を対象とした女訓書である。享保元年(1716)から明治初年まで11版を重ねたものである。

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 『女大学』とは親および舅姑に対する孝、洗濯、裁縫、結納・結婚・出産・子育てなどを内容とした女訓書であるが、1980年代中学校の家庭科男女共修の流れになった頃に良妻賢母教育が否定されるまで、女性は嫁いだら婚家の舅姑に仕えるのは支配的な価値観であった。

 少なくとも女性は婚家に嫁ぐ人生がノーマルなものと認識されていた。今日でも特定の政治勢力は批判するだろうが、嫁入婚、結納は一般的慣習である。

 SDGsやグレートリセットがトレンドだとみてグローバル全体主義を推進したい政治家は多い。学校教育でも企業で皇室典範改正により家族倫理、婦人道徳を破壊しジェンダー平等を達成することが善と洗脳されている人が多いのである。それだけに心配なのである。

 皇室典範12条改変は、婚家に帰属する日本の「家」慣行を否定し、国民への影響が甚大である。日本の文化破壊にとどめ刺す恐ろしさがある

 補足して出嫁女の婚家帰属性については東アジア、儒教文化圏は同じことであることについて説示する。

まず王権論の流行で注目された古代中国の夫婦斉体思想に着目する必要がある。

「妻は家事を伝え祭祀を承く」戸婚律二九条疏

「夫れ祭なるものは、必ず夫婦これを親らす」『禮記』祭統

 夫婦単位の祖先祭祀という意味が含まれている。

『儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためであるとする。また『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされ、さらに同書祭統においては、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえるとするのである[谷口やすよ1978]。

 つまり中国の宗法では夫婦一体で祭り祭られる存在であり、これは日本でも世代仏として夫婦一対の位牌となることで基本的に我が国に継受された思想といえるし、まさに婚家帰属性を明らかにしている思想である。

 我が国も漢土法も近世朝鮮・韓国も同じことである。この点については東洋法制史の滋賀秀三(1967 459頁)によると女性は父の宗との帰属関係を有さない。父を祭る資格を有さないのである。女性は婚姻によってはじめて宗への帰属関係を取得する。夫婦一体の原則にもとづき、夫の宗の宗廟に事える義務を有し、死後、夫婦同一の墳墓に合葬され、考妣対照の二牌つまり夫婦で一組の位牌がつくられ、妻は夫と並んで夫の子孫の祭を享けるが、女性は実家において祭られる資格を有さず、未婚の女の屍は家墳に埋葬されず他所に埋める。つまり女性は生まれながらにして他宗に帰すべく、かつそれによってのみ人生の完結を見るべく定められた存在であった。

 後漢の『白虎通』に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」。「礼の挙行によって女性は確定的に夫宗〔夫の宗族〕の秩序に組み込まれる。漢族は夫婦別姓であっても妻は夫の宗族に帰属する。韓国の門中も同じことである。

 だから、儒教規範で徹底している社会(例えば韓国農村)において、女性にとって最大の幸福とは、死後亡夫と並んで一組の位牌がつくられ夫の子孫によって末代まで祭を享けることにあるのだ。

 もっとも、中国は中華民国以来、親族法を大きく変革しており、男女平等をコンセプトにしている。韓国においても1990年代に親族法を改正し、法制的には伝統的なものではなくなった。

 以上、東洋の家族倫理をふまえて、日本の家族倫理法制について言及したい。我が国の家族道徳の基本は孝子・順孫・義夫・節婦(総じて「孝義」)という儒教道徳である。律令国家の統治理念は儒教道徳による民衆教化なのである。それで日本は礼節をわきまえた国民性の基本になっている。

 儒教は偕老同穴の思想にみられるように、夫婦の一体性も重視していることに注意したい。

 そしてそれは、福沢諭吉が「古来偕老同穴は人倫の至重なるものとして既に已に其習慣を成し、社会全体の組織も之に由りて整頓したることなれば、今俄に変動せんとするも容易に行はる可きに非ず」『福翁百話』と言ったように、それは近代社会にも通じる夫婦倫理といえる。

 令制では、儀制令春時祭田条の〈郷飲酒礼〉、戸令国守巡行条の〈五教教喩〉や、賦役令の孝子・順孫・義夫・節婦の表旌などによる家族道徳の形成により、村落社会の秩序を確立した。婦人道徳が民衆に浸透していったのは節婦の表旌に多くの記事がみられる9世紀と考えられる(賦役令では孝子・順孫・義夫・節婦の聞こえがある者を太政官に報告し、天皇へ奏聞を行い、その家の門前か所属する里の入口に孝状を掲げてその人物と同一戸の全ての公民に対する全ての課役を免除した[曾我部静雄1974武田佐知子1980]。

 節婦表旌の一例をあげると、三代実録、清和天皇、貞観七年三月廿八日巳酉条 近江国に言えらく、伊香郡の人石作部廣継女、生まれて年十五にして、初めて出でて嫁ぎ、卅七にして、夫を失ふ。常に墳墓を守り、哭きて声を断たず、専ら同穴を期ひて再び嫁ぐに心無し。其の意操を量るに節婦と謂ふべし』と。勅あり『宜しく二階を叙して戸内の租を免じ。即ち門閭に表すべし』

 つまり節婦には単に二夫に仕えずという貞操概念だけでなく、偕老同穴という夫婦の羈絆性を重視する価値観が含まれており、実はキリスト教の夫婦の伴侶性を重んじる価値観にも通じている。

 もちろん、舅姑に従わない嫁は離縁することができるとする七出の状も戸令に定められているし、礼の基本として、社会の基本単位としての家族のあり方を繰り返し説くのが儒教である。それは我が国に継受された規範的な価値である。

 それゆえ、「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という旧皇室典範44条の立法趣旨をあっさり否定する有識者会議案が、日本の家族倫理をたたきつぶすとどめになることを非常に恐れている。

 日本の「家」の構造を理解するうえで、人類学の大御所清水昭俊が1960年の出雲地方斐川下流域のフィールドワークで発見した「世代仏」(セタイホトケ)という学問的概念は優れていると思うので補足して説示する。

 というのは例えば社会人類学者の蒲生正男は、婚入者(嫁)の成員性について「カマドの一体化原理」という説示があるが、素人にわかりにくい。この点、明解な理論を提示する清水昭俊説が優れているということである。

 人は死亡時に所属した家の仏になる。仏には世代仏と子仏の2種類がある。世代仏とは、清水が出雲のフィールドワークで発見した概念だが、日本の「家」の標準的な仏体系とみなしてよい。

 世代仏とは、歴代の家長・主婦達であり、出雲では永久に年忌が営まれる(弔い上げはない)。生前結婚し、家長・主婦に予定されながら、家長・主婦になる前に死亡した者、男の家連続者(家長予定者)が、結婚年齢に達しながら未婚で死亡した場合を含む。ただし婿、嫁で不縁とされた者、中継ぎとして分家した夫婦等は、世代仏とはならない。一系列に配列された歴代の世代仏は、生きている家成員と、家の創始者(先祖)を結びつける媒体である[清水1987 208頁]。

 清水が「家」を家族というよりは出自集団descent groupあるいはリネジ団体と定義したヒントが世代仏であったと考えられる。

世代仏は見事に「世代的連鎖にもとづく特定祖先への系統的帰属」を表している。。婚入者は嫁であれ婿であれ、子孫に孝養を尽くされ、死んでからは子孫に供養される存在なので婚家帰属は明白だということである。

 上野和男[1985]が位牌祭祀の諸類型を分類しているが、相続者夫婦を本幹として位牌が深く蓄積する「父系型」の類型が、日本で最も広い分布をもつものとされているので、清水が発見した「世代仏」概念の裏付けにある。牌が蓄積しないケースもあるし、少数例であるが、特殊な形態として分牌祭祀と、位牌分けがある。

 我が国の家庭の多くで位牌祭祀がすたれているわけではない。「家」が存在することは疑いようがない。

とはいえ大都市においては単純核家族も多くなっているとの反論があるかもしれないが、

 人類学の理論では核家族も「家」であることに変わりない。清水昭俊は、清水盛光、川本彰、リーチを引いたうえで日本語の「家」と欧語のfamilyは近似したものとの認識を示している。家内的親族集団とりわけ家族を内包とし、家内的集団と親族的機能集団を、あるいはさらに機能的親族集団が何らかの機能的関係(一族としての連帯関係など)に取り込むことのできる範囲の(遠い)親族を外延とする概念」を表す用語として日本語では「家」、欧語の最広義でのfamilyないしその同系語、あるいはhouseないしその同系語が適当」[清水1987 56頁]としているが厳密な定義と言ってよい。

 さらに清水[1987 96頁]は次のようにも云う「家‥‥は家族本位制のもとに、つまり〈いえ〉といった理念の下に共同意識で結ばれた家内的生活集団と定義され‥‥伝統的社会の家で営まれる家内的生活の内容は豊富で、多くの機能が累積している。つまり重責的共同体である。またこのように家を定義すれば、現代都市の核家族もまた〈マイホーム〉〈かぞく〉〈いえ・うち〉といった理念で結ばれた家だということができる」とする

 家業の継承のない核家族といっても親族との連帯関係がないということは考えにくい。盆暮の帰省、特定祖先への系統的帰属意識、また民法自体直系血族の第一次的扶養(民法877条1項)等が期待される親族共同生活の場とされているので、親族構造と無関係な単なるドメティックグループに核家族が解消されたわけではない。

 私は、女子の幸福とは、嫁いだ夫の家をわが家とし、子孫に孝養を尽くされ、夫ともに位牌となって末代まで供養されることにあるという古来の家族倫理が正しいという立場である。もしそれが否定されるなら日本は共産主義者の手に落ちたことなにるだろう。

 仁孝皇女静寛院宮親子内親王(和宮)が尊敬されるのは、婚家が天皇の名をもって討伐を受ける最悪の事態において、徳川家の存亡に従う覚悟を示したことが、婦人道徳の鑑であるからである。

 慶応4年(1868)静寛院宮は慶喜と天璋院の懇請により、徳川家存続の嘆願書の周旋を依頼された。

 静寛院宮親子内親王は、2月26日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている[武部敏夫1987]。

 もし、親族を見捨てて存命したら、末代まで婦人の道徳に反し不義者と申される。かえって御父帝様へ不孝なので、徳川家の正室である以上、死を潔くするという意味である。

 ここにも儒教的な婦人道徳の価値観が示されている

 いかにSDGs信者が嫌おうが、マルクス主義者が家父長制を撲滅しようと企むとしても、「家」は存在し、妻は夫の家に入るのが通例。にもかかわらず、有識者会議は、皇統譜と戸籍とバラバラな、「婚姻家族」とはいいがたい、際立って異常で歪なものを提言している。全然美しくない。①案を皇室の制度にしてはいけない。却下されてしかるべきものである。

(三)内親王の歴史的由来を全面的に否定し皇室制度を破壊する

 内親王の歴史的性格について文殊正子氏によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している[文殊正子 (1986))、中村みどり (2002) 文殊説の要約]。

 そもそも大宝令や養老令の継嗣令王娶親王条では皇親女子の皇親内婚が規定され、内親王が臣下と結婚することは一貫して違法であるが、10世紀に藤原師輔が内親王三方と密通のうえ、事後的に承認されたことから、違法(反律令行為)であるが臣下に降嫁した内親王の例は少なからずある。[i]

 延暦12年(793)九月丙戌詔により、二世女王は藤原氏との結婚が許され(初例淳和皇子恒世親王女の藤原衛への降嫁)、三世女王以下は、現任大臣と良家(三位以上と解される)に降嫁することが可能になったが[安田政彦 (1998)、栗原弘 (2002)、中村みどり(2002)(2014)]、原則は皇親内婚である。従って令制においては皇親女子(内親王・女王)とりわけ内親王と臣下との婚姻は想定されていない。

 違法と考えられる内親王皇女の勅許による結婚として令制では婚約の一例を除いて22方である。内親王に限ると18方。

 臣籍に降嫁した皇女を含むと(養女除く)23方、20世紀後半以降を含めると27方(令制では二世女王にあたる眞子内親王殿下まで含めても30方)。

 統計的にみると6世紀の宣化皇女以降19世紀までの皇女のうち、臣籍に降下した皇女をのぞくと446方(服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』 小学館2002の皇女一覧表参照)おられ、欽明后石姫から光格后欣子内親王まで皇女56方(臣籍に降下した皇女含むと58方)近代まで含むと昭和天皇長女の東久邇宮盛厚親王妃成子内親王まで63方が皇親内婚(結婚相手は天皇・親王・諸王)である。

 皇親内婚56対違法婚22である。生涯非婚の内親王が大多数を占めることもあり、そもそも違法婚である臣下への降嫁は圧倒的少数なのである

 内親王の臣下への降嫁は統計的にみも少数で例外的といえるのである。。

 明治22年旧皇室典範では、令制では皇女か天皇の姉妹に限定されていた内親王位は四世女王まで拡大されたうえ、39条では「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」とされた。

 令制では違法だった内親王の降嫁が特に認可された華族においては合法とされているが、旧皇室典範のもとでは、婚期まで無事成長した内親王はすべて皇族に嫁し王妃となった。令制の趣旨は継受されているとみてよいのである。

 有識者会議は①案を正当化するため内親王が婚姻後も皇族の身分を保持した先例として報告書では徳川家茂に降嫁した仁孝皇女静寛院宮親子内親王、事務局調査・研究資料では藤原師輔が内親王と密通のうえ事後承認された醍醐皇女勤子内親王等6例を例示しているが、いずれも継嗣令王娶親王条の内婚規定に反する違法婚であり(内親王が臣下へ降嫁するのは令制では一貫して違法)、違法婚だが勅許によるものとしても、反律令行為で例外的事例を「皇室の歴史と整合的なもの」とする報告書には全く論理性がない。

 皇親(天皇・親王・諸王)としか結婚しない。内向きだから内親王なのである。内親王の歴史的性格規定に根本的に反する反律令行為を「皇室の歴史と整合的なもの」と有識者会議は言い募っているのである。①案が内親王の性格を外向きに改変する。内親王の歴史的由来を否定、皇室制度の根本的変革を意図するものといえる。

 そもそも内親王は臣下に降嫁することが令制では想定されてないのである。違法婚のはじまりは10世紀だが、とくに藤原師輔と康子内親王との密通は天気を損じたが[大鏡]、師輔は村上天皇にとって皇太弟時代から近臣で、皇后の父でもあるから事後的に勅許されたということである。

 聖武皇女不破内親王は配偶者の塩焼王が臣籍に降下しても内親王であったが、巫蠱に連座して宝亀3年(772)、異母姉の称徳女帝により内親王位を剥奪(後に誣告とされ復位)され懲罰的に臣籍に降下したケースがある。親王は謀反や陰謀にかかわらない限り、親王位や皇親たる身分がそう簡単に失われることはないとはいえる。

 したがって内親王のままであることは違法婚であっても自然といえるが、内親王が臣下に降嫁することは令制が想定してないイレギュラーな事例で、伝統規範に沿ったものとはいえないのに、有識者会議は反律令行為を「皇室の歴史と整合的なもの」と評価しているのは詭弁であり、国民を騙しているということを申し上げたい。

 

(四)3年11/30事務局調査研究資料の①案の前例とされる6事例に論理性はない

 有識者会議の令和3年11月30日会議事務局調査研究資料では、江戸時代の臣下に降嫁した(御一方は婚約)四方が①案の前例として例示されているが、実際には17世紀に摂家に降嫁した皇女は九方おられる、そのうち八方は内親王と称されている。18世紀に徳川氏との婚約が一例、19世紀に徳川氏への降嫁一例がある。有識者報告では19世紀の静寛院宮親子内親王(和宮)の一例のみ例示している。

 室町戦国時代の皇女はすべて非婚、尼門跡(比丘尼御所)だった。尼門跡は寺領経営体のトップという処遇で、皇女であることにかわりなく経済的待遇は決して悪いものではない[菅原正子2002]。

 17世紀に摂家への降嫁が多いのは、禁中並公家諸法度により儲君以外の親王は、現官大臣より座次下位となったので、実質、世襲親王家当主より五摂家が座次上位となった。五摂家は釣り合うという認識になったと推定できること。

 17世紀は皇女が多く、室町時代以来の比丘尼御所(尼門跡)の知行も不足していた。御生母が徳川氏であるケースを別として、皇女御料はなく[久保貴子2009]、経済的理由で結婚相手として五摂家が選択されたと考えられる。17世紀末期に福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以降、皇女の結婚は霊元院の復古主義により、内親王は本来の皇親との結婚が基本となり、摂家との婚姻はなくなった。

 以下A~Dに示すとおり、摂家や徳川家正室となった皇女は、身位は内親王であっても、いずれも嫁取婚、夫方居住、墓所も婚家であり、婚家に帰属したことは明らかである(ただし後水尾皇女常子内親王については、近衛基煕との結婚の初期が別居だったなど注釈が必要なので本文で説明する)。

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 したがって、そもそも令制では内親王と臣下の結婚自体が違法で例外的なものであったが、明治22年皇室典範では、内親王の範疇が四世王まで拡大され、特に認可された華族と内親王・女王が結婚できるものとし、44条で内親王や女王が華族と結婚した場合に、夫の身分に従い皇族の列から離れ、華族に列するとしても、出嫁女は夫方の婚家の成員となるという華士族平民の「家」制度的家族慣行に合致するので、旧皇室典範44条に違和感はなく正当性があるというべきである。

 皇室典範12条は旧典範44条を継受した。ここで言っているのは明治民法の「家」制度ではなく民間の家族慣行としての14~15世紀に確立した嫡子単独相続の「家」である。今日でも国民の慣習では結婚は個人の結びつきにとどまらない認識され、家と家がかかわるものであり、結納等の儀礼がある。人類学者は婚姻家族とは性的役割分担で成り立っているもの家長-主婦の性的役割分担に基づくものが「家」である。

 和装婚姻儀礼では定番の、白無垢は死装束で生家成員としての死を、色直しは婚家での再生、婚家の成員となったことを意味するという解釈は有力であり[江守五夫1993][徳島県立博物館 企画展図録『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』2001]、今日でも夫婦同氏制で96%が夫家の姓であるのは、文明が起きたのはどこも父系、準父系社会だからということもあるが、日本においては大化元年645年「男女の法」が良民は父系帰属主義をとったからでもある。

 したがって、①案は大化元年以来のいやそれ以前からの伝統を破壊する象徴になりかねない。大変恐ろしい文明破壊兵器となるだろう。

 皇室制度の破壊にとどまらない。国民の多くが皇室を慕っていることから、このように歪で醜悪な制度化を行うことは、国民への影響も大きく、夫婦別姓導入と夫婦の役割分担のポリコレ化を促す。それゆえ強く反対するものである。

 

A 嫁取婚

 公家社会では少なくとも戦国時代においては嫁取婚の様式であることがわかっているが、室町・戦国時代の皇女は比丘尼御所に入寺得度するのが通例なので、非婚だった。

 しかし17世紀には皇女の摂家への降嫁が九例ある。

 嫁取婚については天和3年(1682)近衛家煕と霊元皇女憲子内親王の婚儀について記録があり、「无上法院殿御日記」に白無垢、色直しという今日でも嫁入婚の和装婚礼の定番となっている習俗が書かれているし「基煕公記」に書かれている嫁迎えの儀式は嫁取婚の形式である[瀬川淑子(2001)]。17世紀の摂家への降嫁他の8例も嫁取婚で同様と考えられる

B 夫方居住

 17世紀、摂家に降嫁した皇女のうち東福門院(後水尾后源和子、徳川秀忠女)所生の皇女二方(女二宮と、賀子内親王)は、幕府より婚姻に際し、知行三千石が充行われているが、これは将軍の外孫にあたるため特別待遇であった。婚嫁した近衛家や二条家の邸宅の敷地内に皇女のために大きな御殿が新造されているけれども、夫方居住なのである。

 10世紀の醍醐皇女康子内親王と師輔との密通は内裏だったが、婚姻が承認された後は、師輔の坊城第を居邸とし、夫方居住が史料上確認できる[栗原弘2004 5頁]

C 墓所

 事務局例示6例のうち師輔に降嫁した御二方の墓所は不詳であるが、康子内親王の四十九日は、藤原氏の氏寺法性寺で、師輔の先妻と同じ。

江戸時代に摂家や徳川家に降嫁した皇女(内親王)十方の墓所は近衛家・東福寺海蔵院・大徳寺、二条家・二尊院、九条家・東福寺、徳川家・増上寺である。

 いずれも婚家の菩提寺ないしゆかりの寺である。いずれも宮内庁治定陵墓ではないということは、皇室ではなく婚家に帰属していることを意味する。

 人は死んで仏になる家に帰属する、江戸時代の非婚内親王では、孝子内親王(後光明皇女)の墓所は御寺般舟三昧院、淑子内親王(仁孝皇女)は御寺泉涌寺で、いずれも皇室の菩提寺であり、非婚内親王は終生皇室に帰属するといえるが江戸時代の例示四方はそうではない。

 ただし事務局が例示した八十宮吉子内親王(霊元皇女)は宮内庁治定陵墓のリストにある。2歳で婚約したが直後に婚約相手の家継夭折のため江戸に下向されなかった。

 3歳で未亡人となり、徳川家正室の寡婦の扱いで経済的には厚遇されたが、御寺(皇室の菩提寺)でなく、徳川家が造営した知恩院が墓所である。

 

D 知行

 有識者会議①案の女性皇族は摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員を担う立場である以上、当然国家的給付があると考えられるが、事務局が①案の先例として例示している近衛基煕に嫁した常子内親王(後水尾皇女)と二条綱平に嫁した栄子内親王(霊元皇女)に内親王独自の知行はなかった。

 常子内親王は後水尾院より結婚後も経済的にあれこれ支援(例えば近衛家本邸の改築、紫竹の別荘の購入など)されているとはいえ、そもそも皇女御料はなかったのである。嫁取婚、夫方に居住し、北政所等と称されていたのだから婚家に帰属することはいうまでもない。

 和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約(後に破棄)し化粧領三百石を得ているが[久保貴子2009]、これは親王妃としての皇族費に相当する知行である。①案のイメージとはかなり違うありかたである。

 有識者会議①案のモデルとされる英国のアン王女であるが、歴史人口学では英国の基層は単純核家族の社会構造と、日本とは違う。

 有識者会議が①案の先例と言い募る、静寛院宮親子内親王にしても徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟をされた。徳川家で葬儀が行われ、墓所の増上寺は宮内庁治定陵墓ではない以上、徳川家に入った皇女が、摂政や国事行為臨時代行を担うといっても説得性はない。先例といってもフェイクに近い先例で了承しろと迫ってくる有識者会議と事務局のロジックに騙されてはいけない。

 

(五)皇室典範12条改変は「千古ノ国体」たる家制度破壊

 皇室典範12条の否定は、天皇と皇后、親王と親王妃といった皇族の性的役割分担を流動化させ、男女共系に道を開き皇室制度を革命的に破壊するので絶対反対である。

 明治民法の夫婦同氏の立法趣旨は、すでに民間では事実上、夫婦同氏で呼称するのが慣例となっていたこともあるが、もちろんよくいわれることだが、婚姻家族の一体性を重んじる考え方、明治民法はドイツ、オーストリア、スイス、イタリア等の法制が夫婦同姓であることに倣って、欧米の単婚家族におけるファミリーネームを継受したという側面はあることは認める。

 明治民法起草者穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三者のうちもっとも強く夫婦同氏を推進したのが梅謙次郎である。梅は儒教道徳より愛情に支えられた夫婦・親子関係を親族法の基本とし、士族慣行より、庶民の家族慣行を重視した点で開明的だったといえる。

 しかし夫婦同氏の立法趣旨の第一は日本的「家」の慣行、婚入者の婚家帰属、妻が夫の家に入る嫁入婚の慣習にもとづくものである。

 梅は法典調査会で、漢土法に倣って夫婦別氏とすべきという一部の意見に強く反対し、日本の慣習では妻が夫の家に入ることが慣習である以上、実家の苗字を唱えることは理屈にあわないとはっきり言っている。

「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信しシラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ‥‥」『人事慣例全集』58頁[江守1990 57頁]

 私は夫婦別姓の推進者は舅姑に仕えたくない、夫と同じ墓に入りたくない、でも夫家の財産は分捕りたい。日本の慣習、醇風美俗を否定しているから容認しがたいのである。

 夫婦同氏制度に批判的な法制史家は、妻が夫の家に入って共同生活に入ると同時に夫の戸主権に服する「家」制度の残滓[熊谷開作1987 208頁]とみなすのであるが、私はこれを否定的にとらえる必要はなく、「家」制度が日本の社会構造なのだから、日本の家族慣行が崩壊せず、白無垢、色直しなどの嫁入り婚の習俗も廃れずにすんでいるのはかろうじて、「家」制度的な残滓の夫婦同氏制が残っているから、これこそが日本の伝統規範、醇風美俗を守る最後の砦という認識である。

 限嗣(嫡子)単独相続という日本的家制度が確立したのが14~15世紀である。

 後藤みち子[2009]によれば、我が国では15世紀に公家の妻たちは夫の名字を名乗り、同じ墓地に葬られるようになった。

 摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。『後法成寺関白記』(近衛尚通1472〜1544)では久我通信正妻を「久我女中」と称し、徳大寺実淳妻は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。

 一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。姑と嫁は東-西、南-北と対になって形づけられた。嫁は婚家に帰属するから、夫婦同苗字なのであり、明治民法以降の夫婦同氏も基本的には同趣旨である。

 人類学者では厳密な定義で定評のある大御所の清水昭俊国立民族学博物館・総合研究大学院大学名誉教授[1970、1972、1973]によれば、 「家」は家長-主婦という地位は必須の構成であること。家長と主婦は必ず夫婦であること。次代の家長と主婦を確保することで永続が保障されること。嫁は主婦予定者として、婿は家長予定者として婚家の成員であること。婚入配偶者は、「家連続者」たりうる。そして死後も婚家の世代仏となるので、その婚家帰属性は論理的に明らかである。

 以上が清水説の概略であるが、シナにおいても妻は夫の宗に帰属し、清朝の姓名記載慣習は夫婦別姓ではない[島村修治『外国人の姓名』ぎょうせい24頁]。夫婦別姓は宋姉妹が特約で別姓としたことが流行ったことによる。

 出嫁女の婚家帰属性は中国の宗族、韓国の門中も同じである東アジア共通の社会構造ともいえる。

 この点、皇室は、令制皇后は嫡妻というよりも政治的班位としての性格が強く、皇后を冊立せず、嫡妻格の女御だけ、嫡妻のいない天皇も少なくないことから一般的な「家」と違う側面もあるが、華士族平民の「家」の婚入者が嫁であれ婿であれ「家」の成員である以上、また穂積八束が「我千古ノ国体ハ家制二則ル家ヲ大二スレハ国ヲ成シ国ヲ小二スレハ家ヲ成ス」といったように「国体」ともいうべき社会構造である以上、旧皇室典範44条において、皇族女子が、華族と結婚する場合、夫の身分に従って皇籍を離脱して、華族に列するのは、家族慣行に合致していて、合理的なものであり、旧典範44条を継受した現皇室典範12条も正当なものといえるのである。

にもかかわらず有識者会議は正当性のある12条の改変を提案したことではきわめて悪質だと判定せざるをえないのである。

 結論として、有識者会議①案は皇室典範12条改変により恒久的制度とするもので、内親王の歴史的由来、皇室制度を破壊し、東洋における夫婦斉体思想、西欧の夫婦の一体性を重視する単婚理念という文明規範ともいえる夫婦倫理、家族倫理を否定するものである。歪なかたちの夫婦別姓を先行実施させるものであり、一般国民の家族慣行に深刻な影響をあたえ、我が国の家族慣行、それは千古の国体、醇風美俗を否定するものとして明確に破棄されるべき案なので、この点を政治家の先生方に伏してお願いしたいと思います。

(私は穂積八束の北朝抹殺論に批判的な見解だが、千古の国体論は好意的ということである)

 

二 ③案が最善-皇統に属する男系男子が直接復帰すべき

 

 

(一) 11宮家の再興・旧皇族復籍をコンセプトすべき

 

 11宮家は昭和22年、昭和天皇と大正天皇の直宮三家を守るため、当時の特殊な事情により離脱されたのであって、11宮家の宮号再興、旧皇族復籍をコンセプトとして皇統に属する男系男子を独立の当主として復籍していただくべき。

 旧皇室典範は、原則は 永世皇族制であり男系男子が続く限り皇族である。現皇室典範も嫡出を明記しているが同じことである。

 明治22年皇室典範の永世皇族制を前提とするならば、旧宮家の男系男子は、離脱してなければ皇族であったはずだから、現今のように皇位継承者が枯渇している状況では、できる限り復籍していただくのが筋である。

 もっとも、明治40年に皇室典範増補第一条「王は勅旨又は情願に家名を賜ひ華族にせしむることあるへし」により、臣籍降下がありうることが確定し、永世皇族制度が見直され、大正 9年(1920)から昭和18年(1943)にかけ、明治40年(1907)年の皇室典範増補に従い、臣籍降下された次男以下の12名の旧皇族がおられるが、この方々の男系子孫(分家だけでなく養出したケースも含めて、復帰していただきたいと考える。それでは多すぎるということなら別途調整する案が考えられると思う。

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 皇室典範増補の規定により華族に降下した皇族

 

大正9年 山階宮菊麿王次男 芳麿王→山階侯爵

大正12年 久邇宮邦彦王次男 邦久王→久邇侯爵

大正15年 伏見宮博恭王三男 博信王→華頂侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王三男 藤麿王→筑波侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王四男 萩麿王→鹿島伯爵

昭和4年 山階宮菊麿王五男 茂麿王→葛城伯爵

昭和6年 久邇宮邦彦王三男 邦英王→東伏見伯爵

昭和11年 朝香宮鳩彦王次男 正彦王→音羽侯爵

昭和11年 伏見宮博恭王四男 博英王→伏見侯爵

昭和15年 東久邇宮稔彦王三男 彰常王→粟田侯爵

昭和17年 久邇宮邦彦王甥 家彦王→宇治伯爵

昭和18年 久邇宮邦彦王甥 徳彦王→龍田伯爵

 とはいえ、ウィキペディアによれば閑院家は絶家とされている。無嗣子となった旧宮家もあるだろう。皇室典範では宮号は称号であり、遺産相続はあっても家督相続なしというが臣籍に降下された以上、家の跡取りが考えられているはずである。

 通常、実子の跡取りがいない場合は、婿養子や養子縁組をする。皇籍から離脱されている以上、養嗣子を取ることはできるから、例えば旧宮家Xに4方男系男子がおられるなら、御一方はX宮家当主として復籍し、他の男系男子は、実系では途絶した旧宮家の養嗣子であるならば、皇籍に復帰できるようにする。そうでなくても旧宮家を尊重し、当主もしくは代表者の推挙によるなど、それに准じた案を検討し、旧宮号をできるだけ多く再興するようにすべきである。具体策は第二部の第2節に記述する。

 私は有識者会議の①案とそれに付随する性的役割を流動化させる皇室典範12条の改変に絶対反対で、③案の皇統に属する男子が直接宮家の当主として(配偶者・実子を含めて家族ぐるみでよい)復帰する案に絞るべきだと提言したい。

 ②案については、現存宮家の当主が跡取となる養嗣子を要望されているなら、③案と平行する形で検討すべき事柄。

 つまり、旧宮家の嫡男は旧宮号で再興していいただき、次男以下の男子がおられるなら、その方々は新宮号や実系では途絶した宮号の再興を基本案として、もしくはそれに工夫を加えて復籍していただくということである。旧宮家を尊重するあり方が望ましい。

 

二) 養子縁組案に否定的な理由

 

 そもそも、皇室典範9条は養子相続を認めていないので、明治22年以前のあり方に戻すだけだといっても、改革には慎重であるべきである。できれば9条も改変しない方がよいと思う。

 但し現存宮家当主が跡取りとして養子縁組の希望があると仰られるなら検討せざるをえない。しかし皇室典範で養子相続が否定されている大前提があり、宮号、財産や祭祀を承継する養嗣子は必要がないと仰られたなら、この案は実現困難となり、男女共系に道を開く①案しかなくなるというリスクがあり。従って堅実無難な③案が軸とすべきである。

 通常養嗣子というと、長男ではなく、次男以下が養子に出されるイメージである。旧宮家の方々の矜持もあり、宮家の長男の方は旧宮号で直接復帰し、次男以下が新宮号もしくは現存宮家の養嗣子とされるのが筋だろう。現存宮家より旧宮家のほうが古い家系であるから、新しい家系に古い家系の長男で継承させるというのは道理に合わないのである。

 現存宮家が養子縁組する目的が、たんに旧皇族男系男子の血縁的疎隔を穴埋めするための准的な措置、方便として行うという意味なら、以下の理由でそれは不要である。

 

第一 皇統上の格別の由緒、永続を約された由緒など崇光院流に正当性がある

   伏見宮御一流の宗家である伏見宮家には後深草院流正統とする『椿葉記』に記されるような皇統上の格別の由緒、永続を約された由緒が複数以上あること。崇光院流=伏見宮の正当性の再定義を政府で行えば、国民の理解は容易に得られし、それほど伏見宮と天皇家が併存する理由、伏見宮の永続性にかかわる理由には事欠かないからである。

 

第二 令制皇親制度は世数制限があるが、15世紀に実質修正され天皇との血縁的疎隔してもステイタスを維持できる。皇統上の正当性こそが肝要

   大宝令や養老令の継嗣令皇兄弟条は、皇親の範疇を四世王までに世数制限しているが、15世紀に、門跡に入室する人材が払拭したため、五世王や六世王でも上皇や天皇の猶子として親王宣下が合法化された。中世公家法は、准的などの法技術により令義解の原意にこだわらない解釈が可能なので継嗣令皇兄弟条は男系が皇親という根幹は不変だが、15世紀に実質修正されており、しかるべき由緒のある皇統では、天皇との血縁が疎隔しても親王宣下が慣例化した。継嗣令の原意の世数制限にこだわる必要はない。

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 15世紀は限嗣単独相続の日本的家制度の成立期であり、それに対応した皇親制度に変容したのである。要するに15世紀以降の展開は、皇統上の格別な由緒、正当性が重要なのであって、天皇との男系での血縁の疎隔はさほど重要な問題ではない。

第三 明治皇室典範は永世皇族制度となったから特殊な事情で離脱した宮家は復籍されるのが筋

   五・六世孫の親王宣下の慣例によって、後深草院流の正統という格別の由緒のある伏見宮は世襲親王家となり、天皇と血縁が疎隔しても親王家のステイタスは劣化せず、皇親からフェードアウトしない自立的に親王位を再生産する別格の宮家となった。伏見宮家は、康正2年(1456)の「永世伏見殿御所号」の後崇光院太上天皇の紋の直許の所伝等などから永続が約されているステイタスにある別格の宮家と評価できるのである

  明治5年(1872)に伏見宮出身の載仁親王が継嗣のない閑院宮を継承し、明治14年(1881)に仁和寺門跡より還俗した東伏見宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁親王)が世襲親王家に格上げされ、永代存続する伏見宮系の世襲親王家は三家となっている。

   幕末期に朝政参与、皇室の脱仏教化により伏見宮出身の宮門跡が続々とし還俗し7つの宮家(うち1家は幕末に途絶)が創立した。還俗皇族は原則一代限りで2代目は賜姓降下とされていたが、前記東伏見宮(のち小松宮)が世襲親王家となり、山階宮、久邇宮は二代皇族とされ、当主が薨去した宮家(北白川宮、華頂宮、梨本宮)も明治天皇の特旨によって継承がなされた[山田敏之 2018]。
 明治22年(1889)皇室典範では世襲親王家は廃止され、伏見宮や閑院宮は王号を称する宮家となり、養子相続も否定されたため、実子のない小松宮や華頂宮は断絶し、北白川宮輝久王が、明治36年に臣籍降下して小松侯爵家を創立し、宮家の資産・祭祀を継承した。また華頂宮博忠王に王子女なく途絶するが、伏見宮博信王が大正15年に臣籍降下し華頂侯爵家を創立し、宮家の資産・祭祀を継承した。

   しかし旧皇室典範31条は「永世皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」とされ男系男子が続く限り永世皇族制となったのであり、旧世襲親王家の伏見宮、閑院宮のほか、明治天皇の特旨により存続していた山階宮、久邇宮、北白川宮、梨本宮も永世皇族となった。

 皇室典範施行以後も、賀陽宮(明治25年)、東伏見宮(明治36年)、竹田宮、朝香宮、東久邇宮(明治39年)が永世皇族制のもとで創立されている。

  なお、明治天皇の皇女(内親王)九方のうち、婚期まで無事成長されたのは四方であるが、次表にあるとおりすべて伏見宮系皇族に嫁し親王妃となられたのである。

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   永世皇族制を前提とするならば、11宮家は、昭和22年に昭和天皇と大正天皇の直宮を守るためなどのやむをえぬ事情で離脱されたのだから、この際、末流の男系男子は復帰していただくのが筋である。

 要するに伏見宮家は『椿葉記』(永享6年1434奏進)等における後深草院流の正統、嫡流を引く皇統上の格別の由緒と、康正2年(1456)「永世伏見殿御所」号勅許の所伝等における永続を約されている由緒に加え、明治14年(1881)には永代宮家としての世襲親王家が伏見宮系では三家となったこと。その他、宮門跡か還俗して創立した伏見宮系宮家も明治天皇の特旨により相続が許され存続したこと。

 さらに皇室典範のもとでも伏見宮御一流11宮家は、永世皇族制のもとで存続していたという由緒がある以上、現皇室典範もそうだが、旧皇室典範でも養子相続は否定されているので前提からすれば特殊な事情で離脱した方々を養子相続などの下手な策を弄せずとも復籍していだくのが筋である。

 

第四 想定される反論(皇族ノ降下二関スル施行準則)に対する反論

  以上の見解について、以下のような反論が予想される。

  本来ならば皇室令と同等の性格をもつものだが、大正天皇の裁可を受けただけで、公示されることがなかった大正9年(1929)「皇族ノ降下二関する施行準則」は、皇族の臣籍降下を可能にした明治40年(1920)皇室典範増補の準則で、伏見宮系皇族は、15歳までに情願がなければ勅旨により家名を賜り、臣籍降下し華族に列する。ただし長子孫の系統で邦家親王から数えて四世孫までを除くと定め、次男以下は直ちに臣籍降下(但し邦芳王と多嘉王は例外)。長子孫系統も当時の当主より二世代から三世代たつと、臣籍降下とするものであった。

  それゆえ、旧皇族復籍に難色を示していた所功[2012]などの論者は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられることになり、従来の規模の皇室を維持できなくなったことで、昭和22年に11宮家が臣籍降下したが、そうでなくても、伏見宮系皇族は皇族ノ降下二関する施行準則によりリストラされ、宮家は消滅させる方針だったのであり、しかも皇室典範増補第6条は臣籍降下した皇族は復籍できないとしており、旧皇族の復籍は国民の理解を得られないとする見解がある。まり「準則」が長子孫系統で皇族の身位の維持を保証しているのは、伏見宮家が博明王まで、久邇宮家は邦昭王まで、賀陽宮は邦寿王まで、北白川宮家は道久王まで、竹田宮家は恒正王まで、朝香宮は誠彦王まで、東久邇宮は信彦王までで、次の世代は家名を賜り華族に列するということになる。この準則どおりなら伏見宮系宮家は男系が続いてもいずれは消滅することになる。

  もっとも、この規定に従うとしても、伏見博明氏は、令和4年にも著書を出版され、日本テレビのインタビュー取材を受けお元気であるので現在でも伏見宮家はなお存続したことになるし、東久邇宮信彦氏は令和3年に薨ぜられたので、その時点までは宮家が存続したことになるが、この問題について反論しておきたい。

「準則」は絶対励行されるべき規則ではない

  明治 40年(1907)王は勅旨又は情願により家名を賜って華族に臣籍降下することを可能とする皇室典範増補が成立したことによりも永世皇族制は見直された。

   令制で親王とは皇兄弟か皇子が原則だが、明治皇室典範では令制の二世王~四世王も親王とされたので、王とは皇室典範以前に親王宣下を受けていない五世王以降の皇族である。明治41年有栖川宮の継嗣栽仁王が薨ぜられたので、以降対象となるのは伏見宮系皇族である。しかし十年以上たっても勅旨による臣籍降下は一例もなかった。

  以下、永井和[2012]より「準則」が枢密院諮詢に至る経過を引用する。

  帝室制度審議会で大正 8(1919)年 1 月に「皇族処分内規案」の検討が開始され、委員の伊東巳代治、平沼騏一郎、岡野敬次郎が「現在の宮家を世数を限りて臣籍に降下すべき」として平沼と岡野、宮内省帝室会計審査局長官の倉富勇三郎がそれぞれ起草に当たった。倉富の当初案は、長子孫を除いて臣籍降下させるものだったが、その理由は「現在の宮家を世数を限りて臣籍に降すことは到底実行し難し」「宮内省は之を施行する責任を生するも、実際到底之を施行することを得す。非常の窮境に陥るへきに付、寧ろ処分内規を作らす、不文の儘適宜に処置する方宜しかるへき」というものだが、伊東から批判され採用されず、伊東は、倉富案を支持した宮内省と交渉した結果、宮内省側は、帝室制度審議会の見解を無視できず、大正天皇の直宮でも次男系統は四世孫まで、長子孫系系統でも八世孫までに世数制限することで、伏見宮系をターゲットとした印象を薄め、少なくともあと二~三世代は宮家を維持できる配慮で妥協がはかられた。

  大正9年宮内省と帝室制度審議会の合意により成立した「皇族ノ降下ニ関スル内規」は年2月末に波多野宮内大臣から大正天皇に上奏され、3月3日に枢密院に諮詢され、審査委員会で若干修正されたが趣旨に大きな変更はなく、3月17日枢密院本会議で満場一致により可決された。

  ただ、審査委員会で末松謙澄、一木喜徳郎から、王の臣籍降下を強制義務化するのは、皇室典範および皇室典範増補の法文と矛盾するおそれがあるので、「内規は一般の標準を示したるものにて、絶対に之を励行すへき性質のものに非す。内規中其の趣旨を示す個条を設くる必要ある」との修正意見が出され、それに対して審査委員長の伊東巳代治がその趣旨を示すには新たに条項を追加する必要はなく、ただ内規の表題を「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」と改めるだけでよいと反駁したので、伊東の意見にしたがい表題が変更されるつまり、天皇が降下を命じるのは「原則」であって、場合によっては命じないこともありうるとされたわけである。

 

B 準則の効力についての疑問

 

 「準則」の効力について正面から反論しているのが中川八洋氏で、宮内庁が平成12年(2000)に明らかにするまで「準則」なるものは一般に知られていなかった。宮内庁書陵部が偶然発見した形で表に出された。女性女系天皇準備の一環との見解である。

 「準則」は邦彦王、鳩彦王、博恭王など多数が絶対反対で大正9年5月15日皇室会議の紛糾により実態として廃案であり、法手続き的には成立していないとされるのは、皇室会議令八条は「過半数によりこれを決す」と決議を絶対要件としているためである。波多野敬直宮内大臣が廃案なのに大正天皇の御裁可を頂いたのは大暴挙とされている。ただし公示されず、法律の効力を有しないとされている [中川八洋 2018]。

 皇族の多数が反対もしくは宮内省の把握では賛成派であっても表決に消極的であったため、表決されずに決定したのは異例の展開であり、6月18日には波多野宮内大臣が、皇室会議の不首尾の責任を取って辞職している以上、大筋で妥当な批判に思えるが、5月15日の皇室会議と、宮内大臣辞職に至る経緯につき永井和[2012]と浅見雅男[2016]より引用したうえで、筆者の感想を述べることとする。

 「準則」は枢密院に諮詢されたあと、さらに皇族会議に付議されることになっていたおり、議員は成人男性皇族であり、当時、皇太子裕仁親王と伏見宮系皇族14方で組織され、天皇の命で召集されるが、大正天皇は病状により公務が制限され親臨されず、伏見宮貞愛親王が議長であった。

 とはいえ皇族会議の議案は天皇が下付したものであり、通常は何の異論もなく承認されるのが慣例であった。元老や宮内省にとって異論が噴出するなど天皇の権威が揺らぐことになりあってはならないことだった。

 大正9年4月8日の皇室会議は延期された。宮内省調査課長事務取扱が、貞愛親王から「邦彦王殿下(久邇宮)が主として反対せられ、博恭王殿下も之に賛成し居る模様にて、或は反対者の方か多数なるやも計られす」と告げられ、波多野宮内大臣は貞愛親王に議長の職権で会議を延期することを求めたのである。

 大正9年4月11日伏見宮邸において非公式の皇族協議会が開かれたが、久邇宮邦彦王(陸軍中将)、博恭王(伏見宮継嗣・海軍中将)、博義王、朝香宮鳩彦王が反対を表明し、協議はまとまらなかった。反対派の中心は久邇宮邦彦王で香淳皇后(良子女王)の父であり当時皇太子との婚約は内定しており岳父となる方である。元老の山縣有朋は宮邸を訪問、邦彦王は皇統断絶の危機をもたらす懸念により反対とされ、山縣は「皇統の断絶等を云々せらるるは、畢竟杞憂に過ぎず」などと説得したが不調に終わったため、対策の協議で山縣から、形勢不利なら、大正天皇の勅旨を示して、賛成せざるをえなくする強硬策の提案もあった。 

 当時の皇室会議は成人皇族男子で組織され、成人したばかりの皇太子裕仁親王と伏見宮系皇族14方が議員である。内大臣、枢密院議長、宮内大臣、司法大臣、大審院院長が参列員として出席し、天皇が臨席する。ただし当時は大正天皇が病状により公務制限があり議長は伏見宮貞愛親王だった。

 

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 宮内省の把握では5月6日の時点で、賛成が伏見宮貞愛親王、閑院宮載仁親王、東伏見宮依仁親王、梨本宮守正王、山階宮武彦王、反対は久邇宮邦彦王、博恭王、博義王、朝香宮鳩彦王、北白川宮成久王で、賀陽宮恒憲王は態度不明だったが、伯父の久邇宮を慕っており反対が想定されていた。フランス留学の東久邇宮稔彦王、京都在住の多嘉王、廃嫡とされた邦芳王は皇族会議に出席しない。

 事態の収拾に動いたのは北白川宮成久王だった。議員全体の利害にかかわるため表決しない方向で各宮を訪問して根回しし、皇族間で合意したという。閑院宮載仁親王が表決しないことを提議し、成久王が賛成意見を表明する打ち合わせがなされた。ただし反対派から条件があり、議員の質問と意見表明の自由を保証するというもので、宮内大臣と協議、宮内省がこの妥協案を受け容れたので、5月15日の皇室会議当日は成久王、邦彦王、鳩彦王、博恭王が発言した後、打ち合わせどおり載仁親王が表決しない提議をし、邦彦王、博恭王が反対したが、波多野宮内大臣は議員多数が表決しないことに賛成なら宮内省に異論はないと述べ、議長の貞愛親王が強引に表決しないと宣言し閉会した。

 北白川宮が調整したことで、元老による強硬突破策、勅語により賛成せざるをえなくなる荒療治は避けられたとはいえ、「準則」そのものは、大正天皇が裁可された。

 原敬は決定されたとしているが、玉虫色的収拾のように思える。会議の数日後、波多野敬直宮相は「皇族会議にて議すへき事項なりとして御諮詢を奏請したるに、皇族会議にて議決せさることゝなりたるは、取調不行届の結果にて、恐懼に堪へす」という趣旨の待罪書を大正天皇に提出した。これは却下されたが、6月16日波多野宮相は皇室会議での不首尾の責任をとって辞職する。

 中川八洋氏の指摘のとおり、宮相が議決できなかった責任をとって辞職している以上「大正天皇の御裁可」により永世皇族制は否定されていたというプロバガンダに惑わされる必要はないと思う。

「準則」は伏見宮系皇族を一掃する狙いのリストラになるが、伏見宮の格別の由緒、永続が約されていること、世襲親王家として天皇と血縁的に疎隔しても親王家のステイタスは劣化せず、皇親からフェードアウトすることのない「別格の宮家」「准天皇家」であったこと。15世紀以降世数制限は有名無実で五世王以降の親王宣下が合法化されたことを無視していたといえる。

 それは明治44年の南朝正統の勅裁の影響もある。伏見宮の流祖である崇光天皇が歴代から外され、伏見宮系皇族は後伏見天皇の末裔と称することになってしまったことのダメージが大きかった。

 崇光天皇は、神皇正統記では偽主とされる光厳天皇の皇子で、南朝軍に吉野に連れ去られ子孫の皇位継承を断念する起請文を書かされている。もちろん虜囚の身で窮余認めたのであって、その効力は否定できるし、皇統嫡系の今上陛下も光厳の皇統であることは同じことである。

 伏見宮御一流の皇族の多くは、陸軍、海軍の武官に任ぜられ、臣民に「義勇奉公」の範を示す役割を担うなど大きな存在だったが[所功 2012]所、戦前において支配的だった国民の南朝忠臣賛美と直接思想的に結びつかない捻じれがあったのである、

 今日では大抵の歴史学者や国文学者が認いている、持明院統正嫡『椿葉記』など由緒を語ることが憚れる状況にあったことが推測できる。

 南朝正統史観にもとづき伏見宮御一流はいらないというのは暴論である。禁闕の変、長禄の変で、後南朝勢力は衰え、後花園上皇が後南朝後胤蜂起に対し討伐の院宣を下し、15世紀に歴史上消えているからである。

 皇統で残っているのは光厳院流の皇統(皇統嫡系=後光厳院流と伏見宮系=崇光院流)だけだから、伏見宮御一流を復籍される以外にないわけである。

 今日の歴史学では光厳上皇の現存する院宣は350通に及び、政務は活発であり「暦応雑訴法」が制定され、充実した政治機構が存在していた[森茂暁2008][深津睦夫2014]。

 今日では北朝政権の意義も評価されており、皇国史観は教育されておらず、桜井の駅の別れも史実ではないともいわれる。

 もっとも北朝五代が歴代から外れ、皇統譜の別冊とされていることに今日でも変わりないが、とはいえ、南朝正統論が価値相対化されている状況において、近年の歴史学や国文学など伏見宮の由緒については数々の研究成果があり、伏見宮の特別のステイタスを再評価するならば「準則」を強調して旧皇族を排除する理屈は粉砕できる。この意見書もそのための趣旨である。

 中川八洋氏が主張するように「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」の法律の効力を否定するならば大正 9年(1920)から昭和18年(1943)にかけ、皇室典範増補に従い、臣籍降下された12名の旧皇族の末流である男系男子も、皇籍復籍の対象とすべきである。

 12名が臣籍降下しなければ、大正天皇の直宮3家に加え、伏見宮系皇族24家となり30に近い宮家の数は多すぎるかもしれない。

 しかし貞観5年(862)に二世から四世に至る諸王の数は5600人、夏冬の時服料を賜う人数が400余人とされ [藤木邦彦 1991]ことから比べれば、それでも少ないともいえるのであり、伏見宮が完全なる傍系化が回避された由緒があるのだから、冗長な部分として排除するのは間違いだったのである。

 その観点から、昭和18年以前に臣籍降下した12名の旧皇族の末流の男系男子も皇籍に復籍する対象に含めるべきである。

 

第五 養子や親子関係の擬制が否定されている皇室典範において、養嗣子にこだわることにさほど意味はない

 もっとも将来的には伏見宮系が大統を継承する可能性もあるから、皇統転換、付け替えにならないよう、養子縁組で皇統の継続性を考慮したいという考え方はありうる。

 実際、後花園天皇は正長元年(1428)後嗣のない称光天皇が御発病あらせられ、後小松上皇と二条持基の合意により、称光崩御の3日前に伏見若宮御歳10歳が仙洞御所に入御され「後小松院の御所生の如く御父子の儀を契約せられ」たのち新内裏で践祚した『建内記』[村田正志 1983初出1944]。この猶子関係は強いものである。後花園は後小松上皇の猶子として後光厳皇統を継承した。

 光格天皇は、閑院宮典仁親王の第六王子であるが、安永8年(1779)後嗣のない後桃園天皇の早世により、正妻格である女御藤原維子を養母として、後桃園天皇は崩後も在位したことになっており、実質後桃園天皇の養子として9歳で大統を継承された[久保貴子1998] [高埜利彦2019]。15世紀以降は、皇室も皇統転換がなくなり、猶子という親子関係の擬制で直系継承となり、皇統転換は後光厳天皇以降ないといってよい。

 しかし、現皇室典範は、そもそも皇室典範では宮号は称号であり、遺産相続はあっても家督相続なしという実系主義であり養嗣子による継承がそもそもない以上、第4項で述べる伏見宮御一流は皇統の正当性を強調すればそれで足りる事柄といえる。

 養子相続が否定されているので、秋篠宮皇嗣殿下は、今上陛下の猶子という位置づけではなく、皇嗣殿下が即位される場合は、皇統転換となり今上陛下は中継ぎの位置づけになるという見方はありうる。

 もっとも皇太弟ではないので皇嗣は実質猶子という含みがあるという玉虫色的解釈も成り立つ。

 とはいえ皇子がなくても、皇弟(高貴宮=霊元院)を猶子とすることにより嫡流で中継とはされていない後光明天皇の先例はふまえていないのである。

 しかし今上陛下が中継とされるのは良くないのでも皇嗣殿下を養子とすべきだという声はきいたことがないのだから、養嗣子にこだわる必要はない。

 親子関係の擬制、猶子として准的に血縁の疎隔の穴埋めをすると居座りがいいという考え方があるとしても、現存宮家の跡取りつまり養嗣子とする必然性はなく、名目的な猶子とするなにらかの措置があれば足りる。

 直接復帰に際して、天皇皇后両陛下や上皇上皇后両陛下、現存宮家の皇族方による選定もしくは認証があったほうがすわりがよいということなら、王朝時代の御給、年官年爵のように皇族方に推挙権を行使していただくとか、工夫があってもよいだろう。

第六 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を永続が約されている由緒を重んじるべき

第二部本文で詳しく説示するが要点だけを述べる。

A 『椿葉記』に正統という格別の由緒が記されている

 『椿葉記』(永享5年1433)は、後花園天皇の実父である第3代伏見宮道欽入道親王(貞成親王)が、崇光院流(伏見宮)が後深草院流の正統な皇統とする見解と後高倉院の先例により太上天皇尊号拝受の意向を奏上するための手記であるが、伏見宮がばっちり後深草院流正統である由緒を説示していることは、旧皇族にとって大きなアドバンテージである。伏見宮は琵琶の伝習など嫡流の流儀を継承する宮家であったのだ。

 文安4年伏見宮道欽入道親王(貞成親王)は帝に非ざる皇族だが、太上天皇尊号宣下を受けた。後崇光院太上天皇の横井清[2002]の辞退説は、近年、尊号辞退の報書は事実だが、形式的な慣例で内実は拝受だったとして明確に否定されている。

 実際、後崇光院は元旦に関白以下公家衆の拝賀を受け、繧繝畳に着座し[久水俊和2020a]、「仙洞」「法皇」「院御所」と称された[田村航2018]。

「崇光院流の流儀は王家のなかでは別格であり」、伏見宮家は「崇光院流の正当性を担保し」「皇位継承への一縷の望みを遺す世襲親王家に転成した」、「別格の宮家」「准天皇家」とされる [久水俊和 2020a]  。伏見宮は完全なる傍流化を回避された別格の宮家ということである。

 伏見宮家は14世紀の初代栄仁親王より昭和22年第26代博明王が離脱するまで実系の男系子孫で継承され、600年近く皇族の崇班を継承している意義は甚大であり、宝暦9年後嗣のない16代邦忠親王が29歳で薨去、空主となった時期もあり、宝暦10年(1760)桃園天皇の第二皇子(17代貞行親王)が伏見宮を継承されたが、明和9年(1772)親王が13歳で早世されたため再び空主となる。

 このとき伏見宮家は『椿葉記』等格別の由緒があるゆえ実系に復すことを嘆願している。結果的に安永3年(1774)15代貞建親王の次男で勧修寺に入室した寛宝入道親王が還俗して18代邦頼親王となる[武部敏夫1960]。

 このたびもこれと全く同じ趣旨を強調したい

B 永続を約された由緒が複数以上ある(血縁が疎隔してもフェードアウトしない特別のステイタスを獲得した)

 そもそも『椿葉記』という書名は八幡の御託宣「古今著聞集」「増鏡」の後嵯峨院の逸話に由来するものであるが、単純にいえば崇光院流が久しく栄えることを願った書名なのである。「荘子‐逍遙遊」によれば椿の葉は八千年をもって一春とする。それが再び改まるほど長い年月のことである。永年のたとえであり永続性を意味する(椿は最高の吉祥木だった。花がポトリと落ちるから縁起が悪いとされたのは江戸時代以降のこと)。

 皇室典範より前は、伏見宮家は、血縁が疎隔しても親王家のステイタスが劣化せず、歴代親王宣下され、皇親からフェードアウトしない世襲親王家として事実上公認されていた。皇族からフェードアウトしない落葉しない『椿葉』そのものといえる。

 それは天皇の猶子という親子関係の擬制で、皇子に准じた礼遇を受ける准的措置による。

 世襲親王家が成立した客観的条件として、15世紀に後二条天皇の5世・6世孫や亀山天皇の5世孫が親王宣下されており、五世王や六世王は継嗣令皇兄弟条では、不課の特典はあるが皇親の範疇にないとされているが、中世には血縁が疎隔しても親王位授与が合法化されたことがある。

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 院政期以降、皇子の法親王化が進み、俗体の親王が減ったこと。特に後光厳より正親町まで限嗣単独相続で、天皇家からの分家がなくなったので、皇子が少なくなると、天皇の周囲に配置される宮門跡に入室する人材は、血縁が疎隔する宮家に求められた事情によるものであるが、天皇家とは伏見宮家より血縁的にははるかに遠い大覚寺統の六世王の親王宣下が合法化された以上、皇統上格別の由緒があり、仙洞御所を相続する別格の宮家、伏見宮家が定親王家とされたことは自然の成り行きといえる。   

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 康正2年10月の伏見宮系譜「貞常親王御記」にある康正2年(1456)伏見宮第4代貞常親王が、後花園天皇より「永世伏見殿御所」号を勅許されたという所伝は、裏付ける史料がないため慎重に扱うべきであるが、意味するところは世襲親王家の公認であり、近年これを伏見宮家の永続を約したものとして積極的に評価する歴史家が多い。

 それは裏付けがなくても世襲親王家が成立する客観的条件が整っており辻褄が合うからである。

 第一に伏見宮栄仁親王は、室町院領(萩原宮遺領)について応永23年(1416)に後小松上皇より「永代」安堵の院宣を得ている [白根陽子 2018]。

 持明院統の嫡流所領である長講堂領等は、応永5年(1398)崇光院崩後、足利義満により没収され、後小松天皇の禁裏御領に編入されたが、後小松院は代わりに持明院統の庶流の所領である、後高倉皇統追善仏事料所荘園群という由緒のある王家領を永代安堵してくれたのである。

 王家領を治天の君により永代安堵されたのだから、永続すべき王統たる根拠となる。八条宮は豊臣秀吉、高松宮(のち有栖川宮)、閑院宮は徳川幕府により知行を充て行われて創設されたのであって格式が違うというべき。

  第二に伏見宮第3代道欣入道親王の『椿葉記』「崇光院・後光嚴院は御一腹の御兄弟にてましませ共、御位のあらそひゆへに御中惡く成て、御子孫まで不和になり侍れは、前車の覆いかてか愼さるへき、いまは御あらそひあるへしもあるまし。若宮をは始終君の御猶子になし奉るへけれは、相構て水魚の如くにおほしめして、御はこくもあるへきなり」4]とあり、天皇家も伏見宮も実系では崇光院流一統になったのだから、過去のように不仲となることなく親睦にして、将来永く疎隔あるまじきこと。そのために伏見宮の若宮を始終御猶子となし奉ることを実父の意向として提案しているのである [村田正志 1954初刊、1984]。

  15世紀には五世王以降の末流の皇族でも親王宣下が慣例化されており[松薗斉 2010]、「御猶子となし奉る」とは、猶子により皇子に准じた礼遇とすることで、親王宣下が通例であるゆえ、伏見宮家の世襲親王家とする要望を天皇に奏上する趣旨である [小川剛生 2009] [田村航 2018] 。

   後花園天皇は、後小松院の猶子とされた直後に践祚しており、後光厳院流の万歳継帝を望む養父の御遺詔を重んじたので、『椿葉記』の見解である崇光院流への皇統の付け替えを拒否している。しかし一方で実家の伏見宮にも宥和策をとり、「永世伏見殿御所」勅許の所伝は、『椿葉記』の構想の一部を実現したとみなせば辻褄が合う。

  「後花園は、弟の貞常に伏見宮家の継承と、その『永世』にわたる存続を約した。そして伏見宮家の当主は代々天皇の猶子となって親王宣下を受けるという特殊な形がとられるようになった。ここに後光厳皇統と崇光皇統の両立が完成したのである。」 [秦野祐介 2020]

 このように伏見宮の永続性は、後小松院政における末流の皇胤の親王宣下の合法化、後崇光院、後花園による崇光院流の永続化を図る政策と、加えて伏見宮で養育されたため伏見に般舟三昧院を建立するなど崇光院流に親近感を持っていた後土御門天皇と、外戚が伏見宮と共通する後柏原天皇が、伏見宮やその連枝と宮廷社交行事で大変親しかったという歴史的経緯[朝倉尚 1990]により確定したといえる。

 室町時代から昭和時代まで600年皇統嫡系となった後光厳院流(天皇家)と伏見宮の併存体制が続いたのには理由がある。後花園上皇は文明2年(1470)興福寺に後南朝討伐の院宣を下し、吉野奥・紀伊・熊野の南朝皇胤蜂起を鎮圧したので[秦野裕介2020 290頁][森茂暁(1997 2013)]、この後、皇位をめぐる争いは全くなくなった。天皇家と伏見宮の併存体制こそ嘉例といえるのである。

 伏見宮の初代栄仁親王(1351~1416)から600年経過しても自然血統で男系が枯渇することなく続いているというのは、ある意味で優秀な家系といえると思う。

 昔は医療的問題で男子が早世するケースが多く、家督継承が順調でない場合養子縁組は通例のことだった。

 例えば、五摂家というのは江戸時代初期に藤原氏の実系の血脈としては二条晴良(1526~1579)の子孫だけが残った[木村修二1994]。

 二条家の初代は13世紀の良実だから、単系出自の実系では五家あっても、400年たつと残るのは一系統だけなのである。

 17世紀中葉に近衛家と、一条家は後陽成皇子が養子となって皇別摂家になった。九条・二条・鷹司家当主の実系の共通の先祖は二条晴良ということである。鷹司家は後に閑院宮家より養子を迎えて、皇別摂家になっている。

 岡山藩池田家、鳥取藩池田家とか、仙台藩伊達家と宇和島藩伊達家は仲が悪かったので適切な例ではないが、2つの家系が併存すると安定感を増す。

 今ここで、嘉例といえる天皇家と伏見宮御一流の併存体制を復活させるべきである。

 

C 伏見宮の正統たる由緒とその証拠

 正統たる由緒の柱は3つで①貞治2年光厳院置文に「正統につきて伏見殿(崇光院)の御しそん御管領あるべきよし‥‥」とあること [村田正志 1954初刊、1984]、②皇統文庫の相続と維持③持明院嫡流の天皇の帝器だった琵琶の習練、秘曲の伝授であるが、本文に詳しく説示するのここでは、要点を記述するにとどめる。

   後崇光院太上天皇(伏見宮貞成)は強い正統意識を持ち続けたことは数々のエピソードで知られる。貞成王は親王ですらないのに、本来は治天の君が管理する、持明院統文庫213合を相続した。古記録・家記の原本が伝来している家が嫡流というのは常識である。正統、嫡流を自認するのは当然のことである。

   伏見宮に伝来した文書は、天皇家に進献されたもの、将軍家や武家に贈答品とし贈られたもの、戦乱等の移動の際失われたもの、散逸したものが多いとはいえ、伏見宮家は蔵書を維持し、昭和22年12月宮内庁書陵部に788部1666点が寄託され、後に国費で宮内庁が購入した [飯倉晴武 2002]。現存する伏見宮旧蔵本の評価は、中世の天皇家の蔵書をよく伝えており、伏見院日記8巻、花園院日記36巻等の鎌倉時代後期宸筆宸記のほか、貴重な自筆原本や古写本のほか、琵琶を中心とした楽書もあり充実している[小川剛生2017]。最も古いものは延喜19年(919)大江朝綱筆の『紀家集』である。『水左記』の自筆原本4巻は、もともと蓮華王院宝蔵の蔵書であった[田島公2004]。

   禁裏文庫は万治4年(1661)火災で古筆はすべて失われた。したがって「現在、東山御文庫に継承された近世禁裏文庫に残っている史書・古記録・漢籍など史料の残存状況を調べると応仁文明の乱以前に遡る写本・古文書の原本は少ないので‥‥中世天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された書籍・文書・絵画などの一部は、むしろ伏見宮家によって近代まで伝えられたといえよう。」 [田島公 2004]との書誌学者の評価である。

   伏見宮家は昭和22年まで中世天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された古文書の一部を伝えていた。嫡流を引く由緒を認定してよいと思う。書誌学的な証拠がある。だからこそ完全なる傍系化が回避され永続されるべき宮家といえるのである。

 『椿葉記』は永享4年まで書名は『正統廃興記』であった。正統たる崇光院流=伏見宮の約80年の歴史を記述するものだった。しかし後小松天皇が存命されている以上、憚れたので『椿葉記』というおとなしめの書名となった。崇光院流=伏見宮が正統という主張に変わりはない。

 伏見宮家とは、血のスペアとして創立された閑院宮などとは違う。そもそも嫡流の由緒、崇光院流の正当性があるからこそ存続した。

 後深草院は亀山天皇に秘曲伝授で先を越されたことを後悔され、巻き返しのため立て続けに秘曲の伝授を受けた[阿部泰郎 2018]。以来持明院統嫡流の天皇は琵琶の伝習が必須となったのだ。琵琶は帝王の管弦主座であり、皇統の正統性にかかわるものと認識されていたためである。

   それゆえ後深草院以来、持明院統流正嫡は琵琶を帝器とし、秘曲が伝授された。琵琶は持明院統嫡流の後深草-伏見-後伏見-光厳-崇光-伏見宮初代栄仁親王-2代治仁王は、最秘曲の啄木を伝授されている。3代貞成親王以降は啄木の伝授は受けてないが、4代貞常親王、5代邦高親王、6代貞敦親王は楊真操、両流泉といった秘曲の伝授を受けた[猪瀬千尋 2018]。

    一方、後花園天皇は実父貞成親王が琵琶を勧め、稽古用の琵琶を進献したが、後光厳院流の流儀で笙を帝器とした。文明14年(1482)後花園院13回忌の御懴法講では後土御門天皇の笙の御所作に、邦高親王が琵琶を合わせた [三島暁子 2012]というように、嫡流の流儀は天皇家ではなく伏見宮家が継承した。

   そうしたことから、どうしても伏見宮が嫡流を引く由緒が残るのである。。

 

 もちろん、伏見宮家以外でも嫡流の由緒のある宮家は中世には存在した。

 皇統嫡系(後光厳院流)は『本朝皇胤紹運録』等で正当化が図られている。大覚寺統後二条直系木寺宮には後宇多上皇の譲状において正統であり、常磐井宮は亀山院の譲状において嫡流、正統といえる。

   ただ亀山院の遺詔は後宇多院によって反故にされ、常磐井宮恒明親王立坊は、持明院統が支持したが、幕府が後宇多院を支持したため立坊されなかった。後二条直系は皇太子邦良親王が、後醍醐に譲位を求めても居座り続けたため践祚できずに早世、康仁親王は建武新政によって立太子が無効とされ親王位を剥奪されたが、大覚寺統の正統であることは持明院統と鎌倉幕府が認めていた。

後醍醐流は『神皇正統記』『大日本史』『日本外史』等で正統とされたことはよく知られているとおりである。

 しかし後醍醐流(後南朝)は15世紀に消え、常磐井宮は16世紀に消え、木寺宮は近世初期まで存続したが消えている。

 皇統上の格別の由緒、嫡流の由緒があって残っているのは、皇統嫡系以外では伏見宮御一流だけなのである。

だから伏見宮御一流を復活させる以外にないし、それが最善唯一の方策である。

 

引用・参考文献(一覧表

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栗原弘1999『平安時代の離婚の研究』弘文堂

栗原弘 2002 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2★

栗原弘2004「藤原道長家族の追善仏事について」比較家族史学会 編 (19)★

栗原真人1991 <論説>秘密婚とイギリス近代 (1)」 香川大学 11巻1号★

栗原真人1992a 「〈論説>秘密婚とイギリス近代 (3)  香川法学 121号★

栗原真人1992 b「<論説>秘密婚とイギリス近代(4・完)  香川法学 122号 ★

栗原真人1996「 フリートとメイフェア : 一八世紀前半ロンドンの秘密婚」 香川法学 154号★

栗原涼子2003「革新主義考アナーキストフェミニズムについて」岩手県立大学盛岡短期大学部研究論集 5

栗山圭子 2001 「准母立后制にみる中世前期の王家」『日本史研究』465号 日本史研究465

黒田俊雄(1994・初出1982)「朝家・皇家・皇室考-」『黒田俊雄著作集一権門体制論』法蔵館

桑山浩然1996「室町時代における公家女房の呼称 」『女性史学』( 6)

河内祥輔2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館

河内祥輔2018「鎌倉幕府と天皇」『天皇と中世の武家』所収

呉座勇一2018『陰謀の日本中世史』角川新書

小久保嘉紀2022「斯波義敏と斯波義廉の内訌」渡邊大門編『諍いだらけの室町時代』柏書房

小谷徳洋2022「河内四条畷の戦いと楠木正行の生涯」渡邊大門編『南北朝の動乱主要合戦全録』星海社

後藤みち子2009『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館

後藤みち子2014「室町戦国時代の婚姻」高橋秀樹編『婚姻と教育』竹林舎

小森崇弘2008 「後土御門天皇の月次連句文芸御会と公家」 立命館文學 (606)

小林よしのり 2010 『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』 小学館

古藤真平2018 『日記で読む日本史3 宇多天皇の日記を読む』 臨川書院

五味文彦 2006 『中世社会史料論』 校倉書房

近藤佳代子(2015)「夫婦の氏に関する覚書(一)」宮城教育大学紀要49

近藤成一2016『鎌倉幕府と朝廷』岩波新書

近藤毅大 1997 「紫微中台と光明太后の『勅』」 ヒストリア(155

近藤好和2010「布衣始について」日本研究42★

近藤好和 2019 『天皇の装束』 中央公論新社

齋藤公太2019『「神国」の正統論―『神皇正統記』受容の近世・近代』ぺりかん社

佐伯智広2019『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』吉川弘文館

坂井孝一2018『承久の乱』中公新書

酒井信彦 2002 戦国時代の朝廷 朝廷の「式微」は真実か 日本及び日本人1643

酒井茂幸2009 『禁裏本歌書の蔵書史的研究』  思文閣出版

坂本真美子 1987「十 五 世 紀 の 宮 廷 雅 楽 と 綾 小 路 有 俊」東洋音楽研究51

坂田聡(2002)「中世後期~近世の家・家格・由緒--丹波国山国地域の事例を中心に 」『歴史評論 』630

坂田聡(2006)『苗字と名前の歴史』吉川弘文館

坂田聡(2007)「家制度の期限を探る-転換期としての戦国時代-」『青少年問題』625

桜井栄治 (2009) 『室町人の精神』 講談社学術文庫

桜田真理絵 2016 「未婚の女帝と皇位継承元正・孝謙天皇をめぐって— 」 駿台史学156

桜田真理絵2018 「女帝「非婚」と「未婚」のあいだ -「不婚の女帝」論の再検討-」 文化継承学論集 (13)

佐々木宗雄 1994 『日本王朝国家論』名著出版

佐古愛己2012『平安貴族社会の秩序と昇進』思文閣出版

佐古愛己2013「中世叙位制度の特質に関する一考察 : 鎌倉期を中心佐藤長門 (2009) 『日本王権の構造と展開』 吉川弘文館

佐藤賢一2009『カペー朝-フランス王朝史1』講談社現代新書

佐藤賢一 2014 『ヴァロア朝-フランス王朝史2』 講談社現代新書

佐藤賢一2019『ブルボン朝-フランス王朝史3』講談社現代新書

佐藤哲也2012「近代教育思想の宗教的基層(1) : コトン・マザー『秩序ある家族』(1699)」 宮城教育大学紀要 47号★

佐藤長門 2009 『日本王権の構造と展開』 吉川弘文館

佐藤長門(2012)「承和の変前後の春宮坊」『日本古代の王権と東アジア』吉川弘文館

篠川賢 2013 『飛鳥と古代国家』 吉川弘文館

滋賀秀三1967『中国家族法の原理』創文社

柴桂子2004「近世の夫婦別姓への疑問〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現状 のコメント」『総合女性史研究』(21)

柴田敏夫1987「「コモン・ロー・マリッジ」略史」大東法学 14

島善高1992「近代における天皇号について」早稲田人文自然科学研究(41

島津一郎1974『妻の地位と離婚法』第42イギリスにおけるコモン・ロー婚の展開 有斐閣

島村修治1971『外国人の姓名』ぎょうせい

清水昭俊1970「<>の内的構造と村落共同体 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

清水昭俊1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

清水昭俊1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

清水昭俊1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

清水昭俊1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 

清水昭俊1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

東海林亜矢子2004「母后の内裏居住と王権」お茶の水史学 48

白木歩澄2018「十八世紀イングランドにおける女性の結婚観 : ハードウィック婚礼法制定による変化」歴史研究64

白根陽子2018 「伏見宮家領の形成」『女院領の中世的展開』 同成社

末柄豊 2011 「伏見宮旧蔵文書二題」 東京大学史料編纂所研究成果報告2011-3

末柄豊2012 「禁裏文書における室町幕府と朝廷」 ヒストリア(230

末柄豊2012 「十三絃道の御文書」のゆくえ」 日本音楽史研究(8

末柄豊 2018 『戦国時代の天皇』 山川日本史リブレット

菅原正子2002「中世後期-天皇家と比丘尼御所」服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』小学館

菅原正子2014『日本中世の学問と教育』同成社

杉崎重遠 1954「北宮考 -九条右大臣師輔室康子内親王-」國文學研究 (9-10)★

鈴木繁夫2004「交わりの拡張と創造性の縮小 : ミルトンの四離婚論をめぐる諸原理について」言語文化論集 261号★

鈴木繁夫2013「性格不一致の離婚とその起源 : ミルトン離婚論と現代離婚観の宗教性」言語文化論集 35(1)

瀬川淑子2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』

相馬真理子 1997 「琵琶の時代から笙の時代へ--中世の天皇と音楽」 書陵部紀要 (49)

園部寿樹2015 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五) 山形県立米沢治芳短期大学紀要 51

曽我良成2012『王朝国家政務の研究』吉川弘文館

曾我部静雄1974「日唐の詔勅に見える節婦の旌賞」史林572

曽我部愛2021『中世王家の政治と構造』同成社

杣田善雄2003『幕藩権力と寺院・門跡』思文閣出版

苑田 亜矢1997 1159年の教皇選挙と教皇庁上訴 : イングランド史からの一考察」有明工業高等専門学校紀要 33

苑田亜矢2000「一二世紀イングランドにおける教皇庁への上訴をめぐって--1164年のクラレンドン法第8条および1172年のアヴランシュの和約の再検討」法制史研究 (50)

薗部寿樹2014資料紹介『看聞日記』現代語訳(二)山形県立米沢女子短期大学紀要50★

薗部寿樹2015 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五) 山形県立米沢女子短期大学紀要51★

高岸輝2007「室町時代における高階隆兼の伝説形成」美術史論集7

高岸輝 2017 「天皇と中世絵巻」高岸輝・黒田智『天皇の美術史3乱世の王権と美術戦略 室町戦国時代』 吉川弘文館

高岸輝 2020 『中世やまと絵史論』 吉川弘文館

高久嶺之介1981「近代皇族の権威集団化過程 ― その近代宮家の編成過程 ―」社会科学(27)★ 

高埜利彦2014『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館

高埜利彦2019「江戸時代の皇位継承」朝幕研究会『論集近世の天皇と朝廷』岩田書院

高橋秀樹1996『日本中世の家と親族』吉川弘文館

高橋秀樹2004『中世の家と性』山川出版

高橋秀樹2014「「家」研究の現在」『婚姻と教育』竹林舎

高橋康夫1978 「後小松院仙洞御所跡敷地における都市再開発の実態室町時代京都の都市再開発に関する考察」 日本建築学会論文報告集(263)★

高橋康夫1978 「戦国期京都の町 組 「六 町 」 の地域構造」 日本建築学会論文報告集274号★

高橋康夫 1983 『京都中世都市史研究』 思文閣出版

高橋典幸 2019 「南北朝動乱期の社会」『中世史講義』 筑摩書房

武部敏夫 1960 「世襲親王家の継統について-伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」 書陵部紀要12

武部敏夫1987『和宮』吉川弘文館

瀧浪貞子 1991 『日本古代宮廷社会の研究』「孝謙女帝の皇統意識」 思文閣出版

瀧浪貞子2017『藤原良房・基経』ミネルヴァ書房

竹島寛 (1982復刊、1936) 『王朝時代皇室史の研究』 名著普及会1982復刊

武田佐知子1980「律令国家による儒教的家族道徳規範の導入-孝子・順孫・義夫・節婦の表旌について」竹内理三編『天皇制と社会構造』校倉書房

詫間直樹2003「伏見宮本『御産部類記』について」『禁裏・公家文庫研究 第一輯』思文閣出版

詫間直樹2006「高松宮家旧蔵『伏見殿文庫記録目録』について」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』思文閣出版

田島公 1997 「禁裏文庫の変遷と東山御文庫の蔵書」大山喬平教授退官『日本社会の史的構造 古代・中世』 思文閣出版

田島公2004 「典籍の伝来と文庫 古代中世の天皇家ゆかりの文庫・宝蔵を中心に」石上英一『歴史と素材』所収 吉川弘文館

田島公2006 「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』 思文閣出版

龍野加代子1997 「八条院領の伝領過程をめぐって」『法政史学』49号 法政史学(49)★

玉井力1964「承和の変について」歴史学研究286

谷口やすよ1978 「漢代の皇后権」 史学雑誌87(11)★

谷口研語 1994 『流浪の戦国貴族 近衛前久』 中公新書

谷田博文 2019 『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか』 河出書房新社

田中明2007「修学院離宮における御幸様式の変遷と場所構成について」日本建築学会計画系論文集72  621 

田中和夫1958「イギリスの婚姻法」比較法研究18号 

田村航 2013 『一条兼良の学問と室町文化』 便誠出版

田村航 2018 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)

田村航 2020 「後花園天皇-後光厳流か、崇光流か」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

千葉功2019「南北朝正閏問題再考」学習史学57★

告井幸男2007「摂関・院政期における官人社会」日本史研究535

角田文衛 (1985初出1966) 「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』 法蔵館

角田文衛2003『二条の后藤原高子 業平との恋』幻戯書房徳田武(2011)『朝彦親王伝 維新史を動かした皇魁』勉誠出版

角田文衛2006『日本の女性名―歴史的展望』国書刊行会

東郷茂彦2020『「天皇」永続の研究』弘文堂

所功 2012 『日本の宮家と女性宮家』「皇室史上の宮家制度」 新人物往来社

所功2021「皇位継承史上の危機と課題」『皇位継承の歴史と廣池千九郎』モラロジー研究

徳島県立博物館企画展図録2001『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』

利行榧美2006「桓武朝における「国忌」についての一考察」奈良史学(24

豊永聡美2001「平安時代における天皇と音楽」研究紀要 25(東京音楽大学)

豊永聡美2017 『天皇の音楽 古代・中世の帝王学』 吉川弘文館

豊永聡美2020 「後土御門天皇-心を砕いた朝議復興-」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎 (1995) 「わび茶と露地 (茶庭の変遷に関する史的考察 その9: 禁中の茶とその茶庭」 千葉大学園芸学部学術報告 (49)

直江眞一1990「『我々はイングランド法を変更することを欲せず』(Nolumus leges Anglie mutare)について」『法学』東北大 543

直江眞一2014「アレクサンデル三世期における婚姻法 : 一一七七年六月三〇日付ファウンテン修道院長およびマギステル・ヴァカリウス宛教令をてがかりとして」法政研究 81 (3)

永井晋2003『金沢貞顕』吉川弘文館

永井晋2006『金沢北条氏の研究』八木書店

永井晋2021『八条院の世界』山川出版社

永井晋2022『鎌倉幕府はなぜ滅びたのか』吉川弘文館

永井和 2012 「波多野敬直宮内大臣辞職顛末 : 一九二〇年の皇族会議 (杉橋隆夫教授退職記念論集)」立命館文学(624)★

中込律子 2005 「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』 清文堂出版

中川和明1991「聚楽第行幸の行列について」弘前大学國史研究 (90)

中川八洋2005『皇統断絶』ビジネス社

中川八洋2007『悠仁天皇と皇室典範』清流出版

中川八洋2018 『徳仁新天皇陛下は最後の天皇』 ヒカルランド

中川八洋 2019 「「旧皇族の復籍」妨害に全力疾走の赤い山羊八木秀次 ──」 ブログ 中川八洋ゼミ講義

中林隆之 (1993 1994) 「律令制下の皇后宮職(上)(下) 新潟史学31 32

中村順昭 2019 『橘諸兄』 吉川弘文館

中村みどり 2002 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編(1

中村みどり2014 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編 (13)★

中村順昭 2019 『橘諸兄』 吉川弘文館

中本真人2021a「北山惣社御神楽と綾小路信俊」人文科学研究147

中本真人2021b『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』新典社

波田永実 2017 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」 流経法學16(2)★

成清弘和1999 『日本古代の王位継承と親族』 岩田書院

仁井田 陞1952『中国法制史』岩波書店

西川誠2019「皇室典範の制定-明治の皇位継承」歴史学研究会編『天皇はいかに受け継がれたか』績文堂

西川健誠2005「夫婦の交わり,神との交わり : 『楽園喪失』における夫婦愛と信仰()」神戸外大論叢 56(2)

西川健誠2004「夫婦の交わり神との交わり : 『楽園喪失』における夫婦愛と信仰 ()」 神戸外大論叢 55(3)★】

西嶋定生 1999 『倭国の出現 東アジア世界のなかの日本』 1999 東京大学出版会

西島正1954「ミルトンの女性觀」紀要 3

西田かほる2021「近世遠江における親王由緒-木寺宮をめぐって-」静岡文化芸術大学研究紀要21

西別府元日2002 『律令国家の展開と地域支配』 思文閣出版

西谷正浩1996『日本中世の所有構造』塙書房

新田一郎 2001 「継承の論理-南朝と北朝」『岩波講座 天皇と王権を考える 2統治と権力」」 岩波書店

新田一郎2011 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社

仁藤智子2016「平安初期における后位の変質過程をめぐって 王権内の序列化と可視化」国士館人文学48

布谷陽子2005「中世王家領の研究-女院領の伝領と王家の追善仏事」博士論文要旨★

根本猛1992「アメリカ法にみる母性保護と男女平等」『法経論集』静岡大学法経短期大学部6768 

野田泰三2019「宣陽門院覲子内親王の夢 (女性歴史文化研究所 第27回シンポジウム報告「発信する皇女たち -斎王を中心に-」. II)」女性歴史文化研究所紀要27

野村育代1992 「王権の中の女性」峰岸純夫編『中世を考える家族と女性』吉川弘文館 吉川弘文館

野村玄2019 「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題 明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響」 大阪大学大学院文学研究科紀要(59)★

橋本義彦 1976 「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』 吉川弘文館

橋本義彦2003「東山文庫と書陵部」『禁裏公家文庫研究第一輯』

橋本義則 1996 『平安宮成立史の研究』 塙書房

波田永実2017 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」 流経法學16(2)★

波多野敏1990「フランス、アンシャン・レジームにおける結婚の約束と性関係」京都学園法学 創刊号★

秦野祐介 2020 『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』 東京堂出版

秦野裕介 2018 「常盤井宮恒興王への親王宣下」 ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座, 11-04

秦野裕介2019「オンライン日本史講座四月第二回「南北朝の動乱」4」ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座 412

秦野裕介 2020 『乱世の天皇』 東京堂出版

秦野裕介 2020 YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」 (ページ: 31以降日本史オンライン講座★

秦野裕介2020 YouTube「中世の皇位継承16 後小松上皇 後光厳流の断絶と継承」 日本史オンライン講座★

秦野裕介2020 YouTube「中世の皇位継承17 後小松上皇と後花園天皇」 日本史オンライン講座★

秦野裕介2020YouTube「京都のお寺の歴史 妙心寺Ⅰ花園上皇の御所を禅寺に」日本史オンライン講座★

秦野裕介2021「観応の擾乱」「禁闕の変」渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』所収 柏書房

秦野裕介2022a「両統迭立から正中の変・元弘の変まで」「和泉堺浦・石津の戦い」「九州における南北朝の動乱」渡邉大門編『南北朝動乱主要合戦全録』星海社

秦野裕介2022YouTube「戦国大名477 足利家 天皇家と足利将軍家」日本史オンライン講座★ 

秦野裕介2022YouTube「観応の擾乱 後光厳天皇践祚と持明院統の分立」日本史オンライン講座★

塙陽子1993「カトリック教会婚姻不解消主義の生成と発展」『家族法の諸問題()』信山社

早川庄八 1993 『続日本紀(古典講読シリーズ)』 岩波セミナーブックス

樋口健太郎2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂

樋口健太郎2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011

久水俊和 2011 『室町時代の朝廷行事と公武関係』 岩田書院

久水俊和 2020a 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店

久水俊和 2020b 『中世天皇葬礼史――許されなかった〝死〟』 戎光祥出版

久水俊和2021「同一の帳簿を用いる「公武共同の財政構造」『「室町殿」の時代 安定期室町幕府研究の最前線』山川出版社

廣木一人2001 「後土御門天皇家の月次連歌会」 青山語文31

廣瀬隆司1985「明治民法施行前における妻の法的地位」愛知学院大学論叢法学研究2812.

広岡裕児 1998 『皇族』読売新聞社

兵藤裕己2018 『後醍醐天皇』 岩波新書

深津睦夫2014『光厳天皇』ミネルヴア書房

深澤光佐子2015『明治天皇が最も頼りにした山階宮晃親王』宮帯出版社

福井俊彦1970「承和の変についての考察」日本歴史260 

福井憲彦 2019 『教養としてのフランス史の読み方』 PHP研究所

福田景道2015「『池の藻屑』の皇位継承史構図―編年史的側面と「世継」―」島大国文35

島大国文★

福地陽子1956<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展」法と政治7(4)

服藤早苗 1991 『家成立史の研究』  校倉書房

藤木邦彦1991 『平安王朝の政治と制度』 吉川弘文館

藤田覚 2011a 『江戸時代の天皇』 講談社学術文庫

藤田覚2012b『近世天皇論』清文堂

藤田大誠2006 「幕末維新期における宮門跡の還俗に関する一考察」国学院大学日本文化研究紀要 96 

藤田高夫1990 「前漢後半期の外戚と官僚機構」 東洋史研究 , 48(4)

不破勝敏夫1958a「Common Law Marriageについて-1-」山口経済学雑誌 8(3

不破勝敏夫1958bCommon Law Marriageについて-2-」山口経済学雑誌 8(4)

不破勝敏夫1959「アメリカにおけるCommon Law Marriageの理論」山口経済学雑誌 10(1)

北條文彦 2002 「中世に於ける長講堂の供花の沿革について」 駒沢史学 (58)

保科季子2002 「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』612号 東洋史研究612

保立道久 1996 『平安王朝』 岩波新書

洞富雄1957『日本母権制社会の成立』淡路書房

前田雅之 2018 『書物と権力 中世文化の政治学』 吉川弘文館

増田忠彦201) 「資料にみえる 碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち)」 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 (15)

松下晴彦2004「グレトナ・グリーン「駆け落ち婚」の聖地」英米文化学会編『英文学と結婚-シェイクスピアからシリトーまで』彩流社所収

松永和浩2013『室町期公武関係と南北朝内乱』吉川弘文館

松永和浩 2020 「後光厳天皇-神器を欠き、都を逐れても」久水・石原變『室町・戦国天皇列伝』所収 戎光祥出版

松永和浩2022「室町幕府の皇位・皇統」「室町時代と酒-『看聞日記』を中心に-」『京都の中世史5首都京都と室町幕府』

松薗斉 1997 『日記の家』 吉川弘文館

松薗斉2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25),

松薗斉2014 「戦国時代禁裏女房の基礎的研究 後土御門~後奈良天皇期の内裏女房一覧」 愛知学院大学論叢 (44)

松薗斉 2016 「室町時代禁裏女房の基礎的研究  後花園天皇の時代を中心に」 人間文化 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (31)

松薗斉2017『日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家  (日記で読む日本史)』臨川書院

松澤克行・荒木裕2008「 刊行物紹介 大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記 九」東京大学史料編纂所報第44号★

三木太郎 1953 「椿葉記」より見たる持明院統分裂の原因長講堂領以下の所領を中心としてー」 駒沢史学2★

三崎裕子 1988 「キサキ宮の存在形態について」  史論41

三島暁子 2002 「室町時代宮中御八構の開催と記録」 武蔵文化論叢二

三島暁子 2003 「南北朝、室町時代の追善儀礼に見る公武関係」 武蔵文化論叢三

三島暁子 201 『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』 思文閣出版

水間政憲 2019 『ひと目でわかる皇室の危機 ~天皇家を救う秘中の秘」 ビジネス社

水野智之2014 『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』 吉川弘文館

水野柳太郎2008 「いわゆる光明立后の詔について」 奈良史学 (26)

水野智之 2005 『室町時代公武関係の研究』 吉川弘文館

三村晃功 1995 「「永正8年月次和歌御会」をめぐって--725日和歌御会を中心に」 光華女子大学研究紀要 (33)★

村上史郎1999「九世紀における日本律令国家の対外意識と対外交通--新羅人来航者への対応をめぐって」史学 69(1)

村井章介 2005 「易姓革命の思想と天皇制」『中世の国家と在地社会』 校倉書房

村田正志 (1954初刊、1984) 『村田正志著作集第四巻證註椿葉記」 思文閣出版

村田正志 (1983(初出1944) 「後小松天皇の御遺詔」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版

村田正志 (1983(初出1951)「皇統における熊澤一派の俗論を筆誅する」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版

桃崎有一郎 2020 『室町の覇者足利義満-朝廷と幕府は以下に統一されたか』 筑摩書房

森茂暁(2005 2020)『南朝全史』講談社

森茂暁2007戦争の日本史11『南北朝の動乱』吉川弘文館

森茂暁2008『増補・改訂 南北朝期公武関係史の研究』思文閣出版

森茂暁(1997 2013)『闇の歴史、後南朝』角川書店

森茂暁 2017 『室町幕府崩壊』 角川文庫

森茂暁 2004 『満済』 ミネルヴァ書房

森暢平 2014 「昭和20年代における内親王の結婚「平民」性と「恋愛」の強調」 成城文藝229

森暢平2022『天皇家の恋愛』中公新書

盛本昌広2008 『贈答と宴会の中世』 吉川弘文館

森田大介2020 「後柏原天皇-践祚二十年を経ての即位」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

森安雅子2011「『池の藻屑』における南北朝史観をめぐって」岡大国文論稿39

両角倉一1958「最 盛 期 の 堂 上 連 歌 壇」連歌俳諧研究16★゜

文殊正子 1986 「『内親王』号について 『公主』号との比較 」古代文化 38(10)

保田卓 1997 『日本における規範について その状況依存性の歴的考察(後編)』 教育・社会・文化研究紀要4

安田政彦 1998 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』 吉川弘文館

山﨑雅稔2001「承和の変と大宰大弐藤原衛条起請」歴史学研究751号、(2001

山崎雅稔 2012 「藤原衛の境涯」 帝京大学外国語外国文学論集(18)

山口和夫 2017 『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館

山田敏之 2018 「旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と永世皇族制の確立」 レファレンス(808)★

山本啓介2013 「後柏原天皇時代の内裏和歌活動について 時代背景と形式」 日本文学629

湯川俊治2005『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会

横井清2002『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫 旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979

吉川真司 1998 『律令官僚制の研究』 塙書房

吉田賢司 2017 『足利義持』 ミネルヴァ書房

吉田孝 2006 『歴史のなかの天皇』  岩波新書

吉田常吉 1976 『幕末政治論集』 岩波書店

米田雄介 1992 『歴代天皇の記録』 続群書類従完成会

米田雄介 2004 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』 塙書房

渡邊大門2012『戦国時代の貧乏天皇』柏書房,

渡邊大門2019『奪われた三種の神器』草思社

渡邊大門2021「長禄の変」『戦乱と政争の室町時代』柏書房

渡邊大門2022a「南北朝の合一」『南北朝動乱主要合戦全録』星海社

渡邊大門2022b『嘉吉の乱』ちくま新書

 

 

 

[i] 10~11世紀に十方、17世紀に八方、19世紀に御一方の例がある。

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