継嗣令皇兄弟子条の本註「女帝子亦同」は女系継承を認めているという見解の反論
敬宮様を皇位継承者にすべきと主張する女系容認論者のツイッターに返信したものに若干加筆したものを転載します。
くどいがお邪魔して継嗣令皇兄弟子条「女帝子亦同」の見解を主として成清弘和の専論を参考にして述べます。結論は天皇の男系子孫が皇位を継承することを否定するものではなく、たんに女帝の近親者(兄弟姉妹、子女)の待遇は男帝と同一の扱いとするだけの趣旨である。
継嗣令皇兄弟子条
「 凡皇兄弟・皇子、皆為親王、[女帝子亦同]。以外並為諸王。自親王五世、雖得王名、不在皇親之限。」
(凡そ皇兄弟・皇子は皆な親王となす。女帝の子も亦た同じ。以外は並びに諸王となす。親王より五世なれば、王名を得といへども、皇親の限に在らず。)
一 義解の注釈
義解は「謂。拠嫁四世以上所生。何者。案下条。為五世王不得娶親王故也。」
女帝の子は親王とする意味としても四世王以上との婚姻の結果、生んだ子と解釈されるから、女帝の子は男系出自系譜であることにかわりない。
その根拠として下条つまり継嗣令王娶親王条「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」を引く。諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。
王娶親王条の皇親女子の内婚規定により、皇親男子(天皇、親王~四世王)としか結婚できない。「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていた。これは5~6世紀の慣例を明文化したものでもある。
少なくとも8世紀において明確に違法といえるのは加豆良女王(天武三世女王)と藤原久須麻呂(太師藤原仲麻呂三男)との結婚だけであり、仲麻呂が天下の政柄を握っていたからできたことで、王娶親王条はよく守られていた。
歴代女帝八方のうち七方が皇女で、皇極・斉明だけは宝皇女と申すが茅渟(ちぬ)王が父で敏達曽孫令制の三世女王にあたる。用明の孫高向王と結婚し、舒明とは再婚(田村皇子は田眼皇女を妃として皇后に立てる予定だったと推測するが、皇女が早世したので、当時大后は皇親に限定されていた。たとえ再婚でも宝皇女を妃とする必要があった)だが、結婚しているのは皇親なので、皇后もしくは皇太妃から即位した女帝四方の所生子はすべて天皇の男系子孫である。異姓の者が皇位継承者にはならない。
もっとも、延暦12年詔で二世女王は藤原氏と、三世女王以下は現任大臣、良家の子孫と婚姻可能となり、規制が緩和された。一例として藤原時平の母は人康親王女で母方は皇族でも父基経は藤原氏だから、皇族になることはない。しかも令制では内親王は一貫して臣下との婚姻は違法である。
とはいえ10世紀に藤原師輔が醍醐皇女三方、勤子内親王、雅子内親王、康子内親王と密通し、後から承認を受ける形で、令制が想定していない反律令行為である内親王の降嫁を実現した。
村上天皇の同母姉の康子内親王については、天気を損じた(大鏡)。天皇も世間も許さなかったとの史料(大鏡裏書)もあり評判の悪い婚姻例である。ただ師輔は皇后の父で村上天皇の立坊を支持し春宮大夫として近臣でもあったから、事の性質上勅許された。
師輔に降嫁した雅子内親王所生の太政大臣藤原為光、康子内親王所生の太政大臣藤原公季は藤原氏であって、男系規則は一貫していて、天皇と近親だからといって女系の子孫は皇親とはならない。
北欧・西欧諸国の直系初生子男女共系(女系容認)の王位継承にならうと、藤原為光や公季のケースでも皇族にして皇位継承権を付与することになるが、これは日本の伝統に反している。
二 穴記の注釈
令集解の穴記は「女帝子者。其兄弟者兼文述訖。故只顕子也。孫王以下皆為皇親也。」
たんに女帝の子を親王となすというだけでなく、女帝の兄弟姉妹を含む意味である。継嗣令皇兄弟子条は藤木邦彦の次の読み方でよいのである「天皇(女帝をふくむ)‥‥皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とする」。
令制前だが、敏達曾孫で令制概念では三世王の孝徳天皇(軽皇子)のようなケースでは、皇極女帝の弟なので三世王から親王に格上げとなる。親王は諸王と比較して待遇が厚く格段の差があったから、女帝の近親を厚遇する趣旨である。
実際奈良時代には、傍系から皇位継承した淳仁や、光仁の兄弟姉妹は、諸王から親王・内親王に格上げされているので穴記の注釈は妥当である。
筧敏生が継嗣令皇兄弟条は、唐の封爵令ではなく『隋書』巻二八百官志下に、「皇伯叔昆弟・皇子為親王」とあることから親王号は隋制継受とみなしており、とすると皇極女帝即位前に知られていた可能性があり、軽皇子(孝徳天皇)と似たケース、傍系でも女帝の兄弟姉妹の親王格上げが「女帝亦同」の主要な趣旨と考える。
三 小中村清矩説と吉備内親王所生子の処遇について
このほか、小中村清矩の、継嗣令にある三文字女帝子は、皇極天皇の前夫高向王との間で生まれた漢皇子(あやのみこ)を指すとの見解がある(有識者会議平成17年5月31日の八木秀次の発言)。
用明三世王で皇子ではないが漢皇子と称されるのは、母の宝皇女が再婚したうえ皇后、さらに女帝に即位したため。しかし再婚なのに皇后に立てられた宝皇女こそ異例であり、この説は奇妙だ。
女帝の子を親王とするのは、史実と逆だが文武より先に元明が即位した場合の想定、前記穴記の趣旨とみてよいだろう。
現実の「女帝子亦同」の影響としては吉備内親王所生子の処遇が指摘されているので検討する。
左大臣長屋王(父高市皇子、母御名部皇女-元明の同母姉)の妃が二品吉備内親王(父は草壁皇子母元明、文武の姉か妹、元正の妹)。
長屋王は天武二世王だが慶雲元年に選任令の二世王の蔭階を三階上回る正四位上に初叙されるなど「別勅処分」による親王扱いを受けている。式部卿-大納言-台閣首班右大臣に昇進したのも、元明女帝の甥であり娘婿だから元明の引き立てだろう。
成清弘和が指摘するように霊亀元年(和銅八年)二月勅により天武曾孫にあたる吉備内親王所生の三世王(膳夫王、葛木王、鉤取王)が皇孫の例に入れられていることは「女帝子亦同」の影響と解釈してもよい。女系のカウントで二世王だが、しかし女系が公式的に認められているわけではない。長屋王が別勅処分で親王扱いにされているからである。「長屋親王宮」木簡の出土など親王家の礼遇であったことは立証されていることだ。
仮に膳夫王(かしわでおう)が即位した場合、天武-高市皇子-長屋王の男系出自系譜により高市皇子皇統に付替えになる。高市皇子は母の身分が低いのが難点だったが、膳夫王は、母方をたどっても天智や天武が曾祖父であるうえ、純血度が高いことは有力な皇位継承候補たりうるが、女系継承にはならない。
なお、長屋王の権力基盤は脆く、後盾となっていた元明上皇崩後、宮廷で孤立していく。長屋王の変で、長屋王は自刃、吉備内親王と膳夫王、葛木王、鉤取王らは縊死という悲劇的結末となった。
(引用・参考) ★ネット公開
今江広道 1983 「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収 吉川弘文館
岡部 明日香(2012)「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実:―絵画と斎宮―」中古文学 90(0)★
筧敏生2002『古代王権と律令国家』第二部第二章太上天皇尊号宣下制の成立 校倉書房(初出1994)160頁以下
倉本一宏1998『奈良朝の政変劇』吉川弘文館
栗原弘 2002 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2★
中村みどり2014 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編 (13)★
成清弘和1999『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999 131頁
藤木邦彦1991『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館(但し初出は1970「奈良・平安朝の皇親賜姓について」
保立道久 1996 『平安王朝』 岩波新書
安田政彦 1998 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』 吉川弘文館
米田雄介 2004 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』. 塙書房.
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